[19世紀後半(幕末)総合]南北・普仏・西南・日清戦争 06
1 :
名無し三等兵 :
2013/01/07(月) 01:07:09.74 ID:??? 19世紀後半総合スレです。
日本史で見ればペリー来航からの幕末動乱期から
幕府倒壊・戊辰戦争、明治維新・明治新政府、西南戦争、日清戦争。
世界史で見ればパックス・ブリタニカ、
インド大反乱・南北戦争・普仏戦争・ドイツ統一、イタリア統一
兵器史で見れば雷管発明、リボルバー発明、ミニエー弾、ガトリング銃、
アームストロング砲、ボルトアクション小銃完成、モニター艦、装甲艦(甲鉄艦)
四斤山砲(フランス製前装ライフル式の青銅製山砲)など
戦列歩兵・散兵戦などの歩兵戦術から、帆船や蒸気船などまで
19世紀後半の時代で軍事に関係することなら陸海軍問わず、
東洋・西洋の違いも問いません。
上記すべての分野に全部精通している人なんていません。
特定分野に詳しい神が降臨したら歓迎しましょう。
その人が何か別の分野で間違っていても、叩きすぎないようにしましょう。
このスレは、初心者には優しく、敷居は低く、荒らしはスルーしながら、過疎落ちしない程度にマータリ進行です。
20世紀は別スレで。
19世紀後半以前については、近世スレまたは古代・中世スレへ
前スレ
[19世紀後半(幕末)総合]南北・普仏・西南・日清戦争 05
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1346186862/
2 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 01:08:52.03 ID:???
3 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 01:09:40.16 ID:???
4 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 01:10:08.53 ID:???
5 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 01:10:26.15 ID:???
6 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 05:58:18.76 ID:???
/} )) / !____ | ̄`ヽ、_/ 〈: : : : : : `: . 、 )) 。 (( | - Y }ニニ=、: : : : : \ ・ o っ o _____ , オ r'`t---': : : :.ヽヽ: : ヽ/〃/ , " ==- ____ //{ /:∧:ヽ: :ヽ: : : : : : ! : :.:.l. . :;ゞ______________,.へ ____ / /:/: :レ': : /| ヽ:.{\:.\: : : :|: : :.:|. . l:ミ::::::::::::::::::::::::::| |////////| ヽ ==− . /:/: : : : {: :l ヽ \ `ニ弌ヾ| : :.:.|::./::《〜〜〜〜〜| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ア / ── /:,イ: : : : :.l: :|/ l: : : |/ :.:ミ` ────┘____ / / |/ {: : : : : |X| / |: : :.|⌒i : ` 、ヾ・、 ==- / / | : :l : : |. ≠─┼: : |_ノ :.\ っ o / / |\ | : :l : : |ヽ -─‐ァ |: : :.|x: :∧ 。 ゚ | { j ヽ ((.. |: /l : : |::.ヽ / xx|: : :.l^}/ ', `ー――‐" ノ |/ !: :ト:.::八 xxx o .ィ'´|: :./ ̄歹 ` ----------‐´ ____ . c ヽ|:.:.:∧`:.ーr:t.7T 「/ ノ/ <__}{.| ==─ . |:.:/ V:.:∧l./ | / / | , -‐┐ . ((. ∨ ∨ / / l |'´ : : :.:} これは刺さってるんじゃなくて /) V ! / , '´ ! : : : : :| 乙なんだからねっ! 〈¨ / | // |: : : : : }
7 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 18:06:47.46 ID:???
大河の冒頭で八重が無反動銃使ってた件。
8 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 18:53:25.53 ID:???
八重は自分の体格に合わせて射撃精度を向上させるために .56-56スペンサーリムファイアカートリッジの装薬量を減らしていたんだよ。
9 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 19:09:54.45 ID:???
火薬の調合・配合シーンなんかも出てくるかな?
10 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 19:17:29.73 ID:???
お前ら、たかが大河ドラマに何を期待してるんだ・・・
11 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 19:26:51.97 ID:???
「坂の上の雲」以降、戦闘シーンは、なかなか頑張っているように思えるからの。
12 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 19:38:00.96 ID:???
もうこの際だからマドラックスみたいにしちゃえよ。
13 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 20:02:06.80 ID:???
大河の会津戦争は八重を中心に描かれるということは 城に篭って徹底抗戦した白虎隊1番隊もちゃんと描写されるのかな
14 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 20:47:37.25 ID:???
フレンチ・インディアン戦争の映画で女がピストルを撃つ場面を 観たら、煙は盛んに上がっていたが、そこで画面を一瞬転換して 反動の無さを誤魔化していたな。
15 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 20:50:08.02 ID:???
大河頑張ってたと思うが銃の反動はなんとかならんかったかね? あと戦列歩兵ももうちょっと密集感が欲しかった
16 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 21:03:13.37 ID:P1VwN1Dq
17 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 21:04:38.66 ID:???
18 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 21:07:23.65 ID:???
あの人数の歩兵をきっちり密集させたら、中隊規模も無い、ものっそい奇妙なゲティスバーグになってまうのでそこは勘弁してあげて。 エキストラ、100人いるかいないかだろう、多分。
19 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 21:10:03.15 ID:???
>>8 リムファイヤのリロードなんてできねーよ、アホ
20 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 21:18:05.58 ID:???
>>15 19世紀後半の戦闘って肩が触れ合うほど密集してたんだろうか。
前のスレで普墺戦争の時、あまりにも密集してたので榴散弾の一撃で立ったまま死んでいた集団がいたと見かけたが・・・
21 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 21:30:57.15 ID:???
そういうのはフランスの75mm野砲でやられた第一次大戦のドイツ兵でもいたらしい。 まあ分列行進中にやられたのかもしれないけど。
22 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 21:31:21.29 ID:???
>>20 密集する安心感は代えがたいものだからな。
特に先込め銃は発射まで時間がかかるわけで、
その間にチャージされるのは怖い。
23 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 22:38:32.73 ID:JSIetTCt
映画のゲッティスバーグの中のピケットチャージも不揃い、だらだら(失礼w)に見えるけど、どうなんでしょ。
24 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 00:15:05.02 ID:???
>>7 去年の汚盛の合戦描写の酷さに比べたら気にもならないレベル。
25 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 00:25:14.95 ID:???
>>13 八重が「よーく狙って撃ちなさい」って言った子供達がそうじゃね?
26 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 00:40:21.44 ID:???
鶴ヶ城の崩壊っぷりは会津戦争ドラマ中秀逸の予感
27 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 01:54:41.47 ID:???
>>23 密集度ではおkなんじゃね
徴兵制始まったばっかでボランティア主体だったし、欧州最強の一角を占めてたエビ……もとい英国陸軍の様にはいかんだろう
28 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 04:41:43.22 ID:???
>>13 描いて欲しいよね
白虎隊=集団自殺 みたいに語られるのはもうイヤだよな
集団自殺したのは300人中20人なのに。
29 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 08:26:59.54 ID:???
>>18 向こうの南北戦争マニアの人たちなのだろうか?
30 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 09:42:46.16 ID:???
この際、伝習隊についてもくわしく描写して欲しいなあ。 皆殺し丸とかね。
31 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 09:58:41.77 ID:???
32 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 14:26:19.43 ID:???
>>28 しかし包囲下の若松城攻防戦もなかなか悲惨だぞ
母成峠を破られてから城に報告が来るまで丸一日かかり、
戦時態勢を取る暇もないままに新政府軍城下に接近
藩主は予備戦力を率いて出撃しており、これは間に合わず滝沢で阻止され、
そのために城にはまとまった戦力もなく、城下への警報の発令も遅れたせいで
避難が間に合わず城下にいた町民や武家の家族に次々と犠牲者が・・・
城でも合言葉が言えずに殺された者や酒に溺れてる者がいれば、藩上層部への不平不満が
公然と口にされてたり、怪我人も溢れているし相当な混乱ぶり
33 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 16:43:58.36 ID:???
白虎隊って全員何も知らずに腹切りした集団だと勘違いして批判する馬鹿が耐えないのがつらい 別働隊にいて生き残って海軍大将になった人もいるのに
34 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 17:29:49.62 ID:???
会津人自身がそういう風に宣伝してきたからな。 いままで明治政府では賊軍出身は出世の面で差別されたっていうスタンスでやってきたから 大将まで成り上がった奴がいるとかはあんまり知られたくないんじゃないの? 柴五郎とかもあんまり自慢しないよね。充分賞賛に値する軍人だと思うけど。
35 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 18:21:24.00 ID:???
紫五郎の方が大河向きだと思うのにね。
36 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 18:35:10.30 ID:???
戦前は「軍国主義」の宣伝でナチスドイツやファシストイタリアとの縁も深かったけど 「なかったこと」にしてるしね ヘタリアでローマ帝国の碑が会津にあるとポロっと触れてたけど(ムッソリーニからの寄贈品)
37 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 19:07:13.92 ID:???
38 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 19:21:20.77 ID:???
エチオピアは速射型ライフル銃を相手にしてすら勝ってしまう軍隊を持っているからな まあ地の利が大きいけど
39 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 20:13:07.11 ID:???
柴五郎さんは晩節を汚したからな、それが惜しいところだ。 昭和20年7月14日、時局の説明を受けた際の柴五郎大将の主張を聞いた 大本営陸軍部戦争指導班の感想「無能これを馬鹿大将と言う」 同年8月11日、財部海軍大将と懇談 「関東軍は2、3年は遊撃戦をソ連軍に対して遂行できる。米英もその間には屈服できる。 何で講和を求める必要がある」と柴大将は主張したと聞いたことがある。 幾ら何でも嘘と思っていたら、歴代陸軍大将全覧でも似たようなことが書いてあって唖然とした。
40 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 20:17:01.20 ID:???
どんなに素晴らしい人間でも耄碌するんだよ。
41 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 20:29:38.91 ID:???
1860年生まれだから85歳か ボケてても仕方ないな
42 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 20:49:19.31 ID:???
>>41 今の85歳とは違うもんね
平均寿命を遥かに超えてる
耄碌するのはやむを得ない
過去に武勲ある人間だからこそ、周りの人間がツッコめなくなって
どんどん変になるという感じかも?
43 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 20:53:19.07 ID:???
つうか昭和20年の夏の時点で爺さんにお伺いたてるって色々な意味でファルスだなw
44 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 21:13:20.08 ID:???
東郷平八郎を思い出したわ……
45 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 23:15:35.44 ID:???
46 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 00:35:28.94 ID:???
47 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 02:17:16.09 ID:???
300人の新政府軍に2000の守備軍が壊滅したんだから西郷頼母の責任だろ白河城 前後7回の反撃も各藩の兵力を全然合同してない。 装備以前に戦術というか軍事的能力が致命的に欠落してるんだよね会津藩は。 戦国時代レベルの軍事的ノウハウすら失われていた、 つまりただ会津武士が弱かったということに尽きる。
48 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 07:12:16.20 ID:???
>>47 まあ末期の武士なんて公務員みたいなもんだからなあ
49 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 07:43:04.87 ID:???
>>48 自衛官だって公務員なわけですがw
公務員としてまじめに防衛を研究してもらわねばのう…
江戸中期以降の武士は、大半が公務員ですらなくて内職職人…orz
彰義隊もヒドいもんだった
50 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 07:43:27.83 ID:???
>>47 保科家会津藩の設立は1643年だから伝承すべき戦国のノウハウがそもそもなかったんだよな〜
槍自体は猛訓練で西は柳川・東は会津と言われるまでなってたけど
下手に観念論的な武士像が強すぎて実戦についていけなかった面は否めませんね
51 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 07:58:10.47 ID:???
多少は上層部に奢りや油断のあった部分も影響してるとは思うけどね 京都を出発した東征軍は1万 彰義隊に伝習隊等の幕軍脱走兵や流山に陣をおく新撰組等を総計すると8000〜1万くらいはいく 榎本艦隊も加えれば旧幕府勢力だけでも新政府軍にやや優勢とすら思えるくらい 会津藩や桑名藩を勘定に入れないでこれだから、この上さらに列藩同盟が出れば まさか新政府軍が断固として攻撃に出てくることはないだろうと見てたんだろうな
52 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 09:21:42.76 ID:???
>>47 それは会津藩の問題というより列藩同盟の問題だろ。強力な戦争指導体制を
確立できなかったという。
>>50 会津の槍兵は鳥羽伏見でも戦果上げているから
実戦ついていけなかったってことは無いんじゃない
まあこの時代に槍で突いていってもアレだけど。
53 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 09:52:02.36 ID:???
米沢藩の砲術も空回りしか感じがあるが、 野戦では砲術や槍術うんぬんよりも、物見の配置とか、伝騎をきちんと走らせるとか、 夜討ち朝駆け、スピード・ショック・サプライズみたいな戦国時代的感覚の方が重要なんだよな。 庄内藩や盛岡藩はそこらへんの伝統が残ってたから秋田蹂躙できたのかも。
54 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 10:19:12.40 ID:???
>21 :日本@名無史さん 2011/02/19(土) 22:07:26.05 >「戊辰戦争書留」と言う本の中の、盛岡藩が雫石の農民を訓練したときの記述だと、 >敵を撃つときは3、4人が一組になって草木に隠れて前進。指揮官の号令で一斉に立ち上がって同じ目標を射撃。 >太鼓が鳴ったら一斉に前進。鉦がなったら一斉に退却。白兵戦のときは一人で戦わず互いに助け合って戦う。 >盛岡藩ではそんな感じだったらしい。大島高任が実情に合わせて工夫したのかもしれない。 >しかし雫石の農民はマタギも多く狩猟や狙撃にも慣れていた。マタギの与助は長崎振遠隊の斥候隊長を狙撃して射殺している。 日本史板から抜粋したが、盛岡藩は戊辰戦争では散兵戦術を採用してたようだね
55 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 12:11:53.83 ID:???
まず重要なのは訓練と指揮官か……
56 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 12:45:42.95 ID:???
その辺は第二次長州征伐から戊辰戦争への戦訓や情報がどんなふうに影響してるんだろうねえ…? まあ賊軍だから長州側から直接伝授されることはなかったんだろうけど 大村以外にも先賢の逸材はいたって事なのかな?
57 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 12:55:04.88 ID:???
>>52 鳥羽伏見で埋伏していた会津槍隊が吶喊に成功したというやつですね
しかし死屍累々だしな〜
新政府軍は一応警戒するようにしてあやしい場所には前もって撃ち込むようになったとか
58 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 12:57:24.51 ID:???
長州征伐:長州側は前装式単発ライフルで当時大多数が火縄銃の幕府軍を圧倒するも、 同じく前装式の幕府側の一部部隊を相手にした時に 突っ立って構えちゃってバスバス撃たれた部隊もいくつか出てしまった → やっぱり、伏せ打ちしないと危なくね? まとまって攻撃してやられた例も経験した → 散開しないと危なくね? 幕府側:長州征伐で前装ライフルで撃たれまくった →よし!絶対負けないように、連発銃、後装式ライフルの最新型を大量配備じゃ! かくして、対ライフル銃での戦術が完成した新政府側vs戦術ゼロで最新ライフル装備の幕府、という状態に __________________________________________________________________ 普仏戦争でも、ドライゼ銃は出来た時の衝撃はともかく、1871年にはシャスポー銃に一部劣るのでは?という見方もあったんだよな
59 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 14:46:11.93 ID:???
盛岡藩の大島高任は長崎帰りの蘭方医で、高島流砲術免許皆伝だが、 大島高任が藩主に出した改革意見書は実行された改革よりもっと過激で、 四民平等の徴兵制を敷いて、藩内に陸軍士官学校と海軍士官学校をつくって、 歩兵と砲兵と騎兵をつくって、潜水艦をアメリカから買って宮古湾に配置しようという計画まで立てていた。 大島を評価していた楢山佐渡もいきなりそこまでは無理・・、と言ってとりあえず洋銃と野砲と汽船買ってこいと函館に派遣した。
60 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 15:22:24.79 ID:???
61 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 15:35:18.55 ID:???
八重が始まったからこのスレも活性化するかな?
>>50 リアルタイムで戦乱を経験した大名で1643年の時点で生きてたのは
立花宗茂と伊達政宗と細川忠興と真田信之くらいだしね
62 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 15:51:00.90 ID:???
政宗は1643年の時点ではもう死んでたわ
63 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 16:48:40.13 ID:???
にわかで見に来たけど、古参の人、いじめないでね 既出の議論も出てくるだろうけど、過去ログ嫁みたいな冷たい対応しないでね
64 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 18:36:03.40 ID:???
伊達政宗が1567〜1636 真田信之が1566〜1658 立花宗茂が1567〜1643 鍋島勝茂が1580〜1657 相続権を主張してた龍造寺伯庵は会津藩預かりになって続いたそうですね
∨v∠ ノノノノノノノ人ノミミミミミミヽ .な ≦ ノ;;;r;;;;;;;'''' "ξ"斗ミミ丶 ら ≦ 彡f;; ヾミミヽ ぬ ≦___彳 \ / ヾミへ も ≦(__)_))<●> ―一 iっ) の な ≦ \__/(_)丶 △ |ン は ら > (___;; | 'ー=三-' |ii\_ ぬ > .(___ _| / / /\ .の ヘヘ・ (_ /※ \ // / ヽ れ /∵ \_/ヽ__// / ヽ す /|∵ ∵| 三 ヽ::::::::::::/ / ヽ !
66 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 23:31:18.93 ID:???
幕末もののドラマに出てくる薩長軍の銃歩兵って士分なの? 奇兵隊で農民を取り立てた長州はあるだろうけど、武士至上主義の薩摩が幕末の時点で士分じゃない 人間を徴用するとは思えないんだけど…
67 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 00:13:12.32 ID:???
そもそも薩摩は兵農の境が非常に曖昧、偉い人かそうじゃないかの違いしか無い
68 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 05:32:14.36 ID:???
>>66 元々薩摩はやたら侍階級が多かった(大多数は郷士だけど)
69 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 06:05:20.68 ID:???
無禄の郷士とか薩摩にはゴマンと居たからな
70 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 08:44:14.18 ID:???
>>66 身分による編成でしたよ。
小銃○番隊:上士から選抜された最精鋭
城下○番隊:上士
外城○番隊:下士(郷士)
私領○番隊:藩の重役が自分の領地から差し出した兵
番兵○番隊:藩の火縄銃隊を洋式銃隊に改変した隊
他にも幾つか有ったはずだけど・・・
71 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 12:59:15.87 ID:???
外城隊の隊長が軍議では城下士と対等に扱われて嬉しいとか何とか言ってたな
>>66 長州の干城隊は完全に士分
奇兵隊とか遊撃隊とかは士民混淆
土佐も薩摩と同じく身分別だが、卒も含め士分主体の隊が多い
会津戊辰戦争の序文だか何だかで板垣が、
「日光の戦いで大鳥側の戦死者を改めると刺青者で、こっちの戦死者は
士分なのと比べて引き合わないと感じた」的なことを言ってた
72 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 14:14:32.82 ID:???
刺青者って伝習隊か。仙台藩には飛行隊とかいう一見近代的な名称の隊もあったんだよな。 仙台藩飛行隊っていうとなんか勘違いしそうだけど。
73 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 14:55:46.76 ID:???
一般人の方が西洋式訓練に素直に従うんで戦績はよかったらしいな 士族は匍匐姿勢を嫌がったとか
74 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 15:07:29.42 ID:???
刺青者は一般人じゃないけどw 博徒以外には中間くずれとかかな。正真正銘の町人や農民は加わっていないのかな?
75 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 15:30:12.74 ID:???
>>71 戦死者のランドセルを調べたらサイコロを初め賭博の道具がゴロゴロ出て来たって話しの時かな?
76 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 16:03:49.03 ID:???
いや確かサイコロぐらいだったと思うけど。
77 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 16:22:05.41 ID:???
博徒だけを集めて作ったのが、細谷十太夫の衝撃隊
78 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 16:31:19.27 ID:???
他板住人だ 刺青とかサイコロとかの文字を見て、某芸能人の弟に関するスレと間違えた
79 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 18:22:26.52 ID:???
>>74 町人・農民と博徒の境目もかなり曖昧だからな〜
幕府歩兵隊は旗本の領地から召し上げられた農民もいたと読んだことがあるし
(支度金が通常相場より相当積んでやっときてもらったとか)
町人といっても刺青はかなり一般的でうるさくなったのは明治に入ってからだし
(日本の刺青は世界的にも有名で各国の王族・貴族がわざわざ来日時に入れたりしている)
80 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 19:54:45.67 ID:x3o6wFBH
刺青といっても、入れ墨のことか彫物のことかで違ってくる
81 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 20:08:19.04 ID:???
82 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 01:26:59.30 ID:???
基本的に、傭兵なんてのはカタギがなるもんじゃあない。 土地を持ってる農民や、手に職を持っている職人は、一攫千金を狙わずとも、安全に手堅く食っていけるからな。 したがって、初期の常備軍の構成員にも、別の意味の“構成員”みたいなのが、どうしても多くなってくる。 これは、カントン制度でも導入しない限り、解消できない問題だよ。 それにカントン制度を導入すると、今度は国内で生産に従事すべき人材が、失われていくというジレンマが出てくる。 となれば割り切って、無頼の輩に仕事を斡旋するような形で、志願兵なり水夫なりを、募集する方が合理的だ。 軍隊や船乗りが、どうしても柄が悪くなってくる要因でもあるし、これは現代アメリカでも変わらない。
83 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 04:34:56.59 ID:???
博徒以外でも鳶(火消し)は刺青が当然の習いだったというけれど やはり彫り物を背負っているのは当時の通念から見ても堅気とは言えない連中だろうな
84 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 12:13:03.41 ID:???
消火と喧嘩は火消しの華だからな
85 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 14:06:47.40 ID:???
>>84 江戸の町火消し四十八組に仏式伝習を施し、各組を一隊とする町兵が有りましたよ。
実態は良く分からないけれど、
「生を軽んじ死を忘れ、水火を践むの風習」
「朝にも敵来らば、未練なく討死にして、江戸子なる名に恥ぬ様に」
と、勇ましい台詞でしたが慶喜の謹慎恭順と共に解散。
江戸の町兵には魚河岸で編成した隊も有ったけれど、こちらの武器は竹槍・・・
86 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 18:42:07.13 ID:???
火消しや漁師が刺青入れていたのは男気を現すだけでなくて焼死・水死したときの 身元判別のためだとも聞いたことがある 兵隊も同じようなものかな?
87 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 20:24:36.95 ID:gAS9xPCm
そういえば新門辰五郎だけど、なんか慶喜公の私兵っぽいよねw 江戸開城の交渉決裂時には本当に市中に放火する命令を受けていた、といのを知った時は さすがに背筋が寒くなった。
88 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 20:25:51.85 ID:???
それ勝じゃね?
89 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 20:32:24.04 ID:???
新門辰五郎にいざというときに江戸に放火するように依頼したのは勝海舟だったと思う。 慶喜はこのときは表向きは謹慎、実際は勝手に暴走した部下に不貞腐れていて寛永寺に 引きこもっていた
90 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 21:15:58.77 ID:???
辰五郎の娘に慶喜の手がついたかなんかで、慶喜にも個人的に肩入れしてたんだっけかね。 一橋出身という事情で直属の駒が乏しい慶喜にとって、貴重な戦力ではあったろうか。 実家の水戸から家臣借りたり、大変だったところはある>慶喜 Wikiに一橋領播磨で歩兵連隊編成しようとしてたって書いてるけど、本当かね?
91 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 22:08:03.04 ID:???
>>90 大阪から江戸に逃亡した時も船室に連れ込んで艦長ブチギレだったとも
その割に明治になったらあっさり捨てているみたいだし
やっぱりロクでもない男だな・・
92 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 22:33:01.81 ID:???
放って行くのもそれはそれでどうかと おっと木村兵太郎、てめーは駄目だ
93 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 23:13:58.58 ID:???
>>92 連れて行くのはいいとして艦長追い出して艦長室で「やってた」そうだから
それはキレるでしょうね
94 :
名無し三等兵 :2013/01/12(土) 06:50:42.28 ID:???
昔は船は女人禁制のとこが多いし女を船に乗せたという時点でアウトだったせんもある
95 :
名無し三等兵 :2013/01/12(土) 14:45:00.11 ID:???
20何人も子作りする性欲魔人だからね、仕方ないね
96 :
名無し三等兵 :2013/01/12(土) 19:50:10.19 ID:???
>>93 たぶん異常事態で興奮してしまったんだろうw
97 :
名無し三等兵 :2013/01/12(土) 20:08:30.72 ID:???
98 :
名無し三等兵 :2013/01/13(日) 02:02:08.37 ID:???
いやいや子沢山は王侯貴族には重要なスキルでっせ
99 :
名無し三等兵 :2013/01/13(日) 02:05:49.83 ID:???
たくさんはいらんだろ 後継者騒動の元になったりする
江戸時代は将軍家でも幼児死亡率高いし 度々御三家から将軍出てるから子沢山は重要だな この期に及んで感はあるがw
ま何事も程々に、ではあるよな 11代家斉とか権力者がガキボコボコ作りすぎれば経済的に単純に迷惑だw ただお家騒動は、継承対象者が二人以上いれば発生しうるわけで 数は関係ないというか 多いとより収拾がつかないつかない状況にはなり易いが どうせ最終局面では有力者数人に絞られるし
幕末ドラマで見かける官軍は黒い洋式軍装姿で統一されてますが 実際にああいう格好をしていたのはどこの藩なのでしょうか?
>>102 残っている写真や証言では土佐や長州はかなりバラバラだったみたいだから
「官軍」では薩摩かな?
よくドラマや映画ででる熊のかぶりものは江戸城にあったヤクの毛だから
江戸城開城前に被っていたら考証ミスですね
写真は白黒だからよく分からんが、錦絵だと黒が多いな まぁ錦絵は本当に見て書いてるのかという疑問はあるがw
>>103 薩軍は実際はどうか知らんが、雰囲気だと戊辰戦争の時は洋装で西南戦争だと和装のイメージがあるな
薩摩・・・黒 長州・・・白 土佐・・・赤 しゃぐまの色はこれでいいの? じゃあ他藩の士官はどうしてんだろ
>>102 官軍の中では薩摩が比較的統一されていた様ですよ。
開戦直前の12月27日、御所で行われた薩長土芸四藩の天覧調練の様子は「薩は服装帽皆一様にて」とされています。
もっとも、洋装を快く思わない者もいて、命じられていた筒袖を着用ぜずバラバラの服装(主に和装)だったばかりか、甲冑着用者までいた薩摩二番砲隊は「天覧に供し奉るに不敬なり」として御所外に逐われてしまうことに・・・
官軍統一?の軍服(戎服)に近い物としては、慶応4年8月、軍装千人分を新調して前線部隊に送る通達を朝廷が出しています。
これを従軍兵士は御下賜と捉えた様です。
>>106 その色分けは『戊辰物語/東京日日新聞社』辺りから言われ出した俗説だったかと。
錦絵の場合は見栄えというのもあるから鵜呑みするのは危険かも。 写真を使う近現代でも写真に関して真実かと議論になるからな。 錦絵はもっと真実探求に使うのには注意を要するだろう。
錦絵でよく言われるのは、兵の笠が誇張されてるんでしたっけ?
足軽がかぶってるみたいな笠で
111 :
名無し三等兵 :2013/01/14(月) 00:25:13.89 ID:Y4GsW6Lq
盛岡藩や弘前藩も足軽・徒士はほとんど黒のラシャ、戎服のダンブクロに陣笠だったらしいよ。 盛岡藩の鉄砲足軽、弓足軽、長柄足軽、徒士はみなダンブクロ着用のライフル銃隊になっていた。騎馬武者は甲冑だった。 秋田の子供はそれを見て変なカッコと笑っていた。久保田藩はほとんど和装・火縄銃だった。 仙台藩の額兵隊はイギリス式の赤服だったが、それ以外は和装甲冑が多かった。 しかし一部の要害領主は家臣にダンブクロを着用させていた。
最近の解釈では伝習隊の制服には玉縁が付いていて、まるで明治三年や四年式の制服を思わせるデザインだったとされているみたいだけれど、何か史料が有るのかな? 結構手間の掛かる処理だから・・・ 明治陸軍が制服を制定する時に伝習隊の制服を参考にしたらしいとの話しが有るから、そこから逆引きした?
伝習士官隊は別制服だったのかな?
>>113 の伝習隊は創作な気が・・・
仏式と言うよりは英式に見えるから、額兵隊の型紙を流用して色違いで制作したのかもね。
>>114 は自分と同じ考えで驚いたw
伝習隊の制服の元になったのは、フランス軍1860年式バスク型チュニックと想像しているので。
ブリュネ大尉の草案でも着丈が袖丈よりも短く画かれているし、何よりも顧問団の着ていた制服だし。
手の込んだ服なので簡略化されていたとは思うけど。
117 :
名無し三等兵 :2013/01/17(木) 13:41:41.19 ID:3kPt5Oaf
118 :
名無し三等兵 :2013/01/17(木) 13:46:06.24 ID:3kPt5Oaf
>>116 の書き込みを見て、Wikiをあらためて見直して確認したのだが。
フランスが幕府のために派遣した将校がかなり出世しているみたいだけど
どこまで信用していいものなのだろうか。
シャノワーヌ大尉は後に陸軍大臣にまで出世しているし
榎本隊に合流しようと脱走したブリュネ大尉は陸軍参謀総長まで出世している。
命令違反して脱走までしたら最悪銃殺、良くても不名誉除隊になると思うのだけど。
これってWikiは信用していいものなのだろうか。ちょっと信じられない。
お前の目の前にある箱はな、世界と繋がっているのだ
Charles Chanoine
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Sulpice_Jules_Chanoine >As Henri Brisson's third Minister of War in 1898, Chanoine, like his predecessors,
>Generals Cavaignac and Zurlinden, attempted to prevent a review of the Dreyfus case,
>against the wishes of the cabinet, which had already decided to support review.
