●◎武士道・The soul of Japan◎●

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492日出づる処の名無し
この板におきましては皆様の議論も深まっているご様子で、眞に慶賀の至りに存じます。
ところで、「武家の道」と「武士の道」についての比較考証を行っている本を持っているのを
思い出しましたので、チョコッと引用させていただきますね。
引用する本は PHP研究所 兵頭二十八 著 「「日本有事」って何だ」p97-p98の部分です。
                     -引用はじめ-
●わかりました。では、「武家の道」と「武士の道」の違いを教えてください。
 犬畜生となりても勝たんとすること肝要なり、これぞ武家の道だ。下克上も肯定される。もちろん徳治の
方針とはなしにくいから武士の道が考えられた。
武士の道は、攻めて勝つことよりも、名誉に関する不覚を取らないことが重視されていたね。ただし、西洋
流の「フェアネス」の概念だけは謳わない。
どういうことかというと、たとえばハリウッド映画のウエスタン者では、背中から売った奴は卑怯というだ
ろう。武士にはこれはない。暗闇で後ろから袈裟懸けに斬られて、自分の刀の鯉口も切れずに道端に死んで
しまったら、そっちのほうが「士道不心得」ということで、加盟を断絶させられてしまった。
尤も、ワイアットアープの自伝を読めば、西部でも後ろから撃つのは日常だったんだよね。正真正銘の無法
者たちなんだから、そりゃそうだ。
 みんな勘違いをしているんだが、徳川幕府を滅ぼしたのはまさに武士道さ。こいつの根には、和流の朱子
学があった。中世の武家を近世の根腐れ・自倒に導いたのは朱子の思想に他ならない。そんなもの、土に埋
めて肥やしにしてしまえばいいものを、「教育勅語」「軍人勅諭」として明治の新体制は復活させた。
山県有朋といえど、新規範をこれといって思いつけなかったんだろうね。近代日本国家に必要な新しい指針
がいかに得がたいか、知るべしだよ。この甘チャン哲学もまた大東亜戦争の敗因の一つを成したのだが、そ
の教育勅語を戦後の田中角栄文相をはじめ、復活させろという手合いが後を絶たないのだ。その浅薄さ、
イージーさには涙が出るよ。アメリカという大敵と戦って生き残るためには、むしろ遥か以前の武家の道に
こそ学ぶべきだと断言する。
493日出づる処の名無し:03/03/14 00:33 ID:DGF8VZyX
●教育勅語を復活させようというおじさんは、確かに今でも保守系月刊誌の周辺に結構いますからね。
 ひとついえることは、朱子学では譲夷は不可能であった。だから徳川幕府は降板させられた。同じように
教育勅語ではアメリカに勝てなかったのだ。いずれも人間性善説だからさ。
 自由主義の旗手である英米仏の法制を見れば、まさに人間性悪説を極限まで突き詰めた形になっている。
性悪説からこそ、近代民主主義は生まれたのだよ。                    
