やっぱりなかった南京大虐殺

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718日出づる処の名無し
>>216-232 >>380-383 >>386 >>390 >>392-398 >>421-422
>>447-457 >>509-515 >>525 >>562-571 >>573 >>608-610
>>645-661 >>678-685 >>687の続き。
今回は「赤堀光雄による改竄」「改竄後のデマをコピペする愚劣なabc」

まず、徳川義寛侍従長の伝える昭和天皇の言葉から見よう。
1936年に天皇の侍従になった徳川義寛は、「昭和十二年の南京占領
の時、日本軍がひどいことをしたということは、私は当時から知って
いました。中国人捕虜を数珠つなぎにして撃ち殺すとか……」とした
上で、次のように語っている。

南京虐殺があったとか無かったとか論争があるようですが、当時も
関係者の多くは事実を知っていたんです。陛下が知っておられたか
どうかはわかりませんが、折に触れて「日露戦争の時の軍とは違う」
ということはおっしゃっていました。
(『侍従長の遺言』朝日新聞社、1997年)
719日出づる処の名無し:03/08/24 02:33 ID:qfiPF3V5
ところが、「abc」がコピペした赤堀光雄は、これに反することを言う。
>>161
日本軍の軍紀は世界一厳正だった
http://www.senyu-ren.jp/SEN-YU/00104.HTM
>日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜
>1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。

赤堀はこの前段で黄文雄を引用しているが、引用の切れ目が不明瞭
なので、上記の文が黄文雄の言か、赤堀による地の文か、はっきり
しない。もっとも、黄文雄の言であるにせよ、赤堀が肯定的に引用
しているのは明らかである。

まず、日清戦争は1894年(明治27)7月〜95年4月である。これを間
違える赤堀(または黄文雄)も、それをそのままコピーするabcも、
頭がおかしい。日露戦争は1904年(明治37)2月〜05年9月であった。
720日出づる処の名無し:03/08/24 02:35 ID:qfiPF3V5
昭和天皇の言うことと、赤堀光雄(または黄文雄)の言うことと、
どちらが正しいのか? 赤堀の文章を検証してみよう。
日本軍の軍紀は世界一厳正だった
http://www.senyu-ren.jp/SEN-YU/00104.HTM
赤堀は、「フォーシーユ」の文章を改竄した。なお、ここでは
「フォーシーユ」の記述内容自体は問わないことにする。
日清戦争で日本軍は、(改竄前)

日中戦争で日本軍は、(改竄後)

赤堀は、日清戦争と日中戦争(1937年7月〜)の区別もつかないのか?
否、意図的に改竄したのだ。改竄後の文章と、その直前の段落とを
読み合わせると、デマの効果が生まれる。
>日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜
>1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。
721日出づる処の名無し:03/08/24 02:37 ID:qfiPF3V5
カレスコート・イリュスト、ラロ両記者の『日本軍戦闘観戦記』
は、明治28年2月22日付の『報知新聞』に掲載された。これも、
内容自体の信憑性はひとまず問わないことにすると、記事から
分かるのは、「日本軍は『日清戦争で』軍紀厳正であった」と
いうことである。ところが、赤堀光雄は次の改竄を行った。
ひるがえって清軍を見よ。(原文)

ひるがえって中国軍を見よ。(改竄後)

清も中国には変わりない。しかし、改竄後の文章と、前出の文
(次に再掲)とを読み合わせると、デマの効果が生まれる。
>日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜
>1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。

つまり、赤堀は「日本軍は『日中戦争で』軍紀厳正であった」
と言いたくて堪らないのである。
722日出づる処の名無し:03/08/24 02:38 ID:qfiPF3V5
以上、赤堀光雄はフランス人3名の文章を改竄した。その目的は、
「日本軍は『日清戦争で』軍紀厳正であった」の主旨をすり替えて、
「日本軍は日清戦争以来大東亜戦争に至るまで、変わることなく
軍紀厳正であった」(赤堀(または黄文雄)による)
の補強に悪用するためである。

やはり、昭和天皇はウソつきではなく、赤堀光雄(または黄文雄)
がウソつきであった。
そして、御苦労にもこの改竄後のデマをコピペして回るのが、abc
である。当スレッドだけでなく、他のスレッドにもコピペして
回っている様子だ。愚劣極まりない。
723日出づる処の名無し:03/08/24 02:39 ID:qfiPF3V5
国際法の遵守に関して、日本軍は日清・日露と日中・太平洋戦争
の間で、進歩するどころか退歩した。
日本における国際法の受容と適用
http://www.suzugamine.ac.jp/kouhou/No40/kenkyu.html
>「日本人は人道を重んじまた国際法を尊重することは決して欧米
>諸国に譲らない」ことを示そうとしたのでした。(中略)
>一応文明国として認められはしたものの、それでもまだ西欧諸国
>の間では、日本が果たしてこれらの条約を履行する能力があるか
>否か疑問視されていました。(中略)
>しかしこの疑念を一掃したのが日清・日露の両戦争だったのです。
>この戦争における日本の正当性を主張すべく、有賀は仏文で
>『国際法の見地から見たる日清戦争』(1896年)を、高橋は
>『日清戦争中の国際法事例』(1903年)を海外において出版した
>のでした。(中略)
724日出づる処の名無し:03/08/24 02:42 ID:qfiPF3V5
(引用続き)
http://www.suzugamine.ac.jp/kouhou/No40/kenkyu.html
>これに対して欧州の国際法学者は「東洋の隅に大事業を成就すべき
>一国ありこれを日本とす、その進歩啻に戦争の術に止まらず戦時公法
>の理想においても欧州をして驚嘆せしむるものあり、国際法論は
>欧州をして漸を以て進みたるものなるに日本は一躍にしてこの論理を
>自得したるものなり」(仏国学士院におけるデ・ジャルダン博士の報告)
>と賞賛したのでした。