☆-南京大虐殺って本当にあったの?第2戦-☆

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952名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/04 20:47 ID:sE4+GV0W
>>951
948で945(自分)にレスしてるのが突っ込まれているのでは?
ちがってたらすまん
953七氏@通りすがり ◆RXcNtpf. :02/03/04 20:49 ID:SuA6pXzF
>>947 いや、わかってますがなw
>>946 了〜解、でも漏れも飯食いたい(汗

>信頼性も何もそれ自身が証拠なんよ、頭悪いの?
なんてカキコする人が
>他人に影響されて出たものじゃないってことぐらいわかるよね?
って書いてますが
>写真とか記録がいっぱい残ってるしやっぱりあったと思うよ。
これはどう見ても他律的なカキコですが…(汗

別にあったと思うのも良いけど本スレの残り少ないもから次スレ(多分あるよね?)
で議論してちょんまげ。肯定派の意見を鵜呑みにするのも結構ですけど。
954928:02/03/04 20:51 ID:VG2juSFR
とにかくあったんだよ・・・・・・・・・・・・・・
元日本兵の証言がすべてさ。彼らが生き証人なんだ
955名無しさん:02/03/04 20:54 ID:jiPKc38Q
>928
その証言が正しいという根拠は?
956名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/04 20:54 ID:6pL6wXYi
【謝罪と反省したっ!!】

1947年 2月18日、ストライク調査団、対日賠償報告書につき談話(自給自足のための施設残置など)。
1948年 5月10日、米陸軍省、対日賠償に関するドレーパー報告書発表。
1949年 5月12日、米政府、対日中間賠償取立て打ち切り通達。
1951年 9月 8日、対日講和条約・日米安全保障条約調印。
1951年10月19日、蔵相、対日援助費(22億ドル)は債務で、賠償支払いに優先すると言明。
1951年10月26日、両条約衆議院通過(講和賛成307、反対47、安保賛成289、反対71)。
1951年11月19日、両条約批准。
1952年 2月15日、日韓会談開始。
1952年 4月28日、対日講和・日米安全保障両条約、日米行政協定調印。国民党政府と平和条約調印。
1952年 6月 9日、日印平和条約(賠償放棄・在外資産返還)調印。
1954年 9月28日、韓国、竹島領有問題を国際司法裁へ提訴の日本提案を拒否。
1954年11月 5日、ビルマとの平和条約、賠償・経済協定調印
1955年10月18日、外務省、ビルマ賠償実施細目協定調印と発表。
1956年 1月31日、日本・オランダ戦時賠償合意成立。
1956年 5月 9日、日比賠償協定調印。
1957年11月30日、岸・スカルノ会談でインドネシア賠償交渉実質的に妥結と外務省発表。
1957年12月29日、日韓会談、拘留者相互釈放問題妥結。
1958年 1月20日、インドネシアとの平和条約・賠償協定調印。
1958年 2月 4日、日印通商協定・円借款協定調印。
1959年 2月12日、藤山外相、韓国公使に在日朝鮮人の北鮮帰還を通告。
1959年 5月13日、南ベトナムとの賠償協定・借款協定調印。
1959年 5月16日、日本・カンボジア経済協力協定施行覚書交換。
1959年 6月15日、韓国、北鮮帰還阻止で対日通商断絶通告。
1959年 8月13日、北鮮帰還日朝協定調印(両国赤十字社代表、カルカッタで)。
1959年11月26日、衆議院、ベトナム賠償協定強行採決。
1962年 1月31日、日タイ新協定調印(特別円解決)。
1963年 1月25日、ビルマ賠償追加覚書(1億4千万ドル、借款3千万ドル)署名。
1963年12月 7日、東京地裁、原爆投下は国際法違反だが損害賠償要求はできないと判決。
1964年12月 3日、第7次日韓会談開会。
1965年 6月22日、日韓基本条約等調印(24日、日韓共同声明)。
1965年11月 6日、自民党、衆議院日韓特別委で強行採決。野党無効主張。
1965年12月11日、日韓条約案件、参議院で自民・民社が可決。
 ・
 ・
 ・
957七氏@通りすがり ◆RXcNtpf. :02/03/04 20:56 ID:SuA6pXzF
>>954 個人の犯罪=国家の犯罪、と見るのは如何な物か、と書いてみるテスト。

肯定派は誇張してるから信憑性が薄れるのだよ。ok
958928:02/03/04 20:56 ID:VG2juSFR
証拠がないとごまかすならそれでいい、はっきりしてないから
なかったとかいいたいのならそれでいい。でも、それだと証拠がないから
有罪には出来ないっていう考え方だよね。まあ、それはそうなんだけど。
しかしおれはそういう次元で話してないからね、悪いが
959名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/04 20:56 ID:6pL6wXYi
【残虐!支那人の蛮行!!】

