1 :
日出づる処の名無し :
2005/11/29(火) 00:15:19 ID:DZX0GqD3 リトアニア領事代理時代にユダヤ人に2000通を超えるビザを発給。6000人から8000人のユダヤ人を 救った杉原千畝について語るスレ。 杉原千畝略歴 明治33年 岐阜県に生まれる 大正13年 外務省に就職。クラウディア・アポロノウと結婚 昭和8年 北満鉄道の譲渡を巡り、ソ連と交渉 昭和11年 菊地幸子と再婚 昭和14年 リトアニアの首都カウナスの領事館勤務を命じられる。任副領事(領事代理) 昭和15年 ユダヤ人へのビザ発給開始。8月31日までに2139通のビザを発給。 昭和16年 ドイツ領ケーニヒスベルク総領事館勤務を命じられる(総領事代理) 昭和18年 三等書記官に昇進。正式な外交官となる。 昭和19年 日本政府から勲五等瑞宝章を叙勲 昭和22年 日本に帰国。外務省退職 昭和60年 イスラエルのヤド・バシェム賞を受ける 昭和61年 永眠
2 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 00:16:40 ID:DZX0GqD3
立てました。 みんなで千畝の真実に迫ろう。
3 :
擬古侍 :2005/11/29(火) 00:23:41 ID:Oib6m4Tl
杉原千畝こそが八紘一宇の精神を大切にした日本人の鏡であり、 イスラエルのテルアビブで銃乱射して、ユダヤ人を殺したのは 糞左翼であり、日本赤軍である。
4 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 00:37:58 ID:DZX0GqD3
杉原の諜報活動について@ 日本とポーランドの両参謀本部の協力関係は1920年前後、 ワルシャワ武官であった山脇正隆大尉が基礎を作ったといわれている。 30年代には対ソ情報はハルビン特務機関より中欧・東欧の在外武官の情報が 重視されるにいたる。ドイツ占領後も日ポの協力関係は維持される。 1939年祖国占領のため地下組織となったポーランド参謀本部のリビコフスキ大佐は 対ドイツ情報組織の設定のため、ストックホルムの西村武官と接触、協力体制を作る。組織名「L」。 そしてカウナスに赴いた大佐はヤクビアニェツ大尉(通称クバ)と ダシキェーヴィッチ中尉(通称ペシ)が リストニア、東プロイセンで地下情報網の設置に成功していることを知った。 ペシはフィンランド領事水野桂三少佐の協力を得ていた。 のちに杉原と接触、協力体制を築く。 杉原とクバ,ペシの「協定」は独ソに関する軍事情報を互いに相談のうえ、 「郵送」と「暗号による送信」に分類し、クバがリガに行きリビコフスキに伝えるというものである。 ペシは杉原とともにベルリン−プラハ-ケーニヒスブルグへ赴き、クバはベルリンで地下活動を続けた。 ZWZ(ポーランド地下軍事組織)の責任者フションシチェフスキ大佐も別ルートから杉原に接触。 カウナス地区ZWZからパリの在外ポーランド政府に日本の外交便を使い報告を送る。 また在カウナス・ポーランド武官ミトキュービッチ大佐は情報網「ヤナギ」を設置。 中心人物のフリンツェヴィッチ少尉は39年秋、カウナスで杉原と接触する。 その後杉原は少尉の推薦でカウナス日本領事館にルジィツキを採用、彼は少尉の情報網の一員であった。 「ヤナギ」は「ZWZ」と連携、コウォトーヴォ他3ヶ所の収容所に拘束されているポーランド士官の脱走を支援、 西側に送り出す任務及び、ポーランド情報士官との協力を果たす。 40年春クバはリビコフスキ大佐の指示で「ヤナギ」のメンバーになったが活動は自主的に行った。 その後もクバ、ペシ、ヤナギと杉原の協力体制は続き、ケーニヒスブルグでも小野寺大佐の承認のもと、活動を続ける。
5 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 02:03:26 ID:Npt2f1bv
スレ立て乙です
杉原千畝生誕100年記念事業委員会 委員一覧
http://www.chiunesugihara100.com/com-iin.htm これら委員の中には 左翼だの社会党だのB地区等、実に香ばしい連中が名を連ねている
こういった反政府的な連中はいつから千畝の取り巻きになったのだろう?
幸子夫人は彼らによって当時の政府=外務省を悪に仕立て上げているふしがある
千畝が手記を書くに当たって彼らの影はあったのだろうか?
だとしたら手記自体に信憑性が薄くなりますね
6 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 08:27:07 ID:adPbAlZS
日本で一般には、杉原千畝リトアニア領事代理の「物語」はこんなふうに信じられている。 ある朝、ナチスの脅威におののくユダヤ難民が日本領事館の前に押し寄せた。 彼らの命を助けるために杉原領事代理は独断でビザを与えた。 しかし史実はまったく異なる。 当時、ユダヤ難民の多数派はリトアニアは安全だと信じていた。 (杉原領事代理がユダヤ難民にビザを発行開始した時点では、ヒトラーは側近にさえソ連 侵攻の意志を明らかにしていなかった) シオニストであるバルハフティクが嫌がるユダヤ難民の一部を説得して日本領事館前に並 ばせビザを取らせた。バルハフティクの意図はユダヤ難民をできるだけ多くパレスチナに 送りこむことだった。またバルハフティクらはシオニストであるためリトアニア併合によ るソ連の統治に身の危険を感じていた。 本人らは認めていないが、杉原とバルハフティクは秘密交渉を行い、何らかの情報か便宜 と引き換えにビザを発給したのではないかと推測される。 また、後にはバルハフティクのグループがビザを取得したことを聞きつけて日本領事館に ビザ発給を求めた人々もいるのではないかと推測される。彼らにも杉原領事代理はビザを 発給している。
7 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 14:00:54 ID:adPbAlZS
リトアニアのユダヤ難民の多数はリトアニアが安全だと考えていた。バルハフ ティクらシオニスト少数派のグループは難民のパレスチナ移送活動を行っていた。 バルハフティク「日本に来たユダヤ難民」第五章より ビルナ(ビリニュス)のポーランド難民社会では、指導者の間に相反する二つの 立場が見られた。多数派は、リトアニアに長期滞在が可能であるから、きちんとした 文化施設のある難民吸収センターを整備すべし、との意見である。この派の指導者 たちは、シオニスト左右両派の代表が出席するいろいろな会合や会議にでて、協議 した。 私を含む少数派は、ビルナが噴火寸前の火山の状態にあると考えていた。われわれ の見解では、小さなリトアニア共和国など、野獣のごとき軍隊と強大な空軍力を誇る 二つの軍事大国の圧力にさらされ、ひとたまりもなく崩壊する。(略)われわれはこ の前提にたって、最初から難民の救出、移住を中心政策として推進した。(略) リトアニアは戦争が終わるまでユダヤ人の避難地になりうると考えたのは、なにも ブントの連中だけではない。シオニスト指導者の多くが、アグダット・イスラエルの スポークスマンたちが、神学校の校長たちが、リトアニアの中立は尊重され、ユダヤ 人難民と戦争の嵐が吹きやむまで当地に避難できる、という甘い夢にひたった。
8 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 14:12:29 ID:adPbAlZS
当時の日本人全般のユダヤ観。大半は反ユダヤだが、個別の難民に対しては 哀れみを示している。 「日本に来たユダヤ難民」訳者(滝川義人)あとがきより 日本の対ユダヤ観の研究者宮沢正典教授の調査によると、ユダヤ問題に関する 本や論文が一九四〇年で約70点、翌四二年(ママ)には110点ほどが日本 で出ている。その大半は反ユダヤ的内容である(宮沢正典「日本におけるユダ ヤ・イスラエル論議文献目録」)。しかし、ユダヤ人と初めて接触した普通の 日本人は、全体的に見ると別の反応を示した。当時の新聞には揶揄気味ながら、 大半は裕福ではなく、なかにはボロをまとい手荷物もない者や、旅券の不備で 上陸を拒否され立ち往生する哀れな状況が報道されている(前掲、東京日日新聞)。
9 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 17:50:57 ID:adPbAlZS
バルハフティクは犬塚惟重大佐をユダヤ人を利用しようとしただけの反ユダヤ 主義者としてこき下ろしている。 バルハフティク「日本に来たユダヤ難民」P213-P214 犬塚大佐と反ユダヤ活動 日本当局との交渉では、日本海軍の犬塚惟重大佐および保安担当領事の 大貫大佐と話し合った。犬塚大佐は、上海のユダヤ人及び難民問題の担当者 であった。(略) ユダヤ人難民に対する犬塚大佐の態度は問題であった。(略)われわれと の話し合いで、犬塚大佐は、リトアニアと神戸双方の難民に関するわれわれ の要請を拒否した。犬塚大佐と会談の模様は、マービン・トケイヤーとマリー ・シュワルツ共著の「河豚計画」(日本ブリタニカ、一九八一)に詳しい。(略) 私の知るかぎり、ユダヤ人を助けたという犬塚の主張には裏づけがまったくない。
10 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 21:55:53 ID:DZX0GqD3
杉原は手記で書いている。 「日本人住民は一人もいないカウナスの日本領事として、 私はやがて会話や噂にもとづいて、リトヴァ・ドイツの 国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と 部隊の集結に関するすべての情報を、外務省ではなく参謀本部に 提供することが自分の任務であることを了解した。」 1940年当時の杉原はストックホルムの西村敏雄大佐、 リガの小野打寛大佐に軍事情報の報告を挙げていたと考えられる。 41年以降も小野寺武官と共同歩調をとっている。 杉原は外務省よりも軍部に近い人材だったのではないだろうか。
11 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 22:02:19 ID:UXmwKlFZ
ID:adPbAlZS おまいいい加減見苦しいよ
>>6 オイオイ、ビザ発給の謎は諸説あるが、ユダヤ難民が当時リトアニアを安全だと思ってたなんて
トンデモ説は初めて見るぞ。
ナチスはユダヤ人から市民権を剥奪し「水晶の夜」事件などの虐殺事件もとっくに始めているは、
ソ連は強制収容所のNKVDと赤軍が、難民を捕まえてはシベリア送りにするはの状況で
誰が安全なんて思うんだよ。
カウナス→ソ連→日本の逃避行に乗り気でなかったユダヤ人もいたけど、それはドイツと並ぶ
反ユダヤで、シベリア送りも始まっていたソ連を通過するのを恐れたからだし。
どこの板でも新スレが立つとこういう風に自分の出鱈目な説を、まるで定説であるみたいに書き込む火事場泥棒がいるんだよな。
>>10 杉原千畝は第一線の諜報員だったのに、夫人の本やドラマでは外交官一徹みたいに
書かれてるんだよな〜
14 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 22:11:24 ID:Zg4YE/er
外交交換は、諜報員だ。 常識だぞ。 知っとけ。
16 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 22:22:43 ID:DZX0GqD3
>>13 幸子夫人に非はない。事実ほとんど知らなかったのだから。
杉原の諜報活動はポーランド側の資料から
浮かび上がってきたもの。
日本側は軍の禁止もあり伝統的に軍人の研究・発表はない。
唯一、小野寺信夫人の本が参考になるのみ。
(夫人は暗号作成をしていた。)
夫人の本にも一応情報活動してたことは書かれてるけど、後から知ったんだろうな。 というか、夫人の本が問題なのはそういうことじゃなくて、杉原が死んだ後に、自分が 杉原の尻を叩いたからユダヤ人が救われたみたいに書いてることだろう。 つうか、ビザ発給の時系列とかもメチャクチャだし。
18 :
17訂正 :2005/11/29(火) 22:29:56 ID:9to/nGqg
ちょっと誤解を招きかねない記述があったので訂正 夫人の本にも一応情報活動してたことは書かれてるけど、 ↓ 訂正 夫人の本にも杉原が情報活動してたことは一応書かれてるけど、
19 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 22:40:28 ID:adPbAlZS
>>12 杉原に助けられたユダヤ難民代表のバルハフティクの著書を引用しているだけなんだが。
当時の世界情勢を知らないと恥をかくよ。定説もなにも張本人が言ってるんだからな。
これ以上確実なことはあるまい。
「日本に来たユダヤ難民」P49-P50
<世界でもっとも落ちついた平和の小島>
「ポーランドのユダヤ人社会の代表的指導者(イツハク・グリュンバウムである)から
一通の電報が届いた。それは、リトアニアのシオニスト関係者に現地にとどまれと
呼びかけ、・・・常識からみても論理的に考えても、リトアニアは、怒涛さかまく狂気
の世界にあって静かな島でありつづけるだろう、としていた」のである。戦後、ホロコ
ースト記念館ヤド・バセムのインタビューをうけたモシェ・スネー(クラインバウム)
博士は、「エレツ・イスラエルのユダヤ機関関係者は、リトアニアの(ユダヤ人難民の)
状況を、特に危機状態にあるとは考えていなかった・・。われわれは、当地は比較的
安全であるとの説明を受けた」と述べている。
リトアニアは難民救済基地と考えた者、あるいは反独闘争やポーランド解放の基地に
なると信じた者すらいた。(略)
(ワルシャワ・ユダヤ人協会長のヤコブ・トロケンハイムたちのところへ)ロンドン
にいるアグダットの政治担当者から、イギリス内務省の言葉を伝えてきた。内務省はリ
トアニアを<世界でもっとも落ちついた平和の小島>と考えているという。二人はさっそ
くビルナへやってきた。戦争中はここが安全な避難地になると確信して。
20 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 23:16:59 ID:adPbAlZS
>>12 ユダヤ難民にソ連の出国許可を出したのはそのNKVDなわけだが。
NKVDが検挙しようとしたのは一般のユダヤ難民ではなく、主に反ソ団体
関係者や過激なシオニスト。
バルハフティク「日本に来たユダヤ難民」
P119 「騒然たる空気をしずめてNKVDへ申請をだすよう説得するには、
多大の努力を必要とした。そのかいあって、しばらくするとNKVDの
事務所には、難民の長い列ができるようになった」
21 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 23:39:38 ID:DZX0GqD3
>>19 前スレでやった件じゃないですか。一応反論出しておくよ。
しかし40年6月 ソ連が相互援助条約を一方的に破棄、
親ソ政権の樹立と駐屯軍の増加を要求。
翌日大量のソ連軍がリトアニアに進駐。
7月14日には総選挙が行われ圧倒的多数を持って親ソ政権が樹立された。
リトアニアをスイスと同じ中立国と考えていたユダヤ避難民達は動揺。
身の施し方を改めて考え直すことになった。
さらに今回は新ネタ有り。次に続くよ。
22 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 23:43:46 ID:DZX0GqD3
>>21 続き
40年8月28日、在ラトビアの米国公使ワイリー夫妻(妻はポーランドユダヤ人)が
ラトビア併合のため帰国途中、東京に立ち寄った際の
在日ポーランド公使ローメルとの会話記録から。
「リガ(ラトビアの首都)の住民はソ連による支配は短期間に過ぎないと思っており,
自分も同意見である。遅かれ早かれドイツとの軍事衝突が起こり、
ソ連軍はドイツ軍に対抗できないだろうからである。」
ウーチャク著「第2次世界大戦におけるポーランドとポーランド人」によると、
40年2月、4月、6月に実施された大量移送及び、
44,45年に移送された元ポーランド国民の合計は、ソ連奥地に移送されたものは160万人に達する。
特にソ連当局はポーランド人に厳しかったといわれ、
シベリア移送、処刑もあわせれば最大220万人になる。
自分の考えは、恐怖度は ドイツ 2、ソ連 8 ぐらいだったのでは。
23 :
日出づる処の名無し :2005/11/29(火) 23:57:37 ID:958y9WAw
私はレビンやバルハフティクは手元にないので反論出来ないが ID:adPbAlZSは様々な資料を引用するが 引用するのは自説に有利な一部だけであり、その後に続く不利な部分を隠していたり 年号を隠してのこじつけとかを過去に何度も指摘されている
24 :
日出づる処の名無し :2005/11/30(水) 00:26:32 ID:mvSWPx0D
>>21 俺も以前はそう思っていたのだが、「日本に来たユダヤ難民」を信じる限り、杉原
ビザはバルハフティク個人の意志に非常に密接に関係している。そもそも、キュラソ
ービザ自体バルハフティクの発案という。つまり、杉原が諜報関係者に出したビザを
除くと、大半のビザは取得者はバルハフティクと関係のあるユダヤ難民か、リトアニ
アのシオニスト組織・神学校関係に偏っている。リトアニア在住の一般ユダヤ人がほ
とんど杉原ビザを取ってない理由はこのためだろう。
極論するとユダヤ難民はドイツが恐いわけでもソ連が恐いわけでもなく、バルハフテ
ィクに説得されてビザを取ったという印象が強い。実際、諸事情はあるのだろうが、
ビザを取っても実際の出国は1941年に入ってからという難民も多い。
ちなみにバフハフティク自身、ソ連がユダヤ難民の移住を認めた旨を松岡外相に説明
している。> そちらにもこの本はあるんじゃないかったっけ?
