1 :
名無しさん:
私の曽祖父は一般人で一番最初にドーリットルのB−25を発見したそうです。
なんでも、私の曽祖父は日本光学(今のニコン)に技術者として勤めていて、その日は
双眼鏡のテストの為に東京湾をそれで眺めていました。そのうち眺めていたら東京湾の向こうから小さな点々が見えてきて
それが段々大きくなってきてこっちに近づいてきて、やがて市街地の方に飛び去っていったそうです。
このようなちょっと違った戦争体験を聞いたことありませんか?
2 :
名無しさん@1周年:2000/07/26(水) 23:08
私のじいさんは元近衛第二師団兵でした。
「陸王」に乗ってブイブイ言わせてたとか言ってたから通信隊ですか?
自分は不真面目だったので前線に送られなかったけど、真面目な人はみんな前線に送られていた。
何で判断するかというと上官の靴磨きが上手いかどうかだそうです。
大陸に渡った時は行軍中に足をもつらせて倒れ、うつぶせになった体の上スレスレを銃弾が飛んでったそうです。
すいません、うちのじいさん、今ボケてるんで嘘も混じってると思います。
3 :
名無しさん:2000/07/26(水) 23:12
近衛師団って帝国陸軍中最弱の誉れ高い?(藁
4 :
名無しさん:2000/07/26(水) 23:18
>3
いちおうエリートの集まりじゃないの?
近衛師団は精鋭部隊だよ。
近衛第二師団というのは、どうか知らないが。
6 :
ベンゼン中尉:2000/07/26(水) 23:48
私の母方の祖父は、中国戦線で大尉でした。なんでも、日本の占領地は点のようなもので、いつも苦戦の連続だったそうです。
終戦の年、祖父は内地に引き上げ、近衛師団に配属になり、九十九里方面から上陸する敵を討つ訓練ばかりしていたそうです。
祖父の部隊は中国戦線ソ連の参戦で敗走し、大隊長殿は切腹して果てたそうです。運がよく戦争を生き抜きました。
7 :
名無しさん:2000/07/27(木) 21:41
私の母方の祖父は・・種子島守備隊の一等兵。
米軍が「九州上陸作戦」を実行してたら一発で死んでたな。
ちなみに鼻先に米軍機の機銃掃射をくらった傷があり、死ぬまで跡が残ってた。
ちょっと平凡でしたね。
8 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/27(木) 23:11
おれのおやじ77歳?は、乗るはずの船が沈んで京都で竹槍で戦車壊す練習してるうちに敗戦。
進駐軍に取り入り英語分からないのに通訳になった。
いまだにそこらへんの世渡りの上手さというか強運だけで生きてます。
孫に買うおみやげはパイナップルとチョコレートです。
おいおい、イマドキ輸入果物や輸入食品はご馳走じゃあないんだよ。。。。。
自然食志向の嫁の顔が引きつってるだろうが。。
9 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/28(金) 00:09
予科練にいたらしいが生きてかえってきたそうだ。
10 :
名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 00:13
近衛兵はエリートだが、近衛師団は東京出身者中心の師団だから陸軍最弱の称号を大阪の師団と争っていた。
11 :
聯:2000/07/28(金) 00:16
10さん>
昔、何かの本で近衛は全国の兵員は全国から選抜で〜
って記述を見ましたが、時代とかで変わっているんですか?
12 :
名無しさん:2000/07/28(金) 00:21
>10・11
なんかの本で、特別優秀でもなく、かといって出来の悪い
兵隊でもない奴が選抜されていた、というのを読んだ記憶
があるね。
本当は、優秀な兵隊を送るよう指示されていたらしいが、
送る立場になってみるとねえ・・・。
13 :
名無しさん:2000/07/28(金) 00:34
でも、近衛師団ってのは天皇を守るための部隊でしょ?普通は優秀と考えていいんじゃないの?
14 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/28(金) 00:53
>13
建前と本音、てやつじゃない?
15 :
違った角度から:2000/07/28(金) 01:45
特高に捕まり投獄2回
結核に罹り出獄、そのまま死亡したしそうな。
総力戦に備え銃後の守りを整えるには、まずは教育から
といってたそうだがアカと思われた。
戦後ばあさんが、どちらかというと社会党に近かった、
と言っていたので、濡れ衣でもなさそうだ。
近衛師団は全国から選抜された兵隊である。
戦時、増員のため近衛第1、近衛第2というふうに師団が増設されたが。
大東亜戦争勃発と同時にマレー半島に先陣上陸したのは、とっておきの
機械化された近衛と広島第5師団だったことを思え。
17 :
名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 11:27
機械化って・・・。
ちょっとばかし車輌が多い(日本軍の中で相対的に)のと自転車持ってただけじゃん(藁
18 :
自営業:2000/07/28(金) 11:41
俺のオヤジが言ってたぞ、出ると負けの近衛連隊って。
オヤジはシンガッポール攻略作戦に自動車部隊の運転兵をやってた。
中西先生の資料によると、皇居警備の近衛連隊は毎日新品の軍服に
袖を通し、一度着用した軍服は一般部隊に下げるとあります。
19 :
名無しさん@:2000/07/28(金) 11:49
見栄えは良さそうだ>近衛
20 :
特命鬼謀:2000/07/28(金) 12:17
もともと近衛師団って、旧士族のための部隊じゃなかったですか?
確か桐野利秋だったかが、百姓兵なんぞ役に立たんとかいって作った
というハナシを聞いた記憶が・・(実際は生活苦にあえぐ旧士族の雇用
確保の意味合いが強かったんだろうけど)
だからこそのエリート部隊だと。
それが時を経て、旧士族なんてものの意味合いがなくなって、弱体化したと。
すんません、資料なしで書いてます。間違っていたら失礼。
21 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/28(金) 12:39
うちのじいちゃん海軍の士官だったんだけどミッドウェーで艦隊が
ぼこぼこにやられちゃって、傾いた艦橋から命からがら脱出したんだって。
(艦長はもちろん残っていたらしいが)
その時に勲章やら軍装品は海に沈んじゃったそうだ。
でも海軍だったもんで戦艦大和や山本五十六さんも見た事あった
と言っていた(マジで)
本人ももう亡くなっちゃったけどね。
22 :
名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 13:07
禁裏を守る近衛兵と近衛師団とは基本的に別物じゃないの?
23 :
名無しさん@1周年:2000/07/28(金) 15:23
皇宮警察ってゆーのも当時からあったんだろ。
そこら辺どうよ?
24 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/28(金) 16:24
祖父は餓島から帰還できました。
25 :
うそつき厨房@無農薬:2000/07/28(金) 18:21
うちの祖父は満鉄で働いていました。オレの母は満州で生まれ、終戦後日本に帰還するときに
近所の中国人から「子供をくれ」と言われたそうな。当時、日本人の子供は賢いと言うことで
中国人が引き留めたそうだ。
結局祖父は家族全員と帰ってきたが、日本軍が敗走してよりによって橋を爆破され、仕方なく
同胞数千人川をおぼれかけながら渡ったそうだがそこで何人も死んだらしい。
平壌を通り、日本に向かう最後の船に何とか乗れたそうだが、向こうで撮った写真は全て没収、
生まれたばかりの弟は船の中で腐ったゆで卵を食べ死んでしまったそうだ。
ロシア人による強姦、殺人は日常茶飯事だったそうだ。
祖父曰く、世界中でロシア人が一番意地汚いそうだ。
たくましさを感じました。
26 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/28(金) 18:38
予科練ってなに?
28 :
名無しさん@一周年:2000/07/28(金) 20:43
私の祖父は海軍陸戦隊だったそうですが
陸戦隊関係が詳しく書いてあるサイトご存知ありませんか??
Ya*ooとg*oで検索してみましたが
サバゲーのチームとか中国の事ばかりでして(><
29 :
キルロイ:2000/07/28(金) 20:45
知り合いのじいさんは、陸軍機甲学校(今の東京農大のあるところにあった)
を出て満州で戦車兵をやっていたそうだ。(チハ車に乗ってたとかいってた)
終戦後、シベリアで5年間抑留されたといってた。
ロシア兵は掛け算ができない(←バカ)というのはホントらしい。
また、作業の行き帰りに野生の大蒜が生えていてそれを食べて飢えをしのい
だそうだ。(この手の話はよく聞きますよね)
また、知り合いのほかのじいさんは徴兵されて化学戦部隊に配属になり
「あか」弾「きい」弾なんかを実際に演習でぶっ放したそうだ。
(おいおい・・・)
防護服はゴム引きで通気性がなく夏は死ぬほど暑かったらしい。
その後、陸軍中野学校にいって憲兵くんになり曹長まで昇進したらしい。
泣く子も黙る憲兵くんは女性にモテて仕方なかったらしい。(藁)
映画館でデートしてたら別に付きあってた女性とかち合って参りました
よあっはっはーなどと自慢していた。
また、那須(だったかな)の御用邸の警備中に人魂が出て腰を抜かした
とかいろいろ面白い話を聞いた。
結局、上官が同郷のよしみでうまく手を回してくれて戦地に行かずに済
んだという事だ。
人生、いろいろですね。
30 :
キルロイ:2000/07/28(金) 20:47
訂正
陸軍中野学校→中野の憲兵を養成する学校(正式名称はわからん)
31 :
安全企画部:2000/07/28(金) 21:07
うちの家は僧侶の家系らしいが祖父が近衛兵だったぞ。
32 :
露助はバカだ!:2000/07/28(金) 22:43
↑先日亡くなったウチの爺さんがよく言っていた言葉
満州で露助にとっ捕まって10日程強制労働させられ、
その時に腕時計を取られたそうな。
奴らは一人で腕に3つも4つも時計をして喜んでいたそうで、
それ以来爺さんは露助は全員「バカ」と思っていたらしい。
8/9は反ソデーです!
…いまはなんていうんだろ?反露デーか??
34 :
2:2000/07/28(金) 22:54
なんだかうちのじいさんが優秀だったのかなんだか分からなくなりました。
まあ、私は私ですが。
戦友会の理事をやったりと戦後は色々活躍してますが、終戦近く(すでに除隊)は、四国上陸に備えて山に逃げるルートを探してばかりいた、
と婆さんが言ってました。
35 :
名無しさん@失業中:2000/07/28(金) 23:01
中野学校って諜報員とか特殊部隊員の学校じゃなかったっけ?
千草俊が中野の国防婦人会(だったかな?)に間借りして。
36 :
後備第101大隊:2000/07/28(金) 23:59
死んだ爺さんは東京一連隊の重機関銃手だったが、所属した中隊が
上海で全滅し、以後帰国するまでに1名の連隊長、4名の中隊長が戦
死しと聞いた。
あと、初徴兵(3回徴兵された)の時の連隊長は東条英機で、後に総
理大臣になったので、連隊長も偉くなったもんだとビックリしたそ
うだ。
37 :
名無しさん:2000/07/29(土) 00:04
私の叔父さん(故人)は、陸軍の予備士官少尉で、南方へ行って戦っていたそうです。
決戦の前に盲腸になり、後方へ送られたそうです。そして叔父の部隊は
全滅したとのこと。実家には戦死の知らせが届いて、復員してきた叔父をみて
家族は驚いたそうです。こういった話はよくあったそうな。
本当に人生色々です。
38 :
自衛隊無用論:2000/07/29(土) 00:09
うちの爺さんは日本最初の戦車を開発したメンバーの一人だったらしい。
走行試験のデータを取るのに国道を使って東京から青森まで行ったそうだが、
当時の国道はとても道幅がせまく馬車がやっと通れるぐらいだった所は並木を
倒しながら無理矢理進んだり、階段が国道の途中にあって無理矢理登ったりし
たんだと。また戦車の設計というのは考えるよりも相当難しく、当時日本には
載せられるエンジンが無く、巨体に小馬力でとても戦争に使える代物ではなか
ったが、一台の単価は飛行機よりも遥かに高かったそうだ。
39 :
名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 00:39
なんだ?親族自慢スレか、ここは。
40 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/29(土) 00:54
いいじゃないか、すでに死んでいるんだから。
41 :
>39:2000/07/29(土) 00:58
戦争体験というスレなのだが、
戦後生まれの俺らは実際に体験しているわけではないでしょ。
(まぁ紛争地域に行って巻き込まれたりしたってんなら別だが)
だから戦争を体験した世代から聞いた事を出しているだけ。
テレビでやっている戦時中のドキュメントより身近な話なだけに
面白いと思うがなぁ。
42 :
キルロイ:2000/07/29(土) 01:01
35>
中野学校じゃなくて、憲兵を養成するところが中野にあったらしいんです。
詳しくは知らないんです。誰か知ってたらフォローきぼーん。
43 :
名無しさん:2000/07/29(土) 14:23
age
44 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/29(土) 14:41
うちのじいさん(存命)は満州に行ってたとき
酒によってふらふらと宿舎に戻る時
八路軍に襲われてピストル一丁で何とか
逃げ帰ったとか言ってた。
45 :
名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 16:10
父が東京矢口に住んでいた頃、矢口の戦車工場にベトナムから壊れた戦車が毎日のように運び込まれてきて、工場内に入りきらない戦車が多摩川の河川敷に並べてあったそうな。
その頃は、第一第二京浜を戦車その他軍用車をつんだトラックを良く見かけたって。
46 :
名無しさん@1周年:2000/07/29(土) 18:37
うちの隣の本屋のおじいさんは特攻隊の生き残りだそうです。
47 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/29(土) 22:53
うちの近所のおじいさんは南方に送られて、インパール作戦にも従軍したそうです。
マラリアにかかって置き去りにされたのが逆によかったそうで、後方の部隊に助けられて九死に一生を得たとか。
暗号通信に従事していたそうなので、飲むと必ず暗号を解かされて閉口しました。
暗号や無線は発信者によって癖があり、また受信する方にも癖があるそうで、送信側受信側の担当者の組み合わせによって暗号文書にも精度の違いが生じたそうです。
48 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/29(土) 23:45
途中から嘘っぽくなってきたな。
46が原因か?
49 :
ER:2000/07/30(日) 02:56
>48
47のことか?どこが嘘っぽい?
当時の暗号では運用如何によって、情報精度に差が出たのは事実だよ。
米軍のケースだが、
・発信側が、冗長化の為の無意味文を添付するとき、不用意にこんな
文脈上本文と繋がりやすい文を使った。
・復号側では、暗号ルールを無視して、つい本文にくっつけてしまった。
おかげで電文を受領したハルゼー(だっけ?)が激怒、攻勢を強めた。
「全世界が知らんと欲す」。有名な実例だ。
50 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/30(日) 04:54
僕の父は、京都深草の野砲だった、大陸各地を転戦したが、
部隊が南方に出ていった時は、負傷で入院中だった、
その後、航空操縦士に転科したが、視力が落ちて、飛行機を降りた。
思えばとても幸運だった、と言っていた。
その時の話
帰投が遅れてみんなが心配していた僚機が、穴だらけになって帰ってきた、
しっかりと脚を出して着陸したが、降りてこない。
負傷しているに違いないと、みんなが駆け寄って風防を開けたが、
搭乗員は、胸に穴があいていて、既に絶命していた、
父は「かなり前に死んでいた、よほど帰ってきたかったのだろう、と言って、
皆泣いた」と言っていた。
2年前に他界した父は、嘘をつく人でなかった。
本当のことだったのだろう。
51 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/31(月) 02:09
テレビでアメリカ兵が撮影した終戦直後の日本の様子を見た事があるが
廃虚の中にも関わらず人々(特に子供がイキイキしていた)の表情がすごく
明るいのが印象的だった。
そして50年経って豊かになった現在の日本だけど、目が死んでいる人がすごく
多いような気がするんだけど・・・活力が無いっていうか・・・。
52 :
名無しさん@1周年:2000/07/31(月) 02:18
>51
特攻隊員の顔なんか悟った感じで凄いよな。
うちの曽祖父の弟は陸軍次官だった。そのときの大臣は杉山元大将。
祖父は軍人じゃなかったが、真珠湾攻撃に補給船の艦長として参戦。
53 :
>51:2000/07/31(月) 17:08
戦争中の話しではないけど、昭和30〜40年代の記録フィルムやVTRを
見てると人々の表情がイキイキしてるんだよね。瞳が輝いている人が多い。
54 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/07/31(月) 17:32
>53
やはり、社会的目標というものが描きやすい時代だったからだろうね。
しかし、混迷の時代であっても、幕末の武士達の顔つきは皆精悍だった・・・。
55 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/01(火) 07:14
祖父は非合法時代からの今日三糖院でした。
出征兵士の壮行会で「こんなばかげた戦争で死んではいけません」と
スピーチしてから村八分になりました。
遺品には独ソ戦関連の新聞記事のスクラップ帳があって、それをみると
スターリングラード戦以降ドイツが劣勢になってゆくのがよく分かります。
56 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/11(金) 03:37
貴重なスレだ。
もうすぐ15日だし、もっと聞かせてくれ。
57 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/11(金) 12:12
俺の祖父は、戦艦「山城」に乗ってたそうだ。
プラモデル組んだ事あるけど、「扶桑」共々格好悪いと思う。(なんて孫だ)
戦争体験って言っても、なにせ乗り組んだ艦が艦だから、しばらく瀬戸内海で冷飯
食ってた立場だったと思う。(想像)
そしてようやく出撃した先で、為す術もなく逝ったみたい。
戦死した身内を悪し様に表現するのも気が引けるけど、客観的に考え「山城」って
ところから、どう弁護してもエリートじゃなかったようだ。
58 :
名無しさん@1周年:2000/08/11(金) 15:42
家の祖父は昭和13年に赤紙が来て、兵役検査で義眼がばれて、落ちた。
そのことが恥じと思ったらしく。
戦争体験は
「いっしょに検査受けた同郷の人たちは潜水艦で船ごと沈んだ。」しか言わず、
どこでやられたのかとか死ぬまで語らなかった。
太平洋戦争に興味を持っていた孫をどう見ていただろう・・・。
59 :
名無しさん:2000/08/11(金) 18:14
うちの親父は近衛師団にいた、赤坂離宮に着任して半年で終戦
官位は少尉(終戦中尉)でした。
当時陸軍士官学校をでたてで回りは古参兵ばかり、で いろいろと
教えてもらえたといっていたが、いったいなにを教わったのだろうか?
また、たばこと酒には不自由しなかったので、古参の伍長あたりに物を頼むときは
金鵄とか光とかのたばこを渡すとよく動いてくれたとも言っていた。
60 :
J姦@陸:2000/08/11(金) 21:11
>57
俺の職場にも爺さんが戦艦山城の乗組員だったひとがいる。
大戦中は乗員じゃなかったらしいが。
同期の爺さんが比島で米軍と闘った時の話。
奴等は野砲を捨てていったが、ソレをみて、あ・日本軍は負ける、と思ったそうだ。
日本軍なら絶対に野砲等遺棄しなかったそうだ。
米軍は野砲如きは遺棄している!と驚いたそうです。
フォローありがとう。誓ってマジレスです。
62 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/12(土) 10:33
>60
正常な判断力をお持ちの方ですね。「見ろ、敵軍は恐れをなして大事な砲すら捨てていったぞ」なんて考えるところですが。
母方の祖父は20歳そこそこで単身朝鮮に渡り、設計技師として橋梁の図面など引いてました。現地で祖母(日本人)と結婚、母3歳の頃敗戦。
幼い母を抱え、伯母を身ごもった祖母をかばいながらの逃避行は想像を絶するものだったようです。汽車が来ないので徒歩中心で数百キロを行き、草ばかり食べて栄養失調になったり、抗日ゲリラに会った時は行き倒れの死体を装ったり。絶望感で何度母を朝鮮家庭に預けようと思ったか、伯母を堕胎しようと思ったか。半年近くかかって舞鶴にたどり着いた時は、大声で泣いたそうです。今でもこの話をするとぼろぼろ泣きます。
あやうく残留二世になるとこでした。祖父母に感謝します。
63 :
名無しさん@1周年:2000/08/12(土) 10:47
終戦直後、祖父が疎開していた祖母を迎えに行った時の話。
あまりにも列車が混んでいたので何かに額をぶつけてしまい、タオルを巻いていた。
そして、祖母が疎開しているド田舎に行くと、その姿を見た村人に驚かれたそうだ。
「東京から血染めの日の丸鉢巻きをした男が来た!」って(笑
64 :
我思ふ:2000/08/12(土) 12:33
昔は人殺しがうじゃうじゃいたんだなあ。
65 :
>64:2000/08/12(土) 13:32
抗日ゲリラのことか?
66 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/14(月) 04:42
伯父が南方にいた頃、祖父(父や伯父にとっては父)の夢を見た。
復員後、従軍中に亡くなった祖父の命日は、その夢を見た頃だったとか。
別の伯父はシベリヤに抑留されて最後の方まで帰れなかった口だが、当時
のことは全く喋らない。
67 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/14(月) 04:52
うちは愛知県の田舎なんだけど名古屋が空襲されたときはそちらの方の空
が真っ赤になり、翌日には灰が降ってきたらしい。
名古屋に来た爆撃機の護衛なのか戦闘機が畑仕事をしている人間を見つけ
ると女子供関係なく機銃掃射するために何人か死んだとか。こんなのどう
見ても戦争犯罪だがつくづく勝てば官軍だな。
戦争末期に軍部が戦意に影響が出るとか言って被害がもみ消されたらしい
三河地震の時には名古屋から疎開にきていた小学生が宿泊していた寺が倒
れて死者が出て可哀想だったと当時同じ小学生で世話をしたりした父が言
っていた。
小学生といえば当時の学校の校庭は畑になっていて学業そっちのけで芋を
作っていたが泥棒されないよう先生や生徒が泊まり込んで監視したそうだ。
68 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/14(月) 05:15
戦争末期、四国の山中に関西・中国地区で爆撃したB29が残った爆弾を棄てていったそうだ。
その中に不発弾が結構あって、その信管を取りはずすのを陸軍がやっていたが、見よう見まねで
やった中学生が失敗して数人が死んでしまったんだと。
あと67のような例はしょっちゅうでグラマンを見たら隠れろ、と学校でも教わっていたそうだ。
69 :
7誌SUN:2000/08/16(水) 00:27
終戦日揚げ
70 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/16(水) 00:50
俺が小学校の時の先生の兄が海軍の飛行機乗りで、
実家に343空の源田実司令が来て
頭を撫でられたの覚えていると言ってた。
先生の兄と司令が一緒に写っている写真も見せてもらった。
おばさんが、グラマンに機銃掃射されたのは、俺も聞いた事がある。
71 :
名無しさん:2000/08/16(水) 04:33
やっぱあれだよね、まじめな話人を殺したりした?とか
聞くとずーん、って重くなるんだよね、口が。
うちの爺ちゃんは中国を転戦して食料調達係だったから
人は殺さなかった・・・・ということで落ちついてるんだけど。
後世に伝えてほしい経験なんだけどな。
って2ちゃんねるでこんなまじめな話いいんだっけ?
72 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/16(水) 06:33
中学時代の同級生の祖父が武蔵の艦長だった。当時その事を聞いたときは
軽く聞き流したけど、最後まで船に残り自決して船と一緒に沈んだ話を
知ってショックだった。
^口(猪じゃない)って名でした。
ちなみにうちの父は予科連に行って、いろいろな検査に合格して腕に
ハンコを押してもらったが最後の聴力テストで「チクッチクッ」ていう
音を発するものを耳に近づけられて聞こえたら手を上げるというテスト
で、耳元ギリギリに近づくまで聞こえないフリをして検査に落ちたそう
です。けど、その後すぐに終戦。同じ町から予科連に言って合格した1人
が土産片手に毛布をしょって帰ってきたのを見てうらやましがったそうです。
73 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/16(水) 08:00
うちの父親は、おかずに、ほんのちょっとでもカボチャが出ると、
「カボチャは、もう一生分食べたのに、まだ食わせる気か!」
とカンカンに怒ります。
こんな戦争体験もありですか?
74 :
名無しさん@1周年:2000/08/16(水) 08:57
>71 いいんでしょ?
口が重くなるのは多分当時と現代の価値観(?)の違いを知ってるから。
平和な生活が長く続けば過去を思い出して罪悪感もつ人もいるだろうし。
何より「日本軍は虐殺者」みたいな戦後の教育・報道見て育った人に話すには相当覚悟いるかも。
聴く方もそれなりの心構えがないと失礼だと思うね。
>73 (勝手に)あり。
亀レスですんません。
このスレッドの存在に全然気付かなかったもので。
さて、東京中野にあった憲兵養成学校は、そのものズバリ「憲兵学校」であります。
他に南京等にも憲兵養成所はあったみたいです。
詳細は光人社刊、山内一生著「憲兵よもやま物語」をご覧下さい。
76 :
キルロイ:2000/08/16(水) 11:02
75>
やはり中野にあったんですね。
フォローありがとうございます。
本は早速買ってみます。
77 :
1:2000/08/16(水) 19:05
為になる話が多いですね。
78 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/16(水) 21:18
厳密には戦争体験ではないかもしれないけど・・・
戦後処理ということで。
うちのオヤジは戦後の機雷掃海任務についてました。
えと、ペルシャ湾ではなくて、昭和20年代から30年代。
かなり危険な任務だったそうです。
掃海作業中に僚艇が触雷して木っ端微塵に吹き飛んだこともあったとか。
救助に向かったけど文字通り木片しかなかったとか。
これ意外の事故を含む殉職隊員の慰霊碑が金毘羅山にあるそうです。
79 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/18(金) 02:31
それは悲しい
80 :
日本一のぬいぐるみ師:2000/08/18(金) 11:48
祖父(故人)は徴兵を受けて海軍に入れられて、南方の島へ送られたと。近く
の島に米軍が上陸とのことで、死を覚悟したそうだけど、いつまでたってもや
ってこないうちに結局終戦を迎えて復員。
後に米軍は飛び石作戦で祖父のいた島を無視して行ったとわかる(藁
一体どの島を守っていたのか興味を持ったが、小学生の時に亡くなったので
結局分からずじまい。ちなみに海軍では泳げない奴を艦から海につき落として、
泳がせたそうで、祖父はそうやって泳ぎを覚えたとか。人間死に物狂いにやれ
ば何でも出来るって?
81 :
δ:2000/08/18(金) 20:25
WW2中、アメリカ人tって半数以上ヒロポンやってたんでしょ。
それでもって日本に空襲してきたアメリカ人の大多数が黒人だったとか。
民間人で遊ぶわ、赤十字は攻撃するわ世界の警察って言ってる割にはちょっと
道徳無いよね。それ以上に日本軍人の神経の方が分らないけど。
でも結局全部受け売り。教科書とかおじいtゃんとか。
嗚呼!当時にタイムスリップで来たらななんてあは
82 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/08/18(金) 20:38
>81
どこから持ってきた情報だ?
ネタか?
83 :
名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 20:44
>78
海自は実戦しているんだよね。
84 :
たもん君:2000/08/18(金) 21:18
ageナリ
85 :
名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 23:34
俺の祖父は戦艦陸奥の乗ってたらしい。
沈没事故の前に転属になったとのこと。
「運がよかったね。」
と当時10歳の俺がいったら
「・・・知り合いがたくさん乗っていたんだ。」
いつも陽気なじいさんが真顔でそう言った。
子供心に自分の配慮の無い発言が恥ずかしかった。
86 :
名無しさん@1周年:2000/08/18(金) 23:36
千葉で農家やってた爺さんに聞いたんだけど、高射砲で撃たれて
不時着したB29にえらく美人な女が乗ってたそうです。
通信兵だったらしいけど、一目見て惚れたそうな。
その後連行されてどうしたことやら。
87 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/19(土) 00:15
うちの親父、現在66歳
当時は国民学校に通っていた軍国少年
オニギリを新聞紙でくるんでいったのだが、
御真影が載っていたため、おもいっきりシバかれる。
郡山へ爆撃に行った帰りのB-29編隊を警戒警報最中にも係わらず
追っかけていき、おもいっきりシバかれる。
同じく寝坊して汽車に乗り遅れるが、空襲警報で停止したSLに
飛び乗り、おもいっきりにシバかれる。
これも貴重な戦争体験でしょう(か)
あまりにも、爺さん親父の誇張した昔話を
さらに自分で妄想して膨らますヤツが多すぎ
軍ヲタの祖先なんて二等兵で流れ弾に当たり戦死がいいとこ
■■■■■■■■■■■■■■ よって終戦 ■■■■■■■■■■■■■■
89 :
自営業:2000/08/19(土) 01:11
俺のオヤジ、B級戦犯。
終戦はシンガッポールで憲兵中尉。
米軍パイロットの首はねの、立会人であったのが罪状。
巣鴨プリズンに2年間服役。同房者はA級戦犯の大臣だったと
ガキの頃に聞いた覚えがある。
90 :
アルザス:2000/08/19(土) 01:28
私の祖父(本当は父方の祖父の二番目の弟)は、やたら身長が高い割には
体重が無く(体脂肪率10%)、戦争中は会計課みたいな仕事をしていたが、
戦争末期になるとそんな祖父でも戦地へ送られ、結果。地獄の様な南洋の闘い
を経験したらしい。「計算」と「速記」の能力しか無いと思われた祖父は自分の
意外な能力に驚く「夜間視力」と「射撃」だ、祖父と帰って来た友人に聞くと
夜間での奇襲で驚くほど命中率で米軍兵士を撃ち殺したらしい。
「私はもう戦争は嫌だ、だが、国民として戦争をする側になったら女や子の為に
殺人をしなければならない」という祖父の言葉が耳に残った
91 :
名無し:2000/08/19(土) 01:33
86>
そりゃ、「戦空の魂」に同じ話があったぞ
ネタだろ!
