おじいさんやおばあさんから聞いた
戦時中の心温まる話を聞かせて下さい。
2 :
名無し三等兵:2001/07/23(月) 01:31
焼夷弾が落ちて来て、目の前の親子がミンチになった。
おじいさんの話。
あの日、京都が曇ってたお陰でお前は生きてる。
私の人生は天気次第だったのね。
>3
それを言うなら小倉だ。
市街地に住んでいたので近くに爆弾が落ちた。
電信柱に人の内臓がひっかかっていたそうだ。
学校の校庭に爆弾が落ちて・・・・というのも聞いたことがある。
6 :
名無し三等兵:2001/07/23(月) 01:39
戦争はすばらしい。
7 :
uc:2001/07/23(月) 01:42
福岡の太刀洗飛行場の近くで小学生がグラマンに機銃掃射され子房〜
8 :
名無し三等兵:2001/07/23(月) 01:44
ウルトラマンが助けに来てくれたそうな。
>>4 うちのばぁさまはそう言ってたんだYO!
「それは違うぞ!」なんて言えるか?
昨年死んだし。
10 :
名無し三等兵:2001/07/23(月) 01:47
憲兵隊の連中の玩具にされていた美人未亡人の話。
11 :
名無し三等兵:2001/07/23(月) 01:51
零戦がB29に特攻したのを見たぞ。カッコよかったなー。
と、目を細めていってました。
12 :
名無し三等兵:2001/07/26(木) 06:24
age
13 :
名無し三等兵:2001/07/27(金) 12:51
age
悲しい話ばっかじゃん
15 :
名無し三等兵:2001/07/27(金) 14:03
実家の近所で漂着機雷が爆発。野次馬含め200人以上子房
16 :
赤紙じじい:2001/07/27(金) 18:13
血筋じゃないが。
あまりぱっとした若者ではなかったし、戦争へ行くのもいやだったが、赤紙が来たそうな。
世間体があるから仕方無しに行くことにしたが、元が貧乏なもんでまだ童貞だったそうな。
ほしたら、ガッコの先生が隣町まで連れてってくれて、死亡軍人の未亡人とやらせてくれることになったそうな。
でも、その頃の家は小さくて、死んだ旦那の遺影がかけてある部屋でやらにゃならんで、
怖くて結局起たなんだそうな。
それが知れて、村に帰ったらみんなに馬鹿にされたそうな。
それで切れて、その晩学校の若い女先生の所へ包丁持って夜這いに行ったそうな。
そしたら、未亡人トコに連れて行ってくれた先生が先に夜這いかけていて、
「未亡人は好みじゃなかったんか」と気遣ってくれて、ちゃんとその後やらせもらったそうな。
その後、調子に乗って村一番の美人の子の所へも夜這いをかけたんだと。
そしたら、簡単にやらせてもらえたんだと。
本人は「みんなして夜這いに来るからもうなれた」と言ったそうな。
そしたら頑固親父が入ってきて、「軍隊に入るんじゃッたら、こっちも覚えていけや」
といって、カマほったんだと。
娘ッ子とやりながら親父にカマ彫られるのは、極上だったそうな。
こうしてじじいは戦場へ行ったんだと。
中国大陸では、やりたいだけやったと。
戦争が終わって帰ってきたら、頑固親父はなぜか未亡人を妾にして子供産ませていたと。
娘ッ子とやって出征した奴らは殆ど死んだが、生きて帰ったヤツらも親父のカマ掘り怖がって、
娘ッ子の所にゃ来なかったと。
軍隊でカマ掘りになれたジジイが3Pやろうと夜這いかけたら、未亡人込みの4Pになったと。
その後、親父の子供を引き取る条件で、娘ッことジジイは結婚したと。
17 :
名無し三等兵:2001/07/27(金) 19:40
果てしなくドキュンなエピソードだ。
18 :
:2001/07/30(月) 21:51
19 :
名無し三等兵:2001/07/30(月) 22:43
ある憲兵将校から聞いた話しです。
俺は米軍機が不時着したという事で、確認しに逝ったらパイロットは重傷だった。
そこで病院に収監したのだが、手当ての甲斐なく死亡した。そこで俺は近くに教会
があったから神父からキリスト教徒の埋葬方法を伺い、土葬で且つ十字架を立てて
やった。一方で俺の同期で同じ体験した奴がいて彼は死体を火葬場に持っていって
焼いてやり骨壷に入れて埋葬したんだ。これが命の分かれ目になったんだよ。戦後
GHQが不時着パイロットの遺体回収に来たんだが、俺が埋葬した遺体は捕虜とし
て人道的に扱われた事が確認され、且つキリスト教徒として埋葬してくれたと感謝
された。ところが同期に奴は虐待したので証拠隠しに火葬し且つ日本人と見分けつ
かないように埋葬したのだろうとなり戦犯で死刑になった…
と語ってくれた。
20 :
名無し三等兵:2001/07/30(月) 22:59
友人の祖父は無抵抗のB-29の乗務員を町内代表で竹槍で刺し殺したそうだ...が
21 :
名無し三等兵:2001/07/30(月) 23:00
憲兵だった祖父は中国人のスパイを正義のために射殺したそうだ...が
23 :
名無し三等兵:2001/07/30(月) 23:13
私のおばあちゃんから聞いた話。
とある地方都市に住んでいたおばあちゃん一家。
おばあちゃんが町はずれに買い物中(昼間)に空襲になって、
おばあちゃんは家族が心配で、なんと空襲下の町中へ走っていったと。
空襲自体は大したことがなかったので、幸運にも家族は無事だった。
私が「それおばあちゃんが危なかったじゃん?」と聞くと、
「そうなんだけれどねえ。とっさになるとねえ」と照れ笑いしていました。
そんなおばあちゃんも、一昨年ガンで死にました。
ホロリ・・・
25 :
名無し三等兵:2001/07/30(月) 23:31
母方の祖母の親父さんは満鉄職員で、当然というか家では中国人の召使いを大量に
雇ってたそうだ。で、近所の家では召使いを蹴ったり殴ったりで犬並みの扱いだっ
たが、祖母の家ではそんな事はせず、あくまでも人間として扱ってたそうだ。よそ
で酷い扱いを受けてる召使いを見かねて曽祖父がその家に怒鳴り込んだりもしたそ
うだ。
でもって45年8月。終戦の詔勅が流れ、一体これからどうしようと家族中で話して
いると召使い頭が部屋に入ってきて、「あんた達はほんとに良くしてくれた。他の
家の召使い達とも相談したが、何も言わずこの道を通って逃げろ」と言ったそうだ。
その召使いの表情から尋常ならざるものを感じたので曽祖父の一家は取り敢えず
簡単な荷造りをして夜中に家を脱出。その後色々あってどうにかこうにか日本に
引き揚げたのだが、その途中で風の噂に聞いた話では、曽祖父のいた町は曽祖父
脱出直後八路軍に焼き討ちされて、生き残った人間はほとんどいなかったらしい。
26 :
名無し三等兵:2001/07/30(月) 23:40
27 :
名無し三等兵:2001/07/30(月) 23:42
>>22 「私は貝になりたい」(元は「私は牡蠣になりたい」だったかも)の話
知ってる?
