――叩きつけるような、雨。
アスファルトに当たって撥ねる雨が、靴下や靴にわずかに染みて
少々不快に感じられる。この時ばかりは、お嬢様らしく、車で送迎
といきたいものだ。
わたしは無意識に右の髪房を触った。べたりと濡れている。厭な
気分だ、何とも――厭な気分だ。
沈黙。
わたしは隣で傘を差して歩く男の顔をちらりと見た。男の顔はサ
ングラスをしているせいで、妙に表情が掴めない。ただ、別に嬉し
いという訳ではないようだ。
――わたしと歩いているのに。
などと、他人が聞いたら怒り出しそうなことを考える。
そうそう、わたしの名前は沢近愛里という。英国人と日本人のハ
ーフ。そしてつい先ほどまで、ちょっと泣いていた、何処にでもい
る、ありきたりの、ごく普通の女の子だ――。
「すまない、一緒に夕食を取れなくなった」
とお父様は言った。仕事だそうだ。これはまあ、いつものことで
あるし、気にしても仕方がないことだ。しかし、発言のタイミング
が悪かった。わたしはちょうどお父様のために肉ジャガを作ってあ
げようと決心して、スーパーで頭をひねりながら、食材を買い込み、
楽しい夕食の団欒を思い描いていた訳だからして。
そんな時に絶妙なタイミングで――いや、お父様が悪い訳ではな
いのだけど――夕食がおじゃんになった、ときた。
今日一日、浮かれて考えていたことが全部無駄になって、おまけ
に首筋に冷たいものを感じたと思ったらあっという間にどしゃぶり
の雨になって。
そんな訳で本当に参ってしまってぐずぐずと泣いていたときに、
この隣の男が「そこまで送ってやる」と言って、傘を差し出してき
たのだった。泣き顔を男の子に見られたなんて、実に屈辱ではある
けれど。幸い雨でずぶ濡れになっていたせいで気付かれてはいない
らしい。それだけは唯一の救いだ。
この男の名前は播磨……ええと、播磨……播磨、なんとかだ。
クラスメイトである。
素行不良。時々喧嘩でもしたのか、生傷を作って学校に出てきた
りする。その割に、学校は滅多に休まない。先日、車に撥ねられた
らしく、その時ばかりは十日くらい休んだだろうか。
で、外見はといえば、ゴツい体にチョビ髭と顎髭。そして授業中
だろうが、体育だろうがサングラスは外さない。
……まあ、ちょっと変わった不良の類だと思う。おまけに髪型も
変だし。
しかし――――。
わたしはもう一度、彼の顔を見る。彼は別段、わたしを見るでな
し、気にするでもなし、ニヤニヤとテレ笑いを浮かべるでもなし、
ただ歩いている。
一緒に、歩いている。
はっきり言って一緒に歩くにはいささか不自由な感じの顔である。
いや……造形は結構男前な気がするんだけど、髭とグラサンが台
無しにしているという感じがして。ウワサになったらどうしたもの
か、こんなところを、あのカメラ小僧に見られたら言い訳及び問答
無用という感じがする。
沈黙。
……この男、何かわたしに喋らないのか。沈黙が苦手だという訳
ではないが、こういう場合はやっぱり男の子の方が面白おかしい話
題を振ってくれるべきではないのか。
それでも沈黙。
いや、もちろん今面白おかしい話題を振られても、わたしはそれ
を上手に切り返すような気力を持っていない訳だけども。それにし
たって――少しはなんか話してくれても。
やっぱり沈黙。
あったまきた! いいわよ、そっちがそこまでやるのならば、わ
たしだって話し掛けたりしない。もしそれで怒ってしまうようなら、
このままずぶ濡れになって一人で帰ってやる、せいせいするっても
んよ!
しかし沈黙。
……不安になってきた。道はこれで合ってる……わよね。この男、
どこか人通りの少ないところでわたしに襲い掛かってこないでしょ
うね。見てなさいよ、美琴直伝の痴漢撃退術で返り討ちにしてやる
から!
