1 :
名無し三等兵 :
2012/11/23(金) 20:45:34.48 ID:???
2 :
名無し三等兵 :2012/11/23(金) 20:47:42.22 ID:???
I am Gunnery Sergeant Hartman, your Senior Get
>>2 Instructor.
From now on, you will speak only when spoken to, and the first and last
words out of your filthy sewers will be "Sir!"
Do you maggots understand that?
>>1 Bullshit! I can't hear you. Sound off like you got a pair.
>>3 You are nothing but unorganized grabasstic pieces of amphibian shit!
>>4 I'll P.T. you until your assholes are sucking buttermilk.
>>5 You had best unfuck yourself or I will unscrew your head and shit down your neck!
>>6 Holy dogshit! Gunma! Only steers and queers come from Gunma!
>>7 You're so ugly you could be a modern art masterpiece!
>>8 I'm gonna rip your balls off so you cannot contaminate the rest of the world!
>>9 You goddam communist heathen, I'm gonna stomp your guts out!
>>10 Hell, I like you. You can come over to my house and fuck my sister.
3 :
名無し三等兵 :2012/11/23(金) 20:49:05.49 ID:???
4 :
名無し三等兵 :2012/11/23(金) 20:56:34.54 ID:???
元寇を 「日本側の勝利」とみなすか もしくは「敵が単に諦めて、結果として日本が救われた」かって みなすかで論戦になるのを「観戦」しに来ました(´・ω・‘)
5 :
名無し三等兵 :2012/11/23(金) 22:16:55.47 ID:???
二度に渡る元朝の征伐によって、兵数十萬と糜餉十万を失い、鎌倉幕府に勝算はなかったが、暴風雨の襲来により戦禍を終息へ向かった。 ・日本人は頭上に降り注ぐ元軍の矢の威力に対抗できず、ついに征服された ・元軍は極めて計画的に行動し、てつはうに加え、弓の威力をもって散々に襲撃したので、武士は戦場を放棄し、足を翼のようにして先を争って遁走した。 武士の弓には威力がなく、特に射程は短く、たいして役立たない。 第一次征伐は退けたものの、自尊心だけ高い武士は恩賞を要求し、高麗侵略を計ったが頓挫した。
6 :
名無し三等兵 :2012/11/23(金) 22:19:12.71 ID:7Y7153wp
元の使者を殺害したから元は出兵した。って半藤という日本の学者も言ってた
7 :
名無し三等兵 :2012/11/23(金) 22:30:03.30 ID:???
こんな低レベルの釣りから新スレは始まるのか?
8 :
名無し三等兵 :2012/11/23(金) 22:32:21.53 ID:???
明征伐時の明側が勝算無かったって話の改変か
9 :
名無し三等兵 :2012/11/23(金) 23:21:31.55 ID:???
1268年1月 元側第一次使節、大宰府に到着 同年8月に帰国、10月に元朝に報告 蒙古國牒状 「古より小国の君は隣国であり〜(略) 朕が即位したことを日本は未だ知らないゆえに使節を送る。願わくはこれ以降、通交と親睦を深めたい」 ⌒|/⌒ヽ、_ノ⌒ヽ、_ノ⌒ヽ、_ノ⌒ ヽ ____ / |::⌒\ / _ノ|::(●)\ 表 / o゚⌒ |ヽ__)⌒::::\ 裏 |::. (__ノ|r-|:::::::::::::::::::| \::. ´ |ー´::::::::::::::/ フビライ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄\ 高麗史 1268年 5月29日条 「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。 爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、 爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、 米三、四千石を載すべきを造れ」
10 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 01:19:00.68 ID:???
「古より小国の君は隣国であり〜」なんていきなり上から目線のモンゴル帝国なんて相手にしなくて正解。 この書が友好の書とか言ってる日本の歴史学者はもっと逝ってよし。
11 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 03:13:35.26 ID:???
元はただ貿易がしたかっただけなのに(ryって頭膿んでるとしか思えん
12 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 08:37:35.56 ID:???
13 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 08:46:10.48 ID:???
俺がわかる範囲の元ネタ 『明史』朝鮮伝「七年にわたる朝鮮の倭乱によって、兵数十万と糜餉(戦費)数百万を失い、中国と属国(朝鮮)に勝算はなかったが、 関白(秀吉)の死により戦禍は終息に向かった。」 ルイス・フロイス『日本史』「 日本軍は極めて計画的に行動し、鉄砲に加え、 太刀の威力をもって散々に襲撃したので、 朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼のようにして先を争って遁走した。」 同「朝鮮人は頭上に振りかざされる日本人の太刀の威力に対抗できず、ついに征服された。 」 同「(朝鮮の刀は)短く、たいして役に立たない」 後はわからん。
14 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 11:19:58.38 ID:???
ふええ〜、キョンくんあたし、蒙古に帰れなくなりました〜 えっと、数万でいつも敵国を侵略したり、征服したりしてるんですけど…。 一年くらい返書がないなあ、おかしいなあって思っていたの。 そしたら全滅。あたし、すごくびっくりしてあわてて十数万送ったんだけど、全然全滅で、あたしどうしたら…泣
15 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 14:36:12.77 ID:???
いや、別に「東京裁判」じゃ無いんだから 開戦までの経緯はどうでもいいだろう・・・ 学校で教わった時は、「台風のおかげで云々」だったし まぐれ勝ちってイメージに、抗議したいんだろう、一家言ある人は。
16 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 14:42:29.46 ID:???
>>4 「敵が単に諦めた」状況自体、日本の勝利としか言いようがないんだが・・・
17 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 15:47:31.31 ID:???
モンゴルに勝ったとは言ってもベトナム、マムルーク、マジャパヒトに派遣された 軍勢など弘安の役に比べれば比較にもならないんだな。 弘安の役の勝利の価値は、他の地域での勝利より圧倒的に価値が高いと思うんだ。
18 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 17:12:40.11 ID:???
>>16 完全勝利で鎌倉幕府さん偉い
北条時宗さんカッケーでOK?
19 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 17:23:28.76 ID:???
実際、鎌倉幕府の対応でミスがあるとすれば、何だろう?
20 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 18:18:23.38 ID:???
高麗からの使者の首を刎ねたこと?
21 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 18:27:06.36 ID:???
>>20 モンゴルの方から攻めて来たんだから、使者の首を刎ねたって問題無いだろ。
むしろ当然の処置。
22 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 18:31:54.82 ID:???
>>18 OK !
>>19 あえて言えば壱岐・対馬の犠牲を防げなかった事くらいかねえ。
だが離島である以上、対処法は殆ど無いに等しい。
23 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 18:32:17.44 ID:???
鎌倉幕府のミスは元寇の記録を編纂しなかったことだな。 おかげで八幡愚童訓みたいな俗書が猛威を奮うことに。
24 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 19:03:14.03 ID:???
>>21 一回戦が終って、和平のために来たんじゃないの?
首を刎ねたヤツってフビライの部下で激怒したとか聞くが・・・
刎ねた方が得な理由が、当時の日本にはあったのか?
25 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 19:20:46.43 ID:???
>>24 文永後はスパイとして帰ってこなくて当然だし
そんな使者に地位のある奴送ってくるほうがどうかしてる
26 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 19:21:25.26 ID:???
>>24 日本側が戦争仕掛けた訳じゃなく、モンゴルが勝手に攻めて来たんだよ。
和平がいいならモンゴルが攻めて来なけれはいいだけの話。
それにモンゴルの使者は相手国の情報収集や内部工作の任務も帯びてるから、
できれば生きて帰さない方がいい。
文永の役前なら鎌倉幕府も外国使節だということで一応それなりの対応したけど、
戦争勃発しちまえば話は別だ。
27 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 19:44:49.23 ID:???
>>23 だって「九州御家人大活躍で元軍を撃破しました」じゃあ恩賞が大変
28 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 20:01:22.60 ID:???
スパイだから処刑したのか・・・ ただ、斬首する事に正当な理由があっても 北条時宗って外交はどうなの? 一応、相手は元だし もう一度攻められても勝てるって確信でもあったのかな
29 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 20:50:08.89 ID:???
>>25 これについては、交戦中であっても軍使を斬るのは
鎌倉武士的にいかがなものなのだろうか?
30 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 22:40:56.92 ID:???
モンゴルからの使者を斬るっのて当時の世界では普通だぞ。 マムルーク朝だってモンゴルからの使者は処刑してカイロの門に晒し首にしてる。 大理国、パガン朝、占城、ジャワもモンゴルからの使者は処刑。 侵略国とは交渉しないってのが外交の常識だろ。
31 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 22:46:57.79 ID:???
>>29 先に攻めてきた相手の使節団を斬首にする事でそれを返答としてる訳でしょ
別に問題無い
32 :
名無し三等兵 :2012/11/24(土) 22:51:08.22 ID:???
>>25 文永前でも大宰府周辺の地形を諜報してたって報告もあったって話みたいだしねぇ
そりゃ開戦した後じゃまともに扱われんわな
33 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 02:55:24.74 ID:???
>>29 って中国とかヨーロッパの史書読んだことないのか?
使者は交渉決裂したら殺されることも込み込みでの任務なのは古今東西の常識だが
たまに寛大な、あるいは国内情勢をスパイされても大丈夫なくらい余裕な国が生かして返書持たせて返すことがあっても
任務失敗の責を問われたり敵への内通や寝返りを疑われて派遣元の国で殺されることも稀じゃないし
34 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 15:18:34.90 ID:???
う〜ん、軍事力は蒙古のほうが上だったんでしょ? だったら、外国の例はともかく 弱い日本としては、たとえ屈辱的でも攻めてこないように 使者を通じてフビライと交渉する必要があったんじゃ・・・
35 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 15:22:41.34 ID:???
軍事力が上だったら日本を征服できてるでしょ…
36 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 15:29:11.38 ID:???
>>34 モンゴル帝国ってのは交渉して何かを得られる国じゃないし。
武力で威嚇してくる相手に妥協したら、脅しに屈したと見なされて付け込まれるだけ。
鎌倉幕府は文永の役の後、日本の方から朝鮮半島へ攻め込もうと思ってたくらいだし、旧南宋軍が蒙古に
加わっても問題ないと認識してたんだろ。
つまり、文永の役で実際に戦った結果、軍事力は蒙古より日本の方が上だと確信持てたってこと。
37 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 15:35:11.24 ID:???
>>36 モンゴル人もやはり「中華思想」で交渉する相手ではないのか・・・
なんで、アジアには厄介な連中ばっかりなんだw
38 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 16:58:04.34 ID:???
建治の元使に間諜の容疑がかかったと言う説は素直に受け取れないな。 杜世忠一行が文永の役について深刻な認識ギャップを持ち、時宗を激怒させて間諜とされたと言うほうがしっくりくる。 杜世忠の辞世は明らかに任務の危険性に対して甘い認識しか持ってないし、 幕府側も交戦状態と言う認識があるならわざわざ鎌倉まで連行して吟味する必要はない。 あるいは、対安達泰盛がらみでの政争の煽りを食ったか。
39 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 17:00:31.87 ID:???
>>37 中華思想と言うより、蒙古帝国の乱雑な外交だな。
同じ異民族帝国でも清は江戸幕府に対してわりと慎重。
40 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 17:09:51.70 ID:???
41 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 17:19:35.05 ID:???
>>39 つまり騎馬民族は基本、お馬さんでパカパカするしかない蒙の人ってことだね
42 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 17:32:41.02 ID:???
>>38 日本側がモンゴルからの使者は間諜って認識してたことは史料に残されてる
「願るに蒙古は戎狄にして華に莅み小国をもって我を視る。乃ち趙良弼を使わし我を「言朮」うに好語もてす。
初めその我が国を覘うを知らざるなり。既に而して船数千を発し我を襲う。」
『続文献通考』巻二百三十四・四裔考・日本条
43 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 17:39:51.73 ID:???
でも、わざわざ鎌倉まで連れてきてか… 途中で何があったんだと思っちゃうな。
44 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 17:46:25.55 ID:???
>>43 そりゃ日本側にとってもモンゴルの内部事情を知るための重要な情報源だし。
鎌倉で直接尋問したいと思うだろ。
45 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 18:27:54.94 ID:???
話ズレますけど、杜世忠はなんで護衛兵を連れて来なかったんですかね? 100人くらい連れてきたら、簡単には処刑されなかったと思うんですけど。 クビライは趙良弼には護衛兵3千をつけようと言ったみたいですけど。
46 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 18:33:57.69 ID:???
>>45 そんなの連れてきたら、普通に敵対行為として殺されると判断したんじゃ?
3000連れてきたって無意味。相手は4万を一日で蹴散らした国なんだから。
47 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 19:13:02.51 ID:???
身に寸鉄を帯びずに来たのは、あくまで交渉のためをアピールする為か。 そういえば、フビライにあった日本人がいるそうだが 彼らから鎌倉幕府は情報を得ようとしたのだろうか?
48 :
名無し三等兵 :2012/11/25(日) 21:38:45.90 ID:???
鎌倉幕府の情報収集能力は凄かったよ。 元の首都に使節団を送ってるし、江南にはスパイがいたし、高麗内にも内通者がいた。 だから、文永の役前には高麗の金州にモンゴル軍が駐屯してること把握してたし、 弘安の役の一年前に日本侵攻察知して警報発してた。
49 :
名無し三等兵 :2012/11/26(月) 15:43:22.32 ID:???
鎌倉まで連行して、途中で間諜的行為がないほうが不思議だな。 と言うより外交と諜報・情報収集の区別なんてつけようがないんだから。 鎌倉に来てから、何か時宗を激怒させる行為があったとしか思えない。
50 :
名無し三等兵 :2012/11/26(月) 17:55:32.74 ID:???
>>49 鎌倉年代記裏書は処刑の理由について、「永く窺覦を絶ち、攻むべからざるの策」としてる。
つまり、杜世忠らに激怒したわけじゃなく国の安全のため仕方なく処刑するしかなかったってこと。
杜世忠らの運命は日本に来た時から決まってたんだよ。
51 :
名無し三等兵 :2012/11/26(月) 17:56:56.23 ID:???
杜世忠が諜報活動したから処刑されたわけではなくて 文永の役以前の趙良弼が諜報活動していたこと、それらの情報をもとに 元が攻めてきた(文永の役)から、処刑されたってことでしょ。 杜世忠が来る前には、元の使節団の処分法が決まってなかったからひとまず 鎌倉に連行してきたんじゃないかな。尋問したいこともあったろうし。 その後は、使節団は処刑するという方針が決定したから、後から来た周福一行は 博多にて処刑。
52 :
名無し三等兵 :2012/11/26(月) 18:31:52.18 ID:???
フビライは遠征軍の壊滅をちゃんと認識してたのか?
53 :
名無し三等兵 :2012/11/26(月) 21:02:03.41 ID:???
文永の役は、恫喝の為の威力偵察ってWIKIにあったような・・・ 二回目は恥をかかされたから、あらかじめ杜世忠というスパイを送り込んで 攻め込もうって算段? フビライ
54 :
名無し三等兵 :2012/11/26(月) 21:22:10.06 ID:???
>>53 貴方に言うのは筋違いなのだろうが…恫喝なのか威力偵察なのかはっきりして欲しいな
55 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 00:37:30.60 ID:???
>>53 軍板で「威力偵察説」ってのは徹底的に馬鹿にされるからね。
そもそも威力偵察の何たるかが解っていない。
まあ結果的に壮大な威力偵察にしかならなかったとは言えるかもしれないが、最初から威力偵察
の目的であんな大軍を送り込んでくることなどありえない。
56 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 00:56:03.50 ID:???
征服目的だと大失敗だから、威力偵察ってのは結果的に見れば、元軍の成果としては 正しいかも。本来の目的ではなく、副産物として。 元軍はあまりの武士の強さに「兵が少ない」と判断して夜陰に紛れて遁走した結果、 弘安の役で数倍規模の軍勢が動員されたわけだし。 まあ、威力偵察というよりは敗戦の教訓?ってのが正しいのだろうが。
57 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 01:24:35.77 ID:???
モンゴル軍が万単位の兵力投入して相手国の首都に到達できないまま撃退された例って ほとんどないよね。 ジャワやベトナムだって首都占領までは行ってるわけで。
58 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 05:32:09.35 ID:???
話はそれるが何で日本は長弓に拘ったんだろうね 恐らくポリネシア系の弓だから縄文時代から使ってたんだろうが モンゴル軍が短弓を持ち込んで実際に戦ってるがその後も影響が見られない 騎射用の弓であそこまで巨大なのは他に無いんじゃなかろうか
59 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 05:59:56.10 ID:???
>>58 わざわざ自分たちより劣る軍の武器を取り入れようとは思わないだろ
60 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 07:37:33.01 ID:???
技術が無かっただけだろww
61 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 07:58:41.64 ID:???
「南蛮には虫を従へ、西羌には羊を従へ、北狄には犬を従へたり。 東方は君子国なりとて獣を従へず。 其上天竺・震旦・日域の中には、日本人心もたけく、弓の力餘国にすぐれたり。 故に夷の字をば名づけたる也。 夷は弓の字に大の字書入たる形なり。 されば夷の字は本朝の弓箭に携る人の眉目なるべし。」 『説字解字』東夷
62 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 08:15:02.56 ID:???
長弓が造れて短弓造れないわけがないだろう。 単に短弓では威力が弱くて、大鎧を射抜けないから採用されてないだけ。 短弓はモンゴルの皮鎧には有効だが、大鎧のような重厚な鎧には効果が薄い。
63 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 11:33:04.40 ID:???
半弓じゃ長くて重く、殺傷力の高い日本式の矢を飛ばすことができないからね
64 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 11:47:24.16 ID:???
そういうのって、実際に実験されてるの?
65 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 12:11:51.32 ID:???
>>58 蒙古の武器や防具で何か日本の装備に影響を及ぼしたものがあるの?
66 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 12:59:57.67 ID:???
>>64 単純に和弓の方がデカいのでその分矢も長く、蒙古式の半弓じゃ長さ的に日本の矢を射ることはできない
で、矢が長いというのはその分重量もあって当たったときの殺傷力、ストッピングパワーも大きい
射程についてはよく知らんが、少なくとも威力は和弓の方が上だと思うよ
67 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 13:03:56.76 ID:???
それぐらい実験すりゃいいのに
68 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 13:18:00.94 ID:???
石築地は海岸から50メートルほどのところに築かれたと聞いたことがある。 それが当時の弓の射程距離だったのだと。
69 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 13:28:23.87 ID:???
>>68 その説もよく考えると微妙だよなぁ。
正直上陸用の小舟の上にいる方が密集していて狙いやすいと思う。
相手が防御用に盾を振りかざしても小舟のうえじゃあバランス崩しやすいし、
漕ぎ手なんか狙われやすそうだし。
70 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 13:34:44.80 ID:???
まあ現代の戦闘でも、敵揚陸艦艇は上陸以前に海上で叩くのが鉄則だしな
71 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 14:02:00.98 ID:???
威力を増そうとすれば、射程が犠牲になり 射程を延ばそうとすれば、威力が犠牲になる。 日本側が日頃、大鎧を想定した重い矢を使用していたろうから、 元軍の方が射程は長かったかもしれないが、接近戦での 矢戦では元軍は歯が立たなかったのではないかな。 それでも、射程を日本側が重視したら、日本側も元軍と同じく 合成弓であり、さらに長弓である以上、普通に元軍の弓よりは 飛ばせたと思う。
72 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 16:13:07.18 ID:???
大鎧のような高い防御性の下ではかなり近矢でなくてはならない。 それより長大な日本弓を馬上に持ち込んだ場合、速射性がどの程度違ったのかに関心があるよ 携帯する矢の総量が決まっているし、我々が想像するよりはるかに遅いペースだったのだろうけど、 早打ちで次から次へと射ることもできることはできる。
73 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 19:16:05.38 ID:???
長弓の利点は、同じ張力なら長い方がてこの原理で引きやすいこと。 長い矢を使うと、手が弦を放れてから矢が弦を離れるまでの加速区間が伸びるので 同じ張力でも矢の初速が上がること。 欠点は既出のように取り回しが悪いこと。 これを踏まえて解説するとまず、倭人の技術では必要な張力の半弓を作れなかった。 ならば大韓から弓を輸入すれば良かろうと思う向きもあろうが、上の物理的な解説を見直されたい。 貧弱な倭人には、張力が強くて短い弓は引けないのだ。「人間に致命傷を与える威力」と「倭人でも引ける」を 両立するには、極端な長弓以外の選択肢は無い。 そしてこのような長弓で、世界標準の「弓の真ん中を持つ」保持法を取ると、体格矮小な倭人では弓の下端が 地面につっかえてしまう。この問題を解決するため上下非対称という倭弓特有の形態が生まれた。
74 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 19:17:25.84 ID:???
>>65 鎌倉時代末期の太刀が、それ以前より重ね薄く切っ先大きくなったのは
元寇の戦訓を取り入れた物だとも言うが、確定ではない。
75 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 19:48:10.42 ID:???
双方とも弓を主力武器とするモンゴル軍と鎌倉武士が戦い、モンゴル軍は鎌倉武士に 全く歯が立たないまま完敗した。 どちらの弓が優れてたかなんて議論するまでもないこと。 中世日本は弓や刀などの武器輸出国だしな。
76 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 20:03:01.17 ID:???
モンゴルの弓は湿気に非常に弱いので、特に弘安の役では 大幅な威力低下があったと思われる。
77 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 20:47:17.81 ID:???
ベトナム、ジャワで負けた理由はそれか!
78 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 21:06:20.92 ID:???
ベトナム、ジャワは戦闘だと普通にモンゴル軍が勝ってるじゃん。
79 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 22:22:23.39 ID:???
モンゴル兵の捕虜全員の首を斬ったそうだけど 山田浅右衛門みたいな人が幕府の役人にいたの?
80 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 22:25:32.71 ID:???
湿ると防御力が落ちるだけじゃなく、重く腐りやすくなる皮鎧、 膠で接着されている上に弦が動物性で、水分が大敵の弓 騎馬の威力を発揮しにくい上に、濡れることは必然の上陸戦 そして対するはモンゴル兵にとって相性最悪の重装弓兵
81 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 22:45:05.06 ID:???
蒙古兵や高麗兵はどうか殺さないでくれと涙ながらに嘆願したそうだけど 九州の人間は商人から農民、武士にいたるまで大陸人や半島人がどういう人種か 歴史的に肌で知ってるから何のためらいも容赦もなく首を刎ねてったということ。
82 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 22:56:52.76 ID:???
83 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 22:59:42.56 ID:???
モンゴル帝国はすごいな。属国出身の洪茶丘にモンゴル兵の指揮を執らせるんだから。 第二次世界大戦で言えば、大日本帝国の日本人兵士が、フィリピン人の将校の指揮のもとで 戦うようなもん。
84 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 23:06:05.21 ID:???
>>82 どちらも最後は元に朝貢してる。
両国とも戦闘では元に対抗できないこと自覚してたからね。
最後まで完全独立を貫いたのは日本だけ。
あと、永楽帝時代にベトナムは明に占領されてるし、ジャワも鄭和の艦隊に軍事介入されてるんだよね。
その永楽帝も日本には手出しできなかった。
理由はモンゴル軍が日本にボロ負けしたから。
日本はベトナムやジャワと決定的に違う。
85 :
名無し三等兵 :2012/11/27(火) 23:13:07.21 ID:???
>>83 第二次大戦では朝鮮人の将官だっていたし、それほど驚くべき事かな?
86 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 00:38:29.80 ID:???
>>58 逆に言えば何でモンゴルは短弓に拘ったのかということだよな。
おそらくは弓を作る材料の違いによるんだろう。
日本は長い竹や木材を豊富に用意出来るのでそれを使って弓を作る。
当然にストロークを使って張力を稼ぐ長弓になる。
モンゴルの動物の骨や腱、潅木といった材料で長弓を作るのはそもそも不可能だから短弓に
ならざるをえない。
材料自体の剛性は高いから短弓でも十分な威力を得る事は出来るだろう。
87 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 10:59:04.94 ID:???
>>84 >どちらも最後は元に朝貢してる。
勝ったから朝貢で済んだ。高麗のような属国化を免れた。
事実上は独立を保ったのと同じだ。
88 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 11:18:28.07 ID:???
89 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 12:42:24.91 ID:???
>>73 は日本人の体格が貧弱でかつ弓作りの技術的にも劣悪だったから馬鹿でかい弓を馬上に持ち込むしかなく、
結果、下がつっかえるので左右非対称になったと言ってるだけで、なぜ和弓が蒙古弓に対して優勢を維持しえたのかまったく説明していない
あとこの時期の日本人を倭人だの、高麗を大韓などと呼ぶ意味も不明だし、ネタで言ってるのか真面目なのか理解に苦しむ
90 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 13:00:26.37 ID:???
和弓の非対称性は、少なくとも弥生時代から見られるんで、馬とは関係ないよ 古典的な金関氏の説だと、 もともと和弓は船の上から魚をとるための弓で、 水中に打ち込むために長い矢を必要とするので弓が大きくなり、 船の上から水面に撃つ為に上が長く下が短い非対称の弓になったとさ
91 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 16:06:27.02 ID:???
俺の勝手な妄想。 日本は山だらけの山岳地帯だから、狩の際に矢を仰角に射ち込むことが多かった。 仰角に射ち込む際に、通常の弓より非対称性だと威力がより増す。 非対称性をより強調していくために弓はだんだんと長弓化。 この弓の利便性が日本中に広く知れ渡り、日本独自の弓の形状を形成していった。
92 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 17:34:19.79 ID:???
93 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 18:52:10.04 ID:???
>>92 第2回の「握りつぶした協調の道」では鎌倉幕府が蒙古に対して強硬路線を取らなかったと叩き、
第3回の「外交ルートの誤算」では鎌倉幕府が蒙古に対して強硬路線を取ったと叩く・・・
脳がやられてて内容が完全に矛盾してること気付かないのかな?
そもそも「蒙古=蛮族」という情報を鎌倉幕府に伝えてたのは渡来僧じゃなく三別抄だし。
そのことは元史日本伝に明記してある。
「日本に奉使せる趙良弼、書状官張鐸を遣わし来り言わしむ。『去歳九月、日本国人弥四郎等と与に
大宰府の西守護所に至る。守る者いう。さきに高麗の紿く所となり、しばしば上国の来伐を言う。』」
94 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 19:19:42.15 ID:???
>>93 「タカ派外交で和平交渉を潰した結果、神風がなきゃ亡国一直線の戦争になってた!」
てシナリオで現在とダブらせて中韓への強硬姿勢を主張するのを叩きたいんだろうよ 毎度ご苦労なこって反吐が出る
同じNHKの高校講座日本史では、
三別抄が元軍の危険について警告する文書を何度も送ったのに、朝廷に知らせず鎌倉は握り潰しただのぬかしてたな
95 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 19:27:18.72 ID:???
文永で国書が来た時点で、日本の選択肢は 戦うか、戦わずして負けるかの二択じゃないかと思うんだが違うのか?
96 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 19:48:21.90 ID:???
>>94 実は元寇前後の出来事は今日この瞬間の問題の大原因だということだね
個人的には別におおげさな例え話とは思わない
97 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 20:30:02.77 ID:???
>>92 この番組の解説文が今じゃ否定されてる俗説だらけってのが痛々しいな
何を企んでるんだこれ
98 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 20:33:14.83 ID:???
>>96 この文章をどう読めばいいのだろう?
素直に読めば、今日の外交問題の大原因は元寇前後の出来事にある!
これは大袈裟な例えとは私は思わないってことだよなw
99 :
名無し三等兵 :2012/11/28(水) 20:37:51.31 ID:???
サイト見てわろたw 強調の道じゃなくて「協調の道」だろw NHK馬鹿だな。
第1回から凄いな。 文永の役で思いっきり軍事手段に訴えてるのに「元は日本に平和的に服属を求めていたが」って・・・ 900艘の兵船で相手国へ侵攻することが「平和的」??? この番組を観て一般視聴者は本当に何の疑問も抱かないのか?
豊臣秀吉は朝鮮に「明への道を貸してほしい」と平和的に交渉を求めたが 国際情勢に疎い朝鮮は断固これを拒否するという強硬路線に打って出た。 こういった強硬路線に出た背景には、朝鮮の中華思想による日本蔑視の思想が あったからであった。 やがて朝鮮の強硬路線は、国土を荒廃させ、清からの侵攻に遂に屈服することになる。 これぐらい言えたら、NHKも見直してやろう。
訂正 やがて朝鮮の強硬路線は、国土を荒廃させ、清からの侵攻に遂に屈服する原因となった。
>>90 東南アジアのどっかの少数民族が和弓そっくりの弓持ってたな
確かにそういう使い方だったと思う
画像付きでどこかにあった気がしたが思い出せん
事実はまったく逆で、元寇の蹉跌は明、清成立当初の大きな抑止力になってる可能性が高いけどね。 外交も何も、国書を黙殺しただけ幕府は賢明だ。朝廷みたいに返書を出したら要らぬいざこざが発生する おおかたここまで鎌倉幕府無能説を推進するのは、京都の奴らだろうよ。幕府再評価への憎悪すら感じる
>>104 朝廷が用意していた返書って
「侵略する気なら受けて立つぞ。腹をくくってかかってこい」
的な物だったとか?
返書すると元側も威信の為に動くしかなくなる 文永の役はそういった理由だったりしてな
あと、元寇が幕府崩壊につながったとか言うのも嘘だしな。 幕府崩壊まで異国警護番制度は存続していたわけで、本当に恩賞が未払いで不満が溜まっていたなら、 九州の御家人が律儀に警護番に協力するはずがない。 半世紀近く後の九州と全く関係ない場所を震源とする建武の新政を元寇と結びつけるのは無理やり過ぎ。
秀吉の唐入りが明滅亡の原因とか言い出す人もいるから、そう考える人がいてもおかしくない
強いて言えば、異国対策が財政を圧迫ってのはあったのかも
それはロシア船の来航が70年後に江戸幕府を滅ぼしたと言ってるのと同じくらいの屁理屈だな
南北朝の動乱の中心になったのはみんな畿内とか関東の連中じゃねえかw 元寇ほとんど関係ねーw
恩賞未払い云々や元寇で御家人が没落とかは明らか嘘だけど ただ、元寇をきっかけに北条家があまりにも権力を持ちすぎた ことによる御家人の不満が鎌倉幕府の滅亡の一因になったとは 思うよ。
鎮西探題は間接的に作用していなくもないが、「北条氏一門が権力を持ちすぎたことによる」不満と言うより、 その権力を用いて御家人の再雇用を進めたが力及ばなかったと言う結果責任だよね。 あと「高時と言う得宗個人の性格に規定された政権が直接の敗亡の原因」と主張する論者もいる。 はっきり言っちまえば、問題の種は後醍醐なんだから、あいつをさっさとしょっ引いとけば反乱の直接的契機はなかったんだ、 高時政権は時頼、時宗、貞時ら歴代得宗に比べて大ナタをふるえなかったと言う強硬論だね。 鎮西探題それ自体が御家人の反乱を招来したと言う性格とは言い切れないだろう。 治承のクーデタでの平氏一門の場合は、坂東の武士団に存亡のための容赦ない二択を突き付けたと言う性格が見て取れるが、鎮西探題それ自体は致命傷じゃない。 元寇による幕府滅亡論をスライドさせると、18世紀のロシアの来航が蝦夷地警備から国防意識と負担を高めて江戸幕府を滅ぼしたと言う因果関係も成立しうるが、 そんな主張する人はないでしょ。
防塁の維持費を御家人負担で保守してたのが不満の要因だったと教科書で習ったけど
そりゃ不満は不満だろうけど「要因」ではないだろ
>>112 それもあるが決定的だったのは長崎一族の専横と
後醍醐天皇の私的事情とのコラボだよなぁ。
現代風に言えば、震災増税なんかより、政治腐敗や汚職事件、 恒常的な失業率と債務の増加のほうがはるかに切実だったという感じだな
>>116 >後醍醐天皇の私的事情
これを簡単に解説しとくと
この時代は「治天の君」(上皇or法皇)が実質的な天皇家の長
「天皇とは皇太子同然だ」なんてボヤキもあったぐらい
で治天の君の条件は現天皇の父であること
ところが2つの皇統(南朝と北朝の源流)で内輪もめした時に鎌倉幕府が仲裁して交互に天皇になることになった
しかしそれでは治天の君の条件を満たさない
というわけで幕府が続く限り後醍醐天皇は治天の君になれない予定だったが
ぶっちゃけ野望をお持ちになったわけね
元寇で防戦に当たったのは承久の負け組の在地系御家人が主力。 精鋭の東国御家人が戦場に大挙して出たのが後醍醐。尋常な野戦ではやっぱり強かった。 蒙古を一蹴した鎌倉幕府をリアルで苦しめたのが楠木や赤松、名和なんて連中だったとはまったく不思議なこった。
お金を何とか工面できて勝利できたのが日露戦争で お金(恩賞)を工面できず、後の鎌倉幕府滅亡になったのが元寇? 経済的に負けちゃったの? わが祖国は(´・ω・`)
>>120 元寇の4年後に勃発した岩門合戦で鎌倉幕府にゴソッと九州の土地が転がり込んだから、
御家人への恩賞は余裕で工面できたよ。
>>121 支払いが出来たのか。
元寇と鎌倉幕府には因果関係があると思っていたよ
経済的問題より、元寇によって生まれた神国思想と朱子学のコンビネーションの思想的問題の方が大きいんじゃない?
俺も恩賞不払いが九州の御家人たちの鎌倉への反感を大きくした遠因だと思ってた。 鎮西探題なんて鎌倉に不満を募らせてる九州の御家人たちを監視するのが主任務のひとつだろ? 城館のあった鷲尾山は室見川をはさんだ博多の街外れ、博多の不穏な動きを見渡せる絶好の位置にある。
基本的なことだけど、九州は鎌倉幕府崩壊の震源地じゃないわけで・・・ 査定から漏れて反感持った御家人もいるかも知れないけど、決して恩賞不払いだったわけではない。
直後の岩門合戦での向背も加味されてるから、中にはあまり貰ってないように見える人間がいるが、 戦功は戦功としてカウントされているだろう。
岩門合戦は少弐景資をはじめ本来なら最も元寇で恩賞を請求できる立場だった御家人が大量に 討死してくれたって効果もある。 その上、その領地を元寇の恩賞として山分けできたんだから、幕府にとってはまさに一石二鳥。
本当に元寇に関しては嘘ばっかりなんだな。 未払い説も嘘だったか。元寇の記述の嘘と誇張をとったら 教科書の元寇の箇所はどれだけ残るんだろな。
神風説は仏教界のプロパガンダ、じゃあ鎌倉の恩賞未払い説はどこの誰が何の意図で唱えたん?
鎌倉幕府はモンゴル帝国に勝利しました、めでたし めでたし じゃ、気に食わない連中が大勢いるんだろ。 ちょうど12月からやるNHKの「さかのぼり日本史」だってそうじゃん。 モンゴル帝国への服属拒否して戦って勝利して、それが当時の日本にとってベストの選択でしたって 絶対に認めたくない人たち。
>>128 なんかザリガニの餌を賄うのが面倒だから
お互いに共食いさせるみたい・・・
実際、平頼綱が安達を粛正した時も貞時が頼綱粛正した時もそれが目的だったというし
質問なんですけど、八幡愚童訓によれば博多湾から上陸した蒙古軍は 日本人を数万人捕虜にしたらしいですが、数万人の捕虜はその後どうなった のですか?
日本人が数万人も捕虜になったという八幡愚童訓の記述が嘘だから。 そんなの他の史料は書いてないじゃん。
朝鮮半島に元軍が逃げ帰った時にいた捕虜の数は200人だからな。 200人程度なら対馬、壱岐、肥前での捕虜だろう。 それに文永の被害に言及してる史料は、八幡愚童訓以外は全部 対馬、壱岐、肥前に関するものばかり。
俺が最近見つけた史料だと、文永の役における日本側被害は、 「日本人の死ぬこと195人、下郎は数を知れず有りとのこと」
>>137 数を知れずというのが気になるな。
下郎というのは虐殺された庶民の数不明ってことなんだろうが、
数え切れないほど殺されたか、戸籍不備などの関係で単に不明なだけか。
ソース希望
態々日本人と分けて勘定してるってことは唐人や朝鮮人移民がかなり殺されたのかな
『一遍上人年譜略』だと一遍が1277年に壱岐と対馬で布教活動してるんだよね。 文永の役で島民皆殺しってわけじゃないんだって思った。
というより、鎌倉時代の文献で「日本人」の語が出てくるのか?
俺もそこが気になった>日本人 そりゃまあ、時代は下るけど義満が日本国王名義の国書出してるから本邦についての意識が変化した南北朝以降の資料とか、 同時代の資料でも外国に攻められて彼我の意識が強くなった可能性もあるけどさ
結局、ソースは無いわけね。
雑談板のノリでソースなく書く人いるね
前スレ
>>973 で、次のように書いた。
「日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ。
しかし元軍もまた武士の勇戦によって損耗が大きく、継戦不利と自認して撤退した。
結果的に一日で撤退させたという意味では日本軍の勝利だ。
まとめれば、戦術的には元軍の勝利。
戦略的には日本軍の勝利。
例えて言えば日本艦隊を上回る損害を受けながらも日本軍にポートモレスビー上陸を
断念させた珊瑚海海戦みたいなものだな。立場は逆だが。」
これに対する
>>974 の、次の質問を見落としていた。
>で、日本が水城に下がったとしたら敗退で、元軍が船に下がる
(上陸軍が海に戻る!)は勝利なの?
この質問を:
「日本軍が戦場を棄てて水城へ撤退したのが戦術的敗北なら、元軍が戦場を棄てて海上撤退する
こともまた戦術的敗北ではないか?」
と解釈するならば、確かに一理ある。
この質問に答えよう。
日本軍は元軍の面前で、先に戦場を棄てた。すなわち元軍に背を見せた。 これが「形の上での敗北」であり、戦術的敗北だ。 これに対して元軍が撤退したとき、元軍の前には日本軍はいなかった。 元軍は日本軍に背を見せたわけではない。すなわち文字通りの自主撤退であった。 だから「形の上での敗北」、戦術的敗北とは言えない。 (ただし目的を達せず一日で撤退したのは戦略的敗北であったとは言える。) 猫のにらみ合いでも、自分の方が弱いと認めたほうの猫が先に目をそらし、その場を後にする。 強いほうの猫は相手が見えなくなったのを確認してからその場を離れる。 それと同じだ。
149 :
名無し三等兵 :2012/12/02(日) 09:46:13.99 ID:h89S/Pps
パフォーマンス、始動!
>>148 実際には、元軍は日本軍に背を向けて撤退し、それを日本軍が追撃してるんだから、
元軍の一方的敗北としか言えないだろ
別にID消さなくても文体ですぐわかるっていう
戦術的に敗北したのは元軍だよ。 八幡ノ蒙古記など宗教関連の史料以外の史料では「日本軍は元軍の面前で、先に戦場を棄てた。」 では無くて「元軍は日本軍の面前で、先に戦場を棄てた。」んだから。 で、八幡ノ蒙古記では神が降臨して元軍を撃退したわけだから、八幡ノ蒙古記でも 「背を見せて逃げ出したのは元軍」ということでは一致している。
まとめれば、「元軍が背を見せて逃げ出した」という点ではどの史料でも一致しており 戦術的にも日本軍の勝利。 戦略的にも日本軍の勝利。 ということになるね。
ID隠してても、わずかに一行で済む内容の文章をダラダラと5行くらいも要さないといけない 文章力だから隠してても意味は無いね。
>>152 モンゴル兵の戦法知らないんか・・・?ヒッドアンドウェイやで・・・
それは無限に続く大地があっての話だろ 上陸戦でヒットアンドアウェイなんかやってたら橋頭堡確保どころか敵の攻撃受けて被害出し損じゃん
中世史料洗い直したお蔭で、鎌倉年代記裏書や北条九代記が元軍敗北の日を10月24日にしてる 理由が分かったよ。 10月20日に博多湾から元軍撃退した後も日本軍は即座に追撃戦に移行したから戦闘は継続してたわけ。 で、壱岐を放棄した元軍が嵐に遭遇し、或いは海底に沈み、或いは浦に寄せられた日が10月24日。 つまり、元軍の博多湾撤退の日が10月20日で、元軍の敗北確定の日が10月24日ってこと。
>>158 つまり元軍の時系列は
対馬壱岐を蹂躙⇒10月19日九州上陸も一蹴される⇒10月20日未明戦闘を断念して九州を出航
日本側は船を出してこれを追撃⇒10月21〜23日のどこかで元軍、壱岐を放棄
⇒10月23ないし24日。元軍暴風雨により壊滅
ということ?
>日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ。 日没による日本軍の水城への帰陣をあたかも敗走であるかのごとく書いてるのは八幡愚童訓系の資料のみ。 敵方の高麗史でさえ「諸軍與戰、及暮乃解」「諸軍終日戰、及暮乃解」、日が暮れたので停戦し帰陣したとしか 書いてない。 人間は夜目が利かず暗闇では敵味方の区別さえつけられなくなるから戦いは日中に行われるのが常識。 現代でさえ野戦と言うのは例外的なケース。 日本軍が戦場を棄てて帰陣したというなら元軍も戦場を棄てて帰陣してるんだし、その後程なく乗船して本当に 撤退しちまったんだから、この戦いは戦術面でも戦略面でも日本軍の完勝であることに疑いの余地は無い。
>>160 でも、パフォから言わせると八幡愚童訓が自然休戦に見えるらしいよ。
辻褄の合わないことは史料ですら全く逆の都合に良いように解釈してしまうから
お話にならないね、パフォは。
>>158-159 てか、最初に博多湾の元軍が一夜にして姿を消した時点では、元軍の意図など日本側には解らないよな。
場所を変えて再上陸してくるのを警戒するのは当然の事で、日本側がその時点で戦闘態勢を解くわけもない。
日本は古今通じて夜戦を多用する部類だから、夜間戦闘は出来て当然と思う向きがいるのかもね。 さて問題の帰陣だが、日本軍と元軍では大きく条件が違う。それは元軍は「上陸軍でありながら船に戻った」こと。 日本側は、翌日水城から押し出してもう一回野戦すれば済む。だが、船まで引き返してしまったら元軍は 非常に不利な戦いである上陸戦をもう一回やらないと日本征服作戦を継続できない。 もし、前日の戦闘で日本軍を敗走させたのなら、元軍は勝利した地の近隣で野営するのが普通だろう。そうでなければ せっかく進軍したのが無駄になってしまう。 では何故元軍は船に戻ったか。日没の時点で作戦継続を断念していたのか、日本軍が夜襲ないし払暁の攻撃をかけてきた場合 対応できないと判断したのかは不明だ。だがどちらにしても「正面から日本軍を撃破する」事は極めて困難と判断した上での 守りの指示であろう。
164 :
名無し三等兵 :2012/12/02(日) 15:40:29.86 ID:h89S/Pps
>>160 >日没による日本軍の水城への帰陣をあたかも敗走であるかのごとく書いてるのは八幡愚童訓系の資料のみ。
なるほど、水城へ帰陣したことは認めるわけだな。
ただし「敗走」を記録しているのは八幡ノ蒙古記だけではない。同じく同時代史料である一代要記がある。
>>163 >それは元軍は「上陸軍でありながら船に戻った」こと。
学者を含めて多くの人がそのように書くのは実に不思議なことだ。
元軍は一夜を過ごすために船に乗ったのではない。
軍議で撤退を決めた後、撤退のために船に乗ったことは高麗史に明記してある。
>>164 ねえ、日本軍は10月20日に元軍を追って兵船300余艘で追撃した。
そして、兵船に乗れなかった日本軍が夜になると水城に撤退した。
↑これの何が気に入らないの?
全ての史料が矛盾なく説明できてるじゃん。
>>164 160ではないが、突っ込みどころ満載なので答えてあげよう。
君が挙げている『一代要記』だが、元軍と日本軍との間で合戦があった後、神秘めいた(非凡慮之所及、測知是神明之化儀也)
兵船二艘が突如現れて、元軍を撃退し退散させたとしている。
実は八幡ノ蒙古記にも全く同じ話がある。
該当箇所を挙げると次のようになる。
「船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまゝゝ沖に、にけたるは、大風に吹しつけられにけり」
つまり、八幡ノ蒙古記と一代要記の話の元ネタは同根であり、箱崎宮の神官による軍忠状とも
いうべき主張をそのまま載せたのが一代要記だということがわかる。
一代要記の著者は朝廷関連の人物と推定されており、箱崎宮と朝廷は、箱崎宮に天皇の「敵国降伏」の
扁額が掲げられているように密接な繋がりがあった。このパイプから得た箱崎宮の自社の神が元軍を撃退したという
文永の役における主張をそのまま載せたのが一代要記なのだ。
また、同時代史料に元軍を撃退したという史料なら『五壇法日記』があり、日本軍の勝利を裏付けている。
『五檀法日記』よれば、「仰去月(十一月)六日申刻、自鎮西飛脚上洛。去月十九日廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵船退散了。」
とあり、鎮西より飛脚があって合戦があり、元軍を退散させたと明言している。
戦いを神と結びつけている史料、それも箱崎宮の主張をそのまま載せている史料である一代要記と比べて
『五壇法日記』による記録は、純粋な鎮西の日本軍からの飛脚の報告を、宗教と結び付けることなく戦闘経緯を
そのまま載せているのだ。
どちらが、信憑性が高いかは馬鹿でもわかるな。
他にも帝王編年記があるね。 「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」 『帝王編年記』自体は文永の役の半世紀ほど後に編纂された史料らしいけど、「六日飛脚到来」とあることから 文永の役の該当箇所は文永の役の同時代史料を参考にして編纂されたことがうかがえる。
『八幡愚童訓』自体史料批判すらされてない状態だから信用できないからね。あれまんま使うと痛い目みる史料の典型 あとその八幡にすら水城に兵糧が蓄積されてたこと書いてあるだろ。 日が暮れたんだから物資が備蓄されて防衛陣地として機能してる水城に帰るのは当たり前だろ そのうえで追撃戦ができる奴は戦果上げるために追撃したってだけじゃないのか? そういえば御花畑な歴史家が「元の弓は日本の倍飛ぶ」とか本にかいてるけど、あれってソースなんなんだ? 森俊夫の復元実験だと飛距離にほとんど差がないってのがでてるし、サクストン・ポープ教授の本にも同飛距離ってなってたと思うんだが
>>168 >そういえば御花畑な歴史家が「元の弓は日本の倍飛ぶ」
それも『八幡愚童訓』を使用して痛い目を見た例の一つ。
八幡愚童記に「蒙古の矢は二町はかりいる間に、守護方には数十人手負い」
とあり「ニ町」=200mというのを真に受けたことによる。
しかし、他の八幡ノ蒙古記や八幡愚童訓文明本・正応本では「蒙古人か矢は、
二時はかりいる間に守護代か方にも二人手負」となってるんだよね。
>>169 ありがとう
壱岐戦の記事がソースなのかよ……
てか岩波の日本思想大系は二町って表記してるのね。あれ史料にしてる奴多いだろうからそら間違えるか
というか西田長男がわざわざ橘守部全集に「実戦記」って評価してる奴乗っけてるんだからそっち参考にすりゃいいのに
というか60.70年代の歴史学者が元寇以後の社会制度変化に中途半端に元寇をからめてくれたせいで話がややこしくなってんのな
文永の役の戦況とかだと竹内秀喜の研究書のほうがよっぽどしっかるしてる
>>164 一夜を過ごす気でいるなら、乗船どころか海岸に戻るのも避けるべき。
食料その他の物資を揚陸して、有利な場所に陣地を構築しなければ。
本来なら日中にやりたい作業ではあるが。
元軍司令官は、日没の時点で戦闘続行を断念していたと見るべきだろう。
問題の軍議で金方慶将軍が奇しくも背水の陣を引き合いに出したようだが
上陸し終わった時点での上陸軍は、この本来は忌むべき背水の陣を強いられる。
せっかく多少なりとも内陸に踏み込んで背水状態を脱したのに、内陸部に布陣しない
理由として考えられるのは
A 内陸部には、日本の攻勢に耐えられる適地がなかった。
B 既に撤退を決心していて、「次の戦闘」を考慮する必要が無かった。
C 本気で背水の陣を敷いて、兵に死戦させるしかない
あたりだが、A〜Cのいずれを取っても「絶体絶命の危機」だ。もはや日本征服どころではない。
>>168 イタチかもだが
何でほとんど史料批判なされてないものを論拠として延々と拡大再生産されてんの?
日本史研究してるえらい人達は研究のイロハも知らんの?ニュー速民ですらソースの信用度は意識してるってのに。
>>172 ええとだな、ぶっちゃけると元寇自体あんまり史学上で重視されて無かった
皇国史観の権化みたいな扱い食らうし、下らん学説打ち立てて悦に浸る某学者のせいで研究ストップしたり
あと八幡愚童訓自体が史料上あんまり重視されてるもんでもないから専門学者がいないってのもでかいな。別のことしてるほうが出世できるし
あと学者が学生に口酸っぱくして教える「史料の利己的解釈」ってやつを平気でやる奴もいる。というかその手の学者のせい
「日本の武士が強いはずがない」→「八幡に都合いい(解釈できる)記述がある」→「こ れ だ」てな具合
さらにそういったことする奴がその道の権威だと話がややこしくなる。ソイツが歴史学会の編集委員だったりすると最悪だな
仲悪くなるだけで出世が遅れる可能性がある。なので軍事学的な知識がある奴もツッコミできない。したら(ry
ここ十年くらいでそういった奴が引退し始めてるから自由な(服部みたいなやつもいるが)学説が回り始めてるってのもある
途中送信しちゃった。スマン 学説が回り始めてるってのもあるし、インターネットの普及で少しずつ払拭されてはいるけどね ただ、そういった『軍事学的な』研究の受け皿になる軍事史学会がまだ成長段階だから時間はかかりそう 拡大再生産の原因は「軍事に疎い(もしくは蔑視してる)」学者が「権威(笑」の研究を深く検証せずに使ってるから もしくは「間違いを知りながら」引用してるかのどっちか ただし、中世軍事に関しては吉田とか若手が研究進めてるから悪くはならないと思うよ 発表できる場が歴史研究会みたいな軍事蔑視の学会しかないのが問題だけど 日本にも中世軍事史学専門の学会とかできないかねぇ……
あと、偏見かも知れませんが、日本史の先生って文献ばかりに見えますね。 元寇絡みなら例の弓矢の話。複製するなりモンゴルから弓を持ってくるなりして 実験すれば良いじゃないかと思うのは変?
>>171 >一夜を過ごす気でいるなら、乗船どころか海岸に戻るのも避けるべき。
>元軍司令官は、日没の時点で戦闘続行を断念していたと見るべきだろう。
だから、一夜を過ごすために舟に戻ったのでなく、軍議で撤退を決めて、撤退のために乗船したと
言ってるじゃないか。私と同じことを言っても議論にならない。
それよりも、君は日本軍の水城帰陣を認めるのか? 認めないのか?
それを一度はっきりしてくれないか?
勝利祝賀会の会場がどこか気にしているような物だな。
>>175 史学ってのは史料を比較検討して論を組み立てるのが一般的だからしょうがない
考古学とか別分野の発展成果を取り入れるのはここ20年くらいで一般化したもんだからそれを30年以上前の学説に求めるのはちょいと酷だよ
>>171 言っとくけど、元軍司令官が日没の時点で戦闘続行を断念したのは、博多からじゃなく壱岐からだぞ。
「一岐島に至り、千余級を激殺し、道を分ちて以て進む。倭は却走し、伏屍は麻の如く、暮に及びて乃ち解く。
会々、夜、大いに風ふき雨ふる。戦艦、厳崖に触れて多くは敗る。金セン、溺死す。」
高麗史 世家 忠烈王
博多湾から上陸した元軍なんて瞬殺だよ。
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」
金剛仏子叡尊感身学正記
180 :
160 :2012/12/02(日) 21:57:06.43 ID:???
>>176 いや、
>>171 は俺じゃないから水城帰陣云々聞いても意味無い。
「一代要記」については
>>166 が詳細にレスしてるから付け加える事もない。
で、日本軍が日没に伴って水城に帰陣したとして、それが何だっての ?
このスレで水城帰陣を「日本軍の戦術的敗北」などと言ってるのはあんただけなんだが ?
>日本軍は元軍の面前で、先に戦場を棄てた。すなわち元軍に背を見せた。
>これが「形の上での敗北」であり、戦術的敗北だ。
どこに「日本軍は元軍の面前で、先に戦場を棄てた。すなわち元軍に背を見せた。」なんて事実がある ?
高麗史にだってそんな記述は一切無いんだが ?
>>176 水城に帰ったのは単純にそこが前線基地だからじゃないのか?
鵜飼潟会戦で日本側が敗北して水城まで戦線を下げたならそれは戦術的敗北だけど、んなこと書いてある一次史料どこにもないぞ
『八幡愚童訓』とその関連史料が時々話題に上がるのは単なる補助史料が補助史料以上の扱いを受けてるからであってあれは一次史料じゃない
あと戦線押し込んで後方基地に退却するのは単に夜間戦闘で同士討ちしたくないから切り上げただけだろ
それともどっかに「水城に逃げ込んだ」って書いてある史料があるのか?あるなら教えてくれ
>>159 これは注目。蒙古が内陸部に進撃してたとか言うムーみたいなトンデモ仮説と違ってはるかに整合性がある
日本軍が夜になって水城に帰還したら敗北とか頭に蛆でも湧いてるのかな。 食糧は?寝るところは? 勝って水城に帰還するのがどこか問題でもあるの?
今までその2つの日付の関係をどう整合させたらいいのかと思ってたが、それならつじつまが合う。
富士川の合戦で東国勢主力は官軍を追撃しなかった。よって富士川の合戦は東国勢の敗北と言う論理か
186 :
名無し三等兵 :2012/12/02(日) 22:24:52.89 ID:h89S/Pps
>>180 >どこに「日本軍は元軍の面前で、先に戦場を棄てた。すなわち元軍に背を見せた。」なんて事実がある ?
>高麗史にだってそんな記述は一切無いんだが ?
水城へ帰ったことを認めるんだろ?
そんなら元軍に背を向けないでどうやって水城へ行くのか?
日本軍は全軍後ずさりで水城へ向かったのか?
187 :
名無し三等兵 :2012/12/02(日) 22:38:57.60 ID:h89S/Pps
>>183 >勝って水城に帰還するのがどこか問題でもあるの?
問題大ありだな。
水城へ帰還ということはとりもなおさず博多明け渡しを意味する。
いやお前「土地勘ない」「真夜中で真っ暗」で「伏撃の危険性がある」敵地を行軍させるのか? ましてや一日戦わせて疲弊してる部隊だぞ というか音響器具で軍を進退させてたのにどうやって指揮とるんだよ。音出したら夜間行軍してるのバレバレだぞ 夜間進軍は現代だって脱落者が出る可能性があるから慎むべきものだぞ ましてやGPSもなけりゃ地図も末端にいきわたってない中世にするべきもんじゃないだろ 後世の人間は史書とかである程度状況が知れるけど、当時の人間は撤退した相手が伏撃の準備してるかどうかも分からないんだぞ
>>186 元軍が敗走するなり壊乱するなりしてたら日本軍は余裕をもって背を向けれるな。
和弓は直射の射程で語り、他国の弓は曲射で語るのが常識
>>187 元軍が博多湾から撤退した後、追撃の兵船に乗れなかった日本軍が水城に帰還したんだから、
博多明け渡しなんて意味しないよ。
>>186 日本側の記録だと、赤坂で戦い、鳥飼潟で戦い、百道原で戦い、姪浜で戦い、元軍は悉く日本軍に背を向けて
敗走してることになってるんだがな。
赤坂から敗走し麁原に陣を敷いたとされる元軍本隊をその日のうちに殲滅出来なかった事は認めてやろう。
周辺で戦っていた元軍も日没と共に「日本軍に背を向けて」麁原に帰陣したのだろうな。
日本軍に背を向けないでどうやって麁原に行くのだね?
元軍は全軍後ずさりで麁原に向かったとでも言うのか?
元側の史料高麗史に「諸軍與戰、及暮乃解」とあり、夜になったからそれぞれ自陣に帰還したって だけの話だよね。 博多明け渡しも何も元軍は博多を占領していないのだから、元軍の完敗以外の何者でもない。 また、水城に撤退したのが何時かも不明だし、全軍が水城に向かったかも不明。 戦闘が終ってからの日本軍の動きなど、現代で知る事は全く不可能。
当時の和弓もどのぐらいの張力があったんだろうか? ここで50kg以上あるとかのレスもあったがソースが見つからん 大山祇神社にある伝・為朝の赤漆塗重藤弓とかの遺物の弓幹から推計できないんかなぁ?
前スレにあったこれの出典なんですか? 335 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 13:57:07.58 ID:??? 「その遠く戦うや弓を使う。 倭の弓は竹製、長さ八尺、足を持って其端を踏んで張り、立って発す。 矢は海竹を以って幹となし鏃は鉄製長さ二寸、燕尾の形を成す。 重さ二、三両。 発するに当たらざるなし。 当たれば則ち人たちどころに倒る」 和弓強いですな。こりゃあ、文永の役で一日で矢を撃ち尽すは 副元帥が矢で重傷を負うわけですな。
>>193 元側の史料高麗史が「諸軍與戰、及暮乃解」としてるのは、壱岐での話だって。
元軍が博多湾から上陸した日については19日とする史料と20日とする史料とがあるけど、
撤退した日については同時代史料が尽く20日で一致してる。
曖昧さとか史料的混乱とか一切ないの。
それってつまり元軍は日本軍の目前で背を向けて撤退したってこと。
日本軍が水城にいる間に撤退したわけでもなければ、日が暮れてから夜陰にまぎれて
撤退したわけでもないんだよ。
最初から素直に読めば諸史料の間には何の矛盾点も無かった。 帝王編年記が「10月20日に元軍を追い返した」と言ってるんだから、元軍が博多湾から追い返された日は10月20日。 鎌倉年代記裏書が「10月24日に元軍敗北」と言ってるんだから、元軍が敗北した日は10月24日。 高麗史表が「壱岐に至りて戦いに敗れた」と言ってるんだから、元軍が敗北した場所は壱岐。 つまり、10月20日に博多湾から追い返された元軍は壱岐で軍議の結果日本からの撤退を決定し、 夜に沖合で嵐に遭って浦々に元船の残骸が打ち上げられたのが10月24日ってことね。
それだと、壱岐から敗走する元軍は高麗へ帰還するまで1カ月も要したことになるよ。 元軍が朝鮮半島に帰還したのは11月の後半のことだからね。
>>198 その後、対馬でも戦闘があったはずだよ。
赤星有隆が対馬まで元軍追撃して武功挙げてるし、山代諧は対馬で討死してるし。
200 :
名無し三等兵 :2012/12/03(月) 10:17:26.50 ID:Z1EQwB4Z
>>192 >日本側の記録だと、赤坂で戦い、鳥飼潟で戦い、百道原で戦い、姪浜で戦い、元軍は悉く日本軍に
背を向けて 敗走してることになってるんだがな。
日本側の記録だけならな。しかもそれは緒戦の勝利に過ぎないかも知れない。あるいはモンゴル軍
得意の戦術的退却かも知れない。
戦闘記録の検証は必ず両側の記録をつけ合わせることが必要だ。
元軍側の記録は「入其国戦敗之」「倭兵大敗伏屍如麻」だ。
日本軍は大損害を出して、しかも屍体収容できなかった。元軍側はそれを眺めて現場で悠々
と論評している。「蒙人戦に習うと雖も何をもってか之に加えん」
>元軍も日没と共に「日本軍に背を向けて」麁原に帰陣したのだろうな。
なるほど、祖原が落ちなかったことは認めるわけか。落ちたという学者もいるがな。
まあ、それは別としてともかく元軍は戦場に居残った。その状況で日本軍が水城へ向かったのなら、
先に敵に背を向けて戦場を去ったのは日本軍だ。
今の壱岐対馬住人って、元寇で生き残った人の末裔が増えたんだろうか? それとも、元寇後、大規模な入植があったんだろうか?
202 :
名無し三等兵 :2012/12/03(月) 10:48:47.40 ID:Z1EQwB4Z
>>166 >つまり、八幡ノ蒙古記と一代要記の話の元ネタは同根であり、箱崎宮の神官による軍忠状とも
>いうべき主張をそのまま載せたのが一代要記だということがわかる。
神官の軍忠状結構ではないか。それを史実として信用しないのは当然だが、それをもって一代要記の
記事全体が信用できないということにはならないな。
また、なぜそのような「軍忠状」が出てくる余地があったのかを考えて見なければならない。
それは、元軍が撤退した理由が、現代の我々以上に当時の人にも謎であったからだ。
すなわちあれほどの勢いの元軍がなぜ翌朝いなくなったのか。理由がわからないし、状況を見た人もいない。
そこに超自然的説話が生じる余地があった。
逆に言えば、このような説話が生じること自体が、元軍が日本軍に追い落とされて日本軍の目の前で撤退した
のでないことを如実に物語っている。
>去月十九日廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵船退散了。
>宗教と結び付けることなく戦闘経緯をそのまま載せているのだ。
これは戦闘経緯とかではなく戦闘結果だな。一代要記の言うように日本軍が「逃げ終わった」ことと、
翌朝までに元軍の船がいなくなったこととは両立する。
というか、それこそが八幡ノ蒙古記が述べる「戦闘経緯」だ。
>>200 >元軍側の記録は「入其国戦敗之」「倭兵大敗伏屍如麻」だ。
その元軍側の記録って対馬壱岐だけじゃん。
元史は「唯四境」って限定してるし、高麗史は壱岐に至ったことしか認めてない。
つまり、博多湾上陸後に関しては日本側の圧勝って記録しかないの。
あんた、最近反論出来ない書き込みは無視するようになったけど、反論出来ない時点で
もう自説が真実じゃないと認めてるってことでしょ。
>>200 >「倭兵大敗伏屍如麻」
これは高麗軍のそれも三翼軍のひとつの中軍と小規模な武士との戦いで
極小規模な局地戦だ。これを元軍側はそれを眺めて現場で悠々
と論評して「蒙人戦に習うと雖も何をもってか之に加えん」 の後に大規模な
「諸軍與戰、及暮乃解」の戦闘で元軍は大苦戦を強いられた。
>まあ、それは別としてともかく元軍は戦場に居残った。その状況で日本軍が水城へ向かったのなら、
先に敵に背を向けて戦場を去ったのは日本軍だ。
戦場に残っていない。陣を引き払い海に逃げ出した。どう判定しても背を見せて逃げ出したの元軍だ。
また、日本側がいつ水城に撤退したかも不明であり、どちらが先に戦闘を解したかなど現代では全く知ることは
不可能。また、水城に日本側が戻ったからといって、元軍は博多を占領できたわけでもない。
わかっているのは、元軍は慌てふためき海に逃げ出したということだけだ。
>また、なぜそのような「軍忠状」が出てくる余地があったのかを考えて見なければならない。 それは、元軍が撤退した理由が、現代の我々以上に当時の人にも謎であったからだ。 謎であったからではない。元寇における当時の寺社は戦闘において、自社の神の功績により 恩賞が預かることができた。 例えば、武雄社では文永の役における自社の功績を「十月廿日夜、鏑矢音出、自御神殿差賊船方響、 廿一日賊徒退散」と記しており、武雄社が元軍を退散させたとする。 こういった寺社にとっては、武士の奮戦は自社の功績を否定する苦々しい存在だったことは 容易に想像できる。現に八幡ノ蒙古記ではその書の中で武士を嘲笑する文言がいくつもある。 もっといえば、八幡ノ蒙古記の著者とされる箱崎宮の神官のいた箱崎宮は武士とは深い因縁がある。 箱崎宮は宗教のみに携わっていたわけではなく、海外貿易にも従事するなど莫大な利益を挙げていた貿易集団 という一面もあった。しかし、大宰府と箱崎宮は海外貿易をめぐり、互いに対立しており、文永の役の100年前ほど前には 大宰府の軍勢らに箱崎宮が攻撃にあっており、宝物の略奪にあっている。 八幡ノ蒙古記があのように武士を嘲笑する文言で溢れているのはこういった背景もあったのだろう。 君の言うように八幡ノ蒙古記を盲信している人には全く何の疑いもないだろうが 日本軍が敗北したという日本側の史料はすべてが、神が元軍を撃退したという類のものしか 存在しないこと、そして『五檀法日記』や『帝王編年記』など神と結びつけていることなく 淡々と鎮西からの報告を記している史料は、どれも「日本側の勝利」で一致している。 つまり、日本側が敗北したという日本側史料には一定の特徴があり、神官側の史料は 「記事全体が信用できないということになる」のだ。
>これは戦闘経緯とかではなく戦闘結果だな。一代要記の言うように日本軍が「逃げ終わった」ことと、 翌朝までに元軍の船がいなくなったこととは両立する。 そう、廿日に合戦があり、元軍はその日に「退散」したのだ。 なぜ退散したかと、鎮西の日本軍からの報告によれば「六日飛脚到来、是去月廿日、 蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」 とあり、 武士に蹴散らされ追い返されたからだということがわかる。
パフォの爺さんどんどん旗色が悪くなってきたな。こりゃ元軍のように敗走するのも時間の問題かw
パフォ爺のカキコ数がどんどん落ちてるな。 あれだけ頑張ってたパフォ爺と同一人物とは思えないくらい。 ひょっとして旗色が悪いんですか?
