1 :
ヘンシェル社:
19世紀から20世紀、21世紀の兵器を、
自分で好きなように作りあげやがれ!
2 :
名無し三等兵:2012/10/15(月) 12:51:22.52 ID:vjsGVMaS
ドイツU号戦車
開発
1934年7月にクルップ、MAN、ヘンシェルの3社に開発命令が下され、
全周回転砲塔に当時、ラインメタル社が開発中だった3.7cm PaK36 L45を搭載予定とし、
車体前面装甲部の機銃は同じラインメタル社の7.92mm MG34を搭載することとし、
3社案の試作車を比較検討の結果、MAN社のものが優秀と判断され、採用、
LaS100(農業用トラクター100型)の秘匿名称で25両の先行量産型の製作が命じられた。
1935年10月に25両のa1型、続いて同数のa2型が50両作られた。
1937年2月からは装甲を強化して量産体制とし、量産型のb型が200両生産された。
a各型にはマイバッハHL57TRZ(150馬力)エンジンが搭載されていたが、
b型では装甲増厚による重量増に対応し、マイバッハHL62TR(170馬力)に強化された。
1937年2月から1939年4月までに計835両が生産された。
1939年4月以降は車体のみ、派生型である自走砲用に引き続き生産された。
実戦投入と改修
U号戦車はまずスペイン内戦に20両が投入され、第二次世界大戦開始時でも、
ポーランド侵攻から主力として軽快性と機動力が大いに発揮され、
その戦闘能力も当時においては有効だった。
その後も、バルカン戦線、北アフリカ戦線、独ソ戦と、
U号戦車は既に非力となりながらも戦い続けた。
3 :
名無し三等兵:2012/10/15(月) 17:23:15.88 ID:???
ウンコとゲロを混ぜた汚物爆弾
4 :
名無し三等兵:2012/10/15(月) 19:42:36.86 ID:???
ハイパーセモベンテ
5 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 02:21:16.68 ID:???
奇想天外SF兵器の馬鹿著者w
6 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 15:31:32.05 ID:hnD/5PAp
ドイツV号戦車
ドイツ国防軍が戦車戦術を考慮した主力戦車とすべく製造した中戦車で、
支援戦車であるW号戦車とともに運用する構想で1934年に開発命令が、
クルップ、ヘンシェル、ダイムラー・ベンツ、 ヴェクマン、アルケットに通達、
これらの要求の元、当時の欧州における輸送の限界を考慮して試作車を製造、
5社の比較検討と各種試験の結果、 ダイムラー・ベンツの車台、
ヘンシェルの砲塔と42口径5cm Kw.K.38と7.92mm機銃、
エンジンのマイバッハHL 120 TRM4ストロークV型12気筒ガソリン300馬力と、
トーションバー式サスペンションを装備して量産することが決定。
1935年末からダイムラー・ベンツ、ヘンシェル、ヴェクマン、アルケットの4社で、
A型として1936年12月までに計230両を製造。制式番号はAusf A Sd.Kfz.141。
1937年1月からの生産分は主砲をより強力な5cm Kw.K.39 L/60に換装して、
基本装甲厚は30mm、車体前面装甲厚は50mmまで強化したB型に生産は移行、
1939年10月までに540両を製造、制式番号もAusf B Sd.Kfz.141/1となった。
1939年のポーランド侵攻で、本車の防御能力が戦況が要求する水準に、
達ってしいないことが問題化、1939年10月からB型をベースに徒渉能力を高め、
エンジンルーム左右の吸気口、後部オーバーハング下の排気口に、
それぞれ水密ハッチが付き、エンジンマフラーは防水弁付きの新型が高い位置に設けられた。
突き出たエンジンマフラーのぶん、B型とは車体全長が異なるC型の生産に移行したが、
対フランス戦後に能力不足は確実となったことで、1940年8月までに292両を生産して、
W号戦車に主力戦車の座を譲り、V号戦車の製造は終了した。
7 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 16:16:02.69 ID:???
>>1 r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/ >::::::::::ヽ
. 〃 ヽル1'´ ∠:::::::::::::::::i
i′ ___, - ,. = -一  ̄l:::::::::::::::l
. ! , -==、´r' l::::::/,ニ.ヽ
l _,, -‐''二ゝ l::::l f゙ヽ |、 2ちゃんねるはお前の日記帳じゃねえんだ
レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_ !:::l ) } ト
ヾ¨'7"ry、` ー゙='ニ,,,` }::ヽ(ノ チラシの裏にでも書いてろ
:ーゝヽ、 !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、 ,i:::::::ミ
::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{ __)`ニゝ、 ,,iリ::::::::ミ
::::::::::::::::::::Vi/l:::V'´;ッ`ニ´ー-ッ-,、:::::`"::::::::::::::;゙ , な!
:::::::::::::::::::::::::N. ゙、::::ヾ,.`二ニ´∠,,.i::::::::::::::::::::///
:::::::::::::::::::::::::::::l ヽ;:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ /
::::::::::::::::::::::::::::::! :|.\;::::::::::::::::::::::::::::::/ /
8 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 17:50:39.75 ID:???
目的は世界平和重戦車ヨルムンガンド
9 :
名無し三等兵:2012/10/17(水) 06:48:14.70 ID:???
ケーニヒス90式
10 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 00:30:48.63 ID:???
リング翼VTOL艦上戦闘機
11 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 00:33:44.32 ID:???
対戦車ミサイル・イサク
12 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 01:56:45.81 ID:???
13 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 02:10:22.63 ID:???
実戦には使えないAAMカミウラ
14 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 19:08:52.69 ID:???
HiHiの最近DO?ミサイル
15 :
名無し三等兵:2012/10/19(金) 08:55:36.64 ID:RqxUY1RQ
大日本帝国海軍 88式拳銃
大日本帝国海軍が将校准士官用の開発した大型自動拳銃である。
1928年(昭和3年)の正式採用から1945年(昭和20年)までの間、
大日本帝国海軍のみならず、大日本帝国陸軍の制式拳銃として、
日中戦争、太平洋戦争の戦場で用いられた。
開発経緯
1920年代の日本では、主に欧米からの輸入品を中心に国産品を含め、
さまざまなものが使用されていた。そのため軍制式拳銃である十四年式拳銃を、
1925年(大正14年)になってようやく大日本帝国陸軍が制式採用すると、
大日本帝国海軍でも制式拳銃を開発することになり、その当時、
海軍将校准士官用の多くが欧米製、コルト社のM1911を使用してた都合上、
コルト社のM1911を設計変更して国産化することになった。
使用弾は十四年式拳銃と合わせて共通化を計るため、日本軍独自の8mmとなり、
1925年(大正14年)末から設計を行い、各種テストを繰り返して、
1928年(昭和3年)1月に大日本帝国海軍の制式自動拳銃として制定された。
正式採用
官給品受領対象者に主に支給され、大口径ゆえの威力の高さといかなる状況でも、
作動する信頼性から、その評判は上々であり、1930年代中頃になると、
大日本帝国陸軍内でも購入希望が殺到したことで、大日本帝国陸軍でも、
十四年式拳銃とともに官給品扱いとなる。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦敗戦まで日本軍の主力拳銃として、
生産・使用された。総生産数は約16万丁。
敗戦に伴う日本軍の武装解除で、他の拳銃と共に連合国側に接収されたが、
日本政府は治安の混乱に対処する目的でGHQに返還を要請し、警察への支給品として、
1946年(昭和21年)頃に使用可能な物が一部が返還、それ以降も日本の警察でも、
採用が続けられ、1951年(昭和26年)からは国内で再生産が始められ、
自衛隊発足後は支給品とされた。1972年(昭和47年)に起こった、
あさま山荘事件において、警視庁機動隊がM1911A1を使用していた。
また、SPや皇宮警察でも使用された。
16 :
名無し三等兵:2012/10/19(金) 12:00:20.58 ID:???
