1 :
関東軍:
二〇三高地を陥落させた乃木大将(実際は参謀児玉源太郎の提言)
は果たして軍神だろうか
軍神の定義を聞かせて呉れないと議論できません。
戦死、または殉死なら軍神扱い。
神社があるから軍神でいいんじゃないの?
軍人としてはヘタレだけど。
6 :
関東軍:2001/05/21(月) 12:34
息子2人が戦死、そして自分も明治天皇が
崩御した後を追うように自決。これが当時の
「軍神」という定義だと思う
>>6 んなこと言ったら東郷平八郎も橘周太も広瀬武夫も
軍神の定義から外れてしまいますがな。
>>6さん
その定義であれば乃木大将は間違い無く軍神でしょう。
異論の余地はありません
と、いう事で終了でいいですね。
10 :
関東軍:2001/05/21(月) 12:42
確かに。だが自分の中では乃木大将のカリスマ性は
どの軍人よりも強いと思う。ビールの銘柄になった東郷閣下も
凄いと思うが
はい。削除依頼願います。
12 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 12:46
軍神ってさ、乱暴に言うと日本軍のイメージキャラクターってことじゃん?
人格がスローガンというか。
国民栄誉賞みたいなもんだね。
実績と受賞の条件は必ずしもリンクしない。
13 :
888get:2001/05/21(月) 12:48
乃木って字がやらしいよねハァハァ
14 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 12:52
888getの母でございます。
このたびは、888getがこのようなスレに書込んでしまい、
皆様には大変ご迷惑をおかけしております。深くお詫び申し上げます。
息子は幼い頃に父親を亡くし、そのショックで内気な子供になってしまいました。
そのせいか、小・中学校ではいじめにあっていたのです。
この年になるまで、恋人はおろか友達さえもいないようで、
大変心配しておりましたが、この2ちゃんねるというサイトを知って以来、
息子も少し明るくなったようです。
夕食の時には「今日○○板でね、ドキュソがさあ…」 と、
とても楽しそうに話してくれるのです。
どうぞ皆様、息子を暖かく迎えてやってくださいまし。本当は良い子なんです。
よろしくお願い申し上げます。
888getの母より
15 :
888get:2001/05/21(月) 12:54
ぼくからもよろしくお願いするよ(w
だって本当は良い子なんだもん!
16 :
英霊:2001/05/21(月) 14:27
あまりにも無能すぎてどう扱ったらよいのかわからない将軍を
軍神といいます。
無能で勤勉な将軍=軍神(=カルト)
17 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 14:33
>16
その定義なら日本軍は「やおよろず(八百万)の神」になってしまうど。
18 :
およろ:2001/05/21(月) 16:34
まぁ乃木大将のことは教師によっても教え方が全然違ったからな。右と左で
19 :
888get:2001/05/21(月) 17:00
海外じゃ有名なんだけどね
20 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 17:38
辻正信よりは名将。
21 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 17:59
このスレは司馬遼太郎信者の集まりだな…(藁
もっと、地図と要塞の構造&20世紀初頭迄の要塞攻略戦の戦史を調べて
から乃木は無能と言った方が良いぞ。
22 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 18:10
クリミアのセバストポリでも
第一次大戦のベルダンでも
似たような攻撃側の大量犠牲はあったから、
必ずしも乃木だけがダメじゃないと思う。
ただ、第一次攻撃の際に工兵と砲兵をほとんど
活用してないのはかなり問題。
23 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 18:16
>>21 別に司馬遼信者でもないがね。乃木は司馬遼持ち出す
までもなく無能なのは明白すぎる。
乃木は司令部の統率ひとつできない将軍であり、白襷隊という
全く意味のない決死隊を編成して部下を死に追いやった
部下殺しである。この二点だけでも乃木は万死に値する。
これに関する乃木信者からのまともな反論は聞いたことが
ないな(笑)
24 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 18:30
統率がどうだろうが、白襷隊による攻撃があろうが、
乃木の達成した成果を総合的に考えると…
帝国陸軍が、乃木を無能といいきれるような人材が
普通だったレベルの組織とは思われず。
これが現時点での評価だな。
旅順陥落後の奉天会戦なんかを見ても、乃木の第3軍は第1軍、第2軍に較べてやはり精彩を欠く。
どう贔屓目に見ても、日本陸軍の軍指揮官の中で優れた将官とはとても言えない。
乃木以外が旅順を攻略していれば、やはりもっと短期間により少ない犠牲で目的を達したのではないだろうか?
参謀本部も乃木の無能は最初から知ってたみたいだけどね。
26 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 18:38
>乃木の達成した成果
なんか戦果ありましたっけ?
日清戦争の話?
27 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 18:39
>>24 都合よくまとめるなよ(笑) そんな評価してるのはお前だけ。
これだから乃木信者は・・・誰がやっても同じと言うしかないもんな、
乃木を擁護するには(w
たとえば(実際には藩閥のバランスおよび閨閥によって無理
だったが)第三軍参謀長が上原勇作だったり、あるいは
第三軍司令部まるごと史実の第四軍司令部といれかわって
いたらどうったかねえ。野津と上原のコンビは少なくとも
乃木・伊地知コンビほどぶざまないくさはしなかったろうよ。
乃木の達成した成果? ただでさえ乏しい日本の予備兵力を
むざむざ旅順の埋め草にしたことかな?
28 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 18:44
で、将帥にとって欠くべからざる要件たる統帥の才の欠如と
白襷隊に見られる戦術的手腕の欠如について、何も弁護の
言葉はないのか?(藁 ま、あるわけないけどな。
29 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 18:55
>第三軍司令部まるごと史実の第四軍司令部と
>いれかわっていたらどうったかねえ
そのばあい、第四軍が柝木城で足止め食って
遼陽会戦で日本敗北(笑)
30 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 20:59
犠牲者の数が多すぎたので
神様にでもしないと責任の取りようが無かった。
といったところではないだろうか。
31 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 21:22
クソだなんだ酷い言われようだ……。
おっと、ここは趣味の場所か、じゃいいか。
人の悪口は面白いかい?
32 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 21:37
正当な批判だと思うけどね
33 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 21:40
日露戦争時の旅順のレベルで堅固に防御された
要塞を陥落させたことのある将軍を全て挙げてみよう。
日本に限る必要はなし。その上で優劣を比較してみよう。
34 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 21:47
乃木は旅順を陥落させてないぞ、念のため。
児玉に指揮権が移ってから陥落したんだよ。
35 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 21:57
初手から始まる勝負事、王手の一手だけ打った人が勝者ってか?
36 :
不動明王:2001/05/21(月) 21:59
乃木神社へ行くがよい。もう神として鎮守されておるぞ。
37 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 22:00
いや、一塁たりとも抜いてないんだよ、乃木は。
一手からやり直したのが児玉
むしろ児玉が去った後に
王手の一手だけ打ったのが、まさに乃木
38 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 22:03
作戦能力以前に部下をまとめられないだけでも
指揮官失格。
旅順云々以前の問題では。
39 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 22:07
37、まさかそんな。旅順の地図はお持ちでしょうか。
40 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 22:12
乃木第三軍司令部が果たして「王手」を打てたんだろうか?
どの手が「王手」なのかわかっていたんだろうか?
映画『スターリングラード』を観ました。あの露助の銃も持たせずに突撃させる
無茶な戦法を見てたら乃木&伊地知の方がちゃんと考えて戦争してるように見えました。終わり。
>>41 当時のロシアとの日本の人口を比べてみよう
43 :
雪男:2001/05/21(月) 22:36
皆さんなら55kの守備兵力を有する近代要塞を簡単に攻略できるのでしょうね。
私が指揮官なら最低10個師団は無いと攻略の目処さえ立ちそうもありません。
44 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 22:37
共産主義国ですから、万民平等。皆捨てゴマです。
司令官も捨てゴマにしてたね。
>>43 伊地知さんですか?
児玉さんはあなたが言うほどの兵力なしで落としちゃったんですが、
何かコメントありますか?
46 :
ななしのごんべ:2001/05/21(月) 22:43
>>2のスレッドでも書いてないことで、乃木大将の名誉のために
初めに田原坂を占領して旅団の援軍を求めたのだが、応援軍が
到着せぬということで、乃木は引き揚げを命じられた。
もし乃木の要請が通っていれば、あの凄惨な田原坂の戦いもなく
薩摩軍はもっと早く押し返されていたかもしれん。
またそうなれば、軍旗喪失もなく名誉と自身に満ちて旅順で失敗
するだろうなぁ・・って落としてどうする(笑)
47 :
ななしのごんべ:2001/05/21(月) 22:44
乃木大将に対する輔弼です。大将は戦争が終わった2年後の明治40年に学習院の
学長を務めています。当時の学習院は華族、士族、の指定を中心とした学校だったの
で・(昭和天皇も彼の教えを受けている)生まれながらに優遇される者こそ、有事の
際は率先して第一線に立つべきだととの考えにたち特に「武士の心構え」を強調する
訓育を実施した。
質実と剛健を教育テーマに
「 口を結べ、口を開いているような人間は心にもしまりがない」
「ひらがなは女らしくていかん。歌などはともかく、男が書くにはカタカナの方が男
らしくてよい」
「洋服や靴は大きく作れ、格好などかまうな」
「腕時計は軍隊の騎兵士官か砲兵士官など一部のもののみにおいて用いることを許さ
れている。学生が腕時計を持つのは不要である」
等
大将はぺなぺなしたテニスやボートより撃剣の修練を強要した。
戦場での仕事は刀で敵を切る、ことにあるからだ。というのが大将の根拠だが、太
刀の打ち合いでは「肉を切り骨を絶つ」手ごたえは判らぬと指摘し、生きた豚を日本
刀できる「豚きり」を生徒に試みさせた。(誤算の論理より引用)
武術とくに剣術は乃木大将が奨励させたというのは歴史上の文献を見るかぎり間違
いない。それが後世の武士道と軍事精神に結びついたと考えています。
問題は乃木大将がなぜ旅順攻略の際の罪を不問にされ、その事実が隠されたかに当
時の日本政府の限界がある。つまり軍司令官を乃木に任命した明治天皇に責任が行く
のを防いだ結果、乃木の責任を不問にしたのである。
そのため責任が不問に去れたために戦後の歴史研究がないがしろにされ、旅順が落
ちたのは28サンチ砲など砲火力の集中に裏付けられた白兵突撃にも関わらず、白兵
突撃が一人歩きしだしたのである。
日露戦争後この風潮がかなりまかり通っていると私は考えています。その点で乃木
大将が責任を不問にされた罪は深いと考えます。
この旅順を観戦していた2つの国が対照的に教訓として国に持ち帰る。
一つはドイツ。 旅順の陥落等は大砲による火力によるものととらえWW1
では準備砲撃に28サンチ砲クラスを多数準備し砲撃で圧倒した。
もう一つはフランス、かれらは白兵突撃による陥落とみなし、砲撃よりも精神力をた
よりに軍備を整えていく・・。
第一次世界大戦で第一次ソンムの戦いでフランス軍が圧倒されたのは上記の原因が
あった。ただしフランス軍も砲火力、陣地戦を展開し戦線を維持したのはご周知のと
おり。
48 :
ななしのごんべ:2001/05/21(月) 23:00
さらに追加でイギリスも精神主義をとっていた。
しゃれにならない話があって第1次ソンムの戦いでは準備砲撃が終わったあと
昔からの風習どおりサッカーボールを蹴ってあいて陣地に攻め込んだ
らしい。当然機関銃と防御砲火で一蹴されてしまったのであった。
(合掌)
まったくイギリスという国は・・とほほじゃなぁ。
49 :
児玉源太郎:2001/05/22(火) 00:39
白襷決死隊(中村覚少将以下)は確かに無謀であった。
軍港を銃剣突撃で突破するなんて無謀極まりない。ある映画の
決め台詞「どんなに敵の猛射を受けても
決して応射をしてはならない」死ねってことですか…
伊地知は、そりゃ色々問題はあるが、あんだけ歩兵急襲かけなきゃ、
203高地へのロシア軍による回復攻撃火点をつぶせなかったろ。
児玉というか、203高地占領はその結果だ。
それに旅順要塞への早期にすぎる総攻撃は、そもそも万週軍総司令部
および大本営の要求だ。
51 :
名無し三等兵:2001/05/22(火) 01:02
「二〇三高地を陥落させた乃木大将(実際は参謀児玉源太郎の提言)」
ちょっと残念なとっかかり文ですね。
二〇三高地は有名地ではあるけども、所詮要塞の前衛陣地。これを陥落
させたからって、名将でもなんでもないです。言わんとしているのが「旅順」
だとは解るけど。
乃木には大将、と位を充てているのに、児玉には参謀と役職を充てている
のにも一貫性の不備を感じます。
52 :
名無し三等兵:2001/05/22(火) 01:03
だいたい、あんなところに露西亜の要塞があるのがいけないのである。
本当は清のしょぼい要塞だったはずなのだ。それなら1日で攻略できた。
といことで、乃木さんは悪くない。悪いのは仏蘭西と独逸と露西亜である。
(厨房発言)
53 :
名無し三等兵:2001/05/22(火) 01:16
『……乃木将軍が早朝馬に乗って、泥土造りの司令部から攻囲軍の進む方向を巡視に
出かけるのを私はしばしば見たことがある。……将軍の通過する姿を見ると、将校も
士卒も必ず不動の姿勢をとって敬礼した。将軍が幕僚を従えて外出する時は、両者の
間には常に若干の間隔が保たれて、将軍はいつも先頭に立って歩いた……外国の陸軍
では、高級将官となると、常にいかめしい装飾をした特殊の具足が伴うが、乃木大将
には其様なものは見るべくもなかった。将軍は決して服装を変えたことがない。……
将軍は、たまに従軍記者を司令部に招いて茶菓を饗してくれることがあった……そし
て将軍の活淡たる閑談が半時間にも及んで、今しも彼方の塹壕にあって突進の機を待
つ士卒の、無数の生命を奪うべき計画が、その表情の後ろにひそんでいようとは想像
もできない位であった……将軍は士卒に対しても幕僚に対しても、常に親切温和であ
ったが、如何なる場合にも狎々しくすることはなかった。部下に対する言葉は常に簡
潔であった。部下は言下に将軍の命を実行した。部下に一瞬の猶予でもあると、将軍
の鋭い目が光る。部下は全身の血を波立たせて、即座に突っ立ち上がるのであった……』
ウオッシュバーン記者の著書より。
28『統帥の才の欠如』?中立者はこう見ていたことは知っていてね。
54 :
海の人:2001/05/22(火) 01:23
>>53 う〜ん、なんというか「ジャパニーズ・サムライ」という脚色が強すぎて
その文章から「統帥の才能」を云々するのは、ちと違うのではないかと。
部下や外野の受けが良いことと、戦闘指揮の能力は別だと思いますよ。
>>53 おお。あの有名なアメリカ人記者の文章ですか?
軍事的(というか実社会的に)いろいろ問題があると思うが、
そういう浮世ばなれしたところが、乃木さんをして各国観戦武官を
感激せしめる<風格>となるのでしょうねえ
56 :
名無し三等兵:2001/05/22(火) 01:45
脚色部分とは著者の作為の挿入が感じられる部分と思えるが、それは最後の
箇所と考えてよいですか?「目が光る」とか「血を波立たせて」とか(笑)。
この部分を差し引いても、第三軍の軍規は厳正であったと思うけどね。当時の
中立者の評価は貴重だよ。
57 :
名無し三等兵:2001/05/22(火) 02:29
☆客観的な結論
乃木⇒日本本土の兵学校で士官候補の精神を叩き上げていればよい。
児玉⇒最前線の一歩後方で直接指揮・あと人事権
当方アンチ乃木ではないが、ww2の日本の将校は児玉ではなく
乃木に連なる系譜だと思う。悪い意味で。
ドイツとは違う。
58 :
海の人:2001/05/22(火) 02:35
>>56 あぁいえいえ第三軍に限らず日本軍の軍規は大変厳正に施行されていた
でしょうし、また乃木大将が麾下の部隊に常に気を配り、かつまた指揮下
の将兵に慕われていたことは痛いほどに良く判るのですが、けれどそれは
あくまで「個人の資質」であって、部隊指揮官としての才能とはまた別な
モノであると感じたものですから。
「脚色」というのは、挙げられた言葉一つ一つもそうなのですが文章全体
として「中立な報道」というよりも、ちょっと感情が入りすぎかなと思います。
この記者さんは、おそらく乃木希典という人に大変尊敬し「惚れ込んで」
いたんでしょうね。
59 :
名無し三等兵:2001/05/22(火) 03:18
部隊指揮官としての才能が最も現れるのは、旅団長職だとよくいわれます。
「花の梅沢旅団」とうたわれた梅沢近衛後備混成旅団長を筆頭に、弓張嶺夜襲
の松永歩兵第三旅団長、一戸堡塁の一戸歩兵第六旅団長などが有名ですね。
日清戦争当時、蓋平・太平山の戦闘で功績を絶賛された乃木旅団も結構有名な
んですが。……軍司令官として?さあて、まずは部隊指揮官としての才能の話。
>>57 乃木に限らず、日本の将校や大将はドンとかまえて部下の
言うことを素直に聞いて対処する。
いわゆる旦那気質が生まれた原因は西郷隆盛にあるという意見
(誤算の論理、児島 襄)があるなぁ。
乃木大将はそれに従っていただけ。大山大将もそういう風潮にあった。
まぁこの悪影響は太平洋戦争まで引きずっちゃうのだが・
ウォッシュバーンの著作が各国の武将に与えた(悪)影響は大きいと
思います。人前で礼儀正しくしておれば、部下を死地においやることを
責められることはないような風潮を導きだしたからなぁ。
イギリスだったかなWW1では将軍がお茶の時間を早めたいがために
総攻撃を早め大損害を出した・・(この将軍はどうなったかは知らない)
日露戦争と乃木大将と各国への影響とWW1への更なる影響は
なかなかリンクして面白いじょ。そりゃ軍神としてあがめられるわな。
61 :
名無し三等兵:2001/05/22(火) 12:37
軍神の条件、軍人が天皇に贔屓にしてもらうと軍神にしてもらえます。
少々仕事をしなくても神になれる。
逆に仕事ができても(黒木)贔屓じゃなければ軍神にはなれません。
あと推薦もOKかもね。<藁
62 :
名無し三等兵:2001/05/22(火) 12:43
>>60 それだと、大将は余程の器量がないと勤まらないな
部下の作戦が失敗した時、どう対処するかがカギだよね
>>62 器量も度量もない普通の将官たちが西郷・大山を気取って
何事も部下にまかせりきりにしたのが昭和期の参謀の
暴走の原因。大江志乃夫『日本の参謀本部』にも児島の
やつと同様の指摘がある。
64 :
名無し三等兵:2001/05/22(火) 19:40
65 :
:2001/05/23(水) 22:42
あげ
66 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 01:05
みんな、乃木神社で売ってる「名将乃木希典」って本読んだ人いる?
20世紀の戦争だぜ。半年で15000人の戦死者って、そんなに多いかな?
67 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 01:30
>66
まぁ後からみればね(戦死者)(笑)
でも乃木将軍は若いころ西南戦争で軍旗を奪われたりしてる。
やはり軍人としては向いてないと思う。
68 :
たけぽん:2001/06/01(金) 03:05
白兵突撃の神様かもしれないね。乃木将軍。
乃木は長嶋茂雄ってことでいいかなぁ、そのへん
どうよハリさん?
70 :
ごぶりん:2001/06/01(金) 04:22
彼は生真面目なただの頑固親父。
軍人としては無能の一言に尽きるな。
勝ち戦でも消耗率が1割を越えたら自慢にはならないのに
無理な突撃を繰り返し。
多数の兵士を殺した。
二人のわが子を戦地でなくしたとしてもその罪はまぬがれん
>>69 死傷6万人の旅順攻略戦の司令官として、喝ーーっ!
72 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 08:26
人の悪口を言うのは楽しいかい?
消耗率一割?馬鹿言ってらあな。そんな近代消耗戦あるかよ。
73 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 09:11
無能な働き者。
軍人になってしまったのが本人にとっても、日本にとっても不幸だった。
うわっハリさんだっ!
ホンモノ?
75 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 09:26
司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでみな。
皆読んだ上で話してるんだよ。2、3の厨房は知らんが
>>72 旅順を消耗戦にしちまったのが間違いなんだよ。
海軍の意向に従って旅順艦隊を無力化しちまえば
それでいいんだし、艦隊さえ沈めば落とさずとも
包囲だけでもよかったんだ。
第三軍が奉天会戦に参加しなくても旅順の埋め草に
なった将兵達の大半を北方にまわせていれば、満州軍
主力は兵力不足にはなるまい。むしろ増えるかも。
78 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 11:50
>>77 そう、戦略観がない。
しかも目の前の敵への復讐に燃える部下を静止出来ない。
203高地を集中攻撃して占領し、着弾観測ができれば主目的は終わりだ。
79 :
ななしのごんべ:2001/06/01(金) 12:21
昔の考え方を調べなきゃーいけんな?
28サンチ砲で味方を援護するという考えは現代でいえば
核兵器で機甲師団を援護するのに等しいと思われ。
>>79 そりゃ言い過ぎ。要塞砲を野戦に持ち込む(最初は
攻城戦だったけど)というのは逆転の発想で確かに
ちょっと思いつかないものだけど、艦砲を取り外して
陸戦で使うって考えはわりと古くから(帆船時代から)
あったんだから、そこらへんからの連想だと思う。
ただ単に、現状で投入している砲では威力が足りないと
思われたからもっとでかい砲を持ち込んだだけ。
81 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 14:12
>>80 海軍が旧式艦から外した砲を嫌がるとはねえ。
人からの貰い物はプライドを傷つけるらしい。
どっち道海軍に協力した旅順攻略戦なんだけど。
しかも当初は28センチ砲は、攻撃目標が定まらない分散配置だった。
75 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/06/01(金) 09:26
司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでみな。
「苦笑」という言葉は、こういうレスを読んだ時に使うものなのだろうな。
それでは75は
ここで話している人々は何を読んで
こうして論議していると思ったのだろう。
>>83 みんな学研のまんが日本の歴史しか読んでないとオモタテヨ。
ぼくがそうだったから。坂の上の雲、一週間前から
読み出して昨日ようやく読み終えたよ。ぼくえらくなった、
みんなよりたくさんのこと知ってるとオモテタヨ・・・
85 :
ななしのごんべ:2001/06/01(金) 15:38
坂の上の雲もいい本だな。日露戦争秘禄もいい本だ。
殉死もいいし。偉くなったと思ったら終わりじゃな。
86 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 20:36
あ”−もう、どいつもこいつも!
とにかく、「任侠都市宣言!」と「名将乃木希典」を読みなさいって!
その上で反論でも中傷でも、やれるもんならやってみい。
司馬は所詮小説家だろ?「坂の上の雲」や「殉死」を史実と思っているようじゃあ
しょーもないって!
88 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 20:58
>>86 歴史=史実とはかぎらないからなあ。
逆に文学=歴史の場合もあるのじゃないかな?
神話としての歴史
哲学としての歴史
物語としての歴史という考え方もあるだろう。
まあそんなに司馬遼太郎をいじめないもいいだろう。
とはいえ同じ「文学」でも司馬遼太郎を
徳富蘇峰や山路愛山あたりと比べる気にはなれないなあ。
やはり86氏は正しいのかな?
89 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 21:16
まー「坂の上の雲」は良いんじゃない?
知人にこの日露関連の事を知りたいって聞かれたら
まずはこれを勧めるだろうね。
ただし「司馬史観」と良く言われるように、司馬遼の思惟が
多分に散りばめられているんで、その点だけは注意が必要だ。
その後にその時代の関連書籍を読み、この作品の誤りや矛盾に
気づいていけばよい。
90 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 22:14
>ただし「司馬史観」と良く言われるように、司馬遼の思惟が
多分に散りばめられているんで、その点だけは注意が必要だ。
その後にその時代の関連書籍を読み、この作品の誤りや矛盾に
気づいていけばよい。
確かにその通り。ただ、産経新聞すら司馬を持ち上げて商売しちゃってるから、
乃木擁護の文章というのは、たとえ保守系の人間でも触れる機会が無いよね。
サヨはどうせバカだからほっとくとして、保守系のヒトすら「坂の上の雲」を
妄信しちゃって、乃木の悪口を言っているというのは見ていて心が痛みます。
とりあえず、一点だけ指摘しておきましょうか?
「殉死」や「坂の上の雲」の乃木愚将論をを多角的に批判した福田恆在氏に対して、
司馬は一言の反論もせず対談も拒否し続けたそうですよ。
あ、私の乃木擁護論は全部86の2冊が元ネタなんでそこんとこよろしく!
あなた擁護論を展開してないじゃないのよ、全然。
93 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 22:29
旅順戦の話をしましょうか。
旅順の乃木は何故に無能だったと思われますか?
@要塞ひとつ落とすのに15000の戦死者と45000もの負傷者を出したから。
Aそれに半年もかかって戦争全体のスケジュールを狂わせたから。
B無謀な歩兵突撃をコリもせず繰り返したから。
C203高地の重要性をなかなか認識しなかったから。
D無謀な白襷隊の編成。
Eその他。
司馬ってそこまで乃木を貶めてたっけ。
伊地知の方が叩かれてるんじゃないのか?
95 :
>93:2001/06/01(金) 22:38
ネタ本手にして論破しようと手薬煉引いているのがミエミエ
自分の言葉で擁護してくれ。
乃木の無能を旅順のみで語る無かれ、
田原坂、奉天、学習院院長時代すべてを検証してから
無能と判断セナ・・。
旅順の乃木は仕方ないと考えてもいいのでは?
初の近代的要塞にぶち当たったというのはある意味不幸でしょう。
攻撃方法を切り替えずに愚直さを露呈したが・。
それよりも奉天会戦の乃木の方が問題あると思われ。
97 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 23:11
うーん、いきなりそんなに感情的になられると困るんですけどね。>95
「自分の言葉で論破してくれ」といわれても、プロの軍人でもあるまいし、ネタ本を使って
どこがわるいのか、それがわかりません。司馬遼と桑原嶽と両方読み比べて、
桑原氏のほうが正しいと私は判断してしまったのだから、しょうが無いじゃないですか。
(「坂の上の雲」はナナメ読みで済ませましたけど。)
司馬氏のほうが正しいと思われるのなら、そう判断する根拠を示してくださいよ。
あなたの論のほうにより説得力があったら、私は司馬氏に乗り換えますよ。
奉天戦の乃木のほうが無能を晒していた?私の理解では、
乃木軍を過度に警戒したクロパトキンが予備兵力の全てを
乃木軍正面に叩き込んだ結果、ロシア軍の他正面が手薄になり、
第一・二・四軍の進撃がスムーズにいった。
乃木が圧倒的なクロパトキン軍の猛攻を
何とか支えきったおかげで、辛うじて奉天戦は勝利できた。
第三軍の攻勢が頓挫し、奉天包囲が成らなかったのは兵力不足、弾薬欠乏の為であり、
乃木の責めに帰すべき問題では必ずしもない。
――というふうに評価しているのですが。
別の解釈の仕方があるのですか?是非それを教えてください。
軍旗盗られて(その事実は仕方なし)まだ自分が率いている
部隊が有るのにも関わらず、失踪。
責任を感じて餓死する為に山篭り・・・。
だめだこりゃ。
学習院院長時代のエピソードは知らないなぁ。
知っている人っている?
>>98 >>48当たりのスレ 読んでくれもぉ書く気になれん。
>>97 奉天海戦は結果として乃木大将はよぉやったとは思うが、
問題は自分が旅順の結果をどぉ思われているかを認識していない
行動が多すぎる。まぁいいわけをせんかったといえばいい見方
じゃが、あの時点で正確に報告すべきなのにせんかったというのは
ある意味甘えているのではと私はおもっているわけじゃ。
つまり(軍人として)有能か無能か以前にプライドに負けて
自分の立場を考えていなかったんじゃないかって思うんじゃ。
100 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 23:38
>99
ええと、すいません。「あの時点で正確に報告すべきなのにせんかった」とは、
「旅順で何故あれだけの犠牲を出したか、軍にも国民にもきちんと
説明しなかった」という意味でしょうか。
乃木は有能でもなけりゃ完璧な無能(たしかにアホな作戦計画を
停止できんかったが)でもない。あの時代にしては。
小渕みたいなもんだよ
103 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 23:48
>第三軍の攻勢が頓挫し、奉天包囲が成らなかったのは兵力不足
>弾薬欠乏の為であり
けど後から派遣された児玉は、攻撃を203高地一点に絞り
兵力不足、弾薬欠乏の状態で旅順を落とす事に成功したんじゃない?
