日本人は皆皇室を仰がなければならないのか?

このエントリーをはてなブックマークに追加
620日出づる処の名無し:03/01/24 15:57 ID:AoJQsmPo
>>600
>社会通念は形骸化して便宜的なものでしかなくなった姿こそ望ましい
いったい人々は何を基準にして共同社会を生きていくのだ?この際、伝統的価値観は
「絶対的」というポジションから外したとしてもさ。キリスト教を持つ欧米各国でさえ
もが、物質主義の前に規範が大崩れしているというのに・・・。日本人なんて、「神に
申し訳が立たない」「先祖に顔向けできない」「武士道に反する」etc.何一つ無いんだ
ぞ?(広義の意味で)ナショナリズムでも持ち出さない限りやって行けないと思うよ。
規範を個人任せにするのではなしに、「人間は愚かな存在だ」ということをしっかりと
認識して謙虚でいなければ。まあ、これ以上言い合っても平行線だろう。
>>真ん中
その「いい加減」という評価は現代の価値観から見ての話だ。
当時の帝国主義的価値観のもとの判断だったら「素晴らしい」や「やむを得ない」
という評価になる。そうした歴史の断罪を根拠に「いい加減」と言うのなら断じて
賛成しかねる。
>>下段
私は1500年続いてきたもの(知恵)と50年そこそこの浅いものだったら、断然前者を
とると言っているんだ。これは思考停止ではない。変わるのであれば漸進的かつ伝統的
価値観を考慮したものでなければならないと言っているんだ。極めて、いかにも、
アメリカにしか根付かないような「チーズはどこへ行った?」的な考え方なんぞを
推奨する世の中が、「あるべき日本の姿(合っている姿)」だとはどうしても思えん。
こんな話はたった一つの例にすぎないが。
621日出づる処の名無し:03/01/24 16:12 ID:AoJQsmPo
>>610
その理性に対するモノの見方は漏れと一緒だ。素晴らしい。
人間の理性ほど当てにならないものはない。
設計主義的手法は成功(?)することもあるかも知れないが、失敗することのほうが
はるかに多い。そもそも経済介入における設計主義の成功とやらも、身も蓋もない
ことを言うようだが、長い目で見たら本当に「成功」なのか?と思う。いつのことを
言っているのか知らないが、とりあえず日本の経済成長についてはとても手放しで
「成功した」なんて思えません。
622日出づる処の名無し:03/01/24 16:21 ID:AoJQsmPo
しかし、理性を完全否定してるわけではない。過信をやめるべきだということ。
過去を顧みる謙虚さがあってもいいはず、と。
623日出づる処の名無し:03/01/24 17:07 ID:UdixLpau
消費主義と設計主義を一緒にしないでくれ。
あてにならないのは理性と欲望をもっている人間。
624日出づる処の名無し:03/01/24 17:16 ID:AoJQsmPo
>>623
じゃあ何か?
本来、設計するはずの世の中はモノ・カネを最高価値とするものじゃなかった
のだが、「理性と欲望を持っている人間」のせいで調子が狂ったとでも言うのか。
大した設計力だな。
625日出づる処の名無し:03/01/24 18:10 ID:dn3CIAqn
>>613
> 「へぼい理性」って何だよ?
>まさか、「へぼい理性」と「理性」は違うから、
>地平も違うと言いたいんじゃねーだろーな。

ふと思ったが「へぼい理性」なんじゃなくって、「理性はそんなにリッパなもんじゃない」って意味で
「理性はへぼい」っていうことなんじゃないの?それだったら意味が通ると思うけど?
626船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :03/01/24 19:55 ID:HNez6wez
>>620
>いったい人々は何を基準にして共同社会を生きていくのだ?この際、伝統的価値観は
>「絶対的」というポジションから外したとしてもさ。

 いや、オレは絶対的なものを拒絶しているのだから、そうでなければかまわんよ。
とはいえ、おまえがここで言ってるような宗教的な価値観は絶対的であることを
求めるだろう、普通。「疑うことは罪である」と誰かが言ったような気がするが。
これの解決は難しいのだが、信仰は個人的なものであるとすれば
絶対でもいいだろう。

>規範を個人任せにするのではなしに、「人間は愚かな存在だ」ということをしっかりと
>認識して謙虚でいなければ。

 これもかまわないよ。少なくとも一般的には。
しかし、愚民に対して謙虚になるのは多くの場合、時間の無駄であろう。
627船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :03/01/24 19:56 ID:HNez6wez
>その「いい加減」という評価は現代の価値観から見ての話だ。
>当時の帝国主義的価値観のもとの判断だったら「素晴らしい」や「やむを得ない」
>という評価になる。そうした歴史の断罪を根拠に「いい加減」と言うのなら断じて
>賛成しかねる。

 それはおかしい。
これは「つくる会」なんかにも言えることなんだが、サヨが不戦条約や
なんかの「当時の」法的環境や地政学的環境を踏まえて、国を断罪しても
「歴史を裁くのは愚かなことだ」と主張したりする。これは言うまでもなく
相対主義的な見解だ(もっとも、昨今は相対主義者の方が多いのだが)。
しかし、こういう相対主義でいながら、過去の偉人と共鳴し、彼らを
誇りに思うなんてことはできるのだろうか? 
現代人が、彼らは立派だったと心から思うなんてことがどうしてありえよう?
オレはここに矛盾があると思っている。

>私は1500年続いてきたもの(知恵)と50年そこそこの浅いものだったら、断然前者を
>とると言っているんだ。

 理性的に判断して甲乙付けがたいのであれば、オレも前者をとるかもしれん。
しかし、これはオレの個人的趣味にすぎない。オレが問題にしてるのは、
このような割り切り方をしないで、継続年数による判断が理性的判断に対抗する
ような客観的な妥当性をもつものであるとする思想だ。これは、理性的判断を
妨げ、継続年数という明白な(考えなくてもいい)基準で代替させるゆえに、
思考停止を招くはずだ。
 もちろん、長年つづいてきたものは、それだけ考慮する材料も多くなっている
わけだが、このような考慮は理性的なものだろう。そういう適応性に関する考察
をぬきにした、単なる継続年数はそれだけでは良いとも悪いとも言えないものだ。
理性的な判断においては。
628船虫Jr ◆.Tg2yBtH66 :03/01/24 19:58 ID:HNez6wez
>>625
それなら同じ地平に立つと思うのだが。
理性が嫌いだって違いがあるだけで。
629日出づる処の名無し
>>628
その違いが重要なんでしょうよ。