バルハフティク「日本に来たユダヤ難民」P201-202
さらに松岡洋右外相宛の覚書で、次のように詳しく事情を申し述べた。(略)
・ソ連は、普通移住に反対しているが、この難民集団(現今のリトアニアと
関係のない異邦人である)については、従来の政策を適用せず、移住を認めた。
25 :
日出づる処の名無し :2005/11/30(水) 05:59:30 ID:2BxHWzZg
>>24 基本的に現状はこの考え
推測
杉原ビザにはふたつのグールプがあった。
A;バルハフティツクがリーダーのグループ
B;噂を聞き、ビザを出してもらった人達
Aグループは杉原と何らかの取引(疑問@)を行い、ビザをだしてもらった。
Bグループの人達は杉原の人道主義からビザをだしてもらった。
26 :
日出づる処の名無し :2005/11/30(水) 06:00:47 ID:2BxHWzZg
>>25 続き
ただ難しいのが各種文献の取り扱い方。
「文書資料に書いてある個々の文章を信ずるのではなく、まず疑え」
杉原やバルハフティツクの手記、あるいはポーランド側の資料は
何を隠し、どこまで真実を語っているのか?
夫人やレヴィンの書はどこまで正確で、どこまでが自己都合なのか?
他の杉原関係の本も自説のためにどの情報を取捨選択しているのか?
だから個々の文章だけを抜き出していくと、とんでもなく違う方向に
進んでしまう危険性をはらんでいると思う。
27 :
日出づる処の名無し :2005/11/30(水) 07:29:15 ID:mvSWPx0D
>>26 それはよくわかるよ。
ただ、バルハフティクの本は一次資料であり、杉原の行為を考える上での基本資料だ。
バルハフティクはリトアニアにおける最大の悲観派なわけだが、その彼が「多数派は
リトアニアは安全だと考えていた」と実例をあげて説明しているのに、それにいちい
ちケチをつける奴はいったい何を考えているのかとは思う。
バルハフティク自身は
>>7 に引用したように悲観的だと主張しているわけだが、
これも彼がパレスチナへの難民移送を業務としていたことから真偽については検討
の余地がある。
シオニズムは昔からあったわけだが、実際に活発化した時期は戦後直後からだと思ってたよ ビザ発行前後にパレスチナに集まって何か成算があったの?
29 :
日出づる処の名無し :2005/11/30(水) 12:20:04 ID:MKhZPHIO
戦前だけで40万くらいユダヤ人はパレスチナへいってる
30 :
日出づる処の名無し :2005/11/30(水) 12:39:08 ID:zQeZrR6X
>>27 リトアニア在住ユダヤ人の多くがとどまることを望んだ件は一理あり。
それは、絶滅政策の前に避難ができたリトアニア在住ユダヤ人が
結果的に全体の1割だったこと。
当時ポーランドユダヤ人のの追放政策はリトアニアに及んでいなかったこと。
等の理由から推測できる。
ただ過去レスで何度も指摘したように、杉原ビザのユダヤ難民の主体は
前年ポーランドからピリニュスに逃げ込み、独ソ不可侵条約の影響のたなぼたで
リトアニア領に編入された人たち。
以前からリトアニアに住んでいた人たちとは分けて論じなければ公正でない。
そしてポーランドから逃げ込んだ事実からも、在リトアニアのユダヤ人と比べ
「避難民の大多数は立ち回りの早いユダヤ人」(ローメル文書より)
だったことがわかる。
31 :
日出づる処の名無し :2005/11/30(水) 14:00:28 ID:eDWT/YYi
>>30 訂正
ピリュニスのポーランドユダヤ難民の内部のことを言っていたんだね。
ちょっとずれた返答になってた。
>>25 杉原夫人の「私が尻を叩いてビザを発給させた」の矛盾はもしかしたら
その辺の2グループと関係があるのではないかと思う俺がいる。
25のグルーピングとは異なるが、杉原ビザをもらった人には問題なく発給できる人と
問題のある人がいて、当初は問題ない人達に発給していたが、これを問題ある人に拡張しよう
とした際に杉原が悩み、その時にアドバイスしたのが夫人だったという事。
あんまり夫人についてあしざまに言うのもなんなので、説明のつく状況をひねり出してみた。
証拠は何も無い。
33 :
日出づる処の名無し :2005/11/30(水) 18:46:42 ID:aoBXmXCl
>>25 「自由への逃走」ではビザ発給の発端をポーランド情報機関への
「見返り」と見ている。
ただそうすると多くのユダヤ人にビザを出したのが「見返り」としては
余分な部分になるので「自由への逃走」ではほかにも理由を探している。
自分の2グループ説はさらにそれを推し進め
最初のユダヤ人Aグループも「見返り」と考えたものだが、
ここでもやはり「自由への逃走」と同じ疑問に突き当たる。
つまり「見返り」に2000通以上のビザが必要だったのかということだ。
だから杉原の人道主義からビザが出たBグループが存在したのでないかと
考えたわけだ。
夫人が杉原にアドバイスしたってのはどう考えても夫人の創作でしょ。 杉原が死んでからいきなりそういうこと言い始めたし、だいたい第一線の諜報活動家が 右も左もわからん夫人に国家レベルの問題を委ねるわけがない。 杉原は80過ぎてから手記を書いてるけど、前妻の存在はなかったことにされてたり、 ハルビンでの活動がうやむやに書かれてたりして夫人の目を気にしているのがうかがえる。 その手記の中でさえ、夫人がビザ発給をプッシュしたなんて記述は全くない。
35 :
日出づる処の名無し :2005/11/30(水) 23:14:13 ID:mvSWPx0D
バルハフティクという人物は杉原以上に面白い人物だな。 バルハフティクが存在しなければ、ほぼ杉原ビザなるものは存在しなかった と断言してもよさそうだ。 バルハフティクは戦前のポーランドですでにユダヤ人をパレスチナに移住させる 活動を行っていた。戦前のポーランドには反ユダヤ政権が存在し、ユダヤ人の国 外移住を奨励していた。バルハフティクは「ポーランドからユダヤ人を移送する 手段を求めて官庁に行くと、どんな役人も会ってくれるのである。国際政治の舞 台では、ポーランドのスポークスマンはシオニスト思想を熱烈に支持した」という。 バルハフティクはその後、ユダヤ人のパレスチナへの非合法移住を推進した。本人 いわく「私は特に法律面でこの非合法移住へ積極的に関与した」ということだ。 この人物が、リトアニアにおいても難民の多数派がリトアニアは安全だと考える中 で、ユダヤ難民を説得しパレスチナ移住を推進しつづけることになる。
36 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 07:48:00 ID:xnhUKCZ6
>>32 俺も少しそういう気がする。
杉原夫人が当時の世界情勢を誤解していたり、杉原の任務を誤解していることは
あっても、自分の行動を偽るかとも思う。
杉原領事代理としても、難民に明確な区別がなかったとしても「これくらいで
もういいだろう」という時期があったのかもしれないしね。
37 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 19:55:23 ID:s+QfW1VZ
実はバルハフティツク著の「日本へ来たユダヤ難民」は 以前、ちょっと目を通しただけだったので、 今回じっくりと読んでみた。 以前から自分は、反シオニスト、ナチス寄りのmvSWPx0Dとは違い、 ユダヤ人には公平かつ客観的である立場でいたいので、 なるべく前後の文章の意味を損なわないよう この本の文章を抜き出していきます。
38 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:07:50 ID:xnhUKCZ6
バルハフティク「日本に来たユダヤ難民」は日本語版で約350ページの本だが、杉原千畝に ついて触れているのは以下の2ヶ所、ページ数にして1ページ分でしかない。ビザ発給の 難しい交渉を行ったはずなのに、具体的な杉原の行動について触れたのはわずか2,3行 だけである。しかも簡単にいくらでもビザを発給したように描いている。バルハフティクは杉 原を「廉直高潔の士」と持ち上げているが、「千畝」の著者レビンが彼に杉原との交渉内容に ついて聞いても答えなかったこともあり、なにか秘密がある印象は拭いきれない。 P101-P102 日本領事杉原千畝氏 当時カウナスの日本領事は、杉原千畝氏であった。一九三九年末に領事代理として任命 された。それまでリトアニアには日本の出先機関はなかったが、モロトフ・リッベントロ ップ協定の調印で、日本は日独伊防共協定の成立に備え(四〇年九月二七日に調印された)、 独ソ関係を監視しようとした。 杉原氏は、キュラソ、パレスチナその他どんな行先に対しても、そしてどの申請書にも 通過ビザを発給してくれた。手数料を二リタとるだけであった。彼は一六〇〇通だしたと 述べている。 (写真。キャプションに 日本領事の杉原千畝氏。ユダヤ人の間では「センポ・スギハラ」 と呼ばれていた(1940年、カウナス)。とある)
39 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:08:25 ID:xnhUKCZ6
つづき。 P105 杉原氏との感動の再会 カウナス在日本領事杉原氏についても、正義の人の認定書がだされた。一九六九年、杉原 千畝氏はヤド・バセムの表彰式に出席のためイスラエルを訪れた(当時、子息のひとりがヘ ブライ大学に在学中であった)。われわれは長時間当時の思い出を語り合った。杉原氏は、 この<ビザ>が架空のものであることを重々承知していたが、自分の行動が非合法でないの なら難民を助けよう、と考えたということであった。杉原氏は広い心の持ち主であった。ナ チドイツを白い目で見ており、日独間の同盟協定に反対していた。杉原氏は、四〇年八月末 に領事館を閉館せざるをえなかったのは、じつに残念であったと言った。彼は廉直高潔の士 であった。私は強い感動をおぼえた。 二人のオランダ領事、オランダ大使そして日本領事のタイムリーな行動によって数千の難民 の命が救われた。四名の名前は、救われた者の心に永遠に刻まれたのである。 (写真。キャプションに 戦後再会した杉原氏と筆者(当時宗教大臣)(1969年12月、 エルサレム)。 とある)
40 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:08:56 ID:s+QfW1VZ
>>37 続き
バルハフティツクの本の中で確認できる部分
@ピリニュスにいた難民(約1万5千人)
二つの大きな組織 パレスチナ開拓運動者組織(パイオニア)の2500人
ユダヤ教神学校関係者 2000人
ポーランド北西部スパシーニから来た難民 2、3千人と
神学校関係者を除くとシオニスト中心の難民達といえるだろう。
Aスパシーニから来た難民はリトアニアのユダヤ人社会と近しく、
リトアニアからの脱出を望まなかった。
神学校関係者は学生の多くはそうではなかったが、上層部は勉学面、
金銭面、パレスチナの受け入れ体制等から脱出を考えず、
リトアニアに残ったほうが良いと考えていた
シオニスト難民のみが脱出を試み、旅券やビザの取得に奔走していた。
41 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:13:39 ID:s+QfW1VZ
>>37 続き
杉原ビザ取得の経緯@
あらゆる脱出の手段を探していたバルハフティツクは
ある神学生の話をヒントにキュラソービザをオランダ大使館に
出してもらえることになる。
バルハフティツクは難民に対してこの架空の証明書を猛烈に宣伝し、
その結果、数千の難民がこの幻のビザを申請する。
「現在のような状況下では、少しでも可能性のありそうなものは試してみても損はない、
これで日本の通過ビザがとれるかもしれないではないか、と説得したのであった。」
42 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:17:19 ID:s+QfW1VZ
>>37 続き
杉原ビザ取得の経緯A
しかし大半の難民はこの2つのビザに懐疑的で、バルハフティツクの仲間でさえ
「当時,それは冗談扱いをされていた。最終目的地の入国ビザがなく、出国許可もなければ
渡航費もないのにそんな通過ビザをもらってもしょうがないではないか。
しかし、コブノ(カウナス)ではバルハフティツクひとりだけが別の考えをしていた。
彼はキュラソーのビザをもらいそれで日本のビザを申請せよ、
行先がわからなくても気にするな,それは後の問題だと言った。
彼の執拗な説得に負けて、否応のない雰囲気になって皆列に並んだ。
それも1日ではない何日も並ぶのである。
こうして、我々は日本の通過ビザの取得者になった」
神学校のラビの一人も「トイレットペーパーの一種としか思っていなかった」
と書いている。
43 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:18:17 ID:s+QfW1VZ
>>37 続き
杉原ビザ取得の経緯B
しかしバルハフティツクの説得のもと、杉原の領事館に一縷の望みを託し、
辛抱して列についた。
そして8月末にオランダと日本の領事館が閉鎖になった。
ビザを得ようとして得られぬ難民がまだたくさん残っていた。
この一見無価値の証明を取得するなどと馬鹿らしいと考えた人はもっとたくさんいた。
だが、その彼らもやがてビザ取得に必死になるのである。
44 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:22:28 ID:5FNvGXI0
45 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:35:43 ID:s+QfW1VZ
>>39 バルハフティツクの本の中で奇妙な部分
@p38「難民は着の身着のままの人がほとんどだった。〈中略)
しかし、いまもって説明できないのだが、なぜか援助に頼る気がしなかった。」
ジョイント以外とは別の組織に資金面で援助されていたのではないか?
