デッサンについて知ってる知識をありったけ出すスレ

このエントリーをはてなブックマークに追加
78ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη
観念論も結構だが、
科学的手法をとる作家ばかりでないのは明白。
感情・思考・思想の表現が、一回性の場合だってあり得る。
有り体に言えば、科学者が「科学は爆発だー」とは言わない。

また作家・芸術家が美のみを追求するという前提も
現代ではもはや通用しない。
79ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:03/07/12 00:18
>>78それじゃ出口が見えないだろ
80ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:03/07/12 00:27
>>78それこそ出口のない観念論であり、飛躍だ。
科学的手法をとることが話の主題ではない。
テーマはデッサンについてであり、普遍的な芸術要素をどのように
解釈し、表現様式として創りあげるか、あるいはそれを打破して
新しい価値観を生み出すのかという話しだ。
81ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:03/07/12 00:53
>>63 話題がそれたので>>63の問いかけに戻します。

たとえばリンゴを型にとって石膏を流し込み、リンゴを再現したとします。
たぶんリンゴには見えても、柔らかさのない、美味しくなさそうな偽リンゴに
なってしまうでしょう。そこに手を加えるとするなら、彫刻家は自分の感性
の中に在るリンゴの気持ち、すなわち食べたくなるような、あるいは赤みを
感じさせてくれるような質感を得るため、もう少し形をイビツにするかも
しれません。ちょっと押しつぶしてデコボコさせるか歪めるか。
リンゴの持つ固有の特徴を、強調したり省略したりして。それが実物とは違う
食べたくなるような、本物以上にリンゴらしく作るための手心を加えた
デフォルメということでしょう。
82ナナシ:03/07/12 00:55
今日がんばって作ったよ!いいのたくさん集めたから見てね!
http://www3.free-city.net/home/espresso/adult/xxx.html
8378:03/07/12 01:05
言葉が足りなかった。
例えば、デッサンする個人は、自分が対象をそして世界をどのように観えているか観ているかを
手探りで把握しようとし、それを画面に痕跡として定着させようともがく。
対象の裏側には収斂する一定の答え・理想型・美などといったものが決してあるという保障などはなく、
極めて個人的な意識・無意識、あるいは集団的無意識も含まれるかも知れないが、
そこを出発点として、ときには昨日とはまた違ったやり方で一から出直さなければならない。
デッサンという行為に、「仮説を立て、検証し、発見して」いくという
整然とした作業構造が必ずしも必要条件ではなく、
より混沌とした過酷な様相にあえて身を投じることも甘受しなければならない。
その点でデッサンの制作プロセスは科学のそれとは大きく異なるといえるだろう。
人間の理性の積み重ねとして発展した科学と、
衝突する理性と感情を持つ人間の営み、あるいは破壊と創造というダイナミズムとしてのアート。
もとより、ゲージュツに出口などない…
と思う。