アメリカとの戦争を回避するにはハリマンの提案する 南満州鉄道の共同経営しかなかった。
伊藤博文や井上馨は、この申し出に賛成した。
特に井上は、北満州に依然として大軍を擁しているロシアを牽制するために、
アメリカを抱き込む妙案だと考えた。
その意見に従って、桂はハリマンと共同経営の覚書を交わした。
しかし、ポーツマスから帰国した小村寿太郎は、
イギリス・アメリカから「ロシアから満州の機会平等を守る」という約束で
500万ポンドづつ借りていたのにもかかわらず
血も流さなかったアメリカに、満鉄の権益を渡すのは外交上の恥だと訴えた。
そして北京へ飛び、清国との間で、満州に第三国が資本投下するのを阻止する条約を結んだ。
1906年1月、日本は覚書の廃棄を正式に通告。南満州鉄道株式会社を設立した。
「鉄道王」E・ハリマンへの日本側の対応は迂闊だった。 日米の緊張関係はこの時始まった。
自動車を制するものは世界経済を制するといわれますが、
20世紀前半までは軍艦・機関車でした。
軍艦はイギリスが占めていました。アメリカの参入を許したのは機関車で。
日本でも当時それらはほとんど米英製です。
満鉄ではようやく(1924)に国産に切り替えるに至りました。
その同年アメリカは排日移民法を制定します。
ハリマンの強い影響下にある西海岸でおこったこの法に
日本のフラストレーションは高まります。
1929年に世界恐慌がおこり,2年後には満州事変が起こる。
1931年9月18日関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄線路をみずから爆破し(柳条湖事件)
これを中国軍のしわざとして奉天における張学良軍の本拠を攻撃し
満鉄沿線の主要都市を一斉に占領した。
そして,第2次若槻内閣の不拡大方針を無視して軍事行動を拡大し
日本の権益がない北満州までも侵攻して満州全土を占領した。
満州事変のプランを作成した関東軍参謀石原莞爾らは当初,満州を日本へ併合する計画だったが,
国際世論への配慮から独立国家づくりへと進む。
だが行政の実権は日本人官吏が握り(日本から岸信介ら官僚が派遣された)
その任免権を関東軍司令官がもつなど,関東軍の傀儡国家にすぎなかった。
昭和7年(1932)満州国が建国。
リットン調査団報告書は,関東軍の行動を自衛のための行動とは認めず
満州国も満州住民による自発的なものとは認めなかった。
とはいえ,日本の既得権益の擁護を確認し,中国の国権回復運動や日本商品ボイコットを不法とする
日本の主張も認めた上で,満州を日本を含めた列国の国際管理下に置くことを提案しており
日本に妥協的な内容だった。しかし,1933年2月国際連盟がその報告書にもとづいて
日本軍の満鉄付属地内への撤兵などを求める勧告案を臨時総会で42:1(反対1は日本)で可決すると
日本は3月国際連盟から脱退した。
日本は世界に先がけて恐慌からの脱出し 日本は低賃金で生産した製品を
為替操作で円安にして失業率20%の米英とその植民地に輸出しまくった。
その結果ソーシャルダンピングと叩かれ、輸出制限されたため
本格的なブロック経済体制に移行される。
日本はアフリカや中南米へとさらに市場を拡大させていったが
1936年には,輸出がついに頭打ちになっていく。
そのため日本は,日本と満州国による日満経済ブロック(円ブロック)が形成していくとともに
華北への経済進出を確保するため,軍事力を背景とする華北分離工作を本格化させていった。
1936年 二・二六事件の鎮圧後,岡田内閣が総辞職し広田弘毅内閣が成立した。
それに対して陸軍は,事件の威圧効果を利用して発言力を強め,軍部大臣現役武官制を復活させた。
1936年8月「国策の基準」を策定し,ソ連の脅威排除・南方への漸進的な進出・
日満中3国提携の実現などの方針を掲げた。
政治・戦争にわたる統一した指導体制が存在しないまま,
日本は目的と展望のない中国侵略戦争へとずるずると突入していく。
もともとはソ連の脅威排除を掲げていたはずが,なし崩しで中国との全面戦争へと移行してしまい
さらにイギリス・アメリカとの対決へと焦点がズレていったのだ。
1937年7月7日盧溝橋事件がおきる。
11日には現地で停戦協定が成立したが,同じ日に第1次近衛内閣は華北への派兵を決定し北支事変と称した。
陸軍中央のなかには事態の拡大に反対する動きもあったが
これを機会に中国に一撃を加えておけば抗日運動をおさえこむことができるだろうと
安易に判断する強硬派の意見が通ったのだ。
こうして相互に宣戦布告がないまま,日中全面戦争が始まった。
日本が宣戦布告をしなかったのは,宣戦布告をすればアメリカが中立を宣言し
アメリカからの軍需物資の輸入がストップすることを,とくに陸海軍が恐れたからだ。
だが日本軍は,1938年秋までに中国の主要都市と交通路を占領したものの,
軍事動員が限界に達して持久戦の様相を呈した。
短期決戦の思惑が外れた近衛内閣は対中政策を転換し
