[19世紀後半(幕末)総合]南北・普仏・西南・日清戦争 07

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580名無し三等兵
本願寺隊
東西に分裂した本願寺のうち、西本願寺は戦国期の石山包囲網救援の歴史から親毛利(長州)の気風が強かった(東本願寺は親徳川)。
そのため幕末期も勤王の姿勢をとり、監視も兼ねて新選組の駐屯地にもされている。
西本願寺20世宗主広如は朝廷に献金を重ねる一方で、寺侍・松井中務の下で寺侍や武術に長けた僧侶ら約380名から成る「本願寺隊」を組織した。
師範役は後に紀州藩の軍制改革を担う北畠道龍で、寺内に設けられた武道演習場で刀槍の訓練に励んでいた。
鳥羽伏見の戦いが始まると手薄になった御所の警護を命じられ、広如門主、徳如新門、明如新々門自らが本願寺隊を率いて紫宸殿の守りに就いた。
明治天皇はの大阪行幸護衛も務めた本願寺隊は順次拡大していき、自派の寺より1名ずつ若者を出させ、砲兵隊と歩兵隊に組織し訓練を施した。
帰命隊・帰命無量隊などと呼ばれ、延べ37800余人が動員された。
この実績もあって真宗は廃仏毀釈運動に屈せず更に拡大していくことになる。