「尼港事件」について

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1名無し三等兵
ロシアの機械化部隊に日本人居留民が皆殺しにされたとか。詳しい方、教えてください。
2名無し三等兵:2001/03/08(木) 00:45
日本陸軍のシベリア撤兵が遅れた最大の原因はこれだったと思う。
3名無し三等兵:2001/03/08(木) 03:16
妊婦が腹裂かれたり、あそこに棒つっこまれて殺されたり、
怖いね。
4名無し三等兵:2001/03/08(木) 05:10
尼港=ニコライエフスク、だよね。軍人も含めて全滅しちゃったんでしょ?こんなひどいことされて当時の日本政府は何をしていたのかしらん。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/08(木) 06:07
>>4
流行の歴史相対主義者ですか?
日本は対抗できないような悪いことをしたので
仕方なかったというのが実情です。
6名無し三等兵:2001/03/08(木) 06:19
>5
左翼発見!どんな悪いことをしたんだよ?オラオラ!
7名無し三等兵:2001/03/08(木) 06:32
つーか、5よ具体的なこと言えよ、てめーの腹裂いたろか?
8名無し三等兵:2001/03/08(木) 06:38
>5
ヴァカ!極左め、水風呂につけたる。よく同胞の死についてそんなにしゃーしゃーと屁理屈こねられるものだね?
95じゃないけど。:2001/03/08(木) 06:59
幕末の異人斬りも似たようなもんだと思うぞ。斬られた異人は
一般市民だろ。
プライド高い国に武力をちらつかせながら内政干渉すりゃ
そりゃ反発を食らうわな。
101:2001/03/08(木) 07:17
軍事マニアもこの事件については知らないのかなぁ。まぁ、時間帯が・・。もっと、詳しく実情やなぜ民間人までもが巻き込まれたのか知りたかったんですが。あと「全滅」という活字が妙に頭にこびりついちゃって。悲惨な出来事であったことだけは間違いないようですが・・。
11名無し三等兵:2001/03/08(木) 08:48
全滅・壊滅の定義ってなんだろう?
昔からの疑問
全滅=玉砕(みなごろし)?
12名無し三等兵:2001/03/08(木) 08:54
 1919か1920年ぐらいでしょ。ロシアのニコライエフスクってところで、民間人を人質にとった赤軍派のゲリラが日本軍の救援部隊が近づいてきたため民間人数百人を虐殺した事件。子供はたたきつけられて殺され、女性は暴行されて惨殺され、あるいは生きたまま蒸気機関車の釜に放りこまれた人もいたらしい。日本軍が到着したところ、壁に血文字で「○月○日○時○分を忘れるな」と書いてあった。最後の力を振り絞ったダイニング・メッセージでしょうな。それは、日本軍が到着するわずか1日前のことだった…。
 なんで民間人が巻き込まれたのか?は、理由なんてないでしょ。要するに、日本軍に勝てないもんだから、それに対する腹いせだね。なお、このとき、ロシアに出兵していたのは、第一次大戦の戦勝国=つまり列強諸国だから、日本だけの行為じゃなくて世界的な同意のもとで行なわれていた行為だった。アメリカなんかも出兵してたんだなあ。
 もともと、当時の共産党の幹部にはサディストが多かったんだが、彼らの間でも「やり過ぎだ」ということになって、責任者は銃殺されたそうだ。
 正確ではないが、こんなとこかな?あとは自分で調べてね.
13名無し三等兵:2001/03/08(木) 08:56
 それから、付け加えですが、1人残らず殺されたそうです。
14名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/08(木) 08:59
15名無し三等兵:2001/03/08(木) 09:06
革命軍が攻めてきました、
日本軍と市民は防戦しました、
革命軍は攻めあぐねました、
革命軍は降伏しろと言いました、
日本軍は降伏すれば国際法により命までは取られないと思い降伏しました、
革命軍は国際法など知らない厨房でした、
日本軍は武装解除しました、
革命軍は日本人を全員いたぶり殺しました。
16名無し三等兵:2001/03/09(金) 04:14
大東亜戦争への道だっけ?この事件左翼絶対言わん。ましてTVは言わんよ
17名無し三等兵:2001/03/09(金) 05:05
こんなことがあったのか…全然知らなかった
18名無し三等兵:2001/03/09(金) 05:53
尼港事件ってアメリカ撤兵後の事件だよね。はやく帰ればよかったのに。
もたもたしてるから騙されて殺されちゃうんだ。
へんな出兵のあおりで死んだ日本の民間人と、石川隊の兵士たちがかわいそうだ。
あと3月中旬まで抵抗を続けた河本中隊の武勇も語り継いであげないとかわいそうだ。
19名無し三等兵:2001/03/09(金) 06:05
>降伏協定を受託したが、3月13日、突如協定を破って奇襲攻撃に出たので
こんなことしちゃ、いけんよー
でも皆殺しはひどいわなあ。
20名無し三等兵:2001/03/09(金) 07:39
「尼港事件」(にこう−じけん)

