ヨーロッパの剣は…

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651王様の軍隊
 1534年、パヴィアの戦の後に身代金を払って釈放されていたフランソワは、
王国の各地方から7個歩兵軍団を徴募するよう布告する法令を発布した
 各軍団は6000名の兵力を備え、各地方の名を冠していた
 軍団の装備は槍、矛槍、アルケブスで、槍兵、矛槍兵とアルケブス兵の比率は
平均して3.5:1だった
 フランスの軍団は、その編成パターンがテルシオと似ていたにもかかわらず、
テルシオ程の名声は得られなかった
 最大の要因は、貴族相当の身分出身者のみに限られた士官の数の不足にあった
 兵卒に対する士官の比率はテルシオの約半分であり、テルシオ程柔軟な
部隊指揮は期待できなかった
 また、フランスの軍団が現地人のみで編成されていたことも一因となった
 スペインの軍団は、故国から遠く離れて戦う古参兵で編成されていた時が最も
強かった
 そして、そのような軍団は外国人の比率が本国人を圧倒していた
 当時、一般に本国人部隊は外国人部隊に対して劣るというのが軍事上の常識だった

 当時のフランスの軍事改革においてもう一つの興味深い事実は、装甲槍騎兵を
存続させたことだった
 フランス軍は騎兵の戦術単位をより小規模にしたものの、全軍における騎兵の比率は
パヴィア戦以前と同様に常に10%強を維持していた
 フランスの意図が根本的な変革にあったのではなく、かつて成功した伝統を
維持しながらの改善にあったことは明らかだった
 つまり、ある程度のバランスをとって砲兵と装甲槍騎兵の統合を続行することであった

 フランス軍は、パヴィア戦の敗因を混戦の中で部隊の運用を見誤ったと考えており、
ペスカラの指揮手腕よりもむしろフランス軍の不手際にあったと考えていた
 スペイン軍の戦術の変化にあったとは思いも及んでいなかった

 最も、当時のスペインのテルシオを見る限り、こちらも兵力配置の根本的な変革を
目指していた訳ではなかった
 自軍の編み出した新戦術(ほとんど間に合わせの代物だったが)に編成が追いついて
いなかった
 実際、勝者も敗者もパヴィアの戦の戦術的教訓を正確に理解していなかった


そんだけ