952 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 00:25:56.20
cattちゃんよ〜息してる人間と対峙しろってことだよ。
>>952 じゃああなたはセザンヌやピカソと対峙しないのかい?
954 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 00:31:51.35
ピカソとセザンヌだけが人間じゃないよ。
過去の美術作家や音楽家と対峙できないほうが問題だろw
956 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 00:40:26.99
そんなもん誰でもできるがな。スピーカー買えばいいんでしょ?^^
息してるお前はどうなんだよてことだよ?死人は何も言っちゃくれないよ。都合よく解釈して自分に浸ってても何も生まれん。
ちがうな。
cattは真の人間との対話を言っている。
誰でもいいからおしゃべりすることじゃない。
わかるよ、優れた知性の持ち主であり、この国では面倒だ。
お前に返答するようにな。
>>956 おちつけ。
話題は「良いスピーカーはスピーカーの存在を感じさせない」と
「良い芸術作品というのは、作品じゃなくなる」の並列解釈だ。
上段のこの「スピーカー」というのは音楽表現を伝える装置だが、それが「良く」なると
音楽そのもの・演奏そのものと直接触れ合える、つまり(音質的な意味で)
スピーカーが消えるということだ。
視覚的な芸術の場合は、絵なり彫刻なりがこのスピーカーの位置にある。
雑誌に掲載された絵の画像よりも画集の美術印刷の絵の画像のほうが作者に近づける。
しかし、直接作品に向かい合うことよりもそれは鈍い(視覚品質的な意味で)
これを先に進めると、芸術作品というのは、作家の見たものや聴いたものへの
入り口でありスピーカーだ。
ここから下段の「良い芸術作品というのは、作品じゃなくなる」、つまり
作品を通して鑑賞者は作家の「見たもの聴いたもの」に到達できるのだと言っている。
絵だの音楽だのは、結局作家の搾りかすでしかない。
本質的にはそれを見聞きする「作家と鑑賞者」の関係性のうちにしか無いものなんだよ。
たとえばおれが、でかいペインティングナイフで赤い絵の具をがさっとすくって
壁に投げつける。そしてそれを指して「これは赤いバラだ」と言う。
何人かはそれを赤いバラであると認識するし、何人かはしない。
この投げつけられた赤い絵の具は、スピーカーなんだよ。
なるほどな。
そのとき赤い絵ノ具ではなくなるわけだ。
赤い絵ノ具でないものになるとき、
価値が起こされたわけだ。
ツイッター諏訪敦さんにフォローされて恥ずかしいわ
わたしヘタクソなのにじっくり絵を見られていやん
藝大でもあれだけ描ける人なかなかいないからなあ
上手い人って他誰がいるっけ
おしゃれで上手い人
会田さん、寺田さん、ほか知らないや
963 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 10:41:50.98
あ〜後俺かな
>>959 あれ?
作者の意図というのは作品にしかないんじゃなかったっけ?
「これは赤いバラだ」といのは単に作者の一解釈でしかないでしょ。
cattさんがそんなプラトニストだとしたら少しがっかり。
>>964 作品の意図というのは作者と鑑賞者で作られるんだよ。
赤いバラだと作者が言って(作者側の意図)もそれを赤いバラだと認識しない鑑賞者もいる。
ここで問題にしているのは「赤いバラだ」と告げるスピーカーとしての「作品」のこと。
>>965 たとえば「赤いバラ」ではなくて「赤いタコだ」だと認識する鑑賞者がいるとする。
時としてそのような他者の認識が作者に作品の新しい側面を気づかせてくれることもある。
cattさんのいうフロイトの無意識みたいなものだね。
つまり「赤いバラ」であり「赤いタコ」である赤い絵の具が透明になることはありえない。
作者の意図が作品にしかないように、見るものの解釈もまた作品にしかない。
作者の生い立ちや苦労を作品に読み込むようになっちゃうと、それは
ちょっと違うぞとしか言い様がない。
「無意識」というのはフロイトの仮説でしかない。あのおっさんは夢の分析から
無意識なるものを目指したけど、それは前意識でしかないし、哲学的には
一瞥された知覚領野での前認識に充ち満ちた霧だ。
楽器ができたから音楽が生まれたんじゃなくて、音楽が先にあったから楽器ができた。
原始、それは歌であり物音であっただろう。
同様に絵の具や粘土や刃物ができる前から絵画はあり彫刻はあっただろう。
そしてその原始の芸術は、表現者が表現したいそれを相手(自分)に伝えるために
やはり「これは赤いバラだ」と言った(描いた・演奏した)だろう。
スピーカーというのはそういう意味。
で、「一瞥された知覚領野での前認識に充ち満ちた霧」の中から表現を取りだそうとするのが
作者の意図であり、見るものの意図は「それは何か」に終始する。
作品を通してその「何か」に到達しようとするそのさまをを芸術という。
>>967 「無意識」は以前cattさんが比喩的に用いていたからここでも比喩的に引用しただけよ。
言いたいのは作品というものが作者の一解釈に安易に還元されない得体の知れない側面を常にもっているということ。
しかも良い作品ほどそういうものだと思う。
だからつまらない作品だったらともかく、良い作品が透明になることはありえない。
>>969 えーとその「透明」というのが分からないんだけどそれは「消える」を
指しているのかな?