極東軍事裁判って無茶苦茶理不尽なモノだったらしいよ。
靖国には戦犯が祀られてるから公式参拝はダメ なんて言っている
バカ外相にも是非読んでもらいたいな。
28 :
名無し三等兵:2001/07/30(月) 23:51
>>27 極東軍事裁判はA級戦犯を裁くもの。BC級裁判は別。
>>27 貝になりたい、どころじゃない理不尽さやん、あれ
30 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 01:34
31 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 02:12
日露戦争あたりまでの戦争はほのぼのとしてたらしいね。
昼間は大砲を撃ちあって、夜になると塹壕からでてきて、
ロシア人はウォッカ、日本人は焼酎なんかを持参して宴会を
やってたらしい。「明日もお互い頑張ろうな」てな具合だった
らしい。
32 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 05:23
個人的にはウラミもない人達を闘わせるだから戦争ってすごいよね。
>>29 俘虜収容所で少ない食料をやりくりして牛蒡を食べさせたら、敗戦後
「木の根を食わされた」と訴えられて死刑!ってのも・・・
34 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 12:37
今、婆さんに戦時中の話聞いたら、
「爆撃もされんかったし、14人の大家族だったけど親が漁師だったので、
食い物もたっぷり有った。特に不自由は無かった」
とのこと。
田舎は良いね〜
なんと酷い!鬼畜米英め!
NHKでやってたから見た人もいるかも
インパール作戦のドキュメンタリーで、元兵士のじーさんにインタビューしてた。
そのじーさんは
「一週間分の食料がこれだけの米」
といって手のひらをお椀型に合わせた。
つづく一言にのけぞったね。
「これで部隊全員分」
あんたよく生きて帰ってきたよなぁ。
戦争には負けたかもしれないけど、このじーさんはある意味勝者だと思たよ。
37 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 20:00
うちの爺さんは、軍族で、南方へ、 いっていた時、アメリカ軍の飛行機が
落ちたところに、ちょうど行き逢い アメリカ兵を捕虜にし、勲章をもらい。
東京裁判の時に、呼び出され 死刑に、成る所を、裁判官が、その兵隊さんで、
おまえは、優しくしてくれたので 無罪と 言われて、情けは、人の ためならず。
と、思った。といっていた。
死刑から、無罪になり、今は、代議士を動かしている身分にまで出世したと、わらっている。
年中 重役で。海外を、旅行していゆゆ毎日で、ある。
アメリカむへいさん ありがとう。 八十三歳
39 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 21:32
>>38 じいさんが一所懸命、孫のふりして書いてるのかもしれんぞ。
情けは人のためならず、って言葉の使い方が珍しくあってる。>37
>>39は大正解かも知れない・・・
41 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 21:39
37は山下清の文章みたいだ。
父方の祖父は大陸で戦車兵をやっていた。
ところが操縦兵がヘボで、ある日道端の溝にはまりこんでおもいきりずっこけ、
祖父は戦車のなかで左腕を折ってしまった。これが唯一の負傷というから呑気だね。
ちなみにヘボ操縦兵はというと、「ぶん殴ってやった」(祖父談)そうだ。
43 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 21:51
>>36 ドキュソメント太平洋戦争でしょう。
あの話しを聞いた後に北の飢餓報道で「我家の夕飯は片手分しか米がない」
と言われて、そんなに米が配給出来るのか、援助はいらんなと思ったのは私だけ?
44 :
名無し三等兵 :2001/07/31(火) 21:58
鉄兜に敵の弾が当たって貫通したのだが、弾がそのまま
兜の内側をぐるぐるまわったんだって。めちゃめちゃ熱かったわい、
とうちのじいさんは言ってた。なんかおもしろそうだ、と子供心に思った。
45 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 22:02
やっと本当に心温まる話が出てきたなage
46 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 22:25
知り合いの爺さんは左足が膝から下なかった。
戦傷だと言うが、「味方に撃たれたんだ」とのオチがあった……。
47 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 23:22
ばあちゃんに聞いた戦時中の話、近所に住んでいた朝鮮人が
洗濯物は盗む、稲は盗む、野菜は盗む、干してあった魚は盗む、
とにかく何でもかんでも盗む。
『朝鮮人はドロボウばかり』と、ありがたい教えを頂きました。
48 :
ROG:2001/07/31(火) 23:32
進歩なさすぎ・・・。
家の祖父さんは満州に行ってた。
終戦後朝鮮人が家に投石・放火を
繰り返したそうだ。
詳しく満州の話聞きたかったな・・・。
(中学の時に亡くなった)
関係ないのでさげ。
51 :
名無し三等兵:2001/07/31(火) 23:49
内の親父から聞いたのだが、火避け地造りに来てた名古屋師団の方たち
に白湯をふるまってた縁で、取り壊した家屋の材木を毎回貰っていたそうです。
戦局が厳しくなって来ると流石にそうはいかず、材木は司令部のあった名古屋城に運び込んでたそうですが。
お陰で終戦後しばらくは燃料と、建築資材『だけ』は困らなかったそうな。
私の母はS9年生です。その母から聞いたのですが、
「兵隊さんよありがとう」という歌を傷痍軍人が入院している病院
で歌ったそうです。
戦地で負傷して運良く生きて還れて、入院先で子供たちからこんな
歌を歌われたら、折れの場合感激して泣いてしまいそうです。
53 :
東条つるぴか:2001/08/01(水) 00:01
空を見上げてたら、偵察機がドラム缶を投下していった。
一体なんだったんだろう。
道端に手榴弾が落ちてた事もあった。
>>44 それどっか本で読んだぞ。それ44のじいちゃんだったんか? それとも良くあることか?