 高級軍人も、官僚も、文民大臣も、児童生徒もみんな「性悪」なのだ。彼らを実効的に縛る法制が必要で
ある。それを遅れ馳せながら勉強させられたのが、近代日本の経験だ。しかし、法制には強制力が伴わない
と意味がない。このことになると、日本人はいまだにわかっているようには見えない。明治憲法の統帥権が
諸悪の根源だったとする人が、いぜんとして大半だからねえ。
 江戸時代だって、「独りを慎む」ことが出来る君主なんざいやしなかったのさ。外道な真似をすると辻で
斬られる、あるいは詰め腹を切らされるという不文の強制力の担保があったのだ。昭和陸軍の暴走の原因は
、これは何年か前に『サピオ』にも書き、『ヤーボー丼〜』にも収めたけれども、景観の武装が貧弱すぎた
事と、憲兵隊を首相ではなく陸軍大臣の直属としてしまったからです。
                      -引用終わり-
494日出づる処の名無し:03/03/14 00:35 ID:DGF8VZyX
 著者の兵頭二十八氏はその傲岸不遜かつ唯我独尊で挑発的な言辞が一般読者の不評を買いまくり、今ひと
つ人気がない方ではあります。
 ただ、自分としてはこの「武家の道」と「武士の道」の考察部分がかなり気になるんですよね。
戦後、類まれなる幸運のもとで爛れて溶解した日本人の精神的支柱をなすために「武士道」を見直そうとい
う動きが出てきたのは当然だと思います。確かに、武士道は平時において自分の居住まいを正すための指標
と為りえるでありましょう。しかしながら、極限までの理想を追求した人間像は、やるかやられるかの極限
状態においては単なる障害にしかならない側面を備えているとも思えるんです。
 ましてや現在の政治家の中で不退転の決意を持ち、国家政策の過ちを「士道不心得」と言って恥じる人間
がどれだけいるのでしょうか?ミスを他人に転嫁して、知らぬフリをする人間しかいないのではないでしょ
うか?
「平和に慣れ、飼いならされた太ったブタ。」西洋かぶれの自称知識人が日本人を指してこう言います。し
かし日本の長い歴史を振り返ってみれば、日本人が冷静に戦う事を知っていた事実は明らかです。
ひとつの人間の理想像として「武士道」を振り返ってみるのは重要な事だと思いますが、現在の風雲急を告
げる世界情勢において、「武家の道」を同時に見直すのも大事な事だと考えますが・・・・
皆様はどう思われるでしょうか?
長文引用・長文失礼致しました。
495日出づる処の名無し:03/03/14 01:06 ID:2GC9RSv1
>>494
新渡戸さんの「武士道」でも指摘されているとおり、武士は清貧で寡黙で
名誉を重んじ忠義に死ぬことを求められていた。
そういう立派な人を尊敬する心は一般庶民にも広まり現在の日本の道徳を
形成するにいたったんだと思う。
実際はそういう人たちは目標であって、全ての人がそうあれるかというと難しいと思う。
政治家にしたって本当に立派な人は稀だと思うし普通はオレらと変わらない凡人ばかりじゃないかな。

