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閣僚や皇帝にとってこういう示威のすべてが、不吉な恐ろしい意味を持っ
た。1895年のあの夜、日本軍兵士が別の王宮(乙未政変の時の王宮景福宮
を指す・・・)のまわりを示威行進し、注意深く選び出された日本人壮士たち
が宮殿内に侵入し、そして王妃【閔妃】を殺害したが、その時のことを、大臣
や皇帝は決して忘れることはできなかったのである。

  日本は、以前にそういうことをした。日本がふたたびそういうことをしな
いとどうして考えられようか。大日本の意志に対して今げんに抗らっている者
誰一人として、その眼前に剣を突きつけられたわけではないが、しかも彼らは、
想像の中で、終日、数百回にわたって、日本軍の雨あられのような弾丸の音を
聞いたのである。

  その日の夕刻、日本軍兵士は、剣つき鉄砲を持って王宮の中庭に入り込み、
皇帝のおられる宮殿の近くに立った。伊藤【博文】公が、駐箚朝鮮軍司令官長
谷川(好道)将軍(1850−1924)を帯同して王宮に来、内閣閣僚たち
に対する新しい攻め落としをかけ始めた。
  公は皇帝の出席を要請した。皇帝は、のどをいためて痛みが激しいと仰せ
られて、それを許可にならなかった。そこで公は、皇帝のおられる所にまで直
接伺候して、個人的にご出席を要請した。皇帝はやはり拒絶された。「どうか
お帰り下さい。その案件については閣僚と討議してください」と仰せられたの
である。

そこでただちに、伊藤公は、閣僚のいる所に出て行き、「あなた方の皇帝
は、あなた方に、私と協議してこの案件を解決するよう命じられた」と宣言し
た。
  新たな会議が開かれた。日本軍兵士の充満、外部での銃剣のきらめき、宮
殿の窓を通して聞こえてくる荒々しい号令の声、それらは決して無効ではなか
った。閣僚たちは数日にわたって、しかも孤立無援のなかで、戦ってきた。
  外国政府代表の誰一人として、彼らに援助と相談をもちかけた者とてなか
った。閣僚たちは、自分たちの前途に降伏と破滅とをみた。「われわれの抵抗
は無益ではないか?」と一人が言った。「日本政府はいつも最後には自分たち
のやり方をとる」。
  譲歩のきざしがあらわれ始めた。首相(参政)の韓圭ソル(?−193
0)が飛び上がるようにして椅子から立ち上がり、自分は、皇帝のところへ行
って、反逆者たちの話をおしらせるつもりだと言った。

  韓圭ソルはその部屋を離れることを許されたが、それからすぐに、領事館
の日本人秘書にぎゅっとつかまれて、わきの部屋に放り出され、殺すと脅され
た。伊藤公も彼のところへ出て行って解きふせにかかった。「譲歩するつもり
はないのか、あなた方の皇帝があなたに命令されてもか?」と伊藤公は言った。
韓圭ソルは「しません。たとえそうでもしません」と言った。
  これで十分であった。公はすぐさま皇帝のもとに行き、「韓圭ソルは反逆
者ですぞ。彼は陛下の命に従わないと公言しています」と言ったのである。
その間、残っていたほかの閣僚たちは、閣議室で待っていた。全員に、死
を賭して抵抗しようと激励したこの人物は、指導者としていったいどこに行っ
たのであろうか? 一分刻みに時は過ぎていった。
  だが、彼は帰ってこなかった。日本人が彼を殺してしまったのだ、という
ささやきが閣僚の間で交わされた。日本人側のあらあらしい声は、層一層とか
ん高くなっていった。礼儀や自制はかなぐり捨てられた。「われわれに同意し
て富貴を得るか。さもなければ反対して死ぬか」。
  外部大臣の朴斉純(号は平斉、1858−1916)、この人は韓国人政
治家の中でももっともすぐれた有能な政治家の一人であったが、彼は譲歩した
最後の人であった。しかし、その彼さえも、ついには屈服したのであった。

  払暁になって国璽を外部大臣室から持ってきて調印を行うように、との命
令が出された。ところが、ここでまた一つの難事が生じた。というのは、国璽
保管者は、事前に、たとえ長官の命令があっても、国璽はいかなる目的のため
にも引き渡してはならない、との命令を受けていたのである。電話でこの命令
が保管係官に伝えられた時、その係官は、国璽を持ってくることを拒否した。
  そこで、特別の使いを出して、力づくでその係官から国璽を取り上げて来
なければならなかった。皇帝御自身は、今日まで、自分は同意しなかったと主
張しておられる。

  条約(この条約は第二次日韓協約、韓国保護条約、乙巳保護条約などと呼
ばれる)調印のニュースを人々は、恐怖と憤激のうちに聞いた。韓圭ソルは監
禁を脱するや否や、狂気した人のようになって同僚たちにくってかかり、彼ら
を激しく非難した。「なぜ約束を破ったのだ」と彼は叫んだ。「なぜ約束を破
ったのだ」。閣僚たちは、自分たちが、もっとも憎まれ、もっともさげすまれ
る人間になってしまったことを知った。