七式中戦車チル
帝国陸軍の戦後第一世代型MBT。
合衆国のM26パーシングやソ連のT-34-85に対抗するため、五式中戦車チリの後継として1945年に開発が始まった。
1947年に試作車が完成し、各種試験で判明したニ○○箇所近くに上る不具合を是正した後、1948年から部隊配備された。
主武装は装填補助装置付きの55口径105mm砲で、七式徹甲弾を用いた場合は射程1000mで175mm均質圧延鋼板を貫通できた。
ただし、制式化後に諜報で要目が確認されたT-54や90mm長砲身砲T54を導入したM26A2には威力不足と判定されたため、
後期生産型では砲身長を65口径に延長した九式十糎戦車砲に変更された。同砲は通常の徹甲弾でも初速が1000m/sを越えた。
装甲は砲塔前面が150mm、車体前面が100mm、砲塔及び車体側面は50mmと厚く、車体前面は良好な傾斜角度を備えていた。
それでもT-54の56口径100mm砲D10-Tに対して防御力が不安視され、前期生産型は溶接、後期生産型は増厚で強化している。
足回りは大幅な重量増加に対応するため、従来のシーソー式サスペンションではなくトーションバー・サスペンションが採用された。
エンジンは陳腐化したハ40のデチューン・信頼性向上版(750馬力)だったが、後に空冷ディーゼルエンジンに載せ替えられている。
最高速度は45km/hで、航続距離は200kmを確保した。当初稼働率は低かったが、運用経験の蓄積や小改修により改善されている。
派生型として、同時期に並行開発された七式対戦車自走砲や新設計の十五糎加農砲を搭載する試製九式十五糎自走砲が存在した。
17 :
名無し三等兵:2012/10/19(金) 12:38:04.19 ID:???
RSBCの七式中戦車のパクリとしか思えんな
18 :
名無し三等兵:2012/10/19(金) 13:00:31.96 ID:RqxUY1RQ
大日本帝国陸軍 九○式小銃
1930年(昭和10年)に大日本帝国陸軍が採用したボルトアクション式小銃。
三八式小銃の後継銃として採用され、部隊配備は1933年(昭和8年)から、
第二次世界大戦では連合国軍との戦闘に用いられた。
口径7.7mm、銃身長655mm、ライフリング4条右回り、使用弾薬 九○式普通実包、
作動方式ボルトアクション式、全長1.118mm、重量3.800g、銃口初速730m/s、
射程照尺300〜1.500m、最大射程3.380m 、
開発経緯
三八式歩兵銃の6.5mm弾(三八式実包)では弾丸が小さく軽量なため、
敵兵に致命的な負傷を与えられず、戦列復帰が早いことが問題視された。
また時代の趨勢は機関銃中心の歩兵戦術へ急速に移行しつつあり、歩兵銃弾と、
機関銃弾の銃弾の共通化が喫緊の研究課題であった。
このため大日本帝国陸軍では、大口径化による高威力化の必要性を感じていたとされる。
当時の欧米列強国の小銃弾に準じて、口径は7mm〜8mm程度が好ましいとされ、
何種類かの大口径小銃が試作、のちに7.7mm弾(八九式実包)を使用する、
新型重機関銃たる八九式重機関銃が実用化され、弾薬の補給面からも有利となる、
この7.7mm弾を使用できる事が要求に組み込まれ完成・採用されたのが九○式小銃であった。
配備実戦
1933年(昭和8年)から配備、部隊毎に随時、三八式歩兵銃と交換されていき、
1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、中国家屋の土壁を遮蔽物として交戦した場合、
数発で土壁を撃ち崩すことができ、短距離や中距離(200〜400m程度)における、
薄い装甲の軍用車両へは対物射撃では効果があった。
昭和16年に、成人男性の平均身長が約165cm平均であった日本人が使用する小銃としては、
減装弾であっても威力過大だったともされる。
1939年(昭和14年)に改良型の九九式小銃が開発され、生産を終了した。
戦後、日本占領地域に遺棄、降伏に伴う武装解除により接収された日本軍兵器が、
各国の独立戦争、内戦などで使用され、九○式小銃などの小銃も多数が使用された。
19 :
名無し三等兵:2012/10/20(土) 10:37:01.68 ID:zrGf92AJ
IV号戦車
装甲部隊の創設者ハインツ・グデーリアンにより求められた戦車の仕様は二種類で、
主力戦車として開発されたV号戦車と、ベグライトヴァーゲン(随伴車輌)と、
呼ばれる支援戦車として開発されたW号戦車で、1936年のA型量産から、
その後も戦局に対応するため改良が加えられ、最終型はD型である。
1934年5月にダイムラーベンツ、クルップ、フォマーク、ニーベルンゲンヴェルケの、
4社による競作が行われた結果、クルップ社のB.W.Iを元に試作テスト車を完成、
各種テストを繰り返し、1936年4月に生産を開始したのがA型。
車体構成
地形追従性の低いリーフスプリング・ボギー式懸架装置を採用、
V号戦車のトーションバー式に比べ路外機動性で劣ってはいるものの、
整備や修理が容易であり、車体の底に脱出ハッチを設置可能な利点がある。
また撃破された際、素早い脱出のため乗降用ハッチは全員分の数が設置されている。
当初から3人が搭乗するバスケット式の砲塔を搭載し、後の武装強化に対応できる、
大きめのターレット(回転式砲塔)リングを備えていた。戦車長は砲塔後部に位置し、
キューポラ(砲塔上部の司令塔)から周囲を監視しながら指揮に専念出来、
装填手以外の全員はタコホーン(喉頭マイク)とヘッドセットを装着し、
インターコム(車内通話装置)で騒音の中でも対話可能となっていた。
兵装と装甲
当初から歩兵支援の他、装甲の厚い戦車との対戦車戦を意識して、
より強力な長砲身75mm Kw.K.40 L/43を搭載、車体前方機銃は7.92mm、
車体装甲厚前面50mm、側面30mm、砲塔前面が20mmとされた。
20 :
名無し三等兵:2012/10/20(土) 10:40:19.27 ID:zrGf92AJ
A型
1936年4月から生産が始まった量産型で、当時としては強力な長砲身75mmを搭載、
エンジンはマイバッハHL126TRA(300hp)で最大速度は41.3km/h、
量産は1938年11月まで行われ、シャーシナンバーは80001 - 80456(456輌)、
クルップ230両、ダイムラーベンツ226両が生産された。
B型
1939年1月の生産から主砲をより砲身長の長い75mm Kw.K.40 L/48に変更、
更なる火力の強化が図られ、砲塔側面や前面右側のクラッペ(視察口)が廃止、
新型の変速機を搭載、車体前面に30mm増加装甲をボルト留めによる装着が行われ、
5月には「シュルツェン」と呼ばれる対戦車銃から側面装甲やハッチを防御する、
外装式の補助装甲板を標準装備、7月からはフェンダー上にエアフィルターの設置と、
ボルト留めで装着されていた車体前面の30mm増加装甲が溶接に変更された。
量産は1941年4月まで行われ、シャーシナンバーは80456 - 81320(864輌)、
クルップ340両、フォマーク334両、ニーベルンゲンヴェルケ190両が生産された。
21 :
名無し三等兵:2012/10/20(土) 10:44:29.62 ID:zrGf92AJ
C型
1941年4月の生産から生産性を上げるため、生産の簡略化が行われ、
砲塔旋回モーターと発電用補助エンジンを廃止、これにより旋回装置は、
ギア比二段切り替えの手動式に変更、これは乗員には不評であったとする資料が多いが、
車体が傾いた状態では旋回が容易になったり、装填手が別のハンドルで、
旋回を手伝うことができ、平地ではむしろ旋回速度が向上したとする資料もある。
これにより補助発電機用のマフラーが廃止され、車体後部を見ることでB型との、
識別が可能で、エンジン用マフラーも消音効果の無い単純な管二本のタイプに省略、
車体上面装甲の16mmへの増厚とベンチレーターカバーの大型化、
補助発電機のあった所への200リットル燃料タンクの増設が行われた。
9月からはゴムタイヤ付きだった上部支持転輪を全金属製に変更、
上部支持転輪が片側3個に減らされ、 車体のシュルツェンが対HEAT弾防御専用の金網製、
「トーマ・シールド」に変更され、車長キューポラのハッチが横旋回で開くタイプに変り、
車体前面下部の牽引具が省略、車体側面装甲版の前方を延長して、
穴をあけてシャックルを通すことで代用した。
量産は1943年2月まで行われ、シャーシナンバーは81320 - 82082(762輌)、
クルップ422両、ニーベルンゲンヴェルケ340両が生産された。
22 :
名無し三等兵:2012/10/20(土) 10:49:53.54 ID:zrGf92AJ
D型
1943年2月の生産からC型で簡略化された全金属製の上部支持転輪が、
ゴムタイヤ付きに戻され、3個だった上部支持転輪が片側4個で戻されて生産、
これらが戻された理由は簡略化したことで振動が酷くなり、各種計器が故障多発、
現場の搭乗員からの要望により戻されることになった。
量産は1944年3月まで行われ、シャーシナンバーは82082 - 82542(460輌)、
クルップ236両、ニーベルンゲンヴェルケ224両が生産され、W号戦車の生産は終了した。
本車はドイツ戦車の中で最も生産数が多く、改良が限界に達した大戦中期以降も、
主力として敗戦時まで使用、ドイツ戦車部隊のワークホース(使役馬)と呼ばれ、
同盟国にも輸出され、B型以降がイタリア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、
フィンランド、スペイン、トルコの各軍に配備され、戦後も暫く使用されていた。
チェコスロバキアが保有していた中古を購入したシリア軍のW号戦車が、
中東戦争でイスラエル国防軍のセンチュリオンと交戦した記録がある。
23 :
名無し三等兵:2012/10/21(日) 09:05:06.56 ID:Xnkr94Pa
>>16 当初稼働率云々って言い訳してるけど、
チリでもリーフだった日本が40〜50トンの戦車に対応したトーションバーを
40年代内に実用化できたとは思えないんだけど
24 :
名無し三等兵:2012/10/21(日) 12:32:47.58 ID:???
