1 :
名無しさん:
なぜ、このような無謀な作戦が立案され、尚且つ実行されたのか。
当時の帝国陸軍はどのような組織だったのだろうか。
2 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 12:56
無理・無茶・無謀の3無組織。
3 :
一般人:2000/08/06(日) 13:02
>2
もう一つ無責任を含めた四無組織です。
その伝統は霞ヶ関で今も健在ですよ。
最大の特徴、無能が抜けてる。
五無組織でありながらゴムのような融通性は皆無だ。
5 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/06(日) 14:01
NHKスペシャルおもろかったよな。ジンギスカン作戦・・・・
6 :
名無しさん:2000/08/06(日) 14:20
牛で荷物を運び、到着したら食おう という奴ですな。
実際は半数が河で溺れ死んだ。
生き残ったものも山を越えられず途中で放棄。
7 :
山内中将:2000/08/06(日) 14:48
佐藤さん、勝手に退却しないでくださいよ。
あのあと大変だったんスよ、うちら。
8 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 14:52
退却しなくても全滅してただろ。
大差無いのでは??
9 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/06(日) 14:53
>もう一つ無責任を含めた四無組織です。
完全な無責任ではなく中途半端な階級の人が責任を取らされることが
たまにあるようですな
現場の連隊長とか
10 :
じゃ:2000/08/06(日) 15:03
誰が有能なんだ?
11 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/06(日) 15:08
1人輝いたのは見事な退却戦をした宮崎中将。ノモンハン唯一の無敗部隊
の指揮官でもあった。
12 :
山内中将:2000/08/06(日) 15:19
でも宮崎支隊が何の通告もなく崩壊したせいで祭は奇襲をうけて
野戦病院の患者達が虐殺されたんですよね。祭の立場から言うと。
サンシャーク攻略の手柄も烈だけのものとされてしまったし。
13 :
牟田口中将:2000/08/06(日) 15:20
>7
相分かった
佐藤師団長は、更迭の後
敵前逃亡の罪で絞首刑とする
14 :
山内中将:2000/08/06(日) 15:25
>13
いや、そんなことよりも補給の方を。
15 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/06(日) 15:27
無節操と無鉄砲も加えて欲しいなあ。牟田口限定で。
兵士はむしろ無心でしょ。
16 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/06(日) 15:54
印旛沼作戦?
17 :
佐藤中将:2000/08/06(日) 16:18
約束の補給はどうなっているのだ。
18 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 17:12
で、もっと真面目に語ろうと思う人はいないの??
期待してるのに。
19 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/06(日) 17:16
インポー作戦
20 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 18:15
駄目だこりゃ。
奇遇だな。5年も前から欲しいと思っていたアーサー・スウィンソン「コヒマ」(ハヤカワ文庫NF絶版)
100円でたった今、手に入れてきたところだ。
帝国陸軍兵士は、苦しい中、よく頑張ったよ。苦戦がいいことだとは、ちっとも思わんが、
テニスコートの寸土をめぐって、よくまあ、地の果てまでたどりついたものだ。
22 :
名無しさん:2000/08/06(日) 18:57
あげ
23 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 20:29
宮崎ってどうよ?
賞賛される割に、ビルマ戦じゃあ部隊の被害が多すぎるぞ。
24 :
名無しさん@1周年:2000/08/06(日) 20:36
まあな。
別に宮崎の指揮で部隊が生還したんじゃなくて、兵士の頑張りで帰ってこれたんだもんな。
25 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/06(日) 20:48
ビルマ戦はもはや戦いではないだろ。
26 :
名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 03:02
1945年4月以降はな。
27 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/07(月) 04:08
まあ否定か肯定は別にして一緒に参加したインド人の兵隊は
ビックリしたらしいね。よくこんな戦いができるなあって。
生き残ったインド人の老人が「戦後日本が復興したのは奇跡と言われるが
日本兵と一緒に戦った自分は奇跡なんて思わない。日本人は日本人の力で
復興するべくして復興したのだ。」と言われたそうだ。
戦後すぐに日本の広島に原爆を落とした米兵パイロットが
インパールを訪ねたが村人全員に追い返されたとさ。
ただインパール作戦に注文をつけるなら、もっとうまくやってくれ・・・
と言う事かな。ただ亡くなった兵士には頭が下がるばかりです。
28 :
名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 04:38
最初にシンガポールやフィリピンやインドネシアなどを簡単に攻略できた
のが遠因ではないだろうか?
