「どう、よみ?」
自信と不安がない交ぜになった智の瞳を見て、水原暦は今日何回目かのため息をついた。ノートから、ちゃぶ台を挟んだ向こうにある智の顔に視線を移して、彼女は言う。
「また同じ公式で間違ってるぞ。やる気あるのか、おまえ」
そう問われて滝野智は不満げに頬を膨らませた。
「やる気はあるよ。もうあたしらも受験生になるんだし。なかったらせっかくの春休み最後の日に、わざわざよみなんか呼び出して勉強教えてもらうわけないだろ」
「なんかで悪かったな」
そっぽを向いた暦の横顔を見ながら智は笑う。
「すねたのか? かわいいなあよみは」
「な、なに言って…」
赤面した暦から自然に瞳を反らし、智は両手を床について天井を見上げた。
「あと一年か。早いよな」
彼女らしくもないしんみりとした口調で言ってから、智は上を向いたままで言う。
「よみは、もう志望校とか大体絞ってんの?」
なにげない智の問いかけに、なぜか暦は心なしか表情をこわばらせた。
「ある程度はね。ともこそどうなんだよ?」
「一応考えてはいるよ。あたしが狙える大学なんてたかが知れてるからね」
自嘲するように苦笑した智をじっと見つめて暦は尋ねる。
「どこの大学だよ」
「ん〜、たとえば…とかあとは…」
智の口から出たのは、どれも世間的には三流と言われている大学の名前ばかりだった。
暦はちゃぶ台に顎杖をついてため息混じりに言う。
「まあ、そんなとこだろうな。もっとも、そんなとこでさえ、今のままじゃ危ないけど」
「そういうよみはどうなんだよ」
かわいらしいふくらみを見せる胸の前で腕を組んで、暦をにらむ智。
「私はそりゃあ…とか…とか、あとは…かな?」
暦があげたのはどれも下手したら上に超の字がつくような一流大学ばかり。智は仰向けに倒れこむと、力ない声で言う。
「へいへい。よみ先生にはかないまへんなあ。あたしなんかじゃとてもとても」
「とも…」
数瞬迷ったのち、暦はようやくのことで次の言葉を絞り出した。
「とかなんとか言って、これから猛勉強して私と同じ大学受けるとか言うんじゃないのか?」
強張った暦の笑みを一瞥しただけで、ともはまたため息をついた。
「今度ばかりは無理だよ。あたしが高校受験のとき、どれだけ無理したかなんて、わかってないだろ?」
「とも…」
今度こそ完全に言葉を失った暦。それを知ってか知らずか、智はにやりと笑って身を起こす。
「しっかし、よみも大変だねえ。そんな一流どころ目指すんじゃ、おちおち遊んでられないだろ。ストレスで過食になってぶくぶく太る姿が目に見えるようだ」
「なに言ってる。自分だってのんびりしてられないのは同じだろ?」
智の軽口に、幾分ほっとしたように暦が言うと、智はぺしりと自分のおでこを叩いた。
「それ言われると辛い。ここはぱーっと遊びに行ってイヤなこと忘れるか」
「忘れてどうする?」
お約束のツッコミ。ひとしきり笑ったあとで、智はさらりと言う。
「よみ、志望校のランク落とせばいいのに。そしたら、二度と帰ってこない、高校最後の年を思いっきり満喫できるじゃん」
「ひとごとだと思ってなに好き勝手…」
ぼそりと突っ込んできたよみを無視して、智は拳の底で手のひらを叩いた。
「我ながらナイスアイデア! ああ、別にあたしがさっき言ったみたいな三流校にしろって言ってるわけじゃないよ。せめて一流半か二流ぐらいのところにすれば、あたしだってなんとかなるかも。よみは楽ができる。あたしはいい大学に行ける。一石二鳥じゃん!」
「とも…」
「な、そうしようぜ。せっかく小中高と一緒だったんじゃん。こうなりゃ地獄の底までってことでさ。あ、地獄じゃダメか。ああ、だけど、そうなるとあたしは死に物狂いで勉強しなくちゃいけないよね。よみのためとはいえ、なんて健気なあたし」
「とも…」
「そうと決まった以上は、よみも協力してよね。空いた時間はあたしの勉強に費やすってことで」
「とも、私は…」
つらそうに唇を噛んだ暦と視線を合わせず、智は右手を差し出した。
「まあ、そういうわけで、一緒にがんばろうな、よみ」
「とも…」
親友の手を握り返すこともできず、ちゃぶ台の下で拳を震わせる暦。しばらくの沈黙ののち、智の顔からも笑顔がすーっと引いていった。無言で手を引っ込め、背中を向ける智。
その肩が小刻みに震えていることに気付いて、暦の顔から血の気がひいた。
「とも、ごめん! 私…」
ちゃぶ台を半ば蹴飛ばすような勢いで智に駆け寄ると暦はその両肩に手をかけた。
「とも。とも。私は…その…」
「うっ、うっ…」