92 :
>91:2000/08/19(土) 01:42
このスレは全部ネタと妄想なんだよ
「ウチの先祖は武家・公家衆でした」って言うのと同じ
■■■■■■■■■■■■■■ よって敗戦 ■■■■■■■■■■■■■■
93 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/19(土) 01:45
私の叔父さんは 特攻の生き残り。
昭和20年8月18日に飛行機に乗って逝く予定でしたが
玉音放送で生き残りました。
ちなみに 叔父さん曰く「志願と言っても”いやだ!”と言えなかったし、
飛行機で離陸するのすら危うい技術だった」と言っていた。
94 :
暗黒大魔王:2000/08/19(土) 02:05
俺の母方のおじはミッドウェー海戦にパイロットとして従軍戦死しました。
(何に乗っていたのかは不明)
ミッドウェー海戦からしばらくして、地元の新聞で大々的に報道され軍神の家族
として子供だった母の写真までのりました。
なんでも、勇猛果敢に敵空母に特攻したため新聞でとりあげたみたい。
その新聞は今でも実家にあります。
>88,92
いったい何が都合悪いんですか。
96 :
即応予備:2000/08/19(土) 02:13
>94
空母レキシントンに体当たりした、友永丈市大尉機の方では?
97 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/19(土) 02:46
ジイサン=満蒙をひたすら行軍。ソ連対日宣戦後、満州で捕虜。
ロシア兵は日朝中かまわず強姦しまくり、胸がむかついた。
教育の有る若い奴を除けば、ソ連兵は全員カス。
ナンパしたロシア娘から、こっそりパンや菓子を貰ったりした。
抑留の一年目と二年目は、餓死者と凍死者が大量に出た・・・・。
その弟 =スマトラに送られたが、昭和19年マラリアにかかり、潜水艦にびびりながら内地送還
=マラリアさえなければ、ここで百姓やっても良いかな、と思った。
=なかよくなった現地人の娘さんがいたが、送還される事を伝えて無かった。今でも元気だろうか・・・。
その従兄弟=海軍に入り、海に慣れる。
=海防艦や迫地で精勤。
=操船技術を学んだため、戦後船乗りに。
98 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/19(土) 02:53
俺のジイサン。
一式ライタ−の搭整員。
グラマンによく襲われたとの事。
99 :
真・ソニック:2000/08/19(土) 03:06
・父方の祖父
衛兵として上海から南京まで従軍。
怪我人を担架で運ぶ毎日だったらしい。
食料が乏しくなったら、中国人の家から鶏かっぱらって凌いだそうな。
「南京虐殺はあったのか」と中3の頃に聞いたら、
「う〜ん・・・全体的なことは知らんわ。」と一言だった。
(一昨日お盆で会ったけど、かなりボケが進んでて、俺のことが解からなかった。
大丈夫だろうか。かなり心配。)
・母方の祖父
田舎じゃ有名な秀才だったらしく、めでたく(?)近衛兵になった。
だが、何故か台湾で右足を負傷し、内地に帰還。
ピストルで撃たれたらしいが、誰に、何が原因でそうなったか黙して語らず。
家族の誰一人として明かさないまま、7年前にポックリ逝っちゃった。
凄く厳格な人で、遊びに行った時チャンバラしてた僕に向かって
「うるさい!!帰れ!!」と一括。
泣いて帰りました。
ゴメン。
戦争体験というより単なる思い出話ですね。
100 :
テリ緒:2000/08/19(土) 03:06
うちのジイサン
徴兵されるも、親父(俺の曽祖父)が居なくて兄弟も多い長男だったの
で2週間で帰らされる。
というか、うちの親族でまともに軍務についたのは俺がはじめて。
101 :
まつなが一等兵:2000/08/19(土) 03:16
父方の爺ちゃんは226事件の時に出動したらしい。
でも東京へ向かって歩いてく途中に事件は集結してしまったとか。
それ以外の戦闘には参加せずに任期を終えて100歳近くまで生きました。
102 :
粕谷真人:2000/08/19(土) 03:42
私の父の曾おじいちゃんは、203高地で、味方の死体の下に
隠れて生き残ったそうだ。
私の父は、土手を歩いているとき、グラマンに機銃掃射された。
その時、土手を川の方にころがって逃げた。
グラマンは、黒くずんぐりととしたくまばちみたいな機体だった。
今でも、グラマンの糞野郎と行っている。
103 :
伍長止まり:2000/08/19(土) 04:08
実家のジイは75歳で存命中。19年に召集されて船舶工兵になった。
20年になってからの主な任務は小型船舶の擬装(儀装じゃない)。
週に1度山へ木や葉っぱを採りに行って、それで上空からの目を隠してたそうな。
ある日、いつものように艦載機の襲撃があっが、銃撃には降りてこずに紙切れ
だけ捲いて帰ったらしい。その紙切れには「擬装作業ご苦労様」と書いてあった
とさ!「んなもん、あほらしてやってられへんだわ!」とはジジイの言葉。
104 :
名無しさん@1周年:2000/08/19(土) 04:08
父方の祖父は戦前から旧国鉄に勤めており、徴兵された時も
『鉄道連隊』(部隊番号忘れました)に入れられ、中国南部を主として
歩き回らされたそうです。大陸打通作戦には必要な部隊だったと聞かされました。
(一種の工兵だったのでしょう)
105 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/19(土) 04:59
軍人じゃないけど・・・
うちの母方の家は 神主一家。
母の叔父が 「満州神宮(神社かも)」の神主として満州に派遣されてました。
ソ連参戦後、「神主」という 神國の神官の特権(?)で
家族揃って非常に優遇された状態で帰国しました。
こう言うのもあり?
106 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/19(土) 05:04
うちの親父は幼少の時、P38に追いかけられたそーです。
107 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/19(土) 05:05
家族じゃないんですけどね。
13年前に一人旅の途中に席が隣になった滋賀県で乗り合わせたおじいさんなんだけど。
足が悪い人だった。
いろいろ話しかけてくるので 話してみると
支那戦線で 足を撃たれ人だった。
いろいろ話をしてくれるのでずーっと聞いていると
陸軍兵士の苦労話をいっぱいしてくれました。
従軍慰安婦の話とかいろいろ。
なんでも 遠い昔に銀行に預けたお金をおろしに行く途中だったらしいけど
お金おろせたのかな?
それより 今でも元気かな?
108 :
>82:2000/08/19(土) 14:33
じいさんと教科書からの受け売りって言ってるだろ(ワラ
109 :
名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 13:17
私の父は、シベリア抑留9年。露助はバカで、数も、満足にかぞえられない。しかし体格のわりには、粗食だったそうです。医療技術は、最低で傷口お縫う事ができなくて外科手術は、帝国陸軍軍医しかできなかった。時計は、盗られたけど、使い方ぜんまいお巻くことも分刈らないし両腕に肘までつけていたそうです。私の生まれは、北海道o市なので、子供の頃樺太や、大陸から引き揚げた人の、アパートが、有りました。父の、戦友や、同年配の人は露助じやなくてアメリカが、進駐して良かった。露助だけは、もう一度戦争して、ヤキおいれたいと、言ってました。
110 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/21(月) 14:50
age
111 :
逝った祖母より:2000/08/21(月) 15:05
子供の頃、毎日聞かされたしりとりを紹介しましょう。
しりとり−リンゴ−ゴリラ−ランプ−プリント−時計−イカ−亀−メジロ−
「ロシヤ」−「野蛮国(ヤバンコク)」−「クロパトキン」/終了
日露戦争時は小学生だった祖母が言ってました。「」内は、今から思い出しても強烈ですね。
国を挙げて国民の敵愾心を煽っていた、良い証左でしょう。
※クロパトキンって、かなりディープだなぁと思う。
112 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/21(月) 15:42
大学のロシア語教師のじいさんは、シベリアに抑留されたらしい
でもロシア語が出来たので楽できたんだって。
そしてロシア語教師いわく
「ロシア語が出来ると、ロシア軍に捕まったとき得するよ
だからもっと勉強しろ 」
113 :
↑:2000/08/21(月) 15:48
すいません、ここ笑うとこですか?
114 :
>113:2000/08/21(月) 16:14
あなたのレスに藁ってしまいました(笑
#すいません。ここは謝っておくべきでしょうか?
>114
いへいへ。
ぢつわ抑留先でロシア人の教師の台詞と勘違いして。(^^;
# あねくどーと
116 :
ミラギ:2000/08/22(火) 13:51
死んだ私のじいさんは医者だったのですが、徴兵はされたものの、外地には一回も行かなかったそうです。
なんでも4回くらい外地への転属命令が来たんですが、途中でストップされたとか。
陸軍中尉でしたが、石井中将とは大学の同期か少し学年が違うくらいみたいです。
徴兵されていた間何をやっていたのかは教えてもらえませんでした。
内地なんで細菌戦部隊ではないと思うんですけど。
117 :
名無しさん:2000/08/22(火) 14:19
うちの死んだ祖父は、徴兵されたのち上官と衝突して半殺し
の目にあったそうな。その後遺症で除隊。任地は満州だったから、
そのままだと戦死してたかも。あと、原爆投下の数時間?前に
広島を通過したこともあるそうな。まあ、この世代の人たちは
必ず一回や二回死の危機に瀕してるだろうけど。
118 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/22(火) 16:14
おれが昔勤めていた会社にいた人。
瀬戸内海のどっかの高射砲部隊にいて、B−29を撃墜したら、
翌日休暇をくれたそうな。
119 :
名無しさん@1周年:2000/08/22(火) 16:55
ウチの祖父は「キスカ島からの無血撤退」を経験してます。
撤退が決定してから野砲を分解し、港まで運んだが、救出艦隊が
予定通り来ず、また陣地まで野砲を運んで組み立てて…
ということを何度も繰り返したそうです。
120 :
軍服隊長:2000/08/22(火) 17:06
私のおじいさんは戦争が終わり頃に近くなってから徴兵され
爆薬作りに携わっていたそうです。何でもオウショク薬という火薬は
砂糖の代わりになるそうで、それで汁子とか作って食べてたそうです(笑)。
121 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/22(火) 19:01
ウチのじいちゃんの戦歴
ノモンハンで敗走、満期除隊後に再召集でどこに送られるかと
思ったらインパール、また敗走・・・
最後はフィリピンで投降。アメちゃんの食事が口に合ったらしく
従軍前よりも太って復員。我がじいちゃんながら物凄い強運です。
122 :
名無しの@平:2000/08/22(火) 19:45
私のおじいさんは松下電器にいて電気関係に詳しくその後軍人になり
工兵隊で障害物除去のため電気発火式の爆破をやっていたそうです。
満州に配属されソ連に攻め込む(関特演)に参加予定でしたが作戦中
止、その後本土決戦に備え本土にきたところ終戦。結局最前線にいて
実戦参加なしだった。
123 :
ノモンハン:2000/08/22(火) 20:48
>クロパトキンって、かなりディープだなぁと思う。
クロパトキンってどっちのクロパトキンなんでしょうね?
日露戦争当時の将軍の方でしょうか?
それとも夢精府主義者の方?
124 :
うろぼろす:2000/08/22(火) 20:54
自分のおじさんが終戦後の沖縄で、米軍の情報機関(CICとかいったかな?)で
通訳のバイトをしていた。なんでも、尋問では何回も同じ質問を繰り返して、相手
の反応をうかがうそうだ。
その後、おじさんはホテル業(ラブホじゃないよ)をしていたが、その時のくせ
で、従業員にも同じ質問を繰り返していたそうだ。
125 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/22(火) 21:26
父方のじいさんは専売公社勤めだったから徴兵されなかった。
母方のじいさんは帝国陸軍軍曹。満州→沖縄だったけど、沖縄に到着する直前に終戦。
両方の遺伝子が俺の中にいると思うと不思議な気もする。
126 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/22(火) 21:57
うちのじじ
父方:農家(青森県弘前)のボンボンだったが徴兵されて兵卒満州へ
その後シベリア送り。無事生還した。
母方:陸軍士官学校卒、その後中国にいたらしが何をしていたか
語ろうとしない。その後日本にきて大本営にいたらしい
そこで終戦。親戚によると、月に一度軍服を虫干している
らしい。机には止まった恩賜の時計がある。
士官学校時代の話はするが、大陸では謎。きっと孫に
は言えないことをしていたのか?
なお南京大虐殺は無かったと見解している。
127 :
名無しさん@お腹いっぱい:2000/08/22(火) 23:20
親父。旧満州からの引き揚げ者。
ソ連兵が腕時計を幾つも腕に巻いていたという話が上の方にあるが、それは本当。
理由は、当時の腕時計は手巻き式で、農奴出身の兵隊どもは、一度腕時計が止まって
しまうと「壊れた」と勘違いして、バンバン捨ててたそうな。それで幾つも日本人から
腕時計を奪って、腕に巻いていたらしい。 ちなみに、ソ連兵が捨てた腕時計は、ちゃっかり
満人が拾って使っていたそうな。
ソ連兵はキャラメルの食べ方を知らなかったとも言っている。キャラメルを渡すと、きゃつらは
包装紙を取らないまま口に入れようとしてたらしい。親父たちガキどもは、身振り手振りで
キャラメルの食べ方を教えてやったそうだ。
市中で略奪をしていたソ連兵を、同じくソ連の将校が射殺するシーンも見たらしい。軍規違反って
ことだったんだろうな。
ソ連兵による略奪、強姦は日常茶飯事だったらしいが、それでも満人たちによるそれに比べたら、
遙かにマシだったらしい。ソ連兵が親父のいた街に進駐してきてから、かなり治安がよくなった
そうだ。
あと、うちの伯父貴(親父の兄)は米軍の爆撃機が来たというので急いで下校中、今渡ったばかりの
陸橋に爆弾が直撃し、危ういところで死を免れたと言っていた。
親父は「進駐してきたソ連のスターリン戦車のかっこよさに驚いた。日本の戦車は砲身が短くて
かっこ悪かった」と言っている。スターリン戦車という固有名詞をきちっと使っている。ということは、
当時の満州ですでにあの戦車のことを一般人もスターリン戦車と呼んでいたのだろうな。
128 :
精兵:2000/08/23(水) 03:37
うちの沖縄の死んだじいちゃん、宮古島にいたから結局何もしなかったらしい。
彼こそ精兵だ。
129 :
111:2000/08/23(水) 12:52
>123
もちろん、日露戦争時の敵将ですよ。
で、今度は昭和の話を。
祖母の従妹は、防空壕で泣き叫ぶ乳児をあやしている最中、周囲から「敵に聞かれるから」と
言われ外に出されたそうです。もっともB29は既に彼方へと飛び去った後で無事でした。
「赤ん坊の泣き声がB29に聞こえる訳ねぇーだろッ!」
と、ツッコミできる雰囲気ではありませんからね〜。
130 :
名無し:2000/08/23(水) 13:38
129>
似たような話で、
海軍のエースパイロット進藤三郎氏も防空演習中にタバコを
吸いながら歩いていて警防団員に「タバコの火が敵機に見つ
かったらどうする」と絡まれたはなしを読んだことがある。
「私は夜間もだいぶ飛んでますがタバコの火を見つけたことは
一度もありませんねえ」とやりかえしたそうな。
こういう中途半端な(それもまちがった)知識を振り回す輩は
始末におえない。
131 :
名無しさん@5周年:2000/08/23(水) 14:17
(戰爭末期)
家の母方の祖父は、等學校卒業後、新潟の通信學校にいって、參年
間通信の勉強を主にやった。その學校で特に、優秀だった生徒たちは、
壹年半だけ勉強して、南方に征った。そして南方行きの船はあっけなく
總べて撃沈された。勿論のこと、私の祖父はそれには乘っていなかった。
祖父は卒業後、中國方面に行った。祖父は、前線では戰わなかったの
で、死ぬことも無く戦争は終わった。そして、日本からの船を待って歸
ったとさ。
優秀だったら死んでいたよ。
132 :
クズzzz:2000/08/23(水) 14:30
実際、戦争に勝つんだったら御国の為に命捨てても良いけどさ。
負ける戦争に命掛けるのはいやだね。
日本は敗戦して、否定され、改善?されたから戦争に行かなくて良かった、劣勢で助かった。
なんて云う話を良く聞くけど、もしも勝っててそのままの日本だったら、彼ら一生笑い者にされてたんだろうね。
133 :
名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 15:17
余裕で勝った戦争のために命捨てるのも何かいや。
戦争自体に勝つかどうか負けるかより、命懸けの行為によって他人の命を救ったとかの
成果があるかどうかの方が重要だね。少なくとも私にとっては。
134 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/23(水) 20:20
戦争体験とは違うかもしれないけど、うちの親父は自衛隊にいた頃、
輸送船で移動中にソ連の潜水艦にばったり出くわしたことがあり、
マジでびびったという話を聞かせてくれた。
135 :
134:2000/08/23(水) 20:47
母方の祖母は従軍看護婦として病院船に乗っていたところ、
グラマンに機銃掃射を受けたそうです。祖母は船に積んであった機関銃で
反撃したそうな。(もちろん当たらなかったけどね)
136 :
日本一のぬいぐるみ師:2000/08/24(木) 11:55
もう一人の祖父(←こっちはまだ生存)の話。
そ〜いや、招集されたけど呉にいて結局戦場に行ったことない....で普通だった
らおしまいなんだけど、終戦間近のある日の朝、広島の方向で轟音とともにもの
すごい雲が湧き上がったそうな。よ〜するに原爆のキノコ雲を見たって事らしい
けど、その当時は何が何やら分からず大騒ぎだったとか。
ちなみにその祖父は2・26事件の時に東京にいたらしく、帰る道が軍隊だらけ
で各所が封鎖されており、裏道を通って帰った事があったらしい。どっちにしろ
軍隊が暴走した国家って恐いよね。
137 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう:2000/08/24(木) 13:29
ロシア語教師の話の続きですが
シベリアで、作業場へ移動中にトラックがぬかるみにはまったとき
ロシア兵数人が押してもぬかるみから出られなかった。
そのとき50歳を過ぎていた、ロシア語教師の祖父が、木切れをテコにして
トラックをぬかるみから出す事に成功した。
そのときロシア兵は渋い顔をして ロシア語で
「ずる賢い」 といったそうです。
ロシア兵がただバカなだけだと思うけど
138 :
↑:2000/08/24(木) 13:43
すいません、ここも笑うとこですか?(ぉぃ)
139 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/08/25(金) 23:18
母方のじーさんは開戦時、榛名に乗っててすんでの所でプリンス・オブ・ウェールズ
と戦うところだった。
陸攻隊に沈められたと聞いて、みんなホッとしていたか、残念がっていたか、と聞いたら
「残念がっていた」
と言ってた。
でももし戦っていたら多分俺は生まれていなかった(ワラ
140 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/08/26(土) 00:58
母方のジィさんは大陸で警察官(署長)をしていたそうだが、
ラスト エンペラーの個人警護もやっていたと今でも自慢している。
戦後、自分の命令で沢山の方の命を奪った事を後悔して
庭に小さい慰霊塔を作って 毎日拝んでいる。
141 :
名無しさん :2000/08/26(土) 22:16
戦争体験じゃないが、うちの母が勤めてた頃、職場の先輩に「北」の人がいた。
その後、在日朝鮮人を帰国させる運動があって、その人も「北」へ行く事になった。
母曰く「物凄く嫌がって泣いてた」そうだ。
その人は、今生きていれば60歳。「テポドン」だの「金正日」だの
の話題が出る度、その人の事を思い出すそうだ。
142 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/08/29(火) 17:52
age
143 :
名無し :2000/08/30(水) 09:12
親父の姉は勤労動員で航空機工場で働いていたところ被爆した。
建物の下敷きになりもうだめかと思ったら友人に助けてもらい
足が折れていたので荷車で家まで運んでもらった。
2日間熱を出して寝込み、気が付くと部屋の窓から
「これが戦争だ!」というスローガンの書かれた看板が見えて
呆然とした・・・という。
ネタじゃないよ。
144 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/01(金) 03:07
貴重なスレなのでage
145 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/03(日) 13:47
うちの祖父は旭川の第7師団所属で、
日露戦争の時、203高地に登ったと言っていた。
でも、いくら聞いても当時の戦闘の事とか絶対に話してくれなかった。
明治の人は頑固だから、話さないと決めたら絶対に話さないんだよなぁ。
オマエのジジィは
徴兵されたくないから北海道あたりに籍移したんだろ
んで、もちろん作り話ね
話さないんじゃなくて話せないだけ
147 :
名無しさん :2000/09/03(日) 15:52
今は亡きうちのひいじいさんは戦記にも載ってたよ
蔵の中には野戦教本やら式刀があった
あんまり話もしてくれなかったな
148 :
雲J :2000/09/03(日) 17:08
オレのひいひい爺さんは第1次長州戦争に参加したよ。
本家に行くと、その爺さんが足軽フル装備で写ってる写真がある。
149 :
>146 :2000/09/03(日) 17:14
おまえばかじゃねーの、北海道も日本なんだよ、
徴兵はちゃんとあるんだよ、少しは歴史勉強しな。
昭和の末期、高校の物理の先生が「戦艦比叡(か何か)に乗り組んでいた」と
授業中に我々生徒に語って、教室中が大爆笑になった(「昭和軽薄時代」だった
ので古い話・重い話は当時嫌われた)
オタな俺は戦艦に乗る兵隊は優秀ということを知っていたということと、貴重な
戦争体験談が聞けなくなったのでマジで腹が立った(大爆笑のせいで続きが聞け
なかった) まったく80年代・昭和軽薄時代つーのは今思い出してもムカツクな
151 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/05(火) 09:09
父方の祖父(既没)は海軍兵学校の数学教諭でした。
当時のアルバムには、水兵時代の甲板清掃や、演習の風景が。
短刀も残ってます。
152 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/05(火) 11:15
>146
最低・・
153 :
名無しさん :2000/09/05(火) 11:31
>150
本当に比叡なら、戦艦(巡洋戦艦だけど)の中でも一番戦歴の多い
やつですな。貴重な話が聞けたかも。
154 :
タンテ :2000/09/05(火) 11:39
もうだいぶ前の事だけど、
友人の親父が満鉄の調査部に居たと語っていたので、勤務地を聞いた。
友人「たしか大連とかいってたな」
俺 「それって特務機関じゃないのか?」
友人「え?」
俺 「こんど帰ったときに聞いてみ」
友人が尋ねたところ、親父さんは驚いた顔をして手を震わせていたそうだ。
親父「どっ、どこでそれを聞いた」
友人「今は一般の資料に乗っているから心配しなくて良いらしいよ。
知り合いがそう言ってた」
親父「そうか…もう…(聞こえなかったらしい)」
そう言って茶を飲みながら、外を見続けていたそうだ。
心の奥に秘めて語れぬまま、人生を終えた人も多そう。
155 :
名無し三等兵 :2000/10/02(月) 13:55
父方のお爺さんは南方で撃墜死した。
陸大卒の大佐でしたので、1階級昇進で少将です。
陸軍省勤務で最前線にいかなくてもいいものを視察で出てやられてしまったそうです。
我が家は元来士族で維新以後も職業軍人の家系でした、祖父はその中でも出世頭でした。
今は普通のサラリーマン家庭ですがどことなく軍人ちっくな行動パターンがあります。
父は釜山生まれの満州育ちでした、これも転勤のせいですね。
別冊歴史読本の陸軍将官名一覧に祖父の名を見つけた時は、あって当然なんですけど歴史を感じて感動しました。
でも歴史に翻弄された戦後だったらしいので、誰も自衛官にはなりません。
156 :
名無し三等兵 :2000/10/02(月) 15:49
うちの爺さんは「姿勢がいい」という理由で連隊旗を持つ役目を仰せつかっていたそうな。
日中戦争が始まる前に除隊。
未だに背筋がピンと張っててかっこのいい爺さんです。
157 :
名無し@三等兵 :2000/10/02(月) 18:45
うちの祖父は理科大卒なのに第101師団の補充兵で
南京攻略直後の南京に赴任してました。
その話を聞いて祖父に南京大虐殺はあったのかと聞くと
「戦争に負けたからには何を言われても仕方ない。」
と呟いて何も答えてくれませんでした。
祖父の古いアルバムには、南京攻略1ヵ月後の大学の
恩師との南京城門での集合写真がありました。
158 :
名無し三等兵 :2000/10/02(月) 18:56
うちの祖母は東京のある工場で働いていたのだが
別の部署に山本五十六の娘さんがいたんだと。もちろん見たこともあるって。
職員はみんな彼女に気を使っていたという。
159 :
名無しさん@1周年 :2000/10/02(月) 20:36
爺さんは満州のハルビンで衛生兵をやってた。
丙種合格の補欠の補欠。
抑留経験者だが、抑留経験は涙無しでは語れないそうだ。
160 :
名無し二等兵 :2000/10/02(月) 21:36
うちの死んだ婆さん、満州の開拓団で看護婦やってたそうだが逃げそこね、
看護婦ということで国府軍に引っ張られるところを知り合いの士官に助けてもらって
最後の引揚船で逃げてきたと言っていた。
実際、婆さんと同じ開拓団の人が何人も残留してる。
161 :
名無し三等兵 :2000/10/03(火) 00:40
うちの爺さんは戦前、満鉄の奉天獣疫研究所にいたそうで、
ドイツ留学もしていたのだが、鼻疽菌の研究をしていたせいで
731の石井と北野が直々に勧誘に来たらしい。結局断ったのだが、
そのせいで爺さんは終戦間際に45過ぎで徴兵されたとか
ちなみに爺さんは全くその事に付いては語りたがらなかったので
すべて同僚からの伝聞だそうだ。
162 :
名無し三等兵 :2000/10/03(火) 02:50
母方の祖父は戦前から警官で戦争中は憲兵だった。
英語が出来たので捕虜の尋問をやってたそうだ。
戦後再び警察官になり、最後は通院中の警察病院の玄関で脳溢血のため
たおれ亡くなった。
163 :
名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 03:02
オレのじーさん第九師団なんで戦闘体験が全くない。
ちょっとつまらない。
164 :
名無し三等兵 :2000/10/03(火) 03:14
一人は郵船の船員でマニラに陸軍増援中にボカチン食らって戦死した。
ヒ71だったかなんだか、一緒に護衛空母大鷹も食われた船団だったかな。
後は海軍予備少尉で三沢基地勤務。七月の敵機動部隊空襲で負傷したくらい。
165 :
名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 03:20
親父は陸軍少飛出身(ただし、通信兵)
朝鮮半島の小さな飛行場におったらしい。
戦闘もなにもありゃせん。
存命。
166 :
164 :2000/10/03(火) 03:36
ちなみに昭和19年に入ると敵潜水艦の通商破壊が激化して郵船の船も
軒並み撃沈。
じいさんは横浜港から船団集結地に出港する前に
「もう戻れんだろうから後はよろしく頼む」とか言ってたそうだ。
167 :
名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 04:28
>166
おおっ!俺の叔父さん輸送船、撃沈されても二回泳いで帰ってきたよ。
根性ある人だったらしいが、三度目は帰ってこなかった。
168 :
名無し三等兵 :2000/10/03(火) 10:03
私の叔父はシベリヤ抑留体験者です。健在ですが当時のことは
話したがりません。よほど過酷だったのでしょう。
169 :
名無し@讀賣 :2000/10/03(火) 10:45
近所の88歳の医者は元軍医です。
今でも現役で、注射を打つ手が震えてる
特に野郎には客ではなく、下士官に接する態度で診察してくれます
外科医でもあるので入院したい人どうぞ
170 :
名無し三等兵 :2000/10/03(火) 13:20
しかし徴兵制の恐ろしさだね。
ここに職業軍人はわずかしかでてこないのだから。
171 :
大渦よりの来訪者 :2000/10/03(火) 13:52
うちの父方のじいさんは海軍の軍医でした。
乗った艦が瀬戸内海で漁船の衝角攻撃(笑)をうけ沈んじゃった事があったそうなのですが、
艦長が人生諦めきった海軍士官だったので座礁させていきなり総員退艦を発令、
一隻船が沈んだにもかかわらず、軽傷者しかいなかったそうです。
そのまま、隊列を組んで濡れ鼠で嵐の中何処とかまで行進していったと言ってました。
・・・・・・それにしてもなんて名前の艦なんだろう。
172 :
名無しさん :2000/10/03(火) 17:50
昔聞いた話なのでうろ覚えですが
親類の方が戦争中飛行機の搭乗員をやっていたらしくて
沖縄方面に出撃して磁気探知装置を用いて潜水艦を探知し、
爆雷を投下して見事撃沈したそうです。
しかし成功したのはこれが最初で最後だったらしいです。
記憶が曖昧なので間違っていたらすいません。
173 :
名無しの役者 :2000/10/03(火) 20:08
母方の祖父・・・
昭和20年海軍に徴兵。呉の陸戦隊に配属。
戦中は呉にずっといた為、広島に原爆落ちたとき救助活動のため
数日滞在したとか…
戦前、中島町の歓楽街で遊んだり、産業陳列館(現原爆ドーム)を
眺めたことがあったので壊滅した広島を見るのはショックだったとか…
父方の祖父・・・
陸軍に徴兵。海南島に駐留
フルーツが美味かったと感想
嫌だったことは慰安所みたいなところがあったが
行きたくなかったけど行かないと根性なし、女嫌いに思われるため
上官、同僚の目を気にして女抱かずに金だけ払ってそこで時間潰してたんだって…
174 :
BAN :2000/10/04(水) 01:57
うちの大学の教授は、中国大陸で人体実験してたと言ってた。
731かな?