それで、牟田口はインパールの英軍も簡単に屈服させることができたと
妄想したのでは?
あと、上級司令部(含む大本営)の誰も止められなかったのが問題・・・
って、そもそも対米戦闘を止められなかったあたりから問題があるわけで
あるが
29 :
名無しさん:2000/08/07(月) 05:02
抗命撤退した佐藤師団長に、何の処分も出来なかったのは、結局師団長が親保職で、
天皇誤謬説に矛盾するからとか聞いたことある。もしそうだとしたら、旧日本軍の将官は、実は殆ど
やりたい放題じゃんか。
30 :
名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 08:20
牟田口は大本営がインド方面への進出を熱望してると
最後まで信じていて、あの作戦を描き続けていた。
それで、無理にでも実行した。
31 :
名無しさん@1周年:2000/08/07(月) 09:33
高木の本や戦史叢書には出てこない話だが、牟田口の前の第15軍司令の飯田中将は、インド侵攻に反対したことが直接の原因となってこの職を追われた(憲政資料室蔵・片倉日記による)。
そもそも軍の支配的な意見が、インド侵攻に傾いていたというべきだね。
32 :
名無しさん:2000/08/07(月) 11:32
開戦当時はインド進行に傾いてたけど
実際、インパール作戦が実行された時には
すでにインドには目を向けていなかったと思う。
ビルマ死守のためにはビルマに部隊を配置しておくよりも
逆にインド進出したほうがいいと考えたから作戦が立案された
のでは無いかな。それと、当時は敗戦続きだからここらへんで
派手な進攻をなんとしてもやりたかっただけだろう。
33 :
名無しさん:2000/08/07(月) 19:58
ninnkinaina
34 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/07(月) 20:54
デリー太郎はいないのか?
35 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/07(月) 21:02
チャンドラボーズは偉大なインド独立闘士だったのでしょうか?
36 :
>27:2000/08/07(月) 21:56
日本兵は全世界で最も勇敢な兵士だった。
不幸だったのは、
彼らの上に立っていたのが世界で最も無能な将軍だった。
何かの本で読んだアメリカ軍の元兵士の言葉っす。
37 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/07(月) 22:02
「日本軍は現代戦を行う能力がないのか、現代戦を行う資格がないのかのどちらかだ。」
某米軍将校の言葉(というか、誰だったか忘れた)
38 :
>37:2000/08/07(月) 23:11
それはベトナム戦争時の米軍にも当てはまるね
39 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/08(火) 03:50
うん
40 :
名無しさん:2000/08/08(火) 06:18
>35
チャンドラ・ボースは、今でもインドでは人気があるよ。
つまり、偉大なインド独立の指導者の一人であることは間違い無い。
でも彼は「敵の敵は味方」の論理で、イギリスに対抗する勢力とは
何処とでも手を結んじゃう人でもあるわけ。だから、太平洋戦争中は
日本と協力関係にあったけど、彼にしてみれば日本自体に、言われているような
思い込みがあった訳じゃないのよ。
だから終戦と同時に、早々と日本に見切りをつけて、次の協力国に向かう途中、
台北で飛行機事故で死んでしまったわけ。
で、次の協力国は何処かと言えば、「ソ連」でした。
>40
ボースに関する研究は、日本、アメリカでは少しはあるが、インドではどうなの?
新しい研究とかあんの?
42 :
井本熊男:2000/08/08(火) 12:18
この作戦は、15軍司令・牟田口中将自身にも責任はあるでしょうが、
やはり、当時の日本軍の組織、組織を操る軍人にも、大きな責任があるのは確かです。
何せ、牟田口自身が作戦を決めても、上(大本営・南方軍など)に、その意見が
認められないといけません。
この作戦では、真田譲一郎大本営作戦部長らが、猛烈な反対をしていました。
しかし、杉山元参謀総長、寺内寿一南方軍司令などの意見とうにより、決行されたのです。
十五軍では、この作戦にあたり、兵站、工兵などの部隊の大増強を、申し出ていたのですが、
ビルマ方面軍、南方軍、大本営と申し入れが伝わるにつれ、部隊数は削減されていったようです。
で、インパール作戦に突入、大惨事を招く結果となりました。
軍内部にも、先に書いたように反対するものは少なくはなかったのです。
実際、15軍参謀長は、この作戦にあたり猛反対。牟田口によって職を解かれることとなりました。
この参謀長は、陸軍大学校を出ているのはもちろんなのですが、
その中では珍しい部類に入る、兵站出身の軍人だったそうです。
インパール作戦の問題を書いているものでは、NHKドキュメント太平洋戦争が面白かった。
文庫本でも出てますので、探してみてはいかがでしょう?
