戦争論

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46山を造る
 極言すれば、城塞の様々な付加価値を取り除き純粋に戦闘的な城塞として定義する
条件は、地形を加工することにより敵の機動発揮の制限と我の防護手段の提供という
二つの目的を達成することにあった
 有史以前から、人々は外敵の脅威に対する生命と財産の保全、物資の集積地、
政経の中枢、出撃拠点の提供、交通の要衝の確保、地域の防衛等、戦略戦術を問わず
様々な目的を達成するために様々な形態の要塞や城塞都市を連綿と建造し、その際に
山頂に籠り、丘を盛り、川を引き込み、堀を切り、壕を掘り、崖を削り、障害物を置き、
落穴を準備し、城壁を築き、櫓を構え、通路を屈曲させ、銃眼を穿ち、その他様々な
施設を建造したが、それらの努力は全てこの二点の一方または両方を追求することに
帰結していた

 投射兵器に頼ることは、量的に劣勢な守備隊が戦力を温存し、同時に攻撃軍の
戦力を消耗させる最も現実的かつ効果的な方法だった
 キルゾーンを準備して攻撃部隊の突入を防ぐと同時に投射兵器の射程内に拘束しつつ、
遮蔽物に守られた守備兵が防御射撃を行って損害を累積させて後退を強要し、
可能ならば追撃することが守備隊にとって最も望ましい戦況の推移だった


そんだけ
47武装都市:2001/08/21(火) 20:43
 要塞や砦を建設することはそれ程困難ではなかった
 例えば、直径100メートルの小高い丘陵を加工して周囲に幅10メートル、
深さ3メートルの壕を巡らせ、周囲を杭で防護した小規模な砦を建設する場合、
掘開土量は約5000立米となり、100名の作業員が1日10時間作業するならば、
壕を掘るのに17日、その土を盛って丘を補強するのに3日、約1メートル間隔で
合計約320本植杭するならば、伐採と加工に3日、植杭に2日が必要であり、
その他補強作業を含めても1ヶ月程度の作業期間で可能であり、切迫した状況では
更に工事日数を短縮することができた
 このような小さな砦でも500〜1000名の守備兵を収容することができ、
軍事物資を集積すれば侵略者にとって無視できない存在となったし、更にこのような
砦を複数建設して連携させれば縦深防御地帯を構成することも可能だった

 勿論、十字軍以後に建造された石造の城塞都市や要塞の建造は手間がかかったが、
それでも余程巨大な城塞を除けば大抵の場合建築期間は5年以下ですみ、更に定期的に
改築と増築を繰り返すことにより強度を増していった
 都市の防衛施設を改築し増築することは費用がかかったが、軍事的な抑止力に
なるだけでなく通商にも好影響を及ぼしたため一種の投資と考えられていたし、
封建領主は自らの威信のために熱心に要塞を強化しようとしていた


そんだけ
 城塞が単独で戦術的に勝利する好運に恵まれることは希だった
 大抵の場合、救援軍が来るまで持ち堪えることができるか否かが守備隊の任務の
成否を左右した
 そして、救援軍は常に都合良く助けに来てくれるとは限らなかったし、
どれだけ強力な大要塞も決して不落ではなかった

 中世ヨーロッパにおいては、常に助けに来る保証のない救援軍と巨大な1個の要塞に
依存するだけでなく、複数の防衛拠点によるネットワークを構築し、一部の地域を犠牲に
してでも時間を捻出し、敵の兵站の限界点を引き出し、最終的に撤退を余儀なくさせ、
その後野戦軍を繰り出して領土を回復する戦略が一般的だった
 一部の流血を伴う例外を除けば、各城塞はあらかじめ定められた防御予定日数を
防戦すればその後は無用の損害を回避するため出来るだけ有利な条件で開城しようとし、
そのような行いが名誉を傷つけることはなかった

 交渉の余地が残されている以上、この防衛戦略は当時の攻城戦のバランスが防衛側に
あったことを考えれば優れたシステムであり、百年戦争初期の野戦におけるフランス軍の
一連の敗北はこの動きを一層加速させることになった
 要塞化された町を中核としてその周辺に防塞化された村落や教会を配置し、
更に町同士が防衛、備蓄した軍需物資の融通、情報交換を密接に協力し合い、また
封建領主と連携することにより、点の防御ではなく面の防御に依存するこの戦略は、
百年戦争中期における戦闘の一般的なスタイルとなった