>The indecision within the government caused by Chanoine's actions, as well as the chaos on the streets caused by the anti-Dreyfusards, led to the fall of the government.
Henri Brissonの三代目の陸軍大臣?は確実くさい
なんかドレフュス事件の調査妨害して政府の信頼を落としたらしい。お前かよ!すげえな
Jules Brunet
http://en.wikipedia.org/wiki/Jules_Brunet >Later career
>Brunet rose to the rank of General in the French army over the next 17 years. In 1898,
>Chanoine, his former senior officer in the Japan mission, was Minister of War, and Brunet became his Chief of Staff
>("Chef de l'etat-major du ministre de la Guerre").
なんかシャノワーヌの下で、彼の参謀長?になったらしい
よく分からないので()内の仏語っぽい"Chef de l'etat-major"をググる先生に聞いてみる
参謀長: さんぼうちょう: chef d'etat-major <<< 長
参謀総長: さんぼうそうちょう: chef d'etat-major general
http://www.hikyaku.com/dico/onmyoj.html ……あとは任せた!
そうか、参謀ってシェフなのか…
>>120 ドレフュス事件につながったか
妙な縁だな
この時代の軍事顧問ってわりと出世コースの人が来ることあるのかな? 長崎伝習でお世話になったホイセン・ファン・カッテンディーケも海軍大臣になってる。 大モルトケも19世紀前半にオスマン帝国へ行ったよね。 ムハンマド・アリーに負けたけど。
あれ?こいつフランス的にはロクなことしてないんじゃ・・・
軍事顧問として赴任した後に出世と聞くと ついボリビアに行っていたホモを思い出してしまう だいぶ時代は下りますが
>>123 逆に、メッケルの冷遇のほうがレアケース
国を背負って、相手国を自国の影響下に置く使者として派遣されるんだからそりゃエリートよ
Chef は 「長」(Chief)。課長もシェフだ。 Etat-major が参謀部。 第三共和国の軍制にはくわしくないが、陸軍大臣(直訳なら「戦争大臣」だが)には 参謀本部とは別に幕僚がいて、そのシェフだったんじゃないの? うぃくしおね〜る を引くと、こう書いてある。 etat-major du Ministre de la Guerre (les chefs, sous-chefs du Cabinet et les officiers superieurs ou subalternes attaches a la personne du ministre)
>>117 なかなか詳細な記事ですね。
一点毎の写真が見たいなぁ
フランス風の参考に、
フランス外人部隊の軍装1835ー70年
http://theminiaturespage.com/boards/msg.mv?id=255735 3枚目のイラストはブリュネも従軍したメキシコ遠征時の軍装。
展開図の様に描かれている服の右側の物が1860年式 バスク型チュニック、左側はそれをベースにして乗馬中隊向けに改造した物。
下の実物写真は、バスク型チュニックを着た軍曹と、作業用ジャケットを着た鼓手。
一番最後のイラスト、下段右から二番目の少尉が着ているのが、襞取りマンテルとジブスケ袴の原型。
同じ段の一番左、作業用ジャケットにサッシュ着用の乗馬中隊伍長は各部の色やズボンを変えると靖国神社の騎兵組将兵の図に似ているかと。
へ〜、当時のフランス軍にもグリーンのユニフォームあるんだな。 というかグリーンのジャケットにブルーのパンタロンの外人兵は盛岡藩の軍装に酷似してるな。 盛岡藩の大島高任は箱館でフランス人のファーブルから中古兵器購入してたから、 メキシコにいた外人兵のジャケットの払い下げでも購入したのかな?
>>119 です。詳細な回答、ありがとうございます。
シャノワーヌ大尉は間違いないけど、ブリュネ大尉の陸軍参謀総長というのは誤りみたいですね。
外国に派遣されるのは、大抵優秀な方ですね。
ロジェストウェンスキーは「坂の上の雲」で描かれた司馬氏の冗談が真に受けられていますが、
実際には実戦で活躍し、受勲された経験もあるし、ブルガリアに派遣されて海軍の指導にも当たっています。
メッケルの場合は、真贋取り混ぜた話が出てくるので、しょっちゅう悩みます。
例えば、実際に亡くなった部下の妻と再婚したのは事実みたいなのですが、
不倫関係が周囲にばれて、皇帝の逆鱗に触れたために陸軍を追い出された
という話まで行くと本当かなと思えてきます。
131 :
名無し三等兵 :2013/01/18(金) 21:23:17.31 ID:8CeUxvb4
仏語版wikiだと、 ブリュネは普仏戦争に参加し、メッツ(メス)で捕虜になる。第二帝政崩壊後、べルサイユで政府軍に参加し、パリコミューンを鎮圧。 その後、オーストリア、イタリアに軍事顧問として派遣。シャノワーヌが陸軍大臣になると准将に進級して陸軍省勤務。 最後は師団長(少将)に進級し退役。 陸軍省の准将っていうのは日本陸軍で言うと、陸軍次官じゃないかなあ? ドゴールも1940年5月の電撃戦中に准将になって陸軍次官になった。
准将だから局長クラスではないかな 陸軍次官だと少将クラス以上になるのではないか
>>132 次官で准将じゃあちょっと階級低いよな
でなくてもフランス陸軍は所帯大きいし、何かとやりにくそう
ド・ゴールの場合どさくさ人事でもあるし
ちょっと教えて欲しいのですが、戊辰戦争における旧幕府軍の敗因って何でしょう? 調べてみると、意外に後装・旋条式ライフルを旧幕府軍も導入していますし 一応、フランス式の歩兵操典も導入していたそうなのですが・・・ これだけ見ると、額面通りに受取れば、数の利を含めればむしろ官軍が不利に見える ぐらいなのですが、実際には負けている訳ですから、官軍とは火砲で差があったり 戦術や指揮統制の辺りに差があったりしたのですか?
>>134 戊辰戦争と言っても鳥羽伏見から函館まで状況は様々ですからね
旧幕府軍と言っても旧幕府陸軍から後の東北北越同盟、それこそ新選組残党まで多彩です
鳥羽伏見の戦いの分析でいいですか?
>>135 そうですね
明らかに兵力や装備に差が出てくる戦いは分析しても仕方ないですから
お願いします
>>131 General de division は中将相当な気が。
英語でも Lieutenant General と訳されているし。
General de brigade の方は訳者により、Brigadier General だったり、Major General だったり。
ナポレオン戦争関係の本だから、その後の時代とは一致しないかも知れないけれど。
フランス軍は、階級、役職、称号が入り交じっていたから分かり辛い・・・
鳥羽伏見の戦いで言えば過去スレでも何回も出てますが 通説で言われている様に旧幕軍が装備で劣っていたわけではない(新選組や見廻組など刀槍部隊もあったものの) 数で言えば寧ろ有利 火砲は両軍とも主力は四斤山砲で差はない 戦術では両軍とも様々な齟齬を起こしているでしょうが 最大の敗因は戦略レベルで旧幕軍がそもそも戦闘をまともに想定していなかったところに あるように思います (兵力で圧迫して薩長勢力を京から政治的に駆逐するのは悪い手ではないのですが)
フランスでは師団長は少将だよ。中将は軍団長・ゼネラルドコルダルメ、大将は軍司令官。 准将は旅団長・ゼネラルドブリガード。 師団長が中将なのは世界的に見ても日本陸軍くらいじゃないかなあ?
そう考えると、上級大将がいるドイツが軍集団規模の運用のために作戦術を 編み出したのは必然だったのか! 作戦術と上級大将のどっちが先かは知らんけど
鳥羽・伏見の戦いに関していえば、138が指摘しているように旧幕軍が戦闘を想定していなかったこと 更に前線に総指揮官がいなかったことが大きかったと思います。 それこそ京都へ進軍するのなら決戦の腹を固めて指揮系統を定めて等々きちんと計画を立案しておくべきでした。 それなのに我らが京へ向えば戦わずして薩長は逃げ出す(実際3倍以上の戦力なのでおかしくはないのですが) と決めつけて、薩長が抗戦したら慌てふためくは、夜は夜で寝るものだと夜襲の警戒をせずにいて 薩長軍が夜襲をしたら武士の風上にも置けない卑怯卑劣な振る舞いと喚いたとか (武士の起こりの平安時代から武士は夜襲をしていますが、源頼朝も夜襲をしていますが 鎌倉幕府の将軍は武士ではないとでもいうのでしょうか?) これでは負けて当然の気がします。
庄内藩の酒井玄蕃が鳥羽伏見の幕府軍の司令官だったら、薩長終わってたかもな。 薩摩に夜襲かけて一方的に全滅させてるくらいだから。
普通に攻撃していたら幕府が勝ってたな。 だから普通に西郷は帝を拉致っ逃げる計画も立てていた。
>>141 200年の間に武士の文化も変化しちゃったからね・・・
戦闘階級・兵士から貴族階級・官僚に体質が変化したし、学んでたのも朱子学
とかの、徳治が〜とかそんなのだろうし
緊張感が無いのは、平和が長かった国ではよくある事
>>139 それは第二帝政の時ですか?
やはり第一帝政とは違うのですね。
ナポレオン戦争時の各国師団長の階級は、
イギリス:lieutenant General 又は Major General
フランス:General de division
プロシア:Generallettnant
オーストリア:Feldmarschlleutmant
ロシア:英訳すると、lieutenant General 又は Major General
南北戦争の師団長は両軍共に、Major General ですが、戦闘序列を見ると将官不足の為か、Brigadier General も結構見かけます。
Marechal de FranceとかGeneral d’armeeってのは名誉や職責に伴う称号で General de divisionが常設の最高階級ってのがフランス軍の伝統じゃなかったっけ? 階級制度自体が違うから十全に対応できる訳語は無理だと思っていた
General d’armeeは軍司令官の大将だよ。普仏戦争まではバゼーヌとかマクマオンとかの元帥がいたが、 敗戦の屈辱で一時期元帥は廃止して、大将が最高だったが、 欧州大戦でドイツに勝った後、元帥が復活して、ジョッフル、フォッシュ、ペタンが元帥になった。
仏語のwikiでgeneral見たら、 Général de corps d'armée et général d'armée : la première mention de ce titre, qui n'est encore qu'une fonction, apparait dans la circulaire du 17 mars 1921. Le rang est créé en 1939. と書いてあったから、欧州大戦終わるまではGeneral de divisionが常設の最高階級ってのがフランス軍の伝統というのが正しいかもしれません。
>>136 旧幕府陸軍の欠点としてよく下士官の数の不足が挙げられるが、
指揮系統や部隊指揮官の権限もしくは能力にも問題があったように思える
例えば伏見の戦いの場合だが、薩長の部隊がその辺の部隊指揮官の合議でちゃっちゃと作戦決めて実行してるのに対して
伏見奉行所から追い出された旧幕府軍は、中洲で一晩過ごしたあと三々五々撤退している
まぁ、さっさと淀に引き上げた竹中が一番悪いんだけどw
司令部の指示がアレなのも相俟って、随分戦略的な柔軟性が失われてる様に思える
階級制度は意外と難しいな。 南北戦争のとき、北軍のグランド将軍の地位は実は中将。しかも米陸軍総司令官に就任してだから。 それも独立戦争時のワシントン将軍以来の栄誉ということで与えていいのか、米国政府で大議論になったとか。 佐官、尉官はまだしも、将官の階級は本当に難しい。 旧日本陸軍だと元帥は大将に付加されるもので、大山巌にしても元帥陸軍大将が正式名称と聞いたことが。 それを聞くまで、大山巌陸軍元帥が正式名称と私は思っていました。
日本軍の場合、明治初期の短期間を除くと、“元帥”は、階級ではなく、あくまでも大将の中でも特に功績を挙げた 者に対する称号っていう位置づけだからの。
>>150 アメリカは何かとローカル条件多くて特殊なんだよ
基本ド田舎の素人集団だから
それまでずっと元帥がいなくて、WW2で欧州派遣でイギリスと釣り合い取るためにようやく元帥任命したぐらいだし
常備軍の規模が国土面積や国力からすれば極小で、なんか事あるごとに素人かき集めて伸縮繰り返すし
それで南北戦争の時なんか、戦時昇進で昇進させた将校戦争終わったら平気で降格するしなw
これでなんで叛乱が怒らないのか不思議だw
アメリカ人は公務員を特権階級だと思ってないからね。
猟官制とかでド素人を公務員にして本格的に議会で問題になるまで官僚組織がガタガタしてた時期とかあるくらいだから
今だって閣僚やオブザーバーに、これといった政治的地位のない、民間人を登用するのは珍しくないよ。 そうした人間は、政権が交代すると下野して、また民間企業のCEOになったり、ごこかのシンクタンクに入ったりして、再登用の時を待つ。 どうやら古代ローマの執政官みたいな制度が、西洋では理想的な共和制と見做されているみたいだ。
西欧っつーか特にアメリカだろうな。 アメリカ共和党の共和って、王政否定した護民官とか元老院とかプルタークとかサイコーでマジかっけー、みたいなイメージなんだろうな。
>>149 現場指揮官達がある程度事前協議を行って作戦を確認しておくのは新政府軍では
ちゃんとできているのに旧幕軍だけじゃなく東北列藩同盟軍も出来てないんですね
白河城攻防戦の敗因もそうですし、「同盟」という性質上の問題ですかね?
158 :
名無し三等兵 :2013/01/23(水) 20:27:15.25 ID:bgwtmz5N
>>157 「同盟」という性質上の問題というより
誰がトップで責任を負って作戦を遂行するのかということを定めないという日本の古来からの悪癖の気がするな。
それこそ古代から日本はそういう無責任体質が横行していたからな。
百済救援派兵から始まり白村江の惨敗で終わったあの戦いにしても誰が責任を取って死罪になっただろうか。
そして近代になっても大日本帝国陸海軍では参謀が作戦を勝手にとって軍隊を動かして功績は自分のもので
敗戦の罪責は自分にはないというのが当然のこととされていた。
よく考えない人は日本の事例だけで他国の事例を知らずに 固有の問題とするよね。
>>158 それだと新政府軍に出来て、列藩同盟に出来なかった理由としては弱い気が。
封建領主の軍隊の限界って気がする
それと皇統の存在だね 指揮の一本化が容易だ
薩摩や佐賀も西南戦争や佐賀の乱では統制グチャグチャだったからな。 東北とか九州の問題ではないな。埼玉も秩父事件ではそれ以下だったし。 東京の彰義隊、大阪の大塩の乱ではそれ以下だし。
秩父事件はほとんど百姓一揆だもの。頭目に祭りあげられた人も破産した百姓で博徒。
禁門の変の時の長州軍は、水戸の天狗党と連携するつもりだったらしいが、 やはり統制グチャグチャで長州も天狗党も完敗した。
>>163 新政府軍はお飾りでも公家を方面軍司令に担いでいたからやりやすかったんですかね?
>>167 そういうことだね。
寄せ集めでも命令に従うしかない。
列藩同盟も、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主として担いでたけどな。 奥羽鎮撫総督の九条道孝や沢副総督もほっとくと盛岡藩に説得されて会津庄内を赦免しそうで、大山格之助は焦っていた。 久保田藩も同盟に参加していて官軍につくという保障はなかった。
>>166 そもそも数で圧倒的に負け質は同等、だから統制は関係ないだろ。
西進途中の天狗党はこっそり天狗党に抜け道を教える
幕府軍よりしっかりしてるし。
天狗党討伐が幕府歩兵隊の初陣だったらしいが 天狗党討伐の際の醜態を見ると幕府軍の主力が歩兵隊では鳥羽・伏見で薩長軍必勝だったという人に 何と言って説明すれば幕府軍にも鳥羽・伏見では勝機があったというのを分かってもらえるのだろう
天狗党は軍資金調達に派遣した田中隊が栃木で乱暴狼藉の限りを尽くして 断固討伐の方針をとられることに繋がりましたから統率はやっぱり重要じゃないですかね?
>>171 単純に戦争は数だよ兄貴!でいんじゃね
と思ったが、考えてみたら数の差を引っくり返された戦い大杉田
数で押し切れたのは禁門と長岡と函館ぐらい?
薩長が数敵劣位を弾き返す練度があるのか 幕府が数敵優位を活用できない烏合なのか どっちなんだろ
薩長も新潟や秋田では桑名や庄内には完敗してるからやっぱり練度の差だろ。 秋田と津軽が合流して戦っても南部には負けてる。佐賀が来てやっと逆転できた。 白河では仙台・会津の方が数で優勢だったが完敗してる。 特に仙台は数では常に負けてないのにほとんど完敗している。
176 :
名無し三等兵 :2013/01/25(金) 18:03:46.35 ID:cB34frTG
あ、はい
>>175 伊達政宗が草葉の陰で泣いていそうだなw
仙台藩兵は額兵隊以外はドンゴリという異名がつく惨状だからな。 ちなみに由来は大砲の音(ドン)が聞こえたら五里(ゴリ)(20km)は最低走って逃げることからだとか WWUのイタリア兵かよ、全く。それだけの体力があるなら奮闘しろ
>>179 無理いうなよw
実戦経験の無いお役人に火縄銃が主要兵器だぞ?
官軍は実戦経験豊富で指揮能力の高い指揮官がいて
ライフルで武装しているんだぜ。
現代で例えるなら地方公務員に38式歩兵銃もたせて
アメリカ軍と戦うようなもんだ。
>アドワの戦い
>>172 統制が重要じゃないというつもりは無いけど、天狗党の場合は政治的状況が
悪すぎる。多分、京都で長州が破れて尊攘派が劣勢になったら、どの道
討伐対象になってたと思う。
>>180 実戦経験は無いといっても、文化年間にロシアと小競り合いは経験してるはず何だけどなあ。
同じころにフェートン号事件で痛い目を見た佐賀藩は近代化へ進むのに。
天保飢饉が致命的だったかしら。
>>183 >文化年間にロシアと小競り合い
領地外の小競り合いなんて注目する家臣もいないだろうね。
>天保飢饉が致命的だったかしら。
藩にも金が無かったし一門にも金が無かった。
とにかく金が無かった。仙台藩に金を貸すと商家が潰れた。
それでも額兵隊だけは編制した。
たぶん仙台藩の大半の藩兵はライフル砲の四斤山砲の射程とか命中精度とか全く知らなかったんだろうな。 だからとりあえず遠くまで逃げた。庄内藩はブリューネ直伝で四斤山砲で薩摩藩邸焼き討ちにした経験あるから、 四斤山砲の射程や命中精度を熟知していて、砲撃音にもびびらなかった。
>>184 >たぶん仙台藩の大半の藩兵はライフル砲の四斤山砲の射程とか
>命中精度とか全く知らなかったんだろうな。
まったくそのとおり。
しかも官軍は近代戦術を駆使してきている。
例えればプロシア軍と戦う仙台藩兵と考えて欲しい。
盛岡藩は北方領土でロシア海軍と砲撃戦したり、ゴローニン捕縛とかしていて、 緊張感があった。高島流砲術の免許皆伝の大島高任がいて箱館の弁天台場の警備もしていた。 仙台藩は財政赤字を理由に京都出兵も断っている。
>>175 津軽はこっそり弾持って来ただけで戦ってなくね
>>171 中公新書「幕府歩兵隊」に水戸側の資料で歩兵隊の北条新太郎のことを
「独り北条新太郎の陣、警備を厳にし、戦最も力む」と高く評価されてるけど、
その後、解任されて永蟄居にされてるのってどういう事なんだろ?
つまり津軽のように戦場に来ても積極的に戦わない奴がいると数が多くても安心できないということだな。 佐賀藩も弘前藩兵あんまり信用してなかったみたいだしな。
何で仙台藩はそんなにお金が無かったのかな? 同じ東北諸藩でも米沢藩の藩政改革は有名だし 庄内藩や会津藩もきっちり幕末までに藩政改革をして財政再建をある程度は果たしているのに やっぱり人材の育成に失敗してしまったのだろうか。
>>191 >何で仙台藩はそんなにお金が無かったのかな?
莫大な借金。ローン地獄。
薩摩藩とか500万両の借金を見事に処理しているのに 仙台藩の借金はそれよりも大きかったのかな。 表高62万石、実高250万石とも謳われた大藩なのに
>>193 薩摩は密貿易してたし贋金もつくって支払った。
仙台藩は米だけ。米が主要産業。飢饉か来るたびに大借金。
薩摩は無利子で250年の分割払い(つまり2085年までに及ぶ分割払い)だからインチキだろ。 仙台藩の米取引の借金は必ずしも飢饉によるものとは限らなくて、 豊作過ぎても、米余りで米価下がって現金収入減ったりした。 南部では余った米を現金にするために近江商人が酒造り始めて南部杜氏が有名になった。
伊達家自体が戦国末期に膨張してそれが大藩とはいえ一国に押し込められてるからねえ 薩摩ほど極端ではなくとも武士の比率が高いし 何をするにも身動きがとれない面はあったかと
>>196 家老の片倉家からして18000石で1400戸の家臣団抱えてるものな
相当に切り詰めないとこんな数を養っていけない
関が原前の予定では100万石のはずだったからな。 和賀稗貫一揆煽動して失敗しなけりゃもっと増える予定だった。
借主脅しての事実上の借金踏み倒しに密貿易と通貨偽造などカネのためならなりふり構わない薩摩さん好き まあ海賊に爵位与える国もあるし多少はね
伊達だってスペインと貿易できれば(さかのぼりすぎです
仙台は大阪というマーケットから遠いからな
何やっても許されると勘違いしたから西南戦争で完敗したんだな。
伊達家は藩内にも参勤交代があり、それ自体が小さな江戸幕府みたいな制度だったんだよ。 伊達騒動の影響で、藩内の改革に手をつけることも出来ず、結果として地方分権が強かった。 現代、地方分権は予算の削減など、あたかも良いことづくめみたいに言われてはいる。 しかし、それは国民国家の完成した現代の話であって、当時は中央集権化の妨げになった。 伊達家は一つの雄藩だったのではなく、むしろ烏合の小藩による連合体が、仙台藩だった。 伊達家はその棟梁という立場だったし、これはそのまま、開国時の江戸幕府に当てはまる。
>>202 薩軍幹部は西郷担いで行軍すれば、熊本城とか開城すると思ってたらしいからなw
伊達と違って南部は九戸の乱、和賀稗貫一揆、阿曽沼追放で、 藩内抵抗勢力完全屈服させて中央集権ほとんど完成させてたからな。 八戸や遠野は小藩主小領主だったが、力は強くなかった。 佐竹は大館、湯沢、角館、横手がそれぞれ小領主だったし、 矢島藩、亀田藩、本荘藩は全く別の藩だった。
南部藩経済的に終わってなかったか? 一揆最多藩なのな
ところが盛岡南部藩の場合、逆に一揆のおかげで藩内が統一し、財政もマシになった。 三閉伊一揆で南部藩は利義の復帰以外の一揆の要求すべてを受け入れ、また一揆指導者の処分を一切しなかった。 また、家老の南部土佐は蟄居、参政兼会計総括の石原汀や番頭の田鎖は身帯家屋敷等取上げの上蟄居の処分を初めとして、 勘定奉行・大目付以下2百数十名が罷免して利済派は一掃された。翌年2月、隠居として藩政後見をしてきた利済は幕府の命令で江戸に呼び出され、江戸城下に謹慎となった。 これで藩内の実権握ったのが、藩主の従兄弟の楢山佐渡や製鉄の父と言われる高島流免許皆伝の大島高任や、新渡戸稲造の祖父で開拓武士の新渡戸伝。 要求をのみ一揆指導者の処分をしなかったことで、藩主と領民の団結も強くなった。
佐渡は22歳で家老になるが、嘉永6年(1853年)、総勢3万5千人とも言われる江戸時代最大規模の一揆である三閉伊一揆が起きる。 佐渡は当時隠居として藩政の実権を握る利済に諫言したため一度罷免されるが、江戸幕府老中の阿部正弘の計らいで再勤し、 最終的には仙台藩とうまく交渉をして、一揆をとりまとめることに成功する。佐渡は仙台藩に幕府への届出を猶予してもらうよう願い出る使者を発し、 日本史に残る農民運動となった一揆も終止符を打ち、佐渡は盛岡藩の危機を救った。ただ、このために佐渡は仙台藩に借りができたと見る人もいる。 一方で、一揆側の要求の一つであった先代藩主利義の復帰及び帰国を退けたので、利済の傀儡として立てられた藩主の利剛もまた佐渡に借りが出来ることになった。
>>175 そういや秋田戦争の軍の兵力ってどうなってんだ
官軍が薩摩・長州・佐賀・久保田・その他、奥軍が庄内・その他ってのは知ってるが
桂太郎の書簡だと長州は100人ぐらいしかいなかったらしい
そのうち6割が戦闘不能になるんだから、激戦だったのは間違いないが
あとは仙台経由の佐賀が750人ぐらいと庄内は2000人ぐらい?
後半は薩摩・佐賀、仙台・米沢からの援軍がそれぞれ来たらしいがそれもよく分からん
>>209 歴史群像アーカイブの記事で具体的に出ていたと思うけど
今、手元にないのでとりあえずWikiでの紹介によると官軍1万人に対し、同盟軍(ほぼ庄内藩兵のみ)2000人といったところ。
5倍の大軍を相手に引かなかった庄内藩兵をさすが徳川四天王筆頭の酒井忠次の後裔と褒めたたえたい気分
官軍と言っても秋田藩は実質員数外だろうしな〜 領地を戦場にされて約3分の2が被災したとか
歴史群像の庄内藩・佐賀藩関連の記事での秋田戦争は かなり戦力の変動が激しいけど 同盟軍は 庄内藩の他に仙台藩・米沢藩・盛岡藩も参戦 ・・仙台藩は数はそれなりにいたものの戦力的には振るわず 新政府軍は佐賀藩(支藩も含む)の他は島原藩・大村藩・平戸藩・福岡藩・秋月藩に 長崎振遠隊(英式調練300名以上)を加えた九州諸藩連合が約1400人(岩倉具視が指揮計画もあり) 薩摩が5大隊約770名、長州は約100名 ・・秋田藩は洋式兵(英式調練)は約100名
>>210 ウィキだと少なくとも米沢藩兵1000と南部藩兵が北部から侵入した1400と庄内への援軍が200いたようだけど
秋田の同盟軍は総兵力は相手の半分ぐらいでも洋式兵の数は逆に相手の倍いた感じか
>>212 読み返して
小倉藩も新政府軍で参戦
薩摩は5隊約740名(西郷隆盛が薩摩で召集した部隊)
あと米沢藩はかなり洋式調練・装備は積んでいた模様
>>215 米沢藩は鷹山のおかげで財政再建ができていたからな。
洋式調練・装備に手を出す余裕があったのだろう。
それにやはり伝統の強みかな。
大坂の陣で家康にさすが上杉家と唸らせた武門の誉れを尊ぶ伝統が残っていたか。
明治以降も米沢海軍と謳われたからな。
秋田藩は西洋砲術を導入してて雷風塾とかいう訓練所があったらしいけど秋田藩の砲兵ってなんか活躍あった?
