戦争論

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189戦争実業家
 ヴァレンシュタインの皇帝軍は、早くも1632年11月のリュッツェンの戦において
横列の数を減らして斉射効果を改善し、砲兵戦力も増強していた
皇帝軍2万は街道沿いに野戦陣地を占領してスウェーデン軍を迎撃した
 スウェーデン軍2万2000の最初の攻撃は右翼で限定的にしか成功せず、
左翼では優勢な皇帝軍砲兵の側射により攻撃が頓挫し、中央ではヴァレンシュタインの直接指揮による
逆襲で逆に押し戻された
 敵陣地に喰い込んだ左翼を肩部として中央の突破を企図したグスタフは、
護衛部隊と共に予備隊の攻撃開始線へと進出したが、
皇帝軍騎兵に捕捉され混戦の中で押し包まれて犬のように撃ち殺された
 一説によれば、重度の近視のグスタフは皇帝軍の隊列を友軍と誤認して不用意に接近してしまい、
敵と気づいた時にはもはや手遅れだったという

 王冠を戴く身でありながら一介の勇敢な戦士のような死を遂げた「北方の獅子王」は本望だったかも
知れないが、それに関係なく血みどろの戦闘はより凄惨に進展していった
 スウェーデン軍は最高指揮官の戦死にも動揺せず、むしろ戦意を高揚させて猛烈な突撃を開始し、
両軍で王の死骸を巡る壮絶な争奪戦が展開されたといわれるが、恐らく真相はそうではなかった
 激情にまかせた無秩序な攻撃はグスタフ・アドルフが彼の軍隊に要求していたものではなかった
 スウェーデン軍の本領は、如何なる状況においても機械のように精密に動くことだった

 両軍は皇帝軍の陣地線上で攻撃と逆襲の応酬を繰り返す大出血戦を演じ、
最終的に皇帝軍が日没とともに整然と撤退したことによって戦闘は終わった
 スウェーデン軍は、王を失ったことよりむしろ余りの損害の多さ故に追撃を断念した

 これ以後スウェーデン軍は守勢にまわり、1634年9月にネルトリンゲンで壊滅的な敗北を喫し、
三十年戦争における主導的な立場を失うことになった
 以後、ヴィストック(1636年)、第2次ブライテンフェルト(1642年)、ヤンコウ(1645年)
の戦闘でスウェーデン軍は勝利を収めたが、既に三十年戦争における「スウェーデンの時代」は
終わっていた
 1635年10月、フランス・スウェーデン条約が締結され、フランスの本格的な介入が始まる
 「フランスの時代」の開幕であった


そんだけ