そんだけ
49襲撃者:2001/08/21(火) 20:46
 攻城戦の基本的なテクニックは、恐らく最初の城塞が登場したのとほぼ同時期に
確立していた
 最初に本格的な攻城部隊を編成し、攻城戦術を体系化したのはアッシリアだった
 アッシリアの軍隊が保有する投石機、弩砲、装甲された梯子、破城槌、攻城塔といった
仕寄道具の大半の原型となる攻城兵器群は、計算された土工技術と共に周辺の城塞都市を
圧して大帝国を建設する一因となった
 その後、ヒッタイト、マケドニア、ローマ等の世界帝国はいずれも攻城戦のテクニック
を修得し洗練していったが、共通していたのは防御側が常に戦術的に優位に立っていた
ことだった
 いかに強力な城塞も陥落させることは不可能ではなかったが、それを可能にするには
膨大な時間と帝国が傾きかねない労力と経済力が必要だった

 中世ヨーロッパも例外ではなく、攻めるにしても守るにしても軍事資源の中の
無視できない大きな部分が攻城戦に費やされた
 相変わらず防御側の優位は強大だった
 攻撃側の最大の武器は、攻城兵器でも土工技術でもなく、まさしく忍耐にあり、
自軍が空腹と疫病に悩まされる前に防衛側が飢えて降伏することを当てにして
待つことだった

 交渉が完全に決裂したり大規模な攻城戦に必要な時間を短縮する必要に迫られた場合、
両者にとって最も不幸な事態、つまり本格的な戦闘が行われることになった
 そして、そのような最悪の事態においてはどのような兵器でも多少の関心を向けずには
いられなかった


そんだけ
50あの壁を越えろ:2001/08/21(火) 20:47
 城塞の戦術的優位を保証する最大の施設は高く築かれた城壁だった
 城壁は攻撃側の機動発揮の制限と防護の提供という二つの要素を満たし、
他の施設は基本的に城壁を補完し城壁の戦術的な効果を向上させるための存在だった
 故に、攻城戦における攻撃側の焦点は、いかに城壁を破壊または無力化して
城壁の内部に攻撃部隊を送り込むかにかかっていた
 城壁で最も脆弱である筈の城門はしかし、守備隊の戦力が集中し、塔や様々な施設で
防衛されていたため常に弱点となる訳ではなかったし、それどころか、最も強靱な
防御施設の一つでもあった
 このため、大抵の場合攻撃目標は防御側の兵力が比較的手薄な城壁に向けられる
ことになった

 城壁を克服するため様々な手法が試みられた
 古代の世界帝国が好んだ傾斜路の構築は確実な方法だったが、膨大な時間と労力が
必要とされたし、それだけの土量を簡単に調達して迅速に運搬できる訳ではなく、
また無数に存在する城塞全てに試みる訳にはいかなかったため現実的ではなく
ほとんど顧みられなかった
 攻城塔は機動性が劣悪で、城壁を囲む壕を克服できなかったし、例え壕を埋め立てても
転圧されていない盛土の軟弱な地盤は攻城塔を支えきれなかった
 坑道を掘り進めて城壁の土台部分を破壊する方法は、後に火薬の普及による
爆破作業との併用により一層効果をあげるようになった
 しかし、土圧から坑道を支える補強工事と排水作業を行わなければならなかったため
技術的な困難がつきまとい常に成功するとは限らなかったし、水壕に対しては事実上
不可能だった
 結局、最も現実的で単純極まりない方法は、城壁を物理的に破壊することだった


そんだけ
51矢を放つ鉄の瓶:2001/08/21(火) 20:49
 中国の錬金術の副産物である火薬を使用した武器、即ち火器の最初のものが
ヨーロッパでいつ出現したかは明らかではないが、少なくとも1320年代には
珍しいものではなかった
 初期の大砲は大型の矢または弾丸を撃ち出すもので、投射物や砲の強度の関係から
装填する火薬の量が少なく、全く効果を期待できない代物だった

 敵の隊列や要塞に弾丸や矢を投射するための兵器は既に存在しており、
大砲は新兵器として現れたのではなく、その列に加わった新参者の一つに過ぎなかった
 大砲は費用が高くつくにも関わらず急速に普及したが、それはその効果が優れていた
訳ではなかった
 実際には、それまで大工の占有していた大型兵器のシェアに参入しようとした
金属職人たちの努力の結果だった