武士道を性悪説と解釈する>>492にはあまり賛同できないね。この人は江戸時代は
武士道はなくなってしまって、朱子学が席巻したといいたいんでしょ?

>>493の憲兵隊が陸軍大臣の直属になったことと、参謀本部が統帥権を
超拡大解釈したのは同じ事だと思う。ま、確かに一般的には統帥権そのものが
諸悪の根源と思われているけど。
496おバカさん:03/03/14 01:08 ID:8FYZfutt
あー起きちゃったからカキコ☆
>494の人
例文 壱
道を歩いていたあなたが向こうから歩いてきた人とぶつかりました。
お互いに「すみません」「失礼した」と軽い会釈をして先を急ごうと
しました。
すると近くにいたAという人が「素晴らしい!」と賞賛しましたが、
もう一人のBという人が「ぼやぼやしてるからだよ」と蔑みました。

あなたはどちらの感想を支持しますか?
497日出づる処の名無し:03/03/14 01:32 ID:AjNlPRPO
>>495
あれ?武士道を性悪説と解釈してる?
おいらには
武士道=朱子学=教育勅語=性善説
英米仏の法制=近代民主主義=性悪説
っていうふうに読み取れるんだけど・・・
おいらがバカなだけ?

武家の道が性悪説に近いのかな?
そいで、性悪説のアメリカに対するには武家の道を取り入れろと。
498日出づる処の名無し:03/03/14 01:49 ID:2GC9RSv1
>>497
そうだね。あなたが正しい。

武家の道=性悪説ね。

戦国時代にあった武家の道がなくなって、江戸時代には武士道=朱子学が席巻し、
それが明治維新と共に自壊したということね。

>>494さんは「武士道」ではなく「武家の道」の復活がないとダメなのでは?
という提言をされているのですね。
499日出づる処の名無し:03/03/14 03:10 ID:AjNlPRPO
>>494
「武家の道」と「武士の道」ですか。面白いですね。
下克上も「武家の道」で考えれば合点がいきますね。
「武士道」を理解するうえでも重要だと思います。
アメリカと戦って勝つには、「武家の道」をもって臨んだほうが良いかもしれません。
しかしながら私は、それでも、日本人は武士道精神をもって物事に臨むべきだと思っています。
なぜなら、そこには正義があるからです。
正義と言っても、アメリカが言うような正義ではありませんよw
民族の誇りにつながる正義が武士道的生き方にはあると思うのです。
単に勝利を求めるなら、「武家の道」も良いでしょう。
しかし名誉ある勝利は、日本人ならば、「武士道」をもってしか得られません。
風雲急を告げる時代だからこそ、我々日本人は一刻も早く「武士道精神」と「民族の誇り」を
取り戻さなければなりません。
500日出づる処の名無し:03/03/14 04:08 ID:AjNlPRPO
ちょっと言葉遊びw
「武士道」における「正義」を「誠」に置き換えてみよう。
誠=まこと=まことごころ=まごころ=真心=真ん中に心=真ん中に心のある言葉?

=愛
∴誠=愛
誠を実践した人=武士
愛を説いた人=イエス・キリスト
武士道をキリスト教圏に紹介した人=新渡戸稲造
新渡戸稲造=クリスチャン

「殿の馬前で死ぬことこそ武士の本懐」と言って自分の命とひきかえに主君を守った武士
自分の命とひきかえに人類の贖罪を神に求めたキリスト様
自分の命とひきかえに祖国や家族を守ろうとした特攻隊員