昭和 2年 3月24日、国民革命軍左派(共産軍)が有力となり上海・南京を占領、南京事件起る。
昭和 6年 7月 2日、長春郊外で支那・朝鮮の農民衝突(万宝山事件)。
昭和 7年 1月 8日、朝鮮人「李奉昌」の天皇暗殺未遂事件(桜田門事件)。
昭和 9年 5月31日、北支那停戦協定違反で関東軍、南京政府に警告。
昭和11年 8月24日、成都で毎日新聞記者2名殺害される(成都事件)。
昭和11年 9月 3日、北海事件起る(広東省北海で邦人虐殺)。
昭和12年 7月 7日、北京郊外盧溝橋で日中両軍衝突(日中戦争開始)。同11日日本軍休戦申し入れ(相手が拒否)。
昭和12年 7月29日、通州で冀東政府保安隊反乱、日本人180名殺害される(通州事件)。
960928やその仲間たちへ:02/03/04 20:58 ID:CYcbIHr2
戦争論2で元兵士達が証言した真実を追究している。
それによると旅順収容所で洗脳改造されて、罪悪感を植え付ける。
別に薬とかを試用されたわけではなく、心理学的な物で簡単に「転向」
するんだそうだ。
この思想改造にはラストエンペラー溥儀や弟溥傑も引っかかり、
党の忠実な庭師となった溥儀や吉林省の党幹部として満州族の
体制側満人と化した溥傑が犠牲者なんだよな。
さらに戦争論には書いていないが、朝鮮戦争時、中国の「義勇兵」なるものに
拿捕された米兵が帰ってきたときどうなっていたと思う?
すごいぞ。
いきなり「国連軍」への欺瞞をぶちあげて、延々と演説するんだよ。
そして、いかに自分が朝鮮人民や中国人民を米帝の手先として
殺してきたかをマスコミにぶちあげるんだわ。
嘘だと思うならネットで調べてみるとよい
それも一人や二人ではないんだよ。
どう?この証言のスタイルは中国やソ連に抑留された帰還兵とまったく
同じだと思わないかい?

961七氏@通りすがり ◆RXcNtpf. :02/03/04 21:03 ID:SuA6pXzF
>>958 捏造及び誇張してあるのが明確な証拠でもok?
962 :02/03/04 21:04 ID:CYcbIHr2
何も中国だけでは無い。日本でも戦後から今までえん罪事件が
多発している。
まず結論ありきで容疑者を連日尋問をつづけると、次第に
やってもいない罪を「自白」して次から次へとペラペラ
しゃべり続ける心理状態になってしまうそうだ。
そんな馬鹿なって思うかもしれないが現実に起こりえる精神状態
なんだよ。
俺はいわゆる人権屋弁護士は大嫌いなんだが、そうしたしても居ないのに
「自白」あるいは「証言」するということは洗脳技術や誘導尋問が
心理学、大脳生理学などあらゆる方面からアプローチすることが
可能になった20世紀において「自白」や「証言」は非常に恣意性が
強い証拠となっている。
そうした事実をふまえて「単なる証言」では事実の追認と認められない
趨勢となっている事実をどう思うかね?
963名無しさんわしょーい:02/03/04 21:07 ID:jiPKc38Q
あったとか、なかったとか、どういう根拠があってその情報が
正しいと判断しているのかが、不思議でならない。
結局はその時代に生きた当地人にしかわからないことなのによ。
証言者が嘘を言ってる場合も考慮しなけらばならないぜ。
だからといって、嘘だとも断定できんが。
とはいいつつ、どちらの言い分が筋が通っているかを聞かれたら、
日本と答えてしまうだろう。ヽ(´ー`)ノ
964だから:02/03/04 21:14 ID:CYcbIHr2
>>963さんは中立派のようだが、
あえて発言させてもらうと
俺のような日本肯定派は
否定派と異なり、きちんとリンクしたうえで、
ねつ造や証言が骨董無形なものであるかを
啓蒙しているのだがね。
ところが連中はリンク先をひとつも見ずに
憶測で答えるばかり。
これでは議論にならないんだよ。
観念論じゃ駄目だ。
アイリスに対する反論を挙げているページや
ライフ紙などの報道などに反論しているページがいくらでも
提示しているのにも関わらず一切答えていないのは
どうしたことだろうか?
965名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/04 21:15 ID:XZFiktan
そういや「日本人の蛮行」写真、あれの「続き」って写真の載った本が幾つかあったなぁ・・・。
確か、「支那人の首を切ろうとする日本兵」の写真は北支那派遣軍の伝単ビラの写真で
「斬首された支那の民間人」の写真は「テロ行為をした便衣兵の処刑写真」だった。
南京大虐殺って言うけど、日本軍が南京を制圧した翌日の写真で屋台の餃子を支那人達と
混じって食べる日本兵の写真とかも掲載されてたけど・・・。
多分この人だと思うんだが。南京攻略戦にも「参加」した人です。

