祝!大井篤著「海上護衛戦」再販!

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67ZEKE
>>66
大正11年の海軍軍備制限条約(ワシントン条約)から昭和5年のロンドン条約に
さかのぼるんですよ。
特にロンドン条約の時の統帥権干犯問題といわれる事件が決定的になってくるんじゃないかな。

ごく簡単に...。

大角岑夫大将が海軍大臣だった時にこの軍縮条約賛成派(条約派)を次々にクビにした結果、
加藤寛治・末次信正(いずれも最終時に大将、GF長官経験)といった艦隊派が海軍部内をしきることになって、
対米6割海軍で対抗するには「月月火水木金金」の猛訓練が始まっていくと。
この時、加藤大将らに「船に制限があっても、訓練には制限はなか。」と言ったのが、東郷平八郎元帥。
なんでもその後の海軍軍備についても大鑑巨砲主義で、航空方面についてはいい顔をしなかったらしい。
既に退役していたとはいえ、海軍の軍備については予算申請の前には東郷元帥に見せて、
了解を得ることが慣習的になっていたらしい。
井上成美氏(終戦時海軍大将)が「東郷さんは日本海海戦ではよかったが、自分で晩節を汚した。」
と言っているのはこのこと。

伏見宮も異例の長期にわたって軍令部部長を務めていて、やっぱり大鑑巨砲。
軍令部はどんな船を用意して国防に当たるかを考える所だから、その中で二次的と考えられる
海防艦は後回しになってしまう。
時期的に人事にも影響力があっでしょう。(大角大将が大臣だったのと一致したんだっけ?)

山本五十六の親友で海軍兵学校同期、ハンモックナンバー一番の堀悌吉氏もこの大角人事の時に海軍を追われた一人。
もちろん条約派で山本氏のクラスの出世頭。
ちょっと興味深いところで南雲忠一氏。この人艦隊派。

かなり大雑把でごめん。
文献は難しいなぁ。何がいいだろ...。