架空兵器のスレなのにコピペかよw
25 :
名無し三等兵:2012/10/22(月) 12:50:27.86 ID:rcr5h7+J
九九式装甲自動車
1938年(昭和13年)7月29日から8月11日の張鼓峰事件や、
1939年(昭和14年)5月11日-5月31日間に勃発した第一次ノモンハン事件から、
7月からの第二次ノモンハン事件を経て、9月16日の停戦時までに大量捕獲した、
ソ連軍の装輪装甲車を編入、ソ連軍45mm砲では弾薬調達に問題が生じることから、
主兵装を口径37mmの九四式三十七粍戦車砲、副兵装を九二式重機関銃に変装、
弾薬の共通化を図り、1939年(昭和14年)12月1日に制式化した車輌。
制式化にあたり、エンジン出力の違いで甲1型、甲2型、特甲型の3つに分けた。
制式化後、満州国軍を始め、関東軍、支那戦線の陸軍に配備され、
特甲1型8両が内地に向けて船積みされ、第1師団 師団司令部に配備、
昭和17年以降、主兵装を口径47mmの一式四十七粍戦車砲に変装した。
戦後、主兵装と副兵装を撤去された8両がGHQから警視庁に払下げられ、
後部キャビン幅を拡大、放水装置を搭載した放水車として、
1960年(昭和35年)まで配備されていた。
26 :
名無し三等兵:2012/10/22(月) 12:53:57.20 ID:rcr5h7+J
九九式甲1型装甲自動車
全長4.825m、全幅1.963m、全高2.494m、重量5.82t、要員数 3名、
エンジン GAZ-AA 4ストローク直列4気筒液冷ガソリン40hp、
行動距離248km、速度57〜63km/h、装甲4〜9mm、製造期間1934〜1936年、
主兵装:九四式三十七粍戦車砲、副兵装:九二式重機関銃、
総数27両、元ソ連軍BA-3装甲自動車。
九九式甲2型装甲自動車
全長4.9m、全幅2.07m、全高2.36m、重量5.12t、要員数3名、
エンジン GAZ-MM 4ストローク直列4気筒液冷ガソリン40hp、
行動距離130〜197km、速度43km/h、装甲3〜10mm、製造期間1936〜1938年、
主兵装:九四式三十七粍戦車砲、副兵装:九二式重機関銃、
総数65両、元ソ連軍BA-6装甲自動車
九九式特甲1型装甲自動車
全長4.65m、全幅2.00m、全高2.20m、重量5.14t、要員数3名、
エンジン GAZ-MM 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン50hp、
行動距離300km、速度53km/h、装甲6〜15mm、製造期間1939?1941年、
主兵装:九四式三十七粍戦車砲、副兵装:九二式重機関銃、
総数32両、元ソ連軍BA-10装甲自動車
27 :
名無し三等兵:2012/10/22(月) 15:06:31.63 ID:???
一式軽装甲車
帝国陸軍が最後に実用化した軽装甲車。開発は三菱が担当しており、外観はチホと似ていた。
当初37mm戦車砲が計画されてたが、九八式高射機関砲を改修した一○○式20mm戦車砲が採用された。
装甲は最も厚い箇所でも12mmと薄く、小銃や機関銃クラスの鋼心弾で貫通される危険性があった。
エンジンは空冷4気筒ディーゼル(80馬力)で、重量約5トンの本車を最高50km/hで走行出来た。
1942年に生産が開始されたが、戦況悪化に伴う車両整備数削減によって翌年には打ち切られた。
外地部隊には配備されず、本土決戦用に温存されていたため、実戦経験は無い。
28 :
名無し三等兵:2012/10/22(月) 15:11:18.00 ID:T2teBE4u
何で二十粍砲にしたのか理由くらい書けよ
29 :
名無し三等兵:2012/10/23(火) 00:02:33.53 ID:???
30 :
名無し三等兵:2012/10/23(火) 11:19:07.60 ID:rh6FuNa/
九九式装甲自動車
1938年(昭和13年)7月29日から8月11日の張鼓峰事件や、
1939年(昭和14年)5月11日-5月31日間に勃発した第一次ノモンハン事件から、
7月からの第二次ノモンハン事件を経て、9月16日の停戦時までに大量捕獲した、
ソ連軍の少型装輪装甲車を編入、1939年(昭和14年)12月1日に制式化した車輌。
GAZ-AAトラックの3アクスル版GAZ-AAAAとGAZ-M1乗用車に装甲を仮装し、
制式化したBA-20装甲車などが多く、総じて泥濘などに嵌り、ほとんど損傷が無いまま、
放棄されていたのが大半で、これらを捕獲、ソ連軍7.62mm DT機銃では弾薬調達に、
問題が生じることから、主武装を九六式軽機関銃、九六式軽機関銃に変装、
弾薬の共通化を図り、中型は乙、小型は丙型と制式化した装甲自動車。
制式化後、満州国軍を始め、関東軍、支那戦線の陸軍に配備されたが、
軽装備な中国軍程度の戦闘には威力を発揮するが、重火器に対しては安易に撃破され、
撃破されると部品調達が不可能なことから放棄されることがほとんどだった。
戦後、天津で残存してた丙2型10両が国民党軍に接収され、使用された。
31 :
名無し三等兵:2012/10/23(火) 11:21:11.94 ID:rh6FuNa/
九九式乙1型装甲自動車
重量4.7t、全長5.335m、全幅2.040m、全高2.13m、要員数3名、
エンジンGAZ-M1 直列4気筒液冷ガソリン50hp、行動距離380〜460km、速度43.5km/h
主武装を九六式軽機関銃2丁、装甲10mm、製造期間1932〜1936年、
総数22両、元はソ連製GAZ-Aの3-axle版、GAZ-AAAA簡易装甲車。
九九式丙1型装甲自動車
重量2.5t、全長4.31m、全幅1.75m、全高2.13m、要員数3名、
エンジンGAZ-A 直列4気筒液冷ガソリン40hp、行動距離450km、速度85km/h、
主兵装は九六式軽機関銃、装甲10mm、製造期間1936〜1945年、
総数53両、元はソ連軍BA-20装甲自動車。
九九式丙2型装甲自動車
重量3.24t、全長4.22m、全幅1.778m、全高2.263m、要員数3人、
エンジンGAZ-M1 直列4気筒液冷ガソリン50hp、行動距離340〜400km、速度52.5km/h
主兵装は九六式軽機関銃2丁、装甲5〜11mm、製造期間1937〜1945年、
総数37両、元はソ連軍BA-21装甲自動車。
32 :
名無し三等兵:2012/10/24(水) 15:57:40.88 ID:8XpPFnVb
特九七式内火艇
大日本帝国海軍はライフ誌の記事に載せられていたローブリングのアリゲーターに注目、
車輌と船舶が一体化した水陸両用車輌が上陸作戦用に適合すると判断し、
呉海軍工廠で車輌開発をスタート、開発名「特型内火艇甲10型」と呼称した。
1936年(昭和11年)7月に試作車が完成、各種テストのもと、翌年の1月に、
特九七式内火艇アミとして制式化、量産が始まった。
全長7850m、全幅3070m、全高2470m、重量17.2t、乗員数3名、搭載乗員30名、
エンジンは三菱製の空冷直列6気筒ディーゼル170hp、
懸架・駆動:独立懸架およびシーソー式連動懸架、
速度25km/h、水上10km/h、行動距離220km、65km(水上)、
装甲10-15mm、主武装:九六式四十七粍戦車砲、副武装:九七式7.7mm車載重機×2
本車は1937年(昭和12年)1月から1941年(昭和16年)までに約830輛が完成し、
太平洋戦争開始とともに上陸作戦、南方の島嶼地域に展開する海軍陸戦隊に配備、
補給物資の輸送などに使用、活躍した。
33 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 16:38:42.32 ID:ft+WcUG0
V号戦車
試作車で何度も失敗を重ね、実際に製造されたのはY号戦車の後であるが、
開発が始まったのと番号としてはY号戦車の前である。
1939年、ソ連に潜入してたスパイからドイツ国防軍へ新型戦車A-32の情報が入り、