A細かくビザ発行の理由を述べているP104のオランダ領事にくらべ、
P105の杉原の方は
バルハフティツクの感想は「強い感動をおぼえた」の一言。
46 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:39:55 ID:xnhUKCZ6
>>37 反シオニストでナチス寄りってのは、矛盾しているぞ。
バルハフティクがまさに語っている通り、ナチス(やもろもろの反ユダヤ政権)
はシオニストを大歓迎していた。
・戦前ドイツにおいてユダヤ人が嫌われた具体的な理由
・シオニストが当時どのような存在だったか
についても理解する必要がある。「ユダヤ人へのマイナスイメージは全て偏見」
というは、まさに逆差別だよ。
47 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:44:41 ID:s+QfW1VZ
>>45 P104抜粋(
>>39 と対比)
オランダの二人の領事は実際は名誉領事であり、
オランダがドイツの占領下にあったころビザを発行したのである。
つまり、二人はオランダの亡命政府を代表していたわけで、
それだけに、難民の苦境に身のつまされる思いがしたのであろう。
二人が,通常いうところの組織の規律に服する
状況にあったのではない。二人はそれぞれがボスだった。
その動機が金儲けにあったわけではない。(中略)
ビザの手数料は維持費の足しにしかならない。」
48 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 20:53:22 ID:s+QfW1VZ
>>46 xnhUKCZ6の思想のこと
反シオニスト と ナチス寄り
1つ1つが独立している。
ナチズムとシオニズムの件は杉原と直接関係ないから
ここでは論じないが、好きな話だよ。
49 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 21:04:34 ID:xnhUKCZ6
>>48 なんだそりゃ。
戦前におけるシオニストは、バルハフティク自身が白状しているように、
他人の国に非合法にユダヤ人を送り込んでいた犯罪組織。反ユダヤ政権でも
なければ、取り締まられて当然。無論シオニストはユダヤ人のごく一部に過ぎない。
ヨーロッパでキリスト教徒と友好的に生活しようとしたユダヤ人のほうがずっと
多かった。
50 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 21:11:44 ID:xnhUKCZ6
>>48 ドイツでユダヤ人が嫌われた理由はいくつかあるが、ワイマール共和国からヒトラー政権までに
嫌われた主な理由を日本で例えてみればこんなところだろう。
社会民主党がなぜか日本で政権を取り、土井たか子政権が在日朝鮮人に無条件に日本国籍
を与えてしまった。北朝鮮からは続々と密入国者が来て、彼らにまで日本国籍を与えた。
日本国籍を与えられた朝鮮人の中には金正日への忠誠を失っていない人々がいた。
それにもかかわらず彼らが政府・自衛隊・政界・経済界の中枢などに入り込んで来た。
さすがに日本国民から非難の声が高まり、自民党が政権を取ると同時に、いったん
与えた日本国籍を無効にして以前の在日朝鮮人の権利に戻した。
この決定に世界諸国から人権侵害であると非難が集中し、日本は世界各国から経済制裁さ
れた。経済制裁は日本経済を大混乱に陥れた。大半の日本人はこのことでかえって在日朝
鮮人を嫌うようになった。
一般のユダヤ人が悪いわけではないが「ドイツ人がユダヤ人を嫌う」理由は確かに存在した。
51 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 21:34:37 ID:s+QfW1VZ
>>49 >>50 この件をどうしてもやりたかったら、
世界史板かイスラム板へどうぞ。
ご存知のようにこの件は中立がないから
Wikipediaでもちゃんとでてない。
52 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 22:02:02 ID:knx/Xpu6
シオニストは犯罪者、ユダヤ人は嫌われていた、という事実でここでは十分。
53 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 22:09:38 ID:s+QfW1VZ
54 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 23:05:02 ID:xnhUKCZ6
>>53 >>52 はこの話題はこれで十分と言っているんだろう。
本題に戻って、俺が「日本に来たユダヤ難民」を読んでうけた印象はすでに書いたが
以下の通り。反論・同意があればコメントしてくれ。
・リトアニアのユダヤ難民の多数派は戦争が終わるまでリトアニアが安全だと信じていた
・バルハフティクがユダヤ難民を日本領事館に並ぶよう指示しなければ「杉原ビザ」
がユダヤ難民に発給されることはなかった可能性が高い
・バルハフティクは杉原について極めて簡単にしか触れておらずかえってあやしい。
55 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 23:21:02 ID:s+QfW1VZ
>>52 この件については最後に一言
シオニスト=悪 でいけばこの時期のユダヤ人の脱出は
ほとんどがシオニスト組織が中心のわけだから
脱出したユダヤ人はすべて犯罪者集団に救出されたという
ナンセンスな論理になる
この件はこれで打ち止め。
56 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 23:40:37 ID:xnhUKCZ6
>>55 ここではあくまで当時の価値観がどうだったかが問題で戦後の価値観の
話をしているわけではない。シオニストがパレスチナに行く気もない
ユダヤ人にいろいろと宣伝を行って極力移住させようと(合法・非合法
含めて)させたというのは客観的な事実。
57 :
日出づる処の名無し :2005/12/01(木) 23:47:08 ID:s+QfW1VZ
>>54 >リトアニアのユダヤ難民の多数派は戦争が終わるまで
リトアニアが安全だと信じていた
完全に安全と考えていたのは中立状態が保たれていた
7月14日までの話。
それ以降はソ連に残る方か、冒険のような脱出にかける方か、
どちらが安全かの選択に迫られていたと考える。
>バルハフティクがユダヤ難民を日本領事館に並ぶよう指示しなければ
「杉原ビザ」 がユダヤ難民に発給されることはなかった可能性が高い
バルハフティクの本の中で気をつけなければならないことのひとつは
全てのことを自分が仕切ったように書いてあること。
だから可能性はあるが「高い」とは言いきれない。
>バルハフティクは杉原について極めて簡単にしか触れておらず
かえってあやしい。
本の中ではあちこちで活躍する バルハフティクがここだけは
自分の活躍を書いてない。なにかあるんだろうね。
58 :
日出づる処の名無し :2005/12/02(金) 00:02:22 ID:s+QfW1VZ
>>57 バルハフティク と杉原の関係 不透明部分
・幸子夫人の本では7月18日から杉原とバルハフティクらが
会談したことが書かれているが、バルハフティクの本では
全然触れられていない。
・後に渡辺氏のインタヴューでバルハフティク は
「ビザ発行は日本政府が許可してくれたと思っていた」
と証言しているが、自分の本ではユダヤ人の流入を
日本政府があちこちで阻止を図ったことが書かれており矛盾する。
59 :
日出づる処の名無し :2005/12/02(金) 00:02:43 ID:xnhUKCZ6
>>57 ソ連によるリトアニア併合の動きはかなり早い段階で多くの人が気付いていたし、
P79にあるように6月中旬には確定的だった。
またユダヤ難民側ではP82「共産国家とユダヤ人社会」に書かれているように
「ソ連邦居住を真剣に考慮しはじめた」という状況があった。
1940年末ならともかく、7-8月時点で「あわてた」のはバルハフティクに近い
人々に限られるように思うのだが。
60 :
日出づる処の名無し :2005/12/02(金) 00:11:42 ID:4YzqnS+e
バルハフティク と杉原の関係で 今後調べたいこと 二人は以前から面識があったのでは? それも杉原の本務の諜報面から。 つまり杉原がポーランド情報組織以外に ユダヤ人との協力関係があったのでは?
61 :
日出づる処の名無し :2005/12/02(金) 00:24:34 ID:4YzqnS+e
>>59 「あわてた」のではなく「的確に判断していた」
もしソ連の市民権を取っていれば?
実際、ほぼ全員が脱出できたミル神学校の生徒でさえ、
ソ連の市民権をとった数十名は出国を拒否され、
結果生き残れなかった。
そして正確な情報を握っていたところが
バルハフティク の情報網が優れていた
裏づけのように思えるのだが。
62 :
日出づる処の名無し :2005/12/02(金) 06:24:11 ID:4YzqnS+e
>>61 続き
つまり ローメル駐日大使が評したように
「立ち回りの早いユダヤ人」が適切なのでは。
63 :
日出づる処の名無し :2005/12/02(金) 07:29:46 ID:fWY8FYOD
>>61 ヒトラーが初めてソ連侵攻の意図を側近に漏らしたのは7/31であり、
またその判断は史実が証明するようにドイツとヒトラーを破滅させる
誤った判断だった。当時リトアニアにドイツが攻めてくるという
予想は「合理的判断」からは導き出せない。
バルハフティクらがユダヤ難民パレスチナ移住促進の意図でソ連やドイツの
脅威を誇張して宣伝したのではないだろうか。
「立ち回りの早い」意味だが、ドイツがポーランド侵攻した時点でドイツ
本国にはまだ40万人のユダヤ人が在住していたし、ポーランドから逃げよう
としたユダヤ人は300万と言われるポーランドユダヤ人の数パーセントに
過ぎない。そもそもポーランド自体反ユダヤ政権だった。ポーランドから
リトアニアに避難したユダヤ人は、「リスクに敏感な人」というよりは
「ドイツに見つかると危険な人々」(政治家、宗教指導者、富裕階級など)
という印象が強い。
64 :
日出づる処の名無し :2005/12/02(金) 21:11:01 ID:4YzqnS+e
>>63 40年8月28日、在ラトビアの米国公使ワイリー夫妻(妻はポーランドユダヤ人)が
ラトビア併合のため米国に帰国途中、東京に立ち寄った際の
在日ポーランド公使ローメルとの会話記録から。
「リガ(ラトビアの首都)の住民はソ連による支配は短期間に過ぎないと思っており,
自分も同意見である。遅かれ早かれドイツとの軍事衝突が起こり、
ソ連軍はドイツ軍に対抗できないだろうからである。」
別にヒトラーが意思を表明する前でも(ワイリーは7月中に出国)
隣国ラトビアでもこう考えている人達はいた。
またこの時期のパレスチナ移住はイギリスの政策により
狭き門だった。
そのため非合法でパレスチナを目指す人も多かったが
そのほとんどが目的地にたどりつけなかった。
65 :
日出づる処の名無し :2005/12/02(金) 21:16:48 ID:4YzqnS+e
>>63 またこの当時ポーランド人も知識階級、指導者、軍人は
ドイツのターゲットであり、早い段階で粛清されていた。
66 :
日出づる処の名無し :2005/12/02(金) 21:24:35 ID:uaE7DSD7
粛正されそうなユダヤ人だけが国外に逃げたのでは
67 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 06:12:53 ID:LqtUTEsy
杉原の諜報活動についてA 1970年代にリビコフスキの要望で杉原が書いた回想記 (10ページ、ポーランド語)の中の一文。 「大島将軍は…じっさいドイツ軍はソ連邦を攻撃するのかどうかを かくにんしたがっていた。彼にとってはドイツによる速やかな ソ連邦攻撃によって満州のソ連国境にいる日本軍を南太平洋に移したいと いう日本参謀本部の意向が大きな関心事なのであった…私としては 参謀本部が外務省を動かしてカウナスに領事館を開設させたのは ドイツ軍のソ連侵攻を素早く、正確に探知するためであることが明白であった。 日本人は一人もいないカウナスの領事に赴任して、自分の任務は国境付近の ドイツ軍の集結について外務省ではなく参謀本部に通報することであると 判明した。」
68 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 06:21:01 ID:LqtUTEsy
>>67 続き
この文については日本の研究者は杉原の記憶違いではないか
と考え、あまり引用しない。
なぜならば、当時、大島は事態を静観しており、ドイツのソ連侵攻を
全く予想していなかったと思われているからである。
しかしこの文の方が杉原の諜報活動の目的に辻褄が合うのだが。
69 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 08:19:42 ID:Md8RtAnA
>>68 杉原はむしろソ連の動きを監視していたのではないか。
つまり当時日本にとって、ドイツよりよほどソ連のほうが何をするか予想がつかな
い恐ろしい存在だった。ドイツのソ連侵攻を警戒したのではなく、ソ連のドイツ侵攻
を日本は警戒していたのだろう。
ポーランド軍人にとっても、ドイツとともにソ連は自国を分割した憎い敵であり、
ソ連の動向を探りたいからこそ、ロシア語に堪能な杉原を日本は送り込んだのでは。
70 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 08:21:04 ID:Md8RtAnA
ユダヤ難民がいわゆる「シベリア送り」になったという話が出ているが、 バルハフティクはこう書いている。 バルハフティク「日本に来たユダヤ難民」P240 一九四一年の初めごろ、ソ連の市民権を拒否したポーランド難民が、ソ連のどのあたり にいるのか、おぼろげながらわかってきた。 つまりソ連はユダヤ難民を見境なく「シベリア送り」にしたのではなく、 ユダヤ難民をソ連市民に編入した際に抵抗したユダヤ難民が検挙された というわけだ。
71 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 19:54:07 ID:LqtUTEsy
>>69 ソ連のドイツ侵攻はとても考えられないほど、
ドイツ軍は強力で破竹の勢いだった。
72 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 20:24:42 ID:LqtUTEsy
>>71 当時のポーランドの人口は3500万人。
そのうちソ連占領地域は1340万人。
市民60万人がシベリア送り。
別に60万人が処刑か移送中に死亡の可能性。
軍人は20万人が拘留。1万5千人はカチンの森で虐殺。
「10%ぐらいの被害だからたいしたことない」とか言わないでくれよ。
日本の太平洋戦争における死亡率より倍も高いのだから。
73 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 20:32:44 ID:LqtUTEsy
>>71 「日本へ来たユダヤ難民」P118
「ドイツ占領地からソ連占領地に逃げてきたポーランドの
ユダヤ難民は、ソ連当局からピリニュス行きを希望する者は
申し出よと言われた。行きたいと返事した者は
シベリアへ追放されたのである。」 ということだね。
