韓国を酷評したイザベラ・バード

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42日清戦争後の情況
「その前年の冬の不況は終わっていた。日本は支配的立場にあった。この首都に大守備隊を置き、
内閣の要人数名が国の名代として派遣され、日本の将校が朝鮮軍を訓練していた。
改革といって語弊があるなら変化はそこかしこにあり、さらに変化が起きるといううわさがしきりにささやかれていた。
表向き王権を取りもどした国王はそのような情況を容認し、王妃は日本人に対して陰謀をいだいているとうわさされたが、
井上[馨]伯爵が日本公使を務めており、伯爵の断固とした態度と臨機応変の才のおかげで表面上は万事円滑に運んでいた。
 1895年1月8日、わたしは朝鮮の歴史に広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。
朝鮮に独立というプレゼントを贈った日本は、清への従属関係を正式かつ公に破棄せよと朝鮮国王に迫っていた。
官僚腐敗という積年の弊害を一掃した彼らは国王に対し、《土地の神の祭壇》[社稷壇]前において
その破棄宣言を準正式に執り行って朝鮮の独立を宣言し、さらに提案された国政改革を行うと宗廟前において誓えと要求されたのである。
小事を誇張して考える傾向のある国王は自分にとってきわめて嫌悪を感じさせるこの誓告をしばらく延期しており、
式典の前夜ですら、代々守ってきた道を外すことはならぬと祖先の霊から厳命される夢を見て、式典執行におびえていた。
しかし井上伯爵の気迫は先祖の霊を凌駕し、北漢山のふもとの鬱蒼とした松林にある、朝鮮でもっとも聖なる祭壇において、
王族と政府高官列席のもとに誓告式は執り行われた。事態を由々しく受け止めた老年の人々はその前々日から食を絶って嘆いた。
(略)
政治的な見地からは朝鮮国王がつぎのような宣誓を行ったことは、このたびの戦争という冗長なドラマにおける最も意義深い場面であった。」

[国王の宗廟宣誓文]
…卑しき末裔たる朕は、ここに14ヵ条の洪範を定め、わが祖先の御霊の前において、代々伝わった功徳を信じ、
この洪範を成功裏におさめることを不退転の決意で誓う。輝かしき御霊よ、朕を見守りたまえ。

[国政改革のための洪範14ヵ条]
1、清国に依存する考えをことごとく断ち、独立のための確固たる基礎を築く。
2、(以下略)              

「現在朝鮮の改革は日本の保護下では行われていないとはいえ、
進行中のものはほとんどどの段階においても日本が定めた方針に則っていることを念頭に置かなければならない。
 日日新聞は井上伯が朝鮮に関し「王室と国しか私の眼中になかった」と述べたと報じている。
1895年当時はこのような結論が正当だったのであり、おなじ結論に達したわたしは井上伯のように申し分のない権威に擁護されていることをうれしく思う。」
(322−328p)
43日本主導の改革:02/05/05 23:55 ID:iPOvnKJx
「1895年1月、ソウルは奇妙な状態にあった。「旧秩序」が変わりつつあるのに、新しい秩序は生まれていなかった。
陸海戦ともに勝利を得た日本は、戦前清に協力を要請していた国政改革を強要する体制にあった。1894年7月に日本軍が王宮を占拠して以来、
国王は「俸給をもらうロボット」にすぎず、またかつて権勢を誇った閔一族は官職から追放されていた。
日本は全官庁の監督責務を引き受け、腐敗した行政官に公正を強いる構えでいた。
(略)
日本が優位にあることは、毎日のように行われる新しい人事、規則の改正を見れば明らかだった。
日本人はかつてイギリスがエジプトに対して行ったように、朝鮮の国政を改革するのが自分たちの目的であると主張した。
たしかに自由裁量が許されていたなら、彼らはそれをなし遂げたはずだとわたしは思う。
とはいえ、改革事業は予想をはるかに越えて難航し、井上伯がほぼにっちもさっちも行かない状態にあるのは明らかだった。
(略)
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心のある少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革の一つ一つが憤りの対象となった。
一般大衆は、ほんとうの意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。
官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、
全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。
政治腐敗はソウルが本拠であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、
勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。
 このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。
名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。
日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。
「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」
(342-344p)
44日出づる処の名無し:02/05/05 23:57 ID:iPOvnKJx
「臨機応変の才に欠けたのは日本の重大な手落ちであった。1894年7月に王宮を包囲して国王の身柄を拘束した事件は、
たとえ政治上必要だった−真意ははかりかねるが−としても、君主の尊厳を損ねたことに弁解の余地はない。
かつて陰謀を働いたものを高官の地位に無理やり就けたのは重大な過ちであり、長ギセルの廃止や宮廷服その他の衣装の改変、
社会風俗への干渉、そして瑣末でわずらわしい制約や規則といった柔軟性のないやり方は、新しい体制に反対する人々の敵意をつのらせたのである。
(略)
かくして「旧秩序」は日本人顧問の圧力下で日々変化を見せており、概してその変化はよい方向をめざしたものであったとはいえ、
制定ずみもしくは検討中の改革の数があまりにも多いため、何もかもが暫定的で混沌としていた。
朝鮮は清と日本の間で「迷って」いた。清が勢いを盛り返したら「憎まれる」のではないかと思えば、日本の提案する改革に心から同意することもできず、
また日本の天下がいつまでもつづくのではないかと思えば、改革に積極的な反対もできなかったのである。
(略)
私が朝鮮を発った時点での情況はつぎのようにまとめられよう。
日本は朝鮮人を通して朝鮮の国政を改革することに対し徹底徹尾誠実であり、実に多くの改革が制定されたり検討されたりしていた。
また一方では悪弊や悪習がすでにに排除されていた。国王はその絶対君主権を奪われ、実質的には俸給をもらう法令の登録官となっていた。
井上伯が「駐在公使」の地位にあり、政治は国王の名において10省庁の長官でなる内閣に司られていたが、その中には「駐在公使」の指名する者が数人含まれていた。」
(345-350p)