――浅井達三(あさい・たつぞう)、日本映画テレビ技術協会技術史委員・元従軍カメラマン。
戦前は米系会社MGMのニュースカメラマン、戦中は日本陸海軍の報道班員として各地をまわり、
戦死直前の山本五十六など貴重な映像を撮影、戦後は東京裁判の映像を2年半のわたって
フィルムに収めるなど、幾多の歴史上のニュースの現場を撮り続けた映像の“職人”が語る、
もう一つの太平洋戦争・・・。

966名無し:02/03/04 21:18 ID:iFMZB+Ea
今まで、読んだ本。
東中野修道先生の「南京虐殺の徹底検証」展転社
阿羅健一先生の「軟禁事件−日本人48人の証言」小学館文庫
山本七平先生の「私の中の日本軍」文春文庫

結果:
南京事件がまったくのうそであることがよくわかった。
60年前の戦時中の反日宣伝に過ぎなかったのだ。
その骨董品で二番だしまでとったというのが、朝日が音頭を取った
教科書まで巻き込んだ馬鹿騒ぎだ。

ヒットラーも言っている。「うそは大きいほどだましやすい」
シナ人も日本人がこの大嘘を疑わないので、びっくりしただろう。

日本は大損害だ。マスコミはサンケイ以外は有罪だ。
967名無しさんわしょーい:02/03/04 21:26 ID:jiPKc38Q
>964
Σ(゚Д゚;)う〜ん、確かにそうですな。
否定派がソースを提示したところなんて滅多に見ませんね。
貴殿は私を中立派とおっしゃったが、それは違いまっせ、
肯定派よりです。なるたけ中立を保ちたいがね。
過去を見る力が(;´Д`)ホスィYO~
968名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/04 21:37 ID:XZFiktan
昭和12年8月、同盟通信の特派員として上海に着いた浅井さんの眼前では、上海特別陸戦隊が
数に倍する中国軍相手に、熾烈な市街戦を展開している。陸戦隊と同じ白鉢巻でその渦中に飛び込んだ
浅井さんは初めて戦場を体感し、初めてのスクープ映像をものにした。
(中略)
上海戦線は膠着し、それを打破すべく陸軍の柳川兵団が杭州湾に上陸した。上海を包囲する中国軍は
後方を脅かされて撤退する。上陸作戦を取材した浅井さんは、中国軍を追撃する部隊に同行し12月13日、
ついには南京に達している。
(中略)
「南京入城の後は、翌年2月の海軍の青島上陸作戦に参加しました。この時も激戦で、同僚の1人が
亡くなっているんですよ。私は運良く無事で2月下旬に海路で日本に戻りました。船上では南京攻略を
指揮した松井石根大将と一緒でしたが、物静かで武張った人ではありませんでしたよ」

――浅井達三(日本映画テレビ技術協会技術史委員、元・従軍カメラマン)
大正2年東京都生まれ。17歳で映画の世界に入り、昭和10年から米MGM極東総局のニュース映画カメラマン。
昭和12年に同盟通信社に移り、日中戦争に従軍。昭和15年からは日本映画ニュース社、翌年からは日本映画社の
社員、海軍報道班員として大陸から太平洋全域にわたる戦場を取材。戦後は東京裁判を2年半にわたり撮影した。
現在は日本映画テレビ技術協会の技術史委員をつとめる。
代表作は「ラバウル航空隊」(昭和19年)、「極東軍事裁判」(昭和24年)、「皇居千代田城」(昭和24年)など。

参考文献:『歴史群像No.46 Interview 浅井達三』より抜粋
969968:02/03/04 21:45 ID:XZFiktan
証拠を出せとか、当時の人(支那人)が証言してるから、とか言う人。
この浅井さんは立派な「当時の生き証人」です。しかも報道カメラマンです。
上海事変から極東軍事裁判まで常に前線で取材を続けた人です。この人にでも聞いて下さい。