55 :
名無し三等兵:2001/08/01(水) 00:39
よくあることだ!
それと飛行機に乗っていて窓の外で何か飛んでいるので手を伸ばして掴んだら
熱かった。よく見たら機銃弾だった、とかいう話もな。
56 :
名無し三等兵:2001/08/01(水) 19:24
うちのばあちゃんは 戦時中妊娠中の体で竹やり訓練をしたそうな。
負けるのを確信したそうである。
北朝鮮に行って松茸を食いまくってきたそうだ。
日本に帰ってきたら食料がなくて凄い驚いたと言ってたな。
だからー、俺の爺ちゃんは竹やりでB-29撃墜したんだって。
やっぱチョンさえ殺しとけば…
60 :
名無し三等兵:2001/08/02(木) 20:51
ちきい
>54
それ、一番最初に読んだのは大藪晴彦の本だった。
プライベートライアンの冒頭にもそんなシーンがあった。
62 :
名無し三等兵:2001/08/02(木) 21:58
| マ | | _ 厂 〈 λ___|
| ッ | !´ ̄ ヽ | ヽ、TG |
| ク | | ノ\〉 | 工工) や
| イ | 〉___\ / __ノ (TG| こ は
/ ̄ ̄\ | イ | `〈W)\/∠(Wフフ|  ̄ ̄) い り
真 | ___| l > 〉 ̄Y′  ̄ | __r'ヽ つ
ノ | /君\ ン 丿 ヽ_/ \______/△CTヽ が
邪 |__ ( こ ノ ̄ \△CTG△CTG____Λ__| !?
悪 / \そ _> `,〜ーへ ̄ ̄ / ○  ̄ ▽
ダ |  ̄ 冫ー^^′G/▽ (>ヽ
\__/ ,ヽ---/ // 冫⌒ヽ〜ー ヽ
_/\⌒▽~ ̄ヽ/<) /△__///△CTG △C\\
▽" ̄冫<)/丶 ー\▽ 『ジョジョの奇妙な冒険 Part 6
_,△〜'ー,〜´ ̄_/ヽ/ \▽\ \┤\ ストーンオーシャン
つーか、ネタばっかり。2ちゃんねるの使用者の脳味噌がヤワなヤツばっかりだってバレるからもうやめれ(藁)
64 :
東条つるぴか:2001/08/02(木) 23:02
>63
オイオイ、ネタでないのもあるって。
実際、学校の先生やおじさんおばさんからは、「火事場のクソヂカラ」の話は随分聞いたなあ。
パターンとして、空襲に遭って年寄りや女子供が、主に仏壇を持って逃げる。
警報解除となってヤレヤレと持って帰ろうとするとびくともしない。
其処へ知り合いの40歳以上の男子(町会長さんやら、どこどこのご主人やら)がやってきて、
「こんな重いものをどうやってあんた達二人(一人)で運んだんだ?」
と驚いて、人手を集めて家に持ち帰得るのを助けてくれると言うもの。
4人くらいから聞いたぞ。
科学的にも火事場のクソ力は成立するらしいね
67 :
長レスごめん:2001/08/03(金) 02:45
うちのじいちゃんは満州で刑務所(現地人用)で看守してたんだけど
現地の人に対しても人として平等に接していたそうな。日本が負けて満州が
段々と無政府状態になってきて、刑務所内でも暴動が起きそうになった時
じいちゃんが「暴動を起こさないでくれ。全員をちゃんと一般人として
正面から解放するから。」と囚人を説得して鎮めたんだって。
その後現地の人が城門(塀で囲まれた街が多かったので)まで自転車で
送ってくれたので無事家まで帰れたそうだ。その現場にいた日本人の
同僚は「勇気のある人やなー」と感心したとか。
しかし、その後露助に連れていかれそうになり、ある川の鉄橋に護送列車が
差し掛かった時直感的に「この橋を越えたらもう帰れない」と思い列車から
飛び下りて脱走したんだって。現地の人には信頼されていたので行く先々の
知人の協力を得ながらばあちゃんと合流でき、日本へ戻ってくる事ができた
という訳っす。
やはりどんな国の人に対しても差別したりせず誠意を持って接しなきゃね
と思うよ。(2ちゃんにも差別スレがあるけどあれは論外だよ)
68 :
自転車小僧:2001/08/03(金) 02:54
うちの死んだじいちゃんの話
じいちゃんは仕立て屋だったので志願して満洲奉天の被服工廠へ
行ったんだけど、終戦の時同僚が結核で死んでしまったんだ。
その同僚に奥さんと一人娘がいたんだけど、女だけで日本へ帰る
のは危ないからとじいちゃんに一緒に連れて帰ってくれと頼んで
死んだそうだ。
じいちゃんはその奥さんと娘さんを連れて、遺骨を胸に引き揚げ
船で帰って来たんだけど、日本に妻も娘もいるじいちゃんは実家
に戻らず同僚の実家、奥さんの郷里へ行って生活が落ち着くまで
世話をしてたんだそうだ。
その後、娘さんを養子にして実家に連れ帰って嫁に行くまで育て
たと母親から聞いた。
人のいいじいちゃんだった。
69 :
:2001/08/03(金) 03:59
自分の祖父の話。
祖父は旧海軍で、輸送船の無線関係の部署にいたようだ。
主にシンガポール方面へいってたみたいで、大戦末期には
乗っていた艦が、潜水艦に撃沈された事が何度もあったらしい。
その都度、漂流する。人を食べるためにサメが群れをなして
集まってくるのだが、生存者が一箇所に集まって海面を叩き
サメを脅かして生き延びたらしい。
あと、米軍の艦載機に機銃掃射もよくされたそうだ。
