【文化】ジャポニスム第二十五面【世界の中の日本】

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106日出づる処の名無し
コピペ

では、武士が切腹していたのはいつからか?戦国時代か?
切腹の歴史はもっと古い。はじめての記録では源平の時代からだ。
南北朝時代になり、武士の作法として確立されます。
江戸時代では盛んに切腹作法が行われた。
日本人の切腹が外国にはじめて伝えられたのは、1868年、慶応4年。
妙国寺で土佐藩士の箕浦猪之吉が腹を切った時だ。
上陸したフランス軍艦ジェプレー号の乗員と紛議を起こして、
これを殺傷した堺事件の責任を負い、堺妙国寺において、
内外の検使立合いのもと切腹した。
その時、手で腹の内臓を手で掴んで引っ張り出し、検使立合いの
フランス公使レオン・ロッシュに向かって投げつけた。
検使立会いの他のフランス人が数人、気を失うほど凄惨な光景だった。
なぜ、土佐藩士の箕浦猪之吉は自分の内臓を投げつけたか?
それは、フランスの軍艦デュプレークス号が堺に入港、
そして堺の町を見学の20人ぐらいがボートで上陸してきた。
フランス兵は寺や神社などを見学しながらも、
女性を追いかけるなどイタズラな行動をはじめたので、驚いた町民達が通報、
駆けつけた指揮官の箕浦猪之吉ら土佐藩兵は、
身振り手振りでフランス兵を説得して退去させようとしたが、
反対に土佐兵をからかう行為に及んだため、捕縛しようとした。
その時一人のフランス兵が冗談のつもりか、土佐藩の隊旗を奪って逃走。
藩兵は追い着き殴りつけて旗を取り返したが、
それを見ていたフランス兵がボートから銃を発砲しはじめたので、
土佐藩兵も負けじと応戦した。その銃撃戦でフランス兵11名が死亡した。
フランス公使ロッシュは指揮官箕浦猪之吉らと殺害関与者全員の処刑を要求し、
明治政府は受け入れて、指揮官だった箕浦猪之吉を切腹させたのだ。
箕浦猪之吉にとって納得いく切腹ではなかったのだ。
それで、自分の内臓をフランス公使ロッシュに向けて、投げつけたようだ。