台湾で尊敬される日本人・八田與一

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38朱雀 ◆OtUfBSUc

銅像は37年後に元の場所に

八田與一の銅像が作られたのは、烏山頭ダムの建設完了から1年後の昭和6年(1931
年)7月8日だが、像は正装し威厳に満ちた顔付きのものではなく、作業着で土手に腰を
下ろし考え事をしている座象である。費用は八田技師と共に働いた人々の寄付で賄なわれ
た。戦争末期の昭和19年(1944年)、軍の命令で銅の供出が叫ばれるなか、その姿
を消し、誰もがその存在を諦めていた。ところが、戦後その銅像がたまたま嘉南農田水利
協会により発見された。

しかし、時代は日本色を一掃し、強権で台湾を支配化に置こうとした国民党白色テロの時
代であり、そのような時に日本人の銅像を隠し持つことは命がけだったので、銅像は八田
家族がかつて住み、当時空き家となっていた家のベランダに置かれたが、やがて嘉南の農
民がこの家の前を通る時、人々は手を合わせて拝むようになった。

この銅像が再び日の目を見たのは、蒋介石も既に亡くなり、台湾経済が豊かになり始め、
政治的にも民主化の芽が芽生え始めた蒋経国時代の昭和56年(1981年)1月であり、
37年ぶりに銅像は元の位置に復活した。台湾に残る唯一の日本人の銅像である。

八田技士は出世する事もなく、1942年に陸軍に召集され、フィリッピンに渡る途中に
アメリカの潜水艦攻撃を受けて56歳で死亡、外代樹(トヨキ)夫人は終戦の10日前、19
45年8月5日、このダムの放水路に身を投げ自殺した。

八田夫妻の墓は昭和21年(1946年)12月、嘉南大圳農田水利協会により建てられ
た。日本はこの前年、戦争に敗れ、この年の4月には最終の引き揚げ船が出港しているか
ら、この墓は日本人が台湾を去り、日本統治時代の神社や記念碑や銅像が次々に破壊され
るなかで地元の人々の手で建設されたのである。しかも墓石は台湾にならいくらでもある
大理石ではなく、日本人の風習通り御影石だ。わざわざ高雄まで行き、探して来たと言う。

烏頭山ダムを見下ろしながら建つその銅像と墓の前で、八田與一の命日(5月8日)から
今日まで追悼式は、ただの一度も欠けることなく、誰からの命令や指示を受けることなく、
地元の人々の手で続けられている。

台湾で最も愛される日本人−八田興一(2) : http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/0005/00050.htm

39朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/10 18:56 ID:c3x49z26

中華週報より−1

六月下旬、台湾から嘉南農田水利会(徐金錫会長)の一行十一名が石川県金沢市を訪れ、
「八田技師を偲び嘉南と友好の会」(代表・長井賢誓県議)の案内で、県庁、市役所、北国
新聞社などを訪問した。目的は、水利会が烏山頭で四千二百万元(約一億六千万円)で購
入した中国式建物のなかに、八田與一技師をたたえる記念室を開設する予定で、「関係者
や出身校に資料提供を呼びかける」ためという。この八田與一技師とはいかなる人か。台
湾の中学校の歴史教科書『認識台湾』にもその名は登場する。

かつて嘉南平原はサトウキビも育たない不毛の荒地だった。その一角の台南県烏山頭に建
設の鎚音が鳴り響いたのは大正九年であった。堰堤一千二百七十三bの人造湖「烏山頭ダ
ム」を作り、一万六千bに及ぶ給排水路を縦横無尽に走らせ、嘉南平原を台湾最大の穀倉
地に変える大工事である。それから十年、嘉南大圳(圳=溝の意味)は莫大な資金と関係
者の努力を飲みこみ、昭和五年に完成した。東洋一の規模である。

烏山頭ダムから轟音をたてて躍り出た豊かな水は、嘉南平原に張り巡らされた水路に流れ
こみ、みるみる一帯を潤した。当初半信半疑であった農民たちは、眼前を流れる水に「神
の恵みだ、天の与え賜うた水だ」と歓喜雀躍した。この嘉南大(土+川)を立案し、設計
し、完成させたのが、金沢市出身の八田與一技師である。

嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、八田與一は家族ととも
に台北に去った。だが嘉南農民の心には「嘉南大圳の父」として、その名は刻みこまれた。
しかもそれは世界に類を見ない大規模な湿地堰堤で、嘉南の大地が緑に覆われ台湾最大の
穀倉地帯となったころ、世界の土木界から「台湾に八田あり」と驚異と称賛の目をもって
見られるようになっていた。

40朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/10 18:56 ID:c3x49z26

中華週報より−2

やがて戦雲が世界を覆った。昭和十七年五月、八田與一はフィリピンの綿作潅漑調査を軍
から命じられ、妻子を台北に残しいったん帰国してから広島宇品港から大洋丸に乗船した。
五月八日、船団が五島列島沖を航行中、大洋丸は米潜水艦の魚雷を受け沈んだ。八田與一、
五十六歳であった。

それから三年、戦争は終わり、日本人はすべて台湾を去らねばならなくなった。夫を戦争
で失った妻外代樹は、今また夫と共に過ごした台湾を去らねばならない悲しみに打ちひし
がれ、虚脱した身をかつての嘉南に運び、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口に躍らせ、
四十五歳の生涯を閉じた。嘉南の農民たちは、この二つの死に慟哭した。戦後、日本人の
銅像や記念碑が次つぎと撤去されていくなか、嘉南の人々は八田與一の作業着姿の銅像を
守ったばかりか、夫妻の墓をも建立した。

今日なお毎年五月八日には、現地の人々によって追悼式が行われている。八田與一の遺品
ともいうべき嘉南大圳は、「約七十年の歳月をへたいまも、平野に飲料水や農・工業用水
を供給しつづけている」(徐金錫会長談)そのダムのほとりでの追悼式には、友好の会のメ
ンバーが列席している。同会では嘉南農田水利会の計画に感動し、近く協議会を発足させ、
資料を収集し、外代樹夫人についても広く顕彰したいとしている。また水利会では、八田
夫妻ゆかりの品々だけでなく、八田技師の暮らしていたころの金沢市の写真もそろえたい
としている。

戦前の夫妻の軌跡をたどる作業は難航しよう。だが、友好の輪は確実に広がりつつある。
関係者の方々のご努力に期待したい。記念室のオープンは、来年五月八日の予定である。

中華週報(台北週報)1914号、1999・07・15
http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1914/101.html

41朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/10 19:03 ID:c3x49z26

アジア最大のダムと万里の長城の6倍に達する用水路を建設

八田與一は1886年、金沢市に生まれた。東大の土木工学を卒業後、ほぼ同時に台湾総
督府土木局につとめた。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽
くした。初めは台北の上水道建設や桃園県の水利事業などに参加したようだが、彼の名前
が後世に残るのは、当時アジア最大と言われた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌
漑用水路の建設にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われたからである。

台湾西部の嘉南平野の東方の山地にある烏山頭ダムは、巨大な建設機械がなかった当時と
してはとんでもない大規模土木事業であり、しかも場所は植民地である。渓流をせき止め
た堰堤は1600メートル以上ある。セミ・ハイドロリックフィルという、石や土を組み
合わせてコンクリート以上の強度を生み出す石積み工法を用いた。

嘉南平野は台南市や嘉義市を含む台湾最大の平原である。鄭成功が明末に拠点を開き、そ
の後オランダも城を築いたかつての台湾の中心地である。肥沃の地と思われがちだが、平
原を流れる河川が少なく、しかも急流だったため、水利としてほとんど機能してこなかった。

このため20世紀になるまで嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれる。この嘉
南平野は八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路のお
かげで台湾最大の穀倉地に変わった。

台湾で最も愛される日本人−八田興一(1) : http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9907/990718.htm

42朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/10 19:04 ID:c3x49z26

八田技士は、約2,000万円の予算でロックフィルダムを提案、石を積み上げる工事には新
技術を導入、トンネルを掘り、石材をドイツの機関車で山から運搬したり、コスト削減し
たが、戦争インフレの影響で6,000万円も要した。

1920年9月から30年3月まで、10年の歳月を費やし、建設された「烏山頭ダム」
は堰堤が長さ273m、底部幅30m、頭部幅9m、高さ56mあり、水路は総延長1万
6000Kmに達したが、この距離は万里の長城の6倍、戦後に作られた愛知用水路の
13倍にもなる。このダムと潅耽用水路の完成により、不毛の荒れ野だった嘉南平野が潤
い、台湾の全農地の6分の1にあたる15万haが豊かな農地となり、農民に計り知れな
い利益をもたらした。

http://www.iris.dti.ne.jp/~o-miya/history.htm