>>216 京都警備でも(政治的口出しはしていなかったものの)頼りにされていて
調練を披露したとき普段は大口叩いていた尊攘公家が大砲の砲声にビビりまくって
やめてくれ〜と泣きついて愉快愉快と書き残していますね
米沢藩は同盟に加わったのは越後の旧領を奪取しゆという野心のためとか 新政府が会津を潰した後米沢藩ら佐幕派諸藩をとり潰すんじゃないかという猜疑心に駆られたからとか ちょっと頭が弱いイメージなんだけど
米沢藩はなんだかんだ言っても 幕末時には積極的に政治的に動く人材がいなかった気がする。 そんなに有名な人物も出ていないような気が。 政治的に動く人材がいないと、どうしても状況に流されるからな。
>>219 さすがにそれは、確実な一次資料や証言が残ってるんでなければ誹謗中傷やデマと切り捨てていいレベルかと
まあ上杉家の旧領の越後への執着は相当なものだったようだが
関ヶ原の前にも随分未練たらしくいろいろ工作してたとも言うし
美青年武将の祖先の地への帰還大河ドラマ『越後へ』とかやったらうけr…ないよなやっぱw
米沢藩は もうひとつの明治維新 [編]家近良樹 有志舎 によれば外様ながら幕閣(と言うか一会桑)への参入を求められる一方、長州との連絡も 欠かさないというバランスにとれた外交政策を展開していて 急激に佐幕か尊皇に傾いて内情は粛清の嵐みたいな状況も招いていません ただ同盟として参戦しながら降伏して会津を攻めたりもしたので 薩長にも旧幕にも評価されにくい(研究も進んでない)現状があるみたいです
米沢藩は上杉謙信死後の混乱や関ヶ原前後の混乱等で世渡り上手になったのだろうな。 忠臣蔵でも見事に世渡りを果たしてしまったし。あの時に吉良を護るために米沢藩が全力を挙げ そのために襲撃した赤穂浪士を米沢藩士が全滅させていたら赤穂浪士はどう評価されていたことか。
家老の色部が暗躍してるよね>忠臣蔵
新潟港防衛戦で戦死した人が子孫なのかね、色部さん
>>221 デマっつーよりは通説の類じゃね、それ
一応越後出兵の理由については、
「越後の民衆が会津藩を憎む余り新政府軍に協力してる。そのせいで会津負けまくり。ヤバイ。俺が行って民衆を助けないと。」
みたいな米沢藩首脳部の言が残ってるみたいね。(千坂とか甘粕とか)
しかしまぁ大義名分だけじゃなく実際に救民活動してて越後領民からの徳望は随一だったみたいなんで、
越後への復帰を狙ってたんじゃないかと思われるのも仕方ない部分もあるのでは
会津藩に越後で現地徴募された部隊が、脱走して何故か米沢藩軍に入ってそっちで戦ってたり、
新潟町から会津兵が治安を乱すので助けて欲しいと依頼されたり……米沢藩への人望が圧倒的すぎて辛い。
余り関係ないが、米沢藩戊辰文書によると会津兵だけでなく長岡藩も越後の民衆から嫌われてたらしい。
理由はよく分からないが。
>>225 >>「越後の民衆が会津藩を憎む余り新政府軍に協力してる。そのせいで会津負けまくり。ヤバイ。俺が行って民衆を助けないと。」
なにその超理屈www
おまえら奥羽列藩同盟のメンツだろうにどっちの味方なんだつうの?w
そもそも奥羽列藩同盟作らなきゃ越後に会津藩が来る事もなかったわけで 時系列的に米沢藩が同盟に入った理由にはならなくね
そもそも奥羽越列藩同盟って何が目的で結成されたのかよくわからん 会津を助ける義理とか無いと思うんだが・・・
上杉さんのとこは越後を離れてからも越後の住民に慕われてたのだな
当初は会津と薩長の和平を取り持つ仲介団体のつもりが 様々な思惑と錯綜の果てに攻守同盟になってた感じかな 西国では薩長土肥の軍事力で睨みを効かせて雪だるま式に 諸大名を平定・戦力化できたけど東国では限界があったんでね? (秋田は結果的に散々な目にあったわけだし)
>>230 奥羽越列藩同盟の成り立ちを考えると大体そんな感じで間違いないと思う。
それに主に薩長が強硬姿勢で全面降伏以外認めない、それに俺たちのすることに文句をいうなという態度をとったのも大きかったろう。
世良修蔵率いる長州兵は仙台に乗り込んでくると東名浜に停泊していた民間船の3000両分の積荷を略奪私物化
伊達藩主を上座から見下して兵卒まで呼び捨てにし、錦旗に逆らうのかと脅迫、仙台城下では無銭飲食は当然、
商家からは御用金を納めろと言って全財産を供出させる等、乱暴の限りを尽くしたとか。
ここまでやっといて、列藩同盟ができたら朝敵許すまじの論理。
1941年の米国よりひどい気がしてくる。
>>229 現在、つうか少なくとも戦後以降の新潟では上杉謙信ってまるで盛り上がらないと言うか人気が無いと言うか
天地人で少しだけ頑張ったくらい
世良さんを褒めてる人みたことないわ、仙石秀久も漫画になるまで褒める人全然いなかったけど
>>233 世良さん鉄砲玉説というのをネットで見たことがあるな。
やくざがケンカをするのに、わざと下っ端を敵の縄張り(シマ)に送り込んで暴れさせ、
敵がブチ切れて下っ端に制裁を加えたら、それを理由にケンカを吹っ掛ける。
この下っ端を鉄砲玉というのだけど、世良さんは鉄砲玉として選ばれたと。
実際、世良さんが殺されたおかげで薩長は奥羽で好き勝手できたのだし。
世良さんがやっていることって、どう見てもヤクザの鉄砲玉がやるようなこと。
妙に私は納得してしまった。
>>233 漫画読んでも仙石はまあ無駄な前向きさ以外評価のしようのないキャラだけどな
大名として表舞台に立ったらいきなり九州侵攻でコイツが原因の大敗北食らってるし、
天下分け目の関ヶ原では秀忠の配下で真田に引っ掻き回されて遅参だしで、
贔屓の引き倒し気味にかなり強引に褒め上げないともうどうしようもないw
葉武者としては漫画は極端でもかなりの強者だったみたいだけどな
>>234 その説は古くから根強くあるよね
当時の維新政府のやり口が、西郷・大久保コンビを筆頭にとにかく陰湿で強引だったこともあるし
ただまあ、世良は幕末京都で苦労してないし、長州の山猿が田舎もんの地を丸出しにしてヤラカシちゃったんじゃないかって感も強い
世良に鉄砲玉の覚悟があったようにも見えないしねえ
素でヤラカスのを見越してあんなのを送り込んだとしたら、送り込んだ奴の陰険さは大したもんだがw
それにしても気の毒なのはその下の兵隊だが、こいつらも乱暴狼藉でいい目見てるからあんまり同情する気にもなれないw
世良の顔、うちの上司に良く似てんだ なんつうか無能じゃないんだけど要領が悪い人でさ
城下町に火をつけて城兵の出撃を促す策みたいだなw うむ、正しく戦国の美風w 薩摩藩邸が焼き討ちくらったのも似たようなもんだし いやまあなんでいきなり焼き討ちするのかそこも理解できんけど
世良の素行に問題はあったのは事実だろうけどそもそも新政府(というか薩長)の方針が 反抗勢力は討伐だから、世良としては上に従うしかなかったんでね? 会津・庄内以外にも東北諸藩に反抗を企んでいる勢力がいたのは事実だし
>>239 しかし本人の捕縛死から東北の蹶起につながる契機が本人が新政府にあてた報告書だからな
しかも危険な内容の書簡を奥羽側に盗み見られるという軽率さ…
自業自得なんだよねえ…
しかしそれが現実のものになったからな見立ては間違ってないだろ
>>237 世良修蔵の画像検索で俳優の樋浦勉が出てきて吹いたw
>>233 部隊指揮官としてはかなり有能、大島奪還や鳥羽伏見での迂回攻撃など戦功は大したもんだよ
問題は高度な政治判断が要求される場所に回されちゃった事で・・・
なんであんな書類を身内に送らせなかったんだろう。
書類自体も結構、重要なものだし。
>>242 吹いたw
結局あの密書ってその後どうなったんだっけ?
行方不明らしいね
>>243 世良が銀英伝に出てきたレンネンカンプと被るな
>>236 ネットで見るとどうも薩長(とりわけ薩摩)はそれを見込んで送り込んだ可能性が高いんだよな。
当初は黒田清隆と品川弥四郎が下参謀だったのに、世良や大山綱良がなっている。
黒田や品川から辞退したというけど、それじゃ戦争にならないからと西郷達が入れ替えたのではないか。
普通だったら、上の命令を辞退できないはず。
大山もその経歴(西南戦争等)を見るとどうもこういう騒動を起こす性格なのがミエミエなんだよな。
下の兵隊もわざと経歴等から暴れそうな奴を押し付けたっぽいし。
大体、まともな兵隊なら城下で乱暴狼藉の限りをつくし、女性が逃げ出す騒動を起こさないと思う。
北越戦争で岩村(ちなみに佐賀の乱を引き起こしたのもこの人)に対外交渉をさせたことといい、
薩長はよほど戦争をしたかったらしい。
奥羽の会津討伐軍の解兵・世良の暗殺が閏4月19日、白河城が仙台兵の撤退で会津軍の手に落ちるのが20日 白石盟約書が調印されて攻守同盟に発展するのが23日だから、仙台藩も戦争を見越して動いていたのは 間違いないでしょう。当時の連絡(通信)体制では事前に調整していないとここまで手際よく進められないでしょうし
14日には仙台藩家老から世良殺害の了承が出てたというし
まさに薩摩藩邸焼討事件の二の舞
>薩長(とりわけ薩摩)はそれを見込んで送り込んだ可能性が高いんだよな。 でもこれ結果論だよねぇ。 会津や仙台がこれほど弱いと思ってないから、仙台やその他の藩も動員 して会津を征討しようとしたわけで。
仙台は政略はかなり手際がよかったんだけど問題は実戦力が伴っていなかったんだよな〜 長岡の河井継之助も事前に会津と交渉を進めていて(藩内意見をまとめるため新政府とも交渉のポーズは とっていたものの)武装中立ではなく当初から薩長打倒を狙っていたみたいですね 長州討伐での薩摩のポジションを狙っていたんじゃないかな? (長州を会津に置き換えたカタチで)
勝てば長岡藩の地位は大幅に向上ということなのね。
壮大な野心があったのか単に煽り耐性が低かったのかどっちでしょ
>>234 ,248
奥羽鎮撫使が到着したのは3月半ば。
ギリギリで江戸城総攻撃が回避された頃。
世良が暗殺されたときでさえ、やっと船橋戦争と宇都宮の戦いがひと段落ついた頃で、彰義隊も大鳥軍も健在。
どっちにしろ奥羽に回す兵力なんてない。
関東鎮定も済んでないのに奥州を敵に回す積もりで送り込むってのは、政略的にも戦略的にも見切り発車なんてレベルですらない。
>>253 というより陰謀論だわな。当時はまだ江戸の掌握の見込みも立ってないのに。
ガチガチの佐幕派だった桑名や現役の幕閣を有していた淀藩が
あっさり新政府に組しているところ見ると、京都から遠い東北の藩元では京都の情勢を
理解しにくかったんだろう。
河井継之助自身も京都時代に西郷隆盛に会いに行ったところ飲食(宴会)中と言われて 会わずに帰った逸話も残っていますね ここで胸襟を開いていたら歴史も変わっていたかもしれませんね ・・まあ薩摩の「宴会」から生還できたらですけど
兵力もないしそもそも軍資金が絶望的にないんだよな〜 上野戦争にしても大隈重信からストーンウォール購入資金を分捕って さらに江戸城の財宝売ってまでしてやっと揃えたぐらいだし 寧ろこの状況を仙台は好機と見たんじゃないかな?
>>259 樽山佐渡みたいに逆に開戦の決意をするかも。
東北諸藩を糾合して関東に雪崩込むというシナリオはどの程度勝算があったんだろうか?
楽天が日本シリーズを東京ドームで戦うくらいかな(´・ω・`)
遠征するにしても東北諸藩の貧弱過ぎる海軍力じゃ輸送諸々が
旧幕府海軍吸収するだろうからそこは大丈夫じゃね
まぁ金もないし天朝様に逆らう気もないけど
>>263 楽天は田中がいるしそこまで弱くないだろ
268 :
名無し三等兵 :2013/02/04(月) 00:34:31.89 ID:ggI9HVZi
>>267 仙台に引っ掛けただけだからファンだったらゴメン(´・ω・`)
(最初はベ○スで例えようとしてた)
まぁ海軍言うても、当時は陸上の自軍拠点から遠く離れて長期間活動できる英国海軍みたいなシステムはないし、
新潟港や平潟港揚陸みたいなのなら陸軍或いは近隣藩の支援が無いと立ち枯れ必至やし、
そう影響はないのでは。当時の弾薬消費量なら、弾薬だけ陸上輸送でも何とかなるべ。糧食は無理。
にしても新潟港急襲は鮮やかな指揮と相俟って、同盟軍の戦略的急所にこんにちはして長岡城奪回が一気に死に石になる妙手だったな。
長岡城奪回も犠牲は多かったが地の利を存分に生かした見事な作戦で、あそこで山縣が退いてたら新潟陥落自体が無為になった可能性もあるが。
>>262 仙台と会津の全軍が額兵隊か庄内藩並の戦力だったら、計画通り利根川まで押し出せてたかも。
庄内は元より、薩長もそんなレベルだし不可能じゃないはず。(希望)
要は中〜大藩の戦力次第だからなぁ。
>>269 >仙台と会津の全軍が額兵隊か庄内藩並の戦力
それはさすがに無理だろ白石市長が秋田の裏切りがなければ勝てたと言ったそうだがどうだろ
新政府側の秋田諸藩は秋田戦争で合計一万動員したらしいが外征だとどの程度出せるか
新政府側主力の薩長土肥が大体7000(薩)から5000(長肥)、3000(土)ぐらいだから 号して2万以上のライフル兵は揃えないと
米沢藩兵の編成は、例えば五十騎組の小隊は全員五十騎組の士分で編成されていると言う訳ではなく、 五十騎組の士分の下に足軽や人夫が入って一小隊が編成されると言う、士分は士分、 足軽は足軽で小隊編成をした新政府軍の薩摩藩兵や長州藩兵や松代藩兵、 同盟軍の長岡藩兵や会津藩兵等と比べると戦国時代と同じ旧態依然の編成でした。 また小隊編成と言っても名ばかりで上記の通り士分と足軽が同居した旧態依然の編成でしたし、 1個小隊と言っても兵士数は多い部隊は50〜60名、少ない部隊は小隊と名乗っていても10数名と隊によってバラバラでしたので、 小隊編成を名乗っていてもそれは名前だけのものに過ぎませんでした。 以上が米沢藩の軍編成で、これは初代藩主景勝公が米沢に転封された際に編成した軍編成とほぼ同じ編成で、 米沢藩上杉家はこの戦国時代同様と言って良い軍制で戊辰戦争に挑む事になります。
そんな実質何とか形だけは整えた感の米沢藩兵の小銃隊ですが、開戦前に大量に入手した小銃の配布にも上記の身分によって代わる旧態依然の問題もありました。 まず米沢藩兵の主力となった侍組と三手組、三扶持方には新政府軍の標準装備でもあった前装施条銃のミニェー銃が供与されます (厳密には同じミニェー銃でも三手組と三扶持方では違うタイプが渡された模様です)。続いて指揮官や士官クラスには後装銃(スターク銃?)や七連発銃(スペンサー銃?)が供与されました。 また米沢藩虎の子の散兵隊は全員七連発銃(スペンサー銃?)を装備していました。しかし実際には最も兵力の多い扶持方並と足軽組にはゲベール銃が供与された模様です。 このような身分によって持たせる小銃を替える編成は、上記の通り同じ隊の中で士分と足軽が同居する米沢藩の編成では、同じ隊の中でも身分によって装備する小銃が違っていました。 幾ら兵士達が小銃の扱いになれていたとしても、同じ隊の中でも身分によって射程距離も発射速度がバラバラなのですから、新政府軍と比べると柔軟的な行動はとても望む事は出来ませんでした。
これって要するに、 高価なミニエー銃・七連発銃=武士の持ち槍 安価なゲベール銃=足軽の長柄槍・弓 的発想なんだろうけど、これだと前にいるゲベール銃持った足軽どもがやられまくるよな。
謙信流的洋銃兵法としては、 ゲベール銃持った足軽が銃列をしいて防御をして、 ミニエー銃や七連発銃を持った武士が敵陣に突っ込んでいって大将首を取る、という感じだろうけど、 何か根本的に間違ってる。
武士を擲弾兵と考えれば・・・でも、これじゃ無い感がw
まんま直臣と陪臣って感じやね ハードはギリ間に合ったけどソフトが付いてこなかった感じか 簡単に調べてみたが、その辺のソフト面を学ぶ為の努力は庄内藩が例外的に西国雄藩並みに早いんだな 安政2年に江川門下に学びに行った人たちがいる 額兵隊は脱藩して個人的に学びに行った人みたいだからまた毛色が違うっぽい そういや西南雄藩が軒並み第一次軍制改革に乗り出してる天保年間前後はどうなのかと思ったら、 庄内藩と米沢藩はほぼ同時期に軍制改革してるのね 特に米沢藩は、それを称されて慶応2年に加増受けたって上杉斉憲のwikiに書いてあったが…どうしてこうなった 逆に長岡藩は慶応年間になってギリギリ滑り込みセーフって感じやね
軍銃一定・従兵(陪臣)の排除は西南雄藩でも内実はかなり怪しかったみたいですね(あくまで東国と比較してましという程度で) 記録上ではミニエー装備と書いていても補給・整備体制の不備もあり実際は色んな銃が混在していたり、お金やツテのある兵士が 見栄えのする新式銃を持ってきていたり(桐野利秋も扱い方の知らない銃を持ち込んでいて鳥羽伏見で撃ち合っている最中に村田経芳 に教えてもらったとか)、「士鉄砲」「自弁装備」の概念が抜け切れていなかったんでしょうかね?
>>280 桐野のはちょっと信じがたいひっでえ話だよな
当事者の村田が書いてるからまあ確かなことなんだろうけど
薩摩の指揮官が戦場に出るまで自分の武器の操作法知らなかったとか、士道覚悟で切腹もんだろw
長州の前田砲台の奴もマニュアル読みながら対艦砲撃やってたらしいけど。 フランス兵が砲台制圧したときにそのページが開いたまま放置してあったとか・・。
軍銃一定というのが太平洋戦争になってもできなかった日本に何を求めるのです。 軍銃一定の重要性というのを日本では太平洋戦争の敗北まで理解できなかった。 村田銃で軍銃一定が達成できたというのがネットで氾濫しているけど、本当に理解していたのなら もうちょっと考えて太平洋戦争で開戦していたはず。 史実を調べるほど、前線での銃と補給される銃弾が一致しないという大混乱が引き起こされているのだけど。 ただでさえ補給不足に苦しんでいるのに届いた銃弾の口径が違うために射撃できない。 泣くに泣けない悲劇だと思います。
>>283 どんな一時証言にそんな銃弾の不一致で撃てないとか書いてあったの?
寡聞にして俺は見たことないが
派出する軍・師団レベルでは小銃はほぼ統一されてるわけだが
旧軍くさしのそれこそ敗戦直後からの基本だけどね
あとは明治38年制式の銃で〜とかな
長州も自弁装備は変わらずミニエーを強制的に買わせていたはず
38式(6.5ミリ)と99式(7.7ミリ)は一応師団単位で分けるはずが南方戦線では 泥縄式に部隊を引き抜き・投入したから(後方も含めて)混乱したみたいですね 機関銃弾は更に酷いからな〜
上野戦争の前夜、不忍池方面の長州兵は何の説明も受けずに、スナイドル銃と弾薬を支給されたと。 誰も操作を知らず困り果てていたが、背後の坂の上には佐賀の江戸屋敷が有ったので、 「鍋島公の兵ならば、知っているに違いない」 と、数名を送り、操作を教えてもらった話しが。 銃以外でも、横浜で舶来の手術道具セットを買ったは良いが、やたらと大きい。 「外国人はデカイからか」 と、納得していたが、ドイツ語(だったかな?)を読める人に見せびらかしたところ、獣医(馬)用と書いて有ったなんて事まで。
ベトナム戦争のときの米軍だってM16小銃は5・56mmで、M60や狙撃銃は7・62mmで、 M14やM2カービン使ってる奴もいたり、戦車兵はグリースガンで11・4mm、 南ベトナム兵や韓国兵は7・62mmでオーストラリア兵は7・7mmのブレンガン使ってたり。 それ以前にM16の5・56mmは装薬が不良品で大混乱したらしいけど。
昔、こち亀の両さんがその辺り批判してたな
昔から偉い人の生存率を上げるように良い武器を与えていたが、 その良い武器が射程の長い武器、となった場合、射程の長い武器は最前線にあるべきであって、 それを偉い人が持ってて何に使うんだ?友軍越しに敵を撃つのも無理じゃないか? って訳ねw 偉い人に供与すべきなのは、防御兵器として連発機構に優れたものが良いのかもな そしてその割に軽いもの
なんか米沢藩戦記読んでたら面白いこと書いてた。 この色部等の努力により、新潟港は同盟軍の後方補給地として稼動し、西洋化の遅れている同盟軍に多数の小銃と弾丸を供給します。 中でも米沢藩兵は七月十九日には前装ミニエー銃二千挺と元込銃(シャールプ銃?)一千挺、更にその各小銃の弾丸計150万発を入手する事に成功します。 ただこの直後に新潟攻防戦が行なわれた為、この際購入した小銃は殆ど米沢藩兵の手に渡らなかったと思います。逆にエドワード・スネル(ヘンリーの弟) と面識がある河井継之助の長岡藩は五月下旬にスペンサー銃41挺を含む多くの小銃・弾丸を入手して、これらは後の長岡藩兵の戦いに大きく貢献しています。 ところでスネル達が同盟軍に持ちかけた商談としては他に、海軍力に劣る同盟軍に当時江戸湾に在り、後に新政府軍海軍の主力軍艦として活躍した甲鉄 (ストーンウォール・ジャクソン)の購入を持ちかけます。この計画は旧幕府が既に40万ドルを支払っているので、残金10万ドルを払って入手すると言うものでしたが、 長岡藩がこの案に反対するなど足並みが揃わず結局実現しませんでした。また他にも在サイゴンの外人部隊を呼び寄せると言う案もスネル側から出されましたが、余りに巨額を要求されたので実現しませんでした。 とにかくこのように同盟軍の重要な後方拠点として稼動していた新潟ですが、その新潟目指して新政府軍の山田顕義率いる艦隊が迫っていたのです・・・。
偉い人の装備問題として、この時期の短銃は輸入品の腐れ玉が多くて切り込み・近接戦闘に備えて 日本刀との二重装備が必要となるものの重量の関係で従者も連れて回っていたみたいですね
>>291 >偉い人に供与すべきなのは、防御兵器として連発機構に優れたものが良いのかもな
そしてその割に軽いもの
つまりピストルですね
そういや世良がピストル持ってたな役に立たなかったけど
>>282 それは聞いたことないなあ
そもそもあの連中、攘夷決行から四カ国艦隊が来襲するまで1年ぐらい、外国船相手に大砲撃ちまくってる訳だが
考えられる可能性としては、禁門の変に向かった部隊の代わりに新編の部隊が補充されたとか?
>>293 当時日本に流れ込んでた拳銃ってパーカッション方式が主流だから
雷管と推薬のどちらかが湿気るだけで撃てないわけで、メタルカートリッジに比べて元から不発率が高いのに
はるばる太平洋を越えてくる過程で潮風に晒されれば、そりゃ使い物にならないよね…
坂本龍馬のやつは高杉晋作の上海土産だったかな?
別に従者がいるのは拳銃とは関係ないだろ。
竜馬のはスミス&ウェッソンのNo2モデル(リボルバー)。 金属薬莢だから再装填は早かったろうけどリムファイアーなので威力はあまりない
よくかっこよく懐からだすけど 本当にしまえるのだろうか
懐に紐のバンドでもついていたのかなあ?と想像 でもあんなよれよれの服にピストルつけてたら服がだるんだるんにw
ピストルの連射機構なんて日本人が大喜びするような構造だからなあw 江戸時代中期にあったのは、ヨーロッパにもあったが筒ごと回転する機構、らしい (よく時代劇でデカい悪い商家にあるが、実はそんなものが日本で作られた事実はないというw)
306 :
名無し三等兵 :2013/02/06(水) 07:47:10.06 ID:B00NzF5c
>>305 「ペッパーボックスピストル」のことか?
あれは悪役メカとして適任だよね
バカメカという気もするがw
どうせ練習もしないわ整備もデタラメだし、だいたい劇中でも威嚇以外で二発目を撃てた試しがないのに無駄な買い物したのぅ、越後屋。
ワイルドセブンにも出てきたね、悪役次長の持ち物として。
310 :
名無し三等兵 :2013/02/06(水) 09:44:03.79 ID:AZPM0pdl
日清戦争までの陸戦は突撃のみで決着が付いてる。 単純なんだな
いやその前に野砲でちゃんと砲撃してるだろ。
312 :
名無し三等兵 :2013/02/06(水) 09:51:02.85 ID:AZPM0pdl
>>311 19世紀は運搬手段の問題で弾薬の補給が続かないので最後は突撃のみになる
313 :
名無し三等兵 :2013/02/06(水) 09:57:12.88 ID:AZPM0pdl
近代的補給が確立されたのは第二次大戦の米軍からだからね。 それ以前は補給がスズメの涙
314 :
名無し三等兵 :2013/02/06(水) 10:41:17.92 ID:MoL3mLhK
19世紀は欧米の海軍でも衝角による体当たりが主流で脳みそゼロでも戦争ができる軍人の楽園だったんだよ 欧米でも人権は無いし、市民が抗議したら銃殺していた時代だし、 婦人参政権も無い
>>312 弾な薬切れの為、最後は突撃になるケースも有るとは言え、会戦最後の局面が白兵突撃とは限らないかと。
銃砲撃で締めくくるケースも普通に有るのでは?
その後、敗走する敵兵を騎兵で追いたてるのも白兵突撃かも知れないけれど。
316 :
名無し三等兵 :2013/02/06(水) 11:59:42.05 ID:MoL3mLhK
>>315 あと19世紀の戦争で忘れてはならないのは飲料水、食事や衛生が劣悪なので伝染病が蔓延した点。
日清戦争では戦死の10倍ぐらいコレラなどで病死してる。
また冬になっても冬季装備など無い時代だし、無茶な突撃でも早期に戦争を終結させないと
伝染病や寒さで全滅がありえた
19世紀も後半になってくると動員人数が増えてきたのに対して 指揮系統は無線があるわけでもなし戦況の把握が難しくなってたのかな
318 :
名無し三等兵 :2013/02/06(水) 12:13:31.52 ID:MoL3mLhK
19世紀のアメリカ南北戦争でも突撃が繰り返されている。 これはろくな補給ができず、空腹なので突撃で戦線を突破して畑や町で食料を略奪をしないと 餓死するという状況から生まれた面もあると思う。
別に硫黄島のすり鉢山でも沖縄戦のシュガーローフヒルでも最後はUSマリーンの馬乗り銃剣突撃だろ。 反斜面地下壕陣地の日本兵は艦砲射撃や爆撃だけでは制圧できない。火炎放射器と手榴弾と銃剣が必要。 朝鮮戦争のハートブレイクリッジでもベトナム戦争のハンバーガーヒルでも同じ。 だからアメリカ海兵隊は今でも銃剣突撃訓練必修。
でも北軍は鉄道の通る大きな町に兵站基地を作って物資を集積してから兵隊を動かしたってよんだぜ。 もちろん人口の多い大陸の東側1/3〜1/4での会戦に限ると思うけど。 鉄道があれば鉄道沿いに必ず電信線も引かれている。
衝角の突撃はリッサ海戦での苦し紛れが誤った戦訓で広まっただけで、ほとんど砲戦だろ 「市民」への発砲は最終段階で、大半は竜騎兵辺りが蹴散らして解散させて終わってるし
>>320 子供が思いつきと思い込みで言ってるだけだからしゃあない
ラムによる突撃は、船が鋼鉄製になり 砲撃ではなかなか致命傷を与えるのが 困難になったので、ラムで穴を空け浸水させ 沈めるになったんじゃなかった?
苦し紛れって南北戦争以来蒸気機関つき主力軍艦にはだいたい衝角がついてたろ? リッサの時だってあるものを使っただけだろ?
リッサの例だと、イタリア側の装甲艦にもラムが付いてるな
>>313 それは糧食も含めた補給線の話で、武器弾薬に限れば貧弱な補給網でも絶対に不可能と言うほどでもない
状況は限定的だが、水運を利用できる拠点の近隣なら糧食の補給も容易になる
普仏戦争の時は弾薬消費量が少なかったから、鉄道網による補給が上手く機能しなくても問題は生じずに済んだそうな
日露戦争の頃になると、両軍とも敵後方鉄道網の破壊作戦を実施している
第一次の時点で弾足りないけどな 補給網というか生産が追い付いてないんだが 日露戦争の日本もそうだったけど
ネルソン・ラム
接舷切り込みの接近戦に備えて衝角は付いていることは付いていたけどリッサで「装甲艦には衝角で突撃すべし!」という戦術が 広まってしまったみたいですね 実際は躱されて砲撃で非装甲部分(含兵員)がダメージを受けることが多く、日清戦争で「定遠」も衝角突撃を図るも大打撃を受けて います、日露戦争時は両軍装備していたものの、結局世界に先駆けて日本が廃止したそうです 廃止された理由は味方艦との衝突事故で沈めてしまう事例が多発したためもあるそうです 一艦でも欲しい時に「春日」が「吉野」を「撃沈」してますね・・
台湾航空戦のミサイル思い出す もっともラムはは以後完全に廃れたがミサイルは主流になった
331 :
名無し三等兵 :2013/02/06(水) 19:46:30.37 ID:5Jjf1oQs
それは良いものだw
アグネス・チャン?