1382年のヘント反乱軍の勝利と敗北は、火器が野戦に投入された初期の頃において、
火器の戦術的な可能性を示唆すると同時にその限界も明らかにした
 それは、大砲が戦局に影響を及ぼす事実上唯一の効果はパニックを引き起こす
可能性があること、そして、フランス軍のようなプロの軍隊に対しては全く効果がない
ということだった


そんだけ
52その巨大な道具:2001/08/21(火) 20:50
 大砲の攻城戦への投入は、野戦とは状況が違っていた
 低い発射速度は長い期間続けられる攻城戦では余り問題とならなかったし、
鈍重な機動性も一度据え付けてしまえば無視することが出来た
 少なくとも、大砲は攻城戦に活用するために必要な努力を傾けるだけの価値があると
認められたのだった
 それでも、14世紀を通じて十分な量の揃わない大砲は目立った効果を上げることは
なかった
 それは主に経済上、兵站上の理由で、戦術や技術上の問題ではなかった
 材料が木材で、大工の木工技術で作られる投石機と違い、大砲は金属職人の特別な工場
で作られ、弾丸とともにその後戦場へ輸送しなければならなかった
 そして、砲は重く、陸上を素速く輸送するためにはとんでもないコストがかかった
 また、金属製の砲は修理が困難で、戦場では事実上不可能だった
 とどめに、推進剤として高価な火薬を大量に必要とした
 これらの困難は決して克服できないものではなかったが、指揮官が
解決しなければならない新しい課題となった
 結果、攻城砲が威力を発揮できるよう大口径化し、また十分な量が投入されるように
なるのは、火薬の値段が下落し始めた14世紀の最後の10年間になってからだった


そんだけ
53他の砲より大きな砲:2001/08/21(火) 20:51
他の砲より大きな砲

 火薬と砲の値段が下がり入手しやすくなったことは、砲の需要を劇的に増大させ、
軍隊はより大口径の砲を要求するようになった
 1375年のサン・ソーヴール攻城戦でフランス軍が投入した最大の攻城砲は
約100ポンドの石弾を発射し、1377年のオドルイク攻城戦でブルゴーニュの
フィリップ豪胆公は約200ポンドの石弾を発射する砲を投入した
 これは、この時代の最大級の砲だったが、それ以上の砲が製造されなかった理由は
技術的なものではなく単にコストがかかったからだった

 ほぼ一世代後の1408年、軍事理論家クリスティーヌ・ド・ピザンは
300〜500ポンドの弾を発射する攻城砲を提唱したが、現実は既に彼女の勧告を
超える大口径攻城砲が続々と製造されていた
 1409年にブルゴーニュ公はそれぞれ700ポンドと900ポンドの石弾を
実際に発射可能な射石砲を購入したし、様々に命名された奇怪な巨砲群は攻城戦の
戦場にその姿を現していた
 その中には現存する最大口径の射石砲である「プムハルト・フォン・シュタイル」
も含まれていた
 「プムハルト」が実際に射撃を行ったとする記録はないが、口径が約80センチで
約1500ポンドの石弾を発射できるとされていた

 このような巨大な射石砲が出現した理由は、当時の火薬を扱う技術的限界にあった
 当時の技術者と砲手は暴発を恐れて安全係数を高く見込んでいたために
装填する火薬の量が少なく、低初速の石弾に十分な運動量を与える最良の方法は
口径を大きくすることだった

 もっとも、このような巨大な射石砲だけでなく、射石砲を支援するより小口径で
ある程度の機動性をもたせた攻城砲も大量に生産されていた
 攻城戦では時間と手間がかかる再装填作業を行う射石砲の操作員を防護する
必要があった
 防御側は火砲の射撃を集中して作業を妨害し、あわよくば砲自体を破壊しようとした
 彼らは木製の大楯で防護されてはいたが、より効果的な対処方法は、攻撃側も城壁の
上にいる防御側の火砲へ射撃を集中することだった
 この新しい攻城機械群は、攻城戦を従来の方法より遙かに短期間で終結させる
可能性を示すことになる

 1412年、ブルージュ市攻城戦においてフランス軍は従来の攻城兵器が
全く効果がないを見て、「ドゥレ・グリード」という鍛鉄製の射石砲を投入した
 全長約5メートル、口径25インチ、750ポンドの石弾を発射するこの怪物は、
2日間にわたり約20数発の石弾を発射して二つの塔を貫通し、塔一つの土台を破壊した
更に城壁を貫通し、または飛び越えた石弾は市街地を転げ回り、多数の家屋を破壊した
 守備隊はその後間もなく講和条件を協定して降伏した