旅順戦での乃木の功罪は、当初の目的であった旅順港及び旅順艦隊の撃滅
で有ったことを忘れ、露の望む旅順要塞への全面攻勢をごり押ししたこ
とじゃないかな?
>>100 旅順も田原坂も奉天も、自分への”悪”評価を
甘受しておる。甘受している割には自分が止めさせられない
ことも認知していたようじゃなぁ。←これは俺の憶測。
奉天会戦時での司令部の第3軍の評価はボロボロなんだよな。
でもクロパトキンは乃木の第3軍を旅順を落としたエリート
集団と見ていたわけじゃ。だから第3軍の動向に気をとられた
訳じゃナ。
自分のやった責任をだまって甘受するもいい見方じゃが、
そのせいで、司令部までが自軍部隊を信用していなかった
結果になるのは問題があったといえる。この傾向は乃木大将
全般にいえること。
ある意味開き直っていたと言われても文句はいえまい。
105 :
名無しさん:2001/06/01(金) 23:56
弾薬は欠乏してないはず
日本で生産した弾薬のほとんどはそのころは第3軍へ行っていたはず
それに旅順要塞への全面攻勢は
大本営と満州軍司令部(もちろん児玉)の一致した命令です。
106 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 00:02
>105
弾薬が欠乏していなかった事を示すソースは?
伊地知は何度も砲弾の補給を要求している筈だが・・・。
107 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 00:24
いっとくけど「日本で生産した弾薬の殆ど」=欠乏してない
じゃ明らかに無いぞ。当時、全戦線で日本軍の弾薬は不足してたんだから。
108 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 00:34
なるほど。言い訳しないのを男らしいと感じるか、無責任だと評価するかは
意見の分かれるところですね。>104
ただ、乃木が言い訳をしだすと、それは元を正せば皆、満州軍・大本営の責任にも
なってしまうので、あえて波風を立てることを好まなかった、という面もあるのでは。
@日清戦争以後の旅順要塞に対してロクな情報も、攻略計画ももっていなかった。
A海軍側も、旅順に篭城した敵艦隊を岬越しに覆滅する算段を持っていなかった。
Bいざ戦争が始まると、ロシア陸軍がどんどん遅滞行動を行うので、当初の短期決戦計画が
崩れてしまった。→マズイ、こりゃあ第三軍も早く北方戦線に転用せんと!
Cおまけに、旅順艦隊を撃滅できていないのに、第2太平洋艦隊の極東回航まで発表された。
→アカン、もう陸上から歩兵で攻めるしかしょうがない!
Dというわけで、第三軍の旅順攻略がドロナワ式に決定された。しかも、「一日も早く」
というおまけ付きで。
結果、第三軍は準備不十分のまま永久要塞を正面から強攻する事を余儀なくされ、多大な
出血を強いられることになった。
第一次総攻撃に至る経緯を眺めてみると、膨大な犠牲を出した責任は大部分、
満州軍と大本営にあると思われます(少なくとも、戦略レベルでは)。
これらを全部愚痴りだすとキリがないし、愚痴ってもいまさらどうにかなるわけじゃあありません。
まあ、乃木も一言ぐらい文句をいってもよさそうなものですが。
伊地気はズケズケと苦情を述べ立てたので、大本営からは随分嫌われたらしいです。
ちょっと待ってください、奉天戦のことを言っているんですけど。>103
それとも、「児玉が第三軍司令官であったなら、奉天戦でも
弾薬不足も兵員不足もものともせず、鉄道遮断を達成していたはずだ」
という趣旨でしょうか?
109 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 00:37
すいません、字間違えました。>108
気→知 です。
>>108 問題は戦後の教訓を残さなかったことに問題があると
思うのですよ。乃木大将に責任を押し付けることも可能だが
それをすれば推挙した(形)の天皇に責任が及ぶため故に、
戦後の戦史編纂についても偏った傾向に陥ったと思われます。
それは乃木大将一人ではないという意見もありましょうが、
戦後の乃木大将への同情的な国民世論とその影響度を考えると
腹切って死なないで、どうしてこういう結果に陥ったかを述べれば
太平洋戦争に続く日本の不幸はまだましになっていたのではないか
と憶測します。
111 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 01:39
>乃木大将に責任を押し付けることも可能だが
それをすれば推挙した(形)の天皇に責任が及ぶため故に、
えーと、乃木に押し付けるべき「責任」って何のことでしょう?
上に書いたように、戦略レベルでは、乃木に旅順や奉天での「責任」を云々する要素は
見当たらないと思うのですけれど。
戦術レベルなら、歩兵突撃の前に行う支援砲撃のタイミングが悪かったとか、
28砲の威力を過信して工兵隊の運用を怠ったとかいう話は私も側聞します(いずれも旅順の話)。
それに、押し付けるも何も、乃木は多大な犠牲を出した全ての責任を一人でひっかぶって
自刃したのですから。
むしろ大山、児玉はじめ満州軍・大本営の面々こそ、乃木が言い訳しないことを好い事に
全ての責任をおっかぶせ、自分たちの失敗に口をつぐんだという印象があるのですが。
天皇が軍司令官を任命するったっておっしゃる通り形式上のことで、
実際責められるべきは山縣らということになりませんか?
>戦後の戦史編纂についても偏った傾向に陥った
これは事実でしょうが、その原因については意見を異にします。
あえて言いますが、「たった」6万人の犠牲とわずか半年の時間で近代要塞を攻略したというのは
他国の軍隊にはとても不可能な、世界戦史上に輝く快挙でした。
ところが、戦後の参謀教育では、アンチ乃木・アンチ伊地知の連中が陸大で幅を利かせてしまった
おかげで、トンデモなくねじれた、ゆがんだ「戦訓」が強調されてしまったのでした。
つまり、「べトンと鉄条網と機関銃で防護された要塞であっても、着眼さえよければ
奇襲と夜襲と白兵で簡単に占領できるよ、乃木軍みたいに時間と人命を浪費するなんて
とんでもない」、と(ただし、一般国民に対しては「名将」ということにしておいたのですね)。
勿論現実の旅順は、まさに「砲工歩」兵の連携プレーにより陥落したわけですけど。
この歪んだ「戦訓」を信奉した典型エリート参謀が、辻正信です。
だから、乃木の責任を不問にしたから戦訓がねじれた、のではなく、乃木に全ての責任を
かぶせた挙句にその功績を無視したからねじれた、というほうが正しいと思いますが。
乃木自身に説明させろといっても、「聖将」のイメージを宣伝して言い訳の口を封じたのは
山縣たちでは。
112 :
ななしのごんべ:2001/06/02(土) 01:44
113 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 02:59
だから、乃木の「責任」って何なのか、>47>48では分からないのですけれど。
過度な「武士道」教育によって科学的な戦争考察を後退させ、白兵主義の台頭を
招いたってことですか?
でもそれは日露戦争の功罪とは全然関係ないし、第一の目的は、西洋の残忍さを理解せずに
甘ったれた幻想ばかり投影している学習院の小僧どもに闘争本能を養うということだったと
思いますけど。
乃木を糾弾すれば、結局その累は山縣や大山たちにも及びます。
山縣はそれが怖くて乃木を不問にし、日露戦争の戦訓研究を曖昧なままに済ませたのが、
大東亜戦争の敗戦につながったのだ、――とおっしゃるのならまだしも納得できます。
(それでも、乃木に糾弾されるような罪があるとは思えませんが。)
そもそも、天皇に罪が及ぶのを恐れたー―といっても、当時の日本人が
「犠牲が大きかったのは陛下が悪い」なんて発想を持つとは、とーてい思われないんですけど。
むしろ、「我らの力不足により陛下をお悩ませし、誠に申し訳ございません」
って涙するほうが自然じゃあ?
良いか悪いかは知らんし、国民全員がそうだったと言うつもりもないが・・・・。
今日はもう寝ます、続きはまた今度。
114 :
>113:2001/06/02(土) 03:10
そろそろはれて「乃木太郎」を名名するころだと思うが
どうか?(ワラ
明らかにあんたの方が感情的に乃木に流されている
書き込み。
115 :
ななしのごんべ:2001/06/02(土) 03:13
>>113 戦前の師団長以上の任命は誰が行っていたかをご存知か?
乃木を糾弾すれば天皇が任命した(しかもかなりの贔屓であった)
事に責任が及ぶんだよね。
だからこそ 大山やら山縣やらが糾弾が出来なかったんじゃ。
また日露戦争後の野戦要務令をご存知でしょうかな?でも
そんな質問されているところ見ると知らないかもしれん。
乃木大将の責任というのは自分の行った事に対しての姿勢が
欠けているということが私は言いたいのですが。乃木のミスは
乃木にしか始末できないんじゃ。それをしなかったのが問題
あるといっているんじゃ。何回もいうのが面倒じゃ〜。
だからそれを言うなら明治の偉人達はみんなそうだという
意見もあるよ。当然。おれはそう思っておる。だけどね、
軍神まで祭り上げられるほどの影響力を与えるんだから責任
重大といえるでしょ。
116 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 03:40
>>111 自刃するなら、戦争が終わった後にしなきゃ意味がないな
117 :
ななしのごんべ:2001/06/02(土) 03:46
>>116 まぁそうだね。其の後学習院でブタ切をやったり
するんだからなぁ・・・。反省の色なしと私は考えています。
殉死したのは旅順での責任とは感じてないと思います。
遺書では田原坂の軍旗をとられた事と子煩悩だったのに
子供がいなくなったこと、それと天皇の禁が解けたこと。
日露戦争のことはこれっぽっちも書いていない。
>>111 横レスでスマソ。
学習院院長時代の乃木の蛮風的指導方針だけれど、
もう少し当時の学習院という背景を考慮したほうが
良いような気もするぞ。当時のあそこは特殊環境だし、
いろいろ問題を抱えていた。
乃木の責任の話だけれども、ちょっと厳しいすぎないかなあ?
後世から当時をみているわけだし、時代的制約要因もあるわけだから
そのへんを斟酌しないと、議論がちょいとばかし
一方的になるすぎてちゃうような気もするぞ。
歴史的人物が有していた主観について、
個人的嗜好から話すことは面白いことだと思う。俺も好きだ。
でも責任論というカチッとした議論をするならば
もう少し違う議論の仕方もあるのではないかなあとも思う。
気に障ったらスマン。ご海容を乞うのみだ。
119 :
嶽原:2001/06/02(土) 05:35
>>86 「血風 二百三高地」(船坂弘)「乃木と東郷」(戸川幸夫)も好資料です。
私は古本屋で「日露戦争」(児玉襄)探しに明け暮れております。
それにしても、調べれば調べるほど司馬遼太郎は出鱈目であります。笑えるわ。
>>118 まぁ当時の世論の影響を考えるとそういう
時代的制約と捉えて乃木大将が何も言えなかったという
論も展開できるなぁ。
ただ無能な部下を無能なままほっぽらかしたというのは
大将として責任があると思われ。
121 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 11:46
>119「血風 二百三高地」(船坂弘)「乃木と東郷」(戸川幸夫)も好資料です。
ありがとうございます。それと、失礼しました。「名将乃木希典」の作者の方の
お名前って、「嶽原」さんでしたっけ?実はこの本、友達に貸しちゃって今手元にないのですよ。
珍しい苗字だったもので・・・・ごめんなさい。
「乃木と東郷」に紹介されている、乃木の心中を察して森鴎外が作った詩は泣かせますね。
私のお薦めは、86の2著の他には、「有坂銃」「日本の陸軍歩兵兵器」(兵頭二十八)
ですね。桜井忠温「肉弾」「銃後」も良い。当時の生の状況を知るには最適です。
>118学習院院長時代の乃木の蛮風的指導方針だけれど、
もう少し当時の学習院という背景を考慮したほうが
良いような気もするぞ。当時のあそこは特殊環境だし、
いろいろ問題を抱えていた。
すいません、当時の学習院の背景という点に関しては何も知らないです。
兵頭氏の受け売りでモノを言っていただけなので・・・・。
ご教示いただければ幸いです。
>120
だから、
「乃木が無能だった」
という大前提を証明しない限り、
「無能な乃木を任命した明治帝にも累が及ぶのが怖かったから、山縣らは
乃木を糾弾しなかったのだ。自分の立場をきちんと釈明しなかった乃木も悪い」
という論理が成り立たないと思いますよ。
15000人を死なせた道義的な責任と、軍司令官としての有無能とは、一応
切り離して論じるべきではないですか?
無能な部下をほったらかしにした?
それは旅順の話ですか?奉天ですか?
伊地知ら司令部幕僚や第三軍の各師団長が無能だったということですか?
でも、司馬氏が伊地知らのことをボロクソに言っているのは、批判に対し一言も
反論できなかった司馬氏が下手に乃木の悪口を書けなくなり、止むを得ず
矛先を乃木の幕僚たちに向けた、というだけの話だと聞きますよ。
西南戦争や日清戦争中の話ですか?でもその頃の乃木は、まだそんなにえらくなってない
ですよ?
122 :
ななしのごんべ:2001/06/02(土) 12:59
あのさぁ第1回総攻撃で失敗して第2回総攻撃で203高地に補助攻撃を
かけて、ロシア側に203高地の重要性をしらしめてしまってすぐさま
防御陣地を築かれたり、それでもまだ主要作戦を要塞正面において、
203高地攻略は支作戦としましたよなぁ。
あと毎月26日に総攻撃を開始したり、神頼み的な傾向にあるのは
いいが、ある一定のパターンがあることをロシア側に読まれたり、
そういう伊地知の提案を素直に受け取って総攻撃の司令を出したり、
伊地知は頭が固いのかは知らんが28サンチ砲の土台のべトンが乾く
のに時間がかかるという固定観念から、使い物にならないと言い
切ったり、そのくせ弾丸をよこせといってきたり、現状の戦力
でなんとかするのが前線司令部というもんだが・・。
また児玉が前線についたときの地図には同じ師団が複数かかれ
ていたり、司令部が前線を把握していない事に激怒している。
(日露戦争 児島 襄)
これを無能といわずして何を無能といおう。
こういうのは基本的な事項なんでご存知だと思われますが、
そういったことを書かれないのは単に煽っているだけですかいな?
それでも私は乃木大将には同情的に書いているつもりですがなぁ・。
日露戦争のこのあたりは私はちょっと五月蝿いぞ。先祖が乃木大将を
諌めにいっているから・・。実家にいけば資料(日記)がある。
司馬先生と児島襄がきたといっていたがおれが生まれる前だから
よぉ知らん。あの人達はまぁ偏ったといわれてもおかしくは無いが、
かなり取材は丁寧にしておるぞ。(爺さん曰く)
司馬史観批判派はこういったことを無視する傾向にあるが、
これは紛れも無い事実なんだがなぁ。
124 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 13:14
そういや、乃木さんといえば美人コンテストの件があったっけ。
短気で情に熱いという乃木さんの性格がよく現れてるいいエピソードだったなあ
>>123 鴨緑江軍司令部に居た。坂之上の雲やら203高地やら
色々な本を読むと出てきた。消防のときはびっくりしたもんだ。
(信用してなかったが)
126 :
>123:2001/06/02(土) 14:44
>乃木の悪口を書けなくなり、止むを得ず
>矛先を乃木の幕僚たちに向けた、というだけの話だと聞きますよ
「坂の上の雲」読んでないんだろう?あれを読めば乃木、伊地知
等しくその無能さを書き連ねていると思うが・・・
そこまで司馬史観を突っ込んで批判するならまずは一読してからにしろ。
実際に問題となっている作品を読まないで、あなたの概念的な司馬史観
のイメージだけ語られたても話がいつまでたってもかみ合わん。
ほんと新手の煽りかと思えてくるぞ。
127 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 14:52
群疹です。
128 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 16:03
軍神ではなかったということかい?
129 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 18:41
>122『日露戦争のこのあたりは私はちょっと五月蝿いぞ』とのこと、
期待して読ませていただいていた途中で腰砕け。
『また児玉が前線についたときの地図には同じ師団が複数かかれていたり』
「白水、貴様の天保銭をよこせッ」って所ですね。これは中隊の区分ミスです。
残念、わたしもちょっと五月蠅いぞ。
130 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 18:52
>>126 「間違いだらけの少年H」みたいに「間違いだらけの殉死」でも書こうか。
この作品、正直付き合ってらんないけどね。山中恒氏ばりの執念が必要だ。
131 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 19:00
>122
ふむ、それが乃木と幕僚を無能と判断する根拠ですか?でもそれって、殆ど「名将乃木希典」で
反論されていることなんですけど。↓
>ロシア側に203高地の重要性をしらしめてしまってすぐさま 防御陣地を築かれたり、
乃木軍に攻撃されるまで、ロシア軍は203高地の重要性に気付いていなかったのですか?
常識的に考えて、要塞を作ったロシア軍が、203に登れば軍港が一望できるぐらいのことは
知らないはずがないでしょう。
それでもあえて203を主防御線の外に出し、永久築城を施さなかったのは、地形上その他
止むを得ざる理由からで、「203を攻撃したことが重要性を知らしめた」というのは
言いがかりに思えるし、第一ステッセルを馬鹿にしすぎでしょう。
>主要作戦を要塞正面において、 203高地攻略は支作戦としましたよなぁ。
「要塞東北正面に主攻を集中し、望台を占領して一気に旅順の死命を決す」というのは
満州軍が認めた作戦方針ですよ。大山も児玉も無能とおっしゃいますか?
それに、203攻略は旅順陥落に必ずしも直結しませんよ。主防御戦の外にある外郭陣地に
過ぎないのだから。10月の段階で203を攻略できたとしても、主防御戦に立てこもった
ロシア軍の抵抗で、陥落は更に遅れたかもしれません。
海軍が主張するように「203に観測点を設けて、湾内のロシア艦隊を砲撃により撃沈する」
ために高地を占領したとしましょう。でもそれは、物理的に殆ど不可能です。
高地頂上の観測点は、当然ロシア軍艦側からも丸見えです。となれば、軍艦側は高地めがけて
直接照準で撃ち返してくるにきまっています。
我は間接照準で、目標は動き回る軍艦です。
彼は直接照準で、目標は動かない山です。おまけに、要塞内に健在な諸砲塁も、203に
放火を集中してくることでしょう。
観測所は瞬時に吹き飛ばされ、電話線も切断され、弾着観測どころの騒ぎでは
なくなりそうな気がしますが。
おまけに、只でさえ不足しがちな砲弾を艦隊砲撃に用いれば、肝心の要塞砲撃に
使う砲弾が更に逼迫するでしょう。関節照準である以上、命中率は低下します。
戦艦一隻撃沈するのに何発の砲弾が必要か、素人の私には一寸わかりません。
大山や乃木や伊地知が203攻撃に消極的だったのは、このような要素・費用対効果を
あれこれ考えて決めたことだと理解していますが。
(つづく)
132 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 19:01
>毎月26日に総攻撃を開始したり、神頼み的な傾向にあるのはいいが、
ふーん、そうなんですか?それは知りませんでした。
でも、相手が強大な要塞に篭っていて奇襲が成り立たない以上、攻撃の期日が
バレていてもあまり大きな問題ではない気がしますが、どうでしょう?
>伊地知は頭が固いのかは知らんが28サンチ砲の土台のべトンが乾く
のに時間がかかるという固定観念から、使い物にならないと言い
切ったり、そのくせ弾丸をよこせといってきたり、現状の戦力
でなんとかするのが前線司令部というもんだが・・。
「伊地知無能論」が大部分司馬氏の作り話であることは、「名将乃木希典」
で説明されていますよ。
28砲が使い物にならないというのは、「送るに及ばず」という電文の件ですか?
でもそれこそ司馬氏の創作で、伊地知は「28センチ砲の到着を待つのは出来ないが、
今後のため一応送っておいてほしい」という趣旨の電文を打っています。
(ここらへん記憶に頼って書いています。間違っていたらごめんなさい)
第1回総攻撃が終わった直後で、各隊とも損害の回復・攻撃再興の準備で
テンパっている時期です。分解・運搬・再設置が困難な要塞砲など
持ってきたところで、どれだけの人手と時間と資材とを食われるか。
そんなことをすれば、第2回総攻撃のスケジュールに大幅な影響を及ぼすのは
必定でしょう。そんなものは待ってられない、という伊地知の言い分は
別に間違ってはいません。
しかしそれでも、或は今後必要となるかもしれないから、送るだけ送って欲しい
と言っているのですよ。なんでそれが無能の証明になるのですか?
弾丸をよこせって、そりゃあしごく当然な要求じゃないですか。砲弾無しで
どーやって要塞を落とすんでしょう?
現に第1回総攻撃は、砲弾が尽きた時点で中止されています。
大本営にしてみれば、旅順の失敗の原因が一に砲弾不足にあるというのは
おそらく分かっていたでしょう。でも、現に国内の弾薬庫を空っぽにして
第三軍に供給していた以上、ない袖は触れないのです。
だから、しつこく補給を請う伊地知に対して、
「こちらはなけなしの財布をはたいて砲弾を送っているのに、落とせないのは
おまえのせいだ」
という愚痴がついつい、出てくるのです。伊地知の評判が悪いのは、
これが主な原因でしょう。
あまり大本営側の見解を鵜呑みにするのもいかがかと。
>また児玉が前線についたときの地図には同じ師団が複数かかれ
ていたり、司令部が前線を把握していない事に激怒している。
これって203高地攻略戦の終末期の話ですよね?でも、児玉は前線に
ついた直後から非常にカッカしていて、あたりかまわず怒鳴りつけていた
そうじゃないですか。これもそのひとつの現れにすぎないのでは?
それに連日の激戦で各部隊とも消耗甚だしく、編成も混乱して、部隊名が重複したり、
統率力が低下することもある意味避けられないんではないですか?
ミスをしたことは確かにまずいでしょうが、そんなに責められるべきことですか?
まあ、大本営・満州軍側と現地の第三軍側で見解が食い違ってくるのは
ある意味仕方ないし、あなたが大本営という大局の立場に立って
評価を下すのなら、それはそれで良いでしょう。
私がかなり乃木・第三軍側に肩入れしているのも否定しません。
でも、
>これを無能といわずして何を無能といおう。
とまで酷評するのはちょっと・・・・。私には出来ませんな。
133 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 19:04
すげえ。ロシアには観測点だけを精密射撃する能力があったのか。
134 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 19:13
>133
何言ってんですか。日本側の観測点が203高地にあるのは
モロバレだから、しらみつぶしに撃って来るのは間違いないって
いってんですよ。
何十何百発と撃てば、2発や3発はあたる事でしょう。
135 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 19:16
>>132 攻撃する日が分かってれば、相手が奇襲するのは容易な気もするけどね
それに、いつ攻めてくるか分からなければ相手の精神にストレスを与えられるけど、
攻める日が分かれば余裕が生まれると思うんだけど
あと、図面が間違ってるってのはさすがにやばくない?
それとも当時の日本軍は図面を元には作戦を立てなかったのかな?
136 :
133:2001/06/02(土) 19:21
>>134 一発や二発当てる間で、日本の砲は向こうの軍艦にいくつ当たるんだろうとも思うけど
目標が大きいから、間接照準でもさほどのロスはないようにも思うし
137 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 19:25
観測点潰すために何百発も撃つのか・・・・
その間、陣前の突撃破砕や対砲兵戦なんかはどーするの?
138 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 19:41
>137
だってその間、日本砲兵はロシア軍艦を射撃しているんだから、自軍の
歩兵の支援も、ロシア堡塁に対する攻撃も出来ないじゃん。
条件は同じだよ。
139 :
>130:2001/06/02(土) 19:43
>「間違いだらけの殉死」でも書こうか
短文で構わないんで書いてくださいって・・・
140 :
132:2001/06/02(土) 19:54
>133
できます。
そんなことも知らないんですか?
141 :
通りすがりです:2001/06/02(土) 20:04
>140
態度が悪すぎます。チェチェンで首でも斬られてて下さい。
理由を書かなきゃ単なる水掛け論に終わるのみ (´Д`)
143 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 20:23
観測点はまず発見できんだろう
少なくとも数百メートル以上先のカニ眼鏡の先端を発見するのは不可能に近い
それに、観測点は複数だし、砲撃が来たら移動したり退避したりするから
観測班を撲滅するのは困難だろう
一番現実的なのは逆襲による高地奪回でないかな
すまんが俺はバカだからイメージ湧かない
具体的に説明してくれんか
ついでに、
>我は間接照準で、目標は動き回る軍艦です
狭い港内で逃げ回ったら衝突事故が心配だ
>>132 何を煽っているんだが、<藁
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=979984185&ls=50 ここに既に述べられていることが多々あるから読んでくれい
大体酔剣氏、票定者氏、嶽原氏にてがいしゅつだから読んでくれ。
これに反論してくれんか打つのが面倒じゃ。(俺より詳しいし)
俺はあちらでは書いてない知っている事を出来る限り打つつもりじゃ。
ステッセルのみ仰ったて事は東シベリア軍のコンドラチェンコ少将は
無視ですか?203高地の急な築城はすべてコンドラチェンコがやっていたんだよ。
ステッセルは決意が固くなく悲観論を唱えて士気を阻喪させている。
それを諌め補強築城ていたのは実質コンドラチェンコだったはずだが
ステッセルはどちらかというと評価は低い。
また翌年1月に開城したのはこのコンドラチェンコが死んだことが大きいと
言われていますなぁ。
>第一ステッセルを馬鹿にしすぎでしょう。
旅順要塞は財政事情からクロパトキン陸相によって当初の1901年計画
の半分の規模を1909年予定でした。つまり日露戦争当時は未だ半減案すら
もみ完成であり、急遽補強工事が進められていたというんが現状。
其の中でロシア軍の方も戦線を補強しながら戦っていたなぁ。
(↑あちらでガイシュツ)
実際気付いてなかったようですよ。気付いたのは第2回総攻撃後の
コンドラチェンコ少将。
あと203高地重視反論者だったら、第2回総攻撃までは203高地には
攻撃不可能な事情があったことくらい述べろよ。
203高地を補助攻勢をかけたのは、海軍、大本営からの要請があった
からだが、これに対して203高地付近の現状を把握し、また攻勢に
必要な重砲陣地の転換が未だ不可能であったことを説明する義務は
第3軍にはあるっしょ。
それを言われたから仕事をするみたいな感じにおざなりに
していた用に思われ。また総攻撃の日時も別に毎月26日に決めたのは
単に縁起がいいという理由だったそうだが、ロシアとしてはマカーキ(猿)
の一つ覚えの知恵ということでその日にあわせて武器弾薬、兵士を
配備して十分に対抗している。
>それに連日の激戦で各部隊とも消耗甚だしく、編成も混乱して、部隊名が重複したり、
>統率力が低下することもある意味避けられないんではないですか?
>ミスをしたことは確かにまずいでしょうが、そんなに責められるべきことですか?
このあたりは前述の掲示のほうにガイシュツだから読んでからしてくれ
>過ぎないのだから。10月の段階で203を攻略できたとしても、主防御戦に立てこもった ロシア軍の抵抗で、陥落は更に遅れたかもしれません。
逆襲兵力というのをご存知ですか?ロシア側の203高地にいたる線は日本軍側
の砲火に暴露していたために大損害を食らったの。
その逆襲兵力を203高地の戦いで消耗した。
>・・ために高地を占領したとしましょう。でもそれは、物理的に殆ど不可能です。
あのぉ・・史実はどうでしたか?同じ事が坂之上の雲でも展開していることを
だね。こんなところで話すのか?面倒だなぁ。
145 :
ななしのごんべ:2001/06/02(土) 21:06
砲撃だけで堡塁がつぶれたら、旅順はもっと早く
落ちていただろうね。砲塁だったら位置は暴露しやすいが
観測所ってそんなに位置が暴露するかい?
>>114 >113の乃木太郎襲名式は次回のスレにて。
147 :
七誌@七誌:2001/06/02(土) 21:25
乃木は公人としては軍事的能力が欠落し
私人としては自分の価値観のみに終始する自意識過剰の老人
ということで良い?
148 :
七誌@七誌:2001/06/02(土) 21:28
しまった書込み途中だった
しかしながら
>>1の軍神だったかという質問に対しては
既成事実として神社等が建設され奉納されてるから
軍神であるという結論でよい?
>>ALL
149 :
七誌@七誌:2001/06/02(土) 21:28
しまった書込み途中だった
しかしながら
>>1の軍神だったかという質問に対しては
既成事実として神社等が建設され奉納されてるから
軍神であるという結論でよい?
>>ALL
150 :
名無し三等兵:2001/06/02(土) 21:52
乃木愚将派は多少間違いはあれ事実を具体的にあげてその論拠としている
ようだが、擁護派は愚将派が挙げた事実を独自の解釈で次々否定するだけ
に止まっているようだ。確かに擁護派の解釈の方が正しい場合もあるだろう。
しかしここまで都合良く次から次へと、乃木愚将説のもととなった
歴史的真実が翻り、乃木擁護寄りになるものだろうか?