それはorz
某戦史雑誌wのリッサ海戦の記事を読み返してみたけど衝角突撃への期待が高まったのは 薩英戦争でのアームストロング砲の事故多発を受けて後装式施条砲を廃止した為に 甲鉄艦において機動・装甲が火力よりも優位になったためみたいですね あとぶつけられたイタリア艦「レ・ディタリーア」が「ヴェネェチアは我等の地」を乗員が 唱歌しつつ沈んだため、世界の海軍関係者の琴線というかロマンに触れたのもあるそうです ・・相手がイタリア艦なら参考記録に留めておけばよかったのに(´・ω・`)
なんかみんな言いたい放題書いてるなぁ。カオティック。
海戦は陸に比べて少ないから、リッサ沖も貴重なデータなのよ。 だから各国海軍も研究しないわけにいかない。
戦術理論の実証の場として実戦はなんといっても一番大きいところだからなぁ
>>311 大砲自体が歩兵の機動に付いてこれないとか、発射速度が低すぎてライフル銃の歩兵に撃ち負けるだとか
速射化する前の野砲に何を期待しているんだ。
どっちかというと視界がボトルネックじゃね
野砲で歩兵の戦列崩して歩兵の突撃で戦列を崩壊させて騎兵で追撃が王道だったけど WW1で塹壕戦に推移して「野戦で使う砲」が使いづらくなっていったみたいですね 南北戦争では塹壕や列車砲も登場していてまさに転換期ですね
むしろWWに突入しちゃうと完全に戦場の女神
WWが始まると「野戦」を想定していた為に陣地にはほとんど無効な榴散弾ばかり 大量に準備されていたり、直接射撃を前提に作られていたため仰角が20度未満で 間接射撃がやりづらいなど色々な問題が噴出したみたいですね 結局「野砲」とは別ものだった「榴弾砲」が事実上の「野戦砲」になったそうです
海戦についても、WW1ぐらいまで水線下に火砲ではダメージを与えられなかった。 だから決定打という意味ではラムは正解。しかし当たらないので無用の長物。 ああ水雷への道は遠かった。 防御力が勝っていた時代が長く続いていたこともわかってくれい。 それまでは接舷攻撃や射撃で乗員を制圧するしかない。
>>328 切り込みの前にラムつかったら敵艦はブクブク沈み出すから乗船させられないじゃないか。
346 :
名無し三等兵 :2013/02/07(木) 12:07:59.46 ID:QCIzOHZi
>>320 19世紀に現代の常識は通用しないことを踏まえて欲しい。
現代とは違うんだ。
当時の蒸気機関車の積載量には限度があり、速度も遅く、故障も多い。
また物資の横領や横流しも信じられないほど多い。
クロネコヤマトの宅急便とは違うんだ
それでもクリミア戦争だと鉄道の力で露が不利になってたが
348 :
名無し三等兵 :2013/02/07(木) 12:14:08.72 ID:QCIzOHZi
補給は技術面の問題だけではなく、腐敗した官僚制度によっても阻害される。 日清戦争の清国では戦費の9割が官僚に横領されていたという。 軍隊内や役所内には泥棒がわんさかいる。 机上の空論は通用しないんだ
350 :
名無し三等兵 :2013/02/07(木) 12:26:43.07 ID:QCIzOHZi
19世紀の戦艦の大砲は命中率がくそ悪い。 全速で移動する敵艦を狙うのはまず無理。 その結果として両方の艦が接近したら体当たりしたほうが早い。 当時においてはラム特攻は合理的とも言える
351 :
名無し三等兵 :2013/02/07(木) 12:35:18.74 ID:QCIzOHZi
いいかい。 20世紀の1914年に起きた第一次大戦でもフランスやイギリスの将軍は 無謀な人海突撃を繰り返した。 19世紀はそれ以前だよ
かつては合理的「だった」戦術が残ってしまったのが不幸だったというか
軍人は前の戦争で戦うんだろ 昔から言われた通りじゃないかw
19世紀はチャージに強い戦列歩兵が廃れてチャージに弱い散兵戦術が台頭した時代でもあったな そして塹壕戦へ……
歩兵火力の増大の歴史と歩兵の密度の低下はだいたい比例しているというか
356 :
名無し三等兵 :2013/02/07(木) 13:27:02.40 ID:QCIzOHZi
あと19世紀は欧米でも戦死は名誉だからね。 19世紀において平和は悪であり、平和を唱える人間は欧米でも拷問処刑された。 現代をすべてと思う人は19世紀を少しも理解できないだろう
357 :
名無し三等兵 :2013/02/07(木) 13:35:48.58 ID:QCIzOHZi
いまの高校生はインターネットが無かった時代を想像できないだろ。 「携帯電話が無かったら死ぬ」と言う若者もいるんだから。 そうした若者にとっては1980年代すら中世のように見えるだろう。 そうした錯誤で19世紀を見ちゃいけない。 当時には当時の事情がある
ageて知ったかの底なしのバカ光臨 いい加減巣にカエレ
何言ってんだ?20世紀でも21世紀でも欧米では戦死は名誉だろう。 イラクやアフガンで戦死した米兵、英兵、みな名誉の戦死だ。
欧州での制限戦争の歴史も知らんのか・・ この頭の悪さは土鍋臭いな 「人間は自らが置かれている社会的・歴史的環境の束縛を振りほどけない事を 常に自覚していなければならない」 マックス・ウェーバー
制限戦争?十字軍もレコンキスタもユグノー戦争も清教徒革命も30年戦争もウィーン包囲も信徒同士の宗教戦争だろ。
制限戦争 30年戦争でウェストファリア条約が締結されて宗教戦争の惨禍の反省から 国家間の戦争が理性的、紳士的に制限された「理念の時代」の戦争様式 (冷戦下の全面核戦争を避けるための戦略とは別もの) 民間への損害・兵員の損失を戦闘をスポーツ的・ルール的にすることで避けようとしている 英仏の将校が互いに先に射つように譲り合ったエピソードは有名 貴族・ジェントリの伝統がない米独立戦争では英軍将校が最優先で狙撃されることになる フランス革命を経てナポレオンが国民の大規模動員を可能にするに及んで 「全面戦争」の時代になっていく
つまり30年戦争以前は制限戦争ではなかったと。
騎士同士の身代金目的の戦いやマキャベリ先生が怒り狂っていた傭兵同士の戦いも
制限された戦争とも言えるんでね?
>>345 乗船させられそうになった方が撃退するためらしい
敵艦鹵獲は乗務員全員に艦船を売却した収入が分配されるシステムだったから
狙ってくるのも多かったんじゃないかな?
確か英海軍はWW2時も法的には鹵獲艦報奨制度残っていたらしい
調べてみたら水雷衝角艦(ポリフェムス)や装甲衝角艦(アラガント級防護巡洋艦)まで造ってたんだ さすが英海軍・・(´・ω・`)
取り敢えず火星人にも勝てるラムアタック最強、 あれを目の前で見たら多分当分ラム廃止できないな
マキャベリ先生が怒り狂っていた傭兵同士の戦いが制限戦争なら、 イタリアに攻め込んできたフランス軍との戦いは制限戦争でないな。
369 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 12:29:57.67 ID:lgIm1Gu7
1870年の普仏戦争では両軍が騎兵突撃を繰り返した。 ボルトアクションライフルが登場してもナポレオン1世の時代と軍人は同じだったのだ。 そして普仏戦争では騎兵が活躍する余地があり、馬で突撃して敵の砲兵を蹄で踏み潰し、 「騎兵が大砲に勝つ」という離れ業をしている
370 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 12:39:34.34 ID:lgIm1Gu7
1868年の戊辰戦争が火力戦であったというのは司馬遼太郎の小説が生んだフィクションである。 当時の薩長軍には近代的な弾薬製造能力も補給能力も無いからだ。 補給ができないのに大砲を撃ちまくれるはずが無い。 史実の戊辰戦争はスパイク銃剣と日本刀による血みどろの白兵戦だろう。
371 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 12:51:57.40 ID:lgIm1Gu7
戊辰戦争の薩長軍には食料の補給も無く、現地調達のみだった。 町ではコメを略奪できただろうが、農村地帯では当時の小作農の主食である ヒエ、粟やどんぐりの実を略奪したと思われる。 そうした雑穀は白米よりビタミンがあるので、この雑穀食も薩長軍を勝利に 導いた要因であると思われる
潤沢でなくても当時は敵味方が近接していたんだし、 市街地に密集した敵に小銃射撃や臼砲攻撃は効いたろう。 土方だってもうこれからは刀槍で戦う戦争ではないといったそうだし。
長崎・横浜・新潟が兵器輸入で賑わったのを知らんのか?
374 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 13:02:54.31 ID:lgIm1Gu7
「しかし現代はハイテク戦争の時代でして」という意見もあるだろう。 だが少し考えて欲しいのだ。 現代の米軍の弾薬消費量は凄まじい。 映画ランボーのように撃ったら3分で弾切れだ。 イラク戦争でも米軍は弾切れが続出し、銃剣や棒で白兵戦をした米軍部隊がふつうにある。 戦争では机上の空論どおりには行かないのだ
薩摩も薩英戦争後、イギリスからの輸入で弾薬製造設備を整えてるな 後に西南戦争の発端になる鹿児島属廠
376 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 13:07:31.77 ID:lgIm1Gu7
>>373 兵器を購入して港に荷揚げしても、そこから陸路を運ぶ方法が
大八車や背負子だったのだからインパール作戦と大差ない
当時の砲兵って有視界射撃だったっけ? いや、FOなんて作ろうにも通信手段が無いから当然か
>>377 白河攻防戦で薩摩砲兵は間接砲撃を成功させたらしいけど
手旗信号でも使ったのかな?
379 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 13:17:10.27 ID:lgIm1Gu7
19世紀の日本を代表する軍人に乃木がいる。 乃木は日露戦争の203高地で「べトンの要塞がなんじゃ!機関銃で撃たれても爆薬でべトンの壁を 吹っ飛ばせ!人間なんか死んだらまた産めばいい」と根性主義を振り回したのだが、この乃木の根性論は 日本軍、ナチス、ソ連軍などに多大な影響を与えたのだから、乃木は20世紀の非人間戦争の父と言える。
380 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 13:21:50.43 ID:lgIm1Gu7
>>378 当時のレベルで間接砲撃はありえん。
勝った薩摩に都合がいいように捏造された話ではないか
運搬手段が大八車やショイコなのはお互い様。 弾薬と言ってもミニエー銃の火薬は火縄銃と同じ黒色火薬で転用できる。 弾丸は落ちてる奴を拾ってまた撃つとかお互いにやってたらしい。 何も火力戦とは二ヴェ−ルの這う砲撃とかブルフミュラーの疾風怒涛砲撃みたいな、 野砲、榴弾砲、加農砲、迫撃砲を駆使した破壊砲撃とか移動弾幕砲撃だけではない。
382 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 13:24:38.19 ID:lgIm1Gu7
戦史って勝った側に都合のいいように捏造されたものが大半なんだな。 北朝鮮の金日成神話みたいなもんだよ。 だからよく検証しないと、ありえない話のオンパレードになる。
当時、五稜郭は、砂丘の丘陵に囲まれていて海から見ることができませんでした。 しかし、明治政府軍の軍艦「甲鉄」は、見えない五稜郭に砲弾を着弾させました。 砲撃ポイントは、五稜郭の望楼がちょこんと少しだけ見えていたとのことでそこに砲弾を集中させたとのことです。 これは間接砲撃と言えるでしょう。
384 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 13:35:48.97 ID:lgIm1Gu7
>>381 敵の城の正門や壁に大砲をドンと撃ち込んで破壊して突入するとか、その程度の
小さな火力戦があったことは否定しない。
ただそのレベルだと徳川家康が使ってた原始的大砲と大差ないというか、
まだまだ19世紀の主力武器は刀剣でしょと言いたいわけです
19世紀のライフルには長い銃剣が付いていたんだし
歩兵小銃が前装ライフル化してるんですがそれは おかげで南北戦争の死者がとんでもないことになってるぜ
386 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 13:44:08.06 ID:lgIm1Gu7
>>383 ただそれも捏造プロパガンダの可能性は無いですかな?
史実として明治政府は北朝鮮並みの捏造をして自己を正当化した政府だからね。
そもそも一回戦で使う弾の量が知れてるからなぁ 西南戦争ではお互い不足したそうだが 間接射撃は日露戦争が初ではなかたっけ…
しかし明治政府には榎本武揚や大鳥圭介みたいな当事者も入ってるからな。 別に捏造する意味もないし。
389 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 13:53:50.09 ID:lgIm1Gu7
>>385 ただ19世紀の戦争全般に言えるのは戦死より病死が多いということ。
脚気になるような食事しか支給されてないし、医療や衛生も劣悪だからだ。
糞尿の処理もせず、戦場がウンチまみれだったという話もある。
あと南北戦争当時のアメリカだとまだまだ野蛮なので、インディアン、野生動物、盗賊に
襲われて死んだ兵士も多かったのではないかと推測できる。
弾切れで狼の群れに襲われたら食い殺されるだろ
全部予想なんだなお前
391 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 13:56:32.14 ID:lgIm1Gu7
>>388 いや明治政府が捏造する意味はあったんだよ。
捏造しまくって「明治政府に従えば、みなさんバラ色の明日がありますよ」
と騙さないと百姓一揆や西南戦争みたいなのが起きた
と犯人は意味不明の妄言を喚き散らしており
>>389 南北戦争の個々の戦闘について多少なりとも知識があれば
一度の会戦で万単位の死傷者が出てることくらいわかるもんだが
あんた明確に示されてる資料には懐疑的なくせに、持論の根拠はただの予想なんだな
394 :
名無し三等兵 :2013/02/08(金) 14:09:36.04 ID:lgIm1Gu7
>>393 戦死が無いとはこちらも言ってないはずだ。
接近して大砲やライフルを撃ち、しかる後に馬や銃剣で突撃したら、
そりゃ万単位で戦死するだろう
南北戦争で接近戦やるなら優位なはずの歩兵密集陣形が廃れたんだよなぁ
いや前大戦でも死傷者の割合や、ゼロ戦の稼働停止は、結構な割合で直接の戦闘以外なんだよ。 けど何万どころか何百万人が死に、ゼロ戦だってあれだけ作ったのに、稼働する物は国内に一つもないだろ? 両者は決して矛盾する表現ではないんだよ。
>>396 戦病死の割合が多いことくらいはここの住人ならみんな理解してるし、それだけなら噛み付く奴もいまいよ
ただID:lgIm1Gu7は
>アメリカだとまだまだ野蛮なので、インディアン、野生動物、盗賊に
襲われて死んだ兵士も多かったのではないかと推測できる。
弾切れで狼の群れに襲われたら食い殺されるだろ
とか寝言をぬかしてるからなぁ・・・
19世紀はちょうどクリミア戦争でナイチンゲールがいろいろ頑張ってる時期だね
戦争中はインディアンに手を出している余裕はどちらにもないし、 インディアンにもその機会に乗じる余裕もないよ。
ID:lgIm1Gu7の中では、ピケットの突撃やフレデリックスバーグの突撃も成功してるんだろう 伏見の戦いでは、白兵戦狙って突出した会津藩とかが散々に撃破されてるんだが 新撰組の永倉が迂回突撃した時も、しっかり対応されて無為に終わってる 逆に斬り込みが成功したのは千本松での奇襲戦と富ノ森陣地の戦いだが、どっちも対策されてからは犠牲だけを増やしてる 成功事例と失敗事例を比較すれば、白兵戦に持ち込むこと自体が困難だったことが普通に分かる
白兵戦は心理的抵抗も大きいしな
自分の思い込みでデタラメ書きまくって、都合の悪いこと言われれば捏造認定 知ったかの半可通はとっとと失せろよ
まぁ戦列歩兵全盛の時代だと言い分もわからんでもないが
なんなきゅうにカキコミ増えてて怖いな なにがあったんだ
基地外が荒らしてるだけ
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ||アラシは触らずに : ||放置しましょう \(・ω・ `) いつ覚えるの? ||__________ ⊂ ⊂ | 今でしょう! ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧∩∧( ∧∩∧( ∧∩∧| | 〜(_( ∧∩∧__( ∧∩∧_( ∧∩∧ ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧∧∩_( ∧∧∩_( ∧ ∧∩ は〜い!! 〜(_( ,,)∩(_( ,,)∩(_( ,,)∩ 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
戊辰戦争での兵士はどれくらい弾薬を所持して戦っていたのかな? 弾薬盒や胴乱を持っていた兵士はいたみたいだけど また武器自弁制なら弾薬の扱いはどうなっていたんだろう?
一例だがこの戊辰戦争のころのミニエー銃用胴乱は1個で16発入りだそうだ。
2個を腰に下げて32発で、基準としてはだいたいそんなもんだろう。
http://www.日本の武器兵器.jp/archives/1736 火薬は共通で、自弁の場合の口径違う弾丸は自己責任だろうな。
大館に盛岡藩が侵攻したとき、弘前藩は大館に火縄銃100丁と弾丸1万発、一丁100発を送っているが、
普段の準備としてはどこもだいたいこんなもんだろう。交付は鉄砲奉行みたいな奴が責任もってやったはず。
二股口の戦いでは土方はじめ300あまりの兵隊が16時間で3万5000発消費しているんだよな 堡塁ごとに弾薬ストックしていたのかな?
>>383 それは曲射であって間接射撃じゃないよんよん
でも砲撃目標を直接見てはいない、つまり砲側照準では撃ってないからな。
いや砲側から照準したなら直接射撃だよ。 間接射撃というのは砲の照準器自体を使わない。
秋田に出陣した佐賀武雄軍の編成だと、 第一大隊は一士隊(十八人)、四足軽小隊 第二大隊も一士隊、四足軽小隊なお、この二個大隊は隔日交代で先鋒となる。 側備隊は一士隊(十八人)、三足軽小隊(一小隊二十人)、一徒士隊(十九人)よりなる。 御本陣は武雄領主鍋島茂昌を中心に御近習(士二十二人)、備立方(軍事係)、小荷駄方(輜重隊)、兵糧方よりなっている。 小荷駄方は士三名、徒士一名、足軽四名で編成されている。本陣にはこのほか医師(四名)、陣貝(山伏四名)、 喇叭(山伏二名)、御纒まとい(足軽三名)、御筒(徒士二名)、鑓やり(足軽一名)、草履取(足軽二名)、大工(一名)、鍛冶(一名)、馬取(一名)、台所附(一名)等が随行する。 後備大隊は一徒士隊(二十名)、四足軽小隊(一小隊二十人)からなる。 このほか、各大隊長、小隊長には従者各一名ずつ、各銃隊には玉薬箱(弾薬箱)輸送の夫卒各一名ずつ、砲隊には玉薬箱持ちの人夫が七十六名配置されている。
白河攻防戦で薩摩砲兵が間接射撃に使用したのは20ドイム臼砲で稲荷山に展開していた 仙台砲兵を制圧できたとか 運ぶの大変だったろうに・・
だいたい歩兵20人に玉薬箱持ち2人で一戦闘分は間に合うだろうと言うのが標準みたいだな。
ミニエーだと一分間に3発発射が限度で30発も撃つと銃身加熱で撃てなくなるから冷めるまで 一眠りしていたともいいますね 双方撃ち尽くして弾が届くまで堡塁越しに敵味方で会話していたという逸話もありますから 結構のんびりしている面もあったんですね
訓練受けてないと弾薬持ちも死傷率高そうだな 喇叭(山伏二名)というのは法螺貝吹きを持ってきたのかな?
盛岡藩では太鼓と鐘を使ったらしいが、佐賀藩では陣貝とラッパなんだな。 陣貝とラッパが別と言うことは、山伏がビューグル吹いたのかな?
資材か訓練不足で喇叭吹ける山伏が2名しかいなかったのかな? 吹き方としてはどうなんだろう・・誰か吹奏楽部か山伏出身の人ご教示ください
なぜに山伏限定
むしろラッパが2個しかなくて、足りない分を陣貝にしたのかもしれない。
ビューグルもかなり訓練が必要で赤い下げ緒は明治期の仏軍事顧問団が 成績優秀者に授けたのが始まりだそうですね
幕末期によくいわれる「洋式調練」って具体的にどんなことやるの?
銃の操作法の他に体操とかも、最初はなんで馬鹿みたいに手足を振り回すんだろう?と 不満もあったけど、いざ実戦に出てみると体を色んなカタチで動かさなければ生き残れない と実感したとか。会津藩なんかでは匍匐前進教えようとした教官が「武士が地べたを這いまわれるか!」 と斬られそうになったとか 映画「隠し剣・鬼の爪」で海堂藩(モデルは庄内藩)が洋式調練を導入して右往左往する シーンが描かれていましたね(行進も手足を同時に出してしまう)
>>427 兵隊はそんな訓練でいいかもしれないけど、指揮官を要請するための
西洋式の訓練って何かあったの?
>>428 幕府でやっていたのも下士官レベルの教育だったからな。
銃剣も、元々は長くて騎兵の槍ふすまを構成して騎兵の突撃を防ぐためのものだった。 騎兵が廃れてから対歩兵用に短くなっていった。
士官学校や幹部学校でやるのだって最初は兵隊の動作だからな。 兵隊がやることが一通りできなければ指揮なんてできない。 指揮官教育始まるのはそれこそメッケルあたりから。
しかし大鳥圭介・酒井玄蕃・立見尚文・山川大蔵みたいな指揮官クラスは号令の出し方とか基本的な戦術とかはきちんと教育されただろうな。 自分でも三兵タクチキみたいな本読んで研究しただろうし。 フィクションだけど陽だまりの樹とかはそういう話。
434 :
名無し三等兵 :2013/02/09(土) 11:18:41.33 ID:lNL9obyF
>>397 南北戦争期はインディアンと白人が血みどろの抗争をしてるよ
それが19世紀
435 :
名無し三等兵 :2013/02/09(土) 12:07:00.60 ID:PebPvxH8
薩長軍の携行した弾薬や食糧は初戦で尽き、あとは略奪と肉弾突撃で進んだんだよ。 そしてそれが日本軍の伝統となり、太平洋戦争でも同じことをした
436 :
名無し三等兵 :2013/02/09(土) 12:14:49.30 ID:PebPvxH8
19世紀って中国は清国の時代で弁髪をしていたし、アフリカは白人の植民地だ。 現代の常識は通用しない。 米国は西部劇の世界だし、ヨーロッパはビスマルクが鉄血政策をした時代だ。 こうした初歩的なことは理解してくれ。
437 :
名無し三等兵 :2013/02/09(土) 12:19:38.75 ID:PebPvxH8
19世紀は産業革命の時代というのも実は嘘に近い。 19世紀の欧州では産業資本家は当時の体制に反する危険分子として死刑にされているから。 嘘だと思うなら調べてください。 現代では常識的なことが19世紀では死刑の対象
それ19世紀でも初頭だろ
439 :
名無し三等兵 :2013/02/09(土) 12:56:29.46 ID:PebPvxH8
>>438 米軍のカスター将軍がインディアンの部隊に負けて殺された
リトルビックホーンの戦いは1876年の話だ。
南北戦争の約10年後
19世紀は後半でもこんな感じ
> 19世紀の欧州では産業資本家は当時の体制に反する危険分子として死刑にされているから。 後半にはこんな事実は無い ウィーン会議の頃までだ
こうした初歩的なことは理解してくれ この頭の悪い言い回しは土鍋臭いんだよな 八重の桜スレで相手にされず流れてきたみたいだから触らずに以下放置で スレ住民の皆様はお願いします
弾切れで狼の群れに襲われれて食い殺される米兵なんか今のアフガンあたりでも普通にいるだろ。 体制に反する危険分子として死刑される産業資本家は今のロシアでも普通にいる。
>>433 大鳥圭介はそれこそ「野戦要務」1856年版オランダ陸軍士官心得の翻訳者だからな
でも実戦指揮はイマイチだったらしく、後方で立案したときは勝てるのに前線で指揮したときは
負けるとの評も残っていますね
「三兵答古知幾」を最初に訳したのは仙台藩の高野長英なんだけどなあ。 仙台藩兵の訓練には全然生かされなかった・・。
答古知幾(タクチーキ) がんばった当て字だね(´・ω・`)
盛岡藩ではライフル隊の鳥蛇隊600人、発機隊600人の他に、 槍の達人100人を選抜して、楢山佐渡直属の「聖武隊」を編成しているが、 これはこれで秋田兵の斬り込み阻止や突撃隊としてかなり活躍してるんだよな。 刀槍でもホヰッスル砲やライフルと組み合わせて使えばそれなりに効果的ということか。
土鍋って、 インベーダー ってグロい歴史恐怖&オカルトサイト運営している人じゃないの?
>>446 でも相手は洋式歩兵は100名しかいなかった秋田藩だからな〜
1833年の天保の大飢饉では実に領民の4分の1が餓死した財政とはいえ
>>443 >大鳥圭介はそれこそ「野戦要務」1856年版オランダ陸軍士官心得の翻訳者だからな
南北戦争以前の教本で訓練したって事?
>>449 南北戦争自体が後進国のアメリカで民兵同士の内戦って認識だったから欧州諸国は大して注意を払ってない
当然、戦訓の研究もなおざり。この点に関しては大モルトケの発言なんかがよく引用されるね
幕府に伝習してくれた英仏蘭がこの認識だから歩兵操典もそれに沿った古い内容になる
もうちょっと研究しとけば普仏戦争の結果も・・・
研究が進めてれば普仏戦争ももうちょっとどうにかできたんだろうか
ごめん、janeが書き込んだ直後に強制終了したんで書き込めてないかと思って重複しちゃった
そこで疑問なんだが、南北戦争って最新兵器に戦術が追いついてなくて 多くの死傷者が発生したと聞いた事があるんだが、その理屈でいけば、 戊辰戦争も同様に多くの死傷者が出てもおかしくないはず。ところが、 戊辰戦争は京都から北海道まで戦場になった割に死傷者が少ない内戦 と言われていると先週TVで言ってた。この違いは何なんだ?
南北戦争は人の増員が急務でド素人にライフル持たせて戦わせたら・・・・じゃなかったかな?将校も数少ない状況ですし。 戊辰戦争はどうだかわからない。
>>454 動員兵力の違いじゃないの?
鳥羽伏見ですら両軍合わせて2万に達しないわけだし、他は多くても数千人単位での戦闘ばかり。
あとまぁ騎兵が未発達だったから戦列崩壊後の追撃が困難ってのもあるか
戊辰戦争は動員兵力が多くないからな。 確か戊辰戦争の頃の日本の人口は約3000万人くらい。 まじめに動員したら100万近い大兵力が集められそうだけど 鳥羽・伏見でさえ幕府軍、薩長軍を合わせても数万人規模だからな。 そして、薩長とか、幕府歩兵隊とかの精鋭以外の兵隊に基本的にやる気が無かった気が。 仙台藩兵とかの惨状を見る限りだけど
日本は最新(とも言えない)兵器に使用者がついていけない・・というか使いこなせてないなかったような 両軍が万単位を動員した西南戦争では明治政府軍が死者6400、薩軍は6800にのぼるから 動員兵力が増えれば犠牲者数は増えるでしょうね あとは砲兵が輓馬輸送が困難で欧米ほど戦場で使われなかったのもありますかね
あと大鳥圭介は1867年(慶応3年)12月に『歩兵程式』(1863年版フランス軽歩兵教練書の翻訳) を出してるんですね 大鳥活字とも呼ばれた金属活版も作って出版してたとか
南北戦争開戦前のアメリカ陸軍の兵力は1万6000人。開戦後に300人の将校が脱走して南軍へ。 リンカーンは3ヶ月兵役の州兵を急募して兵力を7万5000人に増やす。 が、これでは大鳥圭介が研究しているようなフランス軽歩兵や庄内藩兵のような高度な散兵戦術はできない。 自然にライフル銃・ライフル砲に対して密集しての一斉射撃、銃剣突撃を延々と反復するだけになる。 しかも南軍のジャクソンは逆に「歩く騎兵隊」と呼ばれるほど巧妙に機動した。 兵役3か月の州兵が野戦軍の主力と言う時点で、ある意味仙台藩以下。
第一次ブルランの戦いの前のアメリカ陸軍総司令官のウィンフィールド・スコット少将の訓示。 「お前達はまだ青二才だ!それは事実だが相手も青二才だ!みんな同じように青二才なんだ! (You are green,it is treu,but they are green also,you are all grenn alike)」。
>>460 士気というか、やる気が全然違う気が
祖国独立のために、祖国再統一のために、と自ら志願して集まり、ブルラン戦でライフル銃の銃火の下に突撃する南北戦争の兵士と
戦う際に地べたをはいずりまわるのは嫌だ、と訓練の際にわめく戊辰戦争の兵士とを同一視するのはおかしくないですか?
訓練未熟なのに士気だけ高いからかえって損害増えたんだろうな。
3ヶ月の兵役が終わると帰ってしまうので訓練未了でも投入せざるを得なかった面もあるらしい・・
会津戦争の戦死者を除くと官軍の戦死者は幕府軍を大きく上回るとの 資料もあるくらいだから、攻撃側の方が損害が大きいというのは 南北戦争とかわらないな。
官軍といっても秋田ではむしろ庄内や南部に圧倒的に攻め込まれてる場合が多いしなあ・・。
戊辰戦争じゃ大半の藩が日和ったのだから、 兵力がそれほどでもないのは当然じゃない?
徳川軍が戦ったのって鳥羽伏見と甲府ぐらいでしょ 鳥羽伏見は成り行きで始めちゃっただけで全然準備できてなかったし 甲府は新撰組の厄介払いするためと言われてるし 鳥羽伏見で賊軍になった時点でもう戦意消失したとしか
469 :
名無し三等兵 :2013/02/10(日) 11:15:02.76 ID:yYrr90vT
>>440 ウィーン会議はフランス革命の失敗を教訓に封建体制への回帰を決定した会議だよ。
19世紀の欧州を代表する政治家のビスマルクは自由主義や左翼を大弾圧してる。(当時の弾圧はイコール死刑)
パリコミューンも皆殺しにされたしね
470 :
名無し三等兵 :2013/02/10(日) 11:20:33.30 ID:yYrr90vT
19世紀の通信手段は伝書鳩しか無いんだし、歩兵の移動も徒歩だから、 どう考えても根性と銃剣のみの戦いになる この事実を無視しちゃいかん
471 :
名無し三等兵 :2013/02/10(日) 11:24:21.74 ID:yYrr90vT
人権ゼロで人件費もタダに近いんだから、当時においては突撃は合理的戦法なのだ。 人間の命の値段が安かったんだよ
クルップなんかが産業資本家ではないor実は死刑にされていたとは斬新な歴史観だな。 強力な産業資本家の存在がないのなら、カール・マルクスは何で資本論や共産党宣言なんかを書こうと思ったのやら?