175 :
名無し@三等兵 :2000/10/04(水) 02:11
>170
職業軍人は祖父の兄弟にいたけど
ほとんど戦死。男5人兄弟で3人が軍人
後に徴兵で残り2人(一人は満蒙開拓団)
も軍人に
生き残りは内地で終戦だった祖父と乗船を沈められ
片足と引き換えに生きて帰った一人だけでした。
軍人の2人は中国戦線とビルマで戦死したそうです。
176 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/10/04(水) 05:37
じーちゃんは丙種合格の単なる二等兵だったけど、同級生で信濃に軍医として乗りこんで
沈んで、持ちこんだ論文や研究資料がすべてなくなって、学位をとるのが大幅に遅れた人が
いたみたい。
177 :
名無し三等兵 :2000/10/13(金) 21:20
age
178 :
名無し三等兵 :2000/10/13(金) 22:23
父方の祖父祖母は満州からの引き揚げ者。
まだ赤ん坊の叔父を抱いて、
貨物列車にギュウギュウ詰めになって運ばれた。
と、そこへ馬賊が襲来。
貨物車の扉をガンガン叩いて、人が乗っていないか調べて回った。
一言でも喋ったら最後、全員引き出されて略奪され、殺されるのは必定。
祖母は叔父が泣き出さないように、必死で口を塞いだ。
もしそこでバレてたら…俺はこの世に存在しなかっただろう。
それとも中国語でも喋っていたか?
うちは特別高等警察。
小学校の時の校長、転勤してきて朝礼で俺は戦艦大和の乗組員だったと
言っていた。
今思えば、組合活動が活発な学校だったら大騒ぎだったかも。
181 :
名無し三等兵 :2000/10/14(土) 18:11
うちの祖父。
仏領インドシナで偵察中に負傷。
フランス陸軍の軍医に腎臓の手術をしてもらって助かった。
戦後は自衛隊で教官をしていた。脳出血で倒れて長患いの後去年亡くなった。
182 :
ミロシェビッチ :2000/10/14(土) 18:27
うちの爺さん、中国戦線でなんかやってたらしい。
曰く「国民党と共産党が戦闘してたから攻撃したら、一緒になって反撃してきた」
んでその後日本軍が後退すると、また戦闘してたらしい。
この話本当?教えてPLZ
183 :
名無し三等兵 :2000/10/14(土) 19:07
>174
それって、実際どういうふうにその話をされたんですか?
自慢げに?あるいは暗めに?
前者だったら、阿部○なみに最悪ではあるが・・・。
>180
ひょっとして三重県の人
本書いてる人にそういう人がいたような
185 :
名無し三等兵 :2000/10/15(日) 00:19
>>182 私はこんな話を聞きました。
討伐に行ったら、国府軍と八路軍が、どんぱちやっていたので、しばらく
見ていて帰ったそうです。
186 :
名無し三等兵 :2000/10/15(日) 01:33
うちのじいちゃんは
ビルマに行ってたらしい。
線路敷いてたそうだ。
その部隊の戦友会資料みたいなもんに当時の写真とかがあった。
ワニ食ったら行方不明になった仲間の服が出てきた話がインパクトあった。
すさまじいな戦争って。
187 :
名無し三等兵 :2000/10/15(日) 01:54
もう逝ってしまった親父の話。
親父は電気工学科にいたのでNHK愛宕山放送局に学徒動員された。
終戦前夜、玉音放送が録音されたレコード盤のお守りをしていた。
朝方、将校がやってきて開けろ開けろと激しく鉄扉を叩いたそうだ。
結局扉を開けずに息を潜めていると将校はそのまま帰ったそうだが
生きた心地がしなかったそうだ。
188 :
名無し三等兵 :2000/10/15(日) 02:49
ぼくのおじいちゃんの話では、むかし、ちゅうごく
にいったとき、たくさんのちゅうごくじんをころしたと
いうことです。
とくに、なんきんというところでは、なんじゅうまんにん、
というひとをころしたのをみたそうです。
ぼくは、こわいなあと、おもいました。
がっこうのせんせいも、おなじようなことをいいました。
189 :
名無しより愛をこめて :2000/10/15(日) 03:03
以前、汽車にのっていたら隣りの席に座った老人が話しかけてきた。
商船に乗り、何度か沈没を経験したそうな。
何でも、魚雷攻撃を受けた輸送船が沈没した際、頭を打って目が悪くなったとか。
ところが、それを証明してくれる人がいないので傷痍軍人にはなれなかったらしい。
その人は、浜松の商船会社(だったかな?)にいて、海軍に徴用。
「出征」扱いではなく、「出張」扱いだったそうな。
その老人の話。
「商船は一度機銃掃射を受けると、被弾した穴から浸水し、すぐに沈んでしまう。
穴は船内からではどうすることもできなかった。外からなら、簡単に塞げたのに。」
船って、意外と脆いんだなと思った。
私の祖父(故人)は何故か知らないが、陸軍と海軍の両方に徴兵された。
海軍では、横須賀工廠で艦船の修理に従事。駆逐艦なんかは頻繁に来たってさ。
時には砲塔を完全に吹き飛ばされた艦もあったとか。
「長門」や「雲龍」にも乗ったことがあるらしい。
曰く「長門はとても大きかったが、雲龍はそれほどでもなかった」
陸軍には通信兵として従軍。二等兵なのに何故か上官と勘違いされ、敬礼を受けて
困ることがよくあったらしい。本物の上官にみつかったら、殴られたんだろうなあ。
青森に移動中、列車が空襲を受けて仲間が数人戦死。で、青森で終戦。
8月15日、将校が号令台に立ち、我々はまだ負けてない、最後まで戦う!!
と号令したらしい。
祖父は、かなり幸運な人だろうな。
もっと話を聞いておけばよかった。後悔後悔。
190 :
名無し三等兵 :2000/10/15(日) 06:06
俺の祖母の兄弟に陸軍中尉がいたのだが、復員してきて開口一番、
「俺一人でも戦う、進駐米兵を片っ端からぶった斬ってやる!」
その並々ならぬ剣幕に、親戚一同は大慌て。必死で思いとど
まらせたらしい。
そんな彼も、比較的食糧事情の良かった田舎で過ごしていると、
だんだん命が惜しくなってきたらしく、ほどなく正気に戻って
いった。数年もたつと、親戚から当時のことで散々からかわれて
いたらしい。
「○○さんよ、あの時はワシら往生させられたで(笑)」
「(赤面して)いやホンマにすんませんでした。若気の至りですわ」
……微笑ましい話ですな。
191 :
石やくざ :2000/10/15(日) 06:42
ちょっと毛色の変わった話を2つほど。
俺ドラッグストアで働いてたんだけど、そのときに客のじーさんから
「ワシは若い頃米軍に機関銃で撃たれてな、ここ(顎)から弾が入って
こっち(脳天)に抜けたんだよ。」
(顎のところに射入口の痕がありましたワ。)
っていう話を聞いてビビった。すげえなぁ。
高校の歴史の先生が高校生の頃、仲間と共謀してモールス通信を利用した
カンニングをやったそうな。そしたら前の方からトトトントトトンと
すげえ高速なモールスが聞こえてきたそうな。
解読してみると「 フセイコウイハ ヤメロ 」
その時の試験監督は大日本帝国陸軍の通信兵あがりだったんだってさ。
192 :
名無し三等兵 :2000/10/15(日) 06:42
昭和二十年当時に国民学校一年生だった父から聞いた話。
隣組で連日防空演習をやっていたのだが、その内容が面白い。
隣組の当番がいきなり各家庭に押し掛け、焼夷弾を模した
木片を玄関先に放り投げて、「焼夷弾落下!」と絶叫。
家人は用意していた毛布やら砂袋を急いでその上に覆い被せる、
てなことをしていたとか。
父は子供心に、「焼夷弾って、玄関から入って来るのか?」と
思っていたらしい。父の実家は山奥の田舎だったので、結局
空襲は無かったそうだが。
193 :
アルザス :2000/10/15(日) 14:09
ついこの間、親戚の人と上野動物園に行った帰り、疲れてうつらうつらしていた
ころ、初老の老人が杖を突きつつ隣の車両から移って来た。夏休みなので車両の隻
は満席。しばらく老人は辺りを見回しおもむろに親戚の前に立ちイキナリ親戚の
脚に杖で一閃!「バシッ!!」と音がする程の打撃・・・そして老人一言
「ワシは若い頃に神風特攻隊で御国の為に頑張ってきたのに誰一人として席を
譲らんで・・・貴様ら全員親の教育が成っておらん!!」と大激怒。私は席を譲ろうと
隻をったたが、親戚の大叔父さんは足をさすりながら、立ち上がり、老人にケリ
帽子を投げ捨て
「ほーう、教育がなってねーか、この餓鬼が(大叔父は82歳)私はお前が内地で
メシ食って死ぬのが怖くて奮えあがっている頃、南洋でアメリカさんと戦争やって
たんだ!!。戦争やってたのを自慢してんじゃない!!ボケ!!」
と行って、再び野球帽を被りなおし眠りに入った。
(その時の祖父の格好:野球帽・ギンガムの長袖シャツ・股下86inのGパン。
はたから見ると二十代に見えてもおかしくない。身長185だし)
ちなみに、祖父に怒られた老人はすごすごと隣の車両に逃げて行った。
神風特攻隊に入って生残ってしまった老人と南洋で戦後引き上げて帰って来た
大叔父さんとどちらが正しいのかは解からなかった。
194 :
名無しさん :2000/10/15(日) 14:13
>193
強者だ。その人、しかし、兵隊に行って来た人未だに元気な人多いね。
体の鍛え方が違う
195 :
名無し三等兵 :2000/10/15(日) 14:57
俺の祖父は京大を出て民間で働いてるところを召集された。
南方に行ったらしいが前線には行ってない。
将校だったので終戦になってもすぐには帰してもらえず
シンガポールあたりで2年くらい拘束されていた。
ようやく引き揚げてきた祖父が持って荷物の中から
カンボジアのアンコールワットの前や
どこかの巨大な涅槃仏の前で撮った記念写真が大量に出てきて
子供3人抱えて苦労&心配していた祖母は
「人の気も知らないで呑気に過ごしてたのね」と詰ったとのこと。
196 :
名無し三等兵 :2000/10/16(月) 06:00
一部に煽り野郎がいるが、これは大変良いスレッドだ。
197 :
名無し三等兵 :2000/10/17(火) 00:10
父の友人は元軍医でガダルカナル島に派遣されていた。
撤退時傷病兵は「武士道精神に基づき」処分せよとの命令で
毒殺されたそうだ。
残留部隊(もちろん死を意味する)の軍医はじゃんけんで決めた。
帰還組に入っても離岸する船に飛び乗れず海の藻屑となった兵士は
数多かったが、父の友人はかつて仮病をめこぼしした下士官に
背負われて船に乗せてもらい命拾いをしたとか。
198 :
さる :2000/10/17(火) 00:21
祖父が武蔵に乗っていたが、撃沈された後数名の仲間と
角材につかまり漂流。疲労と渇きで拳銃自殺したものもいたそうだ。
その後フィリピンに漂着→捕虜→帰国。
199 :
名無し三等兵 :2000/10/17(火) 00:23
それから、これは又聞きなので真偽は不明ですが・・・
敗戦後、進駐軍が村にやってきてまず行ったのは刀狩り。
米兵は日本刀や木刀・竹刀をたいそう恐れて処分を命じた。
で、誰かが教練用の38式歩兵銃を米兵に差し出したところ、
それは後で処分すればいいと追い返されたそうだ。
200 :
zeke :2000/10/17(火) 00:41
所沢に住む、知り合いのおばあちゃん(68)の話です。
昔、八丈島に住んでいたその方の一家は、山を持つ地主でした。
戦争が始まると、島に飛行場を造るとかで兵士がやって来ました。
最初は渋った一家の父でしたが、スコップを持つ兵士に囲まれたうえ、
家族を盾に脅されて、山を10円(当時)というタダ同然の値段で、
脅しとられてしまいました。
その後、山は削られ、ならされ、現在の八丈島空港になっています。
そのほかにも、陣地を造るとかで皆が狩り出され、いまでも島は穴だらけで、
大事な水源まで止まってしまったこととか、
おばあちゃんが当時通っていた保育園の先生はハーフだったが、
戦争が始まると、スパイの冤罪を着せられて殺されたとか、
聞くだに兵士の所業には生々しいものがあります。
201 :
名無し三等兵 :2000/10/17(火) 00:44
そういやうちの田舎って、チョット山に入ると防空豪だらけだったなぁ。
昭和50年代でもかなり残ってて、よくゲジゲジ潰したり燃やしたりしに行ったよ。
202 :
名無しさん@1周年 :2000/10/17(火) 03:26
何故か将校の子・孫が多くないか?
203 :
戦後にあったかもしれない夫婦喧嘩 :2000/10/17(火) 03:56
ウチのじいちゃん元伍長。大陸行って、八丈島で
穴掘ってる所で終戦、無事復員。それは置いといて・・・・
戦後間もないある日。じいさんが働かないのをばあちゃんが
怒る。夫婦喧嘩突入。うちの母親曰く、ばあさんには口癖があった。
「あんたなんか、撃たれて死んだらよかったんよー。
隣りの○○さんの家なんか見てみい、遺族年金
でうまいメシ食うてはるんやで」
働かないじいさんが悪いのか、けなすばあさんが悪いのか。
どっちにしてもひでえ。ところで遺族年金っていくらくらいなの?
204 :
203です :2000/10/17(火) 03:58
>200
マジすか? ウチのじいさんはのんきにしゃべってましたが。
205 :
名無し三等兵 :2000/10/17(火) 05:50
それなりに高いぞ<遺族年金
とはいえ二人の子供を抱えてた俺のばーさんは
育てるのに苦労しまくったらしいがな。
要するに無職よりマシって程度だよ。
年金だけじゃ食っていけんて。一人ならともかく。
206 :
205 :2000/10/17(火) 06:06
だが当時の額で幾ら貰ってたかはわからん。
昭和27年か28年に始まったものだし。
207 :
バトルドロイド :2000/10/17(火) 08:16
>202
ミンナ
モウソウズキノ
ひきこもりダカラナ
208 :
日本一の無責任男 :2000/10/17(火) 08:27
爺ぃどもはどうしてそろいもそろって法螺吹きですか?
209 :
名無し三等兵 :2000/10/17(火) 20:33
>208
そうでもあるまい。
日々辛いことが多かったから、楽しかったことが思い出に残るのさ。
俺の本家の叔父さん(バリバリの百姓だった)は現役で引っ張られて、
てっきり歩兵だと思ったら、高射砲隊へ配属され雲南方面で従軍。
が、食い物がなく病気。運良く軍医が診てくれて本部勤務になって
死なずに済んだ。酒が入ると未だに楽しそうにいうよ。
「本部へ行ったらオメェ、このワシが暗号兵にゃ。陸軍もあほじゃてーぇ。
んでー、肉も野菜も食い放ー題じゃが。ぷーっと太ってもーてのーぉ。」
ちなみに新兵はやはり古参兵連中にあほほど殴られたそうだ。
歩兵や軍艦の高射砲とは趣が違うから、戦闘の前後でもやられたそうだ。
「タマなんか届くわけにゃー。ぜーんぶスカじゃ。敵サンも相手にせなんだ」
そうだ。
210 :
zeke :2000/10/17(火) 20:43
>>204 全部マジです。細部まで説明してくれました>おばあちゃん
また思考もしっかりしており、法螺吹いているとも思えません。
203さんのおじいちゃんは、幸運にもそういった場面に出くわすことが、
なかったのでしょうね。
211 :
名無し三等兵 :2000/10/17(火) 20:59
うちの爺さんは、今年92歳だが、徴兵検査の時、ちょうど軍縮の時代だった
そうで、徴兵されなかったらしい。戦前の人は、皆兵隊に行ったと思っていた
ので驚いた。もちろん健康体だったんだけど。
しかし、その弟は、習志野の戦車2連隊に入り、徐州戦で戦死した。
212 :
zeke :2000/10/17(火) 21:07
>>200 に追記。
その他にも、兵士に畑の作物を全部刈り取られ、徴発されたり、
田の稲も徴発されたあげく、労役に狩り出された為、手入れできずに田が枯れたり、
また酒場では兵士がひたすら酒を呑み、暴れていたそうです。当然、金なんか払わない。
私は左翼でもなんでもないですが、こういった話を聞くと、
軍隊ってなんだと思うときもあります。
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/20(金) 00:10
沖縄戦の本読むとその手の話いっぱいでてくる。
こどもに爆弾背負わせて近づいてきた米兵もろとも吹っ飛ばしたとか。
ひでーな・・・
214 :
名無し三等兵 :2000/10/23(月) 23:02
age
215 :
名無し三等兵 :2000/10/23(月) 23:29
家の爺さんは徴兵されたけど戦地に送られる前にそのまま終戦を迎えたらしい。
その父のひい爺さんは米の検査官で、周りの百姓から貰った賄賂で贅沢しすぎで戦時中に糖尿病で死んでる。とんでもない奴だと思った。
216 :
名無し三等兵 :2000/10/23(月) 23:46
モラルが低下した軍隊ほど性質の悪いものはないな。
217 :
さす :2000/10/23(月) 23:51
先日、勤務先のスーパーにて。
警備室から「万引きを捕まえたんですが、、、あの、とにかく来ていただけ
ますか?」 ナンダよ、万引きなんて俺には関係ないのに?と思いながら警
備室に行くと、 いましたよ、モナーが!
じっとうつむいているモナーの前には万引きしたと思われる商品が。
「あ、ほんとにいたんだ?」思わず口を出た言葉に気づいたモナーが私を見
るなり、 「ウエーーーン」と泣きながら駆け寄ってきました。そして私に
抱き着いて、 5分ぐらい泣いていました。突然の出来事に私はすっかり
固まってしまい、 ただモナーを抱きしめてやるのが精一杯でした。
やがて落ち着きを取り戻したモナーは、警備さんをきっと睨むと、
「モナーは治外法権なの!」
と叫ぶと同時にトテテテテ、と逃げていきました。
あっけにとられている警備さんを置いて、私はモナーを追いかけておも
わず叫んでしまいました。
「あれやってくれ!」
トテテテテ キューッと効果音つきで止まったモナーは、 満面の笑みで一言、
「オマエモナー」
ああこんな幸せな気持ちになったのは初めてです。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/24(火) 01:18
先日亡くなられたが、
うちの隣のおじいさんは真珠湾攻撃に参加したそうだ。
219 :
名無し三等兵 :2000/10/24(火) 01:34
>その父のひい爺さんは米の検査官で、周りの百姓から貰った賄賂で贅沢しすぎで
>戦時中に糖尿病で死んでる。とんでもない奴だと思った。
こういうことは確かにあるようですな
うちの爺さんは某県の農政担当者(配給担当者? 詳しいことは不明)でけっこう
役得があったらしい
ただ、その後、陸軍に徴兵されて比島に行かされ、負傷して帰ってくるという
ことになったが(幹部候補生制度で士官の資格を取っていたので少尉で出征した)
220 :
名無し三等兵 :2000/10/24(火) 01:37
>陸軍に徴兵されて
「召集」の方が正確かな?
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 04:31
家の爺さんは戦争中某飛行機工場で働かされていたらしいが
ある日たまたま農作業で借り出されたらしく、山の畑に居たらしい。
そのとき空襲があったらしく、百機ほどのB29と少数の艦載機が来襲。
すさまじい空襲警報が鳴り響いたらしい。山の畑から見ていると大勢の人が工場の門から
防空壕のある丘のほうに逃げていたが艦載機の機銃掃射が波状的に行われ、ばたばたと
人が倒れていくのがみえたらしい。またそのときの空襲で家の屋根には破片で穴があいた
と話していた。
222 :
名無し三等兵:2000/10/25(水) 06:07
内の祖父は主計にいたので、何も買う必要がなく
全て出入りの業者が持ってきてくれたそうだ。
その代わり、戦後は手のひら返したように業者が寄りつかなくなり
結構苦労したらしい。
223 :
名無し三等兵:2000/10/27(金) 18:49
政治学とっていたけど、教授は特攻崩れだといっていたよ。
何でも明日で出撃だというので、同僚と大泣きしながら待機していたら
玉音放送で運良く生き残ったらしい。
…よくありそうな話なので嘘といわれそうだけど、その方某新聞社の
政治局長もしていた方なので、疑いたくはないなあ。
224 :
名無し三等兵:2000/10/31(火) 18:20
自慢じゃないがウチのじいちゃんは戦争初期に脚を撃たれてずっと捕虜生活で童顔で若かったので米軍に犯されたそうだ。
225 :
名無し三等兵:2000/10/31(火) 23:52
age
226 :
名無し三等兵:2000/11/01(水) 00:34
英語の先生は飛行兵だったんだが、乗る飛行機も無かったうえに
燃料も無かったので、結局飛行場に塹壕掘って対空戦闘やったの
が唯一の実戦経験だといっておられた。
「機銃掃射してくるF6Fに向けて、38式を一発撃ったのが俺の
大東亜戦争の全てだった」
という一言は、当時中学生だった俺の心に深く印象を残し、こうし
て2ちゃんの軍事板を覗く毎日に至ったというわけだ。
嫁はん、いつも深夜までネットに繋ぎっぱなしでゴメンね。
227 :
出征前夜によくあったかもしれない風景:2000/11/02(木) 03:30
203です。うちのじいさん、戦争以外のエピソード
には事欠かないようで・・・
じいさんが2回目の徴集を受け出征することになった。
じいさんは死ぬとは考えてはおらんが、やはり最後と
言うことでばあさんにHさせてくれと頼む。しかし、
ばあさんはこれを拒否。何故なら・・・
「もう、子供が3人もおるんやで。これ以上できたら
どうしはりますの」
避妊が確実でない時代、そのうえ貧乏。ばあさんの言
い分も一理ある。しかし、じいさんはやらせてくれと
せがむ。ばあさん拒否する。じいさん押し倒す。ばあ
さん逃げる。じいさん追いかける。
結局、朝が来るまで裏山の神社でばあさんは隠れてい
たそうだ。外出ししないじいさんが悪いのか、死ぬかも
しれんとゆーのにやらせてあげないばあさんが悪いのか
わからん・・・・
映画のようにはいかない現実的なお話でした。
後日談、私の母は四人兄弟の末っ子。誕生は昭和22年
です。じいさん、復員後速攻でやったみたいだ・・・・
よかったねと言うべきかな? その後のお話は203の
レスに続く。他にも勇猛果敢ではないエピソードは多し。
また、いつか書きます。
228 :
名無し三等兵:2000/12/02(土) 14:45
age
229 :
名無し三等兵:2000/12/02(土) 15:31
家のじいさんは中国の方に出征していた。
ある時列車に乗っていたら、同僚の兵に席を替わってくれるように頼まれた。
理由はわからなかったが、じいさんは席を替わった。その後十分もしないうちに列車が爆破された。
じいさんが爆破されたところを見ると、自分が替わったあとの席だったらしい。
じいさん曰く「同僚が死んだショックよりも、運良く生き残れたことが嬉しくてついつい笑ってしまって、他の同僚から正気がどうかを疑われた」
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/02(土) 15:39
俺の祖父は元少尉で、ハルピンにいた。
んで日ソ中立条約を破って侵攻してきた赤軍と戦ったんだけど、
終戦の報が伝えられると、
それまで殺しあってたソ連兵と日本兵が抱き合って喜んでたそうだ。
231 :
名無し三等兵:2000/12/02(土) 18:01
>それまで殺しあってたソ連兵と日本兵が抱き合って喜んでたそうだ。
日露戦争とおんなじだー。
日本とロシアの下っ端はつらいもんだな。
ロシア人は個人と個人では最良の隣人とゆーしな。(国家では最悪の・・・)
233 :
名無し三等兵:2000/12/02(土) 19:52
じいさんは理科の先生で、科学者として戦争協力を求められたが、
頑として断ったため特高に目をつけられてヤバかったらしい。
海軍の中将と親しかったから、なんとか死なずに済んだってさ。
親父は実際に爆撃くらったらしい。しばらく目の前が真っ暗で何も
見えなくて、轟音で麻痺した耳からは、微かにじいさんが自分を呼ぶ
声が聞こえたとか。
>>50 泣ける。
234 :
名無し三等兵:2000/12/02(土) 20:42
「おばあちゃんにはかわいい弟がいたんだけど「やましろ」という軍艦に乗ってい
て一緒に沈んで死んじゃったんだよ。今思い出してもかわいそうで涙が出てくる
よ。だからお前たち兄弟はいつまでも仲良くしなきゃだめだよ。」と小さい頃話し
てくれた祖母も今夏天に召されました。レイテに眠る弟とも再会した事でしょう。
235 :
名無し三等兵:2000/12/02(土) 21:05
俺達は第二次大東亜戦争を経験することになるから、
老後には戦争経験を沢山語れるぞ。
236 :
名無し三等兵:2000/12/02(土) 21:24
>235
氏ね
237 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 01:14
>>193
>しかし、兵隊に行って来た人未だに元気な人多いね。
>体の鍛え方が違う
ツーか、戦場では運の悪いのと体力のないのと
要領が悪いのから死んでいくからなあ。
おれなんか・・・
238 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 01:46
高校の時の英語教師。なんでも相当な軍国少年だったそうである。
でもって中国人のことを冗談でも、昔話のついででもなく、素で
「チャンコロ」といってた。チャンコロなんて言葉を実際に使う人
間は未だに彼以外に出会ってません。
239 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 02:05
高校の先生の父親が、どうやらレイテ沖の西村艦隊の
駆逐艦に乗っていたらしい(話を総合すると)。
で、船が沈められて付近の島に流れ着いた10人ほどの中で
助かったそうだ。
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/03(日) 02:48
大学時代の教授が、フィリピンに輸送船で送られる途中に
帝国海軍の大艦隊と並走したことがあると言っていた。
(護衛じゃないらしい)
艦種などは判らないが、レイテの頃だろうな。
戦争経験者は10年くらい前は、結構周囲にいたけど、ほとんど鬼籍に
入ったなあ。このスレでも「故人かく語りき」ってレスが多いよね。
中堅士官、古参下士官だったような人はもう殆ど残ってないだろう。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/03(日) 03:43
大和の最後の艦長の有賀幸作さんの実家はウチの近所だ。
だけどもう家は残ってないけどね。
神社に記念碑がある。
242 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 04:00
祖母の弟がいた部隊は終戦直後にソ連国境から撤退中、飯炊きの煙で部隊の
所在が知られ、あっという間にソ連軍に壊滅させられたとのことです。
生き残りは3人だったそうで、祖母はその中の一人からその話を聞いた
みたいです。
彼は徴兵される前の親戚内での壮行会では元気に振舞っていたのですが、
祖母と二人きりになった時「戦争に行きたくない、行きたくない」
と言って泣いていたみたいです。
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/03(日) 04:04
うちの爺さんはノモンハンに行ってた。
今でも昼間に短い睡眠を取って、
夜は熟睡しないなあ。
244 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 04:08
ウチの父方の祖父は海軍の通信兵をしていたそうです。
詳しいことはよく分からないけどトラック島の航空基地に
いたみたい。
ある日いつものように通信機材の前で仕事をしていると
普段耳慣れないエンジン音がしてきたのでとっさに物陰に
隠れた途端機銃掃射、ほんの数秒前まで向かって座っていた
通信機は何発も銃弾を浴びた状態だったそうで、祖父からは
「あの時瞬時の判断で伏せてなければ、お前も生まれてなかった
んだぞ」って耳にタコができるくらい聞かされました。存命中。
母方の方は陸さんで銀輪部隊としてシンガポール攻略に参加した
みたいです。「信じられないが本当だ」のスレで当時、イギリス
軍が銀輪部隊がタイヤがパンクしているのを無理して行軍している
音を戦車のキャタピラ音だと勘違いして退却したって話は本当
みたいですね。僕も祖父から全く同じ話をきいたことがあります。
245 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 04:17
自分の親父は戦争当時は18、9とばりばりの兵役適齢期。でも兵隊には引っ張られなかった。
「蕎麦屋のせがれ」に兵役逃れのコネがあるわけでも無し。徴兵逃れではなかったと思います。
徴兵検査に落ちたのかな? 経済温存策のおこぼれにあずかったのかな?