怪しいもんだ。
>149
あくまで「軍神」であって「名将」じゃないネ。
>>150 そうだね。「軍神」か、と言われれば、そう、としか答えようが無い。
鉄砲ひとつ付いていなくても「宇宙戦艦」が名乗れるのと同様だが…(笑)
152 :
七誌@七誌 :2001/06/02(土) 21:57
乃木大将にとっての
軍神とはあくまでも呼称名詞の軍神であって
名将とか有能であることとは
完全なる別物であると認識していますが
>>152 何ゆえ軍神として廻りはおだてたのかね・・というのは
なかなか面白いじょ。
154 :
嶽原:2001/06/02(土) 22:46
>>150 事実は小説より奇だったり、ね。
俗論、風説、そんなもんよ。
155 :
嶽原:2001/06/03(日) 00:30
乃木夫妻の葬儀は「空前の国民葬」といわれた盛儀となり、東京朝日新聞では
「正午迄に十万人 乃木大将の葬儀 葬列沿道の群衆」と伝えている。当日の
一般会葬者は二十万人を数え、国葬以上の規模となったらしい。
「時弊に対する一服の清涼剤」「古武士の梯」「武士道の華」
「何とも形容の出来ぬ驚きと、現代に有り得べからざる奇跡の実現と、そして
敬仰の念とに打たれたのであった」
「要するに大将があまりに真面目のために、周囲から比較的不遇の位置に置か
れた……一口にいえば腐れた世をはかなんで事ここに至ったのではないかと
思う。いづれにせよ、われわれはお互いに深く反省しなければならない」
こういう素地をもって、しばらくして軍神と崇められるようになるわけだが、
軍部や宮内省のなかには「乃木発狂説」をとなえ葬り去ろうとする動きがあった。
もしも殉死の夜第一に乃木邸にて臨検した警察官が地方出身の応援でなかったら?
自刃という事実がいち早く号外により報道されなかったら……?……乃木大将の
死は自刃ではなく、或いは普通の死であったように発表されたかも知れない。
後に将軍の遺志に反して乃木伯爵家が再興されたように。
・・・で、何がいいたいわけ・・・・?
>>155 市井の人は「よくやるね。バカじゃないの?」
とかいう言動が多かったそうだ。
(会社とか親しい人の間ではホンネでこう言ってたそうだ)
158 :
嶽原:2001/06/03(日) 01:13
>>157 名無しさんへ。この話ですか?
「乃木大将は馬鹿だな」と大声で、若い植字工が叫んだ。余りに突然なので
これは一寸意外だったが、直ぐその後から夕刊編集主任が、「本当に馬鹿
じゃわい。何も今夜あたり死なないたって、他の晩にしてくれりゃいいんだ。
今夜は記事が十二頁にしても入りきれない程有り余っとるんじゃ」と如何にも
残念そうに言った。
皆の口から乃木大将を非難する声が盛んに出て来た。ここでは乃木夫妻の
死は何の感傷もよばず、ただ紙面の都合の対象にすぎなかった。主筆は
「諸君はさっきから、しきりに乃木さんを罵倒しているようだが、そういう
ことはこの際慎んだらどうです。訃報に接しながら、余り不真面目な無駄口
はいかにも聞き苦しい」といったために偽善者などと男を下げた。平素あまり
尊敬されていなかった社長が「乃木が死んだってのう。馬鹿な奴だなあ」と
いって、株を上げたという。
159 :
嶽原:2001/06/03(日) 01:29
まあ大事にあたり、大童の皆々様の殺伐とした気分も分かるが。
私は主筆の如くの思考でありたいと思う(自己管理)。偽善者…複雑な言葉だ。
周りの雰囲気を察知して迎合するような社長の如くの言動は慎みたい。
160 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 01:36
社長なら、回りの雰囲気くらい察知するべきだと思うけど
主筆は主筆で、回りの空気に惑わされたら困る
161 :
珊瑚たん、ハアハア:2001/06/03(日) 01:54
>>158 うわっ!まさしくそれですよ。
ではアニメ板に戻ります・・・ラララ
寒いよお前。
163 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 01:58
平素あまり尊敬されていない、つまり平素は周りの雰囲気に無関心な方だった
のでしょう。そんな方でもこの話では、「馬鹿な奴だなあ」で株を上げること
が出来たというのが特筆点。
株上げようと迎合した方も、それで株上げる方も嫌だね。他山の石としよう。
164 :
嶽原:2001/06/03(日) 02:17
>>143 当時の通信手段は有線電話。観測所の設置は可能と思いますが、観測情報が
伝達出来なければ、設置の意味がないのです。
その辺りを撃つだけで伝達設備は破壊されるため直撃弾など不要ですよ。
>当時の通信手段は有線電話。観測所の設置は可能と思いますが、観測情報が
>伝達出来なければ、設置の意味がないのです。
前から気になってたんだけど、現に日本軍は
203高地を占拠し旅順艦隊を狙い撃ちにしたのは事実だろ?
あんた司馬さんの作品以上に真実を曲解してないか?
166 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 02:26
>>164 方向と距離さえ分かればいいような気もするな
手旗で充分じゃないの?
167 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 02:26
>>164 有線が地べたにマターリと這ってると思ってるんだね
予備の有線もなく、切れても通信兵が「困ったにゃー」て呟くだけと思ってるんだね
有線がどこに這ってるかもロシア正教の加護を受けた露軍は御存知だと思ってるんだね
>>165 うーむ。この場合、観測所が敵に発見されてると言うのが前提条件だからな
史実と違ってると言って非難するのは不適当だと思うが
司馬はドキュソ。
デタラメばっかし。
お前サゲ使えるんのか。
171 :
珊瑚たん、ハアハア:2001/06/03(日) 02:43
172 :
>171:2001/06/03(日) 02:47
どこがどうカスなのか教えろや、コラ。
はやくアニオタなりのご高察述べろや。
173 :
170>171:2001/06/03(日) 02:49
具体的にどう司馬はドキュンなのか書けや。
ブルってかけねーか?(ワラ
174 :
珊瑚たん、ハアハア:2001/06/03(日) 02:50
170の発言がしょうもないってことよ。
175 :
アニヲタ:2001/06/03(日) 02:53
場所も弁えず
ジョニーライデンだの
マチルダだのレスつける人間は至極立派な人間だと思います!!!
176 :
)169:2001/06/03(日) 02:58
司馬はドキュンなのか?どうドキュンなのかお前の言葉で
書いてみろや。
司馬はどう「デタラメ」なんだ?どうデタラメなのかお前の
言葉で書いてみろや。
司馬遼は作家。歴史化ではない。
これで十分。
ごめん。家です。
179 :
兵八:2001/06/03(日) 03:05
いまさらですが、66=86=90=93=97=100=108=109=111=113
=121=131=132=134=138です。なお、140は私ではない誰か他人なので
念のため。
乃木太郎?一寸センスがないネーミングですね。それなら私は、尊敬する某軍学者氏にあやかり
こうとでもさせていただきますか。
>
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=979984185&ls=50 ここに既に述べられていることが多々あるから読んでくれい
ざっと拝読させていただきました。なるほど、私より遥かに博識の方が、こうも孤軍奮闘を
されてきましたか・・・・。
ななしさんはなかなか知識がおありのようですね。私の勉強不足のために不快な念を
もよおされたのなら、なにとぞご容赦を。
とりあえず、今の時点で反論できることだけさせてください。
>ステッセルのみ仰ったて事は東シベリア軍のコンドラチェンコ少将は
無視ですか
いえいえ、単に要塞の最高責任者がステッセルであったから名前を出したまでのこと。
コンドラチェンコ将軍が旅順守兵の要であったことぐらいは、私だって知っています。
>実際気付いてなかったようですよ。気付いたのは第2回総攻撃後の コンドラチェンコ少将。
なるほど、そうですか。コンドラチェンコやスミルノフの認識も甘かったのでしょうか。
ただ、「銃後」には、「203高地の永久築城は戦前から推進されていたが予算不足のため放棄された。
しかし、日本軍の攻勢に会って慌てて築城が施された」という趣旨のことが
述べられていましたが。これって、どちらが正しいのですかね?
それに、「ロシア側に203高地の重要性をしらしめてしまってすぐさま防御陣地を築かれたり」って
第三軍を非難する根拠になるのですか?攻撃目標からはずして、ほったらかしにしていた
方が良かったのですか?それとも、中途半端な攻撃をして陥落まで至らしめなかったのが
悪かったのでしょうか。
第二回総攻撃の時点では、203攻撃の準備が全然整っていなかったそうですが。
(私はそのことを全然知りませんでした・・・・失礼。) つづく
180 :
珊瑚たん、ハアハア:2001/06/03(日) 03:08
>>177 そだね。戦国ものなんかは間違いの宝庫。
わざと事実と逆に書いてる事も多くてサイテー。
181 :
兵八:2001/06/03(日) 03:09
>逆襲兵力というのをご存知ですか?ロシア側の203高地にいたる線は日本軍側
の砲火に暴露していたために大損害を食らったの。
その逆襲兵力を203高地の戦いで消耗した。
そしてそれが、旅順の致命傷になり、降伏へとつながった――と言う認識はお持ちなわけですね。
でも私は、仮に10月末の段階で203高地を
奪取できたとしても、ロシア軍が全力逆襲に打って出てきたかどうかはかなり疑問だと思います。
第三回総攻撃の際に断固として奪回行動に出たのは、心理的にも軍事的にも追い詰められた
ステッセルが、何とか日本軍による包囲網を突破し、クロパトキン軍と連絡する
契機を掴もうとしたからだ――と桑原氏は述べています。
食料・弾薬その他要塞防備にまだまだ余裕がある段階で城外決戦を誘ったところで、
乗ってきたものかどうか。まあ、推測の域を出ませんが。
それから、28砲による艦艇射撃云々については、私も少し断定的にモノを言い過ぎました。
艦艇&要塞側が圧倒的に有利とは必ずしもいえません。
現実には、203高地に対するロシア軍艦の射撃というのは、私も聞いた覚えがありません。
ただこれは、副砲以下の備砲すべてを陸揚げし、乗組員の大半が陸戦隊に編入されて艦が
ドンガラになっていたせいでしょう。伊地知らはその事実を知っていたのでしょうか?
ただし、要塞の諸砲塁が健在であることは変りません。過去掲示板によると、203は
頂上にいるだけでは集中射を食らって一瞬でミンチにされる場所だったそうですね。
12月5日以降の湾内砲撃時、敵の砲撃により電話線が切断されたこともあったそうですが。
要塞諸塁がかなりダメージを受けたこの時期ですらそうなのだから、当初から203
のみに攻撃を集中していたらどうなったことか。
それからこれも過去掲示板からですが、28砲の戦艦に対する破壊力は随分軽微だったようですね。
露艦隊は爆沈ではなく自沈し、後日引き上げてまた使うつもりだったと。そうなると、
203攻略は、結果的にも敵艦隊覆滅をもたらしたとは、必ずしも言えないのでは。
>165、>167
>砲撃だけで堡塁がつぶれたら、旅順はもっと早く落ちていただろうね
ちょっと、どの発言を前提にしておっしゃっているのか分からないんですが。誰も「砲撃だけで
旅順は潰せた」なんて言ってませんよ。歩兵と工兵の協同が必要に決まっているじゃないですか。
>157
そうやって、乃木の負わされた苦悩も不運も、なーんにも理解できなかった人間が大日本帝国を
滅ぼしたのだと、私は思います。
182 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 03:09
>>165 「事実」、知りたいですね。当時の電文、通信、調査報告、事実を知る
いい素材と思います。歴史小説とは比較にならない信頼度がありますから。
旅順艦隊撃滅についてはいろいろ言われていますが、南山坡山の観測所
を確保した時点から、既に各艦への直撃弾が多数得られるようになっていた
ことを示す資料は多いです。逆にいうと、それまでの砲撃がかなりいい加減な
ものでした。また更に言えば、二百三高地の観測所が得られるより前に、的確
な砲撃が既に行われていた事を示すものです。
従って『203高地を占拠し旅順艦隊を狙い撃ちにした』のは事実と思いますが
『12月6日に初めて艦隊狙い撃ちできるようになった』と思われているとした
ら、それは事実ではありません。
183 :
>177:2001/06/03(日) 03:09
作家にしたって史実は原典から調べるでしょう?(ワラ
なんならその矛盾点をご指摘なさってはいかがですか?
184 :
珊瑚たん、ハアハア:2001/06/03(日) 03:13
185 :
>177:2001/06/03(日) 03:18
戦国時代の文献と近代日本の公式文書を引き合いにだしてもねぇ・・・
186 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 04:22
このスレの人達的には、「歴史群像」47号の瀬戸利春氏の記事はどうなの?
後知恵による批判をしない限り、乃木が無能という感じはしないんだけど
(特に優秀というわけでもないが)。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/03(日) 05:23
乃木は陸軍の突撃戦法、東郷は海軍の艦隊決戦を決めた人です。
軍神になることによって成功体験に基づくこの戦法はお家芸になった。
188 :
ななしのごんべ:2001/06/03(日) 08:55
>>兵八氏
>「銃後」には、「203高地の永久築城は戦前から推進されていたが
>予算不足のため放棄された。しかし日本軍の攻勢に会って慌てて築城
>が施された」という趣旨のことが
>述べられていましたが。これって、どちらが正しいのですかね?
あほ!1901年計画の規模の半分が承認されて未だ建設中でしょ。<藁
どっちもあっとるわい!計画全部は知らんが、203高地は残り半分の
方だったんじゃないかと後の理由から推測する。
>それに、「ロシア側に203高地の重要性をしらしめてしまってすぐさま
>防御陣地を築かれたり」って第三軍を非難する根拠になるのですか
あほ!前に書いたじゃろ。よく読んでから反論してくれ。
203高地を補助攻勢をかけたのは、海軍、大本営からの要請があった
からだが、これに対して203高地付近の現状を把握し、また攻勢に
必要な重砲陣地の転換が未だ不可能であったことを説明する”義務”は
第3軍にはあるっしょ。
それを言われたから仕事をするみたいな感じにおざなりに
していた用に思われ。
あとステッセルがどうのこうのと話しているがの・・。
当時のロシア側の旅順の状況ってのを知っていて話しているのか?
ステッセルは1903年まで旅順要塞の司令官じゃが、南山の戦いのあとは
後任のスミルノフが司令官になっている。
それが戻ってきたために2重の指令組織が出来上がったんじゃよ。
クロパトキンは先任者ステッセルに指揮権をスミルノフにあずけて旅順
より脱出せよという命令を出しているが、ステッセルは握りつぶしている。
この結果、ステッセル←フォーク少将体制。
スミルノフ←コンドラチェンコ体制が出来上がり、
2重の指揮体制ができあがり、しかもステッセルは部下に人気が無かった。
というより戦前には暗殺までされかけている。
そういった中でコンドラチェンコ少将がほとんど築城の指揮をとっていたが
未だ東正面の堡塁も未完成だったのに、西北方面(203高地)までは
軽便鉄道が其の時点で延長されてないことから、戦争開始時点では軽視していた
んではないかと憶測します。(第2回総攻撃まで日本側の軽便鉄道延長は
出来ていない)
第3回のときも実質はコンドラチェンコ少将が奪回を指揮している。
ステッセルが出てくる時点で桑原氏の意見は懐疑的にならざるを得ない。
>12月5日以降の湾内砲撃時、敵の砲撃により電話線が切断されたこと
>もあったそうですが。要塞諸塁がかなりダメージを受けたこの時期ですら
>そうなのだから、当初から203 のみに攻撃を集中していたらどうなったことか。
まぁ切断されて ハイ終わりだったら楽だよね。切断すればまた繋げばいい。
203高地の戦いの後もその日本側の堡塁に対してロシア側は仰るとおりの砲撃
をやっていたと思いますよ。それを守る方の日本軍はロシアのそれよりは
兵力差から楽だったと思われ。(逆襲兵力をすりつぶしていたから
奪回はできんが)
余談 第7師団が第3軍に配備されたときに”203”は”7”で割り切れると
伊地知参謀は喜んだそうな。神頼みは悪くは無いが、やることやってから
頼むべきだと私は思うがなー
189 :
ななしのごんべ:2001/06/03(日) 08:56
>>186 乃木大将の心理というのを考える。
田原坂の戦いの時に失敗をした所から、また明治天皇のお言葉の
”その愚直なまでの忠実さ”から鑑み、人に言われたことを忠実に
行うだけに徹したように思われ。
自分で判断し、決定することを田原坂の戦い以降止めてしまったのでは
と思われますな。
私が思うに積極性に欠けた無能に徹したってとこでしょう。
だから私の評価は無能。でも戦後の学習院は積極的じゃなぁ。まぁ軍事とは
違うからかなぁ・・・。
190 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 10:21
>>188 「7なら割り切れるぞ」と宣ったのは伊地知参謀でしたか。ある軍参謀という
ことしか分からないでいたが、できれば資料を教えて欲しい。
>>190あれ伊地知ではなかったですかな?俺の思い込みか?
調べてみる。
192 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 21:06
伊地知です。>7で割り切れる
193 :
兵八:2001/06/03(日) 23:28
>>ななしのごんべ氏
@貴方は司馬氏の記述を元に、
>ロシア側に203高地の重要性をしらしめてしまってすぐさま防御陣地を築かれたり
とおっっしゃり、第三軍批判の根拠にしているが、そもそもこの記述自体が矛盾を孕んでいる事にお気づきか?
司馬氏は
「203高地の重要性に気付かず、これを攻めない乃木は馬鹿だ」
と批評する一方で
「203高地を攻めた乃木は馬鹿だ。だって、ロシア軍に防備を固めさせるだけの結果に終わったから」
と述べている。
私の国語力では、この2文を整合させようとしたら、以下のようにまとめるしかない。
「203高地に攻撃をかけた所まではいいが、攻撃が中途半端なために失敗に終わったのはまずかった。
なぜなら、ロシア軍の防御を固めさせるだけの結果に終わったからだ。乃木は全力を以って203高地を攻撃し、
一気に占領すべきだったのに、それをしなかった。だから、乃木は無能だ。」
これを逆から言えば、こうなる。
「第二回総攻撃の際、乃木は不十分な準備のまま203高地を攻撃すべきではなかった。(たとえ海軍からの要請が
あったとしても、断固として撥ね付けるべきだった。)」
だから私は、
「中途半端な攻撃をして陥落まで至らしめなかったのが悪かったのでしょうか。」
「攻撃目標からはずして、ほったらかしにしていた方が良かったのですか?」
と、書いたのだ。
然るに貴方は、どちらもダメだとおっしゃる。
ということは、私の貧弱な国語力では、そもそも司馬氏(=貴方)の第三軍批判論理自体が破綻している、
と考える他は無いのだが、如何か?
(つづく)
194 :
兵八:2001/06/03(日) 23:30
A>実際気付いてなかったようですよ。気付いたのは第2回総攻撃後の コンドラチェンコ少将。
私は、貴方がこう書いた以上、ロシア軍は明治38年9月以前では、203高地の重要性を
全く認識していなかったものと考えた。だから、
>「銃後」には、「203高地の永久築城は戦前から推進されていたが予算不足のため放棄された。
しかし、日本軍の攻勢に会って慌てて築城が施された」という趣旨のことが述べられていました
という反証を出し、「永久築城の計画があった以上、矢張りロシア軍も203高地の重要性は
気付いていたのでは?」と疑問を投げかけたのだ。その回答は、
>あほ!どっちもあっとるわい!
???????
貴方は私の質問の趣旨を理解されていなかったのか?
それとも、単に旅順要塞建設の経緯に関する知識を持ち出して、話をごまかそうとしただけなのか?
(おまけ)
第七旅団長コンドラチェンコ少将は、よろしく頼む、と第一地区司令官ゴルバトフスキー少将にも挨拶して、
下山する、と言った。
「どこへ行かれますか」
「203高地」
「なぜ第二地区に?敵の主攻はこの第一地区に指向されていると思いますが・・・・」
ゴルバトフスキー少将の質問に対して、第七旅団長コンドラチェンコ少将は、首を横に振った。
「敵の主攻方面は確かに第一地区とみられる。しかし、敵は第二地区も狙っている。そして、
旅順口防備の弱点は西側にある。特に第二地区の最高所である203高地を管制されたら、
我が軍の命運も制圧されることになる。」
少将は、発言の半ばで馬に乗り、言い終わったときには馬腹を蹴っていた。
(児玉襄「日露戦争」第2巻より)
B>それが戻ってきたために2重の指令組織が出来上がったんじゃよ。
当然、知っている。現に(株)ジェネラル・サポートのゲーム「日露戦争」では、ステッセルの関東軍を旅順に
敗走させた時点で、旅順要塞の司令官がスミルノフからステッセルに代わり、スミルノフは一将軍に
格下げされる。
なお、このゲームは大変よく出来ているとは思うが、乃木と伊地知の能力値が低すぎることだけは
何とかして欲しい。
(つづく)
195 :
兵八:2001/06/03(日) 23:32
C>第3回のときも実質はコンドラチェンコ少将が奪回を指揮している。
ステッセルが出てくる時点で桑原氏の意見は懐疑的にならざるを得ない。
コンドラチェンコ少将が独断で断固反撃を決意し、ステッセルは制止ないし傍観していたとでも
お思いか?旅順の露軍残存兵力をすり潰してしまうような乾坤一擲の反撃が、一将軍の
裁可で開始・継続できるとでも?
それとも、「ステッセル」を「スミルノフ」と書き換えれば、貴方は納得するのか?
D>余談 第7師団が第3軍に配備されたときに”203”は”7”で割り切れると
伊地知参謀は喜んだそうな。神頼みは悪くは無いが、やることやってから
頼むべきだと私は思うがなー
そうか?この話を読んだとき、私は「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が真っ先に思い浮かんだぞ。
貴方は、乃木や伊地知や第三軍将兵の苦闘に、親身になって思いを馳せた事が、只の一度もないのか?
私の文章力のアホさから、貴方の理解に支障をきたしたらしい事については率直にお詫びする。
しかし、貴方がアホな私によって論破されるほどの人物に過ぎないとは思われないので、
@ACDの4つの問いに関しては、必ずや誠意ある回答を返されんことを信じる。
(おわり)
196 :
兵八:2001/06/03(日) 23:34
あ、もう一つあった!
E私の以下の質問に対し、回答が寄せられていない。
>>砲撃だけで堡塁がつぶれたら、旅順はもっと早く落ちていただろうね
>ちょっと、どの発言を前提にしておっしゃっているのか分からないんですが。誰も「砲撃だけで
旅順は潰せた」なんて言ってませんよ。歩兵と工兵の協同が必要に決まっているじゃないですか
貴方の物言いは、前後の文脈から判断するに、「伊地知無能論」が大部分司馬氏の創作に過ぎず、
砲弾補充の要求も至極真っ当なものではないか、という私の意見に対し、満足な回答を用意できなかったので、
苦し紛れに「砲撃だけで旅順が落ちるわけ無いじゃん、やっぱ伊地知は馬鹿なんだよ」と
誤魔化した、としか受け取れないものであるが。
如何?
197 :
名無し三等兵:2001/06/04(月) 01:13
>>194 「重要性は気付いていたけど、予算不足で手の打ちようが無かった」って解釈は出来ると思うが
兵八さんって嶽原さんに文体が似てるなあ
>児玉襄
ちょいと、ニヤリとさせていただきました。
200 :
兵八:2001/06/04(月) 01:25
念のために言っておきますが、別人です。
いやホント、マジで。
「名将乃木希典」を読んだことある人が私のほかにもいるって
知って、ホントにうれしかったんだよお。
201 :
嶽原:2001/06/04(月) 01:45
>>198 念のために言っておきますが、別人です。
いやホント、マジで。
……
HNは「名将乃木希典」(中央乃木会・桑原 嶽)の筆者名逆読みから
取っております。別場所で指摘されるまでは参考文献は記してません
でした。本書はあまり出回っていないようですから……。しかし、
本書はいろいろ面白いですよ。
202 :
名無し三等兵:2001/06/04(月) 01:46
愚将じゃないけど、少なくとも名将じゃないだろう
単なる言われたことを言われた通りにやる指揮官
203 :
嶽原:2001/06/04(月) 02:19
「名将乃木希典」に記載されている、名将たる所以です。
1・秋月・萩の乱を早期鎮圧 2・西南の役における戦闘指揮
3・歩兵第一連隊長時の演習指揮 4・ドイツ留学時の研究
5・日清戦争における戦闘指揮 6・第十一師団長時の師団錬成
7・那須野ヶ原閑居時の大演習見学 8・日露戦争における戦闘指揮
>>150で、
『乃木愚将派は多少間違いはあれ事実を具体的にあげてその論拠としている
ようだが、擁護派は愚将派が挙げた事実を独自の解釈で次々否定するだけに
止まっているようだ。確かに擁護派の解釈の方が正しい場合もあるだろう。
しかしここまで都合良く次から次へと、乃木愚将説のもととなった歴史的真実
が翻り、乃木擁護寄りになるものだろうか?怪しいもんだ。』
といわれていますが、それこそ次から次へと愚将説を論破していってます。怖いほど。
204 :
ななしのごんべ:2001/06/04(月) 09:06
ここ(私の)意見は乃木を無能と書いていますが、当時の日本軍しいては
ロシア、WW1のイギリス等を鑑みてそんなには愚将ではないと思っている。
ちなみに無能=愚将ではない。名将と愚将が対になる。だから乃木名将
論というのはそもそもおかしい。乃木無能論(当時としてはごく当たり前の
能力は持っている事は前提)は的を得ていると思われ。
よって名将論者は乃木無能論者を乃木愚将論として捉えるのに
そもそも無理があると思われ。
また戦争の勝敗というのは錯誤が少ないほうが負けるという事
日露戦争はその日露両軍の錯誤が多かったにせよ。日本軍の方が
兵站の短さによる地政学的な有利さいよって勝てたと思っている。
日本軍の錯誤は多かったがロシア側はそれを上回っていたと考える。
日本側の錯誤のみを否定する乃木名将論はどうかと思われ。
@ 司馬氏は
「203高地の重要性に気付かず、これを攻めない乃木は馬鹿だ」
と批評する一方で 「203高地を攻めた乃木は馬鹿だ。だって、
ロシア軍に防備を固めさせるだけの結果に終わったから」 と述べている。
これは司馬氏の意見。私の意見は下記ですね。あと私=司馬氏という
構図は止めてくれませんか?
203高地を補助攻勢をかけたのは、海軍、大本営からの要請があった
からだが、これに対して203高地付近の現状を把握し、また攻勢に
必要な重砲陣地の転換が未だ不可能であったことを説明する”義務”は
第3軍にはあるっしょ。
それを言われたから仕事をするみたいな感じにおざなりに
していた用に思われ。
情報能力を判断する能力と敵を甘くみる(自分に都合よく考える)は
当時の日本軍の心境としてはあった為に、乃木軍司令部の考えは当時の
日本軍としては普通。でも名将ならば上記のように的確に
判断し報告をし対処するはずだが、いかがでしょうか?
A ロシア側の準備不足の中、日本軍の主攻点に全力を注ぐのは
当然で、第2次攻勢以後日本軍が弱点である203高地に気付いたとなれ
ばコンドラチェンコとしては其の地点に築城能力を分散させる必要
に狩られると思われ。敵が気付いてなければ203高地に築城する
より東正面に全力を注ぐと考えたのではと思っています。
205 :
ななしのごんべ:2001/06/04(月) 09:07
つづき、
Bは感想ですな。
Cは実質誰が現場を確認し指揮していたかだ。
D、占いや縁起物に判断を担ぐというのは楽なんですよ。何も判断
しなくていいし、決断もしなくてもいい。
なおかつ戦場を把握していないというのは問題あり、第3軍参謀本部が
前線にでて確認をしていなかったのは事実ですな。そういった現状を
判断することなく縁起物や弾薬等の物量の頼り、言われるままに
攻撃をしていった。こういうのを御用聞きという。
伊地知参謀がそういった状況に陥っていたのではと思います。
ただ自分の能力の限界を超えた戦いの中、自己の能力を見極める
事が出来なく、プライドに負けていたのは不幸ではあるが評価は無能と
思われ、決して有能ではないし名参謀ではない。
EはDに大体は書いた。砲撃で堡塁(観測所)が落ちるというのはあなたの
>高地を占領したとしましょう。でもそれは、物理的に殆ど不可能です。
>高地頂上の観測点は、当然ロシア軍艦側からも丸見えです。となれば、
>軍艦側は高地めがけて直接照準で撃ち返してくるにきまっています。
>我は間接照準で、目標は動き回る軍艦です。
>彼は直接照準で、目標は動かない山です。おまけに、要塞内に健在な諸砲塁
>も、203に放火を集中してくることでしょう。
>観測所は瞬時に吹き飛ばされ、電話線も切断され、弾着観測どころの騒ぎでは
>なくなりそうな気がしますが。
という意見に反論したもの。
ご自分で矛盾を指摘してくれているので何もいわん。
質問に答えた
乃木大将がドイツ留学から終えて大山巌に操典や要務令に必要性を説いた
ことはご存知ですか?
