>>63-64 独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第7回 BNN 01/19 00:00
ttp://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021022995 白頭山周辺と満州国通化省(原図制作・惠谷治、デザイン・鍵本博子)
文: 惠谷 治
第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第1章 抗日パルチザン時代の金正日の母親の活躍
生母・金貞淑のパルチザン部隊入隊(その2)
金日成は金貞淑と初めて出会ってから1年後、撫松縣漫江の川のほとりで金貞淑と
再会したという。
「わたしが金正淑とはじめて会ったのは三道湾遊撃区であるが、彼女の経歴や一家
の災難についてくわしく聞いたのは、1936年の春、漫江にいたときであった。ある日、
わたしは東崗会議の報告を書き終え、晴々とした気持で前哨を見てまわり川のほとり
に出た。そのとき、どこからか郷愁をそそる澄んだ歌声が流れてきた。歌声のする川上
の方へ足を伸ばしてみると、柳の川辺で2人の女性隊員が洗濯物をゆすいでいた。そ
の1人が金正淑であった」(『世紀とともに』第5巻323頁)
金貞淑と一緒にいた女性隊員は、前出の古参女性パルチザン、金明花だった。戦後、
北朝鮮に帰国した金明花は、金正日の少年時代の教育係を務めることになる。金明花
本人はそのときの状況を、次のように回想している。
「1936年の春、撫松県漫江附近の、ある森林のなかで、わたしは金貞淑同志とともに、
敬慕してやまなかった金日成将軍にはじめてお目にかかった。だれでもそうであっただ
ろうが、金貞淑同志のその時の喜びようが格別であったことがいまも忘れられない。
この日から、かの女と私は金日成将軍の直接率いる朝鮮人民革命軍第6師の部隊に
配属されるようになった。金日成将軍の戦士となった栄誉にわたしたちの胸は、とめども
なくふくらみ、わたしたちは将軍のさししめす道にかぎりなく忠実であろうとかたく誓った」
(金明花「金貞淑同志を回想して」『朝鮮人民の自由と解放』364頁)(つづく
>>312 金明花の手記にある「朝鮮人民革命軍」という部隊は存在せず、実際には中共東北抗日
連軍ことだった。また、金貞淑たちが配属されたのは「第6師」ではなく、正確には「第3師」
である。手記にある「第6師」は、1937年7月に、東北抗日連軍が「路軍制」に改編されたさ
いに成立した「東北抗日連軍第1路軍第6師団」のことであり、まだ成立していない。
金日成は「われわれが初めて漫江へ行ったのは1936年4月の末ごろだった」(『世紀とと
もに』第5巻7頁)と回想している。また、前述の金日成の証言では、東崗会議の報告を書き
終えた後、漫江の川辺で金貞淑と再会したことになっており、東崗会議が開催されたのは、
1936年5月であるところから、2人が親しくなったのは、1936年5月以降と推定される。歌声
が聞こえた漫江の川辺での金貞淑との出会いについて、金日成はよく記憶しているようで
ある。
「その後、馬鞍山でわれわれの部隊に編入された金正淑と再会することになったのです
が、金明花と一緒に漫江でわたしを迎えてくれた彼女の姿が印象的でした。その日、彼女
と多くのことを語り合いました。話を聞いてみると、彼女は寄る辺ない身の上でした。彼女が
頼るところは、革命戦友のふところしかなかったのです。金正淑はその後、ずっとわたしと
ともに戦いました」(『世紀とともに』第8巻・平壌版163頁)
こうした事実を知れば、「[金貞淑]女史はチュチェ25(1936)年4月、金日成将軍が率い
る朝鮮人民革命軍主力部隊に編入されてからは司令部の安全を第1義的な革命任務とみ
なし、全力を尽くしてたたかい、特出した偉勲を立てた」という伝記『朝鮮の母、金正淑』の
記述が、誤認に基づいた粉飾であることが分かるだろう。(つづく)