独ソ開戦から60年、本当はどうだったの?

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597名無し三等兵
http://shopping.yahoo.co.jp/shop?d=jb&id=19915980 P23、24
 スターリンはこの切り札を投げ捨てたため、次第に弱い手しか打てなくなった。
第一に、一九三九年以前は、ロシアはドイツと国境を共有していなかったが、
新しい領土は、これまでドイツの奇襲攻撃を不可能にしていた独立国ポーランド
という緩衝地帯を失わせてしまった。第二に、ヒトラーはヨーロッパ全土を
制圧すると、その資源と住民を彼の戦争目的のため動員することができた。
第三に、一九三九年八月のスターリンとの協定で、ドイツに石油、種々の非鉄金属、
食料などの戦略的原料を供給したことも、ヒトラーの西部戦線の制覇に貢献した。
さらに、スターリンはフランスの敗北後も、事実上の保護費として、これらの資材の
輸送をきちょうめんにつづけたため、これがソヴィエト連邦に対するヒトラーの攻勢
準備を助けることになった。その結果、一九四一年六月には、ドイツは一九三九年
とはくらべものにならないくらい、恐るべき敵になっていた。
 同じ頃、スターリンはこの協定によって得た息継ぎ期間のあいだに、自分自身の
立場をさらに悪くしてしまった。新しい国境の防衛線が完成する前に、古い国境の
防衛線を撤去してしまったのである。併合した領土にソヴィエトの社会主義制度を
導入したため、そこの住民から完全にそっぽを向かれてしまった。だが、それ以上に、
一九三九―40年のフィンランドに対するスターリンの「冬戦争」は、ソヴィエト軍
の指揮系統、戦意、装備に重大な欠陥があることを露呈した。このような情勢の
展開で大胆になったヒトラーは、一九四〇年夏に東部戦線に出撃することを決意し、
その年の終わりには、攻撃計画はできあがっていた。一九四一年五月中旬に計画
されていた進攻は実際には六月二十二日に開始された。