んで?日帝が勝ったほうが良かったて言うのアンタ達?

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250名無し三等兵
翌朝(二十七日)、陸軍長官スチムソンは、ハルノート交付の結果を聞くために、国務長官ハルを朝一番の電話に呼び出した。ハルはスチムソンに「私はそれ(日米交渉)から手を引いた。今はもう君とノックス、陸海軍の手の中にある(
I wash my hand of it. It is now in hand of your and Nocks, Army and Navy.)」と答えたのである。

ハルの回答を聞いたワシントンの陸海軍の総司令部は、計画にしたがって、直ちに太平洋各地にある米軍基地に極秘の警戒警報と作戦命令を発令した。海軍作戦部長が発令した電報(機密電報二七二三三七号)の内容は「本急報を戦争警告とみなすべし。太平洋における情勢の安定を目指す日本との交渉は終了した。日本の攻撃行動は数日中に予期される。所命の防衛展開を実施せよ」であった。当然のことであるが、各部隊は作戦準備を開始し、戦闘態勢に入った。例えば、ハワイからウエーキ島に向かったハルゼー提督指揮下の空母エンタープライズでは、「本艦は戦時態勢下で行動中」との戦闘命令第1号が三十日に発令され、昼夜を問わぬ厳戒態勢と戦闘準備が命ぜられた。こうして、米陸海軍は、ハルノート交付の翌日から対日戦争態勢に入った。この事実もまた、ハルノートの性格を雄弁に物語っている。

即ち、ハルノートの内容は、これまでの日米交渉の成果を根底からくつがえして「シナ及びインドシナからの軍事力の全面撤退、汪兆銘政権の否定」等、当時の日本政府が到底承認できない要求をして、日本に全面屈服かそれとも戦争かの決断を迫ったものであった。
251名無し三等兵:2001/07/11(水) 12:47
事実、このハルノートを受信した東京では、実質的な宣戦布告であると認識した。国政の中枢にあって日米の国力を熟知し、対米戦争には勝ち目がないことを憂慮して、外交交渉の優先を主張していた人々だけでなく、これまで日米交渉の妥結に心血を注いでいた東郷外務大臣以下の担当者も、戦争によって活路を見出す以外に道がないと覚悟したのである。かくして、十二月一日の御前会議で、米国並びに英国との開戦が決定された。そして、翌二日「新高山登レ、十二〇八」の開戦電報が発せられ、八日午前三時一九分、連合艦隊の機動部隊が真珠湾を奇襲攻撃した。

「ハルノート」については、その原案である財務長官モーゲンソーの試案を書いたことで有名な財務省特別補佐官ハリー・デクスター・ホワイトが、後にソ連のスパイとして糾弾されただけでなく、ソ連KGBの元諜報員ピタリー・パブロフの証言によって、ハルノートそのものがソ連で作成され、ホワイトに提供されたものであることが明らかになった(この経緯は、須藤真志著「ハルノートを書いた男」文春新書に詳しい)。

ハルノートが実質的な宣戦布告であったという、真珠湾に始まる日米開戦に関する研究としては、米国歴史学会会長のチャールス・A・ビーアド博士の「ルーズベルト大統領と一九四一年の開戦」とシカゴ・トリビューンの記者ジョージ・モーゲンスターンの「真珠湾」が双璧である。特に、モーゲンスターンの「真珠湾」は、明解な分析と膨大な出典に特色がある名著であるが、渡辺明氏の翻訳が昨年十二月に「錦正社」から出版された。ハルノートや真珠湾など日米開戦の歴史に関心がある人には必読の書であろう。併せて紹介する。