城塞が単独で戦術的に勝利する好運に恵まれることは希だった
大抵の場合、救援軍が来るまで持ち堪えることができるか否かが守備隊の任務の
成否を左右した
そして、救援軍は常に都合良く助けに来てくれるとは限らなかったし、
どれだけ強力な大要塞も決して不落ではなかった
中世ヨーロッパにおいては、常に助けに来る保証のない救援軍と巨大な1個の要塞に
依存するだけでなく、複数の防衛拠点によるネットワークを構築し、一部の地域を犠牲に
してでも時間を捻出し、敵の兵站の限界点を引き出し、最終的に撤退を余儀なくさせ、
その後野戦軍を繰り出して領土を回復する戦略が一般的だった
一部の流血を伴う例外を除けば、各城塞はあらかじめ定められた防御予定日数を
防戦すればその後は無用の損害を回避するため出来るだけ有利な条件で開城しようとし、
そのような行いが名誉を傷つけることはなかった
交渉の余地が残されている以上、この防衛戦略は当時の攻城戦のバランスが防衛側に
あったことを考えれば優れたシステムであり、百年戦争初期の野戦におけるフランス軍の
一連の敗北はこの動きを一層加速させることになった
要塞化された町を中核としてその周辺に防塞化された村落や教会を配置し、
更に町同士が防衛、備蓄した軍需物資の融通、情報交換を密接に協力し合い、また
封建領主と連携することにより、点の防御ではなく面の防御に依存するこの戦略は、
百年戦争中期における戦闘の一般的なスタイルとなった
そんだけ