でも、結局は沖縄戦に巻き込まれて、日本軍と壕を争った。あ〜あ。
246 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 04:44
肺結核じゃないの。それでも引っ張られるかな。
映画「沖縄決戦」では片腕の人も取られてたけど。
247 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 05:19
>138
俺も「チャンコロ」使うぞ。
「露助」、「毛唐」、「チョン」
なども
使う。
でもここでさえ、うるせぇーから
普段は何も言わない様にしている。
プププププ。
面白いね。キミ。
249 :
・・・3連敗:2000/12/03(日) 05:32
オレが子供の頃、親父と、マンションの窓から遠くの打ち上げ花火を
見ていた。
“ドドーン”という連続音を聞いていた親父が急に、
B−29の爆撃の音があんな感じだった
とポツリ。
子供の頃のオレ、無事トラウマを埋め込まれる
250 :
名無しさんの野望:2000/12/03(日) 05:42
夷狄も使う
251 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 07:37
>247
おれも、「ジャップ」と時々、蔑視されてるよ。
日本人に生まれたことが辛いと思うことがある。
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/03(日) 09:28
>>251 俺の親父が仕事でアメリカに住んでた時、
提携企業の工場見学に行ったら、アメリカ人の工場長に
「ゼロ・ファイターを紹介します!」とか言われて、
アメリカ人の職員一同、大爆笑してたらしい。
差別なんてなくならねぇんだよ。
相手に精一杯の礼儀を尽くす事しかできねぇ。
思考形態を根本から変えろつったって無理だよな。
253 :
>252:2000/12/03(日) 09:52
親父さんはQC(品質管理)担当かな?
それならジョークとして理解できるよ。
254 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 10:00
うちの祖父は陸軍の整備兵でした。
(俺)「爺ちゃん、整備兵だったて言うけど、何整備したの?」
(祖父)「隼と飛燕と、零戦さあ!」
…アンタ陸軍だろ?
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/03(日) 10:43
>>253 韓国人はキムチばっかり食ってるから、
頭の中まで暖かいんダゼェーはどうよ?
256 :
三等兵 @勉強中:2000/12/03(日) 13:12
>254
ラバウル、ニューギニア方面に配属されたのならそれもありうるかも
しれないですね。
陸海軍共同で航空戦を行なっていましたしね。
それだけでは何なんで私の話を…
家の母方の祖父は、戦争には行かなかったのですが東京の下町から疎開し
た先が九十九里海岸の近くだったので、もしも戦争が継続してコロネット
作戦が実施されたら召集されて亡くなったかもしれないと思うとなんだか
複雑ですね。
そういえば祖父が存命中に防空壕に連れて行ってもらいましたが、長居で
きるような所じゃないなと思ったものです。
切り立った崖の所に掘られた横穴式の防空壕で上から染み出した水で湿っ
ていましたし日陰に位置していたので夏でも寒かった思い出があります。
257 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 14:22
ウチの祖父は、内地の基地で主計だったのでいい思いしかなかたようです。
毎日、業者の接待ずくめだったとなつかしそうにいう。
258 :
>255:2000/12/03(日) 14:30
その意見には合意する。(笑)
悔しかったらやはり実績でねじ伏せるしかないのう。うむ。
259 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 14:56
私の曾祖父さんは容姿端麗で神童の誉れ高く近衛連隊に配属され、
日清戦争後に白川宮の率いる台湾討伐軍に加わったそうです。
その後、陸軍大学に進みましたが数学の問題の解法について教官と
喧嘩をして退学、大佐までしかいけなかったと、曾祖母さんを嘆かせたそうです。
曾祖母さんはお茶の水女子高等師範学校卒だったので、陸大に入るほどなら
末は大将と期待して曾祖父さんの所に嫁にいったのに当てが外れたと一生ぐちっていたとか。
260 :
254:2000/12/03(日) 16:01
>256
それならまだ話は解るんだが…配属先、北朝鮮だったんだよ。
怪我して内地に送還されたんで、その時の話かもしれない。
後は防空壕の中で昼寝してビンタされたとか、松茸食いまくったって話を聞いたよ。
本土に帰ってきたとき、食糧事情が悪くて唖然としたって言ってたな…
261 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 16:13
>>240 母方の爺さん(軍曹)は戦争が昭和16年8月、志願兵として鎮守府に行く。
どの艦に乗っていたかは教えてくれなかったが、砲術を教えてもらった。
ひいじいさんも日露戦争の強兵だったんだそうだ、逆に父方は守銭奴の腰抜けだらけ(藁
爺さんが終戦を迎えたのは東ティモールです。
262 :
名無し三等兵:2000/12/03(日) 17:57
母方の祖父だが陸軍の兵長だったらしい。乗っていた輸送船が
南方で魚雷を食らって沈没したのだが、菊の御紋の入った銃を
捨てるのを拒んで退去した連中はみんな溺死してしまったそうだ。
爺さんは銃なんぞ真っ先に放っぽり投げてふんどし一丁で海に
飛び込んだので助かったという話をガキだった自分によくしてくれた。
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/04(月) 01:11
>>262 うわぁ…。
日本兵は船が沈没した後、
アメリカ兵が救助にやってきても拒んだ人が多かったという話は知っていたが…。
264 :
名無し三等兵:2000/12/04(月) 04:29
生の声が聞こえる貴重なスレッドだ。
アゲておこう。
265 :
名無し三等兵:2000/12/04(月) 05:04
祖母の話
日本の戦闘機が北の方に編隊を組んで飛んでいく。
その15分後、空襲警報が鳴り
B29が北の方に行くのが見える。
B29が戻ると、まもなく、我が日本の飛行機が戻ってきた。
空中戦をやってるのを見たことがなかったそうです。
266 :
名無し三等兵:2000/12/04(月) 05:55
>>265 結構多くの特攻機が、
「エンジン不調」を訴えて、出撃後戻ってきたそうだ。
俺の祖父の話・・・
俺の祖父は徴収されて新兵の時は結構イジメにあったらしい
それでもくじけず勉強して軍曹にまで昇格、内務班長を努めていたということだ。
最初は、北支そして満州と中国各地を転戦したそうだ。
配属先は名古屋の第3師団。
当時の軍隊手帳を見せてもらったけど、「第一期粛正作戦、大陸間打通作戦」
など主要な作戦にはほとんど参加しているのが手書きで書かれていた。
緊張した戦場が目の前に現れてくるような臨場感を軍隊手帳を読んでて感じた。
一番危なかったことは両太股に貫通銃創を受け一時は家族に死亡が伝えられたこと。
でも不屈の闘志でその足で戻ってきた。
あともう一つは、祖父の部隊がグアムへ派遣されることになったことで流石に祖父も
生きては帰れそうにはないと覚悟を決め祖母を名古屋に呼び、最後の別れをしたそうだ。
それが天の助けか出発直前に再編成が行われ祖父は本土決戦部隊へ転属、しかしグアムへ行った
祖父の部下達は皆戦死したそうだ・・。
祖父は内務班長というポストにあった為、食べ物や酒には不自由しなかったそうだ。
戦後、事業を興し財産を築き今に至るが孫の俺は・・・・似ても似つかないダメダメ人間
祖父が北支で撮影した写真を見た、精悍で凛々しく勇敢な感じがした。
今の俺に似てる要素は・・・・・見付けることができなかった(笑
祖父は今でも毎朝出社、しかも毎年ハワイに旅行にかかさず行く。もう20年近い(笑
俺は密かに鉄人と呼んでいる。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/05(火) 09:04
実家(中国地方)の敷地に土蔵があるんだが数年前に中を片付けたとき
業務用の缶詰らしきものが2、30個でてきた。ばあさんに聞くと
終戦後進駐してきた英連邦軍が倉庫に使うため接収していたらしい。
おもに食料関係の物が入っていたらしく酒目当てのオーストラリア兵が
拳銃もって押し入ろうとして駆けつけたMPと大立ち回りになったりで
怖かったらしい。(その事件の後歩哨がつくようになったとか・・・)
んで、その缶詰は当時のもので引き上げる時に「どうせもって帰っても
すてるだけだから」とくれたものらしい。
中は乾燥したジャガイモの粉末で水でといてマッシュポテトになる
ものだった。実際缶を開けて中の粉を水でとき舐めて見るとほんとに
マッシュポテトだったよ。
結局、50年以上前のものをとても食べる気にならず釣り餌に
使ってしまった。
269 :
名無し三等兵:2000/12/05(火) 12:42
>286
70年代?の「暮らしの手帖」に
進駐軍のの粉末玉子の缶詰を食すレポートがありました。
緑色の無地の缶から黄色い粉を出し、
それを水で練って卵焼きだかスクランブルエッグにする、という。
食べられたそうです。
270 :
名無し三等兵:2000/12/05(火) 13:09
>>50 その話は、泣ける。
母から聞いた話。
私の祖父は、太平洋戦争のときに5年間に渡ってあちこちの戦場を渡り歩いた。
ビルマ、満州、ロシア…などだったか。
そこでなにがあったかは、一切語ろうとせず、それからあとずっと戦場の夢をみてうなされることがあったそうだ。
また、母ら家族には、TVで戦争の番組を見るのを許さなかったという。
そんなだから、私が自衛隊を志願することについて祖母に「祖父が生きていたら(12年前死去)反対していたか」と
相談もした。そのときはじめて、祖父は戦後、自衛隊に入るのを考えていたことがあったのを知った。
祖父が生きていれば、私が自衛官を目指すことに反対はしないだろう。
しかし好き好んで軍事知識をあさっていることは許さないだろう。
ところで…身内や知り合いに第一次世界大戦にいった人や、
傭兵or外人部隊の人がいる方はいませんか?
271 :
名無し三等兵:2000/12/05(火) 14:23
こんな話をしたら歳がばれそうだが。
日吉の慶応山にコンクリート造りの広い地下壕があった。
特に立入禁止になっていなかったので懐中電灯を持って入り探検した。
後になって知ったのだが、疎開してきた海軍軍令部跡であった。
272 :
名無し三等兵:2000/12/05(火) 17:54
>>271 いえいえ、伝聞ではない生の話は貴重です もっと語ってください
273 :
名無し三等兵:2000/12/05(火) 20:48
うちの祖父、海軍の飛行兵を目指していたんだそーだが、駄目だったらしい。
しばらくして、招集されて陸軍行き。
ノモンハンで戦友は皆戦死してしまったそうな。
その後どうしたか判らないけど、とりあえず無事に帰還。
たぶん最後は一等兵。復員後に自衛隊入り。
かなり丈夫なじーさんだったけど、心筋梗塞→脳梗塞の連携で逝去。
もうちっと色々な話を聞ければ良かったが、
自分からは喋りたがらなかったから、仕方ないといえば仕方ないか…
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/05(火) 22:00
よく聞く話だが、うちのじぃさんは十五で志願兵で中国に行った。
後方で整備兵をしていたらしいが後方だから食料が結構豊富で、戦時中にも関わらず太っていたそうだ。
今でもうちの家族で海外旅行?経験者はじぃさんだけだ。
まぁ、そのじぃさんももう死んじまったけどな。そういえば、死ぬまでほとんど戦争の話はしたがらなかった。
そういう人は多いのか?
275 :
高校の先生は:2000/12/05(火) 22:02
子供の頃、焼夷弾を必死に消そうとした体験を楽しそうに話してたぞ。
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/06(水) 09:02
>>269 268でっす。
乾燥粉末卵の話は何かの本で読んだことがあります。
ばあさんに「他になんかもらった?」と聞くと
いろんな缶詰をもらったそうです。
結局、美味しいものから食べていって最後にのこった
のが私の見つけたモノだったらしいです。
277 :
ぼよよん:2000/12/06(水) 09:25
ニューギニアから生きて帰ったうちの祖父は最後まで体験を語ろうとはしなかったが、
孫である僕に書き残したものを見ると相当大変だったらしい。
昔はニューギニアと聞いても「ジャングルのなかで大変だったんだろうナァとしか思わなかったが」
よくよく考えてみると祖父の師団はニューギニアで全滅ということになっている・・・・・
中国からマレー、シンガポール、ニューギニア良く生きていたものだとマジで思う
278 :
名無し三等兵:2000/12/06(水) 10:43
まえにもかいてあったが
うちも 父の実家は框の踏み台に大砲の弾の箱つかってた。
木箱で「昭和何年何センチ榴弾砲 弾薬」とか何とか書いてあった。
とっくに建て直したが、写真とっておけばよかったと後悔。
279 :
名無し三等兵:2000/12/06(水) 10:53
>274
多いと思うよ。
俺のじいさんは軍医中尉で、茨城にいて大した苦労もなかったようだが、じいさんの弟は満州、沖縄と転戦し、最後は沖縄の近くの島で飢え死にしかけたらしい。
今も存命だが、夜中にうなされて起きることもあるらしい。
戦争の話は絶対しないよ。
280 :
アルザス:2000/12/06(水) 23:10
>277氏
私の大叔父さんも最初、丙種合格だったのに戦局の悪化でニューギニアに飛ばされて
大変だったらしい。ただ、本を読んでいた性で戦場で役に立った知識があれば、思わぬ
射撃の才能があって重宝がられたらしい。
私の親戚の中で唯一武勲のある人だ
281 :
名無し三等兵:2000/12/07(木) 06:34
一昨年あたり、沖縄に遊びに行った。<7/4の前後は嘉手納に入れるので
ガマ(自然にできた洞穴)にも行ったんですけど、
地元の人には軽い気持ちで足を踏み入れて欲しくない。と言われた。
良くわかんなかったけど、懐中電灯をもって奥の方に進んでいくと
小さいけど茶色に変色した人の骨と思われるものが…。
地元の人の言葉がよーく身にしみました。
そのガマは病院跡で、奥の方は死体捨て場だったそうです。
282 :
初心者:2000/12/07(木) 09:07
うちのじいちゃんは、戦艦陸奥に乗っていた時期がある。ある時、停泊中の陸奥の近くに水上艇が着水したのだが、その時、何故か判らないが陸奥のスクリューが全速モードに入り、水上艇の乗員はあっという間に波に巻き込まれていなくなったそうだ。
じいちゃんは、平成まで生きていましたが、あれは長い人生の中でも記憶にある一こまだったようです。
283 :
ぼよよん:2000/12/07(木) 09:40
>アルザス
うちは広島師団でした
っていうかうちの爺さんちゃんと大学出てるのに何がいやだったのか
主計とかにならずにただの兵隊として入ったそうで・・・
もっとも中野かなんかにあった主計学校?で大喧嘩しただとか
英語ができるから終戦してから復員船での通訳として一番最初に帰ってきたとか
いろいろエピソードがある人でした
284 :
名無し三等兵:2000/12/07(木) 10:48
親父(昭和元年うまれ)の話
うちの父ちゃんは家族と不仲で、家を出たい一心から海軍に志願入隊したそうです。
募集窓口へいく途中呉の軍港に停泊してた潜水艦の上でまるまる太った
主計兵が上手そうな林檎をひなたぼっこしながら剥いてるのをみて、
主計兵なら飯がいっぱい食えると思い自分も主計兵に志願したそうです。
その旨を係の人に伝えると、怒られるどころか、「若いのに良い心意気だ。
主計はなにかと嫌われるけど俺ら(係の人も当然主計兵だわな)がこーいう
仕事してなきゃ戦争なんか出来ないんだからな。」と言われたそうです。
入営したものの乗る船もなくて毎日古参にぶん殴られる毎日だったらしい。
実戦なしで終戦。同僚はみな袋に入るだけ食い物をつめて家へ帰ろうとして
たらしいが、(上官はトラックに食料をつんで実家へ運んでいた)食い物は
食ったらなくなるっつー事で親父は軍服をリュックに詰め込み、実家から
三人弟を呼び、1人リュック二十個(どーやって持つんだ?)かついで帰宅
しました。実際闇市などでこれらを売り捌いて当分の間くいつなぐ事が出来た
そうです。(これだから主計兵は嫌われてたんだろうな)
その後GHQの調理師募集に応募して面接をうけた時、軍服しか礼装にあたいす
る服がなかったので、それを着ていったそうです。枠が1人なのに面接会場に
は百人ちかく来てて、コックさんや板前とか本格的な人ばかりで、軍隊
での飯炊き経験しかない自分は当然落ちると諦めかけたところ、面接官のヤン
キーが親父の軍服を一目みるなり「オウ、ジャパニーズ マリーん!!」とか
なんとか言って大喜びして親父が採用されることになったそうです。
まあ、親父は実践経験ないんで、のんびりしたもんですね。今でも軍隊生活は
楽しかった(飯が食えたから)と言っています。
知り合いのおじさんの話
終戦で南方から内地へ引き上げたおじさんが町を歩いていたところ橋のとこ
に自分や同僚をさんざんいたぶった古参兵がたたずんでいたそうです。
次の瞬間無意識にその古参兵を川へ突き落としていたそうです。「多分死んだ
だろうね」と言ってました。
285 :
名無し三等兵:2000/12/07(木) 11:20
うちの祖母は、四国の女学生だった。
呉で労働奉仕していて、終戦放送を聞いて四国に帰り、愛媛の駅で「戦争が終わって云々」
と話をしていたら、「非国民」として憲兵に捕まったらしい。
286 :
名無し三等兵:2000/12/08(金) 00:32
>>265 それは相手が捕まらなかったのか、戦うのを避けてたのかどっちなんだろうね??
287 :
>265、286:2000/12/08(金) 07:39
たんに戦闘機を避難させてたんじゃないの?
迎撃しても落とされるだけだからさ。そういう話きいたことある。
288 :
名無し三等兵:2000/12/10(日) 21:13
そーいえば、上野千鶴子か誰かが戦争体験について、「体験」を語るから「記憶」
を語る時代になっている、とかいっていたけど、ここのスレッドを読むとまさにそ
うだと実感する。
3,40年前に2ちゃんねるがあったら、まだ「体験」を語るスレッドがあったか
もしれないな。
何もここのスレッドを批判しているわけではないのでよろしく。
289 :
名無し三等兵:2000/12/10(日) 22:21
うちの爺さんは海軍で
「潜水艦に乗って出撃したらすぐ終戦がきたので死なずにすんだ」
といっていた。
詳しい話しは聞けなかったので潜水艦の艦名はわからなかった。
290 :
名無し三等兵:2000/12/10(日) 23:19
ウチの親父方の親戚には会津歩兵第65連隊出身者が何人かいた。
他の戦争経験者は、飲むと色々な想い出話や自慢話を
面白可笑しく話してくれたんだけど、
65連隊(日中戦争徐州一番乗り)の人々は
寡黙というか何というか、戦争の話し自体を避けていた感じだった。
他に65連隊ではなくて29連隊(ガダルカナルで全滅)に配属された人は
親戚の中でもほとんど戦死だったらしい。
291 :
名無し三等兵:2000/12/11(月) 00:13
うちじいさんは陸軍に召集されてガダルカナルに行くとこだったんだが。
身体検査で結核は判明し召集解除されたそうな。
もし、結核じゃなかったら俺生まれてなかったわけだよなー。
292 :
名無し三等兵:2000/12/11(月) 00:32
母方の祖父は足が悪くて、出征できなかったが、出征した同級生は
上海事変の上陸作戦で、皆死んだそうだ。(名古屋出身)
日中戦争も初めの頃を語れる人はもういないだろうな。
293 :
名無し三等兵:2000/12/11(月) 16:59
高校の時の校長が、宗教の時間(←一応浄土宗の学校だったもんで。授業自体は
寝てた方が多かったけど)で、脱線話として戦争の話をしてた。
なんでも戦艦武蔵にちょっとだけ乗ったことがあるそうで、ものすごく巨大だった
と言ってた。もっともその校長もあっしが高3の時にポックリ逝ってしまったか
ら、詳しい話はわからなかったけど、打ち合わせか何かでちょっとだけ乗艦した
みたいだった。
でもここ見てると、わてらどころか親も「戦争を知らない子供たち」なんだよね。
親が戦争に行ったって人少ないし....幸せなことなんだけどさ。
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/11(月) 18:02
戦争で爺ちゃんが死んでたら、私は生まれてこなかったんだろうな…。
295 :
名無し三等兵:2000/12/11(月) 22:17
うちの親父は小倉に住んでいたんだけど
震電が飛んでいるのを見たらしい。
飛行機が前後逆に飛んでいて変だなあと周りの人たちと見ていたというんだけど
本当だろうか?
それから幾日かたったら終戦だったと言っていたからあながち大嘘ともおもえないし
確か震電の試験飛行は昭和20年8月(何日だったかな?)
296 :
名無し三等兵:2000/12/12(火) 22:10
age
297 :
名無し三等兵:2000/12/13(水) 16:52
うちの爺さんは内地にいたんだけど、爺さんの上官だった小隊の指揮官が学徒動員されて士官養成教育を受けたばかりの帝大の学生さんだかで非常に使えない奴だったそうです。
しかし、広島への原爆投下後新聞で報道された一発で都市を破壊した「特殊爆弾」の記事を見て、「これは原子爆弾という兵器に違いない」と見ぬき、その構造についての憶測を解説してくれたそうです。
尋常小学校しか出ていない爺さんには全く理解できなかったようですが(まあ文系大卒の俺だって理解できないし)、さすがインテリはそれなりに大したものだと爺さんは感心していました。
物理学を専攻していた学生だったんでしょうか?それとも、当時もある程度の教養がある人間ならほとんど「原子爆弾」だと予想できたんでしょうか?現在の我々にとっての「レールガン」のような仮想兵器だったんでしょうかね?そのへんご存知の方いらっしゃいませんか?
298 :
名無し三等兵:2000/12/13(水) 17:17
オレの父方のじいさんは浦賀で軍艦何ぞの設計をする仕事をしていたらしい。
だもんだからか兵隊には取られなかった。
母方のじいさんも小学校の訓導で、そのせいかは知らないがやはり兵隊にはとられず。
両方とも軍隊に行ってないってのは珍しいんじゃないかね?
父方のじいさんが生前語った戦争の話ったら、職場に機銃を撃ち込まれたという事だけ。
母方のは、伊豆だか箱根へ疎開している最中は食うものが無く、
ミカンばかり食べていた、という話だけ。
戦後の食糧難の方が参っていたらしく、いろいろと聞いたっけね。
299 :
うろぼろす:2000/12/13(水) 20:08
>297
そういえば、原爆投下後にどっかの困った学者が、原爆の爆発を見てみたいとかい
って、原爆が落ちそうな都市(京都だったか)に行きたがっていたなんていう話
(かなり曖昧で失礼)が高校の現代社会の資料集にありましたねえ。
芥川の小説か何かで、地獄の絵を描くために我が子を火中に投げ込む話みたいだね
と、当時の国語の先生がぼやいていました。
おまえ一人で逝ってこいや、という感想は今でも変わりません。
300 :
名無し三等兵:2000/12/13(水) 20:10
おじいちゃんは、ぎりぎり戦争に行かずすんだそうです。>若かったため
ただ、防空壕を掘っていたときにした怪我の跡がずっと残っていました。
母方のおじいちゃんは医者だったので、ずっと安全な場所にいたらしいです。
今はもう2人ともいないので話が聞けませんが、
同窓生や先輩を戦争でたくさん失ったと聞いた覚えがあります。
301 :
名無し三等兵:2000/12/24(日) 10:28
うちのじいちゃんは足が悪くて徴兵検査はねられたのが恥で、終戦まで半ヒッキーだったそうな。
302 :
名無し三等兵:2000/12/24(日) 11:02
うちのじいちゃんは三式手榴弾を未だに所持しています。
今度、山で狩りに使うとかでハシャイデいます。
誰か止めてくれ。
303 :
名無し三等兵:2000/12/24(日) 11:44
うちの母方のじいさんは軍人ではないですが輸送船の機関士をやってて、
パラオ付近で撃沈されて死んだらしいです。
何もエピソードとかは聞いてないです。艦名もわからない。
自分の祖先の事なのに、なんか寂しい・・。
同じく母方の祖母のお兄さんは南方に出征してて、開戦から昭和20年まで頑張ってたそうです。
終戦も近い(当人達は知らなかったと思いますが)頃、インドネシアにいる時に
他の基地に行く輸送船に乗れる事になり、祖母の兄は実家の近所の若者である戦友に別れを告げて、
輸送船は出航したのですが、出航直後にその戦友の目の前で敵襲に遭い船は敢え無く沈没、祖母の兄は戦死しました。
そしてその近所の若者は無事復員し、祖母はその人からこの話を聞いたらしいです。
しかしなんとも悲しい事に、祖母の実家では空襲でも誰も死んでいなくて(横浜ですから、空襲はとても激しかったそうです)、
戦争で死んだのはその兄だけだったのですが、その若者の家族は逆に空襲で一人残らず犠牲になっていたそうです。
彼はどんな気持ちでその現実と向き合ったのでしょうか・・・・(涙)
304 :
く〜てい:2000/12/24(日) 16:25
俺んちの、じいちゃんは中国で戦ってたらしいけど、そのとき使った
軍刀が近くの神社に奉納してある。(けっこう、えらかったらしい)
あと、もう1人のじいちゃんはロシアに行ってて、あやうく銃殺されそげ
になったてさ
305 :
これっていたずら?:2000/12/26(火) 02:08
age
うちのじいさん(母方)は、満州事変の時分に大陸で航空隊の通信兵やっとった。
なんかの勲章とか輸送機らしき機体の前に並んでた写真見た事あるぞ。
でも、兵隊してたのは昭和一ケタの頃の話で、その後現地除隊して満鉄で通信の仕事に。
詳しくは聞いてないけど、鉄道警備隊と一緒に沿線の電線チェックに出て、匪賊とやりあった事もあるそうな。
ロシア語の4等通詞の資格があったけど、当時の基準は結構いいかげんで、至極カンタンな単語いくつか知ってればよかったらしく、今じゃきれいさっぱり忘れたと。
終戦時はハルピンにいて、危なく露助に捕まりそうになりながらも、開放された職場の資材を持てるだけ持って、切り売りしながら家族全員なんとか帰国。
釜山の港で内地行きの輸送船見たときは、思わず涙が出たそうな。
「うちよりちょっと奥地にいた人はダメだったなー」と笑って言ってたが、当時1歳だった母親が何かの間違いで残留孤児してたら、俺もこの世にいなかったなー。
現地人とは親しくしてたらしく、中国人の悪口はあまり言わなかったが、露助は嫌ってた。
ちなみにその弟は海軍で、南方(どうもソロモンらしい)で水漬く屍となりました。
307 :
軍好き:2001/01/10(水) 02:03
自分の母方の祖父の兄は結構偉い人だったらしく戦死なされた時は村全体で葬式をあげたらしい。
あと自分の肉親じゃないが母の小学校時代の校長が非難訓練の時自分の体験を話していたことを聞いた。自分の洞窟みたいなトコにアメ公から毒ガスみたいなモン入れられたら布っきれにションベンをかけてそれをマスクにすることにより死を免れたらしい。そして他の戦友はみんな死んだらしい。
308 :
フリスク:2001/01/10(水) 17:04
私の祖父は北方でかなり過酷な戦闘を経験したらしいが、話しを聞いた当時,私が幼かったこともあり
みんな死んじまった、としか語らなかった。
後年、祖母に尋ねたが、やはり詳しくは語らなかったとのこと。
ただ、祖父が負傷した際、同郷の軍医が 家に帰りたいだろう? と話を持ちかけてきて
実際に何らかの手段を使って内地に帰還させてくれたらしい。(もちろん前述の軍医が付き添いで)
温厚な祖父でしたが、祖母が皇室関連のテレビを見ようとした際、そんなクソ共を見るな!
