〓〓外国人参政権3〓〓

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12船虫Jr ◆.Tg2yBtH66
論点は

>>661 名前: 435
>本質:〔哲〕〔(ラテン) essentia; (ドイツ) Wesen 事物にたまたま付帯する性格に対して、事物の存在にかかわるもの
>>(1)歴史的変遷は民主主義の本質ではない。
>>(2)今回、民主主義国家の現実(歴史)は変遷するだろう。
>(1)の意は「歴史的変遷は民主主義の存在にかかわらないものだ。」
>(2)は、歴史的変遷が民主主義の存在にかかわるものであることを説明している文である。
>
>上記の2つの文章が矛盾していないという蛆虫氏の見解は正直、度を越している。

これだ。
アホには、これが自明のものだと見えるらしい。
13船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :2005/06/24(金) 18:35:02 ID:ctBl5++/
アホどもが分かってないのはまず「否定」ということの意味。

>本質:〔哲〕〔(ラテン) essentia; (ドイツ) Wesen 事物にたまたま付帯する性格に対して、事物の存在にかかわるもの
>>(1)歴史的変遷は民主主義の本質ではない。
>(1)の意は「歴史的変遷は民主主義の存在にかかわらないものだ。」

否定とは通常、何らかの概念について、その定義を明示したうえで、それを否定するもの。
ここで「定義」とは、その概念が成り立つために必要なものを示したものだ。
例えば、「父」の定義は「何者かの親であり、かつ、男である(『親』かつ『男」)」となる。
では、「父」を否定するにはどうしたら良いか?
「『親』かつ『男」」が必須の要素なのだから、「親」を否定するか、「男」を否定するかすればいい。
親と男の“両方を”否定する必要はない。
「Aは父である」に対して、「Aは親ではない」という事実を指摘すれば、「Aは父である」は否定される。
親でない「A」は単なる男だ。父とは呼べない。
(ただ、比喩としての「父」は「生物学的な子供を持っている」という限定された用法ではないので、
「子がいない」によって、「親ではない」を言うことはできない)。
また、「Aは父である」に対して、「Aは男ではない」という事実を指摘すれば、「Aは父である」は否定される。
男でない「A」は単なる親だ(おそらく母だろう)。父とは呼べない。
このような「否定の意味」は、猿にでも分かりそうなものだが、
どういうわけかここにいるアホどもには理解できないようだ。
14船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :2005/06/24(金) 18:35:22 ID:ctBl5++/
で、問題の「本質」に関してだ。
アホはこの定義として、「事物にたまたま付帯する性格に対して、事物の存在にかかわるもの 」と言っている。
「本質」に関して、「父」とのよな単純な事例とは違い、多少、アホを混乱させる事情があるかもしれない。
これは少々同情の余地がある(まあ、無理して「本質」などという言葉を使ったアホの自業自得だが)。

混乱要素の第一は、定義の中にある「存在」という言葉だ。
「人間の本質は○○だ」
と言う場合、○○は、空気とか栄養分とか文字通り「それらの存在にかかわるもの」に限るわけじゃない。
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLD,GGLD:2005-15,GGLD:ja&q=%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E3%81%AF
明らかにこの「存在」は特殊な意味合いを持っている。
それは、「本質」という言葉が使われた歴史的文脈を見れば明らかで、「本質」という言葉は
「プラトン→実存主義」の流れの中でひどく奇妙な意味が付加されてきている。
が、この議論では、そのが何であるかは問題にしない。
ここでは本質の定義が「それらの存在にかかわるもの」だけでは不十分であることが示されればいい。
空気とか栄養分とかが人間の「存在にかかわるもの」であるとしても、
これらを人間の本質とするのは不適切なわけだ。
15船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :2005/06/24(金) 18:35:54 ID:ctBl5++/
混乱要素の第二は、本質の定義は、「定義が二重になるかのようになる」こと。
本質のラテン語がessentiaで、英語ではessenceになることから分かるように、本質には、
「それであるために必須」という含意がある。これは、アホの定義文、
「事物にたまたま付帯する性格に対して、事物の存在にかかわるもの 」
を見ても自明だろう。たまたま付加した性質でないというのだから、
「それであるなら、いつでも付加している」ということだ。
このような本質の意味は、定義の意味と重なっている。
実際、「優れた定義というのはその本質を明示したものである」としばしば言われている。
だから、本質の定義=「物事の定義になりえ、また、△△であるもの」といように、
「定義」が二重に使われるかのようになる。

とはいえ、オレがここで必要なのは「本質は定義を含意する」ということではない。
これはどうでもいい。オレが必要なのは、この議論で出てきた些末で当たり前の結論。
すなわち、
本質には、「それであるなら、いつでも付加している」という意味が含まれる。
ということ。
つまり、
本質:「それであるなら、いつでも付加している」かつ「□□(存在とか、中心的とか)」
となるということだ。
16船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :2005/06/24(金) 18:36:16 ID:ctBl5++/
で、なぜ、オレが「それであるなら、いつでも付加している」しか必要としてないのか?
それは自明で、オレは本質が何であるかを定式化したいのではなく、ただ、
「本質である」ということを否定したいだけだからだ。
オレの目的はあくまで