祖父の持ち場は艦橋にあって真っ先に狙われるらしくて
艦長の体がバラバラになるの見たこともあったらしい。
終戦の日はもう乗る船がなくて自宅で迎えたようだ。
近所の人が敗戦の報を祖父に伝えた時、おお泣きをしたと
祖母が言っていた。
戦後はタンカーに乗っていた。定年を迎え船を降り、次の年に亡くなった。
とにかく悪運が強い人で、それが遺伝したらしく
とても感謝している。
70 :
名無し三等兵:2001/08/03(金) 21:39
一昨年、入院した時、となりに入院していた爺さんの話。
南方の小さい島にいた。
たまに空襲があったが、ある日米軍機を落としてパイロットを捕虜にした。
ところが食い物もなく養っていくのにコマってみんなで相談して釈放することにした。
島の沖合いに潜水艦がいて、落ちた米軍機のパイロットを救助しているのを知っていたので、
捕虜を海岸に連れて行き「この島じゃお前の養っていくことができないんだ、この海は遠浅になっているから歩いていけ、そうすれば潜水艦が迎えにきてくれる」と
諭し、送り出した。
そして米兵がどんどん歩いていくと、沖合いに潜水艦が浮上し、ゴムボートで迎えにきたそうな。
米兵も潜水艦の乗組員も、そして爺さんたち日本兵も手を振って別れの挨拶をした。
こうして捕虜を助けたせいで爺さんがいた島には米軍が上陸してこなかったと言っていた。
>>70 なんとなく創作が入ってる気はするけど、それでも良い話だね。
松本零士なロマンの世界・・・むふふ
73 :
70です:2001/08/03(金) 22:10
ホントなんだよ、この話。
爺さんは捕虜を助けたんで米軍が上陸して来なかったと固く信じていたが。
そして戦争はいけない、人間、情けをかければ心が通じると言っていた。
わたしゃ単に米軍の飛び石作戦で飛ばれただけだと思うのだ。
しかし、爺さんの思い出を壊すと可哀想と思って黙っていた。
そもそも、爺さんは北支から移動して来たんだけど、そん時、弾薬補給の都合で96軽機と99軽機を両方持たされて
重かったってとこから話が始まった。
74 :
>73:2001/08/04(土) 01:00
メレヨン島とか、アンガウル島、マーカス島の話か?
75 :
名無し三等兵:2001/08/04(土) 01:24
父島の名物は「米軍パイロットの躍り食い・ホルモン焼き」
77 :
名無し三等兵:2001/08/04(土) 17:21
夜 進軍中に中国で水を飲もうとして暗闇の中水溜りの水を飲んでのどを潤して朝になりそこに行ってみると中国人の死体が腐って出た水を飲んでいたと気がついたそえな 喉が渇いていたら気にならなかったと
気持ち悪いよ
79 :
名無し三等兵:2001/08/04(土) 18:38
>>74 聞いたんだけど、忘れてしまった。
あまり聞いたことない島だった覚えがある。
話の内容では小さい島だよ。
きっと大きな島の隣の島とかそんな感じじゃないかな。
たしか大尉が一番偉い隊長だったって言っていたから、小さい部隊なんだと思う。
80 :
名無し三等兵:2001/08/04(土) 18:46
戦争前の話
うちの婆さんが田舎にいた時、ある日沖合いに空母が停泊していたと
そしたら空母の甲板に提灯がいっぱいならんでいたとさ。
あれあれ、軍艦も提灯行列するんだね
なんか目出度いことがあったのかいと思ったそうだ
婆さんの弟の話によると艦載機に描かれた日の丸を見間違えたものと思われ
最近、うちの田舎にもとーとーマクドができて、
生まれて初めてハンバーガーを食べたおばあちゃんが、
「そりゃ日本戦争にまけるわ、、、」と
しみじみしてました。
82 :
のらくろ伍長:2001/08/06(月) 07:15
広島原爆記念日 合掌
広島の町が 光って見えたそうな 船の上から漁師の爺より
83 :
名無し三等兵:2001/08/06(月) 08:34
対岸の四国からピカドンを見た友達のお母さん
あらあら、キノコみたい
そういえばキノコごはん食べたいわと思ったそうだ
ホントにそう聞いた話だ。
年寄りの昔話で聞いたんだが、前に出てたレスみたいに、赤紙が来た時にまだ童貞だったそうな。
で、出征記念にと近所の娘さん(年上)とやらせてもらったそうだ。
「でな、中が温かかったのにひどく感動した」そうな。
心温まる話
ココロ温まる話
コカン温まる話
股間温まる話
でした。
85 :
名無し三等兵:2001/08/07(火) 12:55
知合いのジーサンが初めて郷ヒロミの曲【男の子女の子】を聞いたとき
【こんなんがいるから戦争に負けた】と言った
うちのおばさんが陸軍の戦闘機【隼】と爆撃機【呑龍】を
女子挺身隊の時作ったそうだ。
裁縫・料理とも最悪だった。無事飛べたか不安
86 :
名無し三等兵:2001/08/07(火) 13:56
>>7 福岡の太刀洗飛行場の近く
ある小学校の校庭にひときは大きな木が植えてあって
空襲の時、大勢の子供がその木の下に身を潜めて居たそうな
その日その大きな木は無くなったが、今でもその地区は
その木にちなんで「一木」(ひとつぎ)と呼ばれて居る。
ちなみに「太刀洗」と言う地名の由来は 源氏と平家の
合戦の後で、そこを流れてる小石原川(筑後川かも?)