乃木大将の罪的行為は日露戦争後の歩兵操典(1909年)と野戦要務令に
影響を与え、恐らく関わったのではないかという事で、日露戦争から太平洋
戦争に至る不幸を気付いた点で私の司馬遼太郎氏との意見を同一とします。
不幸を気付いた→築くじゃスマソ
>>204 錯誤が少ないほうが負ける→錯誤が少ないほうが勝つだ・スマソー
208 :
兵八:2001/06/04(月) 19:50
>199
うっ、やべ!
こんな間違いしたら、俺が最近慌ててこの本買って、都合のいい箇所だけ
引き写しただけってのがマル判りじゃーん!
ハズカシー。
209 :
兵八:2001/06/04(月) 23:33
・・・・・・・まだまだツッコミを入れたい箇所がないわけではないが、
まあ、ここまでにしときやしょう。後はこの版を読んだ読者の皆様がそれぞれ
判断されればよろしい。
ただ、一言だけお許しください。あなたが乃木(とその幕僚)を
>当時の日本軍しいては ロシア、WW1のイギリス等を鑑みてそんなには愚将ではないと思っている
>当時としてはごく当たり前の 能力は持っている事は前提
>乃木軍司令部の考えは当時の 日本軍としては普通。
と認めておられるのなら、乃木に「無能」っつう冠詞を使うのは止めて頂けないか、ということです。
あなたの国語辞書ではそうではないのかもしれませんが、私の常識では、
「そんなには愚将ではない」
「ごくあたりまえの能力」
「当時の日本軍としては普通」
の、能力を持った人間につける冠詞は、
「平凡」「平均」「普通」
なのですな。将軍であれば、
「凡将」「俗将」
です。あなたは、乃木は愚将ではないが無能だ、とおっしゃる。でもどっちにしても、私には
貶し言葉としか受け取れないのです。
私は、乃木は名将だったと思っています。ただ、自分で100%それを信じているかと
言われると、留保がつきますが。
「名将乃木希典」にしても、諸手を上げて賛同しているわけでは必ずしもない。
「お前、今まで散々ネタ本に使っておいて今更何言うてんねん」
というお叱りの声が聞こえそうですが、「名将乃木希典」はとにかく名将としての乃木を
強調する余り、乃木の行動の全てに好意的な解釈が払われていて、乃木の失敗や欠点については
ほとんど取り上げていないのです。もちろん、この本自体司馬史観へのカウンターパンチとして
書かれたものなので、それは差し引いて考える必要があるのですが。
しかし、これだけは自信をもって断言できます。
乃木は断じて無能でも愚将でもなく、100点満点で最低限75点と評価できる、近代日本にとっては
かけがえのない良将であった、と。
だから、乃木のことを無能とか愚将とか言われると、ついつい頭に血が昇って噛み付きたくなって
しまうのですな。無能・愚将というのは、20点とか30点というレベルだと思いますんで。せめて、
「乃木は凡将だった」
くらいにまかりませんかね?
いや、失礼しました。m(_ _)m
210 :
名無し三等兵:2001/06/04(月) 23:35
無能と愚能とはどう違うのかなあ?よくわかんないや。
名のある将軍という意味では名将だけどね。
これを言われると・・・反論できないかったんで
ひやひやもんさ!<藁
坂之上の雲は結構、当時の日本軍の欠点をさらけ出している。
それを秋山兄弟を中心に書かれているんだが、何ゆえ乃木批判の
代表作となったのかはよぉわからん。
ちなみにリデルハードは日露戦争について、日本軍はシベリア
鉄道というロシアの動脈に対して、効果的な間接アプローチを
かけておらず見るべきところがない。とほざいとったが、
秋山騎兵団の数、編成から鑑みてそれに投入しなかったのは
正解だと思われ。しかし希望としては・・・。して欲しかった。
213 :
嶽原:2001/06/05(火) 00:15
>>205 >乃木大将がドイツ留学から終えて大山巌に操典や要務令に必要性を説いた
ことはご存知ですか?
明治20年01月から21年06月まで、一年半のドイツ留学のことですね。
乃木少将が帰朝後に、復命書を大山陸軍大臣に提出したことは知ってい
ますが、その事でしょうか。内容はどんなものでしょうか。
>日露戦争後の歩兵操典(1909年・明治42年)と野戦要務令に影響を与え、
恐らく関わったのではないか
……?これは目新しい指摘ですね。参考にされた資料か何かあるのでしょうか?
>>205 『罪的行為』という言い方に、『……恐らく関わったのではないか』と
継ぐというのは、奇妙に思います。
215 :
ななしのごんべ:2001/06/05(火) 00:48
>>213資料というより憶測です。いま関連性がある本を時間が
あるときに探しています。
角川文庫内のカダルカナル学ばざる軍隊の中で
防衛庁戦史部の前原透論の「昭和期陸軍の軍事思想、わが国独自の
用兵思想の形成経緯ー」の中ででてくる・野戦要務令じゃなくて・・
野外要務令 (失礼)なんですが、
「わが軍戦勝の一大原因は実にわが国固有の武士道の発生に帰せずんばるべからず
。しかして将来益々武士道の発展をはかり大和魂の奮展を期する必要ある。」
野外要務令改正理由書 明治40年1907年
なんですが、ことさら武士道がさけばれているんですよね。この当時
武人として一番有名な方は乃木大将。また
>>48にも書きましたが、
学習院時代の乃木大将の教育方針は下の如き、武士道を前面に押し立てた
物でした。この時点では乃木大将は軍隊とは関係は無いはずなんですが、
ここまで精神主義をことさらに唱えられるというのは乃木大将と関連が
あるのではという点が一つ。
そして歩兵操典自体は明治初期からフランス式のをコピーする形で
書かれていますが、日露戦争後の1909年に日本独自の精神色を
強めた操典に書き換えられています。
実際の奉天の戦いや旅順の戦いでも日本は決して火力を無視
していたわけではなく。いや、ロシア以上に火力を集めようと
努力してきました。
(その最高潮が奉天会戦における二八サンチ砲でしょう。日本軍の
機関銃火力268門に対しロシア側56門 火砲日本側 992門 ロシア側1219門)
それが何ゆえ、火力を軽視した精神主義に陥ったのか・・というのは
疑問に残るところです。こういった断片的な情報から乃木大将という
存在が上記の歩兵操典や野外要務令に関わっていたのではと憶測するわけ
ですが・・いかがかと?(マスコミの影響も多々あるとは思えるが、
未だ勉強不足なもんで申し訳ない)
216 :
名無し三等兵:2001/06/05(火) 00:56
>>215 それだけなら証拠が弱いなあ
証明できれば面白そうだけど
217 :
兵八:2001/06/05(火) 01:01
乃木も迷惑でしょうなあ、自分の死後のことまで責任があるようなイメージを
司馬に植え付けられて。
司馬は歴史作家としては偉大なのだろうけど、「乃木に愚将の汚名を着せた」
この一点だけでも万死に値すると思うよ、はっきり言って。
「坂の上の雲」を読んだ自衛官の中に、辻みたいな参謀が現れないことを
祈りますよ。
教訓:人の悪口を言うときは、自分もボロッカスに言われることを覚悟しよう。
どこかにおらんのか、司馬を糾弾できる大マスコミは!
218 :
ななしのごんべ:2001/06/05(火) 01:06
>>216 川上操六(1847〜1899)(乃木と一緒にドイツ留学をした)
が野外要務令」の制定等教範類を整備し、戦術・戦法・戦場に
於ける勤務の基準を明確にしたんですが、日露戦争後は一番、
発言力の高かった、児玉源太郎が1906年に死に1907年当時に
もっとも陸軍内で影響力の高い人間といえば・・。
1906年1月軍事参議官。同年8月宮内庁御用掛。
1907年1月兼学習院長の乃木大将。
他には大山巌もいるんだが・・あの大砲研究家でもある
大山巌が上記のような要務令になるとは思えない。
個人的に状況証拠は集まっているんだが、確たる証拠がねぇ・
ないのよね。
>>217 他人頼みはよくない。自分で究明したほうが良いと思われ。
220 :
名無し三等兵:2001/06/05(火) 01:18
>>217 スカンクをネコと呼んだって臭い生き物には変わりないだろ。
スカンクをスカンクと呼んでいけない訳でもあるのかな?
221 :
216:2001/06/05(火) 01:20
>>218 うーむ。「武士道派」ってのが乃木将軍の他にいなければ妥当だと思うけど。
他の「武士道派」ってのが乃木将軍を利用したとも考えられるし
ふと思ったのだけど、武士道派の成立ってどんな課程で誕生したのかな
明治初期は西洋化で武士道を否定したってイメージがあるんだけど
222 :
名無し三等兵:2001/06/05(火) 01:23
組織に寄食する能無しの拠り所でしょ?武士道なんて。
そいつらが乃木を担いだんだとしたら、まったく似合いの
御輿だね。乃木って。
223 :
兵八:2001/06/05(火) 01:26
この場合、司馬はネコのことをスカンクと強弁しているのであって、
その逆ではないことを理解していただきたいですね、この過去レスから。
ネコのことをネコと呼んであげるのは当然でしょ?
>220
>>218 >>48じゃなく
>>47じゃなスマソ
>>221 日露戦争当時の高級陸軍軍人は維新前の人間だが・・。
維新前の武士の知的レベルはかなり低かった・・。
とても武士道を語る以前のレベルですなぁ・。ただ、その後に
西南戦争がありましたから、この時点で武士道というものが
再認識されたのかも知れん。
225 :
ななしのごんべ:2001/06/05(火) 01:34
>>222 この当時の武士道というものはどういったものですかな?
新渡戸稲造の武士道とはまた違うでしょうに・・。
226 :
ななしのごんべ:2001/06/05(火) 01:37
>>223 過去レスでの兵八氏の意見がネコ、他の大多数は
スカンクなんよ。(俺もスカンク)
227 :
兵八:2001/06/05(火) 01:53
>226フォローありがとう。
>219そりゃそうだがな。それじゃ、宣伝ついでに
ここいらでもう一度元ネタ晴らしをしておきますか。一人でも二人でもこの本を
読んでくれる人がいれば、私はそれでいいや。
「坂の上の雲」で日露戦争を知ったつもりになっている皆様。「有坂銃」と「日本有事って何だ?」
を是非読みなさい。新たなる軍オタの地平が必ずや開けんことを、私が保証する。
「事実は小説よりも奇なり」これはまごうかたなき真実だ!
228 :
嶽原:2001/06/05(火) 07:18
>>215こういった断片的な情報から乃木大将という存在が上記の歩兵操典や
野外要務令に関わっていたのではと憶測するわけですが
……長々と書かれていますが、要すれば「乃木なんだから悪意解釈オッケー」
ということでしょうか。
『罪的行為』という刺激的な言葉を、何の裏打ちもなく使用されたとは驚きです。
229 :
名無し三等兵:2001/06/05(火) 07:36
>>150 乃木愚将派は多少間違いはあれ事実を具体的にあげてその論拠としている
ようだが、擁護派は愚将派が挙げた事実を独自の解釈で次々否定するだけ
乃木批判の実質の大部分を、215のような「乃木なんだからこれもアリ」式の
独自解釈が占めているのだと、私は思います。215は極端で分かり易過ぎますが。
>>150確かに擁護派の解釈の方が正しい場合もあるだろう。しかしここまで
都合良く次から次へと、乃木愚将説のもととなった歴史的真実が翻り、
乃木擁護寄りになるものだろうか?怪しいもんだ。
歴史的事実の裏打ちのない悪意解釈が先行している、というのが実状ですよ。
230 :
ななしのごんべ:2001/06/05(火) 08:04
>>228 昭和初期の精神構造の元凶になってしまったのは ”軍神”
乃木大将が学習院でびしっと教育していた武士道に影響あるのは
ご存知でしょうに。日本人の精神構造として一つのものが正しいと
思えば、それを後生大事に抱えこむんだよね。例 (戦後の憲法等)
嶽原氏は昭和期に至る武士道や精神主義が乃木大将の影響にあった
事が”よい”というのであれば、それはそれでいいのでは?
私は悪意を持っていますが。
231 :
ななしのごんべ:2001/06/05(火) 08:17
232 :
兵八:2001/06/05(火) 12:29
>230
まあ、君が言いたいことは良くわかるのだが。
人の悪口は,もちっとその人のことを良く調べてから言った方がいいと思うぞ。
それに、「武士道至上主義」=「白兵至上主義」とは必ずしも限らんだろ。
日本陸軍の兵器の体系とか,弾薬の生産量とかをもっと突っ込んで調べれば,
おのずと見えてくるところがあるはずだ。
233 :
名無し三等兵:2001/06/05(火) 12:42
>>230 白兵至上主義なんてのは誰も問題にしてないと思うが
うわぁ間違えた230じゃなくて232だったゴメン
個人的に言えば精神力至上主義が旧軍の最大の罪だったがと思うがね
235 :
ななしのごんべ:2001/06/05(火) 14:30
>>232 私の言っている武士道やら精神主義が悪口だと仰せられるという事は、
兵八氏にとって武士道精神やらは悪い事なんですかな?
後、乃木大将の出世はコネの固まりですがこれに対する擁護論を展開して欲しいですな?
また乃木大将のドイツ留学の帰国レポートのフランス軍の軍服について、の擁護論。
最後に彼は格好にこだわるという司馬氏へな反論。
ここが変だよ殉死論を見て見たい。
236 :
風の谷の噺家:2001/06/05(火) 15:24
乃木将軍でゲスか?ああ〜、軍旗を無くしちゃったじいちゃんでゲスね!(既出ならスマソ)
237 :
兵八:2001/06/05(火) 19:20
>235
>130は私の発言ではないよ。絶妙な援護射撃だったんで感謝してるけどさ。
ひょっとして嶽原さんだったのかな?
なんだか、君と司馬さんのどこが違うのか全然わからなくなってきた・・・・。
>>237 わからなくなるのはどうでもいい。質問にできるだけ答えて
くれんかいな・人にだけ質問して答えさせて自分は逃げるというのは
よくないと思われ。
>131 いまさらだけど
203高地を落として観測点を設けた場合、これを無力化するのは
逆襲による高地奪回でしか無理。
観測点を砲撃で無力化することは殆ど不可能だって。
艦隊の砲であろうが要塞砲であろうがね。
相手の砲弾にも限りがあるよ?
>我は間接照準で、目標は動き回る軍艦です。
思わず湾内を走りまくる敵艦隊を思い浮かべてしまった。(笑
240 :
ななしのごんべ:2001/06/05(火) 22:51
>>229 歴史的事実・。日露戦争後において武士道の権化となった方
を他に多数あげられて、昭和期の日本軍の方向性を上げられた方を
上げてくれませんか?
少なくとも乃木大将は日露戦争後に軍神となり武士道精神の
権化となり、1906年に軍事参事官となっている。この他に
どういった方がおられますかな?
少ないと思われ。
某スレでは内親王の夢枕にたってたな。
242 :
嶽原:2001/06/05(火) 23:23
>>230 昭和初期の精神構造の元凶になってしまったのは ”軍神”
乃木大将が学習院でびしっと教育していた武士道に影響あるのは
ご存知でしょうに。
残念ながら上記のようなことは存知しておりません。また、「学習院教育」
と「昭和初期精神構造」とを関連された根拠を示して頂けますか。
>>230 嶽原氏は昭和期に至る武士道や精神主義が乃木大将の影響にあった
事が”よい”というのであれば、それはそれでいいのでは?
文意がよくわかりません。228で私が述べたことは、『罪的行為』という
刺激的言動が、何の裏打ちもなく用いられたことを嘆息しているだけですが。
上と重複しますが、「昭和期に至る武士道・精神主義」と「乃木」との
関連の根拠もよくわかりません。
243 :
名無し三等兵:2001/06/05(火) 23:27
「殉死」に書いてあった電車での席の挿話。
あれが本当に彼の言葉だったのなら、軍神だの武士道の体現者
なんてとんでもないよな。
不平を腹一杯ためてそれを表に出す事を我慢しただけの幸運児
だもの。
本人はこの挿話(もし本人の言葉ならだけど)が示すようにそ
れに気付かないお子さまだし。
244 :
ななしのごんべ:2001/06/05(火) 23:34
>>242 野外要務令を書きましたでしょう。だから
何ゆえ武士道というのが野外要務令で書かれたのか?
日露戦争後の勝利が武士道精神にくるものだと
判断し、これからの軍隊はこうあるべきだと方向を
示した”方”がおられる筈です。
私はそれに近い方が乃木大将だと思われ。
嶽原氏はこれは歴史的事実ではないということは反証も
当然出来るはずですから,どういった方がおられるか?
と尋ねたのです。
>>243 其の話を信じるならお子様だと思われ。
直ぐに責任放棄をしたがる(自殺)軍隊に入ってからも
休職を繰り返してたしね。
243氏は案山子の話はどう思われますか?
スタイル(ファッションだけじゃなくてね)には凝るくせに
軍人としての自分を向上させる意識の無い人って風にしか見
えませんね。
>>246 同感。もし軍人としてまた向上心の
ある方であれば軍旗をとられても捲土重来を
図ると思われ。
大体、軍隊をあれだけ休職を繰り返しても
中将になり、第3軍のときはいきなり抜擢されて
大将に昇進なんて都合がよすぎ。
梅沢や立見、黒木とは対象的ですな。
また乃木大将は凱旋帰国したあと汚れた軍服で
参上して旅順の報告をしている。其の前の乃木の思考
(矜持を正す)から考えて、天皇陛下の前でのパフォーマンス
としか言い様が無い。
248 :
嶽原:2001/06/05(火) 23:56
日露戦争後に乃木大将が煙たがられていたことを示す一例として、「乃木希典
遺書隠蔽事件」というものがありますね。
「この自決によって乃木将軍が神格化され、その反動として明治天皇を擁して
権力をほしいままにし、豪奢な生活をつづけている軍首脳部にたいする批判や
非難の声がわかおこってくること」を恐れて、軍部が
「乃木将軍を狂人として片づけるか、それが不可能であればせめて乃木の遺書
を軍の手におさめ、極力その内容を世にもらすまい」と画策した事件です。
軍の身勝手で葬り去ろうとされた人物が、かほどの影響力を当時持っていた
とのお考えは、いかがな資料を読まれてのことでしょうか。
一般に乃木批判とされる「批判の言」は、その実、乃木死後の人々の乃木利用
行為、思考に向けられるべき「批判の言」ではありませんか?
生前もお荷物だったんだね
250 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 00:02
マジレス下剋上
げにありがたきもの
うまれいでたるち
そのちのりょうしゅう
えこともまがふかみのちょうあい
をのれをこのみぎもんをいだかぬしんけい
252 :
ななしのごんべ:2001/06/06(水) 00:12
>>248話をそらさないでほしい。私が書いた野外要務令は
1907年に改正され、乃木大将は存命中だ。
乃木大将は生前より軍神としてあがめられているのは
ご存知のことでしょう。軍神は影響力がないと仰るのですか?
またあなたが仰る名将であればあるほど、影響力は当然大きく
なりますな・・。<藁
だから1906年から1907年にかけ乃木大将以外に武士道精神
の権化たるかたはいたのか?と再三私は尋ねているのですが、
よき回答は得られませんな。
253 :
嶽原:2001/06/06(水) 00:14
>>244 私の「歴史的事実」の言を「要務令の話」に絡めたいと思われている様に
見受けられますが、「歴史的事実」の言は150の愚将説論拠とされる事柄に
ついて当てたものです。その点よろしく。
「歴史的事実」という言葉に強く反応されているようですが、そのわりに
論拠のない憶測でよく物を言われておりますね。「罪的行為」の論拠は見つ
かりましたか?
また、
>>240では『乃木大将は日露戦争後に軍神となり』などとも言われ
ていますが、この一文に違和感を感じられないのでしたら、かつて言われて
いた「ちょっと五月蠅い」の言も虚しく響きますよ。
254 :
ななしのごんべ:2001/06/06(水) 00:20
>>253 憶測と決め付けるのは勝手だが、乃木大将が日露戦争後
の日本に何も影響しなかったという根拠があるはずです。
またそれ以上の精神家がおられた訳ですか?
それを示していただきたい。
255 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 00:24
ステッセルが日露戦争後に軍事法廷で死刑の求刑を受けたとき、乃木大将が弁護のために
さまざまな証言や証拠の記録と救命嘆願書を送ったり、結局貴族の称号を剥奪されて困窮に貧した
ステッセルに匿名で生活援助の資金を送ったことは、どのように評価されているのでしょうか?
256 :
兵八:2001/06/06(水) 00:33
あのなー、君らなー、自分たちが「軍人としては乃木は「愚将」「無能」だ」と言い張っていたことを
完全に論破されたからといって、攻撃の対象を乃木の人格にすりかえる事が、どんなにみっともないか、
わからんのか?
百万歩譲って、私人としての乃木が見え張りで卑劣漢であったとしても、将軍としての
乃木の評価には何も関わりがないぞ?
第一ここは軍事版だろ。単なる個人的な誹謗・中傷をやりたいのなら、それにふさわしい
場所に行ったらどうだ?
>243君、君はここのレスを全く読んでいないようだな?司馬が乃木の悪口を書いている時点で
既にマユツバ物だって、気づかんのか?
>ななしのごんべ君、根拠もない憶測でモノを言っては嶽原さんに追求され、それを誤魔化すために
さらに新しい憶測をひねり出しているようにしか見えんぞ。
私は仏心で君への追及の手を緩め、少しは判ってくれるかと期待を抱いていたんだが、甘かったかな?
今からでも遅くないから、マジツッコミを入れてあげようか?悪いが私は嶽原さんみたいな紳士ではないぞ。
君ら二人とも、どうしてそこまで人をボロクソに言えるんだ?
名将と言われた乃木をボロクソに貶せば、その分自分たちが偉くなったように感じることが
できるからか?
それとも、狂信的司馬遼太郎信者だからか?
そうでなければ、君らが能力的にも人格的にも乃木など及びもつかない聖人であるかだな。
凡人の私には思いもよらないよ。
やるやると いってうごいた ためしなし
大山鳴動鼠一匹。
258 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 00:37
ニミッツが東京に進駐してきたとき、「クサカはどうしている?」と周囲に聞いて
鉄道工事夫として低賃金の肉体労働でやっと暮らしているというのを聞き、
匿名で小麦粉やハムを送ったそうだ。
数日後、土方風の真っ黒に焼けたヲヤヂが怒鳴り込んで「敵将のほどこしは受けない!バカにするな!」と
吐き捨て、箱に入った小麦粉やハムを放り出して帰っていったという。その硬骨漢は草鹿だった、、、
259 :
ななしのごんべ:2001/06/06(水) 00:41
ぐだぐだ文句を言う前に突っ込んでくれ、最近の兵八氏は、
レスをつける方に対しての文句しか打っていない。
また兵八氏、其の前にあなたの乃木大将という人物感を
まとめて書いてくださらんか?
俺の乃木大将の感は軍事才能は無能でええ格好しいで、
縁故と詩才には恵まれて最終的に自分の思い通りに生きた人物じゃ。
260 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 00:44
マッカーサー少尉「ノギ閣下は旅純で2人のお子さんを亡くされたそうですね。深く同情いたします」
乃木大将「二人とも、武人としての責任を全うしたので本望です。私は妻に棺桶が3つ並ぶまで葬式を出すなと命じました」
マッカーサー少尉「2つは分かりますが、もう一つは?」
乃木大将「私の分です」
なんだかオカルト信者にモノをいう気分が味わえるね。
兵八さんにモノを言うと。
都合の悪い事は聞き流し
これこれはすでに証明されている事実、その実
その証明って同じ信者仲間の言葉
チャチャ入れはすまん。
>>261 同意。回答は永遠にこないでしょ。
乃木大将が最後の武士という評価は史実だから。
(まぁ外国の記者に煽てられて、日本も認めたに過ぎないよう
な気もするが。)
263 :
兵八:2001/06/06(水) 01:40
>255>258>260
ありがとう。これがなければ、私は完全にブチ切れていたかもしれないな。
誰だか知らないけど感謝します。
>ぐだぐだ文句を言う前に突っ込んでくれ、最近の兵八氏は、
レスをつける方に対しての文句しか打っていない。
いやあ、ごめんなさいごめんなさい。貴方に遥かに及ばない私の国語力では、
貴方の文章の何処と何処と何処に突っ込みを入れるべきかさえ、
咄嗟にはわからなかったのでね。
ここ1,2日は特にその傾向が強まってきたな。
いやあ何故ですかねー。私の国語力も、だいぶ落ちてきたかなあ。もう年かなあ。
もうちょっと、私にも分かり易いレベルの日本語を話してくださるのを待っていた
のですよ。
でも、ありがとう!こんなに簡潔明快に、貴方の乃木観を言い表してくれて下さって。
>俺の乃木大将の感は軍事才能は無能でええ格好しいで、
縁故と詩才には恵まれて最終的に自分の思い通りに生きた人物じゃ。
いやあ、すばらしい!これだけの悪意と偏見を持っていながら、自分は乃木を客観的に正しく
評価している、と自分で信じることのできる貴方の信念の強さが、特にすばらしい。
貴方がこれだけ直球に、御自分の意見を披露して下さったからには、私の
乃木大将に対する人物観も、是非とも表明する義務がありますね。
でも残念ながら、私は貴方のような堅い信念の持ち主ではないし、わずか2行で
乃木の全てを言い表すほどの技量もないので、乃木をどう思うか文章にしろ、と
言われても、たったの8分で書き上げることなど出来そうもないのですよ。
それに、この掲示板はあくまで公共のものですから、私ごときの駄文をだらだら載せる
事も強く抵抗があるのですな、読者の皆さんに申し訳なくて。
だからせめて、今週の週末ぐらいまでの時間的な猶予を頂いて、文章を書き上げたいと
思うのですね。天才である貴方には大変ご不快でしょうけど、残念ながら
これが私の限界なのですよ。お願いできますか?できますよね。
264 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 01:44
>>263 >私ごときの駄文をだらだら載せる
むう、その割に内容の無い文章をそうやって載せる事には
抵抗ないのだね?
ふぅーん・・・
265 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 01:47
>>254『憶測と決め付けるのは勝手だが、』
だって自分でいってるじゃない。
>>215で。
資料というより憶測です。いま関連性がある本を時間があるときに探しています。
266 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 02:02
ななしのごんべと兵八は鏡合わせだな
お互いの姿を見て、己の姿を知るが吉
兵頭二八氏の意見に影響されるもよし、司馬氏の考えに
犯されるもよし、でも自分の意見を明確にもってない方に
文句は言われたくはないわな。
2chの人は結構素直じゃよ。自分の考えを素直に述べる。
それがまたハマる理由なんだが。
>>265まぁ言葉が悪いな・・論拠のない憶測より推測。
でも謙虚に憶測にしたのが間違いじゃったな。
>>266 ウゥ耳が痛いな・・。謹んでお聞きします。
269 :
265:2001/06/06(水) 02:15
>>267 結局、論拠ないのね。それをはっきりさせてくれ。
謙虚に憶測にしたっていうのは、何?憶測を推測と置き換えると何か
いいことでもあるの?
あら、重箱の隅をせせりだしたの?
憶測と推測は言葉が違う。論拠は
>>215 >>218 に書いたとおり。
決定的な資料がないから推測なんだよね。
こじれてますねぇ、このスレ・・・。(-。-;)
273 :
嶽原:2001/06/07(木) 01:10
>>225 「武士道」翻訳で知られる新渡戸稲造は、乃木を大変尊敬していたようです。
274 :
名無し三等兵:2001/06/07(木) 01:17
乃木と仲が良かったという岡沢精について何か知りませんか?
いまいち地味だけど陸軍大将にまでなってる人です。
275 :
名無し三等兵:2001/06/07(木) 06:43
野外要務令って、どんな資料に載っているんでしょう?
>>275野外要務令は本になっている。野外要務令改正理由書は前原透氏
の論文に書かれている。
>>215にてがいしゅつ。
>>273「武士道」は1899年だよね。新渡戸稲造は1906年には帝大教授。
新渡戸稲造が野外要務令に係わりがあるかどうかは、過去に考えて
みましたが、軍人でない新渡戸稲造が影響力があるとは思えにくい。
277 :
嶽原:2001/06/07(木) 11:28
「武士道」翻訳者である新渡戸氏を、野外要務令に関わりがあったか、と過去
に考えられたと……。極めて不可思議な連想ですね。「武士道」研究者・探求者
は全て野外要務令に関連したと考えられているのではありませんか?