鎌倉幕府はなんで石塁を築いたの? 当時の戦略として一般的だったの?
阿津賀志山
パフォの人はそれなりに調べて妄想解釈を積み上げるから けっこう手間暇かかってるよね
>>205 >謎であったからではない。元寇における当時の寺社は戦闘において、自社の神の功績により
>恩賞が預かることができた。
私は「謎」と「恩賞」を対置しているのではない。
私は「軍忠状結構ではないか」と言って、軍忠状的性格を肯定している。だから君がそのことを
繰り返し強弁するのは無意味だ。
恩賞目当ては目的だ。その目的を達する手段として超自然的説話を作り出した、あるいは巷間に
生じた説話を利用した。そのような説話が発生可能な条件の話をしたのだ。だから「生じる余地」
という言葉を使った。
その条件とは、元軍が撤退した理由が不明であり、また撤退の状況を誰も見ていない、ということだ。
この条件があってこそどんな説話も作れる。
日本軍に追い落とされ、日本軍の面前で敵前水際撤退したのなら、この条件は満たされない。
すなわち、元軍の撤退が行われた時、日本軍は近傍にいなかった。
八幡ノ蒙古記が述べる日本軍の水城への撤退を裏付ける状況だ。
>>204 >高麗軍のそれも三翼軍のひとつの中軍と小規模な武士との戦いで極小規模な局地戦だ。
祖原山の戦いが高麗軍中軍に対する戦いであったということは私も同意見だ。
というか、日本史元寇スレでそのことを最初に唱えたのは私だ。
しかし日本軍の戦い方として、その「極小規模」の突撃が繰り返し繰り返し行われたと、
なぜ考えないのか?
現に白石は全軍の最初に祖原山に突撃したが、竹崎はそれほどの損害を記録していない。
一人が首を射られて戦死したと言っているだけだ。
>戦場に残っていない。陣を引き払い海に逃げ出した。どう判定しても背を見せて逃げ出した
>の元軍だ。
元軍が先に海に逃げたということだな。するとそれはダンケルク的な敵前水際撤退で、日本軍
に取っては草刈り場だ。その阿鼻叫喚がなぜ記録されないのか?
弘安の役の鷹島での似たような状況はあれほど生々しく書いてあるのに?
パフォってほんとにヴァカだね。
>>212 元軍が撤退した理由は不明じゃないだろ。
武士に合戦で追い返されたって帝王編年記に明記してある。
すなわち、元軍の撤退が行われた時、日本軍は近傍にいたってこと。
八幡ノ蒙古記が述べる日本軍の水城への撤退なんて無かったってことね。
>>213 八幡ノ蒙古記なんて弘安の役の鷹島も含めて全部妄想で書いてるだけだから記録でもなんでもない。
何が書いてあって何が書いてないかに何の意味もないの。
八幡ノ蒙古記は文永の役の対馬壱岐の状況を生々しく書いてるけど、本当に対馬壱岐の戦闘が
八幡ノ蒙古記の記述通りの殲滅戦だったなら一体どこから情報入手したんだよ?ってw
何のソースも無いまま適当に嘘八百並べてるだけなのね。
>>212 >その条件とは、元軍が撤退した理由が不明であり、また撤退の状況を誰も見ていない、ということだ。
この条件があってこそどんな説話も作れる。
日本軍に追い落とされ、日本軍の面前で敵前水際撤退したのなら、この条件は満たされない。
日本軍全軍が13kmも離れた水城に敗走していたなら、元軍は天気無視・風待ち無視の強行撤退をする必要は全くない。
また、博多の町を占領しなかったことは甚だ不可解だ。
軍議にみられるように、元軍は上陸地点を背に「背水の陣」の兵法を持ち出していることからわかるように、上陸地点に逼迫していた。
上陸地点から全く動けない状況だった。
元軍がなぜ風待ちや天気待ちをすること無く「夜陰」に拘ったかというと、日本側に気付かれるのを恐れたからだ。
君のいうように日本側が13kmも向こうの水城へ敗走したなら、全くそのように恐れる必要は無かった。
気付かれてはいけない日本軍(元軍の言うところの『大敵』)の存在が元軍(元軍の言うところの『小敵』)の周囲に
あったと考えるべきだろう。
>>213 >祖原山の戦いが高麗軍中軍に対する戦いであったということは私も同意見だ。
というか、日本史元寇スレでそのことを最初に唱えたのは私だ。
勝手に仲間にしないでもらいたいね。同意見などと一緒にされたくない。
俺は「祖原山の戦いが高麗軍中軍に対する戦いであった」など一言も言ったことはないわけだが。
そもそも、「倭兵大敗」のような戦いは祖原の周辺では確認されないし、全く別の戦場だ。
君が「倭兵大敗伏屍如麻」の小規模戦をさも戦況全般のように印象操作した書き込みを行ったことに
対して、俺は「倭兵大敗」は極小規模戦であり、本戦は「諸軍與戰、及暮乃解」の戦闘であることを
指摘したにすぎない。
>しかし日本軍の戦い方として、その「極小規模」の突撃が繰り返し繰り返し行われたと、 なぜ考えないのか? 簡単なことだ。『高麗史』や『福田文書』『蒙古襲来絵詞』を読めば、小規模な局地戦があったのは 「前半」に限定されていることで一致している。 『高麗史』では「倭兵大敗」の小規模戦の後、元軍諸軍が合流して「諸軍與戰、及暮乃解」の大規模な 戦闘があったことが確認できる。これを裏付けるように『蒙古襲来絵詞』には戦闘初期の頃には、菊池武房 や竹崎季長のように功を焦り、少弐の指令を無視して自らの意思で戦闘を行う武士らが存在したことがうかがえる。 ところが『福田文書』によると、その後に「早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間」 とあるように、早良郡から元軍が上陸したことを受けて馳せ向かうように武士らに下知が下ったことが確認できる。 東進する元軍に対して、博多から西進するように下知された武士らが衝突するとしたら君の言うように「「極小規模」の突撃が 繰り返し繰り返し行われた」とはならずに、『高麗史』の「諸軍與戰、及暮乃解」の大会戦になることは 容易に想像がつく。そして元軍は諸軍が協力して戦ったのにも関わらず、大苦戦を強いられ「策疲乏之兵」という状態に陥ったわけだ。 さらに忽敦や金方慶は「諸軍與戰、及暮乃解」の会戦における自軍を「我師雖少」、「小敵之堅、大敵之擒」と評している。 つまり、元軍諸軍協力して戦ったにも関わらず、自軍を少ないと感じさせるほどの大会戦があったということを彼らは証言してくれている。
そもそも、八幡ノ蒙古記のような大敗があれば、名のある武士が一人も死んでないのはおかしいよな。 元軍が博多湾に上陸して明確に戦死が確認できる武士は「光友又二郎」という武士たった一人だけ。 それも戦死や戦傷は立派な戦功記録として引付に記録され、恩賞の対象になるにも関わらず誰一人 大敗したという絶好の恩賞タイムサービスを利用して、戦死や戦傷をネタに幕府に恩賞を要求しなかった。 武士は恩賞いらなかったのか?
身内に死者が出たら恩賞を請求するはずで そうすれば必ず記録が残るはずだからな
>>213 >弘安の役の鷹島での似たような状況はあれほど生々しく書いてあるのに?
面白いことに文永・弘安の役における八幡ノ蒙古記には共通ている点がある。
それは基本、武士を嘲笑している八幡ノ蒙古記が「少弐景資」が登場するとやたらと
活躍させてしまうことだ。弘安の役の鷹島から逃げ去る元軍船に攻撃を仕掛けたのも景資指揮の軍船。
さらにwiki情報になるが、少弐景資が敗死した岩門合戦に景資側に「箱崎社執行成直」なる
人物が参加していたみたいだね。この辺が景資への特別な思い入れ結局、自社の思い入れ次第で活躍させたり、
私情が思い切り注がれてるのが八幡ノ蒙古記なんだろうね。
言っとくけど、金方慶伝に書いてある軍議で撤退決定したのって壱岐だぞ。 暴風雨に遇った元船が漂着した場所は、対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、志賀島2艘、小呂島2艘、 カラチシマ3艘、アク郡7艘で壱岐が突出して多い。 つまり、元軍は壱岐沖で暴風雨に遇ったってこと。 金方慶伝は、夕暮れに自然休戦になって軍議して撤退したその夜暴風雨に遇ったって書いてるんだから、 暴風雨に遇ったのが壱岐沖なら軍議やったのも壱岐しか考えられないわけ。
>暴風雨に遇った元船が漂着した場所は、対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、志賀島2艘、小呂島2艘、 カラチシマ3艘、アク郡7艘で壱岐が突出して多い。 すまん、ソース希望。
ソースは年内にUPできるように今急いでまとめてる
確かに追撃が無かったと決めつける根拠は無いな。 パフォの説得力皆無の戦況経緯より興味深い。
パフォ爺の文章はもう見ただけで笑えるレベルになっちゃってるからなあ。
別に今に始まったことではない。 長文ジジイの文章はつねにお笑い担当。
228 :
名無し三等兵 :2012/12/03(月) 20:46:18.32 ID:hFwCgTmp
>>215 >武士に合戦で追い返されたって帝王編年記に明記してある。
「追い返す」なんてのは「退散」とたいして変わらない。
単に戦があった、結果として敵は帰った、それを一言で言えば「追い返した」だ。
229 :
名無し三等兵 :2012/12/03(月) 20:49:50.66 ID:hFwCgTmp
>>217 >元軍は天気無視・風待ち無視の強行撤退をする必要は全くない。
ループになっているが、いづれは撤収しなければならない短期作戦の軍隊が、敵軍のいなくなった
夜を困難な水際撤収のチャンスと見た、それだけで十分だ。
>また、博多の町を占領しなかったことは甚だ不可解だ。
占領しなかったを既定事実にしているが、占領しなかったという証拠は無い。
占領したという史料が無いと言うだろうが、それは占領しなかったことの証明にはならない。
積極的に占領しなかったと言っている史料もまた無いからだ。
不可解なら占領したんだろうよ。
>気付かれてはいけない日本軍(元軍の言うところの『大敵』)の存在が元軍(元軍の言うところの
『小敵』)の周囲にあったと考えるべきだろう。
その日本軍はどこにいたのか、ぜひ教えてくれ。
それからどうでもいいが、「小敵の堅、大敵の虜」というのは「頑強な小勢の敵にこだわっていると
大勢の敵に包囲される」という意味だ。孫氏の兵法にある。
いくらなんでもじぶんのことをを「小敵」「敵」とは言わない。
>>「倭兵大敗」のような戦いは祖原の周辺では確認されないし、全く別の戦場だ。
その戦場はどこか、ぜひ教えてくれ。
230 :
名無し三等兵 :2012/12/03(月) 20:54:15.85 ID:hFwCgTmp
>>218 >小規模な局地戦があったのは「前半」に限定されていることで一致している。
前半だって繰り返し突撃していいではないか。竹崎、白石が許されるならなんで自分が・・とウズウズして
いる武士はいくらでもいただろうに。
>早良郡から元軍が上陸したことを受けて馳せ向かうように武士らに下知が下ったことが確認できる。
それが全軍に下った命令か、それとも博多周辺に箱崎、沖の浜、住吉と三カ所あった陣地のうち
一部の陣地の武士に下った命令だったかは分らない。
一部だったとすれば福田もまだ前半戦だ。全軍だったとすればこの時点で博多を放棄したことになる。
>元軍は諸軍が協力して戦ったのにも関わらず、大苦戦を強いられ「策疲乏之兵」という状態に陥った
朝から(一部は徹夜で)戦っていれば兵が疲れるのは当たり前。苦戦と言っても相対的な問題だ。
日本軍はもっと苦戦を認識していたかも知れない。
>自軍を少ないと感じさせるほどの大会戦があったということを彼らは証言してくれている。
「我師雖少」は4万は少ないと言っている感じがする。「小敵之堅、大敵之擒」については
上で言った。それだけで元軍が大損害を被って兵力が減ったという証拠にはならないだろう。
231 :
名無し三等兵 :2012/12/03(月) 20:55:49.47 ID:hFwCgTmp
>>219 >元軍が博多湾に上陸して明確に戦死が確認できる武士は「光友又二郎」という武士たった一人だけ。
だから日本軍の戦死者は一人だったって? 「記録が無ければ事実も無い」がここまで 来るとはね。
それは別として、君は引付の記録を知っているらしい。ぜひそれを教えてくれ。
232 :
名無し三等兵 :2012/12/03(月) 21:00:12.98 ID:hFwCgTmp
>>230 訂正
日本軍はもっと苦戦を認識 → 日本軍はもっと苦戦を意識
「記録がなければ事実なし」と言えない ↓ 「記録はないが事実はあったに違いない」 これを論理飛躍と言う。
>>230 忽敦の撤退論を読めば、明白に戦況不利と認識しての撤退論だと分かる。
肉体的疲労が原因じゃない。疲労した兵と言うのは撤退論の理由の1つの例示に過ぎない。
お前は強引にすり替えてるんだよ、馬鹿
なんか、突っ込み所が満載過ぎて困るな 無いことの証明(極めて困難)が出来ないから有ったとか 孫子(武人の常識)の定型句の中の「敵」を捕まえて自分のことを敵といわないとか そもそも、故小敵之堅、大敵之擒也ってそんな意味だっけ?とか 4万が少ないと言ってるのなら、結局兵力不足で継戦不能じゃねえか?とか 武士の戦死者が恩賞の対象になり、子孫が恩賞の権利を主張する際に重要な根拠になるのに記録が一人。 →御家人クラス(一族郎党の指揮官)の戦死者は少ないのでは→苦戦してれば戦死者の記録がもっと出てもいいのではないか。 というのを戦死者一人とか さらっと見ただけでこれだけは指摘できる
>>228 >単に戦があった、結果として敵は帰った、それを一言で言えば「追い返した」だ。
戦いがあった、結果、追い返された、つまり元軍は敗北したとなるね。
八幡ノ蒙古記を妄信してる君からみたら、敗北には見えないらしいけど。
>ループになっているが、いづれは撤収しなければならない短期作戦の軍隊が、敵軍のいなくなった
夜を困難な水際撤収のチャンスと見た、それだけで十分だ。
ループになるのは仕方ない。君の回答が全く的を得ていないからね。
ほう、チャンスとみたということは俺の言った「気付かれてはいけない日本軍(元軍の言うところの『大敵』)
の存在が元軍(元軍の言うところの『小敵』)の周囲にあったと考えるべきだろう。」を認めることなるがいいのか?
敵を敗走させて、夜陰に紛れて強行撤収するのをチャンスとは言わない。
撤収のチャンスとは、周囲に敵が存在して始めて成り立つものだ。
>占領しなかったを既定事実にしているが、占領しなかったという証拠は無い。
占領したという史料が無いと言うだろうが、それは占領しなかったことの証明にはならない。
積極的に占領しなかったと言っている史料もまた無いからだ。
馬鹿なことを言ってはいけない。当時の博多は数万人も暮らす日本有数の大都市だ。
さらに櫛田神社や承天寺、謝国明らが存在していたが、誰も元軍が博多を占領したということは
触れていない。また、大都市を一時期占領されたというのに、日本国中、誰もが触れていない。
それだけではない。大都市であり、略奪の絶好の的であったろうが、そういった元軍による被害も
博多が焼き討ちにあって復興されたという形跡すらもないのだ。
博多を占領されたと考える必要がある人物は「日本軍が負けていなければ困る」人物だけだ。
>その日本軍はどこにいたのか、ぜひ教えてくれ。 どこにいたか日本側に資料がないので、現代でそれを知ることは不可能。 ただし、元軍の周囲にいたことは当時の元軍の様子からわかる。 もう一度、貼っておこう。 日本軍全軍が13kmも離れた水城に敗走していたなら、元軍は天気無視・風待ち無視の強行撤退をする必要は全くない。 また、博多の町を占領しなかったことは甚だ不可解だ。 軍議にみられるように、元軍は上陸地点を背に「背水の陣」の兵法を持ち出していることからわかるように、上陸地点に逼迫していた。 上陸地点から全く動けない状況だった。 元軍がなぜ風待ちや天気待ちをすること無く「夜陰」に拘ったかというと、日本側に気付かれるのを恐れたからだ。 君のいうように日本側が13kmも向こうの水城へ敗走したなら、全くそのように恐れる必要は無かった。 気付かれてはいけない日本軍(元軍の言うところの『大敵』)の存在が元軍(元軍の言うところの『小敵』)の周囲に あったと考えるべきだろう。
>>その戦場はどこか、ぜひ教えてくれ。
日本側の資料に該当する資料は無い。整合性のある資料が無いということは場所を推し量るのは不可能。
少なくとも祖原周辺でそのような戦闘は存在しなかった上に、鳥飼潟を制圧したのは日本側である以上、
君の恐らく妄想しているであろう鳥飼潟=倭兵大敗でないことは間違いないようだ。
ところで、
>>219 にあるように八幡ノ蒙古記のような大敗があれば、絶好の戦傷・戦死による恩賞のチャンスなのだが
なぜ残っていないのか、説明してくれないか?ぜひ、教えて欲しいのだが。
>前半だって繰り返し突撃していいではないか。竹崎、白石が許されるならなんで自分が・・とウズウズして
いる武士はいくらでもいただろうに。
そう、そういう武士の絶好のチャンスが訪れた。すなわち、少弐が元軍の上陸地へ馳せ向かうよう武士らに下地を
下したのだからね。
スルーされたので、もう一度言うが、博多に武士らが集合しており、西進の命令が下され、さらに元軍が東進していれば
必然的に大会戦となる。鳥飼潟周辺での武士側の記録が集中しているのはそのためだ。『高麗史』の「諸軍與戰、及暮乃解」
とはこの時の戦闘のことだったのだろう。
>それが全軍に下った命令か、それとも博多周辺に箱崎、沖の浜、住吉と三カ所あった陣地のうち 一部の陣地の武士に下った命令だったかは分らない。 一部だったとすれば福田もまだ前半戦だ。全軍だったとすればこの時点で博多を放棄したことになる。 「箱崎、沖の浜、住吉と三カ所あった陣地」そんな事実は無い。数千の軍勢が一箇所に集中すれば 沖の浜だけでは収容できず、広く散開しているのは当たり前。 違った地名に軍勢がいるからといって、全く違う3つの軍勢の集合とするのは拡大解釈であろう。 博多放棄?言ってることが意味不明だが、それで結構。早良郡に日本軍は馳せ向かった。 そして、少弐系図にあるように、少弐家も参戦するほどの大規模な戦が早良郡内で行われた元軍は 撃退されたのだ。 >朝から(一部は徹夜で)戦っていれば兵が疲れるのは当たり前。苦戦と言っても相対的な問題だ。 日本軍はもっと苦戦を認識していたかも知れない。 なるほど。元軍は一日の戦いで疲兵したため、忽敦は「日ごとにます衆に敵するは完計にあらざるなり」と心配したのだな? たった一日の戦いの疲れで、これから敵と戦うことを諦めてくれる忽敦はなんと優しい人物なのだろう。
>「我師雖少」は4万は少ないと言っている感じがする。「小敵之堅、大敵之擒」については 上で言った。それだけで元軍が大損害を被って兵力が減ったという証拠にはならないだろう。 感じがするときたか。「背水の陣」「焚船」は劣勢の軍勢が布く陣だ。さらに金方慶は「また戦わせてほしい」ともいう。 「また」ということは裏を返せば、今回の作戦は失敗であり、敗北したことを金方慶が認めたようなもの。 そういった戦況認識の中で「我師雖少」と言ってるのは、明らかに「諸軍與戰、及暮乃解」の戦いで苦戦したことを 表わしていることは疑いようがない。 八幡ノ蒙古記を妄信するあまりに、高麗史にこれだけ元軍の苦戦のキーワードがあるにも関わらず、高麗史にまで超解釈を 持ち出してくるとは本当に毎度のことながら呆れる。 >だから日本軍の戦死者は一人だったって? 「記録が無ければ事実も無い」がここまで 来るとはね。 それは別として、君は引付の記録を知っているらしい。ぜひそれを教えてくれ。 戦死者が確認できるのが一人ということは裏を返せば、日本側に戦死者が少なかったことを意味する。 当時は戦死、戦傷は恩賞の対象だ。戦死者が大量に出ていれば、武士らも喜び勇んで自らの戦傷や味方の戦死を アピールしたはずだからね。
早くレスよろしくね。 明日は忙しいからできれば、今日中にレスをお願いしたい。
この人、根幹に『八幡ノ蒙古記』があって、その他の辻褄の合わない資料を 無理矢理捻じ曲げて『八幡ノ蒙古記』に合わせようとするから本当にタチが悪いね。 確信犯なのか、無意識なのかは不明だけど。
>>「我師雖少」は4万は少ないと言っている感じがする。「小敵之堅、大敵之擒」については 上で言った。それだけで元軍が大損害を被って兵力が減ったという証拠にはならないだろう。 これはひどいw少ないって感じたということは苦戦したってことじゃねえかw よっぽど日本軍が勝ったという事実が気に食わないとしか思えない解釈ばっか。
>>244 確信犯だろ
言うまでもないだろうけど、合戦関係で一番重視するのは当事者史料と当時の日記だ
戦記物語とか縁起物語を使う場合はそういった一次史料と照らし合わせてのクロスチェックは必須なんだが……
そういった作業が煩雑すぎるから秀吉祐筆の「中世治乱記」が史料化されないとか弊害もあるんだがね
あと八幡系の縁起はどれが原本に近いのかの決定のめども立ってないよく言えば自由採用悪く言えば適当に使える史料なんだからクロスチェックは必須なんだよ
してない学者多いけどな
俺は史学出身だからよくわからんのだけど、こういったことの検証って出身学問関係なくこんな感じだよな?
史料つかって頓珍漢なことされるから不安なんだが……
元寇本て、書店で見てる程度の市販本だと似たり寄ったりの仮説が多いけど、 まともな政治史・軍事史的観点から書かれてる論文集なり、BNなり、専門書なりあったら随時教えてほしい。 いま出てる史料類の解釈が細かくなってきたので、少し頭に入れておきたい。
そもそも『八幡ノ蒙古記』は事実と相反することばかり。 例えば、八幡ノ蒙古記では「菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、 かけいて、頸とも数多とりつけ」と菊池勢は菊池武房以外は戦死したように なっているが、実際は弟の菊池有隆・康成や家臣団らは戦死していない。 日本軍の損害を誇張、もしくは捏造しようという著者の性格がこのことからも うかがえる。 また、竹崎季長は鳥飼潟で負傷して戦線を離脱しているのにも関わらず、八幡ノ蒙古記では なぜか竹崎が「文永の役」において「竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主矢野種保兄弟、船にかゝりしほ」と 元軍の船に攻撃を仕掛けたことになっているんだよね。もちろん、文永の役で竹崎は「海戦」のようなことは 一切行っていない。 では、著者はどこからこういった嘘を持ち出してきたかというと蒙古襲来絵詞に該当場面がある。 ただしそれは、なんと「弘安の役」における場面であり「竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主矢野種保兄弟、 船にかゝりしほ」の絵があるのだ。あの有名な竹崎が元軍船に乗り込んで蒙古兵の首を 掻き切っている絵だ。竹崎とともに元軍船に乗り込んでいるのは「天草城主矢野種保兄弟」 というのも一致している。 ところが、八幡ノ蒙古記は蒙古襲来絵詞よりも早い1285年に書かれたとわざわざ、文末に記されている。 しかし、上記のように蒙古襲来絵詞を参考にしていることが伺えるため、作成時期は蒙古襲来絵詞より 後、もしくは改竄が行われた信頼性のはるかに低い資料だということがうかがえるのだ。 さらに八幡ノ蒙古記は竹崎が鳥飼潟で戦線を離脱していたにもかかわらず、 パフォ君が後半戦とする「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」に 竹崎の名が連ねられていたりする。
『蒙古襲来絵詞』によると、竹崎は文永の役において「郎党の戦死も敵兵を討ち取ることもありませんでした」 と安達泰盛に証言しており鳥飼潟での負傷で戦線を離脱していたのであり、散々戦って大敗北を喫したとする パフォ君の後半戦とやらに参加していない。 つまり、八幡ノ蒙古記のいう大敗北戦には実際は戦闘に加わっていなかった人物が戦闘に参加させられているなど 明らかに捏造の手が加えられているのだ。なぜ、そういった捏造の手を加えなければならなかったかというと 著者はその日本軍大敗北戦の後で、自社の八幡神が降臨して元軍を撃退したということを強調するためだったと 思われる。 「日本軍の大敗北戦」が神の活躍には必須条件だったからだ。 日本軍が元軍を撃退しましたでは、神が活躍する場面は全く挿入しようがない。 日本軍が敗退した後、神が降臨して元軍を撃退したとするのは八幡ノ蒙古記にある 「さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、 偏に神軍の威徳厳重にして、不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ」、これを言いたかった からだということがわかる。 このような偽書、信用度の遥かに低い資料を無批判に受け入れているのがパフォ君。 そして、このような偽書、胡散臭い資料を根幹にその他八幡ノ蒙古記に都合の悪い資料を 超解釈・曲解で無理矢理捻じ曲げて、八幡ノ蒙古記の記述に合わせようとしているのがパフォ君。 もはや、信仰としか言いようが無いね。
訂正 1285年→1289年ね
でも、神仏やそれに仕える人々が意地汚く恩賞を要求したりするだろうか? 武士たちを貶めるようなことを書く必要なんてあるのかなあ? 関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館) ・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい 矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。 同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。 弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として 四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、 そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』 正応六年三月二十八日「太政官牒」)。 ・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての 異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・ 祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。 神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の 軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。 ・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、 これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、 などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。 ・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。 すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と その軍忠に対しての当然の恩賞だった。
やっぱり日本は神の国なんだな アメリカに負けたのはおかしいな
今日23時からのNHK「さかのぼり日本史」だと、幕府滅亡の原動力を幕府の強硬外交に求めるみたいだね 幕府誕生から約100年、「文永の役」を乗り切るも次なる襲来の危機にさらされていた13世紀の日本。 その時期にあって、元は日本に平和的に服属を求めていたが、執権・北条時宗は要求を全て無視し元の使者も斬り捨て、強硬路線を貫く。 その結果14万人もの元・高麗の軍勢が来襲。 武器のみならず鍬など農具まで持ち込み日本を占領する動きを見せる。 最終的に暴風雨に救われるも、外圧をテコに支配体制を急速に強化したことが、北条一門への不満を増大させ、さらには恩賞未払いなどの火種を生み出し、幕府崩壊の原動力となった。 元寇船の水中調査の成果などを踏まえながら、蒙古襲来の実態や幕府の対外姿勢をみていく。
>>251 八幡ノ蒙古記の著者がいたとされる箱崎宮は、海外貿易を行う貿易集団という一面もあった。
太宰府も海外貿易を行っており、箱崎宮と太宰府は敵対関係にあった。
さらに、そういった背景から箱崎宮は、文永の役の100年ほど前には太宰府軍によって攻撃を受けており
宝物の略奪にあうなどしている。
箱崎宮が自社の功績を誇るだけでなく意地汚く武士を描いたのもそういった背景があったのだろう。
>>251 あの時代に意地汚く自らの既得権益にしがみつき
土地、金、権力を我が物にしていたもののひとつが寺社勢力。
箱崎は利権のからむ貿易都市博多も近いところから武士だけでなく
林立する寺、僧侶、博多商人たちとも対立していた。
256 :
名無し三等兵 :2012/12/04(火) 11:27:42.90 ID:HgBhh/7I
>>236 >追い返された、つまり元軍は敗北したとなるね。
その通り。元軍は戦略的には敗北したとは前から言っている。
私が言っているのは、「追い返した」は「退散した」と同じで、元軍撤退の具体的状況
(自主撤退か、敵前水際撤退か)を表していない、ということだ。
>敵を敗走させて、夜陰に紛れて強行撤収するのをチャンスとは言わない。
>撤収のチャンスとは、周囲に敵が存在して始めて成り立つものだ。
なるほど、ダンケルク、ディエップの状況になってはじめて撤収のチャンスなのだな?
>当時の博多は数万人も暮らす日本有数の大都市だ。
なんだかんだを全部集めても博多占領がなかったという証拠にはならない。積極的に
「博多占領はなかった」と書いてある史料が出てくるまではね。日本軍が博多を撤収した
ことは認めているらしいから、船を持つ元軍は博多占領の自由を得たとは言えるだろう。
>少人数の敵が力量を顧みずに堅守すれば必ず大敵の虜になる
その前から読めばその意味だとわかった。これは私の間違いを認める。
ただし、損害を受けて少数になったというのではなく、もともと4万(実働2万)では
足りないのに敵はどれだけいるかわからない、という基本的な不安を言ったものだろう。
>どこにいたか日本側に資料がないので、現代でそれを知ることは不可能。
>ただし、元軍の周囲にいたことは当時の元軍の様子からわかる。
水城だって十分に「周囲」だ。13kmなど馬で来れば1時間だ。
君の言う「周囲」とは誇り高き封建領主たる武士たちが野伏せりのように鳥飼潟の近くの
野山に夜通し張り付いていることを意味するのか?
257 :
名無し三等兵 :2012/12/04(火) 11:35:04.87 ID:HgBhh/7I
>>239 >日本側の資料に該当する資料は無い。整合性のある資料が無いということは場所を推し量るのは
不可能。 (<「倭兵大敗伏屍如麻」の戦場)
君は竹崎、白石などが戦った緒戦の相手が高麗軍であることを主張している。それならば高麗軍
の総司令官であり、中軍をみずから率いた金方慶が祖原山の本陣にいたことは推定できるだろう?
祖原山が当面の敵の本陣であったことは絵詞の詞と絵からわかる。その祖原山から眺めた形容が
上記の言葉だ。祖原山でなくとも祖原山から見える範囲には間違いないではないか。
>前半だって繰り返し突撃していいではないか。竹崎、白石が許されるならなんで自分が・・と
ウズウズしている武士はいくらでもいただろうに。
>そう、そういう武士の絶好のチャンスが訪れた。
なるほど、前半戦にも複数の突撃があったことを認めたくれたわけか。有り難う。
>鳥飼潟周辺での武士側の記録が集中しているのはそのためだ。
戦われた全ての戦闘が鳥飼潟周辺であったことは前から言っている。なぜなら百道原も、赤坂山も、
祖原山も、すべて鳥飼潟周辺にあるからだ。
258 :
名無し三等兵 :2012/12/04(火) 11:35:38.25 ID:HgBhh/7I
>数千の軍勢が一箇所に集中すれば沖の浜だけでは収容できず、広く散開しているのは当たり前。 広く散開って、この時代に散兵線はないだろう。それに「収容できない」だけの理由で配置するとは 軍事板らしくもないな。 私が思うに、日本軍の作戦は当初、あくまで博多防衛だった。だから想定される上陸地点である 箱崎と沖の浜にまず陣地を構えた。さらに西方から陸路で来る敵に備え、併せて湾奥の浜を守るために 住吉神社付近に側防陣地を構えた。この住吉陣地に景資がいた(絵詞による)。 竹崎は住吉陣地で景資に会った。白石も住吉陣地にいて竹崎の出撃を知り、その後詰めを志願した。 だからこそ救援に間に合った。こういう経過だと思う。 住吉陣地はもともと西方を担当しているのだから、緒戦の段階ではこの陣地の兵が鳥飼潟方面に出撃 した可能性が高いのだ。 >明らかに「諸軍與戰、及暮乃解」の戦いで苦戦したことを表わしていることは疑いようがない。 元軍撤退の一つの要因が「苦戦」であったことは前から言っている。なによりも「及暮乃解」すなわち 自然休戦、交すい状態で終わったことがそれを表している。奉天会戦の西部戦線と同じだ。両軍共に 苦戦だったのだ。 >戦死者が確認できるのが一人ということは裏を返せば、日本側に戦死者が少なかったことを意味する。 「元軍そのまま撤退説」の学者の言い方もそれだ。ほんの僅かな資料に書いてあることを「全て」に あてはめる。僅かな資料と言えば福田文書もそうだが、それには福田が「希に存命した」すなわち 幸運でない人はみな死んだ、と書いてあるではないか。
259 :
名無し三等兵 :2012/12/04(火) 11:38:08.05 ID:HgBhh/7I
>>258 訂正
希に存命した → 希有に存命した
パフォ爺は全部間違っていたと訂正しとくといいよ。
>なんだかんだを全部集めても博多占領がなかったという証拠にはならない。積極的に >「博多占領はなかった」と書いてある史料が出てくるまではね。 この論理がまったく理解できない
はあ、鶴翼の陣なんてものが古来から有りますが。 まあそれを散兵戦術と混同して実行すると見事に破綻しますけどね。 散開するから散兵は論理の飛躍。まして戦線の長さ当たりの兵数が変わらないならなおさら。
飛躍がパフォ爺の持ち味だしねw
元軍は壱岐対馬、そして九州の沿岸も攻撃したので、これで日本は恭順すると思ったので退却したら暴風雨に遭って沈没しました。 とか書いてる学者がいたww
>>259 >その通り。元軍は戦略的には敗北したとは前から言っている。
私が言っているのは、「追い返した」は「退散した」と同じで、元軍撤退の具体的状況
(自主撤退か、敵前水際撤退か)を表していない、ということだ。
合戦があり、結果追い返されたなら戦術的に敗北だろう。
「退散」と「追い返す」は同義語ではない。退散には自主撤退の余地が入り込むが
「追い返す」とは自主の意思が入り込むことなく、追い詰められて逃げだすことをいうのだ。
つまり、『帝王編年記』の記述は元軍が戦術的に敗北して逃げ去ったということを
示唆している。
>なるほど、ダンケルク、ディエップの状況になってはじめて撤収のチャンスなのだな?
パフォ君は高麗史を読んだことが無いらしい。高麗史によれば「諸軍與戰、及暮乃解」 とあり
夕暮れになって日本軍からの攻撃が収まった「隙」をついて逃げ出したのだ。
まとめれば、こういうことになる。「元軍は日本軍と戦闘を解した隙をついて、こっそりと夜陰に紛れて遁走した」
>なんだかんだを全部集めても博多占領がなかったという証拠にはならない。
無いものを証明することを悪魔の証明という。博多占領の証拠が無いということは
つまり、そのような事実は無かったということだ。
ましてや、博多は日本有数の大都市だ。占領されたという証拠が無いなど不自然極まりない。
>ただし、損害を受けて少数になったというのではなく、もともと4万(実働2万)では 足りないのに敵はどれだけいるかわからない、という基本的な不安を言ったものだろう。 パフォ君は高麗史を本当にちゃんと読んだことがあるのか怪しくなってくるね。 金方慶が提案した「背水の陣」や「焚船の兵法」は劣勢の軍勢が使用するものであり、 「また戦わせていただきたい」と忽敦に懇願しているところを見ても、「諸軍與戰、及暮乃解」での 初日の作戦は失敗したのであり、元軍は劣勢だったことがわかる。 そういった戦況認識の中で 金方慶が自軍のことを「我師雖少」と感じたということだ。 それに対する忽敦の回答が「小敵之堅、大敵之擒」であるのだから、「諸軍與戰、及暮乃解」 の戦いを受けた結果、忽敦が兵力不足を感じたということだろう。 「余裕で勝ったけど、敵の数が不明で不安だから撤退しよう」ではなく 「今日の戦いでは敵は意外に多く、わが軍は兵力が足りなかった。さらに敵はますます増えるだろう。 もうダメだ。撤退しよう」と言っているのだ。 >君の言う「周囲」とは誇り高き封建領主たる武士たちが野伏せりのように鳥飼潟の近くの 野山に夜通し張り付いていることを意味するのか? 君は日本軍を敗走に追いやった八幡ノ蒙古記を信仰しているのではなかったのか? 潰走した敵軍が13kmも向こうまで、逃げていったのなら周囲を警戒して、天候無視・風待ち無視 「夜陰」に紛れてこっそり撤退する必要性がない。 「夜陰」に拘ったのは、周囲に全く潰走していない攻撃心旺盛な日本軍がおり、翌日から再び日本側から襲撃を 受ける可能性があったからだ。 元軍が博多を占領しなかったのも、日本側が周囲にいたからだということを裏付けている。 そのような慌しい撤退をしなければならなかったということは、裏を返せば元軍は八幡ノ蒙古記のような 大勝利を挙げることができなかったということがわかる。
>君は竹崎、白石などが戦った緒戦の相手が高麗軍であることを主張している。 俺のレスを勝手にパフォ君の妄想に摩り替えないでもらいたいね。 小規模の突撃を行う部隊がいた=それは高麗軍を対象としたとは一言も言っていないのだが。 それと「倭兵大敗」と「鳥飼潟」は全く違うのは上でも述べた。もう一度言うと「倭兵大敗」では日本兵は 戦場放棄して、戦場を制圧したのは高麗軍であるのに対して、鳥飼潟の戦場を制圧したのは日本軍 だからだ。また、「倭兵大敗」では高麗軍の中軍が「分道而進」つまり、進軍中に倭兵の攻撃を受けたのに 対して、鳥飼潟では「すそはらにちんをとりて、いろゝゝのはたをたてならへて、らんしやうひまなくして、ひしめきあふ。」 とあり、元軍はすでに布陣を終えていた。つまり、「倭兵大敗」は竹崎らが鳥飼潟で戦う以前の元軍進軍中における戦いで あるということがわかるのだ。 >戦われた全ての戦闘が鳥飼潟周辺であったことは前から言っている。なぜなら百道原も、赤坂山も、 祖原山も、すべて鳥飼潟周辺にあるからだ。 なるほど、博多から馳せ向かった日本軍が鳥飼潟周辺で「諸軍與戰、及暮乃解」の戦闘を展開したことを 認めてくれたんだね。有り難う。 >広く散開って、この時代に散兵線はないだろう。それに「収容できない」だけの理由で配置するとは 軍事板らしくもないな。 私が思うに〜は余計だな。妄想をダラダラと書かれてもねえ。 わかっていることは少弐景資が沖の浜に軍勢が集中するように指令を出した事、そして武士らに 元軍上陸地へ馳せ向かうよう指令があったこと、少弐景資も早良郡へ向かったということだけだ。 そもそも、住吉に陣地を布いたというのも想像にしかすぎない。蒙古襲来絵詞に描かれているのは 「住吉鳥居」だけだ。例えば、奈良の春日大社などは一ノ鳥居と社殿の距離は1,2km、鶴岡八幡宮社殿と ニの鳥居の距離がおよそ1kmある。つまり、蒙古襲来絵詞に鳥居が載っているからといって少弐景資が 住吉にいたというのは憶測でしかない。
それと「住吉神社付近に側防陣地を構えた」とするなら、博多の町を盾にすることになるだろう。 沖の浜から箱崎は約2km、沖の浜から住吉まで約1.5km(鳥居の位置は不明) 九州の軍勢が集中するとしたら、それぐらいの範囲は必要だろう。 >竹崎は住吉陣地で景資に会った。白石も住吉陣地にいて竹崎の出撃を知り、その後詰めを志願した。 だからこそ救援に間に合った。こういう経過だと思う。 違うね。赤坂での戦勝の報告を聞いた少弐が考えを改めて、「各可相向当所蒙仰之間」と早良郡へ馳せ向かう ように命令を下したからだ。 竹崎の郎党は竹崎らが鳥飼潟に着いた時には「後方から味方が続いて参りましょう」と述べている。 竹崎らも、後方から白石が来るとは知らなかったはずだが、後方の少弐の陣の動きがわかっていないにもかかわらず 後方から味方が現れると確信していた。 それは、赤坂の戦勝があって後方が動くと考えたからとしか考えられない。 ところで、箱崎には豊後守護の大友頼泰の軍勢が描かれており、この辺りには豊後勢が犇いていたのかもしれない。 鳥飼潟に馳せ向かった都甲惟親も豊後の御家人であり、箱崎にいた豊後勢も「各可相向当所蒙仰之間」の命令を受けて 早良郡へと馳せ向かったものとみられる。
>元軍撤退の一つの要因が「苦戦」であったことは前から言っている。なによりも「及暮乃解」すなわち 自然休戦、交すい状態で終わったことがそれを表している。奉天会戦の西部戦線と同じだ。両軍共に 苦戦だったのだ。 大分進歩したではないか。八幡ノ蒙古記の日本軍が全く手も足も出ず一方的に大敗したという戦況に 少しは不信感を抱いてくれたものと受け取ろう。 >僅かな資料と言えば福田文書もそうだが、それには福田が「希に存命した」すなわち 幸運でない人はみな死んだ、と書いてあるではないか。 パフォ君は福田文書をちゃんと読んだのかも疑問だな。福田兼重は「馳入大勢之中、令射戦之時」とあるように 元軍の大軍の中に深く馳せ入り、射戦の際に負傷してしまい、「凡雖為大勢之中」、つまり元軍の大軍の 中に深く馳せ入ってしまいながらも「希有仁令存命」、つまりは奇跡的に存命したと言っているにすぎない。 全く同じような場面が『蒙古襲来絵詞』にもあり「ゐてきのなかにかけいり、みちやすつゝかさりせハ、しぬへかりしみなり、」 とあるように、竹崎も深く突撃してしまい、危うく戦死するところだったと言っている。 これは自分のことを言っているのであって、他の御家人のことを言っているのではない。
NHKは今日も「さかのぼり日本史」で電波垂れ流しそうだな。
皆の予想通りの番組だったわw 石井みたいな奴が教授って日本ってほんと平和だよねぇ
観なくて良かった。時間の無駄だし、観てもイライラするだけ。
最新の資料でとか言いつつ言ってる事が今じゃ否定されてる学説の羅列っていう 一次資料とかまったく読んでないのがもろバレ
石井正敏氏の専門は中世や元寇でなく、古代東アジア外交史とやら 一次資料とか読んでなくてもおかしくない
新井孝重といい今回の石井といい最近は専門外のことをしたり顔で発言する学者が多いな いや、多分無茶振りされてるんだろうけどもうちょい勉強しようぜと……
和弓って曲射することあったの? 元軍は集団曲射で面制圧すると聞いた
本当に糞みたいな番組だな。 「暴風雨が無ければ防塁を破られた可能性がある」とか。 元軍より圧倒的に戦況を優位に進めていた豊臣秀吉の日本軍に対しては 蔚山城で餓えていた一部の日本軍を抜き出してさも日本軍全体が餓えていたような 印象操作してまで日本軍の苦戦を強調していたくせに。
ベクトルは逆だが隣国の教育を馬鹿にできんなw
NHKはむしろ元軍をバカにしすぎじゃね?
NHKの目的は、現在の日本と重ねて、幕府の強硬姿勢を批判することでしょ。 そのためなら、モンゴルをピエロにでもなんでもする。
番組見てないけど嵐のタイミングで何故海上にいたかを考えさせない構成なら 馬鹿にしたことにはならないんじゃないかな そこを説明にかかると、純粋な戦闘では元軍の方が圧倒的に強いって設定では どうやっても元軍バカスwwうぇwwwwww って結論になりそうだけど
喧嘩が強いだけの低脳土人モンゴルがNHKの公式見解
NHK的にはモンゴルが馬鹿になる結論でも全然OK 特定アジアへの反発高まる本邦の強硬外交を支持する意識をくじくことだから
そもそも、クビライは幕府に使者を派遣する一方で日本侵攻することを高麗に明言して 戦争準備をさせていたわけだが、NHKは一切触れずに元軍の使者を「貿易を求める友好の使者」みたいな 扱いだからな。 本当に狂ってるとしか言いようがない。 何度も使者を送っていたのは南宋との戦争が激しさを増して、日本と戦争する余裕が無かったからだ。
訂正 元軍→元
東征都元帥洪茶丘が武士に追い回されて逃げ回ったり、「日本兵突進官軍潰」(高麗史)という戦況だったり 志賀島を放棄して逃げ出したり、東征都元帥忻都が撤退することを考えたりすることが NHKに言わせると「一進一退」の戦闘らしい。どれだけ、武士が勝ったことが気に食わないだろうね。
江戸幕府に関しては再評価が進んできたんだが、鎌倉幕府に対してはまだまだ偏見が多い。
実際江戸や戦国に比べて研究あんま進んでないんじゃないの? 今ひとつ政治、文化、生活やらが印象薄いというか自分が日本史習った時はこれといったフックのない時代て印象
本来なら元寇って滅茶苦茶デカいフックだと思うけど
一応中世にあるまじき裁判システムを持ってたり特色はあるんだけどね>鎌倉幕府 ただ三問三答にかんしては図が載せられてるだけだったりものすごいスルーされてるっていうね…… 元寇はあれだよ。中世史でいろいろ有名な網野が適当ぶっこいたおかげで研究遅れてるし 教科書の作成に携わってるのってガチ左派教授だし
鎌倉幕府成立時の事情があれなんで積極的に触れたくないのは感じるな だって皇国史観的に足利尊氏が大悪人なら 承久の乱の事後処理はもっと巨悪のはずでなんで大宣伝しなかったのかと
結局、古代人・古代国家路線の元王朝は 封建国家に突入した日本の敵ではなかったという事か。 日清戦争でも封建制を潰した(廃藩置県)日本が 日本では言えば鎌倉以前の古代王朝のまんまの清に勝利したように 勝って当然の戦いをしていた日本って、雑魚いじめのプロ(´・ω・`) 諸外国弱すぎ
>>288 戦国だってつい最近まで江戸時代の軍記物ベースで語られてたからね
294 :
名無し三等兵 :2012/12/05(水) 21:55:06.29 ID:l0Cf58bs
>>265 >「追い返す」とは自主の意思が入り込むことなく、追い詰められて逃げだすことをいうのだ。
いやいや、一号君(勝ち勝ち山の狸一号君)だって「昨日借金取りが来たけど追い返したよ」ぐらいは
言うだろう。これだって必ずしも「叩き出した」という意味ではない。
>「元軍は日本軍と戦闘を解した隙をついて、こっそりと夜陰に紛れて遁走した」
軍事板なのだからもうすこしリアリティのあることを言ってくれないと困る。
大軍の撤退は夜通しかかっただろう。それさえ無理だと言う専門家もいる。撤退を始めれば
馬は鳴くわ、大勢が歩くわ、舟は呼ぶわ、相当な物音だ。
その間日本軍はそれに気づかないような距離にいたのか。それなら冬の寒空に中途半端な場所に
野宿しなくとも、馬なら1時間で来れて食糧も臥所もある水城へ帰ったほうがよいではないか。
一号君のメンツのために水城へ帰してもらえない日本軍は可哀想。
295 :
名無し三等兵 :2012/12/05(水) 21:56:23.87 ID:l0Cf58bs
>>266 >「今日の戦いでは敵は意外に多く、わが軍は兵力が足りなかった。さらに敵はますます増える
>だろう。 もうダメだ。撤退しよう」
すばらしい! 名訳であると同時に私の主張を代弁してくれている。その通り、もともと足りないと
意識していたのであって、大損害を受けて減ったと言っているのではない。
>そのような慌しい撤退をしなければならなかったということは、裏を返せば元軍は八幡ノ蒙古記
>のような大勝利を挙げることができなかったということがわかる。
その「大勝利」は日本側の受けた印象だ。日本側は元軍の内情を知ることはできなかった。
「元軍も損害を受けて苦しかった」などと書いてないからこそ、当時の日本側が受けた印象を
素直に書いていることがわかるのだ。
296 :
名無し三等兵 :2012/12/05(水) 21:57:19.86 ID:l0Cf58bs
>>267 >小規模の突撃を行う部隊がいた=それは高麗軍を対象としたとは一言も言っていないのだが。
嘘をついてはいけない。一号君は
>>200 で次のように書いている。
「これ(倭兵大敗伏屍如麻)は高麗軍のそれも三翼軍のひとつの中軍と小規模な武士との戦いで
極小規模な局地戦だ。」
>すそはらにちんをとりて、いろゝゝのはたをたてならへて、らんしやうひまなくして、ひしめき
>あふ。」 とあり、元軍はすでに布陣を終えていた。
この文章のどこから、これが高麗軍でなくて蒙漢軍だと判断できるのか教えて欲しい。
色々の旗を立てたり、銅鑼をたたいたりするのは蒙漢軍の特徴なのか?
>なるほど、博多から馳せ向かった日本軍が鳥飼潟周辺で「諸軍與戰、及暮乃解」の戦闘を展開し
>たことを認めてくれたんだね。有り難う。
戦場は鳥飼潟周辺しかなかったことは前スレからずっと言っているのだが、やっと理解してくれた
んだね。有難う。
鳥飼潟戦しかなかったこと、それが両軍の決戦であったことが「元軍そのまま撤退」の証拠だと
いう学者先生もいるが、この論法が成り立たないことも、ついでに理解してくれれば尚有り難い。
【キーワード抽出】
対象スレ: 【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 4
キーワード: 一号君
294 名前:名無し三等兵[] 投稿日:2012/12/05(水) 21:55:06.29 ID:l0Cf58bs
>>265 >「追い返す」とは自主の意思が入り込むことなく、追い詰められて逃げだすことをいうのだ。
略
抽出レス数:1
298 :
名無し三等兵 :2012/12/05(水) 21:58:21.95 ID:l0Cf58bs
>>268 >蒙古襲来絵詞に鳥居が載っているからといって少弐景資が住吉にいたというのは憶測
沖の浜に住吉の鳥居があったというのも憶測だが、いまのところ元寇当時の住吉神社の絵図が
ないのでなんとも言えない。一号君の考え方を補強するものとしては絵詞の、景資が陣地で
「沖の浜を固めそうらえ」と繰り返しふれていたと言う記述がある。住吉にいてこれを下知するの
も実は変なのだ。まあ住吉陣地があったかどうかはたいしたことではない。無くても一部への
指示の出しようはあるだろう。いわゆる戦闘記録に出てくるのが中小御家人ばかりであるのも
一つのヒントだ。
>九州の軍勢が集中するとしたら、それぐらいの範囲は必要だろう。
それは考え過ぎだ。絵詞を見ても「箱崎の陣」という言葉を用いているし、「沖の浜に軍兵その数
を知らず」と言っているから狭い沖の浜に主力が集中していたことがわかる。その間は空いていたのだ。
>それは、赤坂の戦勝があって後方が動くと考えたからとしか考えられない。
そうとも言えない。景資が武士の出撃をさかんに押さえているのに、竹崎の先駆けを簡単に許した。
それを見て周りの武士達は色めきたっただろう。竹崎の部下はその空気を感じていて、あの様子なら誰か
が続いて出て来る、と考えたかも知れない。
>箱崎にいた豊後勢も「各可相向当所蒙仰之間」の命令を受けて早良郡へと馳せ向かったものとみられる。
もしそうならそれは博多箱崎放棄になるので、朝方の早い時間ではない。筥崎宮の神官達が約10キロ
先の避難先に着いたときはもう暗かったのだから、 避難が始まったのは早くとも午後だ。
299 :
名無し三等兵 :2012/12/05(水) 21:59:16.96 ID:l0Cf58bs
>>289 >大分進歩したではないか。
ちっとも進歩していない。両軍ともに苦戦であったことはずっと前から言っている。進歩したのは
私の考え方に対する一号君の理解度だ。
>つまりは奇跡的に存命したと言っているにすぎない。
>これは自分のことを言っているのであって、他の御家人のことを言っているのではない。
その通りだが、福田は竹崎のように少数で行ったのではなく百人ぐらいの集団で突っ込んだのだろう。
その中で「希有に」助かったと言うのだから、自分のことを言いながらも自ずから集団のなかの犠牲が
多かったことを露呈しているのだ。
その「苦戦」の結果、夜陰に紛れて冬の玄界灘に出帆してるのに、 パフォはほんとに進歩がねえわ
希有に生き残ったというのは、日本人同士なら確実に死ぬような 状況に飛び込んでしまったが、敵があまりにも弱かったので生き残った と言うことでも説明可能だな。
>>298 >>箱崎にいた豊後勢も「各可相向当所蒙仰之間」の命令を受けて早良郡へと馳せ向かったものとみられる。
>もしそうならそれは博多箱崎放棄になるので、朝方の早い時間ではない。筥崎宮の神官達が約10キロ
>先の避難先に着いたときはもう暗かったのだから、 避難が始まったのは早くとも午後だ。
それは博多箱崎放棄じゃないじゃん。
圧倒的優勢の日本軍が戦線押し上げて元軍追い払ったのを、箱崎の神官が勝手に勘違いしただけで。
>>299 >いやいや、一号君(勝ち勝ち山の狸一号君)だって「昨日借金取りが来たけど追い返したよ」ぐらいは
言うだろう。これだって必ずしも「叩き出した」という意味ではない。
ほう、その借金取りが「殴りかかってきて殴り合いのケンカになり、部屋から借金とりを追い返したよ」が「たたき出した」という意味に
ならないのか?パフォ君は自分の主張と反している資料は、曲解で捻じ曲げる典型例として良い例になった。
>大軍の撤退は夜通しかかっただろう。それさえ無理だと言う専門家もいる。撤退を始めれば
馬は鳴くわ、大勢が歩くわ、舟は呼ぶわ、相当な物音だ。
だから、「夜陰」に拘ったのだよ。辺り周辺は真っ暗闇だ。船もわざわざ呼びに行くなんてことはない。
上陸地点、それも浜辺を背に陣を布く元軍の陣地の中に存在していた。
元軍が上陸をして、上陸艇が引揚げてしまっては、大敗北した時に元軍はどうするつもりだったのだ?
船を呼びに行って、隠れて船を待っているのか?
それと馬が陣地に沢山いるのだから鳴くのは当然のこと。撤退となんら関係ない。
それにパフォ君はなぜ、夜襲というのがあるのかを考えなければならない。
それは敵の動きが「暗闇」で予想がつきにくいからだ。
味方の陣地の周辺ですら全く敵兵の動きの見当が付かず、敵兵の動きを見落とし結果、戦史において敗北を喫した
例が多々ある。さらに元軍の撤退の場合は元軍が「日本軍の陣地に忍び寄った」のではなく、「すべてが元軍の陣の中での
出来事」だ。元軍の陣地の中の「暗闇」で何が行われているかなど、日本側がわからなくても特に不自然なこと
ではないね。
>すばらしい! 名訳であると同時に私の主張を代弁してくれている。その通り、もともと足りないと 意識していたのであって、大損害を受けて減ったと言っているのではない。 元軍は「もともと足りないと 意識していた」のではない。「諸軍與戰、及暮乃解」の戦いで劣勢であり それを受けて「兵が少ない」と言っているのだ。 読まずにレスをしているようなので、もう一度載せておいてあげよう。 金方慶が提案した「背水の陣」や「焚船の兵法」は劣勢の軍勢が使用するものであり、 「また戦わせていただきたい」と忽敦に懇願しているところを見ても、「諸軍與戰、及暮乃解」での 初日の作戦は失敗したのであり、元軍は劣勢だったことがわかる。 そういった戦況認識の中で 金方慶が自軍のことを「我師雖少」と評した。 それに対する忽敦の回答が「小敵之堅、大敵之擒」であるのだから、「諸軍與戰、及暮乃解」 の劣勢により、忽敦が兵力不足と感じていたのは金方慶と同様なのだ。 パフォ君にわかるように彼らの本意を文章を付け足してまとめるとこうなる。 「諸軍與戰、及暮乃解」の戦いではわが軍は劣勢であった。理由は敵が意外に多く、わが軍は兵力が 足りなかったことによる。さらに敵はますます増えるだろう。 もうダメだ。撤退しよう」とこうなる。
>「これ(倭兵大敗伏屍如麻)は高麗軍のそれも三翼軍のひとつの中軍と小規模な武士との戦いで 極小規模な局地戦だ。」 俺の書いてあるとおりだ。 俺は「倭兵大敗」の戦闘は高麗軍の一部の中軍との戦闘であることは何度も主張しているが、「小規模の突撃を行う部隊がいた=そのすべてが「倭兵大敗伏屍如麻」の高麗軍の一部である中軍との戦闘だったなんて一度も言った覚えは無いがね。 パフォ君は読まずに頓珍漢な回答ばかりするから、同じことを何度も言わないといけないね。もう一度、貼っておこう。よく読みなおすように。 小規模の突撃を行う部隊がいた=それは高麗軍を対象としたとは一言も言っていないのだが。 それと「倭兵大敗」と「鳥飼潟」は全く違うのは上でも述べた。もう一度言うと「倭兵大敗」では日本兵は 戦場放棄して、戦場を制圧したのは高麗軍であるのに対して、鳥飼潟の戦場を制圧したのは日本軍 だからだ。また、「倭兵大敗」では高麗軍の中軍が「分道而進」つまり、進軍中に倭兵の攻撃を受けたのに 対して、鳥飼潟では「すそはらにちんをとりて、いろゝゝのはたをたてならへて、らんしやうひまなくして、ひしめきあふ。」 とあり、元軍はすでに布陣を終えていた。つまり、「倭兵大敗」は竹崎らが鳥飼潟で戦う以前の元軍進軍中における戦いで あるということがわかるのだ。
>この文章のどこから、これが高麗軍でなくて蒙漢軍だと判断できるのか教えて欲しい。 色々の旗を立てたり、銅鑼をたたいたりするのは蒙漢軍の特徴なのか? 高麗軍の一部の中軍が「倭兵大敗」させた戦闘では、高麗軍は進軍中だった。 進軍中だった高麗軍中軍は「倭兵大敗」の後、蒙漢軍とともに「諸軍與戰、及暮乃解」の戦いを展開している。 これと武士側の記録を照らし合わせてみよう。 まず進軍した元軍の先陣が赤坂に陣を布いていたが敗北し、敗走した先陣が向かった先は、すでに布陣を完了させていた 祖原の元軍のもとに合流した。この状況はまさしく高麗史のいう「諸軍與戰」という元軍共同による戦闘の序幕だった と思われる。 根拠として、武士側の記録がこの祖原の陣の軍勢との戦いの記録しか存在しないこと、『少弐系図』に祖原に近い百道原で 蒙古軍大将が射倒した記録があり、元側の史料に射倒された人物に蒙漢軍の劉復亨の名があることから、蒙漢軍との戦闘であることがわかる。 それとパフォ君に質問なんだけど、逆に祖原の陣の軍勢が高麗軍という根拠を教えて欲しいね。 恐らく、根拠はパフォ君の「戦死者の記録が一切残っていない謎の後半戦なる戦闘があったという妄想」しかないのはわかってるけどあえて訊いてみよう。
>戦場は鳥飼潟周辺しかなかったことは前スレからずっと言っているのだが、やっと理解してくれた んだね。有難う。 なら、日本軍の戦術的勝利を認めてくれたんだね。なぜなら、鳥飼潟周辺の戦闘記録はすべてが「日本軍の勝利」で一致しているからね。有難う。 >それは考え過ぎだ。絵詞を見ても「箱崎の陣」という言葉を用いているし、「沖の浜に軍兵その数 を知らず」と言っているから狭い沖の浜に主力が集中していたことがわかる。 『蒙古襲来絵詞』に描かれている箱崎には豊後の大友頼泰の軍勢が描かれている。 そして沖の浜には少弐の軍勢が集結していた。便宜上、陣をわけて書き記しているのは、同じく鎮西奉行である少弐氏と大友氏が それぞれ少弐氏が「沖の浜」に大友氏が「箱崎」に陣を強いていたからにすぎない。しかし、日本軍全体を統率するのは 「日の大将」少弐景資だ。だからこそ、少弐景資が早良郡に馳せ向かうよう命令を下した「各可相向当所蒙仰之間」の際に 都甲惟親ら豊後の御家人らが鳥飼潟に駆けつけて戦功に名を連ねているのだ。
>それを見て周りの武士達は色めきたっただろう。竹崎の部下はその空気を感じていて、あの様子なら誰か が続いて出て来る、と考えたかも知れない。 パフォ君はいつも反論できなくなると、かもしれないに逃げるから困る。かもしれないなら、どんな論でも成り立つ。 それに後方から武士が来るかもという憶測のもとで「御かたハつゝき候らん、御まち候てせう人をたて ゝ御かせん候へ」と断言できるものではない。 >ちっとも進歩していない。両軍ともに苦戦であったことはずっと前から言っている。進歩したのは 私の考え方に対する一号君の理解度だ。 君の考えとは『八幡ノ蒙古記』の都合のいいところを抽出し、それを根幹にしてその他を捻じ曲げて曲解しながら 組み立てていく考え方のことだろう?それなら、残念ながら全く理解度があがっていない。すまないね。 >その中で「希有に」助かったと言うのだから、自分のことを言いながらも自ずから集団のなかの犠牲が 多かったことを露呈しているのだ。 全く違うね。福田が稀有に助かったのは自分が突出しすぎて負傷してしまい、大軍に取り囲まれたのに負傷しながらも 危機的状況を脱したからだ。 現に竹崎季長のように郎党を無視して、一人突撃を行う向こう見ずの武士が存在している。また、大軍の中に突撃しながらも「稀有に」 助かったということは『蒙古襲来絵詞』と同じようなことが福田の時にも、福田のまわりにいた元軍は日本軍に蹴散ら されたから脱出できたのだ。
パフォ君の脳みそでは勝ち戦なら「稀有に戦死しなかった人物」がいないらしく、戦勝軍はみなターミネーターのような 兵士らしい。 実際、武家側の記録では福田兼重が「大軍の中に深く馳せ入って負傷しながらも稀有に戦死しなかった」 戦いは日本側が勝利している。戦死しなかったのは味方が福田を包囲している蒙古兵を蹴散らして脱出しからだな。 >その間日本軍はそれに気づかないような距離にいたのか。それなら冬の寒空に中途半端な場所に 野宿しなくとも、馬なら1時間で来れて食糧も臥所もある水城へ帰ったほうがよいではないか。 一号君のメンツのために水城へ帰してもらえない日本軍は可哀想。 いや、かわいそうなのはパフォ君のメンツで「敗走したことにされてる日本軍」だよ。 元軍を上陸地点に釘付けにし、元軍内で劣勢の軍勢が使用する「背水の陣」や「焚船」を提案したり 「これ以上日本軍と戦ったら捕虜になってしまう」と追い詰められていた元軍を「日本軍が勝利したことが 気に食わない」という理由だけで、証拠もなく博多を元軍が占領したとしたり、資料に残っている蹴散らされた 元軍をみな高麗軍に摩り替えたり、夜陰に紛れて遁走したのを「余裕の撤退」に摩り替えたり、日本軍可哀想。
>>293 のぼうを史実だと思ってる自称専門家の多いこと多いこと。
>>292 世界初の不換紙幣(政府の信用だけが価値の根源)を広く流通させたんだけど
ちなみにドル金交換停止で完全に米政府の信用だけが価値の根源になったのは1971年
312 :
名無し三等兵 :2012/12/07(金) 20:02:35.77 ID:zcm9peL+
>>305 >三翼軍のひとつの中軍と小規模な武士との戦いで極小規模な局地戦だ。
>「倭兵大敗」は竹崎らが鳥飼潟で戦う以前の元軍進軍中における戦いであるということがわかるのだ。
 
なるほど、小規模より小さな極小規模か。小規模の突撃は50~100人なのだから極小規模とは2,30人か?