浅井さんは「南京城内で日本軍による民間人の虐殺など無かった」と言っておりますが。
970名スレの予感君@w@;:02/03/04 21:46 ID:Toilg5xM
帰ってきたでふ。
971 :02/03/04 23:25 ID:2qG8Cfwh
             /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ヽ
            /            ヽ
           /               ヽ
           |  /⌒ ^ ⌒ \       ヽ
           |  |      /ヽ      |
           |  |\   /  ヽ      |  嘘は嘘であると見抜ける人でないと、
           ヽ |<(|  こ(>  \|ヽ  |
            ヽ| h          \_|  南京事件を語ることは出来ないと思いますね。
             \ L          (
               \――┘ あげ!
                \    /   __-/ ヽ
       /\      / || ー _ー ̄ /     ̄ ̄
       \ う \  /   |レイ\   /
        \ ま \     |  |  |\/
          \い \   \ |  |/
            \棒\    \/
972名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 00:36 ID:rPXbTBtB

低脳厨房の>>971のために、『南京事件』とは、

【昭和2年3月24日、国民革命軍左派(共産軍)が有力となり上海・南京を占領、南京事件起る】

これの事です。国府軍に偽装した共産党ゲリラによって在留邦人約200人が虐殺されたと記憶しますが・・・。
973        :02/03/05 00:41 ID:CwxeGqKm
敵対勢力に偽装して住民殺戮におよぶ手口は
国民、共産両勢力の十八番。

974コリアンエンジェル ◆YvZEd3qU :02/03/05 01:26 ID:hRr82k44
君らはあほか。
975 :02/03/05 01:28 ID:/YcDiQLr
>>974
>君らはあほか。

あんたよりはマシかと。
976名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 03:32 ID:JiS2Q14x
コリアンエンジェルって朝鮮人?
国籍は韓国、北朝鮮のどっち?

あんたは日本政府にどうして欲しいんだ?
あるいは、日本政府は中、韓、北鮮にどうするべきだと考えているんだ? 
言ってみな。
977あったにしても200万人は:02/03/05 03:41 ID:I1j000ek
多すぎる。

ドイツの軍人が日記にしていたかと。
978七氏@通りすがり ◆RXcNtpf. :02/03/05 05:56 ID:M5Wbow0Z
>>976 コリアソエソジェルは北系らしいよ。
979     :02/03/05 10:35 ID:CwxeGqKm
>>977
ラーベの事に言及されているのでしょうか?

彼は当時国民党と武器購買の件で蒋介石と昵懇ですよ。
当時ドイツと国民党中国は親密な関係でした。
軍事顧問団を派遣し、武器を売り込んでいました。
ラーベはドイツの大企業であるジーメンスの現地責任者でした。
武器などを売っている会社です。クルップ社やポルシェと同じような死の商人であるわけです。
従って国民党に利権が存在し、また武器商人である事から戦況を「煽る目的」で
メモを書き、ヒトラー自身に報告しています。
また、ラーベ自身の日記の内容も非常に偏ったものです。
当時彼は南京の非武装地帯の国際委員会の委員長でもあったのですが
(国民党よりのね。)
ところが彼自身は安全地帯の中で、彼は1件の殺人も見ていません。
疑問に思うならば彼自身の著作をひもといてみるべきです。
彼が日本軍の虐殺があったとしているのは全て伝聞によるものなんです。
なお、広い南京なので云々という意見が過去ログで既出ですが、
この意見にも反論させていただきます。
ラーベが居住していた安全地帯は東京ドームの数倍、およそセントラルパークぐらいの
大きさでしかなく、
また彼自身は安全委員会の委員長ですから、域内を毎日のように巡回しています。
ですが、殺人など見ていないのですよ。
どう思われます?
なのに、彼は、日本軍の虐殺を告発しているのです。
980逆に質問させていただきます。:02/03/05 10:47 ID:CwxeGqKm
虐殺説を主張する人たちに聞き返しますが、
かの地には、年々知らぬ間に水増しされて増える膨大な死者達が埋葬された
30万基ないし40万基の墓石が並ぶ墓地が存在するのでしょうか?
それとも、数万人ずつ埋葬された巨大な塚が存在するのでしょうか?