>>470 じゃなんでピケットの突撃はあんなメタクソな損害を出して何も出来ずに終わったわけよ
>>473 病気の人には何を言っても無駄
憐れみの心で無視してやれ
476 :
名無し三等兵 :2013/02/10(日) 12:54:48.50 ID:myzdwL9/
>>472 マルクスの資本論は当時の現実を無視した妄想でグリム童話のようなものだ。
>>473 当時はまだ浸透戦術が確立されてなかった。
日本軍なら南軍と同じ装備でも夜襲で勝っただろう。
また南軍の戦法でも30万人を投入したら勝てた
477 :
名無し三等兵 :2013/02/10(日) 13:13:43.58 ID:JT5u3MZc
>>476 グリム童話に失礼だぞ
マルクスもレーニンも国を潰す方法しかかいてない
レーニンの言葉で役に立つ言葉は「弱い鎖の輪」くらいのもの
軍事だけどねこの言葉も
478 :
名無し三等兵 :2013/02/10(日) 14:18:23.18 ID:myzdwL9/
>>477 19世紀の欧州で最大の権力はドイツ皇帝などの国王だ。
明治期の日本でも一番偉いのは天皇で次が薩摩長州の藩閥政治家で、その次は軍が偉い。
しかしマルクスはこうした19世紀の社会構造を無視して「町工場のおやじ社長とそこで働く丁稚のみの関係」
で社会を説明できると考えた。
今日でもおやじ社長と丁稚のみの社会なんてどこにも無く、マルクスは空想なのだ
479 :
名無し三等兵 :2013/02/10(日) 14:31:13.61 ID:myzdwL9/
1879年に南アフリカで起きたズール戦争では武器が槍のみの黒人部族ズール族が じつに半年あまりにわたって英軍相手に包囲戦や突撃戦をしている。 最後には英軍の騎兵に蹴散らされてはいるが、、、 当時の英軍ライフルは単発で次弾装填に時間を浪費するため、武器が槍のみの土人でも 英軍相手にかなり粘れた証拠だ
480 :
名無し三等兵 :2013/02/10(日) 14:40:36.81 ID:myzdwL9/
ズール戦争でズール族が槍だけで粘れた背景には黒人特有の脚力を活かして 英軍の後方にまわりこんだり、肌の黒さを活かした夜襲もあるだろう。
481 :
名無し三等兵 :2013/02/10(日) 16:03:14.17 ID:myzdwL9/
マルクスは19世紀が資本主義の最終段階だと考えたが、これもマルクスが 妄想だった証拠である。 マルクスの説では19世紀以降も資本主義が続いた理由を説明できない そうした妄想で19世紀を捉えるのではなく、私のように史実中心で考えるべきだ。
>>473 前日のリトル・ラウンドトップの戦いで南軍撃退の決め手となったのが銃剣突撃
だったわけだから、時と場合によっては有効だとリーが思ったんじゃね。
ロングストリートは違ったようだけど。
>>473 突破しきれるか否かで戦果が段違いだから、彼らはあそこを突破するチャレンジをしたってことだろ。
で、出来なかった。賭ける価値はあったかというと、有ったんじゃないの。
>>473 スレ住民におきましてもアラシはスルーするようにお願いします
だいたいメタクソに終わった正面銃剣突撃って、みんな攻撃側が敵は退却準備中とか警戒手薄と勘違いしてる場合が多い。 敵が防御準備万全とわかってて正面から銃剣突撃することはめったにない。 ワーテルローのネイ、ガダルカナルの一木大隊、ノモンハンの安岡戦車団、ソンムのキッチナー陸軍、 ペタンの斜交塹壕に突撃するフーチェル突撃隊。白河の会津仙台兵。
そうなんだよね 成功すると思ったから突撃を仕掛けているわけで 失敗すると思って突撃する人はいない
ピケットチャージって、確かに銃に銃剣つけてたけど 銃剣突撃(バイヨネットチャージ)とは違うと思うぞ。
バネヨット
>>488 元々、19世紀の主力武器は刀剣云々とか根性と銃剣のみってレスに対する、
じゃあ戦線の殆どの部分で近接すらできなかったピケットチャージとかは何なんだよwって文脈が発端だからして
ピケットチャージはナポレオンのミックスオーダーのタテの方を参考にしてるんだろう。 薄いヨコのライフルのつながりを、厚いタテのつながりで突破して、分断して、包囲して、メッタ刺しにしてぶんなぐって北軍メチャクチャにする。
映画で再現されたの見ると思いっきり横隊に見えるんだが、あれも縦隊になるのか
映画だと見栄えをどうしても考えないといけないからな ピケットの突撃はロングストリートのいうように実施しないべきだったと思う。 どうしてもやるなら、リーが直卒すべきだった。 大反対しているロングストリートにリーが突撃を任せた時点でまずかった気が。
>>493 縦隊かどうかは知らんが、映画「ゲティスバーグ」だとピケット師団所属の
各旅団のうち前にガーネットとケンパーが並んで、その後方にアーミステッド
ってロングストリートが説明してたよね。やられるのもその順番だったし。
北軍側からみたら縦深もそれなりにあるようにみえたんじゃね?
>>486 ピケットチャージは、北軍の配置が両翼(カルプスヒルとラウンドトップ)に重点を置き、中央が手薄に成っていると思い実行されたんだよね。
実際、手薄だったし。
北軍は単に射撃で対応していただけでは無く、配置に遮蔽物が無かった部隊は銃剣によるカウンターチャージを実行。
どちらも最後は銃剣頼り・・・
Wikipediaだと事前砲撃が不十分だったのが敗因のような書き方になってるけど、 あの時代の大砲では、そもそもそんなに効果は期待できないだろうと思うな。
南北戦争の際の北軍の医療調査記録によると全死傷者のうち砲撃による死傷者はわずか8パーセントだったとか。 これだけ見ると砲撃は余り役に立っていないように思えて来るな。 やはり塹壕の中にいたり、散開して伏せている歩兵に対してはあまり効果が上がらなかったのだろうか
20世紀の砲兵の力からすると考えられんな・・・
19世紀の野砲の役割は、殺傷よりも砲撃で歩兵に密集方陣を組ませないこと。 建前上、散開した歩兵は騎兵の密集突撃で蹂躙できる。もっともフランスみたいに騎兵がいっぱいいればだけど。 ワーテルローのウェリントンは砲撃不可能な反斜面で密集方陣組んだのがうまかった。 一方で散開して移動する歩兵に対しては野砲の砲撃は当てにくい。 しかし散開して移動する歩兵は銃撃だけで阻止できる・・。
というか歴史的には20世紀の砲兵の火力が頭おかしいだけというか
>>501 榴弾の威力の増加と駐退機による連射によって、19世紀末から砲兵がとんでもなく
強力になったからなぁ。
WWTのアレは動員兵力お互い最大限の上に延翼競争の果てに戦線膠着して塹壕戦になったからだろう。 日中戦争やマレー・ビルマ・インドネシアではあまり砲兵活躍してない。 陣地戦のシンガポール・コレヒドールでは活躍したけど。
いや山砲は頼りになると大活躍よ 中国戦線 そりゃ規模が違うけどな、話題にならんだけで前線では頼りだっと思うぞ
赤軍式と聞いてやって来ました
太平洋では、砲兵どころか戦艦の艦砲射撃をもってしても事前の砲撃が 不十分なんて事があったわけだから、十分に防御された陣地に対して 砲撃の効果は限定的だよな。
そこで縦深打撃ですよ
戊辰戦争だと、互いに散兵だったにも関わらず、射程の長い大砲が活躍してたけどな? そもそも有効な騎兵がない、大砲もお粗末なものばかりと、条件が特殊ではあったが。
命中しなくても精神を粉砕するのだよ
仙台藩…
>>503 西部戦線初期の機動戦や東部戦線のタンネンベルク見ないとそもそも
膠着化した理由が見えないと思う。
仙台藩兵は山の上とかに突撃準備で密集してたからバカスカ命中しただろう。 庄内藩や盛岡藩の散開歩兵にはなかなか命中しなかっので佐賀藩来ても一進一退みたいになった。 しかし峠とか隘路、街路では歩兵も散開できないので有効かも。
513 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 10:10:32.83 ID:cHEVJ20r
大砲は精密な測量計算をしないと命中率がゼロに近い。 砲兵はかなり高度な数学能力が要求されるわけだ。 南北戦争で大砲を撃ってたおっさんは昨日まで農夫をやってた素人で、 算数もできないから、適当に見よう見まねで大砲を撃ってただけであり、 接近してくる敵に正確に砲弾を撃ち込む芸当はできない
514 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 10:16:25.25 ID:cHEVJ20r
20世紀の第二次世界大戦の砲兵もかなり高度な数学能力が必要だった。 綿密な計算をしないと目標の半径100メートル以内に着弾させるのも無理だったのだ。 しかし算数のできる砲兵そのものが少なかったスターリン時代のソ連軍では 下手な鉄砲も数撃てば当たるの発想でカチューシャロケットが重宝された。 撃ちまくって面で制圧するという発想ね
515 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 10:27:39.74 ID:cHEVJ20r
19世紀のガトリング銃は野戦に不向きですぐ廃れた。 1、重くて大きいので携行が不便 2、補給が乏しい時代だけに、弾切れしたら無用の長物と化した 3、大きいので標的にされた 4、大きいので機敏に銃口を旋回させれず、敵のライフル歩兵が横から来たら死ぬしかなかった
>>513 そりゃ序盤のブルランなどではそうだったかも知れんけど、
のちには北軍の兵隊はたっぷり訓練する余裕があっただろ。
517 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 10:33:48.17 ID:cHEVJ20r
19世紀の大砲は有効射程が200メートル程度でアサルトライフル並みだったと断言していい。 最大射程ではなく、有効射程ね。 19世紀初頭のナポレオン軍では歩兵に大砲が付随して移動し、 100メートルの距離で敵に大砲から散弾を発射したというが、命中率が悪いと、そうした用途にならざるを得ない
518 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 10:40:27.31 ID:cHEVJ20r
>>516 アメリカでも義務教育が庶民に普及したのは20世紀の前半になってからだ。
南北戦争のころはアメリカ国民の大半は小学校にも行ってないし、
算数が理解できない。
それでは砲術の基本的な計算もできない。
19世紀は欧米でも教育水準がいまのコンゴと同じなんだ
519 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 10:48:04.80 ID:cHEVJ20r
薩長軍にしたって大半は算数のできない、昨日まで小作人だった兄ちゃんだろ。 志士だって算数ができたかどうかも疑わしい。 頭の中身が戦国時代の足軽と変わらない、そうした薩長軍に近代的砲術戦など不可能だ。
520 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 10:59:35.32 ID:cHEVJ20r
戊辰戦争は薩長軍のレベルも低いが、幕府軍はそれ以上にレベルが低かった から薩長軍でも勝てたのだ。 幕府軍の武士は江戸時代においては上流階級で生活が貴族化しており、5キロ歩くとへばり、 粗食に耐えれず、剣や銃の扱いも素人以下だった。 ちょうど今の官僚みたいなものだ
521 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 11:15:22.02 ID:cHEVJ20r
1850年から1964年まで中国で起きた太平天国の乱も当時に おいては最大規模の大戦だと言える。 太平天国軍の兵力は500万人で、対峙した清国軍の兵力は300万人だからだ。 太平天国軍は人海作戦で初期には勝ち進むが、指導者の洪秀全や幹部が致命的なアホで、 偉くなって酒池肉林の生活をしたいだけの才能が無い小人物だったことが崩壊の原因となった。
レベルって何?
ええ〜? 毎日の出勤に駕籠を使うような階級は鉄砲担がないだろう? 鉄砲担ぐ階級なら歩いて出勤するか馬で出勤なんじゃ? 下層だと毎日は仕事無かったかもしれないが。
524 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 11:24:42.35 ID:cHEVJ20r
>>522 士気、体格、体力、錬度、経験などを総合した兵士としての実力レベルだ
>>513 南北戦争当時の砲兵は素人集団では無いかと。
北軍の場合、中核になる予備砲兵は戦前からの正規軍だし。
部隊名に州では無くUSと付いているので、何かの戦闘序列表を確認してみて下さい。
南軍の場合は連邦軍の経験者や戦前からの義勇部隊が中核に。
ワシントン義勇砲兵隊の様に戦前からの義勇砲兵は侮れない物も有りますから。
どちらの軍も補充の砲兵の手配には気をつかった様ですよ。
歩兵は減るに任せていたのに・・・
526 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 11:35:30.80 ID:cHEVJ20r
>>523 江戸時代の武士は特権階級だから、中流以上の武士は召使にすべての仕事をやらせ、
風呂に入るときも召使に体を洗わせ、体は肥満していた。
そんな人が鎧を着て、鳥羽伏見の戦いに出陣しても貧弱なので槍を持つだけで
よろけて倒れた
527 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 11:43:22.94 ID:cHEVJ20r
>>518 弾薬運搬手まで数学が必要とは、難儀な話しだねw
それを求めるのは将校か、せいぜい砲長までで良いのでは?
色々言いたいけれど一つだけ。
ナポレオン戦争当時の砲の有効射程は1000ヤード前後だったかと。
キャニスターは350ヤード位から使用して、100ヤードでダブルキャニスター(キャニスターの二重装填)に切り替えるのが一般的だったかと。
目標にもよるけど。
> ID:cHEVJ20r コイツいつものキチガイだから触らないほうがいいぞ。お前らまでキチガイになってしまう
毎度のごとく定時のアラシが出没しておりますがスレ住民の皆様におきましては 触れないようにお願いします
531 :
名無し三等兵 :2013/02/12(火) 12:30:23.86 ID:cHEVJ20r
>>528 ナポレオン時代に1キロ先に精密に砲弾を撃つのは無理だろよ
砲にライフリングが無い時代だよ
確かに砲撃指揮には計算力が必要だ。 だから戊辰戦争のときの西洋砲術師には蘭方医上がりが多い。 幕府陸軍の大鳥圭介はもともと大阪摘塾の医学生だし、長州の大村益次郎もそう。 盛岡藩の大島高任ももともと医学生として長崎に派遣されて、 大砲の扱い以前に大砲鋳造するための地金を自分で精錬するレベル。
いつもの奴が慶応の改革すら知らないのはよく分かった 鳥羽伏見でも大阪城に残された奥詰銃隊は、三分の一は使い物にならないと言われてたらしいがw
因みに、鳥羽伏見で砲兵隊指揮してた元帥陸軍大将大山巌は江川(息子)門下で砲術を学んだんで、 大元は佐賀藩と同じ高島流砲術 まぁ、江川門下は幕臣どころか諸藩にも多くいるんで珍しくもないかもしれんが
「武士の家計簿」で磯田道史は数学能力は「身分制度の風穴」と表現していますね コルシカの地方豪族出身のナポレオンも優秀な砲兵将校が立身出世のスタートとなりましたから 努々学問疎かにすべきでないですね ドイツ陸軍も砲兵科は市民(ブルジョア)出身が多かったとか
>>531 いい加減コテハンつけてね。
レスから恥垢臭ただよってくるんで、一発でわかるとはいえ。
サインコサイン指数対数 微分積分二次関数
>>535 武士の家計簿の人は思いっきり後方だけどな
兵站担当というか
項羽と劉邦で言うしょうかみたいなw
軍隊は兵站と経理がいないと動かせませんからな
実際武士の家計簿はそういう話だった 飯炊きの量とかからわらじの量までやらせてたような…
ナポレオンのころは砲兵将校・工兵将校はやっぱり平民の仕事だったんだよな。 シャルンホルストも平民。 野戦の中心を騎兵でなく野砲にすること自体、平民的発想なのかも。 それまでの野砲は米沢藩のように鉄砲足軽の延長で、貴族の騎兵が持ち槍だった。
542 :
名無し三等兵 :2013/02/13(水) 10:18:53.58 ID:+X8HDL1k
>>532 大村益次郎のような一部の秀才を取り上げて、薩長軍のすべてがそうだと
考えるのはおかしい。
大村益次郎はその才能を妬まれて、維新後は薩長派閥から左遷されて暗殺されたのだし、
薩長軍の多くは原始人のレベルだったと私は考える。
543 :
名無し三等兵 :2013/02/13(水) 10:30:02.01 ID:+X8HDL1k
ナポレオンは砲兵出身で数学も好きであり、数学者フーリエも部下に選んでいた。 しかしナポレオンはそれだけではない。 ネイ元帥のような騎兵突撃バカも重んじたし、ロシア遠征では60万人の兵士を動員 したのだから人海作戦も重んじた。
544 :
名無し三等兵 :2013/02/13(水) 10:38:23.66 ID:+X8HDL1k
1877年の西南戦争を見ると薩摩軍の主な戦法は剣を持って狂信的に突撃 することであり、この薩摩軍が戊辰戦争では近代的だったとは思えない。 幕末から太平洋戦争に至るまで日本の軍の中心には狂信突撃があったと考える
545 :
名無し三等兵 :2013/02/13(水) 10:49:52.87 ID:+X8HDL1k
薩摩軍は戊辰戦争で薩摩示現流によって戦ったと考えるほうが現実的だろう。 薩摩軍が示現流の掛け声で「ぎえー」と絶叫しながら突撃してくるのを見た幕府軍は 弱気になって逃げた。 幕府軍は士気が折れていた。 こう仮説すれば幕府軍の早すぎる退却と敗北に説明がつく。
546 :
名無し三等兵 :2013/02/13(水) 10:55:40.96 ID:+X8HDL1k
狂信突撃と言うとマイナスイメージで捉える人が多いだろう。 しかし「根性でやりぬけ!死ぬまで進め!」という精神だったからこそ 日本はアジアで最初の近代化ができたんだろう。 19世紀は工業も農業も根性のウェイトが高いんだから。 貧困国には根性しか無かった。 日本の教育水準が上がったのも「根性で勉強しろ!」という根性主義の成果だろう。
ロシア遠征が人海戦術って・・・ 丸々60万がモスクワを目指したとでも? 西南戦争での薩軍抜刀攻撃は、あくまで一部ですよ。 普通に射撃して来てる。 逆に刀のみの警視庁抜刀隊が薩軍から射撃戦を挑まれ、撤退した戦例も有るよ。 初陣の時の話しね。
変なのが居着いちゃったなあ・・・
>>547 だからキチガイの相手すんなって
自分の信じたい現実しか見えない手合いなんだから議論にならないよ。
550 :
名無し三等兵 :2013/02/13(水) 11:40:15.28 ID:+X8HDL1k
>>549 19世紀後半の戦争で騎兵突撃や歩兵突撃が連発されたのは事実であり、
この流れは1914年の第一次世界大戦まで続く。
551 :
名無し三等兵 :2013/02/13(水) 11:43:46.67 ID:+X8HDL1k
>>547 ナポレオンのロシア遠征は19世紀初頭なのでスレのテーマからは
外れるが、ナポレオンの脳内計画では「寒さと雪で50万人が死んでも、
残りの10万人でロシアを攻略できる」と夢想していたのではないかな
552 :
名無し三等兵 :2013/02/13(水) 11:52:14.03 ID:+X8HDL1k
「19世紀はマルクスの言う通りだった」 こんなソ連式歴史観を振り回すやつのほうが、よっぽど暴論だろよ。 俺は逆に「人権が頭から無視されていた19世紀には、騎士道などのすばらしさがあった」 と「マルクス主義から脱却した歴史再評価」をしているんだよ
553 :
名無し三等兵 :2013/02/13(水) 11:58:47.07 ID:+X8HDL1k
19世紀後半の東京の街は道路が舗装されておらず、人力車や馬車が走り、 家のほとんどは江戸時代の長屋だ。 そうした時代のありのままの姿をマルクス主義や自由主義に捉われずに 考えようじゃないか
>>547 アラシは触らないのが一番なのでスレ住民につきましてはスルーでお願いします
>>541 ナポレオンやマルモンは貴族じゃなかったっけ
wikiのキュニョーの記事によると、ブルボン朝時代の砲兵卒は軍人じゃなく技師扱いだったらしい
>>550 別に突撃が主要な戦法だったことは誰も否定しないさ
ただそれだけが勝敗を決めるファクターだと言うのは極論過ぎる
あと連投やめろ
ナポレオンはイタリア貴族の子孫のお父さんがコルシカ島の反乱に参加しない見返りに一応フランス貴族並になったちょっと微妙な貴族。 武田の遺臣だった多摩の豪農が幕末に株買って八王子同心の組頭になって御家人並みになった感じ。 勝海舟もそんな感じだけど。
少佐やだつおの亜種に見える
>>555 長らく、フランスの砲兵卒は軍に雇われた民間人技術者でしたよ。
ルイ14世の時代に、砲兵や段列の護衛が任務だったロワイヤル・フュジリエ連隊が砲の操作をする様になり、そのまま砲兵連隊に改編。
砲兵は全階級が軍人に。
その後、ナポレオンの時代に、砲の牽引や弾薬運搬車を運用する砲兵段列が民間人から軍人の身分になり、晴れてバッテリーの全員が軍人からなる砲兵隊が誕生。
フュジリエって精鋭歩兵じゃなかったんだな。どっちかっていうと輜重兵じゃん。
砲兵(ギルド)は技術者でもあり傭兵団でもあったそうな ライプクネヒト(ドイツ傭兵)からは目の敵にされていたそうだけど スイス傭兵とはどうだったんだろうw
フランス革命のときとか平民に皆殺しにされてたから権力の犬とは思われてたんだろうな
外国人だし、押しかけた市民を狙い撃ちにしていたんだから、 皆殺し以外の結末はありえない。
565 :
名無し三等兵 :2013/02/14(木) 10:03:40.15 ID:zSMj/3Ac
>>556 200発ぐらいの弾丸はすぐ撃ち尽くしてしまう。
そしてトラック輸送も無い時代には補給が間に合わない。
すると突撃しか選択肢がなくなるわけだ。
19世紀中の戦争で、補給が間に合わんくらい戦役中に前線部隊が手持ちの弾薬を撃ち尽くした例なんかあったっけ?
補給が整ってないことは確かだが同時に ・兵力も大したことがない ・会戦という形で勝負がつく とかいう点を無視している
570 :
名無し三等兵 :2013/02/14(木) 11:21:53.23 ID:/Kop5IJd
19世紀の歩兵突撃は一旦廃れたが、1950年の朝鮮戦争で復活する。 ソ連がナチスから押収したパンツアーファウストを手に中国軍が歩兵突撃をした
>>563 近衛のスイス人部隊は解散になったけれど、戦列部隊のスイス人連隊は共和制や帝制下でも維持されていましたよ。
ワーテルロー会戦には唯一の外国人歩兵連隊として参加。
王制復古後に全ての外国人連隊が廃しになった後は新設の外人部隊に再入隊。
メキシコのキャメロンで全滅するまで戦った外人部隊もスイス人中隊だったはず。
うろ覚えだけど。
雇い主が変われど正当な契約なら最期まで忠実ってことかな?
正当な契約じゃないと・・・
>>544-547 戊辰戦争の近代的薩摩軍が西南戦争で示現流に依拠した前近代的軍隊に先祖返りしてるように見えるのは、
明治政府が、薩摩にあった日本で唯一の後装式弾薬の製造施設を大阪に持って行ってしまったので、
銃の弾薬が政府軍の方が優越してしまったから。
逆に言うと西南戦争は起こるべくして起きたという点と、政府の予測とがマッチしていたので、
あって、もしその点がなかったら、西南戦争は薩摩軍の勝利もあり得たかも知れない。
573 :
名無し三等兵 :2013/02/14(木) 12:24:06.45 ID:/Kop5IJd
西南戦争で薩摩軍は武士の特権復活を求めた。 すると薩摩軍が目指したのは江戸時代ということになり、近代的とは言いがたい
基地外の自作自演に見えてきた
>>571 今はバチカンガーズだけか・・そういえばこないだ隊長が殺害される事件が起きたとか
>>575 何度注意しても荒しの相手する馬鹿が途絶えないね
>>576 ベネディクトも退位するらしいし、やはりジェダイの騎士がry
荒らしの対処法ってもいろいろあるからなあ。無視するより、徹底的に論拠を叩き潰したほうがいいタイプの奴だっている。 小文字みたいに、無視されても気にすることなく自説をわめき続ける対処不能な奴もいるし。
傭兵と言えばスネル兄弟が招聘しようと提案したのはどんなのだったんだろう? 太平天国の乱の常勝軍みたいなのかな? (常勝軍は高杉晋作の奇兵隊のヒントになったとも言うけど)
まあスネル自体傭兵みたいなもんで、幕府陸軍をはじめとする当時の同盟軍、自体、フランス式が多いし。 東武皇帝ズアウン近衛フランス外人イエーガー連隊オヴ会津とかかなあ?
>>566 西南戦争は凄まじい射撃戦で両軍とも補給には難渋してるな
カチアイ弾なんて言葉が生まれるほど銃弾の空中衝突が起こったぐらいだ
それでも、政府軍は、一時的に射耗して弾薬備蓄が極端に減ることや補給の遅滞はあっても、まるっきりゼロにはなっていない
>>582 政府軍は人力車で弾丸輸送したともいいますね
薩軍も弾薬庫抑えられてもミニエーは開戦当初はそれなりにストック持ってたんですかね?
薩摩、長州のお国替えだな 奥蝦夷50度以北に、薩長....御門は豊原京
>>566 南米19世紀の太平洋戦争の会戦で、遠距離から射撃を開
始したら、接近した頃には両軍ともに弾切れを起こして肉弾戦になっ
た、との話を読んだ記憶があるんだが…詳細を忘れた。
確か、小銃の小口径化と携行弾数向上の文脈で引き合いに出され
てたと思う。
太平洋戦争でも海戦では衝角突撃や切り込みを試みているんだよな 甲鉄奪取も勝算アリと仏顧問団はみたのかな?
>>583 572が指摘してる弾薬工場が持ち去られるまでは稼働して備蓄していたわけだし
それを使い果たすまではあった、んじゃないの?
具体的な数不明だが
それが戦争が進むと、寺の鐘鋳潰したり石を撃ったりと原始化して行くわけだが
>>587 さすまたも使えるかもしれないから徴集とか・・(´・ω・`)
イギリス軍もダンケルクの後槍とか持ち出したよね
水道管きったらしいね
ドレットノートも潜水艦を体当たりで沈めているよね。
>>586 モニタータイプは固過ぎるし甲板低くて当たらなすぎるもの、
当時としては切り込みで片つけよう、となるのは必須。
1940年のノルウェイ沖でもイギリスの駆逐艦はドイツの巡洋艦に体当たりしてるし。
あれはフネがもうスクラップで、総員退艦して無問題状態だったから。
>>566 会戦中の軍団レベルでの弾薬切れや補給の滞りなら有ったかと。
アウステルリッツ会戦中、フランスのダブー軍団は弾薬欠乏の為、守備位置から撤退する寸前まで追い込まれた。
同じくスールト軍団では開戦数時間前になっても歩兵の弾薬盒には僅かの弾薬しかなく、そのまま戦闘に。
その時、古参兵がナポレオンに言った台詞
「明日の戦いは銃剣で勝利してみせます。」
ワーテルロー会戦にも弾薬切れに関するエピソードが。
前線での補給切れは普通にあったろ 暇があれば金属を略奪して弾を鋳造するけど
普通に落ちてる弾丸拾って使えたりもしたらしいが。
弾がなければ石を詰めればいいじゃない
火薬の確保は大丈夫なのか
弾拾いしていた農婦を襲う兵士が出てくる時代小説があったな シャスポーの紙包装弾丸は製作を試みるも失敗したんだったかな
>>599 幕末の黒船危機で火薬の大増産は各藩で行われていたらしく旧い家屋からの硝石採取に
加えて硝石丘も作られたそうです
漫画「ドリフターズ」では敵兵の屍体を使っていましたが、幕末は牛馬の死骸を用いた
みたいですね
西南戦争で田原坂攻防戦の頃の政府軍の銃弾製造数は日産4万発。 これではどうにも足りないからと増産に努めた結果、人吉奪還以降は日産20万発に達したらしいが。 戊辰戦争の頃だと、どれくらい銃弾を消費していたのだろう。 末期の頃の中山峠の戦いで榎本側は200名の守備兵が3万5000発も射撃したらしいけど (ちなみに政府軍の死傷者は23名とか、1名を死傷させるのに1500発以上撃っているとは) 本当にどれくらいだろうな
とにかく撃ってる間は敵突っ込んでこないみたいな感じなんだろうな。 敵も味方も相手のタマ切れを待っている状態。
605 :
602 :2013/02/15(金) 20:37:17.64 ID:???
カスター将軍の本だったかなぁ インディアンとの戦いだが散発的に撃ち合いが続いて そのうち戦場に静寂が訪れたりするんだそうな 突撃は全員の意志統一しないと難しいからなぁ
今日は何の日 文政08(1825/04/06)年 幕府が「無二念打払令」(異国船打ち払い令)を発布。 1877(明治10)年 西郷隆盛が挙兵し鹿児島を出発、西南戦争が始まる。
>>600 弾拾いと聞くとジラード事件しか思い浮かばない…
>>595 ナポレオンの完璧な勝利の印象のあるアウステリツツも、実は危ない局面があったんだな
611 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 11:33:01.33 ID:x3kRh5c4
ワーテルローは弾切れだけではなく、雨で濡れて使用不能になった火薬も多い。 ネイ元帥の騎兵突撃を責めれない
612 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 12:44:20.43 ID:x3kRh5c4
西部劇でインディアンが手斧を持って襲ってくるのは原始的に見えるだろうが、西部劇の時代のアメリカ軍は 一発撃つと次弾を装填して狙いを付けるまで熟練者でも最低6秒はかかる単発の後装ライフルだから、その6秒の間に インディアンが50メートルを運よく走り抜ければ白兵戦に持ち込める。
613 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 12:49:44.55 ID:x3kRh5c4
ナチス時代のドイツにはダイムラーベンツ、ポルシェ、フォルクスワーゲンなどの 自動車メーカーが存在した。 ナチスの工業技術力は当時の世界ではトップレベルだ。 しかしそれでもナチスは補給がまったくできなかった事実を見て欲しい。 1939年の第二次世界大戦でもそうなのだから、19世紀後半はイギリス軍でも 補給はゼロに近い。 この事実を忘れないでくれ。 19世紀後半にドラえもんはいないんだ。
また湧いてるよ… このスレが上がってる時は基地外のターンなのな…
615 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 12:58:27.37 ID:x3kRh5c4
数々の検証によって「20世紀以前は補給がゼロに近い事実」を知ったみなさんは ワーテルロー会戦や関が原の合戦に対するイメージが変わったはずだ。 関が原の合戦は原始的な火縄銃しかなく、火縄銃は装填に30秒かかるので 宮本武蔵がゆっくり歩いて行っても敵の火縄銃部隊に接近して剣で切りつけれる。 敵は弾を装填している間に斬られる
>>606 図説 アメリカ先住民戦いの歴史 クリス・マクナブ 原書房
によれば米先住民も地域によってその格差が大きいものの(石器からウィンチェスターまで)
生き残っていくために(白人のみならず他部族からも)懸命に装備・戦術を導入していったのが伺えますね
それでも圧倒的な白人の数と弾薬の供給能力で押し切られていくのですが・・
617 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 13:08:49.51 ID:x3kRh5c4
19世紀後半は白兵戦や徒歩による長距離移動が多いことを考えれば、どうして当時のイギリスが インドで紅茶やアヘンを求めたのかも解るだろう。 アヘンや紅茶で兵士の士気を高める必要があったのだ。 突撃で勝つために。 また19世紀中盤から後半にかけてはモルヒネやヘロインの注射も戦場で行われ、 ヘロイン紅茶を飲まして士気を高める行為もあったはずだ
618 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 13:14:57.59 ID:x3kRh5c4
>>616 インディアンが壊滅的になった理由は白人が持ち込んだ伝染病が主な原因だ。
もし白人の持ち込んだ伝染病が無ければインディアンは勝ったかも。
またインディアンは部族同士でも争っており、部族間の軍事同盟がなかなか結べなかった
ことも敗北の原因だろう
北米には原産の穀物が無ぇ 中南米産のトウモロコシやじゃがいもが北米の気候に適応してから、北米のネイティブが 人口を増やすまでに時間が足らない
620 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 13:22:52.75 ID:x3kRh5c4
いいかい! コンビニに毎日商品が並んでいるのは高速道路、トラック、コンピューターなどがあるからだ。 しかし19世紀にはそうしたものは何も無い。 モノが無かった時代の過酷な戦争なんだよ。 いいか! モノが全然無かった時代の戦争だぞ。 甘えは許されない時代なのだ
621 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 13:27:46.10 ID:x3kRh5c4
>>619 ただ19世紀の北米にはバッファローや大型の鹿などが多いよ。
バッファローは19世紀末には乱獲で絶滅寸前になったが
>>619 バイソンを狩り立てて行く戦略は兵糧攻めとして効果的(先住民からみれば致命的)だった
みたいですね
それでも落ちてる骨からも髄を取り出して栄養を採る先住民のサバイバル能力は驚嘆させられました
いや普通にゼリーつくるゼラチンとかもそうでしょ。
624 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 15:07:04.40 ID:x3kRh5c4
>>622 むかしのエスキモーは骨を加工して投槍を作ってアザラシやミンククジラを狩っていた。
北極圏の冬はマイナス70度だけに驚嘆せざるを得ない。
625 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 15:12:31.77 ID:x3kRh5c4
あと思うには19世紀はテレビなんて無いから、インドや中国に行って 戦ったイギリス兵はタージマハル宮殿とかを見て大感動したはずだ。 涙が出るほど感動したはず。 太平洋戦争の日本軍もテレビの無い生活で海外旅行経験も無かったから シンガポールに進駐して、現地の風景を見て大感動したらしいからね
マレー半島のジャパン軍は開戦前から弾がなかったな
627 :
名無し三等兵 :2013/02/16(土) 18:02:00.24 ID:MTPNAIyt
>>617 モルヒネとかヘロインはダウナー系のドラッグだから士気なんて上がらん
寝っ転がってるだけで幸せ、誰が突撃なんてするもんか、みたいな感じだろう
スルースキル検定実施中だったのに…
モルヒネ = 伊庭八郎
小文字とは違った意味でのキチガイだな。 それはそうと、長州戦争の芸州口で、初戦で大敗した彦根と高田の藩兵はその後どうなったんだろう? 負けてからは役立たずとして後方に残置? それとも装備を調えさせて再訓練の後、前線復帰?