たった2,30人を潰滅させたことが麗々しく高麗史に載り、クドゥンもまた「これ以上の戦い方はない」
と言って誉め讃えたわけか。いささか苦しいな。
 
>「倭兵大敗」は竹崎らが鳥飼潟で戦う以前の元軍進軍中における戦いであるということがわかるのだ。
 
進軍中の戦いは「殺す所は過当なり」で終わっている。一つの戦いの記述は戦果で終わることで統一
されている。だから「倭兵突き至りて中軍を衝き」から別の戦いが始まって「伏屍如麻」で終わり、合流
した本隊のクドゥンが戦果を賞め、「諸軍與戦」につながる。「中軍を突き」の戦いへのつながりが
唐突なようだがこの位は高麗史の記事では当たり前、軍議だって突然始まる。
 
>元側の史料に射倒された人物に蒙漢軍の劉復亨の名があることから、蒙漢軍との戦闘であることがわかる。
 
諸軍與戦なのだからいずれ蒙漢軍は出てくる。劉復亨が鳥飼潟周辺で負傷したからと言って朝方の緒戦の
相手も蒙漢軍であったという証拠にはならない。
313 :
名無し三等兵 :2012/12/07(金) 20:04:42.86 ID:zcm9peL+
>>307 >鳥飼潟周辺の戦闘記録はすべてが「日本軍の勝利」で一致しているからね。
 
日本軍勝利を示す戦闘記録はない。白石は祖原山を落としていない。福田は負傷したと言っているだけ。
日田は姪浜まで行ったが姪浜を落としたとは言っていない。それならただ駆け抜けただけの可能性もある。
都甲はただ鳥飼潟で戦ったことがわかるだけ。
 
前にも書いたが、「戦いは鳥飼潟しかなかった」「鳥飼潟は決戦だった」「だから元軍は敗北し、そのまま
撤退した」が「そのまま撤退説」の学者先生の論理なのだが、この論理がむちゃくちゃであることは言う
までもなかろう。
314 :
名無し三等兵 :2012/12/07(金) 20:08:14.73 ID:zcm9peL+
>>308 >いつも反論できなくなると、かもしれないに逃げるから困る。
 
「かもしれない」が何が悪いのか。「・・としか考えられない」と断定して結ぼうが、「かもしれない」と
可能性で結ぼうが、どちらも直接証拠のない推定であることに変わりはない。問題は語尾でなく推定の内容だ。
その意味では、大将でも参謀でもない一兵卒の郎党が:
●今それを聞いたばかりの「博多を固守せよ」という大将の命令が、赤坂が落ちたぐらいでころっと180度
変わって「全軍出撃せよ」になるであろうと予想するのと:
●自分たちが先駆けに出撃するのを見て周りの武士たちが色めき立つのを体感したが故に、あのなかから誰か
は後詰めに出て来ると予想するのと、
どちらがリアリティがあるかな?
 
>現に竹崎季長のように郎党を無視して、一人突撃を行う向こう見ずの武士が存在している。
 
竹崎は先駆けという、とにかく突っ込むだけが目的の特殊なケースだ。それに対して武士たちの基本的な
戦法は白石勢突撃図に見るように緊密な隊形を組んだ騎兵の集団突撃であった。このことは「騎兵結束」の
ような言葉で元側の資料にも出ていたのではないか?
そのような集団戦法において、もし福田が一人だけ突出したとするならば、それは上記の集団がばらばらに
なるような乱戦であったことを意味する。ばらばらになれば犠牲者も出やすい。
もちろん集団のまま削り取られた可能性もある。
315 :
名無し三等兵 :2012/12/07(金) 20:11:18.71 ID:zcm9peL+
>>309 >実際、武家側の記録では福田兼重が「大軍の中に深く馳せ入って負傷しながらも稀有に戦死しなかった」
>戦いは日本側が勝利している。
 
前記したように「日本側が勝利」したことを示す史料はない。凶徒が引き退くと言ってもモンゴル流の戦術的
退却と区別できない。姪浜まで行ったと言ってもただ駆け抜けただけかも知れない。元軍にして見れば
100騎ほどの騎兵の小集団なら、ただ通してやるのが最も犠牲の少ない戦法だ。通してやりながら周りから
射ればそこそこ損害を与えられるしね。
 
>>303 >だから、「夜陰」に拘ったのだよ。辺り周辺は真っ暗闇だ。
>元軍の陣地の中の「暗闇」で何が行われているかなど、日本側がわからなくても特に不自然なことではない
 
夜の撤退だからその前提で物音の話をしているのに、日本軍が気づかなかった理由が「夜陰」だとは、
思わず噴いたよ。
ところで一号君に聞きたいが、夜通し元軍を見張っていたのに元軍撤退の物音に気づかなかった日本軍は、
敵軍からどの位の距離にいたのかな? 数百メートル? 1キロ? 数キロ?
質問は場所ではなく距離だから、これは答えられるよね? 「史料」がなくても。
316 :
名無し三等兵 :2012/12/07(金) 20:14:48.82 ID:zcm9peL+
312~315 訂正: メールからコピペしたら「 」という文字が入った。 これは空行だから無視してね。
>>313 いや、戦闘記録はあきらかに日本軍勝利を示してるよ。
竹崎、白石、都甲は麁原に布陣する蒙漢軍と鳥飼で戦ってる。
ところが福田は鳥飼から百道原へ突破してるんだから、蒙漢軍の麁原は破られてるわけ。
日田に至っては海岸で元兵殺しまくってるんだから、完全に組織崩壊起こしてるじゃん。
絵に描いたような日本軍の圧勝だろ。
318 :
名無し三等兵 :2012/12/07(金) 21:24:44.24 ID:zcm9peL+
>>317 >ところが福田は鳥飼から百道原へ突破してるんだから、蒙漢軍の麁原は破られてるわけ。
必ずしもそうは言えない。鳥飼潟は塩田だからかなりの部分が通れた。福田は鳥飼塩浜から潟をつっきって
まっすぐ百道原へ行った可能性がある。
このルートならば祖原山はバイパスする。
>>315 >たった2,30人を潰滅させたことが麗々しく高麗史に載り、クドゥンもまた「これ以上の戦い方はない」
と言って誉め讃えたわけか。いささか苦しいな。
苦しくないね。高麗史によれば金方慶が大喝したところ、恐れをなした「倭兵は辟易して逃げ出した」とある。
日本軍が多ければ、たった一人の将軍が大喝したからといって、どうってこともあるまい。よって日本兵の兵力は
数十人程度。
結局、日本兵は金方慶が率いる高麗軍の一部である中軍より圧倒的に少なかったということになる。高麗軍の総兵力を
約5500人として、そのうち中軍は高麗軍の三翼軍の一つであることから、3で割れば中軍の兵力は1800人といったところか。
その1800人の軍勢に数十人が襲い掛かってきて、金方慶が大喝し逃げ出した日本兵を追撃して皆殺しにし「倭兵大敗」させた戦いなど小規模な戦闘以外の何者でもない。
忽敦は「これ以上の戦い方はない」 など言っていないね。これから戦うにあたって高麗軍の中軍が数十人を皆殺しにしたことに
対して「蒙古兵と比べても劣らない」と褒めただけ。規模が大きいとか小さいとか褒めるのに関係あるまい。
想像してみたらいい。これから本格的な戦いが始まるという進軍中に日本兵の死体が数十体横たわっていたら、幸先よく
忽敦も感じて褒めたくもなるだろう。
>>315 >進軍中の戦いは「殺す所は過当なり」で終わっている。一つの戦いの記述は戦果で終わることで統一
されている。だから「倭兵突き至りて中軍を衝き」から別の戦いが始まって「伏屍如麻」で終わり、合流
した本隊のクドゥンが戦果を賞め、「諸軍與戦」につながる。「中軍を突き」の戦いへのつながりが
唐突なようだがこの位は高麗史の記事では当たり前、軍議だって突然始まる。
全く違うね。「殺すところは過当なり」は三郎浦から上陸して進軍している元軍全体のことを言っているのだ。
その次の分が「倭兵、突き至りて中軍を衝き」とわざわざ、主体に「中軍」という単語が唐突に出てきていることから
前文の文の主体は中軍のことを言っているのではなく、主体は「元軍」のことであることがわかる。
そして、道を分かれて進んだ元軍は、本戦である「諸軍與戦」へと繋がる。
>諸軍與戦なのだからいずれ蒙漢軍は出てくる。劉復亨が鳥飼潟周辺で負傷したからと言って朝方の緒戦の
相手も蒙漢軍であったという証拠にはならない。
後から参戦したとしても、結局、鳥飼潟の戦闘は日本側は勝利を収めており、後から参戦していようが最初からいようが
問題ではないね。重要なのは、鳥飼潟に蒙漢軍が参戦しながらも、元軍が蹴散らされたことだ。
>日本軍勝利を示す戦闘記録はない。白石は祖原山を落としていない。福田は負傷したと言っているだけ。
日田は姪浜まで行ったが姪浜を落としたとは言っていない。それならただ駆け抜けただけの可能性もある。
都甲はただ鳥飼潟で戦ったことがわかるだけ。
日本軍が勝利を示す記録が無い?パフォ君は『蒙古襲来絵詞』や『福田文書』、『日田記』などの戦闘記録を読んだことが無いとは驚かれた。
もしくは相当な脳内変換で大得意の曲解でそう見えないのかもしれないが。
鳥飼潟に現れた元軍は白石らの日本勢に蹴散らされて、元軍は祖原山に駆け上がり(祖原山は小山でわずかしか収容できず、恐らく指揮官クラスだけが
小山に駆け込んだ)、そして『福田文書』によれば元軍の鳥飼潟で敗れた「大勢」が百道原の平地へ敗走した。
そして『日田記』ではさらに「百道原」やさらにその奥で「姪浜」でも「合戦二討勝テ、異賊ヲ斬ル事夥シ」という大勝利をあげている。
これら日本側の勝利クの記録を否定しなければならない理由はただ一つ。 パフォ君の考える「八幡ノ蒙古記の都合の良いところを抽出し、都合の悪い資料は曲解で捻じ曲げて組み立てた 僕の考えた戦況」と違うから、以外には無い。 >竹崎は先駆けという、とにかく突っ込むだけが目的の特殊なケースだ。それに対して武士たちの基本的な 戦法は白石勢突撃図に見るように緊密な隊形を組んだ騎兵の集団突撃であった。このことは「騎兵結束」の ような言葉で元側の資料にも出ていたのではないか? とにかく、この時代の武士は向こう見ずの勇猛な武士が多かった。元側の資料に「人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」や 「倭人は狠、死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。」という証言からそれを伺える。 つまり、竹崎のような武士は特殊ではなく、日本軍全体によく見られた光景だったのだ。 また、福田文書は幕府に証人をたてて戦功を申し立てた文書だ。福田兼重は文書の中で「分捕りままならず」と蒙古兵を一人も討てなかったことを記しており、 ただ負傷したことだけが戦功であったため、「稀有に戦死しなかった」と自らが命を賭して戦った事をアピールする必要もあったという背景もあったと思われる。 もっと言えば、勝ち戦だからといって「戦死しそうになった」人物がいない戦争など存在しない。 >凶徒が引き退くと言ってもモンゴル流の戦術的 退却と区別できない。姪浜まで行ったと言ってもただ駆け抜けただけかも知れない。 元軍にして見れば 100騎ほどの騎兵の小集団なら、ただ通してやるのが最も犠牲の少ない戦法だ。通してやりながら周りから 射ればそこそこ損害を与えられるしね。 パフォ君は本当に曲解が大好きだね。 で、戦術的退却をした後、なぜ元軍と日本軍の戦闘記録が無いのだ?そして、なぜ博多湾沿岸の戦死者の記録がたった一人 しか存在しか残っていないのだ?戦傷と戦死は戦功の対象となる。これを理由に武士が恩賞を要求した資料は存在しない。また、単なる偽装退却の戦闘に記録が集中するわけがない。
なぜ、早良郡での戦いの記録しかないか?答えは簡単、早良郡での戦闘は偽装戦闘ではなく、元軍が死闘を尽くして劣勢に追い込まれた「諸軍與戰、及暮乃解」の戦いであったからだ。 >夜の撤退だからその前提で物音の話をしているのに、日本軍が気づかなかった理由が「夜陰」だとは、 思わず噴いたよ。 ところで一号君に聞きたいが、夜通し元軍を見張っていたのに元軍撤退の物音に気づかなかった日本軍は、 敵軍からどの位の距離にいたのかな? 数百メートル? 1キロ? 数キロ? 日本軍が陣を布くのに都合の良い赤坂以東にいれば、百道原から赤坂まで約4kmもある。 元軍が博多を占領できなかったのは、博多の側面である赤坂付近に日本軍が存在したからだと思われる。 また、元軍が撤退した夜は「会々、夜、大いに風雨す」とある。元軍が出航した途端に晴れた空が一変し 暴風雨になったとも思えない。決戦のあった夜は博多湾は風が徐々に吹き始め、にわか雨が降り出していても 特に可笑しくない。4kmも離れたところに元軍が存在し、風の音、にわか雨の音の中で暗闇に元軍が逃げ出して 気付かなくても特に可笑しく無いね。日本軍に夜襲する気がないのなら、自分の陣地の周辺にだけ警戒を張り巡らして おけばいいのだから、元軍の陣地の中でこそこそと逃げ支度していようがそんなのは知れるわけがない。 けったいなのは元軍は日本軍を破ったが、博多を占領することも無く、天候や風待ちをすることも無く、慌しくその日に 逃げ出したというトンデモを信じてるパフォ君。
前に年内にUPすると書いた
>>137 と
>>222 のソース、一応自分のブログにUPした。
元軍が夜に嵐に遭ったのは壱岐沖なんだから、夜陰にまぎれて撤退したのも
博多湾からじゃなく壱岐からとするべきだと思うんだ。
アドレス貼った方がいい?
せっかくなので貼って欲しいです
>>323 おお、ありがとう
ここ最近の元寇論文は一通り目を通したけど確かに安国論私抄は使われてなかったな。
新田次郎と川添昭二も確認してみたが使ってないわ。
日付に関しちゃ史料間の相違を指摘してるのは「文永の嵐」の服部だけだな。あれは軍事評価が頓珍漢で使えないが
日付に関しても撤退したのは24日だって指摘して『八幡愚童訓』の否定したいだけだったみたいだし。
いや『八幡〜』は史料としちゃ微妙だから否定的見解は必要なんだがね。それ以外がね
>>326 なんだあんただったのか。
久々の更新乙。
これはすごい発見だな。 文永の役で資料が少ないが上にパフォ君みたいなトンデモ論を堂々と主張する人物がいることに ウンザリしていたが、これは少ない文永の役の資料の中でもかなり具体的だ。
博多から出航したその夜のうちに壱岐に着くのは確かに不可能だな。 じゃあ、壱岐で損害を受けたのは壱岐から出航したその夜ということか。
ちょっと待ってくれ。お説を三行にすると 1 金方慶率いる高麗軍は、壱岐までしか行っていない。九州まで来たのは蒙古軍 2 九州に上陸した蒙古軍は日本軍に一蹴され、壱岐まで撤退した。問題の軍議の場所は壱岐。 3 軍議において作戦続行不能・即時撤退を決し、「壱岐を出航した夜」に嵐に遭遇 と言う流れでOK? この場合、九州まで来た兵力は従来の考えより少なくなるから在地武士に 撃退されたというのも納得いくし、制圧した対馬・壱岐に兵を残さず全軍で九州に行った不自然も 解消するけど、元軍の九州撤退の状況が不明になるかな。あと、例の軍議で金方慶の主張が 「高麗軍を加えた全兵力を持って、九州に再侵攻しよう」になるのか。
日ごろ疑問だったのがクドゥンの発言に「日ごと滋す衆に敵するは、完計に非ざるなり」と あるのが不思議でならなかった。だって、元軍はたった一日の戦いで、今戦っているのが 日本軍の一部であり、今後増えるなんてことは分からないはず。日本軍の総兵力など元軍が 知っているはずがない。 それに比べて、壱岐での追撃戦なら、壱岐で元軍が抵抗をすればするほど、博多湾から追撃の兵が 続々と到着するので「日ごと滋す衆に敵するは、完計に非ざるなり」と発言するのも理解できるな。
>>332 無灯火の中世世界なら
行軍する兵や野営の篝火なんて10キロ先からでも見える
日本人の死者195人って少なすぎね? 圧勝すぎだろ。
>>332 日ごと滋すの「滋す」は兵力のことじゃないかもよ。
押しまくって勢いに乗る武士らに比べて、初日で大苦戦を強いられ劣勢に追い込まれた蒙古軍は「疲乏の兵を策して」
つまり、意気消沈している軍でこれに対抗するのは無理だと言ってるように思える。
素朴な疑問だが、高麗兵と蒙古兵って どうやって意思の疎通を図ったんだろう? ましてや南宋人まで混じったらカオス状態な気が・・・ 何語で喋ったん?(´・ω・`)
>>336 お互いにそこそこの部隊なら簡単な漢字を読み書きできるのが一人ぐらいはいただろうから
筆談で
これが英仏独その他の言語が入り乱れてた十字軍になると
相互に意思を伝えられるラテン語の読み書きができたのは
司令部ぐらいにしかいなかったはず
>>337 筆談か、モンゴル人って漢字も書けたのか。
てっきり文字を書ける人って、あの時代には極少数かと思っていたよ
軍議の場所が壱岐で、高麗軍が壱岐攻略に用いられ、蒙漢軍が九州本土での戦いに投入されて撤退したと見ると、
金方慶が戦闘継続を主張し、クドゥンが「小敵−大敵」のたとえを用いたのか理解できる。
>>335 ただ、「兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也」と言う一連の文章を見ると、
クドゥンは明らかに増援を予期していたでしょ。だいたい、10月20日の戦闘後の軍議で両将がこんな激論を戦わすような状況だったら、
その晩の遁走なんてあり得ないと思うんだな。その場合、金方慶伝に舞文曲筆があるとしか考えられない。
しかし壱岐説はそこを合理的に説明できる。
341 :
名無し三等兵 :2012/12/08(土) 21:17:19.24 ID:C8zFVM5d
>>319 >結局、日本兵は金方慶が率いる高麗軍の一部である中軍より圧倒的に少なかった
日本軍が戦術として小集団で突撃したことは狸一号君も認めるんだろ?その小集団と高麗軍全体を較べて
どうする。それとも日本軍が数千人一斉に進退した戦闘が別にあったと言うの? そんな訓練を御家人たち
はどこでやったのかな?
>忽敦は「これ以上の戦い方はない」 など言っていないね。「蒙古兵と比べても劣らない」と褒めただけ。
狸一号君は漢文を読めるのに読めない振りをしているな。「何をもってかこれに加えん」=「これ以上付け足す
ものは何も無い」=「これ以上の戦い方は無い」となるではないか。
342 :
名無し三等兵 :2012/12/08(土) 21:20:20.25 ID:C8zFVM5d
>>320 >前文の文の主体は中軍のことを言っているのではなく、主体は「元軍」のことであることがわかる。
>そして、道を分かれて進んだ元軍は、本戦である「諸軍與戦」へと繋がる。
高麗史は高麗の歴史だから元軍の動きを具体的に述べたりはしない。(弘安の役で洪茶丘の戦いを記述して
いるが、これは憎い洪茶丘の負け戦だから例外。またそれを救助した高麗軍の引き立て役)
「道を分って進む」とは高麗軍の左軍、中軍、右軍がそれぞれのルートを進んだことに他ならない。
>後から参戦していようが最初からいようが問題ではないね。
緒戦の相手が蒙漢軍であるとは限らないことをわかってもらえばそれでいいのだよ。
>そして『福田文書』によれば元軍の鳥飼潟で敗れた「大勢」が百道原の平地へ敗走した。
福田文書は元軍が鳥飼塩浜で「敗れた」とは言ってない。「引き退いた」と言っているだけ。だから戦術的退却
と区別できない。それを追った福田が大勢に囲まれて危なかったというところが戦術的退却の臭いがする。
また鳥飼の塩浜が鳥飼の塩屋と同一ならばここは白石らが一度敵を追い払ったところだ。そこにまた敵がいると
言うことは一進一退している。「そのまま撤退説」の言うように単純ではない。
343 :
名無し三等兵 :2012/12/08(土) 21:21:39.40 ID:C8zFVM5d
>>321 >福田兼重は文書の中で「分捕りままならず」と蒙古兵を一人も討てなかったことを記しており
福田も一号君も、正直なのに感心した。一つも首が取れないとはよほどのことだ。
>なぜ博多湾沿岸の戦死者の記録がたった一人しか存在しか残っていないのだ?
それは「みつともの又二郎」のことだろうが、その武士の戦死が記述される蒙古襲来絵詞は奇跡的に書かれた
私的記録だ。みつともの又二郎の戦死はなんらかの公的記録に残っているのか? もし残っていないのならば
みつともの例は戦死したことが確実でありながら公的記録のない戦死者の例だ。そしてこの例があると言うことは
同じような公的記録の無い戦死者が他にもいたことを示唆する。
344 :
名無し三等兵 :2012/12/08(土) 21:26:08.29 ID:C8zFVM5d
>>322 >なぜ、早良郡での戦いの記録しかないか?
答えは簡単、文永の役の二十日の戦いは緒戦も後半戦も、すべて鳥飼潟周辺で戦われたからだ。
「戦いの記録」のなかで菊池、竹崎、白石は明らかに緒戦だが、福田、日田、都甲はどちらの可能性もある。
しかしすべて鳥飼潟周辺だ。赤坂も含めてね。
>百道原から赤坂まで約4kmもある。
なるほど、一号君は日本軍が当日の夜、赤坂にいたと考えるのか。また「資料がないからわからない」と逃げる
のかと思ったが、聞いて見るものだな。しかし赤坂から百道までは4kmなどない。
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/kochizu/hakata/hakataohkozu.html に博多の古図がある。中央に上に伸びる山の多い半島が赤坂半島だ。その上の荒津と書かれた海中の山が
百道原の先端だ。そこから左に伸びる砂州が百道原だ。赤坂半島の先端から百道原へは徒渉できそうに描いて
ある。「冬の嵐」は実際に干潮時には徒渉できたとしている。赤坂から百道原へは、これほど近いのだ。
そこへ
>>333 君がいいことを言った。確かに夜の撤退には陸上でも海上でも灯火が動く。赤坂は約40mの高地で
ある上に、東に向かっては障害物がほとんどないから、10kmまで見えるという灯火は今津浜まで見通しだ。
赤坂の日本軍もなかなか気づかないわけには行くまいよ。
>>344 >日本軍が戦術として小集団で突撃したことは狸一号君も認めるんだろ?その小集団と高麗軍全体を較べて
どうする。それとも日本軍が数千人一斉に進退した戦闘が別にあったと言うの? そんな訓練を御家人たち
はどこでやったのかな?
へぇ〜、数千人が一斉に動くような戦闘が日本には無かったのかぁ。よくそんな戦い方で治承・寿永の乱や承久の乱
などの大規模な戦いをしてこれたもんだなあ。
もしかして、パフォ君は日本軍は一日中、小集団の突撃を繰り返してたとでも思ってるみたいだね。
『高麗史』にある「諸軍與戰、及暮乃解」にみられるように元軍が諸軍、協力して戦っても元軍が劣勢になるような戦い
が、一日中小集団の突撃で終始して行えるわけがない。
そもそも、福田文書によれば御家人に「各可相向当所蒙仰之間」と一斉に早良郡から上陸した元軍目指して進軍するよう
命令を下しているのがわかる上に、その日本軍が向かった先の早良郡で激戦が行われたことが武家側の記録で確認できる。
>狸一号君は漢文を読めるのに読めない振りをしているな。「何をもってかこれに加えん」=「これ以上付け足す
ものは何も無い」=「これ以上の戦い方は無い」となるではないか。
「蒙人、戦いに習うと雖も」とあり、蒙古兵と比べても「何をもってかこれに加えん」と言っているのだから
「蒙古人は戦いに慣れているが、高麗人の働きと比較して付け足すものは何も無い(劣っているところは無い)」と
言っている。褒めるのに、戦闘が大規模とか小規模とか一切何の関係も無い。
>福田文書は元軍が鳥飼塩浜で「敗れた」とは言ってない。「引き退いた」と言っているだけ。だから戦術的退却 と区別できない。それを追った福田が大勢に囲まれて危なかったというところが戦術的退却の臭いがする。 勝手に福田文書を改変してはだめだよパフォ君。福田文書は「懸落ちた」=「敗走した」となっており、元軍は日本軍と戦って 敗れて百道原へ敗走したと言ってるのだよ。いい加減、日本軍が勝利した資料の元軍を「高麗軍に摩り替えたり」、 「戦術的退却」に摩り替えたりするのはやめた方がいい。みっともないから。 >福田も一号君も、正直なのに感心した。一つも首が取れないとはよほどのことだ。 どうやら、パフォ君は近代の戦闘のように大量の戦死者が出る戦闘を中世の戦闘に求めているらしい。 中世の戦闘で軍の数十パーセントも戦死するような戦闘などほとんど無い。つまりは勝ったとしても大半の兵に敵兵の首級 が行き渡る戦闘など中世に存在しないのだよ。 >そしてこの例があると言うことは 同じような公的記録の無い戦死者が他にもいたことを示唆する。 そりゃあ、いるでしょう。そんなことは誰でも解ってることだ。問題なのは、戦死や戦傷は勲功になるにも関わらず 日本軍が後半戦で大敗したという妄想を唱えてるパフォ君の「日本軍の大敗北戦なる妄想戦」が実際に起こっていたなら 戦傷すら受けた人物の名前すら確認できないなんて有り得ないよねってことだよパフォ君。なぜなら、戦死、戦勝は勲功に なるからだ。
>答えは簡単、文永の役の二十日の戦いは緒戦も後半戦も、すべて鳥飼潟周辺で戦われたからだ。 「戦いの記録」のなかで菊池、竹崎、白石は明らかに緒戦だが、福田、日田、都甲はどちらの可能性もある。 しかしすべて鳥飼潟周辺だ。赤坂も含めてね。 後半戦なんてないね。蒙古襲来絵詞も福田文書も都甲惟親が戦ったのも「鳥飼潟」だ。 それを自分の都合で、戦闘を分割しようとするなら、一旦敗走した元軍が再進出したという 資料的裏づけが無ければ、蒙古襲来絵詞も福田文書も都甲惟親が戦ったのも同じ時間、同じ場所で 行われた戦闘以外の何者で無い。 それと、「(緒戦か後半戦か)福田、日田、都甲はどちらの可能性もある。」とした場合、パフォ君がこの世で 最も気に食わない日本軍の勝利という結果がパフォ君の妄想である「後半戦」にも適用されるけどいいのか? >なるほど、一号君は日本軍が当日の夜、赤坂にいたと考えるのか。また「資料がないからわからない」と逃げる のかと思ったが、聞いて見るものだな。しかし赤坂から百道までは4kmなどない。 資料が無くても推測はできるからね。元軍が上陸地点にいながらも博多に侵入できなかったのは 博多の西面、すなわち赤坂もしくは博多に日本軍がいたからとしか考えられない。 資料が無いのに、推測では無く、他資料の曲解で無理矢理こじつけて見てきたように言うのはこの世でも パフォ君一人だけだよ。 それとそれは間違いだと訂正しとくよ。赤坂から百道浜が2kmだし、気付かないわけも無いか。 どちらにせよ、元軍が上陸してきた時には日本軍司令部は元軍の上陸するところを襲うことも無かったし、 赤坂を占領された時も取り戻そうとは積極的にはしなかった。 日本側司令部は守備に徹する時は一貫していたわけでもあるし、元軍が出航したからといって撤退とも限らず 博多から上陸する可能性もあるわけだから、博多防衛に徹していたのだろう。 このようなことは弘安の役の志賀島における戦いでもあった。日本側は元軍を「敗績」させていたが だからといって、志賀島を放棄して撤退する元軍を追撃した形跡は特に無い。
訂正 劣っているところは無い→優っているところは無い
壱岐説はそれなりに説得力があるけど、劉復亨が「先に」船に登るとは壱岐で負傷したことにはならんかね? 後、鎌倉年代記は確かに24日に「異賊敗北」したとなってるけど、場所は「於大宰府」となってるのが引っかかるな。 この場合、壱岐説ならば「於壱岐」とならなければならない。24日というのは単なる誤記である気がするんだが。 追撃があったのは「菊池系圖」別本に明確に「追到對馬國、戮蒙古之將」とあるから信憑性は高いとは思うけど。
>>349 鎌倉年代記裏書は、合戦した場所ではなく合戦した組織系統について書いてるんじゃないかと
思うんだよね。
大宰府って防衛省みたいなものだから、本来なら有事の際は少弐入道覚恵が大宰府入りして
指揮を執る。
ところが文永の役では少弐入道覚恵の代わりに藤馬允って人が大宰府を訪れて合戦を指揮した
んじゃないかと。
劉復亨については、いろんな解釈が成立すると思う。
いずれにしろ今回の件で探せばまだまだ史料が見つかるってわかったから、これからも
いろいろ当たって見るつもりだけど。
351 :
名無し三等兵 :2012/12/09(日) 20:37:57.80 ID:oUBCMnQI
>>345 >日本軍は一日中、小集団の突撃を繰り返してたとでも思ってるみたいだね。
全くそう思っているよ。理由は簡単。そのような戦い方を示す資料「しか無い」からだ。
数千人が一斉に進退した資料の紹介よろしくね。
>元軍が諸軍、協力して戦っても元軍が劣勢になるような戦いが、一日中小集団の突撃で終始して行える
>わけがない。
いやいや、鎌倉武士の実力ならあり得ると思うよ。菊池や白石の戦いぶりを見ても。
案外、元軍にとっては最もいやな戦法だったのではないか?
大軍同士の一回か二回の激突でカタがつけば楽だが、小集団が次々と際限なく突っ込んで来てその度に
偽装退却などで対応していれば疲れるし隊形も乱れる。「官軍不整」とはそのことを言ったのかもしれない。
元軍の劣勢とは言えないまでも交すい状態に持ち込んだだけでも大したものだ。
>「蒙人、戦いに習うと雖も」とあり、蒙古兵と比べても「何をもってかこれに加えん」と言っている
蒙人と較べているのはその通りだが、元軍でも官軍でもなくわざわざ「蒙人」を引っ張り出したのは、
「モンゴル兵は世界最強」という自負があるからだ。それと較べて付け加えるものは何も無いと言うの
だから、やっぱり「これ以上の戦い方はない」でいい。
352 :
名無し三等兵 :2012/12/09(日) 20:40:14.72 ID:oUBCMnQI
>>346 >勝手に福田文書を改変してはだめだよ
別に改変していない。福田文書は「凶徒が引き退いたので百道原に懸け落とした」と言っているが「懸け
落とす」は「突撃して後退させる」意味であり、それだけでは敵の崩壊とか水際撤退とか意味しない。
もちろん外形的には局地的敗北であるが、偽装退却はもともと局地的敗北の外形をとるトリックであるから
どうということはない。福田は偽装退却に引っかかった可能性が高い。敵が崩壊したのなら首の一つや二つ
取れるだろう。
>日本軍が後半戦で大敗したという妄想を唱えてる
>「日本軍の大敗北戦なる妄想戦」
またストローマンやってるな。私はそんなことを言ったことは無い。日本軍は損害が大きかったが敵の
追撃を許さず自主的に撤退したのであるから大敗北とか潰走とかには当たらない。
353 :
名無し三等兵 :2012/12/09(日) 20:41:45.16 ID:oUBCMnQI
>>347 >後半戦なんてないね。蒙古襲来絵詞も福田文書も都甲惟親が戦ったのも「鳥飼潟」だ。
全ての戦闘は鳥飼潟周辺で戦われたとなんど言ったことか。後半戦というのは場所でなく時間的概念
であることは文字が示す通りだ。夕方まで戦ったのだからどこかで時間を区切ればその後は後半戦では
ないか。
>蒙古襲来絵詞も福田文書も都甲惟親が戦ったのも同じ時間、同じ場所で行われた戦闘以外の何者で無い。
同じ場所はわかるが「同じ時間」とはこれいかに。それは例えば2時間以内とか意味するのか?
それなら「及暮乃解」は存在しないではないか。それでは例えば8時間以内? それなら一日の戦闘が
「同じ時間」に入るのは当たり前で、意味が無い。
>それとそれは間違いだと訂正しとくよ。赤坂から百道浜が2kmだし、気付かないわけも無いか。
及暮乃解の後、日本軍がどこにいたのかについて、狸一号君の答えは:
史料が無いから日本軍がどこにいたかはわからない
↓
赤坂にいたが元軍の撤退に気づかなかった
↓
赤坂にいて元軍の撤退に気づいたが放置して博多防衛に専念した。博多に帰った可能性もある
と変遷した。不安定なのは「そのまま撤退説」に無理があるからだ。「そのまま撤退説」の人は
どこかで無理をするのだ。
パフォーマンスコンクールの片手間に蒙古が駆逐されたなんて言ってるお前の説のほうが無理だらけだろw
355 :
名無し三等兵 :2012/12/09(日) 22:03:32.90 ID:RwgkKGh8
>>353 >全くそう思っているよ。理由は簡単。そのような戦い方を示す資料「しか無い」からだ。
数千人が一斉に進退した資料の紹介よろしくね。
なるほど。資料「しか無い」ないから存在しないと思ってるなら当然「後半戦」とやらも「無い」ことになるな。
それに日本側の勝利の記録はすべて「偽装退却」とする資料も存在しないから当然無いことになる。
いつもは資料には無い妄想で戦況を語るパフォ君だけど都合の良い時だけ資料偏重主義になるんだね。
何度も繰り返し言ってることだけど、博多に在陣する日本軍が『福田文書』にみられるように「各可相向当所蒙仰之間」
と西進するよう命じられたら、東進する元軍と衝突するのは当然予想されること。
そして、鳥飼潟で衝突した日本軍と元軍との戦闘記録が集中していることからこの鳥飼潟で「数千人が一斉に進退し」
鳥飼潟で大規模な戦いがあったという何よりの証拠だね。
そもそも、少弐景資は「はかたのおきのハまをあひかためて、一とうにかせん候へしと、しきりにあひふれられ候しによて」
なんてまさに「数千人が一斉に進退する作戦」そのものなんだけどな。パフォ君の脳内を通すとこれすらも「元軍が攻めてきたら
一斉ではなく、本当は景資は小集団が次々と際限なく突っ込むつもりだったはずだ」となるんだろうが。
356 :
355 :2012/12/09(日) 22:04:25.83 ID:???
>>大軍同士の一回か二回の激突でカタがつけば楽だが、小集団が次々と際限なく突っ込んで来てその度に 偽装退却などで対応していれば疲れるし隊形も乱れる。「官軍不整」とはそのことを言ったのかもしれない。 元軍の劣勢とは言えないまでも交すい状態に持ち込んだだけでも大したものだ。 パフォ君はおかしなことを言うね。 「各可相向当所蒙仰之間」と命令を受けた武士たちは小集団を潰されるのをいちいち待ちながら際限なく突っ込んだ というのか? 日本軍は博多一帯に集結しているのだ。同じ元軍を目指して進軍するのに「小集団が次々と際限なく突っ込む」など 有り得ない。なんのために博多に集結していたとパフォ君は考えているんだろうね。まさしく元軍が攻めてきたら「一斉に 騎射を加えるため」なんだが、これらの軍勢が早良郡へと馳せ向かうよう命令を下されてたら「諸軍與戰、及暮乃解」 とあるのように元軍諸軍が協力しても劣勢になるような戦いになるのも理解できる。 元軍が諸軍協力しても劣勢になるという状態は、際限なく突っ込むような戦闘では起こり得ない。 >元軍の劣勢とは言えないまでも交すい状態に持ち込んだだけでも大したものだ。 元軍は明らかに劣勢だ。兵法の「小敵之堅大敵擒」(少数の兵が力量を顧みずに抵抗しても、日本軍の多数の兵力の前には結局捕虜にしか ならない)や背水の陣などすべてが劣勢の軍が使用する兵法だ。特に背水の陣や焚船の例えからも分かるとおり、元軍は 一日戦っても、上陸地点にしがみつくので精一杯だったことがうかがえる。ただ、面白い説として壱岐で軍議が行われたという 説は注目してるけどね。
>別に改変していない。福田文書は「凶徒が引き退いたので百道原に懸け落とした」と言っているが「懸け 落とす」は「突撃して後退させる」意味であり、それだけでは敵の崩壊とか水際撤退とか意味しない。 もちろん外形的には局地的敗北であるが、偽装退却はもともと局地的敗北の外形をとるトリックであるから どうということはない。福田は偽装退却に引っかかった可能性が高い。敵が崩壊したのなら首の一つや二つ 取れるだろう。 改変しているではないか。落とすとは敗走を意味する言葉だ。敗走することが敵の崩壊を意味しない? こんな珍説は初めて聞いたよ。で、それのどこが「可能性が高い」となるんだろうね。 『大友頼泰勘状写』で都甲惟親らが鳥飼潟奮戦したという資料が残っているということは、そこで大規模な 戦いがあった何よりの証拠だよ。偽装退却戦に戦闘記録が集中するなどそんな都合の良い話は無い。 結局は、パフォ君は後半戦とやらの妄想を正当化するためにはどうしても日本側が勝利したという記録が目障りだから 「偽装退却」にしときたいだけなんだよね。資料にも無い「後半戦」を創造するために現存する資料をすべて否定する というのは正しい姿勢とは言い難いな。 >またストローマンやってるな。私はそんなことを言ったことは無い。日本軍は損害が大きかったが敵の 追撃を許さず自主的に撤退したのであるから大敗北とか潰走とかには当たらない。 ほう、で「日本軍は損害が大きかった」なら、どこの有力な武士が戦死したのかな?戦傷、戦死は恩賞の対象だよ。 当然、記録に残ってるよね? 「追撃を許さず自主的に撤退したのであるから」とはどこにそんな資料があるのか教えてくれないか? 君の信奉する八幡ノ蒙古記では日本軍は戦意を喪失して、逃げ支度を始めたとあり、まさに潰走状態なんだけど 八幡ノ蒙古記の「日本軍大苦戦」だけ抽出して、後は妄想で戦況を組み立てていくなんて都合の良い資料の使い方だね。 最たるものは「日本軍が勝利した資料はすべて偽装退却」なんてお笑いものだよ。 >全ての戦闘は鳥飼潟周辺で戦われたとなんど言ったことか。後半戦というのは場所でなく時間的概念 であることは文字が示す通りだ。夕方まで戦ったのだからどこかで時間を区切ればその後は後半戦では ないか。
358 :
355 :2012/12/09(日) 22:09:19.98 ID:???
いやいや、「全ての戦闘は早良郡で戦われた」なら、早良郡の戦闘記録はすべて日本側の勝利で一致してるから 日本側の戦術的勝利であると何度も言わされてるのは俺だよ。すべての記録が「早良郡の戦闘が全て」で一致しながら、 なぜ「日本軍が敗走」したという結論に持っていこうとするのか、パフォ君の脳みそはいったいどうなってるんだろうね。 結局、そういう無理があるから元軍を高麗軍に摩り替えたり、偽装退却に刷り替える必要があるんだろうね。 >同じ場所はわかるが「同じ時間」とはこれいかに。それは例えば2時間以内とか意味するのか? それなら「及暮乃解」は存在しないではないか。 何を言ってるのやら。同じ時間とは戦闘における時間のことを言ってるのだよ。鳥飼潟に駆けつけてともに戦ったなら 「同じ時間」に戦っていた事になるだろう。 >と変遷した。不安定なのは「そのまま撤退説」に無理があるからだ。「そのまま撤退説」の人は どこかで無理をするのだ。 変遷したのはよく考えたら、推測ができたからだよ。なぜ、元軍は博多に入らなかったと考えた時に博多か赤坂に 日本軍がいたからだという答えが必然的に導き出される。 へえ、「そのまま撤退」では無いなら、なぜ元軍は博多に入らなかったんだ? なぜ、敗走させたのに天気待ちや風待ちをすることなく危険な夜の航海をしなければならないのだ? 答えは簡単。翌日の朝には日本軍から攻撃される恐れがあったからだ。 攻撃される恐れがあったということは、日本軍は敗走などしておらず朝から攻撃できる位置にいたとしか 考えられない。そもそも、軍議の内容自体が元軍の劣勢を物語っており、日本軍を敗走させることができなかった ことをうかがうのには十分だね。パフォ君みたいに「小敵之堅大敵擒」を捏造して「頑強な小勢の敵にこだわっていると 大勢の敵に包囲される」と訳したり、日本側の勝利の記録を「偽装退却」に摩り替えたり、元軍を高麗軍に摩り替えたり するのも「日本軍敗走説」に無理があるからだろうね。
というか上陸直後の上陸軍が偽装退却って、次の反撃で防御側を 戦闘不能に持って行けない場合、海に追い落とされてしまう凄く危険な賭では?
上陸した途端、偽装退却とかできるわけねえだろ。本当に馬鹿だなパフォは。
フランスの3分の2が占領されるに至って フランス諸侯が司令官の命令を真面目に聞くようになったんだよ
362 :
名無し三等兵 :2012/12/10(月) 07:21:09.68 ID:geOC0qSw
>>1 九州を襲った元寇が有名だが、千島列島からも蝦夷にも侵食してきていて
そっちの方がヤバかったらしいぞ。
アイヌがゲリラ戦をやって退けたけど、北海道に入って兵站拠点を作られていたら
今頃、東北あたりまでは日本と別の国になっていたかもしれないらしい。
363 :
名無し三等兵 :2012/12/10(月) 07:30:42.05 ID:geOC0qSw
元寇って元軍の敗けだけど、戦略的に観れば日本も敗けだったよね。 戦費調達で鎌倉幕府は崩壊し、事実上の統一国家が滅亡してしまったのだから。
>>363 もうちょい、南北朝の始まりを勉強した方がいいぞ
めんどくさかったら、「やる夫が『梅松論』を語るそうです。」でもいいよ
元寇がどうとかの問題じゃないから
>>362 アイヌがゲリラ戦でモンゴル退けたことなんて無いから。
逆に1308年に降伏に追い込まれ、貢物献上する約束させられてる。
千島列島ってところで滅茶苦茶だが。
実際、幕府を倒したのは足利尊氏も新田義貞も楠木正成も元寇に微塵も関係のない 人物だからな。異国警固番役も足利や新田ら関東武士には何の関係もない。 課されていたのは九州の武士だけ。
>>365 よくアイヌや琉球が元軍を撃退したみたいに言う奴いるけど、
アイヌは元軍の武力に屈服してるし琉球侵攻に至ってはガセなんだよな
こういう人って、アイヌや琉球でも元軍撃退できた→だから日本なんて大したこと無い
て風に思わせたい下心があるんだろうなw
パフォコン師匠はベトナムや北ルートの元軍侵攻をどう捉えてるんだろう
>>366 皇室の継承問題とか幕府の政権抗争とかが主な理由だよな
>>369 基本それ
元寇関連で無理やりつなげるなら、宗教界に恩賞として発布された寺社興行法だね
楠正成とか畿内でゲリラ戦やってた連中が少なからず被害を受けてるし
>>353 >同じ場所はわかるが「同じ時間」とはこれいかに。それは例えば2時間以内とか意味するのか?
>それなら「及暮乃解」は存在しないではないか。
「及暮乃解」が壱岐なら鳥飼潟周辺の戦闘が2時間以内で終わっても問題無いよ。
「及暮乃解」の後「會夜大風雨、戰艦觸岩多敗」で壱岐に難破船130艘が漂着してるんだぜ。
お気の毒だけど「及暮乃解」は壱岐しかないのね。
372 :
名無し三等兵 :2012/12/10(月) 21:21:11.04 ID:2X2f5Erd
>>355 >資料「しか無い」ないから存在しないと思ってるなら当然「後半戦」とやらも「無い」ことになるな。
なるほど、存在する資料はすべて小集団の戦いであることを認めたわけか。
その通り、狸一号君たちが金科玉条とする福田文書も日田文書も小集団の戦闘記録だ。個人の勲功を主張して
いるのだから当然だ。
>当然「後半戦」とやらも「無い」ことになるな。
別にそうはならない。福田や日田の戦いは時間を書いてないのだから後半戦であっても構わないのだ。
373 :
名無し三等兵 :2012/12/10(月) 21:22:39.06 ID:2X2f5Erd
>>356 >元軍が諸軍協力しても劣勢になるという状態は、(小集団が)際限なく突っ込むような戦闘では起こり得ない。
はて、私は元軍が劣勢になったとは言っていないのだが。
>背水の陣や焚船の例えからも分かるとおり、元軍は 一日戦っても、上陸地点にしがみつくので精一杯だったこと
>がうかがえる。
ここはウィキの訳を載せておこう。
「「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が
上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、我が軍は自ずから戦うことに
なる。これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」
要するに「兵の士気は高い。それは焚船の計や背水の陣の原理で、兵が敵地に入って却って開き直っているからだ」
と言っているだけ。劣勢の軍が言うことではないね。
374 :
名無し三等兵 :2012/12/10(月) 21:23:33.57 ID:2X2f5Erd
>>357 >落とすとは敗走を意味する言葉だ。敗走することが敵の崩壊を意味しない?
前にも言ったように、偽装退却は敗走を装う戦法なのだから、君がいくら「懸け落とす=敗走」を力説しても
無意味だ。また軍の崩壊とは指揮系統を喪失して兵士が勝手に逃亡しはじめた状態だ。福田と戦った元軍は
「懸け落とされた」後に福田を包囲してこれを危険に陥とし入れたのだからそのケースではない。
>八幡ノ蒙古記では日本軍は戦意を喪失して、逃げ支度を始めたとあり、まさに潰走状態なんだけど
またこれか。敗走、潰走、言葉はなんでもよい。八幡の蒙古記に基づくのなら、日本軍は元軍に圧迫された
からではなく、「もうやーめた」と言う状態でじぶんから戦線離脱した。これを自主撤退と言ったのだ。
また劉の小部隊を除いて、元軍は日本軍を追撃しなかった。それは元軍もまた戦意喪失していたからだ。
元軍を戦意喪失に追いこんだのは日本軍の努力の結果だ。これを「追撃を許さなかった」と言ったのだ。
375 :
名無し三等兵 :2012/12/10(月) 21:24:46.93 ID:2X2f5Erd
>>358 >同じ時間とは戦闘における時間のことを言ってるのだよ。鳥飼潟に駆けつけてともに戦ったなら
>「同じ時間」に戦っていた事になるだろう。
君は
>>347 で:
>蒙古襲来絵詞も福田文書も都甲惟親が戦ったのも同じ時間、同じ場所で 行われた戦闘以外の何者で無い。
と言っている。菊池、竹崎、白石、福田、都甲が同じ時間に鳥飼潟で戦ったと言っているのだ。 しかし
少なくとも菊池と竹崎、白石は時間差があることは絵詞から明らかだ。して見れば君の言う「同じ時間」とは
「同じ時間帯」のことだろう。その時間帯の幅は何時間ぐらいと考えるのか、と聞いているのだが、
質問の意味がわからないかな?
>元軍が上陸地点にいながらも博多に侵入できなかったのは博多の西面、すなわち赤坂もしくは博多に日本軍が
>いたからとしか考えられない。
なんども言うが元軍が博多に侵入できなかったというのは既定事実ではない。記録が無いから侵入は無かった
というのはそれこそが悪魔の証明だ。積極的に「元軍は博多に入らなかった」と書いてある同時代資料があれば
別だよ。少なくとも「どちらとも言えない」としか言えない。侵入無しが既定事実ではないのだ。
一方、ある時点で日本軍が博多を空にしたことは筥崎宮のご神体避難があるから否定できない。したがって
その時点以降、元軍は博多侵入の自由を得たと言える。なぜなら元軍は船を持っているからだ。
>>372-375 君はこのスレに書き込めば書き込むほど、「及暮乃解」が壱岐だという説には
全く反論出来ないという悲しい現実を積み上げてるだけだよ。
>>375 >>なるほど、存在する資料はすべて小集団の戦いであることを認めたわけか。
その通り、狸一号君たちが金科玉条とする福田文書も日田文書も小集団の戦闘記録だ。個人の勲功を主張して
いるのだから当然だ。
そりゃあ、偽書の八幡ノ蒙古記を金科玉条としているパフォ君なんぞより、参戦した武士の資料が一番重要な資料なのは
わかりきっているからね。
小集団の戦闘記録?戦闘記録が同一の場所に「集中」しているということは、まさに大規模な戦いがそこで
あった何よりの証拠だよ。いつもは妄想で戦況を語るパフォ君だけど、都合の良い時だけ資料偏重主義になるよね。
都合のいい時に資料偏重になるならパフォ君は早く「後半戦とやらがあった戦闘記録」と後半戦で日本軍が敗北した際の
戦傷なり戦死した人物なりの資料を示せばいいんだよ。戦傷や戦死は勲功になるのだから残ってるだろう?
パフォ君が同じこと繰り返すようになってきてもう議論の体を成していない。
>別にそうはならない。福田や日田の戦いは時間を書いてないのだから後半戦であっても構わないのだ。 なるほど。ということは後半戦とやらも日本軍の大勝利ってことだね。『福田文書』も『日田記』もすべてが日本軍の勝利で一致してるからねえ。このやりとりも前にあったような? >はて、私は元軍が劣勢になったとは言っていないのだが。 君の頭の中がどうなっていようがどうでもいいよ。パフォ君が言ってるのではなくて『高麗史』『福田文書』『蒙古襲来絵詞』『日田記』諸々の資料が 元軍が劣勢とそう書いてるからね。 >「兵の士気は高い。それは焚船の計や背水の陣の原理で、兵が敵地に入って却って開き直っているからだ」 都合の良いところだけを抜き出して、印象操作するの好きだねえパフォ君は。 『高麗史』の金方慶の言いたいところはそこではない。金方慶が一番言いたいところは「諸軍與戰、及暮乃解」でわが軍は劣勢になり兵が足らないが (クドゥンもまた曰く、兵法小敵之堅、大敵之擒。日本軍は大敵、自軍は小敵)、もう一度再戦させてほしいというところだよ。 であるから、クドゥンを説得する例として「わが軍ははるかに遠くまで遠征に来ており、兵たちには退路がない。 よって、兵士は自ずから戦わざるおえず、一生懸命に戦うだろう。まさに、背水の陣や焚船のようなものだ。」と言っている。 まさに戦ってみて兵が少ないのが露呈するほど劣勢だが、劣勢ながら跳ね返した韓信軍のように我々は戦えるんだ!と言っているのだよ。 まさに劣勢の軍隊そのものだ。
>前にも言ったように、偽装退却は敗走を装う戦法なのだから、君がいくら「懸け落とす=敗走」を力説しても 無意味だ。また軍の崩壊とは指揮系統を喪失して兵士が勝手に逃亡しはじめた状態だ。福田と戦った元軍は 「懸け落とされた」後に福田を包囲してこれを危険に陥とし入れたのだからそのケースではない。 パフォ君がいくら偽装退却に摩り替えて、偽装退却というのは妄想でしかない。 なぜなら、福田兼重が百道原の元軍に深く馳せ入って生き残った戦いも『日田記』によれば 百道原で日本軍が勝利していることが確認できる。ようするに元軍の踏ん張りが効いていない。 よって、福田文書の戦闘を偽装退却に摩り替えるのは無理があるね。 で、そこまで「偽装退却」にしがみつくのは、結局はすべてパフォ君の脳内にしか存在しない 後半戦とやらの都合によって、気に食わない日本軍の勝利の資料を偽装退却に摩り替えているだけ。 妄想をもとに資料を曲解するのは正しい姿勢ではない。 だんだん、パフォ君の考え方が分かってきたな。ようするに結論あり気で資料を曲解もしくは気に食わない資料は 「偽装退却」や「元軍ではなく高麗軍」と決め付け葬り去りながら、組み立てていくのがパフォ君流なんだろう。 なんて素晴らしい思考回路なんだろう。
>またこれか。敗走、潰走、言葉はなんでもよい。八幡の蒙古記に基づくのなら、日本軍は元軍に圧迫された パフォ君の論理で言えば、敗走も潰走もすべてが「自主撤退」だ。なぜ、パフォ君が八幡ノ蒙古記にある潰走した日本軍を「自主撤退」に したいかというと高麗史にある「諸軍與戰、及暮乃解」に、無理矢理八幡ノ蒙古記を捻じ込んだ結果、蒙古記の日本軍の敗走を自主撤退に する必要があったからだ。 しかし、『高麗史』にはクドゥンが「小敵之堅、大敵之擒」と劣勢を認めているうえに金方慶が今回の戦いで何ら戦果を挙げられなかったために 「また戦わせ欲しい!」と発言していることからも「日本軍を破りに破った」とする蒙古記を無理矢理高麗史に押し込むことは無理だ。 また、暴風雨にあったのは壱岐であるという資料を376さんが発見して提示してくれている。 ならば、軍議は壱岐のことになってしまうのだが、パフォ君はその辺のところをどう調整するつもりなんだろうか? >と言っている。菊池、竹崎、白石、福田、都甲が同じ時間に鳥飼潟で戦ったと言っているのだ。 時間帯の幅は鳥飼潟に竹崎が先駆けを行ったことから始まり、鳥飼潟で元軍が敗走するまでのことだ。 ちゃんと読んでいればわかるはずなんだが。 絵詞を見れば、竹崎の後方より白石が続いているのだから時間差などほとんどない。 また、肥前の白石勢のほかにも筑後の御家人の戦闘も確認される事から白石勢だけが後方から駆けて来たわけではない。 それを裏付けるように、肥前の福田兼重の文書にも「鳥飼」の地名があり、武士らが少弐景資らに早良郡に向かうよう命令が 下されたことも確認できる。戦闘が何時間続いたかなど、現代ではわからないことを聞いても仕方ないだろう。 それより、敗走した元軍が再進出して日本軍を破り、日本軍に大量の戦死者が出たという証拠はいつになったら出してくれるのか? 鳥飼潟が何時間戦われたかより、パフォ君にとってはそれが一番大事だろう?
>なんども言うが元軍が博多に侵入できなかったというのは既定事実ではない。記録が無いから侵入は無かった というのはそれこそが悪魔の証明だ。積極的に「元軍は博多に入らなかった」と書いてある同時代資料があれば 別だよ。少なくとも「どちらとも言えない」としか言えない。侵入無しが既定事実ではないのだ。 元軍が博多に入っていない事をわざわざ「元軍は博多に入らなかった」などという資料などあるわけが無い。 逆に博多という大都市が占領されたのにもかかわらず、櫛田神社、承天寺など大寺社仏閣が誰も触れないわけがなかろう。 自分の妄想を正当化するためにあったことにしたいなら、証拠なり無ければそれは「無い」ことになる。 また、博多を占領していれば元軍の勝利だ。ところが『高麗史』の軍議では全く状況が違う。金方慶は「諸軍與戰、及暮乃解」 で元軍が劣勢になりながらも、もう一度「また」戦わせて欲しいとクドゥンに願っている。 「また」ということは今回の作戦は失敗したということだ。博多を占領し日本軍を敗走させていれば、それは勝利であり「また」 というのは不自然極まりない。 要するに元軍の博多占領などなかったのだ。 ただ、軍議が本当に博多で行われたのか、確信が持てない状況に今はなってるけどね。 >一方、ある時点で日本軍が博多を空にしたことは筥崎宮のご神体避難があるから否定できない。したがって その時点以降、元軍は博多侵入の自由を得たと言える。なぜなら元軍は船を持っているからだ。 公家の日記『勘仲記』によれば筥崎宮は「依筥崎宮火事、」とある。火事があれば、ご神体を避難させないわけがないだろう。 そんなものは博多を空にしたという根拠には微塵も成りはしない。
日本側は博多湾から蒙古軍を追い落とした時点で文永の役が終わったような錯覚を持ってるけど、 実際には九州侵攻の策源地となっていた対馬・壱岐が残っていたので、追撃する必要があったのだな。 クドゥンと金方慶の対立は、実在したとすれば、冬の夜間に慌ただしく撤退した10月20日の段階では時間的にあり得ない
占領された後に持ち出せるわけがない。 持ち出したというなら、それは占領が危惧された時に行われるだけです。 だから、火事や地震の場合と違って避難記録は実際にそうなったかどうかの証拠にはならない。
>>382 八幡ノ蒙古記の言うように前日まで優勢に戦ってた元軍が翌朝博多湾から消えてたら、
日本側がそれで終ったと認識するはずが無いんだよな。
逆に、日本の沿岸全てが襲撃の危険に晒されてると認識して全国的にパニックになる。
博多湾からは京や鎌倉まで直接航路があったんだし。
それなのに勘仲記11月6日の時点で既に京には安堵感が漂ってる。
八幡ノ蒙古記には明らかな嘘が書いてあるとしか思えない。
武家の報告は前半戦、後半戦は元軍圧勝ってパフォコン師匠が一番大事にしてる部分はもうどうしようもないのね 結局なら何故慌てて海上撤退するんだよって根っこの部分を解消する手段が出てこない というか得意の妄想でもそこは避けてるし
高麗史金方慶伝と八幡ノ蒙古記の間に整合性を求めることが、どれだけ無意味な作業かというとね、 高麗史は文永の役での人的損害を1万3500余人としてるじゃん。 つまり、「及暮乃解」と「戰艦觸岩多敗」が博多での出来事だとすると、10月20日の博多湾一帯では 東日本大震災の宮城県とほぼ同規模の大惨事が発生してたことになるん。 それなのに八幡ノ蒙古記だと、戦闘は元軍の圧勝で、海難事故は志賀島に1艘が座礁してただけ。 合理的に説明できるわけがない。
387 :
名無し三等兵 :2012/12/11(火) 15:33:10.28 ID:/yWDcq1J
壱岐軍議くんが面白い資料を見付けてくれたので、まずそれを載せておこう。 (A)<朝師御所見聞 安国論私抄 第一 文永十一年蒙古責日本之地事> 或記云蒙古ノイケドリノ白状ニ云、蒙古ノ年號ハ至元十一年三月十三日ニ蒙古國ヲ出テ高麗國ノカラカヤノ 城ヲコシラヘテ、船ソロヘヲシ勢ヲ集テ、同九月二日ニカラカヤノ津ヲ出シニ、ノキタノ奥ニテ船一艘ニヘ 入ル、蒙古ノ物三人生残リ了、又四日ニ當ニ船一艘焼亡出來テ焼ケ死ス、十月六日對嶋ニヨセ來レリ、 同十四日壹岐嶋ニ寄タリ、同二十日モモミチハラニオルルナリ、又船ノ数ハ一ムレニ百六十艘、總ジテ已上ハ 二百四十艘也、船一艘別ニ兵三百人水主七十人馬五疋ハシラカス、カナツル四ツツナリ、 (B)<朝師御所見聞 安国論私抄 第一 蒙古詞事> 又或記云十一歟月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、 ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ 目ニ見ユル分齊也、又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事 三十九、其他数ヲシラズ、又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云、 (A)(B)の番号は私が便宜上つけたものである。
388 :
名無し三等兵 :2012/12/11(火) 15:38:56.16 ID:/yWDcq1J
この引用文について気がついたところを書いて見る。
1)次のURLの論文に(A)と同じ引用文がある。
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/23683/1/acs063001.pdf ところがこちらの引用文には「蒙古国を出て」の文字がない。これはどちらが正しいのだろうか。
この論文には原本の写真もあるのだが残念なことに問題の部分は写ってない。
2)次に「蒙古」の意味だが、(A)の一行目のように「高麗」と対置してあれば「モンゴル」の意味と
分かるが、それだけで出てくるときは「凶徒」などと同じように一般にこの時の敵軍、敵兵を指している
可能性がある。
それは(B)で「蒙古の船」「蒙古の人」などの用語があるのでわかる。これはモンゴルや蒙漢軍を取り
分けて言ったのではなく「敵軍の船」「敵軍の兵」の意味であろう。
また論文を見ると(A)に続いて「蒙古詞」と日本語の対照表があるのだが、その表に現れる「蒙古詞」の
音は大部分が朝鮮語である、というのがこの論文の主旨である。すなわち「蒙古」と言っても「高麗」を
指す、またはそれを含む場合があることがわかる。
3)(B)の冒頭の日付に「十」の次に「一歟」と書いてある。これは「一か?」の意味だが、これは
「或記」から筆写した人が、十月二十四日にこれだけの統計が出るのはおかしいと思って、十一月二十四日
の間違いであろうという意味で添えたと思われる。
4)(B)の難破船の数の合計は150艘となって、合計(已上)の123艘と合わない。もし壱岐の船数が130艘
ではなく103艘であれば合計は123艘となって、やや合う。
5)(B)が文永の役の総括だとすると、蒙古の捕虜数および分取り首数と併記してあることから「日本人」
の死者数は武士の戦死者数である可能性がある。「日本人死事」は名のある武士、「下郎」は郎党、下人など
の戦士者数であろうか。
「日本人死事」が195人、数を知らずと言う「下郎」を仮にその2倍とすれば合わせて600人弱となる。
妥当なところであろう。
389 :
名無し三等兵 :2012/12/11(火) 17:41:41.10 ID:jpY5aS2g
>>364 「やる夫が『梅松論』を語るそうです。」
面白い、気に入った。
やる夫が文永・弘安の役を語るそうです。は誰も作らないのか・・・
>>389 「やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです」
の最終回に元寇の話が出てくる
ここで一次資料を持ち出して議論してる人にはヌルイかもしれないが、
鎌倉武士がどういう連中なのか、イメージがつかめてない人は、名作なのでオススメする
ええと。「文永の展開についての見解は、大きく以下の3つに分かれる」で良いのかな? (各説の名称は全て仮称) 1 日本軍圧勝説 ・九州に上陸した蒙古軍は、即日日本軍に撃退された。 ・高麗史にある軍議は九州で行われた ・博多は占領されていない ・九州から逃走した蒙古軍は、その後どこにも寄港しないうちに遭難した。 2 日本軍惨敗説 ・九州上陸した元軍は、日本軍を圧倒(偽装退却を駆使?) ・しかし、今後勝ち続けることは困難と判断して撤退 ・高麗史にある軍議は九州で行われた ・博多が占領された 3 壱岐撤退説 ・金方慶は制圧した壱岐に留まり、九州には来ていない ・九州での戦闘は日本軍圧勝説に近い展開をたどった ・九州から逃走した蒙古軍は、いったん壱岐に寄港した ・高麗史にある軍議は壱岐で行われた ・結局作戦継続を断念した蒙古軍は、壱岐から高麗?に戻る途中で遭難した
1.と3.が親戚関係で、2.はパフォ君ですら採用してない パフォ君は惨敗説じゃなくて「何とか撃退説」だろ
393 :
名無し三等兵 :2012/12/11(火) 22:23:40.28 ID:/yWDcq1J
>>380 狸一号君はテープレコーダーになって来たから戦闘経過の話に絞ろう。
>時間帯の幅は鳥飼潟に竹崎が先駆けを行ったことから始まり、鳥飼潟で元軍が敗走するまでのことだ。
なるほど、犬が西むきゃ尾は東ということだな。
>戦闘が何時間続いたかなど、現代ではわからないことを聞いても仕方ないだろう。
逃げるとは思っていたがやっぱり逃げたか。わかるわからないの問題ではない。狸一号君が持っている
戦闘経過の概念を聞いているのだ。
時間を言わなければそれがわからないが、まあ狸一号君がいままでに書いたことから大体はわかる。
私が替わって狸一号君の考える戦闘経過をまとめてあげよう。
1.20日の明け方に蒙漢軍が祖原山、赤坂山に布陣した。
2.午前8時ごろに菊池勢が赤坂の敵を撃退した。
3.その報告を受けた少貳景資は博多固守の命令を一瞬で変更し、全軍に鳥飼潟への出撃を命じた。
4.命令により白石、福田、日田、都甲ら数千騎が一斉に出撃して元軍と戦った。
6.戦闘は「同じ時間」に行われ、たぶん午前10時ごろには日本軍の圧勝で終わった。
7.この戦闘により元軍は水際に追い詰められたが、そのまま夕方までじっとしていた。
8.日本軍もまたそれを眺めて夕方までじっとしていた。
9.夕方になって元軍は敵前で軍議を開き、撤退を決定した。
10.日本軍は撤退中の元軍を水際に追い詰めて潰滅させることはせず、博多に引き揚げてその後は博多
防衛に専念した。
11.元軍は日本軍に妨げられることなく撤退作戦を継続し、深夜までに乗船を終わって出航した。
だいたいこれでいいかな?