43 :
文庫本といえば:2000/08/09(水) 19:41
朝日ソノラマだったか光人社だったか忘れたけど、
インパール戦記ものですごい本があったよ。サブタイトルが
「歩けない兵は死すべし」ってやつ。
内容はそのまんまで、落伍者(行方不明者)が出ると
後で書類作成が面倒になるという理由で
歩けなくなった兵士を、ゴロツキ同然の古参兵が
泣いて命乞いするのを無視して、殺しまくったって話だった。
その他にも、上官にいじめられ発狂する兵士とか
日本人の鬼畜ぶりが余すとこなく書き尽くされた一冊かも。
44 :
カマラーデン:2000/08/09(水) 21:26
それ、本当ですか?知らなかった。
良く読んでいなくて申しわけありませんが、まさか同胞に??
45 :
名無しさん@1周年:2000/08/09(水) 22:02
戦後、自衛隊の大物になったためかあまり語られないが、作戦が実施された背景には、藤原岩市がプッシュした点もあったんじゃないか?
46 :
名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 00:39
6万の兵士を餓鬼と疫病の地獄の中で死なせた司令官、牟田口廉也は昭和
36年、天寿を全うして畳の上でご家族に見守られ、安らかにご逝去されました。
最後まで自分の作戦は正しかったとの考えは変わらなかったようです。
ビルマに遺骨収集に言った友人の話では、白骨街道とよばれる撤退ルートでは、
集めても集めても遺骨が多すぎ、手配したトラック満杯で持ちかえれず、多く
を残したまま日本にもどってしまったと悔やんでいました。
一つ一つの遺骨には家族があり、子供がいて、彼らは本当に死ぬとき無念と
後の家族のことが気がかりだったでしょう。
「一将功成りて、万骨枯れる」という諺があります。
牟田口は、かっこよく自分が戦局を好転させるつもりで作戦を始めました。
功が欲しかったのです。無謀と分かっていても上司はまあまあで承認しました。
こんないいかげんな日本軍組織のなかで、多くの兵が死にました。
2度とこんなアホな組織に殺されないようにすましょう。
バカを見るのはいつも庶民出の最下級兵士ですよ。
47 :
名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 01:13
・・ジャワは極楽、ガタルは地獄、生きて帰れぬインパール・・・
>46
学歴板や就職板をみれば、戦後50年以上たっても考え方が変わっていないこと
が実感できます。もしかして牟田口司令官が日本人の本質を出しているだけかも
しれません。
49 :
井本熊男:2000/08/10(木) 18:44
>48
そうかもしれないですね。
まもなく、終戦から55年経ちますが、本質的には、日本人は変わってないかもしれません。
たとえば、経営者にしても、政治家にしても、何か事があったら、責任をとるのは
その下で働くものです。当事者たちは、一時的に責任をとっても、たとえば政治家ならば、
知らぬ顔で選挙に出て、再び国会議員をやってたりします。(誰とは言わないですけど)
インパール作戦でもこのことはいえ、一線で働いた将兵たちは、責任をとらされたり、
ものすごい苦労をしましたが、作戦実行を決めた、牟田口にしろ、ビルマ方面軍の川辺にしろ、
寺内にしろ、責任はとってない。牟田口は、いったんは予備役になったものの、陸軍のなんかの
学校の校長をやってますし、(具体的に覚えてない)あとの二人なんかは、職はそのままだったり
するわけです。
その他いろいろあると思いますが、あまり、変わっていない、そう思います。
もちろん、戦争はたくさんの命を奪い、生活を破壊し・・・こういったことをしないように、
と歴史を学ぶこともいいのですが、戦争を細かく見ていって、組織なり何なりに、生かす、
ということの重要だと思います。
拙い文章ですが、失礼させていただきます。
50 :
43:2000/08/10(木) 18:46
八月二六日、ワヨンゴン、晴れ。私は早起きしてぼんやりと白い雲を
眺めていた。指揮班では数少ない生き残りである新兵の久保一等兵が
声を掛けてきた。
「お早いですね、熱は下がりましたか。」