74 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 21:29:29 ID:Md8RtAnA
>>72 ソ連の支配に抵抗したポーランド人が検挙されたということだね。
で、それが何に関係あるのかな。
>>73 これもソ連からすると「ソ連市民にならないならシベリア送り」
ということだから、
>>70 と意味は同じ。
75 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 21:55:08 ID:LqtUTEsy
>>70 >>72 一般にはこういうのを迫害(それも厳しい)と言い、
絶滅政策などを虐殺と言う。
76 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 22:51:36 ID:lUA2thiX
>>75 マジに意味不明。
ソ連のポーランド併合が侵略という立場なら、占領国ソ連の指示に従わない被占領国民の
検挙だし、ソ連のポーランド併合が合法という立場なら、ソ連が自国民を別の地域に移住
させただけ。
77 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 23:37:24 ID:LqtUTEsy
>>76 ソ連のポーランド併合が侵略という立場なら、
ナチスがフランスを始めとする各国で行ったような
占領国の指示に従わない被占領国民の 検挙だし、
ソ連のポーランド併合が合法という立場なら、ウクライナ人のように
自国民を別の地域に強制移住させただけ。
そして後世の歴史では両方とも非難の対象になっただけ。
78 :
日出づる処の名無し :2005/12/03(土) 23:54:47 ID:lUA2thiX
>>77 その通り。
同じことをアメリカもイギリスも散々やったよな。
いまだにアメリカには「先住民保護区」が山のようにある。
インディアンを排除して移住させたところだ。
で、それがどうかしたのか?なにを言いたいのか見えないのだが。
79 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 00:36:23 ID:jble9xec
>>78 下の2文は、どちらも「ソ連の迫害」に違いないが、
日本語は便利なので、書き方によっては、
読んだ人に反語みたいに思わすことも可能。
ソ連はユダヤ難民をソ連市民に編入した際に抵抗したユダヤ難民を
検挙しシベリア送りにした。
→
>>70 >つまりソ連はユダヤ難民を見境なく「シベリア送り」にしたのではなく、
ユダヤ難民をソ連市民に編入した際に抵抗したユダヤ難民が検挙された
というわけだ。
その意図がなかったのなら、申し訳ない
80 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 08:16:08 ID:WTxLAbM2
>>79 俺のコメントが不足していたのだろうが、この時期のソ連の態度は杉原ビザにとって非常
に重要な意味がある。杉原ビザがあってもソ連の出国許可がなければ杉原ビザは意味がな
いからだ。
ソ連の立場からすれば、ポーランド東部併合もリトアニア併合も侵略ではなく正当な行為。
ポーランドは失地回復、リトアニアはリトアニア人の意志による併合という建前。
ソ連が併合したことを理由にソ連領になった地域から出国したいと主張するのは、
ソ連政府への反対を公然と示すことであり、ソ連としては気持ちがいいわけはない。
しかし、ユダヤ難民に限らず「難民」はソ連にとっても「荷物」であり、国際社会が問題
にしないなら国外に追い払いたいという気持ちもある。1940年頃はこの間でソ連も揺れている。
バルハフティク自身が書いているように、結果的に1940年末頃まではソ連はリトアニア
難民の出国を認めた。その後リトアニアに対するソ連の掌握が強まったためか、1940年末
以降は主にリトアニアの難民をソ連人として扱い、出国させない方針に転換したようだ。
つまり1940年末以前は、「難民が出国したい」と言えば「難民はソ連人ではない」から出国を
認めたが、それ以降は「難民もソ連人になるべき」だから「ソ連市民権を拒否し出国したいと
いって反抗する難民は検挙」という方針に変わったのだろう。ユダヤ人迫害とかとは関係がない。
81 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 12:22:31 ID:WTxLAbM2
よく言われることだが、ナチスは「ユダヤ人を排斥した」のではなく「アーリア人以外を ドイツ国民から排斥した」。ジプシー(ロマ)も迫害された。 ソ連にも反ユダヤ的動向も一部存在したのは事実だが、 ・ユダヤ人というだけで迫害されたのか ・ソ連に反する行動で検挙された人々にたまたまユダヤ人が含まれていたのか を区別する必要がある。
82 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 14:07:27 ID:jble9xec
83 :
よほどの馬鹿じゃない限り気づいてるよな :2005/12/04(日) 14:16:11 ID:Z9IVHQeW
84 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 14:20:14 ID:jble9xec
↑ これ誤爆だよね。
85 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 14:25:25 ID:jble9xec
>>80 大筋賛成。
ただ付け加えれば2つ。
貧乏な中欧のユダヤ人を引きうけたがる国はいなかっただろうということと、
スターリンによる大粛清(36〜38年)の後だからソ連という国は怖かっただろうね。
86 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 15:01:32 ID:jble9xec
>>80 さらに付け加え、その後
>>72 へと続く。
ただソ連の弾圧は、ユダヤ人よりポーランド人・リトアニア人のほうに
厳しかったようだが
87 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 16:56:49 ID:EtSSOSYJ
>>83 『千畝』って本読んだことないだろ。ここで憲兵を持ち出すのは逆効果だぞ。
漏れの知識では、半頭出身者は憲兵補にはなれたが正式な憲兵なれなかっ
た。憲兵補でも権力を乱用して現地人に恨まれる行為を繰り広げていたらしい。
88 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 18:39:55 ID:WTxLAbM2
参考までに、ユダヤ人の権利を制限したため起きたドイツの経済混乱についての 当時の日本の新聞記事。 時事新報 1934.7.17(昭和9) 独逸の経済難局を軽視するは危険 復興運動を脅かすものと米国玄人筋の警戒 (紐育ワデル特派員十五日発)去月末以来独逸のヒトラー首相が果断にもナチスの 極端分子の清掃を断行した結果、従来の孤立的政策を幾分緩和するものと期待さ れるに至ったが、この独逸の□□の影響は大西洋の西岸にまでは響かず紐育の株 式市場や□□にも影響はない、それはナチスのユダヤ人圧迫以来ボイコット運動 や報復運動等の反独運動が激化した結果ここ数ヶ月来米独間の貿易は著しく低下 していた為である米国一般では今後数ヶ月間に独逸の経済的困難は一層深刻を 極め政治的叛乱さえ勃発するものとみている、□政通の間では独逸の経済的破綻 が激しくなれば他の欧洲諸国の経済状態をも攪乱せしめるに至るから、その結果 当然これからの欧洲諸国は米国を目標として働きかけ□□□興の途にある米国を 脅かすに至るであろう、従って独逸の現状を軽視してはならなぬと警告している。
89 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 18:46:51 ID:WTxLAbM2
>>88 当時、世界のユダヤ資本家らはドイツに経済制裁(ボイコット)を行いドイツ経済を
苦境に陥れれば、ドイツ人はヒトラーを見放して親ユダヤ的な政権が出来ると期待した。
しかし史実はドイツ人はより一層ヒトラーを強く支持するようになりユダヤ人排斥が
強まった。
この例に学べばアメリカは日本への石油禁輸などの経済制裁をもう少しうまくやれた
だろうに。
90 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 22:59:55 ID:jble9xec
杉原とユダヤ人の関係@ 以下の文は個人の掲示板の過去スレ(1999年)にでてた件です。 だから、どの本を読んだのかわかりません。 「杉原さんの下でスパイとして活動していたポーランドユダヤ人のベルツ氏は、 杉原さんが外務省以外のところからユダヤ人救済のために働くように指令を受けて いたと証言していますね。 ベルツによれば、杉原さんに指令を下していたのは、参謀本部の山脇大将だそう です。でも、この山脇さんって、誰??? 杉原さんをリトアニア公使に抜擢し、その後プラハ領事に押すのは親ドイツ派の 軍人外交官グループです。杉原さんは同僚からは親ドイツ派だと思われていたの です。(おそらく対ソ工作の実績からそう思われたのでしょう。) しかし、彼に裏で指示を下していたのは親英米派の軍人でした。杉原さんは軍部 内の親英米派グループから親ナチ派の元に送り込まれたスパイと言う面もあった ようです。 杉原さん自身は反ナチズムの人でした。杉原さんはリトアニアに次いでチェコの プラハに赴任します。赴任の便は親ナチ派の大島浩やその部下の大橋忠一がはか りました。この途中で杉原さんは、同伴したポーランドユダヤ人(身分上は満州 国民で杉原さんの運転手)の工作活動を支援しています。」
91 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 23:10:52 ID:2uQ90Zw1
ヤーレンソー連中国インドにビルマ タイタイ
92 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 23:17:22 ID:jble9xec
>>90 ちなみにこの文に出てくるベルツ氏はポーランド軍中尉通称ペシの
ロシア文字の名前。ペシがユダヤ系だったのは初耳。(要確認)
ペシの回想記からだとすると、ルトコフスカ著「関係史」あたり
からの引用か。
ただ、杉原のポジショニングは自分の予想と重なる。
93 :
日出づる処の名無し :2005/12/04(日) 23:39:39 ID:WTxLAbM2
>>90 レビン「千畝」P309にリビコウスキーが主張した説として山脇正隆黒幕説を紹介しているね。
(リビコウスキーは)「日本の上級官僚が、杉原の救出行為を知っていた。むしろ、それを
承認していた」と書いている。彼のいうところによれば、政府が主導したとさえ思える。
現在では、彼ら(日本)が、領事とか公使館付き武官レベルではなく、参謀本部と外務省
レベルで救出活動を始めた、と私にはわかっている。当時の参謀総長は山脇正隆大将で、
ポーランド人の味方だった。・・・ヨーロッパ情勢の説明を受けた山脇総長は、われわれと
の連絡を緊密にするよう命じた。我々の難民に、日本経由のヴィザ六百通を確保させたのは、
この山脇大将だった。
しかし、レビンはこの話に懐疑的で、P322でこう書いている。
しかし、ぺルツの話は違います。彼は、あなたが上司から離れて行動したと感じているよう
です。
94 :
日出づる処の名無し :2005/12/05(月) 02:42:40 ID:Illj9BYd
↑違うのなら理由を書け
95 :
日出づる処の名無し :2005/12/05(月) 06:28:44 ID:enSbWFlo
>>90 >>93 リビコフスキ文書はポーランド軍事博物館文書部に保存されており
比較的閲覧しやすいらしく、いろんな本に引用されている。
しかしペシの回想記はどこに存在しているかわからず引用も少ない。
そして
>>90 の気になるところは、親英米派と親ドイツ派の話は
どこから持ってきたのか?
96 :
日出づる処の名無し :2005/12/05(月) 07:19:19 ID:MuBj7JOM
>>94 レビンは山脇大将が関与しているという証拠がひとつも発見されていないことなどを指摘している。
・当時の客観情勢としてリトアニアの難民が出国する必要性は低かった。
杉原がビザを発行したのはバルハフティクの働きかけが大きい。
・バルハフティクは日本の通過ビザを「トイレットペーパー」などと呼んでいる。
(本当に使えるかどうか疑わしいから)
日本の軍と政治中枢が真面目に難民を助けようとしたのならもっとやりようがあったはず。
97 :
日出づる処の名無し :2005/12/05(月) 21:21:21 ID:MuBj7JOM
http://homepage3.nifty.com/hongo/newpage3.htm 補足(一)アンチセミティスト(反ユダヤ主義者)だった安江大佐
ある日、安江大佐が係にやってきて、軍刀で床をたたいて石堂らを威嚇したことがあります。
石堂らの書くものが気に入らなかったらしく<<貴様らの前身は百も承知している。貴様ら
を消すのは蝿をひねるようなものだ。それでも反抗するのかといった調子である。[15]。>>
と書いています。
安江の陸士21期の同期生で直接の上官であるハルピン特務機関長樋口季一郎中将(大阪地幼、
陸士21期、陸大30期41/60)は皇道派の母体と思われる桜会の幹事です。安江も皇道派の流れを
汲んだファナテックな一種の国粋主義者としての側面のある人物だったのではないでしょうか。
したがって、反ユダヤという面ではナチズムと共有するものがあったようにも思われます。
満洲里と国境を接するオトポールで足止めされた2万人のヨーロッパからのユダヤ難民の満洲入
国に奔走したのは、あまり振るわない満州国経済のために、これを取引材料にしての、アメリカ
のユダヤ資本の満洲導入の計算[15]と期待をしたためであり、それ以外に親ユダヤだったとい
う要素はありません。また、石堂清倫は、単純に反共主意者とでもいった意味で安江大佐を
「アンチセミテイスト」としたのかもしれません。
ヒューマニズムからユダヤ難民の満洲入国に奔走したわけでなく、[15]を読む限りは、通説と
は大分違った人物のように思われます。
文献[15]『わが異端の昭和史』石堂清倫 勁草書房1986、211―213頁。
98 :
日出づる処の名無し :2005/12/05(月) 21:21:55 ID:MuBj7JOM
http://salad.2ch.net/nhk/kako/980/980334478.html 62 名前: 異議有り 投稿日: 2001/02/08(木) 06:46
>>56 樋口は誇大妄想癖の軍人だよ(゚д゚)y-~~~~
助けたユダヤ人は二万人も居ない(そう言った事実が無い)
ユダヤ人を救済した功労者へ送られる「諸国民の正義の人」へ
記載されている日本人は杉原千畝ただ一人だけ。
彼の載っている「ゴールデンブック」はユダヤ国立基金(JNG)へ
寄付した人のリスト表に過ぎない。(今でも寄付すれば載れる)
疑いの有る方はイスラエル大使館へどうぞ(笑)
99 :
日出づる処の名無し :2005/12/05(月) 21:36:04 ID:MuBj7JOM
100 :
日出づる処の名無し :2005/12/05(月) 23:41:25 ID:MuBj7JOM
101 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 02:00:45 ID:OLPnex5A
>>98 ただ寄付しただけの軍人をソ連の軍事裁判から救ったのか?