軍人としてのあるべき姿とでもいいますか、理想像を具体的に表すものとして
「武士道」なるものが示されたのだと思います。これが、戦術に関わるものに
まで大きく影響していくのはなんとも不可思議なことですが、それと同じように
『「武士道」研究者・探求者は全て野外要務令に関連しているのでは』と思われ
るのはなんとも不可思議です。
>>276 >>276を読み直してくださいな。
>軍人でない新渡戸稲造が影響力があるとは思えにくい。
279 :
嶽原:2001/06/07(木) 12:50
>>276で書かれているのは、
疑問「新渡戸稲造が野外要務令に係わりがあるかどうか」
行動「過去に考えてみました」
結論「軍人でない新渡戸稲造が影響力があるとは思えにくい」
でしょう?
ですから、276の疑問部分に対して277で『「武士道」研究者・探求者は
全て野外要務令に関連したと考えられているのではありませんか?』と言って
いるのです。疑問を持たれるのは自由ですが、端から見れば不可思議な疑問
だと思ったのですよ。
>>279 疑問を持たれるのは自由ですが、自分が思いつかない
疑問を人が持ったことを疑問に思うのは、端から見れば
不可思議な疑問ですね。想像力の欠如というか、徹底した
自分中心価値観というか。
281 :
嶽原:2001/06/07(木) 13:14
>>280 もちろん疑問を持たれるのは自由ですが、
『武士道』翻訳を行った研究者が『野外要務令に係わりがあるかどうか?』
という疑問を持たれる方は極めて少数だと思います。
その疑問を感じた理由とでも言いましょうか、疑問発生の根元に『武士道』
と『野外要務令』とに関連があることへのこだわりが強くありすぎると思った
のです。命題に拘りすぎていませんか?
>>281 もちろんもちろん疑問を持たれるのは自由ですが、『武士道』
翻訳を行った研究者が『野外要務令に係わりがあるかどうか?』
という疑問を持たれる方は極めて少数だと思うのが一般であると
思うのがあたりまえだと思う方は極めて少数だと思います、
もしくは少数である可能性があると思います。少数である可能性を
否定しきれないと思ったのです。主観に拘りすぎていませんか?
283 :
嶽原:2001/06/07(木) 14:22
人の文を使うと、文意が破綻を来しますよ。
読みづらいので、今後控えられることをお奨めします。
284 :
ななしのごんべ:2001/06/07(木) 20:36
嶽原氏へ
>軍人としてのあるべき姿とでもいいますか、理想像を具体的に表すものとして
>「武士道」なるものが示されたのだと思います。これが、戦術に関わるものに
>まで大きく影響していくのはなんとも不可思議なことですが、それと同じように
・・・
不可思議でしょ?
嶽原氏にはとてもとても信じられないでしょうが、旧日本軍が
陥った事実なんですね・事実を不可思議と思われるのはよくある
ことです。でもそれに目を瞑っても何も始まりませんからな。<藁
私が調べた経緯は旧日本軍の東条が出した戦陣訓をはじめ
武士道精神なるものを追求していく過程で新渡戸氏との論文を
考え、最終的に上記の野外要務令に行き着いています。
先に野外要務令があったから新渡戸稲造を繋げたわけでは
ないんです。あと野外要務令をご存知なかったような嶽原氏の
発言よりあまり知られていないから、極少数というのは合って
いるとは思われます。知らないんだから関連付けることは
ないっしょ。
人のレスへの感想もいいですけど・・日露戦争直後に
乃木大将以外に武士道の権化たる方はおられましたか?
乃木大将が旅順で成功した援護火力下の白兵突撃は
名将の理由のひとつでしょ?
285 :
兵八:2001/06/07(木) 22:40
「オレの乃木大将論」がまとまるまで書き込みはすまいと決めていたが、
さすがにこれは、突っ込まずにはいられんなあ・・・・。
284>乃木大将が旅順で成功した援護火力下の白兵突撃は
名将の理由のひとつでしょ?
君さあ、自分が自分で書いた文章、ちゃんと覚えてるの?覚えてないの?
259>俺の乃木大将の感は軍事才能は無能で・・・・
>>285 兵八氏と嶽原氏など乃木大将名将論の
方々の意見を聞いているのだが?そうじゃないのかい?
私の意見はひたすら無能で通していますよ。<藁
旅順の戦いも乃木大将が計画した白襷隊も愚かだなぁ
と思っていますよ。だからどんどん反論して頂戴。
287 :
兵八:2001/06/07(木) 23:14
ふーん。
「援護火力下で白兵突撃を成功させたから、乃木は名将だ」
なんて、思いもよらなかったなあ。そりゃ失礼。
288 :
ななしのごんべ:2001/06/07(木) 23:18
>>287 じゃぁ旅順攻略の乃木大将の成功は何と
思っていたんだい?
兵八氏は何をもって乃木大将を名将と仰っていたんだい?
乃木大将が計画して何か軍事的成功を成し遂げたから
名将だって仰っていたんじゃないの?
まさか単に乃木無能論に対抗するためだけに煽っていただけか・・
鬱だ・・逝のう。
290 :
嶽原:2001/06/08(金) 00:17
>>286 旅順攻囲戦指揮において、以下の点で優れた指揮官だったと考えています。
1・事前砲撃の実施
2・正攻法選択
3・砲兵部隊残弾状況による攻撃中止
4・坑道戦による堡塁爆破
大まかに言ってこんなもんでしょうか。水師営会談など、いわば武士道精神
発揮の場面とかは指揮統率の要素は薄いと思いますので省きます。
強襲法については、どちらかというと第一線での下士官以下の奮闘が大きな
成因だといえるでしょうから、強襲法における白兵突撃をもって乃木大将の
統率評価をしようとは思いません。
乃木大将が考えていた旅順攻囲戦の基本スタンスは、古来から行われている
スタンダードな城攻めでした。じっくりゆっくり干し殺し、の。実際は情勢が
それを許さず、図らずも力攻めとなってしまいましたが。
早く、との中央からの催促にも、事前砲撃の準備が滞れば攻撃開始は延期。
軍の会議では、工兵大隊長一名のみが賛同した少数支持案でも採択。
再攻撃を開始するも砲兵部隊残弾が無くなれば歩兵突撃は一日で終了。
中央の催促から開放された後は、大した損害もなく4つの堡塁を陥落。
「援護火力下で白兵突撃を成功させたから、乃木は名将だ」 なんて、夢想
だにしませんでしたよ。なんて不可思議な事を言われるのか、と思いました。
旅順戦を指揮したことは、乃木大将が死後軍神とされたこととはあまり
関係がない、とすら思っているんですから。
『日露戦争後に軍神となった(
>>240)』と思われている貴方にとっては
意外でしょうか?
291 :
名無し三等兵:2001/06/08(金) 00:23
>>290 その四つってやって当たり前の事じゃない?
そうか、当たり前の事を散々血を流した後でもやれば
優れた指揮官なんだ。
俺はそんなのの下にはいきたくないな。
292 :
14:2001/06/08(金) 00:23
>>15 うわぁ、それは知らなかったし、見ていない!
ども!情報ありがとうっす!
293 :
名無し三等兵:2001/06/08(金) 00:24
それに攻撃企図秘匿がなってない点は参謀におしつけなのかな?
294 :
名無し三等兵:2001/06/08(金) 00:26
確かに最初に無駄死にさせ過ぎ
295 :
名無し三等兵:2001/06/08(金) 00:30
>>290 >じっくりゆっくり干し殺し、の。実際は情勢が
>それを許さず、図らずも力攻めとなってしまいましたが。
あのー,旅順を攻めた理由ってのは,出来るだけ早期に旅順のロシア艦隊を
無力化するためでは?
296 :
名無し三等兵:2001/06/08(金) 00:35
>>295 たぶんバルチック艦隊回航までの半年かそこらで干し殺しにされる
要塞だとお思いなのでしょう。
297 :
名無し三等兵:2001/06/08(金) 00:36
>>295 多分海軍の要求が無茶だったとおっしゃりたいのでしょう
298 :
名無し三等兵:2001/06/08(金) 00:45
299 :
297:2001/06/08(金) 00:47
擁護すると言うか、海軍を批判されるおつもりなんでしょう
と言うか、そうだった
300 :
嶽原:2001/06/08(金) 01:02
>>295 二百三高地より手前側の前衛陣地である南山坡山に観測所を設置した以降、
10月上旬までには、ほとんどの旅順艦隊の行動力を奪ったという報告が上げられ
ています。しかしながら、連合艦隊は封鎖を解きませんでした。撃滅を目的とし
ていたのか、無力化を目的としていたのか、連合艦隊は10月上旬の状態では納得
できず封鎖を解きませんでしたよ。急いでいなかった訳はない筈なんですが。
また、北方作戦の背後安全も考えて、要塞の占領を作戦目的とされていたことは
ご存じでしょうか。迅速に艦隊を無力化したとしても、第三軍は結局要塞占領まで
北方戦線に加われなかったことでしょう。
>>298 あらら、あっちの事ですね。伊地知参謀の件については、28糎榴弾砲の
旅順派遣について、電文紹介の誤りについて触れたことから始まります。
ここでは、この流れなら多分触れることはないのでは?
>>297、299
あらら、あっちの事ですね。この流れなら、多分触れることはないのでは?
都合の悪い事は無視して答えたい事だけ答える。
真面目に相手出来ないね、この人は。
302 :
嶽原:2001/06/08(金) 01:30
都合の悪い事?はて?
303 :
兵八:2001/06/08(金) 01:38
>290,300
ななしのごんべ氏の発言には、どこか引っかかるものを感じていました。私なりの
反論を用意していたのですが・・・・。ありゃりゃ、嶽原さんが上手く説明して下さいましたね。
自分でもまとまっていなかった頭の中が整理できました。どうもです。
私は補足を少し。事実関係というより国語の問題になってしまいますが。
>ななしのごんべ氏の認識として、
「乃木は旅順で、火力支援下に白兵突撃を成功させた」
・・・・って命題が、事実なのか?事実でないのか?
ということが判らないですね。
前者であれば、乃木が有能だという証拠になりこそすれ、無能だという証拠にはなりますまい?
まあ、そもそも客観的な事実ではありませんが。
後者であれば、「乃木が旅順で火力支援下の白兵突撃を成功させた」→「乃木の軍人に対する影響力は
絶大だ」→「だから乃木のせいで、日露戦後の陸軍の戦法が硬直してしまった」というあなたの
三段論法がそもそも成り立ちませんよ?
え、そんな三段論法は立てていないって?
すいませんねえ。私があなたの長くて高度な日本語を読む限りでは、こういう風にしか簡略化できないのでね。
もっと分かり易い言い方をしてもらえますか?
断って置きますが、「乃木は旅順で、火力支援下に白兵突撃を成功させた」なんて物言いは
そもそも私もしていないですよ。過去ログをちゃんと確認してくださいね。
>日露戦争直後に、乃木大将以外に武士道の権化はいたか?
そりゃ、幾らでもいたんじゃないですか?海の東郷平八郎や上村彦之丞。
陸には大山・児玉あり、黒木・奥・野津・川村の各軍司令官に、猛将として知られた一戸・松永・梅沢
などの各級指揮官に、軍神となった橘中佐もあり。その他もっと下級の将兵まで合わせれば、
それこそ数え切れないくらいいたでしょう。
その中で、乃木のみが野外要務令作成に深く関わったと断ずるのは、証拠も無いのに不用意だとは思わないのですか?
その点を嶽原氏に突っ込まれると、「乃木が関わっていない証拠も無い」と開き直っていますね。
でもあなたのその物言いが、「UFOが来ていないという証拠も無い!」とあくまで言い張るオカルト信者と
同じに思えるのは、私だけですか?
それから、軍人としての乃木を高く評価していたのは一般国民で、職業軍人はむしろ軽蔑さえ
していたことは前にお話ししましたね?物の見方が、少々皮相的にすぎるのでは?
>旅順攻略において乃木の達成した成果?何を以って乃木を名将と評価するか?
まあ私の今までの発言を参照してくだされば、大体察しはつくと思いますがねえ・・・・って、
嶽原さんに実に適切にまとめられてしまいましたがな。まあ、私なりに補足して、
もう少ししたら一から順を追って説明しますから、気長に待っていてくださいな。
>また、自分が論破されそうになると「無能と愚将は違う」「推測と憶測は違う」と逃げを打ち、
文意不明瞭な文章を書き散らして誤魔化そうとしていますね。
その割に、人の発言に対して追求できそうになると、「煽りだ、煽りだ」と盛んにレッテル張りを
試みていますよね。
見ていて余り愉快なものではないので、控えたほうがよろしいと思いますよ。あなたのためにも。
304 :
嶽原:2001/06/08(金) 02:00
結構硬派な乃木批判本である大江教授の著書などにも、野外要務令との
関連を示す記述は見つけられない状態です。
実はつい先日、『乃木「神話」と日清・日露』(嶋名政雄・論創社)と
いうこれまたヘヴィーな乃木批判本を入手してしまった(笑)のですが、
これにも記述が見つけられません。前原透氏の論文とは、如何な記述が
なされているでしょうか?
305 :
ななしのごんべ:2001/06/08(金) 02:41
>290
1. 事前砲撃の実施。つまり準備砲撃の上で攻略しようという考えは
間違っていませんが、幕末当時の青銅臼砲をあてがわれても苦情を
言わなかったのは、ロシアの要塞に対する知識がなかったわけですな。
まぁ日本軍自体旅順攻略は考えていなかったところから、
これは仕方ないでしょう。上の命令に素直に従いましたな。
2.正攻法の選択。西正面を攻略しようとしても軽便鉄道の延長すら
出来てなかったところと、中央からの一刻も早く落とせという指示、
また日清戦争からの経験上から正面の攻略路から最短コースで市街地
に突入する作戦しかなかった。
まぁ上の命令に素直に従ったまでだな・・。
3.砲弾薬がなくなった状態で要塞攻略戦をする馬鹿を見てみたい。
4.坑道戦の実施。って第2回総攻撃の話だろ。ごっちゃに述べているなぁ。
それも第1回総攻撃後は伊地知参謀は早期攻略にこだわり、また中央から
の指示も同じだったので第2回総攻撃はそこそこの坑道が出来てからの
突撃になった・・
兵八氏にも
>>111にて 28砲の威力を過信して工兵隊の運用を怠ったとかいう話は私も側聞します(いずれも旅順の話)書いておられる。
まぁ状況が状況だしな・上からの指示もあったし仕方ないな。
とまぁ選択肢ってないよね。でも優秀な方なら最初から攻城戦という
ものが坑道戦術や陣地戦が不可欠というのも知っている筈だよね。<藁
それで第2回総攻撃時に乃木司令部はロシアの配置の恐ろしさを認識した
んだよね。だから第3回攻撃時は成功した。
それで前にも述べたとおり、総攻撃の前に現場をちゃんと把握し報告すること
を怠っている事をさら・・・・っと述べないのは流石ですね。<藁
乃木大将は、作戦は上(参謀)が考えるから配下の人間は作戦どおりに
行動することを徹底しているように感じますな。
この考え方ってさぁ旧日本軍の歩兵操典にも記載しているのをご存知?
旅順当時の乃木大将と似たような境遇に居た方を例にだすと
ワーテルローのグルーシ将軍があてはまるな・・。こっちは最悪だったが。
>>300 上村艦隊が何ゆえ苦労したかを考えれば簡単に答えはでてくるでしょうに。
想像力が欠如しているように思われ。(あぁだから資料に頼るのか。)
>>302 都合の悪いところ、水師営の会見。武士道精神が発揮されたところじゃん。
なんで無視するのかい?これがあったからこそ乃木大将は世界の乃木になったん
だぜ?乃木大将は最高の武人とまで言われたんだよなぁ・<藁
国際的な評価が高くなって乃木大将を無能だと言っていた政府が更迭
出来なくなった瞬間じゃん。もし乃木を更迭したら日本軍が不利な戦いで
合ったことがバレルのでそのままにした意見もある。<藁
>>304 日露戦争後の日本軍の戦い方等を見ると乃木大将の史実の行動に
よく似ているのよね・・。嶽原氏は日露戦争後の日本が行き着いた教訓
は誰が行ったとお考えか?(憶測でも結構です)
306 :
ななしのごんべ:2001/06/08(金) 02:42
兵八氏・・人のレスの言葉尻をとらえ長々書いて楽しそうじゃな。
過去のスレを読んでくれたまえ。大山は大砲研究家であったし、火力
を重視する傾向にあった。児玉は1906年には死んでいる。東郷や上村が
陸軍の戦後の勝因を考えるのか・<藁
梅沢は佐幕派だ!黒木は戦場での働きの割に評価は低い。
黒木は現場の人間だから戦後は冷遇されておったという意見があるな。
奥は怪しい人物の一人。(可能性は乃木よりは低いがある。)
一戸がおったから第1回と第2回総攻撃の堡塁はとれたんじゃ。
まぁこの方かなぁとも考えたが戦後は中将を歴任しておるし
津軽藩の下級武士だから違うな。
藩閥政治の中で苦汁をなめた一戸にとって、薩長出身というだけで司令部の上席を占めるエリート参謀らの憶病さが許せなかった。決して前線に姿を現そうとしない彼らをなじるかのように、一戸は常に最前線で指揮を執り続けた。将軍職としては異例の行動だった。士気はいやがうえにも盛り上がった。という記があるな。
「なぜ、軍司令部は現実の状況に適せぬ、わけの分からぬ命令ばかりを考え出すのか。もといい作戦があるはずだ」。手塩にかけた部下が、ぼろ人形のようになぎ倒される姿を見て一戸はそう思った。という記がなけるなぁ。<藁
橘中佐・・。死んだ人間が日露戦争の勝因を述べるんかい!<藁
>「乃木は旅順で、火力支援下に白兵突撃を成功させた」なんて物言いは
そもそも私もしていないですよ。過去ログをちゃんと確認してくださいね。
其の他の論理は論破されているからな・<藁
例えば
>>108 これは乃木大将のせいじゃないということを仰りたいのでしょ?
これはずっと前にのべた攻略するに当たっての情報収集はすべきでしょ。
>>111 戦後の参謀教育では、アンチ乃木・アンチ伊地知の連中が陸大で幅を利かせてしまった おかげで、トンデモなくねじれた、ゆがんだ「戦訓」が強調されてしまったのでした。
これは私の日露戦争直後の1907年の野外要務令の言葉で十分でしょ。乃木が生きているのにアンチ乃木とかアンチ伊地知なんておったんか?
ここから日本軍はおかしくなっていった。実際この言葉を純粋培養していったという
意見があるなぁ。
あと
>>235に書いた
乃木大将の出世はコネの固まりですがこれに対する擁護論を展開して欲しいですな?
また乃木大将のドイツ留学の帰国レポートのフランス軍の軍服について、の擁護論。
最後に彼は格好にこだわるという司馬氏へな反論。
ここが変だよ殉死論を見て見たい。
の返答は未だですか?
まぁ兵八氏は本の受け売りしか出来ないことが判明しているのでこれ以上は
レスをつけるのは意味がないと思われ。ごきげんよう。
あと戦前の乃木大将ってやはり英雄という確固たる評価が
あったよね。乃木は”努力”して出世したとか・・.<藁
なかなか戦前の政府の教育はしっかりしている。
藩閥でそまっていった陸軍や海軍の問題点を浮き彫りに
してるんだよね。乃木大将は・・。
余談だからSAGE
奥保鞏も佐幕派だな・だからバッテンと。
さぁてさぁて?
日露戦争直後の勝因に対して影響力をもってるのは
誰が残ってくるかは楽しみじゃな・<藁
乃木大将は軍神か?というのなら嘗てはたしかに軍神でしたわな。
乃木大将は名将か?っていうのなら言うまでもなく弱将、愚将、飾り物ですわな。
では何故軍神になれたか?っつうと本人の人気と陸軍さんの都合ですわな。
それだけでしょ。
乃木擁護派の意見を見ていると、
「乃木は正攻法で旅順を落とそうとしていた。だが海軍が
急かしたために止む無く強襲せざるを得ず、結果として
大損害を出した。旅順艦隊が壊滅した後は正攻法に戻る
ことができ、最終的に旅順を攻略することができた」
乃木は何の落ち度もなく悪いのは海軍、ということですかね。
乃木擁護派に決定的に欠落しているのは、何度も指摘されている
ことですが、乃木あって国家を知らずというべきか、当時の
日本軍が(満州軍主力および海軍を含む)置かれていた状況と
大本営の戦争指導、第三軍の任務についての認識ですね。だから
「海軍が急かしたから悪い」なんて言い方ができる。
逆にいえば、擁護派はあくまで乃木の戦術面をのみ評価し(それも
第一回総攻撃や白襷隊を考えれば怪しいものですが)、戦略的
手腕の評価は控えるつもりなんでしょうか? 全て上級司令部の
責任にしたいのかな。大将・軍司令官というものはただの野戦
指揮官だけやって後は知らぬふりを決め込めるほど責任のない立場
ではないと思うのですが。
乃木に対する
評価を
312 :
兵八:2001/06/08(金) 22:45
>ななしのごんべ様
いやあ、頼みもしないのにどんどんドツボにはまって下さって、嬉しい限りです。
この際、あなたをダシにして、一般読者の抱く乃木愚将論の誤解をなるだけ解いていただく事にいたしましょう。
というわけで、是非ともこの論争にもう少し付き合ってください。無理にとは言いませんが。
あなたは、乃木が歩兵操典と野戦要務令に影響を与え、おそらく関わったのではないか、そしてそれが、
ノモンハンやガダルカナルなどの悲惨な失敗に結びついたのではないか、とおっしゃいましたね?>215
でも、乃木に責任があるというのは只の憶測に過ぎず、他に思い当たるべき人物がいない事から導かれた
単なる推論だ、と認めましたね?>271>309
でも一方で、旅順の乃木がただがむしゃらな白兵突撃を行ったわけでは決してなく、行ったとしても
第1回総攻撃の際のみであったこと、その後はもっと堅実な正攻法に切り替えて旅順を攻略したことも、
渋々ながら認めましたね?>305
ということは、仮に百歩譲って、あなたの推論どおり、乃木が歩兵操典と野外要務令に強い影響を与えたとしたら、
当然旅順の戦訓を加味して、現実の歩兵操典や野戦要務令とは逆に、むやみな白兵を戒め、火力を重視する方向に進んだ
筈だ――と考えるほうが、遥かに辻褄が合うのではありませんか?この矛盾をどう説明されます?
>乃木が生きているのにアンチ乃木とかアンチ伊地知なんておったんか?
ええ、ええ、いましたとも。第三軍が悪戦苦闘、損害続出したことで、乃木・伊地知更迭論は朝野を問わず澎湃と沸き起こり、
第三軍の元に届いた「腹を切れ」「辞職しろ」といった内容の手紙は2000通以上にも上りました。
乃木非難に耐えかねた大本営の山縣が、明治天皇の下に第三軍司令官交代のお伺いを立てたところ、天皇が
「乃木を代えてはならぬ、代えれば、乃木は生きてはおらぬぞ」
とおっしゃり、山縣は恐懼して引き下がった――と言う逸話を、まさかご存じない訳はありますまい?
このような轟然たる非難が、結果として戦争に勝ったからといってそう簡単になくなるとお思いですか?
乃木愚将論は、むしろ陸軍のエリート達の中においてこそ、生まれ育まれてきたのですよ。
陸大出身のエリート軍人の証言を、一つ紹介しましょうか。
「・・・・私は日露戦争には従軍しておらず、旅順には戦史研究のため3回視察に言っているに過ぎないが、
陸軍大学校の学生時代から、司馬氏同様の観点によって乃木将軍の戦術能力を批判する声をしばしば聞いており、
また参謀本部に勤務していた当時、私の同期で大天才と謳われた藤室大尉がその著「武将論」の中で、
『武将の国家民族に負う最大の責務は戦勝を獲得することにあり、どんなに人格の高潔な武人でも、敗戦を招いたのでは
祖国の忠臣とは言いえない。この点から考え、旅順攻略の武勲は、大部分児玉源太郎大将に帰せられるべきものである』
と述べているところは、司馬氏の論と同一であった。」(『今村均回顧録』)
ちなみに、今村大将が陸軍大学校に入学したのは大正元(1912)年。日露戦争終結からわずか7年です。
乃木がこれだけ陸軍エリートに疎まれていたにも関わらず、『歩兵操典』の編纂に関わることが出来た、という推論は、
少々無理がありすぎるのではありませんか?
だから私は、むしろアンチ乃木の連中こそ、『野外要務令』『歩兵操典』の編纂・白兵偏重に深く関わったのではないか、と
睨んでいます。「弾丸が無くて戦が出来るか」という乃木や伊地知の度重なる要求を疎ましく思い、乃木の輝かしい
武勲と比類なき名声を妬んだ連中が、「火力なぞ無くとも、俺なら乃木より余程上手く戦って見せるぞ」――という具合に。
もちろんこれも、物的証拠は何一つありません。状況証拠より導き出した、私の単なる推測、仮説です。しかし少なくとも、
単に乃木への反感から導かれたに過ぎないあなたの論よりは、余程首尾一貫していると思いますが。(つづく)
313 :
兵八:2001/06/08(金) 22:48
乃木の出世はコネのかたまり?確かにコネもあったでしょう。しかし、無能な人間がコネだけで偉くなれるほど、
明治と言う時代が甘っちょろいものだったとお思いですか?平和な今の時代の、自民党の派閥争いとは次元が
違うのですよ。
あなたは「乃木は無能だ」という先入観に凝り固まっておられるから、乃木の出世が全てコネによるものとしか見えないのでしょうが。
乃木のレポートのフランス軍の軍服について?残念ながらそのようなレポートについては何も知らないので、
コメントの仕様がありませんね。
格好にこだわる?その何処が悪いのですか?見栄を捨てたら男は名乗れませんよ。
ここが変だよ殉死論?そもそも「殉死」を読んでいないので、書きようがありませんね。
さあ、更なる反論をどうぞ!(わくわく)
どっちもどっちだ>兵八もななしのごんべも
どっちもききたくない
リソースのムダだ
やめれ
終了
315 :
嶽原:2001/06/09(土) 00:06
>>311 『乃木擁護派の意見』というか、嶽原の私見とさせて頂きます。普遍的意見
という認識はありませんから。それはともかく、私見を『乃木は……』と解釈
されているとしたら、以下のように訂正願います。
『乃木は正攻法で旅順を落とそうとしていた。だが海軍が急かしたために止む
無く強襲せざるを得ず……』
→「当初、第三軍は多大な損害を覚悟の上で強襲法を選択した」
『旅順艦隊が壊滅した後は正攻法に戻ることができ』
→「第一次総攻撃失敗ののち、直ちに正攻法に切り替えた」
……これくらいでしょうか、あとはほぼ正確にご理解頂けているようです。
文意の疎通が全くなかったとしたら寂しいことですから、安心しました。
さて、『乃木は何の落ち度もなく悪いのは海軍』というのはちょっと……。
しかしながら、開戦劈頭からの海軍の連続失策が、慌ただしい旅順攻略の
端緒となった事があまりに軽視されてきているのは不可解なことです。海軍側
には多大な落ち度があると考えています。
第三軍は、強襲法での損害は死傷10000名を想定していたそうです。これで
陥落させることができるだろう、と。そうは問屋が卸さずに一堡塁を確保した
だけで頓挫するわけですが。絶望的な歩兵部隊突撃が4日間の長期に渡って
実行されたのは、この当初の損害見積もりが影響していると思います。酷い話
だとは思いますよ。しかしながら、未知との遭遇である近代永久要塞攻略に
あたっては、誰がやっても同じ被害だったと思います。
>>315 未知との遭遇だから大量の犠牲はやむを得ないというのか?
陣地防御なら兎も角、主導を得ることが可能な陣地攻撃において
徒に突撃を強要させたことは仕方がないと思っているのか?
損害見積が影響しているというが、仮にも1個軍を率いる指揮官ならば、
事前の見積にとらわれずに方針を変更する責任があると思うがどうか?
俺は指揮官としての仕事を果たしていないと思う
>>305 兵八氏は批判する対象を読みもせずしてたのか・
殉死を読んでから批判せーよ。
乃木大将の白襷隊は第3回総攻撃。
出世にも絡むが今村均、仙台出身。藩閥争い
なんて知らんじゃろう。
歴史なんて知らん人間と話はしたくない。
>>314の意見にもあるように鬱だし逝きます。厨房(乃木太郎)あとは
勝手にし。
318 :
嶽原:2001/06/09(土) 01:06
第一回総攻撃失敗については、時間的制約にあまりに捕らわれたのが原因と
思っています。攻撃前に有用な情報がほとんど無かったというのも一因と思います。
指揮官としての仕事、というか軍司令官としての仕事、というのはどの様な
ものを指すものでしょうか。
319 :
名無し三等兵:2001/06/09(土) 01:17
>>318 例えば、
>攻撃前に有用な情報がほとんど無かった
仮にも一軍の指揮官なら、攻撃前に情報収集に
努力を傾注すべきだと思うがどうか?