「相変わらず39度くらいかな。お前は?」
「自分は熱が関節に来たのか、ひざががくがくします。」
「歩けなかったら大変だぞ。」
「死に物狂いで歩きます。自分には妻や子供が待ってますから、
絶対に死ねません。それにアラカンみやげも渡してやらなくちゃあ」
出発時刻となった。久保上等兵は必死に歩き始めたが、200メートルと
歩かないうちに、足がもつれて倒れた。彼は中隊長に哀願し、残留し
後で追及することを許可された。中隊長は二人の兵に付き添いを命じた。
古参兵である赤井上等兵と大学出のインテリ伏木兵長である。
部隊は彼らを残し出発したが、夕方付き添い兵の二人だけが追及して
きて、久保上等兵は潔く自決したと報告された。信じられないことで
あった。
後日マンダレーで真相が判明した。酒に酔った伏木兵長が泣きながら
自決ではなく、赤井上等兵が射殺したと告白した。古参兵だから止め
られなかったともいい、最後の模様を次のように語った。
「おい久保、甘ったれるんじゃねぇ、歩けなければ自決しろ」
「あすの朝になれば、きっと歩けますから、自分を妻子のもとへ帰らせて
下さい」
「未練がましいことをいうな、お前の家には立派に死んだとオレが伝えて
やるから日本軍人らしく早く死ね」
「いやです、内地に帰るんだ、自決は絶対にしません」
「この野郎ふざけやがって、自分でできなきゃオレが撃ち殺してやる」
「撃たないでくれ、一日待ってくれえ」
額を地面にこすりつけ、両手を合わせて哀願したのに……銃声が轟いた。
「お前は先生を殺すのかぁ」
久保は悲痛な叫び声を上げて息絶えたという。久保一等兵は応集兵で
内地で青年学校の教師をしていた。赤井上等兵は18歳で志願するまで、
その教え子であった。
51 :
名無しさん@1周年:2000/08/10(木) 20:21
先生っていうのは「先に生る(産まれる)という意味だから、
先生というのは「先に死んでください」という意味と同義だと言う言葉があったなぁ。
合掌。
52 :
46:2000/08/10(木) 23:52
>49
おっしゃる通りだと思います。
バブルの後始末を下級社員のリストラで逃げ切ろうとする無責任役員なんか
その典型でしょう。 また軍組織は官僚組織とも言えます。またまた官僚組織
が日本を危うくしつつあるような気がしてしょうがありません。
53 :
46:2000/08/11(金) 00:14
ビルマにしてもガタルカナル、ニューギニア作戦にしても
悲惨な戦闘の陰に必ず出てくる男がいる。太平洋の戦闘で無謀
な作戦により死んだ兵士の大半は、この男に殺されたように思う。
その男は辻正信である。 大本営参謀の肩書きをかさにきて、無謀
な作戦をゴリ押しし、何十万の犠牲をしいても平気な顔している。
戦後、参議院議員にもなって、相変わらず威張っていたそうな。
ノモンハン事件を焚き付けた責任者のくせに、現場の指揮官に責任
を押しつけた悪賢さ。何でこんな男がぬくぬく生きていられるのか?
最後はラオスでゲリラかに殺されたようだが、遺骨収集をしながら
俺の手で殺してやりたかったと思った
54 :
名無しさん@1周年:2000/08/11(金) 23:53
>50
うーむ救いが無いなあ。多少の誇張もあるかもしれないが今の日本からじゃ想像も出来ん。
こういう話を聞くたびに現代に生まれてよかったと思うよ、ホント。
最も何時こういう悲劇を見聞きする側から演じる側になるかわからんが。
最近物騒なことを言う奴が増えてるからね。
55 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/12(土) 00:14
>54
神奈川県警暴行事件から始まる一連の不祥事を見てると
旧陸軍とさほど変わらんと思ったりもするが
56 :
名無しさん@1周年:2000/08/12(土) 01:13
>55
全くだ。
しかも戦争と違って何時起こっても不思議じゃないという点が余計厄介だな。
戦争当時とくらべてはまずいだろ。
厄介という点では同意するが。
58 :
名無しさん:2000/08/14(月) 08:30
>46
彼の遺族って軍人OB会からはどう扱われてるんでしょうか?