1:避弾経始を取り入れた傾斜装甲を採用している
2:幅広の履帯を有し、柔らかい土の上での機動性を向上させている
3:76.2mm砲を装備している
これらの情報を得たドイツ国防軍ではハインツ・グデーリアン将軍の元、
ダイムラー・ベンツ社とMAN社に30-35t級新型中戦車の開発を1940年4月までに発注、
両社で開発が始まり、最終的にダイムラーベンツ社とMAN社の合同案で決着、
開発名VK30.02名で、当初35tクラスということで設計されたが、設計段階から重量が増加、
設計がほぼ出来上がった時点で車体前面装甲を60mmから80mmに変更、および砲塔前面を、
80mmから100mmへ変更などしたため試作車の開発は遅れに遅れ、最終設計での重量は、
重戦車クラスの約45tになり、最高速度は60km/h計画が55km/hに落ちてしまった。
全長8660m、車体長6870m、全幅3270m、全高2850m、重量44.8t
エンジン Maybach HL230P30水冷4ストロークV型12気筒ガソリン700 hp(520 kW)
速度46-55 km/h(整地)、27-33 km/h(不整地)、行動距離170-250km、
懸架方式 ダブルトーションバー方式、乗員5名
装甲 砲塔前面110mm 傾斜11度、側・後面45mm 傾斜25度、車体前面80mm 傾斜55度
側面40mm 傾斜40度、後面40mm 傾斜30度、
主砲は70口径75mm Kw.K.42 L/70(79発)、副武装は7.92 mm MG34機関銃×2(4,200発)、
この新型中戦車のすぐ後に開発に入ったY号重戦車の試作車が先に完成してしまうほど、
変更と困難を極め、試作車のテスト中にソ連侵攻のバルバロッサ作戦が始まり、
1942年1月15日に「V号戦車パンターA型(Sd.Kfz.171)」と命名、すぐに製造が始まった。
34 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 16:40:39.68 ID:ft+WcUG0
パンターA型
1942年中にMAN、ダイムラー・ベンツ、ヘンシェル、MNH各社で442輌が生産された最初の型。
このうちヘンシェル社では車体のみが製造され、砲塔の製造はヴェクマン社が担当している。
車体番号は210001〜210442
パンターB型
車体前面のMGクラッペが新型ボールマウント式機銃架、クーゲルブレンデ80に改められ、
砲塔には装甲が強化されペリスコープによる間接視認式となった鋳造製の新型キューポラ、
主砲用照準器は単眼式のTZF12aとなり、砲塔旋回速度の変更ができるようになり、
標的の捕捉が容易になった。主砲前面防循のショットトラップ対策で防循下部に、
“あご”状の張り出しを設け、 砲塔上面にSマインを発射できる近接防御兵器の搭載され、
補助装甲のシュルツェンを装着、一部の車輛は赤外線暗視装置を搭載、実戦使用された。
1943年・1944年に443号車以降、MAN、ダイムラ・ーベンツ、MNH、デマーク各社により、
約2200輌が生産された。車体番号は210442〜212642
パンターC型
操縦手と無線手用のハッチは、それまでの持ち上げてから横旋回で開くタイプから、
ヒンジ付きで普通に上に開くタイプに変更、弱点だった車体側面装甲が若干強化され、
排気管も消炎型の物に改められた。 1944年・1945年にMAN、ダイムラー・ベンツ、
MNH各社で1945年4月に工場が占領されるまで2953輌が生産され続けた。
車体番号は212642〜215595
ソ連軍ではパンターを優秀な戦車と認識、戦争後期に捕獲した本車で戦車隊を編成した。
また戦後、フランスやブルガリアもパンターのみで戦車部隊を編成している。
(フランスは占領時代の工場で生産、ブルガリアはソ連から鹵獲品を供与された)
ブルガリア軍が保有していた中古を購入したシリア軍にも配備されていた。
35 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 17:51:02.55 ID:???
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36 :
名無し三等兵:2012/10/27(土) 09:24:08.24 ID:???
空軍降下猟兵用MBT
八洲重工製
「MBTー90マズルカ空挺機動戦車
兵装:
150_主砲
30_ガトリング機関砲
多目的複合誘導ミサイル」
他
エンジン:ターボ付ハイパーロータリー
乗員3名
銀星工業製
試作型、自立型空挺機動戦車
MBTー99テムジン
兵装:
155_主砲
自動迎撃防御システム30_レーザー機関砲
自己誘導多目的ミサイル
エンジン:ガスタービン
他
履帯×4
乗員は2名
(自立型コンピューターが補佐、乗員が死亡しても、無人操縦プログラム、コマンドUにより作戦継続が可能)
37 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 13:13:58.28 ID:EBGn+cLU
T-35重戦車
ソ連の赤軍が1933年に制式化した多砲塔戦車で、本車は実戦を経験した戦車の中で、
マウスに次いで大きい物であり、また史上唯一量産に至った5砲塔型の多砲塔戦車で、
この形態の車輛としては最多の生産量である試作車2輛を含めた66輛が生産された。
1930年、赤軍では敵戦車の脅威を排除しつつ防御陣地を突破する重戦車が必要であるとされ、
インディペンデント重戦車の購入打診をイギリスにしたが許可が下りず、
やむなく自主開発する運びとなり、インディペンデント重戦車を参考にしながら、
新型多砲塔重戦車の設計が行われ、ハリコフ蒸気機関車工場で作業が進められた。
1933年初頭には試作車T-32が完成、同年の5月1日のメーデーの軍事パレードに参加した。
その後、一部の武装の変更、T-28やBT戦車、T-37水陸両用軽戦車などの部品やエンジン、
砲塔の共通化を図るなどの改良がなされ、8月11日にT-35として制式化され、
1938年末に全車の主砲、副砲を交換後、冬戦争で実戦参加した。
全長9.72m、全幅3.20m、全高3.43m、重量45t、装甲35mm、
エンジン M-17M 4ストロークV型12気筒液冷ガソリンエンジン500馬力、
コイルスプリング懸架方式、速度30km/h、行動距離150km、乗員11名
主砲 52-K 85mm高射砲 ×1、副武装 53-K 45mm対戦車砲 ×2、7.62 mm機関銃 ×6
38 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 13:15:11.15 ID:EBGn+cLU
1939年にフィンランドとの冬戦争では巨大なため容易に敵に発見され、
また攻撃を受けたことでT-35は全く戦果をあげられなかった。
スターリンも多砲塔戦車に対して否定的な見方を持つようになり、
『君たちは何故戦車の中に百貨店など作ろうとするのかね』と皮肉をこぼし、
以後ソ連でも多砲塔戦車の開発は打ち切られた。
その後、T-35は自走自衛火砲として運用が続けられることが決定され、
軍事アカデミーへ教材として提供された他は独ソ戦が始まると、
ウクライナやモスクワの戦いなどの戦場で再び前線運用に入ったが、
故障や車高が高いことで撃破、失われたが多かった。
現在ではモスクワのクビンカ博物館を始め、冬戦争でフィンランド軍が本車を捕獲、
自国の戦力とした使用した生き残りの2輛が余生を送っている。
39 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 15:34:53.41 ID:DQedA8Nn
14式コンドーム
40 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 15:46:01.59 ID:???