>>631 後方で周囲の冷眼視に耐えていたら勝手に戦役が終わったんでないの?
第二次長州征伐なんて実質3ヶ月にもならない短期戦だし後半gdgdだし
九州方面だけもうちょっと続いたけどな
>>631 再編成という名目で後方で放置プレイ
井伊家(彦根藩)はその後新政府軍側について出兵するも宇都宮城攻防戦で土方初め旧幕軍にも敗退することに
なります
榊原家(高田藩)は脱藩者が神木隊を編成して上野戦争・宮古湾海戦・函館戦争を戦っています
徳川家覇業の宿将の末裔のだらしなさは今更ながら泣けてくる…
>>631 両藩とも再編成されて芸州口の最終攻勢に出てきてるよ。
彦根は3個大隊で、高田は兵力不明だけど甲冑を後送して洋式銃(型式不知)を装備。
彦根兵主力は幕府歩兵および紀州洋式部隊と並んで宮内村→大野村→玖波村と侵攻。
特に8月2日の玖波攻防戦では敵方の「防長回天史」にも彦根兵の善戦が讃えられており、
幕軍が一時占領した玖波村を夜襲を警戒して放棄する際も、反対して頑張ろうとする。
高田兵は、彦根兵の一部などとともに出撃基地の宮内村を守備して、
明石村経由で迂回してきた長州別働隊と交戦。
7月30日から一週間ほど持ちこたえたが、8月7日未明に臼砲の支援下で決行された雨天夜襲により敗走。
>>634 先祖のおかげで録をもらってる生活保護者に何を期待してるんだか
徳川四天王・井伊直政の井伊家(彦根藩)は鳥羽伏見戦時は京四塚関門を警備 その後桑名藩追討の先鋒、宇都宮に分派した部隊は大鳥軍に苦戦させられる 甲府の警備任務ののち白河や越後口に転身 戊辰戦争での動員兵力は1760名、戦死29名、戦傷33名と伝えられています 榊原康政の榊原家(高田藩)は北陸道鎮撫使を迎えての越後諸藩の高田会議を開くも まとまらず、衝鋒隊の信濃飯山進出を許す 越後戦線では山道・海道両軍の先鋒を務め、会津若松まで戦うことになります 一方で江戸詰め藩士は神木隊を編成、上野戦争・宮古湾海戦・函館戦争を戦います 陸奥白河分領釜子陣屋詰藩士二十名余は同盟側に参加し、会津若松に籠城 動員兵力は1085名、戦死60名戦傷121名 神木隊は86名中戦死22名、釜子篭城組は戦死12名
>>634 井伊家は、桜田門外の変で井伊直弼の首を取られて武威が失墜したからな
酒井忠次の酒井家(庄内藩)は江戸警護時の薩摩藩邸焼き討ちの責を問われて 会津藩とともに討伐対象とされるも秋田戦線で連戦連勝、最終的に開城するも 藩士は帯刀を認められるなど敬意を払われ、豪商本間家の献金などで移転も免れる 動員兵力は民兵も多数のため不明(町民で一個大隊も編成し有力戦力として活躍) 戦死(士七十九名、卒百十九名、陪臣十七名、農、町兵七十五名、軍夫二十八名、その他四名) 戦後は西郷隆盛との繋がりを深め、『南洲翁遺訓』などを旧藩士が出すことになる 西南戦争時の薩摩への留学生2名が帰国を勧められるも薩軍に参戦・戦死
本多忠勝の本多家は分家・転封・改易・家督争いを繰り返す 宗家5代目はお家騒動で息子によって毒殺、13代目は遊興に耽り武具はほとんどなく 馬も厩舎に一頭のみ 15代目は1857年に京都所司代に就任、幕末の難治をこなし老中も務める 岡崎藩は藩論は勤王に統一するも佐幕派数十名が脱藩、遊撃隊に参加 動員兵力は136名各地の後方警護任務で死傷者なし、脱藩者は戦死5名刑死1名
642 :
631 :2013/02/17(日) 10:13:08.71 ID:???
おお、大量にレスがついてた。ありがとう。 こっちでも調べてみる。きっかけを作ってくれて感謝感謝。 徳川四天王の末裔はそれなりに幕末でも働いてるんだな。忠勝の子孫以外は……
高田藩は藩士同士が敵味方か。
>>639 装備の近代化が遅れてるけど、わりかし士気は高く頑張ってるのに、そういう評価は不当じゃないだろうか?
あくまで参考ですがその後の末裔は「公」・「侯」・「伯」・「子」・「男爵」のうち 井伊 直憲(いい なおのり) 伯爵 榊原 政敬(さかきばら まさたか)子爵 酒井 忠篤(さかい ただずみ)伯爵 本多 忠敬(ほんだ ただのり)子爵
>>645 岡崎5万石とか、どこも石高だとそんなに大きな藩じゃないから、そのくらいになるよね。
戊辰戦争後に減封されたり、表高から引き直して目減りしたりしてるし。
英雄の末裔たちの幕末維新ですが真田幸村(信繁)はというと 幸村の娘が大阪夏の陣で伊達家先鋒片倉重家に託されその血筋が実に1712年に真田家を名乗り 数えて10代目の真田喜平太が砲術・兵制・洋学(江戸滞在中)を修めて 1854年30歳で改めて砲術兵法蘭学研究を命じられ1856年に仙台藩の西洋砲術兵法指南役 辞任・復職を繰り返し、1866年近習目付、軍制改革侍読長に任じられ京坂間で政治工作 大政奉還時は先駆けて版籍奉還を行い仙台藩の地位向上を進言するも入れられず 鳥羽伏見後参政となり軍事の総務、会津征討時は八百長のはずが実弾を発砲させ会津の不信を買う 世良暗殺には関与していないばかりか開戦に繋がると激怒して職を辞す、その後現職復帰、白河攻防戦を戦うも敗退する 戦後は石巻に移住、西南戦争時宮城県士族召募巡査隊総長を命じられるもこれを辞退 明治20年(1887)10月、62歳で病没 手記が残されているみたいです
こうしてみると、戦国時代の末裔がいかに明治維新を迎えたか、というのは本当にドラマを感じるな。 本多忠勝の子孫だけど余りにも忠勝が偉大過ぎたので却って子孫も重荷に感じ、幕府も気を使いすぎの悪循環になった気がする。 それを思うと家康より遥か前の恩義から来る一文字大名の誇りを胸に脱藩して遊撃隊の一員として戦った林忠崇を心から尊敬してしまう。 10年いや5年いやいや3年でいい、もし時代が遅れるか早く生まれるかして幕府で林忠崇が重きをなしていたらと思う。
仙台藩の西洋砲術兵法指南役の真田喜平太はいろいろと謎だよな。 1854年30歳で改めて砲術兵法蘭学研究を命じられ1856年に仙台藩の西洋砲術兵法指南役、 ということはこいつがまじめに改革に取り組めば、 仙台藩も戊辰戦争時には少なくとも盛岡藩レベルには近代化していたはずなんだが、 辞任・復職を繰り返したり、政治工作したり、イザというときも激怒して辞職したり、また復職したり、 八百長のはずが実弾を発砲させ会津の不信を買ったり。 大島高任みたいな地道な技術者肌じゃなくて、いろいろと政治的な奴だったんだろうな。
伊達藩お家取り潰し騒動経験による裏手回し+策士の真田+維新の新技術か そりゃドン五里るよ
>>650 仙台藩自体が内情は諸藩連合というかミニ幕府で改革が進みにくいのと
人材難で本人の意図に反して様々な局面に投入された感じですね
京阪で政治工作に従事していたせいで新政府の実情(危険性)も熟知していて
本気で会津征討を行うことで仙台藩を延命させたかったんでしょうが
・・しかし大阪赴任中は大阪城(徳川のものとは言え)に思うところはなかったんだろうか?(´・ω・`)
>>653 柴五郎を描いた「ある明治人の記録」に講武所時代の記憶で
「米は南京米にて炊飯に技倆を要すと言われたるも、余は初めより飯炊きを知らざれば、
日本米にても南京米にても同じことなり。数日にして飯らしきものできたり」
とありますね
南京米とは南京産米というわけではなく南京袋に入った外国産と言う意味だったそうです
朝鮮米も入ってきてたそうですがインディカ米ならタイ産かもしれませんね
タイが独立国でいられたのも世界一の米輸出国という要素もあったそうです
ところでコクゾウムシって昔から日本にいたのかな?
>「米は南京米にて炊飯に技倆を要すと言われたるも 日本のは後半に蓋を取らずに、中盤で強火、最後とろ火の蒸らしとなるが 向こうのは長時間水に付け、煮始めてから中盤で一回湯をかなり捨て、 それから蒸らす、とかだっけなあ???
>>655 縄文土器には既に付着していたとか(縄文後期には既に稲作は始まっていた模様)
>>656 臭みが残るので工夫がいるとも聞きますね
>>657 長細い米は洗う時に研ぐだけでかなり砕け、しかも水分を吸いにくいので長時間水に漬けると
溶ける部分はかなり溶けるからそれで炊くと底がベタベタになってしまう
インドなどにはパーボイルドライスという米の処理保存法があった
これは米を籾ごと蒸し、デンプンをα化した状態で再び乾燥させて保存するというもので
これによって精米しても砕けにくい米になった
しかし糠からビタミンBも移る利点もあったが、つまり糠臭い米になってしまうのだ
炊いたときに割れる米は下等な米だって米の栽培指導人が言ってた しょう油につけるとさらによくわかるともw
昔は玄米そのまま炊くと不味いが頑張って?めば栄養になると言われた 玄米を炊いて、食べきれない分をラップに包んで冷凍庫に保存し 電子レンジでチンしたら糠が破裂して食べやすいものになっていたwww
考えてみたら白米食べた後にヌカ食べれば同じことかな
>>661 白米にヌカをかければ・・(´・ω・`)
1993年の日本での米不作でタイ米輸入したときの騒動を体験した人って、このスレでは少数派?
>>656 東南アジアでは粘り気のない飯が美味とされますからね。
サラサラになるように粘りの元が多く含まれた上澄みは捨てる。
そういう目的に合わせて品種改良された米で、日本人好みの粘りのある飯を炊こうとするとなかなか大変。
>>657 >臭みが残るので工夫がいるとも聞きますね
逆に東南アジアの方に聞くと、日本の米は香りがなくて美味しくないと。
インディカ米の香りは食欲をそそるという食文化もあるんだそうな。
>>663 リアルタイムで体験しましたわ
タイ米は寒天と一緒に炊けば美味しくなるとか言われてて私も真似したもんですよ
665 :
名無し三等兵 :2013/02/18(月) 08:07:14.52 ID:nwTo2LrZ
あの頃の爺婆はタイ米不味いとかいって結構捨ててたのが多かったな。 おまいら戦争中ひもじい思いして食べ物は粗末にするなとか言ってたのになんじゃそれはと思った。 まあピラフとかカレーとかにすればいいのに、食いつけない物は駄目なんだろうな。
まぁ大陸で食べても、インディカの白米は何かパサパサしてて ジャポニカみたく単体でも噛めば噛むほど味が出るって感じじゃないから、日本米と同じ食い方したらそりゃ不評だろうなと思った そういう意味では、プレーンのナンの方が日本米の特性に近い あっちじゃインディカ米に色付けたり葉っぱ入れたり何かの実を入れて蒸したりしてたが、その辺カバーする為なのかね チャーハンとカレーとビリヤニは美味かったです
667 :
名無し三等兵 :2013/02/18(月) 12:00:22.88 ID:iG3AghE1
タイ米で作ったチャーハンはおいしいよな 飯を炒める調理法が一般的になかった幕末期に ジャポニカ米と同じようにインディカ米たくとほんとうにまずかったろうな ただ、江戸時代ってコメの等級というか高級米とかうまいコメとかあったのか? 年貢米は種類問わずかさしかみてないようだし 蔵に何年も貯めこんでたみたいだし アジはあまり気にしなかったんだろうか
江戸時代の米の等級だと藩・地域ごとに色々違いがあるけど 幕府の場合 上米・中上米・中米・中次米の4等級 高職者に上米、並の役職者に中米、無役者に中次米を支給 ・・身分社会(´・ω・`)
ちなみに黄色くかびた米食うと下手すると死ぬから注意な 黄変米でぐぐるとでてくる まあ戦後すぐの話なんだが それまでも当然あったろうな >結局は再精米の上で家畜の飼料など食用以外の用途として10年間にわたり処分されたといわれている。 家畜は平気なのか…
平成米騒動の時は輸送中の米の傷みもあったからなあ 何年かしてタイ米食ったら普通に美味くて驚いいた ただあれとナタデココブームは 相当心証悪くはしたな
兄より優れた弟などいない!という迷言がありますが、真田幸村(信繁)の兄・信之の松代藩の幕末です 松代真田家は真田の名前から幕府から無理な手伝普請を申し付けられ、途中藩主を幕閣から養子を迎えたり 苦労の多い時代を過ごしていましたがそれでも有力な鉄砲足軽部隊を持ち続け、佐久間象山を登用するなど 軍制改革も続けていました、藩論は尊皇に統一され信州飯山に進出してきた衝鋒隊を撃退、越後戦線で長岡城を攻略 甲府城代を命じられ、箱根に進出し遊撃隊に備える、越後口から新発田を経て会津若松へ進軍するなど 武威を示し実に新政府から賞典禄3万石を受け取ります 動員兵力は3271名、戦死52名戦傷83名 最後の藩主真田 幸民(さなだ ゆきもと)は伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男で子爵のち伯爵
>>671 この松代藩の賞典録3万石は、実は佐賀藩よりも多く薩長土に次ぐ4位のものだったりする。
10万石の石高にも関わらず3000名以上も動員できたのは、戦国時代から続く動員態勢を維持していたためなのだけど
その結果でもたらされたものは悲惨なもの。
藩士の多くは年収1石(人1人生きていくためには1日5合、年間1石8斗2升5合が必要なのに)に過ぎず、
副業で生計を立てる羽目になり、一汁一菜は贅沢、松代藩士は1日2食、一汁が原則という食生活だった。
全く今時のどこかのブラック企業を想起させる状況。
そして、3万石を受け取ったばかりに従軍した藩士から俺たちにも分けろと要求が出たが拒否したために暴動が発生。
この暴動が無ければ、長野県は松代県になったかもしれないのに。
>>672 当初は松代県も存在したんですよね、どのみち加増も版籍奉還・廃藩置県で大して意味もなくなるのですが
>>672 なんでそんな動員体制を維持してたんだろ?
薩摩や長州みたいな潜在的仮想敵国扱いだった訳でもあるまいし
外様はみんな潜在的仮想敵国じゃね?
米沢藩、久保田藩、仙台藩はみんな石高よりはるかに家臣の数が多く、 従って貧乏家臣も多かった。上杉、佐竹は西軍で伊達は限りなく怪しい東軍・・。
>>674 真田という名前だけで既に存在的仮想敵国でね?
西国外様よりも江戸に近いし
>>674 家が基本なので体制を継続できる、というか継続するしかない。
何らかの不始末がない限り、隣の家をリストラしろ、とか言えないわけで。
679 :
名無し三等兵 :2013/02/19(火) 15:44:12.81 ID:wwgrEcOU
大八車で補給していた時代に近代戦など無理。 また江戸時代は雑穀やどんぐりも主食だし、イモリや昆虫も食っていた
イモリは薬だし昆虫を食うのは長野のようなところだろう。
>>676 東北武士はみな副業に必死で武士町なのに商人町のようだ、なんて旅人が驚いた逸話が残ってるものな…
山間部は魚食えないしな 昆虫食べた方がタンパク質が取れるだろう 蜂の子はうまいよ
静岡県富士宮にしばらくいたんだけどさ、魚屋の魚が赤く着色しているのが多いんだ。 たぶん昔はイキの悪い魚に色をつけてごまかして売っていたんだけど、 今でも赤くなきゃ美味しそうでないという嗜好が固定しているんだと思う。 駿河湾の漁港は割りと近いのに。
インドシナ半島に行ったとき、現地人のおっちゃんが 「俺は山の中で育ったから蛋白質が貴重でさ〜学校終わったら速攻で虫とか取りに行ってたよHAHAHA」 って蛙食べながら言ってた
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と語った藤堂高虎の津藩の幕末です 二度の長州征伐に参加し鳥羽伏見戦では山崎関門の警備を担当していたが朝廷からの勅使を受け 恭順(寝返り)、幕府砲台を砲撃し旧幕軍崩壊に貢献、「その行い、藩祖(高虎)に似たり」と旧幕から評される その後桑名藩開城、下総での脱走軍との戦い、上野戦争、越後戦線での平潟上陸作戦、函館戦争と各地で転戦 動員兵力は鳥羽伏見戦では3677名戊辰戦争では2651名戦死者32名戦傷60名 2万3000石の恩賞を受けるも藩政改革の目玉であった平民での藩軍編成を巡り士族が反発、鳥羽伏見の寝返りから津軍を 率いてきた長谷部一(藤堂監物)がクーデターを企てたとして処刑(自決)
土佐の一領具足の子孫の郷士だって兼業武士はたくさんいた。坂本龍馬の実家は才谷屋。 幕臣である八王子同心もほとんど兼業で質屋とかやってた。
>>686 てか坂本家は質屋が家業で大商人
借金で首が回らない山内家が借金借り倒すために才谷屋に郷士身分恩着せて押し付けただけだし
順序が逆だ
竜馬本人も江戸に私費留学してるボンボンだしな
土佐藩に存在した身分対立軸に竜魔を理解しようとするのは無理があるわけで
松代藩はれっきとした譜代大名で老中も務めている家柄なのだけど。 やっぱり戦国の遺風をずっと維持してきていたのだろうか。 武士だと名字帯刀できる等、いろいろと名目上のメリットがあるからな。 旅行とかに行くと某は松代藩士でござると言えるし。 何だかブラック企業で正社員になれたと喜んだらサービス残業ばかりで 実際の時給は最低賃金以下になっていたというのを思わせるな。 それでも、松代藩士は精強だったみたいで越後戦争では薩長の危地をたびたび救う武勲を示し さすがは真田日本一の兵と薩摩兵を唸らせたらしい。
まあもともと徳川に帰順した武田の家臣である八王子同心も御家人株の売買で幕末にはほとんど多摩の豪農と入れ替わってたわけだけど。
旅行とかに行くと某は松代藩士でござると言えるし。 それはない
>>686 八王子同心も武士より農民にひきつけて評価する見方が有力なようだね。
身分的には半農というより完全な農民
大学の講義では八王子千人同心は苗字も無く帯刀も出来ず、中間みたいなものだったと習ったな。 公開講座かなんかで聴講してた郷土史家の爺さんが、嘘だ!と食って掛かってた。
wikiにしっかり書いてあってワラタ
しかし公務中は帯刀できるし槍奉行の支配も受ける訳だから完全な農民かというとそれもおかしいな。 完全な農民は完全に帯刀できないだろう。
町民身分の岡っ引きでも十手じゃなく両刀持つのを認めてた地域があるようだから、そのへんの曖昧な何かなんかね?
>>681 無役の旗本や御家人も内職しないと食えなかったようだが?
>>692 千人同心は軍事訓練はしていたからね。
農民は軍事訓練しないし。
>>697 日光警備に加えて長州戦争や甲州警備にも動員されてますからね
ある程度の洋式化も行われていて慶応の軍制改革では「八王子千人隊」
として陸軍に編入されているんですね
仮に、明治維新が失敗して幕府中心の体制が続いていたら、名誉烈士満「八王子千人隊」とか、 面白げな名前の部隊なっていたりしたんかねぇ?
>>697 歩兵隊みたいな農兵が出てくると、そのへんの特権も消えてくんだわな。
>>700 幕府歩兵隊は農兵じゃないよ。農民出身もいるが
町人もいるから。
てか特権の話なんて誰がしているんだ?
土鍋か?
八王子千人隊は長州征伐に出陣してるが 活躍はさっぱりだな
703 :
名無し三等兵 :2013/02/20(水) 12:23:17.43 ID:TxksylKl
太平洋戦争でも日本の補給手段は馬車だったが、遅すぎて補給が破たんしている。 ましてや戊辰戦争や西南戦争では馬車すら無く、徒歩で人力輸送している。 重い荷物を背負うためふつうに歩くより遅い。 この事実を見れば司馬遼太郎の小説は100%嘘だと判明する。 西南戦争の政府軍は弾すら最前線に送れてないのだ。 だから白兵戦になった
704 :
名無し三等兵 :2013/02/20(水) 12:28:19.76 ID:TxksylKl
司馬遼太郎は左翼であり、左翼の夢を明治維新に投影した。 だから薩長軍が近代的だという嘘をねつ造したのだ 徒歩の薩長軍はナポレオン軍の騎兵より弱い これが真実だ
705 :
名無し三等兵 :2013/02/20(水) 12:33:58.69 ID:TxksylKl
ペリー艦隊の戦艦にある大砲は最大射程がたったの3キロだし、 ペリー艦隊は飲料水が尽きて死にそうだった ラムで体当たりしたら幕末の日本でも勝てたはずだ
706 :
名無し三等兵 :2013/02/20(水) 12:39:39.13 ID:TxksylKl
幕末の東北の川には産卵期のサケが大量に登る。 乱獲される以前だから手づかみで取り放題だ 山間部の川も乱獲以前のイワナや鮎が山ほどいる
当時蒸機推進の艦は日本では作れないが、ガレー船みたいなのでも作れっていうのか?
どなどなどーなー どーなー 珍説書ーいてー
当時の日本の大砲の射程って何kmだ? 佐助花号の大砲はライフル砲だったのか?
先込めライフル山砲の四斤山砲の最大射程が2Kmちょっとだから、 実戦での有効射程は1500mとか1000mとかそんなもんだろうな。 ライフル小銃とあまり変わらない。
712 :
名無し三等兵 :2013/02/20(水) 16:00:21.38 ID:TxksylKl
>>707 花火大会の花火で驚かせ、夜襲でラム体当たりをやるわけよ。
ペリー艦隊は補給ができないんだしね
713 :
名無し三等兵 :2013/02/20(水) 16:06:46.23 ID:TxksylKl
浸透戦術は現代の米国海兵隊や米国陸軍でも基本ドクトリンだ。 だから肉弾を馬鹿にしたら米軍から笑われるよ
714 :
名無し三等兵 :2013/02/20(水) 16:11:06.91 ID:TxksylKl
あと補給が無くても近代戦ができると夢想するやつは大本営と同じだ
水が足りないとか何処で読んだ? 日本政府が非協力的なのはペリーの十二分に知っていたはずだ。 太平洋を渡ってこれた艦隊が、島伝いの途中で水が切れるとはおかしいじゃないか。
定例のアラシが湧いていますがくれぐれも触れないようにお願いします
別に荒らしじゃないだろう?知識にオリジナリティが豊富なのと、しつこいだけだ。
ものは言い様だなw>知識にオリジナリティが豊富 妄想をこねくり回して作り上げた「知識」だから、少し突っ込まれると破綻する。
>>717 今の歴史は創作であると断言し、自らの創作を真の歴史と称するあたり
なかなか高度なギャグセンスの持ち主ではある
当時の和船に竜骨ないのにラムとか言っちゃう人って
大宇宙のかなたから謎の電波を受信したんだろ
722 :
名無し三等兵 :2013/02/20(水) 18:33:47.83 ID:VMN4k+1M
ケネディの乗ってた魚雷艇は日本の駆逐艦に体当たりされて沈んだとかナントカ。
駆逐艦の艦長曰くよけきれなかっただけらしいがな
ラムはネルソン
衝角をつけなかったから大して役に立たなかったんだな震洋は
>>722 ちゃんと乾舷高く浮いてるから偉い。もしかして砲とか下ろした後の写真かも知れないが。
>>715 ペリー艦隊は大西洋周りで来航したんだよ
太平洋横断したわじゃないぞ そっちはレザノフ艦隊だな
そうだったか。 そうだね、当時太平洋側にはフリゲートなど必要でなかったんだろう。
730 :
名無し三等兵 :2013/02/21(木) 12:12:29.11 ID:ufTlx8jE
ペリー艦隊には太平洋を越える力は無く、大西洋やインド洋経由で来た。 当時の蒸気船は帆船より馬力が無く、荒波を超えられなかった。 つまりペリーは日本で補給を受けないと帰国できない漂流民になるところだったのだ
731 :
名無し三等兵 :2013/02/21(木) 12:19:55.22 ID:ufTlx8jE
米国、ソ連、朝鮮人が創作した戦後の嘘くさい歴史観を根底から知的に懐疑検証するのが わたしの原点だ。
それは機関は平時では入出港時、戦時では戦闘中の操艦に間に合えばよし とされていたから炭庫も小さかったからで、機関の航続力と航海能力とは関係ない。
上海・香港にも寄港している他に、那覇にも上陸して結果的に琉米修好条約を締結していますね (琉蘭修好条約、琉仏修好条約も後に締結されている) 当初の条約は 聖現寺の一年間の賃貸及びその協定 約5、600トンの炭を貯蔵できる施設の建設及びその施設の妥当な金額での貸与 偵吏の追跡を禁止 市場を設け交易を自由とすること
米の東インド艦隊(East India Squadron)は1835年に設立、アヘン戦争に乗じて清と1844年望厦条約を締結 所属艦艇は変動激しいですがアロー号戦争にも参加したりしていますね 1866年にアジア艦隊(Asiatic Squadron)に名称変更され、最後の司令官にして初代司令官ヘンリー・ベルは 任期中にボートで陸上に向かっていたところ荒天で大阪湾で溺死 その時米艦船イロコイはアルフレッド・マハンが副長を務めていた また鳥羽伏見で逃走中の慶喜も一時乗船
>>729 吼える40度・狂う50度・絶叫する60度、というほぼ英文直訳にも関わらず嬉し恥ずかし中二心を擽る言葉がありまして。
大陸の影響をほぼ受けずに全速力で流れてきた西からの南極環流がドレイク海峡で圧縮され、
偏西風が圧倒的西風を提供し、更にそれと極東風が合わさり高緯度低圧帯を形成するという
無垢な東からの旅人を地獄の番犬のような編成でお出迎えする仕様となっております。
それを避けるにはマゼラン海峡しかないのですが、ここは現代の航海士でも苦労する難所で実に隙のない構成に仕上がっています。
その様な海域を帆船で大西洋から太平洋に抜けるのは当然容易である筈もなく、ちょうど上で挙がってるレザーノフ艦隊も
ここを通過するのに南極近くまで吹き流されて結局1ヶ月ほど掛かったそうで。
帆船に毛が生えただけの当時の蒸気船では、西へ向かう大事な航海でここを避けたのは賢明でしょう。
ちなみに咸臨丸と共に太平洋横断した蒸気船ポーハタン号もペリー艦隊にいて、吉田松陰が訪問したのがこれですな。
736 :
名無し三等兵 :2013/02/22(金) 15:43:48.94 ID:bWWfoLCo
>>735 いいこと書いてる。
外洋の強風や大波はすさまじく、まともに受ければ現代のタンカーでも船体が
折れ曲がる。
大津波がコンクリート堤防を破壊するようにだ。
当時の外輪式蒸気船は馬力が現代の軽自動車より弱く、大波が来たら外輪の
シャフトやギアが破損し、洋上での修理は無理である
737 :
名無し三等兵 :2013/02/22(金) 15:54:47.25 ID:bWWfoLCo
花火を応用したロケット推進の戦闘ボートを作れば馬関戦争に長州は 勝てただろう
>外洋の強風や大波はすさまじく、まともに受ければ現代のタンカーでも船体が 折れ曲がる。 そんなのは例外的な高さ25mの三角波が来た時だけだ
どなどな どーなー どなべー 珍説かーいてー
八重の桜スレの土鍋はあんまり馬鹿にされるからID表示は辞めたんじゃなかったっけ? それでも土鍋に反応するからバレバレなのは底なしだな・・
741 :
名無し三等兵 :2013/02/22(金) 19:57:58.97 ID:90L7xVKL
なんか他人を見下した様な文体だからすぐわかるよね。 そもそも海千山千の専門スレで、よくそんな内容の書き込みするかと関心もするけど。
742 :
741 :2013/02/22(金) 20:03:14.62 ID:90L7xVKL
あ、上げちゃったけど土鍋と違うからね。 そう思われるだけで恥ずかしいw
>>727 オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍戦列艦「カイザー」の一生
1856年5月25日 ポーラ(現クロアチア・プーラ)にて起工 1858年8月4日進水 1859年就役
排水量5530トン 全長77.1m 全幅17m 喫水7.15m 動力 帆装 蒸気エンジン 2006HP 最大速力11.5ヤード
24ポンド砲×2 60ポンドカロネード砲×16 30ポンド砲×74 乗員904名
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年)で墺普連合艦隊はヘルゴラント海戦を戦うも「カイザー」は参加できず
普墺戦争(1866年)リッサ沖海戦でアントン・フォン・ペッツ提督指揮下の第二戦隊旅艦を務める
伊装甲艦「レディ・ポルトガロ」に衝角突撃、衝角突撃を試みる伊装甲艦「アフォンダトーレ」と交戦 砲撃で旋回砲塔1基を撃破
衝角突撃の衝撃と反撃砲火で前部マストと煙突を喪失するも応急修理で翌日には戦線復帰
>>743 続き
1868年カイザーの装甲艦改造予算が降りる
1869年アントン・フォン・ペッツ提督率いる東洋遠征艦隊が来日 明治天皇に拝謁 日墺修好通商航海条約締結
議会との予算折衝等のため改造はなかなか進まず 1874年2月まで完成・就航がずれ込む
舷側砲門戦列艦から中央砲門戦艦に改造 5800トン アームストロング9インチ砲×10
1886年〜89年 代艦計画 1897年には戦艦から除籍 1902年 ベローナに改名
以後退役・雑役船としてポーラ港で奉仕
第一次世界大戦終結
大日本帝国海軍地中海派遣艦隊第2特務艦隊第23駆逐隊駆逐艦「松」「榊 」も見守る中
ポーラの墺艦艇は武装解除、ポーラはイタリア領へ編入、1918年までベローナは在籍していた模様だが
以後の消息は不明(戦利艦リストに記載なし)
745 :
名無し三等兵 :2013/02/22(金) 21:19:20.08 ID:/DrajcOZ
>>736 ポーハタンの馬力は400馬力
船体にたいして非常にアンダーパワーだが
さすがに軽自動車より小さいはどうかと
外輪式よりスクリュー式の方が構造強度などで有利だから咸臨丸が選定された訳だが、 それはそれとして外輪船のポーハタン号が遣米使節団の本隊を乗せて太平洋を横断したのは単なる事実。 そもそも、外輪式が比較的嵐に弱いのは事実だが、嵐に遭遇して100%損傷してたんじゃカリブ海にも浮いてられないし 地球を半周してきたペリー艦隊の存在自体が奇跡になる。 大体、現代のタンカーが折れ曲がるような波受けて耐えられる木造船なんて帆船だろうがスクリュー式だろうが存在しないでしょ。
三角波(さんかくなみ)とは、進む方向が異なる二つ以上の波が重なり合ってできる、 三角状の、波高の高い波のことである[1]。波の峰がとがっている[2]。 例えば、暴風の中心が通る水上などに起こる[3]。暴風域のいたるところで波が発生しているため、 それらの波が全て様々な角度で重なりあうためである。また、絶壁や防波堤などの近くでも生ずることがある[4]。 入射波と反射波が重なりあうためである[5]。また、潮流の向きと風の向きが反対の場合にも生じる。 なお三角波は、30〜40度で巨大な波が出来やすいともいう それでバミューダトライアングルなるものがあるように見えるのだとの事 そして三角波に関しては日本近海でも同じくらい多く発生する 稀にタンカーの沈没事故などがあると原因はこれだったというが、現在では危ない気象条件、海洋条件のところを 航路に入れないようにしているので事故は減っている
畜生。メタンハイドレード説信じてたのに!
