「あきいえの回想」
先日の戦闘で、犬になる以前から最も信頼の置ける友人を失った。
吉野に戻り、彼の部屋に行くと、そこは見慣れた彼の部屋ではなかった。
彼の私物はすでになく、あるのは備え付けの机とベット、それと小さな鉢植えひとつになっていた。
あの鉢植えで、彼は何を育てていたのだろう?
彼の母が好んだ花という事は思い出せる。
でも、どんな花だったのか思い出せない。
彼はこの醍醐旅団の者としては変わった男だった。
殿下グッズを集めることもなく、ともすれば『萌え』の心さえ持っていなかったのしれない。
ただ、殿下への忠誠心は非常に高かった。
仲間を叱咤激励し自ら果敢に戦う姿に私は憧れさえ抱いた。
彼は一度だけ除隊を望んだことがあった。
「もう、殿下の為だけに働くことが出来ないかもしれない。除隊申請を提出した」
私はその話が信じられなかった。
殿下に忠誠を誓い、殿下の元で働けることに幸せを感じ、醍醐旅団としての誇りを持った仲間だとは思えなかった。
一笑に伏した。そして罵った。
「貴様に憧憬の念さえ抱いた自分が恥かしい、どこへなりと失せろ」
翌日、彼は申請を取り下げた。
除隊申請の一件から半年ほどたったころ、長期休暇を利用し、彼の里帰りに同行した。
父母ともに十年程前に他界しすでに帰る家もない私には彼の誘いが嬉しかった。
道路脇に西瓜の無人販売所が点在し、水田の中から蛙の声が響く、彼の故郷はそんな所だった。
彼のたった一人の家族“彼の母”に迎えられ、数日の間、家族同然にもてなしてくれた。
初めて食べた『母の味』に涙が出そうになった。
またいつか来ると約束して吉野に戻った。
帰りの夜行バスなかで、彼がふと漏らした言葉から彼の母が難病を患っている事を知った。
除隊申請を出した頃、母に残された時間が少ない事を医者から告げられたらしい。
彼は“見たとおり元気だから大丈夫”とは言ったものの、心配している事は傍目にも十分わかった。
私は何も言えなかった……
それから数年、彼の母は医者の言った『余命』が嘘のように快方に向かっていることを聞いた。
私も自分の母のことのように喜んだ。
そして今年の夏、彼の実家に私も“里帰り”することを約束した。
その後、私は殿下の犬になる事を望んだ。
彼は当初反対したが、お前の望むこたならばと認めてくれた。
しかし、納得のいかない表情には変わりなかった。
不意に見知らぬ男が入って来た。
「おい、川本、居るか。お前のお袋さんがなくなったそうだ……」
閑散とした部屋に呆然としつつ男はチラと私を見て、無言で部屋から出て行った。
もう二度と帰らぬこの部屋の主が戦場で散ったのと同じ頃、彼の母もこの世を去った。
うまく思考がまとまらず陰鬱な気持ちのまま兵営を出る。
いつのまにか雨が降り出していた。
途中、殿下に御会いした。
殿下は負傷兵らの見舞われる為か花束を携えられたまま、すっと屈んで私と視線を合わされた。
いつもの優雅で尚且つ威厳に満ちた殿下でなく、まるで花を愛でる少女のようなやさしい雰囲気の殿下が私を撫でられる。
「あきいえ、何かあったの? 大丈夫?」
普段なら誰の言葉より心に入る殿下の御言葉が意味を成して聞こえない。
強くなりだした雨音と殿下のお持ちになられる花束だけが現実感をもっていた。
思い出した、あの鉢植えの花は……。
殿下の御声を遠く聞きながら、いつか親友とその母に会いに“里帰り”をしようと思った。