いくら寄付したの?ユダヤ人は優しいんだね
102 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 02:07:37 ID:OLPnex5A
石堂清倫ってバリバリのサヨだから鵜呑みには出来ないな
103 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 05:36:40 ID:q8G0HBPw
杉原の諜報活動についてB 小野寺信少将はストックホルム武官として情報収集に活躍。 ドイツのソ連侵攻、独ソ戦でのドイツの敗退、ドイツの原爆開発、 ソ連の日本への宣戦布告と数々の正確に予測するだけでなく、 終戦間際にスウェーデン王室を通した和平工作も行った人物である。 その小野寺の情報源がリビコフスキ。リビコフスキはポーランドの秘密情報機関の 指導者であり、このグループとロンドンのポーランド軍参謀を小野寺に提供。 小野寺も自分の持っている情報との交換、リビコフスキの身柄の安全の確保で 協力体制にあった。
104 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 05:49:36 ID:q8G0HBPw
杉原の諜報活動についてC 小野寺と杉原の直接の関係は見出せないが、杉原と協力関係にあった ペシやクバはリビコフスキの部下である。 リビコフスキと日本との関係は彼がリガの小野打武官を頼ったところから始まる。 その後リビコフスキは40年初めにカウナスでクバと会い、 クバとペシがリストニア、東プロイセンで地下情報網の設置に 成功していることを知り、傘下に組み入れる。 そしてこの地下情報網と協力関係にあったのが杉原である。
105 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 06:00:48 ID:q8G0HBPw
杉原の諜報活動についてD リビコフスキは40年9月、リガからストックホルムに移った 小野打武官を再び頼り、ストックホルムの日本陸軍武官室付となる。 その後、小野打はヘルシンキへ転任するが、リビコフスキは 西村敏雄大佐の許で情報提供者として残った。 41年5月に西村が小野寺に交代した後も、緊密な協力関係は続き、 リビコフスキの諜報活動を恐れたドイツからの執拗な引渡し要請も 小野寺は断固として受け付けなかった。
106 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 06:16:39 ID:q8G0HBPw
杉原の諜報活動についてE 夫人の小野寺百合子(ムーミンの翻訳者としても有名)著 「バルト海のほとりにて」は小野寺武官の活動が詳細に 述べられており当時の貴重な資料に挙げられる。 その中で小野寺はストックホルム着任にあたり、大本営の 山県有光中佐から「前任の西村の報告はどうも英米側に傾いていて 困るから、着任したら公正な判断をを報告してもらいたい」 と言われる。 しかし、小野寺もその後同様の報告を続けることになるため、 ストックホルムは中央との意思の疎通を欠くことになる。 ベルリン武官室との対立状況は、戦争中もずっと続き、小野寺情報は ほとんど中央にとりあげられないままとなった。
107 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 06:27:56 ID:q8G0HBPw
杉原の諜報活動についてF
一方、杉原であるが小野寺との直接関係は認められないが、
カウナスの諜報報告はリガ、ストックホルムにあげていたと思われ、
小野打武官、西村大佐から指示を受けていた線は強い。
ただ、杉原のおもしろいところは、ストックホルム寄りの情報を
あげていながら、ベルリンの大島大使からも高い評価を受けていた
ことである。
ここらから
>>90 >杉原さんをリトアニア公使に抜擢し、その後プラハ領事に押すのは親ドイツ派の
軍人外交官グループです。杉原さんは同僚からは親ドイツ派だと思われていたの
です。(おそらく対ソ工作の実績からそう思われたのでしょう。)
しかし、彼に裏で指示を下していたのは親英米派の軍人でした。杉原さんは軍部
内の親英米派グループから親ナチ派の元に送り込まれたスパイと言う面もあった
ようです。
は納得がいくのです。
108 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 07:40:23 ID:iyUxnKsl
109 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 20:06:36 ID:q8G0HBPw
杉原といえば 1944年、勲五等瑞宝章を叙勲したことが 何かと取り上げられるが、当時これは何人くらいがもらえたのかな? (現在だと叙勲者 4500名中1000名くらいだが) まさか外務省勤続20年でもらえたわけじゃないよね。
110 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 21:12:11 ID:iyUxnKsl
>>107 第二次大戦を経験しているから、「英米派」とか「枢軸派」がはっきりと分かれる
ような印象があるけれど、(無論早くからイギリスは反ナチス的ではあったが)
政治的には三国同盟頃まではドイツとイギリスが手を結ぶ可能性もあった。
ドイツよりソ連のほうが脅威だと思われていた。
ヒトラーはソ連侵攻後もイギリスと手を結ぶことを期待した。
111 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 22:08:04 ID:q8G0HBPw
>>107 背景の説明
日本のベルリン武官室は、ドイツの情報操作により、
常にドイツに有利な情報を参謀本部に報告することになる。
これに対し中立国スウェーデンのストックホルム公使館の武官らは
各国の武官との情報交換、ポーランド情報組織からの報告で
正確な情報を把握していた。しかしこの情報はドイツ不利の内容が
主だったため「英米の宣伝に躍らせている」と非難され続けた。
112 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 22:12:14 ID:q8G0HBPw
ポーランド地下情報機関と日本のつながり ・ 満州の関東軍にはポーランドの暗号専門将校が3人配属されており 太平洋戦争開戦後これが問題となったが、リビコフスキを通じ ポーランド政府の意向を確認。そのまま勤務を続けた。 ・カウナスで杉原と協力していたクバは、その後、在ベルリン満州国公使館に 属しサビナらと情報活動を行う。 しかし41年夏、クバ、サビナらはゲシュタポに逮捕される。
113 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 22:42:26 ID:q8G0HBPw
杉原の諜報活動についてG 杉原の実質的な諜報活動が確認できるのはカウナスから プラハ、ケーニヒスベルグに至る39年秋から41年12月まで。 結局ケーニヒスベルグではガウライター(ナチスは当時、ドイツをいくつもの地区に分割し、 それをガウと呼び、その指導者をガウライターと称していた。) のコッホが大島大使に杉原の移動を要求。ルーマニアのブカレストへと転任になる。 杉原はドイツにとり要注意人物になっていたのである。
114 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 22:47:29 ID:iyUxnKsl
しかし、ユダヤ人がもし「ゴールデンブック」で人を顕彰するというなら、 杉原が入らずにキリストの幕屋教祖手島が入ってるのを疑問に思わないのかねえ。
115 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 22:47:57 ID:RNUo7Mc7
116 :
日出づる処の名無し :2005/12/06(火) 23:48:45 ID:iyUxnKsl
「犬塚大佐はユダヤ人から感謝の印にシガレットケースをもらった」という 話があるが、バルハフティクは「なにゆえこのような贈物をする必要があった のか、私はニューマンに聞いてみなければならないと考えている」と怒ってるし。
117 :
日出づる処の名無し :2005/12/07(水) 00:06:16 ID:aC4CsBKy
杉原の諜報活動についてH 通称クバことヤクビアニェツ大尉の経歴を調べると 気になることがある。クバは士官候補生学校を卒業後、 ピリニュスの歩兵第五連隊→国境警備隊→参謀本部第2部グロドノ班 で地下情報網の仕事にかかっていくのだが、ちょうどピリニュスから カウナスに拠点を移し、ペシと一緒に杉原の前に現れる時期が 1940年春で、ユダヤ難民の動きと重なるのである。 独ソ不可侵条約の結果、ピリニュスからカウナスへの道が 急に開けたとはいえ、このときの移動はユダヤ難民が中心である。 もしかしたら、ここらへんが杉原ビザの糸口なのかな?
118 :
日出づる処の名無し :2005/12/07(水) 20:39:53 ID:aC4CsBKy
推測;杉原ビザの発端 カウナス領事としてポーランド地下情報組織と密接な関係のあった 杉原は、ポーランド側の要請により40年7月初めよりポーランド人難民の ために参謀本部の了解の許、パスポートの発行を始める。 しかし実際パスポート発行のために集まり出したのは ポーランド人の難民ではなくポーランド系ユダヤ難民だった。 推論@ ユダヤ難民はポーランド情報組織と関係が有り、杉原にパスポート発行を 依頼。杉原は参謀本部の了解の許パスポート発行をする。 推論A 杉原は自分の職務権限の中で、パスポート発行が可能と判断。 パスポート発行を始める。
119 :
日出づる処の名無し :2005/12/07(水) 20:40:48 ID:aC4CsBKy
>>118 続き
背景;杉原を外務省指揮下の文官と見るのは間違いである。
カウナス領事時代から、文官ならば上司であるはずのリガの大鷹公使とは
無関係で、武官であるベルリンの大島公使の指揮下にあった。
ゆえに外務省からの訓令も平気で無視していた可能性も高い。
また、杉原は1939年から、ポーランド情報組織に偽造パスポートを
何枚も発行していたので、条件不充分のパスポート発行ぐらいなら
抵抗感は感じなかったのではないだろうか?
120 :
日出づる処の名無し :2005/12/07(水) 21:02:08 ID:GrdPGItN
石堂清倫「わが異端の昭和史」ユダヤ人問題の調査 安江特務機関長の論理はこうである。満州国をつくってみたが、内地からの投資が望まれず、 建設は停滞している。ちょうどそのころヒトラーに追われ、スターリンからも拒まれたユダ ヤ人が二万人ばかり満州里の国境あたりに待機している。二万のユダヤ人の運命は、関東軍 に握られている。そこでアメリカのユダヤ人ブルジョアジーが取引の対手に選ばれる。ユダ ヤ系の金融資本が相当量満州に投資されるなら、この二万人は満州国内に安住することがで きる。もしそれに応じなければ、彼らは満州からも放逐される。これが安江の計算で、われ われは安江構想を作文化しなければならない。外国経済係にはアメリカで学位をとったとい う「アラム語」専門家の小辻節三と、同じくアメリカ帰りの青木了一という人物がいて、特 務機関長とは親しいようであった。 (ここに続いて以下の話になる) 係員のなかで山口と私の書くものが機関長の意に満たなかったのか、ある日安江大佐が係へ やってきて、山口と私を立たせ、軍刀で床をたたいて威嚇するのである。貴様らの前身は 百も承知している。貴様らを消すのは蝿をひねるようなものだ。それでも反抗すると言う のかといった調子である。
121 :
日出づる処の名無し :2005/12/07(水) 21:04:21 ID:GrdPGItN
>>119 ポーランド人(ユダヤ人ではなく)にビザを出させた件については陸軍上層部が関与していた
かもしれないね。
122 :
日出づる処の名無し :2005/12/07(水) 21:09:24 ID:GrdPGItN
>>120 石堂は安江の下で「ユダヤ関係文献の蒐集と、ヨーロッパにおける
ユダヤ人史の研究」を本業にしていた。これが安江の実態というわけだ。
123 :
日出づる処の名無し :2005/12/07(水) 21:14:09 ID:aC4CsBKy
推測;ユダヤ人のソ連通過 外務省は訓令でユダヤ人の難民の足止めを図るが、モスクワ大使館や ウラジオストック領事館の現場の反発により、続々と日本へ到着していく。 根井三郎については、杉原とハルビン学院の同窓で旧知の間柄であったことは よく指摘される。 しかし建川美次モスクワ大使が統制派の軍人であったことの指摘は少ない。 つまりモスクワも陸軍の影響下に入っていたのである。
124 :
日出づる処の名無し :2005/12/07(水) 22:37:58 ID:aC4CsBKy
推測;杉原のその後 カウナス領事館閉鎖後、まずベルリン、次にプラハに 半年ほどいた後、ケーニヒスブルグに10ヶ月間勤務する。 その間、杉原はたびたびベルリンに行き、 大島大使に視察結果を報告している。 その後、ドイツ側の抗議によりブカレストに転任となる。 つまり常に大島大使の指揮下にあり、諜報活動に携わっている。 外務省が杉原に手を出せる状態ではなかったと考えられる。
125 :
日出づる処の名無し :2005/12/07(水) 22:50:48 ID:aC4CsBKy
推測;杉原の退職 杉原が帰国したのは47年。外務省のリストラが始まっていた時だった。 杉原の実質の上司である軍人達は戦後、社会の前面に出ることは無く 杉原の後ろ盾はなくなっていた。 (旧軍人の大部分は大島浩型のパターンで隠栖しており、 たとえ犯した罪は大きくても、人間としての誠実さでは格が上かもしれない。) つまり杉原も武官達と同様に、外交の第一線から消えざるを得ない 人材だったのである。
126 :
日出づる処の名無し :2005/12/08(木) 07:57:26 ID:hnDK23r+
>>125 「杉原ビザ」なる「美談」がなかなか広まらなかったのもその辺
が原因だろうね。杉原自身、ポジション上いろいろヤバイ仕事もしていそうだし。
127 :
日出づる処の名無し :2005/12/08(木) 19:45:30 ID:jGr7LXqM
愛國無罪ってことか。お里が知れるよね。
すまん、誤爆。
129 :
日出づる処の名無し :2005/12/08(木) 21:13:16 ID:Ftjmtl6L
130 :
日出づる処の名無し :2005/12/08(木) 21:47:27 ID:Ftjmtl6L
>>129 自分の推論は 船橋氏と違い、杉原は参謀本部の指揮下で動いており
ビザの発行も参謀本部の了解を得たか、あるいは杉原の権限内で
可能と判断したかのどちらかと考えている。
理由は
・ポーランド情報部の要請でポーランド人難民のビザ発行の
用意はされていた
・杉原はそれまでにも偽造パスポートを何枚も発行しており、
条件不備者にビザを発行することに抵抗感は少なかった。
・ドイツはユダヤ人追放政策実施中でユダヤ人が大量出国することは
非難をを受けることはないと考えていたこと。
131 :
日出づる処の名無し :2005/12/08(木) 21:52:08 ID:hnDK23r+
>>129 これはレビン「千畝」の原書をそのまま紹介したものだね。
132 :
日出づる処の名無し :2005/12/08(木) 23:15:51 ID:Ftjmtl6L
>>129 レビンの本はワルシャワのポーランド軍事博物館文書部に
保存されているリビコフスキ文書を下敷きに展開しているのだから
論旨は似てくる。
ただレビンの大きな問題点は日本側の資料の取り上げ方に誤りが多く、
これは日本語がわからないということと同時に、自分の作った論理に
無理に当てはめようとしたためではないかと感じられる。
133 :
日出づる処の名無し :2005/12/08(木) 23:45:47 ID:Ftjmtl6L
>>130 続き
・ミル神学校の生徒らのビザ発行は、ストックホルムからの依頼であり
西村武官につながっている可能性が高い。
・8月にかけて松岡による親英米派の文官への粛清が始まり、
外務省に対し陸軍は絶対優位な体制になりつつあった。その中で
情報活動が得意な杉原の重要度は増しており、外務省から
とやかく言われる筋合いはないと考えていた。
つまり条件不備のユダヤ人へのビザ発行は、参謀本部の意志に反しているわけでもなく
処罰の対象にもならない、たいしたことではないことと
杉原は判断していたのではないか? (2000枚以上発行することは大変な労力だが)
134 :
日出づる処の名無し :2005/12/08(木) 23:56:05 ID:hnDK23r+
仮に杉原が「ナチスの心酔者で日本にとっては売国的」であっても 「杉原ビザ」が成り立つのが面白いところだな。 ナチスにとってはユダヤ人をヨーロッパから追い払えればよく、その ために日本に負担がかかってもナチスが気に病むわけでもない。
135 :
日出づる処の名無し :2005/12/09(金) 05:43:29 ID:OAjBZfNc
>>134 杉原はナチス心酔者ではないと思われる。
情報の報告内容などはストックホルムの親英米派といわれた
武官達と同様の内容が多い。
ただ杉原のわからないところは親ドイツ派の大島に
高く買われており、ずっとその指揮下にいるところ。
これが親英米派のスパイでなかったかと言われる
所以になっている。