現代の水雷戦では、魚雷の艦底爆破で船を持ちあげて自重で叩き折る。 それの自然版だ
750 :
名無し三等兵 :2013/02/23(土) 15:55:39.53 ID:QXFL7rev
人力メリマックなら幕末の日本でも建造できた 人間が自転車をこいでスクリューをまわす
バミューダトライアングルって、そもそも事故が起きた場所を精査して普通の事故率と比較したら別に以上な点は なんにもなかったってオチがついたよ。別にあの海域に特別な危険性があるわけじゃない。
ドラゴントライアングル笑ったw 「1942年から1954年にかけて日本海軍の5隻の艦艇をはじめ 多くの船舶や航空機など700名以上の乗員が消失した」とされる。 また、「日本政府も100名以上の研究者を動員した結果、 この海域を「魔の海域」として危険地帯に指定しており、 日本人もまた昔からこの海域は海底にすむドラゴン[2]がひきずりこむと恐れている」
ネタばらしまでしてあるとは親切だな 1942年て言うから俺はてっきりサボ島周辺海域のことかと
756 :
名無し三等兵 :2013/02/24(日) 11:11:16.80 ID:7WlZTtmB
外輪式蒸気船はいまでもアメリカのミシシッピ川で観光用に動いてる。 現代の観光用のは蒸気じゃなく、ディーゼルエンジンなんだろうけど、それでも 推進力が弱いから川の流れが速いときは川を遡るスピードがゆっくりだ。 歩いたほうが早いくらい
757 :
名無し三等兵 :2013/02/24(日) 11:14:59.24 ID:7WlZTtmB
1916年の第一次大戦のソンムに投入された史上初の戦車マーク1は ガソリンエンジンなんだね。 しかし、あまりに遅すぎて投入したイギリス軍もビックリしたし、 ゆっくり移動する盾でしかなかったという。 全速を出しても人間が走るより遅く、しかもエンジンが焼け焦げた。 ただ動く盾でも敵の機関銃の弾を防げるから助かったという
758 :
名無し三等兵 :2013/02/24(日) 11:18:13.37 ID:7WlZTtmB
ならば幕末の日本は人力シャーマン戦車でも作れば 馬関戦争、薩英戦争、戊辰戦争で役立ったと思うぞ 大八車に薄い傾斜装甲を取り付けて、内部の人間が筋肉で押して移動するわけよ。 砲塔を取り付けるなら、砲塔の旋回も人力だ。 ウィンチェスターライフルの弾ぐらいなら弾けるし、量産も可能だ。
759 :
名無し三等兵 :2013/02/24(日) 11:23:29.78 ID:7WlZTtmB
ちょっと想像してくれ。 1863年の馬関戦争で高杉晋作考案の人力メリマックや人力シャーマン戦車が 投入されたら、歴史がどうなっていたかを。 人力メリマックは船内にいる長州藩士が自転車を一生懸命こいでスクリューをまわすので遅い。 しかし敵である外輪式蒸気船も遅いんだし、包囲して四方八方から人力メリマックでラム特攻するわけよ。 さらに地上には大八車を改造した人力シャーマン戦車が待ち構え、 欧米の水兵がライフルを撃っても弾をはじき返す
760 :
名無し三等兵 :2013/02/24(日) 11:26:32.27 ID:7WlZTtmB
新しいものが好きだったという坂本竜馬は「やるぜよ」とか言って 山頂から竹製のハングライダーで飛行して空から釘を落として攻撃してもいい。 これは決して根拠の無い話ではない。 幕末の日本にも子供が遊ぶ凧はあったのだし、大型の凧を改良して竹と紙で グライダーを製作した職人もいたそうだ
761 :
名無し三等兵 :2013/02/24(日) 11:28:29.42 ID:7WlZTtmB
19世紀の後半がロマンを掻き立てて止まないのは、架空戦記や幼稚園の発想 のような珍兵器でも勝てる可能性があるからだ。 なにしろヨーロッパでも騎兵突撃が主流の時代だからさ。 19世紀後半の米軍にはジープもB-29も無いからね。
762 :
名無し三等兵 :2013/02/24(日) 11:31:50.73 ID:7WlZTtmB
江戸時代の日本は長崎の出島でオランダと清国とは交易をしていた。 オランダを通じて産業革命や近代医学の情報もわずかながらであれ入ってきていた。 薩摩藩は琉球でイギリスなどとも密貿易をしていた。 だから江戸時代の日本は近代文明と隔絶された石器時代というわけではない。 近代のちょっと手前ぐらいのレベルはあった。
このキチガイ、いつまで粘着し続けるのかな…
>>763 幸い?IDは表示していますから見かけたらひたすらNGに放り込めばいいんですけどね
八重の桜の土鍋はID消してまだ粘着しているからある意味もっと手に負えないんですが
どなどなどーなーどなべー
最近はスレの雰囲気を読まずに自分の書きたい事だけ書き続けてく軍オタが多いけど、 土鍋はまさにその筆頭だね。
767 :
名無し三等兵 :2013/02/24(日) 16:28:13.03 ID:m3Ej+JZ3
>>758 大八車に畳や土のうを積んで移動可能な盾にするのはやってる
ヤン・ジシュカが13世紀にやってんだよなぁそれ
徳川斉昭「人力より牛に牽かせたほうがよくね?」
話を思い切り変えるけど クリミア戦争はこのスレでいいのかな セヴァストポリ要塞攻防戦で1つ疑問が、英仏艦隊が黒海の圧倒的制海権を確保していたのに なぜロシア軍の補給を絶てなかったのだろう。要塞攻防戦が長引いた要因として要塞守備のロシア軍に 補給が届いていたことが挙がっていたので疑問を覚えました。 当時の技術では海に面した要塞の封鎖というのは無理だったのでしょうか。
>>
うげ、ミスった。
>>768 13世紀じゃなくて15世紀。13世紀じゃまだヨーロッパには火器がない。
>>771 英仏土包囲軍の戦力が不足していて陸路で度々増援を許していたみたいですね
要塞自体も港湾部は船舶を沈めることで英仏艦隊が入れないため艦砲射撃を
十分に浴びせることができなかったみたいです
もっとも当時のロシアの交通事情ですから陸路でセバストポリにたどり着くまでに
餓死・病死・凍死等で30万近く犠牲になったとも言われています
・・おそロシア
そういえば歴史群像の今月号には軽騎兵の突撃の話が載ってるね。
>>773 まぁ、少数説だけれど、モンゴル軍のヨーロッパ侵入の際に火薬の知見がヨーロッパにも伝わり、13世紀末には
ヨーロッパにも原始的な火器が存在していたんじゃないかって説があるよ。
しかし15世紀でも当時は先進的だよな 移動式の野戦築城キットか
ポウハタンの頃の帆船の蒸機は戦闘時の機動用以外は入出港や無風の時専用だ。
>>774 陸路でセヴァストポリ要塞に対する補給を行っていたのですね。
てっきり英仏土サ軍で陸海共に完全封鎖を試みておられたのかと思っていました。
日露戦争まで、戦病死者の方が純粋な戦死者より多かったのが史実とはいえ
(しかもWWTではスペイン風邪や発疹チフスのために再逆転して戦病死者の方が多いらしい)
クリミア戦争でのロシア軍の純粋な戦死者の少なさには何とも言えない思いがします。
>>779 戦病死者には、即死じゃなくて負傷後にのたうちまわって苦しんで死亡した兵士の分も含まれるんだぜ
救命医療が未発達でしかも速やかな後送ができない状態となるとそっちの比率が膨れ上がる
即死なんてそうそうしないし
ナイチンゲールもロシア軍の面倒まで見てはくれんしな…
あー戦傷死は統計上で戦病死に入っちゃうのか
>>780 確かにそうですけど戦病死を軽視できないとも思うのです。
ナポレオンのロシア遠征にしても発疹チフスに赤痢、腸チフスの蔓延が失敗の要因ですし。
20世紀のWWTにしてもスペイン風邪の方が死者は多いという現実。
ちなみにナポレオン戦争時の英海軍の死者の93%が病死というのを読んだ時には慄然たる思いがしました。
>>781 統計の分類は各国で基準があるだろうから一概には言えないけどな
ただ、戦死にすると遺族年金とか余計なカネがかかるから、即死もしくは負傷後短期の死亡でなければ戦病死扱いにしちゃうコスい手段はよく使われてる
それとは別に状況的な要因として、籠城戦は負傷者の後送なんてできないし十分な手当ても出来ないし栄養さえ不十分だから、負傷者は苦しみながら次々と死んでいく…
785 :
名無し三等兵 :2013/02/26(火) 10:26:51.10 ID:7ZgWbmbP
病死問題を無視するやつは戦争を語る資格はない。 戦場は腐乱死体の腐臭とネズミだらけなのだ 飲料水も腐ってるしな 甘えとコンピューターゲームだけで戦争をかたるな。 おたくには戦争を語る資格なし
786 :
名無し三等兵 :2013/02/26(火) 10:37:11.23 ID:7ZgWbmbP
火攻めは原始人の狩りでも使用されたのだし、黒曜石や砂金、銅の 採取加工もしていた原始人は火薬の研究もしただろう。 原始人は鉱物に詳しいからな ただ原始時代は大量の火薬を運ぶ手段がない
787 :
名無し三等兵 :2013/02/26(火) 10:42:29.16 ID:7ZgWbmbP
あと19世紀後半の軍隊は上官に逆らえばその場で死刑だ 連合赤軍が日常なのだ 甘えはご遠慮いただく
現代の感覚で考えちゃいけないよね。 美化して考えてもいけない。 兵士なんって何日も風呂に入れないし 食べ物も満足じゃない。下手すると ホームレスみたいな感じだったかもね
789 :
名無し三等兵 :2013/02/26(火) 13:03:19.93 ID:7ZgWbmbP
19世紀後半は平時のイギリスでも平均寿命が短く、庶民は医療ゼロである。 イギリスの庶民の服は一生同じものを洗濯せずに着ていた つまりまだ大砲で即死したほうが楽な地獄の格差生活があった
>>788 ガ島とかインパールの兵隊たちはホームレスどころじゃないぞ
791 :
790 :2013/02/26(火) 14:05:00.36 ID:???
19世紀の話だったねスマン
原始人の話してる奴居る位だから問題無い
幕末の洋式調練の話は、残留日本兵が現地の独立勢力に初歩的な軍事教育を施した話を彷彿とさせるな。 たとえ初歩的なものでも、やるのとやらないのとではかなり差があるのだろうな。
19世紀後半には傭兵部隊はどれくらいいたのだろう。 フランス外人部隊は1830年に創設されたらしいけど。 志願兵制度を自国民のみの傭兵制度とみなす人もいるらしいからややこしくなりそうなので 外国人の傭兵を認めるかどうかで考えたいのだけど、結構この頃はいたのだろうか。 イタリア統一戦争では、オーストリア、サルディニア共にスイス人傭兵が参加していたそうだが。
傭兵の定義にもよるんでね? コサック師団の将校出身のレザー・シャーとか アルバニア傭兵出身でマムルークに止めを刺したムハンマド・アリーとか 清国にもモンゴル騎兵(傭兵)がいたかな?
>>794 植民地を持つ国だと自国民以外の傭兵部隊を編成するケースは結構ある
・イギリス東インド会社やのスィパーヒ、英印軍のグルカ人、シーク教徒傭兵
・オランダ領東インドのアンボン人傭兵
・フランスのセネガル人部隊、アンナン人部隊
797 :
名無し三等兵 :2013/03/02(土) 01:14:46.54 ID:xjjd1Ngf
北洋軍閥あたりはお金くれる人=ご主人様状態だからまんま傭兵だな 20世紀だけど
798 :
名無し三等兵 :2013/03/02(土) 11:45:05.42 ID:HgA+gC6/
19世紀後半は米国のニューヨークでもコレラが起きる劣悪スラムだ
>>793 銃剣訓練をしないと白兵戦で負けるからな
799 :
名無し三等兵 :2013/03/02(土) 12:32:12.55 ID:HgA+gC6/
WW2の独ソ戦では双方が勢い余って攻勢限界点を超えて進撃したので、ガス欠で戦車が止まり、 軽機関銃の弾も尽きたので銃剣と手りゅう弾のみで歩兵が突撃する展開が全面で見られた やっぱり最後は銃剣と手りゅう弾が頼りだ
800 :
名無し三等兵 :2013/03/02(土) 12:39:32.51 ID:HgA+gC6/
WW1の塹壕戦でもせめて飲料水とパンの補給があればドイツの歩兵は銃剣と手りゅう弾で粘れた。 しかし末期には飲料水の補給も無く、焼けつくような喉の渇きと脱水症状で ドイツ歩兵は根性の限界に達して負けた。 最後の最後はコップ一杯の水で勝敗が決まる
イタリアで諸侯が傭兵を雇っていた時代から「最後の金貨を掴む者が勝つ」のは常識だったよ。 マキャベリは守銭奴と非難してたけど、プロの傭兵隊長は、作戦より兵站や兵士の補充に心を砕いた。
>>800-801 軟弱な!帝国軍人には補給はいらない!
皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、
やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。
銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。
日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。
>>802 >弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。
>銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。
これ葉隠の一節なんだってね。
>>803 記述が極端すぎて佐賀藩内ですら発禁処分くらったような著作が
なんで普遍的な武士の心構えみたいに扱われるんだろうな・・・
なにかと葉隠が引用されるのは個人的に辟易する
佐賀と紀州は気違いじみた藩政改革に成功しているからね。 どうしてあんな近代化になった?
佐賀は長崎警備だったのをフェートン号事件で大失態やらかしたのが 軍制改革のきっかけだったかな? しかし同じ長崎警備の黒田家(福岡藩)は目立った改革はやってないんだよな 知事(元藩主)が偽札製造容疑で連行される際には佐賀藩兵の監督下という顛末だし
>>806 黒田は徳川の血統にすり替わったからね。
>>804 に同感。
本当に葉隠が武士道精神の心構えになったのはなぜだろう。
武士道という言葉自体、幕末まで無かったというのが通説らしいし。
西欧の騎士道と同様に、武士が滅びてから精神論として武士道が声高に言われ出した気が。
精神論だから理想論に傾いているのだろうか。
>>808 源氏物語が公家の教養になったりしたのも同型だよね。
>>808 戦国時代の武士道ならぬ武者道は観念論じゃなくて実戦的な「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」だからな
大勤王家として楠木正成を奉る行事を佐賀藩の勤皇派が執り行なっていたら 思想的中立性を損なうと藩主が口出して勤王成分を無くした唯のお祭りにさせられた こうした藩主の特性が思想に振り回されず近代化へ進む要因にもなったが 後年天皇を中心とする国家体制が確立した後、政治的に薩長の後塵を拝す原因にもなった
それこそ徴集兵たちを教育するのに手っ取り早いのが「武士道」だったのかな? (作られた伝統というやつ) でも実物の葉隠には嫌な上司からの酒の断り方や衆道の作法なんかも書かれているんだよね・・
>>811 東北戦争では薩長以上に動員して戦ったのにね。
葉隠の『士は食わねど高楊枝』なんかも発足直後の陸海軍の台所事情に優しい言葉
西南戦争の戦費でカツカツになって待遇悪化で近衛兵まで反乱を起こす始末だったしなぁ
>>810 それはそれで朝倉さんの思想だ罠
そういう人も居れば、義や節や名を守って滅びる主家に殉じた人も戦国時代には居る
どっちも武士なのには違いないが
主君を何度も代えるのが普通といっても 取り立ててもらった普代が主君を捨てたら他所で仕官しにくいしな
士と待遇してくれたから士として返す 思想としては戦国の暗殺者予譲に近いような 武士は相身互いでもあるが まあ江戸時代にあんまそんなこと言われても為政者が困るw
>>817 そんな論理も、流動化し土地から切り離された一部の層の論理ではあるよな
武士の成り立ちからして本来在地の地域支配者なんだから、そんな何回もあっちについてこっちについて出来ない
勢力が頻繁に入れ替わる中で帰趨に変更の余地を残すのはまあ生存の知恵であるが、そう何回もやったらさすがに信用されなくなる
田本研造ヵ ≪箱館市中取締 裁判局頭取 土方歳三≫
明治二年頃撮影 後年のプリント ゼラチン・シルバー・プリント
函館市立中央図書館蔵(部分)(後期展示 ※前期はレプリカ展示)
夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史
北海道・東北編
会 期: 2013年3月5日 ( 火 ) 〜 5月6日 ( 月・祝 )
休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日) ※4月30日(火)は臨時開館
料 金:一般 500(400)円/学生 400(320)円/中高生・65歳以上 250(200)円
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1801.html
>>803 牟田口のキチガイ発言とだけ思ってたが、元ネタがあるのか。
ちょっとイメージが変わったわ。
素人は戦術を語り、プロは兵站をはかる。 牟田口は、ホークウッドやヴァレンシュタインにも劣るってことだ。
>>821 当時は銃剣なんて発明されてないわけなんだが
824 :
名無し三等兵 :2013/03/03(日) 15:30:23.99 ID:5RQDlHEh
戦国時代は合戦で怪我をしても消毒がなく、馬の小便を傷口にかけていた。 また太平洋戦争の日本軍は補給がゼロだった。 自殺行為だったのだから武士道とは死ぬことであるという葉隠の教えが 現実そのものだった
825 :
名無し三等兵 :2013/03/03(日) 15:35:40.59 ID:5RQDlHEh
現代のアメリカでも財政破綻したら補給をする金が枯渇する。 財政問題がそこにあるんだ。 リーマンショックや東日本大震災のようなものが60回連続で起きたら、 自衛隊は補給ゼロで弓矢と槍をもって戦う中世の軍隊に先祖がえりする。
>>823 元ネタは刀→手→肩→口。
>刀を打ち折らるれば、手にて仕り候。
>手を切り落とさるれば、肩節にてほぐり倒し申し候。
>肩切り離さるれば、口にて首の十や十五は喰切り申し候。
『葉隠』
どっかの山犬だ
828 :
名無し三等兵 :2013/03/03(日) 15:46:37.62 ID:5RQDlHEh
ソ連のスターリンや連合赤軍も補給を無視したのだから、 左翼も牟田口以上の狂人である
>>828 赤軍戦闘教義である縦深攻撃は本来は補給重視
>>826 あしたのジョー2のEDならまあ感動的なのになあというw
一節と言ったら普通改変せずにまるまる引用することだから、銃剣なんぞ当時はないよって指摘しただけ
>>826 牟田口は佐賀出身だから、変な影響受けちゃったのかな?
葉隠「衆道だからって不特定多数と関係しちゃ駄目なんだからね!」 これは人気が出ない
幕末だと猟師が戦闘に動員されることが結構あったみたいだけど、
服装は当時の狩りの格好でいいのかな?
そうなら蓑でカモフラージュしてたりする?
>>826 首だけでも動きよったw
>>834 野山を駆け抜けて伏射するにはダンブクロ(ズボン)でないとダメだと実感したとか
誰か戦記を残していましたね(袴だとかなり絞っていても引っかかる)
服装だけはダンブクロ導入は貧乏藩でも多かったみたいですね
佐賀と紀州は自ら封建制を崩して軍事強化したんだが、偉業なのか狂っているのかよくわからない革命的な改革を遂行している。 そういえば、今の大河で露出度の高い山本覚馬の輸入したドライゼ銃(チュントナーデル銃)が紀州に流れて明治の紀州藩改革に使われたんだよね。 東洋のプロイセンは言い過ぎだけど軍事演習を視察した政府要人や外国人はビックリしたろう。
837 :
名無し三等兵 :2013/03/05(火) 10:21:24.47 ID:ZUCAQSSn
セポイの乱のイギリス軍は攻勢限界点を超えすぎているので補給は 三ヶ月に一回だ。 まだスエズ運河は完成してないしな セポイ側は武器が投石と象でも弾切れの英軍に勝てた。
838 :
名無し三等兵 :2013/03/05(火) 10:37:36.03 ID:ZUCAQSSn
17世紀の宗教戦争で活躍した傭兵ヴァレンシュタインは 補給ゼロでも略奪のみで戦争を遂行している。 すべての物資を略奪で調達したのだ。 17世紀は弾がなくても剣技と馬術のみで戦争ができた。
839 :
名無し三等兵 :2013/03/05(火) 10:42:54.70 ID:ZUCAQSSn
インパール作戦も開始時期が2年早ければ成功しているし、 略奪戦争もひとつの形だろう。 ソ連軍もすさまじい略奪をしているしな
840 :
名無し三等兵 :2013/03/05(火) 10:48:14.58 ID:ZUCAQSSn
日清戦争の日本軍も食料を略奪しながら台湾や朝鮮で戦ったのだし、 明治時代に人権はない 19世紀の英軍も略奪のオンパレードだしな
841 :
名無し三等兵 :2013/03/05(火) 10:52:20.52 ID:ZUCAQSSn
現代でもアフリカの内戦は略奪と狩猟で食料を手に入れる それが後進国のリアルだ
>>836 東洋のプロシアは外国人が呼んだんじゃなかったかな?
伝習を担当したのは退役下士官なんだよね。
良く他兵科の事まで出来たよ。
全ての隊がプロシア式では無かったとは言え。
843 :
名無し三等兵 :2013/03/05(火) 11:46:38.87 ID:ZUCAQSSn
19世紀を語るさいに20世紀後半の平和論などを持ち出すのはおかしい。 19世紀は英国でも戦争をしなければ食えない 帝国主義の時代だからな
844 :
名無し三等兵 :2013/03/05(火) 11:54:47.65 ID:ZUCAQSSn
WW2の欧州戦線における米軍はパリを解放したあとは 補給が続かず、進撃が止まっている。 1940年代でもそんなもんだよ。 1950年の朝鮮戦争でも米軍は補給が続かず北朝鮮から 退却している。
ヴァレンシュタインは、略奪免除税を掛けてだぞ?
>>842 普墺戦争に下士官で参戦して大阪のレーマン・ハルトマン商会の倉庫番だった
カール・カッペン軍曹が伝習したと伝わってますね
同商会が津田出、陸奥宗光の注文で小銃数千丁の他に軍事教官を求められた時
推薦されたとか
他兵科は商会も色々サポートしたんじゃないですかね?ビジネスチャンスですし
>>845 んな基本的な事も知らないバカの相手をすんなよ
それも略奪にひっくるめてるんだろう?
略奪と現地調達の区別は付けた方がいいのでは
税金と安全保障は略奪や徴兵と同義じゃないの?
体面を取り繕うのって大事よ
そういうの日本国内では上手
こういうどこまで本気なのか分からん会話は反応に困る
854 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 11:02:54.84 ID:DlOkEurR
ヴァレンシュタインの略奪免除税は地域の食料、家畜、燃料、家具、衣服、銀貨、女などを 根こそぎ全て出せという話だし、それを出さなければ拷問処刑なんだから 略奪と同じである。 種もみまで税金として徴収された農村は餓死したんだしな。 さらにヴァレンシュタインの傭兵部隊は税金を徴収したうえでストレス解消のために 娯楽感覚で放火や虐殺をしている。 北斗の拳のモヒカンと同じだ
855 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 11:13:01.32 ID:DlOkEurR
ヴァレンシュタインらが略奪を繰り返した17世紀のヨーロッパは じつにお粗末であり、火縄銃を持った猿人といったとこで文明人とは呼べない。 はっきり言って17世紀の江戸時代のほうがはるかにマシである。 17世紀の日本には元禄文化が生まれ、からくり人形、歌舞伎、和算 などが発展したんだからね。 17世紀においては西洋より日本のほうが上だ
いいたいことはわかるが、 イタリアとかおフランスでは戦争はなかったし、それなりに文化が花開いていたろう?
857 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 11:24:09.34 ID:DlOkEurR
18世紀の西洋には産業革命が起きる。 しかし18世紀の西洋にはフランス革命という大破壊が起きたことを 忘れてはならない。 フランス革命はレイプ、虐殺、略奪、放火の連続であり、それに続くナポレオン戦争では ナポレオン軍がレイプ略奪をしながらヨーロッパを徘徊した。 18世紀においても総合的には西洋より、日本のほうが上である
858 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 11:30:25.97 ID:DlOkEurR
>>856 ルイ14世だけを見て、当時のフランスが先進国だったというのはおかしくないだろうか?
権力者の生活のみで文明レベルを判断できるだろうか?