>>392 パフォーマンスは昔は日本軍惨敗説を唱えていたよ。
周りから散々叩かれて、譲歩して今のような感じになった。
>>391 軍議が壱岐だったことは史料から絶対だと思うけどな。
・高麗史だと軍議と犠牲者約1万人の大海難は極めて近い場所、近い時間に起こった出来事。
・勘仲記の記事から大海難発生は直後に日本側にも情報が伝わってる。
・にもかかわらず、諸史料の中に10月20日に博多湾付近で大海難があったと記したものは無い。
・高麗史世家は大海難を壱岐から撤退した後とし、年表も壱岐を戦敗の場所としている。
・安国論私抄では壱岐で座礁した船が突出して多い。
むしろ、どこに反論の余地があるのか知りたいくらい。
>>393 なんだ。これだけ俺が資料を駆使して君の考える妄想が有り得ないことを
何度も力説してきたわけだが、全く文永の役の戦況を理解していないではないか。
まとめるとこうだ。至って明快かつすべて一級資料に基づいている。
1.元軍が早良郡に襲来。『福田文書』
2.元軍の先鋒隊が赤坂に陣を布く。『蒙古襲来絵詞』
3.赤坂の元軍は菊池勢に破られ敗走。『蒙古襲来絵詞』
4.少弐景資が博多の軍勢に早良郡の元軍へ向かうよう指示。『福田文書』
5.日本軍と元軍が鳥飼潟で衝突。元軍が指揮官は祖原山の陣に駆け上がり、雑兵は百道原へ敗走。『蒙古襲来絵詞』『福田文書』
6.敗走した元軍は百道原で再び、踏ん張るもここでも敗走し姪浜へ。『福田文書』『日田記』
7.そのまま撤退へ。(『高麗史』の軍議が博多湾沿岸で行われたかは新資料の発見により断言できなくなったため、パフォ君のように無理に整合性をはかるのをやめておこう)
それに対してパフォ君の戦況 1.鳥飼潟の戦闘は高麗史の「倭兵大敗」だ。 →戦況が全くかみ合っていない。 2.鳥飼潟は大規模な戦いではなく、小集団の突撃を繰り返していただけだ。 →博多にいる武士らが一斉に元軍目指して進軍しているのに、なぜバラバラに戦うと思っているのか不明。 3.鳥飼潟や百道原の戦いはすべて「偽装退却」だ。 →根拠無し。日本軍が敗走したという後半戦にとって日本軍の勝利の記録は不都合な資料であるため、「偽装退却」というレッテルを 貼ったものと思われる。 また、偽装退却とした場合でも鳥飼潟の後も『日田記』によればその後の戦闘でも元軍は負け続けている。 4.その後に大規模な元軍の逆襲撃があったのだ。 →根拠なし。妄想。戦闘の記録一切なし。戦傷・戦死は勲功になるのにもかかわらず記録は現在に全て残っていないと不思議なことを主張。 5.両軍苦戦の末に博多を占領し勝利した元軍は、軍議で兵が少ないために撤退していった。 →軍議の内容自体、自軍を劣勢の軍勢に例えたり(兵法小敵之堅、大敵之擒、背水の陣)慌てて逃げていったことと整合性が合わない。 また、新資料の発見により軍議が壱岐で行われた可能性が出てきたため、壱岐で軍議が行われたとした場合、パフォ君の妄想戦記は根底から すべて崩壊する。 だいたいこんな感じかな?
対馬…10月5日襲来 面積 696平方キロ 最高標高648m (現在の人口 3.4万人) 宗資国以下80騎 壱岐…10月14日襲来 面積 133平方キロ 最高標高213m (現在の人口 2.8万人) 平景隆以下100騎 肥前…10月16日襲来? 壱岐は対馬に比べて平坦な上に小さく、肥前方面に近い 壱岐の樋詰城(新城神社近辺?)は壱岐北部、会戦地点の湯の本・本宮は北西部 対馬の古戦場や使者を走らせた佐須浦は南部だから、蒙古軍は険峻な対馬の中部・北部までは手が回らなかったんじゃなかろうか だから敗残の兵が壱岐にたどり着いた時に対馬をアテにできなかったんだろう
399 :
名無し三等兵 :2012/12/12(水) 19:54:04.22 ID:A2/EYC3Z
>>396 狸一号君は相変わらず時間を書かないからさっぱり一日の戦闘経過のイメージが湧かない。
3から6までは、たぶん2時間ぐらいで終わるだろう。そうすると菊池の攻撃が朝の8時ごろだ
として、午前10時ごろには戦闘が終わったことになる。
狸一号君は「及暮之解」を認めており、その後の日本軍は赤坂と博多にいたと主張しているが、
冬だから「暮」とは午後5時ごろだろう。
すると午前10時から午後5時までの7時間の間、両軍は鳥飼潟で何をしていたの?
>>399 戦闘が8時に始まったとする根拠は?
さらに3??6が2時間で完了すると言う根拠は?
勿論記録が有るんだろう?
文永11年0月20日は、現代の暦に治すと11月19日。 西暦2012年11月19日の福岡周辺では日の出が6時55分、日没は17時13分。 ただし、日の出は太陽の上縁が地平線から顔を出す時刻で 日没の時刻は太陽が沈みきる時間です。概ね「日没は真っ暗になる時間」と 考えて下さい。真っ暗になってからだと帰陣するのは(特に元軍は)難しいかも。 ここから先は想像。元軍が日の出と共に上陸作業を始め、8時に菊池氏と交戦していたとしたら 2万だか3万だかの兵が1時間ほどで上陸から戦闘準備まで完了したことになりませんか? なんというか…恐るべき練度で説明付く?
>>401 ×文永11年0月20日 ○文永11年10月20日
中世の戦闘に現代戦のような迅速さはないよ
『金剛仏子叡尊感身学正記』には、「10月5日に蒙古人が対馬に着き、20日、博多に着き、即に退散した」 って書いてあるんだから2時間で蒙古軍が敗北したとしても別に何の問題も無いんだよね。 この問題を追及して困るのは一体どちらの方なのかと・・・
405 :
名無し三等兵 :2012/12/13(木) 10:39:51.84 ID:JQYdW9HF
>>401 >ここから先は想像。元軍が日の出と共に上陸作業を始め、8時に菊池氏と交戦していたとしたら
>2万だか3万だかの兵が1時間ほどで上陸から戦闘準備まで完了したことになりませんか?
そこなのだ。
一号君の考える戦闘経過によれば、菊池勢が赤坂山の敵を撃退したことが景資の「各々鳥飼潟へ
相向かうべし」の全軍出撃命令につながり、それによって両軍主力同士の決戦に突入したことに
なっている。
しかし、それだと菊池が突撃した朝方にはすでに元軍は主力の上陸を終えていたことになる。
それはあり得ない。
朝方に菊池らと衝突したのは上陸援護のための先遣部隊であり、その後元軍の兵力は
上陸の継続によってだらだらと増えて行ったと言う経過だと思う。
私はそのような戦闘経過を以前に書いている。
>>405 菊池が突撃が朝方って部分に何の根拠も無いからさ。
竹崎が麁原に到着した時点で元軍は布陣を終えていたんだから、菊池の突撃が元軍主力の上陸後に
行われたのは明白。
そこから逆算して時間を設定するべきなんだよ。
元軍主力が上陸を終えたのが10時なら菊池の突撃は10時以降だし、上陸終了が12時なら菊池の
突撃も12時以降ってこと。
407 :
名無し三等兵 :2012/12/13(木) 17:49:28.71 ID:Vf8Dvn3/
>>406 元軍主力が上陸を終えるのを律儀に待ってから菊池が突撃するというのも変だな。
>>407 元軍主力が上陸を終えるのを律儀に待ってから、その一部が赤坂へ進出したんだろ。
そして赤坂で菊池と激突した。
主力が上陸終える前に敵を呼び込んじゃったら不利になるだけじゃん。
ひょっとしたら、菊池勢が先遣部隊を撃破したのを好機と見て 本隊の上陸阻止に成功したのかな? 高麗史の記述が壱岐の戦いである場合は、蒙古軍が日中のうちに 逃亡したとしても矛盾しないし。
410 :
名無し三等兵 :2012/12/13(木) 20:25:38.41 ID:Vf8Dvn3/
>>408 >元軍主力が上陸を終えるのを律儀に待ってから
日本軍が何のために主力の上陸完了を待つの?
>主力が上陸終える前に敵を呼び込んじゃったら不利になるだけじゃん。
いくら考えても意味がわからん。
私が思うに、元軍(蒙漢軍という意味ではない)が祖原山と赤坂を押さえたのは日本軍にとっては
予想外だったのではないか。早かったと言う意味において。
そして元軍がそれをやれたのは、先遣隊が19日の夜に上陸して夜明け前に占領してしまったのでは
ないか? 上陸が19日にはじまったという記録があるのはそのことを意味していると思われる。
そして祖原山と赤坂の位置は百道原への上陸を援護するのに絶好の位置にある。明らかに主力の
百道原への上陸を予定した行動だ。目的が上陸の援護だから朝方はそれ以上動かなかったのだ。
それこそ主力の上陸を「律儀に待って」ね。
>>410 その通り、百道原に元軍主力が上陸を終えるまで、麁原の元軍は動かなかった。
で、主力の上陸が終わったから赤坂へ進出し、菊池と激突したってことだろ。
412 :
名無し三等兵 :2012/12/13(木) 20:42:43.58 ID:Vf8Dvn3/
皆さんが検索するときのために、私が知り得たことをちょっと書いて置く。 「安国論私抄」が入っているのは「朝師御所見聞」ではなくて「朝師御書見聞集」ね。 この書名で引くと所在がわかる。国会図書館にもある。1960年出版の本だ。
413 :
名無し三等兵 :2012/12/13(木) 20:49:34.69 ID:Vf8Dvn3/
>>411 >で、主力の上陸が終わったから赤坂へ進出し、菊池と激突したってことだろ。
違う。赤坂と祖原山には同時に進出していた。で、先に赤坂の元軍が菊池と衝突した。
追い落とされた赤坂の元軍は祖原山に向かって逃げたが、これは祖原山にすでに陣地が
あったからだ。
つまり、日本軍と衝突する前に赤坂と祖原山はどちらも占領されていた。
蒙古襲来絵詞を読んでね。
つまり元軍の、少なくとも先遣隊は ・夜明けから1時間ほどで上陸、布陣をすませ日本軍を待ち受けた。日本軍はこれに大きく遅れを取った。 ・夜明け前に奇襲上陸を決行した のいずれかなのか?
>>413 蒙古襲来絵詞にはどこにも「赤坂と祖原山には同時に進出していた」なんて書いてないぞ。
まず元軍の博多襲来が日本側に伝わり、赤坂進出は次のアクション。
つまり、元軍の赤坂進出は主力上陸の後だ。
蒙古襲来絵詞見れば竹崎が麁原到着した時には完璧に布陣した状態で、上陸作業なんて終わってたんだよ。
>>410 >日本軍が何のために主力の上陸完了を待つの?
迎撃に適した場所で迎撃するのは当たり前でしょ?!
上陸完了を待ったとか何とか以前に、攻めてくる相手を最も有効に迎撃し得る場所まで指定されなきゃいけないの?
戦争はハンディキャップトマッチじゃないんだよ?
>>414 奇跡的なスピード上陸なんてしてないし、「奇襲」上陸も(日本軍の戦略を覆すと言う意味では)存在しない。
「赤坂は馬の足立ちわろく候」。これが迎撃側の日本軍の判断。最も弓射を集中しうる地点で待ち構えていた。
文永の役で高麗軍が壱岐までしか来てないとすると、改めて問題になるのが忽敦と忻都は本当に 同一人物なのかってこと。 wikiも触れてるけど、元史でも高麗史でも明らかに別人だからなぁ。 もし別人なら、九州へ侵攻した指揮官は文永の役から弘安の役で総入れ替えになってたことに。 しかも、忽敦も忻都も日本遠征の後で完全に記録から名前が消えてるってことになるし。
419 :
名無し三等兵 :2012/12/14(金) 10:42:22.07 ID:gmj0n+ys
>>415 蒙古襲来絵詞にはどこにも「赤坂と祖原山には同時に進出していた」なんて書いてないぞ。
まあ、へりくつを言えば元軍から見て、祖原山と赤坂の占領が全く同時ということはあり得ない。
同時というのは日本軍から見て、元軍と接触したときにはすでに祖原山と赤坂の両方に元軍がいた、という
ことを言ったのだ。
私は次のようにも言っている。
>つまり、日本軍と衝突する前に赤坂と祖原山はどちらも占領されていた。
まさかこれには反対しないだろう?
>蒙古襲来絵詞見れば竹崎が麁原到着した時には完璧に布陣した状態で、上陸作業なんて終わってたんだよ。
その、完璧に布陣していたのが元軍主力だと言う根拠は何か?
もうひとつ、その「上陸作業なんて終わってた」時間を何時頃に想定するのか?
420 :
名無し三等兵 :2012/12/14(金) 10:52:52.74 ID:gmj0n+ys
>>417 >奇跡的なスピード上陸なんてしてないし、
まったくその通りだ。2万数千の上陸には少なくとも数時間かかっただろう。
>「奇襲」上陸も(日本軍の戦略を覆すと言う意味では)存在しない。
暗いうちに先遣隊が上陸して橋頭堡を築くのは「奇襲」に入るのか?
(祖原山は上陸地点の百道原を反撃から守る位置にあるという意味で橋頭堡だと思う)
文永の蒙古軍首脳が惨敗の責めを問われ、唯一、壱岐で軍功あり撤退反対と評価された金方慶だけが再度高麗軍を率いたということかな
弘安の役では幕府が乗り出してきたけど、文永の段階での御家人の参集状況ってどんな感じだったのだろうね。 承久の負け組のボランティア的性格、少弐に一任して現地対応に近かったのかな?
>>422 絵詞に「集史」を描き写したんじゃないかってくらいそっくりな蒙古兵がいてかなり驚いた
絵詞が元軍の武装を知る上で貴重な資料として海外の研究者からも注目されている、というのも頷けるな
>海外に注目されて 初めて聞いた マジ? なんか、絵詞全体がネットで紹介されて元寇での鎌倉武士pgrがやりにくくなってきたからか 最近は絵詞自体の資料価値をおとしめる方向にシフトしてる気がするんだよね いわく、所詮個人の武功自慢のため誇張されて事実が捩曲げられている、 その証拠に元軍の弓が和弓になっている、だから実際の戦闘を知らないで想像で書いてるから無価値!とか
>>423 蒙古襲来を知らせる使者が鎌倉に到着する前に全部終了
そもそも幕府の本格的な関与しようがなかった
少弐に協力したくない心理も働いたらしく九州御家人も一部不参加
もし弘安の敵兵力3倍を幕府の権威による動員準備も防衛施設もない文永にぶつけられてたら
厳しかったとは思う
しかし、幕府は文永8年の段階ではっきり襲来を予期しているだろう。 それとも実数3万程度の軍勢との合戦は国内で何度も経験してるから、高麗だけなら何とかなると踏んでたのかな。 高麗の900艘は国力の限界に近いし 南宋が制圧されて以降の本気モードとは違う
>>425 確かS.R. ターンブル著の「モンゴル軍」(日本では新紀元社から出版)に
モンゴル軍の軍装の描写が正確、詳細で史料価値が高いみたいなこと書いてあったよ
>>425 >その証拠に元軍の弓が和弓になっている
これってモンゴルの短弓が、武士の興味の引くような性能でなかったことを示してないか?
なんで学校の授業などで元寇を教わる時は、短弓の性能を強調するんだろう?
>>425 当時日本には存在しなかった槍が描かれてる時点で、「実際の戦闘を知らないで想像で書いてる」とか無い。
「実際の戦闘を知らないで想像で書いてる」云々を問題にするなら、実戦参加した武士監修の蒙古襲来絵詞
じゃなくて八幡宮関係者によって書かれた八幡愚童訓の方だろって。。。
>>425 短弓は馬上だってのに
元軍が使ってた弓の実物残ってるだろ
絵詞の模写と同型だぞ
日本では絵詞をはじめ伝聞も含めた史料類が豊富に残ってるが、大陸にはそれほど残ってないんだろうか。 高麗史を除くと臨場感や時間の前後関係が分かるものが少ない気がする
>>432 惨敗した記録を詳細に史書に残すというのは、あんまりやらなそうですね。
あと、特に弘安の役では生還者自体が少なくて、大陸では十分な情報が得られなかったかも。
434 :
名無し三等兵 :2012/12/15(土) 11:22:32.69 ID:C4aElF+m
>>422 >『蒙古襲来絵詞』で麁原に布陣する蒙古兵の中に、『集史』に描かれている蒙古兵と似た装備の騎兵が
>居るからだよ
高麗軍の装備がわからないかぎり、その根拠は成り立たない。高麗史を見ると高麗が元から衣甲器杖を
供給される記事が何カ所かある。逆に元が高麗に対して人・船・食糧を要求した記事はあるが衣甲器杖
を要求した記事はない。
高麗軍が蒙古軍と同じ装備であった可能性がある。
>装備が雑多なのは多民族混成の蒙漢軍だからで、高麗軍ならもっと統一感あるはずでしょ。
蒙漢軍は金国に仕えていた漢人戦闘集団が蒙古に投降したものが主体だから、基本的に漢人集団だ。
決して民族混成ではない。装備が雑多なのは急な動員でかき集めたからだろう。また小札鎧(註)は
階級的なものであった可能性もある。もっとも目立つ小札鎧の騎士はこの集団の指揮官だろう。
(註)小札鎧を着ているのが蒙古騎兵だと言いたいらしいが、「似ている」という三つの絵の小札鎧の
様式はそれぞれ異なる。絵詞のそれは兜の「しころ」が小札製の大型のもので、頭巾のように肩と喉もと
を覆っている。集史の上の絵のは「しころ」が小札製ではなく革か布の簡便なものだ。集史の下の絵のは
「しころ」が小札製で首を覆うだけの短いものだ。
小札鎧さえ着ていれば蒙古騎兵だというなら鎌倉武士も蒙古騎兵だ。
435 :
名無し三等兵 :2012/12/15(土) 11:23:19.71 ID:C4aElF+m
>>422 あと、時間設定は史料に記述がないから意味ないと思うんだよね。
戦闘経過である以上、たとえ推定であっても時間設定は必要だ。 現に一号君が「全ての戦闘が同じ
時間に戦われた」つまり極めて短い時間帯のなかで戦われたと主張するのも一つの時間設定だ。
しかしこの時間設定は一号君が金科玉条とする「一級資料」によって簡単に崩れる。なぜなら
日田文書は一日のうちに2回出撃したことを述べているからだ。
同じ集団が一日に二回出撃することの中には、基地から戦闘場所に行き着く時間、戦闘時間、基地
に戻る時間、負傷者の手当、休息、腹ごしらえなどして戦力回復する時間、二回目に基地から戦闘
場所に行き着く時間、戦闘時間、基地に戻る時間、
これだけのものが含まれる。これを「同じ時間」にこなしたとすれば日田は時空超越戦士だ。
>日本軍だって早馬が九州各地に走り、そこから各御家人が配下召集して博多に馳せ参じてるわけで、
準備が整うまでは物理的に時間がかかる。
これは言外に、遅い時間に戦闘が始まったと言いたいわけだな? その心は一号君の言う「同じ時間」
内の戦闘を「及暮乃解」につなげなければならないからだ。これも一つの時間設定だ。ちゃんと
時間設定しているではないか。
鎌倉幕府でまとめた公式の戦況記録というのは無いのですか? 私的な記録が残ってるだけ?
パフォはうざいからコテ付けてほしい
>>436 一応、武家の記録としては『鎌倉年代記裏書』がある。
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」
あと、幕府から京へは合戦で蒙古を追い返したと報告されてる。
『帝王編年記』
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
>>435 日田文書は一日のうちに2回戦闘したと述べてるだけ。
>基地から戦闘場所に行き着く時間、戦闘時間、基地 に戻る時間、負傷者の手当、休息、腹ごしらえなど
>して戦力回復する時間、二回目に基地から戦闘 場所に行き着く時間、戦闘時間、基地に戻る時間、
そんなものを勝手に含めないで。
あと、日田文書からは「及暮乃解」につながらないよ。
元軍に後がない百道原や姪浜で日本軍が敵を斬りまくってるというのは戦闘の最終局面だろ。
後はどれだけの元兵が無事に乗船して日本を脱出できるかの状態で、そんな戦闘が「及暮乃解」なんて
形に収束するはずがない。
それに「及暮乃解」からは「會夜大風雨、戰艦觸岩多敗」につながらないと駄目でしょ。
10月20日の夜に博多湾でそんな大惨事が発生したことを示す史料は皆無なわけで、「及暮乃解」が
九州での出来事じゃないのは確実。
上で上げられてる安国論私抄に捕らえられた蒙古兵が「蒙古国を出て」高麗から出航して百道原に上陸したといってるのだから 百道原から上陸したのは明らか蒙漢軍でしょ。 「高麗軍の装備がわからないかぎり、その根拠は成り立たない。」とするなら、祖原の元軍を高麗軍とする根拠を挙げる義務を負うのはパフォ君だよ。 自分の主張に根拠がないのに、他者を「根拠がない」と批判するのはおかしいね。 >日田文書は一日のうちに2回出撃したことを述べているからだ。 「二度ノ合戦二討勝テ」のどこに「二回出撃した」と書いてるのかな? 『福田文書』によれば、鳥飼潟で敗走した元軍が百道原へ退却してそこで踏ん張ったのが確認できるわけだから 踏ん張った敵を二回撃退したと言ってるだけ。自分の曲解をさも史料に基づいてるように嘘をいうのは悪い癖だね。
パフォ君は後半戦に日本軍が大敗したとしたい願望を満たしたいなら 早くどこの誰がその時に戦傷死しして、合戦があったという資料を提示すれば 言いだけの話だよ。 無いなら、パフォ君が「あった」と主張するのは不自然だね。史料に無いことをあったと するのはおかしいからね。 >蒙漢軍は金国に仕えていた漢人戦闘集団が蒙古に投降したものが主体だから、基本的に漢人集団だ。 決して民族混成ではない。 パフォ君は本当に嘘つきだね。蒙漢軍の民族構成なんてわかっていないよ。 分かってるのは漢人の他にも旧南宋兵の襄陽生券軍や女真族、三別抄の乱にはモンゴル兵も参加していたことから モンゴル兵もいたものと思われる。ただ、何%が漢人で女真族が何%といった具体的な数字は不明だよ。 つまり、もろに雑多な民族構成だよ。
というか、元軍だか高麗軍が九州で日本軍に大打撃を与えた史料って 八幡なんとか以外になかったりするの?
あるのはあるけど、日本側の史料のその手の話は八幡ノ蒙古記同様の「神が降臨して元軍を撃退した」とか いう類のもしかない。 『元史』にも「その国に入り、これを破る」とあるけど対馬のことなのか、壱岐のことなのか、肥前のことなのか 博多のことなのかさっぱりこれだけだとわからない。
>>443 ありがとうございます。
ということは、文永の役における九州の戦局描写は、極めて大雑把に言えば
A 元軍は九州の武力によって即日撃退された。
B 元軍は日本軍を破るも、神によって追い払われた(こちらも即日?)
の2パターンしかないと。
……神云々は置いといて、遠征してきた軍が上陸して即日撤退って
「惨敗」以外のなんなのだろう。
当日の戦況、日本軍の突出に蒙古軍が振り回されっぱなしだった印象を受ける。 鳥飼潟では主力も到着して短時間に凄まじい損害を受け、総崩れ状態になって船上に逃れたのはかなり早い段階だったんじゃないか この状況で軍議が開かれて反対意見が出たというのはあり得ない。兵の士気がとても戦闘に耐えられない 日本軍も損害が出たが、こっちは追いまくった側だから撤兵を確認して一度引き上げた感じかな
武士より圧倒的に強い元軍も神の力に及ばないのは仕方ない 神>>>>元軍>>>武士
中世の戦闘って開戦して決着が着くと取り敢えず帰陣するのんびりしたもんだからな それを捉えて武士団が壊滅した証拠と主張するのは悪辣 複数の武士が追撃したとする記述と 元軍も兵は疲れ果て衆寡敵せずと判断してるなら苦戦の末撤退したのは事実
>>414 日本軍の拠点は水城。
そもそも敵が何時、何処に上陸してくるかなどわからない。
元軍上陸の情報が水城ないし大宰府に届くまで早く見積もっても1時間はかかる。
そこから戦支度を整え出撃するとしても、そもそも水城ないし大宰府に詰めている兵力はごく一部だろう。
主力はそこから更に伝令を飛ばして周辺の御家人の参集を待つしかない。
元軍上陸が早朝に始まったとして日本側は午前中に先遣隊が攻撃をかけられれば御の字。
当時は情報伝達速度も軍の展開速度も現在とは比較にならないほど遅い。
上陸中の元軍を攻撃するなど事実上不可能。
それでも当時としては極めて速やかに迎撃出来た方だと思うぞ。
壱岐・対馬の情報から近々元軍襲来が有りうると解った事、大宰府の位置関係から上陸地点は博多湾周辺と予想
出来た事、それを踏まえて水城に拠点を設け迎撃体制を整えられた事等によるものだろう。
>>448 いったん、文献とかは全然無視して物理的に考えてみる。
元軍が夜明け(7時前後)と共に上陸開始。これを日本側の斥候が直ちに発見して水城に早馬を飛ばしたとしても
直線距離で14〜15キロ、道もそう良いわけじゃないだろうから、30分はかかるだろう。
一応7時半に水城の日本軍に敵襲の報が入り、直ちに出陣したとする。まずは15キロ行軍だけど、今度は歩兵もいるし
騎兵も全速力とは行くまい。赤坂に到達するには時速4キロで4時間近くかかる。相当頑張っても3時間以内、つまり
10時30分までに水城から赤坂まで行軍するのは難しいだろう。まともに考えれば水城から出撃した部隊が戦闘開始するのは、
おっしゃる通り早くても昼前ですね。
これ以前に攻撃した武士がいたとしたら、水城よりもっと海岸に近いところから出撃していなければならない。
で、ここで帰り道についても考えてしまう。
水城まで帰るのにも徒歩で3〜4時間は見なければならないとしたら、日没(17時過ぎ)の4時間前(13時頃)には帰り始めないと到着前に暗くなってしまう。
……なんか変じゃない? 暗くなるから自然休戦で水城に撤退したとすると、日本軍は11時〜13時の2時間程度戦って帰ってしまったか
夜営せずに夜道を水城まで帰った事になってしまいます。
>>449 到着前に暗くなる事に何か支障がありますか ?
というか、暗くなってから戦闘中止して水城に帰陣したとしても別に支障ないでしょう。
戦闘継続不可能なだけで、道と方向がわかっていれば夜道を歩いて帰るくらいの事は出来るでしょう。
旧暦10月20日なら月は出てますから闇夜ではない。
夜でも道くらいはわかります。
451 :
名無し三等兵 :2012/12/15(土) 21:20:09.63 ID:4SSIAE2H
>>439 >日田文書は一日のうちに2回戦闘したと述べてるだけ。
「姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ」と言っている、その百道原合戦と姪浜合戦の間にはある程度の時間があるだろう。
まったく連続していれば二度の合戦とは言わないからね。それならば一号君の言う「全ての合戦は同じ時間に」は成り立たない、と
言ってるだけ。
>それに「及暮乃解」からは「會夜大風雨、戰艦觸岩多敗」につながらないと駄目でしょ。
つながらなくてよい。「會夜大風雨」は「たまたま夜大いに風雨す」と訳されている。
当日の夜でもいいし、数日後であってもかまわない。当然、場所は博多湾内でなくてよい。
壱岐は遭難現場になり得る。来た時と同様、島伝いに帰るのだからね。
452 :
名無し三等兵 :2012/12/15(土) 21:21:52.62 ID:4SSIAE2H
>>440 >安国論私抄に捕らえられた蒙古兵が「蒙古国を出て」高麗から出航して百道原に上陸したといってる>のだから百道原から上陸したのは明らか蒙漢軍でしょ。
前にも書いたが、伊藤英人氏の論文:
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/23683/1/acs063001.pdf の引用には「蒙古国を出て」の文字が無い。これが無ければ「蒙古」は単に「敵軍、敵兵」の意味に用いられることが多いのだから、
捕虜がモンゴル人だという根拠はなくなってしまう。どちらの引用が正しいかわからないが、伊藤氏は久遠寺の原本を見ている。
それに、この記事に接続して「蒙古詞」と日本語の対照表があるが、これはこの捕虜から聞き取ったものである可能性が高い。
その言葉が大部分朝鮮語で解されるというのも意味深い。
また、仮に捕虜が蒙漢軍だとしても、そのことが、早良郡に高麗軍が上陸しなかったことの根拠にはならない。
ノルマンディでドイツ軍の捕虜になった英国兵の尋問記録が見つかったとして、そのことがアメリカ軍がノルマンディに上陸
しなかったという根拠にはならないの同じだ。
453 :
名無し三等兵 :2012/12/15(土) 21:25:27.43 ID:4SSIAE2H
>>452 訂正:
ならないの同じだ → ならないのと同じだ
454 :
横レス :2012/12/15(土) 23:32:33.99 ID:???
>>451 >その百道原合戦と姪浜合戦の間にはある程度の時間があるだろう。
おい、
>>435 で
>日田文書は一日のうちに2回出撃したことを述べているからだ。
>同じ集団が一日に二回出撃することの中には、基地から戦闘場所に行き着く時間、戦闘時間、基地
>に戻る時間、負傷者の手当、休息、腹ごしらえなどして戦力回復する時間、二回目に基地から戦闘
>場所に行き着く時間、戦闘時間、基地に戻る時間、
>これだけのものが含まれる。これを「同じ時間」にこなしたとすれば日田は時空超越戦士だ。
と書いてたのはどうなった ?
百道原と姪浜は地図上で2km程しか離れていないぞ。
たかが2kmの距離で連戦したと書いてあるだけの記録がどうして「一回基地に戻り負傷者の手当、休息、
腹ごしらえ等して戦力回復を図った上で再出撃」した証拠になるってんだ ?
お前のレスは全て相手の突込みにその場その場で場当たり的に詭弁を弄して反論してるだけだな。
論理的整合性など皆無で自分の主張が矛盾だらけでもお構いなし。
>>435 のレスなど今後一切無視するつもりだったんだろう。
どちらの肩を持つわけではないが 百道浜〜姪浜は地図上では近くに見えても移動には少々時間がかかる。 当時の海岸線は愛宕山の北岸に沿っており、姪浜に向かうには山の南を迂回することになる。 南に迂回する前に室見川を渡らねばならないが、ここは近世まで橋をかけていなかった。 室見川は潮のさす川で干満の差が激しく安全に渡れるのは干潮時。 長浜、百道浜など長い浜辺が続く福岡の海岸線にくらべて 室見川を渡った向こうの姪浜の海岸線は磯の連続となる。
うん、別に多少時間かかったってかまわないよ。 馬で5分の距離を30分かかったとしたって大勢に影響は無い。 川については700年前の流れがどうなっていたか不明なので何ともいえない。 だが現状で延長15キロ程の小河川、渡河するポイントなどいくらでもあるだろう。 実際、元軍が問題なく移動してる事でも明らか。 話は変わるが「日田記」の記述をそのまま読むと、日田弥次郎は軍を2手に分けて百道原と姪浜をそれぞれ攻撃し、 どちらも勝ったと書いてるようにも読めるんだよな。 いずれにしろ「一回基地に戻り負傷者の手当、休息、腹ごしらえ等して戦力回復を図った上で再出撃」したなどとは 読めないことには変わりはないが。
>>453 >「姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ」と言っている、その百道原合戦と姪浜合戦の間にはある程度の時間があるだろう。
まったく連続していれば二度の合戦とは言わないからね。それならば一号君の言う「全ての合戦は同じ時間に」は成り立たない
『福田文書』を読んでみよう。鳥飼潟で敗走した百道原へ敗走した元軍はここで再び、日本軍と射戦を行って日本軍に対抗している。
つまり、鳥飼と百道原の二つの戦闘の間に「ある程度の時間」など無い。つまり、百道原と姪浜との間にも「ある程度」の時間があった
など妄想にすぎない。後退しては態勢を整えようと踏ん張っては撃破された結果「姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ」と
なったのだろうね。
全く同じ戦闘が連続して続いたとしか考えられないね。パフォ君の都合で敵を撃破したのに、追撃もさせてくれない日本軍が可哀相。
>前にも書いたが、伊藤英人氏の論文:
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/23683/1/acs063001.pdf の引用には「蒙古国を出て」の文字が無い。これが無ければ「蒙古」は単に「敵軍、敵兵」の意味に用いられることが多いのだから、
捕虜がモンゴル人だという根拠はなくなってしまう。どちらの引用が正しいかわからないが、伊藤氏は久遠寺の原本を見ている。
今確認したら日蓮宗宗学全書の御書見聞集では「蒙古国を出て」とちゃんと明記されているね。全く無い言葉を載せるとも思えない。
伊藤英人氏の論文は脱字だろう。
>それに、この記事に接続して「蒙古詞」と日本語の対照表があるが、これはこの捕虜から聞き取ったものである可能性が高い。 その言葉が大部分朝鮮語で解されるというのも意味深い。 今一度、「蒙古詞事」を読んでみたがどこにもその捕虜から聞き取ったと書いていないではないか。 朝鮮語と解し得るものは8個、解し得る可能性があるものが3個、それに対して朝鮮語で解し得ないものが14個だ。つまり、半分以上の言葉が朝鮮語に解し得ない。 なぜこういう事態が起こりえたかというと、捕らえられた捕虜は一人だけではないからだ。蒙古語を解すために捕虜の高麗人や元人など雑多な蒙古の言葉を聞き取ったために 朝鮮語と解し得るものがあれば、解し得ないものが過半数という状況が現出する。また、捕らえれた捕虜は「蒙古国を出て」と言ってる以上、元人側の人間だ。 >また、仮に捕虜が蒙漢軍だとしても、そのことが、早良郡に高麗軍が上陸しなかったことの根拠にはならない。 ノルマンディでドイツ軍の捕虜になった英国兵の尋問記録が見つかったとして、そのことがアメリカ軍がノルマンディに上陸 しなかったという根拠にはならないの同じだ。 捕らえられたアメリカ兵が「アメリカ軍はノルマンディから上陸した」と言っているのだから、何も疑う必要はない。 尋問を受けた捕虜は「蒙古国を出」て高麗へ向かい、「百道原」に上陸したと言っている以上、明らかに百道原から上陸したのは蒙漢軍だ。
訂正 鳥飼潟で敗走した百道原へ敗走した元軍→鳥飼潟から百道原へ敗走した元軍
460 :
455 :2012/12/16(日) 07:50:34.11 ID:???
>>456 そういうことならば百道原と姪浜を一隊で迎撃したとは考えにくい。
室見川を渡って姪浜に出るのは思いのほか時間がかかる。増水に満潮が重なれ渡れない。
唐津街道を西進する商人たちは室見川の状態を絶えず気にかけていた。
百道原は福岡の西の外れ、姪浜は今でこそ福岡市内に編入されているが
もとは福岡のさらにむこうの入りにくい土地。大きな移動の場合は船のほうが一般的だった。
新羅の賊が何度も侵入してきては早良郡の田畑を焼き家畜を殺し女を拉致しているが
上陸地点はたいてい能古島から手薄な今津、生の松原、小戸付近。
その経験則からも姪浜には一隊を派遣して別に守っていた可能性が高いように思える。
461 :
名無し三等兵 :2012/12/16(日) 10:40:57.98 ID:gK9JVaxU
>>456 わざわざ「一日のうちに2回」と言っているのに「二手に分けて」とは持って回った物だな。
それにこれは日田個人の戦功なのだから二つの戦闘にいずれも日田がいたということにならないのか?
462 :
名無し三等兵 :2012/12/16(日) 10:42:33.62 ID:gK9JVaxU
>>457 >鳥飼と百道原の二つの戦闘の間に「ある程度の時間」など無い。つまり、百道原と姪浜との間にも
>「ある程度」の時間があったなど妄想にすぎない。
AとBの間には時間がないからBとCとの間にも時間がない、というのは恐るべき論法だな。
>全く同じ戦闘が連続して続いたとしか考えられないね。
Bから大迂回しなければ行けない土地Cでの戦闘がなんで「全く同じ連続した戦闘」なのか理解に苦しむ。
>伊藤英人氏の論文は脱字だろう。
それは推定に過ぎない。伊藤氏に電話して確かめたらどうか。
463 :
名無し三等兵 :2012/12/16(日) 10:44:44.83 ID:gK9JVaxU
>>458 >今一度、「蒙古詞事」を読んでみたがどこにもその捕虜から聞き取ったと書いていない
「蒙古ことばのこと」いう章の冒頭に捕虜の来歴が書かれている。これが聞き取りした一人の捕虜の来歴
でなかったらなんでこんなところに置かなければならないのか?
>蒙古語を解すために捕虜の高麗人や元人など雑多な蒙古の言葉を聞き取ったために
ほほう、高麗人もいたのか。それは高麗軍が来た証拠だな。
>朝鮮語と解し得るものがあれば、解し得ないものが過半数という状況が現出する。
そうとも言えるが、お互い全く疎通しない間での行き違いや聞き取り不良もあり得る。
現に「日本人」に対して「サルミ(=人間)」と答えているのも行き違いの例だ。
(だから「弓」とか「矢」とか間違えようのない物はちゃんとした言葉になる。)
>アメリカ兵が「アメリカ軍はノルマンディから上陸した」と言っているのだから、何も疑う必要はない。
まさかとは思ったが、またこの論法が出て来たのには正直たまげた。
では言い方を変えよう。
A)百道原に蒙漢軍が上陸した。
B)高麗軍も百道原に上陸した、あるいは百道原ではなく、例えば姪浜に上陸した。
この場合、百道原に上陸した蒙漢軍のなかに捕虜になった蒙古兵がいたということが、B)の事実はなかった
という根拠になり得るか?
>>460 別に増水に満潮が重ならなければどうということはないだろう。
あの程度の中小河川など日本中に山ほどある。
治水の進んでいない昔ならなおさらで、ほとんどは橋も架かっていなかったろう。
時期的にも降水量は少ない時期だし、増水してなければそのまま浅瀬を選んで渡河すればいいだけの話。
>>461 >それにこれは日田個人の戦功なのだから二つの戦闘にいずれも日田がいたということにならないのか?
ならないだろう。
作戦上、配下の軍勢を二手に分けてそれぞれ別の敵に当たらせる事などいくらでもある。
日田弥次郎率いる軍勢の戦功ならば、それは日田の戦功だ。
ただ俺は軍勢を二手に分けたと主張しているわけでは無いよ。
「二軍ヲ出シ」という記述をそう解釈する余地がないかという疑問を提示してるだけ。
あるいはその解釈は間違いかもしれない。
ただし「一回基地に戻り負傷者の手当、休息、腹ごしらえ等して戦力回復を図った上で再出撃」したなどとは
どこをどうやっても読み取れない事は確か。
>>463 >蒙古ことばのこと」いう章の冒頭に捕虜の来歴が書かれている。これが聞き取りした一人の捕虜の来歴
でなかったらなんでこんなところに置かなければならないのか?
どうしたパフォ君。最近、全く反論できなくなって嘘ばかり言うようになってるでは無いか?
冒頭に捕虜の来歴が書かれているのは「文永十一年蒙古責日本之地事」という章で単独で構成されている。
それに対して「蒙古詞事」は全く別の章に設けられている。つまり、「文永十一年蒙古責日本之地事」と「蒙古詞事」とは
全く別のものであり、「蒙古詞事」がその捕虜から聞き取りしたという証拠にはならない。
>ほほう、高麗人もいたのか。それは高麗軍が来た証拠だな。
ほほう、日本に攻めてきた高麗人がなぜ捕虜にならないと思ってるのか、パフォ君の脳みそはいったいどうなってるんだろうね。
>この場合、百道原に上陸した蒙漢軍のなかに捕虜になった蒙古兵がいたということが、B)の事実はなかった
という根拠になり得るか?
なるほど、つまり百道原から上陸したのは高麗軍であり、祖原に陣を布いたのも高麗軍であり、鳥飼潟で戦ったのも高麗軍という
従来のパフォ君の主張が誤りであったことを認めるのだな?
なぜなら、パフォ君は「百道原に上陸した蒙漢軍のなかに捕虜になった蒙古兵がいた」と認めてくれてるからね。有難う。
初歩的な質問で恐縮ですが、所属組織と国籍はほぼ完全に一致すると考えて良いの? 蒙漢軍と言いつつ、蒙古人は指揮官だけで下級兵士は高麗人とか言うオチは想定しなくてOK?
468 :
名無し三等兵 :2012/12/16(日) 19:43:41.26 ID:9U+uprNj
>>465 >「二軍ヲ出シ」という記述をそう解釈する余地がないかという疑問を提示してるだけ。
「二軍ヲ出シ」って消化試合のサッカーじゃあるまいし、なんのことかと思った。ウィキを見たら:
「筑前国早良郡二軍ヲ出シ、姪ノ浜、百路原両処二於テ、一日二度ノ合戦二討勝テ、異賊ヲ斬ル事夥シ」
「二」は助詞だよ。「に」のあるべきところに三回出ている。
これで「二手に分けて」説はなくなったかな。
>「一回基地に戻り負傷者の手当、休息、腹ごしらえ等して戦力回復を図った上で再出撃」したなどとは
>どこをどうやっても読み取れない
「一回目と二回目は間を置かずに連続してやった」とも書いてない。
昔の戦争は体力勝負だ。引き金を引いていればよい現代の戦争とは違う。
一回突撃したら戦力回復は必要だったと思うよ。
>>462 >AとBの間には時間がないからBとCとの間にも時間がない、というのは恐るべき論法だな。
鳥飼潟と百道原との「間に時間がない」という事実があり、日田記によれば「鳥飼」と「間の時間」が無い百道原の元軍が
百道原と姪浜で戦ったとなれば姪浜の元軍が元軍別軍でなければ、間に時間が無いとなるのは当然だろう。
間に「一回基地に戻り負傷者の手当、休息、腹ごしらえ等して戦力回復を図った上で再出撃」という狂ったような解釈を
ねじ込むことの方がはるかに恐るべき論法は君だよ。
>Bから大迂回しなければ行けない土地Cでの戦闘がなんで「全く同じ連続した戦闘」なのか理解に苦しむ。
大迂回云々であることが「全く同じ連続した戦闘である」ということのどこに理解が苦しむか不明。
追撃して姪浜まで逃げた元軍を追って元軍日本軍ともに大迂回して再び元軍が踏ん張っても「全く同じ連続した戦闘」
になるではないか。
>>467 蒙漢軍自体には朝鮮半島出身者はたぶんいない
モンゴルと以前の金の領域で集めた軍隊だから民族的多数派は漢人だったと推定される
471 :
名無し三等兵 :2012/12/16(日) 20:20:13.30 ID:9U+uprNj
>>466 >それに対して「蒙古詞事」は全く別の章に設けられている。
これはその通りだった。謝るよ。
>>日本に攻めてきた高麗人がなぜ捕虜にならないと思ってるのか
どうも言ってることがわからない。君は高麗軍が壱岐止まりで日本に来なかったと主張しているのではないのか?
それとも君は壱岐軍議くんとは別人なのかな?
>百道原から上陸したのは高麗軍であり、祖原に陣を布いたのも高麗軍であり、鳥飼潟で戦ったのも高麗軍という
ついでだから私の主張をまとめておこう。
>百道原から上陸したのは高麗軍であり
私は高麗軍の上陸地を断定してはいない。ただ、高麗軍は先遣隊として前夜のうちに上陸したと思う。
すると19日に上陸が始まったという記録のある上陸地のどれかが高麗軍だ。
>祖原に陣を布いたのも高麗軍
これはそう思う。理由は、高麗軍が百道原への上陸を援護するための先遣隊ならば祖原山は絶好の橋頭堡だからだ。
それと、金方慶のひきいる中軍が本陣を構えるのにふさわしい。
>鳥飼潟で戦ったのも高麗軍
緒戦はその通り。しかしその後蒙漢軍も加わった「諸軍與戦」の戦場となったのもまた鳥飼潟だ。
なぜなら百道原、祖原山、鳥飼塩屋、赤坂などおもな戦場は全て鳥飼潟の周辺にあるからだ。
472 :
名無し三等兵 :2012/12/16(日) 20:48:32.20 ID:9U+uprNj
>>469 >姪浜の元軍が元軍別軍でなければ、間に時間が無いとなるのは当然だろう。
姪浜の元軍が「別軍」だっていいではないか。姪浜だって上陸地なのだから、いくらでも「別軍」はいただろうよ。
「間に時間がない」というのは、物理的にはあり得ないわけだが(駆けている間にも時間はたつ)どうも君たちの言う
「間に時間がない」とか「同じ時間に」(これも物理的にあり得ない)とかは「全ての戦闘が連続している」という意味
のようだな。
>追撃して姪浜まで逃げた元軍を追って元軍日本軍ともに大迂回して
日田によって鳥飼潟から海方向へ、百道浜まで多い詰められた元軍が窮鼠猫を噛むごとく反転して、追って来た日田勢を
中央突破し、さらに姪浜の入り江を大迂回、姪浜まで逃げるのを日田もまた大迂回して追いかける、そして姪浜で戦闘か。
よく息が続くな。
ただ今リアルで鷹島掃討戦が起こってるわww
>>471 >ただ、高麗軍は先遣隊として前夜のうちに上陸したと思う。
すると19日に上陸が始まったという記録のある上陸地のどれかが高麗軍だ。
まず、19日に上陸が始まったという記録のある上陸地とは何の史料のことなのかを挙げてくれないと君の考えが妄想なのか、
史料に基づいてるのか判別できないのだが?俺がざっと見た限りに「19日」に上陸地名を挙げて上陸したと明確に書いてる資料は見つからなかった。
>理由は、高麗軍が百道原への上陸を援護するための先遣隊ならば祖原山は絶好の橋頭堡だからだ。
それと、金方慶のひきいる中軍が本陣を構えるのにふさわしい。
ほう、それのどこが祖原の元軍は「高麗軍」になるんだ?
蒙漢軍は百道原から上陸していながら、なぜ目と鼻の先の祖原山にいなかったという都合の良い解釈になるのか。
恐らくパフォ君は蒙漢軍が祖原山にいては、パフォ君の主張する「後半戦の日本敗北戦」とやらの妄想との整合性が合わないから
このような都合の良い解釈を行っているものと思われる。
>しかしその後蒙漢軍も加わった「諸軍與戦」の戦場となったのもまた鳥飼潟だ。 なぜなら百道原、祖原山、鳥飼塩屋、赤坂などおもな戦場は全て鳥飼潟の周辺にあるからだ。 「鳥飼潟で」合流した云々以外は概ね同意。その戦いで元軍は劣勢になり、撤退といった流れだろう。 >「間に時間がない」というのは、物理的にはあり得ないわけだが(駆けている間にも時間はたつ)どうも君たちの言う 「間に時間がない」とか「同じ時間に」(これも物理的にあり得ない)とかは「全ての戦闘が連続している」という意味 のようだな。 物理的な話などしていないよパフォ君。元軍と日本軍が合戦を行い元軍が敗走し、それを日本軍が追撃すれば「戦闘と戦闘とを連続している」となるよね。 >日田によって鳥飼潟から海方向へ、百道浜まで多い詰められた元軍が窮鼠猫を噛むごとく反転して、追って来た日田勢を 中央突破し、さらに姪浜の入り江を大迂回、姪浜まで逃げるのを日田もまた大迂回して追いかける、そして姪浜で戦闘か。 また、得意の史料の曲解か。どこに「元軍が窮鼠猫を噛むごとく反転して、追って来た日田勢を中央突破し」など書いてるのかな? 百道原で敗走した元軍は室見川へ渡って逃げたと考えるのが自然だろう。逆に百道原で敗走した元軍と姪浜の元軍を別軍とした場合は、 百道原の敗走した元軍は「百道浜から乗船して逃げた」となるがいいのか?敗走したら、消えて無くなるなんて全滅以外ないからね。 普通に考えれば、姪浜へと敗走したと解釈して良いだろう。
476 :
名無し三等兵 :2012/12/17(月) 06:43:07.81 ID:tKNZLu9K
477 :
名無し三等兵 :2012/12/17(月) 10:08:41.07 ID:OnICCrTt
>>476 壱岐の話から始まっているのだから、鳥飼潟の話をする前にそれを片付けよう。
何回も質問の形で言ったが、君がはぐらかすから直説法で言おう。
私が言っているのはこういうことだ。
日蓮宗の記録の中に君が蒙漢軍兵士だと考える捕虜の尋問記録が載っている。
君はこのことが、高麗軍が壱岐に止まって北九州までは来なかった証拠だと主張している。
しかし私はこの論理は成り立たないと思う。
以下、この捕虜が君の主張するように蒙漢軍兵士だったと仮定して書く。
当たり前のことだが、百道原に上陸した蒙漢軍捕虜の存在は、確かに蒙漢軍が百道原に
上陸したことを証明するが、だからと言って、高麗軍が北九州に来なかったことまでは
証明しない。
ある事象Aに属する証拠A’の存在は「事象Aの存在」を証明するが、
他の「事象Bの不存在」を証明するものではないからだ。
これについて君の意見はどうか?
>何回も質問の形で言ったが、君がはぐらかすから直説法で言おう。 私が言っているのはこういうことだ。 質問に答えないのは俺のレスとは違うレスに対する質問だからだ。 俺が「君はこのことが、高麗軍が壱岐に止まって北九州までは来なかった証拠だと主張している」 など主張したことは一度も無いよパフォ君。君は常に一人と論戦してると勘違いしてるようだが君に レスをしてるのは俺だけではない。 俺がパフォ君にレスをしているのは、祖原山の元軍を「高麗軍」に摩り替えたり 武士側の史料の記録を「偽装退却」に摩り替えるパフォ君の姿勢に疑問があるからだ。
近頃の流れを読むと、今までパフォ爺が資料をいかに恣意的に解釈してきたのかがよく分かるわ しかもここ最近は言うことがどんどん支離滅裂になってきてるし
最初から支離滅裂じゃなかったっけ
482 :
名無し三等兵 :2012/12/17(月) 19:38:04.44 ID:vxLUwjLR
>>478 はたぶん壱岐軍議くんと思うが違うと言うならしかたがない。
壱岐軍議くんは必ず
>>477 を見ているはずだが出て来ないのは反論できないからだろう。
かくして彼の言う「蒙漢軍の捕虜」について議論する必要はなくなった。
483 :
名無し三等兵 :2012/12/17(月) 20:44:21.32 ID:vxLUwjLR
>>475 の議論は
>>457 から続いている。これは明らかに壱岐軍議くんだな。しかし違うというかも知れないから、
今後は「勝ち勝ち山の狸二号くん」略して「狸二号くん」または「二号くん」と呼ぼう。一号くんは別にいる。
>どこに「元軍が窮鼠猫を噛むごとく反転して、追って来た日田勢を中央突破し」など書いてるのかな?
百道原で敗走した元軍は室見川へ渡って逃げたと考えるのが自然だろう。逆に百道原で敗走した元軍と姪浜の元軍を別軍
とした場合は、百道原の敗走した元軍は「百道浜から乗船して逃げた」となるがいいのか?
百道原から室見川を渡るには、いったん祖原半島(仮称)の付け根まで行かなくてはならない。それは祖原半島沿いに百道原
を攻めた日田勢の攻撃方向と反対だ。だから「中央突破」と言ったのだ。
まあそれはいいとして、二号君がこのような戦闘経過を想定するのは、考えて見ればまったく恣意的な作業だ。
それが悪いと言うのじゃないよ。数少ない簡略な資料しかないのだから恣意的になるのはやむを得ない。ただ、そのような
ものだということを意識して欲しいから言った。
さて、恣意的であるということは、他にどんな想定でも可能だと言うことだ。だから同じ恣意的であっても、私にやらせれば
真反対の戦闘経過になる。では私の想定する日田の戦闘経過を書こう。
484 :
名無し三等兵 :2012/12/17(月) 20:49:09.38 ID:vxLUwjLR
日田勢は鳥飼潟の干潟を突っ切って百道原の元軍を攻めた。そして百道原に充満する元軍のなかを駆け回って射戦し、元軍に かなりの損害を与えた。それに満足し、また矢も尽きたので、百道原を脱出して味方陣地へ帰った。 味方陣地内で休息、負傷者の手当、腹ごしらえ、矢の補給等を行って、部下の戦闘意欲が再び高まったので、日田は次の戦闘を 考えた。今度は元軍の後方を衝くゲリラ的、もといコマンド的攻撃を行うことを考え、元軍を大迂回して室見川を渡り、 姪浜まで行って、ここに上陸中の元軍後方部隊を襲った。これも成功して元軍にかなりの損害を与えたので満足して、来たときの ルートで味方陣地に戻った。 他の武士達も同じような戦闘を繰り返したが、元軍に決定的な打撃を与えることはできず、元軍は鳥飼潟周辺に居残った。 夕暮れになったので日本軍は水城へ引き揚げた。 以上だ。日田が一暴れしては陣地に戻るのは、蒙古襲来絵詞に見える菊池勢の戦い方と同じだ。 姪浜と百道原とどちらが先か、実はそれさえも日田文書からはわからないのだ。文書では姪浜を先に挙げている。 私が想定したような戦闘経過ならば、どちらが先であっても構わない。
それなら夜半の出航はあり得ない。
>>477 高麗軍が北九州に来なかったことは、高麗史が証明してるだろ。
ちゃんと壱岐に至っただけで戦いに敗れたと書いてある。
「十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人。」
『高麗史』巻八十七、表二 年表二
それから、辞書には「會」を「たまたま」と読ませる時は、≪前後の事情がうまく合致した意≫って書いてあるぞ。
「及暮乃解」と「會夜大風雨、戰艦觸岩多敗」は同日の出来事じゃないと駄目なんだよ。
10月20日に博多湾で元艦隊が難破して1万人以上の損害を出したなんて記録は無いんだから、高麗軍が
北九州に来なかったことは確定じゃん。
>>
>>478 はたぶん壱岐軍議くんと思うが違うと言うならしかたがない。
いや、どう見ても別人だろ。パフォ爺頭は大丈夫か?
>>468 >「一回目と二回目は間を置かずに連続してやった」とも書いてない。
>昔の戦争は体力勝負だ。引き金を引いていればよい現代の戦争とは違う。
>一回突撃したら戦力回復は必要だったと思うよ。
何の根拠も無い、記録を自説に自説に合致するように恣意的に解釈する単なるこじつけだな。
一回目と二回目の時間差は資料からはわからない。
だが別個に布陣している別々の敵軍をそれぞれ攻撃した場合、それは「二度戦った」と記録されるだろう。
そしてその布陣が距離的に近接しているならごく短時間で連続して攻撃したのではと考える余地はある。
少なくとも「一回基地に戻り負傷者の手当、休息、腹ごしらえ等して戦力回復を図った上で再出撃」するほど
の間を挟むものだったとする理由などどこにも無いな。
>>484 >
>>475 の議論は
>>457 から続いている。これは明らかに壱岐軍議くんだな。
パフォくんは本当に恥ずかしい人だね。457は確かに俺だが壱岐に高麗軍を置いてきてなど457のどこに書いてるのかな?
恐らく、祖原の元軍は「高麗軍」や敗走した元軍は実は偽装退却、後半戦の日本軍敗北戦などといったパフォ君の曲解が
通用しなくなってきたのではぐらかす為につまらないレッテルを貼って自らの主張を流そうとしているのだろうが。
>百道原から室見川を渡るには、いったん祖原半島(仮称)の付け根まで行かなくてはならない。それは祖原半島沿いに百道原 を攻めた日田勢の
攻撃方向と反対だ。だから「中央突破」と言ったのだ。
パフォくん、またまた嘘を言ってはいけないよ。
>>455 さんのレスをそのまま自分の都合の良いように利用するのは良くない。
愛宕山は室見川を渡った先にある。また、室見川は西南方向に向かって斜めに流れており、百道原で敗走したからといって
「中央突破」などする必要は一切ない。東から押し寄せる武士団に対して西南方向に敗走さえすれば、普通に姪浜に脱することは可能だよ。
>まあそれはいいとして、二号君がこのような戦闘経過を想定するのは、考えて見ればまったく恣意的な作業だ。
それが悪いと言うのじゃないよ。数少ない簡略な資料しかないのだから恣意的になるのはやむを得ない。ただ、そのような
ものだということを意識して欲しいから言った。
随分、上から目線だが史料のどこにも書いていない「一回基地に戻り負傷者の手当、休息、腹ごしらえ等して戦力回復を図った上で再出撃」など
都合の良い解釈をしている御仁の言葉とも思えないな。これだけではない。史料を恣意的に解釈するのは、パフォ君の真骨頂だといっても過言ではない。
なんといっても、日本側の勝利の記録はすべて「元軍の偽装退却」にすり替え、敗北した元軍も「高麗軍」にすり替え、そして強引に史料に全く無い
「後半戦の日本軍敗北戦」に繋げるのだから、恐るべき手法だ。
>他の武士達も同じような戦闘を繰り返したが、元軍に決定的な打撃を与えることはできず、元軍は鳥飼潟周辺に居残った。 夕暮れになったので日本軍は水城へ引き揚げた。 どうしたパフォくん?今までの主張と全く違うではないか。パフォくんの今までの戦闘経過を整理しよう。 武士が勝った戦いは実は「元軍の偽装退却」であり、元軍の実体は高麗軍であった。史料にはないが、 その後蒙漢軍が参戦したことで戦況が一変、日本軍は敗走を余儀無くされたと主張していたが、 いったいどうなったのだ?今までの主張は引っ込めるのか?
>他の武士達も同じような戦闘を繰り返したが、元軍に決定的な打撃を与えることはできず、 ほう、「他の武士達も同じような戦闘を繰り返したが、元軍に決定的な打撃を与えることはできず」の根拠は? 日田勢が姪浜の元軍を襲っている頃、百道原でともに戦った他の武士たちは何をしていたのかな? 他の武士達は日田勢が室見川を渡って元軍を襲いに行くのを黙って見ながら、 おとなしく日田が帰ってくるのを待って、日田が敵を撃破したので、自分たちも日田と入れ違いで元軍を 強襲したということでいいかな?ということは、自分たちの順番を待って、百道原には武士たちの行列が大勢並んでいた んだろうね。まるで、行列のできる人気店みたいな戦闘認識で全く可笑しな戦闘経過だな。
492 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 06:49:17.25 ID:uI8LqV0Z
昔の教科書とか歴史の本とかに“慣れない土地での夜襲を警戒してひとまず船に引き返した”ってよく書いてたけど、そんな事言うてたら毎日毎日引き返して永遠にループするだけやろ! って思ってました。 やはり侍は強かったのですね!
文永、弘安のそれぞれの公式の勲功第一って誰ですか?
やっぱ事実上の指揮官の少弐とか大友じゃない?
高麗史の対三別抄珍島攻略戦の記述 「方慶等は兵萬餘人を聚め、忻都は中軍に将とし碧波亭より入り、王雍王煕等及び洪茶丘は左軍に将として ショウ項より入り、将軍金錫、萬戸高乙麻は右軍に将とし東面より入る、賊は碧波亭に聚り中軍を拒がんと欲す、 茶丘は奮ひ登りて火を縦ち挟み攻む、賊驚き潰ゆ、方慶等奮撃し大に之を破り、承化侯温を斬る、 賊黨死する者数ふに勝ゆ可らず、賊将金通精劉在奕等は、其餘黨を以て盡く妻子を棄て耽羅に竄入す、」 高麗史って共同作戦では高麗軍だけじゃなくちゃんとモンゴル軍の行動も記述するんだよね。 比較するとあきらかに文永の役は高麗軍の動きしか記述してない。 何でだろうね?
496 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 16:54:09.93 ID:zv0FQNti
>>486 >高麗軍が北九州に来なかったことは、高麗史が証明してるだろ。
最も詳しい金方慶伝をもとにするべきである。他のは変な風に短縮している疑いがある。
>辞書には「會」を「たまたま」と読ませる時は、≪前後の事情がうまく合致した意≫って書いてある
私の辞書には「たまたま」を二つに分けて「偶然に」と「ちょうどよく」とにしてある。
だから「たまたまある夜」と「ちょうどその夜」と両方の可能性があるわけだ。
また「ちょうどその夜」だったとしても、「その夜」は日付が変わって翌日の未明までを含むだろう。
艦隊が博多湾を出た後に嵐にあったということでなぜいけないのか?
ところで君は
>>477 と書きながら
>>477 の質問に答えていないが、「蒙漢軍の捕虜の尋問記録があること
は高麗軍が来なかったことを証明しない」は納得したのか?
497 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 17:12:43.89 ID:zv0FQNti
>>488 >何の根拠も無い、記録を自説に合致するように恣意的に解釈する単なるこじつけだ
そう、君の超人的連続戦闘説がなんの根拠も無い恣意的こじつけであるのと同じだ。
>その布陣が距離的に近接しているならごく短時間で連続して攻撃したのではと考える余地はある。
いや、近接していない。後で述べるが、百道から姪浜までは入り江を大迂回しなければ行けなかった。
>戦力回復を図った上で再出撃するほどの間を挟むものだったとする理由などどこにも無い
理由は実際に距離があること、菊池勢が「一暴れしては陣地に戻る」実例を示していること、
日本軍の戦闘は騎射が中心であるのに各人が携行する矢は有限であることだ。
元軍のように専門の兵站係(コテチだっけ?)はいなかったからね。
498 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 17:48:37.64 ID:zv0FQNti
>>489 >457は確かに俺だが壱岐に高麗軍を置いてきてなど457のどこに書いてるのかな?
なるほど、君は狸一号くんだったのか。壱岐軍議くんの真似をするからすっかりだまされたよ。
「及暮乃解」へのつながりが悪いことを悲観して壱岐行きの狸の泥舟を用意し始めたと言うことかな。
>東から押し寄せる武士団に対して西南方向に敗走さえすれば、普通に姪浜に脱することは可能だよ。
狸一号くん、元寇の話をするのに現代の地図を眺めてどうする。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/17775/2/p259-276.pdf に明治時代の地図がある。室見川をはさんで東に「百道松原」、西に「姪浜村」の文字が見える。この通りならば
確かに君の言うように川を渡りさえすれば姪浜に行ける。
しかし、君が言うように下流が東北方向に湾曲する室見側の流れの、湾曲点あたりから下流は、中世の入り江の
西北岸を示しているのだ。室見川から東にかけて3〜4本の川が蛸の足のようになっている、この地域ぜんたいが
入り江だったのだ。入り江の東は仮称祖原半島だ。だから百道にいる元軍は、祖原半島を北方向へ攻める日本軍に
対して、これを南方向に突破して入り江を迂回し、さらに室見川を渡らなければ姪浜へは行けないのだ。
499 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 19:47:35.91 ID:zv0FQNti
訂正: 西北岸を示している → 西北岸にほぼ相当する
500 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 20:12:40.92 ID:zv0FQNti
>>490 >今までの主張と全く違うではないか。
同じことを違う文書で書くと「主張が全く違う」になるのか?
>蒙漢軍が参戦したことで戦況が一変、日本軍は敗走を余儀無くされたと主張していたが、
>いったいどうなったのだ?今までの主張は引っ込めるのか?
それは狸一号くんの作文だ。私はかつてそんなことを言ったことがない。
狸一号くんがやれ敗走だ潰走だとしつこく押し付けるから、「言葉はなんでもよい。実体は戦意喪失による
自主撤退だ」と言っただけだ。
そうやってストローマンやらないと議論できないというのは実に情けないな。
>>491 >「他の武士達も同じような戦闘を繰り返した」の根拠は?