で刀を洗ったら、水が血で真っ赤になったかららしい。
87 :
名無し三等兵:2001/08/07(火) 22:15
爺さんが晩年、アルツハイマーでやられ始めた頃。
夜、街灯を見ながら「ソ連のパラシュートが降りて来るぞ、逃げた方がいいな」
みたいなことを言っていた。
爺さんはソ満国境の警備隊で、しばらく抑留されてたことがある。
あの世代は、昭和史を肌で生きてきたんだなと思ったよ。
88 :
名無し三等兵:2001/08/07(火) 22:58
俺はバブルとその崩壊という激動を生きた。不動産だったので、戦友には死者もでました。
89 :
名無し三等兵:2001/08/07(火) 23:09
90 :
名無し三等兵:2001/08/07(火) 23:14
91 :
名無し三等兵:2001/08/07(火) 23:17
うちのじいちゃん中国で中国兵と民間人を殺しまくった
と言ってたよ。すごいなあと思ったよ。
92 :
大陸打通太郎:2001/08/07(火) 23:21
中国軍に対しては常に常に勝利であり、「虐殺された」だなんて
大陸打通作戦で日本陸軍に全部撃破された弱虫中国軍の逆恨み。
93 :
名無し三等兵 :2001/08/07(火) 23:23
うちの爺ちゃん広島の連隊の所属だっんで婆ちゃんとお袋も広島に
住んでたんだけど、お盆に帰省してるときに例のブツがどかん。
やぁ、帰省してくれてて助かったなあ。
94 :
元・長崎県民:2001/08/08(水) 00:02
曾爺さんが田舎の名士だったそうで、
死んだ時にも感謝されたと聞いた。
八月九日には親族全員、葬式に集まってたんだと。
95 :
名無し三等兵:2001/08/09(木) 02:24
戦時中ではなくて戦後の話です。
うちの母方の爺ちゃん一家は大陸で大層羽振りが良かったそうですが、敗戦後抑留されていた頃、同胞の日本人に金塊を隠し持っていると密告されて国府軍の司令部に連行されたが、羽振りの良かったときに雇っていた中国人たちが”大人はそんなことをする人ではない”と司令部に掛け合って救い出してくれたそうです。
おじいちゃんが、もう少しで硫黄島に逝かされるところだったって言ってた。
97 :
名無し三等兵:2001/08/09(木) 03:29
長勇が栗林さんにこすられて、快楽のあまり昇天させられたってこと?
98 :
のらくろ伍長:2001/08/10(金) 13:11
戦時中には農家であると親戚が増えるもので ある日いとこのはとこの子供と称する身重の婦女子がやってきて3日も何も食べていなく腹が減ったので飯を食わせてくれとゆうので、しかたなくかぼちゃを3つたいて大なべで出してやると茶瓶一杯のお茶と共に食べてありがとうっと言ってこれをっと手渡されたものが恵比寿様でその恵比寿様がきてから戦死したと知らせがあった夫が生きて帰ってきたり良い事が続いていると隣の爺さんが言っていた。
福の神がやって来たのだろう
99 :
節子:2001/08/11(土) 07:54
兄ちゃん 蛍きれいだね
100 :
名無し三等兵:2001/08/11(土) 07:57
消防の時の習字の塾の先生が、駆逐艦に乗ってて、
撃沈されて漂流したら助けられた時、ちんこに海草がたくさん
からまってたって話を来た事がある。ふーんって思ったよ。
101 :
名無し三等兵:2001/08/11(土) 17:58
マッ一本の暖かさを 俺にくれ
102 :
名無し三等兵:2001/08/11(土) 19:24
スマトラで「ああ、日本はもうだめだ〜」などと将校が飲み屋で欝になっていると、従軍慰安婦が「あんたたちが負けたら、私たちの稼ぎが無駄になる。私の貯金を全部寄付するから勝って」と大量の軍票を司令部に持ってきたそうな。
それはそうと、それを俺に教えてくれた年配の方が「朝鮮ピーが、朝鮮ピーが(一応伏せ字)」を連発したのは笑った。
103 :
名無し三等兵:2001/08/12(日) 23:21
終戦記念日特集age
104 :
名無し三等兵:2001/08/13(月) 15:45
情けをかけてあげたアメリカ兵や中国人に、後で恩返しされた、
って話はよく聞くけど、朝鮮人の話は聞かないね。
やっぱり朝鮮人は……。
105 :
名無し三等兵:2001/08/13(月) 16:05
いい話かどうかは分からないが…
祖父が上海に駐屯していた時の話。なんでも駐屯していたときに
大東亜戦争が始まって、米軍の駐屯地だか財産だかの建物を接収した。
で、そこに暖炉があって火がちろちろついているんだが近づいても熱くない。
よく調べてみると暖炉でちろちろいっているのが火でなくて、火の形をした
電飾だったそうだ。アメリカ人は金持ちなんだなぁ、みたいなことをと
妙に感心した様子でいってた。
ずいぶん前に聞いた話なのでおぼろげにしか覚えていない。
終戦の前日に石岡の駅で米軍機の機銃掃射にあった話は何度も
聞いたけどいい話ではないのでパス。
106 :
名無し三等兵:2001/08/13(月) 17:16
シベリアではトイレでウンコが凍ってしまうため、
竹ざおでつついて冷凍ウンコを破壊していたそうだ
107 :
名無し三等兵:2001/08/13(月) 17:23
>>104 ウチのじいさんばあさん、引き上げの時はソウルでかなり助けてもらったらしいぞ
そういうのよくないよ。
108 :
名無しさん@お腹お腹:2001/08/13(月) 17:46
それ以前に、日本が朝鮮人に情けをかけたという話は聞かないな。
109 :
名無し三等兵:2001/08/13(月) 18:02
俺の爺ちゃん、終戦直前(ドイツ降伏後)にナゴヤですき焼き食べたの
自慢にしてたなぁ。みんなが飢えていても、俺は偉かったからすき焼きが
食えたのだって言ってた
とりあえずあまりいい話ではないな(わら
110 :
名無し三等兵:2001/08/13(月) 18:03
うちのおかんの話だが、神戸にいたアメリカ人の捕虜はなんでも持ってたって。
コーヒー沸かして飲んでたり幼かったうちのおかんにチョコレートくれたり・・・。
日本人よりよっぽど贅沢な生活してたんだって。
んで、空襲があると捕虜たちがいっせいに空に向かってハンカチ降るんだって。
そしたらそこは避けて爆撃してたって。
空一面全部飛行機だったって。大阪が空襲された時は空が真っ赤になって
見た事も無い景色だったそうな。
111 :
名無し三等兵:2001/08/13(月) 19:47
大薮春彦は満州から引き上げる時、両親が
朝鮮人や満州人の召使や近所の人に常日頃
やさしくしていたため、随分助けてもらった
そうな。だが「関東軍は民間人を見捨てた」と
恨んでいた。その逆の話のほう多いのが確か
だが、結局場所、当時者それぞれで違うでし
ょう。一がいに『○○人は……』とは言えない。
112 :
名無し三等兵:2001/08/15(水) 11:04
うちの母親の兄がフィリピンで戦死してるのだが、その戦死した日
に当時小学生だった俺の母親と祖母が家に居ると
突然玄関のほうで「ただいまー」との声と玄関の開いた音がしたそうだ