かなり長くなりましたが、資料とては価値があるものなので
一読されると幸いです。
703tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 09:36 ID:zxg1RmQw
>>702
西厨房帝国38代目皇帝マヤ様^^
ありがとうございます。
70479式論者 ◆90TKc8f4Bw :03/02/08 09:39 ID:rcwRJhVA
>>697-702
ご苦労様です。今ちょっとその辺りの部分を「親日派のための弁明」から探すんでよろしく。
>>703
いえいえ
706tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 10:11 ID:zxg1RmQw
「日本が当時朝鮮半島を支配下に入れなければ、日本も半島も仲良く列強の支配化に置かれたでしょう」

そう誰かが発言していらっしゃったのを見たことがあります。
もちろん、当時の半島の人が屈辱にあったであろうことは、反論しません。
しかし日本人もまた、「日本人」として生き残るために必死でした。

歴史は片方の見方からでは、正しく見えないのが現実です。
if はいろいろ考えることができます。
しかし人の歴史には「間違い」があるのでなく、「結果」があるだけです。

過去の選択を悔やんだり羨んだり憎んだりすることよりも、当時の状況を可能な限り理解し、未来への選択をしていくべきであるとおもいます。

## 半島の人に当時のことを憎むことをやめろとは言いません。
## ただ、当時の人の選択を現在にまで持ち込み、現代に生きる日本人だけを非難するのは止めてほしい。
## 今のままでは、半島の反日は半島人の列島蔑視から起因しているとしか思えません。
70779式論者 ◆90TKc8f4Bw :03/02/08 10:14 ID:rcwRJhVA
「親日派の弁明」のほうにはあまり詳しく書いてないですな。
17日の乙巳条約会議の議場が何処だったか、その場に高宗がいたのか。

まあ、そこら辺を抜き出してちょっと書きます。
「 11月16日には貞洞のソンタック・ホテルで8人の大臣を集めて協約案の
 可決を要求したが果たせなかった。翌17日、高宗と8人の大臣が出席し、
 5時間続いた御前会議でも結論が出ないので、伊藤博文と林権助は
 日本憲兵数十人を連れて議場に入っていき、示威行動を行って大臣に一人一人
 可否の決定を迫った。
  このとき高宗は「政府で交渉して処置しなさい」といって責任を回避し、
 大臣の中では韓圭ソルが無条件不可とした。韓圭ソルに同調したのは
 度支部(大蔵)大臣ミン泳綺と法部大臣李夏栄だけだった。学部大臣李完用を
 始めとして軍部大臣李根沢、内部大臣利趾鎔、外部大臣朴チェ純、農商工部大臣
 櫂中顕はいずれも高宗皇帝に責任を転嫁し、賛成を表明した。 」

うーん、良く分からん。
708tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 10:16 ID:zxg1RmQw
話はかわりますが・・・

協和様。
>>620 の
>幾多の人種・宗教・国籍を全て取り除くのは難しいであろうが、
差別を是正する人間たる「感情移入」の性質を持ってすれば、少なくとも不可能ではない。

この文章は「全て取り除くのは」→「不可能ではない」と、書いてあるのですよね?
おまけに、前段を見れば、
「戦争を無くす」ため→「イデオロギーをなくす」
その方法論として、「人種・宗教・国籍を全て取り除く」と読んで取れるのですが間違ってますでしょうか?

もし上の文章がそれでよいなら、
>>625 の
>ただ各国の足並みをそれえよと語っただけである。
>それがどうして統一国家の必要性に結びつくのか疑問である。

とは矛盾します。「国籍を全て取り除く」=「統一国家の必要性」では無いのですか?
>>706
そうですね。
ロシアの軍事侵攻が無く、それでこそ高宗がロシアと手を組むと
日本の真横にロシアの軍事力を持った敵国が出現するわけです
(ロシアは今のピョンヤン付近まで鉄道を建設する計画がありました)
よってまだ軍事力も脆弱な日本は、国益を考えるとどうしても
親日国家が必要であった。
そもそも韓国併合を最初からしなかったのは最貧国と呼ばれた
朝鮮半島にインフラを整備するのは莫大な経費がかかりますから。

と、韓国人に反論するのがベターなのでは
>>707
ええ、だから弱者の韓国を脅迫しているという事実はあるわけです。
この場合、脅迫しなかったケースを説明するよりも、
日本の自存自衛について説明する方がよろしいかと。
[官吏と徴税]