蒙古襲来絵詞の菊池、白石の戦闘だ。私は日本軍の攻撃は全てこの方式で行われたと思っている。
数千騎がいっせいに進退する泰西名画の会戦図のようなのがあったというのは幻想だ。
>元軍に決定的な打撃を与えることはできず」の根拠は?
答えは簡単、「及暮乃解」だ。どちらかに決定的な打撃があれば交すい状態にはならない。
501 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 20:20:25.64 ID:zv0FQNti
>>491 >「他の武士達も同じような戦闘を繰り返した」の根拠は?
の下に一行空ける
結局日が落ちたから海上まで撤退したわけだな 日本軍の強弱関係なく
>>496 だから、何の根拠もなく自分に都合の悪い記述を「他のは変な風に短縮している疑いがある」なんて
排除することは許されないの。
記述が歪められてる具体的な証拠がない以上、金方慶伝は世家や年表と同じことを詳しく書いてるだけ。
当然金方慶にも北九州の記述は無いってこと。
「會」についても、暮れの出来事と夜の出来事を結ぶために使ってるんだから、「ちょうどその夜」の
可能性しかない。
「及暮乃解」と「會夜大風雨」がつながることは絶対条件ね。
翌日の未明までに元軍が壱岐まで到達できたはずがないんだから、壱岐に130艘も座礁してる以上
「及暮乃解」が北九州だったとは考えられない。
あと、俺は『安国論私抄』文永十一年蒙古責日本之地事だけで、高麗軍が北九州に来なかったことを
証明してるとは言わないよ。
高麗軍が北九州に来なかったことは、『高麗史』が完璧に証明してるけどね。
結局弘安の役でも元軍はまともに上陸拠点も確保できずに退却することになったということでは大筋一致してるのですか? 江南軍との合流が遅れたのが響いたのかね
>>504 志賀島どころか壱岐からも追い払われてた
弘安では元少なくても東路軍は大船団それも兵員が乗っててやっと安全確保してた有様
>>502 日本軍が強いから橋頭堡も確保できずにトボトボと船に戻ったんだろ
釣り野伏せって正面が退却した後即座に左右から包囲する戦術だろ そのまま船に撤退して帰っちゃってどうすんだよ
508 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 23:21:49.91 ID:lp9YrjnZ
武士弱いでは海上まで逃げ出した理由が何も説明できないのは永遠に変わらなさそうだなw
船に帰るって事は面倒な乗船作業が必要な上に、翌日また上陸しなくてはならない。 普通なら陸上で夜営するんじゃないか? 弘安の役では夜営する場所を占領できなかったで説明できそうだが、文永の場合は どうなんだろう? 即日撤退を前提にしての乗船だとしたら、乗船命令が出た時点で 撤退が決定していたことになるけど。
姪浜や百道原みたいな海岸で武士に殺されまくってる状態で、撤退命令も何もないだろ。 何とか生き延びて船に乗れた元兵だけが日本から撤退できた。
>>510 それはそれで、「そんな状況下で敵前での乗船なんて出来るのだろうか?」という疑問が。
あるいは高麗史にある参加将兵の約3割に上ったという未帰還者は、従来考えられていたような
「大半が撤退途中出会った嵐の犠牲者」ではなく、相当数が乗船に失敗して殺されたのか。
戦死前提の遅滞部隊を置くか死んでもいいからとりあえず乗船撤退させたかじゃないか? 前者はそんな状態でも戦える精鋭部隊を全滅させるし後者は秩序だった撤退なんて不可能だから事故死と追撃での戦死大発生だと思うけど
513 :
名無し三等兵 :2012/12/19(水) 09:10:54.10 ID:WLsiQk6+
>>500 訂正
誤:同じことを違う文書で書くと
正:同じことを違う文章で書くと
514 :
名無し三等兵 :2012/12/19(水) 10:30:53.89 ID:WLsiQk6+
>>503 >何の根拠もなく自分に都合の悪い記述を(引用者中略)排除することは許されないの。
だからなんの根拠もなく金方慶伝を排除することは許されない。排除しないのなら、なんで壱岐の
戦いが二つに分かれ、後半が異常に詳しいのか説明しなければならない。
>「會」についても(引用者中略)「ちょうどその夜」の可能性しかない。
OK、では「ちょうどその夜」で考えよう。「会夜」が懸かっているのは「金セン堕水死」まで
だ。博多湾外に出て嵐になった。多くの戦艦が座礁して沈んだ。金センが水死した。ここまで
が未明までに起こればよいのだ。残った艦隊は任意の時間に壱岐に着けばよい。
そして壱岐を出航するとき、嵐の損害によって航行不能と判定された百艘ぐらいの船が壱岐に
残された。なんの問題もない。
>俺は『安国論私抄』文永十一年蒙古責日本之地事だけで、高麗軍が北九州に来なかったこと
を 証明してるとは言わないよ。
まだ未練があるな。「だけで」ということは「安国論私抄」も証明の一部だといういことでは
ないか。ほんとにそう思うのか?
>>500 >なるほど、君は狸一号くんだったのか。壱岐軍議くんの真似をするからすっかりだまされたよ。
「及暮乃解」へのつながりが悪いことを悲観して壱岐行きの狸の泥舟を用意し始めたと言うことかな。
資料からうかがえる戦況は極めて明快だ。「つながりが悪い」どころか筋が通っている。
『蒙古襲来絵詞』や『福田文書』、『日田記』から元軍は日本軍に圧され、赤坂から姪浜まで後退したことが確認できる。
しかし、後退はしているが戦闘は続いており、元軍が潰走したわけではないことがわかる。つまり、高麗史のいう「及暮乃解」まで元軍は
日本軍の猛攻から耐え抜いたことが窺える。
また、『高麗史』にも圧されに圧されていた元軍の実体を元軍の将校たちは認めており、金方慶は「また戦わせてほしい」と今回の「及暮乃解」の戦いでは
作戦は完全に失敗であったことを認めている。また、それに対してクドゥンは「少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜に
しかならないものである」との発言しており、圧されに圧されていた元軍の実態と武士の資料との整合性があう。「元軍は圧されながらも、なんとか一日持ちこたえ
朝になり日本軍の攻撃があることを恐れて、夜になった隙をつき、天気待ち・風待ちを無視した強硬退却を実施した」とこうなる。
整理すれば、極めて明快な戦況だ。
>それは狸一号くんの作文だ。私はかつてそんなことを言ったことがない。
狸一号くんがやれ敗走だ潰走だとしつこく押し付けるから、「言葉はなんでもよい。実体は戦意喪失による
自主撤退だ」と言っただけだ。
パフォ君、嘘を言ってはいけない。君は
>>471 で明確に「祖原に陣を布いたのも高麗軍」であり、「しかしその後蒙漢軍も加わった
「諸軍與戦」の戦場となったのもまた鳥飼潟だ」としている。そして、戦況の総体を「日本軍は元軍を鎧袖一触、海に追い落とす
つもりだっただろうがそうは行かず、 大損害を出して水城へ撤退、博多箱崎を明け渡す」と言っているではないか。
まさに「蒙漢軍が参戦したことで戦況が一変、日本軍は敗走を余儀無くされた」と主張している。
また、パフォ君にとっては「言葉は何でもよい」でも、議論の論題が「元軍が戦況を優位に進めていたということの是非」なのであるから
「何でもよい」とはならない。
>室見川から東にかけて3〜4本の川が蛸の足のようになっている、この地域ぜんたいが 入り江だったのだ。入り江の東は仮称祖原半島だ。だから百道にいる元軍は、祖原半島を北方向へ攻める日本軍に 対して、これを南方向に突破して入り江を迂回し、さらに室見川を渡らなければ姪浜へは行けないのだ。 可笑しなことを言うねパフォ君。 祖原山の北が「百道原」だ。つまり、百道原で敗走した元軍は自軍の南の陣地の「祖原山」付近を経由して大きく迂回し、 室見川に渡り姪浜へと行けば良いだけの話だ。つまり、南には日本軍は存在せず、パフォ君の妄想である「百道原で敗れた元軍は 日本軍の中央突破を果たして姪浜へと撤退した」とわけのわからない戦況にはならない。 >蒙古襲来絵詞の菊池、白石の戦闘だ。私は日本軍の攻撃は全てこの方式で行われたと思っている。 数千騎がいっせいに進退する泰西名画の会戦図のようなのがあったというのは幻想だ。 幻想を言っているのはパフォ君だよ。この件に関しては何度も言っている。 菊池の場合は少弐景資の「沖の浜に軍勢を固めて元軍を迎撃せよ」という命令を無視して行われた単独の個人的な 戦闘にすぎず、例外にすぎない。 また、白石の場合は「他の武士達も同じような戦闘を繰り返した」ですらない。赤坂の戦いの後に『福田文書』によれば 「早良軍から上陸した元軍に向かって進撃せよ」という命令が出されており、白石や福田らがこの命令によって一斉に早良軍へと 馳せ向かった、まさに「数千騎がいっせいに進退する泰西名画の会戦図」という状況が現出する。博多に駐屯する数千騎の日本軍が 「早良軍から上陸した元軍に向かって進撃せよ」と命令を受けてバラバラに突撃を繰り返すなど有り得ない。東進する元軍と「早良軍から 上陸した元軍に向かって進撃せよ」との命令により西進する日本軍が衝突すればまさに大会戦になる。
訂正 早良軍→早良郡
パフォ爺さんの頭の固さは異常だな。これが歳をとるということか… 歳を重ねてもこうはなりたくない。
いや、逆に物凄い柔軟思考だと思うわ 普通の人間の常識的な思考からはけして導き出すことのないアクロバティックな分析や理屈付けの数々をやってのけるんだぞ 「その発想はなかったわ」を地で行ってるんだぞ まあ 「下手の考え休むに似たり」 とも言うんだが
パフォは日が暮れて戦いを止めた元軍が何故海上まで一気に下がったのか説明してくれ
>>519 アクロバティックな分析や理屈付けをするワシは斬新でカッコイイじゃろ?みたいな感じ?
資料一切無視の妄想で戦況を語ってるのが何ともいえない…。
そういえば、一時期太宰府決戦説も唱えていたっけ?これも斬新なワシかっこいい?みたいな
感じからうまれた発想なんだろうな。
日本には蒙古襲来絵詞とか各御家人の古文書に見られる感状とか 後は公家の日記や幕府の公式記録みたいな鎌倉時代に書かれた元寇の史料が 大量にあるけど、大陸側には同時代の史料は無いの? 元史とか高麗史はどっちも14〜15世紀になってからの成立だよね?
元史も高麗史も同時代資料でしょ。 当時の資料を収集して収めたのが元史だし、高麗史も当時の高麗王朝実録を収めた資料だし。 収集して収めたのが14から15世紀ってことでしょ。
そうなのか。てっきり江戸時代の各藩の○○家譜みたいな バイアスかかった史料と似たようなもんだと思ってたw
>>524 バイアスかかってるでしょ
列伝とか墓誌に書いてあること基にしてるんだし
○○家譜と基本的に同じ
その当時の資料を見たかったな。蒙古襲来絵詞みたいなのが残ってれば一目瞭然なのに 高麗史や元史の記述は簡潔過ぎて色々な解釈が乱立するもとになってる気がする
バイアスがかかってない史料なんてまずない 理性の時代()とか言っちゃう近現代以降の歴史叙述ですら科学的理性的であろうと努めるのはごく少数だし、機械じゃないんだからその少数ですら100%客観叙述なんて不可能 まして歴史を叙述することそのものが権力であり権威であった時代の史書にバイアスのかかってないものを探す方が難しい まあそのかわり史書ではなく、行政司法立法や軍事の事務系文書はその性質上バイアスが比較的かかりにくい史料なので これらをふんだんに援用し外堀を梅ていくことでバイアスのかかった史書の嘘と本当の境界を引くことができ バイアスの傾向が分かれば取り扱い方法もわかり取り扱いにさえ注意すれば史書はやはり一級史料の輝きを放つ まあまさにこのスレの有志が実践して見せてくれてるとおりなんですがね
>>526 敗戦した側とすれば適当に流したいことだから
当時の資料自体があんまり作られなかったような
529 :
名無し三等兵 :2012/12/20(木) 20:11:39.26 ID:XN4TdkMn
>>515 >高麗史のいう「及暮乃解」まで元軍は日本軍の猛攻から耐え抜いた
> 元軍は圧されながらも、なんとか一日持ちこたえ
なるほど、そしてその間、つまり夕方まで日本軍の攻撃は続いたわけだな。
狸一号くんは日本軍の攻撃はすべて「同じ時間」内に行われたと言っている。すると狸一号くんの
言う「同じ時間」とは一日ないし半日のスパンがあるわけだな。それを「同じ時間」と言っていいのか?
>まさに「蒙漢軍が参戦したことで戦況が一変、日本軍は敗走を余儀無くされた」と主張している。
二つの点で違う。戦況は一変したのでなく日本軍はじわじわと押された。なぜなら元軍の兵力は上陸の
継続によってじわじわと増えるからだ。また高麗軍先遣隊の段階でも損害を出していた。それが「伏屍如麻」
だ。それを合流したクドゥンが誉めた。前に書いたはずだ。
もう一つは「敗走」という言葉を使っていない。八幡の蒙古記の記述をもとに敗走だ潰走だと騒いでいる
のは狸一号くんであって私ではない。私はあくまで「撤退」「自主撤退」と言っている。
530 :
名無し三等兵 :2012/12/20(木) 20:14:22.63 ID:XN4TdkMn
>>516 >百道原で敗走した元軍は自軍の南の陣地の「祖原山」付近を経由して大きく迂回し
入り江の存在を教えてやったら礼も言わずさっそく大迂回か。いそがしいな。
>南には日本軍は存在せず
祖原半島と百道原はT字型をなしているのだ。日本軍がTの縦棒にあたる祖原半島を北上して、Tの横棒
にあたる百道原に元軍を追いつめた段階で日本軍は南、元軍は北だ。南に日本軍がいないと言うなら
どこかで日本軍と元軍が入れ替わったことになる。
狸一号くんによれば日田勢は単独で攻めたのでなく数千騎の一員として攻めたのだよな? 数千騎と二万人
が南北入れ違える壮絶な場面を描写してくれ。中央突破かな?
ところで、二つの日田文書はいずれも「姪浜百道原」となっている。姪浜のほうが先に挙げてあるのだ。
こんなのは案外無視できない。順番を無視して百道原→姪浜と攻めたと考えるのは、そのような攻撃方向
であったという筋書きに、無意識にあてはめている可能性がある。
姪浜が先だったとすれば、まだ元軍の兵力が少ない段階で日田勢が元軍の間隙をついて大迂回して姪浜に
コマンド的攻撃をかけたとも考えられる。そしてその後、他の勢とともに百道原で戦った。「元軍そのまま
撤退説」に囚われなければこのような考え方も自由なのだ。
それかあらぬか、日田永基は百道原の稲荷祠の傍で忠死したという伝説がある。
http://www.bakunoyume.jp/blog/?p=8292
狸一号認定されないと解答はもらえないのか
>>514 >だからなんの根拠もなく金方慶伝を排除することは許されない。排除しないのなら、なんで壱岐の
戦いが二つに分かれ、後半が異常に詳しいのか説明しなければならない。
金方慶伝を詳細な壱岐戦の史料として正しく活用するべきと言ってるだけで、排除しろなんて言いてない。
どこで二つに分けるかにもよるけど一番明確なのが、「忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、諸軍與戰」。
「諸軍、ともに戦え」と命じてるってことは、それまで諸軍は別々に戦っていたということ。
たぶん忽敦が北九州から壱岐へ逃げ帰ってきたときのセリフだね。
高麗史金方慶伝なんだから、高麗軍の金方慶が中心となった壱岐制圧の戦いを異常に詳しく書くのは当然。
>博多湾外に出て嵐になった。多くの戦艦が座礁して沈んだ。金センが水死した。ここまで
が未明までに起こればよいのだ。残った艦隊は任意の時間に壱岐に着けばよい。
問題大ありだよ。
史料では博多湾周辺に1万人近くが溺死した大惨事の痕跡なんて無いんだから。
高麗史は「戰艦觸岩多敗」って書いてるわけで、多くの戦艦が座礁してた場所が嵐に遇った場所。
つまり、「及暮乃解」と「會夜大風雨」は、130艘の戦艦が座礁してた壱岐しかない。
>「だけで」ということは「安国論私抄」も証明の一部だといういことではないか。
諸軍が別行動だったことを高麗史が暗示してる以上、百道原に上陸したのが蒙漢軍なら高麗軍は
そこに居なかったことになるけどね。
>すると狸一号くんの 言う「同じ時間」とは一日ないし半日のスパンがあるわけだな。それを「同じ時間」と言っていいのか? パフォ君、それで大いに結構だよ。「同じ時間」という言葉にやたらとしがみ付いているようだが、そんな言葉遊びに逃げまわっても 仕方ないし、子どもを相手にしているようでこちらも楽しくない。資料からわかることは赤坂から姪浜の数キロの範囲が文永の役の激戦地だった。 赤坂まで進出した元軍は日本軍に数キロに渡って押し返されて日が暮れ、戦闘は終結したことがわかる。元軍が圧されていたことは武士側の記録と 元側の記録『高麗史』の両方で一致している。パフォくんの妄想である「日本軍が圧されて撤退した」など間に入りこむ余地はない。 >二つの点で違う。戦況は一変したのでなく日本軍はじわじわと押された。なぜなら元軍の兵力は上陸の継続によってじわじわと増えるからだ。 ほう、でその日本軍が圧されたという戦闘の記録を早く出したらどうだ?それと早くどこのだれがその戦いで戦傷死したのだ? なぜ、「日本軍はじわじわと押された」記録が一切なく、「日本軍が圧した資料」のみに集中しているのか、パフォ君は今一度よく考えてみることを お勧めしよう。そもそも、「戦傷死」は恩賞の対象なのだ。「日本軍はじわじわと押された」戦闘が存在したなら、記録はこの戦いにこそ集中しなければ ならない。
>また高麗軍先遣隊の段階でも損害を出していた。それが「伏屍如麻」 だ。それを合流したクドゥンが誉めた。前に書いたはずだ。 パフォ君は俺が説明してあげるたびに、沈黙してまた時間を置いて同じことを言うことを繰り返し言う癖があるらしい。 歳を召したパフォ君なら仕方ないか。もう一度、「伏屍如麻」とはどんな戦いであったか、説明してあげよう。「伏屍如麻」 の戦いは、簡単にいうと「高麗軍の一部の中軍VS極小規模な日本兵の戦闘」だ。中軍は高麗軍の三翼軍の一翼を担う軍であり、 高麗軍の総計を5,500人ほどとした場合、これを3で割れば中軍の兵力はおよそ1800程度に過ぎない。次に中軍を襲った日本兵 を見てみよう。中軍を襲った日本兵は金方慶が大喝すると「僻易」して逃げ出した。つまり、金方慶の声が届く範囲の極小規模な 数であることが推定できる。 恐らく数十騎程度の数だったのだろう。つまり、「伏屍如麻」とは「中軍1800程度VS数十騎の日本兵」との極小規模な戦闘であった ということだ。この逃げ出した日本兵を皆殺しにした結果、「伏屍如麻」という状況が現出した。 実態はこのような小規模な戦闘は「高麗軍先遣隊の段階でも損害を出していた。」というほど大勢には関わりのない戦闘にすぎない。 >もう一つは「敗走」という言葉を使っていない。八幡の蒙古記の記述をもとに敗走だ潰走だと騒いでいるのは狸一号くんであって私ではない。 私はあくまで「撤退」「自主撤退」と言っている。 言葉遊びにばかり逃げまわっているが、パフォ君がそういうならそれでいいよ。ただ、このスレにいる人は「日本軍は元軍を鎧袖一触、海に追い落とす つもりだっただろうがそうは行かず、大損害を出して水城へ撤退、博多箱崎を明け渡す」というパフォくんの発言を「自主撤退」と受け取る人はいない だろうけどね。
>入り江の存在を教えてやったら礼も言わずさっそく大迂回か。いそがしいな。 大迂回どころか、入り江の存在などパフォくんの「百道原で敗走した元軍は日本軍の 中央突破を果たして逃げて行った」という妄想と元軍が逃げるのに何の関係もないからね。 せいぜい、感想があるとしたら元軍は逃げるのが大変だったんだろうなぁ程度のものだよ。 >祖原半島と百道原はT字型をなしているのだ。日本軍がTの縦棒にあたる祖原半島を北上して、 Tの横棒 にあたる百道原に元軍を追いつめた段階で日本軍は南、元軍は北だ。 南に日本軍がいないと言うなら どこかで日本軍と元軍が入れ替わったことになる。 何を言ってるのやら。鳥飼潟で敗れた元軍は西進して敗走した結果、百道原へと逃げ込んだ。 『蒙古襲来絵詞』によれば、百道原の南にあたる祖原山にも元軍が逃げ込んだことが確認できる。 しかし、『福田文書』によれば武士らが目指したのは百道原だ。 つまり、鳥飼から百道原へと逃げ込んだ元軍を追って、武士らは百道原へと雪崩れ込んだのだ。 ということは、百道原の南側は完全に元軍側の領域だ。パフォくんのいうように、南側が日本軍の領域なら、 百道原の戦いの前に「祖原山が陥落」していなければならない。もっと言えば、百道原へと進出するのに、 南側が日本側の領域である必要性もない。なぜなら、鳥飼潟から沿岸沿に進んでいけば、百道原だからだ。 ということでパフォくんの「百道原で敗れた元軍は日本軍の中央突破を果たして逃げ出した」というのも妄想ね。 >狸一号くんによれば日田勢は単独で攻めたのでなく数千騎の一員として攻めたのだよな? 数千騎と二万人 が南北入れ違える壮絶な場面を描写してくれ。中央突破かな? 「中央突破」自体がパフォくんの妄想なのに、それを根拠にわけのわからない質問をするなんて、 相変わらず恥ずかしい人だね。
>こんなのは案外無視できない。順番を無視して百道原→姪浜と攻めたと考えるのは、 パフォ君、妄想する前に『日田記』をちゃんと読もう。『日田記』によれば、日田永基が活躍した「一日の戦い」が 「姪ノ浜百路原」の「両処」であったと言っているにすぎない。 つまり、たとえば「俺は今日、A高校とB高校の二つの試合でいい試合をした」と言ってるのと何ら変わらない。 戦闘の順番を言っているのではない。 また、『日田記』には「筑前国早良郡二軍ヲ出シ」との文言がある。これと同じような文言が『福田文書』にも存在する。 該当部分を挙げると「去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間」 とある。『福田文書』によれば日本軍は早良郡から上陸したことを受けて、「早良郡への進撃」を命令されていたことが うかがえる。そして『日田記』でも「筑前国早良郡二軍ヲ出シ」とあることから、日田も早良郡へと進撃するよう命じられた 武士の一人だったのだ。さらに『福田文書』で元軍が鳥飼から百道原へと逃げ込んだことが確認でき、まさに「姪ノ浜百路原 両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ」と百道原で激戦があったという『日田記』の記述とも一致している。 鳥飼→百道原→姪浜という戦況を疑う必要性は微塵もないのだ。そもそも、鳥飼の後に姪浜だと、距離的にもおかしいし、 元軍を掻い潜って姪浜へと行かなければならない。そんな可笑しな戦況はない。 >それかあらぬか、日田永基は百道原の稲荷祠の傍で忠死したという伝説がある。 へえ、ついにわけのわからないサイトから伝説まで持ち出してきたか。 いったい何の文献にそういう伝説が載っているんだろうね。恐らく、八幡愚童訓の戦況と 日田側の武士らの記録との整合性が合わないから、伝説として活躍した日田が殺されて しまった可能性もある。たとえば、日蓮は日ごろ、日蓮宗を受け入れなければ、 この国は亡びると主張していたけど、日本側が勝ってしまったので、少弐景資や菊池らは 全員戦死したと嘘を言ったりしている。また、Wikiにも載っている日田の系図の『財津氏系譜』 にも永基が「戦死」したとは書いていない。戦死していたら、系図の伝で触れないわけがないだろう。
529へのレスね。いつも忘れてしまう。
【日田系圖】 八代 日田永基 彌次郎文永十一年蒙古襲來之時有大功遂戰死依之賜安岐郷内五箇名
539 :
名無し三等兵 :2012/12/21(金) 21:17:39.19 ID:wTN95xPZ
>>538 有難う。それが本物ならやっぱり永基は戦死したのかな。
540 :
名無し三等兵 :2012/12/21(金) 21:21:40.74 ID:wTN95xPZ
>>532 >どこで二つに分けるかにもよるけど一番明確なのが
いや、私が言ってるのは、「至一岐島〜撃殺千余級」が前半、「捨船三郎浦〜伏屍如麻」が後半だ。上陸地で始まって戦果で終わる
のが一つの形式になっていると見れば君の言う壱岐の戦いが二つに分かれている。
また、なぜ壱岐で上陸地が二つあるのかも分らない。壱岐にはかなり言い伝えが多いようだが、そんな言い伝えがあるのか?
言い伝えと言えば、日本軍の再上陸こそが壱岐での最大の言い伝えになってしかるべきだ。なにしろ島人にとっては惨劇のあった
後の「地獄に佛」のようなものだからね。君は壱岐に言って言い伝えを探したらどうか。
>多くの戦艦が座礁してた場所が嵐に遇った場所。
嵐の中で座礁したら浸水して沈む。沈んだら痕跡は残らないだろう。
>130艘の戦艦が座礁してた壱岐しかない。
史料は「戦艦」とは言ってない。「蒙古の船」と言っているだけだ。それならばバトル等の舟艇も含むだろう。壱岐が寄航地だった
のなら足手まといの舟艇を捨てて行ったこともあり得る。もちろん前に言ったように使用に耐えない大船を残置したこともあり得る。
むしろ100艘以上の戦艦がいっせいに同じ場所で座礁するよりもそのほうが自然だ。
ところで確かめたいが君は「その夜の大風雨」と「壱岐での遭難」を両方主張しているが、それは博多から壱岐まで一夜で行った
ことを意味するのか?
541 :
名無し三等兵 :2012/12/21(金) 21:23:14.39 ID:wTN95xPZ
>>540 訂正:
君は壱岐に言って → 君は壱岐に行って
学者って、自分の願望や妄想が現実で、本当の現実や実際を認めない何か変な人が多いよね。またそれを指摘してやるとえらい感情的になってバランス崩して壊れてしまうしね。 資料とか歴史書読む前に初めから自分の脳内で答えが決定し完結してる人って何か不気味だよ
「岩に触れて船が沈んだ」は暗礁に乗り上げたことを指すのでしょうか? 同一箇所で100艘も座礁していて、かつ、そこがどうしても通らねばならない水道とかでないなら 船頭は全員打ち首物です。 風雨により、見えている岩とか島の断崖に叩き付けられて沈んだと解する方が、100艘が同一事故で しかも、暴風雨による転覆ではなく岩に触れたという記述に良く合うのではないでしょうか? そして、岩に叩き付けられる危険がより大きいのは博多湾内より外界。そして壱岐の海岸には断崖絶壁…
元史でも高麗史でも日本側の数的優位と、蒙古軍の劣位を強調してるのが気になる。 数的劣位の強調は負け惜しみの常套手段ともいえるから断定はできないんだが、 軍議の晩に船団が壊滅したなら視認どころか残敵掃討で大わらわであるはず ところが博多近辺での確認された「戦果」はつじつまが合わないくらい少ないんだよ…
>>544 文永の役の実際は小戦闘で武士団が予想より手強いと悟ってさっさと撤退したんじゃないの
台風は壱岐で遭遇したんでしょ
546 :
名無し三等兵 :2012/12/22(土) 08:30:02.22 ID:xwWoZQ7Y
>>543 おおむね同意。
史料は「蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル」となっていて、その場所で座礁したというより
難破して海岸に漂着した感じが強い。
遭難現場は博多から壱岐までのどこであってもよい。恐らく多くの船が暗夜と風雨のため
いろいろな地点で見える岩、見えない岩に接触して沈んだのだろう。
残った船の一部は帰還し、一部は放棄されて壱岐などに漂着した。
壱岐が多かったのは寄航地だったからだろう。
船についてはもう一つ、ちょっと不思議な点が。 元軍の陣容は総兵力約4万、船が大小合わせて約900隻とのこと。 船1隻あたりの平均乗員数は約44人です。 次に損害。兵員約13000、船が約130隻。生きて帰ったのは、差し引きで兵約27000、船770隻。 生還した船1隻あたり平均生存者数は約35人です。 船1隻あたりの乗員数が、行きより帰りで減っている。死者発生の主因が暴風雨なら、安全性の低い 小さな船から犠牲になっていくでしょうから、行きより帰りの方が1隻あたりの乗員数は増えるはずです。 撤退にあたり、博多または壱岐で小型船を放棄した場合も同じく。 では、何か大型船を放棄せねばならぬ事態が起きたのか。その場合は乗り切れずに置き去りにされる兵が発生します。 以上の理由から、上で述べた「元軍死者発生の主因は暴風雨」という帰無仮説は、誤りである可能性が大きいと考えます。 以下は根拠を欠きますが、暴風雨以外の原因として最も可能性が高いのは、現時点では戦闘による死亡でしょう。
>>538 それは知らなかった。ありがとう。
ならば、日田永基は戦死したのか。
「姪の浜及び百路(道)原にある稲荷祠の所で忠死」とあるから、元軍を打ち破った後に
深手を負っていて「稲荷祠の所」で息耐えたんだろうな。
>>546 実はね、遭難現場が博多湾周辺じゃないと思う根拠に当時の天気の記録があるん。
10月20日 晴、朝霜太
10月21日 晴
10月22日 自夜雨降、巳剋以後雨脚漸休、天顔猶陰
10月23日 晴
これは『勘仲記』の記録なんだけど、京都と北九州って現代でもそう極端に違わないじゃん。
『高麗史』は「夜、大いに風雨す」と書いてるけど、該当しそうな日は10月22日しかない。
元艦隊が博多湾を出航した直後に難破したとは考え難いのよ。
>>547 九百艘のうちのバートル軽疾舟や吸水小舟には船員が乗ってなかったのでは?
バートル軽疾舟や吸水小舟は千料船に曳航されていたら、帰還途中の「船1隻あたり
平均生存者数は約35人」となっていても可笑しくない。
>>540 「至一岐島〜撃殺千余級」は海岸にいた日本軍が一度降伏を申し入れた後、再び戻って来たのを撃退した戦い。
撃退しただけだから、まだ壱岐の内陸は手つかずで制圧されてない。
「捨船三郎浦〜伏屍如麻」は、金方慶率いる高麗軍が船を離れ(つまり船を棄て)内陸へと侵攻し、壱岐を制圧
するための戦い。
前半で戦闘に参加してるのは、洪茶丘、朴之亮、趙卞だけだから、この時点ではまだ金方慶やその他の兵は
上陸してない可能性も高いと思う。
>ところで確かめたいが君は「その夜の大風雨」と「壱岐での遭難」を両方主張しているが、それは博多から
壱岐まで一夜で行ったことを意味するのか?
自分が主張してるのは、「その夜」が10月20日じゃないってこと。
根拠の一つは
>>549 に書いたけど。
元軍が暴風雨に遇ったのは10月20日じゃないし、博多湾周辺じゃなく壱岐沖。
でも、金方慶伝は軍議をやった「その夜」に暴風雨に遇ったと書いてるんだから、軍議をやった場所も
博多じゃなく壱岐だと考えるしかないでしょってこと。
552 :
名無し三等兵 :2012/12/22(土) 11:50:04.39 ID:xwWoZQ7Y
>>548 >ならば、日田永基は戦死したのか。
それを裏付けるように、弘安の役の出陣者のなかに子の基資の名はあるが永基の名はない。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ok_togo.html >「姪の浜及び百路(道)原にある稲荷祠の所で忠死」とあるから
稲荷祠が姪浜と百道原の両方にあるように細工しているが、神社の由緒書きにはそんな
ことは書いてない。コピペすれば:
「九州最古の稲荷神社で文永十一年(一二七四年)甲戌拾月八角田(博多)蒙古襲来し日田郡主
弥次郎永基は筑前国早良郡姪浜及び百路(道)原稲荷祠の處で忠死せりと言う文献がある
伊勢の皇大神宮の外宮で京都伏見稲荷大社の直轄の末社である」
まさに「百路原稲荷祠」のところで死んだのである。
文章がおかしいから、もとは例えば「姪浜及び百路原で戦い、百道原稲荷祠の処で忠死せり」のように
なっていたのであろう。
この神社自体は樋井川のそばにあるというから赤坂の南である。もとは百道原にあったか、または
分祠が百道原にあったのであろう。
百道の稲荷祠ってあの住宅街のなかにひっそりとあるあれか。 御先祖様が日田なんだけどそういう場所だとは知らなかった。 猫たちの住み家になってるな、あの祠は。
555 :
名無し三等兵 :2012/12/22(土) 12:00:48.35 ID:xwWoZQ7Y
>>551 >京都と北九州って現代でもそう極端に違わないじゃん。
低気圧にそんなことは言えない。
私は埼玉だが、東京に台風が来ても埼玉はそれこそ「どこ吹く風」のことが多い。
福岡って元寇関連が観光資源として全然生かせてないんだよな 本当は歴史ある街なはずなのに、なんで飯が上手いぐらいしか特徴がない判子型のつまんない街になったんだろうか
>文章がおかしいから、もとは例えば「姪浜及び百路原で戦い、百道原稲荷祠の処で忠死せり」のように なっていたのであろう。 「姪の浜及び百路(道)原にある稲荷祠の所で忠死」という神社の由緒の出典文献を 実際見てみないとなんともいえないが、この神社の出典はいったいなんだろう? 時間があるときにでも、また調べてみるよ。
>>553 先祖が日田永基とか日田の戦歴からしたら、本来ならすごい自慢になるんだけど
誰も知らないという悲劇…
日田市に銅像があっても良いくらいなのにな。
大河ドラマ「北条時宗」の日田永基の扱いは酷かった。 日田永基が元軍に一騎打ちの名乗りを上げている時に、それを無視した元軍が てつはうを投げつけて爆死とか。こんなマヌケな役をさせられるとはね。
>>556 日本全国そんな県がいっぱいあるよ。
南蛮貿易で栄えた町や武器職人の町でも結局そちらは前に出さず「飯が美味い」だけを村おこしにしてる所ばかりだよ。
歴史的な大事件があった場所にあるばる行き、そんなに「美味いもの」の方が気になるものなのかなぁ〜
>>560 だって、わざわざ海外にいっても買い物食い物観光だけでその国知った気になる人達が圧倒的多数ですから
ほんとは観光対象がおもっくそ歴史そのものの城や街だったりするんですがわー綺麗ーで終わり
562 :
名無し三等兵 :2012/12/22(土) 20:04:14.56 ID:1jyeZP4O
ごめん、間違えた。
松山稲荷神社そのものが当時の百道原にあたる場所にあった。グーグル地図で「松山稲荷神社」で引くと出て来る。
樋井川の下流で、樋井川と「よかトピア通り」の交点の近くにある。祖原公園の北やや東にあたる。
「よかトピア通り」が当時の海岸線と思われるからまさにズバリの場所にある。
これが当時の「百道稲荷祠」であり、
>>553 さんの言う猫の住み家だ。
百道か。 あの辺は戦前に臨海学校に来てた女子高等小学校の生徒たちが5名溺死したという事故のあった場所でもある 最終日の宝探しのときに先頭にいた子たちが、予想以上に殺到した生徒たちに後ろから押されて深みにはまった。 30名くらいが溺れ、亡くなった5名以外は救助活動で息を吹き返した。よかトピア通り、ちょうど西南中高があるあたり。 校長以下職員全員が責任をとって辞表を出すも御遺族も含めた父母たちから 寛大な処置を望む嘆願書が出たという。近未来的な様相を呈す現代の百道だが サザエさん発祥の地の碑やサザエさん通りもいいが、この事件の慰霊碑のひとつでも立てるべきだと思う。 日田永基の慰霊碑を立てるのは無論のこと。
564 :
名無し三等兵 :2012/12/22(土) 21:21:56.92 ID:1jyeZP4O
>>533 >狸一号くんの 言う「同じ時間」とは一日ないし半日のスパンがあるわけだな
>それで大いに結構だよ。
ついに尻尾を出したな。狸一号くんが言う「同じ時間」とは「すべての戦闘が20日に行われた」という
愚にもつかない意味であったわけだ。
>元軍が圧されていたことは武士側の記録と元側の記録『高麗史』の両方で一致している
狸一号くんは
>>515 でこう言っている。
「高麗史のいう「及暮乃解」まで元軍は日本軍の猛攻から耐え抜いた」
これを逆に言えば「日本軍は何度攻撃しても元軍を退去させることはできなかった」となる。
ここまで来れば「日本軍はじりじり押された」まであと一歩だ。
攻撃すると元軍は下がるが、次の攻撃までに位置を回復するばかりか若干前進し、のみならず兵力も
すこし増えている、という状況が「日本軍はじりじり押された」だ。
そして日本軍が戦力尽きて自主撤退すれば「及暮乃解」だ。
565 :
名無し三等兵 :2012/12/22(土) 21:22:44.23 ID:1jyeZP4O
>>534 >中軍を襲った日本兵は金方慶が大喝すると「僻易」して逃げ出した。
狸一号くんは朝鮮人の夜郎自大的じまん話に頼るのか。鎌倉武士は朝鮮人にどなられて逃げ出すような
へたれだと思うのか。私はそうは思わないね。突撃した日本軍は例えば矢が尽きるなどで攻撃終末点に達した
から後退したのだ。どなったら逃げたというのは金の勘違いに過ぎない。
これは小部隊による繰り返された陣地攻撃の一つなのだ。決して進軍途中のゲリラ攻撃などではない。
進軍途中の戦闘は「殺すところは過当なり」で終わっている。
566 :
名無し三等兵 :2012/12/22(土) 21:23:14.77 ID:1jyeZP4O
>>535 百道原・姪浜追撃戦について、狸一号くんの自由奔放な妄想につきあって来たが、原点にもどろう。
百道原の元軍が姪浜に逃げる必然性はまったく無い。なぜなら元軍が東西に長い百道原にいると言うことは
その長さにわたって直接、海からの補給を受けられるということだ。
これに対して攻める日本軍は比較的幅のせまい祖原半島からしか攻められない。補給線も長い。守るほうが絶対
有利な地形だ。
こんな場所をわざわざ捨てて大迂回して姪浜に行く必然性はまったくない。
考えて見れば、百道原→姪浜と言う攻撃方向が出て来たもとは、日田文書に「姪浜百道原」と出ている「姪浜」
のたった二字なのだ。他にはなにもない。こんなもので攻撃方向を考え、それがいつしか固定観念になるのが
「元軍そのまま撤退説」の姿である。
その日田文書では姪浜のほうが先に書いてあり、しかも日田は百道原で戦死したという伝説がある。普通に考えれば
姪浜攻撃のほうが先なのだ。もしそうならば「元軍そのまま撤退説」の言う攻撃方向は瓦解する。
お前らこいつのレス読んでる?
568 :
名無し三等兵 :2012/12/22(土) 21:25:04.59 ID:1jyeZP4O
>>536 >「去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間」
ひとつ気がついたのだが、沖の浜で「一同に合戦せよ」と言っていた少弐がここでは「各可相向」と言って
いるな。「各」は「おのおの」だ。「可」は「べし」ではあるが命令よりも可能、許可のニュアンスが強い。
これは「各人個々に鳥飼潟に出撃していいぞ」と言っているのではないか?
少なくともこれが「数千人いっせいに進退」の証拠とは思えないね。
>>568 >「高麗史のいう「及暮乃解」まで元軍は日本軍の猛攻から耐え抜いた」
これを逆に言えば「日本軍は何度攻撃しても元軍を退去させることはできなかった」となる。
残念だね。「猛攻を耐え抜く」というのに「何度攻撃しても」など含まれていないからね。
なぜなら、元軍が潰走しないことが、すなわち「日本軍の猛攻から耐え抜いた」となるからだ。
>ここまで来れば「日本軍はじりじり押された」まであと一歩だ。
攻撃すると元軍は下がるが、次の攻撃までに位置を回復するばかりか若干前進し、のみならず兵力も
すこし増えている、という状況が「日本軍はじりじり押された」だ。
一歩どころか、50歩もいってないよ。ところで、「日本軍はじりじり押された」という戦闘記録は
どこにあるのかな?質問するたびにスルーされるので、いったい何を出典に妄想を唱えているのか
その資料にお目に掛かりたいのだけど、いっこうに見せてくれないね。
また、「攻撃すると元軍は下がる」資料は存在しているが「次の攻撃までに位置を回復するばかりか
若干前進し、のみならず兵力もすこし増えている」というのも、全くパフォ君の頭の中にしか
存在しないのだから全くお話にならないね。資料と資料の間に自分の妄想を捻じ込むのは良くない。
「次の攻撃までに位置を回復するばかりか若干前進し、のみならず兵力もすこし増えている」という
資料は存在せず、「攻撃すると元軍は下がる」という資料は存在するのだから、「元軍は日本軍に圧された」
となるのは疑いようがないね。パフォくん、後もう少し勉強すれば「元軍は日本軍に圧されていた」に辿りつけるよ。
頑張って。
>鎌倉武士は朝鮮人にどなられて逃げ出すような へたれだと思うのか。私はそうは思わないね。突撃した日本軍は例えば矢が尽きるなどで攻撃終末点に達した から後退したのだ。 「怒鳴られた日本兵が逃げ出した」という解釈にはこういう解釈もできるよ。一部の日本兵は金方慶を見止めると 大将首とばかりに突進したが、意外に守りも固く、また金方慶自身も日本兵に臆することがなかったため、諦めたってね。 竹崎に代表されるような向こうみずの当時の武士なら、大将首のために突進するような武士らがいたことは十分に有り得る。 パフォ君は「怒鳴られた日本兵が逃げ出した」のは信頼できないけど、日本兵が逃げ出すまでに「攻撃終末点に達すほどの 激闘があった」という資料には無い妄想は信じるんだね。随分都合が良いじゃないか。 それと「矢が尽きるなどで攻撃終末点」などではない。「長劍交左右」とあり、弓矢で襲ったのではなく日本兵は刀で襲い 掛かってたのだ。よって、「矢が尽きて撤退した」のではない。また、「攻撃週末点」であれば、その間の激闘をこそ、 書かなければならないが、逃げ出した日本兵に対して、中軍諸将が「力戦」したとあり、この時に初めて「力戦」という単語 が現れる。ということはそれ以前の「攻撃終末点に達すほどの激闘があった」というパフォ君の妄想の戦いでは、中軍諸将は 「力戦」を行っていなかったことを意味する。つまり、「攻撃終末点に達すほどの激闘があった」など存在しなかった。 勝手に「攻撃終末点に達すほどの激闘があった」という妄想を捻じ込むのには無理がある。 パフォくんは都合の良いように恣意的に資料を歪曲せず、資料をちゃんと読もう。素直に読めば、極少数の日本兵と1800人程度 の中軍の極小規模な戦闘にすぎない。 >進軍途中の戦闘は「殺すところは過当なり」で終わっている。 そんなことはどこにも書いていない。勝手に資料を都合の良い様に分割してはならない。「道を分かちて進み、 殺すところは過当なり」の次の文章が「倭兵、突き至りて中軍を衝き」とあるのだから、進軍中の中軍の描写が 始まっているのだ。そのことは、金方慶が日本兵の襲撃のすぐ近くにいるのだから、日本兵は金方慶の様を見て 大将首を狙うつもりで襲撃したことがうかがえる。陣地攻撃だとこのような状況では有り得ない。
>百道原・姪浜追撃戦について、狸一号くんの自由奔放な妄想につきあって来たが、原点にもどろう。 勝手に戻らないでくれ。「元軍は日本軍の中央突破を果たして逃げ出した」や祖原山を含む百道原の南側は 「日本軍の領域」という捏造をしたことを謝ることが先ではないのか? 都合が悪くなると勝手に戻るなんて随分都合が良いね。 >百道原の元軍が姪浜に逃げる必然性はまったく無い。なぜなら元軍が東西に長い百道原にいると言うことは その長さにわたって直接、海からの補給を受けられるということだ。 必然性は大有りだよ。百道原での戦いに元軍は敗れたのだから「直接、海からの補給を受けられなくなった」のだ。 百道原より東側の鳥飼潟などの沿岸は日本軍の領域であり、「直接、海からの補給を受けられる」のは百道原より 西側しか存在しない。よって、百道原で破れた元軍が姪浜へと向かうのは必然なのだ。 >その日田文書では姪浜のほうが先に書いてあり、しかも日田は百道原で戦死したという伝説がある。普通に考えれば 姪浜攻撃のほうが先なのだ。もしそうならば「元軍そのまま撤退説」の言う攻撃方向は瓦解する。 俺のレスを読まずに、レスをしているようなので貼っておこう。 また、『日田記』には「筑前国早良郡二軍ヲ出シ」との文言がある。これと同じような文言が『福田文書』にも存在する。 該当部分を挙げると「去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間」 とある。『福田文書』によれば日本軍は早良郡から上陸したことを受けて、「早良郡への進撃」を命令されていたことが うかがえる。そして『日田記』でも「筑前国早良郡二軍ヲ出シ」とあることから、日田も早良郡へと進撃するよう命じられた 武士の一人だったのだ。さらに『福田文書』で元軍が鳥飼から百道原へと逃げ込んだことが確認でき、まさに「姪ノ浜百路原 両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ」と百道原で激戦があったという『日田記』の記述とも一致している。 鳥飼→百道原→姪浜という戦況を疑う必要性は微塵もないのだ。そもそも、鳥飼の後に姪浜だと、距離的にもおかしいし、 元軍を掻い潜って姪浜へと行かなければならない。そんな可笑しな戦況はない。
>ひとつ気がついたのだが、沖の浜で「一同に合戦せよ」と言っていた少弐がここでは「各可相向」と言って いるな。「各」は「おのおの」だ。「可」は「べし」ではあるが命令よりも可能、許可のニュアンスが強い。 これは「各人個々に鳥飼潟に出撃していいぞ」と言っているのではないか? 「一同で合戦せよ」と言っていた少弐が「各人勝手に好きなように早良郡へと出撃してもいいし、しなくてもいいよ」ってか。 どんな気ままな大将なんだ。「可」は「〜せよ」という命令の意味だよ。武家の書状に「可」は多用されているが、「可能、 許可のニュアンス」などのものはほとんどなく、大半が命令だ。 例えば、大友頼泰が宛てた書状の「相催奉行国々御家人、可警固之由」という異国警固番役の命令書の「可」を可能、許可の ニュアンスで受け取ったら、日本国中すごいことになってしまう。 >少なくともこれが「数千人いっせいに進退」の証拠とは思えないね 早良郡にに駆けつけた御家人は、大将の少弐景資を始め、大友頼泰の豊後勢、 肥前勢、肥後勢、筑後勢が参加しているのだから、まさに数千の軍勢だということは 容易に推定できるね。逆に「早良郡へと馳せ向かえ」という命令があったことが資料 からわかっており、かつこれだけの面子が参加していながら、何の根拠も無く 「日本軍はバラバラに思い思いに好き勝手に戦った」と主張しているパフォ君の主張は 完全に崩壊していることがわかる。
パフォ君は阿津賀志山でも鎌倉方はばらばらに戦ったと思ってるのだろうか。
阿津賀志山どころか、源平合戦や承久の乱もバラバラに戦ったと思ってるんじゃね?
576 :
名無し三等兵 :2012/12/23(日) 21:20:59.47 ID:1St7FKBv
>>570 >「怒鳴られた日本兵が逃げ出した」のは信頼できないけど、日本兵が逃げ出すまでに「攻撃終末点に達すほど
の激闘があった」という資料には無い妄想は信じるんだね。
狸一号くんは日本軍の小集団の突撃に攻撃終末点が無かったと主張するのか? 全員玉砕するまで戦ったので
無ければ必ず終末点はあるはずではないか。現に白石は鳥飼塩屋の敵を祖原山に追い上げたが、そこを終末点
として、帰って来て竹崎と証人の打ち合わせをしている。菊池もまた赤坂から敵を追い落としたところを終末点
として帰って来ている。
なぜ終末点があるかと言えば一つには矢が有限であること。二つには手柄を立てたらそれで満足すること。
三つには、これが一番基本的だが、人間の体力が有限であることだ。前にも言ったが引き金を引いていれば
いい今の戦争とは違う。むかしの戦争は体力勝負のスポーツなのだ。サッカーだって45分やったら休むではないか。
>「道を分かちて進み、 殺すところは過当なり」の次の文章が「倭兵、突き至りて中軍を衝き」とあるのだから
そりゃ漢文だからぜんぶつながっている。区切るのは我々なのだ。で、その区切り方を考えると、金方慶伝の場合
一つの戦闘が戦果(キルカウント)で終わるという形式を取っていると考えられる。だから「殺すところは過当なり」
が一つの区切りと考えるのだ。その次の「倭兵、突き至りて中軍を衝き」が唐突だが、金方慶伝の文章の始まりは
常に唐突だ。ここだけではない。私はこれが陣地戦の始まりと考える。
>逃げ出した日本兵に対して、中軍諸将が「力戦」したとあり
これもまた区切りの問題だ。金方慶が自分じしんの戦いを述べて「辟易して走る」で終わり、その次にこの戦闘で
よく戦った部下の名前を挙げている。戦闘毎によく戦った部下の名を挙げるのは壱岐対馬の戦いでも例がある。
部下が逃げ出した特定の敵兵に対して力戦したのでなく、部下もまたそれぞれの戦いを戦ったのだ。
577 :
名無し三等兵 :2012/12/23(日) 21:24:06.23 ID:1St7FKBv
>>571 >百道原での戦いに元軍は敗れたのだから「直接、海からの補給を受けられなくなった」のだ。
百道原で破れたなんて決まっていない。恐らく福田文書と日田文書が根拠だろうが、福田は百道原で包囲されて
ほうほうの体で脱出しただけとも読める。日田は前に言ったように姪浜攻撃が先であり、第二次の攻撃で百道原へ
行ってそこで戦死したとも受け取れる。他になにか根拠があるのか?
>鳥飼→百道原→姪浜という戦況を疑う必要性は微塵もないのだ。
上述したようにこの筋書きそのものが数少ない資料、しかも時間的前後関係のまったくわからない資料を恣意的に
つなぎ合わせて出来上がったものだ。この筋書きを信じる必要性は微塵もない。
必ずしも狸一号くんが恣意的に作ったとは言わないよ。なぜなら学者先生も同じことを言っているからだ。
むしろ狸一号くんは学者先生の説に乗っかっているだけだろう。つまりじぶんの頭で考えていないわけだ。
元凶は学者先生なのだ。そのうち学者先生の説のおかしさを解説してあげよう。
>鳥飼の後に姪浜だと、距離的にもおかしいし、元軍を掻い潜って姪浜へと行かなければならない。
なにもおかしくない。鳥飼潟からなら百道原へ行くのと、姪浜へ行くのとはそんなに変わらない。
また、先遣隊の段階なら絵詞に見るように元軍の兵力がそんなに大きかったとは受け取れない。日田は
ちょっと山側を通ればいくらでも間隙を縫うことができただろう。
このような戦闘が無かったと考えるのは、それもまた先入観念なのだ。たった三つか四つしか無い記録が
「戦いの全て」だと刷り込まれているからだ。姪浜→百道原という日田の記録は、現存の記録に残らない戦闘が
いくらでもあったことを教えてくれている。
578 :
名無し三等兵 :2012/12/23(日) 21:28:14.61 ID:1St7FKBv
>>572 >「早良郡へと馳せ向かえ」という命令があったことが資料からわかっており、かつこれだけの面子が参加して
いながら、何の根拠も無く「日本軍はバラバラに思い思いに好き勝手に戦った」と主張
それもまた学者先生の論理だ。学者先生はA「鳥飼潟の合戦にはこれこれの御家人が参加している」→
B「だから鳥飼潟の合戦は一大決戦だった」→C「(だから)この決戦に敗れた元軍はそのまま撤退してしまった」
と言う。BからCへはつながらないことは分るだろう? でも今はこれがまかり通っているのだ。ウィキもつい
この間までこの丸写しだった。
狸一号くんは現在「そのまま撤退してしまった」とは言っておらず、「及暮乃解」を認めているのは偉い。
しかし上記のCを「(だから)数千騎がいっせいに進退した」に替えただけなのは論理の建て方として同じだ。
ばらばらの根拠ならこんなのもあるな。
“鎌倉遺文11962「関東御教書案(大友文書)」”
異賊去年襲来之時、或臨戦場不進闘、或称守当境不馳向之輩、多有其聞、甚招不忠之科歟、向後若不致忠節者、
随令注申、可被行罪科也、以此旨、普可令相触御家人等之状、依仰執達如件。
「戦場に臨んで進み闘わない」武士もいたのだ。少弐勢と較べて大友勢はほとんど遊んでいたと見る向きもある。
それじゃ「数千騎がいっせいに進退」は無理だな。
およそ軍律を持つ軍隊には兵士の不行状を戒める報告がつきものだが、 パフォ君の理屈に従えば、上官連座と言う軍律の厳しさで知られる鄭成功軍はずば抜けて不心得者だらけの集団になるね。
>>578 >狸一号くんは日本軍の小集団の突撃に攻撃終末点が無かったと主張するのか? 全員玉砕するまで戦ったので
無ければ必ず終末点はあるはずではないか。なぜ終末点があるかと言えば一つには矢が有限であること。
二つには手柄を立てたらそれで満足すること。 三つには、これが一番基本的だが、人間の体力が有限であることだ
。前にも言ったが引き金を引いていれば いい今の戦争とは違う。
攻撃週末点は金方慶が大喝して日本兵が逃げ出したというところだよ。
ただし、その間にパフォ君の妄想である「激闘があった」のではなく、恐らく大将である金方慶を狙って襲撃してきた
日本兵が守りの固さや金方慶が臆することがなったので、大した戦闘をすることも無く、逃げ出したってことだろうね。
そのことは金方慶が日本兵の襲撃の際に日本兵のすぐ傍にいたことからもうかがえる。
また、「一つには矢が有限であること」は日本兵が長剣で攻撃してきているので全く違うし、「二つには手柄を立てたら
それで満足すること」も、この日本兵らは金方慶を討ち取ることに失敗している。
さらに「人間の体力が有限であることだ」というほど長剣で襲ってきた極小規模な日本兵は激闘を展開しておらず、
単なる奇襲にすぎない。進軍中の金方慶の大将首を狙ったものの、金方慶の近くまで失敗しているのだから、パフォ君の
見当はどれも当たっていないね。
>金方慶伝の場合 一つの戦闘が戦果(キルカウント)で終わるという形式を取っていると考えられる。 違うね。「道を分ちて進み、殺すところは過当なり」 は元軍総体のことを言っているのだ。 続いての文の「倭兵、突き至りて中軍を衝き」の主語が「中軍」なのだから、こちらは進軍中の中軍のことを言っている。 「殺すところは過当なり」 で区切るなら「中軍、道を分かちて進み、殺す所は過当なり。」と「中軍」が主語に来なければ ならないからだ。そうなっていないのは「倭兵、突き至りて中軍を衝き」では中軍が進軍中だったことを表わす。 その証拠に日本兵が襲ってきた際に金方慶の声が日本兵に届くほどの距離しか存在しないほど、日本兵と近接していた。 これは金方慶の大将首を狙う日本兵が奇襲したからだと思われる。これをパフォ君の妄想である「祖原山には高麗軍の中軍のみ がいて、それを日本兵が襲った」とした場合、金方慶はわざわざ山を下りて日本兵の目の前に現れて大喝したことになる。 こんな可笑しな戦闘は無い。また、パフォくんの妄想である「祖原山に高麗軍中軍のみが存在した」というのも甚だ可笑しい。 なぜなら、百道原から上陸した元軍は「道を分ちて進み、殺すところは過当なり」とあり、すでに祖原山を通り過ぎて東へと前進 しているからだ。パフォくんの妄想である「祖原山に高麗軍中軍のみが存在した」とするなら、中軍を襲撃した日本兵は東進する 元軍主力を掻い潜り、なぜか「高麗軍中軍」のみに的を絞って襲ってきたという意味不明な戦況になる。
>これもまた区切りの問題だ。金方慶が自分じしんの戦いを述べて「辟易して走る」で終わり、その次にこの戦闘で よく戦った部下の名前を挙げている。戦闘毎によく戦った部下の名を挙げるのは壱岐対馬の戦いでも例がある。 部下が逃げ出した特定の敵兵に対して力戦したのでなく、部下もまたそれぞれの戦いを戦ったのだ。 区切りの問題ではない。内容の問題だ。「倭、辟易して走る」とあるということはそれ以前は「走る」、つまり「敗走」せずに 日本兵は戦っていたということを意味する。しかし、金方慶が大喝したところで日本兵は「辟易して走」ったのだ。 敗走のきっかけが「辟易して走る」なのだから、中軍諸将の力戦で「敗走」したということではない。そのことを踏まえて次の文章 である「倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗」を見てみよう。金方慶が「敗走」させた日本兵に対して、次の文章 では中軍諸将の働きにより「倭兵大敗、伏屍如麻」と「逃げる日本兵」から「日本兵の死体」へと描写が変わっており、戦果を拡大させた ことを意味する。つまり、「日本兵の敗走」から「皆殺し」へと戦果を拡大させたということは高麗軍の中軍諸将が「追撃」したということ がうかがえるのだ。
>百道原で破れたなんて決まっていない。恐らく福田文書と日田文書が根拠だろうが、福田は百道原で包囲されて ほうほうの体で脱出しただけとも読める。 パフォ君は日本語すら読めないらしい。『日田記』「姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ」と明らかに 日本軍が勝利している記録が存在する以上は百道原の戦いが日本軍の勝利であることを否定しようが無い。 自らの「元軍が武士団を圧していった」という無根拠な妄想のためなら、資料すら無視し、捻じ曲げるのがパフォくんだ。 良い例となったよ。 馬鹿を言ってはいけないよパフォ君。百道原の元軍の大軍の中に駆け入った福田兼重が負傷しながらも、 ほうほうの体で脱出することなど不可能だ。なぜなら、馳せ入った福田兼重は弓矢を三本受けており、元軍の大軍の中から 脱出しようとするならさらに後方からもっと多くの矢を受けなければならなかったはずだ。 ところが、突撃した際、福田は突撃した際の「射戦」の際以外の矢を受けなかった。つまり、先陣を切って元軍に突撃した 福田兼重を包囲する元軍は、後方から続々と続く日本軍に蹴散らされたことが推測される。このことは『日田記』の「姪ノ浜百路原 両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ」とあるように百道原で日本軍が勝利したという記述により裏付けることも可能だ。 同じようなことが鳥飼潟でもあった。すなわち、竹崎季長の例だ。竹崎は先陣を切って元軍に突撃して危うく戦死するところだったが、 後方から続々と日本軍が現れて元軍を蹴散らしたため竹崎は存命することを得た。同じようなことが百道原の戦いでもあったものと思われる。
>日田は前に言ったように姪浜攻撃が先であり、第二次の攻撃で百道原へ行ってそこで戦死したとも受け取れる。他になにか根拠があるのか? 全く受け取れないよパフォ君。他に根拠も何もこれだけ根拠があれば十分だ。戦況の総体である「元軍がじわじわと日本軍を圧した」という 基本的な部分すら根拠が無いパフォくんとはわけが違う。同じ事を何度も言うが『福田文書』で「早良郡へと進撃せよ」という命令が出された ことが確認でき、『日田記』でも「筑前国早良郡二軍ヲ出シ」とあるのだから、日田永基がこの進撃部隊に参加していたことは疑いようがない。 その進撃した日本軍が鳥飼潟で元軍を破った後に続いて向かったのが、『福田文書』によれば「百道原」だ。 よって、「姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ」の「姪ノ浜百路原」の戦闘の順序としては百道原が先に来なければならない。 また、『日田記』は姪浜と百道原の「両処二於テ」とあり、姪浜と百道原を同列に扱っており、ここでは時間的な順序を述べていないということもわかる。 姪浜の戦いが先にあったのなら「筑前国早良郡二軍ヲ出シ、姪ノ浜、百路原ノ合戦二討勝テ」とならなければならない。 >上述したようにこの筋書きそのものが数少ない資料、しかも時間的前後関係のまったくわからない資料を恣意的に つなぎ合わせて出来上がったものだ。この筋書きを信じる必要性は微塵もない。 時間的経過が全くわからないことにしたいのはわかるよパフォくん。だって、「日本軍がじわじわ圧されたという妄想」に繋げるには、 「時間的経過がわからない」方が都合がいいもんね。実際はパフォくんの都合の良い様には資料なっていない。 なぜなら、その数少ない貴重な資料に一致している文言が多数あるからだ。例えば「元軍が早良郡から上陸した事」、それを受けて 「日本軍が早良郡へと進撃したこと」、「その先の百道原で戦い」があったことだ。これだけ、一致した文言がありながら、百道原の戦いを 自分の都合で分割することは許されない。
>必ずしも狸一号くんが恣意的に作ったとは言わないよ。なぜなら学者先生も同じことを言っているからだ。 むしろ狸一号くんは学者先生の説に乗っかっているだけだろう。つまりじぶんの頭で考えていないわけだ。 元凶は学者先生なのだ。そのうち学者先生の説のおかしさを解説してあげよう。 恣意的に戦況を作っているのは君だよ。パフォ君。ついに本性を現わしたようだ。パフォくんがなぜ、 これほどまでに妄想と恣意的な資料解釈を唱えたりするのか非常に興味があったが、つまりは 「じぶんの頭で考えていないわけだ」の一文に集約されている。 つまりはこうだろう。誰もが唱えていない妄想的戦況を唱えている私は、先進的ですごいと自慰行為を しているだけなのだ。みっともない爺さんだ。そのうちではなく、今すぐパフォ君の可笑しい妄想を聞かせてくれ。 どれだけ、恣意的資料解釈と妄想が入り乱れているか楽しみだ。 >なにもおかしくない。鳥飼潟からなら百道原へ行くのと、姪浜へ行くのとはそんなに変わらない。 また、先遣隊の段階なら絵詞に見るように元軍の兵力がそんなに大きかったとは受け取れない。日田は ちょっと山側を通ればいくらでも間隙を縫うことができただろう。 全く可笑しなことを言う。なぜ、博多から「早良郡二軍ヲ出シ」た日田永基が目の前の元軍を無視して こそこそと姪浜へといかなければならないのだ?「早良郡二軍ヲ出シ」た日本軍は鳥飼潟で元軍を破り、 百道原へと向かった。しかし、パフォくんは日田永基だけは目の前の元軍を無視して、山裾を利用してまで 目の前の元軍にバレないように「姪浜の元軍へと向かったのだ」という。本気で言っているのなら、 全くお話にすらならない。そもそも、「姪浜の戦い」で勝利した日本軍が百道原へと戦線を後退させて、 「百道原の戦い」で再び元軍と戦って勝利しながら、さらに戦線を後退するなどこんな可笑しな戦況はない。 どうやら、「日本軍がじわじわと圧された」という妄想に辿りつくためなら、支離滅裂なことを何の疑問もなく 唱えるほど手段を選ばなくなってきたようだ。
>B「だから鳥飼潟の合戦は一大決戦だった」→C「(だから)この決戦に敗れた元軍はそのまま撤退してしまった」 と言う。BからCへはつながらないことは分るだろう? もちろん、BとCの間にはもっと細かな戦況がある。 つまりは、百道原の戦いと姪浜の戦いだね。元軍は圧されながらもなんとか一日持ちこたえ、夜間の隙を衝き逃走した ってだけの話だ。 >「戦場に臨んで進み闘わない」武士もいたのだ。少弐勢と較べて大友勢はほとんど遊んでいたと見る向きもある。 それじゃ「数千騎がいっせいに進退」は無理だな。 もちろん進んで戦わない武士もいるだろう。広大な所領を持つ武士は、竹崎季長のように命を賭けてまで必死に戦う 必要性は無いと考える者もいただろうし、こんなところで戦っているより自分の所領を守る方が大事で気が気でなかった 武士も多くいても可笑しくは無い。そのことは戦闘が始まる以前の「或称守当境不馳向之輩」とあるように、 元軍の襲来の報を聞いても、自分の所領を守るとして動かない武士が多くいたことからもうかがえる。 しかし、それは士気の問題であって、戦わない兵がいたから、戦い方は「小集団がバラバラに戦っていた」という根拠には 一切ならない。士気と戦闘法はまた別の話だからだ。むしろ、この文書から士気の問題を指摘しているところに、日本軍の 組織的な軍律の存在をこそ、見受けられるというものだ。それを裏付けるように実際は、『福田文書』で早良郡へと日本軍が 進撃するように命じられたことが確認でき、駆けつけた早良郡には大将の少弐景資を始め、大友頼泰の豊後勢、肥前勢、肥後勢、 筑後勢が参加しているのだからまさに軽く数千は越えたことは疑いようがない。ただ、この兵士の中には進んで戦おうとはしなかった 武士も多くいたということにすぎない。 それと、大友勢が遊んでいるわけがないだろう。豊後守護の大友頼泰旗下の日田永基や都甲惟親などが元軍が上陸した早良郡へと進撃して 大活躍しているのだ。そもそも、後退を繰り返す敵軍を放置して、遊ばせていることに何の意味もない。
しかし、パフォくんは本当にすごいな。 妄想のためなら、資料を恣意的に解釈することに何ら疑問がないのだから。 そもそも、『日田記』にはちゃんと、出陣した日田永基が目指したのは「早良郡二軍ヲ出シ」と あり、早良郡目指して出陣したと明言しているのだ。日田らが元軍を破った姪浜と百道原のうち、 姪浜は早良郡ではなく、百道原は「早良郡」に存在する。つまり、日田永基が最初に目指したのは 「早良郡」の百道原でなければならない。目標である「早良郡」をスルーして通りすぎて、目の前の 元軍の目を掻い潜り、こそこそと姪浜の元軍へと向かったというパフォ君の妄想がいかに恣意的解釈か、 これだけでも一目瞭然だ。
失礼。姪浜は早良郡だったようだ。勘違いをしていたな。すまない。 しかし、どちらにせよ姪浜へと日田永基が向かったというのは可笑しい。 そもそも、早良郡へと向かったのは「百道原から上陸した」ことを受けて 早良郡へと向かったからだ。上陸した元軍を目指して進軍しているのにも かかわらず、上陸した百道原の目の前の元軍をスルーして姪浜へと向かったという パフォ君の戦況がいかに荒唐無稽なのかも「早良郡二軍ヲ出シ」という文言からうかがえる。
弘安の役など相当な大軍で元軍がやって来ている割には小さな戦闘の記録しか残されてないのが気になる。 元軍が各地で広く薄く分散して上陸したので個々の戦線での戦闘はそれほどまとまったものにならなかったのか それともやはり海岸線の石塁などに阻まれてまともに陸地で隊列を整えて本格的な進撃ができなかったということか?