 大正九(1920)年、黒竜江(アムール川)の河口にある重要拠点ニコライエフスク(尼港)にシベリア出兵日本兵力の一部が駐屯していたが、この守備隊がソ連赤軍につながるパルチザン兵力と戦い、全滅した事件。
 シベリア出兵においてこのニコライエフスクは先ずはじめに、ただちに占領された。しかし当初、シベリア出兵を日本に要請したアメリカが撤兵すると、日本のみが残留することは各国の重大な疑惑を招くようになる。かくして原内閣は在シベリア日本軍の逐次撤兵を行っていたが、それに伴い極東のソ連勢力が増強されつつあった。その一部であるトリャピーチン率いるパルチザンがニコライエフスクを攻撃、日本守備隊は守りきれず開城して降伏した。しかし武装解除はなされなかったので、それをいいことに日本軍はパルチザン司令部を夜襲したが失敗、日本兵員のみならず居留民も投獄される憂き目にあった。軍部はニコライエフスクに救援軍を送ろうとしたが海上凍結のため失敗。解氷後、日本の救援軍が迫るや、パルチザンは日本人捕虜を殺害し、ニコライエフスクを炎上させて逃亡した。
 この事件は大いに国民の反ソ感情をあおり、これを背景とした北樺太の保障占領に結びついた。
21名無し三等兵:2001/03/09(金) 09:09
強酸は国際法も知らん厨房なんだからなー
22特命鬼謀:2001/03/09(金) 10:09
>>20
>軍部はニコライエフスクに救援軍を送ろうとしたが海上凍結のため失敗。
で、その教訓で「大泊」が建造された、と。
23名無し三等兵:2001/03/09(金) 11:42
白黒なので血文字かどうかはわかりませんが、
壁に残された「忘れるな」のメッセージ↓
http://mboshino.tripod.com/photo/nikomessage.jpg
24名無し三等兵:2001/03/09(金) 11:51
>>20
そのあとソ連は事件を起こした部隊の責任者を軍法裁判にかけて
死刑にしたこと、日本政府に対して謝罪を行ったことも言ってお
かないと不公平になるかもね。捕虜といっても多くは民間人だっ
たそうです...
25名無し三等兵:2001/03/09(金) 11:54
ロスケの非は95%
26名無し三等兵:2001/03/09(金) 12:00
尼港(ニコライエフスク)事件と多門二郎将軍ニコライエフスク(尼港)の救援

第1次世界大戦の末期、ロシアに大革命が起こり、大正7年(1918年)3月、帝政を廃し、

11月、社会主義の共和国が建設されることとなった。

日本は、米英仏と連合してシベリアに出兵し、イルクーツク付近以東の要点を占領し、

治安維持に任じた。

大正9年(1920年)5月、尼港事件が起こった。露のパルチザン軍が、尼港の日本軍守備隊、

居留民を虐殺したのである。このとき、多門大佐は、多門支隊の名のもとに救援隊として

活躍した。

尼港は、間宮海峡(タタール海峡)をはさんで、樺太(サハリン)と向い合った大陸の、

黒龍江(アムール川)の河口にある最果ての小市街である。

人口は約1万5千で、この方面における漁業の中心地であり、サハリン州庁、領事館

などもあり、政治の中心地として、夏季は相当に活気を呈していた。しかし河が凍り

雪が降り始めると、外部との交通が遮断され、孤島のような状態となるのである。

ここに居留する日本人は約440名、ロシア人のほか、中国人、朝鮮人、英国人など

約4500名が住んでいた。
27名無し三等兵:2001/03/09(金) 12:00
大正7年9月、海軍陸戦隊が上陸して占領したのち、第12師団の一部がこれと交代し、

