◆■●朝鮮コピペ集2●■◆

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186朱雀

典型的な歪曲の例−金達寿の生涯−1

個人や国家の歴史を歪曲した典型的な例がある、作家の金達寿(キム・タルス)の生涯に関する
Webサイトからこれを考察してみる。

1.金達寿氏が死去 「玄海灘」などの作家  97.05.26 産経新聞
  http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9705/html/0526side31.html

「玄海灘」や「日本の中の朝鮮文化」などの作品で知られる、作家の金達寿(キム・タルス)氏
が(97年5月)24日午後6時46分、肝不全のため東京都中野区の中野共立病院で死去した。
77歳。朝鮮半島の慶尚南道昌原郡出身。自宅は中野区中野5-52-15-1007、葬儀・告別式は
26日午前9時から杉並区梅里、堀ノ内斎場で。喪主は長男、章明(ジャンミョン)氏。昨年夏
ごろから体調を崩し、今年1月17日から入院していた。昭和5年、10歳で来日。新聞
記者を経て、21年から日本語で朝鮮事情を紹介する雑誌「民主朝鮮」の創刊、編集に
携わった。24年に長編小説「後裔(こうえい)の街」を刊行、本格的な作家活動を開始。
朝鮮人差別を直視し、古代から日朝関係を探った作品が高い評価を受けた。

187日出づる処の名無しさん:02/05/07 11:55 ID:eDC23Ljt
 金達寿がカンコクから『文化勲章』を貰ったのは、ありもしない全くの
出鱈目の「日本の中の韓国文化」なるものを丁稚あげたからだろ。
 あぁそれから日本の歴史教科書を帰化人→渡来人に改めさせたって功績?
(いや戦利)もあったっけ。
188朱雀:02/05/07 11:56 ID:pgm3POKv

典型的な歪曲の例−金達寿の生涯−2

2.涙を胸に 金達寿氏天国に召される
  http://www.butaman.ne.jp/~jklys/PLUS-ONE/sinsou/ikiru/kimdars.html

「玄界灘」で作家としての地位を確立した金達寿(キムダルス)の死が報じられた。日
本政府に翻弄された彼の生涯は怨念と涙に曇ったままであった。笑顔の中にある寂しさ
と哀しさは、一個人の歴史ではなく、朝鮮民族全ての象徴として刻まれている。

キムダルスの生涯: キムダルスは朝鮮半島南部、慶尚南道で、地区一番の小作人を抱
える大地主の家で生を受けたが、6歳の時、日本政府の指示により全ての財産が没収さ
れ、その耕地には日本人移住者が移り住んだ。同時に両親は強制労働者として徴用さ
れ、日本へ送られていったのである。(本人の記録には徴用とは書かず、働きに行った
とだけ書かれている)残された6歳の少年は親戚へ預けられたが、その家は貧しくて苛
められる日々を送った。再び逢う事もなく、36才で両親は死亡。病気になり医者にも
かかる事なく死んでしまった。何の病気かも知れされて来なかった。キムダルスは哀れ
みを込めて言う「何の病気かも判らずに死んでしまった。情けない死に方だよ....」10才
の時両親の遺骨を探しに来日。しかし生涯見つける事は出来ず、故郷には遺体のない墓
が建てられている。10才のキムダルスは差別と貧困の中で作業員や工員をしながら、
日大芸術学部を卒業。1941年、神奈川新聞社の記者を皮切りに文筆活動へ入る。

歴史の罪と言ってしまえばそれ迄の事。しかし歴史は人間がつくりあげていく。次の世
代の若者が、過去日本が何をしてきたか?の真実を知らないと、また二人、三人目の
キムダルスを生み出してしまうだろう。日本が好き勝手に利用した朝鮮半島には、まだ
多くの日本人老人が取り残されている。日本政府はそうした同胞ですら見捨てて来た。
救う意思がないのだ。

189朱雀:02/05/07 11:57 ID:pgm3POKv

典型的な歪曲の例−金達寿の生涯−3

3.歴史を失ったものにとって祖国は切実な問題だ−金達寿 追悼特集−
   http://www.asc-net.or.jp/saenulee/mz/edition4.html

金達寿(キム・タルス) は1920年生まれ、五歳の時、地主だった父、そして次兄が亡くなり、
十歳で長兄と渡日、波乱の人生が始まる。77歳で(1997年5月)亡くなるまで、彼の脳
裏に焼き付いた一枚の現象がある。故郷の静かな農村のポプラ並木道。いつまでもず
うっと彼を待ち続けて、温かく迎えてくれた祖母の姿がある。その祖母とともに暮らす
ことができなかった罪の意識が、童心の金達寿をかきたててきた。

4.崔孝先著 『海峡に立つ人』 金達寿の文学と生涯
  http://hihyosya.co.jp/books/ISBN4-8265-0262-1.html

在日一世として18才で日本に渡り、戦前・戦中の「朝鮮人差別」社会の中で、ひたすら
日本語による文学を通して「在日朝鮮」の姿をありのままに表現することを目指し、希有
な文学的才能を持続した金達寿。彼の文学と生涯を、初めて系統的かつ緻密に跡付けた労
作。また、李恢成、つかこうへい、伊集院静、鷺沢萌、柳美里など現代の「在日朝鮮・韓
国人文学」の作家論を付す。

