『不思議な縁、再び日本球界』
ボビー・バレンタイン 日経新聞 2004年2月18日
9年前にロッテの監督を辞任した時、私は再びこの日本に帰ってくることを確信していた。
留任を求める数千人のファンの著名が寄せられたからだが、それだけではない。
日本という国、日本人という人々と私は不思議な縁で結ばれていると、強く感じていたからだ。
1970年9月、私はハワイにいた。
ドジャーズ傘下の3Aマイナーリーグ、スポケイン・インディアンスのプレーオフ最終戦。
1回表、打席に入った私の左頬をプレーボールの初球が直撃した。
私はホームプレートの上に倒れ込んだ。トレーナーが私を抱えようとしたが
20歳の私は若く「タフガイ」であることを印象づけたいという見栄もあった。
センターの奥にあるクラブハウスまで自分で歩いていった。
途中、見知らぬ東洋人男性が一緒に歩き出した。私の顔を心配そうにのぞき込んでくる。
思ったより重傷で頬骨が砕かれて3センチも下に下がっており、緊急手術が必要だったという。
その男性も一緒に救急車に乗り込んだ。救急病棟で全身麻酔を受け、私は意識を失った。
目が覚めると、頭を包帯でグルグル巻きにされていた。手術は大成功。
医師や看護士の話によると、付き添ってくれたのは日本人で、整形外科の医師だという。
わざわざハワイまでマイナーリーグのゲームを観戦にくるほどのドジャーズのファン。
その人が執刀してくれたと聞いて驚いた。医師達は頬を切開して骨片を直接除去しようとしたが、
日本人医師は私の頭に小さな穴をあけ、そこから特殊な器具を皮膚の下に指し込んで、
砕かれた骨をフックの様に引っ掛けて引っ張り上げ固定した。
更に目の近くをわずかに切って周りに散らばっていた骨のかけらを一つ残らず取り除いた。
32針縫ったが縫い後は全く残っていない。
その「神業」に感服、お礼を言おうと思ったが、名前も告げずに私の昏睡中に黙って立ち去ったという。
その後、手を尽くして探したが、四半世紀たって亡くなっていたことが分かった。
残念だが感謝の気持ちは今でも変わらない。
(つづき)
中略
メジャーで活躍するようになってからも、日本との縁は続いた。
77年私は米国市場に参入したミズノのグラブを使った最初の大リーガーとなった。
同社に招かれて81年野球教室の指導のために初来日した。
86年には東京のUSジャパン野球サミットで野球の発展について活発な討議もした。
こうしたことが積み重なっていつか日本のプロ野球の指導者になることを夢見た。
中略
異文化は互いに学び合える。メジャーは選手のストライキによってほとんどのファンを失いかけた。
野球も文化である以上、日本球界はこの愚を繰り返さないで欲しい。
95年に1年でロッテを去った理由もここにある。
当時の広岡達朗ゼネラルマネージャーは「選手は試合に勝つことだけ考えればいい」という発想の持ち主だった。
野球への情熱を持つ広岡氏との仕事は私の人生で最も有益な経験の一つだ。
だが「ファンとの触れ合い」を訴える私の思いは受け入れられなかった。
ロッテは今期試合前にグランドで子供ファンが選手と直接交流できる様な企画を始める。
他球団も是非試みて欲しい。そして日本のプロ野球をもっと盛り上げようではないか。
(Bobby Valentine=千葉ロッテマリーンズ監督)
・・・ロッテの監督って、こんな監督さんだったんだな。これからはロッテも応援します。