でてみると誰も居ないのでおかしいなと思っていたが、その数日後に
戦死の報が入ったそうだ
その出来事のあった時刻に亡くなられていたらしいので、「あの時家に帰ってきたんだね」
って家族で思ったそうだ
113 :
名無し三等兵:2001/08/16(木) 09:03
age
うちの爺は海軍関係の軍事産業(っていったって、ちっこい鉄工所の町工場)だったのと
足がわるかったので戦争にいってない。ンで大酒のみの大スケベ。
この爺がどこで手に入れたか戦時中のものの無い時代に樽酒をいくつか仕入れ、これを防空壕に隠していたそうな。
ところが空襲の振動とかで樽から酒は全部もれたそうな。で、戦時利得者でスケベな爺への娘からの一言。
「ざまあ、みい。」(スレ違いsage)
>105
上海ではアメリカ資本のビルを接収しに行ったら自動ドアだったので驚いたって話もある。
ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです。
当時の報告によれば66年1月23日から2月26日までの約一ケ月間猛虎隊3個小隊2個保安大隊3個民間自衛隊によりこの地域だけで
計1200名の住民が虐殺されてそのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなったまた1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ
649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された。このような捜索掃討作戦は一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して
韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した。
生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は無差別機関銃乱射大量殺戮妊産婦女性に対する強姦殺害、家屋への放火などだ。
生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみるといくつかの共通した類型が現れる。
住民たち(大部分が女性と老人子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて機関銃を乱射して抹殺する
住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす-子供の頭を割ったり首をはね脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む
女性を強姦した後殺害して妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す、住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる
韓国軍の大量虐殺が強行された所では子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった。
恐らく村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ。
ちっとも心温まらないぞ(`_・)
あっちに行けゴルラァ
117 :
名無し三等兵:2001/08/18(土) 00:48
ないの
118 :
名無し三等兵:2001/08/18(土) 03:53
俺のじいちゃんは戦争が終わった日に
部隊の食料庫から味噌と書かれた大きな樽を
大八車に積んで、延々引いて自分の家まで帰って来たそうだ。
んで、あけたらラッキョウだったんだって。
でも、嬉しかったんだと。
119 :
名無し三等兵:2001/08/18(土) 04:02
俺のとうちゃんは広島の部隊にいて、たまたま
一つ山を超えたとこに無線のなんか仕事で
朝から出かけてたら、無線は通じないわ、
沢山のぼろぼろの人が逃げてくるわで
原爆が落ちたことを知ったそうだ。
その後、死体を山と積み上げて、ガソリン掛けて燃やしたんだって。
幽霊とか見た?って聞いたら、そんなもんいるわけねーだろ。
って言ってたよ。
120 :
名無し三等兵:2001/08/18(土) 06:01
うちの爺さん、なぜか徴兵を免れた、村で唯一の若者だったそうだ。
いろいろ裏に手を回して、徴兵を逃れたらしい。
あちこちで、夜来ないかと誘われて、昼間は寝てることが多かったらしい。
よく、自慢話してました。
121 :
名無し三等兵:2001/08/18(土) 06:10
>>95も言ってるけど、なんだかんだ言って中国人は義を重んずる一面があるね。
俺はやっぱり抑留時の話で戦前にお手伝いさんとして雇ってた中国人が食物
を恵んでくれたってのを聞いた。
戦後は日本人の味方をすると解放軍にチクられて本人も大変な目にあうのを
知りながら「今から私はこの食物を道に捨てる。道に捨てたからはどうなろうと
知ったことではない。」とか言いながら飢えた以前の雇い主に食べ物をあげてた
らしい。
そういう面でも朝鮮人より中国人の方が日本人の心意気に通じるものを持ってるな
と思った。
122 :
名無し三等兵:2001/08/18(土) 06:12
石原慎太郎都知事が、かつて衆議院議員であった若い頃に、
「北朝鮮は日本敵視をやめろ」と発言しただけで、
在日朝鮮人の連中が石原氏の自宅まで大勢で押しかけて来て、
「お前の息子を殺す」とあまりにも理不尽な脅迫をやりました。
これが朝鮮総連という組織の実態であり、浅ましさなのです。
ちなみに朝鮮総連には税金はかかってません。税を免除されているのです。
一体誰のおかげで生活できて、北朝鮮に送金できるのか考えさせるべきでしょう。
在日北朝鮮人にそういう自由を与えている日本に対して、日本人を拉致したり、
工作船を日本海域に侵入させたり、スパイ活動を日本でしたり、
ミサイルを撃ったりするなど、やりたい放題です。
世界中の社会主義諸国が殆んど崩壊してしまったのに、
いまだに北朝鮮が崩壊せずに残っているのは他でもない、日本があるからです。
日本に在住している北朝鮮人たちが日本という自由主義国で働くことが出来、
報酬を得て、私有財産を持て、そういうお金を北朝鮮に送金しているからです。
それだけの破格の待遇を与えてられているのにもかかわらず、
北朝鮮から日本への見返りは「テポドン」ミサイルでした。
もし、北朝鮮が再び日本を脅してくるのならば、即刻、
北朝鮮系の日本国内の預金を含む財産を一切凍結する、
あるいは全てを没収するべきでしょう。
好きなことを勝手にやらせておいたり、何もしないで眺めている日本の政治家は、
「彼らから何らかの利益を得ているのではないか」と疑られても仕方がないでしょう。
123 :
名無し三等兵:2001/08/18(土) 06:46
なんでこのスレは荒らされてるんだろう???