11月日本の戦争目的は日満支(中)3国提携により東アジアに新秩序を建設することだと声明し
(東亜新秩序声明=第2次近衛声明),国民政府との和平交渉の可能性を示唆した。
しかし同調者は少なく,戦争を終結させることはできない上に
日本が東亜新秩序建設を声明した際に東アジアからの欧米勢力の駆逐を掲げた。
石油・鉄などの軍需物資の大半をアメリカに頼る日本にとって致命的な打撃となることは確実なのに
1939年日本が抗日運動の拠点とみなして天津の英仏共同管理の租界を封鎖してしまった。
当然アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告した。
共産勢力より日本の方がが驚異となったのだ。
さらに「アメリカ相手では2年も持たない」 という意見があるのにもかかわらず。
「ABCD包囲網により石油の輸入が不可能となった。
このままでは立ち行かなくなるので戦争してでも南方を奪ってしまえ」
という意見が、 「ABCD陣営と妥協して平和裡に石油を輸入できるようにしよう」
という意見を駆逐してしまうなんて軍人に政権を握らせるととんでもない事になる良い例です。
頭のない龍とは良く言ったものです。
もし、あの時に日本がハリマンの提案を受けていたらば、
二十世紀の歴史はまるで変わっていたでしょう。
アメリカの極東外交は、単なる領土保全、機会均等というお経だけでなく、
日本をパートナーとして共同で満州経営を行う形をとり、
また日本では、伊藤が健在だった時でもあり、
第一次大戦の国際情勢の中で、対露、対支政策について、
日米英の協調路線ができていた可能性は小さくありません。
伊藤は、このままでは英米と疎遠になるだけでなく、
ロシアのタカ派の思う壷(つぼ)となって「ポーツマス条約は一時の休戦条約となり」
清国の怨恨(えんこん)を買って、
満州だけでなく「二十一省の人心はついに日本に反抗する」ようになると
的確に警告しています。とくに「自分が心配なのは、米国の世論が強大なことだ。
政府当局は日本に同情的でも、世論が動けばやむを得ず世論に合った政策をとる」と、
まさに全ての二十世紀の指導者達が直面し、しばしば判断を誤った問題点を正確に指摘して、
ああだこうだと日本の行動を正当化しようとする小理屈を粉砕しています。
大東亜戦争は日本の国策の誤りだ。
共産主義への自衛の戦いができなくなってしまった。
満蒙権益をめぐる日中間の紛争やロンドン海軍軍縮問題をきっかけとして
陸海軍の軍人や右翼による国家改造運動(ファシズム運動)が高まっていた。
政党内閣を打倒,親英米派の元老西園寺公望や牧野伸顕ら昭和天皇の側近グループを排除し
軍中心の内閣を樹立して内外政策の転換をはかろうとする動きだ。
満州事変のねらいの一つも,軍事行動を先行させることで国家改造を促進することにあった
民政党の第2次若槻内閣は満州事変の勃発と十月事件により動揺
閣内で意見が対立して総辞職においこまれ,政友会の犬養内閣は五・一五事件で総辞職した。
このように急進派の軍人らの直接行動により政党内閣が動揺をくりかえすなか
元老西園寺公望は,政党では陸海軍の急進を抑えこむことができないと判断
穏健派の海軍軍人斎藤実を首相に推挙し,政党・官僚により「挙国一致」内閣を組織させた。
こうして,政党内閣の慣行はわずか8年で崩壊した
この前と後で日本は全然違う国と言って良いと思う。
小村寿太郎が、明治日本が生んだ天才外交官であることは言うまでもない。
ポーツマス条約では、考えられる限り最もいい条件で話をまとめた。
引き分けの戦争で、しかも日本には継戦能力がなく、
相手の国力の方が上という中で、あれだけ分捕っていたきたのは見事というしかない。
実情を知らされてない国民からは、条約交渉の失敗と言われ、
家を襲われたりしたが、身長143?のこの男が、
180?を越えるヴィッテを相手にした姿は、古代中国の晏子を彷彿とさせる。
★ ポーツマス条約
・日本の韓国に対する保護・指導権をロシアが承認する
・権益の譲渡…旅順・大連の租借権,長春・旅順間の鉄道
・領土の割譲…北緯50度以南の樺太
・沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権
・賠償金なし
だが賠償金無しと言うのは痛かった
日本はイギリス・アメリカから「ロシアから満州の機会平等を守る」という約束で
500万ポンドづつ借りていたのである。
ここで仲介役のルーズベルトの意図を考えてみる。
債券の支払うだけの能力があれば日本をロシアの南下に対する抑止力としつつ
アメリカの国益に繋がるよう良い関係を築くが不良債権となるようなら日本を乗っ取ってしまおう
という魂胆だったのでは無いでしょうか。
日本は重化学工業の発達にともなってアメリカからの屑鉄・石油・などの輸入が増え
アメリカへの経済的な依存度が高まった事を考えると
この条件はクリア出来たと思いますが日露戦争以来「満州の特殊権益」にこだわりすぎた為に
どんどん自滅していってしまったのでしょう。