ヨーロッパの剣は…

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 1543年、ハプスブルク家は麾下のスペイン軍を師団単位に組織した
 いわゆる「テルシオ」という名称は、スペインが野戦軍を3個の師団に分割した
習慣から命名されたもので、兵員は定数約3000名だった
 テルシオはさらに12(時には10)の中隊に分かれ、内訳は槍兵中隊10個と
銃兵中隊2個であった
 槍兵中隊は219名の槍兵と20名のアルケブス兵で、銃兵中隊は224名の
アルケブス兵と15名のマスケット兵で編成され、さらに戦闘士官2名、下士官11名を
加え、戦闘員は定数240名だった
 その他、各中隊には補給士官1名、従者、ドラム奏者、笛吹、従軍牧師等が存在し、
中隊本部機能をまかなっていた

 この槍兵2190名に対して銃兵678名(3.23:1)という比率は、
歩兵の主な任務が依然として隊列を維持して戦場の一角を占領し続けることに
あったことを意味し、16世紀半ばの段階で銃兵より槍兵が重んじられたことは、
テルシオの役割が基本的には防御にあり、その役割を果たすために銃兵は
補助的な存在であったことを示していた
 後にテルシオの関与した戦闘で、スペイン軍が火器を中核に据えた戦術によって敵を
圧倒したことは事実だったが、スペイン軍の歩兵組織は依然として保守的で防御的な
性格のものであった

 16世紀が進むにつれて指揮官たちは次第に火力戦闘を重視するようになり、
17世紀に入ると槍と銃の比率はほぼ1:1近くに達した
 スペイン軍がテルシオの槍と銃の比率を1:1に改めたのは1636年だったが、
実際にはそれよりずっと早い段階で変容を遂げていたのだった


そんだけ