と、声を荒げたことを思い出されます。
309 :
コンバット:2001/01/13(土) 00:48
私の父は最期の名古屋・陸軍幼年学校生徒でした。
年は今の中学1年生?くらいですが、生徒の階級は下士官に
相当していたらしい(このあたりは詳しい人教えてほしい。
うろ覚えです)。
したがって、赤紙で取られたおっさん2等兵よりは位がよりは位が上なので、
他の幼年学校では、生徒が、無礼を働いたおっさん2等兵を殴り、
それを名古屋の校長が誉めていたそうだ。
ある日、親父におっさん2等兵が近寄ってきて、
「そこのボク,剣(いわゆるゴボウ剣)をみせてくれ」
とか言って、親父の剣を取り上げて,
「俺の剣(タケミツみたいなものだったらしい)より立派だなー」
とか言った。
親父は校長先生の話を思い出したが、
「自分よりずっと年上の人(というか中学生から見たらおじさん)なんて、とても
殴れなかった」
と語ってくれた。
もし親父が
「年が上だかしらね−が、俺はキサマの上官だ!歯を食いしばれ!」
なんて言って、ぶちのめしていたり、それを自慢げに息子の私に話していたら、
ちょっと親父が嫌いになってたな。そんな親父もいまや故人です。
310 :
名無し三等兵:2001/01/13(土) 00:58
うちのじじいはいきがってた海軍予備学生で敬礼しなかった
40過ぎの応召のおっさんを殴りつけたそうです(藁
311 :
名無し三等兵:2001/01/13(土) 01:44
うちの父方の祖父は最初特攻隊志願だったが視力でひっかかってダメになり、
その次海軍の整備か通信(?)の方を受けたけどまたしても視力でダメになり、やむおえず
主計兵になったへタレです…が、主計兵だったからこそ生き残ったとも言えるわけで複雑。
でも、一応訓練は受けたんだって。これからが偶然なんだけど、その訓練の教官ってのが
母方の祖父で、結婚式に会ってびっくりしたそうだ。笑うに笑えなかったろうな。
312 :
コンバット:2001/01/13(土) 01:56
313 :
>312:2001/01/13(土) 03:47
非常にいただけませんな。
314 :
名無し三等兵:2001/01/13(土) 03:48
うちのじーさんは
身長が足らず、兵隊にとられなかった。
当時は随分「恥」だったらしい。
315 :
コンバット:2001/01/13(土) 10:47
もう一つ。
幼年学校の授業で、教官が
「ロシア兵というのは、将校に庭(か?畑とかだったか?)に水を
撒けと命じられれば、雨の日でも水を撒く」
と言った。親父たちは(2ch風だと)
「何で雨の日に水撒くワケ?ロシア兵厨房!!」
「激しく賛同!!」
「逝ってよしロシア兵!!」
と、大笑いしたらしい(しょせんは中学生)。すると教官は激怒し、
それくらい奴らは上官の命令に絶対服従の恐ろしい軍隊なんだ、と
説明しだした。
・・・大戦末期に、まだロシアを仮想敵国にしていた幼年学校って・・・
316 :
名無し三等兵:2001/01/13(土) 11:03
うちのじいさんのじいさんは西南戦争に薩軍として従軍しました。
317 :
元高校球児:2001/01/13(土) 11:05
>>315 あぁ、それなら俺等も先輩に言われてやったよ。
少しでも雨が降るとグランドに水を撒いて
練習が出来ないようにしたもんさ。
318 :
海軍航空隊少尉:2001/01/13(土) 12:39
319 :
コンバット:2001/01/13(土) 12:45
>>317 非常にいただけませんな。練習はちゃんとやらなければ。
>>316 詳しい話をお聞かせ願いたい。
320 :
田舎人:2001/01/14(日) 13:48
私の祖父はシベリア出兵で赤軍のパルチザン?と戦っています。
(祖父は自分が4歳の時逝去)
父から聞いた話ですが、祖父の部隊がシベリアのある地域の偵察?を
任務としている時、先に偵察いった部隊が帰還せず、予定より早めに
出かけたところ、先にでた部隊は森で全滅していたそうです。
なかには、両腕を縛られ股を裂かれた死体が散乱していたそうです。
実は前日、何らかの事情で祖父の部隊と先に出た部隊の出撃時間の
入れ替えがあったとの話でした。「何らかの事情」がなければ祖父
の部隊がここに骸をさらすことになったのだと・・・ もちろん
ここで祖父が死んでいたら、父(昭和19年生まれ)も私もいません。
また、祖父は戦場で生き残る人間は一概に元気な奴とは限らないと・・
負傷した者、病気の者でも生きて帰るという意志が強いものは死なず、
元気な者でもその意志が弱いものは数日前までピンピンしてたのに
バタバタ死んでいったと話していたそうです。
長々とすみませんでした。
321 :
田舎人↑:2001/01/14(日) 13:56
追加文:突然話の流れを変えてすみませんでした。
322 :
名無し三等兵:2001/01/14(日) 14:16
>>320-321
色んな話があってよいと思いますよ。
この話も含蓄があってためになりました。
323 :
コックニー:2001/01/15(月) 22:20
283>
>もっとも中野かなんかにあった主計学校?で大喧嘩しただとか
東京・中野にあったのは憲兵学校と、背中合わせに隣接していた
陸軍中野学校(スパイ養成所)です。
でも授業内容は類似していたとか・・・。
324 :
名無し三等兵:2001/01/15(月) 22:38
私の親父は戦争の時、噴きあがる米艦隊の対空砲をよく見物していたそうです。
なんでも夕焼けの中とてもきれいだったとか。
そのせいなのか今でも「日本軍は嫌いだが飛行機乗りは別だ」と言っています。
325 :
名無し帝国軍人:2001/01/15(月) 22:42
うちの爺さんはすごいぞ〜第一次世界大戦中、海軍で巡洋艦に乗り(八雲だったかな)エムデンを追っかけた(エムデンって知ってる?)
オヤジは特攻隊だった、出撃間際、公用で長崎、大村へ出張中、原爆が投下され、その帰隊が遅れ出撃できず、生き残りました。
326 :
名無し近衛三等兵:2001/01/15(月) 22:48
近衛連隊は、金持ちのぼんぼんとか地主のせがれとかが入ったそうだよ。
まぁよく言えば氏素性がはっきりしてる、悪く言えば、ぼんぼんの軟弱者の集まり。
うちの曾祖父さんは、宮城警備中、皇太子(昭和天皇)が捧げ筒した腕にぶら下がって、えらい迷惑したそうだよ。
327 :
名無し三等兵:2001/01/15(月) 23:08
うちのじいちゃんは陸軍中野予備校でしいたけヨーグルトを作ってました
328 :
名無し三等兵:2001/01/16(火) 00:20
>>320-321
「股を裂かれた死体」って見せしめのつもりだたんでしょうか?
むごすぎ・・・
329 :
名無し三等兵:2001/01/16(火) 11:54
妻の祖父は連隊本部部隊編成班にいた当時、徴兵の入隊日、病気を理由に来なかった
ものが数名。その日、部隊が編成され間もなく硫黄島へ、そして全滅。金を貰った上官が入隊日を
はずしてくるように配慮したらしい。
330 :
名無し三等兵:2001/01/16(火) 12:15
>>326 おおー!
うちのご先祖様も近衛連隊ですよ。
鹿児島は郷士の家で、当時は地主の八男だったのですが
薩摩閥バリバリのコネで入隊したそうな・・・
331 :
>326:2001/01/16(火) 14:05
うちのじーさんの弟は近衛騎兵だったけど小作農家の三男坊だ。
332 :
名無し三等兵:2001/01/16(火) 20:44
うちのおじさんは埼玉の地主の次男、低脳未熟大学卒のモボ
近衛第三連隊でシンガポール上陸
その後インド洋アンダマン群島へ
戦闘もなく毎日、土人を鮫にいる海に投げ込んで遊んでいたとさ
そん時いっしょに遊んでいたのは木場の材木屋のせがれ
333 :
名無し三等兵:2001/01/16(火) 21:43
関東軍で通信兵、後にシベリア抑留。
次に戦争があったら絶対に露助には負けないと言ってたが、
8年前に死去。
仇はおれが取ってやるぜ、おっちゃんよぅ。
334 :
名無し二等兵:2001/01/18(木) 03:42
うちの祖父。
時期は不明だけどサイパン島に行ってたそうな。
100人くらいの部下を従えていたそうな。
暇だったので将棋が大流行していたらしい(木を切って板状にして文字を書いて駒とする)
偵察の為飛行機に乗ってたとき、敵の船と思われる物を発見して
任務無視で、機銃で攻撃を試みたが鯨だったようで、同乗していた友と大笑いしたらしい。
察するに2名乗りの戦闘機かな?
特に怪我もなく、時期は不明だけど日本に帰ってきました。
大した話じゃなくてスマソ
100人の部下を持つっていうとどんな身分なんですか?
335 :
名無し三等兵:2001/01/18(木) 05:34
中隊長かな。
階級は、少尉とか中尉とかそのあたり。
336 :
名無し三等兵:2001/01/18(木) 07:34
うちの実家は教会やってんだけど。たまに来るへんな爺さん、うつろな顔でいつもブツブツと小声で何か口走っていた。明らかにアタマがおかしいので、気味悪く思っていたら、あとで母親が「あのお爺さんは戦争で南方に行って(どこかは不明)、人の肉を食べてしまったのよ」と教えてくれた。
337 :
>337補足:2001/01/18(木) 07:37
俺が子供の頃の話ね。その爺さんは、たぶんもう死んでるだろ
338 :
名無し三等兵:2001/01/18(木) 09:19
母方の祖父は近歩3に昭和3年入隊。別段いいとこのお坊ちゃんでも何でもない。
師範学校出なので、兵隊生活は半年間だけだったとか。
出るときに伍長になったとも言っていた。
339 :
名無し三等兵:2001/01/18(木) 09:31
母のおじさんは戦時中にアメリカの捕虜になって
生存が危ぶまれていたのだが、戦後日本に帰ってきた時には
前より太ってなおかつお土産にいっぱい缶詰を背負って
帰ってきたそうな。
アメリカに捕虜になったのは運が良かったといっていたと聞いている。
340 :
名無し三等兵:2001/01/18(木) 09:46
うちのじいさんは海軍の下っ端だった。
2・26事件のとき駆逐艦にのってて、東京湾にむかいながら、
下っ端同士で「どうやら陸軍とケンカするらしいぞ。奴らには絶対勝てない」
などとささやきあっていたらしい。
もっと詳しい話を聞きたかったが、10年前に死にました。
341 :
外基地君:2001/01/18(木) 10:00
うちの曾々々々々々々々々ジイさんは
ローマの百人隊長だった。186年のゲルマニア遠征に参加して
随分略奪、強姦してたらしい。
342 :
名無しさんの野望:2001/01/18(木) 10:02
このスレためになりますな。
父方の祖父は氷川丸に乗っていたらしいが、時期は不明。
自分が小学校低学年のときに亡くなったので、
戦争の話を聞いたことはありません。
豊田商事とかそういうのにホイホイ引っかかっちゃう
ドキュソな人だったようです…。
343 :
敵の攻撃を受けたときにあったかもしれない風景:2001/01/18(木) 15:13
じいさんの部隊にはクリスチャンがいたらしい。
ポケット聖書みたいな物もあって随分と敬虔な様子。
大陸出征中、敵の機関銃斉射を受ける。
皆、伏せるしかない。じいさんの横でそのクリスチャン
は恐怖でひたすら念じていた。
「なまんだぶなまんだぶ・・・・」
じいさん、変なところで「やばい時はやっぱり仏教やな」
と悟ったそうです。
344 :
名無し二等兵 334:2001/01/18(木) 15:48
>>335 質問の回答どうもです。
少尉だって!?
偉かったのか(w
たぶん100人の部下はホラで30人くらいの部下持ちと勝手に下方修正して覚えておくか・・・
345 :
名無し三等兵:2001/01/18(木) 15:57
去年の年末に一週間ほど病気で入院してました(場所はほとんど横須賀)
が、隣のベッドの81歳の爺さんは空母祥鳳のエレベーター係をしてい
たそうです。珊瑚海海戦で駆逐艦に助けられ、一時は筑波航空隊で
航空兵を目指して赤とんぼに乗っていたそうですが「不適格」となり、
海南島の基地に整備兵で異動になったそうです(新婚早々で送られて
頭にきたそうだ)。敗戦はペナン島のそばの基地だったとのこと。
昨日外来で病院に行ったついでにお見舞いして来ました。またこんど
行ったときに何か聞いておきます。(でもあの爺さん、祥の字を翔と
間違っていたようだけど大丈夫か?)
346 :
ひこチャン:2001/01/18(木) 16:13
ひいじいさんは静岡第34歩兵連隊の一兵卒として、チンタオ攻略戦に
出兵。じいさんは硫黄島から帰るケツから数えて3便目の飛行機で
帰ってきた。なんだか島つながりだな。さすがに親父は島とは関係
ないだろうと思っていたら、ガキの頃、目の前に撃墜された米軍機が
落ちてきて死にそうな目にあったそうだが、それが東京の拝島。
オイラはどこに行くのだろうか?
347 :
名無し三等兵:2001/01/18(木) 20:19
私が聞いた戦争体験。
その一
フィリッピン・ネグロス島で人を食った近所のおじさん
死んでる日本兵のを食べた。
感想:「あんまりうまくね〜よな、ああいう状況じゃなきゃ食わんよ」
当たり前だろうがぁぁぁぁぁ!!
その二
南洋群島のどっかの島にいた取引先の社長
ある日、空襲に来た米軍機を落として捕虜にした。
隊長以下、どうする、どうするとオロオロ〜
殺しちまうわけにいかんし、捕虜にしたら食わせていけない。
しかたなく捕虜の米兵を海岸に連れていき「おまえを捕虜にしても食わせていけんから、この海を泳いでいけ、遠浅だからかなり遠くまでいける、そうすればアメリカの潜水艦が迎えにきてくれるさ〜」
と諭し送り出した。
米兵が沖の方まで行くと潜水艦が浮上して拾われたと。
その後、空襲なし、、、「情けは人の為ならず」・・・・ほんとか??
その三
四国が実家の知り合いのお母さん
広島の原爆のキノコ雲を瀬戸内海の対岸から見た。
「あれ〜なんだろう??そうだわ今日はキノコご飯にしましょう」と思い立った。
しょせん、対岸の火事!
その四
九州が実家の同級生のお母さん
敗戦の後、二階建ての家より背が高いアメリカの松笠元帥が日本の子供を捕まえて電信柱に串刺しにするとの噂が飛び、山の中へ隠れた。
松笠元帥・・・マッカーサー元帥の事か???
その五
又聞きの又聞き、その又聞き、、ぐらい
大和の特攻出撃に同行した駆逐艦の艦長が横浜、鶴見の方で大きな会社を経営してるそうだ(もう死んだかも)
体の中に砲弾の破片があり、空港の金属探知機に反応するそうだ。
そのたびに、「これは大和が特攻出撃をした時の〜〜」と延々と始まり秘書の方が大変、苦労しているとか
まだまだあるぞっ!
>>347 なかなかオモロイ話だけど、原爆のキノコご飯はちょっと違うような。
キノコのシースンって秋だけど、原爆は夏じゃん。
でも夏に採れるキノコもあるかもね。
349 :
名無し三等兵:2001/01/18(木) 22:11
私が知ってる漫画家は、原爆で父と姉と弟を亡くしたそうです。
当時臨月だった母親は、奇跡的に助かったものの、被爆のショックで産気づき、
あの混乱の中で出産したそうです。
その漫画家は、食料を探しに行く途中、放射能の影響とおりからの猛暑のせいで
失神してしまい、死体整理に来た兵隊さんに死体と間違えられ、危うく燃やされ
そうになったそうです。
その兵隊さんに救護所へ連れて行ってもらうことになったそうですが、救護所に
つく前にその兵隊さんの髪が抜け始め、血便を垂れ流しながら死んでしまったそ
うです。
実際、その漫画家の髪も抜けて丸坊主になってしまったそうですが、すぐまた生
えはじめ、今でも元気に暮らしています。
352 :
名無し:2001/01/20(土) 09:10
ワン
353 :
名無し三等兵:2001/01/20(土) 12:44
私の父方の祖母とその親戚皆が広島に住んでいて被爆しました。
本当に地獄のような世界だったようで、親戚一家がたまたま目の治療をしに
市街地へ一家四人でジープに乗って来ていた所に被爆し、燃えるジープの
下敷きになった子供1人を助けようとして助けられず、後に火傷で一家全員が
死亡してしまった話や、祖母一家は市街から少し離れた別の親戚の家に避難する
途上、裸同然の火傷をした人とすれちがって持ってきていた布をあげた話や、
手を引っ張ると皮が剥ける人に、しょんべんがええと言うので皆でかけた話を
聞かせてくれました。祖母は被爆で腰の骨が曲がったり、疲れやすくなる病気に
なったりしましたが、78歳の今でも元気で、被爆者の会みたいな集まりがあって、
あっちこっち旅行に行かせてもらってます。
354 :
名無し三等兵:2001/01/23(火) 21:55
うちの父は、両親がピカドンで死んだと言って進駐軍の米兵から食いもん恵んでもらおうとしたとか。
結局もらえなかったそうだが、北海道じゃムリもない(笑)
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/23(火) 22:26
はだしのげんはぶさよく漫画
受験戦争だったら経験あるけどな。
357 :
名無し三等兵:2001/01/25(木) 00:11
うちの母方の祖父は、日中戦争から砲兵やってて、最後はビルマ方面軍に所属してたが、
インパール作戦発動1週間前に満期除隊したと言ってました。
やはり、例に漏らさず、「天皇に騙された」といつも言ってましたね!知り合いも随分
インパールで戦死したって言ってました。
そんな祖父が大好きだったので、俺が自衛隊に入っても「君が代」だけは拒否しました
よ<(^^;
358 :
名無し三等兵:2001/01/29(月) 12:35
僕の高校の生徒指導部の先生は全校朝礼の時、演壇に立ちながら、
「俺の親父は戦争に行きたかったけど、兵隊になるための検査に不合格で行け
なかった。そこで俺の親父は小指を切り落として兵隊の検査をする人に送って
血判状まで書いて抗議した。」
と自慢げに語っていました。それにしても一体何が言いたかったんだろう?
359 :
名無し三等兵:2001/01/30(火) 21:26
数年前まで私の職場にいた方に少しだけ話を聞いたことが有るんですが、その方がいた飛行場に南方で捕獲したB-17が来た、と言ってました。
ちなみにその方は炊事をしてたから軍隊でたいして苦労しなかったと笑ってました。今もとても元気です。
南方で捕獲したB17はD型とF型があったってね。
しかもF型の方には捕獲してから「フクちゃん」のノーズアートを
書いたそうな。昔もシャレが分かる軍人はいたんだね。
本題と関係ないからsageときます。
361 :
名無し三等兵:2001/01/30(火) 23:47
>>1 紅綬褒章が授与されるには、被救助者が生存していることが必要です。
代わりに、賜杯が贈られる方向で準備中とのこと。
362 :
名無し三等兵:2001/01/31(水) 18:19
俺のばあちゃんは戦争中、3キロくらい離れた町が空襲にあったらしい。
そのとき、子供だったばあちゃんの親がいなかったらしく、
恐くて家の前の木の下に隠れていたら
その町の爆撃で舞い上がったトタンや燃えカスが飛んできたそうだ。
それで、白い着物で隠れていたら爆撃が終わった後で近所のばあさんに、
そんな白い着物で隠れたら上から見つかると怒られたらしい。
それ聞いて俺は笑ってしまった。
363 :
名無し三等兵:2001/02/01(木) 15:05
祖父の兄弟に近衛になった人がいます。
馬に乗れて、背が高かったから選ばれたそうです。
馬車の前後に並んだ見栄えのための部隊だったそうで、
「田舎の百姓なら、馬くらい乗れるわな。」といっていた。
そんな田舎ゆえ、空襲で家が半分吹っ飛んだ人の話しは、
「イノシシが飛び込んできたみたいだった」と
緊張感のかけらもない。
364 :
名無し柔道家:2001/02/01(木) 16:13
少々時代が下りますが、
私の父方の祖父は占領時代、井戸の中で死んでいたそうです。
父は背広を着ていたため、浮浪者か浮浪児、朝鮮人の金目当ての反抗ではないか?と分かっただけ(なにせ世の中が混乱していましたから)だったそうです。
祖母は良家の出で、苦労しながら三人の子を育て、長男だった私の父も血を吐くような生活を送ったそうです。
365 :
名無しへっぽこ新兵:2001/02/01(木) 16:26
母方の祖父の友人に「戦艦大和」に乗り組んでいた人がいました。
ですが、大和と運命を共にしてしまったそうです。
名前も所属も当の祖父も亡くなってしまったので「ただ、大和に
乗っていた人」としかわかりません。
366 :
名無しへっぽこ新兵:2001/02/01(木) 16:27
>当の祖父も
「当の祖父が」でした。すみません・・・
戦争当時リアル消防だった親父の話でもいいですか???
リアル消防だった親父は、家族に連れられてその当時の戦争記録映画
を見てトラウマになってしまいました。
戦争物のNスペとかNHK特集を見るのを極端に嫌がります。
戦争がもたらした子どもの心の傷・・ってことで。でもsageます。
>>347 こ・・恐いですう〜〜〜
キ、キノコ雲で「キノコご飯」って・・・
369 :
@お腹いっぱい。:2001/02/04(日) 10:49
あーげ
370 :
名無し三等兵:2001/02/04(日) 11:05
亡くなった母が機銃掃射されたことがあると申しておりました。
驚かせるだけで当たらぬよう撃ってきたとのことでした。
371 :
名無し:2001/02/04(日) 12:01
人間は本当に恐ろしい思いをすると,思い出すのもいやで、語る
こともしない。生理的な嫌悪感だろう。
それが政治やマスコミもあるが,戦争後兵士が戦争を語らなかった
理由だろう。でも話し書き伝える必要がある。
それは巨大な戦史に参加した民族の義務であり,使命でもあるからだ。
372 :
名無し三等兵:2001/02/04(日) 13:57
他のスレに書いたのですが、こちらにも転載。
母の郷里は静岡の片田舎なのですが、同郷から海軍航空隊に入隊して
特攻隊に志願した青年がいたそうです。
ある日その青年は攻撃に先立ち最後の別れを告げるため母の住む集落
の上空に飛来したそうです。顔がはっきり確認できる程の低空を何度
も何度も敬礼しながら飛び去っていったそうです。母は子供心に泣き
ながら見送ったそうです。もちろんその青年はそれ以来二度と郷里の
地を踏むことはありませんでした。
この話を聞かされて私も思わず涙ぐんでしまいました。
373 :
名無し陸士長:2001/02/04(日) 14:20
俺の叔父は関東軍に工兵で出征したが、病気をやらかし、腹膜に溜まった水を
一か八かで抜いて生死をさまよった挙句何とか生き延びたが、体力消耗が著しく
後方に送られ朝鮮から本土に戻り、北海道旭川に渡り、北方領土色丹まで
戻ったが、その間に戦局は悪化し、満州の原隊は沖縄に移動して
首里城と海岸線の間の守備隊になって、沖縄上陸戦の早いうちから
全滅玉砕したそうだ。
色丹にいた叔父はソ連軍の侵攻になすすべもなく降参したものの、
酒保に忍び込んで食料をゲットしたが警備の露助に見つかり銃撃を受け
映画さながらに足元を弾着の土が跳ね上がる中、藪に逃げ込んで生き延びたという。
戦争って様々だね(笑)
80近くになる叔父に、沖縄に行った時に写真撮って御土産にあげたら
涙流して見ていたよ・・・
374 :
名無し陸士長:2001/02/04(日) 14:24
その叔父が戦後勤めていた会社の同僚の父親は、蒼龍の艦長でミッドウェイで
艦と運命を共にしたそうです。
375 :
名無し三等兵:2001/02/05(月) 12:55
うちの爺さんは甲種合格のクジ逃れで兵隊経験なし。
その弟は鳥海乗り組みだったがレイテ海戦前に結核で入院。
母方の一族も徴兵されはしたものの内地や、中国戦線でぬっくぬく。
一族郎党に誰も戦死者なし。
しかも両方農家ゆえ、戦後の食糧難もなし。
ラッキーとしか言いようがない。
376 :
名無し新兵:2001/02/06(火) 15:32
>>375 別の意味で凄いです・・・
リアル攻防時代の校長先生。終戦当時、広島にいました。(確か士官学校生
だったかな?当時)当然原爆にも逢ったのですが・・
そばにいた級友は殆ど黒こげ状態になったのにもかかわらず、殆どケガ一つ
なく助かったそうです。
卒業直前にその話を聞きました。
377 :
名無し三等兵:2001/02/06(火) 16:17
うちのぢーさんは、アメリカ海軍の将校だったそーな。
駆逐艦だか巡洋艦だかに乗ってたんだとさ。
ふーん。
378 :
名無し三等兵:2001/02/06(火) 18:30
>>377 あなたのおぢーさんはプリンス・ジョナ・クヒオ大佐ですか?
379 :
名無し三等兵:2001/02/06(火) 19:02
>>378 もうちょっと長い名前だったような?
それにあいつは自称空軍。
昔、一度だけそれらしい人物を銀座で見かけた。
白い軍服、レイバンのグラサン、変な靴(ハイヒールの男性靴)で、丸善の
前に立ちぼ〜っとしていたから間違い無いと思うのだが。
鼻も整形したというが、見た時は普通のやせ形日本人であった。
実話だ。(これは戦争体験にならんな)
380 :
名無し三等兵:2001/02/06(火) 19:33
うちのぢーさんは近衛兵だった(まぢ)
いまの陛下がお生まれになったときは近衛連隊全兵士に記念品が下賜されたそうだと。
「俺たちがお祝い出すんじゃねえのか」と隊内議論になったそうだ(結論は ま、いっか♪)
381 :
377:2001/02/07(水) 02:49
詳しくは知らないんだけどね・・・
何でも、うちのばーさまと結婚したのが問題になったらしく
(よーわからんが、海軍士官が敗戦国の女と終戦直後に結婚するのがよろしくなかったらしい)
サンディエゴに転属になったんだって
もちろんばーさまはおやじを一人で生んで育てたらしいわ。時代ってやつだねー、ってばーさん言ってた。
じーさまは今も元気で(いったい幾つになるんだ?あのじじい、をを!もう90超えてんじゃん)
ハーレーとかいうバイク乗り回してるよ
382 :
名無し三等兵:2001/02/07(水) 04:05
父方の爺さんは二等兵で南の島のほうへ行ったものの
病気で台湾へ引揚げた。島に残った人間は全滅した。
ぎりぎりセーフって奴だ。
父方の婆さんは洗濯干してたら、ドーン、と音がして
ガラス窓がビリビリビリーと揺れたので
近くに爆弾が落ちたのかと思って空を見上げたところ
広島の方にピンク色の原爆キノコ雲。
その婆さんの叔父さんが中将で
結構威張ってたらしい
母方の爺さんは従軍医師。
目の前で人が吹っ飛んで海に叩きつけられるんだそうな。
383 :
あげ:2001/02/17(土) 23:57
あげ
384 :
名無し三等兵:2001/02/18(日) 00:02
>381
ワキガ
385 :
名無し三等兵:2001/02/18(日) 12:49
うちの父は昭和一桁生まれで、子供の頃の体験..
京都の木津川付近で、高射砲(その陣地跡には現在も陸自の弾薬庫がある)で
B29が撃墜されたのを見物に行ったそうな。
窓のガラス(樹脂?)の破片がものすごく分厚いのに驚いたとか。
曲がったプロペラにそれらしい肉片がぶらさがっていたとかも言ってたかな?