しゃくりあげるような智の声。だが…。
「く、く、く…」
「…おい?」
智の声音が微妙に変化しているのに気付いて、暦はこめかみをぴくつかせた。そして、耐え切れなくなったように智が吹き出した。
「ぶわっはっはっは! なに、マジになってんだよ、よみ! あたしがそんな茨の道を選ぶわけないだろ。冗談で言ってんのにマジになって『私は、その』だって! ハ、ハラいてえ!」
「とも! おまえなあ!!」
「わ、よみが怒った。ヘルプミー!」
「待て、こら!」
おどけて逃げようとする智を捕まえて、羽交い絞めにする暦。
「はなせってば。あたしは笑いすぎて腹が痛いんだから…はなせよ」
最後の方は小声で言うと、智は指で目尻を拭う。
「ごめんな、とも」
真顔の暦に、智は微笑んだままで答える。
「いいよもう。十分笑わせてもらったし」
「ほんとに、ごめん」
暦は自らの感情に任せて力いっぱい智を抱きしめた。
「いいって」
智は暦の手に自らのそれを重ねると、あくまで微笑んだままで言った。
「そのかわり、あたしの頼み、聞いてくれる?」
「…なんでこんなことに?」
暦は自らの右手を見つめて小さくごちた。そこには散髪用の大きなハサミ。
床に敷き詰めたレジャーシートの上に椅子。その上にはもちろん智。そして、正面には大きな姿見。
「私は責任持たないからな」
「そんなこと言わずに、変な風になったら責任持って嫁にもらってよ」
「な、なにバカなこと言ってる!」
「ムキになってるし。
「う、うるさいなあ。減らず口叩いてると丸坊主にするぞ!」
口では乱暴に言いながら、暦はいつの間にかすっかり伸びた智の髪を優しく撫でる。
「ほんとにいいんだな?」
「うん。ばっさりやっちゃって」
智は言ったが、暦はあくまでも遠慮がちにハサミを入れていく。
「あのさ、とも」
「ん?」
「いつも私、ともとはいい加減違うクラスになりたいとか、言ってるだろ。あれはあくまで冗談だからな」
「なに改まって言ってんだよ? よみの本心ぐらい、あたしにはお見通しだよ。さっきのこと気にしてんでしょ。いいっていいって。よみは実力あるんだから、少しでもいい大学行きたいっての当たり前じゃん」
「じゃなくって!」
智の言葉を乱暴にさえぎると、暦はハサミを動かしながら照れくさげに言う。
「つ、つまりだな。私には危なっかしい友達がいるから、いざと言う時にはそいつの面倒を見てやんなきゃいけないとか思うわけだ。そ、そのためには、少しでもいい大学入っていい会社目指しておいた方がいいだろ?」
「危なっかしい友達って、もしかして?」
「そうだよ!」
「やっぱり大阪のこと?」
「おまえのことだ!」
「冗談だってば。そんなに顔真っ赤にして怒んなくていいじゃん」
「ったく、おまえは…」
ハサミを動かしながらぶつぶつ呟く暦。智は鏡越しにそんな暦を見ながら声をかける。
「ところでさあ…」
「なんだよ!?」
「少し、髪切り過ぎじゃない?」
「うあああ!!」
悲鳴とともにハサミを取り落とす暦。うろたえながらレジャーシートに散らばった髪を拾い集める。
「それ、意味ないって」
智に突っ込まれて暦は涙ぐんだ。
「とも、どうしよう?」
「大丈夫だって。最初からこれぐらい短くするつもりだったんだから。その代わり、続きは丁寧にやってよね」
「う、うん」
−−−−1時間後−−−−
「どうかな?」
立ち上がってポーズを取った智を、暦は呆然と見つめた。
「よみ?」
反応のない暦をいぶかしんだ智の声が聞こえた風もなく、暦は真っ赤な顔で呟くように言った。
「かわいい…」
「は?」
聞き返されてようやく我に帰ったように暦は両手をぶんぶんと振り回す。
「ち、違う! つ、つまり、うまくやれたなっていうか、その、その」
口ごもる暦をニヤニヤと見つめる智。暦はぶちきれたように自らの頭をぽかぽかと殴った。
「ああ、もう、どうでもいい! そ、それよりみんな呼ぼうぜ。私の傑作を見てもらわなくちゃ」
電話に伸ばした暦の手を握って智は言う。
「いいじゃん。みんなに見せるのは明日でさ。それより記念撮影しよ」
デジカメをオートに設定すると、智は暦に駆け寄り、乱暴に肩を組んだ。心地よさげに瞳を細めたあと、暦は小声で言う。
「別の大学行っても、ずっと友達だよな」
「なに、あたりまえのこと言ってんだ、こいつ!」
笑いながら暦の頬に手を回して引き寄せると智はおどけてその頬に唇を寄せた。
「っ!」
無言で固まった暦の顔からメガネがすり落ちた時、デジカメのシャッターが下りた。
〜Fin〜