http://www.amari-akira.com/page11.htm 8月に、ASEAN5カ国、9月にフランス・イギリスを訪問してきました。
ASEANは、山崎幹事長一行の副団長として行って参りました。
時あたかも、教科書問題や総理の靖国参拝で大揺れに揺れていた折りであり、
マスコミは「お詫び行脚」とか「土下座外交」とか、揶揄しておりましたが、
実態は「(総理に)土下座させない外交」でありました。
中国と韓国が過剰とも思える反応をし、それがあたかもアジア全体の声であ
るかのようなマスコミ報道をされましたが、冷静な外交筋ではアジアには温
度差があり、必ずしも中国・韓国と同列ではない、という事が常識でありま
したが、マスコミが意図的な報道をし、その結果バイアスのかかった外交が
行なわれては国益を損するという判断が山崎幹事長にはありました。
案の定ASEAN各国はシンガポールを除いて靖国問題や教科書問題には、なんら
関心がない、と言う反応でした。驚いた事にインドネシアの次期大統領候補
の一人と云われる、スシロ・バンバン・ユドヨノ調整担当大臣は「戦時中、
日本にはインドネシアの独立を助けてもらった。その事に感謝している。」と
いう、こちらが面食らうような公式発言がありました。同行記者団にブリー
フィングをした際、カルチャーショックで「配信出来ない。」という反応す
らありました。
>>559 シンガポールは国民の9割が中国系であり、リー・シェンロン副首相からは
「中国との関係には十分配慮してほしい。」という注文がつきました。その
シンガポールですら、歴史博物館の太平洋戦争の展示パネルには『資源を求
めて南下する日本は欧米の包囲網にあい、降伏か戦争かの選択を迫られた。』
という表示があった事に驚かされました。
もとより我が国は平和を希求する国であり、第二次世界大戦時の侵略行為は
反省をしなければなりません。しかし同時にヒステリックな声に惑わされるこ
となく冷静な外交を展開しなければなりません。
日本からのODAに配慮しているという点を割り引かねばなりませんが、アジ
アの声を正確に受け止め、我々が何をすべきかを正確に判断する材料になった
と思っています。つまり反省をし、それを活かすということは、決して卑屈に
なることではないという点が基本です。同時に我々はアジアの代表としてサミ
ットに参加している以上、アジア諸国の公益を担っているという事を忘れては
ならないと思います。
>>544 考え方としては、左巻きの好きな旧ソ連や共産支那と一緒なんだよね。
ま、お里が知れるって典型的な左巻きなんだよな。
562 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:23 ID:gazVhMhm
ビルマ
バー・モウ 元首相
「歴史的に見るならば日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。
しかしまたの解放を助けたり、あ るいは多くの事柄に対して範を示してやったりした
諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない。もし日本が武断的独断と自惚れを
退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの解放
の真心が 軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北もアジアの半分、否、
過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から 奪い去ることはできなかったであろう。
日本の為に惜しむのである。」
563 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:25 ID:gazVhMhm
グラバイ・デサイ インド弁護士会会長
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は
日本のおかげで30年早まった。これは インドだけではない。インドネシア、ベトナム
をはじめ東南アジア諸民族すべ共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。」
(1946年の軍事裁判に出廷した藤原岩市氏らに)
>>546 →546 名前:^^ 投稿日:03/05/27 22:42 ID:RmLowV4l
→
>>544 →日本人に殺された同胞は数多く、数え切れないくらいいるが
→同胞が殺した日本人は前者のそれに遠く及ばない数である。
ID:RmLowV4lは、敵性賤民であることが自白により確定しました。
565 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:27 ID:gazVhMhm
インドネシア
ジョージ・S・カナへレ 政治学博士
「日本占領軍がインドネシア民族主義の為に行った種々の仕事の中で最も重要なものの一つは
正規軍及び準軍事組織を創 設して、それに訓練を与えたことである。このような機会がなか
ったならば戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。」
(「日本軍政とインドネシア独立」)
566 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:29 ID:gazVhMhm
マレーシア
ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を
見た時に今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の
植民地としないで将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の国語を普及させ青少
年の教育をおこなってくれたのです。」
567 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:31 ID:gazVhMhm
シンガポール
ガザリー・シャフィー 元外務大臣
「日本はどんな悪いこ事をしたと言うのか。大東亜戦争でマレー半島を南下した時の
日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわ
ないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍
隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが英軍は再び取り返すことができず
マレーシアは独立したのだ。」
568 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:32 ID:gazVhMhm
インドネシア
サンパス元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝することは戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、
インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者
は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」