190朱雀:02/05/07 11:57 ID:pgm3POKv

典型的な歪曲の例−金達寿の生涯−4

5.金達寿の略歴
  http://www.asc-net.or.jp/saenulee/mz/edition5.html

1919年 慶尚南道昌原郡に、父・柄奎、母・孫福南の三男として生まれる。
1925年 5歳、父母、日本へ渡航する。次男・良寿と達寿は祖母とともに昌原に残る。
      この年、父・柄奎と次男・良寿死亡。
1930年 10歳、兄・声寿が達寿を迎えに帰郷。兄とともに渡日。
1931年 11歳東京・品川の大井尋常夜学校に通い、初めて日本語を学ぶが、6年になった年に退学。
      その間、納豆売り、屑拾いなどで家計を助ける。
      退学後は東京中を転々として、電球染色工場、風呂釜のカマ焚きなどを経
      験する。
1936年 16歳、早稲田大学の講義録をとり、独学。張斗植と知り合い、雑誌『雄叫び』
      を作る。
1939年 19歳、日本大学専門部芸術科入学。日本人らと同人誌『新生作家』を始める。
1940年 20歳、短編「位置」を『芸術科』に発表。
1941年 21歳、『文芸首都』同人となり、金史良と出会う。
      12月、兄・声寿、金史良ら、神奈川県特高に検挙される。
1942年 22歳、神奈川新聞社に就職。短編「塵芥」発表
1943年 23歳、神奈川新聞社を退社。ソウルに行き、京城日報社に入社。
1944年 24歳、ソウルから脱出するように日本に戻り、再び神奈川新聞社に入社。
      張斗植らと同人誌『鶏林』を始める。ソウルでの体験をもとに「後裔の街」
      を書く。
1945年 25歳、6月、神奈川新聞社退社。8・15解放と同時に朝連結成に参加。
    

191朱雀:02/05/07 11:58 ID:pgm3POKv

典型的な歪曲の例−金達寿の生涯−5

6.北朝鮮賛美から急に転向、説明もせず
  http://member.nifty.ne.jp/~monju/c11.html

この北朝鮮の一夜にして路線を変えるような体質は、なにも北朝鮮だけの話ではない。今
年1月、野党総裁であった金泳三氏が一夜にして与党と合同、韓国民がアッと驚いた3党
統合はつい最近の出来事だ。また、かつて北朝鮮を賞賛していた在日作家の金達寿氏が数
年前ソウルを訪問してから、北から南に路線変更したのは在日社会では有名な話であるが、
しかしいまだに60年代書いた北朝鮮賞賛を内容とした本を訂正もせず、平然と作家活動
をしている。 この路線変更、客観的情勢の変化によって変更したと自己正当化する点と、
絶対に過去の言動に対して謝罪しない点で、共通している。  ひとつの政権が変われば、
前の政権を継承するより否定することが韓国史では一般的だ。朴政権の否定の上に全政権
が成立し、全政権の否定の上に盧政権が成立した。高麗王朝が滅び、朝鮮王朝が成立する
と、千年以上続いた仏教を完全に否定して儒教一色となる。陶磁器の色彩も青磁から徐々
に白磁になったのではなく、急に青から白になっている。人はこれを称して「断絶文化」
と呼ぶ。このような環境で生き抜いてきた韓国人、北朝鮮の路線変更で驚く人はいないだ
ろうが、結果的に韓国人は政府を信用しなくなっている。

7.韓国から銀冠文化勲章を贈られる
  http://www.asc-net.or.jp/saenulee/mz/edition4.html

5月24日に肝不全のため逝去した作家・金達寿氏を偲ぶ会が、7月18日、東京・中野サ
ンプラザで厳かに執り行われた。友人・知人らが発起人となり、出版関係者をはじめ生前、
金氏と交流のあった日本人、在日韓国・朝鮮人ら300名以上の参加があった。当日は故・
金達寿氏の功績を称え、大韓民国から銀冠文化勲章が授与され、駐日韓国大使が遺族らに
手渡した。

192朱雀:02/05/07 11:59 ID:pgm3POKv

典型的な歪曲の例−金達寿の生涯−6

金達寿の生涯は歪曲と欺瞞に満ちている

1920(T09)年 韓国の地主の家に生まれる。
1926(S02)年 日本政府の指示により財産が没収され、日本人が移住してきた。
*韓国併合は1910(M43)年、朝鮮総督府の土地調査事業は1912〜18年だから、財産の
 没収は「総督府」とは全く関係が無く、単に”没落しただけ”と考えられる。
1926(S02)年 徴用により”両親”が日本に強制労働に出かける。 → その後、死亡する。
*1919〜22年と、1925〜38年は”渡航制限”していた時期である。
*国民徴用令が朝鮮に適用されるのは1944年9月からのわずかな期間だけである。
1930(S06)年 長兄とともに日本に渡る。父母も、彼と兄も日本が朝鮮人に対し「渡航制
限」をしている期間に、渡日している。正規の手続きを踏んだのだろうか?、
父母が渡日した26年は、在日朝鮮人は15万人ほど、年間1万5千人が渡日していた。


疑問−父母の骨を探すために渡日、しかし解らなかった?
a) 10歳の子供が異国(日本)に渡り、父母の遺骨を探せるだろうか?
b) 総合的に見れば、父母+長兄が渡日、幼かった3男(金達寿)は朝鮮に残された。
c) 父母、次男が死亡、2人だけ残される事になり、長兄が日本から迎えに来たと考える
のが自然である。

大韓民国から銀冠文化勲章を授与され、死亡記事がnetの産経新聞(sankei.co.jp)に紹介
されるほど有名な在日コリアン・金達寿の語る「人生」は歪曲と欺瞞に満ちていたと言わ
ざるを得ない。