南京事件に就いて議論になった時に
何万人にせよ、十万単位で
殺されたのならば、その死体はどこに埋まっているのか?
南京の郊外数キロは墓地なのか?
それとも、古墳の様な塚があるのでしょうか?
寡聞にしてそのような話は聞いたことがありませんが。
981名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 11:40 ID:wugA1MQ9
>>980
そんなの無いよ。全部川に流した事になってるの。
982名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 11:46 ID:ZHNvjMtq
>>981
川に30万もの死体を流せば、間違いなく疫病が発生しますね(W
焼却すればOKなんだが、そうするとまた論理的に無理が生じ・・
無意味な議論が堂々巡り・・
まぁ居なかった者を証明しようとするからこうなるんだけどね。
983名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 12:57 ID:TS9O7PYB
そろそろこの話題も終わりだね。

>>981
死体は以下のサイトによれば、「万人坑」に埋めたらしいぞ。
『二、1984年〜1985年に掘り起こされた江東門での遭難者の遺骨の考証』
『3.「万人坑」遭難者遺骨の正式な発掘』
のくだりを読めば、今後、よほど納得できる遺物でも出ない限り
この話の胡散臭さをぬぐうことは自分にはできないな。
(ガンバッテネ,ドウデモイイケド)

ttp://www.mmjp.or.jp/nankin1937/ikotsu.html
984虐殺肯定派はまずここを読め。:02/03/05 13:36 ID:CwxeGqKm
http://www.history.gr.jp/nanking/lie.html
大虐殺派のウソ写真と証言
985名無し募集中。。。:02/03/05 15:20 ID:2Un5oqFN
984
読めage
986928:02/03/05 15:49 ID:iT7JROsD
ここには、大虐殺はなかったと思いたい、なかったことにしようとする人が多いようだね。
悲しいことだ。写真だの証拠等の信憑性を論議するのはもちろんなんだが、まず
現実的に考えればあの当時中国で戦犯として処刑された幹部?たちがいるってこと。
当事者っていう責任者が処刑されてるんだから死人にクチナシなんだな・・・・
彼らが生きてたらあの当時の状況が細かく分かったのかもしれない。でも、処刑されずに
生き残った残りの兵隊さんたちがいる。彼らの慙愧の告白を受け入れるべきじゃないのかな?しかも40年
間も黙り続けてきて最近になってやっと口を開いた元日本兵の方もいるらしい。旧日本兵の
証言、写真やフィルム、その他の資料、中国の人たちの証言、これらを考え合わせれば
南京大虐殺はあったといわざるを得ない。その兵士たちの証言をコピペしてみようか・・ 

987928:02/03/05 15:58 ID:iT7JROsD
海軍第3艦隊、第11戦隊  
          1997年12月13日 めもりある南京1937inおおさかにて
(司会:松岡環)

司会者 南京に実際にいらっしゃった時の話をお聞かせ下さい。

元兵士 私が南京にいったのは1937年10月18日頃から12月25日頃間で、上海
を起点  として、南京攻略のための長江の遡航部隊にいました。それは第3
艦隊第11戦隊第24  駆逐隊のある船の一員として乗り込んでいたわけであ
ります。

司会者 12月13日に南京にお入りになったと聞いておりますが…

元兵士 朝から南京は今日陥ちるという情報がありましたけれども私どもは
南京のすぐ近  くの浦口だったかな、そのあたりで待機していながら南京
の陸上の砲台との艦砲射撃  の交戦で、その頃の日本の海軍の艦砲射撃は
ものすごく正確で威力があったですから  あまり時間がかからなくて砲台
は沈黙しました。
 その後、砲撃戦とか戦闘状態は終わっていたのですが、上流から中国人ら
しい死体  を整然と積んだ筏が三個か五個流れて来ました。
 死体の積み方があまりにも整然としていたので怪しいと言う事で、中にな
にか変造  物があって何かが隠されて、流されているという予測のもとに
全員が小銃で、目標は  目前ですから腰だめで撃って撃って撃ちまくったような状態がしばらく続きました。


司会者 腰だめというのは?

元兵士 特別に目で照準するのではなくおおよその目標が目前にあるのだか
ら、手で支え  ながら腰に付けたまま発射するのを腰だめといいます。

司会者 先ほど死体が整然ととおっしゃいましたが、どのくらいの高さで?

元兵士 それはね、やはり1メートル半か2メートルくらいの高さであったと
思います。  あまりにも整然と積まれているということが腑に落ちない。何故そんなに絵に描いた  ようにがっちりといわゆる幾何学的に積み上げられたかということで、その中になに  か隠されているという予測をもって射撃したのです。

司会者 南京市内には、城内にはお入りになりましたか?

元兵士 ちょうど南京が陥落したと同時に中山埠頭の沖合、沖合といっても
川幅が1キロ  メートルかそこらの真ん中あたりですから、そこへ停泊して
、17日南京の入場式が  あるということで各船からいわゆる陸戦隊を送り出して私どもは中山埠頭にランチで  上陸したわけですが、それから先は徒歩で中山北路を歩きながら湍江門の厳重に積み  上げられた土嚢のほんの一部からくぐりぬけて中に入ったわけです。

司会者 土嚢を積み上げてるということはそれは戦闘に際して日本軍の侵入を防ぐという  ためのものですか?

