【月光改】日本航空機開発史改竄編17【陸軍彗星?】

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661名無し三等兵
昭和15年朝日新聞は、東京NY親善飛行(航続距離1.5万km)を狙い、東大航空研究所へA-26開発を依頼した話、
海軍側も東大OBからの情報で掴んでいた。
昭和16年秋、陸軍は生産機種の整理統合を命じ、立川はA-26の制作を中止し、11/3予定の初飛行も中止になるハズだった…

この時、空技廠が手を挙げた。マーシャルのヤルートから真珠湾まで片道2100浬、
1.2万kmの航続距離がある爆撃機であれば、真珠湾の夜間水平爆撃が可能となる。
試作機初飛行まであと僅かのところまで到達してるのであれば、後処理はそう難しくないだろう。
A-26の1号機の部品は分解され、横須賀へ空輸され、空技廠で組み立て直しが始まった。
昭和17年2月、三か月遅れで試作1号機が初飛行、深刻だった燃料漏れも空技廠の手で解決した。
昭和17年5月、シンガポールへの往復・無着陸飛行試験に合格し、空技廠は長距離爆撃機への改修を始めた。
ガソリンを11555L(8528kg)を搭載して、1.8万kmの航続距離距離の機体である。
燃料を2/3(8000L:作戦半径2150浬)程度なら、胴体内に2.5-2.8tの爆弾を搭載することは充分可能だろう、という目論見である。
昭和18年1月、爆撃機タイプのA-26の増加試作機6機が完成し、2月ラバウルに到着。

25番陸用爆弾を10コ×6機を積んで、エスプリサントゥへ向け、現地時間の昼過ぎに発進した。
ガ島を日没後1時間後に通過して、3時間半後にエスプリサントゥ上空に到着、25番を60コ投下し、米軍を大慌てさせた。
黎明1時間前にガ島を通過、無事ラバウルに帰還した。夜間・長距離・水平爆撃機としてのポテンシャルを実証した瞬間だった。