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| ,,,,,,,,,,, | ソビエト連邦最高会議では
>>1の銃殺が
| [|,,,,★,|] | 満場一致で承認された
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http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/saru/kirakira003.htm 僕は、現代人が自分で自分を癒す手段として、「萌え」が生まれてきた、と考えました。
萌えイコール射精だと言い張る人がたくさんいますが、彼らは射精文明に毒されているのです。
恋愛、性欲、家族の愛情、これらは同じものではない。
しかし射精中毒になった人々は、射精のことを「恋愛」と呼ぶようになり、全てを同一視するようになった。
これが恋愛一元論ですが、内実は、射精一元論なのだ。
彼らは「萌え」もまた、射精の手段にすぎず、しかも低級な射精なのだ、と嘲笑します。
自分たちの射精は良い射精で、萌えは低級な射精だと。
彼らは、射精中毒に陥っているのです。
しかし人間は射精だけで生きるのではありません。
人間には、射精だけではなく、恋愛や家族愛も必要なのです。
幅広い「萌え」の世界は、これら三種類の情動(恋愛、性欲、家族愛)を、補完して満たしてくれるのです。
射精だけが人生だと思っている人間には、萌えの中の性欲の部分しか見えないわけです。
そういう人間が、フィギュア萌え族だの何だのと言い出すわけです。
学校で苛められてひきこもりになってしまった少年が、雛苺の純真さに癒されているだけだとしても。
その、萌えによる癒しの構図が、「射精している姿」にしかみえないのです、彼らには。
それは彼ら自身の姿をそのまま投影してみているだけなのです。
これがつまり、バカ の壁です。
彼らは他人を癒すつもりがない。他人を批判し、嘲り、嘲笑して、殺すつもりなんです。自分さえ良ければいいから。
自分の自我を守るためなら、他人がどうなろうがいい、むしろ他人が破滅してくれたほうがいいのです。
これでは、他人を傷つけたがらない優しい人間は、潰されていくしかない。
兎呂は、そんな愛のない世界に生まれ、
憎しみの無限連鎖の輪の中に叩き落されながらも、
それでもなお、 愛を求め続けるのです。
しかし愛は、ただ求めるだけでは得られません。
なので、兎呂は、自分自身の意志で、愛を作り出そうとするのです。
自分の命を投げ打って、愛を生み出そうとするわけです。
有紀と綺羅の二人の間に、愛を生み出そうとするのです。