>>124 「温かい」とか肯定的な語句を見ると狂犬のように食いつきたがる精神症患者
がたくさんいるからと思われ。
126 :
名無し三等兵:2001/08/18(土) 15:54
>>125 では、お風呂だったら40度ぐらい、
スープだったら80度ぐらい、
冬場に食べるコンビニの肉まんぐらい、の感じがする、とでも言えばいいのか?
そーだ。精神病患者をあまり刺激しないような配慮は必要だな。
128 :
名無し三等兵:2001/08/20(月) 08:32
age
うちの実家は戦後キチーリとどめをさされたものの、
戦前まではケッコウな地主だったそうで、
時に行軍中の兵隊さんが休憩地として利用し、
庭に叉銃(漢字これで正しいのかな?)して大休止?してたそうな。
で、ある朝、兵隊さんが早々に出発したあと、
何故か庭のど真ん中に「小銃」が一丁置き去りにされていたそうな。
「おいおい、兵隊さんの忘れ物だよ」。「でも普通忘れないべ?」などと訝しみ、
「届けるべ」。「役所でいいだべか?」などと話すうちに
納屋の干草の下から一人の兵隊さんがゴソゴソと這い出してきたそうな。
なんでも干草の中が余りにポカポカするのでつい寝過ごしてしまったそうな。
で、呆然自失の兵隊さんを哀れんだひい爺さんが、
付き添いになって原隊を追っかけたらしいけど、
果たしてあの兵隊さんの運命は如何に?
以上、ウチの婆さんから聞いた昔話。
でも、銃を置き去りにしてくかね普通。点呼とかどうしたんだろう?
130 :
名無し三等兵:2001/08/21(火) 21:22
あげ
SAGE
132 :
名無し三等兵:2001/08/25(土) 00:00
age
133 :
名無し三等兵:2001/08/25(土) 23:46
Pentium133Mhzが吠える!!!!
なんであらされるんだろう。
私は最も好きなスレッドなんですが。
今、われわれが語り継がないでどおするよ!ええ??
>125殿
同意します。(きっと社民党信者だー←決め付け)
>126殿
受けた。笑った。
うちの母方の本家のほうのひい爺さんは
岐阜の山村に住んでたそうだが、
そのころ村の顔役だったらしく
金物を拠出せよとのお達しにまとめ役を
やらされたそうな。
山村なんでたいした量にもならないので、
苦心してあつめたそうだが、
そのせいか戦後に叙勲してもらえたとかいってました。
一族で従軍してた人いたはずだから
もっときいとけばよかったかも。
136 :
名無しさん@眠い人:01/08/26 16:12
うちの父方の曾祖父は、医者をやっていて、満鉄、後に日本郵船に勤めていた。
郵船では浅間丸とか鎌倉丸とかの客船やら貨客船に乗り込んで、船医をやっていたそうで…。
日欧航路に乗り組んでいた頃には、ハイパーインフレのドイツはハンブルクで、栄養失調の子供に
対して、船内の食料を援助したこともあったらしい。
で、戦争が始まった頃は日本郵船から東洋郵船に出向して、日華連絡船に乗り組んでいたそうだが、
ある時、その船が長崎に戻ってきたときに、港内で触雷・沈没した。
海に飛び込んだが意識不明になっていたので、引き揚げられたものの、死者の列に並ばされて
いたそうな。
たまたま、検死に訪れた同僚の医者が発見して、泣く泣く脈をとろうとしたら、微かながら脈があり、
慌てて病院に運び込んで、息を吹き返した。
この触雷、海軍が敷設した機雷原に航法ミスで誤って突入して触雷したものと判り、船長は一命
を取り留めたものの、責任を取って切腹したそうだ。
で、大戦を生きながらえたうちの曾祖父だが、戦後すぐ、戦時中の贅沢が祟って戦後の食糧不足
に堪えられず、栄養失調から結核を発病して亡くなった。
137 :
名無しさん@眠い人:01/08/26 16:27
>>136の続き
父方の祖父の方は、徴兵年齢に達したのが、戦前で一度は満期除隊だったのが、
日中戦争勃発で再招集され、華中戦線に曾祖父の職業の関係か、看護兵で任務
に就いた。
その後、戦線膠着に伴い、再度除隊。
ところが、太平洋戦争勃発直前に三度召集され、今度はグアム攻略に参加し、
グアム攻略後はラバウルに転戦した。
ラバウルでは野戦病院に勤務していたが、当時の最前線だから毎日のように
空襲を受けていたらしい。
ある晩のこと、B-17が来たなと思うと、空襲が始まり、入院患者を背中に背負っ
て慌てて防空壕へと向かっていた。
ところが、一機の爆弾が野戦病院の病棟に投下され、爆弾が破裂、その破片が
祖父の方に向かってきたらしい。
で、爆弾の破片を受けて昏倒したのだが、暫くして気が付くと、背負っていた患者
は爆弾の破片をモロに受けて血だらけで死んでいた。
自分も大怪我していたのだが、頭に当った破片が偶々外板部分だったそうで、
エッジの部分ではなかったから九死に一生を得た。
酔っぱらうと、良くその話が出て、頭に当った爆弾の跡(丁度当った部分が曲面に
合わせて陥没している)を触らせて貰ったっけ。
その後怪我の回復のために台湾の陸軍病院に後送され、そこで、偶然曾祖父の
同僚が軍医として勤務していたのに出会い、その情けで重傷のマラリア患者に
仕立てて貰って内地に帰還し、そこで召集解除となった。
そのままその部隊にいたら、ラバウルの後はインパールに投入され、ジャングル
の中で餓死していたに違いない。