元兵士 とてつもない大きな城門の開口部があるのですが、ほとんどそれは
土嚢が積み上げられていて中にはいることはできないけれども、わずかに人
間が通れる隙間が片方、城外から見て右側の方に出入りができる程度の開口
部が残されていました。そこから入って入場式の閲兵がある場所にさらに何
百メートルかわからないでそこへいって待機した。その間にあたり近所の小
公園、ちょっとした広場、あるいはテニスコートだ  ったかもしれません
が、そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました。そ
の人々は中国兵かあるいは市民の方かだれかさっぱりわかりませんが、裸で
殺されている人、あるいは数珠つなぎの人、縄でつながれて数人ずつつなぎ
合わせ  たものを射殺、あるいは銃剣で刺したあとが物々しく残っており
ました。また積み上げられた中には裸で死んでいる。裸の死体はどうしてで
きたのかと思うんですが、たくさんありました。
988928:02/03/05 16:00 ID:iT7JROsD
司会者 17日の入場式が終わったあとも城内にとどまられたのですか?

元兵士 17日の入場式が終わった時点で船にもどりました。

司会者 艦に戻られてからどうされましたか?

元兵士 17日のうちに鑑に戻って、その翌日あたりから毎日毎日トラックで
捕虜とも中  国人ともつかない人々を運んで来ては、中山埠頭から川のな
かへ追い落とす。それを機関銃でもって射殺するということが朝から晩まで
繰り返し繰り返し、トラックで積んで来る度にそういうことがおこっていま
した。

司会者 肉眼で見えたのですか? 

元兵士 そうです。肉眼でも数百メートルしかないのでよく見えるが、私た
ちは見張りに  ついていたので見張り用の望遠鏡で手に取るようにそれは
見えました。

司会者 その御覧になった様子をくわしく話していただけますか?

元兵士 そうですね。なんといいますかね。運んで来た人を川に追い落とし
てそれを銃撃する。機関銃を撃ちまくるのだけれどもやはり川に潜って逃げ
ようとするのですが、やがて息が詰まって浮き上がって来る、又それを撃た
れるという状態が続いて行くし、撃たれた人はその場で沈むかあるいは川の
流れにのって下流に向かって流されていくというような状態が続いていまし
た。

司会者 さきほど中国の市民の方か兵隊の方かわからないとおっしゃったけ
れど服装とか色とかわかりますか?

元兵士 それは白い服だったり黒っぽい服だったり、服装でもって前に兵隊
であったかどうかは見分けられないようでした。

司会者 トラックに積まれて来たおよその人数は?ずっと見てられたとおっしゃっていましたが。


元兵士 人数はまああの頃のトラックですから、トラックに積んだ状態を数
えたわけではないですが二十人とか三十人とかあったと思います。一番疑問
に思うのは、なぜトラックに運ばれて殺される所まで来たのかということ。
私が思うにはなんらかの作業を命じられたか、何らかの使役に使う人々をど
こかに連れて行くということしか想像できないのですが。そうでなければ途

中でトラックから 逃げるなり、あるいはそこまで来て殺されなくてももっ
と他にも殺される場所はあったと思いますけどね。何らかのそういった状態
でだまされて連れてこられたとしか思えません。またそういったことが毎日
のように続いていたのですが、たまには夜になると何かうごめくように叫ぶ
ようにわいわいと炎が揺れて、やはりよく見れば人間が焼き殺されていると
いう状態も見ました。これはまた翌日火事場の焼け跡のように焼けぼっくり
のように人間らしい人々が黒こげになって倒れているのが望遠鏡ではよく見
えました。
989928:02/03/05 16:02 ID:iT7JROsD
司会者 それは人間の形をした焼きこげたあれですか?はっきりと見えましたか?

元兵士 そうですね。人間の形としか思えない。そんなとこに他のものがあ
ろうはずはないのですが。それにまた揚子江という川は毎日毎日水か減って
きます。減水期なので、前に殺された人々が水が減ってくると
共に岸辺に人間の形が泥をかぶってあらわれてくるという、そのようなこと
がありました。

司会者 それは岸辺にいっぱいあるのですか?

元兵士 岸辺に折り重なってそういう状態がある。水が減ってくるとそうい
う状態があらわれてきた。それをまた片付けている中国の人々も目撃できま
した。

司会者 片付けていると言いますと、死体を押し流すのですか?それとも引
き上げるのですか? 

元兵士 なんか穴を掘って引っ張って行くかな…首に縄をつけられたかどこ
につけられた  かよく分かりませんが、くぽみを作ってそこに引きずり込
んで行く。そういうことが  見えました。

司会者 死体の作業をしている人達は何人くらいだったのでしょう?