ついで第14師団の一部(石川正雅少佐の指揮する歩兵第二連隊第三大隊の主力、

兵力は188名)が守備にあたっていた。

日本海軍は、石川光儀少佐の指揮する臨時海軍無線隊を配置し、また夏季は

水雷戦隊が付近沿岸を監視していた。

日本軍に協力する反過激派軍約500名、反革命政府の訓令により編成された自治会が

あったが、素質が悪く、過激派のシンパと思われるものも含まれていた。

8年(大正)夏、ウラジオストク付近から逃れてきたパルチザンと過激派十数名が尼港に

潜入して工作を開始し、勢力を急速に拡大してきた。ハバロフスクと尼港間の電線が

切断され、討伐隊が損害を受けるようになった。

情勢は漸次切迫して、いつ過激派が来襲するか分らぬ有様であり、尼港居住民の人心も

険悪となってきた。

28名無し三等兵:2001/03/09(金) 12:01
大正9年正月、守備隊は戦備を厳にし、数回の討伐を実施した。また市内で過激派に

策応する労働者の指導者十数名を検挙するとともに、日本人在郷軍人、反過激派の

ロシア人の自衛団を組織した。

1月24日、過激派の使者が、和議を申し込んできたが、守備隊長は一蹴した。

2月5日、過激派軍は、近郊にあるチヌイラフ旧要塞を奇襲占領し、海軍無線所を

破壊した。このため守備隊と外部との通信連絡は全く遮断された。

これより先、石田虎松領事の報告を受けた政府は、2月13日になり、ようやく

尼港救援隊派遣の件を決定した。

当時、旭川第27連隊付であった多門中佐(間もなく大佐に昇進)に、2月21日、

尼港派遣隊の編成、派遣が命ぜられた。

29名無し三等兵:2001/03/09(金) 12:01
この出動は、まず地理的調査を慎重細密に行ない、国際的立場を考え、できるだけ

円満に解決し、民衆の感情の融和を考慮せねばならなかった。

尼港の情報を極力収集したが、状況はほとんど不明であった。

派遣隊は3月3日乗船、流氷の多い危険な間宮海峡を極力北上したのち、陸路

約1000キロを踏破する計画であった。ところが6日午後「派遣隊の出動中止、各員は

所属部隊兵営で待命」との指示を受けたので、原隊に帰着した。

多門は待命中、情報の収集と行動の研究を怠らなかった。

一方、尼港では情勢が激変していた。

2月24日、過激派軍から休戦を提議してきたので、守備隊長がこれを容れて28日

交渉がまとまった。ところが尼港に入った過激派は、協約を全く無視して、

反過激派を投獄、虐殺し、労働者を集めて軍隊を編成し、勢力を拡大して、

日本軍撃滅の準備を進めた。

30名無し三等兵:2001/03/09(金) 12:02
3月11日、過激派は、守備隊の武装解除を要求してきた。よって守備隊長は、

機先を制して過激派の企図を粉砕する決心をなし、12日午前2時、過激派の主要拠点を

不意急襲した。しかし敵兵力ははるかに優勢であり、激烈な市街戦となって戦況は

逐次不利となり、大隊長以下大部が戦死、石田領事一家は全員自決、市内の

日本居住民は、男はもちろん、老幼婦女のほとんどが

虐殺された。

兵営では、傷病者および非戦闘員47名を含めて約100名が防御配備につき、

過激派軍の猛攻を阻止し、交戦四昼夜、兵営を死守した。

しかるに守備隊が過激派軍の提議を容れて、戦闘行動を停止すると、過激派軍は、

ただちに守備隊の武装を解除し、兵営に居たもの全員が、ロシア監獄に監禁された。

4月13日、多門大佐は尼港への出動命令を受けた。派遣隊は、16日、小樽港を

出発、北樺太西岸のアレクサンドロフスクに上陸、前進の機を待った。

5月7日、津野一輔少将の指揮する「北部沿海州派遣隊」が編成され、