流石に4度目は無いだろうと思っていたら、終戦直前に召集され、本土決戦の穴
堀りをやらされていたらしい。
そのときはすぐに帰ってきたけどね。
age
父方の曽祖父は東南アジアの方で
責任のある立場にあったらしい。
現地の人に悪いことをしなかったようで、
戦争が終わった時もそっと逃がして貰ったそうな。
ひいひいじいさん?は軍医ナントカでしたが、
物資が足りねーんだゴルァ!!って
東条英機に喧嘩売って首になったそうです。
お前に任せると戦争にならんといわれたそうな。
そんなじいさまの口癖は「朝鮮人を馬鹿にしては
いけない。優秀な民族だ。」ということでした。
戦争の時代でも、天皇マンセー!!だったのは
なんつーか、学のない、一般市民だけだったようで。
上の方にいる人間は冷めてたみたいです。
140 :
名無し三等兵:01/08/28 20:55 ID:linq86eU
こういうのもあるぞ。俺の祖父は中国戦に逝っていて、かなり
奥地まで侵攻していた部隊の先頭に居たそうだが、敵味方の
陣地が近かったし、私怨もなかったから上、双方とも攻撃しな
かったので最前線に居た祖父の小隊は中国軍と仲良くなって
しまい、お菓子の交換をしたり雑談をしたりしてたらしい(ベテラ
ん兵士は中国語ペラペラだもんね)。隊長も指摘しなかったよ
うで、家鹿児島人なんだけど、中国人には「かるかん」がうけた
ようで祖父も「ゲッペイ」を貰ったりして、マターリしてたんだけど
戦争が終わってしまい、祖父は自動的に彼らの捕虜になったが
中国軍は匪賊から守ってくれたりしたんだって。いまでも交友
があるんだよ。
141 :
:01/08/28 21:17 ID:Q2qpyFdo
>>140 心温まるけど、双方の上層部が聞いたら
「真面目に仕事せんかお前ら」って切れそうな話だ^^
142 :
ゴリポン先生:01/08/28 21:26 ID:Ail65/dU
僕の祖父は中国の青島に逝っていて、どてっ腹に
銃弾を食らっていて、よく傷跡を見せてくれました。
終戦になって船で帰っていたとき、溝にフル装備
のまま落ち込んで、危うく溺れ死にそうになったそ
うです。6年前に死にました。いろいろ苦労してた
みたいです。
143 :
ななし三等兵:01/08/28 21:37 ID:rmOi117.
>>140 たぶんうちのじいさんも同じ部隊か近い存在だったと思われる。
その話とほとんど同じ話を聞いたことがある。
ちなみにうちのじいさんの時はたばこと現地の果物を交換したらしいとの事
144 :
名無し三等兵:01/08/28 21:42 ID:JfY2I.Mk
戦争末期、家の母方の祖父は沖縄お送りになりそうになった、
しかし、たまたま上官が同郷の出身だったので「沖縄へ言った
ら生きて帰ってこれないだろう」とい割れて田舎へ回された
らしい、同郷の人は大切にね。
145 :
戦争秘話:01/08/28 21:45 ID:o1GdG3OY
おれの爺さんは、昔、ノルマンディー在住の波乗りジョニーと呼ばれるやり手の
サーファー。
例の44年6月6日から9日にかけて、海が荒れて絶好のサーフィン日和ということで、
騒音にめげず遊んでたら、連合軍が、あのマルベリーとかいう巨大埠頭をもってきた。
「こんなところに護岸壁をつくられたら、波が来ないじゃないか」
と、連合軍のGIと凄い大喧嘩したって、カルヴァドス酒のみながら酔って
よく話したものだ
おれの爺さんは、爺さんの父さんが医者で
軍医としてチョン国に派遣されていたから
チョン国の小学校に通っていたらしい。
でも、通学の時は周りがチョン人だらけだったから
恐怖を感じること極まりなしだったらしい。
その後麻布(当時日比谷に次いで2番目に成績が良い)へ進学
そして地元大学の医学部に入学して無事世襲したそうだ。
今は現役で開業医やりながら俳人として頑張ってるよ。
147 :
みのもんと ◆RJTXcpFI :01/08/28 21:55 ID:I5aO8OQQ
言っておくけどオレの爺さんは日本人だよ。
チョン人と勘違いないように。
148 :
名無し三等兵:01/08/28 23:07 ID:RjLKbvfE
>>139 そうそう。
いつもいつも、悪いのは下っ端なんす。
お上の失敗を償うのは下っ端の勤めっす。
理不尽だね〜。
私の「おじいちゃん」は凄く優しい人だった。
でも幼い頃姉から「あの人は本当のおじいちゃんじゃないよ」と聞かされた。
何でも本当の祖父は「おじいちゃん」の兄だったそうだ。戦争中に召集され中国での大きな会戦で戦死したそうだ。
しかし、既に祖母が嫁いでいて母が生まれていたので「家を守る為」曽祖母が当時台湾で整備兵をしていた祖父の弟と祖母を無理やり再婚させたそうだ。
その後「おじいちゃん」は2人の娘を設けた。孫煩悩だったが母や叔母達に対しては頑固物だったそうだ。
14年前に亡くなったが、亡くなる2,3年前から入退院を繰り返し最後の数ヶ月前は植物人間状態だった。臨終に立ち会ったけど婿養子である親父が大声を上げて泣き出したのにはビックリした。
祖母は現在80歳、まだまだ元気だ。決して人より苦労したわけではないが、「シングルマザー」なんて信じられないそうだ。つい半世紀前までは「結婚の自由」なんて存在しなかったんですね。
早く初ひ孫の顔を見せてやりたい物だが、失業中じゃあどうしょうも無いなぁ…。