「一般国民の犠牲のもとでの徴税請負制と収租地特許制は、政府の2大弊制であった。
徴税請負制のもとでは、監司(かむさ)や守令は、なるべく巨額の税を徴収するための自由行動を認められていたので、彼はその徴収した中央政府要求分以上の余分の額を、自分自身の収益として保有することができたのである。
繁盛して富裕になった一は、たちまちにして守令の執心の犠牲となった。
守令は特に秋の収穫の豊であった農民の所へやってきて、金品の借用を申し出る。
もしその人がこれを拒否すれば、郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同様にさせた上、日に1,2回の笞刑を加えるのであった。
勿論善良な守令も悪徳な守令もいたが、総じて官衙はすべての勤労大衆にとって恐ろしいところであった。
ある朝鮮の農民が、ある時私に尋ねた。
「私がなぜもっと多くの穀物を栽培し、もっと多くの土地を耕作しないのかって?」
「なぜ私はそうしなければならないと言うのか。より多くの穀物収穫は為政者のよりひどい強奪を意味するだけなのに」

「貴族に対する収租地の特許は、民衆にとってもう一つの重荷であった。
貴族即ち両班は、自分たちは勤労階級に依存して生活する権利があると考えていた。
高官の子息が成人すると、その父は国王に収租地の特許を申請した。
この収租地というのは、おそらく、どこかの川の歩いて渡れる所を通る人たちに多額の賦課をする権利とか、或いはなんらかの特殊地区内での課税権というようなたぐいのものであったろう。
そしてこの収租権者は逆に国家に対しては実際上何らの奉仕をすることもなかった。……イギリスでの荘園に対する領主の特権、(とどこが違うのか)」
712tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 10:31 ID:zxg1RmQw
>>710
そうですね。

ちなみに、当時の日本の選択が現在のアメリカのそれよりも、非道だとは思いません。

現在アメリカでは、「アメリカの国益」=「世界の平和」なのでしょうから。
[通貨]

「古い制度下の貨幣は、世界中の悪貨の内でも最たるものであった。
或イギリス公使の公式報告の中での有名な嘲笑、それは韓国の貨幣は良貨、良い偽造貨、悪い偽造貨、あまりにも粗悪なので暗いところでしか通用しないような偽造貨の4つに分類することが出来る、としているが、これは必ずしも作り話ではない。
(日露)戦争の起きる前までは、相当量の貨幣を受け取る場合には、貨幣を点検するエキスパートを雇って最悪の偽造貨を選り出すということをせねばならなかった。」
71479式論者 ◆90TKc8f4Bw :03/02/08 10:34 ID:rcwRJhVA
>>710
>日本の自存自衛について説明する方がよろしいかと。
「チョッパリの都合など知らないニダ!」とやられる悪寒。
勿論、そのときは「チョンの都合なんぞ知らねえ!」と返すのが筋ですな。

というか、憲兵突入はあれど相手国政府の高官を殺さずに条約批准させただけでも
あの時代としては結構良心的なのではないかなぁ、とも思いますな。
いや、その12年前には確かに殺しちゃいましたけど。
つまり朝鮮擁護派のマッケンジーの、朝鮮批判の個所は
信じるに値するでしょう
あ、既出だったみたいですね
すみません>マヤさん含むALL
>>712
明らかに自存自衛ではないですからねw

>>714
そうですね。仮定のケースを出すよりも、
国益を第一とした事実を突きつけるほうがよいと思います。

これは日本人のサイトですが、あまりにも馬鹿なので晒してみます。
ここの皆さんならば、おかしい個所が大量にあることがわかるでしょう。
ただし学校教育だけの状態で読めば信じてしまうでしょう。

植民地政策として必ず実施されるのが土地の国有化と一部地主だけの専有化です。
これは「土地調査事業」の名目で巧妙に実施され日本人企業・
農業移民に払い下げられたことにより、朝鮮人農民は小作人になるか・
故郷を捨て流浪の民となるかの選択を強いられました。
朝鮮半島で生産された貴重な大多数の「米」は日本へ運び込まれ、
代わりに「満州」で生産された粗悪な「雑穀類」が朝鮮人の飢えを
しのいだのです。この結果僅かな現金収入を求めて朝鮮人は
日本への出稼ぎ・「満州」への乞食のような流浪が始まったのです。
1920年代には在日朝鮮人は30万人になり日本人社会の最低辺に位置し、
低賃金・長労働時間勤務・日本人が嫌う「きつく・危険」
な作業に従事されました。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/kankoku_heigou1.htm
>>716
いえいえ。

ちなみに私はサヨです。
「社会主義の誕生」なんて本に感動する人ですから・・
○キストではないですよ。

ただ事実を捻じ曲げることには否定します。
日本は自存自衛以外の目的で中国に対し攻め込んだことは事実。
それにニ・ニ六事件、五・一五事件は決して賞賛されうるべきものでは
ないですしね。
71979式論者 ◆90TKc8f4Bw :03/02/08 11:02 ID:rcwRJhVA
>>718
歴史に疎い小生に、多少なりとも知識を与えては下さらぬか?

>日本は自存自衛以外の目的で中国に対し攻め込んだことは事実。
満州国がある以上、朝鮮半島への外部からの侵攻は一定量留められる体制にあり、
それ以上の土地を中国大陸で求める行為は自存自衛の目的とは合致しない、
という解釈で宜しいか?このときの中国侵攻の目的はやはり国土の拡大ですか?