>>(1)歴史的変遷は民主主義の本質ではない。
>>(2)今回、民主主義国家の現実(歴史)は変遷するだろう。

が矛盾してないことを示すというもの。
このためには、「本質ではない」という否定の意味を明らかにすればいいだけであって、
「○○が本質である」などということは不要。
まあ、アホのために、いちいちクドクドやってるわけだが、この否定の意味ってのは
上で既に述べた。定義が
:「それであるなら、いつでも付加している」かつ「□□(存在とか、中心的とか)」
となってるのなら、これらのどちらかを否定すればいいのであって、両方を否定する必要はない。
つまり、
>>(1)歴史的変遷は民主主義の本質ではない。
を否定するなら、
「民主主義であるなら、いつでも歴史的変遷が伴っている」
を否定すれば十分。
17船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :2005/06/24(金) 18:39:00 ID:ctBl5++/
「民主主義であるなら、いつでも歴史的変遷が伴っている」
の否定は、
「民主主義であっても、いつでも歴史的変遷が伴っているわけではない」
である。当たり前だが、別に、
「民主主義であるなら、いつでも歴史的変遷しない」
と、いつでも変化しないなどと言う必要はない。
「ウナギが騒げば地震が起きる」
という妄言は、
「ウナギが騒げば必ず地震が起きる」
であり、
「地震ならば、いつでもウナギの騒ぎを伴っている」
と同じ。
これの否定は、
「たまたま、ウナギが騒いだ後に地震が起きるかもしれんが、いつもそうであるとは限らない」
で十分なわけ。
「地震の前に、ウナギが騒ぐことは決してない」
などと言う必要がない。
#全称命題の否定は、単称命題で十分であって、全称命題である必要はない。

だいたい、
「地震の前に、ウナギが騒ぐことは決してない」
なんて無茶なことを言わなければ、
「ウナギが騒げば必ず地震が起きる」
という妄言を拒絶することができないのなら、
誰もがアホアホ予言者でいなければならないわけだ。
もう、無茶苦茶自明だが?
18船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :2005/06/24(金) 18:40:10 ID:ctBl5++/
ところが、この自明の道理が理解できないアホがいる。
そのアホは、

>>(1)歴史的変遷は民主主義の本質ではない。
>>(2)今回、民主主義国家の現実(歴史)は変遷するだろう。

が矛盾すると言い張る。
1)は「民主主義であるなら、いつでも歴史的変遷が伴っている」の否定であり、
「民主主義であっても、いつでも歴史的変遷が伴っているわけではない」と
「いつでも(全て)」を否定しているものである。

「たまたま、ウナギが騒いだ後に地震が起きるかもしれんが、いつもそうであるとは限らない」

というアホアホ予言の否定と同様に、

「たまたま、変遷することがあるかもしれないが、いつも変遷するとは限らない」

は、「民主主義であるなら、いつでも歴史的変遷が伴っている」の否定になる。
さらに、

「いつも変遷しているかもしれんが、常にそうであるとは限らない」

でもいい。要は、「全て(普遍性)」を否定してるなら、
「本質である」の否定になるわけ。
そのような文である(1)が、

(2)今回、民主主義国家の現実(歴史)は変遷するだろう。

と矛盾してるってのはいったい何だ?
19船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :2005/06/24(金) 18:40:31 ID:ctBl5++/
「今回、日本の現実は変遷するだろう(外国人参政権は実現するだろう。
しかし、いつもそうなるとは限らない。変遷は民主主義の本質ではない」

これが矛盾した文章なら、

「今回、日本のサッカーチームはブラジルに勝つであろう。
しかし、いつもそうなるとは限らない。勝利は日本サッカーの本質ではない」

とか、

「今回、地震の前にウナギが騒いだが、
しかし、いつもそうなるとは限らない。ウナギの騒ぎは地震の本質ではない」

とか。これらも矛盾することになる。
こんなのただ単に、逆説的な文章であるに過ぎない。
むしろ、「本質ではなく、『たまたま(偶然)』のものである」ということを言うなら、
片方を強調して妙な誤解(いつも負けると言ってるなどという誤解)を招くより、
どちらも有り得るということをいった方が適切。
いったい、このような文章のどこに「矛盾だ!」などと言われて
非難される要素があると言うのだ?
これがダメだったら、偶然を含意した発言など出来なくなる。

なんか「1と1を足すと2になるのはおかしい」って騒いでるのは、>>2や、
「蛆虫の無知を笑う会」や 435 だな(笑い。
こんなものを矛盾とか言い出すのは、道理のなさは、
ひょっとして、日本民族の本質?(プ。