569 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:33 ID:gazVhMhm
マレーシア
ザイナル・アビディーン 歴史学者
「日本軍政は東南アジアの中で最も政治的意識が遅れていたマレー人に、その種を播き、
成長を促進させ、マラヤにおける 民族主義の台頭と発展に大きな“触媒”の役割を果た
してくれた。」
570 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:34 ID:gazVhMhm
インドネシア
アラムシャ 元第3副首相
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か
屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧
倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を
断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。」
571 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:36 ID:gazVhMhm
イギリス
アーノルド・J・トインビー博士(歴史学者)
「第2次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た
国々の為に偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは日本の掲げた短命
な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績
の意義は西洋人以外の人類の面前においてアジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去
200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」
(1956年10月28日/英紙「オブザーバー」)
572 :
:03/05/27 23:36 ID:tLGBCUKT
>>553 例えば、満州・・・・
満州を侵略したのは中華民国であり、満州人は日本を背景にして自らの土地と取り戻し
満州国を建国した。本来、万里の長城の北側である北荻の在する土地は中華のものでは
なかった。
573 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:39 ID:gazVhMhm
そして、1941年(昭和16)12月8日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をすると、
インド人の同志たちは「インド独立連盟」を東京で旗揚げし、翌年には東南アジア各地に散ら
ばっていたインド独立運動家を集めてインド独立を誓う「東京会議」を開くなど、日本はインド
独立闘争の拠点となりました。
ところで、あまり知られていないことですが、この戦争で、日本が戦っていたイギリス軍の兵隊
のうち、約7割は、イギリス植民地で徴発されたインド人の兵士だったのです。いわゆる「英印軍」
と呼ばれたインド人兵士たちでした。
ですから、植民地化されたアジア諸国からヨーロッパ勢力、特にイギリスを追い出すためには、
インド人兵士がイギリス軍兵士として、宗主国イギリスのために戦うのをやめさせなければなり
ません。
そのため、日本政府は、インドの独立を全面的に支援するため、藤原岩市少佐を中心とした十名
足らずの「F機関」という組織を作りました。
「F機関」という名は、フジワラ・フリーダム・フレンドシップの頭文字をとって、こう呼ばれた
のですが、彼ら機関員はその言葉通り、命がけで日本とインドの共闘を訴えました。イギリス植民地
マレー半島の戦場で、イギリス側に立つインド人兵士たちに「インド独立のために、日本と共にイギ
リスと戦おう。」と降伏を呼びかけていったのです。
574 :
573の続き:03/05/27 23:42 ID:gazVhMhm
この日、彼はインド国民軍兵士たちに向かって、2時間近くにおよぶ大演説をおこないました。
「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。われわれの任務は、
イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式をおこなう日までは終わらないの
である。…われわれはこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)
チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」
ボースがこう叫んだとき、国民軍兵士ばかりでなく、この演説を見に来ていた、2万のインド民衆
も、声をそろえて「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」と唱和し、その場の熱狂は最高潮に達し
ました。
この翌月、8月1日には日本によって、ビルマが独立を達成し、バー・モウが首相に就任しました。
(詳しくはビルマ編を参照。)ボースはこの独立祝典に出席し、同じくイギリスの圧政に苦しめら
れていたビルマ民衆の万歳の声を聞き、日本が独立の約束を果たしたことに感銘を受けました。
イギリスはインドと交わした約束を何度も破ってきたからです。第一次大戦の時にも、インドに
自治を許すという餌をまいて、イギリスへの戦争協力を強いておきながら、まったく果たされま
せんでした。その苦い経験を振り返りつつ、眼前で歓呼するビルマ民衆の姿に、ボースは近い将来
のインド民衆の姿を重ね合わせていました。
575 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:43 ID:8pgiYcIr
藤原機関。
576 :
574の続き:03/05/27 23:44 ID:gazVhMhm
ところが、このときすでに日本軍は、勢いを盛り返してきた連合軍の猛反攻に遭い、
ガダルカナルからの撤退を余儀なくされるなど、戦局に不安の影が差し始めていました。
しかし、ボースはインド国民軍の司令官に就任すると同時に、自由インド仮政府の
主席となり、独立政府を組織します。そして、ただちにイギリス・アメリカに宣戦を
布告したのです。
悪化する一方の戦局を打開するため、日本軍とインド国民軍が、最も悲劇的な戦いと
して名高いインパール作戦に勝負を賭けたのは、その翌年、1944年(昭和19)3月
のことでした。この戦いでは、多くの将兵が命を落とし、生き地獄だとさえ言われました。
そのため、現在の歴史家の多くは、このインパール作戦を、おろかな、無用の戦いであった
と言います。
しかし、本当にそうなのでしょうか?この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア
総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記のなかで、こう記しています。
「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の