>それにニ・ニ六事件、五・一五事件は決して賞賛されうるべきものではないですしね。
まあ、基本的に軍事クーデター自体、如何なる時代であれ誉められたものではないですからね。
と言うか、賞賛する人がいるとしてその根拠って何なんでしょうね?

そう言えば、2.26事件の実行犯の中に「赤い」将校がいたという噂を聞いたのですが、
この点について何か資料などお持ちでしょうか?
720tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 11:11 ID:zxg1RmQw
>>717
リンク先の資料にこういうものがありました。。。

>81年秋、韓日議員連盟の副幹事長孫世一氏(野党)が日本に持ち来たった日韓文化交流のための方案書(日本文)にはつぎのように記されている。
>『今日の国際秩序の基本単位である近代国家体制を整える過程においては、韓国が東洋国際秩序において下位にあった日本の植民地になることにより、帝国主義時代の国際秩序においても至極例外的な関係をもってきた点に、問題の深刻性があります』(原文のまま)。

やっぱりそうなのですね。。。。。
721tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 11:15 ID:zxg1RmQw
>>719
>「赤い」将校
シャアですか^^;???
植民地政策として必ず実施されるのが土地の国有化と
一部地主だけの専有化です。これは「土地調査事業」の名目で
巧妙に実施され日本人企業・農業移民に払い下げられた【農地の調査では、
農地の3%しか奪取されていない】【そもそも李氏朝鮮時代に正確な農地調査が
できたのか】ことにより、
朝鮮人農民は小作人になるか・故郷を捨て流浪の民となるかの選択を
強いられました。【完璧な歴史歪曲ですなw】朝鮮半島で生産された貴重な大多数の「米」は
日本へ運び込まれ、←【誰が米の生産ラインを作ったのか・李氏朝鮮時代
の米生産量と比べてみろ、そもそも韓国人の主食の半分は米ではなく
粟などの雑穀】【日本に対する朝鮮米の移出データの無視、
多数いた米の売却により利益を得ようとした朝鮮農家の無視、
総督府の緊急の雑穀輸入による朝鮮人のカロリー安定化の無視】
代わりに「満州」で生産された粗悪な「雑穀類」←【日本統治までの主食を無視した発言】が
朝鮮人の飢えをしのいだのです。
この結果僅かな現金収入を求めて朝鮮人は日本への出稼ぎ
「満州」への乞食のような流浪が始まったのです。
1920年代には在日朝鮮人は30万人になり日本人社会の最低辺に位置し、
低賃金・長労働時間勤務・日本人が嫌う「きつく・危険」な作業に従事されました。
【まるで日本人が勝手に連れてきたような言い方w】
【ちなみに兵役を課し、徴用したのは1944年、この辺は反論が長くなるので後で】
【そこまで悲惨ならば、李氏朝鮮時代人口増加がほとんど無かった
韓国が1914-1942にかけて人口が2倍(約2000万人の増加)になった理由を答えよ】
http://www.bishu.jp/r-yagi/koria/saito/rekisi-sp10.htm
>>721
共産主義者のことですよ
私も趣味で勉強しているものなので、下衆の勘ぐりのヶ所も多数あろうかと思います。

>日本は自存自衛以外の目的で中国に対し攻め込んだことは事実。
満州国がある以上、朝鮮半島への外部からの侵攻は一定量留められる体制にあり、
それ以上の土地を中国大陸で求める行為は自存自衛の目的とは合致しない、
という解釈で宜しいか?このときの中国侵攻の目的はやはり国土の拡大ですか?
ええ、そうです。
ただし、中国が日本に対して脅威をもたらしていたことは否定しませんし、
戦争をしたことに関しては私は誇らしいwですけれども。

>それにニ・ニ六事件、五・一五事件は決して賞賛されうるべきものではないですしね。
まあ、基本的に軍事クーデター自体、如何なる時代であれ誉められたものではないですからね。
と言うか、賞賛する人がいるとしてその根拠って何なんでしょうね?

そう言えば、2.26事件の実行犯の中に「赤い」将校がいたという噂を聞いたのですが、
この点について何か資料などお持ちでしょうか?

二・二六事件に関する資料は(というか本なのですが)
河野司、山崎國紀らが有名ですね。
河野司は、二・二六事件に参加した河野大尉の弟です。
ただ、この事件に関する本はそのまま赤い本が多いようですw
(ロマンを感じていらっしゃる)

赤い将校といえば磯辺浅一ですね。
彼は天皇制を残した共産主義を称えておったようです。
また馬鹿なページを・・

しかし日韓併合により朝鮮半島が完全に日本の植民地になった後、在日朝鮮人の数は急激に増えて来ます。

 1915年    3989人,1920年   30175人,
 1925年  133710人,1930年  298091人,
 1935年  625678人,1940年 1190444人,
 1944年 1936843人,1945年   約240万人(以上内務省統計)