41 :
名無し三等兵:2012/10/30(火) 16:40:25.72 ID:QIohr41N
零式水上偵察機改
昭和15年(1940年)に愛知航空機が製作、正式採用した零式水上偵察機をベースに、
日本海軍が川西航空機製作所に改良を打診、昭和16年(1941年)1月から着手、
同年8月に2機が完成、海軍が横須賀と相模湾で試験を行った結果、
扱いやすく零式水上偵察機より性能が上がったことで海軍も絶賛し、
昭和16年(1941年)11月に零式水上偵察機改として制式採用された。
諸元
乗員:3名、全長:11.50m。全高:4.70m、翼幅:14.50m、翼面積:36.20m2
空虚重量:2,554kg、運用時重量:3,856kg、
動力:三菱 金星 62型 空冷式複列星型エンジン14気筒 1,560馬力
性能
最大速度:437 km/h
航続距離: 最大 3,126 km /14.9h
実用上昇限度: 8,450 m
上昇率: 3,000 m/5'27"
武装
武装 機首固定:7.7mm×2、後方旋回:7.7mm×1
爆弾: 60 kg 爆弾×4 または 250kg 爆弾×1
制式化と生産開始が開戦前夜だったこともあり、艦船や基地への配備が間に合わず、
海軍の主力艦船に本機が搭載されるのは昭和17年(1942年)7月以降で、
零式水上偵察機と共に艦隊や外地の基地の目として盛んに活動した。
昭和18年以降は零式水上偵察機が速度不足・加速力不足になると、本機が活用され、
愛知航空機、渡辺鉄工所、広工廠でも生産され、総生産数は827機で、
この内終戦時には内地に約100機、外地に約150機以上が残存していた。
扱いやすい性能に目を付けたGHQは零式水上偵察機改を集め、各国に払下げ、
そのうちの6機がタイで現在も遊覧飛行に使用されている。
42 :
名無し三等兵:2012/11/05(月) 02:48:15.18 ID:ymnAPVtF
13式駆逐戦車
【概要】
10式戦車の配備により退役した74式戦車の車体を流用し
・旋回砲塔を撤去し固定砲塔に10式戦車に搭載されている
44口径120mm砲を搭載
・C4I機能の付与
・車体上部に遠隔操作式12.7mm機銃を搭載
・センサー等は10式戦車との共用化を図る
【運用】
・待ち伏せによる対戦車攻撃任務
・普通科連隊に対する火力支援
43 :
名無し三等兵:2012/11/05(月) 03:21:49.10 ID:ymnAPVtF
大和型打撃護衛艦
【基準排水量】30000t
【速力】30kt
【武装】VLS120セルx2(巡航/対地/対艦/SM2/ESSM)
155mm自動砲x1、76mm速射砲x2
RAM21連装発射機x1、20mmCIWSx2
【搭載機】哨戒ヘリ4機、無人ヘリ(ミサイル誘導/偵察)4機搭載
(整備区画有り)
【乗員数】500名
【運用】敵策源地の攻撃、離島奪還時の火力支援、対水上打撃戦
艦隊防空、相手国への抑止並びに威嚇
【備考】・多数の艦を整備し火力を分散させることが望ましいが
多数の艦を運用できるだけの人員の確保が困難なため
リスクを承知した上で大型艦を建造し火力を一艦に
集約することとした。
・相手国に対する抑止並びに威圧を行うには正規空母を用いることが
最も有効だが正規空母を運用できるだけの予算、人員の確保が
困難な為、大型かつ強力な水上戦闘艦にて代用することとした。
・ダメージコントロールに影響を与えない程度の積極的な省力化
並びに高燃費な機関の搭載により運用コスト並びに人員の削減を図った。
44 :
名無し三等兵:2012/11/05(月) 05:26:36.28 ID:ymnAPVtF
新型汎用護衛艦
【基準排水量】5500t
【速力】30kt
【武装】VLS32セル(アスロック/ESSM)、対艦ミサイル発射機x2
155mm自動砲x1、SEARAMx2、20mmCIWSx2
【搭載機】哨戒ヘリ2機
【乗員数】150名
【運用】対水上打撃戦、対潜水艦戦、離島奪還時の火力支援
【備考】・大和型打撃護衛艦x1、こんごう型護衛艦x1
新型汎用護衛艦x2により機動打撃グループを編成
・大和型打撃護衛艦と共に離島奪還時の火力支援を
行うことを想定し155mm自動砲を搭載
【艦隊編成私案】
・機動打撃グループ(4個隊)
打撃護衛艦x1、こんごう型護衛艦x1、新型汎用護衛艦x2
・ミサイル防衛グループ(6個隊)
あたご型護衛艦x1、汎用護衛艦x3
・護衛艦隊直轄艦
ひゅうが型護衛艦x2、19500t型護衛艦x2
おおすみ型輸送艦x3、新型輸送艦
45 :
名無し三等兵:2012/11/06(火) 08:55:04.58 ID:IFy+4O7X
九八式小型乗用車
九五式小型乗用車に触発されて大日本帝国海軍が陸戦隊用、占領地港湾用に、
不整地走行性能に富む、小型の偵察・連絡用車両の開発を日産自動車鰍ノ依頼、
四輪駆動機構を備え、搭載量(乗員4名:積載500kg)の要求で開発され、
試作車での各種テスト後、全長4890mm、全幅1740mm、全高1870mm、重量1430kg、
定員4名、積載700kg、エンジンはOHV直列4気筒2000ccディーゼル50hp、
最高速度60km/h〜68km/h、梯子型シャーシに前後とも縦置きリーフ・スプリング、
リジッド・アクスルを備え、1938年(昭和13年)に制式化、量産された。
太平洋戦争(大東亜戦争)が始まると、占領地の港湾や上陸戦には必要不可欠となり、
軽戦闘車両として車体中央に軽機関銃(九六式軽機関銃・九九式軽機関銃)を装備、
1943年(昭和18年)からはグリル、ボンネット、フェンダー部分の外装を簡略化した、
2型の製造に移行、1944年(昭和19年)3月の製造中止までに計6515台が生産された。
フロントグリルには海軍を表す錨の白章が付けられていた。
1型
1938年(昭和13年)から1943年(昭和18年)2月までに製造、
車体は民間型そのままで、デザインはダットサン15型4ドア・フェートンの、
全長と全幅を広げ、車体後部を荷台にして、新開発ディーゼルエンジンと
四輪駆動機構を付けた。
2型
1943年(昭和18年)3月から1944年(昭和19年)4月までに製造。
オーバーヒート防止策でラジエーターグリルの大型化、サイドルーバーの大型化、
丸みのついた前後フェンダーも生産性の良い角型に変更された。
軽トラック的な貨客両用運用がされたアメリカ陸軍のジープに相当する車両で、
ジープと比較すると、性能面では劣ったがディーゼルエンジンを搭載したことで、
汎用軍用車両のコンセプトとしてはジープ以上の評価車両として後世に影響を残した。
また当時の日本の基礎工業力など国力からくる生産力の低さから量産規模が小さすぎ、
製造台数が少ないことで、軍事上の戦術的・戦略的影響を顕著に残すことはなかった。
46 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 19:12:52.57 ID:???
ファンタ噴出式機関銃MK25
振りまくったファンタの蓋を開けると噴き出す機構を利用して(ry
47 :
名無し三等兵:2012/11/09(金) 19:06:34.62 ID:???
