チョンの剣道パクリを絶対に許すな!2

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ちょっと一席。

何故日本の侍は両手持ちの刀になったか。
日本みたいな土地や戦闘の規模を考えると長弓による長距離・精密照射が利く。
しかし徴用した(アルバイト)兵士には長弓は難しすぎる。だから軍事に専従出来る
武家階級が弓の腕を上げる必要があったのだ。
実は室町期あたりまで、武士のたしなみと言えば馬と弓。実際にはそれを融合させた
騎射三物(笠懸・犬追物・流鏑馬)であった。あくまでも剣術はその次。ひょっとすると
プライオリティは水練や相撲と同じ程度だったかも知れない。
さて、それから武家の修練としての剣術=剣道が重きを置くようになったのは、室町末から戦国期
にかけての戦法の変化だろう。モラルが低いが軽量で機動力があり、動員しやすい「足軽」の出現
により、野戦市街戦かまわず白兵戦の機会が増え、馬上の将は弓だけでは立ち行かなくなって来た。
さらに鉄砲の伝来により、戦場での弓の存在は圧倒的に希薄となる。
新戦法・新兵器により、著しく武家の精神支柱となるヨリシロは消えかかっていた。しかし、
戦乱の世ではそれでも良かったのだ。今この時、戦っているという現実自体が何よりの武家としての
レゾンデートルであったから。
(後半に続く)
947 :02/01/15 20:12 ID:VjLE08p5
(946のつづき)
やがて豊臣政権により、天下は統一された。
半士半農出身の秀吉は戦乱の世の終焉を決定づける為に「刀狩」を行った。
兵農分離である。これは農民を生産活動に完全に従事させると共に、戦国の世の遠因
となった「惣」と「国人」の完全なる切り離しである。
ただしこれは「農民」が「農民」たり得る事を強要した政策ではあるが、いつの間にか
「武士」が「武士」たり得る事を強要された側には何のケアも無かったのである。
国内には余剰兵があふれ、未だに戦時経済体制から脱し得ない。
そのひずみは肥前名護屋城に全国の大名を集めて行った、二度の愚行になって現れた。

徳川幕府は兵農分離を推し進め、「士農工商」の身分制度を確立させた。ある意味、
ここで初めて武家が「統治専従」の身分となったのだ。幕府は先ず旗本御家人を整備し、
荒くれの戦闘集団を優秀な官僚に変化させた。キッチリと枠を嵌められた中での地方自治を
任せられた各地の太守もこの職制に倣い、藩士を掌握した。

そして、太平の世となった武士階級も、ただの役人に成り下がるわけにはいかない。
「文武両道」とはこの時代に出来た言葉だろうか。しっかりと「元来の軍事階級」としての
地位を確保し、常に見せ付けておかなくてはならない。被支配層の民にも、また自分自身にも。
そこで「武家のみが所持しているもの」と言えば何であろう?
948 :02/01/15 20:28 ID:VjLE08p5
(付記)
よく知られる剣術の濫觴と言えば上泉、塚原の名が挙がるだろう。これは応仁期の
戦乱での血で血を洗う白兵戦の増加が剣術の重要性を武家に認識させるきっかけと
なったのではないだろうか。意外と「斬った張った」の戦闘はこれ以前には無かった
かも知れない。

韓国にも弓道があるらしい。(「国弓」と言うそうだ)
この弓道は短弓を用いる。明らかに徒歩の卒が用いる短射程の速射用だ。そして道具から
何からまるっきり「モンゴル流」である。(これはあちらさん自身がそう言っている。)

大陸や半島は火薬兵器の使用が明らかに日本よりも早いし、象徴を戴いた武力階級の
幕府=軍事政権が存在しなかった事、逆に科挙で選抜する絶対王権下の中央集権の存在など、
日本のスウォーズマンシップとは明らかに異なるものがあると考える。

以上、駄文御容赦。