136 :
日出づる処の名無し :2005/12/09(金) 07:40:09 ID:YdWuR86Y
>>135 そこだよね。
ドイツ圏での勤務が多いので、杉原の本心ではないかもしれないが、
ユダヤ人に不利になる諜報活動も業務上やってたかもしれない。
137 :
日出づる処の名無し :2005/12/09(金) 07:56:36 ID:rlhuexCS
杉原がやったことは人道的だと思うが 結果として助かったユダヤ人たちが今度はパレスチナで多くのパレスチナ人を 虐待虐殺しているんだからなぁ・・・。 因果は巡るというか、ユダヤ人にナチスを非難する資格などないと思うのだが。
138 :
日出づる処の名無し :2005/12/09(金) 12:19:18 ID:3BYDsNcU
杉原の諜報活動についてG 杉原の諜報網構築の才能は満州国外交部在籍中から際立っており、 33年の北満鉄道譲渡交渉でも、白ロシア人、ユダヤ人を使った諜報網で 調べ上げた情報を駆使して、ソ連から大幅譲歩を引き出している。 また35年外務省本省に戻った際も情報部に配属されている。
139 :
日出づる処の名無し :2005/12/09(金) 12:33:44 ID:3BYDsNcU
杉原の諜報活動についてH 「ヨーロッパにおける日本のスパイ網の親玉」といわれた 小野寺信武官の諜報活動はドイツ、ハンガリーの武官同士の情報交換と ポーランド情報部のリビコフスキ情報が主であった。 杉原は情報組織との接触や、自らペシを伴った国境視察など、 小野寺と比べ、現場に密着しており、ソ連からもドイツからも名指しで 国外に出るよう言われるのは当然だろう。
140 :
日出づる処の名無し :2005/12/10(土) 22:27:17 ID:PbR7oEQr
「自由への逃走」ってスパイとしての杉原を強調してるね。
141 :
日出づる処の名無し :2005/12/11(日) 16:36:16 ID:G/NXv0qG
外務省の情報収集活動 現代でもそうだが、外務省のキャリアは米中ソなど 一部の地域を除いて情報収集活動は全くしていないと言える。 パーティーはいっぱい開くが、ただ最初にあいさつをするだけで 人脈の拡大につながらない。 戦前・戦中は情報収集を武官とノンキャリア(怪しげな現地採用も含め)が 行っていた。現代ではそのノンキャリアも機能不全に陥っている。
142 :
日出づる処の名無し :2005/12/11(日) 16:47:33 ID:G/NXv0qG
杉原の退職について 1947年に日本に戻ってきた47歳、ノンキャリアの杉原が 50歳定年の外務省に残るには、それこそ大使に任命されるしかない しかしノンキャリアが大使になることは、キャリア至上の 外務省では今も昔もありえない。 1500名の人員削減中の外務省にとり、杉原の退職は当然なのだった。
143 :
日出づる処の名無し :2005/12/11(日) 17:15:07 ID:G/NXv0qG
>>142 続き
外務省のキャリアは戦争責任を誰一人とらなかった。
日米開戦の宣戦布告の遅れの原因を作った奥村氏、井口氏は
戦後、事務次官へ。
ベルリン大使館枢軸派の旗頭、牛場氏はアメリカ大使、
甲斐氏、内田氏もそれぞれ大使を歴任する。
戦後社会に出ようとしなかった軍人や政治家の多くと比べ
罪の大小はともかく、人間性の違いを感じる。
144 :
日出づる処の名無し :2005/12/11(日) 19:27:42 ID:cKgEu9hW
ここまでのまとめ。 杉原千畝リトアニア領事代理は、表向きは外交官だが、実質的には陸軍の指揮系統下 にあった可能性が高い。ソ連・ドイツに関する諜報活動を主任務としていた。 杉原は当初ポーランド人諜報関係者にビザを発行していた。その後ユダヤ難民のパレ スチナ移送を目論むバルハフティクらと何らかの取引を行いユダヤ難民に日本の通過 ビザを発行したのではないかと考えられる。
145 :
日出づる処の名無し :2005/12/11(日) 19:58:49 ID:G/NXv0qG
>>144 当事者の中で杉原幸子、バルハフティク、リビコフスキの3人は
自己顕示欲が強いので、著書の中での本人の活躍は
常に五割増しぐらいで見てた方が良さそう。
バルハフティクも他の資料で確認するとユダヤ難民の中の
少数グループのリーダーにすぎず、ビザ発行の件も本人が
書いているほど活躍してないことになっている。
146 :
日出づる処の名無し :2005/12/12(月) 07:44:54 ID:8zFDLtEE
>>145 のちにイスラエルの宗教大臣にまでなったというインパクトが強いのかも
しれないが、大抵の本に杉原の交渉相手としてバルハフティクの名前が出てくる。
自己主張が強いというのは同感だが、キーマンであることは確かだと思う。
147 :
日出づる処の名無し :2005/12/12(月) 22:32:34 ID:C8a8R+gW
バルハフティクが他のユダヤ難民達と違うのは 10月中頃という早い段階で日本に入国したこと。 多くの(ミル神学校でさえ)ユダヤ難民が杉原のビザをもらった後、 ソ連当局に出国願いを出すことを〈恐怖から)躊躇しており、 本格的な出国は41年に入ってからだった。
148 :
日出づる処の名無し :2005/12/14(水) 00:18:35 ID:lbjyJA+t
素朴な疑問だが、杉原千畝を「偉人」だなどと言い始めたのはいったい誰なんだ? 単なる勘違いなのか、意図的なものなのか。
149 :
日出づる処の名無し :2005/12/14(水) 22:12:49 ID:MaIV/4ZM
自分が考える杉原ビザ キャリアの上級職でない、いわゆる諜報畑の専門家が、その能力を買われ 参謀本部の戦略により、独ソの情報収集のためにリトアニア公使館の領事となった。
150 :
日出づる処の名無し :2005/12/15(木) 06:14:26 ID:MwI974XW
自分が考える杉原ビザ 続き 40年7月上旬、協力体制に有るポーランド情報組織の依頼により ポーランド難民に対しビザ発行の準備を(参謀本部・外務省の了解の許)行う。 しかしポーランド難民は集まらず、集まったのは、シオニストグループの ユダヤ難民だった。 ただ、このグループについては、アメリカ・パレスチナの組織とつながりがあり、 日本のユダヤ人政策に有効なグループであると判断でき参謀本部の了解の許 ビザ発行を行った。 そして、この後にビザ発行のうわさを聞きバックのない貧しいユダヤ難民達が 領事館に押し寄せた。 この難民達は日本にとっては利用価値のない、ただのお荷物だった。 ここで杉原が独自の判断でビザ発行を行った。(8月上旬から) この途中で参謀本部に依頼で神学校の生徒達にもビザ発行を行っており、 自分の権限を拡大解釈し、人道的配慮を行ったと考える。
151 :
日出づる処の名無し :2005/12/15(木) 06:21:15 ID:A69ntkY8
152 :
日出づる処の名無し :2005/12/15(木) 08:09:31 ID:MwI974XW
自分が考える杉原ビザ 続き2 参謀本部としては、アメリカ・パレスチナとのつながりが強い シオニストグループと宗教関係者をうけ受け入れることにより、 ユダヤ人有力者からの資本支援、対米カードにもつながると考えたと思う。 それも移民を受け入れるのではなく、数百名の通過ビザを発行するだけで。 そして同盟を検討中のドイツに対しても、ユダヤ人は追放政策中かつ リトアニアは他国であり、同盟の支障になるとは考えられない。 だから杉原にはこう指示したと考える。 「現地判断で有益と思われるユダヤ人にビザ発行を許可する」
153 :
日出づる処の名無し :2005/12/15(木) 08:34:49 ID:MwI974XW
自分が考える杉原ビザ 続き3 外務省との電報のやり取りについては、杉原が外務省に過少報告を行い, 大量の貧乏難民にビザ発行をしていることを隠していたものだと考える。 松岡外相からの返信も、実際返信電報を作成しているのは外務官僚であり、 裏事情を知らない形式的な内容に終始したと推測する。
154 :
日出づる処の名無し :2005/12/15(木) 08:48:00 ID:MwI974XW
自分が考える杉原ビザ 続き4 しかし実際に日本に来た難民の多くは貧しいユダヤ人だった。 また、その後にも偽造ビザを使い多くの難民が流れてくる。 これは参謀本部にとり誤算だったと思う。 しかし杉原は参謀本部の指示を拡大解釈したに過ぎない。 また、杉原は何よりも有力な諜報網をもち、大島中将の大事な手駒であり 参謀本部そして外務省としても欠かすことの出来ない人材であったので、 戦時中にはずすことは出来なかったと推測する。
155 :
日出づる処の名無し :2005/12/15(木) 09:05:06 ID:MwI974XW
自分が考える杉原ビザ 続き5 帰国後の杉原は、冷戦時代に入りソ連情報が重要になっていること、 情報収集能力の高さが評価されていたことから、 引き続き外務省が雇用してくれると信じていたと思う。 しかし外務省は情報収集の重要性を認識していない官僚達で 固まっており、ノンキャリアの杉原に残る余地はなかったと考える。
156 :
日出づる処の名無し :2005/12/15(木) 19:36:13 ID:MwI974XW
自分が考える杉原ビザ サイド1
>>144 で指摘のある「バルハフティクとなんらかの取引があったのではないか」
という疑問だが、自分の結論としては特になかったと思う。
それはその後の杉原を見た場合、ユダヤ人との接触はなく、
イギリス、パレスチナの組織とも直接の接点が見当たらないからである。
杉原はユダヤ人から一時的な情報を得たかもしれないが、
それはあくまでもカウナス滞在時までしかありえない。
ポーランド情報部との関係のようにベルリン、ケーニヒスブルグへと
続くわけではない。
ただポーランド情報部にとってはイギリスへの繋ぎとして
ユダヤ人は有用だったかもしれない。
157 :
日出づる処の名無し :2005/12/15(木) 21:04:59 ID:HqnxIKNA
前にも出ていたがレビンは杉原とバルハフティクが秘密交渉したと疑っている。 レビンはソ連の出国許可についても、杉原自身がソ連官憲と交渉したのではない かと疑っている。 その根拠として、バルハフティクに面会して問いただしても杉原との交渉内容 について語らないかったということをあげている。
158 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 01:18:06 ID:0BGOFe38
>>157 バルハフティクについてはその著書も、それを引用していると思われる
レビンの「千畝」も五割増ぐらいの内容と思ったほうが良い。
たとえばバルハフティクの作った「アリア委員会」も全部で3人の委員会で
「千畝」のP285からも想像できるように、当時カウナスに居たシオニスト達の
多くの派閥のうちの1つに過ぎない。
また
>>157 の内容は「千畝」のp334を引用したのだろうが、
レビンは「バルハフティクと秘密交渉」したと思っているのではない。
それは後半を読めばわかるが、レビンは杉原を
・権謀術数に長け、抜け目ない戦略で自らビザ発行を行った
と考えており、ただ、そのことを
・自分を悲劇の英雄に仕立て上げること
で生涯、隠しつづけようとしたと書いている。
159 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 01:22:20 ID:Y3yzcOzp
たまに、スレ主旨から微妙にうがった見方で 異様に執拗に永遠に終日反論を続け続ける輩が いくつかのスレに存在するね。 同一人物?
160 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 01:32:06 ID:0BGOFe38
>>158 杉原の活動の奥深さを知ると、「信念を貫いた外交官」と
いうイメージが崩れ、レビンのように「スーパ−マン的な策士」
まで行きついてしまう研究者もいる。
ただ自分はやはり「場違いな情報収集の専門家が国策と同情心の狭間で
揺れ動き自分の権限をフルに使い対応した」のが杉原ビザだと思う。
161 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2005/12/16(金) 03:15:37 ID:U1lgNIE5
前スレ読んでないので既出だったらスマソが、 ユダヤ人難民の第一陣がシベリア鉄道に乗ってソ満国境まで来たときの話について。 当時、欧州ではユダヤ人への迫害が日増しに強くなっていたわけだが その難民を受け入れようとする欧州の国は皆無だった。 だから日本もそれにならって難民受け入れを拒否することもありえたわけさ。 そんな中、関東軍参謀長だった東条英機は難民の満州入境を認めたんだ。 この事実はあまり知られてないように思う。 英断だったにも関わらず、だ。 もし「東条英機はA級戦犯で何一つ良いことをしなかった」というアフォがいたら 是非ともこの話を伝えてやってくれ。 彼は決して極悪人なんかじゃないんだからね。
162 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 07:50:07 ID:HlNTCxav
>>161 それをやった動機がユダヤ人を米英交渉に利用しようというもので、
米英交渉に失敗したのでユダヤ人を日本は放り出したという話が
散々出てるよ。
163 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 11:17:49 ID:wXfZIo9f
レビンの「千畝」に関しては松浦氏や渡辺氏が指摘するほど悪書とは思わない。 確かに「千畝」には3つの問題点がある @日本語文献の誤訳が多いこと A自分の筋書きを裏付けるために都合の良い資料を持ち出していること Bユダヤ人である著者が持つ日本人のイメージを 無理やり当てはめようとしていること しかし@については「自由への逃走」でさえポーランド語文献の 致命的な誤訳を犯しているし、Aについては松浦氏や渡辺氏も 自著で同様の事を行っている。 つまり研究書と見るから重箱の隅をつつくような指摘が行われるのであって ユダヤ人から見た杉原像を書いた本と思えばBも含め興味深い著述といえる。
シンドラーの方が圧倒的に偉い ナチ党員のドイツ人がドイツ国内で救出するのとはリスクが違い過ぎる
165 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 18:27:52 ID:wiIrQZHt
シンドラーは自分の事業の中で関係しているユダヤ人を救った。 杉原は自分の業務内で関わったユダヤ人を救った。 比較すること自体ナンセンスだが、もし偉大さを比べるのなら 自らの命を賭けユダヤ人救出を積極的に行った ワレンバーグが圧倒的に偉いだろう。
166 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 20:45:15 ID:y/K0wtXh
ちうめって変わった名前だね
167 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 21:05:11 ID:HlNTCxav
168 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 21:31:58 ID:HlNTCxav
史実のシンドラーはシンドラーのリストを作らず、その頃には監獄に入っていた そうだ。杉原といい、シンドラーといい、ユダヤ人とからむと面白いことが起きるね。
169 :
日出づる処の名無し :2005/12/16(金) 21:49:33 ID:HlNTCxav
映画「シンドラーのリスト」ではイスラエルがシンドラーを顕彰したのは1958年としているが、 史実では映画「シンドラーのリスト」が公開された1993年にあわてて?顕彰。笑っちゃうねえ。
170 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 01:15:44 ID:h22xwqFM
ユダヤに騙されるやつ大杉
171 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 01:19:52 ID:jOAZDO/g
救ったユダヤ人が増殖してパレスチナ人を虐殺してるんだから世話無ねーなw
172 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 13:28:56 ID:/vg0yP/l
「命のビザ」によると杉原は41年冬ブカレスト勤務になる時、 公使になる予定が、戦争の関係で前の公使が残ったため その下のポストになったと書いてある。 ポーランド情報部との関係も急速に薄れているし、 閉職に追いやられたようにもみえる。
173 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 13:58:54 ID:/vg0yP/l
>>172 杉原と協力関係にあったポーランド情報部のヤクビアニェツ少佐こと
クバがベルリンで逮捕されたのが41年7月6日の夜。
この後 、ポーランド情報部の本部はドイツと日本の関係から
日本人と協力することを一部(Lのみ)を除き禁止する。
実際、ブカレストにも組織の連絡網があったが、杉原との接触は
記録上見当たらない。
つまり杉原の諜報活動はブカレストでは下火になっていた可能性が高い。