精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。
それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。すなわち『もし、日本に
ついて、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアの
その地位から追い落とすことにあったのだ』」(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』)
577 :
576の続き:03/05/27 23:47 ID:gazVhMhm
「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちがいちばんよく知っています。
インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔
があり、毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中で
も勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立
のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思ってい
ます。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシン
ボルとしたのです。」と語っています。
また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・
ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々の
ことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。このような
花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち
向かっていく、そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。
コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルと
して大事に保存しています。
578 :
577の続き:03/05/27 23:51 ID:gazVhMhm
インパール作戦は決して無駄ではありませんでした。確かに、あまりに多くの犠牲を
払いはしましたが、「何か」、つまりインドの独立という大きな歴史を残したのです。
このように遠く離れた地で、今でも日本人に感謝してくれている人々がいるというこ
とは、祖先がわたしたちに残してくれた大きな財産だといえるでしょう。
このあと、賭けた勝負にも敗れた日本軍はさらなる撤退を続け、ついに1945(昭和20)
年8月15日に連合軍に対して降伏をしてしまいます。
日本の敗戦後も、起死回生の望みをかけたチャンドラ・ボースは、寺内寿一
南方総軍司令官の計らいで、ソ連に亡命する途中、不運な飛行機事故に遭い、
とうとう伝説の人となってしまいました。享年48歳、最後まで、インドの独立に
命を懸けた生涯でした。
その後、ボースのもとで共に独立をめざして戦ってきたインド国民軍(INA)兵士
たちには、過酷な運命が待っていました。勝者イギリスが、ボースの指導した
インド国民軍の将兵1万9500名を、イギリス国王に対する忠誠に背き、敵に通謀し、
利敵行為をおこなったという「反逆罪」で軍事裁判にかけることになったのです。
イギリスはこの「反乱」を、セポイの反乱(1857)以来の大不祥事と考え、
これを厳罰に処し、見せしめにすることによって、これから先のインド統治を揺る
ぎないものにしようとしたのでした。イギリスは決して、植民地支配をやめようとは
思っていなかったのです。
579 :
578の続き:03/05/27 23:51 ID:gazVhMhm
しかし、この愛国者であるインド国民軍を「反乱軍」だとして裁くという措置に、インド
全土では2年間に及ぶ大規模な反乱がつづきます。
イギリスも軍隊を派遣し、徹底的な弾圧につとめるなど、流血の惨事があちこちで
起こりました。さらに、イギリス軍によって、拘留されていた国民軍兵士たちの監獄からは、
ボースの決めた国民軍の合言葉「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」の声が、
毎日響き渡りました。インド民衆も、「愛国の英雄を救え!」「INA全員を即時釈放せよ!」
と叫びながら、警戒厳重な監獄にデモ行進をし、監獄の内と外で、「チェロ・デリー!」の
大合唱が起きました。ついに1947年5月、イギリスは軍事裁判の中止をやむなく決定、
8月にはインドの独立を認めざるを得なくなりました。
こうして、インドが200年もの長きにわたるイギリスの植民地支配を脱したのは、この日
を夢見たチャンドラ・ボースの死後、2年目の夏のことでした。
580 :
日出づる処の名無し:03/05/27 23:56 ID:gazVhMhm
>>575 そう!!藤原機関です。
「F機関」という名は、フジワラ・フリーダム・フレンドシップの頭文字をとって、こう呼ばれたのですが、
彼ら機関員はその言葉通り、命がけで日本とインドの共闘を訴えました。イギリス植民地マレー半島の戦場で、
イギリス側に立つインド人兵士たちに「インド独立のために、日本と共にイギリスと戦おう。」と降伏を呼
びかけていったのです。
最初は半信半疑だったインド兵たちも、F機関員たちが敗残兵である自分たちを差別することなく、一緒の
テーブルを囲んで、食事をする事に驚きを隠せませんでした。イギリス軍にいたときは、仲間同士であるはず
のイギリス人兵士とインド人兵士が同じ部屋で食事をすることすら考えられなかったのです。
さらに藤原機関長は、日本軍が占領したマレー半島の治安維持を、なんと投降してきたばかりの、
彼らインド人捕虜に任せたのです。先程まで、敵味方に別れて戦っていた自分たちを、全面的に信頼
してくれている…、
この申し出にインド人兵士は驚くと同時に、大変感動したといいます。
降伏してきたインド人兵士たちは、率先して日本軍の先頭に立ち、次々と同胞に降伏を呼びかけて
ゆきました。こうして、投降インド兵の数は、どんどんふくれあがり、最終的には5万人というインド
兵が、イギリス軍を裏切って投降してきたのです。
ここに、インド人による、インド独立のための、インド人の軍隊「インド国民軍(INA)」が誕生
しました。
581 :
>>581の続き:03/05/27 23:57 ID:gazVhMhm
さて、一方、冒頭で紹介した指導者(ネタージ)、スバス・チャンドラ・ボースは、どう
していたのでしょうか? 彼は、この時イギリスと敵対していたドイツに亡命し、独立
運動を展開していました。しかし、ドイツ首脳はヨーロッパのことしか頭になく、
しかもインドがイギリスから独立することは、少なくともあと150年は不可能だと考
えており、ボースを落胆させてしまいます。
ドイツでの独立闘争の可能性を断たれたボースは、日本が英印軍を組織し始めた
ことを知り、インド独立闘争のための協力は日本に求めるべきだと判断して、
ドイツから日本に行くことを決意します。
そして、ついにボースは、彼の到着を待つ1万5千名のインド国民軍兵士の
前に姿を現します。1943(昭和18)年7月5日のことでした。