尼港派遣隊は「多門支隊」と改称した。

31名無し三等兵:2001/03/09(金) 12:02


5月12日、多門支隊は、アレクサンドロフスクを出帆し、樺太対岸のデカストウリに

上陸、峻難な悪路を踏破して北上した。同時に、ハバロフスクから第14師団の

国分支隊が黒龍江を下航し、両支隊は、25日、尼港南方約130キロのキジ部落で

合流、僅少の過激派軍を撃破しつつ、6月3日、尼港に進入した。

津野少将の派遣隊も、多門支隊の尼港占領を知り、海路北上し、6月4日、

同地に上陸した。

これより先、尼港の過激派は、日本軍の来襲にたいする準備を行なっていたが、

ついに尼港放棄を決定した。そして5月25日から、

監禁していた日本人と、残っていた反過激派の人々を惨殺し、

市内の建物全部を焼き払って、西方のアムグン河谷の森林内に逃走した。

このとき、尼港の住人の大部を強制的に避難させたので、日本軍が尼港を占領したとき、

全市は満目荒涼とした焼野原と化し、惨憺たる光景を呈していた。

日本軍は、せっかく救援に向かったが、ただの一人も救出できず、ただ同地に残留した

キリスト教徒50名と、恨みを呑んで虐殺された屍体を見出すのみであった。

尼港に入った派遣隊は、まず同地の警備、遺棄屍体の供養、兵器弾薬の押収、

帰来住民の処理をなすとともに、破壊された尼港付近の諸調査、整理等の対策を講じた。

7月末、命により派遣隊はアレクサンドロフスクに退却、新たにサガレン州派遣隊が

編成され、司令官に児島惣次郎中将が任命され、参謀長は津野少将、

多門大佐は高級参謀となった。

尼港事件および救出作戦は外地における居留民保護が、国際的に、地理的に、

作戦的に最も困難なものであることを示すもので、多くの教訓が得られた。
32名無し三等兵:2001/03/09(金) 12:05
補足

過激派軍は、赤軍系パルチザンと韓人教師朴エルリアが組織した

「サハリン部隊」とが連合したものであった。
33名無し三等兵:2001/03/09(金) 12:20
次からは、行を詰めて投稿してね
34名無し三等兵:2001/03/09(金) 12:57
>33
コピペだろ
35age:2001/03/09(金) 13:04
葛根廟事件も忘れるな
36名無し三等兵:2001/03/09(金) 13:38
虐殺を行ったのは露西亜人と中国人と朝鮮人だってね。
371:2001/03/09(金) 14:32
いろいろたくさんのレス、ありがとうございました。そうだったのか・・。哀しい。
38名無し三等兵:2001/03/10(土) 11:10
さるべーじ
39名無し三等兵:2001/03/11(日) 05:59
中国朝鮮モンゴルベトナムみんな兄弟 日本人お人好し
ロシア人に道徳心、期待したらアホ見る。
40名無し三等兵:2001/03/21(水) 20:43
なるほど良く分かりました
41毛沢豚:2001/03/21(水) 20:46
日本に取って第一次大戦は蚊帳の外と思われがちだが、シベリア出兵を忘れてはいかん。
42葛根廟事件もあるでよ:2001/03/21(水) 23:57
尼港(ニコライエフスク)事件
第1次世界大戦の末期、ロシアに大革命が起こり、大正7年(1918年)3月、
帝政を廃し、11月、社会主義の共和国が建設されることとなった。
日本は、米英仏と連合してシベリアに出兵し、イルクーツク付近以東の要点
を占領し、治安維持に任じた。
大正9年(1920年)5月、尼港事件が起こった。
露のパルチザン軍が、尼港の日本軍守備隊、居留民を虐殺したのである。
パルチザンというと格好いいが、要はゲリラ・テロリストである。
43名無し三等兵
満港事件