元兵士 何人くらいでしょうかねえ。そんなもの七、八人くらいでやってい
たと思いますけど。

司会者 それを御覧になったのは? 

元兵士 だいたい17日の後ですね。それ以前入城までに目撃されなかったと
記憶しています。私の見た南京大虐殺とは17日から後のことです。

司会者 それで連日日本兵が銃殺するのを目撃されたのですか?何日ぐらい
続いたのですか? 


元兵士 私が25日ごろまでそこにおったのだからね。その間は続いていたと
思います。27日ごろを最後に佐世保に帰ったことになります。

司会者 そしたら見張りについていらっしゃるのが毎日でしたか? 

元兵士 それはだいたい一日に二時間くらいです。翌日また時間がかわった
形で毎日そのように見張りについていました。見張りというのは、機関兵と
か他の兵士は上がって来ない。水兵とかいわゆる兵科に属する兵隊が見張り
に立つわけです。だから必ず一日に一回、時には二回はまわってくるわけで
すね。

司会者 その間見張りについているときにずっと虐殺を目撃されたわけです
か?

元兵士 そうですね。だいたいそれは毎日続いていました。まあ最初のトラ
ックがついてどんどんと次々と送られてくるわけではないですが、だいたい
一日中そのように時間をおいてはそういう銃撃のような殺人行為、大虐殺は
続いていました。

司会者 他の同僚が見張りについている間も中国の捕虜、民衆・市民の虐殺
があったとお聞きなりましたか?

元兵士 そうです。見張りに立つのが私どもだからよその科の兵隊も「どら
どらおれにも見せろ」と見に来るわけです。そう簡単にだれでも見れるとい
う状況でないので、好奇心が手伝って見に来たと思います。
990928:02/03/05 16:05 ID:iT7JROsD
司会者 当時そのような光景をごらんになって、又ご自分でも銃を握られて
中国の民衆又  兵士、中国人に対してどのような気持ちを持っていらっし
ゃいましたか?  

元兵士 当時はね、私どもは、日本人はほとんどですが、天皇のために死ぬ
ということ、天皇に命を捧げることを最高の道徳として生きて来たわけです。
そのような教育をこどもの頃からされて、私も18,9歳若い頃すでに軍国少年
となってしまったわけですね。だから徴兵検査まで待とうと待つまいと男と生
まれれば必ず兵隊に行くとということになっていましたから、ならば自分で選
べる間に行きたいと、そういうことで海軍を志願したわけです。

司会者 そうして60年目の今、南京大虐殺の日にあたります今日証言してい
ただいたその思いですね、お考えを教えて下さい。

元兵士 60年ぶりにこうしてここにチャンスをいただけて大変感謝している
のですが。これまでにこういうチャンスに私はなかなか巡り合わなかったと
いうことです。常にね、このような事件があったこと、このようなことにつ
いては日本人として深く反省しているわけです。しかし今日、南京大虐殺は
なかった。あるいは従軍慰安婦はなかったと言う人々はどういう人かという
ことです。つまり日本国憲法をなしくずしに解釈を変えて、今日までに大き
な軍隊を作り上げて、再軍備はすでに出来上がったということです。しか  
も、それがアメリカの目下の同盟者としてアメリカにくみする戦争の用意が
着々と進んでいると言う事。新しい安保条約・新ガイドラインの下にアメリ
カが起こす戦争には自動的に日本が引っ張り込まれると言う事。こういう状
態があれば、またしても南京大虐殺に似たようなことがおこるのではと考え
られます。歴史の真実を明らかにして、これをちゃんと自分で確認できる状
態の中でなければ、新しい反省の下に平和な世界、我々の家庭自身も築きあ
げることは出来ない。そういう意味から本日ここに証言に立たせていただき
ました。