恐らく、貴方は山のような資料を持ち出してきて
○○だから仕方なかったと言うだろうが、
指揮官にはそのような言い訳は許されない
当然だろ? 人の命を預かってるんだから
320 :
ハラキリショー:2001/06/09(土) 01:23
野木希透けは軍珍ということで
321 :
名無し三等兵:2001/06/09(土) 01:27
>>313 派閥の争いに明治も大正も昭和も平成も関係ないと思われ
322 :
名無し三等兵:2001/06/09(土) 02:18
>>319 当時、上部の催促に「そんなに早くはできない」と第三軍は何度も反対
しています。反対の理由は、砲兵配置が済んでいない等、攻撃体勢不備が
主なようで、情報不足は懸念材料に過ぎなかったかもしれませんが。
手始めから情報不足……例えば大本営広島で軍司令官に手渡されたのは
日清戦争当時の地図であり、かような状況は当たり前だったのかも知れません。
明治時代の薩長藩閥は自民の派閥の比ではないと思われ
324 :
名無し三等兵:2001/06/09(土) 02:37
「ななしのごんべ」の母でございます。
何やら息子が失礼なことを申しているようで、
皆様には大変ご迷惑をおかけしております。深くお詫び申し上げます。
息子は幼い頃に父親を亡くし、そのショックで内気な子供になってしまいました。
そのせいか、小・中学校ではいじめにあっていたのです。
この年になるまで、恋人はおろか友達さえもいないようで、
部屋に引きこもっては本ばかり読んでおります。
私も母親として大変心配しておりましたが、この2ちゃんねるというサイトを知って以来、
息子も少し明るくなったようです。
「今日軍事板でね、ドキュソがさあ…」 と、とても楽しそうに夕食の時に話してくれるのです。
どうぞ皆様、息子を暖かく迎えてやってくださいまし。
口の悪いところもありますが、本当は良い子なんです。
よろしくお願い申し上げます。
326 :
兵八:2001/06/09(土) 16:38
>325
・・・・・・・・・・。
いえいえ、こちらこそ色々と不謹慎なことを申上げ、誠にすみませんでした。
ただ、私としては、乃木将軍が一方的に云われ無き誹謗・中傷を受けている状況を
看過し得ず、些かでも将軍の弁護をしたかったまでのこと。
御子息を愚弄するが如きは、全く意図に無かったことは何卒御理解くだされたく。
あーあ、兵八さんやっちゃった
分かってるかどうかはともかくとしてそのレスは痛すぎる
いや、分かってるんだろうけどね
兵八さんイタイ地雷を踏んだな。しかも自分でサラシてる。<藁
ネタにネタで返してるだけでしょ
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/10(日) 02:56
乃木が軍神になったところに日本軍の限界を感じるな。
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/10(日) 02:57
もちろん、東郷も同じ。
突撃の陸軍、艦隊決戦の海軍。
両方とも、偉大なる軍神の影響。
>日露戦争後にこういうエピソードがある。
>乃木大将が戦争後平服で町を歩いていると幼い子供がシジミを
>売っていた。幼いのに大変だと思い「何故に?」と声をかけると
>「乃木というバカな将軍がヘタクソな指揮をした為にとうちゃん
>旅順で戦死したんだ」と言われたらしい。
他の板からのコピペだけど
これってほんとうの話なんですか>詳しい人
乃木大将も2人しかいない息子を両方旅順でなくしているが、
確かに戦死した息子や父を持つ遺族には相当厳しい評価はされ
らしい。
334 :
名無し三等兵:2001/06/10(日) 09:32
>>333 多分事実ではない。
確か講談だったか浪花節だったか。当時当たり前のように寄席でやっていたとか。
もちろん、乃木さんは偉い人、と言うトーンが基調。
でも、遺児の境遇や気持ちもほんとのこと、として語られていたとか。
わたしは「納豆売りの少年と乃木大将」というバージョンで知っている。
>毎朝納豆を売りに来る(昔は冷蔵庫なんかないからね)少年に感心した
>乃木大将はある日少年に言葉をかけ、
そんな感じ。 乃木大将は絶句し、 気を取り直して少年にお小遣いをわたす、
と言ったようなお話だったような。
歌舞伎の義経千本桜なんかでもそうだけど、
主君(明治の場合は国家か)のため
血族を犠牲にせざるを得なかった、
仕方ないが身を切るように悲しいのもほんとうだ、という・・・
切ないなあ。
335 :
兵八:2001/06/10(日) 15:38
ああいう場合、こういう切り返しをするのが一番だと思ったんですけどね。
あんまりウケなかったかな?(苦笑)
まあ、退く相手を深追いはいたしません。
乃木批判が激しかった原因についてですが、第三軍の主力が東京第一師団で
あったという事実も見逃せないと思います。
九州や東北などに比べ、大都市出身の兵が戦死すると世論に与える影響が大きい。
情報の伝達が早い上、若くして妻子持ちの兵隊も少なくありませんでしたから。
例えて言えば、ジャイアンツとカープと、ボロ負けした際にどちらの方が
社会的反響が大きいか?ということを考えていただければ判るでしょう。
(広島ファンの皆様スマソ。)
336 :
嶽原:2001/06/10(日) 16:09
「日本陸軍用兵思想史」(前原透)では、第一次世界大戦の実情を知った参謀
本部の激震ぶりを紹介しています。そのうえで日本周辺は日本陸軍の比較的貧弱
装備をもってしても充分対応できるだろうという、いわば陸軍中枢の用兵思想上
の問題点について触れ、二つの偕行社記事を紹介しています。
1「欧州戦争の与えたる戦略・戦術上の教訓」(大正05年12月・田中義一中将)
2「欧州戦に関する所感の一節」(大正07年08月・野津一輔少将)
1は中将個人名の論説ですが、田中は当時参謀次長であり、参謀本部を代表す
る公式見解といってよいものです。『欧州戦は、その兵力・兵器材料は日露戦争
とは比べ物にならないが、その経過と結果から判断すると、戦前に唱えられてい
た戦略・戦術上の根本原則には何等重大な革命はもたらさず、ただ兵器の進歩・
兵力の増大などにより局部に於いて多少変化が生じたに過ぎない』という論旨を
紹介しています。
2は1に反する内容といってよく、日露戦争の体験が一気に陳腐化したことを
述べています。
『今日進歩せる各種火器の威力は絶対に之を承認せざるべからざるに至れり。若
し夫れ、之等時世の進運に鑑みず、貴重なる現戦役の教訓を顧みず、徒らに精神
力に信頼して火器の威力を軽視し、或は其の装備を忽にするものあらんか、必ず
や最後の死命を制すべき貴重なる肉弾を、事前に於て、且つ最も不経済的に消費
し、遂に惨憺たる結果を以て報いらるべきこと火を睹るよりも瞭なり』
『往年、我が将士が旅順に於て嘗めたる悲惨なる経験は、実に吾人の銘肝して忘
る能はざる所にあらずや。茲に於て吾人は須らく時世の進運を達観し、時代の要
求に順応して之等新兵器の威力を尊重し、装備に訓練に、将た統帥上に於て其の
威力を利用して余す無きの覚悟を必要とす』
野津少将はこの数年後、陸軍次官として軍の近代化、有形的戦力の改善に努力
した人物ですが、国力からみて「ない袖は振れない」というのが実態である以上、
野津自身も結局用兵思想の面で「攻撃精神」「行軍能力の向上」「軍隊の積極性」
「統帥指揮の妙」といった無形的戦力にもっぱら期待し頼る方向に進んでいった
ことを前原氏は指摘しています。
この大正時代における用兵思想においては、軍首脳は「近代消耗戦に耐えられ
ない国力」という泣ける実情に絶望感を感じつつも、それでなんとかなる周囲環境
に流され、あるべき改善が行われなかったということが言えると思います。
「弾がなければ戦はできん」という実情に目を背けるために、「弾がなくても
日露戦は勝てたぞ」と日露戦勝利が後年に殊更喧伝されたのでしょうね。これに
乃木の影響があるとするのはどうも納得いきません。
337 :
ななしのごんべ:2001/06/10(日) 22:35
>>336上記の記は、もともと日露戦争後の用兵思想(精神力重視)
の内容が大正期のWW1後に見直される結果としての資料としては其の
とおりだと思われ。死者たる乃木大将が関わっていないのは当然。
そして日露戦争後の”明治時代”の用兵思想(精神力重視)が
形成された過程に関しては上記の資料は全く書かれていない事を留意されたし。
そもそも明治期、日露戦争後の用兵思想に関することで大正期の
その日露戦争に用兵思想の”見直し”の資料を出され、擁護論を展開する
のは理解に苦しむ。
338 :
名無し三等兵:2001/06/10(日) 22:38
比率から言えばディエン・ビエン・フーの方が
旅順よりも死者がいっぱい出たんだって。
339 :
嶽原:2001/06/10(日) 22:57
>>337 そうです。あくまで『この大正時代における用兵思想においては、』
です。貴方の言われている明治後期(40年代)の資料ではありません。
しかしながら、昭和期の滅亡に続く、軍思想の問題点は辿ることが出来る
でしょう?
ななしのごんべ氏へ
明治期の軍思想については、前原氏はいかが語られているのですか?
340 :
嶽原(339続き):2001/06/10(日) 23:18
この資料はプレ近代戦ともいえる日露戦争において得られた教訓が、いよいよ
本格化した近代消耗戦においては完全に陳腐化してしまったことに重々気付いて
いながら、主に国力問題のため見直しが行われなかったことを示しているものですよ。
>>337『そもそも明治期、日露戦争後の用兵思想に関することで
大正期のその日露戦争に用兵思想の”見直し”の資料を出され、
擁護論を展開するのは……』
と捕らえられるのは『……理解に苦しむ』ところであります。
341 :
防衛大学入学予定:2001/06/10(日) 23:30
乃木は指揮官としては大したことないと思ふ
しかし武士としては奴は最後の武士だと考えても
いいんじゃないでしょうか?
342 :
ななしのごんべ:2001/06/10(日) 23:33
>>340 単刀直入に仰ってください。つまり日露戦争後の戦訓
は、WW1後のこの意見と同様に国力の問題も同様に存在し、
精神論がまかり通ったと仰りたいのですか?
そして乃木大将の武道精神論が悪用されたと・・・?
そう最後の侍です
344 :
兵八:2001/06/10(日) 23:34
>>337 なんだ、まだいたの?
あなた、NHK出版社の「ドキュメント太平洋戦争・2
敵を知らず己を知らず――ガダルカナル」
しか読んでないんじゃない?この件に関してはさ。
>>338 確かに、モスクワとか朝鮮戦争とかの共産軍の人海戦術に比べれば、
旅順も色なしでしょうねえ。
映画「二○三高地」のラストシーンで乃木大将は、
多くの兵士が死んでしまったと(自分の息子も含む)
明治天皇の前で号泣するんだけどこれは、実話??
>>345 実話。ちなみに旅順の前哨戦たる金山の戦いで
一人なくさている。この時点で乃木大将は金山の戦いに
おけるロシアの防御陣地の凄まじさを自分の子供を失った
ことで動揺して見ていなかったのか?理解した上で旅順に
望んだのかは不明。
347 :
兵八:2001/06/10(日) 23:48
>>345 「号泣」だったかどうかは知らないけど、明治天皇も乃木も、
涙を浮かべていたーというのは事実らしいです。
それから、この時乃木が天皇の御前で読み上げた「複命書」は、
陸軍にとって都合が悪い場所がある、として一般公開にあたり
一部が削除されました。
更に余談ですが、「この上は切腹して罪を謝し奉らん」と
申上げた乃木に対し、天皇は
「今は汝の死すべき時に非ず。死なんと欲すれば、朕死せし後に
せよ」
とおっしゃったそうです。
>>346 347
ほーう!なるほど!!有り難うございます!!
やはり乃木大将は軍神というより武士だと思うな・・・
最後も明治天皇の崩御の為の殉死だもんね!(妻も一緒に)
やっぱり武士だね!!
>>348 それは>ALLも承知さ。
ただ彼の指揮官としての適正や
適正を無視して彼を実戦部隊に配置した藩閥による人事、
ましてや軍神にまで・・・というところに疑問があるのさ。
350 :
兵八:2001/06/11(月) 00:17
>>346 やべ、かぶった。にしても、また訳のわからん妄想を・・・・。
(笑)
だいたい、東郷平八郎と秋山真之が作った「海戦要務令」
が日本海軍の艦隊決戦思想を形成し、硬直化させたという
物言いはよくされるが、だからといって東郷や秋山を
無能・愚将という人間はいないでしょう。
仮に乃木の思想が日露戦後の日本陸軍の方向性を決定付けたとしても、
ノモンハンやガダルカナルの失敗は乃木の後継者の問題。
乃木に責任を帰すべき問題では全くありません。
<東郷と秋山
日露戦争時の彼らは愚将とは思わんが、その後はけっこう害があったと思う。
まあ、虎の衣をかる小笠原長生のせいだと思うがね。
武士ねぇ。それは何時の時代の武士なんだか
江戸末期の硬直した武士だとしたら、それはそれで迷惑だと思われ
353 :
嶽原:2001/06/11(月) 00:56
>>340 単刀直入に申せば、貴方が(
>>215)にて上げられた『防衛庁戦史部
の前原透論の「昭和期陸軍の軍事思想、わが国独自の用兵思想の形成経緯ー」』
の内容の、どのような部分から貴方の言われる推論、つまり
「武士道の権化であった乃木が、野戦要務令の内容に影響していた」
という推論が導き出されたのか、疑問なのです。
日露戦争後、軍の要務令が作成された時に、当時の首脳部がどのように思考
したのか?という命題の一答として、貴方は「乃木の影響があった」と言われ
る。その論拠として防衛庁戦史部の論文を上げられたのでしょう?
その内容のどの部分から貴方の一答が導かれたのか知りたいのです。
追加
すくなくとも、彼らは自力で勝ってるもの(藁
>>353 それは
>>215に書いとおりです。
そして再三書いているように乃木大将の他に
野外要務令改正理由書の状況(武士道を前面に押し立てる)
を生み出せる方はおられましたか?
sage
356 :
名無し三等兵:2001/06/11(月) 01:21
「どのような部分」からなのでしょうか。
357 :
兵八:2001/06/11(月) 01:27
>>355 あなたのその論理なら、私がとっくの昔に論破してるじゃん?
>>312 論破されてることでも、100回繰り返せば誤魔化せるってあなたの態度は、
はっきりいって○国人並にせこいよ。
議論するならもっと正々堂々としたらどうですか?
まず殉死(じゅんし)をよんでから、しばしかんをひはんしようね。
そしてれすをぜんぶよんでからひはんしようね。
>>312の意見のさらに前に
>>47にて述べている戦後の学習院
の教育方針に現れている事と
>>215はしっかりリンクしている。
>>312の仰り様だと乃木大将は旅順を火力で落とし、野外要務令
を無視したとしても、戦後の教育では刀を重視していたということになる。
いいかげん掲示板がショートサーキットを起こしている。まぁ3人とも
いっちゃっているから仕方ないか。
>>336でせっかくいい資料がでたかな
と感心しかけたが、場違いだったからな・・逝こう。
359 :
兵八:2001/06/11(月) 01:55
あ、そ。
二度と帰ってこないでね(はあと)。
子どもじみた司馬信者を相手にするのは疲れたからさ、
こっちも。ごきげんよう。
360 :
嶽原:2001/06/11(月) 02:06
『野外要務令改正理由の状況』といわれますが、一般人は「野外要務令」が
どんなものかしりません。しかも明治期のものを話題にしているのでしょう?
地方の図書館では、昭和期の軍滅亡原因追求の文脈で当時の用兵思想を考察
する程度の資料しか得られません。大正期にさかのぼるのが精々です。
貴方の推論の論拠となった、調べられた資料は、実に興味があります。
是非内容をお聞かせ下さい。その際に、要務令改正点について、改正前と後の
比較もしていただけたら幸いです。乃木氏が関与したと思われる点のみでも。
361 :
嶽原:2001/06/11(月) 02:26
ところで兵八氏、週末が過ぎましたよ。乃木論、待ってます。
362 :
名無し三等兵:2001/06/11(月) 03:05
どっちが子供じみめてるんだか(藁
364 :
兵八:2001/06/11(月) 20:04
>>361 うっ、申し訳ない。
当方もこれでも勤め人ゆえ、なかなか執筆の時間が取れぬ。
誠に相済まぬが、もう暫しの間お待ちくだされい。
乃木大将は軍神なんですか?
私がROMしてて、あの時代の軍人としての義務は果たした。
という結論に達しつつありますが。
軍神はホメスギでしょう。
366 :
嶽原:2001/06/12(火) 03:50
あの時代の軍人としての義務を果たしていた……だけでは軍神にはなれなかった
でしょうね。「軍神たる条件」というものがあるとしても、それは軍功とは関係
ない、と言えると思います。「海の軍神・広瀬」「陸の軍神・橘」の戦死は、軍
の作戦行動において、いかほどの貢献をしたものでしょうか。貶める意志は些か
もありませんが、さほどの成果を死と引き替えに残した、とは思いません。
広瀬中佐は、生前の海外活動が活発であり、人柄も慕われる人格者であった
と伝えられています。決死の状況下、平素の信条そのままに行動し壮絶な戦死
を遂げました。それは第一線指揮官の姿として上からも下からもまさに理想像。
軍神とされたのは志気鼓舞のためにも自然な成り行きだったと思います。
橘中佐も、ほぼ同様と思います。
比較して乃木大将の軍への功績は如何なものでしょうか。連隊長心得少佐と
しての西南戦争での第一線指揮、旅団長としての日清戦争での第一線指揮、
師団長としての平時師団育成、軍司令官としての日露戦争での指揮、これらを
功績の全てとして評価する場合、「軍神」とは「ホメスギ」というか、不要の
評価と言い得るかも知れません。だいたい、平時に世を去った軍人が「軍功に
よって軍神になる」とは、不自然です。乃木大将が死後軍神となった理由は、
「軍功」以外のものが大きかったと言えると思います。
367 :
嶽原:2001/06/12(火) 04:08
『軍神という「評価」は、「軍功」と必ずしも一致しない』と
考えていますが、だからといって「軍功」を無視はしていません。
なので、『愚将・無能』なのに軍神に『なった・なれる』などと
いうハナシには積極的に反論しているわけです。
368 :
ジェネラル:2001/06/13(水) 07:22
軍神=乃木、東郷
当時の日本軍の価値観にピッタシだったんでしょうね。
その価値観で戦争をやって、さんざんな目にあった。
>嶽原
分かりやすくありがとうございます。
自分としては、
海の東郷に対抗する英雄が陸には存在せず
苦戦の末に勝利を得た・・・という日本人好みの乃木を引っ張り出した、
というイメージを長く持っていました。
もう少し自分でも調べてみます。
370 :
嶽原:2001/06/16(土) 04:01
>>337『日露戦争後の明治時代の用兵思想(精神力重視)が形成された過程に関して』
なんとなく、それについて述べているような文章を見つけました。
『日露戦争は、近代戦における指揮統制の乱れと高い損耗率を支えるのは個々の兵卒の
精神力であることを証明したといえる。陸軍は、日露戦争の勝因において精神面を特に
強調するようになった。明治39年11月の「偕行社記事」では、「日露戦役に於ける
勝敗の原因を論す」という陸軍将校から募った懸賞論文の入選に編を掲載しているが、
その結論は二編ともに「勝敗最大の原因は彼我軍人精神の優劣に帰せざるを得ず」で
ある。そして軍隊教育における精神教育の重要性と武士道精神の涵養を解いている。
こうした方針は、「軍隊内務書」(明治41年)「歩兵操典」(42年)「砲兵操典」
(43年)の改訂という形で兵士に示され、日本独特の軍隊が形勢されていく。改訂の
主務者は陸軍省軍事課長田中義一である。』(「明治四十三年の転轍」河田 宏)
本書では乃木の関与については述べておりませんでした。ななしのごんべ氏の
参考にされた文献・資料ではいかがなのでしょうか。
>>370 ちなみに田中義一は乃木大将と同じ長州閥なんですよね。
私のほうも学習院時代の乃木学長語録なる古書を見つけましたが、
(ただし、値段がかなり高かったので買えなかったのですが)
これには特に武士道を強調した授業もさることながら、乃木大将
が台湾総督時代の粛軍を実行した事と同じ様な事を実践したと述
べている。
精錬潔白を押し付けようとしようとする様が無様だが、それが
明治天皇の信頼を得ていることにまた明治天皇のイタサを感じる。
ただしこういった表立った批判は明治時代の書ではありえないので
風俗書から調べなければいけんのかな・・と嘆いている。
私の憶測では日露戦争の勝因を調べるに当たって
1906年に明治天皇の名において軍に命じている経緯があると思われ。
これを立証できれば、第一段階は解消できると思われます。
野外要務令自体を探し、野外要務令改正書を探していますが、
まだ見つからず。(平日は仕事だからスマソー)
追伸 田中義一関係文書は2002年2月にマイクロフイルム
で刊行されるが見たいですね・
374 :
名無し三等兵:2001/06/17(日) 05:36
>>371 >野外要務令自体を探し、野外要務令改正書を探していますが、まだ見つからず。
思われごんべは、知ったかぶりで語っていたことが判明しました。
375 :
嶽原:2001/06/18(月) 00:06
>>371『学習院時代の乃木学長語録なる古書』
「乃木院長記念録」のことでしょうか。これは大正三年十月の発刊で超1000頁と
いう大書といわれるものです。これだとしたら……高価でしょうな……。
一応出来たので、公表します。我ながらつまらんけど。
(西南戦争の乃木)
西南戦争が勃発して間もない明治10年2月22日夕刻、乃木少佐の指揮下熊本城に急行していた小倉歩兵第十四連隊の先鋒約200名は、植木にて薩軍と交戦、退却の際に連隊旗を奪われるという失態を犯した。
史書によれば、連隊旗行方不明を知った乃木は血相を変え、即座に敵中に突入して連隊旗を奪い返さんとしたが、二人の下士官に必死に止められて事なきを得たという。
この事件以降、乃木は常に連隊の陣頭に立って指揮を執り、その姿は恰も敵弾に当たるのを望むが如くであったという。第十四連隊は優勢な薩軍相手に23日、25日と善戦し、26日に官軍主力が到着するまでの時間を稼いだ。
更に27日、本戦役の天王山である高瀬の会戦では、薩軍一の勇猛を謳われた桐野利明の部隊と激戦を展開、遂にこれを退却せしめ、会戦勝利の原動力となった。
乃木は戦争の大勢が決した4月17日、待罪書を提出して軍旗喪失の件に関する処罰を仰いだが、結局下った沙汰は「其の儀に及ばず」でお咎め無しとなった。却って乃木は翌年、第一連隊長の命を受ける。
乃木が軍旗喪失という大不祥事を犯しつつも全くお咎めがなかったのは、何よりも乃木の軍功が抜群だったからであり、それ以外に何の理由もない。劣勢な、しかも徴募の百姓兵を率いて勇猛な薩軍の攻撃を支え、効果的な遅滞行動により官軍主力進出の道を開いた。もし乃木隊が早い段階で総崩れになっていたとしたら、爾後の戦況はどうなっていたかわからない。
――というような事は、乃木を論じたいっぱしの本ならまず記されていると思うが、私はもう一つ、乃木がこの戦役で果たした決定的な役割は、「徴兵が野戦において士族兵と互角に戦えることを証明した」という精神的な面も大きかったのではないかと思う。
萩・秋月・佐賀などこれまでも士族反乱はあったが、政府軍と反乱軍の兵力差・装備差がありすぎ、鎮圧されたのはあたりまえであった。しかし西南戦争の薩軍は満を持した精兵三万、銃器弾薬もそれなりの用意をしてきている。熊本鎮台はいち早く篭城を決め込んだが、篭城だけでこちらから野戦を挑まないのでは、戦争に勝つことは出来ない。
「徴兵が士族兵とも互角に戦える」事は、実戦で証明するしかない。そして乃木は、それに成功した。この緒戦の結果が、爾後官軍将兵にいかほどの自信を与えたか、計り知れないものがあるのではなかろうか。
(つづく)
(旅順戦と乃木)
旅順攻略戦に於ける乃木の指揮ぶりが有能であったか無能であったかについては、過去レスに縷縷述べられているので贅言を避ける。
簡潔にまとめる。守備兵力4万5千火砲約500門を抱え、永久築城を施した大要塞を、第三軍は常時兵力5〜6万前後、火砲約300門の寡兵を以って、しかも半年の短期間で陥落させたのだから、これはまことに驚くべきことであり、世界戦史上に残る快挙である。「攻者三倍原則」に従えば、旅順攻略には無慮15万の大軍が必要であったろうが、乃木は3分の1の兵力でやってのけた。クロパトキンが「いかなる大兵を迎えても3年は持つ」と計算していたものを、6分の1の時間で攻略したのである。
この乃木を無能・愚将と評する人には、ではその基準に従えば、名将とはいかなる人物を指して言うのかと聞いてみたいものである。乃木が愚将だというのなら、世の中に名将など一人もいなくなってしまうだろう。
しかし、約6万の死傷を出したというその一点のみに於いて乃木を「愚将」呼ばわりする人もまた多い。
面倒くさいが、もう一度順を追って説明する。
そもそも海戦や空戦とは異なり、陸戦の際に、我の損害は皆無のまま敵を全滅させるというようなワンサイド・ゲームはまずありえない。あるとしたら、敵の戦意があまりにも低く、まともに戦いもせずに武器を捨てて逃げ出してしまうような場合。または、10対1以上の圧倒的な兵力差があり、容易に包囲・殲滅されうる場合しかないであろう。
双方とも戦意旺盛な軍隊が正面から激突すれば、どんな名将が指揮していようとある程度の損害が出るのは当然である。川中島の戦いでは甲越両軍に約3000人の戦死者が出たといわれるが、だからといって信玄や謙信を無能呼ばわりする人はいない筈だ。旅順の多大な出血も、大和魂日本軍の突撃に際し、スラブ魂ロシア軍が頑強に抵抗したからこその損害なのである。(つづく)
事前の情報不足・準備不足・兵力不足・砲弾不足・無理な攻撃督促、これら皆元はといえば大本営の責任であり、旅順苦戦の戦略的な原因は必ずしも第三軍の責任ではないこと、これも既に書いた。それでも、「いや、もっと偵察をしっかりやっていれば損害はもっと少なくてすんだ筈だ」「もっと良い作戦があった筈だ」という人がいる。
こういう場合、自分の「常識」を以って考えたほうが良い。
一口に情報収集・偵察というが、そもそも重大な機密である敵要塞の防御体制を、どうやって知るというのだろう。偵察衛星どころか、飛行機も無線もない時代である。
真っ先に思いつくのが、捕虜や住民を尋問することだろう。しかし、高級将校でもない限り要塞の仔細はつかめまい。それでも大まかな所は知れるかもしれないが、実際に確かめるには結局斥候で探らざるを得ない。あなたは、全山禿山で遮蔽物など皆無の旅順で、400メートル先に銃口だけ覗かせた敵の機関銃を、狙撃兵の恐怖にも怯えつつ、いち早く発見することが出来るであろうか?