そんだけ
54砲と火薬樽と弾丸:2001/08/21(火) 20:52
 15世紀初めの重攻城砲への依存は、そのまま従来の攻城戦のスタイルを
ひっくり返した訳ではなかった
 確かにブルージュで「グリード」の果たした役割は決定的だったが、
それは砲撃の心理的効果が物理的な威力に劣らず強力であることを証明しただけだった
 1415年から行われたイングランド軍の北フランス侵攻において、イングランド軍
は多数の攻城砲を投入し、更に日を追う毎に増強していった
 半年は必要と見積もられていたアルフルールは僅か5週間で降伏し、カレーは更に
短期間で陥落した
 しかし、ルーアンは、住民が鼠を食べて飢えを凌ぐに至ってようやく開城するまで
半年近く持ちこたえた
 ファレーズは散漫な砲撃を受けて1ヶ月で降伏したが、降伏を拒否した守備隊は
更に1ヶ月半にわたる激しい砲撃を受けながら城郭の一角で頑張り続けた
 ドゥルーは1ヶ月で降伏したが、続くモーは7ヶ月近く持ちこたえた

 攻城砲は、指揮官に強固に防護された城塞を降伏させるのにかかる日数を短縮すると
約束した
 一つの市を包囲することは大量の人員と装備を長期間拘束することを意味し、
野戦軍の行動を著しく制約したから、城壁の前に立つ時間が短縮できれば政治的にも
金銭的にも十分見返りがあった
 攻城砲は常に短期間での決着を達成した訳ではなかったが、うまくいく場合もあった
 これはひとえに最も微妙な心理的効果にかかっていた
 砲が投石機に勝る唯一の点は、投石機より大きな弾丸を発射することだった
 砲は投石機より早く城壁を壊し、包囲された市の内部に損害を引き起こすことが
出来たが、最大の貢献は守備隊にこれ以上の抵抗が無意味だと納得させ、進んで講和する
気にさせることだった

 攻城戦で大砲が新たな役割は、百年戦争の最終段階で生じることになる


そんだけ
55バキャ:2001/08/21(火) 22:05
ワーイ!そんだけ氏が来てくれた、パチパチパチ。、けれどここもその
内に「このスレッド大きすぎます」って成るのが決定したな。その時は
また新しくすれば良いか。
56名無し三等兵:2001/08/21(火) 22:14
もうそろそろ、シャルル8世とイタリア式要塞が登場するかな
わくわく
57名無し三等兵:2001/08/21(火) 23:52
後詰戦についても、もう少し知りたいナリ
58魔女には降伏しない:2001/08/22(水) 00:10
 15世紀の中頃まで、イングランドは攻城砲戦力でフランスを凌駕し、その優位によってフランス北部と西部で支配権を確立していた
 フランスは、イングランドを占領地から叩き出すべく、イングランドを圧倒する攻城放列を編成しようと試みることになった
 フランス軍の戦略目的は、持てる戦力の大部分をイングランドの要塞の数を
減らすことに集中することだった
 軍隊の出撃基地であると同時に占領地を支配する拠点である要塞がなければ、
イングランド軍は占領地での支配力を維持できなかった

 1430年代末以降、フランス国王は直属の「王の軍隊」の創設に力を注ぎ、
1441年末には1万5000の兵力を擁するに至った
 その中にジャン・ビュローとガスパール・ビュローの強大が組織した砲兵隊があった
この動きは、それまで各戦役ごとに掻き集められていた砲兵が、統制された人員と
編成と兵站組織を備えた常設の「国王砲兵隊」へと改編されたことを意味した
 王が望む如何なる場所、如何なる時においても攻城砲と支援火器を大量かつ安定的に
供給できることを意味した

 ノルマンディー(1449〜1450年)とギエンヌ(1451〜1535年)の
一連の戦役は、フランス軍の軍事改革の成果を証明することになった
 ノルマンディーで、王は同時に4個軍団を投入した
 4軍は「王の軍隊」の部隊を中核とし、それぞれ砲兵隊を随伴していた

 それは、ビュロー兄弟の功績は大きかったが、彼らのみに帰するものではなかった
 国王に個人的な忠誠を誓った新しい種類の兵士たちの、彼らを募った徴募官の、
新しく組織された兵站官僚の、そしてその他大勢の改革を担った人々の功績だったし、
大砲の製造業者の功績でもあった
 少なくとも、ヒステリックな聖女の功績でないことだけは間違いなかった


そんだけ