司会者 どうもありがとうございました。
991928:02/03/05 16:08 ID:iT7JROsD
992名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 16:10 ID:sLZq3VTG
証言なんぞ読む気にもなれんし、大体実際あろうがなかろうが、俺はビタ一文払わん。
993名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 16:15 ID:eCLl+Yrt
南京に海軍が展開していたか?
994928:02/03/05 16:21 ID:iT7JROsD
●舟橋照吉さん
 「各中隊・各部隊が捕虜をつかまえてきたら、
上官の命令で「処分せい」と言われるのです。
 「皆、好きなようにせよ」と言うから「ハーイ」と
言って、捕虜を皆連れ出していって、ブスッと機
関銃で撃ったりして、玄武湖へ落としてしまうの
です。
 私が一番気色悪かったのは、水面につかって
いる死体が半腐乱で、そこに川エビがすき間な
しについていたことです。」 ●東 史郎さん
 「南京を占領してから40数日後の1月23日の
ことですが、揚子江には死体がたくさん浮いてい
ました。
 また、ベニヤ板製のボートの上に5人の兵士が
乗っていて、先にカギのついている3mぐらいの
棒で、死体を沖に流していました。一人の兵士に
「何をしているのか」と聞くと、「トラックで運んでき
た捕虜を、ここでつき落として、ズドンズドンと撃ち
殺すのがオレの役目」と言っていました。」
995名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 16:21 ID:zzJOVrX9
928はコリアンエンジェル?
996928:02/03/05 16:22 ID:iT7JROsD
■船生退助さん(関東軍第9独立守備歩兵17大隊)

 私の部隊は、河北省の山岳地帯に毎日のように入って、谷間に残る家を焼き払い、
山野に隠された、ナベカマ類まで破壊し尽し、無住地帯からの立ちのきに遅れた人々
をてあたりしだいに射殺していました。
 1941年、秋も深まったうすら寒い日でした。中隊がいた白馬関から10キロのとこ
ろにある西白蓮峪でのことでした。付近は村落のあとかたもなく破壊しつくされている
のに意外にも谷間に一軒家がありました。
 私は部下をつれてその家に近づきました。中にはやせ細って重病らしい老人がボロ
を着てオンドルの上に寝ていました。小さな男の子2人も日本鬼子(リーベンクイズ)が
来たのを身ぶるいして見ていました。
 私が「出て行け」といっても子供は出ていきません。私はすぐ部下に放火させました。
 部下はコーリャンの先に火をつけて屋根を燃やしました。
 家の中にはみるみる煙が充満し、子供たちは出口から入ったり、出たりして、大声で
泣きました。このままにしておいては八路軍にバレると思い、すぐ「あれを撃て」と命じ
ました。5才ぐらいの子が出口のしきいにまたがるようにして倒れ、次にその下の子を
射殺しました。老人は子供たちの最後を見届けるかのように半身をのり出しましたが、
焼け落ちる梁の火玉の中で焼け死にました。
■どうみてもこの戦争の犯罪性は消せない
 1985年、私は意を決し謝罪のため一人で白馬関を訪れました。荒山は緑におおわ
れ、村人は温かく迎えてくれました。しかし40年たっても日本軍によるキズあと…崩れ
た家のレンガ等…は手もつかず、残っているところもありました。
 日本では戦争は終わったとかいってますが、どういう立場からみてもこの戦争の犯罪
性は消せないと思いました。
997928:02/03/05 16:23 ID:iT7JROsD
鈴木良雄さん(59師団110大隊)

 私が初めて討伐に出たのは、昭和16年(1941)9月、山東省莱無県でした。我が部
隊はその村を包囲しました。世が明けるころ、部落から朝飯の白い煙がスーと立ちのぼ
り、平和な光景でした。部隊長の命令で2個小隊が部落の中に入り、手当たりしだいに
家々に火をつけました。いっぺんにして地獄です。
 女子供の泣き叫ぶ声、子供や老人はいちもくさんに裏山へ逃げる、逃げる部落民に待
ちかまえていた重機関銃が一斉射撃。
 部落に残った人には、もう火をつけると同時に撃ち殺しますから、抵抗する人もしない
人も、もう兵士は気がたっていますから、手あたりしだい殺してしまいます。刺し殺す兵が
いる、撃ち殺す兵がいる、火の燃えるコーリャンガラのパチパチという音でいっぱいにな
って、みるみるうちにその部落は血の海になってしまいました。
 部落の中はころがっている死体でいっぱいでした。
 華北の家はカヤの屋根で火をつけるとたちまち燃え出します。この間1時間半ほど阿鼻
叫喚は怒りとなって周りの山々を震わせたのです。
 人間の焼ける異様な臭いがあたりにたちこめました。
 私は初めてあの光景をみて、ものすごいことをやるのだなあと思いました。
 しばらく行くとまだ燃えていない家が4,5軒ありました。大隊長の「誰か焼いてこい」の
命令を聞くと、私は「鈴木をやらせて下さい」と真っ先に飛び出しました…
998名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 16:24 ID:MN9bPkHI
シナ人はデンパ人でよろしい
999928:02/03/05 16:24 ID:iT7JROsD
まあこんなとこでしょう・・・
どうですか?やはりあったんじゃないのかな?
1000名無しさん@お腹いっぱい。:02/03/05 16:25 ID:MN9bPkHI
ない
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