結局、100%正確な偵察をすることなど不可能であるし、「攻めてみないと判らない」というのがおそらく当時の実態であったろう。それに、もし仮に完璧な偵察を成し得たとしても、敵の銃口に身体を暴露して突撃しなければならぬのは同じであるから、さして損害が減ったとも思われない。多分、「100人戦死するところが80人で済んだ」といったレベルに留まるのではなかろうか。こうしてみると「戦術的な偵察が不十分だった」という批判はどうも的を得ない。(つづく)
「旅順の乃木は拙劣な指揮をした」という人に、「なら貴方ならもっと上手くやれたのか」と聞くと、口篭る場合が多い。
野戦であれば、全線に圧力をかけての浸透攻撃、左右どちらかに兵力を集中しての半包囲、中央部に敵を引き寄せての両翼包囲、などなど様々なオプションが存在する。しかし攻城戦の場合、攻撃側が取りうるオプションは2つしかない。
すなわち、強襲(短期決戦)か、正攻法(長期包囲)のどちらかである。第三軍は第一回総攻撃では確かに強襲を試みて失敗した(とはいえ一部堡塁の奪取には成功し、旅順攻略全体から見ると少なからぬ効果があったのだが)が、それ以降は損害を極限する正攻法に切り替えた。
攻城戦は、相撲でいえばがっぷり四つに組んだ状態であろう。両者の技量差が余程あれば別だが、実力が伯仲していた場合、投げや寄りで攻め立てる(強襲)か、がっちり引き付けたまま相手の出方を待つ(正攻法)しかない。下手に差し替えたり引いたりといった小細工を弄せば、自滅するだけである。
乃木も、下手な小細工を打って自滅するよりは、ある程度の損害は覚悟の上で正面から要塞を攻めたのであって、事実この方法で陥落させた以上、その判断が間違っていたとはいえまい。
逆に「下手な小細工」を試みて自滅した好例が、大東亜戦争時、ガダルカナル戦における川口支隊や第二師団の全滅であろう。1週間以上もジャングルの中を迂回して敵飛行場の「背後」に回り「奇襲」を試みたのはいいが、将兵は密林の行軍に疲労の極に達し、重砲は後方に置き去りでろくな支援もなく、しかも敵情は皆目わからないままに突撃を行った結果、飛んで火にいる夏の虫とばかりにあっさり殲滅されてしまった。
後知恵を承知で言えば、出来もしない奇襲など最初から諦め、海軍艦砲の支援の下に堂々と海岸沿いを進撃すればよかったのである。少なくとも、あのような無様な敗北にはならなかった筈だ。このような馬鹿な作戦指導がかなりの部分、旅順の戦訓を無視した「アンチ乃木」思考に拠っていたこと、これもどこかで書いた。
奉天戦に於ける乃木については、「無能」論者からの非難も特にないようだ。
私は、日露戦争に於ける野戦の勝因はライフルにあり、と信じており、名将云々はそれほど大きな問題ではなかったのではないか、評価している。だが最近、乃木軍が奉天で果たした役割は非常に大きかったということを(今更だが)確認するに至った。
難攻不落と信じていた旅順をたった半年で落とした乃木と第三軍を、クロパトキンはもとよりロシア軍の一兵卒に至るまで、恐れたことは並大抵ではなかったらしい。そしてそれが、ロシア軍の崩壊につながった。最近出た岡田幹彦「乃木希典」に詳しいので、一読をお薦めする(引用するの面倒くさい)。
(つづく)
(軍神乃木)
個人としての乃木、乃木の人格という面はどうなのか?乃木が近代日本に於ける武士道精神の最高の具現者であったこと、これに異存ある人はいまい。私もこれでも武道家の端くれであり、乃木将軍の武士道精神には心から感銘している。
しかし世の中には、乃木の数々の武士道的振舞いを指して「ええかっこしい」だの「巧妙な自己保身術」だのいうヒトもいるそうだ。
こういうのを、下衆の勘繰りという。
明治人の振舞いを現代人の基準でしか理解できないような器量の狭い人間を啓発する根性を、私は持ち合わせていない。そう思いたいなら思うがよかろう。
日本人はもともと、戦争が嫌いなのである。木曾義仲が京都に攻め上ったとき、武器を取って抵抗しようという町衆は一人もいなかった。戦いは武士の仕事で、庶民は逃げ隠れしていれば良かった。
しかし、近代という時代においては全ての国民が兵隊として銃を取り、身を挺して突撃することを強制される。戦いをさせるにはそれなりの思想的な裏づけが必要だ。そこで武士道が必要だった。テキストだけではなく、実在の人物がモデルとなることが望ましい。だが、戦国時代は300年も前の話だ。もっと身近に、武人の理想となる人物はいないか・・・・軍神広瀬中佐や橘中佐はこうして生まれた。
乃木も然りである。乃木が類まれなき人格の人、否神格の人として衆望を集めていたからこそ、第三軍将兵は殆ど五割の損害を受けながら指揮衰えず、「この人の為になら死ねる」と最後まで奮闘を続けることが出来た。逆に、戦死者の遺族たちも「乃木将軍の為に戦って死んだのだから」と自らを慰めることが出来た。乃木の存在が日本国民にとってどれだけプラスになったか、計り知れないものがあると思う。
(つづく)
さらに、日本人の国際的な評価を高め、サバイバビリティを高めたという点でも、乃木の功績は大きい。有名な水師営の会見で乃木が示した武士道的振舞いは、「日本人は武勇を尊び、礼節を知る国民である」というイメージを世界中に広めることに成功した。
渡辺昇一流に言えば、当時(今でもそうだが)欧米を支配していたのは「戦士の論理」であり、これを有しない国はまともな国として扱われなかった。乃木はじめ日本軍将兵の武士道的な態度は、「黄色いサルとはいえ話は出来るじゃないか」という評価を欧米に広げるのに大いに貢献したのである。
ただ問題があるとすれば、旅順を落とし、奉天で勝ったのは「肉弾」の力による、というイメージが一人歩きし、陸軍に大きな影を落としたことであろう。特に第一次大戦で総力戦の実態を思い知った陸軍首脳部は、欧米列強並みの軍備を整えることが国力上不可能である以上、白兵に頼らざるを得ないという結論に達した。
こうして、28センチ砲の威力や工兵隊の努力は半ば意図的に忘却され、「旅順は歩兵の銃剣で落とした」という伝説が作られていく。その正当化には当然、「軍神乃木」が利用されたことであろう。しかしそれは、乃木その人を貶める材料には何らならないこと、これもついこの間書いた。
そのような白兵主義が、日中戦争までは良かったが、大東亜戦争になってどのような結果を招いたか、諸兄ご存知の通りである。乃木を愚将と言い張る人間こそ、辻や牟田口と同類の、傲慢なだけの歴史に学ばざる輩ではないか。私は最近つくづくそう思うようになった。
(おわり)
382 :
兵八:2001/06/18(月) 01:12
どうも、長々と失礼しました。
もしよろしければ、諸子のご批評をお待ちしてます。
383 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 06:13
乃木=突撃主義で日本軍の戦術を支配し、そこからはずれることは許されなかった
という迷惑な存在だったとしか思えないな。
艦隊決戦の東郷と同じ。
384 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 06:19
司馬遼太郎の本を読む限り、やはり乃木は愚将と思わざるをえないな。
いや、・・・その司馬さんの本からでた愚将説を再検討しようって、
そもそも話だろう
386 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 06:56
台湾総督としての仕事を見ても、後任の児玉と比べ確固たる方針、
ビジョンがあったとは思えず、さらに母親まで連れてくる(台湾に)
という意欲を見せながらも、中途で総督職を投げ出している乃木。
軍事板では板違いの内容かも知れないが、乃木に初等教育を授けた
玉木の方針からしても、実務家としての能力は無いように思う。
問題は、自らの能力の限界、もしくは適性を自分で把握できて
いなかった事にあるのではないか。
>>386 まぁ乃木大将が師団長のときに部下の不祥事に
責任を感じて休職を志願しているが・・。
こういった風潮が部下のためになるのかどうか?
は今の社会でも同じ事だな。
理想論は間違っていないんだよ。彼の理想は・。
でも現実をみなかったヒッキーともいえるんだけどね。
仕事がうまくいかないから田舎にもどって農作業やるところ
や詩や武士道を追求したり、現実逃避と捉えられても
文句は言えまい。
学研のM文庫の日露戦争では,乃木に同情的な意見を述べてるね。
曰く「大本営そのものが旅順について無知であった。」
「攻城に必要な砲弾が不足しているにも関わらず,早期の攻略を強要された」
「砲弾そのものも,ペトンの要塞には効果の薄い榴霰弾で,榴弾は少なかった」
とか。
389 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 11:08
少なくとも第一次総攻撃は、
当時の軍事常識から考えても
愚劣の極みだと思うね。
工兵をほとんど活用していないから。
あと海軍の重砲提供の受諾をしぶったのも意味がわからない。
ピアノは西洋かぶれ、水泳では赤褌ってのが学習院での乃木式教育だったそうな。
391 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 11:57
今日このスレ見つけたんだけど,どー見ても擁護派の方が説得力あるなぁ
ななしのごんべ氏他の側からのまともな反論が一度もなかったのが残念。
まともな反論があれば名スレになってたかもしれないのになぁ
392 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 12:02
最初から203高地に攻撃目標を絞って占領して
太平洋艦隊を砲撃で追い出せば
砲弾云々は問題ないと思うが。
乃木たちは要塞自体の陥落にこだわりすぎてる。
393 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 12:05
軍事的な評価は置くとしても、人間的には欠陥が目立ちますな
こんな上司は持ちたくない
394 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 12:05
軍神ではないよな、少なくとも(w
395 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 12:06
愚将とまではいかなくとも、凡将ではあると思う。
396 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 12:10
結論:凡将を第三軍の長とした
藩閥人事に問題がある
398 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 20:06
日本陸軍にはピッタシの軍神だと思うよ。
399 :
兵八:2001/06/18(月) 21:40
>>388 ガイシュツですが、「歴史群像」6月号でも、乃木と第三軍に関して比較的公平な論評が
なされていました。
最近は、司馬の「乃木愚将論」がデタラメなものである、という認識は割と世間に広まってきたのかな、
という気がします。
まあ、まだまだ根拠の無い悪口を投げ散らす輩は絶えんでしょうが。
>>387 ななしのごんべへ
憶測するのは問題ないんだよ。君の夢想は・。
でも資料をみなかったヒッキーともいえるんだけどね。
資料探しがうまくいかないから煙に巻くところや
他人の文章を追求したり、現実逃避と捉えられても
文句は言えまい。
神将ってのは、後の事を考えると迷惑な存在ではあるな
初期の攻撃に工兵を使わない(兵種自体が未熟だったかもしれんけど)
攻撃企図の秘匿をせずに血は流す
馬鹿げた突撃をさせ、剰えそれに「期待」をかける
愚将が酷ってんなら前線に出てくるのが間違いのお飾りだね。
403 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 00:17
>>401 何にしろ不可触の存在とするのは、自縄自縛の愚でありましょう。
……結局、後世の人の問題だと思います。
404 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 00:22
>>402 第一次攻撃頓挫の直後、工兵関係の某参謀の提言で正攻法を行うか
議論されたんだが、それはご存じ?
またその論議の決が多数決とかいうお飾り決済でなかったのは、
どう思います?
あと、攻撃開始日って、実際問題そんなに偏っているかな?
405 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 00:47
「26は縁起がいいからのう」(笑)
06月26日に剣山(大連の近く)……07……08……
09月26日に第二回総攻撃……10月26日に第三回総攻撃……11……
半分か……。うーむ、偏っているかな?攻撃後の体勢建て直し期間
や督戦とかも考えると、こんなもんかと思うけど。
上のスケジュールで翌月26日の敵攻勢を予想できるとは、思えないんです
が。例えば08月19日の総攻撃開始では09月26日は予想出来ませんよね。
そして10月26日にまた始まった。おや、先月と同じ日だ。じゃあ11月26日
もやってくるかな?おや今度は来なかった……。
?あれ?あれれ?
>>405 あんたの前半読んだだけで俺が何言っても無駄だって判るよ。
407 :
ななしのごんべ:2001/06/19(火) 07:44
えらく俺の事言われてるな・・<藁
まぁ
>>391 >>400は乃木太郎で同一人物だろうから
気にしないけどね。
前原透氏の論文の中の話なんだけどね。
私はなんで旧日本軍がカダルカナルで白襷隊と旅順第3次総攻撃と
同じようなことをしたり、戦前の日本が乃木大将の影響下になぜ染
まったかを調べているんですけどね・・
まぁ戦後の世代の方々はこういう事実を知らんのかい?
さて乃木太郎が軍歴のみを色々仰っていますんで、私は同じことを
本の受け売りで壊れた再生機のように書くのは好まないんで軍人になる前
でも書きますかな・・。
華麗なる乃木大将の経歴 生い立ちから任官まで。
1849年生で乃木希次は藩医として江戸通い、母寿子は土佐藩士の娘だから
純粋に長州人ではない。10歳の時に長府にもどり、集童場場長室で学ぶ。
後に松陰の叔父にあたる萩藩の叔父の玉木文之進の指導を受け、つづいて萩藩校の
明倫館に入学した。
ちなみにこの師父の玉木文之進は明治に入ってから「萩の乱」に関与し、
見事に切腹を遂げています。
慶応二年(一八六六)六月に小倉戦争がはじまると、彼は萩から長府へ帰り、
報国隊に加わって活躍した。このとき十八歳、彼が経験したはじめての
戦いだった。家柄のせいかいきなり砲兵小隊長に抜擢された。
が、このときに負傷して明倫館に戻った。兵歴は半年ほど
1869年の正月、報国隊の漢学助教授となる。明倫館文学寮で詩文の才能を
発揮しているうちに戊辰戦争は終了。
この後、長州報国”御盾隊”の従兄の御掘耕介の推めによって明治二年には彼は
伏見親兵兵営に入った。
ここでフランス式の軍事訓練を受け、職業軍人として歩みはじめた。
といってもこのときには操典などはなく、スナイドル銃を担いで行進やら
其の程度。後にかれが操典などやフランス式の軍服などを強く要望してい
るのはこのときの劣悪な軍隊訓練の教育環境と考えられる。
が彼は1ヶ月で藩の事情(山口藩旧諸隊暴動)で退営し藩に戻っている。
再入営したが5ヶ月で藩に戻っている。前後6ヶ月の西洋式軍事訓練が彼の
軍事訓練の全てである。
(山口脱隊騒動 一八六九(明治二)年十一月、山口藩は奇兵隊など諸隊の名称を廃し、四個大隊の常備軍を編成、余剰員は解散帰郷するよう命じた。選外となった者たちは、山口市内のほか小郡、吉敷などで騒乱を起こし、翌年五月ごろまで続いた。)
この時は乃木の同僚がどしどし上京して少尉や大尉に任命されている
のに彼だけが任命されなかったのは軍人としての資質がなかったんだと
廻りからの風評があり、彼はそれについてかなり悩んでいたようだ。
が彼の人脈は吉田松陰の長州門下閥の末端であり、松陰の弟子であった
玉木文之進(松下塾のパトロン)の内弟子兼甥であり、木戸、広沢、御堀
といわれた長州政界の3巨頭の一人の従兄である御堀耕介から戊辰戦争で
活躍した黒田清隆に紹介した。御堀の死後、希典を東京に呼び出して明治四年、
二十三歳でいきなり陸軍少佐に任官。児玉が明治4年に曹長。奥が明治5年に大尉
川村が明治5年に少尉と比較されるとどういう状況かお判りになると思います。
つづけようか?
408 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 08:17
私はなんで旧日本軍がカダルカナルで白襷隊と旅順第3次総攻撃と
同じようなことをしたり、戦前の日本が乃木大将の影響下になぜ染
まったかを調べているんですけどね・・
まぁ戦後の世代の方々はこういう事実を知らんのかい?
あなたの言われる「事実」とは、
『旧日本軍がカダルカナルで白襷隊と旅順第3次総攻撃と同じようなことをした』
『戦前の日本が乃木大将の影響下に染まっ(ていた)』
ということですか?
「乃木」と「後世の軍事的失敗」を、これほどに結びつけたがるのは、なぜ?
409 :
ななしのごんべ:2001/06/19(火) 08:28
日露戦争の勝因と乃木大将がなにゆえ軍神としてあがめられたか?
そして乃木大将が提案した白襷部隊と同じ白襷をしてカダルカナルの
兵は突撃したか?だよ。昔は乃木大将との関連性は全然考えて無かっ
たよ。色々な書籍に当たっているとね乃木大将と日露戦後の陸軍と
の関連を思い浮かべるようになった。
東郷元帥の艦隊決戦思想と戦後の7割海軍(佐藤鉄太郎)
などの悪影響と同じと考えていますが。またT字戦法も何ゆえ
T字戦法としてまかり通ったのか?は不思議であるがな。
事実はさにあらん。
ふーん、児玉って1週間で203高地を落としてるんだ。
411 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 11:22
軍神です
412 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 12:30
とにかく乃木さんは普通の人ではないらしい。
413 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 12:37
擁護派が長々と自己陶酔した駄文を書いているが、
白襷隊については何も触れられていないな。都合の
悪いところは書かないの?
乃木が第三軍将兵の衆望を集めていたって・・・
「(第三軍)司令官の権威、地に落ちたり」は
でっちあげってわけか。第三軍の士気は崩壊
寸前だったというのが常識だと思っていたが。
414 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 14:20
司馬は乃木が愚将とは書いてない。
あくまで凡将として描いている。
>>414 ふぅーん・・・・
あんた日本語読める?あ、読めてその程度?
ふぅーん・・・・
416 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 14:41
>>415 じゃあ具体的に、どこに愚将としての
表現があるのか、愚かな俺に
教えてくれ、太郎くん(w
司馬は「乃木は人事の犠牲者でもある」
という意味のことも
ハッキリ書いているハズだよ。
417 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 14:50
「こんなはずじゃなかったのに…」
ディスプレイを前にして乃木太郎は戦々恐々とキーボードを叩く。
目頭が熱い。辛い。もう終わりにしたい。でも…出来ない。
皆に痛いところを突かれたのがそんなに応えたのか?
皆に冷たくされたのがそんなに辛かったのか?
本当の理由は誰にも解らない。乃木太郎にも解らない。
でも…手だけは動く。
皆を罵倒する書き込みを続けて行く。
一体これは誰の意志なのか?この手は、この指は一体誰の物に
なってしまったのか?
「…っ!」
そしてまた乃木を罵倒する書き込みを見つける。
涙が止まらない。嗚咽が止まらない。
何で?どうして、俺がこんな目に…。
ホントは笑いたかった。ホントは皆にウケたかった。
「ホントは…ともだ・ち・・」
ガシャアッ!!
感極まった乃木太郎の腕がディスプレイを乱暴に叩く。
それだけは認めない。それだけは拒否する。
だってそれを認めてしまえば…俺が俺じゃなくなるから…。
「クールな…俺じゃなくなるから…」
418 :
415:2001/06/19(火) 15:10
おやおや。
よほど頭に来たんだね。
これからはなるべく事実の指摘は避けるようにするから勘弁してもらえる?
419 :
416:2001/06/19(火) 15:18
>>415 ちゃんと具体的に答えられないんじゃ
誰も認めてくれないよ(w
420 :
嶽原:2001/06/19(火) 21:12
うわあ、滅茶苦茶になってる。
421 :
兵八:2001/06/19(火) 22:15
我々はあくまで平静にいきましょう(笑)
>>413白襷隊については、少々過大な批判がなされているようなので補足しておきます。
確かに純軍事的に見れば、白襷隊の攻撃は無残な失敗としか言いようが無いものでした。約3000人のうち3分の2が死傷し、しかも砲台の一つも奪取できずに終わったのですから。しかし、以下の点も指摘しておかなければフェアな評論にはならないと思います。
@ 戦術的に見て、「要塞に対する夜襲」という方策にはそれなりの合理性があったこと。
自分が第三軍の将兵になったつもりで考えてみれば判るでしょうが、夜間に突撃しながらボルトアクション小銃を撃った所で、塹壕や堡塁に篭った敵兵に当たるわけがありません。「一弾も応射してはならぬ」というのはやりすぎだと私も思います。しかし、多数の機関銃を備えた敵要塞を落とすには、奇襲と夜襲を組み合わせて一気に銃剣間合いまで近接するのが一番だ、という発想が出て来ても不思議ではないとも考えます。
現に、要塞に対する夜襲戦術というのは日本陸軍の専売特許ではありません。第一次大戦の初頭にドイツ軍がベルギーのリエージュ要塞に対して旅団規模の夜襲を行い、一定の成果を収めています。
A 乃木はあくまでこの戦法を一時の奇策として捉え、頼ろうとはしなかったこと。
昭和の日本軍のように同じ戦法を何度も試みてそのたびに失敗したというのなら無能の謗りは免れないでしょうが、以後の第三軍は二度とこのような戦法を試みていません。
B ロシア軍に対し、精神面で多大な衝撃を与えたこと。
以下はロシア側から白襷隊の攻撃を描写した一文です。
「余ら旅順篭城の主兵は一兵一卒の末に至るまで、各一砦一穴は全露国なりとの観念を深く脳裏に刻して、血につぐに骨を以ってし、骨につぐに直ちに魂をもって死守したるなり。しかも日本軍の驍勇堅忍なるや分を得れば寸、孤を護れば尺と、尺取虫の屈を学んで営々倦まざることをすなわち之をや、日本軍の精気なりといわん。
実にこの精気に強き分子たる日本軍が精気の弱き露軍を屈服せしめたるなり。
余は敢えて屈服という。されど1905年1月1日の開城を指すにあらざるなり。その前年の暮れ、即ち11月26日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余輩をして精神的屈服を遂げしめる原因なれ。
この日の戦闘の猛烈惨絶なりしことはもはや従来の露国文学には、その適切なる修飾語を発見するを得ず。ただ敵味方合して500余門の砲台は殷々として天地を振わしたりといわんのみ。しかもその天地の震動に乗じ、数千の白襷隊は潮の如く驀進して要塞内に進入せり。総員挙って密集隊、彼の厳寒にシャツ一枚、白襷を血染めにして抜刀の形姿、余らは顔色を変えざるを得ざりき。余らはこの一瞬、一種いうべからざる感にうたれぬ。曰く屈服。」
あえて言いますが、白襷隊の死傷者2000人といっても、旅順攻略戦全体の死傷者の3%かそこらに過ぎません。この犠牲でロシア軍にこれだけの精神的衝撃を与えたというのは決して無視できない功績であったと思います。
総じて、結果だけ見れば無謀な試みであったこの白襷隊も、大局に立ってみれば決して無駄死にではなかった。この失敗は乃木と第三軍の功績を相対化するほどのものではない、というのが私の意見です。
旅順要塞は常識的にみて予見できなかったと書いていましたが
第1回の総攻撃に関して、工兵部隊を伴わずに白兵突撃をかましましたわな。
日本て昔から攻城戦術がなかったのであれば上記の論は納得できるんです。
現代人の常識として攻城戦というのがどういった歴史を持ちどういった方法
があるなんてのは常識じゃないから仰るとおりだと思われますが、
軍人が攻城戦を知らないのは都合が悪いんでないか?
もし乃木大将が自ら、旅順要塞(便宜上”城”と考えます。)を城と捉え
ていたならば、攻城戦を意識した編成を考えるのではないかな?
与えられた青銅砲を見直すだろうし、戦力を再確認するのではないか?
でもそれを彼はしなかったし、するだけの知識が無かった。
全て伊地知に任せて、自分はなす術がなかったように振舞っているとしか
思えんが・・・。兵八氏は伊地知の評価は高いのですかな?
423 :
嶽原:2001/06/19(火) 23:48
青銅砲を使うように計画された第三軍について『(422)与えられた青銅砲
を見直すだろうし、戦力を再確認するのではないか?』と疑問を持たれる場合、
軍司令官や軍参謀長といった役職を出す前に、「攻城砲兵司令官」の役職の
人が何をしていたか、調べるべきでしょうね。彼は日清戦争当時の悲惨な
砲兵隊の二の舞をおそれて様々に尽力しています……が残念、早い話が
日本にはモノがありませんでした。
>>423 えぇ少なくとも参謀たる伊地知は、海軍が旅順港の沿岸砲台を
攻撃した教訓から海軍重砲隊を出そうといった時、丁寧にこと
わっている。
問題はこういった伊地知に頼らざる負えなかった乃木大将の
近代戦への無能が問題ではないか?
乃木大将がそういったことに注意を払い、敵の情報を確認
しようとすれば(ご子息が南山で倒れているのは、南山の戦い
でのロシア軍の機関銃の威力を知っているはずでは?それとも
悲しみに打ちひしがれ、詩を作るのに精一杯だったのか?)
できたはずですが・まぁ責任を攻城砲兵司令官に移すとしても
その場の総責任は彼にあるはずだが・・。
私は彼が一人で決断した事例というのがほんとに少ないように
思えるのだが。田原坂と白襷隊。他になにがあるかな?
425 :
兵八:2001/06/20(水) 00:04
>>422>日本て昔から攻城戦術がなかったのであれば上記の論は納得できるんです
>軍人が攻城戦を知らないのは都合が悪いんでないか?
・・・・?まーた訳のわからん論理を立てておられますね。「兵糧攻め」とか「水攻め」とか「金掘り衆」とかいう言葉をご存知ですか?秀吉の鳥取城包囲や家康の大阪城攻略について、歴史小説でもいいから読んだことあります?
素人の私でもこの程度の知識はあるのに、ましてやプロの軍人である乃木や伊地知が攻城戦に関する知識が無いわけが無いでしょう?論理の大前提が破綻しちゃってますよ。
伊地知の評価なら、日本史版のほうで嶽原さんがされてますから、そちらを参照してください。(スレ350―450あたり)私は伊地知にも乃木同様の高い評価を与えてしかるべきだと思ってますけど。
>>424『私は彼が一人で決断した事例というのがほんとに少ないように
思えるのだが。田原坂と白襷隊。他になにがあるかな?』
6時間に及ぶ軍会議の末、ただ一名の工兵大隊長のみが賛同し、三名の
師団長など他の会議出席者が軒並み反対した「正攻法」への戦術転換。
軍司令官の決により採用決定。これを挙げられないのはなぜ?
それと、言い出しっぺが申し訳ありませんが、軍司令官・軍参謀長と
並べば、当然役職名は軍砲兵部長でしたね。失礼、訂正。
427 :
兵八:2001/06/20(水) 00:59
>>426 そういえば、最後の旅順総攻撃の際に203高地へと攻撃目標を変更したのも
乃木の決断でした。発案は誰か知らないけど。
428 :
名無し三等兵:2001/06/20(水) 02:31
>>421 2000人死傷しても露助びびらしたから成功、ねぇ....。
漏れも軍オタだからアカみたいな事はいいたかないが。
???漏れには425のほうが論理が破綻してるように見えるんだが
>>425 史実と照らし合わせて兵八氏の論理だと伊地知、乃木大将は有能
で古来からの攻城戦の知識もあり、だからこそ第1次攻撃は工兵を使わずに
最短距離を白兵戦で破ろうとして其の後、戦術転換をし正攻法で工兵を使い
始め重砲陣地の位置変更をして破ろうとしたことになる。
西洋の要塞と日本の城が違うなんてことは金掘り衆が出てきた時点で
却下するよ。相手がべトンだろうが基本的には城と要塞は同一視するからな。
素材が違うだけで要塞の守る城郭というのは古今東西、基本は一緒。
坑道戦術と防御射撃を避けるための盾と攻撃坑道は古来からある。
もし戦国時代の城で第1次総攻撃みたいなことをしたらどうなるか?
は当然知っていて然るべきだよな。戦国時代の大阪城のくるわであんな
突撃かましたら大損害くらうべな。当然そういうことを体験、習得できた
筈だし(西南戦争の熊本城の児玉の防衛等)持っていてしかるべきだよな?
なんで第1次総攻撃はあんな攻撃にしたんだろう?南山の戦いで
息子を無くすくらいの火力があることも当然知っていたでしょうに。
しかも第3次総攻撃には過去の教訓を除外して黒木配下の第3師団の真似
をしたのか、夜襲攻撃をしましたよな。全体からみれば2000人は
大した事ないと仰っているが、3000人編成で2000人死傷者というのは
全滅なんだよな。戦術転換したわりにはこの体たらくはなんだろう?
というのが皆疑問に思っていることなんよ。
>>427 そのあたりはループするから。大本営(満州軍本部)と海軍の
圧力だよな。決して最初から乃木司令部が確認してここを攻めればいい
とはいってないよな。最初から攻める努力はしてないよな。
台湾総督時代も交渉、説得、駆け引きなどには無縁で、
仁と徳でもって(押し付けて)人を動かそうとした。が
あまりにも人の裏側に失望したのか、ここに死地を
見出したとまで覚悟した台湾総督を休職を願いでている。
乃木大将って何回休職したかご存知か?合計4回だよ。
その後 復職できたのはなんともおかしい。
なにより当時の乃木大将の評価というのが伏龍だと
納得いくんだよ。でもさにあらん。
乃木大将が司令官になったのは日本軍の組織拡大に
伴っての経験者をかき集めた結果と藩閥人事の犠牲だ
と思えるんだけどね。戦前の評価は低いよ・・精神家
であったことも一部でしか知られてなかったらしいし。
432 :
兵八:2001/06/20(水) 20:54
>>430 あなたが
>>422でおっしゃっていることは、
1. 乃木と伊地知は戦国時代の攻城法に就いて何の知識も無かった。
2. だから二人は、無知なままに旅順に対して無謀な突撃を行った。
3. よって、二人は無能だ。
ということであり、
>>430の趣旨は、
1. 乃木と伊地知は戦国時代の攻城法に就いて多くの知識が有った。
2. それなのに二人は、セオリーを無視して旅順に対し無謀な突撃を行った。
3. よって、二人は無能だ。
ということでしょう?結論は同じですが、そこに至る過程は全く別物ですよ。言葉はもう少し慎重に選んだ方が宜しいのでは?いっそ乃木の和歌や漢詩を読んで、もう一度国語の勉強をやり直したら如何です?