174 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 14:03:10 ID:/vg0yP/l
>>172 一方「L]のリビコフスキのみが44年まで
小野寺少佐と協力関係を維持する。
「L]は組織の中でも対ドイツ情報を主眼としており、
イギリスと通じていたが、小野寺とリビコフスキの関係は緊密で
イギリス側もそれを認めた上で活動していた。
つまりポーランド情報部に対する
日本側の窓口が杉原から小野寺にかわったといえる。
175 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 14:17:40 ID:/vg0yP/l
>>172 また、杉原の諜報網のなかで、「L]のクバ、ペシ以外の
もう一方の組織「ヤナギ」のフリンツェビィチ少尉は
40年12月17日ソ連官憲に逮捕されるが、脱出。
その後ストックホルムとの連絡が困難になり、
ヤナギの活動は低調になっていく。
つまりここでも杉原の諜報網の機能は低下していったのである。
176 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 14:28:59 ID:/vg0yP/l
一応、カウナス退去後のペシの活動を見ると 40年10月杉原とともにプラハに移り、そこでチェコ女性ムルカと ホテルで働いているマレクの協力をうけ、工場での軍需品生産状況、 ドイツ軍のユーゴスラビア国境への集結情報などを本部に連絡している。 41年3月杉原とケーニヒスブルグに移る際、途中のベルリンでクバと連絡。 新しい任務と情報員の指示を受けている。 つまりクバの逮捕までは盛んに活動しているのである。
177 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 14:45:15 ID:/vg0yP/l
もう一方のクバのカウナス退去後は ベルリンの満州国公館に雇われる形でサビナらと地下活動を行う。 一説ではリトアニアのマルティンクス少佐の妻アンナと親しくなり 夫の嫉妬により通報され逮捕されたと見られていたが、 マルティンクスが職務上気付き逮捕されたらしい。 45年5月収容所にて処刑される。
178 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 22:58:00 ID:y3KghbFd
もうひとつの昭和史 NHK外国放送受信部の人びと 香取俊介著 著者の香取氏はNHK報道局外国放送受信部に勤務。杉原千畝をよく知る タチヤーナ・野村からロシア語を習う。 NHKラジオドラマ「ユダヤ人を救った1500枚のビザ」構成を担当。 以下、「日本のシンドラー」と同行 から抜粋引用する。 余談になるが、駐在武官宅に軟禁されたときから、帰国までタチヤーナさん一家は、 元リトアニア代理領事の杉原千畝氏一家とずっといっしょだった。 (「六千人の命のビザ」に)タチヤーナさんのことも若干出てくるのだが、 タチヤーナさんの杉原氏に対する見方には、美談とは裏腹に、厳しいものがある。 タチヤーナさんは杉原氏のことを、 「わたしは、人間として許せない」 とポツリともらした。先行きどうなるかわからない収容所での暮らしや、困難を 極めた長旅で、共に苦難を味わい助け合いながら、日本にたどりついた仲間のはず なのに、タチヤーナさんの、杉原氏に対する評価には、世間のもてはやす「美談」 に、水をかけるような厳しいものがある。
179 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 22:59:27 ID:y3KghbFd
杉原千畝氏について、こう証言する人もいる。ジェトロ(日本貿易振興会)に勤務 していた某氏が、かつてモスクワで杉原千畝氏にあったとき、杉原氏は、 「ロシアとの貿易を成功させようとするなら、ユダヤ人をうまく使わなければ駄目です。 なんなら、紹介しましょうか」 といっていたという。当時、杉原氏はNHKを辞め、日ソ貿易を行っている商社に勤め モスクワに駐在していた。 さらにこういう噂もある。杉原氏やタチヤーナさん一家をはじめ日本の大使館、領事館 関係者がルーマニア軍の収容所に一年四ヶ月収容されていたとき、ソ連当局の取り調べが あったが、杉原氏はタチヤーナさんの主人の野村三郎氏など大使館関係者について、彼等 は日本帝国主義のスパイだと供述した。そして日本に帰国して、GHQに事情聴取された際 は、野村三郎氏たちのことを、彼らはソ連のスパイに関係している・・・といった意味の ことを供述したという。そのため、野村氏はGHQから、かなり執拗に事情聴取されたよう た。 「その噂は、否定しません」 とタチヤーナさんは、重い口を開いてポツリといった。 ぼくの接触した範囲では、残念ながら、杉原氏について、ほめたたえる関係者はほとんど いなかった。
180 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 23:14:54 ID:5UeaPowt
杉原がビザ発行していたそのとき、ユダヤ人に対する集団虐殺なんて世界に知られてたのか? ただ単に、人種隔離のために移送しているというような認識だろ。 後の知識に乗っかって、美化しすぎ。
181 :
日出づる処の名無し :2005/12/18(日) 23:37:08 ID:y3KghbFd
>>180 ナチスによるユダヤ人虐殺が始まったのが1942年。
杉原千畝がユダヤ人にビザを発行したは1940年。
182 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 05:38:44 ID:GGVUL1SR
>>178 野村武官補佐の妻、白系ロシア人のタチアナさんだね。
〈息子のジョニー野村はゴダイゴなどのプロデューサーとして知られている。)
ルーマニア大使館は当然だが親ナチスだったし、妻が白系ロシア人だと
いろいろ言われ、きつかっただろうね。
たしかに杉原は協調性がなかったみたいで、同僚の評判が良くない。
外務省退職後は外務省関係者とは没交渉である。
183 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 07:27:56 ID:ieNz7s/I
タチヤーナさんはルーマニア人だそうだ。白系ロシア人の父とモルだビア人の母の 間に生まれた。 タチヤーナさんがNHKで杉原に会うと、杉原は「こそこそと逃げるように」して できるだけ顔をあわせないようにしていたという。
184 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 07:42:46 ID:ieNz7s/I
同僚をスパイだと「密告」したのは、杉原こそ本当の「スパイ」だったから ソ連やGHQの尋問という極限の状況では仕方ない面もあったのかもしれないね。 吐かなければシベリア送りや戦犯にすると脅されたかもしれない。
185 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 09:08:22 ID:GGVUL1SR
>>179 タチヤーナさんの出生は
「命のビザ」を参考にしたのがいけなかった。反省。
>>184 杉原が「密告」したかどうか判断は難しいな。
こういう事情聴取の場合は「あの人はこう言っていた」とか話し
仲間同士で疑心暗鬼に陥らせるのが手段だからね。
186 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 10:34:44 ID:anoH4VLH
なかなか興味深いですね。杉原の裏面がみえてこないこともない。 諜報関係の仕事をしているということは 日本ではどうしても暗さがつきまとって理解されてしまう。 外務省のなかでは浮いていた存在なのかもしれない。 軍とのつながりがあるので、上からの指示を無視することができたのかもしれない。 しかし噂とか、その噂を信じている人とかの話は額面どおりに うけとるわけにもいかない。人に自白させるには一緒に取り調べられている あいつはこういっているとやるのが警察の手口。勿論、かましであることが よくある。 ナチスのユダヤ人迫害は次第に強まっていったのだし、1940年当時だって相当なものだった。 多数の貧民にまでビザを与えている。出発間際までだ。 これは少なくとも途中からは計算抜きにして彼らに同情していたのだと思われる。 多くの命を救ったわけだし、美談として扱えばよく、その他のことは それほど重要でもない。たいていの人はこう考えるだろう。そういうことだ。
187 :
日本人は認知症民族 :2005/12/19(月) 13:13:58 ID:drydJH1g
うるせえな バカ朕子 逝け! (うるせえな ばかちんこ いけ!)
>>180 も含めてなんか人種隔離が大したことない様な感じの書き込みがちょくちょくあるけど、
自分が今まで築いてきた財産を全て取り上げられ、見たこともない僻地に強制的に連れて行かれ
収容所に閉じ込められる。移動だってまともな客室じゃない、椅子もない貨物車の床の上で
何日もすし詰めにされる。こっちの体調なんかろくに考慮されない。
施設でだって正式には殺されないかもしれないが、そんなこっちの都合なんて全く考えない
連中に囲まれて安心して暮らせる? 実際暴行されたり殺されてる人いるわけでしょ。
やった人が処罰されてようが、それで殺された人が帰ってくるわけで無し。
そんなとこに連れて行かれるのがそんなに大したことない?
189 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 13:39:07 ID:HanLNwYV
杉原ビザ当時は一般ユダヤ人は収容所などに入れられていない
190 :
日本人は認知症民族 :2005/12/19(月) 13:42:52 ID:RcMAUfHs
うるせえな バカ朕子 逝け! (うるせえな ばかちんこ いけ!)
191 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 14:59:50 ID:0q66kSCP
じゃあ、シンドラーも一緒だな。美化されすぎウザス。 何が、バッジがもう一つあればもう一人の生命を救えただ。
192 :
日本人は認知症民族 :2005/12/19(月) 15:10:52 ID:1M3fqD/q
うるせえな バカ朕子 逝け! (うるせえな ばかちんこ いけ!)
193 :
日本人は認知症民族 :2005/12/19(月) 18:01:25 ID:ElI6vFJT
ああ うるせ エセども
194 :
日本人は認知症民族 :2005/12/19(月) 20:26:37 ID:DFqSWCI9
杉原万歳!ユダヤ人救出おめでとう! ありがとう (全世界ユダヤ連合友の会より エセへ)
195 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 20:56:50 ID:ieNz7s/I
>>182 検索してみたらジョニー野村は奈良橋陽子の元夫なんだね。
子供が二人いるようだ。
野村タチアーナさんは、同姓同名でなければ最近亡くなったばかりらしい。
196 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 21:13:34 ID:GGVUL1SR
杉原のユダヤ人救済の特徴は受身型であること。 つまりカウナスのあの時期だけユダヤ人救済に全力を注ぐのだが それ以降はプラハでビザを多少出した以外はユダヤ人を助けた形跡はない。 特に42年からのルーマニアではユダヤ人とロマ(ジプシー)が数十万人 殺されたはずなのだが、関わりはない。 「杉原は自分の業務内で関わったユダヤ人を救った。」
197 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 21:15:29 ID:GGVUL1SR
>>195 ジョニー野村の子供の一人が俳優の野村佑人だよ。
198 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 22:37:10 ID:GGVUL1SR
1966年にポーランドで刊行されたヴォイトキェーヴィチ著 「ティアガルテン」は版を重ね数十万部売れた。 一部フィクションを含むが、リビコフスキとクバ、小野寺武官、水野少佐の 密接な協力関係が描かれている。また、ポーランド情報部は外部との連絡に 女性を多く使っており、それをモデルとして、この作品の中でサビナという 女性が出ている。 しかしクバと一緒に逮捕されたサビナ・ワビンスカではなく架空の人物である。
199 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 22:52:20 ID:ieNz7s/I
>>188 まだ1940年当時は一般ユダヤ人はナチス占領下であっても、せいぜいゲットー
に集めて住まわされる(大半の地域でまだ外部との出入り可能)くらいだった
んだよ。ポーランドユダヤ人はナチスがポーランドの中にユダヤ自治区を
作ってくれることを期待していたという話もある。
200 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 23:19:49 ID:ieNz7s/I
俺がバルハフティクに注目するのは、バルハフティクの主張は1940年7月の 状況をうまく説明してくれるからなんだよ。 大半のユダヤ難民はリトアニアが安全だと考えていた(危険という意識がある ならリトアニア在住ユダヤ人も国外脱出しようとしたはずだがまったくその気配は ない)。 それなのになぜか日本領事館に並ぶユダヤ人たちが現れた。 この状況を最も合理的に説明するのは、バルハフティクらによるパレスチナ移民 扇動説なんだな。
201 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 23:22:17 ID:ZVHnP3eG
ホロコーストが否定されると、 イスラエル建国の大儀が揺らぐから、 あんまり、つっつくな。
202 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 23:28:40 ID:KxY00qcS
涙ほろほろホロコースト
203 :
日出づる処の名無し :2005/12/19(月) 23:28:41 ID:ieNz7s/I
なぜユダヤ人が史実でない「シンドラーのリスト」という映画を作ったか。 観客をシンドラーに感情移入させて「ユダヤ人に良くするのは善」という 意識を擦り込むためなんだろうね。
204 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 00:00:18 ID:GGVUL1SR
>>200 この件は徹底的に前スレでやって、たしか自分と君の間では
(他の方とは違っていたみたいだが)
「ピリニュスにいたポーランド系ユダヤ難民は、シオニストと宗教関係者が
多く他国への脱出を目的としていたので、ソ連籍になり、
国外脱出が不可能になることを恐れた」というところで
落ち着いたのでなかったっけ。
205 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 00:07:03 ID:015WJf9f
>>200 また「ポーランド系ユダヤ難民はピリニュスの難民キャンプに
いたわけだから、定住者のリトアニア系ユダヤ人とは
立場が違ったこと」も前スレでやったような記憶があるが。
207 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 00:26:19 ID:015WJf9f
>>200 思い出したよ。
バルハフティクはポーランド情報部のクバかペシからの情報で
日本領事館に並んだのではないかと自分は推測してたんだ。
ただ、裏づけがないので、そのままスレしなかったんだ。
それが
>>150 の推測につながるわけだ。
208 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 00:37:32 ID:015WJf9f
>>207 バルハフティクとクバ・ペシの接点については
・同時期にピリニュスからカウナスへの移動を行っていること
・どちらも連絡先がロンドンであること
という薄い状況証拠しかない。
209 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 00:54:27 ID:CN4+hpO+
ユダヤ人に関しては、 人種ではなく、文化によって民族が決まる、 という実証的存在として、多いに賞賛するところなのだが、 ・・・共存に関しては、 排他的というか、なんというか、 ちょっと気になる点がないでもない。 とりあえず、 ホロコーストがあったにせよ、なかったにせよ、 国家、イスラエルを持つことに反対してるわけじゃないんで、 共存、ということについて、もう少し配慮をしてくれると、 日本人として応援しやすい・・・。 最近は、なんか、良い傾向が見えるので、 ちょっと嬉しい。
210 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 00:55:54 ID:CN4+hpO+
・・・まあ、難しいけどね。 理想と現実は、 両立が得がたい。
>>206 その本の著者だけど、バリバリのイスラエル至上主義(シオニスト)なのが気になるんだよな…
なんで日ユ同祖論者ってクリスチャンが多いんだろう?