で、焼夷弾を拾って帰って、それを薪がわりに風呂を沸かしたそうな。
さすがによく燃えたらしい。笑
386 :
名無し三等兵:2001/02/19(月) 01:43
ウチの爺さん(痴呆で老人ホーム入所中・コミュニケーション不可)
戦艦長門で甲板磨いてたって言ってた。
戦争が終わって米軍に接収された時は悲しかったって言ってた。
387 :
名無し三等兵:2001/02/19(月) 20:42
>>385 風呂釜(五右衛門風呂かな?)が傷むぞ。
388 :
名無し三等兵:2001/02/20(火) 23:02
389 :
名無し三等兵:2001/02/21(水) 02:28
父親は道後温泉の近くの町に学童疎開していたのですが、やっぱり昭和20年8月6日
の朝にきのこ雲を見たそうです。
隣の家のおじさん(もう亡くなられましたが)
どこかの捕虜収容所にいたときに、木工作業かなんかをさせられていて、
その木片でこっそりと花札や麻雀パイを作って遊んでたんだけど、
見つかって没収されたという話を聞きました。
どちらも自分が生まれる前に亡くなったんですが、
父方も母方も祖父は戦争に行ったのかどうかは聞いたことがないなぁ…
390 :
名無し三等兵:2001/02/21(水) 11:31
このスレの書き込みやNHKの映像の20世紀にもありましたが、
「グラマンのパイロットが笑っているのが見えた」
というのはどのくらいの距離(というか高度)で飛んでいる時の話なのでしょう?
飛んでいる飛行機のパイロットの表情が見えるなんて実感が無いモノで。
391 :
名無し三等兵:2001/02/21(水) 11:43
>>390 今、アメリカなんかで大戦機が飛んでいるのを実際に見ると、
高度20mくらいだったら十分にパイロットの表情が分かるよ。
392 :
名無し三等兵:2001/02/21(水) 21:44
母方の爺さんの話
昇進試験を受けたのだが、全くわからないので白紙で出したら
受かってしまった。何でだろうと思っていたら、上官が全部戦死
してその階級の人がいなくなったから試験を受けた人は全部受かった
んだと笑いながら話してくれた。80超えてるのにスーパーで
警備員として働いてるし、元気な爺さんだ。
394 :
名無し三等兵:2001/02/25(日) 16:02
age
395 :
名無し三等兵:2001/02/25(日) 16:34
亡くなったうちの爺様は駆逐艦天霧に乗っていたそうです。
天霧はニューギニア近海でケネディ艇長の指揮するPT魚雷艇を蹴飛ばして
轟沈させたそうです。
爺様はちょうどそのとき汁粉食ってたそうですが。
396 :
名無し三等兵:2001/02/25(日) 19:34
ageteoku
397 :
名無し三等兵:2001/03/04(日) 12:11
398 :
自コピペ:2001/03/07(水) 10:03
もう氏んだけど、俺のじいちゃんは戦争中、海南島に行ってた。
そこで農業関係の仕事してたんだって。位は上の方だったって聞いたけど。詳しいことはわからない。
日本が戦争に負けたとき支那(現中国)が攻め込んできて、殺されそうになったけど、
地元の人に助けてもらったんだって。その時は「日本軍は信用がない悪い部隊なのに地元民に助けられるか?」
って思ったけど今思えば、やはりある程度信用があったんだと思う。
その後の海南島は・・・
本当に台湾は、海南島のようにならなくて良かったと思うよ。
あーあ、もっと詳しく聞いとくんだった。この間ばあちゃんも芯だし。
399 :
名無し三等兵:2001/03/07(水) 11:07
400 :
棄て:2001/03/07(水) 11:20
私の爺さんは、山口で防空隊にいたと。
B29に歓迎の花火をあげていたそうだ。
とどかねーよな、でも、まあ、仕方ないって、仕事するか〜。
というような感じだったようです。
もう一人の爺さんはシベリアに抑留されていました。
その頃のことは、全く喋ってくれません。
ウチのじいさんの兄弟が二人とも戦争に行って帰ってこなかったよ。
長男であるウチのじいさんは南満州鉄道の鉄道員として終戦まで太原というところに
住んでいました。
次男は軍属として従軍し輸送船の通信員として働いていたみたい。
でも昭和18年ごろに対馬沖で船が沈没して戦死。
三男は上等兵として昭和20年6月ごろにボルネオ島で戦死。
戦後にウチのじいさんは帰国したんだけども・・あんまり戦争の頃のことは話さない人だったな。
親父は満州から引き上げる頃(当時5歳)の記憶があるくらい。
「列車の貨車の上に兵隊さんがいた」のは覚えていると言ってました。
402 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 00:00
昔住んでたうちの近くの山には、陸軍の高射砲陣地だか対空監視哨だかがあって、
その山に畑持ってたじいさんは、毎日通行証とクワもって山に登ってたと。
兵隊がダイコン盗んでしらばっくれるので腹立ててたら、ある日上官らしき人が
やってきて、普段のお詫びにってカンヅメくれたんで印象よくなった、って言ってた。
403 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 00:26
>74
また洗脳、洗脳か。聞き飽きたぞ。
激戦の経験者はその時のことを語りがらないのは世界共通。
404 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 00:37
家族で沖縄旅行にさっそったところ
祖父は「遊びにいくようなところじゃない」
と言って、いかなかった。
405 :
名無しさん@どっと混む:2001/03/18(日) 00:39
ウチの母方の爺さん
海軍の飛行機のりで、2.26事件の時、上官に「おい、よろこべ、
陸軍と戦争ができるかもしれないぞ!」って言われて超嬉しかった
らしい。大戦が始まる前に、訓練中、九州上空で事故を起こして
瀕死の重傷をおい、結局退役、事故をおこさなけりゃ、そのまま空母
の艦載機乗りになっていた可能性が高く、真珠湾の攻撃に出てみたか
ったとのこと、死んだ戦友に対して申し訳無く、今でも靖国神社には
よくいく。
大叔父さん
陸軍将校として上海にて終戦、武装解除したところ、敵さんの国民党軍
に、「今度は俺らの軍隊に加わって、一緒に八路軍(書き方間違えた?)
と戦わなねーか?」って言われたらしい。「一度、日本にもどってから
来られたら来る」っていってもどってきたけど、今考えれば「義侠心に
かられて一緒に行動せんで、ほんと良かった」と言っている。
406 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 00:52
私の祖父はフィンランド陸軍の兵隊、曾祖母はスウェーデン人
祖父は今、歯車メーカをやっている。
母親は日本人で交換留学で知り合った父と結婚
祖父は男の子の孫が欲しかったようだけど、女しか生まれなかった。
ヒゲがすごくてサンタみたいな祖父です
407 :
ケイ氏:2001/03/18(日) 00:55
うちの爺様、通信第2連隊(だったかな?)に所属してノモンハンと
インパール作戦に参加したそうな。
で、五体満足。
いや、通信ってたら後方勤務なんだけど、なんぼなんでん(藁
この、通信第2連隊ってのが良く判らないのです。
広島に居たとか、中野学校が第1連隊だったとか聞いたのですが、
詳しい方はお教え願えないでしょうか?
因みに、大戦末期に輸送船で移動中に船が雷撃を受けたが、護衛の海防艦が
盾となって船は無事、逃走に成功したそうな。
貴重品の護衛艦が居て、尚かつ襲撃を受けても無事に目的地へと船が
辿り着いた。
恐ろしく悪運の強い爺様であります。
408 :
名無し三等参謀:2001/03/18(日) 01:44
私の祖父は、戦時中に○芝で対潜哨戒機用の電探を開発していたそうです。まだ元気だよ。
その孫は、護衛艦の設計・・・マッドサイエンティストな家系だなぁ。
「戦時中なら、おまえも徴兵されてウンタラコンタラ・・・」と小言われた時に、
「おいらの仕事は忙しくなるけど変わらないよ」って答えてやりました(藁
409 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 01:50
>406
メール交換しようよ
411 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 18:17
父親の話(当時8歳)
昭和20年8月地元の海岸に、20kmほど離れた回天基地所属の艇が
座礁したそうだ。嵐かなにか、天候が原因だったらしい。
同じ地域の憲兵さんが、搭乗員をえらい剣幕で怒鳴り殴りつけ、
普段見知った人だけに凄く怖かったという。
ほんの一週間くらいで終戦、そして座礁した回天は戦後しばらく
放置されて子供たちのいい遊び場になっていたという。
また、近所に明野飛行学校分校の飛行場があったのだが、実状は
不時着御用達だったようで、残骸の山から風防ガラスの欠片を
拾ってきて遊んだりしたらしい。(これで場所わかるかな?)
最近になってよくそういう話をしてくれるようになってきた。
そういえば、親戚が2.26の時に反乱部隊に撃たれたな(^^;
413 :
ZU:2001/03/18(日) 18:27
>412
どこで?
首相官邸?湯河原?
414 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 20:22
漏れのおじちゃんは陸軍の通信兵で
南支に駐屯して居たんだが、
まいにち野豚食ってごろごろしてたら
いつのまにか戦争が終わってしまったと言ってた。
シナは日本軍の占領地に限って言えば
至って平和で、商店も普通に営業していて
そのころの内地なんかより食い物が豊富だったそうだ。
おばちゃんは復員してきたおじちゃんに
「毎日空襲があって大変だった」
「食料がなかなか手に入らない」といっても、
最初は全然ピンと来ず困ったと言う。
またおじちゃんは軍隊で軍馬と
生活してから馬が好きになり、戦後稼ぎができてから
競馬馬の馬主になった。「馬はかわいいぞ−」
といつもうれしそうに言っていた。
415 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 20:48
こないだ死んじまった近所の洋食屋のおやじの話。
昭和18年に徴兵で歩兵第1連隊に入営。
(?麻布に兵舎があったといっていた)
重機関銃中隊に所属し、
2週間ぐらいの速成訓練の後、大陸に
送られ、何度かパーロ(八路軍)との
戦闘を経験した後、輸送船に乗せられて
ハルマヘラ島に行くことになった。
しかし後1歩というところで、おやじの
乗った輸送船は米潜水艦に撃沈されてしまう。
しばらく波間に漂っていたら、夜になって
船が近づいてくるのが月明かりに見えた。
親父の言「その船がアメ公の軍艦だったら、
おれら捕虜にはなりたくねえから、
腹切らなきゃいけねえ。覚悟して船見てると、
へさきに菊の御紋章がついてるじゃねえか。
みんなオイオイ泣いたね。月明かりに御紋章が
光ってホントに綺麗だったなあ。」
呑んだくれでやせっぽちのおやじだったけど、
「これでも昔は重機を担いでたんで、
筋肉モリモリだったんだぜ。」といきまいていた。
おやじ、安らかに眠れ。
長レスですまん。
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/18(日) 20:52
いいスレだ。
最近のこの板のアホバカ化が嘘のよう・・・
ちなみにオレの祖父、伯父三名が体験者だがその話はいずれ。
>413
都内某所で。正確には「反乱部隊の将校」だな<撃ったの
場所を特定するとどこのだれだかバレるので、秘密(笑)。
418 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 21:56
419 :
名無し三等兵:2001/03/18(日) 22:03
>>199 亀レスですまん。
おもちゃ業界の歴史の本を読んだら、進駐軍の兵がおもちゃ屋の店先に
つるしてある日本刀のおもちゃ(竹とかボール紙製)をかたっぱしから
折ってしまう事件が続発したという記事を読んだことがある。
米兵が日本刀を恐れること、ほとんどノイローゼに近いものがあるね。
420 :
少佐:2001/03/18(日) 23:42
421 :
名無し三等兵:2001/03/19(月) 17:43
168 小峰れな
422 :
名無し三等兵:2001/03/22(木) 18:33
423 :
名無し三等兵:2001/03/26(月) 16:34
ここのスレッドはとても言いスレッドですね。
初心者なのですが話を一つ。
嘘だか本当だか分からないけど,具体的な地名が出てくるので
本当だと思われる大正最後の年に生まれた父の話。
父親(私のおじいさん)が、北海タイムスや朝日新聞で軍事評論を
やっていたために(その後は自民党の政治家になったらしい)
陸軍病院の軍医としてハルピンやら大連やら,中国を転々としていた。
日本に帰る時に,乗った船が世界で一番深い台湾方面のバチイ海峡(?)で
アメリカの潜水艦に当たって撃沈。その時父は,風呂に入っていて
船に衝撃が走ったので、警報のなる前にいち早く、ふんどし1丁で
刀を持って海に逃げたそうな。その結果、約300人船に乗っていた人達は
ほとんど死に、3日間ほど泳いで,生き延びれたのは,父を含めてたったの3人。
その3人は,日本の船だか,潜水艦に助けてもらったそうです。
その後、台湾の病院に1ヶ月ほど収容されて、無事帰国。
その後も,軍医として働いたけれどもなんといったこともなく。
広島原爆投下の日には、金岡(?)にある大阪陸軍病院で、
双眼鏡で空を見ていたら、なにかピカッと光ったらしい。
しばらくして,広島がすごい事になっていると聞き、そっち方面に
行こうとしたが福山かどこから先は、進入禁止。
戦後は、進駐軍の通訳をやったり、医療の研究でアメリカに渡ったりして
モダンな父だけど、人の事を貴様と言ったり、愚弄するとか変な言葉を
子供に使うのは止めてくれー。。。あと、指に粗塩をつけて歯茎をみがかせるのも。
戦争参加者とは信じ難いほど、わがままで、手のつけられない父親だけど
生き延びてくれて本当にありがとう。
長々と,すみませんでした!敬礼!
424 :
名無し三等兵:2001/03/26(月) 16:44
付け足し
父曰く、ロシア人は一人なら良いヤツだけど、集団になったら最悪。
朝鮮人は、日本人のフリして、威張って,中国人をいじめる。
中国人は、良い人が多いのに、いじめられていて悲惨だった。
朝鮮人とかきましたが、その時代の事なのでご了承下さい。
別に,韓国の方々に悪いイメージは持っていません。
425 :
無名四等兵:2001/03/26(月) 16:54
昔の職場にいた小父さん。いつもにこにこ明るい人だったけど
満州からの引揚者だった。
終戦後、引き上げるまでの間ソ連軍から
看護婦が欲しい。
といわれて、占領軍だから文句も言えず
話し合って何人かが行った。
しばらくしてから、また
看護婦が欲しい。
そんなのが何度かあってから
命からがら逃げてきた女性がいて
皆な兵士の慰み者にされたと知った。
それ以外の話は決してしなかった。その後どうしたのか
決して喋らなかった。
ふだんはおしゃべり好きな人だっただけに
よけい重さを感じた。
426 :
名無し三等兵:2001/04/04(水) 22:07
近衛兵って結構いるんですね。
私の母方の曾祖父は、長身、容姿端麗、田舎の旧家の次男、そこで職業として「近衛の兵隊」になったと聞いています。
除隊し、近縁の母の家に婿に入り商売を継ぎましたが、「東京弁」と立ち振る舞いが良く、商売に役にたったそうです。
別な話で
祖父は、商売で車を運転していた経験があるためか、戦車部隊に配属、中国に行っていたと聞いている。
この時の思い出話として中国の食べ物や風景の話はしてくれたが、具体的な戦争の話は一切しない。戦争は苦い思いでらしい。
祖父は、ボクシング等の格闘技は好きだが、寝転がっている人の頭を蹴るシーンを見たくないのでプロレスが嫌いだった。
祖父曰く、「あれはウソだ。人の頭を蹴ったら、頭の皮がはがれ落ちる」、実際に戦場でその様な行為を自分がしたことを言っていた。
生々しくて、しばらく温厚な祖父が怖く見えた。
427 :
名無し:2001/04/05(木) 22:28
a
428 :
名無し三等兵:2001/04/09(月) 21:01
うちの社長は元予科練。陸攻乗りを目指して赤トンボに乗ってるうちに終戦。
順当に行ってれば半年後には一式陸攻で米艦隊に特攻してたって。
でも、「銀河」の掃射機型があってB29をばたばた落としたとか、ちょっと記憶が怪しい…
429 :
名無し三等兵:2001/04/10(火) 05:49
近所のじいさんは大陸で中国軍と白兵戦をした事を得々と語る
彼らは大抵こっちが突撃するとすぐに逃げていってしまうけど
たまに根性ある奴が粘り強く抵抗してきてその時のチャンバラを
振りを混ぜて大袈裟に語り出す。
430 :
ふみ:2001/04/10(火) 15:53
ふみの死んだ親父は戦争のことは話さなかったがふみが成人したあたり、一緒に
酒を飲んだときには少しだけ話題になった。親父は東京の育ちだが疎開で母方の
実家である南樺太へ。8/15に終戦…のはずだが親父はそれを知らなかったとか。
その後もソ連軍相手にクラスメートとゲリラの真似事を続けるも10月末にT-34を
橋から落っことしたところでソ連兵にとっ捕まる。落っことしたはずに戦車に乗
せられてしょっ引かれたそうな。取り調べで14歳の中学生だというのを知られる
とキエフの共産党学校へ。アジアのあちこちから集められた子供たちと共産主義
についてご高説をたまわっていたらしいが、忠誠の度合いで増減するメシの量に
耐えかねて教官をぶん殴って脱走。日本に帰国したときには20歳、戸籍すらなく
なっていたと。当然、家族は全員消息不明。
どこまで本当か判らない。兄貴と妹は「ホラだ」と断言してる。ロシア人と朝鮮
人を罵倒するのに躊躇しない、会社が何度倒産しても飛行機の部品製造に関わり
たがる、やたら子供に甘い親父だった。
長文失礼しました。
431 :
名無し三等兵:2001/04/16(月) 21:54
いいスレなのでageとく。
432 :
名無し三等兵:2001/04/17(火) 00:51
戸籍によると、祖父の弟は昭和20年8月10日に西部ニューギニアで死亡している。
433 :
名無し三等兵:2001/04/17(火) 00:54
おれのオヤジは、おれがうまれる2年も前に死んだぞ
434 :
名無し三等兵:2001/04/17(火) 00:57
うちの祖父は駆逐艦乗り。しかし、上官からリンチに会い、船橋の
階段で死亡。せっかく海軍に入れたのに、こんな死に方・・・。と若き日の婆さん
は嘆いたという。じいさまの死の3カ月後に終戦。
所詮、戦争とはこんなもんかね。
435 :
名無し三等兵:2001/04/17(火) 02:23
うちの父方の祖父さんは 潜水艦乗りだったそうです。
たしか 伊27に乗ったことあると言ってましたね。
敵の軍艦を沈めた話しは聞いたことは無いですが、
潜水艦に乗ってた時の思い出で、当時の祖父さんは、
かなり偏屈な人で、みな ちょくちょく甲板に上がったり
してたのに、ひとりだけ 頑固に中で作業してたそうで、
それをみかねて艦長さんが、うちの祖父さんを甲板に呼んで、
たばこ一服させてくれたそうです。
あとは、アメリカ軍があっちこっちの海にいてたので、
仕方なく 潜水艦で敵も誰もいないオーストリアの南のほうの海に行き、
そこで甲板の上にあがって、外眺めてボーっとしてたりもしたそうです。
436 :
名無し三等兵:2001/04/17(火) 02:37
すんません435です書き間違いです
訂正 オーストリアの南→オーストラリアの南
オーストリアだとヨーロッパのアドリア海に行った事に
なっちゃいますね。
それだと お前の祖父さんUボートに乗ってたのかって、
言われちゃいますね(藁)
437 :
一般人。:2001/04/17(火) 18:49
うちの親父。昭和4年生まれで、今年72歳になるが、終戦の年、
@盛岡工業(旧制中)のグランドで、同級生と野球やってたら、
P−51が、一機だけ市内の中央の方に飛んでったそうだ。
親父達が、こっちにゃーこねーだろう、関係ねーやと言って試合を
続けてたら、P-51がひらりと向きを変えて、超低空飛行で、
見る間に親父達の方に突っ込んできたそうだ。
皆んな蜘蛛の子を散らすように逃げたらしいが、
親父だけ一人、皆と違う山の方向に逃げ、草叢に飛び込むと同時に
親父の真上をそのP−51が飛び去ったということだ。
機銃掃射は無かったそうだが、山の所為で機首を上げてなかったら
きっと撃たれていたと親父は今でも信じている。
まー、皆んな防空壕に入っていて、他に人っ子一人見えない中で、
野球やってる一団がいたら、そら目立つわなー。
Aそれと、釜石(製鉄所があった)の軍需工場に徴用されて行った時、
夜間、米軍巡洋艦隊の艦砲射撃に遭った時は、洒落じゃなく怖かったらしい。
普段、威勢のいい事を言ってる奴も、先生までも、震えながら涙を流していた
と言っている。
戦争末期には、一般人でもこんな体験が多いんじゃないかな?
平凡な書込みで申し訳ない。
438 :
名無しの笛:2001/04/18(水) 02:57
父方の祖父はNHK(当時はJOAQ?)の職員で戦争中マニラに赴任。そのまま帰ってきま
せんでした。自分が子供の頃(昭和50年代)、祖母、叔父(長男)、父(次男)が
何度かフィリピンに遺骨収拾&慰霊に行っていたのですが、結局詳しい情報は入ら
ず、昭和20年の春にルソン島のどこかで死んだらしいということしか分かっていま
せん。米軍が来てみんなで山に逃げたのですが、当時一緒に逃げた人たちを見つけ
て状況を聞いても、肝心なことは話してくれなかったようです。当時のフィリピン
の混乱状況でしかも民間人だったわけですから、多分楽な死に方はしなかっただろ
うと思うとちょっと鬱になります
祖母はその後働きながら子供を育てて、昭和50年代になってから諦めがついたの
か祖父の墓を建てて(当然骨は無い)、そして先週91才で逝きました。50何年かぶ
りに今ごろ祖父に会っているのでしょうか?
葬儀の時の親戚連中の話を総合すると、当時祖父は札幌の放送局への赴任を持ち
かけられたのですが「あんな田舎は嫌だ」ということでフィリピンへ行ったそうです。
札幌<マニラというのは解せないのですが、マニラは内地より良い生活ができて
いたそうです(米軍が残していった家電〜電気冷蔵庫とか〜なんかが使えたし、
遊びの種類も豊富だったとか)。戦況もまだ悪化していない時期だったからと思います
が、もしそこで違った判断をしていれば、父も自分も祖父を写真でしか知らない、
ということも無かったのに、とつい思ってしまいます。
なんか楽しくないレスですが、戦争に巻き込まれた民間人なんてこんなもんか
とも思います。
439 :
名無し三等兵:2001/04/19(木) 02:56
あげ
440 :
名無し三等兵:2001/04/27(金) 21:43
サルベージage
441 :
名無し三等兵:2001/05/02(水) 07:39
あとふたつで倉庫へ行くところでした。
あぶない、あぶない
442 :
大渦よりの来訪者:2001/05/06(日) 19:35
祖父の乗艦が判明。「四阪(しさか)」級だそうです。
あと、その前に乗っていた船は瀬戸内海で貨物船の衝角攻撃を受け(笑)、
座礁、沈没したそうで、その後乗った船だそうです。
伊豆の下田の先にある神子元島のあたりは岩礁が多く、
良く電探がそれを拾って(虚探?)よく爆雷戦が発令、
良く爆雷をまいていた。
200メートルくらい爆雷が飛んでいってから爆発するのに、
爆発すると下から蹴り上げられたような衝撃を感じた。
調停深度は大体60メートルくらいで飛ばしていた。
ちなみに、祖父は軍医で17歳の従兵さんがついていたそうです。
彼の配置は25粍対空機関砲だったとの事。
まだ聞いてきた話がある&割かし近くに住んでいるのですぐ話が聞けるので、
また話が聞けたら書き込んでおきます。
すいません、四阪級ではなく日振級だそうです。
ちなみに祖父は「占守」級と同級艦と言っていたのですが、
インターネット上で調べた限りでは違うようです。
何か、同級艦扱いできる理由でもあったのでしょうか?
444 :
名無し三等兵:2001/05/06(日) 20:01
>>434 おじいさんは何をしに「ふなばし」まで行ったの?