もはや何を議論しているのか理解出来ないな。 10月20日に博多近郊で行われた戦闘の詳細についてでOK?
>>589 弘安の役で江南軍が合流して戦列に入ったのは7月に入ってから
ただ志賀島の戦いから日本軍の攻勢続きだから石塁はあんまり必要な局面はないでしょう
593 :
名無し三等兵 :2012/12/25(火) 22:13:00.63 ID:5NpgagbP
>>588 >そもそも、早良郡へと向かったのは「百道原から上陸した」ことを受けて早良郡へと向かったからだ
これのソースがわからない。そのようになっている文書があるのか?
福田文書の少貳の指示も「早良郡に寄せ来たるの間・・」となってるし
>>591 ありがとうございます。&亀レス恐縮
スレを眺めた範囲だと
1 10月20日未明または払暁に、元軍福岡上陸(日の出と共になら7時前後。もっと早く上陸した先遣隊がいるかも)
2 元軍、迎撃にでた日本軍と夕刻まで交戦(水城から日の出と共に出撃だと、戦闘開始は昼前?)
3 この間、突然の嵐や怪しげな奇跡はなく、元軍にとっての脅威は日本側の武力のみ
4 一日の交戦で元軍は作戦継続を断念。20日夜〜21日未明の間に撤退
と、ここまでは争いが無さそうですね。これ以上に細かい経過を追うのは、難易度の割に得る物が少なそうだけど…
595 :
名無し三等兵 :2012/12/26(水) 09:58:36.47 ID:Ztnyyirq
>>594 >水城から日の出と共に出撃だと、戦闘開始は昼前?
上にもなんとなくそんなことを書いた人がいたけど、ほんとにそれでいいのだろうか?
すると午前中は博多はがら空きということになる。
少貳の当初の布陣は博多防衛に専心していたのとギャップがあり過ぎる。
19日に今津沖に現れた情報は届いていたと思われるし。
前夜は博多に泊まって早朝から守りについたという可能性はないのかな?
大宰府守護所は博多にあるのだよ。
>>595 上にも書かれてるように、当時の情報伝達速度・軍の移動速度を考えれば日の出と共に元軍上陸開始
として午前中に戦闘開始できれば御の字。
日の出と共に水城出撃などまず無理だろう。
で、午前中博多ががら空きだとなにか都合が悪いのかね ?
奇襲上陸を果たしながら、上陸点からわずか十数キロ先の敵の軍事拠点である大宰府に侵攻しようとも
せず博多占領などに労力を裂いてくれるのなら大宰府の司令部としてはこれほど有難い事は無い。
御家人達を参集させる時間的余裕も増え、迎撃大勢を大幅に強化できるからな。
住民の大半は元軍上陸開始を察した時点で避難してるだろうし人的被害も大して気にかける必要は無い。
実際に日本側で文永の役で戦ったのは動員可能戦力のごく一部だっただろう。
日本側は時間をかけるほど動員戦力を増強できる。
元軍側が「小敵の堅は、大敵の擒なり」と早々に撤退を決めたのは理由の無い事ではない。
博多ががら空きだった事などたいした意味は無い。
パフォの妄想説の展開に都合がいい程度のこと。
>>596 日の出と共に水城を出て歩兵の速度で行軍したら、赤坂に着くのが昼前。
これには異論はないんだが、当然そうなることは日本側も判っている。
判っていて「日の出と共に水城出発」を選択するだろうか?
>>597 何時、何処に上陸してくるか事前には判らないんだから、迎撃体制を整えられるのは上陸開始が
目視で確認され、その情報が大宰府に伝わってから。
どんなに早かろうが午前中に攻撃開始出来てれば上出来。
元軍は船の守備をどう考えていたんだろう? 兵を下ろして水夫だけにはできないよね? 明らかに文永の役は兵士が足りなくね?
>>599 別に船の守備なんか考えちゃいなかったんじゃないの ?
大軍をもって強襲上陸し、そのまま一気に大宰府を制圧してしまえはそれで終わり。
確か秀吉の文禄の役でも兵士を水夫を船に残すようなことはしてなかったよね?
訂正。兵を船に残すような事はしてなかったよね?ってこと。
秀吉の時は水軍がいなかった? 元寇の時は水軍いなかったのだろうか?
604 :
名無し三等兵 :2012/12/27(木) 11:39:42.14 ID:D4/dkdKr
>>596 >で、午前中博多ががら空きだとなにか都合が悪いのかね ?
>博多占領などに労力を裂いてくれるのなら大宰府の司令部としてはこれほど有難い事は無い。
>博多ががら空きだった事などたいした意味は無い。
言うことがだんだんめちゃくちゃになって来たな。
博多には太宰府守護所や少貳館があって少貳が住んでるのだ。これを裸にしておいていいのか?
>>593 >そもそも、早良郡へと向かったのは「百道原から上陸した」ことを受けて早良郡へと向かったからだ
>これのソースがわからない。そのようになっている文書があるのか?
福田文書の少貳の指示も「早良郡に寄せ来たるの間・・」となってる
パフォ君が挙げている資料こそがソースそのものだよ。
「早良郡に寄せ来たるの間・・」を受けて、「各々当所に相向かうべく仰せ蒙るの間」と早良郡へと
進撃が命じられている。まさに「早良郡へと向かったのは「百道原から上陸した」ことを受けて早良郡へと向かった」
そのものだ。百道原から元軍が上陸したことは『朝師書所見聞 安国論私抄』の「同二十日モモミチハラニオルルナリ」とあり、
「早良郡に寄せ来たるの間・・」の間の早良郡とは「百道原」から上陸した元軍ということもわかり、福田らが向かった先も
百道原なのだ。
>>604 「だんだん」と言っているところを見ると、俺のレスだと勘違いしていようだが、
>>596 は俺ではない。
606 :
605 :2012/12/27(木) 16:30:09.00 ID:???
パフォ君はいい加減文体で判断してもらいたいもんだな。 毎度毎度、俺のレスと違うレスにまで、俺へのレスとして返している。 妄想癖のみならず、馬鹿もここまでくると鬱陶しいな。 鬱陶しいので、これからレス番号を名前の欄に書いておこう。
コテ名乗ってもいいのよ
もし元軍の博多占領があったのなら壱岐対馬での元軍の蛮行から言って乱暴狼藉の限りを尽くしただろうが そういう記録はないようだ とすると博多が本格的に元軍の手に落ちることはなかったと考えるのが自然ではないか
>>604 だからこそ、午前中がら空きの前提である「みんな揃って水城から日の出と共に出撃」を
疑うべきではないのかという論ではないかと。
>>608 博多占領を疑う理由としてあと2つ
1 博多占領まで行けたなら、即日撤退する必要は無いのでは?
2 万単位の兵が上陸し、日本軍と野戦し、都市占領までして、さらに乗船撤退まで
1日で実施というのは忙しすぎないか。日本軍と野戦したのが昼前後かそれ以降の場合は特に。
が上げられるかと。
610 :
名無し三等兵 :2012/12/27(木) 21:05:10.62 ID:sxl0I8Ea
「元軍そのまま撤退説」の、「鳥飼潟→百道原→姪浜」という戦闘経過は、日田文書の二つの戦闘、姪浜と百道原 のどちらが先であったかに懸かっている。もちろん、そのまま撤退説の人はは百道原のほうが先、というのである が、残念ながらそれは難しい。 なぜなら日田が百道原で戦死したという事実があるからである。百道原で死んだ人が姪浜へは行けない。 それでもなお、そのまま撤退説の人は日田の姪浜先攻があり得ないと言うであろう。その理由は主として二つ: イ)姪浜は距離が遠い、ロ)姪浜までの経路に元軍がいる、であろう。 まずロ)から考えて見よう。竹崎が祖原山方向に攻めた時、元軍はどこに居たかというと、赤坂から逃げた 大小二つの集団と祖原山の本陣、たったこれだけである。間はがら空きだから竹崎は鳥飼塩屋まで行けた。 祖原山から迎撃部隊が降りて来たが、これはむしろ赤坂山から後退する兵の収容のためであろう。 この時間帯にはまだ元軍は兵力が少なかったのである。 次にイ)の距離の問題を考えてみる。姪浜というと姪浜海岸まで行くことを考えがちだが、必ずしもその必要はない。 姪浜は鳥飼潟とならんで製塩が盛んであった。むしろ姪浜のほうが中心だった可能性がある。各地の塩田に、姪浜 から来た技術者が製塩技術を伝えたという伝説が残るからである。 で、その姪浜の塩田はどこにあったか。海岸にあるわけはないから、鳥飼と同様に入り江の奥にあったのである。 鳥飼の入り江の奥の塩田を鳥飼塩浜と呼ぶのと同様に、姪浜の入り江の奥にある塩田は姪浜の塩浜、あるいは単に 姪浜と呼ばれたであろう。日田の言う姪浜はこれである可能性が高い。
611 :
名無し三等兵 :2012/12/27(木) 21:06:15.73 ID:sxl0I8Ea
以上の考察に基づいて日田の戦闘経過を想像して見よう。日田は白石勢にすこし遅れて、白石と同様に単独出撃の 許可をもらって祖原山方面に行った。彼は祖原山の本陣は困難であると見て、その南を通って西方に敵を求めた。 まだ兵力が少ない祖原山の元軍は日田勢に対してあえて要撃部隊を出さなかった。日田が祖原山を通り過ぎて 西進すると、元軍の後続部隊が祖原山の西の姪浜塩田を突っ切って東進しているのが見えた。 日田勢は姪浜塩田で、この元軍後続部隊を襲った。元軍は急襲を受けて混乱し、日田はかなりの戦果を上げること ができた。彼は戦果に満足して博多の陣地に帰り、休息、負傷者の手当、腹ごしらえ、矢の補給など行って戦力回復 を図った。その後、少弐の各個出撃命令が下った。 出撃命令によって日田は福田勢など他の武士達とともに鳥飼潟に向かった。このころには元軍は上陸の進捗によって かなり増強されていたので、百道原に突撃した福田勢は苦戦し、日田はあえなく百道原で戦死してしまった。その後 両軍は鳥飼潟周辺で夕方まで一進一退の戦闘を繰り返し、夕暮れの自然休戦、日本軍の水城への撤退に至った。 このように、同じ史料から全く異なる戦闘経過も描けるのである。
>>604 >博多には太宰府守護所や少貳館があって少貳が住んでるのだ。これを裸にしておいていいのか?
別にかまわんだろう。
博多にいる少貳の手勢だけで元軍に抗す術などないんだから、少貳は一旦逃れて大宰府からの軍と
ともに反攻すればいい。
もし少貳館が占領されたとして元軍を撃退して取り返せば済む話だし、焼かれたり破壊されたなら立て
直せばいいだけの話。
姪浜は名のとおり「浜」であって入り江は無い。 姪浜で製塩をやっていたのは事実だが、その場所は 名柄川河口の東の浜辺、現グッデイがあるあたり。 住吉神社が製塩の権利を握り、戦前までやっていた。
614 :
名無し三等兵 :2012/12/27(木) 22:59:27.98 ID:D4/dkdKr
>>604 >博多には太宰府守護所や少貳館があって少貳が住んでるのだ。これを裸にしておいていいのか?
え?
太宰府守護所や少貳館は大宰府にあるんじゃないの?
616 :
名無し三等兵 :2012/12/28(金) 09:38:11.48 ID:Rp/14JBb
大宰府の武藤氏館が大宰府守護所と呼ばれたんじゃなかったのか?
>>616 >>なぜなら日田が百道原で戦死したという事実があるからである。百道原で死んだ人が姪浜へは行けない。
残念ながら、戦闘が終り、重傷により戦線を離脱した直後に死んでも「戦死」となる。姪浜の戦いで戦勝した後で、
姪浜で重傷を受け、戦線を離脱して「百道原の稲荷祠の所」で死んでも戦死だ。
日田永基が死んだとされる場所は「稲荷祠の所で忠死」したとあり、具体的な場所の伝承が残っているのだから、
むしろ激戦中に死んだというよりは、姪浜で重傷を受け、後方へと戦線を離脱して、休息に適している「百道原の稲荷祠
の所」で身動きが取れなくなり、周りから見取られながら「忠死」したとみた方がはるかに自然だと思える。
なぜなら、パフォくんのいうように「元軍の再進出により、日本軍が圧されに圧されて、その時に日田が戦死した」とした
場合、日田の戦死は「忠死」といわれるほど伝承として残るほどのことでも無く、多くの戦死者の一人という立場
にすぎないからだ。
むしろ、このような「祠の所で忠死した」という伝承が残っているところを見れば、百道原と姪浜の勝利に多いに貢献しながら
も、傷が元で「百道原の祠」のところで息が絶えたということに深い感銘を周囲に与えて、伝承となったようにも思える。
また、実際に負傷して戦線を離脱した竹崎や福田の場合の例としても、竹崎が鳥飼潟で負傷して戦線離脱して博多で力尽きても
「博多で戦いがあった」とはならない。福田が百道原で負傷して、博多で死んだからと言って「博多で戦いがあった」とはならない。
もっと言えば、パフォくんの妄想の可笑しな点は姪浜の戦いも百道原の戦いも日本側が勝利しているのであり、姪浜で勝利した
日本側が後退して、百道原で再び元軍と戦って再び破り、日田が戦死したという全く奇想天外な戦況になる点にある。
恐らく、パフォくんは、自分の妄想である「元軍が日本軍を圧した」ということに何がなんでもしたいという気持ちが、
この奇想天外な戦況認識を生み出しているのだろう。
>>この時間帯にはまだ元軍は兵力が少なかったのである。 全く違うね。「大小二つの集団と祖原山の本陣、たったこれだけである。」のどこが、 元軍の兵力が少なかったことの根拠なのか全く意味不明だね。 むしろ、少弐氏の号令により、大将の少弐景資を始め、大友頼泰の豊後勢、肥前勢、肥後勢、 筑後勢が早 良郡に駆けつけており、その日本軍の中にいた福田が見た元軍は「大勢」であったと証言している。 福田が大勢と感じたということは「大将の少弐景資を始め、大友頼泰の豊後勢、肥前勢、肥後勢、 筑後勢」の 日本軍より大軍と感じたからだ。また、『蒙古襲来絵詞』にも、元軍の様子を見た竹崎が元軍を「けうとハすそはら にちんをとりて、いろゝゝのはたをたてならへて、らんしやうひまなくして、ひしめきあふ。」と証言しており、 まさに元軍は陣を構えて、「ひしめきあって」いたのだ。そのことは、『朝師書所見聞 安国論私抄』の「同二十日モモミ チハラニオルルナリ」とあるように、主力の蒙漢軍が百道原から上陸していたことからもうかがえる。 また、「間はがら空きだから竹崎は鳥飼塩屋まで行けた」ともいえない。なぜなら、赤坂で敗れた元軍は祖原の元軍 本陣へと向かっているからだ。つまり、後方の本陣の力を借りてしか、日本軍に勝てそうにないと判断したために、祖原の 本陣以外の元軍は、祖原本陣に結集して日本軍に対抗しようとしたとも思える。 「がら空き」というより、戦線の建て直しを計ったのであり、赤坂から鳥飼潟の間に戦闘がなかったからといって、始めから 元軍がいない「ガラ空き」の空間となっていたとはならない。 パフォくんに言わせると、赤坂の元軍は、初めから味方に見捨てられ、自軍のみで日本軍と相対させられていたという、これまた 奇想天外な戦況になる。
>>次にイ)の距離の問題を考えてみる。姪浜というと姪浜海岸まで行くことを考えがちだが、必ずしもその必要はない。 で、その姪浜の塩田はどこにあったか。海岸にあるわけはないから、鳥飼と同様に入り江の奥にあったのである。 鳥飼の入り江の奥の塩田を鳥飼塩浜と呼ぶのと同様に、姪浜の入り江の奥にある塩田は姪浜の塩浜、あるいは単に 姪浜と呼ばれたであろう。日田の言う姪浜はこれである可能性が高い。 パフォくん、「塩田はどこにあったか。海岸にあるわけはない」と嘘を言ってはいけない。 専門外なのでよくは知らないが、調べてみたところ、中世の「揚浜式塩田」として有名な能登半島 (現珠洲市)には入り江の存在などなく、海岸で「揚浜式塩田」が行われている。 中世の「揚浜式塩田」とは、海水を塩田にまき、天日で水分を蒸発させることとあり、このような手法なら 入り江である必要性は微塵も無い。wikiからだが、「揚浜式塩田」を行う際には、海水が地下に入り込まないように、 粘土で防水層を作る知恵もあったともいう。そういう知恵が発達したというのも、海岸に塩田があったためであることが わかる。それと、図書館まで調べに行くほど姪浜の塩田に好奇心も無いから、元寇以前から揚浜式塩田として姪浜が有名だった というソースを頼んでおこう。 それから、本題に入るが、「入り江の奥にある塩田は姪浜の塩浜」だから、なぜ「日田の言う姪浜はこれである可能性が高い」となる? 資料からは「姪浜の塩浜」で日本軍が戦ったという資料は皆無だ。可能性が高いということで言えば、「元軍が直接に退路が確保されて いる沿岸の姪浜で戦った」と見る方がはるかに自然だ。なぜなら、沿岸の姪浜は元軍と海を結ぶ重要な浜辺だからだ。ここに元軍がいた とした方がはるかに可能性が高い。そもそも、博多と姪浜の間の早良郡には、福田や竹崎が見た「ひしめきあう」ほどの元軍が間に存在しているのだ。 なぜ、わざわざ、目の前の元軍にバレないようにこそこそと、姪浜の元軍を迎撃しなければならない?こんな可笑しな戦闘は存在しない。
621 :
605 :2012/12/28(金) 23:37:55.85 ID:???
>日田は白石勢にすこし遅れて、白石と同様に単独出撃の許可をもらって祖原山方面に行った。 パフォくん、何度も言わせるもので欲しいね。許可をもらったのではない。『福田文書』によれば、 「早良郡へと向かうように武士らが命じられた」のだ。そもそも、そして早良郡に駆けつけた軍勢の 顔ぶれは大将の少弐景資を始め、大友頼泰の豊後勢、肥前勢、肥後勢、筑後勢が参加しているのであり、 「許可をもらって」などという規模ではない。 >彼は祖原山の本陣は困難であると見て、その南を通って西方に敵を求めた。 まだ兵力が少ない祖原山の元軍は日田勢に対してあえて要撃部隊を出さなかった。日田が祖原山を通り過ぎて 西進すると、元軍の後続部隊が祖原山の西の姪浜塩田を突っ切って東進しているのが見えた。 妄想癖もここまで来ると開いた口が閉まらない。「兵力が少ない祖原山の元軍」と言っておきながら、なぜか「日田は祖原山の 元軍を恐れて、こそこそと迂回して、敵の規模が全く不明な姪浜の元軍を目指して進軍した」という。話にならない。 なぜ、日田勢は祖原山の元軍に後方から襲われる危険を冒してまで、軍勢の規模が全く不明の姪浜の元軍に戦いを仕掛けにいかないと いけないのかな?君は自分の言っていることを今一度、冷静に考えてみることをお勧めしよう。
622 :
605 :2012/12/28(金) 23:39:05.58 ID:???
>>日田勢は姪浜塩田で、この元軍後続部隊を襲った。元軍は急襲を受けて混乱し、日田はかなりの戦果を上げること ができた。彼は戦果に満足して博多の陣地に帰り、休息、負傷者の手当、腹ごしらえ、矢の補給など行って戦力回復 を図った。その後、少弐の各個出撃命令が下った。 『福田文書』で「早良郡へと進撃せよ」という命令が出されたことが確認でき、『日田記』でも 「筑前国早良郡二軍ヲ出シ」とあるのだから、日田永基がこの進撃部隊に参加していたことは疑いようがない。 その進撃した日本軍が鳥飼潟で元軍を破った後に続いて向かったのが、『福田文書』によれば「百道原」だ。 よって、「姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ」の「姪ノ浜百路原」の戦闘の順序としては百道原が 先に来なければならない。 また、『日田記』は姪浜と百道原の「両処二於テ」とあり、姪浜と百道原を同列に扱っており、ここでは時間的な順序を 述べていないということもわかる。 姪浜の戦いが先にあったのなら「筑前国早良郡二軍ヲ出シ、姪ノ浜、百路原ノ合戦二討勝テ」とならなければならない。
623 :
605 :2012/12/28(金) 23:41:31.40 ID:???
>>このように、同じ史料から全く異なる戦闘経過も描けるのである。 「夕方まで一進一退の戦闘を繰り返し」と日本軍の敢闘を認めだした事は評価しよう。 初期の頃のパフォ君は、「日本軍は元軍に破れに破れて、水城に撤退した」という『八幡ノ蒙古記』の 丸写しのような認識しかなかったからね。 しかし、果たしてパフォくんの戦闘経過は資料に基づいているのかは、また別の話だ。 まず、「百道原に突撃した福田勢は苦戦し、日田はあえなく百道原で戦死してしまった。」というのは『日田記』の 「姪ノ浜、百路原両処二於テ、一日二度ノ合戦二討勝テ、異賊ヲ斬ル事夥シ」という日本側が勝利したという資料を 完全に無視した妄想であり、次に「両軍は鳥飼潟周辺で夕方まで一進一退の戦闘を繰り返し、夕暮れの自然休戦」は『高麗史』を基に、 高麗史の日本軍に圧されていたことがうかがえる記述を完全に無視した高麗史の摘み食いであり、また「日本軍の水城への撤退」に至っては 『八幡ノ蒙古記』の大半の戦況経過を無視して最後の日本軍の撤退という部分だけを摘み食いしている。 これが、パフォ君の言う「同じ史料から全く異なる戦闘経過も描ける」だ。いかに恣意的な資料解釈と摘み食いをしているかはこれだけで 一目瞭然だろう。
624 :
605 :2012/12/28(金) 23:48:25.19 ID:???
訂正何度も言わせるもので欲しいね。→何度も言わせないで欲しいね。
625 :
名無し三等兵 :2012/12/29(土) 10:32:14.39 ID:WdMkvLBN
>>612 大宰府守護所は博多にあった。
それならば、招集された武士たちはまず博多の大宰府守護所に出頭したのではないか?
出頭したらその場で「貴殿は沖の浜を頼む」とか「貴殿は箱崎につめてくれ」とか言われる。
それから改めて水城の奥の大宰府まで行って泊まるだろうか。
むしろ博多の寺社、商館、民家などを適当に召し上げて泊まったのでないか?
そして翌日は早朝から博多の守りについた。 そう考える方が自然だ。
626 :
名無し三等兵 :2012/12/29(土) 11:27:37.20 ID:WdMkvLBN
>>618 コメントする前に、祖原山に関する狸一号くんの見解をはっきりさせたい。
狸一号くんは
>>535 で:
>百道原の南側は完全に元軍側の領域だ。
>南側が日本軍の領域なら、百道原の戦いの前に「祖原山が陥落」していなければならない。
と書いて、祖原山が元軍の領域であったから百道原の元軍が安全に姪浜に逃げることができた、
という主旨のことを言っている。
この祖原山の元軍は、百道原の元軍が日本軍に追尾されつつ入り江を大迂回して姪浜へ逃げるときに、
いっしょになって逃げたのか?
それとも今や日本軍の領域となったこの地域で、その後も孤立無援で英雄的に戦ったのか?
>>625 なるほど、パフォだったのか・・・・
まず元寇(文永の役)時点において、大宰府守護所と少貳館が博多に有った(博多にしか無かった)とする根拠を
示してもらおうか。
全てはそれからだ。
629 :
605 :2012/12/30(日) 00:03:34.13 ID:???
>>627 >この祖原山の元軍は、百道原の元軍が日本軍に追尾されつつ入り江を大迂回して姪浜へ逃げるときに、
いっしょになって逃げたのか?
その通り。姪浜の戦いがあったということは、日本軍の後背に位置する「祖原山」は日本側の領域になって
いなければ日本軍は姪浜まで進出することはできなかったはずだ。
後背に元軍を残して、前進することはできないからね。
また、祖原山で戦いがあったという記録も存在せず、百道原の戦いで破れた元軍が姪浜へと向かったということは、
その司令部たる祖原山の元軍も姪浜へと向かわなければならない。
そもそも、百道原の戦いで元軍が破れた以上、「祖原山は百道原という退路を失った戦略上無価値の小山」でしかない。
退路を失った祖原山の元軍が次にしなければならないのは、新たな退路の確保だ。
百道原や祖原山の元軍が新たな退路の確保を求めて、姪浜へと向かうの当然のことだった。
630 :
605 :2012/12/30(日) 00:04:42.84 ID:???
>>628 蝦夷=蛮族=蒙古
のイメージで書いたんだろうな
馬が得意だったり、曲刀使いだったり共通するのかな?
BSプレミアムの時代劇でアテルイやるみたいなんだけど、 流鏑馬にしか見えない騎射シーンで使ってた弓が蒙古弓っぽかった気が…一瞬だったから見間違いかもしれんけど 清水寺縁起と絵詞だったら当然絵詞のが古いはずだから、 絵詞の蒙古軍を真似て清水寺縁起のエミシを描く→清水寺縁起を参考にアテルイを映像化→アテルイの装備が蒙古軍のものに、てことか?
633 :
名無し三等兵 :2012/12/30(日) 10:17:42.01 ID:YAEtFlNr
>>629 狸一号くんの、祖原山に関する見解は目も彩に千変万化する。
>>192 では:
>元軍も日没と共に「日本軍に背を向けて」麁原に帰陣したのだろうな
と書いて、祖原山が日没の休戦後も元軍の手にあったことになっている。
ところが
>>204 では早くも:
>戦場に残っていない。陣を引き払い海に逃げ出した。どう判定しても背を見せて逃げ出したの元軍だ。
と書いて、祖原山の元軍も海に逃げたことになった。
これは私に「それなら先に戦場を去ったのは日本軍だ」と言われて、訂正したものだ。
次に
>>317 では:
>ところが福田は鳥飼から百道原へ突破してるんだから、蒙漢軍の麁原は破られてるわけ。
と書いて、元軍が百道原戦闘より以前に祖原山を撤退したことになっている。
ところが退却戦の話になって、
>>535 では:
>南側が日本軍の領域なら、百道原の戦いの前に「祖原山が陥落」していなければならない。
と書いて、百道原戦闘の段階でも元軍が祖原山を保持していたことになった。
これは私に入り江の存在を指摘されて、急遽、百道原の元軍の退路を確保する必要が生じたからだ。
そして今
>>630 で:
>姪浜の戦いがあったということは、日本軍の後背に位置する「祖原山」は日本側の領域になって
となって、祖原山の元軍は姪浜へ退却したことになった。これは
>>535 とは話が合うが、
>>192 や
>>317 とは
合わない。狸一号くんの、祖原山に関する見解が、そのときの議論に合わせて行き当たりばったりに変化
していることがよくわかる。
>>633 日暮れで停戦したあとなんで元軍は海まで撤収したの?
635 :
名無し三等兵 :2012/12/30(日) 10:24:57.48 ID:YAEtFlNr
まあそれはいい。いつものことだ。現在の話に戻ろう。
さて、狸一号くんは
>>618 で:
>激戦中に死んだというよりは、姪浜で重傷を受け、後方へと戦線を離脱して、休息に適している「百道原
>の稲荷祠 の所」で身動きが取れなくなり、周りから見取られながら「忠死」したとみた方がはるかに自然だ
と書いている。要するに姪浜で負傷した日田が、後方へ送られて、安全で「休息に適した」百道原稲荷の
ところで息を引き取ったというのだが、まったくおかしい。後方と言うなら姪浜から祖原山の近くまで来た
段階で、そのまま鳥飼潟の南岸を通って博多方面に行くか、あるいはさらに赤坂のところで南に、水城方面に
行くかだろう。
なにもわざわざ祖原半島を北へ向かって百道原まで行くことはない。また百道原が鳥飼潟南岸より安全かと
言えばそうでもない。狸一号くんの説のように百道原の敵が一掃されたとしても、海には元軍がいるのだ。
何時でも再上陸できるし、舟から射戦することもできる。百道原は依然として第一線なのだ。なんでそんな
ところに重傷者をわざわざ運んで行くのか?
狸一号くんのために新しい言い訳を用意してあげよう。
1)第一線で名誉ある死を遂げさせたかった。
2)少貳の前線司令部がまだ百道原にあった。総大将の面前で死なせたかった。
3)日田は稲荷神社に深い信仰があった。
どれがいい?
>日本軍が圧されに圧されて、その時に日田が戦死した」とした 場合、日田の戦死は「忠死」といわれるほど
>伝承として残るほどのことでも無く、多くの戦死者の一人という立場にすぎないからだ。
それじゃ壱岐対馬で戦死した御家人は「忠死」じゃないということになるな。可哀想に。
忠死と言うのは特別に感動的なな死に方ではない。君に忠節を尽くして死んだと言う意味だから、恩賞の
対象になる戦死はすべて忠死なのだ。
636 :
名無し三等兵 :2012/12/30(日) 10:27:22.95 ID:YAEtFlNr
637 :
605 :2012/12/30(日) 10:34:34.26 ID:???
>>633 >
>>192 では:
>元軍も日没と共に「日本軍に背を向けて」麁原に帰陣したのだろうな←俺のレスではない
いい加減、俺のレスじゃないレスに俺へのレスとして返すのは止めてもらえないかね?
鬱陶しくて仕方ない。
本当に呆れて開いた口が塞がらない。君は俺だけがパフォくんにレスをしているとでも思ってるのかな?
>戦場に残っていない。陣を引き払い海に逃げ出した。どう判定しても背を見せて逃げ出したの元軍だ。←俺のレス
これは俺だ。そして、「戦場に残っていない。陣を引き払い海に逃げ出した。どう判定しても背を見せて逃げ出したの元軍だ。」その通りではないか。
>ところが福田は鳥飼から百道原へ突破してるんだから、蒙漢軍の麁原は破られてるわけ。←俺のレスではない…。
パフォくん、君は何を根拠に俺のレスと決めているのだ?呆れるな。
>南側が日本軍の領域なら、百道原の戦いの前に「祖原山が陥落」していなければならない。
これは私に入り江の存在を指摘されて、急遽、百道原の元軍の退路を確保する必要が生じたからだ。
自惚れもここまで来ると、唖然としてまう。俺のレスと俺と違うレスを繋ぎ合わせて、俺のレスに一貫性がないように
印象操作するのは、いつものパフォくんの手口だから慣れてきたが、それを「私に入り江の存在を指摘されて」と自分の
レスによって一貫性がないのだとまで来るとはな。「入り江の存在など、元軍の退却が大変だったろうなぁ以外の感想を抱いたことは
ないんだがね。恥ずかしい人だ。
639 :
605 :2012/12/30(日) 11:04:39.40 ID:???
>>635 >>まったくおかしい。後方と言うなら姪浜から祖原山の近くまで来た
段階で、そのまま鳥飼潟の南岸を通って博多方面に行くか、あるいはさらに赤坂のところで南に、水城方面に
行くかだろう。
ほう、百道原の稲荷祠のところで息が絶えた日田永基が、どうやって「鳥飼潟の南岸を通って博多方面に行くか、
あるいはさらに赤坂のところで南に、水城方面に行く」力が残されているのかな?
むしろ、何も無い百道原で唯一の建造物であったと思われる「百道原の稲荷祠」は、道端で身動きがとれなくなるより、
よっぽど致命傷を受けた日田が一時的に退避するには何とも都合の良い場所ではないか。
日本軍が百道原で敗北して日田が戦死したのなら、「忠死」といわれるほどのこともなく多くの戦死者の一人にすぎず、
さらに息が絶えた具体的な「祠の所」という場所が残るとも思えない。
それを裏付けるように百道原の戦いと姪浜の戦いは日本側が勝利しており、百道原の戦い以後は、百道原は日本側の領域なのだ。
致命傷を受けた日田がこの「祠の所」へ退避して死ぬことは可笑しくもなんともないね。
640 :
605 :2012/12/30(日) 11:07:45.46 ID:???
>なにもわざわざ祖原半島を北へ向かって百道原まで行くことはない。また百道原が鳥飼潟南岸より安全かと 言えばそうでもない。狸一号くんの説のように百道原の敵が一掃されたとしても、海には元軍がいるのだ。 その通りだ。元軍は百道原から上陸しており、海には元軍船が浮かんでいる。 その危険性があるということは、言い換えればそこに日本軍がいたともいえるのだ。 姪浜へと前進する際、後方から敵軍が上陸しようものなら、日本軍はたちまちに挟撃されてしまうからね。 元軍船に元兵が残されているかどうかは日本側からはわからないからだ。 つまり、日田は一部の日本軍が残されて防備についている百道原へと退避した、という極めて当たり前の行動を とったにすぎないということになる。 >忠死と言うのは特別に感動的なな死に方ではない。君に忠節を尽くして死んだと言う意味だから、恩賞の 対象になる戦死はすべて忠死なのだ。 ほう、パフォ君は姪浜から上陸した?と思われる元軍が百道原へと進出して日本軍を破ったと主張しているのではないのか? 多くの戦死者を出したはずの百道原で、唯一、日田永基のみが具体的な死んだ場所が伝承として残っていることや日田永基のみが 「忠死」したという表現を用いられている事が「感動的な死に方ではない」のなら、なぜ日田だけが伝承として残る必要はあったのかな? パフォくんは、言う事がめちゃくちゃになってきたな。俺と違うレスにまで俺へのレスとして攻撃しだすし、反論もできずに冷静さを失った 結果だろうけどね。
642 :
名無し三等兵 :2012/12/30(日) 13:44:51.16 ID:YAEtFlNr
>>638 それこそが元寇の永遠の謎であり、永遠のテーマなのだが、せっかくだから答えてやろう。
●文永の役では日本軍は苦戦したが、元軍も元軍なりに苦戦して、戦力を消耗した。
●元軍が苦戦を戦い抜いた結果として、日本軍が水城に撤退して目の前から消えると言う僥倖を得た。
●もともと元軍は補給および季節的要因から、いずれは撤退しなければならぬ宿命だった。
●どうせ撤退するのなら、20日の当夜を安全に撤退できる絶好のチャンスと捉えた。
643 :
605 :2012/12/30(日) 14:18:37.44 ID:???
>>642 謎ではない。武家側の文書や『高麗史』からうかがえる文永の役の顛末は極めて明快だ。
●文永の役では赤坂まで進出した元軍は日本軍に姪浜までの数キロに亘って圧されるほど苦戦して、戦力を消耗した。
●元軍が苦戦を戦い抜いた結果として、日が落ちて戦闘継続が不可能になり、日本軍は博多へ引き返した。
●元軍は翌日の朝から再び日本軍に襲われれば壊滅の危険があったため、本来は避けなければならない夜間出航や天候や風待ちを
することもなく、やみくもに日本軍から逃れたいがために強行撤退した。
●案の定、危険を顧みなかった元軍はその夜に暴風雨に襲われ、大損害を被った。
644 :
627 :2012/12/30(日) 15:14:28.50 ID:???
さて、パフォが回答放棄して逃げたようなのでこちらからレス付けさせてもらおう。 結局パフォは大宰府守護所と少貳館が博多に有った(博多にしか無かった)とする根拠を示す事が出来なかった。 自らの「膺懲パフォーマンス説」という妄想説に都合のいいように作り上げた「博多=大宰府説」という妄想説を既成 事実化するための出まかせだったというわけだ。 もちろん大宰府守護所は大宰府に有ったに決まってる。 少貳館については、少貳氏は太宰少貳であり、九州の武士団の現地統括官たる鎮西守護なんだから、少貳の館な どあちこちにあったろう。 博多「にも」少貳館があったとしても何の不思議もないし、もし少貳館があったのなら、そこが大宰府守護所の「出先」 のような機能を兼ねていたことも有りうるだろう、それだけのこと。 >招集された武士たちはまず博多の大宰府守護所に出頭したのではないか? なんてのは妄想の上に妄想を重ねた挙句、更に妄想を重ねた大妄想。 なにより防衛拠点が水城であったのを見れば、日本側の軍事中枢は博多ではなく大宰府にあったのは明白。 だいたい敵が何時上陸してくるかも判らない状況で、上陸されれは瞬時にやられる場所に軍事中枢を置いておく馬鹿 がどこにいる。 そもそも太宰府が博多湾より内陸に置かれてるのは唐や新羅が侵攻してきたときの縦深を確保するためだぞ。
645 :
名無し三等兵 :2012/12/30(日) 16:07:48.46 ID:VIHEOAVu
たぶん撤退と大損害の言い訳を台風にしたんだと思うな。これなら粛清されない。実際に台風で大きな損害は受けてるわけで
646 :
627 :2012/12/30(日) 16:34:35.45 ID:???
>>643 >●文永の役では日本軍は苦戦したが、元軍も元軍なりに苦戦して、戦力を消耗した。
戦況に関しては双方の主観的資料が少数あるのみで客観的資料が皆無に近いから詳細は不明。 だが、
・大宰府攻略を目的とし強襲上陸した筈の数万規模の元軍が、上陸地点からたかだか十数キロの大宰府はおろか
その手前の水城にすら 到達できていないこと。
・日本側の記録にある戦闘地点の地名が半径わずか3km程度の海岸付近に限定されていること。
・元軍がわずか1日の戦闘で継戦を断念して撤退した事が元軍側の記録で確認できること。
等から見れば、戦いが日本軍優勢、元軍劣勢に終始しただろうことは類推できる。
>●元軍が苦戦を戦い抜いた結果として、日本軍が水城に撤退して目の前から消えると言う僥倖を得た。
撤退は日没に伴う自然休戦によるもので、夜が明ければ日本軍は再び攻撃してくる。
あくまで戦う気であるならその束の間の休戦を「僥倖」などと思うわけも無い。
「僥倖」と思ったとすれば、既に戦意無く逃げるつもりだったからだ。
>●もともと元軍は補給および季節的要因から、いずれは撤退しなければならぬ宿命だった。
そんな訳無い。
兵站概念が未発達な時代、軍の補給は現地調達即ち「略奪」が常識。
特にモンゴル軍はそれがデフォルト。
占領地での徹底的な略奪と投降した敵軍を更なる侵略への尖兵として使うという物資・兵員の現地調達こそがモン
ゴル軍の侵攻を支えていた。
もし大宰府を落とし、日本側の抵抗戦力を殲滅したなら九州全域でそれをやっていただろう。
「モンゴル」「略奪」で検索してみればそういう話が山ほど出てくる。
もし負けていたならそれが日本の運命だった。
>●どうせ撤退するのなら、20日の当夜を安全に撤退できる絶好のチャンスと捉えた。
どうせ撤退するのなら、と言うか、翌朝の再度の日本軍の攻撃を持ちこたえる余力が無いなら危険でもその夜の内
に撤退するしかないねえ。
ま、正しい判断だったと思うよ。
結果的に難破して大損害は出したけど。
というか、「季節的要因から、いずれは撤退しなければならぬ宿命」という前提で 侵略してきたとしたら、それは元軍を相当に馬鹿にしていないか? 上陸した季節が、既に相当危険な時期だ。季節が悪くなったら撤退するというなら とっくに帰らねばならない季節になってから攻め込んでいる。上陸したら相当期間戦い続ける 前提で来たのでないなら、天の時・地の利に完全に逆らった無謀な計画であり、企画者は あの世で孫子に尻を蹴飛ばされたことであろう。実際には留まるどころの騒ぎではなかったようだが それは現場では計画通りに行かないという、良くあることに過ぎない。 20日当夜の撤退を強行したのも、司令官が全く海を侮っているのでないなら 「冬の玄界灘を風待ち、潮待ち省略、初めて来た湾を夜間に水先案内も抜きで航海」というリスクを 「日本軍に夜襲されるリスク」より小さいと判断したからだろう。 (ことさら夜襲というのは、夜明けと共に日本軍の鼻先を出航するという策すら捨てているから) 冬の玄界灘以下略は、かなりの確率での船団壊滅を覚悟しなければならないレベルだ。 それを「リスク低」と判断したと言うことは、もう一度交戦するリスクを「やればほぼ確実に壊滅する」 レベルと評価したとしか思えない。
細川重男みたいに「グダグダ」なんて言葉を平気で使う内容の薄い鎌倉本がメチエで出てるんだから、 特集号の元寇解釈本もどこかの新書から出てもおかしくないんだけどね。
649 :
646 :2012/12/30(日) 19:15:35.57 ID:???
>>647 この線で考えると、高麗史に出てくる軍議は壱岐で行われた可能性が、より高いと思われる。
九州まで行っていない金方慶は、自分も加わるからもう一度全軍で九州を攻めようと主張したが、
すっかり「膺懲」されてしまった忻都はこれを却下したと見ると、おおよそ整合が取れる。
パフォコンさんは「何故海上まで逃げたのか」はわざと避けてるのかと思ったら 真正面からやりあう気があったのね ちょっと評価上がったよ
>>650 壱岐で軍議て考えにくいだろう
戦場は博多湾沿岸で壱岐までは海上を40kmぐらい離れてる
20km/hで行っても片道2時間往復4時間
夜襲の可能性も考えにゃならんのに軍首脳がそんなに陣地を空けられるとは思えん
時間的にも、夕方に日元ともに宿営地に戻ったとすれば、
それから壱岐へ行って軍議で撤退を決定して博多湾沿岸の元軍が撤退開始するのが真夜中。
それでも日の出には万単位の軍を船に収容してないといけない。
かなり実行に無理が無いか?
>>652 夜間に撤退した後、壱岐に残留していた金方慶と合流して軍議という時系列で考えてました。
この場合、20日日没から21日未明までに出航さえすれば、壱岐到着及び軍議は
21日午後でも極端な場合22日以降でもOKです。
高麗史によれば、遠征軍が朝鮮半島に到着したのは27日。九州から直行だとすると
ちょっと時間がかかりすぎていないかと。
>>650 あんな断片的で時系列もよく解らず、どこまで本当の事を書いているかも疑わしい文書が
正しい事を前提にして辻褄を合わせる事に、大して意味は無いと思うよ。
>>653 おかしいだろ、撤退してから壱岐で背水の陣を主張するって。
軍議の段階で壱岐の船に乗ってるのであれば、わざわざ劣勢が予想されている地点に再上陸するより
有利に戦える地点に上陸する主張になるはず。同じ背水の陣としても。
金方慶の主張って、確か既に敵地に侵入してるから兵の戦意も高まってるから行けるってもんだったはず。
壱岐の船の上ではそうはならんだろう。
あのさー、それを言い出したら固定観念を補強するように史料をつぎはぎすることになるでしょ。 検証にならないじゃねえか。 それと軍議の夜に嵐にあったのなら博多湾に大量に船が漂着してるはずだろ。 あと博多湾を夜半に出帆する=夜半の出航のほうが日本軍の襲撃よりまだ安全だった ような混乱の中で金方慶が主戦論を唱えたとしたら、それはすなわちウソか、金方慶が大バカだったかどっちかなんだよ。 これが何とかならないかと言うので今までスレで議論してたんじゃんか。 高麗部隊が壱岐に留まったとすれば金方慶が撤退してきたクドゥンと見解を異にする理由が合理的に説明が付くんだよ。 反論はウェルカムだけど、せめて仮説の構造を理解した上で反論しろよ。
パフォもそうなんだよ。パフォも「こうだったに違いない」と言う固定観念に合わせて史料をテキトーにつぎはぎしている。 主観を捨てて、史料から読み取れる事実を結合させないと結局わけのわからないことになる
>>656 別に元軍は混乱して無いだろう。
元軍が野戦で敗走して追撃されたような記述は無いし。
まあ、1日目は決定的な結果が出ずに両軍とも帰陣といったところじゃないかな。
決定的な結果が出てなければ、主戦論も撤退論も出て不思議は無い。
日本軍が日々増強されるであろうことを考えれば、力関係が傾く前に撤退する判断も妥当なものだろう。
659 :
名無し三等兵 :2012/12/31(月) 10:20:37.50 ID:oMKLzyP8
>>643 >>646 両者とも夕暮れまでの戦闘と日本軍の撤退を認めているようだな。
(
>>643 は水城を博多に変えただけ。
>>646 は撤退を認めながら撤退先を書かない)
これを認めるのなら後は表現の違いに過ぎない。例えば:
>やみくもに日本軍から逃れたいがために強行撤退した。
>>643 というのを裏返せば
(日本軍がいなくなった)20日の当夜を安全に撤退できる絶好のチャンスと捉えた
>>642 ということになる。
日本軍の水城への撤退を認めるのなら別に言うことはないよ。
一部学者たちの「元軍そのまま撤退説」は日本軍の水城への撤退を認めないのだ。
>>658 混乱していないとなぜ分かる?
なぜ冬の夜半に慌ただしく出航したんだ?
なぜそんなに慌てて撤退したのに、軍議で両将が対立して時を費やすようなシチュエーションになってるんだ?
なぜ嵐に遭遇したのに、博多湾に船が漂着していないんだ?
それと壱岐は元軍が維持していたはずだが、なぜ本土の御家人の壱岐での戦没が確認されている?
合理的説明がまったくない。単なる憶測の繰り返し。
661 :
名無し三等兵 :2012/12/31(月) 10:35:45.71 ID:oMKLzyP8
>>647 >上陸した季節が、既に相当危険な時期だ。季節が悪くなったら撤退するというなら
>とっくに帰らねばならない季節になってから攻め込んでいる。
季節が悪くなったから撤退するとは言ってない。君も言っているとおり、もともと出発した
時期が遅すぎたのだ。
>上陸したら相当期間戦い続ける前提で来たのでないなら、天の時・地の利に完全に逆らった無謀な計画
合理的に説明できない戦争なんかいくらでもある。南宋戦でも、大軍が出動したと思ったら一週間で
陣を解いて帰った例もあるし。日本が起こした太平洋戦戦争も勝てないのをわかっていて起こした。
文永の役の場合も、ほんとうはもっと早く来るつもりだったのに、なんだかんだで遅れて、それでも
構わん、やれーっと言うフビライの意志で仕方なくやって来たのだろう。
662 :
605 :2012/12/31(月) 10:46:43.47 ID:???
>>659 >日本軍の水城への撤退を認めるのなら別に言うことはないよ。
ほう水城に撤退したのなら、元軍はなぜ博多に進出しなかったのだ?
20日の日に日本軍は、わざわざ博多に進出し陣を敷いて防衛に努めておりながら
優勢に戦いを進めていたのにもかかわらず、博多を放棄して13kmも向こうにある
水城へと向かう必要性があるのか?
博多のすぐ西にある赤坂には博多警固所が存在し、刀伊の入寇の際にはここを拠点に
刀伊と戦い、これを撃退している。
元軍が博多に進出しなかったのは、赤坂の博多警固所に日本軍がいたためだろう。
占領する戦力は残されていなくても、目の前には日本有数の大都市である博多の町が存在する。
そこに日本軍がいないとなると、例え逃げ出すつもりでいたとしても、戦果の穴埋めがてら
博多を散々な目に合わしても良かったはずだ。しかし、元軍はそれをせず、大慌てで逃げ出した。
赤坂以西に日本軍がいたとしか考えられないね。
663 :
605 :2012/12/31(月) 11:03:07.91 ID:???
>>660 横レスだが、壱岐軍議説はパフォくんのつまらない妄想説よりよっぽど面白い説だけど、
色々と合点のいかない点も多い。
挙げると
1.例えば、高麗軍を含む元軍が上陸した地点は「三郎浦」とされる。
「三郎浦」の朝鮮語音は「サムラン」であり、実際に元軍が上陸した早良郡と
音が近いとされており、地名辞典にも『高麗史』の「三郎浦」=「早良郡」として
載っているものすらある。三郎浦=早良郡ではないとするのなら、「三郎浦」とは
どこなのかという問題が必然的に生じてしまう。
2.壱岐軍議説を採用した場合、劉復亨が負傷した場所は壱岐になってしまうという問題もある。
壱岐で合戦したとした場合、劉復亨は負傷して「先に船に登る」という記述があるからだ。
3.壱岐で「諸軍與戰、及暮乃解」「諸軍終日戰、及暮乃解」というほどの激戦があったのなら
『松浦党大系圖』と『菊池系圖』のみでは少し史料として弱く感じてしまう。
『朝師御書見聞 安国論私抄』にある「又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、
又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云」
とあり、浦々に打ち上げられた元兵の他に日本人の死者にも触れられており、浦々に打ち上げれた元兵と日本軍
との間で合戦があったようにも見え、『松浦党大系圖』と『菊池系圖』の言う対馬・壱岐で戦ったというのは、
「諸軍與戰、及暮乃解」「諸軍終日戰、及暮乃解」というほどの大規模なものではなく、この浦々に打ち上げられた
元軍の掃討戦だったのではないか?
4.『勘仲記』によれば「俄かに逆風が吹き来たり、本国に吹き帰った」と南風が吹いて、高麗へ吹き帰ったとも読み解ける。
つまり、博多湾から出航した元軍が南風の暴風雨を受けたなら、押し流され漂着する場所は必然的に北方にある壱岐に集中
することに問題がないようにも思える。逆に『勘仲記』にあるように壱岐から出航した元軍に南風の「逆風」が吹いたのなら、
志賀島や宗像、壱岐のはるか東方の小呂島に元軍船が座礁しているのは不自然な感もある。
これぐらいかな。違和感があるとしたら。
陸軍の一個師団が出発するとき、 朝の10時くらいに出発を始めると、最後尾は出発が夕方になるとか。 今でも海上自衛隊の「出港準備」は最低一週間前に発令されるそうである。 航海物資の発注、積み込みもあるだろうからね。
「兵整わず、矢が尽き」で終了だろ 元軍の準備不足と命令系統の不備で苦戦を強いられ撤退だ
666 :
646 :2012/12/31(月) 13:31:44.21 ID:???
>>659 だから何が「撤退」なんだよ。
日没と共に戦闘継続が不可能となり双方陣地へ引き上げた事を「撤退」と言うなら日本側が帰陣したのと同様
元軍が軍を解いて帰陣したのも「撤退」だ。
お前のロジックが問題なのは日没に伴う日本軍の水城(ないし博多)への帰陣を「撤退」と呼ぶことであたかも
日本軍が元軍に敗走したかのように言い、元軍優勢・日本軍劣勢と印象付けようとしているからだ。
そもそも陣を構えて戦闘を継続する体勢を取っているものを「撤退」とは言わん。
会戦を終えて帰陣することを「撤退」と呼ぶなど聞いた事がない。
「撤退」とは陣を払って引き上げる事を言う。
この戦いで「撤退」したのは元軍であり日本軍ではない。
>>662 横レスになるが、元軍が博多を占領しなかったのは別に不思議ではない。
土地勘もない未知の地で暗闇の中、何処に何が潜んでいるかわからない街を占領するなど危険なだけ。
休息を取ろうにも眠ったら翌朝まで首が繋がってる保障など無い。
野外の自分たちの陣地であれば、とりあえずは安心して休める。
都市を占領したいなら明るいうちに済ませなければ・・・
もちろん明るいうちは武士の攻撃に対する防戦で手一杯で占領している余裕など無かった。
そもそも夜のうちに撤退するつもりの連中が博多を占領する理由が無いし、占領している時間的余裕も無い。
668 :
605 :2012/12/31(月) 15:50:00.90 ID:???
>>667 占領する戦力が無く土地勘が無くても、略奪・放火は可能だろう?
そもそも、放火・略奪に励めば、暗闇の問題も解決されるし、それをしなかった
ということは日本軍の襲撃のある朝までに撤退する必要があったからだろう。
朝から日本軍の襲撃が予想されるということは、元軍は日本軍に大損害を与えた
という意識も無く、近くに戦力的に強大な日本軍がいたので朝からの日本軍の攻撃に
警戒していたとしか思えない。
また、博多の西の赤坂には博多防衛のために博多警固所が設置されている。
博多警固所が設置されていたということは、太宰府政庁にとって博多の町を防衛する
という意思が存在したからだろう。刀伊の入寇の際には、ここで刀伊を迎え撃ち、博多を
防衛している。
博多より、ずっと西の姪浜まで押し返した日本軍が、日が暮れたからといって博多警固所と
博多の町を放棄する必要性の意味がわからない。
>>667 軍が撤退した街を、夜だからという理由で占領、略奪を諦めた実例ってあるの?
>>668 占領が難しいという事は略奪も難しい。
暗闇で火を灯すなど闇に潜んでいるかもしれない敵に対して、的にしてくれというようなもの。
放火は可能かもしれないし実際に博多が焼かれたとする説もあるが、個人的には否定的。
日本側に気付かれずに撤退しようとしている連中が街に火を放つなどという日本側を刺激するような行動を
あえて取るとは思えないから。
もし日本の主力が博多に布陣していたなら元軍撤退に気付かぬ筈はなく、撤退する元軍に攻撃を仕掛けて
もよさそうなのに、その形跡も無い。
やはり日本軍の本陣は水城であり、もし博多周辺に居たとしても一部の連絡要員くらいだったのだと思う。
あるいは八幡愚童訓にある白装束の一団が元軍に矢を射掛けた云々のくだりは博多周辺の日本側残留部
隊が退却する元軍に攻撃を仕掛けた事実が元になってるのかもしれないね。
>>669 逆に、あえて夜に占領、略奪を実行した実例があるのか知りたい。
夜明けまでに全員乗船して逃げなきゃならない状況で、あえて近くの町を占領、略奪した実例も。
とにかく戦闘経過から見て蒙古軍が日本軍に追い散らされたのは間違いなく、 むしろ予想外に日本軍が突出して総崩れ撤退になったとみるほかない。占領とかそんな問題以前。
>>671 >夜明けまでに全員乗船して逃げなきゃならない
こんな状況になるまで追いつめられてたの?
日本軍が勝ったってことね この事実が一般に広まるのはあと何十年かかるだろうか
675 :
605 :2012/12/31(月) 18:55:32.06 ID:???
>>670 >もし日本の主力が博多に布陣していたなら元軍撤退に気付かぬ筈はなく、撤退する元軍に攻撃を仕掛けて
もよさそうなのに、その形跡も無い。
やはり日本軍の本陣は水城であり、もし博多周辺に居たとしても一部の連絡要員くらいだったのだと思う。
まぁ、戦闘が終った後の客観的な史料は存在しないので日本軍がどういう行動をとったのかは現代で知る事は
難しいので断定はしないが、弘安の役の際も博多湾から撤退する元軍を追撃しなかったので日本軍が追撃しなかった
ことは問題ないようにも思えるし、文永の役の開戦時も上陸する元軍を尻目に少弐氏は博多防御の姿勢を崩さず
博多から動かなかったことを考えれば、撤退する元軍に攻撃を仕掛けなかったことは問題ないようにも思える。
もっと言えば、日本側から見たら撤退するつもりなのか、元軍の正確な意図は測りかねるしね。
ここで一つ疑問を。 「元軍は夜間に撤退し日本側はそれに気付かず、朝になってようやく元軍が消えているのに気付いた」 この状況の出典って、このスレではかなり批判されている八幡愚童訓ですよね? この記述が正しいという前提で良いの?
677 :
名無し三等兵 :2012/12/31(月) 23:14:03.87 ID:oMKLzyP8
>>653 >高麗史によれば、遠征軍が朝鮮半島に到着したのは27日。九州から直行だとすると
>ちょっと時間がかかりすぎていないかと。
高麗史の27日は月が変わった11月の27日だよ。ちょっと時間がかかり過ぎるどころか一ヶ月
以上かかっている。
678 :
名無し三等兵 :2013/01/01(火) 09:48:28.57 ID:Awuucuv0
>>666 >日没に伴う日本軍の水城(ないし博多)への帰陣を「撤退」と呼ぶことであたかも
>日本軍が元軍に敗走したかのように言い、元軍優勢・日本軍劣勢と印象付けようとしているからだ。
狸一号君がしつこく「敗走」「潰走」と言わせようとするから、敗走と撤退は違うと説得したのは
この私だが、撤退もだめとは笑った。
今朝の新聞に、自衛隊がゴラン高原の平和維持活動から撤退したと出ているが、自衛隊は敗走したのか?
679 :
名無し三等兵 :2013/01/01(火) 10:25:23.35 ID:Awuucuv0
>>633 で、祖原山に関する狸一号くんのい狸七変化を示したが、最近の七変化の例を示しておこう。
狸一号くんは
>>618 で、次のように言っている。
>日田永基が死んだとされる場所は「稲荷祠の所で忠死」したとあり、具体的な場所の伝承が残っているのだから、
> むしろ激戦中に死んだというよりは、姪浜で重傷を受け、後方へと戦線を離脱して、休息に適している「百道原の
>稲荷祠の所」で身動きが取れなくなり、周りから見取られながら「忠死」したとみた方がはるかに自然だと思える。
ここでは日田が「後方へと戦線を離脱した」と言っている。つまり百道原は「後方」であり、「戦線」では
なかったのだ。
ところが
>>635 で私が、百道原が依然として海上の元軍に対する第一線であることを指摘すると、狸一号くんは
たちまち
>>640 で次のように七変化した。
>その通りだ。元軍は百道原から上陸しており、海には元軍船が浮かんでいる。
>その危険性があるということは、言い換えればそこに日本軍がいたともいえるのだ。
>つまり、日田は一部の日本軍が残されて防備についている百道原へと退避した、という極めて当たり前の行動を
>とったにすぎないということになる。
狸一号くんは私に指摘されて、百道原が依然として海上の元軍に対す第一線であることにはったと気づいた。
そこで彼は、逆に「第一線」をひとすじの藁として必死にしがみついた。
その結果、日田は「後方の」第一線へと、「戦線離脱」するという珍妙なことになってしまったわけだ。
680 :
名無し三等兵 :2013/01/01(火) 10:29:17.70 ID:Awuucuv0
>>679 訂正:一行目
狸一号くんのい狸七変化 → 狸一号くんの狸七変化
お互い議論する気があるんなら、アホみたいな煽りをいれるなよ せっかく立派な意見を書いても、頭が悪く見えるぞ
682 :
605 :2013/01/01(火) 10:49:23.20 ID:???
>>680 >>633 で、祖原山に関する狸一号くんのい狸七変化を示したが、最近の七変化の例を示しておこう。
どうやらパフォ君は反論することができなくなったので、俺と違うレスと全く異なる
>>192 >>204 >>317 を
俺のレスということにして、悦に浸っているらしい。こういう手口を使うなら、予め名前欄にレス番号を入れておけば
良かったな。パフォくんは、もはや議論する気も失うほど幼稚なレスしかできなくなったみたいだ。「狸」というネイミング
センスの悪い命名を急につけだしたのも、もやは反論できず冷静さを失い感情論に陥ってるパフォくんの成れの果てだろうね。
本当に俺の何倍も生きてる人のレスなんだろうかね…。呆れる。
>狸一号くんは私に指摘されて、百道原が依然として海上の元軍に対す第一線であることにはったと気づいた。
そこで彼は、逆に「第一線」をひとすじの藁として必死にしがみついた。
パフォくんの論理でいうと博多湾一体が「第一線」だ。何も百道原だけから元軍が上陸するという保証はないからね。
普通に考えれば、俺の使った戦線離脱とは「実際に戦闘が起きている場所」を表わすことに気付きそうなものなのだが。
まあ、反論できなくなると、言葉遊びと「かもしれない」に逃げるのはパフォくんのいつもの手口だから、驚きもしないが。
683 :
605 :2013/01/01(火) 10:50:49.90 ID:???
訂正
>祖原山に関する狸一号くんのい狸七変化を示したが、最近の七変化の例を示しておこう。
どうやらパフォ君は反論することができなくなったので、俺と違うレス
>>192 >>204 >>317 を
俺のレスということにして、悦に浸っているらしい。
684 :
605 :2013/01/01(火) 12:11:33.51 ID:???
面白いので、いかに自分のことを棚に上げているか、パフォくんの七変化の例を示しておこう。
パフォくんは
>>351 で「福田は偽装退却に引っかかった可能性が高い」と百道原の戦いの
都合の悪い日本軍勝利の記録を偽装退却として追いやった後、それが苦しくなってきたので
「百道原に突撃した福田勢は苦戦し、日田はあえなく百道原で戦死してしまった。」と日田が死んだ
ことを理由に主張を180度変えて、『日田記』の記述を無視して百道原の戦いは元軍が勝利したことに
してまっている。いかにその場凌ぎの議論をしているか一目瞭然だね。
さらに戦況自体の認識もどんどん変わっている。
例えば、パフォくんは初めのころは「日本軍は元軍を鎧袖一触、海に追い落とす
つもりだっただろうがそうは行かず、 大損害を出して水城へ撤退、博多箱崎を明け渡す」
と日本軍が敗走したと述べていたが、最近では「元軍が苦戦を戦い抜いた結果として、日本軍が
水城に撤退して目の前から消えると言う僥倖を得た。」とまるで180度の戦況認識を述べている。
一貫性も何も無いとはパフォくんのような人物をいうのだ。
思えば、何と都合のいい解釈ばかりなのだろう。日本軍が勝った記録はすべて「偽装退却」であり
日本軍が戦って勝利したのは「高麗軍」であり、日本側の勝利の記録は嘘で本当は福田や日田は大苦戦
して敗北したのだという。史料のほとんどを曲解で捻じ曲げないと成立しない戦況というのも稀だろう。
>>676 高麗史に撤退についての軍議の記述があるし、博多周辺での2日目以降の戦闘の記録が無いから
夜のうちに撤退したのは確かだと思う。
686 :
666 :2013/01/01(火) 12:58:55.73 ID:???