武士道の本質の理解の手助けにしてください。
501日本チャチャ:03/03/14 06:26 ID:awdXemY9
>>500
おしい〜 ID アジア日本
502日出づる処の名無し:03/03/14 08:15 ID:OctIovGk
>>500
我田引水
503日出づる処の名無し:03/03/15 01:07 ID:c5FMifI6
>>497、498さん
言葉が足りなくて申し訳ありません。えーとですね、
>>498さんが、
>「武士道」ではなく「武家の道」の復活がないとダメなのでは?
という提言をされているのですね。
と言われているのですが、
 自分としては「武士の道」だけを純粋抽出するのではなく、
「武士の道」の成立する前提条件に「武家の道」があるので、「武士の道」を考えるときには「武家の道」も同時に考えなけらばならない。
と言いたかったのです。
両者は本来切り離して考えるべきものではありません。
現実問題として、共同体が生き残るためには「武」が必要となります。
そして、共同体が「武」を用いる戦闘集団を組織したとき、平時と有事の両面で戦闘集団を御するための精神的指標が「武士道」と「武家の道」なのです。
(共同体が生存するための戦いにおいて負けは認められません。何が何でも勝たなければなりません。そのときに用いられるのが「武家の道」
 逆に平時においては、先頭集団の「武」が共同体の秩序に牙をむくときがあります。それを予防し、制御するための手段が「武士の道」というわけです。)
497さんは
>>499において、>名誉ある勝利は、日本人ならば、「武士道」をもってしか得られません。
と述べられていらっしゃいますが、極限状態において戦闘集団に「名誉」を求めるという事は、戦闘集団に悲劇的な被害をもたらす公算が高いうえに、
通常の人間を超越したレベルでの労苦を彼らに強要しなければならないという点で少々同意しかねる部分があります。
彼らは特別な技能訓練により、肉体的にも精神的にも一般人より強靭になった人間ではありますが、相手を合理的に殲滅しなければならない戦闘時において、
「名誉を重んじる」という不合理を抱えながら楽勝できるほど強い人間ではないのです。
(つーか、相手もまた同等の強さを持つ戦闘集団であることを考えると尚更な訳ですが。)
彼らもまた「武を持って共同体を守る」という役割を担った我々の共同体の一部な訳です。彼らだけに非人間的な負担を強いるという事は、
同じ共同体に属する身としては、うかつにそれを押し付けるわけには行かないと自分は考える次第です。
504日出づる処の名無し:03/03/15 01:09 ID:c5FMifI6
「武士道」が戦闘集団を心理的に拘束し、共同体の破滅に導きかねなかった例を
日本海海戦を描いた 吉村昭 著 『海の史劇』 新潮社 1981年5月発行 557P 16cm を用いて挙げてみましょう。
(以下の記述は記憶を基に書きますので細部が違っているかもしれません。詳細は書店で立ち読みするなどして確認してください。所持しているのですが、
現在取り出すのが困難な位置にあるものですから・・・。すんません。)
 東郷ターンという劇的な賭けに勝ち、帝国艦隊はバルチック艦隊に壊滅的な被害を与えます。そんな中、ある艦の攻撃圏内に煙を噴き上げて航行不能になった
ロシアの戦艦が入りました。その時、武士道を重んじる乗組員達は艦長にこう言います。
「相手はもう死に体だ。相手もよく戦った。これ以上の攻撃を加えるのには忍びない。武士の情けだ!見逃してやってくれ!!」
 ・・・美談だと思います。もちろん、戦史を小説として愉しむ立場としてならば、という条件付ですが・・・
しかし、いくら相手が死に体とはいえ、白旗もあげていない艦を見逃すのは自殺行為なわけですね。艦の乗組員が応急処置を済ませていつ戦闘能力を回復するか
するかも知れないわけですから。「武士道」という心理的拘束が相手に攻撃の機会を与え、勝機を逃すかもしれない危機だったわけです。
まあ、結局イギリスで開戦を学んで帰ってきた艦長が「相手の艦の降伏を確認するまで、攻撃の手を休める事相成らん」と乗組員を押し切り、
大事には至りませんでした。
 ちなみに、この後も「敵とはいえ、相手もよく戦った勇士だった。戦いは終わったのだから、帝国臣民として恥ずかしくない態度で勇士をもてなそう!」
つーことで、バルチック艦隊の捕虜は日本人から盛大な歓待を受ける事になります。どれくらい盛大だったかというと、余りに盛大すぎて
「実際に身命をかけ、勝利を収めたのは帝国海軍であるのに、帝国海軍以上のもてなしを敗軍の将が受けるのは納得しがたい。」と
軍関係者からクレームが付くほどでした。
505日出づる処の名無し:03/03/15 01:11 ID:c5FMifI6
日露戦争には他にも「広瀬中佐」「日露戦争の二烈士」「小林環大尉」「橘中佐」「木口小平」などの美談があるではないか!!
という方もいらっしゃるかとおもいます。自分はこれらの逸話は「武家の道」の側に大部分が含まれると考えております。
492引用文中の>犬畜生となりても勝たんとすること肝要なり、これぞ武家の道だ。 
という発言が誤解を受ける事が多いのですが、これは「犬畜生になれ」という意味ではなくて、
「共同体生存の戦闘においては犬畜生の汚名を受けることになろうが、手段を選ばず必ず勝たなければならない。」という
意味なんですね。必勝を期す戦闘時の戦士の心構えとでも申しましょうか。
・・・まあ、長々と語って参りましたが、「武士道」「武家の道」のどちらか片方だけではなく、そのときの状況に応じて両方をバランスよく
考える事が大事ではないか?と言いたかったわけです。
あと、「非戦闘員には「武士道」やら「武家の道」なんぞ関係ねー!!」とおっしゃる方もいるかと思いますので、現代社会の平時においての
「武士道」と「武家の道」についての適用法については次回に述べさせていただければと思います。