 日本に渡ってきた理由は
1)「徴兵」,「徴用」,「従軍慰安婦」などによる強制連行
2)生活苦で自ら出稼ぎに渡ってきた。
3)留学
 以上がほとんどだと思います。

 その中でも「徴兵」,「徴用」,「従軍慰安婦」などによる強制連行がほとんどです。
  上の統計を見ると1930年代後半から解放(1945.8.15)の直前までに急激に増えた事が分かります。 
これは1939年の国民徴用令、1942年の朝鮮人内地移入斡旋計画、徴兵制度などの影響だと思われます。
 このような名目で日本に連行された朝鮮人労働者は150万人、徴兵により連行された人が36万5千人です。
つまり強制連行により連れてこられた人の数は186万5千人になります。



http://www.google.co.jp/search?q=cache:sj_WiEIPymQC:jtkim.korea.ed.jp/m3.
html+%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%80%801920&hl=ja&ie=UTF-8
726tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 11:33 ID:zxg1RmQw
>李氏朝鮮時代人口増加がほとんど無かった韓国が1914-1942にかけて人口が2倍(約2000万人の増加)になった理由を答えよ

動物が増える場合、(人間が増える場合)
@食べ物が豊富にある。(豊かさの向上)
A天敵がいなくなる。(死亡率の低下)

っていう場合でしょうか?
72779式論者 ◆90TKc8f4Bw :03/02/08 11:37 ID:rcwRJhVA
>>724
>ただし、中国が日本に対して脅威をもたらしていたことは否定しません
なるほど。日本本国には直接侵攻する能力が無くとも、満州国への干渉などで
日本と中国との間には緊張があった、ということで平和で大人しい(w中国に
日本軍がいきなり押し寄せたわけではない、と。

>ただ、この事件に関する本はそのまま赤い本が多いようですw
>(ロマンを感じていらっしゃる)
「共産主義革命」という赤いロマンですか?現実ってのは厳しいですなw

>赤い将校といえば磯辺浅一ですね。
>彼は天皇制を残した共産主義を称えておったようです。
磯辺浅一・・・と、メモメモ。しかし、立憲君主共産主義を指向していたのですか?
ある意味、戦後日本はそれに近い状態になったのかも。
すみません、昼から家を出ねばなりませんので
帰宅次第返事をします。

中日討論掲示板
日本勢が頑張っておりますよ
http://www.geocities.com/debatechinajapan/160-162.html

729tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 11:48 ID:zxg1RmQw
1974年の法務省編「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸年は上の表のようになっている
(表省略・昭和20年9月1日以前の日本上陸者の内8万3030人の調査)。
この表によると日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた昭和10年までに渡来したものが全体の53.7%と、半分以上になる。
昭和11〜15年はまだ民間の自由募集の期間だし、次の昭和16〜19年の中でも、国民徴用令による徴集は昭和19年の9月以降のわずか4ヵ月間であるから、
単純に計算すると、この期間に徴用されたものは昭和16〜19年間の1万4514人の12分の1、つまり1210人(全体 の1.46%)にすぎないことになる。
これに、次項「昭和20年9月1日以前」 の679名(0.8%)を加えた概算1889人(2.3%)ほどが、真に強制連行の名に値する在日朝鮮人だということになる。
かりに「官あっせん」を強制徴用の概念の中に入れ、官あっせんが行われていた昭和17年2月〜19年8月来日者の推計数を全部加えても、約1万1300人余(14%)にすぎない。
この推定は、昭和16〜19年間の月間 来日数を均等として考えたものであるが、実際には、関釜連絡船の運航は終戦が近 くなるにつれ次第に困難になりつつあったから、昭和19年後半の来日徴用者も減少し ているはずである。
すなわち、どんなに強制連行の概念を広く解釈しても10%を大 きく超えることはまずあるまい。

ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/zainiti_raireki.htm
730tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 11:52 ID:zxg1RmQw
>>728

ありがとうございました。
73179式論者 ◆90TKc8f4Bw :03/02/08 11:57 ID:rcwRJhVA
>>725
これを論破しろ、というケーススタディですか?やってみます。

>日韓併合により朝鮮半島が完全に日本の植民地になった
「併合」では「植民地」にならない。イギリスはインドを「併合」したか?
植民地ってのはそれ用の領事館とかを置いて支配する土地だぞ。
だから本国とは適用される法律も住んでいる人の国籍も違う。
あの当時、インド人はイギリス人ではなかったのだから。
逆に、「併合」では適用される法律も国籍もひとつにそろえる。
朝鮮半島の住民は全て「日本人」になった。この1点ですら、
「植民地」との指摘が的外れである事を示す。