>>678 >狸一号君がしつこく「敗走」「潰走」と言わせようとするから、敗走と撤退は違うと説得したのは
>この私だが、撤退もだめとは笑った。
俺はお前とそんな議論はしていないからそんな事は関知しない。
「撤退」とは陣を払って引き上げる事だ。
一般論で「撤退」≠「敗走」なのは当然だが、文永の役での元軍の撤退は明らかな「敗走」だ。
「暮乃解」による双方の帰陣は敗走では無いけどな。
問題にされてるのはお前自身が「暮乃解」による日本軍の帰陣を
「日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ。」などと書き、「撤退」=「敗走」と
印象付けようとしているからだろう。
それとも
>>147-148 のレスはお前のものでは無いと言うのかね ?
回答願いたい。
687 :
名無し三等兵 :2013/01/01(火) 13:35:11.23 ID:Awuucuv0
>>686 >一般論で「撤退」≠「敗走」なのは当然
わかっているのならそれでいい。今後言うなよ。
>日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ。
これはこれでいい。私は毫も変わっていない。
これは形の上での敗北か勝利かという戦いの結果を言っているのだ。
「形の上」というのは「戦術的」と言い換えてもいいし、「実質的」の対語と受け止めてもよい。
戦略的、実質的には日本軍の勝利だ。これもちゃんと言っている。
それに対して「敗走」は敵の追撃を受けたかどうかなどの、戦闘の状況をも含むニュアンスがある。
日本軍は敵の追撃を受けず、自主的に撤退したのであるから敗走ではないのだ。
実は元軍は日中のうちに敗走し、日本軍は水城に凱旋した。
敗走ではないなら、元軍の戦術的勝利じゃねえじゃん… 上げの人って屁理屈と矛盾ばかりだな。 両軍が日が暮れて、それぞれ帰陣したのなら、どちらが優勢だったかは 別にして引き分けでしょう。
元軍は数ではかなり勝っていたはず なぜここまで来て数を頼みに何度も諦めず上陸戦を仕掛けなかった??
691 :
686 :2013/01/01(火) 17:28:23.72 ID:???
>>687 >わかっているのならそれでいい。今後言うなよ。
俺は一般論など言っていない。
文永の役における元軍の「撤退」は明らかに「敗走」だ。
それ以前に「撤退」を「敗走」であるかのようなロジックを使い出したのは間違いなく自分なのに他人に責任転嫁
するとは卑劣極まる。
そのうえ自分で「敗走と撤退は違う」と言いながら、
「日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ。」
などという二枚舌を使って恥じないのだから呆れ果てたな。
「形の上」だの「戦術的」だの「実質的」だのといったお前さんの脳内でしか通用しない造語に何の意味も無い。
「暮乃解」による双方の帰陣自体はどちらの勝利でもない。
だがその後の元軍の撤退は明白なる元軍の「敗走」なのだ。
おっと、まさか今度は前線から陣までの違い・日本側がより長距離を帰陣していることをもって元軍優勢の根拠だ
などとは言い出さないよなあ ?
前線が日本軍の陣より遠く、元軍の陣の至近だったというのはこの戦いが日本軍の攻勢に終始していた根拠にし
かならんからね。
>>691 数が多くても、勝てない相手に何度も上陸戦なんてしたら
忽敦が言うとおり「小敵之堅、大敵之擒」、つまり忽敦ら元軍は
捕虜になってしまうよ…
修辞と言ってしまえばそれまでだけど、 兵数の上ではどう見ても蒙古軍が「大」、日本軍が「小」なんだよ 以前に騎乗率の計算をしたことがあるが、騎乗の武者で比較しても日本軍のほうが数的にはかなり劣勢 勝てない相手に何度も上陸戦をしても捕虜になるから撤退するって、分かったような分からないような論法で、 かりに蒙古軍が再戦する能力があるなら夜半に海上に逃れそのまま逃走なんて危ない真似をする必要はない この時点で蒙古軍は再起不能で、おそらく兵士がパニック状態で踏みとどまることも出来なかったと考えるのが妥当
694 :
名無し三等兵 :2013/01/01(火) 20:59:06.13 ID:YrCT2nux
>>691 勝ち負けを判定する論議と、言葉の使い方、語感の問題とがごっちゃになってる感があるな。
以下は語感の問題にしぼって書く。
私の感覚では「敗走」と言うのは敵の圧迫を受けながら、算を乱して退却するニュアンスがある。
だから日本軍の水城への撤退も、元軍の海上撤退も、これについて「敗走」という言葉を使うのは違和感がある。
どちらも「及暮乃解」後の交戦中でない状況で、ある程度の秩序を保って、かつ自主的に行われたと考えられるからだ。
元軍の海上撤退について、「敗退」と言うのならまだわかる。この言葉なら「戦略的には元軍の敗北」と私が言う
状況が、違和感無く表せる。
もう一つ、日本軍の「帰陣」について、博多へ戻るなら明らかに帰陣だ。なぜなら当日の初期に陣地があったのは
明らかだからだ。
しかし水城へ帰陣はちょっと首をひねる。水城に、真の意味で陣地があったかどうかは分らないからだ。
武士達は水城など寄らず、博多へ各個参集したかも知れない。また水城が元寇当時において古代と同じような
軍事的意味があったかどうかも分らない。ひょっとすると、いざというときの単なる立て籠り城という認識だった
かもしれない。
分らないのなら水城については帰陣でなく撤退を使っておけばよいのだ。撤退で不都合なことは何もない。
以上はあくまで語感の問題だ。勝ち負け判定の議論はまた別だよ。
695 :
691 :2013/01/01(火) 23:38:23.85 ID:???
>>694 お前さんの主観的な語感や言葉の使い方などはどうでもいい。
「暮乃解」を「敗走」と解釈する余地が無いと了解出来ればそれで良い。
あと当日初期に博多に陣が有ったなんて資料がどこにある ?
博多の息の浜が前線での日本軍の集結地点だったって資料はあるけどな。
その戦域の軍の根拠地たる本陣と、前線の軍の集結地点とは全然違うぞ。
「蒙古襲来絵詞」でも麁原の元軍のものはちゃんと「陣」として描かれているが、息の浜は単なる集結地点と
してしか描かれていない。
それに水城でなく博多が日本側の本陣だったというのなら、そこへ帰陣することを「敗走」と解釈する余地など
お前さんの奇怪な「主観的語感」を持ってしても無くなるな。
>>147-148 での
「日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ 」
「日本軍は元軍の面前で、先に戦場を棄てた。すなわち元軍に背を見せた。 これが『形の上での敗北』であり、
戦術的敗北だ」
との主張は全面的に撤回するという事でよろしいな ?
>>693 船守って 上陸地点守って 大宰府侵攻したら兵士が足りなくなる
船を焼くのが一番だね
697 :
名無し三等兵 :2013/01/02(水) 10:21:44.58 ID:446/scKn
>>695 >「暮乃解」を「敗走」と解釈する余地が無いと了解出来ればそれで良い。
私ははじめから「敗走」という言葉を使ってないのだからそんなことは当たり前だ。
お前は暖簾に腕押ししているのだ。
>あと当日初期に博多に陣が有ったなんて資料がどこにある ?
>博多の息の浜が前線での日本軍の集結地点だったって資料はあるけどな。
お前は日本語が読めないのか?
「博多の沖の浜をあい固めて一同に合戦候べし」博多の沖の浜を固守して、敵が来たら一斉に戦えと言っている。
これが陣地でなくて何なのか?
>「日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ 」
>「日本軍は元軍の面前で、先に戦場を棄てた。すなわち元軍に背を見せた。 これが『形の上での敗北』であり、
>戦術的敗北だ」
>との主張は全面的に撤回するという事でよろしいな ?
これだけ説明しても分からないのか? 全面的に撤回どころか全面的に維持しているよ。
また将来にわたって撤回する見通しはないからあきらめたほうがいい。
ただし日本軍は大きな犠牲と、形の上での敗北にも拘わらず、元軍が自主的に撤退するという結果を得たのだ
から、戦略的には日本軍の勝利であり、裏返せば元軍の敗北だ。これもちゃんと言っている。
敵が戦場から離脱したから勝利って、アヘン戦争の清軍じゃあるまいし 戦果を挙げた上で日も暮れて来たから一回帰っただけだろ 戦場に取り残されてる事が勝利者の証明になるのか 日本軍の戦術・戦略目標を何一つ阻害する事も出来ず、また元軍の戦術・戦略 目標を何一つ達成する事も出来なかった戦闘で?
確かに清軍っぽい言い回しだなw
700 :
605 :2013/01/02(水) 12:08:17.57 ID:???
>>697 >ただし日本軍は大きな犠牲と、形の上での敗北にも拘わらず、元軍が自主的に撤退するという結果を得たのだ
パフォくん、
>>695 さんは「ただし日本軍は大きな犠牲と、形の上での敗北にも拘わらず」という君の認識自体が
間違っていると言ってるのだよ。君こそ、日本語が読めないらしい。
「また将来にわたって撤回する見通しはないからあきらめたほうがいい」というほど君の脳みそがどういう考えを
していようが誰も興味がない。それは勝手だからね。パフォくんの頭が異常なほど固いのも知っている。
しかし、君の妄想で日本軍が負けたことにされ、その妄想を根拠に日本軍の戦術的敗北と結論付け、スレで妄想を
唱え続けていることはおおいに問題がある。
元側の資料高麗史の日本軍との戦闘である「諸軍與戰」とはどういう戦況であったか見てみよう。
「諸軍與戰」の戦いの後、金方慶は「もう一度、戦わせてください」と懇願している。
つまり、裏を返せば、「もう一度」ということは今回の「諸軍與戰」の戦闘は、完全な失敗であり
戦術的勝利を得られなかったことを間接的に金方慶は認めていることになる。
また依然、パフォくんはクドゥンが撤退理由の一つに挙げている「策疲乏之兵」を「朝から(一部は徹夜で)
戦っていれば兵が疲れるのは当たり前。」と兵士の肉体的疲労を元軍撤退理由の一つに捏造していたが、
「策疲乏之兵」とは肉体的疲労のことを言っているのではない。
「策疲乏之兵」とは、「諸軍與戰」において元軍が多くの負傷者を出したことを表わす文言だ。
多くの死傷者を出した自軍を用いて(「策疲乏之兵」)、大敵(日本軍)と戦うのは、無理だと
言っているのだ。
パフォくんの妄想である、たった一日の戦闘で肉体的に疲労したから撤退などという妄想は入り
込む余地が無い。
701 :
605 :2013/01/02(水) 12:11:19.84 ID:???
「諸軍與戰」の戦いで思いの他、劣勢だったことを受けて、金方慶は劣勢でありながら『背水の陣』を布いて 勝利した韓信の軍勢に自軍を例えたり、総司令官クドゥンが「少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、 多数の兵力の前には結局捕虜にしかならない」という言もあるなど、総じて元軍の劣勢は元軍諸将が認める ところだったのだ。 次に日本側の資料を見てみれば、武家の文書『蒙古襲来絵詞』や『福田文書』、『日田記』から赤坂の戦い、 鳥飼潟の戦い、百道原の戦い、姪浜の戦いと日本軍は勝利を重ねている。 つまり、赤坂→鳥飼→百道原→姪浜へと元軍が後退を重ねているのだから、『高麗史』と武家の文書から総体的 に浮かび上がる戦況は「元軍の劣勢」しか有り得ないのだ。 ただし、高麗史には「及暮乃解」とあり、後退を重ねつつ、潰走には至らなかった元軍の様子も窺うこともできるので、 「戦術的には日本軍優勢ながら、日が暮れるまで日本軍の猛攻を元軍は何とか耐え抜き、引き分けに持ち込んだ」という 結論を導き出せすことも可能だ。 これら諸資料から浮かび上がる「戦術的には日本軍優勢ながら、日が暮れるまで元軍は何とか耐え抜き、引き分けに持ち込んだ」 という戦況と、その夜になった隙をついて、元軍が天候・風待ちをすることもなく大慌てで危険な夜の海へと逃げ出し暴風雨に 襲われたという事実は、非常に納得できる結末だ。
702 :
695 :2013/01/02(水) 13:34:45.21 ID:???
>>697 言っている事が完全に支離滅裂になってきたな。
まあ初めから一貫して支離滅裂だが。
>「日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ 」
>「日本軍は元軍の面前で、先に戦場を棄てた。すなわち元軍に背を見せた。 これが『形の上での敗北』であり、
>戦術的敗北だ」
などと書いていながら、「敗走」という言葉を使ってないから「敗走」ではないなどという児戯に等しい言葉遊びの
詭弁を弄して恥じる事もないわけか。
じゃあ、言い逃れ出来ないように言い直してやろう。
「『暮乃解』による日本軍・元軍双方の帰陣は日没による自然休戦によるもので、これ自体は『形式的』にも『実質
的』にも、どちらの勝利でも有り得ない」
これに同意するか ?
>「博多の沖の浜をあい固めて一同に合戦候べし」博多の沖の浜を固守して、敵が来たら一斉に戦えと言っている。
>これが陣地でなくて何なのか?
ああ、やはり「陣」という言葉をおそらくは意図的に混同して使っていたか。
前線での軍の集結地や仮設拠点を「陣」と呼ぶ事は有る。
元軍が赤坂や麁原に布陣したと言うのはこの意味だ。
それでも「蒙古襲来絵詞」での麁原の元軍は仮設拠点としての陣構えが出来てるように書かれているが、息の浜
にはそれすら無いけどな。
「暮乃解」で帰陣する「陣」はこれとは違う。
軍が休息・補給を受けられるその方面の根拠地のことで、だから「本陣」という書き方をしてるんだよ。
元軍の本陣がどこにあったのかは不明だが、おそらくは上陸地点の橋頭堡で、場所は多分姪ノ浜・百道原付近か
それ以西だろう。
夜間撤退を決断した理由の一つは潮の干満かも知れないと思い至ったので報告。 撤退する場合は、引き潮に乗るのが有利だ。満潮直後に出航すれば、暗礁に乗り上げる確率も減らせる。 さて、文永11年10月20日は、グレゴリオ暦では11月19日になる。 西暦2012年の11月19日〜20日の博多における満潮時刻は、11月19日0時42分、14時14分、20日1:42、15時20分 ちなみに干潮時刻は19日7時31分、19時29分、20日8時27分、20時47分。 ということで、元軍は深夜1:42分前後だったであろう満潮の後の引き潮に乗って博多湾脱出を図ったのではあるまいか。 次に条件の良い潮を待つと20日夕方になってしまう。
704 :
名無し三等兵 :2013/01/02(水) 21:32:19.35 ID:Psic3hs6
>>684 狸一号くんはじぶんの行き当たりばったりを指摘されて悔しさのあまり人にも七変化をくっつけようとしているが、
自分の馬鹿さ加減をさらけ出すだけだ。
イ)「福田は偽装退却に引っかかった可能性が高い」と
ロ)「百道原に突撃した福田勢は苦戦し、」
が180度変わったと言うのだが、これは変わったのではなく同じできごとについての異なる表現だ。
福田は鳥飼潟から後退する元軍を追撃して百道原まで行ったが、イ)はこの元軍の後退について、これが偽装退却の
可能性が高いことを言ったものだ。
ロ)は、百道原に突撃した福田が、そこで大勢に囲まれて矢を三本射立てられたあげく「希有に」命永らえた状況を
「苦戦した」と表したものだ。できごと全体の総括と言ってもよい。
これを180度変わったと受け取るのが狸一号くんの(以下略)
A)「日本軍は元軍を鎧袖一触、海に追い落とすつもりだっただろうがそうは行かず、 大損害を出して水城へ撤退、
博多箱崎を明け渡す」 と日本軍が敗走したと述べていたが
文章の前半は日本軍の、戦う前の意気込みを言っただけだ。それとも狸一号くんは日本軍が戦う前から意気消沈
していたと言いたいのか? なお私は敗走という言葉を使っていない。念のため。
文章の後半は日本軍の大損害(倭兵大敗伏屍如麻)と水城への撤退、その帰結としての博多明け渡しを言っている。
これらは以前も今も変わらず、事実であると私が信じていることだ。
B)「元軍が苦戦を戦い抜いた結果として、日本軍が水城に撤退して目の前から消えると言う僥倖を得た。」
これは同じ状況を元軍側から見た文章だ。元軍が自軍の戦況を苦戦と感じたことは軍議の記録から明らかだ。
日本軍が苦戦したことは必ずしも元軍の楽戦を意味しない。ものごとはそれほど単純ではない。
そして苦戦を感じたならば日本軍の撤退は「これ幸い」に感じられたはずだ。これを「僥倖」と言ったのだ。
つまりA)とB)とは同じ状況を異なる側から見たものだ。これを180度変わったと受け取るのが狸一号くんの(以下略)
705 :
605 :2013/01/03(木) 12:00:54.25 ID:???
>>704 >ロ)は、百道原に突撃した福田が、そこで大勢に囲まれて矢を三本射立てられたあげく「希有に」命永らえた状況を 「苦戦した」と表したものだ。できごと全体の総括と言ってもよい。
つまり、鳥飼潟の戦いで福田らが偽装退却に引っかかっている頃、日田永基はなぜか遠く離れた姪浜で後方と前方に敵軍を抱えながら孤軍奮闘しており、姪浜で戦いに勝ったもののなぜか
後方の元軍のひしめく百道原に後退し、日田は後方の祖原山の元軍にバレないように大迂回して、元軍に見つからずに福田らと合流、『日田記』の記述を無視してパフォくんのいう「百道原
に突撃した福田勢は苦戦し、日田はあえなく百道原で戦死してしまった。」という百道原で敗戦したということでいいかな?
何ともめちゃくちゃな戦況だな。書いてて思わず、笑ってしまったよ。
>文章の前半は日本軍の、戦う前の意気込みを言っただけだ。それとも狸一号くんは日本軍が戦う前から意気消沈
していたと言いたいのか? なお私は敗走という言葉を使っていない。念のため。
言葉遊びが好きだね。敗走という言葉を使おうが使ってなかろうが「日本軍は元軍を鎧袖一触、海に追い落とすつもり
だっただろうがそうは行かず、 大損害を出して水城へ撤退、博多箱崎を明け渡す」という文章や「日本軍は元軍の面前で、
先に戦場を棄てた。すなわち元軍に背を見せた。 これが『形の上での敗北』であり、戦術的敗北だ」 と言っている。
敗走という言葉を使わなくても敗走と言ってるのと同意味だよ。何、言葉遊びに逃げ回ってるのかね。
706 :
605 :2013/01/03(木) 12:02:33.27 ID:???
>文章の後半は日本軍の大損害(倭兵大敗伏屍如麻)と水城への撤退、その帰結としての博多明け渡しを言っている。 これらは以前も今も変わらず、 事実であると私が信じていることだ。そして苦戦を感じたならば日本軍の撤退は「これ幸い」に感じられたはずだ。これを「僥倖」と言ったのだ。 恐らく1800人程度の高麗軍の3部隊の一つの中軍が日本軍に大損害を与えて水城へと撤退させたのか。 高麗軍中軍は元朝の精鋭部隊か何かか?前にも言ったが、進軍中の高麗軍中軍を奇襲した圧倒的に少ない武士に 損害を与えたところで戦況と何の関係も無い。局地戦である「倭兵大敗」の後に起こった本戦こそが「諸軍與戰」であり、 「諸軍與戰」で日本軍が苦戦したという証拠は何一つ無い。むしろ、「諸軍與戰」で元軍が継戦不能に陥る大損害を受けたことは 軍議から確認できる。 つまり、パフォくんの戦況は緒戦の極地的戦闘と本戦をごっちゃにした妄想なのである。 そもそも、パフォくんのいう高麗軍の中軍のみに水城へ撤退しなければならないほど大損害をだした日本軍が、蒙漢軍と高麗軍中軍・ 左翼軍・右翼軍の軍勢を相手にしたさらに大規模な「諸軍與戰」の戦いで元軍に大損害を与えるなどできるわけがないだろう。 パフォくんの言う戦況は、都合の良い記述のみを摘み食いするのと、曲解でしか成り立たないので実に滑稽な戦況になってしまうね。
>>706 高麗軍は早い段階で迎撃に来た手数の日本軍を大いに破ったが、日本軍主力の到着により
元軍全体が撃退されたという要旨でOK?
総合するとこんな時系列になるのかな?
A 日の出前後(7時頃)、元軍上陸開始。後の戦況を鑑みるに、先陣を高麗軍が務めた?
B Aの報を受け、8〜9時頃日本軍水城を出発
C 元軍、午前中のうちにBとは別の(領地から戦場に直行?)した日本軍小集団と交戦。高麗軍の活躍によりこれを破る。
D 昼前後に日本軍主力が戦場に到着。元軍は高麗軍・蒙漢軍連合して戦うも日本側に圧倒され、後退を重ねる。
E 日没により戦闘継続不能に。(個人的には、この状況で日本側が水城に戻るというのは不自然に感じるが保留)
F 元軍。作戦継続不可能と判断。20日未明の引き潮に乗って博多を脱出
708 :
605 :2013/01/03(木) 14:11:53.83 ID:???
>>707 >高麗軍は早い段階で迎撃に来た手数の日本軍を大いに破ったが、日本軍主力の到着により
元軍全体が撃退されたという要旨でOK?
その通り。少弐氏が指揮する日本軍の主力が博多を固めるように命令を武士らに命じていた頃、
元軍の存在する西方では日本軍主力とは別に各家単位で元軍と戦闘があった。
そのことは、博多の少弐氏率いる日本軍主力とは別に、菊池武房が家単位で個別に赤坂で戦闘を
行っていたことからもわかる。
『高麗史』の上陸した元軍が進軍中に襲撃にあったというのも、緒戦で菊池武房ら家単位の武士団が
個別に戦闘を繰り広げていたことから、この家単位の武士団が相手であったことは明らかだ。
「倭兵大敗」では、高麗軍中軍を襲撃してきた武士団は高麗軍中軍の金方慶の声が届く範囲の近接戦を展開し、
金方慶が大喝したのを機に退いたことから、金方慶の大将首を狙った奇襲であったことと金方慶の大喝が届く
ほどの小集団であったことも推測可能だ。
進軍して赤坂まで進出した先鋒隊は、赤坂まで至ると菊池武房に敗走。
意外と日本軍が手強いことが判明すると、元軍が陣を布く祖原山へ集結して戦線の建て直しを計った。
これも敗走した元軍が祖原山へと向かった『蒙古襲来絵詞』にあるとおりだ。
この上陸地点に元軍が集結したという『蒙古襲来絵詞』のいう状況と『高麗史』にある「諸軍與戰」の
状況もぴったり合う。
元軍の主力の蒙漢軍が百道原から上陸したことは『朝師御書見聞 安国論私抄』に書かれている通りであり、
百道原の目と鼻の先にある祖原山の陣には元軍の主力である蒙漢軍がいたことは疑いようが無い。
そして、赤坂の戦いの後には少弐氏が博多の日本軍主力の武士らに、祖原山の元軍へと進撃するように命じたことは
『福田文書』にも確認できる。ここで、初めて日本軍の主力が動いたのだ。
709 :
605 :2013/01/03(木) 14:13:35.95 ID:???
祖原山で「諸軍が協力する体制を整えた元軍」と、そして祖原山へと進軍した「大損害を与えるほど強力な日本軍」が 衝突したのが鳥飼潟など早良郡の戦いだった。 以後、『蒙古襲来絵詞』や『福田文書』、『日田記』から元軍は鳥飼潟で破れ、百道原で破れ、姪浜で破れた。 早良郡の戦いが「諸軍與戰、及暮乃解」であったことは、「諸軍與戰」の後の軍議から元軍が大損害を被ったのと、 戦術的勝利を得られなかったという内容とも整合性が合う。 まとめると… 1.百道原から上陸した元軍は、諸軍が道を分かって進軍し、襲撃する家単位の日本軍を片っ端から蹴散らしながら進軍。 中でも高麗軍の一部の中軍は襲ってきた日本兵を「伏屍如麻」というほど皆殺しにするという戦果を挙げた。 2.ところが、赤坂まで進出した元軍先鋒隊は菊池武房によって破られ、元軍は戦線の建て直しを計り、上陸地点に近い 祖原山に陣を布く元軍と合流。続いて、少弐氏日本軍主力は元軍諸軍が陣を布く祖原山へと進軍を開始。ここに『高麗史』の 「諸軍與戰」の戦いが現出する。 3.「諸軍與戰」の戦いでは、鳥飼潟の戦い、百道原の戦い、姪浜の戦いと元軍は後退を重ねる。元軍の苦戦の状況は『高麗史』 の「諸軍與戰」の戦いの後の軍議にある通り。 4.元軍は日が暮れるまで日本軍の猛攻を耐え抜き、劣勢ながらも何とか引き分けに持ち込むことに成功する。 5.夜間に作戦継続不可能と判断した元軍は、翌朝の日本軍の襲撃のあるうちに撤退しようと風待ち・天候待ちすることなく 強行撤退を敢行し、その夜暴風雨に遇ってしまう。
>>709 >>707 です。概ね納得出来るのですが、お説の展開だと気になるのが
20日夕刻以降の日本軍の動き、特に「水城に引き上げたのか。引き上げたらなら何故か?」です。
もし日本側押し気味で夕暮れになり、睨み合いみたいな形で自然に戦闘が止まったとしたら、普通引き上げるでしょうか?
引き上げて翌日また数時間歩いて戻ってくるのでは、せっかく押し戻した距離を元軍に明け渡すことになってしまいます。
足場と主導権を敵に渡すのは、一般的には下策でしょう。
日本軍に翌日同じ場所でもう一度野戦する意図があるなら、近郊の適当な地に夜営して明け方と共に攻めかかるのが常道でしょう。
物見を出して元軍を監視し、積極的な指揮官なら夜襲するかも知れません。土地勘があるのは日本側ですから。
もし水城に帰ってしまって、しかも元軍の撤退に気付かない(監視していない)としたら、思いつく可能性は2つです。
可能性1
日本軍は翌日は戦場を変えるつもりだった。そのため、翌日元軍にはもう少し内陸まで侵入してもらうつもりだった。
(これは日本軍不利の場合の選択じゃないかとは思いますが)
可能性2
夕刻の時点ですでに元軍を撃破しており、翌日の戦いはないと判断した。
「そもそも水城に帰ったのか?」も含め日本側の夜の過ごし方について、ご見解をいただけますでしょうか?
日本軍の任務としては 当面の最優先 大宰府防衛 最終的な目標 元軍撃破 の順になると思うんだ。 特に大宰府への兵力集中過程においては大宰府防衛が優先すると思う。 合戦1日目では大宰府へ到着していない軍勢もあるだろうし、勝ちを急ぐ必要も無い。 野戦で決着がついてない以上、有力な敵は近くに居る訳で安心は出来ない。 安全な水城へ戻って翌日に備える事は不思議ではないと思う。
>>711 元軍が優勢ならばそうなるのでしょうが、現有兵力で戦って勝てる見込みがあるなら
翌日に決戦してしまうパターンではないかと。元軍を海岸に押し込んだ時点で当面の目標である
太宰府防衛は成っていますし、その方が恩賞いっぱいもらえますし。
ということで、自分は「元軍は20日の日没以前に海上に追い落とされた」のではないかと疑っています。
「夜間、気付かれずに博多湾を脱出した」のではなく、「日没前に出航し、当然日本水軍に追われたが追撃を断ちきった」というものです。
陸上兵力は後を水軍に任せて任務終了したので、博多の街でも水城でも都合の良い所に戻れます。
「日本軍が百道原近辺で夜営していた」可能性も考えましたが、その場合は元軍を偵察しないとは思えません。
夜間撤退準備中は日本側から見れば夜討ちの好機ですから、気付いて見逃すとも思えません。
弘安の役では停泊中の船に夜襲かけているようですし。
ということで元軍は日没前に撤退したのではないかと考える次第です。
ただそうすると「諸軍與戰、及暮乃解」の問題が出てしまい、壱岐軍議説に頼るしかないのが難点ですが。
713 :
605 :2013/01/03(木) 21:31:58.73 ID:???
>>712 >20日夕刻以降の日本軍の動き、特に「水城に引き上げたのか。引き上げたらなら何故か?」です。
そこは俺もはっきりとはわからない。戦闘後に水城に引き上げたというのは『八幡愚童訓』の日本軍が
水城へ敗走したという内容がベースになっているのだろうけど現時点ではその説はとらない。
そのことは
>>662 に書いてある通り。ただし戦闘後の日本軍の動きの信頼できる資料が無いので、断言する
ことはしない。
博多に日本軍がいたとする根拠としては、博多の西の赤坂には博多防衛のための博多警固所が存在したことと
元軍が博多に入らなかったことを挙げておく。博多警固所は、刀伊の入寇の際にここを拠点に藤原隆家が刀伊を
迎撃して撃退した事例も存在する。
少弐氏率いる日本軍がわざわざ博多まで進出してそこの沖の浜を拠点としたのは、元軍が博多の沖の浜から直接
上陸してくる可能性があったことと西進する元軍を迎撃する作戦を立てていたことから、博多の町の防衛のための
行動だと思われる。
714 :
605 :2013/01/03(木) 21:33:29.96 ID:???
そのような軍勢が日が暮れたからといって、水城まで引き上げるだろうか?
また、元軍が博多の町を占領しなかったのは危険だから占領しなくても不思議では
なかったという意見もあるみたいだけど、博多を防衛しようという意思が日本軍に
あったにもかかわらず、占領される可能性があるのなら、日が暮れたので、博多を
空にするだろうか?
また、元軍が撤退する際に攻撃しなかったのは不自然だという意見もあるが、
弘安の役の際も志賀島から撤退する元軍に追撃を加えたような資料も存在しないし、
文永の役でも上陸する元軍を妨害しようとした形跡も無いので、特に不思議な事だとも
思えない。
元軍の行動が撤退するためのものなのか、日本側からでは判断しかねる。
また、日本軍が追撃したとする資料は『歴代皇紀』などにあり、当初はあまり気に留めて
いなかったが、
>>325 さんが発見した『安国論私抄』にも、壱岐などに漂着した元軍と
日本軍との間で合戦があったような記述もあるので、追撃はあったと見ることも可能だと
思える。
後、関係ないが気になるのが日本軍の大将だった少弐景資の兄経資、父資能の存在だ。
彼らが戦闘に加わっていなかったことは諸資料から確認できるが、彼らはどこにいたのだろう。
太宰府だろうか。
>>714 >>712 です。ありがとうございます。
自分は歴史はド素人ですが、上で述べたような戦術上の問題、また航海術の問題(そんな夜間出港したのか?)から疑問を抱いた次第です。
既に述べたように文献上はかなり穴だらけですが。
これまで議論された夜間超隠密出港を成功させた場合以外は、追撃はあったと考えた方が自然ではあると考えます。効果がどの程度かは
判断する材料を持ちませんが。壱岐で追撃の日本軍と戦闘したというのが事実なら、「諸軍與戰、及暮乃解」はその戦いの可能性がありますね。
壱岐軍議説の弱点が減るかな?
少弐経資、資能の件ですが、太宰府もありそうですが博多警固所にいて、博多に元軍が来なかったので戦闘機会が無かったのかもしれませんね。
716 :
605 :2013/01/03(木) 23:30:47.73 ID:???
いや、博多警固所は赤坂にあったから、少弐経資、資能がいたということは
まず無いと思うんだ。
景資が日本軍の総大将だったことは『蒙古襲来絵詞』でも確認できるので、
戦闘が行われる第一線からは離れた場所にいたんじゃないかな。
それと、「諸軍與戰、及暮乃解」が壱岐だとするには、日本側の文献では
ちょっと弱い感がある。俺が壱岐軍議説に合点のいかない点は
>>663 に列挙
した通り。
717 :
名無し三等兵 :2013/01/04(金) 21:18:40.34 ID:EFp1ZDLn
>>705 >>706 私は
>>704 で、私の主張が狸一号くんの言うように180度変わったりしていないことを示したのであって、
個々の戦況や戦闘経過の議論をしているのではない。
それについては今までの議論のくり返しだし、たぬき一号君のストローマンにつきあうのは馬鹿らしい。
イ)とロ)、A)とB)について私の主張が変わっていないことが分かればそれでいいのだよ。
君がそのことについて何も言っていないのは、変わっていないことを理解したと解釈しよう。
718 :
名無し三等兵 :2013/01/04(金) 21:59:51.13 ID:EFp1ZDLn
>>710 実にいいことを言っているね。
>もし日本側押し気味で夕暮れになり、睨み合いみたいな形で自然に戦闘が止まったとしたら、普通引き上げるでしょうか?
その通りだ。その状況で引き上げることはあり得ない。
日本側押され気味の状況の中で戦力も戦意も尽きたから水城へ引き上げたのだ。
>日本軍は翌日は戦場を変えるつもりだった。そのため、翌日元軍にはもう少し内陸まで侵入してもらうつもりだった。
これもその通り。八幡ノ蒙古記に、「しよせん武力及ばず、水木城に引こもり、支えて見ん」と言っている通りだ。
文永の役は事実上、野戦だった。野戦を要塞戦に切り替えたと言ってもよい。
日本軍が水城へ撤退したとすることが唯一、全体の経過を合理的に説明できる解釈だ。
元軍が「及暮乃解」の後に悠々と軍議を開いていることもその証拠。もし海岸に追い詰められていたとしたら「諸軍」の
指揮官を集めて軍議を開く場所も時間も無かろう。
また元軍が迅速かつほぼ完璧に撤退作戦を実施し得たことも、その間日本軍の圧力が全くなかったことを示す。
日本軍の圧力に曝されながらの撤退なら、損害も出るし、かえって時間もかかる。また数千頭の馬を載せる余裕がなくて
その辺馬だらけだったとか、何かの物語が残るだろう。
もちろん、細部に問題はあるとは言え、部分的戦況でなく全体経過を述べる唯一の同時代資料である八幡ノ蒙古記に
そう書いてあることが最大の根拠だ。
いかに宗教書であるとか、絵詞を参考にしているとか言っても、同時代資料において「おおすじ」を変えることはできない。
撤退の屈辱や、取り残された恐怖を味わった人たちがまだ生きているからだ。
719 :
711 :2013/01/04(金) 22:29:12.42 ID:???
>>712 私の個人的印象は1日目はそれなりに互角の激戦だった。
だから、日本側は水城(もしくは水城近辺の宿営地へ帰り、元軍は宿営地(上陸地点近辺)へ帰った。
理由は、日本側に元軍を宿営地まで追撃して大戦果といった記録が無い。
一方で、元軍側も水城へ攻め込んだといった記録も無い。
つまり、1日目では野戦で決定的な決着はついてない。
日本軍側は今後増援があるわけで、増強された兵力で撃破しようとする。今日は互角でも時間は味方だ。
元軍側は一張羅の兵力で現時点で激戦なら、増援が来ると見込まれる日本軍に不利な戦いになる。
元軍にとって時間は敵であるため、小敵の堅となる前に引いたほうがましだ。
720 :
702 :2013/01/04(金) 22:51:24.72 ID:???
厚顔にもパフォは質問をシカトして逃走する選択をしたようだな。 よって >「日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ 」 >「日本軍は元軍の面前で、先に戦場を棄てた。すなわち元軍に背を見せた。 これが『形の上での敗北』であり、 >戦術的敗北だ」 これは完全崩壊。 その他、 「博多=大宰府説」も何の証拠も提示出来ず。 >「もともと元軍は補給および季節的要因から、いずれは撤退しなければならぬ宿命だった。」 補給の現地調達=略奪を基本方針としていたモンゴルにそんな理屈は当てはまらないという批判に対して何の 反論も無し。 よってここにパフォの「膺懲パフォーマンス説」は全面崩壊したことを宣言する。
>>710 私は元々水城帰陣論者であり基本的なところは変わっていないのですが、色々調べていくうちこの件について
いくつか申し述べたくなったので書かせていただきます。
何故帰陣が水城とされているのか ?
これは元々、元寇に備えるに当たって博多ではなく水城が防衛線として整備されている事。
日本軍の帰陣先が水城であると記した資料が存在する事。
博多にいたのなら夜のうちの元軍撤収に気付かぬ筈が無かろう等の理由によるものです。
何故、博多ではなく水城が防衛線とされたかについては博多は上陸予想地点にあまりに近すぎ、防衛に必要な
縦深が確保できず危険に過ぎると看做された為でしょう。
そもそも太宰府が海岸付近ではなく内陸に設置されているのはこの為であり、水城は大宰府防衛の為、大宰府
前面に設置された、いわば大宰府の支城です。
日本軍の帰陣先を水城とした資料は私の知る限り例の「八幡愚童訓」関連の文書しか無いが、他に日本軍の帰
陣先を記した資料も私の知る限りでは無い。
まず数千〜数万の軍勢を防衛拠点として予定されていなかった都市に駐屯させられるかです。
それだけの軍勢を駐屯させるにはあらかじめ相当規模のスペースと物資を用意しておく必要がある。
最近、面白いHPを見つけました。
これを見ると中世以前の博多の様子というのがよく解る。
当事の「博多」というのは今で言うと那珂川と御笠川(石堂川)に挟まれた博多駅の北側、祇園町から呉服町、
博多小学校あたりの区域に過ぎなかったのがわかります。
これを踏まえて地図を見ていくと色々な事が見えてくる。
ttp://gfujino1.exblog.jp/9881020
「蒙古襲来絵詞」を初めとする武士側の記録による元軍との戦闘地点は全て博多の西側に集中している。 ちなみに筥崎宮は博多の東側約2km程の位置。 元軍の上陸地点を姪浜から今津あたりの海岸とすると、武士の記録に従えば元軍はそこから海岸線を博多方面に 向けて進撃、博多まであと3km程度の赤坂付近で日本軍と激突した事になる。 最終攻略地点はあくまで大宰府だったろうが当事、大宰府までの道は博多からしか通じてなかったろうから、一旦 博多へ出て今と同様、御笠川に沿って南下するルートを取るしかない。 もし博多に日本側の兵が置かれていたなら元軍が博多を素通りすると南北から挟撃される事になるから、やはり 博多は攻略対象になるだろう。 武士側の記録を時系列的に追うと、戦場は赤坂→麁原・鳥飼潟→百道原→姪浜となっており、東進してきた元軍が 日本軍の攻撃に後退を重ね、上陸地点付近に押しやられている事になる。 これをそのまま信じる事は出来ないにせよ、地理的・時系列的にも矛盾は無い。 その点、「八幡愚童訓」の記述は滅茶苦茶、地理的にも「佐原」「宇佐」「松原」とはどこなのかも解らない。
仮に最終的な戦いの場所が姪浜付近とすると「暮乃解」による双方の帰陣先は元軍が西方、日本軍は東方に向かっ たであろう。 特に元軍から見た日本軍の帰陣先は博多方面になる。 水城に向かうにしろ博多を経由せざるをえないのだから、一旦は博多に向かわざるを得ない。 この場合、昼の戦いで撃退されここまで押しやられた元軍が、夜中に日本軍の拠点「かもしれない」博多を襲う事 など考えるだろうか ? 更に博多からの距離は姪浜で約7km、生の松原からだと約10km(いずれも直線距離)もある。 これでは仮に博多に日本軍がいたとして元軍の夜間撤退に気付かなくとも不思議ではないし、仮に気付いたとして も対処法は事実上無いだろう。 さて日本軍の博多駐屯は可能であったか ? 今より遥かに小規模とはいえ当事としては相当規模の都市である。 兵糧もとりあえずは翌日の会戦分があればよく、必要とあれば逆に水城から運び入れても構わない。 駐屯スペースも、当事既に聖福寺、承天寺、櫛田神社などは有った筈だから、この寺社の敷地を利用すれば数万は 無理でも数百から数千の当座の休息場所を確保するのは可能であろう。 私は従来、当日は方周辺に残留していたのは一部の連絡・監視要員程度だと考えていたが、あるいは相当規模の日 本軍が博多に残留していたのかもしれない。
724 :
名無し三等兵 :2013/01/05(土) 10:21:27.98 ID:8R4+g/OO
>>719 ほぼ全面的に賛成だ。
>理由は、日本側に元軍を宿営地まで追撃して大戦果といった記録が無い。
さらに言えばもし元軍が昼のうちに撤退したとすれば、水際追い落としというダンケルク/ディエップ的な痛快な
戦闘の記録が残るはずだ。
>元軍側は一張羅の兵力で現時点で激戦なら、増援が来ると見込まれる日本軍に(対して)不利な戦いになる。
これも有力な撤退理由だね。
一張羅の兵力と言うことを更に言えば、これから来る長い冬の間、荒れる海を越えて補給や増援の見込みはない
ということだ。
暮乃解で水城まで帰ったら何時になる? 博多に帰ったんじゃ?
726 :
723 :2013/01/05(土) 10:39:34.69 ID:???
訂正 × 当日は方周辺に残留していたのは ○ 当日博多周辺に残留していたのは
727 :
名無し三等兵 :2013/01/05(土) 13:16:02.88 ID:8R4+g/OO
>>720 全て今までに答えたことだから繰り返さないが、大宰府=博多は重要だから要点だけ答えてやろう。
これは高麗/元側の認識を言ったもので、今までに四つの根拠を上げているが、そのなかで決定的なのは
高麗史世家の次の文章だ。
「忠烈王七年七月十六日条 (前略)元帥金方慶、中将郎朴オンをして奏せしむ『諸軍、大宰府に
至りて累戦し、交スイして退く。蛮船五十艘随い至り、復びその城に向かう』と」
明らかに志賀島の戦いを述べながら「大宰府に至りて」と言っている。
728 :
名無し三等兵 :2013/01/05(土) 13:25:51.96 ID:8R4+g/OO
>>725 >暮乃解で水城まで帰ったら何時になる?
冬だから午後5時ごろには薄暗くなっただろう。
13Kmを4時間かかったとしても午後9時だ。深夜前には寝れる。
>博多に帰ったんじゃ?
いったん放棄した博多に、もし元軍が上陸していなかったとしても、
博多に帰るということは徹夜で海上の敵と相対することになる。
冬の晩に玄界灘に出帆したというのが全てを物語ってるっつの。 馬鹿だねほんとに。ちゃんと船動かしたことあるか?
730 :
720 :2013/01/05(土) 15:37:36.49 ID:???
>>727 だから何だってんだよ。
もしかしてそれが「博多=大宰府説」の証拠だとでも言いたいわけか ?
それとも今度は「志賀島=大宰府説」でも唱えるつもりかね ?
そりゃ大宰府攻略して九州制圧を目指して十数万の大軍で攻め込んだのに、大宰府攻略はおろか上陸すら
させてもらえずそのまま洋上で壊滅なんて目も当てられない大惨敗をそのまま書けないよなあ。
せめて大宰府で戦った事にしなけりゃ格好が付かない。
相手側の歴史書が明白に事実に反する事=虚偽を書いてるのにそれを認めないどころか現実の方を捻じ曲
げて虚偽に合わせようとする。
まあ、これがお前の一貫したやり方だけどな。
731 :
名無し三等兵 :2013/01/05(土) 20:19:16.21 ID:l0mGlEjP
>>730 「表」のほうではこの「太宰府」を音で「ハカタ」と書き直してあるのだから、この「太宰府」が博多を
意味したことは明らかだ。
嘘と思うなら高麗史に当たれ。
732 :
名無し三等兵 :2013/01/05(土) 21:03:19.34 ID:l0mGlEjP
>>722 >>723 横から失礼して気になる所を書く。
>武士の記録に従えば元軍はそこから海岸線を博多方面に向けて進撃、
念のためだが「海岸線を」が「浜伝い」の意味ならば浜は姪浜と百道原の間で入り江によって
切れている。入り江の奥を廻らないと東へ行けない。
>当事、大宰府までの道は博多からしか通じてなかったろうから、一旦博多へ出て今と同様、御笠川に沿って
>南下するルートを取るしかない。
前にも書いたが古代は赤坂と博多から二本の平行する道路が水城の東西の門へ伸びていた。今でもこの基本形
は同じだから、中世にも赤坂→水城の道路はあったと思われる。
また道路がなくても赤坂から水城までは二つの小さな川を除いて障害物の無い平野だ。道路が無ければ平野を
進めない軍隊というのはどうか。要するに博多をバイパスして水城へは行けた。
>武士側の記録を時系列的に追うと、戦場は赤坂→麁原・鳥飼潟→百道原→姪浜となっており
自分で考えた時系列というのならわかるが、史料のなかで時点や相互の時系列が分るものは皆無。
また最後の姪浜は日田文書で「姪浜百道原二箇所」と出てくる「姪浜」の二字が唯一の史料で、裏付けが全く
ない。また日田が百道原で戦死したという事実が付きまとう。日田の戦いは姪浜のほうが先だった可能性が
残る。それだと上記「時系列」は崩れる。
733 :
名無し三等兵 :2013/01/05(土) 21:07:28.28 ID:l0mGlEjP
続き: >「八幡愚童訓」の記述は滅茶苦茶、地理的にも「佐原」「宇佐」「松原」とはどこなのかも解らない。 「佐原」は現在も地名がある(早良郡の内陸部)。「松原」は文章から赤坂の松原であろう。 「宇佐」はわからない。ひょっとすると箱崎よりも東か? >水城に向かうにしろ博多を経由せざるをえないのだから、一旦は博多に向かわざるを得ない。 上記のように赤坂付近から水城へ向かえた。またいったん放棄した博多へ戻れたかも検討が必要。 >当事既に聖福寺、承天寺、櫛田神社などは有った筈だから、この寺社の敷地を利用すれば数万は >無理でも数百から数千の当座の休息場所を確保するのは可能であろう。 これは賛成。寺社ばかりでなく官衙の敷地もあるし、中国人商館なども召し上げ可能だろう。 このことはまた、前夜に水城に泊まることが必ずしも必要でなかったことを意味する。これは戦闘開始 の時間に関係する。
>>731 何を言っているのか全く不明だねえ。
>「表」のほうではこの「太宰府」を音で「ハカタ」と書き直してあるのだから、この「太宰府」が博多を
>意味したことは明らかだ。
大嘘を多少は正しく訂正しただけの事だろ。
志賀島は博多ですらないんだから嘘である事に違いは無いがな。
735 :
605 :2013/01/05(土) 22:47:48.85 ID:???
>>717 イ)とロ)、A)とB)について私の主張が変わっていないことが分かればそれでいいのだよ。
君がそのことについて何も言っていないのは、変わっていないことを理解したと解釈しよう。
変わってないことを完全に理解できた。つまり、パフォくんは
>>705 の支離滅裂な戦況経過の認識を持っているということでいいね?意地になって支離滅裂な従来の言
を一切変えない結果、
>>705 のような無理だらけの戦況認識がパフォくんの中で形成されてしまうのだ。
頑固もここまで来ると呆れるね。無理だらけで戦況経過が既に破綻しているのに、意固地になって主張を改めない結果、偽装退却にしたり日
田が孤軍奮闘したことにしたり、緒戦の戦いを戦況全般に摩り替える必要が出てしまうのだ。苦しいのだから、意地にならず主
張を変えたらよろしい。
>日本側押され気味の状況の中で戦力も戦意も尽きたから水城へ引き上げたのだ。
違うね。全く逆だ。元軍が圧されぎみだったのは、『高麗史』や武家側の文書で一致している。正しくは「元側は押され気味の状
況の中で戦力も戦意も尽きたから海上へ引き上げたのだ。」とこうなる。
>元軍が「及暮乃解」の後に悠々と軍議を開いていることもその証拠。
ほう、日が暮れて戦闘が終った後に軍議を開くことのどこが「水城へ撤退した証拠」なのかね?日が暮れて苦戦を強いられて撤
退する軍において、軍議も無く撤退する軍など存在しない。それは潰走だ。むしろ、軍議の内容は劣勢の軍勢そのものを表わ
す切羽詰まった元軍の実態を窺うのに十分な証拠だ。
736 :
605 :2013/01/05(土) 22:48:25.84 ID:???
>もちろん、細部に問題はあるとは言え、部分的戦況でなく全体経過を述べる唯一の同時代資料である八幡ノ蒙古記に
そう書いてあることが最大の根拠だ。
『八幡ノ蒙古記』が『蒙古襲来絵詞』を参考(それも意図的に日本軍苦戦に摩り替えた記述に改変)にしているということは、『蒙
古襲来絵詞』の成立時期(1293〜1299年?、1324年?)より、後の文永の役から数十年を経た資料である可能性が高い宗教書だということだ。『蒙古襲来絵詞』の後に成立したということは、平均寿命が短かった当時として、当時のことを覚えている人物はほとんど限られているだ
ろうし短絡的に「同時代資料において「おおすじ」を変えることはできない」と決め付けることはできない。また、『八幡ノ蒙古記』が武家側の文書や元軍が苦戦したという『高麗史』の記述と矛盾する以上、短絡的に『八幡ノ蒙古記』を
水城へ撤退したという記述を根拠にすることはできない。
現に『八幡ノ蒙古記』は水城へ撤退した日本軍の後に、神が降臨して元軍を撃退するというストーリーになっており、さらに「もし
、此時、日本の軍兵、一騎なりとも、ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれすして、わか高名にて、おひ返せしとも、申なさ
ましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、つふ(カ)れ、あるひは、逃かへり
しは、偏に神軍の威徳厳重にして、不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ」とあり、神が元軍を打ち破るのに日本軍が博多にいては
邪魔であったとわざわざ述べている。このような資料だからこそ、誰もが水城へ撤退したのか、博多に駐屯していたのか、色々
な意見が出ているのだ。
>念のためだが「海岸線を」が「浜伝い」の意味ならば浜は姪浜と百道原の間で入り江によって
切れている。入り江の奥を廻らないと東へ行けない。
そんなことはこのスレでは誰もが知ってることだ。しかし、実際に元軍は鳥飼潟などの「浜伝い」に進軍した
のであるから、
>>723 さんのレスの意味としては何ら問題ない。
737 :
605 :2013/01/05(土) 22:53:20.96 ID:???
>前にも書いたが古代は赤坂と博多から二本の平行する道路が水城の東西の門へ伸びていた。今でもこの基本形 は同じだから、中世にも赤坂→水城の道路はあったと思われる。 俺も前にも書いたが、中世に古代の道路が生きているとは限らない。 現に日本側が赤坂→太宰府の防備を固めた形跡すらない。少弐景資は赤坂を放棄してまで、博多の沖の浜に軍勢を 集結させているのだ。赤坂→太宰府間の官道が生きていれば、ここへの対処が一切ないのは不自然極まる。新しく 仕入れた知識をすぐに戦況に無理矢理埋め込む事は止めたほうがいい。戦況経過がめちゃくちゃになってしまうのは それが原因だ。 >自分で考えた時系列というのならわかるが、史料のなかで時点や相互の時系列が分るものは皆無。 パフォくんは『蒙古襲来絵詞』や『福田文書』、『日田記』を読んだことが無いらしい。『蒙古襲来絵詞』では 赤坂→鳥飼潟へと戦況が移っているし、『福田文書』では博多から早良郡へと進撃した日本軍は、鳥飼潟→百道原 としている。『日田記』では早良郡へと進撃した日本軍が百道原と姪浜で戦闘があったこと確認できる。 つまり、百道原で戦闘があったことは『日田記』と『福田文書』で確認できる事であり、これらの資料を付き合わせる と必然的に赤坂→鳥飼潟→百道原→姪浜となる。決定的なのが、『福田文書』と『日田記』に早良郡に向けて軍したという 記述があることから、福田と日田が戦った百道原は同じ戦場だということだ。 >これは賛成。寺社ばかりでなく官衙の敷地もあるし、中国人商館なども召し上げ可能だろう。 このことはまた、前夜に水城に泊まることが必ずしも必要でなかったことを意味する。 全く賛成だ。水城に泊まる必要がなく、水城へ日本軍が引き上げたという確かな資料が存在しない以上、 水城へ日本軍が引き上げたとは必ずしも言えないのだ。
738 :
605 :2013/01/05(土) 22:54:54.74 ID:???
ん?改行がめちゃくちゃになってしまったな。 なれないPCを使うといつもこうなる…
739 :
605 :2013/01/05(土) 22:58:49.34 ID:???
訂正 決定的なのが、『福田文書』と『日田記』に早良郡に向けて軍したという ↓ 決定的なのが、『福田文書』と『日田記』に早良郡に向けて進軍したという
740 :
605 :2013/01/06(日) 01:22:30.76 ID:???
以上のように日田らが勝利した百道原の戦いは鳥飼潟の戦いの直後にあったことは疑いようが無いわけで
あるが、次に次に日田が百道原で激戦中に戦死したというのが、誤りであることも見てみよう。
>また日田が百道原で戦死したという事実が付きまとう。日田の戦いは姪浜のほうが先だった可能性が
残る。それだと上記「時系列」は崩れる。
パフォ君の戦況の面白い点は『日田記』の記録を完全に無視しなれば、成立しえないところにある。
付きまとうのは戦死したという資料だけでは無い。当然、『日田記』の百道原と姪浜で日田ら日本勢が
勝利したという記述も当然つきまとう。また、資料を都合のいいように解釈しているが、正しくは、
百道原の「祠の所で忠死」したとあるだけなのだ。祠の所で戦闘があって死んだとは書いていない。
つまり、鳥飼潟で負傷した竹崎季長や百道原で負傷した福田兼重のように、日田は姪浜の戦いで重傷を
受け、後方へと引き返し、「百道原の祠」のところで忠死しても可笑しくは無い。
むしろ、パフォくんの主張のように激戦で日本軍が多く戦死している百道原の戦いの中で日田永基だけが
「祠の所で忠死」という伝承が残ったとは考えようがない。それならば、日田は多くの戦死の一人にすぎないからだ。
『日田記』や系図などの記述を尊重しながら、窺い知れる日田の戦死の過程とは百道原姪浜で元軍に勝利したものの、
重傷を受け「百道原の祠の所」で忠死したというのが全く自然な見方だろう。
そもそも、姪浜を先にした場合の戦況は、
>>705 に見られるように支離滅裂な戦況経過になって
しまい、多くの資料を否定しなければならないことになってしまう。
741 :
605 :2013/01/06(日) 01:24:00.99 ID:???
訂正 『日田記』や系図などの記述を尊重しながら、窺い知れる日田の戦死の過程とは百道原姪浜で元軍に勝利したものの、 重傷を受け「百道原の祠の所」へと退き返してそこで忠死した、つまり息を引き取ったというのが全く自然な見方だろう。
>>732 >念のためだが「海岸線を」が「浜伝い」の意味ならば浜は姪浜と百道原の間で入り江によって
>切れている。入り江の奥を廻らないと東へ行けない。
そこまで厳密に使っているわけではない。
別に「浜伝い」に拘る必要は無いよ。
>古代は赤坂と博多から二本の平行する道路が水城の東西の門へ伸びていた。今でもこの基本形
>は同じだから、中世にも赤坂→水城の道路はあったと思われる。
古代は知らんが中世にそんな道路があったという記録があるなら見せてくれ。
まあ、赤坂まで来ていれば博多はもう目前。
そこで日本軍とぶつかってるんだから、もはやバイパスも糞も無いわな。
>また道路がなくても赤坂から水城までは二つの小さな川を除いて障害物の無い平野だ。道路が無ければ平野を
>進めない軍隊というのはどうか。
ああ、平野であれば障害物は無いと思っているのか。
モンゴルの平原ならいざ知らず、日本の平野は藪や森林で覆われる。
さらに沼地や湿地帯もたくさんある。
博多周辺は現在でも水害が多発するのを見れば解る。
現在の地図を見ても特に那珂川西岸地域がかつて湿地帯だっだろう事は類推できるだろう。
必要が有れば軍隊は道無き原野でも進む。
だが道路を進むのに比べ進軍速度は大幅に遅くなり、兵の疲労は大幅に増加する。
必要も無いのに道無き原野を進む馬鹿はいない。
さらにバイパスした場合、南北から挟撃されるおそれがあるという指摘に対する回答が無い。
事実、元軍は上陸地点からバイパスして原野を突き進むルートを取らず、博多に向けて東進している。
続き >自分で考えた時系列というのならわかるが、史料のなかで時点や相互の時系列が分るものは皆無。 「蒙古襲来絵詞」で赤坂から敗走した元軍を追って麁原、鳥飼潟と転戦した旨記されている。 さらに「福田文書」で元軍が鳥飼潟から百道原へ敗走した旨記されている。 さらに「日田記」や「財津氏系譜」において姪浜、百道原の戦いで2度にわたり元軍を破ったと記されている。 これが全て事実であるとは俺も思っていないが、俺は地理的・時系列的に矛盾は無いとしか書いてないからな。 それにこれを「時点や相互の時系列が分るものは皆無」と斬って捨てるなら「八幡愚童訓」や「高麗史」「元史」の の記録はどう評価するんだろうねえ。 武士の記録が資料としては三流のものであることは認めるが、なら「八幡愚童訓」や「高麗史」「元史」は五流、六 流、七流の資料としか評価のしようが無い。 ま、そんな細かい時系列の揚げ足取りなどどうでもいいんだ。 俺の言いたいのは赤坂まで迫っていた筈の元軍が日本軍と交戦以後は進撃どころか後退に後退を重ね、百道原、 姪浜付近まで押し込まれたという事だ。 確かお前さんの持論では元軍上陸地点は姫浜あたりという事だったよなあ。 「赤坂まで東進した元軍はここで日本軍と衝突、以後後退を重ねて『暮乃解』時点では上陸地点近くまで追い込まれ ていた」 さあ、これをお前さんは認めるか否か、回答願いたい。
>>733 >「佐原」は現在も地名がある(早良郡の内陸部)。「松原」は文章から赤坂の松原であろう。
>「宇佐」はわからない。ひょっとすると箱崎よりも東か?
「佐原」は「麁原」の事では無いかと俺は思った。
「赤坂の松原」? わからんぞ。
何処で見ていたのか全く不明だが今津の事まで書いてるんだから「生の松原」かもしれんし、例の白装束の
くだりを考えると筥崎宮との位置関係から見て「千代の松原」と考えれば一番辻褄か合うぞ。
で、何が言いたいんだ ?
「八幡愚童訓」の方が武士の記録より信憑性があるとでも言いたいのかね ?
>上記のように赤坂付近から水城へ向かえた。またいったん放棄した博多へ戻れたかも検討が必要。
赤坂から水城へ云々はもう書いたが、そんなものはここではどうでもいい。
俺が言いたいのは「『暮乃解』により日本軍は元軍から見て『博多方面』に帰陣しただろう」という事なのだから。
あと博多が放棄されたという根拠、及び戻れなかったとする理由共に不明。
全般的に言ってどうでもいい揚げ足取りに終始し、人を本筋と無関係の不毛な論争に引き込もうとする傾向があるな。
お前らいい加減酉つけるかID出してやってくれよ。くだらない私論で 揚げ足取り続けるなら参考文献だけおいて塵に返れ
まったく同感。
747 :
名無し三等兵 :2013/01/06(日) 09:53:10.72 ID:lHgiz3fZ
>>734 >「表」のほうではこの「太宰府」を音で「ハカタ」と書き直してあるのだから、この「太宰府」が博多を
>意味したことは明らかだ。
>大嘘を多少は正しく訂正しただけの事だろ。
>志賀島は博多ですらないんだから嘘である事に違いは無いがな。
報告した金方慶が「大嘘」を意識したかどうかは別として、確かなことはその「大嘘」が忠烈王に
通って歴史に記されたということだ。
これは高麗において「博多=大宰府」という認識が一般的であったことを意味する。
私はこのことを言っているのだ。
なお「音でハカタ」の漢字は「覇家台」だった。
でハカタだったらどうなんの
749 :
名無し三等兵 :2013/01/06(日) 10:03:04.03 ID:lHgiz3fZ
>>748 高麗人、元人が「博多=大宰府」という認識を持っていたらどんなことになるのか、
という意味か?
それは自分で考えて。
私は材料を提供しているだけだ。
>>747 >報告した金方慶が「大嘘」を意識したかどうかは別として、確かなことはその「大嘘」が忠烈王に
>通って歴史に記されたということだ。
>これは高麗において「博多=大宰府」という認識が一般的であったことを意味する。
>私はこのことを言っているのだ。
根拠はゼロだがそういう事もあり得るかもしれないとは認めてやろう。
だが、その理屈では元寇の高麗軍が実際には博多周辺でしか戦っていないのに、大宰府で戦ったかのような「大嘘」
を報告し、それが歴史に記された「結果」として、「以後」高麗では「博多=大宰府」という認識が一般的になったかもし
れないという話に過ぎない。
そんなもの元寇で来寇した高麗軍が「博多=大宰府」と認識していたという根拠になど全くならない。
因果関係が完全に逆転しているぞ。
751 :
名無し三等兵 :2013/01/06(日) 11:13:06.49 ID:Fp4NTecl
いや、東京都に侵攻と皇居や議事堂占拠は別物な訳で。 博多と太宰府を混同してたとしても、その手の施設が分からない状態で任務完了って報告するのはモンゴル皇帝を舐めすぎてないか?