>田宮模型が子供たち向けに親しみやすく格好のよい商品名として、
>ヤークトパンターの模型にロンメル将軍の名前を付けていたためである
>(形式名だけや、発音しにくかったり、覚えにくい名称のプラモデルは子供受けが良くなかった。
>田宮模型の独断による命名であり、
>実際にヤークトパンターの開発や運用にロンメル将軍は一切関与していない)。
48 :
名無し三等兵:2012/11/12(月) 09:48:48.65 ID:a4IewTlc
イタリア P32/41
1938年に設計開始され、最初の試作車輛は1939年まで完成、当初の計画では、
重量32t級の重戦車、75mm砲を装備するもので、P32という名前を付した。
開発作業は機関のみを除いて素早く進んだが、搭載するエンジンをガソリン、
ディーゼルにするかで難航、結局1941年に450馬力のガソリンエンジンを搭載した。
この時点でフィアット社とアンサルド社で量産を始めたが、後に設計された、
P26/40が優先生産されることが決定されたため、生産数は203両で打ち切られた。
生産が打ち切られた理由として、P26/40と比べ性能が変らない、重量が重いなど、
P32/41が不利となったことだった。
生産された多くがイタリア降伏後、ドイツ軍が捕獲、使用され、
1945年までに失われた。
49 :
名無し三等兵:2012/11/19(月) 16:43:30.93 ID:MPxF0llh
M60T2
新戦車T-62に対抗するためM60パットンシリーズの主砲を50口径90mm M3A1連装にした型。
M60に搭載されていた51口径105mm M68では連装に無理が生じることから、
M46シリーズに搭載されていた50口径90mm M3A1砲を二基、並行に設置して連装型にした。
試作車は1966年に完成、テストを繰り返し、1967年に少量生産開始、1970年までに、
331両を製造したところで製造は中止された。中止された理由として、連装であることから、
弾薬の消費が激しいこと、連装で射撃した場合、衝撃も酷く、連装射撃を繰り返すと故障が頻発した。
テスト当時、連装で射撃することは無かったことからテスト不足による人的ミスとされ、
以降、陸軍のテスト項目の変更と基準引上げを変更させた車輌でもあった。
製造された331両は新兵養成用に使用されたが、連装であるため、M60とは射撃操作が違い、
訓練にも役立たないと烙印を押されたことで、全車が引退、半数が解体されたが、
残り半数は漁礁にするためにニューオリンズ沖のメキシコ湾に沈められた。
50 :
名無し三等兵:2012/11/22(木) 11:26:18.50 ID:shjs83aW
鳳翔型航空母艦
鳳翔は設計と開発段階から純粋空母としての運行を目的として建造された艦(正規空母)として、
世界で最初に完成、翌年には二番艦も完成、第二次世界大戦に実戦投入された艦である。
1917年に着工した時点では隠匿され、特務艦名義で着工、建造当初は起倒式の3本煙突と、
安定性強化のため当時の新技術であったジャイロ・スタビライザーを採用している。
全通形式の飛行甲板採用の他、アイランド構造の戦闘指揮所(艦橋)を持っており、
右舷に艦橋と煙突を集中させたことから、新造時から近代空母の雛形としての形状を成していた。
また太平洋戦争開戦直前に艦載機用カタパルトの装備が行われたが、搭載機数の少なさから、
緒戦から対潜哨戒や艦隊護衛、輸送船団護衛用の空母として運用された。
全長:180.5m、艦幅:20.2m、全幅:23.5m、吃水:5.5m、飛行甲板 長さ:181.5m、幅:23.7m
機関 ロ号艦本式#ロ号艦本式重油専焼水管缶4基+同石炭重油混焼缶4基
パーソンズ式ギヤード・タービン2基2軸推進、最大出力:32,000hp、最大速力:26.0ノット
航続距離:15ノット/11,000海里、燃料:重油:2,900トン+石炭:960トン
兵装:三年式14cm(50口径)連装速射砲8基16門、三年式8cm(40口径)連装高角砲4基8門
7.62mm(80口径)単装機銃16丁、搭載機:常用16機、補用5機、乗員:士官、兵員554名
51 :
名無し三等兵:2012/11/22(木) 11:28:30.35 ID:shjs83aW
鳳翔
1917年12月16日:起工、1919年11月13日:進水 浅野造船所。
1920年12月27日:竣工 横須賀海軍工廠。
1925年:連合艦隊編入。
1928年:第一航空戦隊に編入。
1937年:日華事変参加後、兵装の強化。
1940年:第三航空戦隊に編入。
1942年:ミッドウェー海戦では艦隊護衛、海戦後は対潜哨戒空母になる。
1943年9月4日:アメリカ潜水艦ブリームの雷撃されたが信管不作動により船体に魚雷が刺さったまま、
マニラに到着、同地で修理後、復帰。
1944年8月29日:船団護衛中に米潜水艦ダーター(USS Darter, SS-227) の放った魚雷1本が、
船首に命中し、鳳翔は戦死者3名、負傷者7名を出し、6ノット航行で船団から離脱、
ダーターの追撃を受けたが搭載機の反撃によってダーターは追撃を諦め、海域から去る。
1945年10月5日:除籍後、復員艦として使用。
1946年8月31日:解体開始。
1947年5月1日:解体完了。
鳳瑞
1918年3月1日:起工、1920年4月20日:進水 横浜船渠。
1921年5月15日:竣工 横須賀海軍工廠。
1925年:連合艦隊編入。
1928年:第二航空戦隊に編入。
1937年:日華事変参加後、兵装の強化。
1940年:第四航空戦隊に編入。
1942年:ミッドウェー海戦では艦隊護衛、海戦後は対潜哨戒空母になる。
1943年4月21日:対潜哨戒中、バンカ海峡において艦上攻撃機が改サーゴ級潜水艦1隻を撃沈した。
1944年11月9日:南方に向う戦艦伊勢を始めとする艦隊の護衛を就く。
1945年1月12日:クイニョン湾沖を航行中のヒ86船団に米第38任務部隊が空爆、
続いてアメリカ潜水艦フラッシャーの雷撃により船体中央付近に魚雷2本が命中、浸水が激しくなり、
クイニョン海岸に向けて転舵、浅瀬に載り上げたところを激しく攻撃され炎上、全損となった。
1946年1月15日:除籍
52 :
名無し三等兵:2012/11/27(火) 21:08:57.36 ID:???
信濃級戦艦
大和型戦艦を拡大発展した大型艦で、艦隊決戦の切り札として計画された。
ただ、大和をしのぐ巨艦の建造には様々な技術的困難や予算上の制約が存在し、
風雲急を告げる国際情勢を前に「極力工数・予算を削減する」「大和型戦艦と極力部品を共用する」
という目標のもと建造された、一種の戦時急造艦となった。
但し「勝つまでの数年持てばいい」という考えは採用されていない。
全長:305m 全幅:41.2m 機関出力220000馬力、最大速度30.1ノット
武装
主砲:46cm45口径3連装5基15門を全部に雛壇式に3基、後部に背負式に2基装備した。
副砲:なし
高角砲:長10cm砲連装16基32門
部品を共用してコストを削減するために主砲・砲塔や装甲、測距儀などの諸装備は大和級とほぼ同一のものが使用されている。
信濃
1942年6月6日:進水
1944年2月28日:竣工 横須賀海軍工廠
1944年10月:捷一号作戦に参加。大和・武蔵らとともに米旧式戦艦群と上陸船団を撃滅。
1945年7月:天一号作戦。第二艦隊(司令長官・宇垣纏中将)旗艦として沖縄に突入。
悪天候を突いて空襲をかいくぐり沖縄沖の米艦隊を撃破するも大破。
大神工廠へどうにか帰投するも修理開始は停戦後になる。
美濃
1942年8月15日:進水
1944年9月1日:竣工 大神海軍工廠
1944年10月:捷一号作戦に参加するも、練度不足からあまり活躍できず。
1945年7月:天一号作戦。悪天候の中アイオワ、ニュージャージーを単独で撃沈する武勲を立てるもその後大破。
信濃と同じく修理は停戦後になる。
53 :
名無し三等兵:2012/12/12(水) 17:26:36.58 ID:MNFDX9Qu
大神海軍工廠って何処?
