【極東】北朝鮮総合スレ(旧北朝鮮実況)part945
323 :
参考の参考:
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「逆風満帆」人材育成コンサルタント 辛淑玉(上) 朝日 01月28日
ttp://www.be.asahi.com/20060128/W14/20060105TBEH0013A.html ■憲法は民の血の代償
辛淑玉(47)にタブーはない。
昨年暮れ、天皇誕生日の前日の札幌市内の講演会。
「『愛子さまー』も『将軍さまー』も同じ。人の上に人をつくるのが天皇制。あ
らゆる差別構造の象徴です。天皇制が大義になって、殴られてもいい人間、殺され
てもいい人間を生んだ」
12月8日、横浜市内で開かれた憲法・教育基本法改悪反対の集会。
「日本人外交官のために命を落としたイラク人ドライバーのために一滴の涙も流
さない日本人がやるイラク人道復興支援って何なのか」
「逆らったらどうなるか、見せしめにされたのが香田証生。誘拐事件は犯罪者の
要求を聞いたふりをして、時間を延ばして交渉する。なのに彼は即座に死刑宣告さ
れた。宣告したのは自衛隊を撤退させないと言った小泉首相です」
「戦後も日本は戦争をし続けた。朝鮮戦争、ベトナム戦争……。アメリカの公共
事業である戦争に加担し、甘い汁をずっと吸ってきた。もっと甘い汁を吸うために
憲法9条を改正する。憲法は2000万の民の血の代償として日本人の手に渡った
。この憲法を破棄することはアジアへの宣戦布告だと思います」
11月下旬、大阪府羽曳野市の人権を考える集い。
「『あなたの息子が男性を好きだと告白したらどうしますか』と都議選の候補に
アンケートしたことがあります。つらい思いをしてきた息子に『話してくれてあり
がとう』と言う人はたったひとり。『あ、そう、ふーん』がほとんどでした」
年150回は講演や研修の講師をこなす。本業は一般企業を対象にした研修の企
画、請負だが、92年からテレビ朝日系の討論番組「朝まで生テレビ!」に起用さ
れ、言論活動のほうが注目を集めるようになった。当時、30代の女性起業家は珍
しく、雑誌に書いたマナーの話などをきっかけにテレビの仕事が舞い込んだ。 (つづく
324 :
参考の参考:2006/02/07(火) 14:27:50 ID:qKDyX4OA
>>323 辛がほこ先を向けるのは日本の体制に限らない。
95年2月、辛は東京新聞の連載コラムで在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に
よる阪神大震災の被災者支援のやり方を批判した。「偉大なる指導者同志の恩恵」
を示すビラが援助物資に添えられていると紹介し、「人知を超えた状況の中ですら
、目先の政治的利害しか考えない愚かさ」と断じた。テレビでの発言を巡り、在日
本大韓民国民団と対立したこともある。
■講演会に「爆弾」電話
辛に対する嫌がらせは多い。2000年、石原慎太郎の「三国人発言」を批判し
たころが一番激しかったが、今でもネット上に読むに堪えない書き込みが山ほどあ
る。
「私はボディーガードをやりましたよ」。東京新聞の連載を担当した真壁聖一(
59)は笑う。94年、連載を始めて数カ月のころ、辛の事務所に「殴り込みに行
くぞ」との脅迫電話が入り、真壁は車で駆けつけた。連載は人気を博し、5年続い
た。
01年9月には、東京の台東区役所に辛の講演会を中止しなければ会場や上野の
デパートに爆弾を仕掛けるという男の声の電話があった。男女平等推進施設の開設
を記念する区の主催行事だった。
区は電話の翌日、準備を進めてきた委員会の区民を招集して、中止の方針を伝え
た。その直後、辛が区と話し合って「延期」に変えさせたが、結局、翌年3月の年
度末には中止が決まった。
当初予定の10月2日、辛は会場に現れ、予定通りの開催を求めた20人ほどの
区民と語り合った。そのひとり丸山則子(59)が言う。
「辛さんは、こちらが抱いている恐れを、納得させて吹き飛ばしてくれる。揺る
ぎのない、明るい人。そばにいるだけでパワーをもらえる」
丸山らは中止が確定した後の6月、自分たちで辛の講演会を開いた。
「区は面倒なことはしたくなかったんでしょ。でも私は結局、みなさんの前で話
せたし、区からキャンセル料ももらったからOKよ」 (つづく
325 :
参考の参考:2006/02/07(火) 14:29:12 ID:qKDyX4OA
>>324 辛は今、爆弾電話をこう笑い飛ばす。そこには幼いころから朝鮮人差別にさらさ
れ、貧しさと闘ってきた図太(ずぶと)さが見える。=敬称略
(高谷秀男)
〈シン・スゴ〉 59年東京都渋谷区生まれ。在日朝鮮人3世。韓国籍。85年
に株式会社「香科舎」を設立し、ビジネスショーの運営や企業の人材育成、研修を