>>970 作品を知覚する「過程」がなくなるってことだね。
それと芸術を語るときになにかと「表現」という言葉を使うのにはなんか抵抗があるなあ。
日本人特有かも?と思ったりする。
英語だとrepresent(表象)とexpressがあって、expressはけっこう近代的な意味に限定して使うよね。
日本人はその両方を曖昧にして表現と言う。するとみんな近代的な表現主義者になっちゃう。
>>971 自分が言うのはそういう意味じゃない。
見えなくなるのではなくて見えているものが指し示すものが置き換わるということ。
>>972 expressだよ。つまり意図そのものの「押し出し」。
シニフィアンに対するシニフィエは意図ではなく意図が目指す内容であり、それは
意図は「何か」を目指して作品に固定され、それを通してしか内容に届かない。
優れた作品は、意図を越えてないようそのものを見るもの聴くものに届ける。
その時作品(スピーカー)は「消える(解消される)んだよ。
たとえば良い音楽家の演奏を目の前で聴いている時に、とつぜん音楽そのものが
消えうせて音楽家と感動そのものを共に持つ瞬間がある。というと分かるだろうか。
>>973 えー、そうなんだ?
私はどちらかというと逆だなあ。
良い作品を見ているとき、消え失せるのはむしろ作者。
この作品を最も深く理解しているのはこの世で自分だけだという気持ちになる(笑
>>974 作品と向かい合う時に作者などは最初からいない。
そこには作品しかない。だから「身振り」や「生い立ち」など不要だと言ってる。
「作品」というのは、決して「作品」としては見えないし聞こえない。
ある絵の前に立った時に、その隅々までを一度に見ることは人間には生理的に
不可能だ。視覚には中心視と周辺視というものがあって中心視(ピントが合わせられる範囲)は
わずか2度ほどの視角しかない。「見回す」ことによってしか「そこに何が描かれているか」を
確認することはできないし、「そこに何が描かれているか」と作者の「意図」はぜんぜんべつのもの。
>>968 何かを奏でたい、何かを描きたい・・・・・・
そういった欲求がヒトをして道具を生み出させたんだろうね
その「何か」に限りなく近いモノを求めてね
>>973 それって要するに「過程」がなくなって「結果」が残るって言ってるようにしか聞こえないんだけど。
でも芸術作品は過程を経験することの中にしか存在しないと思う。
それがイデアのような何かに変換されてはい終わり、なんてことにはならない。
だからあれプラトニストだったの?って思った。
>>975 そうだよね。それはそう思うよ。
>>977 イデアおようななにかではなくて、そこにそれが生まれ出ずる瞬間に立ち会うんだよ。
だから芸術の鑑賞というのは知識ではなく体験としてつねにあるのさ。
そうそう。
過程というのはメディウムの経験ということ。
つまり、芸術の場合、メディウムはいつまでたっても透明にならない。
メディウムの中にとどまることが芸術の経験だから。
10代の頃に美術館でセザンヌのセントヴィクトワール山の前に立った時、自分の前で
その絵が消えうせて、セザンヌの眺めた山が見えた。ああいう視覚体験って忘れられない。
>>980 ああ、好い体験だね
自分も20代に大原のポロック「カットアウト」を観て、絵の中に吸い込まれていく様な体験を覚えた
>>981 巨匠の作品は、そういう意味で実物と向かい合うことが大事だね。
画集やwebでは得られない体験になる。
983 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 21:56:39.94
俺は小さいころ自分が描いた鳥が絵の中で動きだし飛びまわるのを見てビックリしたかな
他者の表現から芸術を見つめるのもいいが世界そのものと対峙する方がはるかに真の芸術と向き合える
本当に新しい表現は絵の中にはない。
うん、何事も謙虚に向き合う事だ
cattはポロックを巨匠だと思ってるの? cattが立ってるのはそちら側じゃないと思ってたんだけど
986 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 22:41:05.43
だからcattはインテリ似非表現者や。ただ崇め流布するだけの人。
ポロックが巨匠かどうかと今の話題はあまり関係ない。
>>982からは明らかにポロックを巨匠と見ているようだけど違うの?
例えば
>>981がラッセンの絵を観て…とかだったら、巨匠の作品は…なんて答えないでしょ?
>>988 話題の筋から離れてるぞ。
誰かが誰かを巨匠と思ったら、それはその誰かにとっての巨匠ではあるだろうさ。
>>988 いずれにしてもポロックは巨匠だけどね、何か?
991 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 23:10:49.62
くるしいのがれ。もう認めろ芸術できる人ってすごいな〜それをわかる俺もすごいな〜だろ?
芸術家というのは芸術という罰を背負わされた者のことだ。
得意がることなどできない。
993 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 23:15:58.70
罪wwww本人には苦しみの方が多いかも知れんが俺は希望だと思うな、そう思わんとやってられん。
994 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 23:17:14.15
罰w
罪じゃないw
996 :
ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2012/11/29(木) 23:19:48.44
報われるかもしれない一瞬のが尊いんや。だから希望
>>989 ポロックをどう見るかとcattのこれまでの話はけして無関係ではないよ
これは突き詰めていくと抽象表現主義やミニマリズムにも通じていく
ただこの件でcattと議論しても平行線で終わるのは目に見えてるからする気もないけど
ポロックに対して巨匠の作品ときたもんだから思わずビックリしちゃって
別に変な意味じゃなく純粋な興味で訊いてみただけだよ、cattはポロックをどう見てるのかさ
>>997 個人的興味としてはポロックはどうでもいいかな。
まあ、そうだろうなw
巨匠なんて言うからビックリしたよ
1000 :
981:2012/11/29(木) 23:52:49.86
>>997 誰が巨匠なんて、たいした意味はないよ
その人にとってどれだけのインパクトを与え得るかどうかでしょ
件の絵を観るまでポロックなんて名前くらいしか知らなかったし、
その時はモネの睡蓮を観に行った訳だが、それはたいした事なかった
だからといって、モネについての評価は揺るがないけどね、ま、当たり外れだ
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