「朝鮮国内は全土が官僚主義に色濃く染まっている。官僚主義の悪弊がおびただしくはびこっているばかりではなく、政府の機構全体が悪習そのもの、
底もなければ汀もない腐敗の海、略奪の機関で、あらゆる勤勉の芽という芽をつぶしてしまう。
職位や賞罰は商品同様に売買され、政府が急速に衰退しても、被支配者を食いものにする権利だけは存続するのである。
 日本人が「改革」と呼ぶ新しい秩序は1894年7月23日に日本兵が景福宮を武力で占拠した時点から始まった。
相次いで発布された(必ずしも施行はされなかったが)改革法令は日本公使が主導したもので、まもなく到着した日本人「顧問」が仔細に調整した。
日本は朝鮮式機構の複雑多岐にわたる悪弊と取り組み、是正しようとした。現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮に与えたのである。
日本人が朝鮮の政治形態を日本のそれに同化させることを念頭に置いていたのは当然であり、それはとがめられるべきことではない。」
(474p)
45日本の目的:02/05/05 23:59 ID:iPOvnKJx
「日本は数度にわたって外交的勝利をおさめ、財政と商業の支配的立場を得ることに成功したのち、
朝鮮における利権を平等に要求する権利があると巧みに主張し、最終的に日清戦争でライバルを打倒することによって政治における支配的立場をつかんだ。
そしてその間朝鮮にとっては不幸な局面となった、二帝国の長きに渡る衝突は終焉を迎えたのである。
 戦争を起こした表向きの理由は、日本政府は慎重を期してそれに固執しているが、
日本にとって一衣帯水の国が失政と破滅の深みへと年々沈んでいくのを黙って見過ごすわけには行かない、国政の改革が絶対に必要であるというものだった。
日本がこの例外的な責務を引き受けたその最終目的はどこにあるか、それを憶測する必要はない。
日本が大変なエネルギーをもって改革事業に取りかかったこと、そして新体制を導入すべく日本が主張した提案は
特権と大権の核心に切り込んで身分社会に大変革を起こし、国王の地位を「給料をもらうロボット」に落ちぶれさせたものの、
日本がなみなみならぬ能力を発揮して編み出した要求は、簡単で自然な行政改革の体裁を示していたことを指摘すればこと足りる。
わたしは日本が徹頭徹尾誠意を持って奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、
臨機応変の才に欠けたため買わなくてもいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、
朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての立場を果たそうとしたのだと信じる。
 一年有余、失敗はままあったにもかかわらず日本は前進を続け、有益かつ重要な改正を何件かなしとげ、またその他の改革を始動させた。
日本にとってみれば、現在行われている改革は自分たちが敷いた路線の上にあるものではないかと念を押していいのである。
そこへ三浦子爵の残忍なクーデターが起き、日本は文明諸国に対して国家と外交能力への信用を失ってしまった。
つづいて日本は駐屯隊を引き上げさせ、多数いた顧問官、検査官、軍事教官を帰国させた。そして積極的な専制から外見上自由放任主義的な方針にかわったのである。
「外見上」とわたしは書いたが、それはこの賢明で野心的な帝国が朝鮮での不運な情況をいっさいの終わりと認識し、
絶望のうちに身を引いた(!)とはとうてい考えられないからである。」
(564-565p)