445 :
名無し三等兵:2001/05/06(日) 22:15
一時、工房のころ土方でバイトしてて
戦争に行ってた爺さんと一緒に仕事をした。
その爺さんは俺を見て
「あんたぁ体デカイから戦争行ってたら海軍だなぁ」
と言ってた。
背が高いやつは海軍行くもんらしい。
70越えてたのにすげー体つきだった。
母から聞いた話。
30年程前、まだガキだった兄を連れて母が実家に帰ったそうだ。
その頃兄はおもちゃの鉄砲で遊ぶのが大好きで、その話を聞いた祖父が
孫である兄を喜ばそうとして「これ持って帰れや」と、銃1丁をプレゼント。
母は別段おもちゃと疑わなかったそうだが、家に帰って父が調べたところ
引き金を引けば人を殺せる本物(実弾入り)だったらしい。
戦時中、肌身離さず持っていた大事な宝を譲ってくれるのはいいが
この銃だけは勘弁してくれと、後日頭を下げて丁重に返品したそうだ。
兄は「1発でも撃っときゃよかった」と今でも後悔している。
なんかずれた話ですまそ。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/07(月) 18:37
感動あげ
448 :
>437:2001/05/07(月) 19:37
こちらも岩手県話
@釜石の戦艦による艦砲射撃だけど五〇km離れた当町まで聞こえてきたそうだ。
遠くの花火のようにポンポン音がしたとか。
A母の実家が花巻市なんだが近くに花巻空港(当時軍用)があり、それ目当てに
わざわざB-29数十機が来襲、町を火の海にした。
小さい頃の母が上空見るとB-29がすぐ近くに見えて凄く綺麗だったそうだ。
家に帰って目張りした蔵を開けたら防火用水槽の水が熱湯になっていたそうな。
449 :
名無し三等兵:2001/05/07(月) 19:44
ちょっと話は違うけど、
雪風の乗員ではないけどよく整備を担当していた技術者出身のじいさんが、
「雪風をモチーフにした某イロモノ作品」の存在を聞いて苦い顔をしていた。
雪風を返してほしい、とかいう団体に属していたとか。
450 :
名無し三等兵:2001/05/08(火) 00:22
age
451 :
名無し三等兵 :2001/05/08(火) 19:01
>>449 それは松竹映画の「駆逐艦雪風」だと思うよ。主演は長門勇。
イロモノというか、いちおうお涙頂戴の戦争映画になっているが、
ビデオで見たら、同時期の東宝の戦争映画と比べてかなり痛い映画だった。
ウリは戦後初めて作られた護衛艦(始めは警備艦)ゆきかぜを使って
防衛庁全面協力のもとに・・てのがうたい文句だったんだけど。
ストーリーは冗長、特撮は屁たれ、主計兵が砲手入れしたり、
機関銃撃ったり、艦長が舵輪握ったりともうめちゃくちゃ。
これで話がおもしろけりゃいいんだがそうじゃない。
449のじいさんが怒るのも無理はないよ。
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/11(金) 14:51
age
453 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 15:00
私の祖父はビルマや中国の修羅場を渡り歩き、
シベリアに抑留される寸前で帰ることができたらしい。
帰ってきてから戦争のことを話そうとせず、家族に戦争のTV番組を見るのも禁じていた。
454 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 15:14
うちのじいちゃんは戦死した同郷の戦友の遺骨を
せめて一部分でも遺族に持って帰ってあげたいと考え、
2人ほどの手首を切ったらしい。
しかし、刀も良くなかったのかもしれないけど、
えらく切るのに苦労したんだと。
だからじいちゃんはバラバラ殺人事件なんかが起こると、
「犯人は根性あるな〜。手首でもああだったんだから、
胴体切るのなんて大変だぞ!」と変なことを感心する。
455 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 15:28
近所のじいさんが、戦艦大和の主砲制作のどっかに携わってたらしく、
大和の主砲はこの橋からあの橋くらいまであったんだぞ、
と自慢げに話してくれました。
456 :
体験者:2001/05/11(金) 15:45
皆さん爺ちゃん婆ちゃんの話ばかりですけど、戦争実際体験談を…
ギリギリ戦前の生まれだからほとんど覚えてないけど次の3つはなぜか
はっきり覚えている。
(1)東京大空襲の日母の背中に負ぶされて田んぼの中を逃げ惑ってい
た時、焼夷弾の火が田んぼの水に映って綺麗だったこと。
(2)夏の暑い日同じく母の背中に負ぶされて米機の機銃掃射に会い、
知らない家の防空壕に逃げ込んだこと。
(3)晴れ渡った空を銀色に輝くB−29の編隊が飛行機雲を引いて飛
んでおり、そこから突然ウインウインと音がして錐揉みで飛行機
墜落してきて翼に日の丸が見えたこと。
今度の「IT講習会」でもっと年上の戦争体験者がこのスレに実際体験
を出してくれると良いんだけど。
457 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 15:48
祖父母は子供たちの通知表を防空壕に大切に隠しておいたんだって。
458 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 16:03
うちのじいさんは呉で重巡鳥海の魚雷発射管を作っていたらしい。
それと呉で空母天城と戦艦榛名がハルゼー艦隊の艦載機にやられたところを見たといっていた。
またばあさんは広島の産業奨励館(今の原爆ドーム)で8月5日まで働いていて6日は山口県に転勤命令で行っていて助かったらしい。
459 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 16:08
父はドイツ軍と技術交換をするためブレスト港まで潜水艦で往復したと聞きました。
他の僚艦はやられ自艦だけが帰投したと聞きました。
460 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 16:19
家の祖父は、満州国の刑務所長をしていたため、ソ連にシベリアに連行されそのまま
行方不明になり帰ってこなかった。
祖母は、子供四人を連れ必死で日本に帰ってきたそうだ。
家には、祖父の写真は、家族で撮った一枚しか無いが軍服を着て軍刀を下げた祖父は、
恰幅がよく威厳があった。
ちなみに自分の家族は、みんな痩せていて自分だけ太っているため一時期自分だけ
血の繋がりが無いのでは、と疑ったが祖父の写真を見て安心した。(隔世遺伝らしく
体型、顔とも祖父とそっくりだった)
461 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 16:20
うちの爺さんは中国で農民の老夫婦を銃剣で殺した。
その後で西瓜を盗んで部隊の皆で食べた。
刺した瞬間の相手の顔と手応えが忘れられなかったそうだ。
爺さんが死ぬ1,2年前酒に酔ったときに急に話し出した体験談だ。
爺さんの戦争体験はそれまで聞いたことが無かったから俺も戸惑った。
どうしても嫌悪してしまった。
今にして思えば爺さんも複雑な思いをずっと抱えてきたのだろう。
462 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 16:40
>461
複雑な思いを持ってたんだから良いよ。
うちの親戚のおっさんは、捕虜を殺した体験を自慢げに話す奴だったよ。
もち嫌われ者だったけどさ。
どうも戦争で壊れたままになっちゃった人と、元の人格を取り戻した人が
いるみたいだね。
抱えた物も大きさを考えるとどっちが幸せだったんだろう。
463 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 17:24
この前、母と祖父母の家を片付けていたら
「こういうものがあると、おじいちゃんも戦争に行ったんだなーって思うのよ」と
母が出してきたのは、日の丸に書いた寄せ書きと、「武運長久」と書かれた
垂れ幕(?)のようなもの。少し前に見つけたそうです。
ちなみに母はまったくの戦後生まれ。
断片的に聞いたことのある話によると、その祖父(母の父にあたります)は
上海にいたらしいです。何をしていたのかは詳しく聞いたことはありません。
物資を運ぶ部隊とか、おぼろげに聞いたような…
写真が残っていて、これが結構いい男(笑。
制服から見ると、陸軍だったと思われます。
まだ自営業を営む健在振りですので、少しでも話を聞けたらと思っています。
464 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 22:12
>>459
それってメチャクチャ貴重じゃん。まだ健在だったら詳しい話聞いといて。
465 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 22:42
私の祖父は百姓するのが嫌で、陸軍に志願したそうです。
終戦時には中尉になってました。二等兵から中尉までずいぶん階級
差があるけど、10代で志願して30過ぎで中尉だなんて、よく昇進
したもんだと感心します。ちなみに士官には試験(ほんとにテストだけ)
を受けてなったそうな。
そんな制度があったとは話聞くまで知らんかった。
祖父の尻にはでっかい弾痕(太ももとの境目、しかも内側)があり、
大陸のある街の攻略戦の時、城壁をよじのぼってて撃たれたそうです。
恐るべしシナ兵、私は危うく生まれる前から抹殺されるところでした。
466 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 23:35
>461
スイカ泥棒するために老夫婦を殺すという部隊は
普通はないよ。
物資交換での徴発が普通だ。
背後状況を聞いておくべきだったな。
>>466 ありえる話ではある。別に物々交換が「普通」じゃないよ。
建前上は普通だが。
468 :
名無し三等兵:2001/05/11(金) 23:52
戦争体験ではないけど。
数年前、セガサターンの「ワールドアドバンスト大戦略」で
苦労して日本軍の勝利エンディングを迎えたところ、丁度祖父が入ってきて
流れている映像を見て一言、「戦争の(ゲーム)かい?」
少し悲しそうな顔をしたのを覚えている。
ホント厨房だったなぁ。自分にとっては日本軍の歩兵ユニットは単なる記号だけど、
祖父の世代にとっては一つ一つが自分や戦友かも知れないんだよね。
469 :
アルザス:2001/05/12(土) 00:06
>461
>462
私の「爺さんの弟」も南洋で原住民抹殺したとか言ってな…タバコ吸い吸い…
確か上官の命令で同期4人と一緒にスパイ容疑のある原住民を銃剣で3回刺したとか…
大叔父さん曰く
「あの時殺めた農家には悪いが…あの体験が有って「人殺し」が出来る様になったから
今、こうして生きて孫やひ孫と話が出来るって物だから…上官には『感謝』しなきゃなー
だだ、自分は80くんだりまで生きてるが逝くのは決まって地獄だぞ、あの戦争に加担した
人間は遅かれ早かれ、みんな地獄行きだ…」
と言ってやや毒の有る笑みを自分に向けました。
余談だが数年後その『上官』も飛行場奪取作戦の時に
誤って撃ち殺してしまったそうだが…今一反省してない
印象を受けるのは何故でしょうか?
470 :
名無し三等兵:2001/05/12(土) 00:14
どうにもできなかった!あいつ言うんだ『俺うちへ帰りてぇー帰りてぇー』
そればっかりだ 『国へ帰りてぇー 帰ってシェビン乗り回してえよー』
471 :
名無し三等兵:2001/05/12(土) 00:14
>467
それこそちゃんと戦争体験を聞いておけよ。
治安警備、宣撫工作に腐心した派遣軍は、
現地中国人への徴発に際しては、塩を中心とした物資交換を主としたのは
常識。
反戦本の読みすぎだろう。
472 :
名無し三等兵:2001/05/12(土) 00:18
スイカ一つ得るには、指先ほどの塩があれば事足りた。
そのために人を殺す必要はない。
あんまし言いたくないが、末端のすべての兵士にまでそういう「方針」
が行き届く組織ではなかったよ。
フィリピン占領でも「フィリピン人をチャンコロと同等に扱うな」
という指令が出たが、それでも末端で、軍の食料を盗んだ人間を
「見せしめ」として斬首したりするのを止められなかった。
大体農夫殺したのはスイカを得る為なのか?八路軍かなんかと繋がってる
と思ったんじゃないか?
>>472 「大陸打通」スレの350を見なさい。
当時は塩も貴重品でした。
475 :
対尾:2001/05/12(土) 01:58
うちの母方の祖父が大戦中に陸軍の士官候補生として千葉の駐屯地にいた模様。
子供の頃やれゼロ戦だの何だのと聞いたおかげで軍事オタになりました。
それから今になるまであまりそういった話は聞かなかったんだけど、
祖父にもいつ不幸があるかわからないので洗いざらい聞くことにしました。
まず聞いたのは空襲について。
千葉はB29の帰還コースにあったので東京上空で(故障か何かか?)落とさなかった
爆弾を数発行きがけの駄賃よろしく落としていくそうな。
「防空壕にいると爆弾が落ちてその衝撃で壕内の土がパラパラ落ちるのが
とても怖かった」と言っていた。
空襲が終わってしばらくすると前レスにもあったが日本側の戦闘機が現れる
そうな。「おそらく空中退避していたんだろうね」というと、「そうだな」
と答えてくれた。
あと「かなり低い高度でB")が飛んでいるのを見た」とか「霧のかかった日に
日本機が白煙を噴きながら落ちていった」とか聞いたんだが、一番印象深かった
のは東京大空襲の夜の話。
「東京が空襲を受けているっていうんで外に出て見てみたら東京方面が夕焼け
のごとく真っ赤だった」という話。その夕焼けの下で何十万人という方が亡くなった
と思うと涙が出るのを禁じ得ません。
その他にも「軍隊生活」とか「使用武器」についても事細かに聞いたのですが
それはまたいずれ・・・長レス御免。では。
>459
お父上が乗っておられたドイツ派遣潜水艦は「伊八潜」ですね。
昭和18年6月1日に呉を出港。
8月31日にドイツ占領下のフランスのブレスト港に到着。
10月5日ブレストを出港。
12月5日シンガポールに到着。
12月21日呉に帰航しました。
伊八潜の艦長、内野信二大佐が語った話が光人社NF文庫の
「艦長たちの太平洋戦争<続編>」(著者:佐藤和正)に載って
いますのでご覧になられてはいかがでしょうか。
ドイツ派遣潜水艦を扱った小説があるそうです。
『深海の使者』 吉村昭 文春文庫
以下にドイツ派遣潜水艦の話が載っていますのでご覧になって
ください。
ttp://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi2/sensi-igou1.html
ご丁寧な解説ありがとうございます。
知的欲求が満たされました。
478 :
名無し三等兵:2001/05/12(土) 02:43
俺の親戚も中国で民間人を殺したと言っていた。
ある数軒の村落をスパイの村であるとして皆殺しにしたそうだ。
中国軍の活動エリアからは離れていたし、どう見ても普通の集落
にしか見えなかったが、勿論反論など許されるはずもなく、彼自
身、ある家の家族3人を殺害した。
終わった後部隊は村の家を物色し、貴重な食料品等を持ち出した
あと火を放ったらしい。
あれが本当にスパイを摘発するために行った事とは今でも思えない、「戦争なんぞしたらいかんぞ、生き残ってもお天道様まともに拝めなくなっちまうんだ」が生前かれの口癖だった。
皇軍の「作戦」の名が付いた規律ある食料泥棒だってあったんだよ。
>474
だから、そういうのが本で得た知識にすぎんと言ってるのだ。
480 :
名無し三等兵:2001/05/13(日) 03:42
>478
それは「食料泥棒」ではなく「報復」だよ。
仲間がやられた(ゲリラで)。
怪しい村(諜報による)を急襲する。
そういうことはよくあったと思う。
食料徴発はおつりだな。
しかしそれが中国共産ヒの戦術でもあった。
意味のないテロ。反日意識を増幅させることを同胞の命を質にする。
まさに革命党のなせる技だ。
君も知っているだろうが、当時の日本軍は戦線拡大をしない方針。
治安第一、防勢戦略だった。
そういうことも視野に入れんといかんぞ。
これからはな。
481 :
名無し三等兵:2001/05/13(日) 03:51
無茶苦茶言ってるな。
非武装の民間人を「怪しい」という理由で皆殺しに
することを普通は「虐殺」という。
ベトナムでもコソボでも起こった、ある意味で戦争
とは切っても切れない事実だが、少なくとも正当化
できる戦闘ではないし、国際法でも認められる行為
じゃない。
>480
実際にはおつりが目的だったこともあるんだよ。
君こそ本で読んだ知識しか無いようだけど。
>>480 何かすごく情けなくなってきた。大丈夫か日本。
あーせっかくの優良スレだったのに。そーゆう話は他でやれ。ウゼエ。
485 :
名無し三等兵:2001/05/15(火) 03:12
考証とかはよそでやれよ
ダダモレ情報だからいいんじゃんか。
>480
キミこそ実際に見てきたようなことを言ってるが、
「君こそ本で読んだ知識しか無いようだけど。」
って、そんなことどうして分かるの?
自分が本で読んだことがなかったことを言われてうろたえるのが見え見え。
487 :
名無し三等兵:2001/05/17(木) 09:29
優良スレage
488 :
陸将補:2001/05/17(木) 12:44
上に関してなのですが。
藤井忠俊著「兵達の戦争」、毎日新聞「一億人の昭和史/日本陸軍史」中に
やはり同じ様な描写があります。
挑発という基本概念は存在するのですが、それに附随する方針要綱が
ちゃんとした形で存在しなかった。特に戦場という場所に於いては死文化されて
しまう事が多々ある訳で。
各師団や方面軍によって、その曖昧な法令がまちまちに定義されていた、
というのが誤解を生んでいる様な気がしますが。
だから宣撫工作も兼ねて軍規を徹底させていた所もあれば、
なんだかいい加減に挑発やってうっかり殺しちゃったりしてた部隊もあると。
だからどっちも真実ではある、っていうんじゃ駄目すか?
489 :
名無し三等兵:2001/05/17(木) 14:32
>>186 ビルマ関係の詳細知りたいのですが、
どうしたら入手出来るでしょうか?。
父方の祖父が鉄道技師で、多分軍属とし
てビルマにて戦死しているので詳細が知りた
いので宜しくお願いします。
490 :
陸将補:2001/05/17(木) 14:50
字間違ってました。徴発でしたね。すんません。
ちゅうか486はリアル消防と言うことで良いね。
492 :
名無し三等兵:2001/05/17(木) 16:41
詳しい話は聞けなかったが、爺さんは戦時中日本にいて、空襲があったので
子供たち?を山へ逃がしたらその山の方が爆撃されてしまい、慌てて駆け
つけたらバラバラになった死体が枝にぶら下がっていたそうだ。
そのせいなのか、どうしようもない飲兵衛の爺さんなので要領を得ないのだが、
今度素面のときにもう少し詳しい話を聞いてみようかどうか躊躇っている。
493 :
名無し三等兵:2001/05/17(木) 16:46
俺の爺さんは気象庁の役人だった
何をしていたのか聞いたら「犬を飼っていた」そうだ
なんのこっちゃ
494 :
名無し三等兵:2001/05/19(土) 06:03
>>480 君がなぜ体験していないはずの戦争についてあたかも見てきたように語ることができるのか
教えてくれまいか。スレッドのタイトルとの関係も含めて非常に興味がある。
496 :
名無しさん:2001/05/19(土) 08:28
497 :
ななしのごんべ:2001/05/19(土) 09:08
中国での蛮行は東京裁判でも日本側の資料として残っている。
またその蛮行を戒めるために出来たのが・・かの有名な戦陣訓。
ただ、中国側の抗日の話もあり、在中邦人を殺害し生首を
さらしたり、いろいろお互い残酷なことをし合っていた。
そういう状況を生み出してしまった高級将校には罪はある
と思うがなぁ。兵士には罪は少ないと思う。
私の爺さんは陸軍航空本部の情報技術参謀。東芝にいって
テレビを見て感動していたそうな。曾爺さんは満州で乃木大将に
文句を言いにいった人。坂之上の雲やらにのっていたときは
びっくりしたもんだ。
爺さんは幼年学校時代に辻正信からラブレターを盗み読みされた上に
破られた!といって怒っていたが、当時恋愛行為は禁止だったから
仕方なかったんだといっていたな。
>494
キミのような偉そうな口の利き方がなぜできるのか、
この板に出入りしている人物の精神傾向が知りたい。
499 :
ななしのごんべ:2001/05/19(土) 12:38
>>498 匿名だからさ・そんなこともわかんないの?
500 :
494:2001/05/20(日) 01:07
質問に質問で返すとは狡賢いやり方だね(笑)
>>494には答えられない、あるいは答えたくないのかな?
それはさておき
>>498の1行目の文と2行目の文は意味がつながってないね。
>キミのような偉そうな口の利き方がなぜできるのか、
口を利いてはいないが書き方が気に入らないなら今から丁寧にしましょう(笑)
>この板に出入りしている人物の精神傾向が知りたい。
そうですか。しかし私に尋ねられても・・
ということであなたの質問には答えました。私の質問(
>>494)の御返事待ってます。
501 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 01:43
くだらない。
アホか。お前ら。
というのは、横道でうじゃうじゃ言っている奴ら。
多くのスレは興味深い体験談だ。しかしこれを優良スレ
にしてしまおうという企みが合ったとしたら、2chファンとして
首をかしげる。
ここは2chだ。何でもあり。嘘も誇張もある。そのことだけは
自覚しておいてくれ。これを商売の材料にしたりプロパのネタに
されたりしてはかなわんからな。!
502 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 04:04
>>497 そのとき、辻をシバキまわしておけば・・・。
503 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 05:46
うちの祖父は海軍の兵曹長だったらしい。
ナウルで亡くなったそうだが、友人が骨を持って帰って来てくれたので墓はある。
ただ何の船に乗っていたのかとかは分からない。どうやって調べればいいのか...
504 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 06:40
うちの祖父の弟は海軍の少尉だったらしいけど大陸で死んだらしい
海軍でも大陸行くのかな 記憶違いかも
あと祖父はやっぱ大陸で馬に乗っていて痔になったらしいけど
騎馬隊ていうのはあったのか
そしてその後最後の召集の時危ないと思って満州に逃げたそうだ
そんなことできたんですね
505 :
一般人:2001/05/20(日) 08:03
親父(既出
>>437、当年72歳 盛岡市在住)によると、食料や生活物資が急に無く
なってきたのは昭和19年末のことで、それまでは、映画見に行ったり、洋食や
アイスクリーム食べたり、学校で英語習ったり(盛岡工業の教育方針で、当時珍し
かったとのことだが)ごく普通の田舎らしい、のんびりした生活を送っていたとの
こと。
それが、19年末から20年に入ると、空襲が始まって、列車が撃たれたり、鉄橋が、
爆弾の水柱で見えなくなったり(結局命中しなかったが)、戦争がいきなり身の回りに
迫ってきたそうだ。
生活物資も身の回りのものが急に乏しくなり、金属の供出が始まって、公園の銅像が
撤去された時には、もう戦争も終わりだなと思ったと言う。
家の近所でも、戦死者が急に増え、同年代でも予科練に行く人達もいて、あと1年
戦争が長引いてたら自分も危なかったなと言ってるが、おそらくその前に、食べ物が
無くなって、餓死するか降伏したんじゃないのかとも言っている。
田舎だから、都会ほど食糧事情は厳しくなかったのじゃないかと聞いたが、矢張り、
厳しかったとのこと。だとすると、海からの補給を絶たれたことが日本の直接の
敗因という説も頷けるが、当時の食糧自給率って、そんな酷いものだったのだろうか?
まさか、餓死者が出ようって時に地下経済にもぐったなんてことないよな?
>>505 戦地のヘータイさんに優先して回そうとしてアメちゃんの潜水艦に
沈められてました。
残った食料を国民に薄く広く配給すると?
金持ちと左翼運動家の小話を思い出してみてくださいな。
507 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 10:29
>505
山本夏彦の「昭和という時代」でも地方が比較的ましだったということは
描いてありますね。結局、統制や輸送の逼迫の影響を受けるのは都市部
のようです。農村では元々自給自足だったので影響は少なかったようです。
なにしろ、都市部の人間が買い出しに行けるほど食料があったわけですから。
508 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 10:43
親戚のジーサンは当時機関助手やってて、乗ってた列車が機銃掃射受けた事があるそうです。
それはそうと、ここはもう立派に「名スレ」だと思うが。
横道でうじゃうじゃ言ってるヴァカがウゼエってのには同意だが、何を言いたいのかよくわからんぞ>>501
509 :
ななしのごんべ:2001/05/20(日) 10:55
>>502 ノモンハンの前の話なんだが、
どつきまわしたかったらしいが、うちの爺さんも相手のお嬢さんの
家も高級(中将だけど)将官の出だったから、穏便にことを済ませたらしいよ。
(追伸しっかり結婚しているのであしからず)
しかし幼年学校って結構高級将校の子供の溜まり場って聞いている。
世襲制になっていたかもな・・
でも爺さんの兄貴は中国戦線で士官になった直後に戦死。
どんな風になくなったかは興味があるが、全然しらない。
辻正信はたしか、どんな家柄だったけかな?妬みとかあったんだろうな。
510 :
ろっぴー:2001/05/20(日) 11:14
≫502、509
辻はそのころからスパイまがい?のことやってたのかな。
陸士区隊長時代にいわゆる“士官学校事件”の黒幕の役割
を演じましたよね。
辻政信は石川県の貧農(炭焼き)の子供だったと
聞いたことがあります。高等小学校から幼年学校に
進学したはずです。秀才でありながら貧しさのため、
上級学校への進学をあきらめかけていた辻を
資産家(大地主?)が援助したらしいです。
当時の幼年学校進学者は旧制中学1年か2年修了が
ほとんどだから、高等小学校からの進学は珍しいのでは。
511 :
ななしのごんべ:2001/05/20(日) 11:28
>>510 検閲をやっていたかもしれませんな・。
まぁどんな恋文か破られたので爺さんも知らんらしいが・・。
こういう人の弱みを積み重ねておいて、
人を動かしていたりして・・まさかね・・うーん、ありえる。
512 :
ろっぴー:2001/05/20(日) 11:56
≫511
辻の孫は自民党総務会長の堀内。
去年11月の“加藤の乱”では自民党主流派の切り崩しで
宏池会分裂のきっかけを作った男。
さすが爺さんとともどもヘタレだね。
辻が敗戦後身を隠したのは華僑虐殺で責任を問われるのを
恐れたため。数年後のこのこと現われ、隠棲時代のことを
書いた本がベストセラー。それに乗じて国会議員になった。
おまえが逃げたおかげで戦犯にされた人間が何人もいるんだぞ、ゴルァ!
513 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 22:47
うちの父方の爺様は日中戦争のときに満州の方に出征して輜重兵をやっとった
らしい。その後除隊して戻ってきて太平洋戦争のときは銃後にいました。
よく酒を飲んで酔っ払ってばっかいたんだが、帰省していた時に親父と何の拍子
にか当時のことが話題になると、それまでコタツの横で寝ていた爺様がひょっこり
起きて部屋を出たかと思うと、しばらくして戦地でしていたベルトを持ってきて見
せてくれた。
その時は特に「へー」としか思わなかったが、今考えると、大事なものを見せて
くれたんだとしみじみ。ぶっとい革製の丈夫なベルトでした。そのじい様も3年前
に脳卒中で他界。もっと聞いていればよかったと後悔。今でも田舎の家には正装し
て馬に乗っている写真があります。それから、葬儀の後遺品を整理していると、ア
ルバムの中から伊号潜水艦と三段空母時代の加賀の写真が。その座の中で俺だけが
異常に興奮していた…(汗)
514 :
513:2001/05/20(日) 22:55
後、その爺様は分家からの養子で、本家の跡取だった方は陸軍航空隊
の偵察機のパイロットだったんだが、昭和18年にフィリピンで悪天候
だか機体の整備不良だかで墜落して戦死…。田舎の仏壇には飛行服姿
の遺影と靖国の写真がある。
とんでもないド田舎なので婆様の方はあんまし危険なことは無かった
らしいが、松根油をとる作業をしていて「こんなんで勝てるんかいな?」
と思ったらしい。
515 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 22:57
製薬会社の重鎮には石井731部隊の残党がいるって本当?
516 :
513:2001/05/20(日) 23:04
ついでに母方の爺様は勤労動員で呉の軍需工場にいってたらしい。
寝てるとこに空襲に遭って、慌てて避難したら周りの連中はちゃんと
服を着てるのに、自分だけが浴衣姿。歩く途中で周りの連中が「ほれ
帽子」「ほれ靴」などと、あちこちで落ちてるのを拾ってくれたらしい。
んで実家の母親(つまり俺の曾祖母)が食料品を送っていたらしいんだ
が、戦況が良かった頃はちゃんと届いたが、末期になると来なくなった
らしい。「途中で盗られたんだろう」(祖父談)
こちらはまだ存命なのでもっと聞いておこうと思う。
517 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 23:38
518 :
名無し三等兵:2001/05/20(日) 23:48
死んだ伯父貴は19年頃徴兵された。満州に行っていたが、オリンピック作戦に備えるために釜山に来たところで終戦になったそうだ。戦後すぐに帰ってきたって話し。
519 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 13:53
茨城県那珂湊(現ひたちなか市)出身の母親は、子供の頃敵艦の艦砲射撃で一度だけ
壕に入った記憶があるらしい。夕ご飯時で茶碗を持ったまま壕まで逃げたらしい。
以前「丸」に当時の米海軍の戦闘報告が載っていた。45年の7月14日にノースカロライナ、
アラバマ、ウィスコンシン、アイオワ、ミズーリ、(キングジョージ5世も参加)が日立
の軍需工場に対して16インチ砲を1207発砲撃したという記録だった。
母親の曖昧な幼少時の記憶と、米軍の報告が重なって妙にリアルな感じがした。
母親はそのとき以来、物音に敏感な臆病な子供になってしまったということだ。
520 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 15:51
うちの爺さんはパールハーバーでアリゾナに魚雷をぶち込んだそうだ。
昔ハワイに旅行して湾内観光したときに、アリゾナ記念碑をみて「ありゃ
ワシが沈めたんじゃ」と嬉しそうにつぶやいていた。
でも周りのアメ人に聞かれてないかソワソワしていたのが可笑しかった。
521 :
名無し三等兵:2001/05/21(月) 16:59
数年前,私の父(昭和10年生まれ)のもとに,郷里から電話がありました
曰く,「父親(つまり私の祖父)が抑留されていた捕虜収容所の資料(名簿)
がソ連側から公開された。その件で地元の新聞社からインタビューの電話があるから
受け答えしてくれ」というものでした。
数日後の夜,山梨の新聞社から電話があり、父は淡々と、自分の父親(つまり私の祖父)の
、そして自分達のたどった運命について語りました
父は自分の戦争体験を私に語ったことは有りませんでした
父が電話でインタビューの記者に語った事は、凄惨な、
しかし終戦直後の満州においては普通の光景だったらしい・・・
私の祖父一家は、父が子供の頃、山梨から満州へ、開拓団として渡りました
開拓民として、豊かな未来を信じ、農業に精を出していました
しかし、敗戦数ヶ月前、現地召集され、軍隊にとられました
働き手の祖父がいなくなり、当然生活も困窮したそうです
40歳近い農民を慌てて召集して、なんの戦力になるというのでしょう?
更に、敗戦直前、関東軍が、食用、家畜などを無理矢理供出(ていの良い略奪)させたそうです
そして、祖父一家のいた方面の関東軍は、ソ連侵攻の報を聞くや、
民間人を置き去りにして敗走していきました
農民たちから略奪した食料を持って・・・
そして、ソ連軍が進駐してきました
父の同級生の女の子はソ連兵に強姦されたそうです
さすがに父は語りませんでしたが
祖母も無事ではすまなかったことでしょう
祖父は捕虜になり、抑留され、そして収容所内で病死しました
現地召集の中年の農民が、最下級兵として軍隊でどのような辛い目に会ったのか、
みなさんにも想像に難くないと思います。
とにかくソ連兵侵攻から帰国するまで、
命があっただけもうけものだった、と父は語りました
新天地の夢と希望をもって満州の地に渡った祖父一家を待っていたのは
恐怖、怒り、絶望だったのです
輝かしい功績で戦史に名を残す勇士ばかりではないのです
鉄の供出が始まったとき、親父と祖父さんが家伝の刀類を油紙に包んで
畑に埋めて隠したのに、戦争が終わっても掘り返さなかったんだと。
何年も経って掘り起こしたら錆びてボロボロになってたらしい。
523 :
名無し三等兵:2001/05/23(水) 00:05
>>154 その人ってすごいエリートなんじゃない?
