大砲の敵への最初の砲撃は1331年のチヴィダーレ攻城戦であった
1346年、イングランドはクレーシーに3門の牽引砲を持ち込み、
前哨戦となる長弓射手とジェノヴァ弩兵との射撃戦の際、砲撃により弩兵が潰走する
きっかけとなったと言われているが、実際に砲撃したかについての真偽は明らかではない
当時の野戦での大砲の効果は、技術的な理由から主に「心理的」な
ものだと言われているが、それも長続きしなかった
1385年のアルジェバロタ戦において、フランスと同盟関係にあるカスティリャ軍は
イングランドと同盟しているポルトガル軍に対して16門の大砲を使用した
ポルトガル軍は総兵力7000、うち装甲槍騎兵が3000で、イングランドの
長弓射手700の支援を受けて典型的な長弓戦術で戦おうとしていた
一方、カスティリャ軍の総兵力は1万8000、うち装甲槍騎兵はフランスの支援を
加えて6000、軽装甲騎兵2000であった
カスティリャ軍は恐らくフランス支援軍の提案によりポルトガル軍の
背後に軽騎兵を送り込んでポルトガル軍を包囲し、仕上げとして16門の砲で
突撃準備射撃と言える砲撃を行った
これによりポルトガル軍がパニックを起こすと期待されたが、
ポルトガル軍はその場にとどまり、隊列を崩さなかった
結局、カスティリャ軍は徒歩で突撃を行い、撃退され、後退戦で更に損害を増やす
ことになった
初期の大砲は、期待に反して戦場で有効な働きをしなかった
1387年のカスターニャロの戦でヴェロナ軍は鶏卵程度の石弾を発射する小口径の
48連装牽引砲9門を投入しようとした
この砲は一斉射撃によって弾幕を張る点で一種の機関銃に近いものだったが、
戦場に到着する前に戦闘は終わっており、当時の大砲が野戦軍に比べていかに
鈍重であるか、野戦における火力集中がいかに困難かを証明しただけに終わった
結局、火力の集中は大砲を揃えることではなく、多数の兵士に小火器を持たせること
でしか達成できないと認識されるようになった
そして、それを実現するのは技術的、経済的に砲よりも困難な仕事だった
そんだけ