だけど、向こうは力強そうな不良だし……て、手加減してくれる
といいんだけどっ。
そんなことを考えていると、隣の播磨が初めて沈黙を破った。
しかしそれは、私に向けた言葉ではなく、ただの独り言だ。
「――冷てっ」
わずかに眉をひそめて、播磨はちらっと自分の左肩を見た。それ
で、よーやくわたしも彼の左肩というか、左半身がかなりの確率で
雨に侵されていることに気付いた。
わたしは自分の右肩を見て、それから傘の柄の角度を考える。
……あ。
当たり前だが、傘というものは大抵一人用に作られている。一人
用の傘を二人して使うには、二人が恋人のように寄り合うか、どち
らか一人が犠牲になることを選ぶしかない。
播磨は、自分が犠牲になることを選んだらしい。わたしは右肩ま
ですっぽりと傘に入っているが、播磨は左肩から足元に至るまで、
絶望的に雨に濡れそぼっていた。
で、その時わたしは唐突にこの男のことを――後で一生の不覚だ
と考えるのだが――いいやつ、だと思ったのだ。
会話をしなきゃ、と思った。
お礼を言わなきゃ、と思った。
何か言わなきゃ、と思った。
思って考えて口に出した言葉は――――。
「……ねえ、あなた肉ジャガとカレー、どっちが好き?」
などと、つい先ほどまでわたしの頭を占めていた問いだった。
播磨はこちらを向いて、少し顔を上げて考え込み――。
「カレー」
と、あっさりとこちらの予想を覆した。
「……」
おいおい。
「……男の子って、肉ジャガが好きだって聞いたんだけど……」
「いや、俺はカレーが好きだ」
かさ、とビニールが音を立てた。無駄になっちゃった、という想
いが脳裏を掠める。
「そか」
「……肉ジャガも好きだけどな」
播磨はそう付け加えた。
その時ちらりと、わたしの持っているビニール袋の中身を見た気
がしたが――これは気のせいだろう。
「……でもどっちかと言えば?」
「カレー」
うわ、断言してますよこの男。
わたしはそんな事を言っていいのかな? というような笑みを浮
かべて言った。
「残念、肉ジャガならすぐに作ってあげられるんだけど」
「……おめー、料理作れんのか?」
播磨が生意気にも大変鋭い質問を投げかけてきた。
「つ、作れる……わよ、たぶん」
「たぶん? おい……料理、作ったことあんのか」
「な、ないけど、作り方は教えてもらったもの!」
播磨はフッ、とこちらを小馬鹿にするように笑った。うわ、ムカ
つく奴。
「知ってるだけで作れるんなら、飯屋はいらねーっつーんだ」
「うぐ」
正論だ。生意気な、不良の癖に。
……正直、料理に自信がなかったのも確かである。そう考えると、
お父様が今日仕事に出かけたのはある意味で運が良かったのかもし
れない。黒焦げのジャガイモを差し出して肉ジャガです、などと言
い張ってもお父様が困っただけだろう。
「いいわよ、これで練習するんだから……」
ほとんど独り言のように呟いた。
「ま、せーぜーがんばりな」
「うん……」
そう、頑張るのだ。チャンスはいくらでもある、練習して、自信
を持って、その後でお父様に作ってあげるのだ。む、そうなるとい
わゆる失敗作を食べてくれる人材が、
「いた」
いたいた。
「?」
よし、この男を実験台にしよう。カレーでも肉ジャガでも、とり
あえず失敗作はこの男に食わすことに決定、うん。
「何ニヤついてんだお前」
………………失敬なやつ。
結局わたしは「そこまでだったら」という播磨が言っていたにも
関わらず、きっちり家まで送らせてもらった――別段嫌がってはい
なかったけど。
「ここでいいわ」
門の前で、わたしは播磨にそう言った。播磨は頷き、ちょっと呆
れたようにわたしの家を見る。
「――けっ、ブルジョアめ」
「何か言った?」
「いや別に」
何やら播磨がブツブツとわたしの悪口を呟いていた気がするが、
聞き取れなかったので気のせいだと思っておく。
さて。
下心があったかなかったか判らないけれど、とにかく送ってもら
ったのだから、お礼は言っておくべきだろう。
「あの」
「ん?」
「あのね」
「んだよ」
雨は降り続けているというのに、妙に喉がカラカラと渇く。何で
もないような事だと言うのに、妙に後ろめたくて、くすぐったくて、
言葉にすることができない。
播磨は少々苛立っているようだった。
「あり……がとう」
やっと言えた。播磨はきょとんとした表情を浮かべて――って、
サングラス越しなんで、ほとんど勘なんだけど――言った。
「別に」
そっけない。
「ちょっと待ってて。タオル持ってきてあげる」
わたしはそう言って走り出した、後ろで「別にいい」という声が
聞こえたかもしれないが、全然気にしない。
走ってドアを開いて家の中に飛び込み、お風呂場からタオルを持
ってきて、傘を持ってまた門の前に戻る。
その間、わずか五分。わずか五分だというのに――。
「あー、こら! 待ちなさいよアンタ!」
播磨のバカは待ち切れずに帰ろうとしてやがりました。
「だから何だ、タオルなら別に――」
口を塞ぐようにタオルを押し当てる。
「いいから、持ってく!」
……播磨は圧倒されたように頷いた。わたしは満足気に頷く。こ
れで貸し借り無しだ。
「じゃね、風邪引くんじゃないわよ。わたしのせいで風邪引いたな
んて事になったら後味悪いしね」
「わーったよ」
やっぱりぶつぶつ呟きながら、播磨は帰っていった。わたしも、
改めて家に帰った。その日はいつも通り、わたし一人で夕食を食べ
た。強いて変わったことと言えば、夜にお父様から電話がかかって
きたことだろうか。
夕食を一緒にできなくて本当にすまない、という電話だった。
わたしは実に物分りのいい娘っぷりを発揮して、「全然気にして
ない、また逢える日を楽しみに待ってる」ということと、いつか、
料理を作ってお父様にご馳走する、と約束した。
お父様は笑いながら承諾した。
うん。
明日の用意をしてからベッドに潜り込み、今日という一日を回想
する。まあ、最悪の一日として終わることだけは免れた気がする。
その点で言えば、播磨には感謝するべきかもしれない。
播磨……ええと……播磨、拳児(名簿で確認した)だったっけ。
チョビ髭で顎鬚で、サングラスの変な不良生徒。今の今までわた
しとはこれっぽっちも関係がなかったヤツ。
そんなヤツに傘を差し出してもらって、あまつさえ一緒に帰って、
仲良く会話して、何と料理(実験)まで作ってあげようと思ってる。
「…………変なの…………」
最悪な一日ではなかったが、とても変な一日だった。
とても変で…………ほんのちょっと、コンマ5mmくらい、愉快
な一日であったように思える。まあ、という訳で。
わたしはあの男が、わたしの料理の腕に感服するという、実に願
望たっぷりの夢を見ながら、眠りに就いた、とさ。
<了>