そのヘタレぶりから、あまりでかい顔出来ないと思いますが。
今だったら墓をぶっ壊されて、骨壷叩き割られても文句が言えないと思う。
59 :
しかし、:2000/08/14(月) 15:00
「軍事研究」でインパール作戦の戦史研究連載してるが牟田口
が悲運の名将扱いになってるぞ。
あと、もう少しでディマプール攻略できたんだが、各師団長の
戦意の無さが足を引っ張ったんだって。
(朝日新聞バカにできねえな、これじゃあ)
60 :
名無しさん@1周年:2000/08/14(月) 16:03
牟田口は
国民や遺族が自らの手で戦犯として裁くべきだったね。
辻や瀬島も含めて。
61 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/14(月) 16:14
>>59 ん?、そんな事はない筈だけど、あの連載。
62 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/15(火) 15:08
母方の叔父はインパールで戦死した。終戦記念日なので、あげ。
牟田口はあの世で部下だった兵士になぶり者になっていると信じたい..
あの連載は長いけど最初からちゃんと読んでる?>59
(しかし、途中で少しの間読まなかったら「仮想戦記」に
変わってて困惑したよ)
64 :
>63:2000/08/15(火) 15:52
そうそう、あの仮想戦記はこの連載には要らなかったなー。
65 :
名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 18:14
日中事変の端緒になった盧溝橋事件の日本側当事者が
駐屯軍司令官「河辺虎四郎」、連隊長が「牟田口廉也」
コンビである。
そしてインパール作戦起案時もビルマ方面軍司令官
「河辺虎四郎」、第14軍司令官「牟田口廉也」。
牟田口はこの戦争の端緒を作ったのは俺なんだから、
始末も俺がつけると言って、インパール作戦をゴリ押しした。
上官の河辺も最初は作戦内容に疑問をもっていたが、長い
付き合いという情により「牟田口があんなに言っているの
だからやらせてやれ」と作戦発動を支援した。
作戦が始まってからも軍司令部を前線に出さず、ビルマの
避暑地「メイミョウ」に置いたまま一歩も出ず。武器、弾薬
食料の不足で作戦が止まっても、毎夜芸者を揚げて、飲めや
歌えの酒池肉林三昧。 雨季が始まって、前線が崩れ始めて
ようやく司令部を前進するも、前線の補給要請は無視、ただ
ひたすら作戦続行を叱咤するのみ。師団長を次々に解任。
片や司令部に立派な「神棚」を作らせ、毎朝キチガイのごとく
神風到来を祈るばかり。 作戦中止を進言するもの無し。
作戦中止が遅れるうちに、悲惨さを増す戦場。野戦病院の
看護婦さえ手榴弾で集団自決せざるを得ない極限。
叔父の回想より
「退却道の象の足跡に出来た水溜りに兵が頭を突っ込んだまま
死んでいた。それが何百と続いていた。
・・・・・白骨街道だよ・・・・・」
66 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/15(火) 21:43
牟田口家の遺族たちって、インパールどう思っているんだろ?
67 :
名無しさん@1周年:2000/08/15(火) 22:27
68 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/16(水) 00:33
ちなみに、東条の家族は戦後かなりひどい目に遭ったらしい
69 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 01:19
東条の家族
YS-11の開発記{NHKでやっていた}で息子でてたよ。
三菱重工の社員で、ゼロ戦を作った5人神様の後釜として、チーフになったそうだ。
70 :
ペンキ早朝:2000/08/16(水) 02:15
東条の家族
息子の一人は三菱石油の重役になってたな。
71 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/16(水) 02:50
なんだ けっこう偉くなっていたのか>東条の家族
けど、たまに顔面にアザを作って帰ってきたりしてた・・というのを
読んだ記憶が・・・
72 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 08:47
責める側に回れば自分が浄化されたように感じる・・・
責任回避とエゴイズムの真骨頂ですな。
スケープゴートってこういうやつ?
73 :
名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 00:34
日本人として、あげ
74 :
特命鬼謀:
>65
あれ?
インパール作戦時のビルマ方面軍司令官は河辺正三中将では?
で、牟田口中将は第15軍司令官ではなかったですか?