212 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 01:03:07 ID:CN4+hpO+
ユダヤ人が聖地を支配するときに、 最後の審判だか、神の裁定があるって、 伝統的なヤソ教徒のなかで伝えられてるからでしょう。 つか、本気で宗教的な根拠から、 聖地をユダヤ人に占領させたがってるアメリカ人は、 存在する。
213 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 06:26:26 ID:015WJf9f
214 :
日本人は認知症民族 :2005/12/20(火) 13:10:35 ID:kIW835fc
どうも 私は 全世界エセ日本人モドキをたぶらかそうユダヤ友の会 のメンバーの者です たしかにエセ日本人モドキはユダヤ族の一員であり エセ国を倒すために日夜陰謀をはりめぐらせておりますが 我々の真の目的は教えられません 悪しからず ついしん お体の具合はどうですか?こたえませんか? 病院煎っても無駄なので休みを有効に利用してくだs
215 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 19:02:09 ID:HjdKnPNc
なんか変なのが紛れ込んでるな。 ユダヤ人の優れた部分は認め、叩くべきは叩く、それが当然のこと。 ちなみに水晶の夜ってのは、日本で似たものを探せば関東大震災の朝鮮人虐殺に似ている。 民衆の不安や不満が高まって少数民族に当たる。関東大震災の朝鮮人虐殺は、少なく見積 もっても約200人が犠牲になったそうだが、水晶の夜のユダヤ人犠牲者は100人以下。
216 :
日本人は認知症民族 :2005/12/20(火) 20:23:37 ID:PCjAdFvM
ユダヤ人の 優れた部分は認め られ叩くべきは叩くと おっしゃられましたが自分た ちは全然叩く部分がないとおっしゃ ておられるように拝見できるのですがそ れとも私の見方が間違っているんでしょうか あなたがたは全く過ちがないと思い込んでおられ るのですか 返答全く期待せず
217 :
日出づる処の名無し :2005/12/20(火) 22:29:25 ID:HjdKnPNc
>>216 だからここでユダヤ人に誉め殺されて杉原千畝の評価を誤ってる日本人を
叩いてるじゃん。
218 :
日出づる処の名無し :2005/12/23(金) 12:26:29 ID:xtQlrE/B
杉原の諜報活動 まとめ@ 39年独ソ不可侵条約の締結からドイツに強い不信感を抱いた参謀本部は 独ソ双方に関する情報の収集に適した場所として苦肉の策として バルト海沿岸に公館をおき情報収集を行うことにする。 そこで抜擢されたのが杉原であった。杉原はソ連通であるとともに 情報収集力に長けていることが高く評価されていた。
219 :
日出づる処の名無し :2005/12/23(金) 12:46:31 ID:xtQlrE/B
杉原の諜報活動 まとめA 一方、ソ連情報を巡る日本・ポーランド間の協力関係は非公式には 日露戦争前後から続く実績があったが、またポーランドがドイツの隅々まで 張り巡らした諜報網は日本にとって魅力であった。 カウナス着任後、杉原は国土を独ソに分割され政府は国外亡命中であった ポーランドの情報部と3つのルートを確立する。 @カウナス地区 ZWZ(ポーランド武装闘争同盟) Aミトキェーヴィチ大佐の情報網「ヤナギ」 Bリビコフスキー大佐指揮の組織「L」 この日本との協力によりポーランド諜報員は日本や満州国のパスポートを入手、 行動の自由を得るとともに、日本公館に通訳などの名目で雇ってもらい、 安全を確保した。そして、リトアニア経由でベルリン、モスクワ、東京を 往復していた日本の外交クーリエを利用して、ポーランド国内やロンドン亡命政府と 連絡をとることが可能となった。
220 :
日出づる処の名無し :2005/12/23(金) 12:58:32 ID:xtQlrE/B
杉原の諜報活動 まとめB 杉原がカウナス退去後、この杉原とポーランドとの関係はプラハ, ケーニヒスブルグと引き続き維持される。 しかし、41年7月、杉原の協力者がベルリンで逮捕されたこと、 また日本ドイツの関係が緊密度を増すに及び、ポーランド情報部は 日本との関係に慎重となる。 さらに杉原自身もドイツから国外退去同様の勧告を受ける。 その結果中立国のスウェーデンでの小野寺武官ーリビコフスキ大佐の 協力関係がその後の日ポ関係の中心となっていた。
221 :
日出づる処の名無し :2005/12/25(日) 21:18:28 ID:mTF81fAg
リトアニア在住ユダヤ人も富裕層は逃げたんだね。 戦後、ソ連の手先になり、リトアニア人を弾圧したユダヤ人は 農民層や貧民相が中心だったとのこと。
222 :
日出づる処の名無し :2005/12/25(日) 22:18:46 ID:ncAeQ+rj
223 :
日出づる処の名無し :2005/12/26(月) 06:25:13 ID:t45GxDq3
>>221 ソースはここです
リトアニア 小国はいかに生き抜いたか 畑中幸子/著 日本放送出版
224 :
日出づる処の名無し :2005/12/26(月) 07:39:10 ID:kvORks9u
>>223 サンキュー。
戦後はユダヤ人がリトアニア人を弾圧していたのか。諸行無常だね。
225 :
日出づる処の名無し :2005/12/27(火) 23:28:05 ID:hndBD1Vb
>>221 間違えてた 戦後→ソ連併合時
1946年ホロコーストからの生存者はリトアニアで1385人。
1930年代、リトアニアの都市部の人々は反ユダヤが多く
出版物などの内容はナチスと有る意味いい勝負だった。
迫害も多く行われたが、農村部の人はそれほどでもなかった。
ソ連占領時、ユダヤ人の多くがソ連の手先となり、弾圧する側に廻ったが、
30年代のユダヤ人迫害から守ってくれた農民を救った話も伝わっている。
226 :
日出づる処の名無し :2005/12/28(水) 20:42:11 ID:8mwMVX6C
>>225 ということは、杉原千畝がユダヤ難民にビザを与えた直後に、
一部のユダヤ人がリトアニア人を迫害していたってわけか。
227 :
日出づる処の名無し :2005/12/28(水) 22:17:28 ID:al8bPIl0
1941年6月22日独ソ戦の戦場になったリトアニアから ユダヤ人はベラルーシやロシア内陸部へ逃れる時間があった。 しかしリトアニア人の中にはユダヤ人の虐殺を始めたものもいた。 ナチス占領下ではリトアニア人の協力でドイツ軍はユダヤ人を ゲットーから大きな町に移し、組織的に虐殺が行われた。 ここにリトアニアのユダヤ人社会は消滅する。
228 :
日出づる処の名無し :2005/12/28(水) 22:49:07 ID:8mwMVX6C
ソ連リトアニア併合以前→リトアニア人がユダヤ人迫害 ソ連リトアニア併合後→ユダヤ人がリトアニア人迫害 ドイツのリトアニア侵攻後→リトアニア人が再びユダヤ人迫害 なわけだ。
229 :
自称日本人という土人を日本に帰そう :2005/12/29(木) 00:02:13 ID:53a8jbnF
めりいくりすます めりいくりす ますみす たあ バカちんこめりいくりすますめりいく りすますみすたぁバカちんこねく すといやぁ
230 :
日出づる処の名無し :2005/12/29(木) 00:09:02 ID:HjZYyOcn
>>228 しかしこの法則から行くと必然的に
ナチスドイツの敗北後→ユダヤ人がリトアニア人迫害
になるはずだが。
231 :
日出づる処の名無し :2005/12/29(木) 11:42:04 ID:rsXbxP/f
>>230 >>225 に書いたようにユダヤ人はほとんど生き残らなかった。
戦後リトアニアのユダヤ人社会は消滅したのである。
232 :
日出づる処の名無し :2005/12/29(木) 11:55:25 ID:rsXbxP/f
歴史から考えると民族問題の最終解決法は 絶滅政策になるんだね。 近代では人道上、倫理上、許されないことだが。
233 :
日出づる処の名無し :2005/12/30(金) 00:16:30 ID:lVl/937+
しかし世間の杉原マンセーな一般人は、杉原がユダヤ難民にビザを与えた後に 同じリトアニアユダヤ人がリトアニア人を迫害していたと知ったらどう思うのかね?
234 :
日出づる処の名無し :2005/12/30(金) 00:41:56 ID:2dCG0NdF
>>233 差別するわけではないが、ソ連の手先となり、
リトアニア人を弾圧する側に廻ったユダヤ人は
リトアニアの貧民層や農民。
杉原がビザを発行したユダヤ人はポーランドからの難民が中心で、
シオニスト・宗教関係者・富裕者などの知識階級だった。
235 :
日出づる処の名無し :2005/12/31(土) 15:25:37 ID:yZlo8DyC
杉原が ビザを出した当時、 日本国内の海外指揮系統は参謀本部、外務省に分かれており、 その中でも各勢力が入り混じっていたので 杉原ビザ出来レース説は、日本国の意志という主張は難しいね。 参謀本部か外務省の一部が支持していたというような仮説が 妥当な展開方法になるのかな。
236 :
日出づる処の名無し :2005/12/31(土) 23:07:14 ID:icZhsdN+
>>9 >ユダヤ人難民に対する犬塚大佐の態度は問題であった。(略)われわれと
>の話し合いで、犬塚大佐は、リトアニアと神戸双方の難民に関するわれわれ
>の要請を拒否した。
や
>>120 >ユダヤ系の金融資本が相当量満州に投資されるなら、この二万人は満州国内に
>安住することがで きる。もしそれに応じなければ、彼らは満州からも放逐される。
>これが安江の計算
の通り、安江や犬塚のユダヤ人への対応は「ユダヤ陰謀論」を信じた上での
ユダヤ人利用だったのは明らか。
仮に彼らがユダヤ人に便宜を図ったとしても現在の価値観からはまったく評価できるもの
ではない。
237 :
れいぎをあいするみんぞくより :2005/12/31(土) 23:56:50 ID:sPwRdif+
あ けまし ておめでと うございますら
238 :
日出づる処の名無し :2006/01/02(月) 18:48:12 ID:QGmrT1/Z
杉原のビザで日本に来たユダヤ人への対応が良かったのは 結局以下のような背景があったと考える。 ユダヤ人は日本人にとって『ユダヤ人』なのではなく単に外国人なのだった。 日本は自分がユダヤ人と出会うまで、 この民族が世界各国にとって問題をもつ存在であることを無視していた。 ドイツと同盟を結んだ後でもそれは変わらなかった。 『想像上の』ユダヤ人と『現実の』ユダヤ人には決定的な相違があった。 ユダヤ人は日本人でなく、西洋の異人であり、所詮外国人だったのだ. ハインツ・E・マウル著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』
239 :
日出づる処の名無し :2006/01/03(火) 00:46:33 ID:e+v+K4An
で、結局杉原を「偉人」と持ち上げ出したのは誰なんだ?
240 :
日出づる処の名無し :2006/01/03(火) 18:38:13 ID:nj6idbt2
偉人になるためには二つの要素が必要と考える。 ひとつは歴史の流れに乗ること、もうひとつは優秀な紹介者がいること。 たとえば坂本竜馬は明治維新と司馬遼太郎がなければ、存在しないだろう。 上杉鷹山は会津藩の逼迫とケネディが言及しなければ 偉人とは持ち上げられなかっただろう。 杉原が偉人になったのはビザ発行後、ホロコーストが行われたこと、 イスラエルが積極的にユダヤ人救出者を紹介し、 マスコミも取り上げたためだろう。
241 :
日出づる処の名無し :2006/01/03(火) 18:45:24 ID:nj6idbt2
>>240 続き
また、マスコミが積極的に取り上げたのも、
戦争前後に良い話があったという
戦争に対する贖罪感を融和するような一種の心地よさが
理由と思う。
242 :
日出づる処の名無し :2006/01/03(火) 19:23:05 ID:zBp5IDPs
>206 こないだ、ユダヤ人に「Lost Ten Tribesなんてあるの?」って訊いたら、 ホントに、「ああ、Missing Ten Tribesのことだろ?ユダヤ教典に載ってるよ。」 って云ってたから、ホントにあるんだね。 ちなみにイスラエル人には、日本人とよく似た名前結構あるよね。 漏れは生粋の日本人だが姓が同じのものがあっちにもあって、顔もあっち系らしく、 イスラエルへ行ったとき、空港の入管や警備の連中も親しげに扱ってくれたぞ。
243 :
日出づる処の名無し :2006/01/03(火) 19:29:30 ID:e+v+K4An
>>240 杉原千畝が有名になったのは
杉原がまったく予想しないホロコーストが起きたからというのは
皮肉だね。
244 :
日出づる処の名無し :2006/01/03(火) 22:41:55 ID:nj6idbt2
245 :
日出づる処の名無し :2006/01/03(火) 23:48:24 ID:e+v+K4An
杉原千畝が日本人に知られるようになったのはこのあたりからみたいだね。
http://www.ex.biwa.ne.jp/~otsu-ch/pnyuma-2bc.htm 本省の通達に反してまで、大きな決断でユダヤ人6,000人の命を救った杉原
の人道的行為を、罰するような形で退職 を勧告した外務省の官僚機構と、その
事柄の重要性について気付かず、何の認識も批判も示さない日本国民に対して、
鋭く 警告を発したのは、ドイツ人のジャーナリストであるゲルハルト・ダンプマン
(Gerhard Dambmann)であった。彼は日本を 去るにあたって <25mal Japan,
1979.R.Piper& Co.Verlag Muchen.>『孤立する大国ニッポン』塚本哲也訳、
TBSブリタニカ 1981年」を出版して、日本の外務省の在り方を次の如く
厳しく糾弾した。
「日本の外交関係を展望する場合、日本人の世界像のなかに空白部分があるこ
とは見逃せない。」「杉原が4,000人 のポーランド系ユダヤ人の生命を救った
ことは、1947年においても日本の外務省を感動させなかったのである。」
「杉原 は高齢になってもなお、自分の行為がやはり間違っていたのではなかろうか、
と何度となく自虐的な自問自答を繰り返した。 当時ベルリンの大使館でナチの気に
入られようと努力していた同僚たちが、戦後の日本において高官に出世していくのを、
手をこまねいてみていなければならなかったからなおさらである。杉原が当時命を救い、
後年、宗教相やテルアビブ市の 副知事になった数人のあのユダヤ人から招待され、
一度イスラエルを訪問したとき、イスラエルの日本大使館は彼の滞在を無視した。
アメリカの占領下にあった戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せ
ずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか
(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家 は彼の運命をドラマにし
ないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい。」(注2)
日本の国民は、1ジャーナリストであるドイツ人の本を媒介にして初めて、そして
僅かではあるが、杉原千畝の行為について知ったのである。それが日本人の中に一般的
に知られるようになるまで、更にこの本の出版から10年を要した。
246 :
日出づる処の名無し :2006/01/04(水) 06:27:58 ID:gkvnSo5A
>>245 ちょっと趣旨は、ずれてしまうが、
杉原ビザを語るときに外務省には常に憤りを感じる。
外務省本省と杉原との共謀はどう考えてもありえず、
ユダヤ人に対する親切な対応も現場レベルでしかないのに
積極的な否定は行わず、その態度には姑息さえ感じる。
そして戦後社会に出ようとしなかった軍人や政治家の多くと比べ
キャリア達は誰も戦争責任をとらず、
ナチスとの協力体制を強く推し進めた外交官達が大手を振って戦後活躍している。
247 :
日出づる処の名無し :2006/01/04(水) 20:02:03 ID:wOZSATYR
>>246 栗栖三郎の息子(アメリカ人妻とのハーフ)は日本軍人として戦死してるね。
実際は事故死だけど。
ダンプマンはZDFの記者でその後大学教師になったようだが
どこで杉原の話を聞いたのかよくわからん。
しかしドイツ人が杉原偉人説の始まりってのはなんか怪しい気がするな。
248 :
日出づる処の名無し :2006/01/06(金) 23:55:08 ID:780uNI+K
Age
249 :
日出づる処の名無し :2006/01/08(日) 19:08:07 ID:2JvF+fJj
史実が日を見る時が来るのか?
250 :
日出づる処の名無し :2006/01/09(月) 10:53:12 ID:gAwUNjZy
前スレにも書いたが、間違った前提で杉原千畝のビザ発給について議論している連中が 多数いるから面白い。 ・杉原千畝は日本政府の反対を押し切りナチスの迫害を恐れるユダヤ難民を助けた ・杉原千畝は日本政府とともにナチスの迫害を恐れるユダヤ難民を助けた というのはどちらも間違いで、あえて言えば ・杉原千畝は特別な事情でリトアニア出国を希望する一部のユダヤ難民に 特別な事情でビザを発給した とでも言うしかないだろう。
251 :
日出づる処の名無し :2006/01/10(火) 02:20:04 ID:kWL6D5Az
>>250 もうこのネタは何度もやったから食いつく人もいないね
252 :
日出づる処の名無し :2006/01/10(火) 14:45:21 ID:7v7PoydT
>>251 別に食いついてもらう必要もないね。
事実を事実として認知できればそれで十分。
253 :
日出づる処の名無し :2006/01/14(土) 23:32:14 ID:F2MknbrK
age
254 :
日出づる処の名無し :
2006/01/23(月) 00:21:30 ID:0YCx8hZ+ さらしあげ