請け負ってきた。講演活動も展開。かながわ人権政策推進懇話会委員などを務める。
「逆風満帆」人材育成コンサルタント 辛淑玉(中) 朝日 02月04日
ttp://www.be.asahi.com/20060204/W14/20060106TBEH0013A.html ■内職・配達・ビル掃除
辛淑玉(シン・スゴ)は59年1月、東京都渋谷区で在日朝鮮人3世として生まれた。
父は弁護士を目指していたが、日本国籍を奪われて道を閉ざされ、職を転々とし
ていた。貧しかった。姉、兄、弟の4人兄弟。食い詰めては母の実家に転がり込んだ。
幼稚園には行けなかった。小学校に入るころから働いていた。最初は消しゴムの
カバーをのり付けする内職。ひとつ何銭の仕事だった。同胞家庭のキムチ作りを手
伝ったり、1世に手紙を読み聞かせたりして食材をもらうことも多かった。
母がマージャン屋の手伝いを始めると、そこから小学校に通った。牌(パイ)の
掃除が日課となった。並べて布でふき、最後に滑り止めのシッカロールをふる。カ
ウンターの下で宿題を片づけ、規制の閉店時刻午後11時を過ぎると、卓を囲み続
ける客のために外で見張りに立った。冬は凍えて「耳がカンカンした」。
ヤクルトや新聞の配達、パン屋や居酒屋の店員、ビル掃除、チラシ配り、モデル
、ライブハウスのDJ……。成人するまでに経験した仕事は20を下らない。
小学3年から中学2年の途中まで民族学校に通った。熱心な活動家が父に勧めた
。日本の学校からの転校生は、半日本人を意味する「パンチョッパリ」と呼ばれた
。チョッパリは韓国語で豚の足。日本人がゲタをはく様からきた蔑称(べっしょう
)だ。 (つづく
326 :
参考の参考:2006/02/07(火) 14:30:24 ID:qKDyX4OA
>>325 4年の時、親類からもらったジーパンをはいて学校に行った。「米国文化はけし
からん」と同級生にけられ、椎間板(ついかんばん)ヘルニアになった。「医者代
を考えると体が震えた」
中学2年で再びヘルニアになる。今度は教師の暴力。金がないのでキャンプに参
加を申し込まずにいると、教師が「革命家の親は子供の勉強に金を惜しまない」と
説教を垂れた。「バカじゃないか」と口答えすると「個人談話室」に連れていかれた。
民族学校の外も敵だらけだった。
中学はチマ・チョゴリを着て通う。兄と登校中、乗り換えの新宿駅南口で木刀を
持った十数人の男に取り囲まれたことがある。ひとりが兄のあごに手を触れて「お
前、チョンか」と因縁をつける。通勤客も駅員も誰も助けてくれない。必死で電車
に走った。兄が制服に血を付けて帰るのはしょっちゅうだった。
辛は2度目のヘルニアを機に区立中学に転校した。学校の意向で「新山(にいや
ま)節子」を名乗らされたが、朝鮮人であると知れ渡っていた。ある教師は「あち
らの方」と呼んだ。
「あそこを卒業すれば朝鮮人でも就職できるらしい」という同級生の言葉を耳に
して、都立第一商業高校に進んだ。就職を目指して猛勉強し、商業英語や簿記、珠
算、タイプなどの検定を次々とものにしていった。 (つづく
327 :
参考の参考:2006/02/07(火) 14:31:15 ID:qKDyX4OA
>>326 さいご
■聞こえる叔父の慟哭
しかし、間もなく卒業生名簿をめくって気づく。同胞とおぼしき先輩は自営ばか
り。就職の夢がしぼむ。働いても働いても生活は苦しい。希望が見えない。2年生
になった辛は「帰国船で北朝鮮に行く」と担任に告げた。
60年代前半、母方の祖父と2人の叔父が帰還船で北朝鮮に渡った。辛の一家も
後に続く準備をしていたが、祖母が引き留めた。北朝鮮の実情が徐々に伝わってき
ていたからだろう。それでも、独裁政権の韓国や希望の持てない日本での生活を思
うと、北にすがりたくなる気持ちを抑えられなかった。
担任の奥田省三(64)は止めた。「ぜったいに行くな。どんなことがあっても
高校を卒業しろ。これからどうやって生きていくか、一緒に考えるから」
辛は振り返る。「あの時、先生のあの愛情がなければ、私は今ここにいない」
79年、北朝鮮の叔父から手紙が届いた。祖父は栄養失調でとうに死んでいた。
祖母は大声で泣いた。病床の身であったうえに、墓参のために韓国籍を取った後だ
ったから、息子を訪ねることはかなわない。母が代わりに北朝鮮に行った。叔父は
長らく鉱山で働き、死んだら誰かが伝えてくれるように祖母の名を腕に入れ墨して
いた。
母が日本に戻ると、叔父は何度も手紙を寄越した。もうひとりの叔父の訃報(ふ
ほう)。無心。そして自分の生活を助けるため、辛に朝鮮総連の活動をして欲しい
と繰り返した。
その叔父は数年後死んだ。
「今でも叔父の慟哭(どうこく)が聞こえる。助けられないことが多かった。見
殺しにしてしまった。生きていて申し訳ない」
辛は言った。=敬称略
(高谷秀男)