んで?日帝が勝ったほうが良かったて言うのアンタ達?

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248名無し三等兵
防衛庁からの戦史「ハルノートと開戦」(SECURITARIAN 2000年10月号より)

日米戦争が日本にとって無謀な戦争であることは、
当時でも充分に認識されていた。
躊躇する日本政府に開戦の決断を迫ったものは、ハルノートである。
国務長官ハルからの覚書(ハルノート)とは、どんなものだったのか。

防衛研究所戦史部調査員/永江太郎

来年は日米開戦から満六十年である。日米戦争が日本にとって無謀な戦争であったことは、今日では常識であるが、当時でも充分に認識されていたのである。昭和十六年二月、日米交渉のために米国に派遣する野村大使に対し、松岡外相は「太平洋に平和と繁栄を招来することは日米両国に課せられた天与の使命にして」に始まる訓令の中で、「米国に対し進んで戦争せんと考える者は我が国に一人もなかるべし。不幸日米事を構える如きことあらば、それは必ず米国民より積極に働きかけ開戦すべし。米国は未だかって受け身にて開戦したることなし。米国は日本と戦争し果たして何を獲んとするや。大和民族を絶滅せんとするものなりや」と述べているように、戦争を望む気持ちは微塵もなかった。

しかし米国政府は、石油の全面禁輸、日米首脳会談の拒否と対日圧迫を強める一方だったので、日本政府も、昭和十六年九月六日に、十月末までに交渉不成立の場合の日米開戦を決意した。それが「帝国国策遂行要領」であるが、これを決定した近衛首相は、対米戦争に自信なしと開戦に反対して退陣した。後継の東條内閣も、十月の開戦決定を白紙にかえして、改めて十一月末を目途に日米交渉に努力することになった。このように、開戦を躊躇する日本政府に、開戦の決断を迫ったのがハルノートである。

東京裁判の判決文で、パール判事が、米国の現代史家アルバート・ノックの論評を引用して「ハルノートのようなものを突き付けられたら、モナコ王国やルクセンブルク大公国といえども武器を取って戦ったであろう」と名言したとおり、形式は覚書であるが、実質的には宣戦布告であった。そして、このハルノートが宣戦布告であることを、最も明確に認識していたのが、米国政府であった。

米国政府が、対日政策を最終決定したのは、昭和十六年十一月二十五日である。この日の午後、ホワイトハウスの大統領ルーズベルトの執務室に、国務長官ハルと陸海軍の首脳が集まって対日戦争計画を審議した。陸軍長官スチムソンの日記によると、この会議の議題は、如何にして日本に最初の一発を撃たせるかであった。最後に、ルーズベルトは日本の攻撃を十二月一日と予告して、その準備を命じた。

そして、翌二十六日、野村吉三郎、来栖三郎両大使が国務省に招かれ、ハルから覚書(ハルノート)が直接手渡されたのである。