まあ、あなたは「乃木は無能だ」ということをなりふり構わず主張できればご満足のようですから、こんな瑣末な事柄はどうでも良いのでしょうけど。
それはともかく、第一回総攻撃の際、乃木が正攻法ではなく、心ならずも強襲せざるを得なかったこと――というより、大損害は覚悟の上で強襲法を選択したこと――は
>>315前後でガイシュツですが。過去レスの内容をお忘れですか?それとも、忘れたフリをなさっているだけですか?
また、何故第一回総攻撃から203高地(要塞北西正面)を主攻しなかったか、という点については日本史版に回答がありますよ。
噛み砕いていえば、当初から要塞北西側に主攻を向けるのは以下の点で攻者側に不利だったのですね。
1. 地形が狭隘で、大兵力の移動・展開が困難。
2. 鉄道末端線から遠くなるため、砲兵の移動と弾薬の輸送が困難。
3. よって、総攻撃の日時が著しく遅延する恐れあり。
4. 要塞の健在な砲台群から集中射を受け、甚大な損害を被る恐れあり。
5. 攻撃に成功しても、要塞本防御線にダメージを与えられず、直接要塞陥落につながらない。
6. 我が後方連絡線が長く伸び、要塞に横腹を晒す形になるため、敵軍が積極反攻に出た場合極めて危険。
東北正面に主攻を向けた場合のメリットは、以上の点の裏返しになります。そして乃木・伊地知は事実そうしたのですが、なにか不合理な点がありますか?
おやおや、名古屋第三師団は奥第二軍の指揮下にあった筈ですよ。黒木第一軍にあって世界戦史に輝く弓張嶺の大夜襲を成功させたのは、仙台第二師団ですね。単なる勘違いなら私もしょっちゅうなので別に恥ずかしくはないですけれど、何の脈絡もない知識を引っ張り出してこじつけようとしたものを間違えるのは、私ならかなり恥ずかしいですね。
そろそろアゲますか?>ALL
433 :
嶽原:2001/06/20(水) 23:57
ななしのごんべさん、貴方はとりあえず野外要務令では?
私はこのところ、こいつが気になってしょうがありません。
ごんべに何を言っても無駄と思われ
>>432 私の430の主旨は乃木、伊地知、両名が日本古来の攻城戦術も
西洋の攻城戦術も知らなかったのでは?ということを示唆しているに
過ぎません。私は彼ら本人は知らなかったのではと思っています。
特に伊地知の経歴をご存知ならそういった結論にいたりますが?
>>それはともかく
別に東北方面に攻撃を集中させたことは申し上げてないよ。
話を203高地方面にそらさないで・・。<藁
よって私の疑問の返答にはなっていないな。
また白襷隊の弁明ですが・・・。
白襷隊」任務は「敵の不意に乗じ要塞内に進入し、
敵の防禦線を両断し、以て要塞の陥落を速かならしむる」
という虫のいい代物もので、要塞に入るために、苦戦を続
けているという現状を完全に無視しています。
「敵の不意に乗じ要塞内に進入」できるものなら、旅順要塞は
第一回総攻撃の時点で落とせます。それが出来ないからこそ、
第三軍は多大な損害を出して、苦戦しているのです。
こんな、現状を無視した、願望(妄想といってもよい)に
基礎を置いた部隊の編成を、関係者がこぞって反対したのは当然です。
にも係わらず、乃木は、周囲の全ての反対を押し切って「白襷隊」
を編成しました。
白襷隊」のような寄せ集め部隊を戦力として活用するためには、
事前に部隊を集めて充分な訓練をする必要があります。
しかし、特別支隊はそういった合同訓練を全く実施していません。
そればかりか、指揮官クラスですら、一度も会合を開いていない。
訓練等は、直接的には参謀あるいは、部隊長の任務であり、
乃木の責任ではないという議論も成り立ちますが、部下の管理は
上司の義務です。それをおこたれば、上司とて問題があると
言わざるを得ません。
私が申し上げているのは乃木大将が攻城戦というのを理解する
機会が多数あったはずなのに、第1回の総攻撃の仕方と白襷隊容認
に対して何ゆえ要塞=城という感覚もなく陣地という感覚で現場での
状況よりも上から与えられた命令を重視したように思えるんで
すけどね。第1回の攻撃に関して兵八氏は総攻撃による威力偵察
のようなことを仰っていますな。<藁
>>433 野外要務令”改正理由書”
嶽原氏は「日露戦史編纂綱領」の話が出てこないが・・。ご存知ですか?
436 :
嶽原:2001/06/21(木) 08:41
>>435 野外要務令”改正理由書”
嶽原氏は「日露戦史編纂綱領」の話が出てこないが・・。ご存知ですか?
先日読んだ資料「乃木神話と日清・日露」に、その名前が出ていました。
参謀本部の戦史編纂の基本姿勢を示すものですが、本書では「戦史偽造編纂
マニュアルブック」というべきものだ、と紹介されていました。
まあ、これくらいしか存知していませんね。名前は知っていますが、とても
「内容を知っている」とは言えません。どんな内容なんでしょうか?
437 :
嶽原:2001/06/21(木) 08:51
436追加
「編纂要領」がどんな内容かも興味はありますが、やっぱり順序よく
「野外要務令」でしょうかね。
438 :
兵八:2001/06/22(金) 00:42
>>435 >私の430の主旨は乃木、伊地知、両名が日本古来の攻城戦術も
西洋の攻城戦術も知らなかったのでは?ということを示唆しているに
過ぎません。私は彼ら本人は知らなかったのではと思っています。
へえ。乃木も伊知地も、西洋の攻城戦術はおろか日本古来の城攻め法すら、何も知らなかったとおっしゃる?こ―りゃさすがに驚きました。痩せても枯れても日本陸軍の大将や中将になった人間が、城攻めの知識を一切持っていなかった?なんだかもうむちゃらくちゃらですねー。
多少戦国時代に興味がある人間なら、「武田信玄の金掘り衆」とか「秀吉の高松城水攻め」位の事実は厨房だって知っているでしょう。プロの軍人が厨房並みの軍事知識すら持っていない、と断ずることの出来る貴方の思考が、もう厨房以下ですね。
>別に東北方面に攻撃を集中させたことは申し上げてないよ。
話を203高地方面にそらさないで・・。<藁
はあ?だって貴方が振って来た話題ですよ。↓
>決して最初から乃木司令部が確認してここを攻めればいい
とはいってないよな。最初から攻める努力はしてないよな。
>訓練等は、直接的には参謀あるいは、部隊長の任務であり、
乃木の責任ではないという議論も成り立ちますが、部下の管理は
上司の義務です。それをおこたれば、上司とて問題があると
言わざるを得ません。
文意が良く取れませんが、要するに「無謀な白襷隊攻撃を許可した乃木にも責任がある」ということですか?そりゃ、軍司令官の乃木にも責任があるでしょう。
でも私は、「白襷隊を一方的に愚行と決め付けるのはフェアではない」「この失敗だけで、乃木及び第三軍司令部の功績は相殺されない」と言っているのであって、「乃木には責任はない」なんて、一言半句も書いてませんよ。
まあ白襷隊をもって乃木愚将論の論拠にしたいのならご自由にどうぞ。私はそんなチンケな評価はしたくありませんがね。
>私が申し上げているのは乃木大将が攻城戦というのを理解する
機会が多数あったはずなのに、第1回の総攻撃の仕方と白襷隊容認
に対して何ゆえ要塞=城という感覚もなく陣地という感覚で現場での
状況よりも上から与えられた命令を重視したように思えるんで
すけどね。
これもまた悪文ですが、「上層部の圧力に屈して、要塞に対し現状を無視した強襲を行わせた乃木はけしからん」という文意ですね。でもあなた、第一回総攻撃に関して以下のようにおっしゃっていませんでした?それともこの言、撤回します?↓
>>305まぁ上の命令に素直に従ったまでだな・・。
まぁ状況が状況だしな・上からの指示もあったし仕方ないな。
>第1回の攻撃に関して兵八氏は総攻撃による威力偵察
のようなことを仰っていますな。<藁
ええ、そうですとも。非情なようですが、要塞の強固さ、守備兵力の強大さはあれだけの犠牲を払わなければ実感としてわからなかったことでしょう。なにしろ、鉄条網とべトンと機関銃で防護された永久陣地を強襲してみた例など、世界中の何処にもなかったのですから。でも、それが戦いというものではないのですか?もっともあなたが第三軍の情報参謀や斥候だったとしたら、きっと敵要塞の配備や兵数などあっという間に割り出してしまえたのでしょうね。
>>438 海軍が前もって陸上砲台と打ち合っているからな。どの位強固
なのかは、海軍が重砲部隊を貸し出したことから伺えるが・・乃木司令部は
あっさりそういった事実を見過ごしているように見受けられる。
また南山の戦いのときも4000人という死傷者の数を聞いて、伊地知は
信じられなかったらしい。乃木大将の息子は機関銃で負傷のちに死亡したが
、なんで機関銃で倒れたのかを調べようと思えば調べられたはずだ。
(何回も書かすな・これに対して反論はないのか?)
しかし乃木司令部は大本営の見込みをそのまま素直に受け取り、
疑わなかったと考えられるんだがナ。つまり現状よりも上の意見を
尊重したんだろ。って言ってんだよ。
>痩せても枯れても日本陸軍の大将や中将になった人間が、
>城攻めの知識を一切持っていなかった・・・。
じゃぁ持っていたという根拠を示してくれませんか?
城攻めするのだったら、まず敵の縄張りを把握し、どこに
”くるわ”があるのかを確認し、それから1番弱点を攻撃する。
しかし乃木司令部は上からの情報を信頼し、現状を把握せず、
過去の戦におごり、そのまま攻撃した。これを無能とはいわんか?
しかも第3回総攻撃のときに上記述べた白襷隊のようなことを行っている
ようじゃ・・少なくとも白襷隊は彼独自の考えだよな。
乃木大将は伊地知参謀の能力を全面的に信用し活用していた訳だろう?
でも裏返せば、伊地知のやっていることが精一杯と感じたんだよな。
それは自分が知らないから伊地知にまかせたともいえるんだぜ。
乃木と伊地知の関係を言ってみな?どういったつながりがあったか?
伊地知はどんな経歴を持っていたかを兵八氏は知らないんだろ?
彼が日本の古来の戦術を重要視していた様には思えんがナ・・。
乃木大将の経歴も前半部はあまり知らないようだし、明治自体の藩閥
も知らないようだし、そういったものを全部踏まえた上で話を展開
してくれんか?
あと一点一点絞って議論を展開せんと知識もないのに幅ひろげたら
結論はでないぞ。まぁ君の結論は絶対かわらんだろうが。(オレモナー)
ああ言えばこう言う(w
まあまあ皆さん。
ロシアンティーでも飲んでマターリしませんか。
議論というのは相反する意見があるからこそ盛り上がると思います。
俺が言っても説得力ねぇか。
>>441 おっしゃるとおりだが、
質問に答えずに論点をそらせて話を進める傾向があるのはいかがなものか?
これじゃ国会の答弁と同じだ。。
443 :
名無し三等兵:2001/06/22(金) 07:43
>>439 >海軍が前もって陸上砲台と打ち合っているからな。
……港内の旅順艦隊を狙おうとして阻まれただけでしょう?撃ち合いと
いう状況ではないですよ。岬越えで射撃する能力・機材が無いのに気づいて
あきらめ、それで陸軍にお鉢が回ってくるわけですから。あくまで艦隊狙い。
>少なくとも白襷隊は彼独自の考えだよな。
……そんな馬鹿な。
俺なりの野外要務令改正理由書の原因はまとまっているよ。
乃木大将が影響を及ぼした可能性は未だ残っているが。
ここは乃木擁護派に頑張ってもらおうと思います。
>>443 閉塞作戦のときに陸上砲台と撃ち合っているんだよ。
旅順要塞の陣地がどういった構造かは海軍が知っている。
海軍の重砲部隊といって二十八サンチ砲しか思い浮かばない
んじゃ反論しても無駄だよ。第1回総攻撃の海軍重砲部隊は
参加している。
>そんな馬鹿な
って誰の発案で”誰”が皆の反対を押し切ってやったんだ?
446 :
嶽原:2001/06/22(金) 23:22
>>445>閉塞作戦のときに陸上砲台と撃ち合っているんだよ。
旅順要塞の陣地がどういった構造かは海軍が知っている。
海軍の重砲部隊といって二十八サンチ砲しか思い浮かばない
んじゃ反論しても無駄だよ。第1回総攻撃の海軍重砲部隊は
参加している。
『海上からの砲撃経験で、構造(たぶん配置・強度といいたいのだろう)が
分かったとは、いったい何の文献に書かれていたのでしょう。初耳です。
また、『海軍重砲部隊』という単語から『(陸軍の)二十八サンチ砲』を
思い浮かべるとは、これまた何故に?
>そんな馬鹿なって誰の発案で”誰”が皆の反対を押し切ってやったんだ?
ダブルカンマの位置からして、誰の発案かはご存じのようですね。そうです、
乃木は他者の計画案の採用決定者。『独自の考え』という語には眼を疑いました。
447 :
嶽原:2001/06/22(金) 23:32
>>444 ここは乃木擁護派に頑張ってもらおうと思います。
なに無責任な事を言っているんですか。
とりあえず、頑張ってはおります(笑)が、今のところはかばかしい成果は
上がっておりません。……そもそもの命題に無理があるのではと思っています。
448 :
兵八:2001/06/22(金) 23:59
>>439 >あと一点一点絞って議論を展開せんと知識もないのに幅ひろげたら
結論はでないぞ。
その言葉、そっくりそのまま貴方にお返ししますよ。論破されそうになる度に、「野外要務令」だの「第三師団」だの「藩閥」だのと現在の議論と直接関係のないトピックを持ち出して、議論を誤魔化そうとしているのはどちらですか?
>まぁ君の結論は絶対かわらんだろうが。
私は貴方と異なり、乃木愚将論に説得力があればすぐさまそちらに乗り換えるつもりですが、貴方のような不誠実な態度を見せ付けられると、とてもそんな気にはなれませんね。
>海軍が前もって陸上砲台と打ち合っているからな。どの位強固
なのかは、海軍が重砲部隊を貸し出したことから伺えるが・・乃木司令部は
あっさりそういった事実を見過ごしているように見受けられる。
「海軍は陸上砲台と撃ち合った経験があった」=「海軍は陸上砲台の強固さを認識していた」では明らかにありませんよ。というか、日露戦争時に海軍艦艇が旅順の砲台とまともに砲戦を交わした、という話を聞いたことがありません。
緒戦において、ロシア旅順艦隊は要塞砲の射程内に日本艦隊を誘い込んで撃滅しようと図っていたようですが、我が連合艦隊もその手には乗らず、ロシア艦隊を要塞砲射程外に引っ張り出そうと試みていました。
海軍が要塞の永久堡塁の強固さを確かめるには、少なくとも艦砲の10発や20発は堡塁に命中させる必要があったと思いますが。そのような戦例があったのですか?元ソースをご教示願いたい。
>南山の戦いのときも4000人という死傷者の数を聞いて、伊地知は
信じられなかったらしい。
大本営の参謀が、第二軍が報告した南山での損害のあまりの多さに「電報の0が一つ多いのだろう」と信じようとしなかった・・・・という話は聞いたことがありますが。伊知地が仰天したというのは、司馬氏の小説以外で見聞きした記憶がありませんね。司馬以外に信頼に足る元ネタがありますか?
>乃木大将の息子は機関銃で負傷のちに死亡したが
、なんで機関銃で倒れたのかを調べようと思えば調べられたはずだ。
はあ?乃木勝典中尉が機関銃で戦死した事と、乃木が愚将だという事がどうつながるのか、全く前後が見えませんね。(つづく)
449 :
兵八:2001/06/22(金) 23:59
>しかし乃木司令部は大本営の見込みをそのまま素直に受け取り、
疑わなかったと考えられるんだがナ。つまり現状よりも上の意見を
尊重したんだろ。って言ってんだよ。
>しかし乃木司令部は上からの情報を信頼し、現状を把握せず、
過去の戦におごり、そのまま攻撃した。これを無能とはいわんか?
素直に受け取るも何も、他に情報が無いのだから仕方ないじゃありませんか。旅順要塞に対する参謀本部の戦前の判断は、以下のようなものでした。
「防備は支那時代の旧式野堡に多少の散兵壕を増築させるのみ。永久築城無しと思う。」
無論、この判断も推測によるものでしかありませんでした。陣地の警戒が厳重であり、日本人は近づけない。清国人やロシア人スパイの報告も不十分で、当てにならない。
第三軍の幕僚たちも出来るだけ敵要塞に近接して望遠鏡で観察しましたが、ロシア側の偽装が巧みなため、鉄条網や散兵壕は散見できるものの、堡塁も砲台も殆ど見えなかったそうです。
それでもなお、第三軍の敵情判断ミスは乃木の責任であり、乃木は無能だと主張されますか?大した度胸ですね。
>じゃぁ持っていたという根拠を示してくれませんか?
稲妻形の塹壕を掘り進め、砲火を避けつつ敵要塞に肉薄し、突撃時に敵砲火に晒される時間を局限して一気に要塞内に突入する・・・・という「対壕戦法」つまり正攻法は、17世紀ヨーロッパで既に確立していました。
第一回総攻撃失敗後、乃木が強襲法を諦めて正攻法に移行することを決断した背景には、当然この知識があった――と考えるのが普通ではありませんか?全く見たことも聞いた事も無い戦法を、一工兵将校が賛成しただけで、他全員の反対を押し切ってまで採用すると思います?
本当に知らなかったとしたら、乃木は恐るべき柔軟な頭脳の持ち主ですね。全く知りもしなかった戦法の有用性を、殆ど直感的に見抜いたことになります。
>乃木大将は伊地知参謀の能力を全面的に信用し活用していた訳だろう?
でも裏返せば、伊地知のやっていることが精一杯と感じたんだよな。
それは自分が知らないから伊地知にまかせたともいえるんだぜ。
乃木と伊地知の関係を言ってみな?どういったつながりがあったか?
旧陸軍の慣習として、参謀長が持って来た作戦案を否として再検討を命じることは、むしろ避けなければならないという風習があった――今村大将はそう述べています。でもそれは陸軍全体の問題ですし、第一、特に伊知地を無能と断ずる論拠が無い以上、乃木を非難する材料にはなりませんね。
乃木と伊知地の関係?共にドイツ留学組だという以外、詳しくは存じませんね。個人的なつながりがあると、何かまずいことでもあるのですか?むしろ互いの気心が知れていたほうが好都合でしょう。
>伊地知はどんな経歴を持っていたかを兵八氏は知らないんだろ?
当時の陸軍きっての俊秀であり、ドイツ留学組。砲兵の専門家。大山満州軍司令官の娘婿。これくらいしか知りませんね。それがどうかしました?
>乃木大将の経歴も前半部はあまり知らないようだし、明治自体の藩閥
も知らないようだし、そういったものを全部踏まえた上で話を展開
してくれんか?
ふーん。乃木の前半生の経歴といっても、今の議論には直接関係ないと思いますが。これ以上話が横道に逸れるのは避けたいものですね。
藩閥?あなたは藩閥人事を目の敵にしておられるようですが、藩閥人事でなければ良かったとでもお思いですか?試験や競争なら良かったとでも?単なる試験秀才が要職についたらどのような結果をもたらすか、ご存知無いのですか?藩閥だろうと何だろうと、有能な人材が登用できればそれで良いでしょう。
人に勉強しろという前に、せめて「歴史群像」の最新刊くらいは読んで置いたら如何です?それとも、そんなに怖いのですか、「乃木は愚将ではない」と認めるのが。
450 :
兵八:2001/06/23(土) 00:06
>>447 まあ、このスレは「乃木大将は軍神にふさわしい名将であったか?」とでも勝手に読み替えておけば宜しいでしょう。というか、私はそうしてます。
私の言葉の揚げ足とりには即座に反応するところを
考えて・・他のところは即座につっこまないのは納得
されたのでしょうかな?まぁそれでも反論仕様と思えば
なんとでもなるがな。
嶽原氏は伊地知がどういった経歴かはご存知ですか?
さてまた当分隠居するかな。
452 :
兵八:2001/06/23(土) 00:21
>>451 どうせまた戻って来るんでしょう?楽しみにしてますよ。
まあまあ、マターリマターリ。
相手をこき下ろすのではなく、納得させる。
という方向に持っていきたいです。(永久に話は平行線でも)
?氏という方が言っていた
「勝ち負けが問題ではない。
事実はどうなのかと言うことが問題だ。」(あってるかな?)
という言葉が私は好きです。
>>449 遼陽会戦の黒木軍の動きを知っているか?
乃木が名将なら黒木はどうなるのかな?
彼の経歴を調べるのは重要だよ。<藁
彼がいつ軍事を学んだか?過去から未来
に向かって軍事的才能が光った時期があったかどうか
を調べるのは重要だよ。
大体さぁおまえさん もぉやめたほうがいいよ、
壊れたテープレコーダーじゃあるまいし、伊地知の件も
結局は其の程度の知識がないのに、なにゆえ彼が
有能と判断できるの?少ない知識で判断しているのが
ちょんばれじゃん。感想ばかりだよ。
さて隠居しよぉっと。
殉死は読んだか?坂之上の雲はちゃんと手元に置いてるか?
機密日露戦史も目を通したか?
455 :
嶽原:2001/06/23(土) 00:33
短くて適当ですので、445に犠牲になって頂きます。
>>445『閉塞作戦のときに陸上砲台と撃ち合っているんだよ。
旅順要塞の陣地がどういった構造かは海軍が知っている。
海軍の重砲部隊といって二十八サンチ砲しか思い浮かばない
んじゃ反論しても無駄だよ。第1回総攻撃の海軍重砲部隊は
参加している。』
この文章を見て、「遠距離攻撃をした海軍になんで構造がわかるんだ?」
「海軍重砲部隊から、なんで陸軍巨砲が連想されるんだ?」と疑問に
思うのが、どうして『揚げ足とり』になるのですか?
海軍の情報収集能力と成果については、私もほとんど知りませんので、
海軍は六月までに旅順要塞の強度を知っていたという資料をご存じでしたら
教えて下さい。
とりあえず、二十八サンチ榴弾砲が陸軍沿岸要塞砲であることは、間違い
ない事実なのでご記憶下さい。(資料「大砲入門」佐山二郎・光人社NF文庫)
456 :
兵八:2001/06/23(土) 00:36
殉死は読んだか?坂之上の雲はちゃんと手元に置いてるか?
機密日露戦史も目を通したか?
457 :
兵八:2001/06/23(土) 00:42
>>456 おっと、失礼。途中でカキコしてしまいました。
>>454 >殉死は読んだか?坂之上の雲はちゃんと手元に置いてるか?
機密日露戦史も目を通したか?
なあーんだ。結局元ネタはそれだけでしたか。ちょっとがっかり。
たしかに私の論は全部他人の受け売りですが、独自性にこだわる余り自滅するのは趣味じゃないですね。人間謙虚でないと。
厨房Aさん、おっしゃることはごもっともだが、私は相手をこき下ろしていたかな?あなたはどんな感想をお持ちですか?
458 :
嶽原:2001/06/23(土) 00:43
>>454>機密日露戦史も目を通したか?
「機密日露戦史」!いいですねえ。谷陸軍大学戦史教官の講義録を
編纂したものですね。昭和41年原書房発行。是非読んでみたい資料です。
……非常に読みにくいものだという話を聞いておりますが、そんなに
読みづらいものだったでしょうか?
ぐはぁ・・・。
>>458 読みづらい。消防のときは辛かった。
今は実家にある。でもあれも改竄されているから、
フィルターを通して読まなければならないんよ。
まぁじっちゃんが死んだらゆっくり士官学校からの
資料もあるらしいから読もうかなと思う。
作戦要務令は手にいれたよ。やはり普通の精神論しか
かいてないんだよな。<藁 野外要務令改正書は前原透に
聞かねばならんな。
兵八氏の乃木愚将論を唱えているレスに対しての
意見を見てみ?
お前さんの意見を信じると、乃木大将が昇進しな
かったのも軍旗を失ったのも不思議なほど、完全な
名将にみえるな。<藁
462 :
兵八:2001/06/23(土) 01:00
あ、いやいや。別に悪意をもって言ったわけではないので。(藁
頼むよ・・・。皆さん(泣
464 :
兵八:2001/06/23(土) 01:05
462は459に対しての発言です、念のため。
465 :
嶽原:2001/06/23(土) 01:10
公開掲示板であることをつい忘れそうな今日この頃……ああ金曜日だったか。
悪意を持たないで本2冊のみで乃木愚将論者に立ち向かうか・・。
勇敢だな。
ちなみにおれの主張は
>>46 >>47あたりからほぼ変わってない。
野外要務令の武士道の記載に着いて
乃木大将の復命書もまつわる話があるのだが、これが改竄された。
これは大山巌指導の日露戦史編纂綱領に基づいて改竄されたらしい。
(武器弾薬等の欠乏によりという項が削除)
当時の日本軍は士気が足りなかったので士気を重視するために
こうなったという意見が多数だがまぁ当時の世論を気にしてか、
情けない限りだな。だから乃木大将の自分での意思での関与は
ほぼ無し。
ただしこの復命書の文面はそのまま生かされることになる
と私は考えている。(旅順での乃木大将の愚直さを隠すため。)
大体その方面に無能な人間はなにもしないからな。
まぁ解釈は色々あるもんで 当時の人間の評価が1番では
ないでしょうかな? 乃木大将は結局は元帥になれんかった。
467 :
嶽原:2001/06/23(土) 01:19
以前別場所で、海軍の対旅順戦闘のあたりから記述をはじめていって望台占領
まで行こうと思っていたのですが、残念ながら東北方面前衛陣地攻略の段階で
挫折しました。
提案ですが、例えば第三軍大連上陸時からとか、議論の開始点を何処の時期
か定めて、そこから時間を追って議論してみませんか?
468 :
嶽原:2001/06/23(土) 01:24
「軍神か?」という命題とはややズレる気持ちがありますが、旅順戦の評価
が乃木大将の印象を大きく左右しているわけですから、どのみち避けられない
論点です。いかがでしょう?
469 :
嶽原:2001/06/23(土) 01:28
台湾総督時代とか、師団長時代とか、休職時代とか、いろいろありますが、
やっぱり軍事板的には「日露戦争の第三軍司令官時代」というのが適当かと。
470 :
兵八:2001/06/23(土) 01:28
>>467 ぐわーっ、めんどくせ―!!つーか、知識がねえ!
後備兵程度の働きはしますけど、積極的な参戦は遠慮願いたいなあ(汗)
>>469 おれとしては台湾時代やら休職時代の方が面白いけどな。
さて仕事だし寝よ。
472 :
嶽原:2001/06/23(土) 01:35
>>470あ、やっぱり(笑)?
いやあ、私も他所での悪夢が蘇りそうで怖いんですが、どうにも話が拡散
していってしまうのを防ぐには、時系列とかの縛りが必要でないかと思うん
ですよ。他所ではその点拡散はあまりしなかったですが、逆に細部に入り込
み過ぎて失敗しました……。
>>467 連隊長殿!敵軍は既に壊滅状態にあります。これ以上の追撃は無意味と判断いたします。
>472
感謝デス。
そして事実のみを・・・・(鬱
475 :
兵八:2001/06/23(土) 01:43
>>472 別にいいんじゃないんですか?愚将論者もほぼ絶滅したみたいですし。
このスレの最初のほうを見るとちょっと信じられませんけどね。
まさに旅順の重畳する永久陣地を肉弾戦の末突破した第三軍の気分(笑)
台湾時代やら休職時代の方は、いつ「板違いだ」の声が掛からないとも
限りませんよ。それに、広く世間に知られている時代の方が適当と思います。
ではまた……。
なんだか不思議な……ああ、これがあの、マターリ?
(笑)
決着ですか? 大変面白かったです。
479 :
兵八:2001/06/23(土) 02:20
──── ──── 終了 ── ──
さすが軍事板ってかんじですね。
482 :
名無し三等兵:2001/06/23(土) 05:27
軍神が愚将では日本陸軍がかわいそう過ぎるものね。
愚将論者が論破されたと思ってるのが笑えるな。
現状を確認できないのは旅順での乃木大将と一緒。
外野は黙ってろ
486 :
嶽原:2001/06/23(土) 17:29
残心
皆さんお後がよろしいようで。