>その中でも「徴兵」,「徴用」,「従軍慰安婦」などによる強制連行がほとんどです。
根拠不明。特に「徴兵」については明らかに誤解がある。
日本軍が朝鮮半島で「徴兵」を行った事は無い。「志願兵の募集」でさえ、
行われたのは1944年が初めて。故に、「徴兵」によって日本に連行されたとするのは誤り。
また、「徴兵」および「従軍慰安婦」について、彼等、彼女等を日本に連行する意味が無い。
徴兵したのなら前線である中国や東南アジアに出征させるのが当たり前で、
日本国内での朝鮮人の増加に寄与する筈が無い。従軍慰安婦についても同様である。
「従軍」であるなら、出征した兵士に伴われて前線に向かうはず。
日本国内で「従軍慰安婦」が何をするというのか。それ以前に、従軍慰安婦自体の
存在すら不確かであり、強制連行であった証拠も無い以上批判は藪睨みである。

>>726
>A天敵がいなくなる。(死亡率の低下)
爆笑。両班は朝鮮民族にとって「天敵」だったのか!?
73279式論者 ◆90TKc8f4Bw :03/02/08 12:00 ID:rcwRJhVA
>>728
色々勉強になりました。ありがとうございます。お疲れ様でした。
733tomo ◆wJy/nGzFyU :03/02/08 12:21 ID:zxg1RmQw
協和様へ

ある真面目な中国人の発言です。

>あるチベット人の学生は、ひとつだけ共産党を恨んでいると言っています。
>それは奴隷主のダライラマを逃がしてしまって失敗したことで、溥儀のように再教育して真人間にすれば、帝国主義者も彼をデマに使えないのにと言っていました。

これはイデオロギーを教育によって統一した例です。

>>731 79式論者様。
>両班は朝鮮民族にとって「天敵」だったのか!?
そうかもしれないですね^^;

でも、「生かさず殺さず」は日本でもありましたから。
>>566
>しかし、97式がその方法を使っていて、ゼロ戦が使ってないというのも。
>こういうノウハウのやり取りが無いって事は、所詮その程度の工業力なんですかね。
工業力っていうより、この方式に対する堀越のスタンスが零戦設計時に積極的で
なかったか、それとも伝わってなかったことが要因だと思います。だた伝わって
なかったとは技術者同士の交流はあったことからすれば考え辛いのですが。

>今なら安い圧延板でもt=10mm+-0.4mm以内なんてのが簡単に手に入りますからね。
今は規格の下限で作って材料を節約してきますからね。
>>607>>611
>ではその理論で言うなら九十六式戦は九十七式戦に劣ると言い切って良いのでしょうか。
>また、アプローチの仕方が悪いと言う理由でその機械(戦闘機)の性能を計るのは飛躍だと思います。
空戦の性能は否定しません。ただし機械としては生産性も評価の対象になるのであって、
その項目を落とした評価のしかたは下だと言ってるんです。

>禿同です、では戦闘機という機械に与えられた条件とは何か?
量産性やコストは言われなくても考慮するものであって、要求に無いから…なんてのは
機械の評価として失格。

>零戦以上に強力で、なおかつ量産も視野に入れた後継機を早急に作れなかった事が零戦に
>汚名を着せたのではないか?
そんな事情なんか設計の評価に関係ありません。
それにむしろ日本人のスタンダードの見直しに消極的な性質を考えれば、なおさら零戦は
量産性を考慮しておくべきだったとも言えます。

>それは違うでしょう、否定する例が多すぎて挙げきれない。
でもマリーンでは結構なことやってたと思いますが?ま、いいや。

>量産の概念が無ければ傑作機械は作れないと?
量産っていうより作りやすさとか生産性ですが、それで当然です。

>別に戦闘機が工芸品である必要性を説いているわけではないですよ。
>工芸品的な要素は当時日本の価値観であり、部分的に完成度を高める為に貢献したという意味です。
部分にこだわって全体の視点を欠くのは文化に関係なく下手でしょう。
73679式論者 ◆90TKc8f4Bw :03/02/08 12:46 ID:rcwRJhVA
>>733
>奴隷主のダライラマを逃がしてしまって失敗したことで、溥儀のように再教育して真人間にすれば、
>帝国主義者も彼をデマに使えないのにと言っていました。
溥儀ですか。あ奴は満州国の皇帝にしてもらった恩(恩着せがましくはあるが)を
あっさり仇で返すようなろくでなしですからね。そっちこそデマだ、と言ってやりたい位な。

>でも、「生かさず殺さず」は日本でもありましたから。
日本の「生かさず殺さず」は言葉倒れに近い部分もあると思いますが。
江戸時代の民衆は識字率も高く、またお上がろくでもない年貢取立てをすれば
すぐに一揆によって反省、または後悔を促す能力がありましたし。
子供に教育を受けさせられる程度の財政的余裕、支配者層に楯突く体力、
団結して支配者層と戦う知恵とそれでも殺害には至らなかったりする優しさ。
どれ一つ取ってもあの半島には無かったものではないでしょうか?
・・・まあ、平安時代の頃の日本だったら、実際に「生かさず殺さず」だったと思いますが。

>>734
>この方式に対する堀越のスタンスが零戦設計時に積極的でなかった
なんと言うか、図面引きとしてはあまり風上に立って欲しくないお方ですな。
まあ、旧来の方法でなるべく「手堅く」仕上げたかったのかもしれませんが、
1g穴よりは両翼一体構造のほうがアプローチとしては優れていますね。

