そして話を巻き戻します。
1368年に朱元璋が明朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣します。
使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子征西将軍宮懐良親王が活動されており、
使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明朝から冊封を受け、「日本国王」となられます。
足利義満は南北朝合一の後、九州を制覇した時に、やはり皇族の地位侵し難く、
明への国書に「日本国王大臣源」と臣の字を記しています。明は義満を日本国王に封じます。
この結果、日本の最高執行機関は明の冊封下にあることになってしまいました。
そしてこの地位は代々の足利将軍が家職として継承してしまうのです。
1582年、武田滅亡の天目山の戦に勝利した信長は、将軍宣下を近衛前久から仄めかされています。
さて、信長は将軍宣下とともに日本国王の地位を継承し、朝貢貿易を行うのか、
毛利制圧後、毛利の持つ勘合符を用いて日明貿易を行うのか。
こんな宣教師の関心に対し、信長の出した回答は明への出兵だったという訳です。
まだ続きます。