日本陸軍の戦闘能力II「ここはお国の何百里」

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163名無し三等兵
「第二次世界大戦ー発生と拡大ー」(錦正社)P292〜308
「戦わざる日ソ戦」(A・D・クックス)より引用

北進論者にとり事態を複雑にしているのは、七月二日の御前会議により、
陸軍もまた南進策の第一段作戦を実施することになったという事実であった。
そこで陸軍は、合意に基づき、一九四一年七月下旬に南部仏印進駐を行った。
しかし、北で窮地に陥っているソ連は静謐状態だったが、アメリカは直ちに反撃した。
ローズベルト大統領は大統領命令を発出して在米日本資産を凍結させ、
その後英蘭の両国は直ちにこれにならい、三国と日本との貿易は事実上禁止された。
≪中略≫
八月九日、陸軍中央部は参謀本部内に不満があったのにもかかわらず、以下の極秘決定を行った。
1、対ソ警戒態勢の強化により有利に対ソ外交を推進し、またソ連側からの挑戦若しくは
  不測の好機捕捉が発生した時は直ちにたってこれに対応する。
2、中国に対する既定作戦の続行。
3、十一月末を目途とする対南方作戦の準備
 陸軍は北進策の明確化を主張し、南方作戦が終了し北の天候が好転し次第、一九四二年春、
だいたい二月頃までを目途に、対ソ攻撃が準備されるべきだと強調した。
 しかし、独ソ戦展開の如何はもはやどうでもいいことであった。
七月二日の御前会議決定で言及された好機到来は、全く実現しなかったのである。
≪中略≫
誰もが石油のことを話題にしたが、一九四一年半ばに好機が到来したにもかかわらず、
日本陸軍がそうした早い時期に対ソ戦を尻込みした理由ーそれは極めて重要だが、
誰も口には出さなかったーが一つある。それは、関東軍が
ノモンハンでロシア人の手により敗北を喫したことであった。
≪中略≫
 一九四八年に出された判決文によると、東京裁判の判事団は、
日本にとって「好機のドアが北で閉まると、南の門が開き始めた」としている。
 もしソ連が同時に二正面作戦を強いられるとしたら、スターリン政権が
崩壊し、ドイツが東部戦線で勝利を収めたであろうことは、恐らくほぼ間違いないであろう。
  フルシチョフ書記長時代に反体制分子になったグリゴレンコ将軍は、一九四一年にはシベリアの
第一線に駐屯していた。その彼は、ドイツが西方から侵攻した後もし日本が北方に侵攻していたら、
ソ連は明らかに一大危機に直面したであろう、と確言している。
また、ハバロブスク司令部がある極東方面軍の作戦部長を務めていた
カザコフステフ少将は、一九四一年グリゴレンコに対し、「もし日本がヒトラー
に与して参戦するならば・・・我々の理想は絶望的だ」と語っているのである。