>今は規格の下限で作って材料を節約してきますからね。
これには材料そのものの信頼性の上昇も大きく貢献しますね。
何時「す」が入っているか分からないような材料では薄めになんて作れませんし。
737スタン反戦 ◆t0HiTeXASs :03/02/08 14:36 ID:GpxxPOxy
とりあえず皆乙!
とだけ言って去るw
>>736
>なんと言うか、図面引きとしてはあまり風上に立って欲しくないお方ですな。
>まあ、旧来の方法でなるべく「手堅く」仕上げたかったのかもしれませんが、
>1g穴よりは両翼一体構造のほうがアプローチとしては優れていますね。

零戦の堀越、紫電改、二式飛行艇の菊原静男、97式や隼の太田稔、
飛燕の土井武夫、航研機、A26の木村秀政…と居る中で、全員が
東京大学の航空出、しかも堀越、木村、土井は同じクラスだったわけで。
この中で気難しく自己の理論に固執し勝ちだったのが菊原と堀越だったそうで。

>木村は「綿密で粘りこくて緻密な男ですよ。ですから、一つの方針をとことんまで
>貫いちゃうんですね。それで零戦も設計できたと思いますよ。(中略)つまりね、
>飛行機を設計する場合、一つの点(軽量化と舵のききのバランスにもとづく
>操縦性の良さ)だけを徹底追求すると、非常に特徴のある飛行機ができるわけです。
>妥協的でない堀越君だから、ああいう飛行機ができたと言えるでしょうね。
>実際、融通のきかない男でね」読売新聞19821028(「YS11」からの引用)

ということで。
>>738続き…で、土井は
>「私は飛行機の設計で細かく重量軽減もやりますし、重量計算はキチッとやります。
>でも、あまりにも重量のことばかりに神経質になるということじゃなくて、この構造で
>こうしたほうがこの構造でこうしたほうが飛行機全体にとってベターだというなら、
>少し増やしても構わないと常々いっているのです」(同)

>「私には、戦闘機などの設計について、あまり重量に神経質になりすぎるのも
>どうかという考えをもちながらやってきたというところがあります。その点、堀越とは
>違います。
> だから、特に軽く作った『零戦』は急降下するとねじれてしまうので突っ込むことは
>出来ない。『飛燕』ではそんなことは全然ない。私は軽くするためになんでもかんでも
>構造材に穴をあけてという考え方ではない。むしろ、いろんな種類の飛行機を
>できるだけ共通にして簡素化しろという考え方です。
> ドイツのドルニエ社の流れを汲むということもありますが、戦闘機は騎兵と同じで、
>数がなければいけない。なにしろ戦闘機は打ち落とされたのも含めて寿命を
>平均すると200時間くらいしかもたない。ということは数(量産性)がなければ
>ならないということです。そんなに、微にいり細をうがつような芸術品をつくって
>ばかりいてはだめだと思ってやってきました。」(同)

>『航空機の設計というものは、"アート・オブ・コンプロマイズ"(注・高度な次元での妥協)だ』

と言ってます。
74079式論者 ◆90TKc8f4Bw :03/02/08 16:14 ID:YPTIOG8k
>>738-739
何てーか、零戦の堀越さんは飛行機屋仲間に評判悪かったのね。
そう言えば、流体機械の授業に航空工学をやりなすった先生がいたが、
あの人の研究室には確か「飛燕」の模型(プラモ)が飾ってあったような。
741初心者:03/02/08 19:30 ID:HNb57Xst
餃子改め初心者です。皆様宜しくね。
昨日、親日の弁明本と 中国関係の本買ってきたよ。
親日の方は少し時間がかかりそうです。来週中には読み終えそうです。
職場では読めないので、専門書以外は。
なんとかこれで極東住民化できるかな?
高校生時代全て覚えた、試験に出る英文解釈も旅行の為に呼んでます。
このスレで自分の独りごと書いてもいいですか?  1様
742スタン反戦 ◆t0HiTeXASs :03/02/08 19:42 ID:GpxxPOxy
>>741 初心者さん
乙です。あと、SAPIOとかそういう雑誌も買っておいて損はないかと。

独り言スレなんだけど、それなりに需要あるみたいだからいいんじゃないの?(汗
ただ、初心者さんが雑談スレに絡んでいったのがまずかっただけと思われ。
743666 ◆REKO7GC.6c :03/02/08 19:54 ID:UJJJkGBo
>>741
        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ∧6∧   <   がんばれよコゾウ!
  (,,・Д・)     \__________
 ミ__ノ
744三等陸士 ◆VXlJgSDF9s :03/02/08 21:35 ID:+GvnUkiX
>>740
そのようですね。
>>741
いらっしゃい、マターリやりましょう。
僕もコテハン歴二週間もないです。
一緒に勉強しませぅ。
745三等陸士 ◆VXlJgSDF9s :03/02/08 21:40 ID:+GvnUkiX
>>735 :蜜柑の木が甘酸っぱい人たちさん