54 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 13:24:16.36 ID:DyqyK4H3
赤城型航空母艦
かつて大日本帝国海軍に所属した航空母艦である。同型艦は天城。
太平洋戦争初期の重要な海戦において、機動部隊の旗艦として活躍したが、1942年(昭和17年)、
ミッドウェー海戦で天城とともに沈没した。
日本海軍が計画、後に計画破綻した八八艦隊計画により、「41cm砲10門、排水量41,000t、速力30ノット」という、
規模の天城型巡洋戦艦2隻として赤城は呉海軍工廠、天城は佐世保工廠でそれぞれ建造され、
赤城は1920年(大正9年)12月6日、天城は1921年(大正10年)11月4日に起工した。
完成前の1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が締結されたことから、条約に従い、主力艦としての、
廃艦処分を回避するため、当時は補助艦艇であった航空母艦に改造されることになり、それでも巡洋戦艦として、
完成していた船体を無理矢理空母に改造したため、当初から不具合が続出、計画では全長254m(770呎)、
幅33m(110呎)、排水量27,000t、速力31.75ノット、36機搭載という規模だった。
艦名は戦艦の由来、山名が付けられていたことから、そのまま引き継いだ。
55 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 13:25:23.87 ID:DyqyK4H3
初期の艦形
建造当初の飛行甲板はイギリス海軍空母「フューリアス」の第二次改装を参考にして三段式であった。
ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板も、
ほぼ使われていないという有様だった。着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫から、
伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。また煙突は右舷に設置され、重油専焼缶の第一煙突は、
飛行甲板上の乱流を防止するため海面側に向け、発着艦時には海水を噴霧して冷却のうえ排煙し、
重油・石炭混焼缶の第二煙突を上方に向ける方式がとられた。この独特の構造は世界の過去から、
現在の空母の中でも後にも先にも赤城型だけで、完成後数年で飛行甲板右舷に航海用の小型艦橋が設置された。
上述の通り三段甲板の中段に20cm連装砲2基、後部両舷にそれぞれ単装砲を3基ずつ据え、合計で20cm砲を、
10門装備する。これはワシントン海軍軍縮条約の規定の上限であり、重巡洋艦と同等である。
当時はまだ空母という艦種ができたばかりで用法が定まっておらず、また搭載航空機の航続距離も短く、
性能も低かったため、空母にも砲戦の機会があると考えられたからである。
なお、巡洋戦艦として計画されていたときよりも排水量が大幅に減り、喫水が浅くなった。
56 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 13:41:25.23 ID:DyqyK4H3
近代化改装
航空機の発達で飛行甲板の延長が必要となり、1938年(昭和13年)に全通式の飛行甲板に延長するなどの、
近代化改装が赤城、天城の両艦とも佐世保海軍工廠でほどこされた。艦型は一新され、
排水量も41,300t(公試状態)となった。この時、下二段は閉鎖式の格納庫甲板となり拡張されて、
常用の搭載機も66機に増えた。ただし赤城の改装は予算上の制約から略式なものにとどまり、
用兵側からはやや不満の残る仕上がりとなった。
第一煙突と第二煙突は一つにまとめられ、右舷中央部に設置、また艦橋を艦中央部に設置することになり、
右舷のままでは煙突と干渉するため反対側の左舷中央部に設置した。この艦橋配置は右舷の煙突と相まって、
気流を乱し、艦載機の着艦を難しくさせた他、排煙が艦橋に流れ込みやすく、見張りに支障をきたすこと、
格納庫面積が狭くなるといった欠点があり、以後は大型空母「海龍型」に採用されただけである。
航空機の着艦時には煙突内に海水を噴射して煙を吸収させるため、煙突から滝が落ちているように見える。
右舷後部の居住区は煙突の排気が流れ込むため窓を開けられず、居住性の悪さから「人殺し長屋」の、
異名があった。煙突を艦橋と一体化、煤煙を上方へ逃がす欧米空母型の艦橋・煙突を採用した、
飛鷹型航空母艦「隼鷹」を見た赤城将兵が、これからは軍艦の居住性が良くなると解説した事もある。
また赤城型では結核と赤痢を発症する兵が多く、暑さと空気の悪さのために廊下でハンモックを吊り、
睡眠する兵や、飛行機格納庫に寝床を作る兵が多かった。
57 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 13:42:58.14 ID:DyqyK4H3
武装面では旧式の三連装一〇式45口径12cm高角砲を、新式の三連装八九式40口径12.7cm高角砲に、
換装・増強できなかった。設置位置も低い位置のままだったので、依然として反対舷方向は撃てなかった。
三段空母時代、中段甲板に設置されていた砲塔式の20cm砲は撤去されたが、艦尾舷側に装備した、
計6門の20cm砲は近代化改装後も装備、若手士官は「発射すると飛行甲板がめくれあがる無用の長物」と、
揶揄している。ミッドウェー海戦で「赤城」は20cm砲最低54発を発射しているが、飛行甲板への、
影響については不明である。96式25mm機銃の数は大型空母「海龍型」よりも少なく、4万トン級という、
船体の大きさの割に、真珠湾攻撃に参加した空母6隻の中で対空火力は最も貧弱だった。
飛行甲板に手すりはなかったが、一段低い高角砲と機銃甲板の間にポケットと呼ばれる整備兵退避場所が有り、
さらにネットが張ってあり、落下事故を防止していた。
二段の格納庫も船体の大きさの割には狭く、搭載機数は「加賀型」、「海龍型」、「海鷹型」より少なく、
大蔵省の記録では、戦闘機28、攻撃機54、計82、補用機40、総計122となっている。
太平洋戦争開戦時の常用搭載機数は艦上戦闘機20機、艦上爆撃機20機、艦上攻撃機28機。
航空機はエレベーターで上下するが、乗組員は左舷のタラップで飛行甲板へ上がった。
各種の改装によって排水量が1万tほど増加したにもかかわらず、機関出力はあまり向上しなかったため、
速力は32.1ノットから30.2ノットに低下した(実速29ノット前後という報告もある)。
航続距離もあまり延長されなかったため、遠距離外洋航行が問題になる真珠湾攻撃作戦の計画段階では、
赤城、天城とともに作戦から外されることが検討されたこともあった。
58 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 14:03:25.24 ID:DyqyK4H3
性能諸元(近代化改装後)
全長:艦体261.75m、水線長:251.46m、全幅:33.35m、飛行甲板:250.45m×33.5m
排水量/基準:36,500t/公試:41,300t、機関:133,000hp、最大速力:30.2ノット
巡航速度:16ノット、航続距離:8,200浬、乗員:1,630名
兵装:20cm砲6基6門、12cm三連装高角砲 8基24門、25mm三連装機銃14基42門
搭載機/常用66機/補用25機
1941年(昭和16年)12月常用機-零式艦上戦闘機:20機、九九式艦上爆撃機20機、九七式艦上攻撃機28機
59 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 14:06:18.91 ID:DyqyK4H3
ミッドウェー海戦
赤城と天城は1942年(昭和17年)6月に生起したミッドウェー海戦に参加する。
日本時間6月5日午前1時30分、日本軍南雲機動部隊はミッドウェー島の米軍基地に攻撃部隊を発進させた。
赤城と天城からは零式艦上戦闘機18機(空中戦で1機喪失)、九九式艦上爆撃機34機が発進した。
空中攻撃隊総指揮官を務めるはずだった淵田美津雄中佐は盲腸手術からの回復期で出撃できず、
飛行甲板から攻撃隊を見送った。その彼の足元の航空機格納庫では、魚雷を搭載した九七式艦上攻撃機が、
米軍機動部隊出現に備えて待機、第一次攻撃隊発進後、魚雷を搭載した第二次攻撃隊の九七艦攻が、
飛行甲板に揚げられた。午前4時、攻撃を終えた第一次攻撃隊が『第二次攻撃の必要性あり』と伝達する。
南雲忠一司令官は兵装転換を各艦に命令、赤城、天城では飛行甲板の九七艦攻を格納庫に戻して魚雷を外し、
陸用爆弾に転換する作業が始まる。その最中、南雲機動部隊はミッドウェー基地から飛来した米軍航空機の、
空襲を受けた。赤城と天城は攻撃を全て回避、直衛の零戦を発進させて米軍機の攻撃を撃退した。
午前4時40分、重巡洋艦「利根」の零式水上偵察機が予期せぬ米軍部隊の存在を報告したため、
南雲司令部は兵装転換を45分に一時中止する。5時20分に詳細が入り敵空母の存在を確認。
5時30分、ミッドウェー基地への攻撃をとりやめ、米軍機動部隊を攻撃するため魚雷兵装転換命令を出す。
さらに南雲機動部隊上空に帰還した第一次攻撃隊の着艦や、直衛戦闘機の燃料・弾薬補給の着艦・発艦を、
優先させた。赤城と天城の格納庫では兵装転換を終えていた6機の九七艦攻への魚雷再装着作業が始まる。
格納庫には、取り外された爆弾が乱雑に転がっている状態となった。
60 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 14:08:50.90 ID:DyqyK4H3