>>748 こいつは「膺懲パフォーマンス説」というのを唱えていてね、文永の役は元に従わぬ日本を膺懲する(懲らしめる)
為のパフォーマンスだったという説だ。
「パフォ」と呼ばれるのはそのため。
それによると元軍が撤退したのは日本に自分達の強さを見せつけ膺懲の目的を達したと判断したからだそうだ。
実際には元軍は僅か1日の戦いで継戦を断念して撤退しているのだが、何とかしてこれを「元軍が勝った事」、
少なくとも「元軍は勝ったと認識していた」事にしなければならなくなる。
せめて日本軍の根拠地たる大宰府で戦いこれを脅かしたのでもなければ格好が付かないが、実際に戦われた
のはいわば「博多攻防戦」で元軍は大宰府には到達すら出来ていない。
「高麗史」にはあたかも大宰府で戦ったかのような記述がある。
それは事実でないのだから普通は敗戦を糊塗するための虚偽を書いたのだと考えるだろうが、こいつは違う。
元や高麗では「博多=大宰府」と認識されていたからだ、と主張する。
こうすれば「博多攻防戦」はたちまち「大宰府攻防戦」に化け、「大宰府を脅かした」事になるからな。
要するに「博多=大宰府」でなければこいつの「膺懲パフォーマンス説」にとって都合が悪い、それだけの事。
自説に合わせて事実の方を捻じ曲げる、これがこいつのデフォルトのやり方。
なんというか、頭でっかちな屁理屈だな
ところで本当に元軍はたった1日だけの戦いだけで撤退していったのか? わざわざここまで海を渡ってきてもう一度態勢を立て直して上陸戦を挑むことさえなく撤収モード? 弘安の役もそうだが元軍が大軍で来てる割には戦いに消極的というか諦めが早いのが気になる
>>754 日本侵略軍が朝鮮半島にたどり着いたのは、九州攻撃から一月以上後の
11月27日だったという記述を真に受ければ、あと数日戦っていてもおかしくはないか。
でも一方で、壱岐か対馬で風待ちしていたとしてもあり得ない日数じゃないし…
>>754 モンゴル人将校にとってはわざわざ首取られるまで戦う義理はないし
758 :
名無し三等兵 :2013/01/06(日) 22:05:27.96 ID:lHgiz3fZ
こういうのもあるな。 貞祐5・興定元(1217)年 9月 8日 興定と改元する。〔『金史』15〕 12月 5日 日本国大宰府民七十二人を乗せた船が即墨(山東省)に漂着。金、食糧を供給して本国に 還す。〔『金史』15〕 「大宰府民」というのは博多商人だろう。漂流船の記録に船の出港地を書くのはありそうなことだ。 公的なものだとすると「民」はおかしい。 探せばまだいろいろありそうだな。
漂着船に乗ってた人間が大宰府の方から来たと話しただけだろ。 そんなもの町としての博多が大宰府と同一視されていた証拠でもなんでもない。
760 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 06:04:51.76 ID:WVvnzfid
元が他の方面でそういうパフォーマンスをやったケースって有るの? 使者を切るような明確な反意の後で。 仮に有ったなら、どこまでやってから引き上げたかも示して欲しいなぁ。 使者の首の代償なら、最低でも太宰府の役人の首でないと釣り合いが取れないと思うのですよ。
761 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 09:10:04.87 ID:WVvnzfid
役人の首なり詫び状なりを取らないヨウチョウとやらなら、とりあえず日本領なら島一つ無人島にして終了でも良かった訳ですよ。 別に日本軍と対峙する必然はない。
762 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 09:14:21.35 ID:WVvnzfid
しかるべき筋の土下座取るまで踏み続けられないのは、強さの誇示にならないよ。 ピンポンダッシュと同じ。
763 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 10:17:16.35 ID:ZFjZi2JV
中国人たちによって、なぜ博多が大宰府と同一視されるようになったか。私の想像を書く。 あくまで想像だ。 かつて中国との貿易が官の独占であったころ、その貿易の行われた場所は赤坂の大宰府鴻臚館で あった。船が着くごとに商人たちはここに長期滞在させられた。 大宰府は鴻臚館の上部組織なのだが、いつしか商人たちの間で大宰府が「鴻臚館のある場所」という 地名として認識されるようになった。 中世になって官貿易が廃れ、民間貿易にとって替わられるとともに鴻臚館そのものも廃止され、 貿易の場所は博多の唐房に移ったが、いったん商人たちの間に定着した認識は変わらず、貿易の 場所=大宰府という概念が残った。 このような経過ではないかと考えている。 残念なことにURLを記録せず、いま見付けられないでいるのだが、博多に住んでいた中国人商人が 中国南部の故郷に帰って死んだ墓に、生前の居所として「日本国大宰府博多」と刻まれていたという のを読んだことがある。 上記とはすこしずれるが、「大宰府広域市博多区」のようなものとして大宰府が理解されていたとい ことかもしれない。
博多制圧して勝った認識で帰ったわけだな
765 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 10:54:24.82 ID:ZFjZi2JV
「大宰府=博多」という高麗・元人の認識を知ることでどんな益があるかと言えば、史料を見る 目が広がる。 例えば例の元史の「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」という中国人商人の 答申について、「日本の太宰府周辺に上陸地から向かうには、軍勢約二、三万ほどが必要でしょう」 というトンデモ訳が付けられて、元軍が大宰府占領を目指した証拠の一つとされるのであるが、この訳が 漢文として全く成り立っていないのは見ての通りである。 いま「大宰府=博多」という高麗・元人の認識を知った上でこの元史の文章を見るならば、その文意は まことに素直に: 「日本の大宰府(=博多)等の上陸地は、いずれも(遠浅で舟艇が)接岸可能ですから、二、三万の軍 を用いることは可能です」 と読めるのである。 言うまでもなくここで「大宰府」と言っているのは博多のことであり、沖の浜を上陸地としているのである。 また大宰府につけられている「等」は沖の浜以外の箱崎浜、百道浜、姪浜等の上陸地を指すのである。 なにも大宰府「周辺」などとごまかす必要がない。 この商人が地図(原文では図本)を差しながら説明してる状が目に見えるようである。 かくして大宰府攻略の証拠とされるこの元史の文章は、かえって「大宰府=博多」を補強する証拠の一つ と化するのである。
本でも書けば良いよ トンデモ本大賞を目指すんだ
われわれがアメリカ政府を指す際に「ワシントン」、中国大陸を統治する政府を指すさいに「北京」と言ったりするのと同様に、 拠点名をもってその地方の呼称とするのは珍しいことではない。
>>764 お前さ、定期的に湧いては頭悪そうなカキコでパフォの擁護してるよな。パフォの提灯持ちか何かか?
便乗馬鹿じゃどうせ答えられないだろうが、博多が制圧されたというソースは?w
770 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 11:44:04.90 ID:OH4H9pwW
>>767 侵攻した目的が適当なところを焼き払っておしまいなら大宰府にこだわる必要がない訳ですw
>>761 の指摘のように、もっと安上がりに実行できるプランがあるわけだし。
っていうか、何か農具積んでませんでした?居座る気満々じゃないですかw
そもそも、元が自国の使節を斬られてまで拒絶された後に、一当て力の差を見せてからもう一度チャンスをやるようなヌルイ事例があるなら出してみれば?
>「日本の太宰府周辺に上陸地から向かうには、軍勢約二、三万ほどが必要でしょう」 実際に来寇した軍勢が3〜4万 つまりこの程度のアバウトな認識だったから数万で大宰府が落とせると勘違いして痛い目にあった と言う解釈のほうがよっぽどしっくり来る。
>>770 あなたがパフォ派なのか、反パフォ派=正常人なのか知らないが、
とりあえず使節の処刑は文永の役のあと、弘安の役の前だよ。
当時の日本の官軍は数が少ないんじゃないの? 数万で勝てると思ったんでしょう 元の情報収集不足だね
大陸式の官軍がいたなら簡単に敵状把握出来ただろ 日本の場合地頭が各々バラバラに治めてて正確な動員数を把握しにくい
775 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 20:26:13.06 ID:zqZ53C+G
>>744 >何処で見ていたのか全く不明だが今津の事まで書いてるんだから「生の松原」かもしれんし
まず原文に当たれ。
「されとも蒙古、次第につよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百道、赤坂まで乱入して、松原の中に陣を
取てそ居たりける」
地名の列挙は西から東への方向性を示している。最後に赤坂を挙げて、続いて「松原の中に」と言っている。
「の中に」と言うのだからこの「松原」は一般名詞であって地名ではない。したがって「赤坂の松原」と取るのが
妥当。ウィキの地の文もそのように取っている(ただし菊池の戦場として)。
776 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 21:09:22.12 ID:zqZ53C+G
>>743 >「赤坂まで東進した元軍はここで日本軍と衝突、以後後退を重ねて『暮乃解』時点では上陸地点近くまで追い込まれ
ていた」
>認めるか否か、回答願いたい。
せっかくだから答えてやろう。全く認めない。
お前さんの説に限らず学者たちの「元軍そのまま撤退説」において日本軍の攻撃に方向性を与えているのは、日田文書
の中の「姪浜」の二字、実にたったこれだけである。
もし日田の百道原戦死から素直に考えられるように日田の姪浜戦闘が百道原戦闘より以前であったならば、それだけで
方向性はゼロになる。
福田の攻撃は一方向に元軍の撤退につながるものだったのか、それとも突っ込んだ百道原で包囲されて止まった後、
菊池や白石と同様にいったん戻って来たのか、日田文書には全く書かれていない。むしろ矢を射立てられて希有に
存命したという言い方からは後者である印象が強い。
また日田の百道原戦闘は、姪浜戦闘とまとめて「討ち勝った」と書かれているが、討ち勝ったのが日本軍全体なのか、
日田勢単独なのか、わからない。単独だとすれば例えば百騎程度の日田勢が二十人ほども殺せば十分に「討ち勝った」
と言えるであろうが大勢には影響ない。
777 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 21:10:06.86 ID:zqZ53C+G
日田は「早良郡」に向かえという少弐の命令に対して「早良郡に軍を出し」たのだから日本軍本隊の一員だと言う だろうが、戦闘が行われたのが全て早良郡のなかなのであるから、地名が一致するのは当たり前で、なんの根拠 にもならない。念のためだが「軍を出し」は「いくさを出し」と読むのであって、日田が手勢を動員してもそれは 「軍を出し」である。 また両者とも百道浜ではなく百道原と言っているが、百道原はある程度の広がりを持つ地名であるから、祖原半島 をすこし北上すれば百道原である。必ずしも海岸まで行ったとは限らない。日田が死んだ稲荷祠はかなり海岸に近いが、 それでも海岸そのものではなく、まだ祖原半島のほうにかかっている。これらをもって元軍を「海に追い落とした」 証拠とはならないのである。 以上見て来たように、「元軍そのまま撤退説」は「姪浜」二字に全てがかかる真に脆弱な説である。よくこんなものが まともに学界で通るものだと思う。あるいは実際にトンデモ視されているのかも知れないが。 ということで答えは「全く認めない」。
鎌倉武士最強まで読んだ
779 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 22:36:02.19 ID:GmR10F/9
>>761 その通りだな。
単なる恫喝目的なら壱岐・対馬で皆殺しをやった件だけでもやりすぎ。
>>763-765 >中国人たちによって、なぜ博多が大宰府と同一視されるようになったか。私の想像を書く。
>あくまで想像だ。
そもそも「博多が大宰府と同一視されるようになった」という話自体が、お前が自分の妄想説に合致するように
作り出した妄想なんだから、そんなものは「想像」とは呼ばない。
妄想の上に妄想を重ねた挙句、更に妄想を重ねた大妄想だ。
>>768 パフォの提灯持ちじゃなくて、パフォがID消して自演してるだけじゃないの ?
782 :
605 :2013/01/07(月) 23:02:27.67 ID:PiwjOFjp
>>770 パフォくんのすごい所は、最新のレスでも一週間前の俺のレスで応対可能なレスばかりな点だ。
わざとなのかは不明だけどね。
>お前さんの説に限らず学者たちの「元軍そのまま撤退説」において日本軍の攻撃に方向性を
与えているのは、日田文書 の中の「姪浜」の二字、実にたったこれだけである。
パフォくんは『蒙古襲来絵詞』や『福田文書』、『日田記』を読んだことが無いらしい。
『蒙古襲来絵詞』では赤坂→鳥飼潟へと戦況が移っているし、『福田文書』では博多から
早良郡へと進撃した日本軍は、鳥飼潟→百道原としている。『日田記』では早良郡へと進撃
した日本軍が百道原と姪浜で戦闘があったこと確認できる。
つまり、百道原で戦闘があったことは『日田記』と『福田文書』で確認できる事であり、
これらの資料を付き合わせると必然的に赤坂→鳥飼潟→百道原→姪浜となる。決定的なのが、
『福田文書』と『日田記』に早良郡に向けて軍したという 記述があることから、福田と日田が
戦った百道原は同じ戦場だということだ。
783 :
605 :2013/01/07(月) 23:03:39.60 ID:???
>もし日田の百道原戦死から素直に考えられるように日田の姪浜戦闘が百道原戦闘より以前であったならば、それだけで 方向性はゼロになる。 パフォ君の戦況の面白い点は『日田記』の記録を完全に無視しなれば、成立しえないところにある。 付きまとうのは戦死したという資料だけでは無い。当然、『日田記』の百道原と姪浜で日田ら日本勢が 勝利したという記述も当然つきまとう。また、資料を都合のいいように解釈しているが、正しくは、 百道原の「祠の所で忠死」したとあるだけなのだ。祠の所で戦闘があって死んだとは書いていない。 つまり、鳥飼潟で負傷した竹崎季長や百道原で負傷した福田兼重のように、日田は姪浜の戦いで重傷を 受け、後方へと引き返し、「百道原の祠」のところで忠死しても可笑しくは無い。 むしろ、パフォくんの主張のように激戦で日本軍が多く戦死している百道原の戦いの中で日田永基だけが 「祠の所で忠死」という伝承が残ったとは考えようがない。それならば、日田は多くの戦死の一人にすぎ ないからだ。 『日田記』や系図などの記述を尊重しながら、窺い知れる日田の戦死の過程とは百道原姪浜で元軍に勝利した ものの、重傷を受け「百道原の祠の所」で忠死したというのが全く自然な見方だろう。
>>771 2〜3万必要と考えられたところに実際は3〜4万持ってきたわけだな。
これだけでも侵略の本気度が理解出来る。
ノルマン・コンクェストが1万人程度と言われるから、3〜4万というのがいかに大規模で
本格的な侵攻だったかよくわかるな。
これで海岸からたかだか十数キロの敵拠点を落とせないとは普通思わないだろう。
785 :
605 :2013/01/07(月) 23:05:09.55 ID:???
>福田の攻撃は一方向に元軍の撤退につながるものだったのか、それとも突っ込んだ百道原で包囲されて止まった後、 菊池や白石と同様にいったん戻って来たのか、日田文書には全く書かれていない。むしろ矢を射立てられて希有に 存命したという言い方からは後者である印象が強い。 君の印象論などどうでもいい。 そもそも、「白石がいったん戻った」というのも史料には無いパフォくんの捏造であるのだから、お話にならない。 そもそもの認識が間違っているが、菊池が戦場を後にしたのは、菊池勢のみで戦っていたからだ。 赤坂の先鋒隊を破ったものの、後続のさらに強大な元軍と菊池勢が戦うのは自殺行為であり、博多に戻ったのであろう。 まさか、菊池勢も自らの博多帰陣をもって、日本軍の典型的な戦い方であると決め付けられるとは思わなかったであろう。 結局、菊池勢の例をとって、日本軍全体がその後もそのように戦っていたというのはパフォ君の妄想でしかない。 また、福田は負傷しているのだから、百道原の戦いの後に戦線から離脱したのは当然のことであるが、だからと言って 福田が離脱したことと日本軍の進撃が停止したという君の妄想とは何の関係もない。 実際、福田文書では赤坂の戦いの後に博多に集結した軍勢に対して、早良郡に進撃するように命じられているのだから、 菊池が家単位で戦った赤坂の戦いと早良郡の戦いは性格を大きく異にしている。 そして、早良郡で戦ったことが確認できる武士は大将の少弐景資を始め、大友頼泰の豊後勢、 肥前勢、肥後勢、筑後勢が 参加しており、これらの武士らが一斉に戦線を離脱したとは考えようも無い。百道原の戦いの後に傷を受けなかった者は そのまま元軍と戦闘を継続したとみるべきだろう。
786 :
605 :2013/01/07(月) 23:07:04.40 ID:???
>また日田の百道原戦闘は、姪浜戦闘とまとめて「討ち勝った」と書かれているが、討ち勝ったのが日本軍全体なのか、 日田勢単独なのか、わからない。単独だとすれば例えば百騎程度の日田勢が二十人ほども殺せば十分に「討ち勝った」 と言えるであろうが大勢には影響ない。 君は全く可笑しなことを言っている。「百道原は元軍の上陸地」なのだ。さらに目と鼻の先の祖原山には元軍の陣が 構築されている。つまり、元軍が最も密集していた場所なのだ。また、百道原へと進軍するには脇腹に祖原山の元軍陣地と 正面の百道原の大軍と相対せねばならず、わずかな軍勢が飛び込むなど自殺行為でしかない。 百騎程度の日田勢が二十人ほども殺せば十分に「討ち勝った」 などという滑稽な戦況を実現するのは不可能なのだ。 そもそも、「討ち勝つ」の意味すら歪曲しているのだから、話にならないね。パフォくんは敵軍の大軍に包囲されながら敵兵 を二十人ほど殺して、敵軍の追撃を受けながら戦場離脱することを「打ち勝つ」というらしい。 パフォくんが自分の都合で日本語の意味すら変えてしまういい例となった。 また、百道原で戦った武士には大将の少弐景資の名前も確認でき、福田らの肥前勢や日田の豊後勢が参加しており、福田文書の 「早良郡へ進軍せよ」という命令があったことから、百道原には相当な大規模戦があったと思われる。
787 :
605 :2013/01/07(月) 23:08:12.11 ID:???
>日田は「早良郡」に向かえという少弐の命令に対して「早良郡に軍を出し」たのだから日本軍本隊の一員だと言う だろうが、戦闘が行われたのが全て早良郡のなかなのであるから、地名が一致するのは当たり前で、なんの根拠 にもならない。念のためだが「軍を出し」は「いくさを出し」と読むのであって、日田が手勢を動員してもそれは 「軍を出し」である。 「日田は「早良郡」に向かえという少弐の命令に対して「早良郡に軍を出し」たのだから日本軍本隊の一員」その通り。 地名が一致するということは、まさに「早良郡に軍を出し」が実行に移された何よりの証拠ではないか。 また、「日田が手勢を動員してもそれは 「軍を出し」である。」 としているが、これも全くその通り。福田文書で少弐氏が 早良郡への進撃を命じたことが確認でき、『日田記』に「日田が『早良郡に』手勢を動員した」とあるということは日田が 少弐氏の命令によるものであることがわかるのだ。
ええと。 太宰府と博多の区別がついていない=元軍は当面の攻撃目標であろう太宰府の場所を把握していなかった? だとしたら上陸地点は船の都合で決めたとして、どっちに進軍する気だったんだ? そこまで元軍は残念な軍隊なのか?それとも日本の防諜体制が完璧すぎた?
789 :
605 :2013/01/07(月) 23:11:44.89 ID:???
>これらをもって元軍を「海に追い落とした」 証拠とはならないのである。
元軍は百道原から海に逃げたのではなく東側の『姪浜』へと逃げたのだ。なぜかというと、元軍の本陣である祖原山は
百道原の南に存在し百道原にいた元軍が海に逃げ出しては、陣に駐屯する司令官たちは日本軍に包囲され孤立してしまうからね。
日本軍が鳥飼潟の戦いの後に百道原へと向かった時点で祖原山の元軍は敗走した場合は退路を断たれるため、東の姪浜へと逃げる
しか道は存在しないということになる。
>以上見て来たように、「元軍そのまま撤退説」は「姪浜」二字に全てがかかる真に脆弱な説である。
「姪浜」二字だけと言ってる時点でパフォ君が『蒙古襲来絵詞』や『福田文書』、『日田記』をちゃんと
読んでいないことはバレてしまったね。要するにパフォくんの戦況は
>>705 にあるような資料の曲解でしか
成り立たない点を考慮すると明らかにトンデモ説なのは、誰であるかはこのスレの住人ならすぐにわかるだろう。
何しろ、パフォくんの戦況はすべて資料の否定から入らないといけないからだ。例えば、日本軍が勝利したという
資料は「本当は元軍の偽装退却だった」や「『日田記』の日本軍の勝利の記述を「敵兵を二十人ほど殺して、敵軍の
追撃を受けながら戦場離脱することが日本軍の勝利の実像だった」や、元軍の敗北の言い訳がキツクなると「戦闘に
負けたのは、蒙漢軍だったのではなく、高麗軍だ。祖原山にいたのも高麗軍だけだった。」となぜか百道原から上陸した
蒙漢軍が祖原山にいなかったと主張したり、もうめちゃくちゃだな。これこそ、学会で発表したらお笑いものだよ。
790 :
605 :2013/01/07(月) 23:17:57.80 ID:???
訂正 東側の『姪浜』→西側の『姪浜』
>>775 実際の上陸地点なら「生の松原」が一番近いだろう。
で、「千代の松原」は無視か ?
「地名の列挙は西から東への方向性を示している」んなら「千代の松原」がまさしく合致するだろうが。
で、結局の所何が言いたいんだ ?
「八幡愚童訓」の方が武士の記録より信憑性があるとでも言いたいのか ?
792 :
605 :2013/01/07(月) 23:31:46.32 ID:???
訂正
>>770 では無く、パフォくんの
>>777 へのレスね。
しかし、ここまでして元軍の都合の悪い記録を全力で妄想と曲解で否定する原動力は
何なんだろうね。この人のすごいところは結論ありきでそれに合わせようと資料を曲解と
歪曲で無理矢理、自らの妄想に結びつけようとする点だな。
>>776-777 相変わらず卑怯な奴 ! ! ! !
赤坂・麁原・鳥飼潟・百道原・姪浜と、これは明らかに「東から西へ」の方向性を示している。
この中で時系列との関係が必ずしも明白でないのは百道原・姪浜のみ。
これだけを持って時間と共に「東から西へ」戦場が移っていったという論証自体を否定しようと言うのだから呆れ果てたな。
まあ、そういう卑怯な言い逃れをするだろうと思って、あえて姪浜等の具体的な地名は出さず「陸地点近く」という書き方を
してやってんのに。
もう一度聞くぞ。
「赤坂まで東進した元軍はここで日本軍と衝突、以後後退を重ね『暮乃解』時点では上陸地点近くまで追い込まれていた」
さあ、これを認めるか否か、回答願いたい。
794 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 10:01:08.23 ID:P9v0WLgd
>>791 >実際の上陸地点なら「生の松原」が一番近いだろう。 で、「千代の松原」は無視か ?
何度も言わせるな。
八幡ノ蒙古記で「・・・赤坂にまで乱入し、松原のなかに陣をとりて」という「松原」は
地名ではなくて一般名詞だ。「松の木が生えている原っぱ」の意味だ。
ウィキも菊池が「赤坂松原」に突撃したと書いているのはそのように取ったからだろう。
>「八幡愚童訓」の方が武士の記録より信憑性があるとでも言いたいのか ?
それはまた別の話だ。
私は八幡ノ蒙古記のなかの「松原」という「地名」が所在不明だと言うからそのこと
について意見を言っただけだ。
795 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 20:28:20.69 ID:CHsnRvdQ
>>783 日田と姪浜が問題の核心だからとりあえずこれに絞る。
>つまり、鳥飼潟で負傷した竹崎季長や百道原で負傷した福田兼重のように、日田は姪浜の戦いで重傷を
>受け、後方へと引き返し、「百道原の祠」のところで忠死しても可笑しくは無い。
結局の所、それは狸一号くんが作った作り話、もとい物語なのだ。日田の百道原忠死を知らなかった
狸一号くんが、私にそのことを教えられて以降に作ったのだから、できたてホヤホヤの物語には違いない。
「元軍そのまま撤退説」は日田文書の「姪浜」二字に依存していると言ったが、今やできたての物語に
依存しているのだ。この物語が真相でなければ全てが崩壊するという意味でね。
私は狸一号くんではないから、そんな話はどの記録にも出ていない、などと無粋なことは言わない。
その代わりに、こちらでも物語を作らせてもらう。物語同士だから文句はあるまい。ただしこれは私個人の
創作ではない。他ならぬ狸一号くんとの合作だ。
さて、狸一号くんを含む複数の人が、上のほうで面白いことを言っていた。少弐の指揮系統外で、あるいは
少弐の指揮下に入る前に、家単位の戦闘で元軍を襲った武士達がいた、菊池もそのなかの一人だ、という
意見だ。この見方は面白い。日田もまた、このような武士たちのなかの一人であって悪いことはあるまい。
796 :
名無し三等兵 :2013/01/08(火) 20:29:22.77 ID:CHsnRvdQ
朝方、日田は手勢を率いて唐津街道沿いに東に、博多を目指して進軍していた。すると室見川の手前(すな わち姪浜地区)で東に向かう元軍の一隊と遭遇した。元軍は姪浜海岸に上陸して、祖原山の増援に向かおう としていたのだ。 日田は行きがけの駄賃とばかりにこの元軍の一隊を襲った。元軍は急襲に驚いて潰走し、日田勢は二十人 ほどを殺すことができた。この手柄を携えて博多に着いた日田は少弐の指揮下に入った。その後、「各々 早良郡に向かえ」という命令が出たので、第二次の戦闘として鳥飼塩浜から百道原へ突撃した。今回もかなりの 戦果を挙げることができたが、日田本人は運悪く流れ矢にあたって百道原稲荷祠のところで戦死してしまった。 大軍のなかではなく日田勢としての突撃であったからこの戦闘は日田個人の手柄となり、その戦死もまた忠死と して記憶された。 姪浜で負傷して入り江を大迂回し、わざわざ祖原半島を北上して百道原の「第一線へと後送」されるよりは ずっと分りやすい物語だと思うがな。
>>794 >八幡ノ蒙古記で「・・・赤坂にまで乱入し、松原のなかに陣をとりて」という・・・
おい、端折らずに正確に書けよ。
まあ、わざとやってるんだろうけどな。
正確には「今津、佐原、百道、赤坂まて乱入して、松原の中に陣を取て」だ。
単に地名を羅列したあと「松原の中に陣を取て」と書いているだけで、「松原の陣」が何処にかかるのか解らない。
そもそもこの羅列した地名にかかるのかどうかすら解らない。
>「松原」は地名ではなくて一般名詞だ。「松の木が生えている原っぱ」の意味だ。
そのとおりだよ。
「松原」は地名じゃねえんだ。
要するに「八幡ノ蒙古記」は肝心な元軍の陣の場所の特定すらしちゃいないんだよ。
なのに「赤坂の松原」と読んだのはそれがお前のロジックに都合がいいからだろ、ウィキのせいにするなよ。
武士側の記録の時系列も東から西への方向性も認めないくせに「八幡ノ蒙古記」の西から東への方向性を指摘し
陣の場所は最後の赤坂だと主張する。
「暮乃解」時点での元軍の陣は赤坂に有ったとでも言いたいのかな ?
さて
>>793 の問いに答えてもらおうか。
あるいは「暮乃解」時点での両軍の戦闘場所は何処だったと考えるのか ?
根拠を示した上で回答してもらおう。
798 :
名無し三等兵 :2013/01/09(水) 10:06:15.27 ID:yTAXOwAJ
>>797 >そのとおりだよ。 「松原」は地名じゃねえんだ。
ほう、それがわかったのか。
それなら私の意見と一致したな。
私は八幡ノ蒙古記のなかの「松原」という「地名」がどこかわからないという人に対して
意見を言っただけだからな。
八幡ノ蒙古記が記述する戦況に対して文句があるのなら八幡ノ蒙古記の著者に言ってくれ。
一体何時まで元軍をバカにし続けるんだろう 実は元軍嫌いなんだろうか
800 :
605 :2013/01/09(水) 17:29:48.56 ID:???
>狸一号くんが、私にそのことを教えられて以降に作ったのだから、できたてホヤホヤの物語には違いない。
随分偉そうに物を言っているが、パフォ君の教えてやったということの実態が『日田永基』と検索したらまず
一番最初に引っかかるサイトを偉そうにスレに貼り付けただけにすぎない。
俺も随分前に日田という人物を知って、検索したことがあったので当然、そのサイトには目を通していたが、
出典が不明だったので、軽々しく信用しなかったというにすぎない。
教えてあげた人とは、サイトをスレに貼り付けるだけのパフォ君のような横着者のことを
言うのではなく、、
>>538 さんのように出典を明記する人物のことを言うのだ。
俺がこの伝承を信用できると受け取ったのは、パフォくんのような横着者の存在ではなく
>>538 さんによるものである。
そもそも、
>>538 さんが出典を明記してくれたから良かったものの、もし
>>538 さんがいなかったら
パフォくんは出典不明のサイトに頼らなければならないほど追い詰められていたというわが身を
嘆いた方が良い。
801 :
605 :2013/01/09(水) 17:33:15.49 ID:???
>今やできたての物語に 依存しているのだ。この物語が真相でなければ全てが崩壊するという意味でね。 できたての物語とは元軍が「偽装退却した」とか、「祖原山の元軍は高麗軍」とか、「敵兵を二十人ほど 殺して、敵軍の追撃を受けながら戦場離脱することが日本軍の勝利の実像だった」とか無根拠なパフォくんの 妄想のことを言う。 日田が姪浜の戦いの後、戦線離脱後に「祠の所で死んだ」という根拠を挙げてみよう。 1.伝承では「百道原の祠の所で忠死した」とだけあり、「祠の所で」戦いがあって死んだとは書いていない。 2.『福田文書』や『蒙古襲来絵詞』では戦線は赤坂→鳥飼潟→百道原となっており、『日田記』の「姪浜と百道原 で討ち勝った」という記述の順序は百道原が先であることは明らかな点。 3.百道原の戦いの最中に日田が死んだのなら、日田のみが伝説として残ることは明らかに不自然である点。 4.日田永基が少弐氏の命令で早良郡へと進軍するように命じられていた点。命じられた日本軍は鳥飼→百道原 へと向かっている。つまり、姪浜は百道原の戦いの後だ。 5.戦闘で重傷を受けて、それが元で戦線離脱直後に死んでも「戦死」となる点。 以上の点を考慮すれば、日田は姪浜の戦いで負傷して日本軍が制圧している後方の百道原の「祠の所」に退避して 息を引き取ったということになる。
802 :
605 :2013/01/09(水) 17:35:51.24 ID:???
>少弐の指揮下に入る前に、家単位の戦闘で元軍を襲った武士達がいた、菊池もそのなかの一人だ、という 意見だ。この見方は面白い。日田もまた、このような武士たちのなかの一人であって悪いことはあるまい。 残念だね。そうとはならない。『高麗史』によれば、上陸して進軍する元軍に対して小規模な家単位の武士たちの 襲撃が相次いだ記述がある。それに対して、博多の少弐氏は「博多の沖の浜に集結」するように武士らに命じた。 つまり、少弐氏は分散化した戦力の集中化を推し進めたのだ。 そして、『福田文書』によれば、その武士らに「早良郡に馳せ向かえ」という命令が下された事が確認できる。 そして、『日田記』でも「筑前国早良郡二軍ヲ出シ」とあり、日田がこの進撃部隊の一員だったということが確認 できるのだ。 そして、『福田文書』によれば、この集結した日本軍が馳せ向かって起きた戦いが百道原の戦いであったことと 『日田記』の「百道原で討ち勝った」という記述も見事に一致している。つまり、「日田もまた、このような武士たち のなかの一人であって悪いことはあるまい」は、明らかに悪い見方であるという結論に達することができる。 >すると室見川の手前(すなわち姪浜地区)で東に向かう元軍の一隊と遭遇した。元軍は姪浜海岸に上陸して、 祖原山の増援に向かおうとしていたのだ。 本当に呆れるね。これほど、すべて資料に基づいて戦況を解説してあげているのに、こんな駄文と同レベルに されるとは。俺は毎度毎度、根拠となる資料の出典を明記しているんだけどね。 よし、まず基本中の基本である各文の資料の提示をお願いしようか。 パフォくんの妄想を検証するのはそれからでも良い。
803 :
605 :2013/01/09(水) 17:38:59.08 ID:???
>日田は行きがけの駄賃とばかりにこの元軍の一隊を襲った。元軍は急襲に驚いて潰走し、 日田勢は二十人 ほどを殺すことができた。 質問するが、百道原に上陸した元軍がわずかな日田勢に襲われていたとして、 驚いて逃げた元軍はどこにいったのかな? そもそも、上陸地点の戦闘での勝利が「たった二十人ほどを殺す」のみで済む はずがない。パフォくんの主張では、元軍は50人ずつ小出しに上陸でもさせていた ということでいいね? パフォくんはいつも苦しくなると、コロコロと誰もが予想もしない仮想戦記を妄想して 俺達を楽しませてくれる。そもそも、百道原の戦いには大将の少弐景資の名前も確認でき、 福田らの肥前勢や日田の豊後勢が参加しているのだから大規模な戦いであったことは疑い ようが無いのだけどね。 >大軍のなかではなく日田勢としての突撃であったからこの戦闘は日田個人の手柄となり、 その戦死もまた忠死と して記憶された。 進軍中に家単位の武士団が多く討たれたのは、高麗史にあるとおりであり、 日田個人が特別に伝説となる意味など存在しない。 もっといえば、元軍上陸地点であり元軍が密集している百道原において日田勢のみ で討ち勝つというのは不可能だ。 >姪浜で負傷して入り江を大迂回し、わざわざ祖原半島を北上して百道原の「第一線へと後送」されるよりは ずっと分りやすい物語だと思うがな。 「祠の所」などは、護送されるにこれほど相応しい場所は無い。 宗教心の篤い当時の人々が「祠の所」周辺を清潔に整備していたのは十分、想像できる。 また、百道原は日本軍が制圧しており、姪浜周辺の元軍に近い危険地帯で休息したり、 道端で横になるよりも頑張って百道原へと向かうのは当然のことだ。
>>798 グダグダ言ってないで質問に答えろ卑怯者 !
さあ
>>793 の問いに対する回答は如何に ?
「暮乃解」時点での両軍の戦闘場所は何処だったと考えるのか ?
直ちに回答しろ。
もうひとつ質問追加だ。
>>776 他でお前は「元軍そのまま撤退説」とかわけのわからない言葉を使っているな。
これはお前の作った造語で他人には全く意味不明だ。
「元軍そのまま撤退説」とは何なのか、具体的に説明してみろ。
ついでに1つ横レスを付けといてやる。
俺へのレスとは直接関係無いんでそのままにしてきたが、姪浜・百道原の方向性とかわけのわからない戯言を
言ってるからまったく無関係でもあるまい。
「日田永基が百道原で戦死したなどという史実は無い」
公的記録にも当時の一次資料にもそんな記録は一切無いからな。
有るのは地元のちっぽけな稲荷神社に伝わる伝承だけだ。
歴史的事実や人物にまつわるそんな伝承など日本中に山ほどある。
日本武尊の座った石とか、誰某の手植えの銀杏とか、弁慶や幼少時の坂田金時が持ち上げた石とか、北海道
には平泉で死なずに蝦夷地に逃れた義経ゆかりの神社とやらまで存在するぞ。
特に神社ってのはその手の怪しげな伝承の宝庫だ。
公的記録や一次資料を差し置いて、そんな単なる伝承を史実と認める理由など何も無い。
単にそういう伝承もあると頭の隅に止めとけばいい程度のことだ。
あまつさえ、それを「事実」とし、それを前提に軍の動きを論ずるなど妄想もいいとろだな。
俗にいうコンビ打ちとか云う嵐としか思えんなこのスレ・・・。
まったくだな。 昨夜、百道のマンションから中学生の女の子が飛び降りた。 十数年前にも中学生の女の子が飛び降りた。 やってられない。 百道は古戦場跡の碑くらい建てるべきかもな。
808 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 21:29:55.27 ID:fWgKwHhQ
>>800 ~803
私は日田の姪浜先攻説について「物語」であることを始めから断っている。狸一号くんの「最前線へ後送」説が物語であるのと
同じである。物語であるからには「資料」を提示する必要は無い。もちろん、私からも要求はしない。お互い様だ。
私がこの物語を語る目的は、このような日田の姪浜戦闘も「あり得る」ことを示すことによって、「百道原→姪浜追撃説」が絶対
ではないことを示すことにある。
以上を言った上で、狸一号くんの書き込みに逐条式にコメントしよう。
>そもそも、上陸地点の戦闘での勝利が「たった二十人ほどを殺す」のみで済むはずがない。
上陸地点とは言っていない。姪浜と言っても広い。室見川と今津(志摩郡)の間はすべて姪浜だ。この広い
領域の中で、例えば室見川渡河点あたりで日田勢と元軍の一隊が遭遇する状況を考えたのだ。
>以上の点を考慮すれば、日田は姪浜の戦いで負傷して日本軍が制圧している後方の百道原の「祠の所」に退避
して息を引き取ったということになる。
百道原は海上の敵と対峙する第一線だったと、自分で言ったばかりではないか。第一線では退避になるまい。
また祖原山の元軍はいっしょになって姪浜へ逃げたと、これも自分で言ったばかりだ。それならば祖原以東の
内陸部(鳥飼塩浜など)は全て日本軍の領域だ。なにもわざわざ祖原半島を北上して敵に近づくことはなかろう。
809 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 21:30:48.95 ID:fWgKwHhQ
> 『高麗史』によれば、上陸して進軍する元軍に対して小規模な家単位の武士たちの 襲撃が相次いだ記述がある。 どうでもいいが、「道を分って進み、殺す所は過当なり」からそれだけ読み取れるとは眼光紙背もいい処だな。 私は「殺す所は過当なり」は民間人だと思っている。壱岐対馬で見るように民間人を殺すのも彼らの目的だった。 また今津や姪浜にはかなりの人口があった。(ちなみに姪浜には元使が逗留した寺がある) >「日田もまた、このような武士たちのなかの一人であって悪いことはあるまい」は、明らかに悪い見方である 日田が「このような武士たち」として姪浜で戦った後、少弐の指揮下に入って百道原で戦ったことはちゃんと書いて いるのに、あえて前半しか言わないのは意図的な捻じ曲げだな? >元軍は50人ずつ小出しに上陸でもさせていたということでいいね? 日田勢は元軍50人しか相手にできなかったと言いたいのかな? 絵詞で100騎ばかりと書かれている菊池勢 が追い払った赤坂山の元軍は50人ぐらいだったのか? >百道原の戦いには大将の少弐景資の名前も確認でき、福田らの肥前勢や日田の豊後勢が参加しているのだから >大規模な戦いであったことは疑いようが無い それこそが学者先生たちの語り口だ。福田と日田だけではどうしようもないので少弐を持って来るが、その少弐 は弘安の役の事となっている怪しげな系図書き込みだ。それに箔を付けようとして「新元史」を持って来るが、 これが20世紀に書かれたしろものという落ちがつく。
810 :
名無し三等兵 :2013/01/10(木) 21:35:39.34 ID:fWgKwHhQ
>元軍上陸地点であり元軍が密集している百道原において日田勢のみで討ち勝つというのは不可能だ。 鎌倉武士の集団騎射戦法を軽く見てはいけない。菊池や白石の戦いを見ても、100騎ほどの騎兵集団の打撃力、貫徹力は 相当なものだ。特に元軍が基本的に歩兵編成であったからなおさらだ。鳥飼塩浜から百道原まで突入して帰ってくるのは 普通のことだっただろう。 その過程で「分捕り」などの戦果を挙げればそれが「討ち勝った」ことになるのだ。 つけ加えれば鳥飼潟は絵詞の記述でもわかるように馬で入れた。祖原山のかなり手前から干潟に入って、祖原山をバイパス することができただろう。 >百道原は日本軍が制圧しており、姪浜周辺の元軍に近い危険地帯で休息したり、道端で横になるよりも頑張って >百道原へと向かうのは当然のことだ。 また入り江のことを抜かしているな。姪浜を脱出して入り江の奥を廻り、狸一号くんによればすでに敵がいない という祖原山のところまで来た。そこからまっすく東へ行く道はもはや戦場ではない。しかしこの道から分れ、 祖原半島を北上して百道原へ行けば眼前の海には敵の船がうようよしている。なぜわざわざ敵に近づくのかな?
パフォ、ここはお前の仮想戦記を論ずる場じゃない。 お前の主張はせいぜい「〜と言う可能性も考えられるのではないか」程度に留まってる。 あとは文献のひん曲がった解釈だけで、情況的にきわめて不自然。 これ以上やりたいならコテつけろ。お前の相手はちゃんと付けてる。 正常人はコテを付けられるが、パフォーマンスコンクールなんて妄想に狂った異常人は付けないんだな。
もしくは元の住処である日本史板のほうでいくらでも妄想を展開しろよ。 あっちなら人が少ないし素人ばっかりだから、お前の好きなだけ妄想を垂れ流せるぞ。
>>765 「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」が出てくるのは、
『元史』ではなく『元高麗紀事』耽羅条。
四庫全書に収録されている。
発言したのは中国人商人ではなく、耽羅人ね。
『元史日本伝』至元十八年正月に、
「太宰府」「八角島」が書き分けられているものの、
(『中国正史日本伝(2)』岩波文庫)
彼らのいう「太宰府」は、現在でいう博多だろう。
『太宰府市史』で確認する必要はあるが、もはや政治的中心地は博多に移っていたはず。
で、訳文はご指摘の方がしっくりくる。
この訳文は『本土防衛戦史-元寇-』(陸上自衛隊福岡修身会)の記述を受けたものだが、
売却してしまって手元にない。
訂正するとともにご指摘に感謝したい。
しかし、自分が作ったwebサイトが10年経っても残っているとはな……
いろいろお叱りも頂いているし、改訂しようとは思っている。
>かくして大宰府攻略の証拠とされるこの元史の文章は
『元史』じゃないんだよ。
お互いに精進が必要だな。
814 :
名無し三等兵 :2013/01/11(金) 11:06:21.43 ID:kKmEG+lc
>>813 ご指摘ありがとう。問題の文章以外はうろ覚えで書いたのでいろいろ間違えた。
>彼らのいう「太宰府」は、現在でいう博多だろう。
その通りだと思う。
>『太宰府市史』で確認する必要はあるが、もはや政治的中心地は博多に移っていたはず。
そうだとすると、元軍は果たして大宰府政庁を目指したのか、改めて疑問になる。
815 :
605 :2013/01/11(金) 12:25:07.93 ID:???
>>810 >上陸地点とは言っていない。姪浜と言っても広い。室見川と今津(志摩郡)の間はすべて姪浜だ。この広い
領域の中で、例えば室見川渡河点あたりで日田勢と元軍の一隊が遭遇する状況を考えたのだ。
これは全く可笑しい。てっきり元軍が姪浜から上陸したから、それを阻止しようと目の前の百道原の元軍に
バレないようにわざわざそれを迂回して、姪浜へと向かったという主張だと思っていたが、実は既に姪浜から
上陸した進軍中の元軍を迎撃するために背後に百道原の元軍の大軍を残してまで、姪浜の元軍に奇襲しにいった
ということだね?
百道原の元軍が日田勢に軍勢を繰り出したら、日田はまさに袋のねずみってわけだね。なぜ、百道原から上陸して
赤坂に向かう元軍に対してこれを無視して、日田はバレないように姪浜へと向かい、あえて自ら袋に飛び込む必要
があったのかな?
それと、俺個人の考えになるが、姪浜から上陸したという資料は存在しないため、元軍の姪浜からの上陸は無かったと
思っている。なぜなら、百道原と姪浜との間には愛宕山を存在し、これを大きく迂回して室見川などを渡ってしか東進
できないからだ。資料に元軍の上陸地点として明確に記載があるのは百道原だけであり、また百道原と姪浜の間に障害物が
ある以上、百道原から一斉に上陸した方がはるかに都合が良い。
>百道原は海上の敵と対峙する第一線だったと、自分で言ったばかりではないか。第一線では退避になるまい。
また祖原山の元軍はいっしょになって姪浜へ逃げたと、これも自分で言ったばかりだ。
前にも言ったが、パフォくんの論理でいうと博多湾全域が「第一線」になるね。
なぜなら、元軍が上陸するのは百道原だけに拘る必要は特に無いからね。むしろ、
百道原から上陸した元軍を姪浜へと敗走させ、祖原山の元軍本陣を占拠したばかりの
日本軍が多く存在した百道原はどこよりも「安全地帯」だ。
なにしろ、実際に陸上に存在する姪浜付近の元軍付近で休息するほうがはるかに危険
だからね。誰もいない道端で横になるより、陸上の敵軍に近い姪浜で横になるより百道原の
清潔で整備された「祠の所」で横になる方がはるかに良い。
816 :
605 :2013/01/11(金) 12:26:51.42 ID:???
>私は「殺す所は過当なり」は民間人だと思っている。壱岐対馬で見るように 民間人を殺すのも彼らの目的だった。 ほう、その見方は無かったなぁ。確かに日本兵のことだとは書いていない。 パフォくんにしては鋭いね。しかし、博多に日本軍が集結するように命じられた 頃に、その命令とは別に菊池のような家単位の武士が戦っていたことが確認できる 上に、高麗史にある高麗軍の中軍と小規模な日本軍の戦闘の描写があるので、 緒戦においては、少弐氏の率いる日本軍主力とは別に、小規模な戦いがあったことは 十分に窺える。 >日田が「このような武士たち」として姪浜で戦った後、少弐の指揮下に入って百道原で 戦ったことはちゃんと書いているのに、あえて前半しか言わないのは意図的な捻じ曲げだな? ああ、なるほど。「「このような武士たち」として姪浜で戦った後、少弐の指揮下に入って百道原 で戦った」ということを認めるということは、『日田記』にある百道原の戦いで日本側が勝利した という記述を認めるのだな? で、やっぱり敗走する元軍が行かなければならないのが「姪浜」ということにもなる。それを追撃する 日本軍が進軍するのもやっぱり「姪浜」だ。つまり、俺の何度も言っている百道原→姪浜という日本軍 の進軍ルートは「百道原の戦い」で日本軍が勝利し、日本軍が追撃を行えば、次の段階が必ず「姪浜の戦い」 となるのだ。
817 :
605 :2013/01/11(金) 12:28:55.11 ID:???
>福田と日田だけではどうしようもないので少弐を持って来るが、 その少弐は弘安の役の事となっている怪しげな系図書き込み。 元号の誤記などよくあることであって、元号の誤記をもって文全体を否定するのは 良くないね。実際に文永の役に参加した日田氏や福田氏は『福田文書』と『日田記』で 「百道原で戦った」とあり、日本側の総大将の少弐氏の少弐系図でも少弐景資が百道原で 戦ったとあり、文永の役で参戦が確認できる三家の3資料とも百道原の戦いに参加したという ことで一致しているのだから、全く疑う必要など無い。 そもそも、百道原を含む早良郡への進軍の命令があったことが『福田文書』で確認できる以上、 この進撃命令を出した少弐景資が進軍する軍勢に加わっていない方が不自然だ。 また、筑後守護を務める少弐氏の直属の指揮下にある筑後の武士が早良郡への進撃部隊に参加し 参戦していることからも、少弐氏が進軍していたという系図を裏付けている。 >鎌倉武士の集団騎射戦法を軽く見てはいけない。菊池や白石の戦いを見ても、100騎ほどの騎兵集団の打撃力、貫徹力は 相当なものだ。 全くその通りだ。それを認めておきながら、なぜ「元軍が優勢で日本側戦術的敗北」など可笑しな 戦況認識になるのだ? 100騎程度でそれほどの攻撃力を日本側が備えているのを認めておきながら、100騎程度の日本軍より はるかに強大な早良郡への進撃を命じられた博多に集結した日本軍が、鳥飼潟、百道原、姪浜の戦いで 勝利したという資料をなぜ曲解と妄想で否定しているのかな?
818 :
605 :2013/01/11(金) 12:31:04.41 ID:???
>祖原半島を北上して百道原へ行けば眼前の海には敵の船がうようよしている。 なぜわざわざ敵に近づくのかな? 簡単なことだ。眼前の海に敵船がうようよしているのは「博多湾一体」で共通のことであり、当たり前のことだからだ。 何も百道原眼前だけではない。箱崎にいようと博多の町にいようと「眼前の海には敵船がうようよ」していることには 何の変わりもない。 また、日田が、百道原の戦いを終えて祖原山の元軍本陣を占拠している大勢の日本軍がいる百道原へと向かうのは当然の ことである。 息も絶え絶えで誰もいない道端や陸上の敵軍の近くの姪浜で休息するなどこれほど危険な事は無い。 あえて、聞くが百道原の戦いで負傷した福田兼重は百道原で傷を癒そうとしたと思うかな?鳥飼潟の 戦いで負傷した竹崎季長は鳥飼潟で傷を癒そうとしたかな? 戦闘が行われている場所から後方の離れたところで、傷を癒そうとするのは当たり前の話だ。
ぺろんてぃーぬ♪
820 :
813 :2013/01/11(金) 23:25:13.26 ID:???
>>616 >これを読めば趙良弼は大宰府まで行ったと思うだろう。
>しかし大宰府守護所は櫛田神社の近くにあった。
大宰府守護所が元寇当時どこにあったかは分からない。
「博多日記」の記事は鎌倉末期のものだ。
しかも、位置を直接書いているわけではないしね……。
しかし菊池武時が、櫛田宮を探題館と思って乱入したということは、
その近くに存在していたのだろう。
鎌倉末期、櫛田神社の近くに探題館があったという推定は支持する。
元寇当時の大宰府守護所も、やはり現在でいう博多にあったのだろう(推定)。
詳細については『元寇後の城郭都市博多』佐藤鉄太郎・海鳥社に論じられている。
「博多日記」は、『太平記』1巻、角川文庫に収録されているものを読んだ。
821 :
名無し三等兵 :2013/01/12(土) 10:20:57.44 ID:/wjwgQdl
>>820 >元寇当時の大宰府守護所も、やはり現在でいう博多にあったのだろう(推定)。
元寇を境目にして政治的中心が大宰府から博多に移ったのでなく、元寇以前からその状態に
なっていたということだね。
鎮西探題は看板の掛け替えに過ぎなかった・・・
単なる"推定"でものを言われてもね・・・ そもそも鎮西探題が置かれたのは元寇後、その経験を踏まえての事だし防衛拠点たる探題城が置かれてたのは 博多じゃなくて姪浜だ。 文永の上陸地点が今津から姪浜にかけてだとすれば、そこを見渡せる高台に城を築くのは理に適っている。 敵が文永では博多すら落とせず、弘安では上陸すら出来なかったという実戦経験に照らせは大宰府・水城は内陸 に過ぎて情報伝達や兵の移動に難がありすぎる。 また平時の窓口は博多に置いておくのが利便性では一番良かろう。 元寇の経験を踏まえて出来上がった体制をもって、元寇以前の状況を語るのは無意味。 それに"組織"というのは建物ではなく人間の集合体だ。 人間が移動すれば"組織"など臨機応変どこにでも移動できる。 地理的にどこにその"組織"があったのかなんて議論事態、たいした意味は無い。
パフォが決定的に駄目なのは、仮説を補強するように文書や証拠を解釈していること それは妄想としか呼ばれない
後知恵で考えれば、はじめから博多を要塞化して迎え撃つべきだったんだろうけど、それはあくまで結果論。 元軍侵攻を前にして博多じゃあまりに危険すぎると思うのがむしろ当然。 世界中に侵略の手を伸ばし、各地で暴虐の限りを尽くしている大モンゴル帝国がまさかあれほどあっけない とは事前には思わなかったろう。
実際は砂漠のオアシス国家や極寒の田舎国小突き回してただけだからな 人口密度の高い欧州やベトナム日本では失敗する 金、南宋攻略でバテたのが実情
>>825 ベトナムは元寇の失敗さえなければ何とかなっていたかもしれない。
ジャングルで補給に難儀するベトナム戦では海路の輸送が非常に有効だか、弘安の役で大量の旧南宋の兵力と
何より膨大な水軍・船舶を失っていたのは決定的に大きい。
>>824 侮ってやられるより、大げさに構えすぎて拍子抜けの方が100倍良いよな。
特にこれは、国の存亡がかかった課題だし。
828 :
名無し三等兵 :2013/01/12(土) 17:13:20.94 ID:THj4JLdK
>>815 >てっきり元軍が姪浜から上陸したから、それを阻止しようと目の前の百道原の元軍に向かったという主張だと
狸一号くんは相変わらず全ての戦闘が「同じ時間」に起こったと思っているな。私は日田の姪浜戦闘の物語
(仮説)を最初に書いた時、「朝方」と言ったはずだ。これは菊池、白石らが戦った時間帯という意味だ。
絵詞はこの時間帯における百道原の元軍の事を書いていない。もし百道原に元軍が上陸していれば鳥飼塩屋から
見えたはずだ。この時はまだ百道原の上陸は始まっていなかったのだ。
日田がこの時間帯に姪浜で行動したのではないかと考えたわけ。ただし少し修正する。私は日田が博多へ出頭する
途中の遭遇戦を考えて、日田勢が西からやって来たことにしたが、日田の領地と考えられる日田は、太宰府のすぐ
そば(南東)に、峠一つへだててあるのだね。それなら姪浜は日田の出頭するルートからはずれている。
そこで別の考え方になった。菊池勢は独断で赤坂に突撃したのではなく、特命を受けた威力偵察だったのではないか
とも考えられる。もしそうならば日田勢が同じような行動を、同じ時間帯に姪浜で行っていたとしてもおかしくない。
そのルートは太宰府付近から直接、姪浜に行ったと考えられる。そして広い姪浜地域のいずれかの地点で、姪浜に
上陸して東進する元軍部隊と戦闘を行って勝利した後、室見側を渡って博多へ向かった。
上記したように、この時間帯はまだ元軍の上陸が進んでいないから、行動は比較的自由だ。
829 :
名無し三等兵 :2013/01/12(土) 17:16:59.55 ID:THj4JLdK
>元軍の上陸地点として明確に記載があるのは百道原だけであり、また百道原と姪浜の間に障害物が >ある以上、百道原から一斉に上陸した方がはるかに都合が良い。 姪浜にも上陸した可能性は高い。前にも触れたが、姪浜は宿場町でかなりの人口があり、また元使が滞在した 寺があった。地理はよくわかっていたはずだ。元軍はここに日本軍がいる可能性を考えて、後顧の憂いを断とう としただろう。また民間人殺害の目的にも適う。 障害物があると言うなら百道原からの退却だって困難ではないか。室見川の渡河点へ迂回すればいいだけの話だ。 また姪浜と百道浜との間の湾口は狭い。「冬の嵐」は朝方の干潮時に百道浜と赤坂との間が徒渉できたとしている が、それなら姪浜と百道浜との間も徒渉できた可能性がある。朝方はね。 百歩譲って姪浜に上陸がなかったとしても、今津には上陸の記録がある。今津に上陸して東進する元軍は室見川 渡河点など、姪浜地区を通る。日田はこのような元軍と遭遇したと考えればよい。
830 :
名無し三等兵 :2013/01/12(土) 20:59:58.84 ID:THj4JLdK
>>816 >「このような武士たち」として姪浜で戦った後、少弐の指揮下に入って百道原で戦った」ということを
>認めるということは、『日田記』にある百道原の戦いで日本側が勝利したという記述を認めるのだな?
なぜそうなるのか、さっぱり分らない。日田文書は日田個人が「討ち勝った」と言っているだけであって
「日本側」とか「日本軍」が勝利したとはひとことも言っていない。このことは後述する。
>やっぱり敗走する元軍が行かなければならないのが「姪浜」ということにもなる。
これも不思議だ。なぜ元軍は舟で海上に逃げないのか? なぜわざわざ遠くて、狸一号くんによれば途中の
障害物が多い姪浜へ行くのか? また新たな言い訳が必要だな。
831 :
名無し三等兵 :2013/01/12(土) 21:01:41.17 ID:THj4JLdK
>>817 >鎌倉武士の集団騎射戦法を軽く見てはいけない。菊池や白石の戦いを見ても、100騎ほどの騎兵集団の打撃力、貫徹力は相当なものだ。
>それを認めておきながら、なぜ「元軍が優勢で日本側戦術的敗北」など可笑しな戦況認識になるのだ?
上記の私のコメントは :
「元軍上陸地点であり元軍が密集している百道原において日田勢のみで討ち勝つというのは不可能だ。」
という狸一号くんの質問に答えたものだ。私は日田勢「のみ」で「討ち勝つ」のは「可能」だと言って
いるのだ。
なぜそれが可能かと言えば、家単位の騎兵集団が突っ込んで、攻撃終末点に達し、また敵軍を掻き分けて
「帰って来る」。その過程でうまくいけば味方の損害をあまり出すこと無く敵軍に損害を与え、さらには
「分捕り」も得られる。これが「討ち勝った」ということだからだ。決して日本軍勝利の意味ではない。
これがうまく行かなければ福田のように元軍に包囲されてようやく脱出するような事にもなる。福田は
決して「討ち勝った」とは言っていない。或は日田の百道原戦闘のように「討ち勝った」はいいが本人が
損害のなかに入ってしまう。恐らく日田の遺体は搬出の余裕がなく戦場に遺棄され、戦後に稲荷祠のそば
で見つかって記憶されたのだろう。
日田文書や福田文書を日本軍勝利の証拠とするには、日田や福田が「いっせいに進退する数千騎の」日本軍
の一員でなければならないが、そのような「日本軍」の戦い方を示す史料はない。またそのような戦闘に
おいて福田や日田の戦功が記録されるはずもない。
だいたい、「敵に臨んで進み闘わざる」武士が「多く」いるような軍隊に「数千騎いっせいに進退」など
できる訳がない。文永の役は戦闘意欲に燃える中小御家人の個人的奮闘によって戦われたのだ。
832 :
605 :2013/01/12(土) 21:41:02.61 ID:???
>これは菊池、白石らが戦った時間帯という意味だ。 絵詞はこの時間帯における百道原の元軍の事を書いていない。もし百道原に元軍が上陸していれば鳥飼塩屋から 見えたはずだ。この時はまだ百道原の上陸は始まっていなかったのだ。 おいおい、本気で言ってるのかな?「菊池、白石らが戦った時間帯」には百道原の すぐ南の祖原山には元軍の陣が構えられており、その東側の鳥飼潟には元軍が進出 している。 このような状況で百道原から上陸していないとは実に滑稽な戦況だね。 このように百道原周辺には元軍がひしめいていたわけであるが、それを裏付ける ように元軍の上陸地点として『朝師御所見聞安国論私抄』にはちゃんと鳥飼潟と 祖原山の目と鼻の先の「百道原」から上陸したと書いている。 そして、鳥飼潟で敗れた元軍が敗走したのも「百道原」だ。百道原に逃げ出した ということは、「上陸が始まっていない百道原」ではなく裏を返せば百道原が上 陸地点であり、退路であったことを裏付けている。 >そこで別の考え方になった。 妄想が崩壊したなら、新しく妄想を拵えるのではなく、俺の言を受け入れたら どうかね?反論できなくなると、新たな妄想を拵えることを繰り返しているが、 あまりにも節操がないとは自分でも思わないか?
833 :
605 :2013/01/12(土) 21:47:16.88 ID:???
>菊池勢は独断で赤坂に突撃したのではなく、特命を受けた威力偵察だったの ではないかとも考えられる。もしそうならば日田勢が同じような行動を、同じ 時間帯に姪浜で行っていたとしてもおかしくない。 今度は「日田威力偵察説」か。忙しいな。もう一度、言おう。姪浜から進軍する 元軍を日田勢のみで威力偵察して元軍を打ち破ることが可能だったと主張している にもかかわらず、日本軍が総力を挙げた「諸軍與戰、及暮乃解」の戦いで、どうして 日本軍が「戦術的敗北」したという滑稽な戦況認識になるのかな? 君の戦況は、自分の都合で日本軍を強くしたり、弱くしたり本当に忙しいね。 そもそも、菊池勢が「威力偵察だった」というのも妄想であり、その妄想をもとに 「日田が威力偵察だった」など論外だが。 また、何度も言っているが『福田文書』によれば、早良郡に進軍を命じられた日本軍が 向かったのは百道原だ。そして、日田も早良郡に進軍し戦った場所が百道原と姪浜の両所 とあり、日田が一旦に博多に戻ったなど間に差し挟む余地などない。 「一度目は姪浜。それから一旦博多に引き返し、二度目は百道原に進軍し戦った」など 日田記のどこにも書いていない。自分の都合で資料を改変するのは悪いくせだね。
834 :
605 :2013/01/12(土) 21:47:54.43 ID:???
>上陸して東進する元軍部隊と戦闘を行って勝利した後、室見側を 渡って博多へ向かった。 上記したように、この時間帯はまだ元軍の 上陸が進んでいないから、行動は比較的自由だ。 つまり、言いたい所を抽出すると「この時間帯はまだ元軍の上陸が 進んでいない」状況下で、日田は「太宰府付近から直接、姪浜に行った と考えられる」ということだね。 日田は電話を受けて、高速道路を車で姪浜へと向かったのか? 元軍の上陸の報を受けて、それが太宰府に伝えられて日田が15km以上も離れ、 なおかつ間には川などの障害物が存在しながら、なぜか「この時間帯はまだ 元軍の上陸が進んでいない」という。随分都合の良い戦況だな。 笑わしてもらったよ。 そもそも、姪浜から上陸を終えて、住民の虐殺と略奪をし終えて、さらに 東進する段階に入り、日田が太宰府から15km以上掛けて姪浜へと向かい、 姪浜で激戦が展開されて日田が勝利し、それから博多に日田が帰るまで、 未だに「百道原から上陸はまだ進んでいない」とはいったいどういう状況なのだ? 全く可笑しな戦況だな。元軍も大変だな。パフォくんの都合で上陸するのを遅らされた り。
835 :
605 :2013/01/12(土) 21:50:33.83 ID:???
>地理はよくわかっていたはずだ。元軍はここに日本軍がいる可能性を考えて、 後顧の憂いを断とうとしただろう。また民間人殺害の目的にも適う。 なるほど。つまり「かなりの人口」があり、「寺」があり、「日本軍がいるために、 後顧の憂いを断つ」ためだということをもって、姪浜から元軍が上陸したとする ならば、元軍は博多に上陸したということだね? パフォくんの挙げている条件を博多はすべて満たしているが、元軍が博多の町から 上陸したことなどは一度たりとも無かった。 やはり、百道原からいっせいに上陸したという説が一番、しっくり来る。 なぜ、今まで気付かなかったのだろう。 姪浜から上陸した場合、愛宕山が姪浜と百道原の間に存在し、姪浜に上陸 した元軍はわざわざ、室見川を渡って、大きく湾口を回らなければ、百道原 へとは行けない。 そんな面倒くさい行動をとるメリットなど元軍には存在しない。 当時の百道原は博多湾から突き出しており、百道原の北岸は東西3km、 西岸は南北1kmもある。4kmもあるとすると、単純計算になるが上陸舟艇 であるバートルの300艘が上陸するには1艘あたり133mも間隔が確保 されている。 実際は、それほど単純では無かったろうから1艘あたり100mとしても 十分に余裕のある上陸となる。 また、資料に明確に上陸地点が書かれているのは「百道原」のみであり、 福田文書や高麗史にも百道原のある「早良郡」に元軍が襲来したとあり、 今津が存在する「糸島郡」に元軍が襲来したとは言っていない。
836 :
605 :2013/01/12(土) 21:52:24.73 ID:???
>百歩譲って姪浜に上陸がなかったとしても、今津には上陸の記録がある。 今津に上陸して東進する元軍は室見川渡河点など、姪浜地区を通る。 ほう、今津に上陸したという資料を見せてくれ。 『福田文書』や『高麗史』、『朝師御所見聞 安国論私抄』などの資料では百道原 を含む早良郡から元軍が上陸したことで一致している。 唯一、八幡ノ蒙古記には今津から上陸したような解釈が可能な文構成になっているが、 戦況自体が百道原を含む早良郡から上陸したことは一切触れなかったり、武家側の文書 と矛盾する記述ばかりであり、上陸地点だけは信用できるとはならない。 学者たちは、この八幡愚童訓の記述を何の疑いもなく信用し、あまつさえ『元史』洪茶丘伝の 「日本を征す。対馬・壱岐・宜蠻などの島を抜く」の「宜蠻」の音が、今津の音に近いから 今津のことであるなど滑稽な解説をしている本もあるが、今津は「島」ではない。 八幡愚童訓に合わせるあまりに本来の文を潰している。 音が近いで言えば、元軍が壱岐の後に向かった平戸方面である伊万里湾でも良い。 こちらは「島」等があり、「イマリ」は音が近いのであるから、こちらの島でも 別に問題はない。 また、今津から上陸した場合、元軍は「十郎川」、「名柄川」、「室見川」を渡って わざわざ百道原の元軍と合流しなければならない。 こんな面倒くさいことをするメリットなどない。
837 :
605 :
2013/01/12(土) 21:55:58.35 ID:??? >冬の嵐」は朝方の干潮時に百道浜と赤坂との間が徒渉できたとしているが、 それなら姪浜と百道浜との間も徒渉できた可能性がある。 ほう、赤坂→百道原(A)が徒渉できたと服部が言ってるから、百道原から姪浜(B) もいけたはずだと?A=Bではない。Bができたとするなら、当時それができたという資料を君は 示す義務がある。 仮に百道原から姪浜が徒渉可能だとしよう。すると、姪浜に上陸した元軍は愛宕山の山越えをして、 それから姪浜と百道浜間を徒渉しなければならない。こちらの方が湾を大きく迂回するより、はるに 手間だ。また、元軍は朝の内のいつ途切れるかわからない危険なわずかな細い一本線だけを頼りに 姪浜と百道原の元軍とを結んでいたことになる。 それも姪浜と百道原の間には愛宕山が存在している。そこまでして、姪浜に上陸させる必要など無い。 百道原に一気に上陸した方がはるかに楽ではないか。 >なぜそうなるのか、さっぱり分らない。日田文書は日田個人が「討ち勝った」と言っている だけであって日本側」とか「日本軍」が勝利したとはひとことも言っていない。 ほう、日田は日本軍ではないのか? 福田文書によれば、日本軍は「早良郡へと進軍せよ」という命令の下、百道原の戦いで 大合戦になっている。この戦いには少弐景資や豊後勢、肥前勢の参戦が見られ、この戦い に参加した日田の記録に百道原の戦いで勝利したとあれば、すなわち共に戦ったその他の 軍勢も勝利したとしか考えようが無い。そもそも、「筑前国早良郡二軍ヲ出シ、姪ノ浜、 百路原両処二於テ、一日二度ノ合戦二討勝テ」が日田個人によるものだとも書いていない。 福田文書にあるとおり、日本軍大軍が「筑前国早良郡二軍ヲ出シ」のは事実であり、 主語が「日本軍」でも問題ない。日田の個人的な戦功はその戦勝の際の「異賊ヲ斬ル事夥シ」 であっても良い。