満鉄の調査部は後藤田も希望していたけど、落ちたって
試験日をまちがえたが、面接だけは受けたってテレビで言ってた。
524 :
対尾:2001/05/23(水) 00:36
祖父に再度事情聴取。
今度は使用した武器について。
祖父の部隊は工兵部隊だったそうなので大した武装は無かったらしい。
よって装備したのは九九式歩兵銃のみであったらしい。
だが、実射経験は無し。三八式は撃ったことがあるらしかったので
九九式との比較を聞きたかったのだが残念。
私は九九式はバイポットが標準装備であると思っていたが、
祖父の物には装備されていなかったらしい。
「生産の簡素化のためだろう」と祖父。
それから使用銃剣は自分たちの代まではきちんとした銃剣だったが
自分たちの次の代からは竹光になったとの証言。
作動性はやはり三八式の方が良かったか、と問うと、
九九式にはダストカバーが付いておらず作動は三八式よりも
悪かったとも話してくれた。
あと、訓練のみならてきだん(漢字が出ない)筒の訓練もやったとのこと
貴重な証言、感謝。
525 :
名無し三等兵:2001/05/23(水) 00:59
うちの爺ちゃんは関東軍の航空隊隊長を務めていて、
満州で南京から飛来したB-29を2機撃墜したんだそうな。
載ってたのは4式戦闘機疾風らしい。
ソ連が攻めてきた時に高地で囲まれて隊を解散、
2人一組で逃げるように部下に指示、
霜柱をかじって餓えを凌いで、命からがら包囲を脱出。
B-29撃墜で新聞に載ったせいで戦犯扱いになる為、
現地の軍需工場の工員に偽装して内地へ帰ってきた。
恩赦がでてから警察予備隊に入隊して、
F-86セイバーのテストパイロットをしていたんだって。
今は沖縄で隠居生活だけど、戦友会があるときだけは、
本土へやってくるよ。
うちの母方のじいさまは陸軍の職業軍人だったそうで、上官から可愛がられて
いたのだそうだ。
で、ノモンハンで右腕を負傷して、上官がじいさまを早く軍医のもとへ送り届けようと
車を貸したのだが、上官の車だから却って集中砲火を受けてやばかったとか。
結局被弾した右腕は切断することになってしまうのだが、そのときも麻酔が足りなくて
大変な目にあったとか。
傷痍軍人扱いで退役してからは利き腕でもない左腕で慣れない畑仕事を始めて
そちらの方が苦労が多かったとか。
確か大尉か少佐だったと言うのだが、負傷の特進が入っているのかいないのか
はっきりしない(なにしろ本人は生前こういうことを孫には話さなかったので、全部
母や叔母たちの話からの孫引きなので)。勲章だの軍服だのは戦後のこたごたで
全部紛失してしまったらしいし。
……いや、うちの母(戦後生まれ。たぶんじいさんが負傷してなかったらどのみち
生まれていない)が小さい頃遊び道具代わりにしてさんざんぼろぼろにしたから、という理由もあるらしいのだが。
一方父方のじいさまはたいそう背が低く、徴兵に取られることすらなかったのだそうで。
父方のばあさまも小柄な人だったので、母が見合いの咳で父方の祖父母を見たときは
「よくまぁこの二人から生まれてこの人(父)がこれだけ(と言っても160cm)大きくなった
もんだ」と思ったとか、ってそりゃ戦争と関係ないけど。
いずれのじいさまも天寿を全うし、もうこの世にない。最期まで生き残っていた
母方のばあさまもこのあいだ天に召された。父方のじいさまと母方のばあさまは
いとこ同士で、もともと知らぬ中でもないから、今頃四人で仲良くやってるのだろう。
527 :
名無しさん:2001/05/24(木) 10:30
俺のじいさんは徴兵で陸軍入ったんだけど、
南方へ転出直前に痔で入院。
その部隊は見事玉砕。
529 :
名無し挺身隊:2001/05/27(日) 06:49
軍事素人です。駄文スマソ。
うちの父方じいさん。昭和63年没、享年81歳。
日中戦争期と、太平洋戦争期に2回徴兵されたらしいです。
多分ぺーぺーの三等兵。
ばあさん曰く、かなり厳しい部隊だったけど
じいさんの人柄(おっとり系)で上官にかわいがられて、
何をする訳でもなく2,3年でとっとと帰ってきたそうです。
そいで近所の人につけられたあだなが「満州」。
いまでもじいさんを知っている人は「満州が」といいます。
満州に行く前か、旭川で軍服を着て撮った写真がありました。
そんなじいさんにも金箔張り、「満州云々」の文字と日章旗が描かれた
さかずき5個セットを賜りました。これはまだ実家にあります。
農民あがりの兵隊さんもこういうのもらえたのかしら?
いまでは日章旗が表紙に描かれた従軍時期のアルバムや、
日露戦争勝利記念はがき&切手(これは古すぎ?)しか
じいさんの戦争を語れるものがありません。
もっと聞いておけばよかったな。ぐっすん。
sage
67 名前:sage 投稿日:2001/05/25(金) 00:08
sage
68 名前:sage 投稿日:2001/05/25(金) 00:08
sage
69 名前:sage 投稿日:2001/05/25(金) 00:09
sage
70 名前:sage 投稿日:2001/05/25(金) 00:10
sage
71 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/25(金) 00:10
君と
72 名前:sage 投稿日:2001/05/25(金) 00:13
sage
73 名前:sage 投稿日:2001/05/25(金) 00:13
sage
74 名前:sage 投稿日:2001/05/25(金) 00:14
sage
75 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/25(金) 00:15
親近感を
76 名前:事実には反論できずと 投稿日:2001/05/25(金) 15:05
軍ヲタアワレ
77 名前:sage 投稿日:2001/05/25(金) 15:13
sage
78 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/25(金) 16:08
sage
79 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/25(金) 16:09
sage
80 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/25(金) 16:09
sage
優良スレだ・・・
よってage
532 :
名無し三等兵:2001/05/29(火) 15:14
軍事しろうとなので支離滅裂になるかもしれませんが、
うちのばあさんがちょっと時間があるとなんども語るおれのじいさんの話。
じいさんは調理師で軍隊でコックやってたらしい(どこで?と聞いたら忘れたと言われた、北のほうらしい。)
その後は群馬で終戦まで飛行機作ってたらしい、その工場で作ったじいさん手製のナベをうちではまだ使ってる、もしかして戦闘機と同じ材質なのかな。
戦後の方が大変だとも言ってた、おれの親父背負って闇市にいく電車乗ったとか
ボウル買うのに抱き合わせでしか買えなくて悔しかったとか、そのボウルもまだ使ってる。物持ちがいいのう
533 :
名無し三等兵:2001/05/29(火) 15:40
ふむ。
「泣ける話」スレと似て、良いスレだのぅ。
よってage。
漏れのGちゃんは与太話しかしてくれんかったよ。
「日本刀あったけど錆びたから捨てた」とか。
錆びさせるなよう。。。>ヴァルハラにいるmyGちゃん
友達の親は沖縄のどっかの島の出身だそうだ。(名前は失念、短かった)
中でも指折りの激戦区だったことは観光案内を読んで
初めて知ったらしい。
おじいさんもおばあさんも健在らしい。運がいい…
しかし、戦争についてはやっぱり一言も聴いたことがないということだ。
従兄弟たちが防空壕にきもだめしに行ったのがバれると
本気で怒られたりしたらしい。
体験話じゃない上また聴きで悪いが、唸った。
535 :
名無し三等兵:2001/05/29(火) 19:26
私の叔父はヨカレン。特攻訓練。
終戦時、家に来て娘らの前で泣きに泣いた。
「仲間に申し訳ない」
と縁側の柱に頭をつけて。前にも先にも人前で涙を見せない
剛の者で通したから、いつまでも語り草になっていた。
10年以上前に死んだ。
今でも飛行機の前で撮った飛行服姿が残っていて凛々しい。
536 :
シッタン:2001/05/30(水) 00:51
もう、今年もまもなく
沖縄の慰霊祭。
優良スレ。
537 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 00:54
「仲間に申し訳ない」
ホントに申し訳なく思うんだったら自殺するべきでは?
>>537 お前なら家族残して死ねるのか?
アゲで厨房質問してんじゃねえよ。
人間として恥ずかしい537サゲ
539 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 01:04
>>537 そうか?おれは535のじいさんみたいなのにはかなわねーって思っちまうけどな。
自殺しなかったのにはその人なりのわけがあるんだろうし。
つか、顔が凛々しいっつー時点で凄いじゃねぇか。
540 :
539:2001/05/30(水) 01:05
かぶった。すまん
541 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 01:06
いや、この際、家族も道連れでしょう。
ウソはいけませんねえ。男子二言なし!!
>>541 マジで逝ってくれ。お前当時の特攻隊員の遺書見たこと無いだろ。
何も知らない厨房は逝ってヨシ!
543 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 01:11
今の価値観で、戦争当時の人々の心境を推し量るのは難しいと思われ。
さらに若い人ならより難しいと思われ。
544 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 01:11
じいさん(今年91歳)に聞いた話。
じいさんの弟は昭和13年、中国除州で戦死したらしい。
習志野の戦車2連隊にいたらしい。
これって戦史上も正しい?
>539
当時の写真って本人が緊張して写るせいもあるけど
ナニか気合の入り方が違う気がする。
とても同じ人種とは思えない。我々はホントニ彼らの子孫なのかね?
546 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 01:39
ああ、無駄な戦争に敗けたドキュソ民族の末裔だよ。
547 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 01:45
>>546 あぁ、そう考えると悲しいがな。(いや、そんな戦争をしたって事が)
それでもあの当時の凛々しい顔の人々にはかなわねぇんだぜ、俺たち。
>>547 もちいと深い考察しろや。アメリカ軍の捕虜収容所なんかで
は給与がいいから皇軍兵士が堕落してゆくのが観察されてる。
それから、今ドキュソ軍部が同じ事言ったって誰も付いて行かない。
スレ違いサゲ
549 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 01:50
>547
あんな前近代な連中に劣等感持ってるのはお前だけ。
当時よりも現代の方が生きるのは過酷だ。
>>549 当時を知らないヒッキーのお前も逝っていいよ。
551 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 01:56
>549 550
ヒッキー同士、マターリしてろよ(藁
2ちゃんねらーならば
549と551が同一人物であることは一目瞭然(w
553 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 02:03
反面教師にしかならんわな。
写真写りがいいとか習字が上手いとか言われても
全然嬉しくないし尊敬もできんな。
それよか戦争に勝って欲しかったね。
全く無能な先達を持つと後進は苦労するな。
>>553 このスレの過去ログと「泣ける話」スレ全部読んでから言え。
煽りにしても悪質也。
>>553 軍事板書籍スレでべんきゃうしてください、厨房。
いいスレ荒らさないで。
557 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 02:16
552=554=555=556
お前も同罪。放置しろ馬鹿。
>>557 アゲてる君が一番ダメ。
煽るならせめてサゲでやりなさい。
559 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 02:29
無能は無能、それは歴史が証明している。
それを些末な部分を取り上げて無理矢理
美化するような慣習が残ってるのも同じ事。
死ねば聖人君子、歳とれば尊敬の対象なんて
冗談じゃない。犬死には犬死に、長生きは
まだ死なないだけ。
560 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 02:31
>あー、人間顔だよ。君はどうだ?
こう言ってるヤツの面をまず拝みたいよな。
>>559 スマン、折れはこういう知ったか厨房が許せないんであえて反論する>ALL
はい、じゃ聞こうか。君一体どれくらい二次大戦の事知ってるの?
なんで戦争起こったか知ってる?
あんたの人生が上手くいかないのを責任転嫁してない?
>561
お前よりはよく知ってるな。
ガキはクソして寝ろ。
565 :
晒しage:2001/05/30(水) 03:16
>563
結局お前が一番荒らしてんじゃねえか。失せろ。
566 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 03:22
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 2chで面聞いても意味ないよな。
\
 ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
★ 酒 保 ★ __ │古くさい煽り文句ですから。
======= _/☆=│ レ―――――――――――――
U ∩ 巛 (´∀` )
__ ∧ ∧__∧_∧⊂_ .)_ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( )日( ;)∇ < 厨房は調子にノって連発するからな。
― / |―-( )―― \____________
(___ノ ━┳━)
━┳━ └┃―・゙
 ̄ ┻ ̄ ̄ ̄ ┻ ̄ ̄ ̄ ̄
567 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 03:35
天皇スレによりますと戦争は国民の総意であったとか。
それならば戦死も特攻も敗戦後の生活困窮も、
全て国民一人一人の責任となり、何ら同情の余地はないですね。
まあ沖縄で何があったかは知っていますが、
本土の人間はとやかく言えませんね。
プッ
569 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 03:54
何キミ、プッしか言えないの?
なんかいって見ろ無恥無知厨房(藁
570 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 04:01
後醍醐天皇は?
後醍醐天皇は?
後醍醐天皇は?
後醍醐天皇は?
後醍醐天皇は?
後醍醐天皇は?
後醍醐天皇は?
フプ゚ッ
571 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 04:03
>568
なんだお前、遠吠えだけで一言も反論できないのか?
情けない厨房だな、
学校すらろくにかよってないんだろ。
ママのおっぱいがそんなに恋しいんなら、生意気な書きこみで
場をしらけさせるなよ。
下らん腐れ外道ごく潰し厨房だな。
糞面白くも無い、何か言ってみろ無恥無知厨房。(藁
私の祖父は戦前郵船会社に勤めていた。
その関係で戦時中は、軍属として、海軍省で勤務することになった。
母によると、帰宅後も、家に海軍省から電話がかかってきたことが、
何回かあったそうだ。
もちろん祖父は電話の内容をはなすことは無かった。
けれども一度だけ、家族の者に内容の一部を話したことがあった。
そのとき、電話を終えた祖父は、目に涙を浮かべて、
家族が語らっていた居間にやってきた。
そして「鎌倉丸がやられた」と一言いって、黙々と酒を飲み始めたそうだ。
573 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 04:36
/ \
/● ● \ /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ Y Y| なんかゴチャゴチャ
| ▼ | | | 言ってるだワン!
∫ |_人_ \/" \. \_________________
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_ ” \
/\ / \ | |" ”” \
| | (゚) (゚) | | \
(6-------◯⌒つ| | |
| _||||||||| | / \ | |
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\____/⌒\ ノ | / / |
/ | | | | | |
| |、_三__,| |__/| | | |_/ ̄ ̄/
| | ヽ| ト' | | | \ |\___/
| | | |_/ (((___|-(( ̄ ̄ _/
⊆, っ とー⊇
所詮、他人の死は他人の死。
574 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 04:45
こういう話、まさに日本人好みだよね〜。
偽善つーかさ、自分に酔ってるつーか、反吐が出るね。
オエッ。ゲロゲロ。
おれ、何度か目の前で人が死んでくの見たけど、
何とも思わなかったね。ああこれが自分でなくてよかったってね。
人間なんてそんなもん。否定できるか。
575 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 04:53
一方では親しい者の死を悲しみ、
一方では他国の人を殺しまくる。
いやー、人間てホンットに素晴らしいですね。
577 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 05:19
↑人間だからどうしたって?
578 :
名無し三等兵:2001/05/30(水) 08:01
人間なんてララ〜ラ〜ララララ〜ラ〜♪
>>567 キミノシッテル「オキナワ」ヲイッテミナヨケラケラケラ
582 :
535:2001/05/30(水) 11:34
私の書き込みをきっかけに荒れているようですね。
それにしても、
>「仲間に申し訳ない」 ホントに申し訳なく思うんだったら自殺するべきでは?
こういうことを本当にいえますか?
多分、あなたは実際には言えない人だと思う。
自分の心の弱さや実は優しさを否定して強がりたい、
自立したいという良き意思の表れなのでしょうが、
私の叔父も多分どこかに似たような心根はあったかもしれません。
が、やはり当時の心境としては自分のアリどころを見るゆとりもなく、
ただ混乱と悔しさと絶望という闇の中にいたようにしか思えない。
戦後しばらくは特攻崩れと言われるように荒れていたようですが、
後には名士とまでは行かないにせよ地元で地道に商売してましたね。
584 :
弥勒:2001/05/30(水) 14:47
うちのひい爺さん戦時中に借金の保証人になって白浜から身をなげました
・・・・・・なんか、本当にいいスレだったのに・・・・・・
別に感銘を受けない人には何も言いません、だからくだらないどうでもいいことで荒らさないで欲しいです。
こういう人にはかかわらずに本当に前のように自分の聞いた体験談を書いていけば元に戻ると思うのですが・・・。
残念ながら、僕の周りでそういう体験を聞いたことがありません。
申し訳ないけど、他力本願ですけど、体験談をもっと載せていただけませんか?
そして、また「いいスレだな・・・」と思えるようにしていただきたいです。
決して、荒らす人を悪く言うわけではないです。
ただ、かかわらずにしたい、と思うだけです。
好きでやっているんでしょうから「やめろ」という権利もないと思うし。
まぁ、ほっとかれて、誰も反応しなくなったらおのずと消えていくと思いますしね。
最後に一言、「本当にここはいいスレですね」byお稽古と、ひとりよがりの偽善者
最後が間違い・・・お稽古と>おけいこと
587 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 13:07
ベトナム戦争いった人が知り合いにいる人って、意外とひとりも話にでてないね。
ひとりふたりならいてもおかしくなさそうだけど。
588 :
名無し三等兵:2001/06/01(金) 15:18
恥・・・
590 :
へべれけ:2001/06/02(土) 07:10
ショボネタですけど、荒れたお口に。
祖父の霊前の写真は軍馬に乗った凛々しい写真。
死んだ原因を聞くと、内地で馬に踏まれて死んだとか。。。
(曾祖父は木こりで、倒れた木に当たって死んだらしくあまり運の良い家じゃないらしい)
母親は、昭和10年生まれ。終戦間際に空襲にあったらしい。
燃え盛る火の中、裸に近い女の人が気が振れたような感じでフラフラと歩いていた、
ってのをよく聞く。
戦地でも内地でも生と死が紙一重の環境って、今じゃ想像できませんね。
私んとこ、父方は馬に踏まれた祖父さん、
母方は離婚してて、戦地の話は聞けませんでした。
591 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 19:10
>>587 おれの従兄弟が、アメリカの大学に留学中、召集令状(?米国在住者にアトランダム
に来るらしい)が来て、一時カナダに逃げたと言っていた。
彼の話によると、少尉で後方勤務2〜3年、または、兵隊勤務で半年〜1年のどっちか
選択できたといってたが、本当かどうか分からん(彼自身そーとー山っ気のある人物
なので…。しかし、当時アメリカに留学中だったというのはホント)。
因みに、彼によると、前線勤務を希望した友達が、除隊直前に戦死したとのことだが、
ヤッパリ眉唾な気がする(藁。
592 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 19:21
自分が戦争行ったことある人って俺だけ?
593 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 19:29
>>592 おお!それを待っていた。詳細きぼんぬ!
594 :
591:2001/06/03(日) 19:38
15年程前、ビルの建設工事に来ていた電気屋さん(大手電機メーカーの
社員)から、飲み会の席で聞いた話だが、彼は、学生時代、ベトナム
戦争で日本に送られてくる米兵の死体洗いのアルバイトをしていたそうで、
内臓の色がどうだったとか、臭いが物凄くて体に染み付いてしまったが、
だんだん慣れて自分では匂わなくなるとか、酒の席にあるまじき話をして、
皆んな、すっかり食欲が失せてしまった。その日の飲み会が、程なく散会
したのは言うまでもない。
595 :
592:2001/06/03(日) 19:57
学生時代から右翼団体で活動してたんだけどさ、ソ連のアフガン侵行の時にゲリラを応援しようっていう運動があってね、若い者の中から何人か行ったんだよ、俺も含めて。
596 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 20:02
何人くらい行ったのですか?
また何年の話ですか?
597 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 20:39
89年。
20人ぐらい行ったかな。
現地では白人の傭兵部隊もいたけどね。
一ヶ月訓練を受けて、そのあと前線に出たの。
598 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 20:42
訓練ではどのようなことをやりましたか?
599 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 20:50
基礎体力訓練だよね。
マラソン、筋肉トレーニング。
後5キロもある銃を前に構えたまま走らされたり。
戦闘訓練はね
射撃でしょ、格闘技、武器の分解と組み立て、荒野での水の探し方とか。
他にも細かいのが結構あった
600 :
名無し三等兵:2001/06/03(日) 22:43
中学のときの塾の先生の話だが、エンジンとかの組み立てをやってて、
英語(カタカナ)禁止で、日本語でパーツを言うのが大変だったとか言ってた。
高射砲の話もしたような気がしたけど忘れてしまった。
阪神大震災の時近所のジイさん(元陸軍)が、亡くなった方をそのまま道路に
放置できないので、毛布等で覆っていたのだが「仲間を埋葬した時を思い出す。」と
言われていました。不謹慎だが手際が良いなと思っていた。
また夜に長田の方の火事の為に空が真っ赤になっているのを見て あるばあさんが
「また、空襲の時みたいなおもいをするのか。(避難生活の事)」と言って涙ぐんでいた。
お二方とも亡くなったらしいが震災の時に戦争の話はちょっと聞けなかったなぁ。
ちょっとスレ違いなのでsage。
602 :
名無し三等兵:2001/06/04(月) 17:39
あげ
603 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 02:34
いい話が多いね
604 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 13:21
アフガン行った人。もっと話が聞きたいな。
どんどんageるぞ!
605 :
名無し三等兵:2001/06/06(水) 13:42
Pcゲーム板のほうに、戦場へ取材へ行くことがあるという人がいたよ
こないだ田舎に帰った時、絶対に自分の娘(俺の母親)にも戦争の話はした事
なかったじいちゃんが、酒に酔って戦争の話をしてくれた。
じいちゃんは千葉県に駐留してた近衛兵(ごめん、詳しくないからよくわからん)
だったそうで仲間が上官のいじめに絶えられず井戸に身を投げてみんな
死んでいったって話しながらぼろぼろ泣いてた。俺も泣いちまった。
607 :
ななし:2001/06/13(水) 11:17
父方のじっちゃんはどっかの南方の島で艦砲射撃を受けたという体験を語ってくれました。
その後、シベリア抑留を食らって生きて帰ってきました。
母方のじっちゃんは大和の護衛艦に乗ってて大和の最期を見届けたそうですが、ホントでしょうか。
608 :
名無しさん@どーでもいいことだが。:2001/06/13(水) 11:22
609 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 17:35
f
610 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 17:49
うちのじいちゃんは、ティモールでのんびり畑仕事してるうちに
終戦になっちゃったってよ。
611 :
名無し三等兵:2001/06/18(月) 23:28
asage
612 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 00:23
このスレも末期症状だな。いいスレだったのに…。
何にでも寿命があるっつーことかな。
613 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 01:02
じいちゃんの話。戦地で食い物なくて全滅寸前にいきなり肉料理がでて、次の日、上官が処刑されちゃったってさ。
捕虜のだったんだって。
614 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 01:09
オレッチのじいちゃんは90歳。鳥取の連隊で中国に行ったそうだ。警官してたけど
徴兵されたって言ってた。当時としては170cmある大きな男だった。びんた喰らった
コトは無かったといっていた。伍長になって昭和17年に帰ってきた。警官でも兵隊でも
優秀だったみたい。落花生畑で豆食ってたら機関銃で撃たれて褌1枚で川に飛び込んだ
屁たれな経験から弾の飛んでくるなか、5人の部下を助けたみたいな勇ましい話しを
良くしてくれた。内地に帰るとき偉い人から餞別で当時の100円貰って殆ど使わず
ばーさんに持って帰ったみたい。戦後は警察でバリバリ仕事して、今では囲碁を打って
悠悠自適に暮らしてる。そんなじーちゃんがタミヤの日本歩兵セットをみて「凄く良く
出来てる」って感心してた。いつまでも長生きしてほしいです(^。^)。
615 :
濱:2001/06/19(火) 02:18
おかあが長崎の原爆を見たそうです。もの凄いキノコ雲で
あわてて、敵が上陸してくると感ちがいして、逃げたとか・・・
あと登校中、心無い米軍戦闘機パイロットに機銃掃射を数回
うけたそうです。 子供の集団に対して執拗な悪戯!
アメリカ人のパイロットって意外とクズですな。
616 :
名無し三等兵:2001/06/19(火) 02:48
親父は三人兄弟で、一番上は陸軍船舶工兵だったそうですが終戦直前は
瀬戸内海あたりで震洋の陸軍版の要員として訓練中だった。
親父(真中)は旧制中学時代、射撃の県大会で優勝、そのご褒美かなんかで
鹵獲したB17での搭乗飛行体験があるのが自慢。
終戦時は須走で演習中(陸軍一等兵)
弟は旧制中学生で、飛行場設営に借り出されてモッコかついでいたそうな。
三八銃にはそれぞれクセがあって、精度にも差があって苦労したとの事。
うちのじーさんは、中島飛行機のパラシュート技師だったので
結局戦地に行かずじまいどころか、徴兵もされなかったそうだ。
「技術のある人間が生き残るのだ!」がじーさんの口癖。
で、ばーさんの実家の親戚に満鉄のお偉いさんがいたそうなので
ばーさんは満州人貴族(?)とお見合いを数回したと言っていた。
618 :
名無し三等兵:2001/06/20(水) 00:22
614の続き。本家のじいさんは憲兵軍曹、戦後ハルピンで露スケに捕まりシベリア抑留
帰国後百姓、死んだばあさんの実家のじいさんは陸軍少尉で退役後は小学校の先生、じいさんの
妹の旦那は海軍少佐でラバウルから潜水艦で日本に帰国(←会った事無い^^;)、おかんの
父ちゃんは陸軍兵長、北支で露スケに捕まりシベリア抑留、帰国後はまじめに働き退職後は
鯉釣り三昧。考えてみるとシベリア抑留経験者が親族に2人いるのが凄い!!!
抑留中に栄養失調で死んだ仲間を埋めようとしたが凍土で穴が浅くしか掘れずに申し訳無かったとかいう
話しを本家のじいさんに聞いたときは涙が止まらなかった・・・。慰安婦の実態も本家の
じいさんに聞いたときは朝鮮人に疑問をもった。
619 :
濱:2001/06/20(水) 08:14
618−どんなかんじに疑問もったの?
620 :
名無し三等兵:2001/06/22(金) 00:01
619ー本家のじいさん曰く、軍人による徴用は無かったそうです。実際の慰安所などに
女性を斡旋していたのは、日本人、中国人、韓国人、ロシア人の民間人だったそうです。
軍からの依頼によって行われたのか彼等が儲かるとみて行ったのかは解りませんが、
慰安婦問題が出てきた時にちょうど本家のじいさんにこの話を聞いたときはマスコミ等
が本当に裏事情まで調べていたのかどうか?上の話のように慰安婦にされてしまった人が
その手配をした同胞に対して何も思わないのか?という疑問を持ったんです。戦争に
負けてしまったんだからしょうがないんでしょうか?(ホントはこんな事を言ってはいけないんだろうけど・・・)
621 :
濱:2001/06/22(金) 22:32
620、なる程、それはあっただろうね、現代の世の中でもあるしね。
ただ従軍看護婦と偽って戦地に連れて行った、と言う話も見逃せないな。
622 :
名無し三等兵:2001/06/22(金) 23:19
621、確かにオレもその話し聞いた事があります。そのような事も
真実でしょう、心が痛みます。
623 :
:2001/06/22(金) 23:29
うちのじーさんは、徴兵検査で、丙と最低だったので、毒ガス作りに
まわされた、と言ってました。もう、死にました。
624 :
名無し:2001/06/22(金) 23:59
>621 宅朝鮮人かな?
>621 さくらかな?
看護婦は資格が有るから、民間人が戦地に連れて行くことはない。
軍医がいて組織化されている。どこの国でも同じだ。
売春婦はどこの国でも業者が連れてあるく。
軍隊とは別だ。商売だからその都度料金をもらう。
金の流れですべてわかる。
従軍売春婦などありえない。従軍というのは軍隊の組織内という意味だ。
戦場売春婦はいるけどね。
625 :
名無し三等水兵:2001/07/01(日) 01:28
じーさんが言うのに出撃前に私物をきちんと片付けていく兵隊はよく戦死したそうだ。
だけん、じーさんは必ず1箇所は乱して出撃したそうだ。(ばれないように)後、
急に遺書を書いた兵隊も戦死したそうだ。生き残る教訓だな・・・。
従軍看護婦が戦意維持の為に強制的なセクースしてたのはホント。
例えば大岡昇平なんかも書いてるしね。
627 :
名無しさん@ドキュン:2001/07/01(日) 08:03
爺さんのガッコがグラマン(F6F)の暇つぶしで機銃掃射されたんだが、
ある先生が真っ先に児童見捨てて校庭の隅の便所に逃げ込んで、
米兵もそれを見ていたらしく執拗にその便所に銃撃を加える加える。
ボロボロになった便所に満足したかグラマンは去っていった。
因みに先生はいきてましたが、
銃撃中は他の教師も児童も腹抱えて大笑いしてたそうな。
なんか微笑ましいのか悲惨なんだか。
628 :
名無し三等兵:2001/07/01(日) 11:04
俺の母方のじいちゃん(軍曹)と、父方のじいちゃん(中尉)、調べてみたら
同じ甲府の49連隊にいた事が判明。
629 :
名無し三等兵:2001/07/01(日) 11:12
あ!逆だった!じいちゃんゴメンナサイ!
630 :
名無し三等兵:2001/07/01(日) 20:57
俺のじいちゃんはたくさん中国人を殺したと言っていました。
とてもたくましく思いました。
でも、もうボケてしまいました。
sage
sage
sage
634 :
名無し三等兵:
あげ