たしかにベルサイユ宮殿には進んだところもあった。
しかし当時のパリの道路はトイレ、ゴミ捨て場、墓場を兼ねていたので
パリの道路は糞尿、生ごみ、腐乱死体で埋め尽くされ、パリの街は悪臭、伝染病、ハエ、カラス
が凄まじかったというぞ
日本だって文化が開いてたのは江戸や大阪・京都の一部都市住民の間だけなわけですがそれは・・・
860 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 11:39:35.99 ID:DlOkEurR
ただ、さすがに19世紀になると欧米のほうが日本より上だったと 認めざるを得ない。 19世紀の欧米は植民地から強奪した富とベンチャー精神が凄いからな。 だが西洋もそこまでだった。 20世紀の西洋は第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦による東西分割で 長い停滞期に入るし、2008年のリーマンショックでギリシャやスペインが財政破綻しそうになり、 ヨーロッパはまた停滞期に入っている
861 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 11:48:46.32 ID:DlOkEurR
大砲にしたって、そりゃ現代のハイテク大砲はすごい。 コンピューターが照準をして、初弾から命中するからね。 しかし19世紀の大砲は命中率がお粗末だよ。 それを物語るエピソードが西南戦争の熊本城攻防戦だ。 薩摩軍が熊本城に向けて撃った大砲はほとんど命中してない。
862 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 11:53:05.49 ID:DlOkEurR
西南戦争の時代の大砲は誘導ミサイルじゃないんだから、遠距離では まったく当たらない。 机上の空論と実戦は違うんだ。 薩摩軍が熊本城を落とすには夜間に熊本城に300メートルまで接近して 零距離で大砲を撃つべきだった。 確実に当てるなら100メートルの距離だ。
863 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 12:04:28.66 ID:DlOkEurR
>>859 江戸の町には東北の農村などから出稼ぎで来ている人も多かった。
今で言う期間工だね。
そうした出稼ぎ労働者が江戸の町の文化を故郷の農村に持ち帰って伝えたんだ。
また参勤交代や伊勢参り、富山の薬売り、海運業などによっても文化が伝わった。
864 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 12:12:05.96 ID:DlOkEurR
「武運なんて封建的で、まるで大日本帝国の発想でナンセンスだ」 と戦後的発想をする人は多いだろう。 しかし兵器、補給、医療など全てがお粗末だった19世紀後半の戦争では 武運は最重要である。
怪電波発信中につき注意せよ
866 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 12:21:27.34 ID:DlOkEurR
いわゆる戦後的人間というか、団塊の世代やバブル世代などの発想は いまでは時代錯誤になりつつある。 彼らは「1980年代で頭が止まった人間」だ。 団塊の世代やバブル世代は戦後の高度成長が生んだ一過性の人間に 終わる可能性が高い。 古代ローマの繁栄が地下に埋もれたようにだ。 無限の経済力があって、無限の補給ができるといった空理空論ではなく、 補給が乏しいなかで苦しい戦争を遂行する事態も想定しておくべきだ
867 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 12:28:36.28 ID:DlOkEurR
太平洋戦争の南方戦線から生還した人の手記を読むと、運しか生存条件が 無いようにしか思えない。 「運なんて非科学的だ」という戦後的意見も多いだろう。 しかし食料が草だけで、消毒や麻酔なしで手足を切断する軍医しかおらず、 さらにゲリラや米英軍に襲われるとなれば強運しか生き残る方法が無い 地獄とはそういうものだと思う
868 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 13:21:22.43 ID:DlOkEurR
19世紀後半に近い発想で軍隊を作っているのは北朝鮮だろう。 北朝鮮の発想や生活はいまから150年前のものだ。 ただ北朝鮮は1950年の朝鮮戦争でB-29の絨毯爆撃を受けた教訓から 全土に深い地下壕を掘っていると噂され、万が一、北朝鮮が地下壕を活かした モグラ戦術で米軍を打ち負かしたら、19世紀最強伝説が新たに生まれると思われる
なんでそれで米軍が打ち負かされるのよ。 それで引くぐらいならどんな手を使ってもその壕を残らず潰すだろう。 それで非戦闘員が何人死んでも、そういう手段をとった政権が悪い、で押し通すだろう。
870 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 13:54:47.79 ID:DlOkEurR
>>869 北朝鮮に無数にある地下壕を潰していく作業に時間とお金を食いまくり、
米国の財政がより悪化してギリシャのようになりかけて米国が手を引くというパターンだ。
米国は国家財政も悪いが、米国の州のなかにも破産寸前の州もある
871 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 14:02:01.42 ID:DlOkEurR
19世紀後半の戦争は現代では絶滅している騎兵も抜きには語れない。 騎兵は機動力を活かして有利なポイントを捉え、一気に突っ込む。 突撃用に品種改良された西洋馬は大型で人間を踏み潰しながら走れるし、 跳躍もでき、馬が死ぬまで敵陣で暴れるのだから当時の戦争スタイルにおいては 最強の陸戦兵器だった
いつにも増して今日は発狂っぷりが激しい
873 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 14:13:14.60 ID:DlOkEurR
補給に関して語れば古代ローマ帝国と中世のモンゴル帝国は補給に関して 特筆すべき能力を持っていた。 古代ローマが補給用に建設したローマ街道はいまでも使用されている。 中世のモンゴル軍は大量の家畜を運ぶことで最前線で毎日馬乳酒が飲め、 家畜の肉を食えるシステムを完備していた。
874 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 14:18:56.58 ID:DlOkEurR
またパプアニューギニアの先住民同士の伝統的な戦争もある意味では補給を重視している。 弓矢と槍で激しく殺しあっていても食事タイムになるとお互いがピタッと戦いを中止し、 ご飯を食べてからまた戦うというスポーツのタイム制のような現地の戦争法があるらしい。
875 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 14:35:34.66 ID:DlOkEurR
受験勉強程度の知識しかない人は「19世紀は産業革命と発明王エジソンの時代だから、 19世紀の戦争はさぞかし近代的だったに違いない」と思うのも無理はない。 しかし実際には19世紀の戦争は馬や銃剣での死を省みない突撃が多いのだ。 発明王エジソンはいても、まだまだ中世だった面は多い。
876 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 14:43:55.21 ID:DlOkEurR
「突撃なんて非人間的だ!平和こそが至高のものだ」 こうした戦後の平和運動的イデオロギーもいまでは疑問だ。 平和、繁栄、民主化、賃上げなどの結果で年間自殺3万人になったんだから。 「平和の恐ろしいツケ」を払うことになったのだ。 さらには平和イデオロギーはソ連がバラまいたプロパガンダでもある。
今日も病気の人が来てるのか 夜勤のオッサンかニートか知らんが自分のblogにでも書けばいいものを・・・ 歴史の真実を伝えたい? 2ちゃんに書き込んで啓蒙活動してるつもりとか酷使様レベルの頭だなぁ
サプライズ史観とでも言うのかな? 間違った歴史認識を押し付けられても困るのだが
879 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 15:24:58.12 ID:DlOkEurR
>>878 第一次大戦まで人命無視の突撃が行われたのは事実だ
戦争なんて、はなから人命無視だろうに。 有るのは肉屋の勘定書きだけ。
881 :
名無し三等兵 :2013/03/06(水) 15:34:15.27 ID:DlOkEurR
伊藤博文が戦後の憲法や民法を見たら「すぐ廃止しろ」と言うだろ。 19世紀後半当時は伊藤博文が総理だよ
見かけたらIDをNGに放り込めばOK しかし八重の桜スレの土鍋と言い各スレに一匹は電波が湧いてくるな
何処にでも涌くねぇ 本人は啓蒙してるつもりなんだろうけど ただの迷惑
だから何?程度の話だしね。
>>885 釣りか?
その写真は単に銃と銃剣を並べて置いてあるだけで、
実際に使うときは普通に銃口近くに装着するが
ありがとうございます ずっと勘違いしてました
幕府歩兵隊は外出時も銃剣を腰に差していたとか・・帯刀のつもりだったのかな?
かなりそうした意識はあったらしいよ
幕府歩兵には歩兵刀が支給されていたはず。 脇差しと同じか少し長い位のやつ。 それを差さずに敢えて銃剣だとしたら、フランス歩兵の外出着風を取り入れたのかも。 だとしたら個人の好みでは無く、上からの指示?
銃剣腰に差すときはさやがあるわけ?
当然あるよ。 Chassepot bayonet sheathでぐぐってみ。
893 :
名無し三等兵 :2013/03/07(木) 10:38:18.86 ID:3ZRxPiKS
>>883 俺が啓蒙しないと19世紀の戦争は射撃のみで白兵戦がなかったと
誤ったイメージが広がるからな
第一次世界大戦までは欧米の軍隊も銃剣やサーベルの論理が支配している
894 :
名無し三等兵 :2013/03/07(木) 10:44:23.12 ID:3ZRxPiKS
マキシム機関銃が普及するまでは突撃を火力で阻止するのは無理。 日清戦争の陸戦も突撃オンリーで日本が勝てたしな
平壌の戦いで牡丹台に陣取る清国軍のガトリング機関砲の前に苦戦する日本軍に 山砲を前進させて火力制圧させたのは立見尚文率いる朔寧支隊だったんですね 「射弾著々命中して毫も虚発なし」 『公刊戦史』 立見尚文は戊辰戦争時にも北越戦線でガトリング砲は見たかなw
この時代の歩兵砲兵の戦闘っていまいちイメージがわかない・・・特に普墺普仏戦争のあたり。 戦列歩兵の時代の戦闘はたくさん映画化されててなんとなくイメージがあるから理解できるんだけど。
897 :
名無し三等兵 :2013/03/07(木) 18:36:21.53 ID:3ZRxPiKS
>>895 そうした一部の事例で当時の大局を見誤ったらいかん。
第一次大戦までは欧米もきちがいのようにトーチカに突撃する。
対戦車砲で敵トーチカを制圧したなんて話にしても、敵機関銃弾の雨を
食らいながら、死んでも死んでも対戦車砲を押していくんだからハナから死ぬ覚悟だ。
日本にいたっては太平洋戦争でも突撃至上主義だ
898 :
名無し三等兵 :2013/03/07(木) 18:42:03.45 ID:3ZRxPiKS
>>896 普仏戦争のメインは騎兵突撃だ。
大砲撃ったらすぐ突撃。
そして歩兵は銃剣でひたすら突っ込めと命令される。
ナポレオン時代とほぼ同じだ
>>893 >俺が啓蒙しないと
そこまで堂々と「俺は馬鹿です」って宣言しなくてもいいから
啓蒙したいなら自分でブログでも立ちあげてそこでやってくんねーかなぁ… ここで電波撒き散らされても迷惑なんだよなぁ 2ちゃんにしか居場所のないアホだから軍事板で啓蒙とか言う発想になるんだろうけど
901 :
名無し三等兵 :2013/03/07(木) 18:46:43.20 ID:3ZRxPiKS
当時の歩兵が伏せなかったのは空中で榴散弾が破裂して 空からパチンコ玉をばら撒くからだ。 伏せると空中から飛んでくるパチンコ玉に当たる面積が大きくなる。 走るしかなかったわけよ
902 :
名無し三等兵 :2013/03/07(木) 18:54:44.27 ID:3ZRxPiKS
空から機銃掃射を食らうときに伏せたら死ぬ。 走って逃げるしかない。 榴散弾もそれと同じだ
日清戦争時の「歩兵操典」には 「歩兵戦闘ハ火力ヲ以テ決戦スルヲ常トス」 とありますね これってドイツの歩兵操典のコピ・・引き写しですけどね
頼むから榴散弾の構造ぐらい調べてくれよ・・・
突撃のみで戦闘が決するのなら会津藩の長槍隊は常勝不敗でしょうね〜 第2次長州征伐の彦根藩は幕軍最強の部隊だということになりますね
>>897 鳥羽伏見の戦いでも、踏みとどまる幕軍に対して、膠着状態になりかけた時、
薩長軍は突撃をかけて遮二無二突破するって事例が何度か起きてたけども、
それが成功したのは自動火器の普及前だったことや、指揮統制や士気の高さが大きかったのかな
大山厳なんかは砲兵を率いて幕軍と打ち合ったが射撃戦ではやや不利、しかも弾薬尽きる、
って状況で何を思ったか突撃かけてしかも成功・・・これはもう幕軍の方に問題あったとしか
野戦で榴散弾を使用する場合、敵部隊の前面で炸裂するように信管を切るから、 子弾は上ではなく前方から飛んでくるので、明らかに伏せた方が暴露面積は小さくなるんだけどな
>>896 原作となる作品があんまりないのも一因ですかね?
特にフランスは敗戦・パリコミューンは相当なトラウマでデカダン(退廃)な
風潮の一因にもなったと言われてますね
ルキーノ・ヴィスコンティのルートヴィヒ・神々の黄昏も
背景は普仏戦争があるんでしたね
バラクラバの戦いと、南北戦争ものくらいか >映像作品 本国に行けば、それなりに存在するのかな?
>>909 フランスでは忘れたい戦争ですし、ドイツではビスマルクの扱いが難しいのもあって
作品はあんまりないみたいですね
ナチスドイツ時代には国威発揚モノでなにかあるかな?
>>908 >>909 クリミア戦争の映画ならみたことあるね。騎兵突撃のシーンだったかな・・・
ビスマルクというかプロイセンの軍国主義は今のドイツではナチとはいかないまでもタブー視されてるそうだね。
>>911 クリミア戦争の騎兵突撃なら何回かリメイクされてる
The Charge of the Light Brigade
ですかね
>>911 >クリミア戦争
だからそれがバラクラバの戦い…
啓蒙といいながら、本人が絶望的な知識不足を晒しているのが何とも
>>903 日本陸軍も火力重視なんだよ。
ただ貧乏で供給が間に合わないから手の届く範囲の最善手で夜襲突撃に頼るしかかなかった。
歩兵火力か砲兵火力かという論争があったりはした
どなどなどーなーどなべー
>>915 ビンボもあるけど基本的に短期間で急拡大し過ぎなんだよ
支那事変から太平洋戦争集結まで、消耗しながら人員で10倍以上になってる
このレベルの大膨張に十分な装備を供給できるのはアメリカのみorz
貧乏貧乏言うが、それも支那事変からずっと凄まじい戦時費用が 投じられてたのを忘れてはならない 満州でも対ゲリラ戦やソ連に対しての警戒もあったし 意味の無い仮定だけども、それらの紛争がもっと緩和されてたら、 陸軍は機械化すらも進められてかもしれん
>>917 八重の桜スレの土鍋とこのスレの突撃電波は別人でね?
まあ「独自史観」を延々と語るのは同方向だけど
921 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 12:11:12.51 ID:3IQ3QdSa
>>907 それは至近距離の場合だ。
敵が遠い場合は敵の真上で爆発するように曳火砲撃する
922 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 12:17:12.00 ID:3IQ3QdSa
日本軍がマニュアルで火力を重視しても重い大砲の輸送が馬や人力だから 砲兵隊は歩兵部隊に遅れを取り、結果として火力不足でバンザイ突撃をしたことが多い。
923 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 12:20:17.94 ID:3IQ3QdSa
大砲をスムーズに運べなかった日本軍にぴったりの武器はバズーカだ。 運べない大砲より、運べるバズーカ。
>>921 榴散弾の構造を理解してる?
榴散弾は子弾が前方に飛んでいくから、敵の真上で炸裂させたら、
子弾の大部分は敵の後方に着弾することになり、全く意味がない
925 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 12:26:46.55 ID:3IQ3QdSa
日本軍の砲兵の話を読むと悪路で大砲を人力で運ぶのは地獄で、 ゆっくりしか運べないのでゲリラに襲われ、手持ちの食料が尽きて ガリガリの体で大砲を押しながら餓死した砲兵隊もあったとのこと
926 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 12:30:50.54 ID:3IQ3QdSa
>>924 核ミサイルみたいに放物線を描いて先端が下を向いて落ちていく
928 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 13:18:58.12 ID:3IQ3QdSa
榴散弾や榴弾は浅い塹壕では防げない。 浅い塹壕に潜っても空から降ってくる榴散弾のパチンコ弾で穴まみれになるか、榴弾が巻き上げる土砂で埋まるからね。 だから第一次大戦では浅い塹壕から歩兵が飛び出して突撃した面もある。 浅い塹壕内で死ぬより、まだバンザイ突撃に賭けたわけだ
そんなもの、掩蓋付ければ済む話だろ 事実、大抵の塹壕陣地は、屋根付きの退避所を設けて、敵の砲撃に対処してる
塹壕陣地がそんな簡単に撃破できたらWWIはもっと早く終わったと思うんですよはい
数少ない日本陸軍優良兵器・八七式重擲弾筒ディスってるのかw 試製7センチ噴進砲よかよっぽど役に立っているぞ
932 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 14:14:01.28 ID:3IQ3QdSa
>>930 WW1の塹壕陣地は横に長いうえに縦にも深い。
ようは塹壕陣地が巨大すぎて火砲だけでは殲滅できなかった
さらにWW1の中盤からは榴弾の直撃にも耐える地下壕が掘られた
やべえ、すげえバカだw
根本的な知識が足りてないのに自分は革新的な新説を訴えていると勘違いしてるからこの手の輩は始末におえないんだよ 勉強したての中学生じゃあるまいし 旧態依然な連中に俺様が啓蒙してやる!とかいう押し付けがましい思想は捨ててしまえ
935 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 15:06:05.49 ID:3IQ3QdSa
榴散弾が発射された後に放物線を描いて、先端から下向きに落ちていく ことが理解できない手合いには啓蒙は必要だ。 そんなことは陸上の槍投げでもわかる話だからな
936 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 15:10:08.50 ID:3IQ3QdSa
啓蒙が悪いとか言うやつにしても「押し付けはよくない」とか啓蒙 をしているわけよ。 IT革命やおたくが素晴らしいと言うやつも啓蒙だしな。
937 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 15:20:06.47 ID:3IQ3QdSa
いいかね。 火縄銃の製法だって南蛮人が種子島に啓蒙したから伝わった。 また学校、塾、親、絵本、テレビ、地域などの啓蒙がなければ 君たちは幼児のままで字も読めず、算数もできなかっただろう。
>>936 啓蒙が悪いとは言っていない
おまえには他人を啓蒙するだけの知識も能力もないと言っている
全然蒙が啓かれないからなw
940 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 15:23:29.39 ID:3IQ3QdSa
>>938 悪いがある。
あるからこそ君は腹が立つのだ
啓蒙が悪いなんて誰も書いてないだろ 啓蒙と称して、嘘だらけの妄想を垂れ流すのが問題なんだよ
>>935 >>927 の図ぐらい見ろよ
榴散弾による危険区域が、炸裂地点の真下ではなく、その前方になるのが理解できない?
妄想垂れ流すだけなら自分のブログでも作ってやればいいのに 啓蒙する知識と知能があると自負する割に、軍事板で自説開陳する不毛さには気づかないようだ
944 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 15:35:07.04 ID:3IQ3QdSa
>>942 先端から砲弾は落ちるのだから、ほぼ真上で炸裂だ。
>>940 以前に史実云々と書いていたけど、どんな資料本読んでるの?
>>944 なにその沈設w
何かソースあるんですか?それとも今こしらえたんですか?
948 :
名無し三等兵 :2013/03/08(金) 15:40:31.29 ID:3IQ3QdSa
>>947 君は先端ではなく、お尻から落ちると思うのか
>>948 思うのか?ってどういうことですか?あなたはそう思ったから書いたんですか?小学生ですか?
それで啓蒙ですか?かっこいいですねw
小文字以上某研未満啓蒙君とでも命名するか
とりあえず放物線を書いてみようか
たぶん空飛ぶ散弾銃みたいなのが、弾道飛行で敵上空に到達すると、筒先を真下に向けて発砲すると考えたのでは?
>>953 この板で言うとイリノイとかみたいに論破とか説得なんてのは出来ない相手だと思うが
構うだけ無駄
番号が嫌に飛ぶなと思ってたら来てるのかw
そりゃ直撃なり近距離で炸裂すれば頑丈に築造してない塹壕などは破壊されるだろう ただそれを実現するためにどれだけの砲弾を費やさねばならないのか、 そもそもそれで破壊できるのは味方から見える敵第一線部分くらいしかまず期待出来ない 相手だって対砲兵射撃もしてくるだろうし、射界外からの敵予備隊の反撃etc・・・ 単一の兵器だけで戦局をどうにかするほどの影響は与えられない
種子島伝来を啓蒙とかw 帝国主義や竹島占拠も被害国への啓蒙とか言いそうだな
これって朝鮮学校の歴史の授業の受け売りなんだよね
>>906 今更だが、逆に失敗例見ると突撃が成功する要因が見えるんじゃない
突撃を阻止した場合の例だと
1.砲含めた弾幕で粉砕(伏見奉行所)
2.戦術的な撤退も含めた突撃のスカし(伏見の新撰組)
3.奇襲部隊が潜んでそうな場所の掃討(千両松)
4.突撃に弱い砲兵隊などへの護衛(富ノ森)
1番は当時の銃砲のことだから、弾幕が途切れるタイミングを指揮官が見極められるかも鍵だろう
そこで成功しても敵が場慣れしてて、2番の様な的確な対応をしてくるなら失敗するかもしれない
軍事用語でいう「突撃」とはいったいどんな行為をさすのか教えてちょーだい。
>>962 兵は、我が白兵の優越を信じ勇奮身を挺して突入し敵を圧倒殲滅すべし。
だいたいこんな感じ
敵拠点や支配域に接近・侵入し、そこから敵軍を駆逐する目的で行われる攻撃じゃないかな
965 :
962 :2013/03/10(日) 10:01:07.09 ID:???
966 :
名無し三等兵 :2013/03/10(日) 16:08:27.62 ID:8zHbdiBQ
>>953 最大俯角は発射の反動で砲が跳ね上がるからスペックより大きいぞ。
榴弾は放物線を描いて、弾の先端の信管から着弾するから爆発する。
榴散弾も至近距離で使用するならともかく、遠くに飛ばすなら弾の先端から
落ちていくのだから、そこで起爆するように調節しておく
967 :
名無し三等兵 :2013/03/10(日) 16:14:12.45 ID:8zHbdiBQ
>>958 第一次大戦の塹壕線は地中海から北海まで延長され、長すぎるので
そのすべてを砲撃するだけの大砲の数が両軍ともに無かった
戦場の面積によっても話は変わるよな
いくらなんでもネタなので書いてるんだよな
砲弾を真上に撃ってると仮定すれば不思議でもない
>>972 古代ギリシアのそれと日本のそれは無関係だろ
たまたま共通点があっただけのものを、影響下にあったかのように言うのは感心できないな
たまたまっていうか、武器を無くしても自らの肉体を使って戦えって、 古今東西、たいていの軍隊で兵士の心得として教えてるんじゃなかろうか
>>973 そうは書いてない。どこのお家芸でもないってこった。
war to the knife = 死闘 という英語の成語もあるしね。
977 :
名無し三等兵 :2013/03/12(火) 13:05:09.26 ID:B13fN9hO
1884年に埼玉で起きた秩父事件も内戦なんだが、反乱側に軍事的才能が欠如していた。 埼玉から夜間に歩いて東京に入れたのに埼玉にとどまって包囲されて負けている。 当時の東京は木造長屋が密集しており、放火すれば東京大空襲と同じ被害を生めたのだから 戦略放火をしていれば秩父困民党は勝てた。
978 :
名無し三等兵 :2013/03/12(火) 13:11:32.93 ID:B13fN9hO
戦後の学生運動では学生側にまるで根性がなかった。 ガリ勉しか取り柄がない東大や早稲田の学生は警官に殴られたら泣いて逃げたのだ。 それは近代戦ではなく、類人猿のレベルの戦いだった。 腑抜けだった学生運動はかりに機関銃や大砲があっても自衛隊に負けただろう。 弱兵だからだ。
運動と近代戦を同一視する土鍋mk.2スレと聞いて飛ん(ry
980 :
名無し三等兵 :2013/03/12(火) 13:17:15.84 ID:B13fN9hO
自動小銃は安く大量生産された銃なので壊れやすい。 プラスチック製はすぐ折れるという声もある。 ようは使い捨てなのだ。 そして銃が壊れたら兵士は石やナイフで戦うしかない
981 :
名無し三等兵 :2013/03/12(火) 13:23:35.57 ID:B13fN9hO
「兵器さえあれば勝てる」 こう単細胞な発想をする者は多い。 しかしアラブなどがオイルマネーで最新型の兵器を大量購入しても整備が できないから稼働率がゼロに近い。 イラクのサダムフセインも大量の兵器を購入していたが、整備という概念すらない国 だけに錆びて動かなくなっていた。
982 :
名無し三等兵 :2013/03/12(火) 13:33:40.76 ID:B13fN9hO
>>979 学生運動側は「俺たちはベトナム戦争と同じ戦争をしている」と豪語していた。
もし学生運動が拡大したら内戦になっていただろう。
しかし東大や早稲田はガリ勉で弱いので、警官が殴るとメガネの東大生は「暴力はやめてください、ごめんなさい」
と泣いて土下座していた。
あまりに弱すぎて戦争になりえなかったんだ
>>977 政権は一揆が川越地方に波及し、そこから東京に及ぶことを恐れていたが、
秩父困民党の目標は浦和の県庁まで行進してそこでモラトリアムや義務教育の延期などを
直訴し、その途中で悪徳高利貸しを懲らしめることだった。
土台高利貸しの家から集めた刀剣や火縄銃では鎮台兵に勝ち様がなかった。
猟師は皆官憲の側についたし。
もうスレの終わりなんだから連投は自制してくれよ。
984 :
名無し三等兵 :2013/03/12(火) 13:40:27.55 ID:B13fN9hO
戦争には心理的側面もある。 核兵器などは心理面に訴える抑止兵器の面も大きいし、19世紀の歩兵が 派手な服装を着ていたのは相手に威圧感を与えるためだ。 過去の学生運動にはこの心理戦の面もある。 警察は拳で学生側を叩きのめすだけではなく、東大や早稲田の学生に対し 「てめーはもう就職できねーぜ」と心理的ゆさぶりをかけた。 一種の心理的兵糧攻めである。
985 :
名無し三等兵 :2013/03/12(火) 13:46:14.98 ID:B13fN9hO
>>983 野戦で勝ち目が無いならば、東京に入り込んで市街戦に持ち込むなどの
戦術が必要だっただろう。
秩父困民軍が東京の街で玉砕しても、東京を集団放火で焼け野原にできれば明治政府は財政破綻した。
だからそういう予定はなかった。政権を倒すつもりも毛頭なかった。 秩父困民党は悪徳高利貸しを懲らしめるのにも、 一軒家の場合のみ放火し、延焼のおそれある場合は打ち壊した。 無辜の市民を大勢焼け出すような真似はできてもしなかったろうよ。 理屈コイてんじゃない馬鹿野郎。
当時の消防組織は内務省管轄で国産蒸気ポンプなんかも装備していて 消防士の専門化が進むことになるのですね 日本人の知恵と努力を「集団放火」みたいな安っぽな手段でどうこうという発想は どちらのお国の方ですかねw
989 :
名無し三等兵 :2013/03/12(火) 14:44:48.00 ID:B13fN9hO
>>986 では秩父困民軍はさいしょから負けるつもりで蜂起したのか?
仮に明治政府に勝つ方法があるとしたら、B-29の空襲を先取りして東京に集団放火をして
焦土にするしかなかったはずだ
秩父事件での蜂起は自力救済運動 悲惨な末路を辿った主原因は従来の一揆ならその地域内だけで解決すべきもの、 とされてきたのが当時は中央集権化が進み、弾圧に中央政府の軍事力が使用される時代に変化してたこと またあの時期は民権運動があったが、民権運動には豪農等、地方の有力者も多く加わり、 貧しい農民の抱える負債問題では連携しにくい面もあった 豪農や地主層は自分の地域での貧農の問題には協力的でも他地域の問題に対してはそうではなく、 そのため秩父事件は広範囲に広がらなかった
>>986 他の一般家屋に延焼する恐れのある場合は打ち壊しにとどめたのは
秩父事件が江戸時代の一揆や打ち壊しの様式を継統しているのが伺えますね
当時の通信・交通事情がどーたらと御託を並べている御仁は日本の歴史や社会に
ひどく疎いようですねw
だって社会主義史観を変形させた主体思想もどきの朝鮮学校教育が 土鍋もどきの頭の根底にあるんだもん members.jcom.home.ne.jp/invader/scene/index.html このサイトに書かれてるグロ系歴史観に、土鍋の主張がそっくりなんだよな こいつが訪問客が減って焦ってんじゃねえかなあ?と思ったこともある
やがて日本は日清戦争に突入 さらに日露戦争への道を歩いて行く そのような歳月の中で幾度か、銑次の姿を見たという人があった たとえば、栃木県足尾銅山鉱毒事件の弾圧の最中で たとえば、北海道幌内炭鉱暴動弾圧の最中で 激しく抵抗する銑次を見たという人がいた そして、噂の銑次はいつも戦い抗う銑次であった
995 :
名無し三等兵 :2013/03/13(水) 10:16:06.15 ID:PTMKVjCf
>>990 1918年の米騒動はすぐ全国に波及している。(電話がまだ普及してない時代だよ)
当時の日本は現在の北朝鮮より生活レベルが低いので、東京大阪でもすぐ大暴動が起きる。
ほぼ全員が暴徒予備軍であり、すぐ暴れて放火する。(当時の民衆は字も読めない)
暴徒の数が多けりゃ、スナイドル銃で鎮圧するのは財政面や補給面から無理である。(村田銃でも無理だろう)
大阪、名古屋、東京をすぐ焼け野原にできる火薬庫のような社会環境があったのに、それを活かせなかった
秩父困民軍はナポレオンやホーチーミンの足元にも及ばない。
996 :
名無し三等兵 :2013/03/13(水) 10:22:27.98 ID:PTMKVjCf
戦後に生まれた保守的なサラリーマンなど明治時代には存在しない。 明治期の日本の民衆は農奴やルンペン炭鉱夫であり、いまのジンバブエと同じなんだよ。 怒り狂う類人猿のようなものだ。 また監視カメラなども無い時代だから、武器庫を襲撃して銃や大砲を奪うのも 容易だっただろう
997 :
名無し三等兵 :2013/03/13(水) 10:25:53.29 ID:PTMKVjCf
まあ日本の左翼や反体制には才能があるやつが皆無だったからこそ、 戦後の繁栄があるんだけどね
お前の知ったかにはもう沢山だ。
こんなのの妄想に付き合うぐらいなら次スレはなしの方向で
ジンバブエとソマリアの区別も付かないとかw
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