泣ける話

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272みっし
米国議会図書館に保存されていた、氏名不詳の陸軍兵士日記。
児島ノボル著『天皇と戦争責任』(文春文庫)収蔵『ある日本兵士の日誌』より。
※(カッコ内は筆者の換字、又は註記)
読みにくいかも知れないけど、我慢して読んでね。

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(昭和)十七年十二月二十八日
朝○時三十分きしょ(起床)福山二時二十分出発。
糸崎にてめんかいしました。三時二分に糸崎出発。
広島(二字不明)めんかいじょう(面会場)に六時三十分につきました。
皇(行)軍で(来)ました久市兄上にがいせんも(凱旋門)であいました。
宇品にて十四時二十分に次太郎兄上にヨシエさんめんかいしました。
宇品十五時四十分にて出発、十六時二十分に舟にのりました。
舟十八時三十分に宇品出発、宮島神社に(以下数字が消去)

(十二月)三十一日
朝佐木わん(佐伯湾か?)を七時三十分出発、十四時より衛兵にでました。
十七時ごろ九州島がみえなくなりました。

昭和十八年一月一日
衛兵りかばん(原文まま)をしてをりました。
一時四十分てきせんすいかん(敵潜水艦)みえました。みな(皆)でました。
なみ(波)わ(は)あまりなく衛兵より十四時にかい(帰)りました。

(一月)十二日
朝○時四十分にラバウルわんにつきました。
朝七時にを(起)きました。舟五十セキを(居)りました。

十五日
朝四時より皇(行)軍しました。七時よりだいきゅうし(大休止)をしました。
十五時よりやまのなかを皇(行)軍しました。
二十二時三十分に西ぼうえき(西貿易店?)につきました。
第六十三部隊しょねんへい(初年兵)の家にとまりました。

十九日
朝五時にを(起)きまして中隊本部しえき(使役)をしました。十四時より雨がふりました。
二十日朝四時ごろ、ラバウルに敵機ばくげき(爆撃)にきました。

二十一日
(朝)五時に(起)きまして七時三十分(以下三文字不明)部隊本部にゆき、けいき(軽機)をもってかい(帰)りました。
十三時より山にたきぎをとりにゆきました。二十二時より敵ひこうき(飛行機)がラバウルにきました。

三十一日
朝五時にを(起)きまして山にいも(芋)をとりにゆきました。中隊十三時よりえんしゅ(演習)をしました。

二月十四日
朝二時より敵き(機)ばくげきにきました。ちじょうさげき(地上射撃)ばく五き(爆撃機五機か?)を(墜)としました。
(一字不明)軍らんやくこう(弾薬壕)第二号をか(丘)に(爆弾が)を(落)ちました。戦死十七にん(人)をりました。
七時に第二号(に)ゆきましてみました。

(三月)十日
(朝)六時より第五号行(き)ましてたま(弾丸)をあ(揚)げました。黒ひめ(姫)丸。

十一日
(朝)六時より第八号ゆきまして、ニュギニヤに行く舟奉公丸にたま(弾丸)、
をりたたみ(折畳み)舟を(お)よび米、ビイル、さいだ(サイダー)をつみました。

(四月)二十六日
マナ(ラ)リヤのけつえき(血液)のけんさのためにやすみました。

(四月)二十八日
さぎょう(作業)わ(は)やすみました。はたけをこさえました。九時ごろ雨が降りました。ばらばらと降りました。

五月一日
四時三十分を(起)きましてさぎょう(作業)わ(は)やすみました。ねつ(熱)がでて衛兵わ(は)大出君かわりに出ました。
九時二十分ごろ雨あがりました。十四時にねつ(熱)がでました。二十時ごろ雨降りました。

(五月)七日
(朝)四時三十を(起)きました。七時中隊長(二字不明)しました。やすみました。
ゆめに西父上母上、兄久市ゆめみましたよ。

(五月)八日
やすみました。マナ(ラ)リヤがよくなりましたが、またまたテ(デ)ングねつ(熱)になり、ねつ四十一ド(度)でました。

(五月)十一日
今日朝ねつがでて、くるしくありました。

(五月)十六日
今日きぶん(気分)がよくなりて、朝せんたく(洗濯)に行き、畑にも行きました。
十五時雨降りました。夕雨あがりました。

七月二十日
今日作業休(み)でした。せん(先)発わ(は)でました。中隊(三時不明)八郎ほか六人亡(くなり)ました。


********************* ここで日記は終了 ***********************