>空戦の性能は否定しません。ただし機械としては生産性も評価の対象になるのであって、
>その項目を落とした評価のしかたは下だと言ってるんです。
「生産性も評価の対象」
ある程度はね。
何度も言うようだが生産性を重視するという価値観は、過去の教訓から学んだ現代の物差しだ。
当時、軍部の常識として(列強国も含め)、航空戦力は重視されていなかった。
戦闘航海中の戦艦を航空攻撃だけで沈めたのは日本が最初(マレー沖海戦)である。
零戦は開戦までに1000機要求されていた、そして、その通り生産した。(正直、少し足りなかったが、)
性能が基準を満たしており(当時世界最強)
納期までに必要個数を納入(開戦時に1000機弱)
それ以上の事を一技術者に要求するのはいくら何でも酷ではないか?
(付け加えるならば零戦が必要個数揃わなかったのは、海軍中央の怠惰であり、航空戦力軽視の現れである。
断じて設計の所為ではない、現に山本五十六が中央の怠惰に危機感を感じ、量産を強硬に押し進めた結果生産実績は倍近く増えた。当初から増産体制で臨んでいれば生産は間に合った計算になる。)

>量産性やコストは言われなくても考慮するものであって、要求に無いから…なんてのは機械の評価として失格。
ふむふむ、ではクライアントが「量産性やコストより性能を優先させろ」と言った場合(零戦の開発現場はそうだった)はどうなるのか?
あえて量産性やコストにまで踏み込んで、性能面を多少犠牲にした方が後の評価は良かったとでも?
又、当時は航空機の発達が著しく、性能の良い戦闘機は旧式の戦闘機が数で勝っていても勝てるという現実がありました。
続く。
746三等陸士 ◆VXlJgSDF9s :03/02/08 21:40 ID:+GvnUkiX
続きです。

>そんな事情なんか設計の評価に関係ありません。
大いに関係有ります。
「当時としては最高だった」「当時の条件で最善を尽くした」等、その時々の事情をふまえて物事を評価しない人が多いからです。

>それにむしろ日本人のスタンダードの見直しに消極的な性質を考えれば、なおさら零戦は量産性を考慮しておくべきだったとも言えます。
それは、今だから言える傲慢ですね。
日本人の性質をふまえ、今後の戦況を予測し(戦略のプロでも読み切れない)考慮しろと?
当時の技術者にそこまで高度な事を要求するんですか?
>量産っていうより作りやすさとか生産性ですが、それで当然です。
「当時の計画での生産性」は上に述べたように満たしていた。

>部分にこだわって全体の視点を欠くのは文化に関係なく下手でしょう。
全体の視点を欠いて良いなどと言っていません、細部にまでこだわるのは言い事だと言っているだけです。

あと、堀越氏を擁護しているわけではありませんが。
フラッターの事故云々の話ですが、試験中の事故は開発現場につきものです、コンピューターによるシュミレーションなど無い時代ではなおさらです。
実戦配備が決まってからもありましたが、その事については逆に聞きたい。
設計ミスによる事故が起こらなかった最新鋭の機械という物が歴史上存在するんですか?

まだ続く
747三等陸士 ◆VXlJgSDF9s :03/02/08 21:40 ID:+GvnUkiX
続きです。

>>738.>>739
堀越二郎氏が手がけた十二式艦戦は昭和12年に開発を開始し、昭和14年に零式艦上戦闘機として正式採用された。
土井武夫氏が手がけた三式戦闘機「飛燕」は昭和15年に開発を開始し、昭和17年に正式採用された。

ここまで来ると意図的に年代を無視しているとしか思えないです。
零戦が正式採用された一年後に開発を開始した土井武夫が、零戦以上の性能と合理性(生産性等)を持った「飛燕」を開発できたのは当然です。
また、艦載機と陸軍機を同じ土俵で評価する時点で間違ってます。
結論から言うと陸軍機「飛燕」の方が簡単です、艦載機は短距離で離着陸する必要があるのでどうしても重量制限が出るのです。
それに加え、着水しても機体が沈まないように浮き袋など余分な装備が増えます。
正式採用されたのは日米開戦後の事ですし、初陣はさらに一年後。
この事から、機体のねじれや強度などの情報も当然知っていたと考えるべきで、設計段階で考慮できた点でも有利です。
また、エンジントラブルで開発がまごついた三菱に対して川崎はダイムラー・ベンツ社のDB601エンジンを使う事で他の問題に集中出来た。
まあ、このドイツ製のエンジンが曲者(構造が複雑で整備しずらい)で本土防衛以外ではろくに成果が上げられなかったんですけどね。
あと陸軍は長期戦でも勝つつもりでいたから量産性を考慮していたんでしょう。
748スタン反戦 ◆t0HiTeXASs
>>744
陸士さんばんわ。
そして俺は落ちる(一回目)