赤城と天城は第一次攻撃隊34機の収容を優先、午前6時18分に収容を終える。その後も米軍は、
南雲機動部隊に波状攻撃を行い、直掩の零戦隊は米軍のTBFアベンジャー雷撃機に対応するため、
海面付近に降下した。各艦の注意が散漫になっていた日本時間午前7時22分、天城はアメリカ海軍空母、
「ホーネット」から発進した艦載機TBFアベンジャーからの雷撃を受け、右舷前方に魚雷3発が命中、
大音響とともに大きな水柱が三箇所から上がり、天城を包み込んだ。
また午前7時26分、赤城はアメリカ海軍空母「エンタープライズ」から発進した艦載機SBDドーントレスの、
急降下爆撃を受け、面舵にて回避に努めたが2発が命中、1発が至近弾となる。命中した2発は1発目が、
中部エレベーター付近に命中、飛行甲板を突き破って格納庫内で炸裂。2発目が左舷後部甲板縁で炸裂、
舵を破壊した。赤城の飛行甲板にいた牧島カメラマンによれば、初弾が左舷艦橋附近至近弾、
次発が飛行甲板中央、三発目が艦尾至近弾となり、飛行甲板後部がめくれあがったという。
艦橋にいた橋本信号兵曹も三発目は命中弾ではなく至近弾と回想している。当時、赤城の飛行甲板上では、
直衛戦闘機の発艦準備中で、零戦1機が発艦を終えた直後だった。滑走中だった二番機は甲板中央で、
逆立ちとなり、炎上した。
61 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 14:10:55.96 ID:DyqyK4H3
赤城の格納庫内には3機の零戦、魚雷装備艦攻18機、第一次攻撃隊として着艦収容したばかりの、
艦爆18機があった。特に九七艦攻は米軍機動部隊攻撃のため燃料を満載し、魚雷を装備中だった。
その周囲には艦攻から外した陸用爆弾が散乱していたという。中央部に命中した米軍機の爆弾により、
これらが誘爆を次々と始め、それが赤城の致命傷となった。午前7時42分、赤城は舵故障により洋上に停止。
乗組員は炎上する飛行甲板にいられず、前部錨甲板か後部甲板に追い詰められてしまう。
艦橋にも炎に追われた乗組員が逃げ込んだが、逆立ちとなった炎上零戦から艦橋に延焼した。
その艦橋に居た南雲中将や草鹿龍之介参謀長ら司令部は艦橋前面の小窓から飛行甲板に下りた。
彼らは艦首前甲板に移り、短艇で赤城を脱出した。源田実航空参謀は海龍と神龍がいれば…とつぶやき、
その後は南雲中将以下、全員が無言だったという。午前7時46分、南雲忠一第一航空艦隊司令長官と、
司令部人員は軽巡洋艦「長良」(第十戦隊旗艦)に移乗した。駆逐艦を経由したかどうか諸説あるが、
牧島カメラマンや橋本の回想では「長良」に直接移乗している。
62 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 14:16:15.87 ID:DyqyK4H3
沈没
赤城は魚雷を被雷しておらず、格納庫内部の誘爆によって内部から焼き尽くされていった。
甲板士官が独断で防火扉を開放したため、負傷者の移動と応急班員の移動を迅速に行うことが出来たという。
午前8時、機関部との連絡が途絶。罐室の機関科兵は脱出に成功したが、タービン室と発電機室の兵は、
脱出連絡が間に合わず、全員戦死した。午前8時20分、青木泰二郎大佐は火勢が強まった艦橋から、
飛行甲板前部に移り、負傷兵の駆逐艦移乗を命じる。この時点で格納庫内の魚雷と爆弾の誘爆により、
飛行甲板は大火災となり、艦長以下幹部達は艦首錨甲板(飛行甲板と船体の間)に追い込まれた。
天城は右舷前方、三箇所のの破砕口から大量の海水が雪崩込み、防水扉で何とか浸水を食い止めてる状態で、
その防水扉も被雷で変形を生じ、隙間から海水が染み出していた。午前8時49分、防水扉の一つが破断、
大量の海水が流れ込んできた。午前9時3分、赤城はなぜか自然に前進をはじめ、右回りに円を描いた。
午前10時3分、天城の船体が右15度ほど傾いた。午前10時38分、赤城内に設置されていた昭和天皇の写真、
御真影を駆逐艦「野分」に移す。この後、後部との連絡が可能となったが、正午ちょうどに前部格納庫で、
再び大爆発が起きた。午前11時11分、浸水による天城の傾きが大きくなり、足を踏ん張らないと甲板に、
立っていられない状態となった。乗組員は必死に排水ポンプで海水を船外に排出していたが、
浸水のほうが上回り、やがて天城の艦長、佐田は艦内放送で乗員に退船命令命を発し、
乗員は駆逐艦「雷」、「景」に移乗を開始する。午後1時、青木艦長は赤城の乗組員を駆逐艦「野分」や、
「嵐」に移乗させ、それでも青木は赤城を救おうと努力し、午後3時20分には機関部の復旧を試みたが、
ガスと熱気のため、作業不可能であった。
63 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 14:17:23.70 ID:DyqyK4H3
午後2時41分、天城は右側に転覆、駆逐艦「雷」、「景」に移乗した天城乗員達が見てる前で、
飛行甲板に在った零戦2機が甲板を滑り落ちて行き、海面に叩き付けられるところを見て、
多くが涙を流していた。午後4時20分、赤城機関長の「自力航行不可能」の報告をもって青木艦長は、
総員退去を決定。自沈のため、駆逐艦の魚雷発射を要請した。午後5時、乗組員は艦長の訓示を受け、
駆逐艦「嵐」、「野分」に移乗を開始する。午後7時、「嵐」に約500名、「野分」に約200名が移乗した。
ところが午後7時25分、後方の主力部隊・旗艦「大和」に座乗していた山本五十六連合艦隊司令長官から、
「赤城の処分は待て」と命令が入る。午後7時30分、青木艦長は第四駆逐隊の有賀幸作司令官、
(後の戦艦「大和」艦長)と三浦中佐(赤城航海長)の説得により「嵐」に移ったため、「赤城」は無人のまま、
第四駆逐隊の各艦と共に漂流を続けた。午後11時55分、北方方面から攻撃に参加した空母「翔鳳・瑞鳳」の、
被災により、これ以上の攻撃が不可能となり、勝敗が決したことを悟った山本長官は、
連合艦隊電令第161号にてミッドウェー攻略中止を各部隊に命じる。日本時間6月6日午前1時50分、
山本長官は魚雷による赤城の処分を命令した。第四駆逐隊は日付変更の時点でも燃えていると報告したが、
この頃になると可燃物が全て燃え尽きたため、赤城は焼け焦げた姿で漂流していたという。
一方、天城は転覆、海面に船底を見せている状態で、手の施しようが無く、静かに漂っている状態だった。
64 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 14:21:49.30 ID:DyqyK4H3
火災が小康状態になった赤城は、他船で日本まで牽航する案もあったが、
米軍の更なる攻撃が予想されたなかでは、牽航は無理と判断され、午前2時赤城の右舷に対し、
第四駆逐隊各艦(嵐、萩風、野分、舞風)から各1本が発射される。4本の魚雷のうち2ないし3本が命中。
1942年(昭和17年)6月6日午前2時10分、赤城は艦尾から海面に沈んでいった。、
また天城は6月6日午前3時31分に大きな爆発音とともに、船首から沈んでいった。
ミッドウェー海戦時の赤城と天城に乗り組んでいた実員数は不明である。これはミッドウェー基地占領時、
同島基地に進出するための基地要員や兵員が便乗していた為である。赤城と天城の両定員は3,260名、
その内、赤城の第一航空艦隊司令部員が64名、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名が戦死、
天城は爆発や火災を生じなかったこと、転覆まで時間があったことなどから奇跡的に戦死31名で済んだ。
同海戦における赤城と天城搭載機搭乗員の戦死者は機上5名、艦上11名の合わせて7名、
(戦闘機5名、艦爆3名、艦攻5名)で、淵田中佐、飯田中佐、板谷少佐、村島少佐の4飛行隊長ら、
多くの搭乗員が救助された。「赤城」炎上後も、数機の零戦が空母「翔鳳」に着艦したが、
その後の戦闘や「翔鳳」損傷によって全機が失われた。
65 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 14:31:28.26 ID:DyqyK4H3
赤城
1920年(大正9年)12月6日、横須賀海軍工廠にて起工
1925年(大正14年)4月22日、進水
1927年(昭和2年)3月25日、航空母艦として竣工
1935年(昭和10年)11月15日、予備艦に編入、佐世保海軍工廠にて改装工事開始
1938年(昭和13年)8月31日、改装工事終了
1938年(昭和13年)12月15日、現役艦に復帰
1939年(昭和14年)2月10日、海南島制圧作戦に参加
1939年(昭和14年)4月15日、有明湾に帰投、飛行機隊の訓練
1940年(昭和15年)9月3日、ウルシー停泊地に入港
1941年(昭和16年)8月8日、横須賀帰港
1941年(昭和16年)8月20日、第一航空戦隊に編入
1941年(昭和16年)11月26日、単冠湾出撃
1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃参加
1941年(昭和16年)12月24日、日本本土に到着
1942年(昭和17年)1月24日、ラバウルを攻撃
1942年(昭和17年)2月中旬のオーストラリアの港湾都市ポートダーウィンを空襲
1942年(昭和17年)3月5日、チラチャップ攻撃
1942年(昭和17年)3月26日、セレベス島を出港し、セイロン攻撃でインド洋へ進出
1942年(昭和17年)4月24日、母港横須賀港に戻る
1942年(昭和17年)6月5日、ミッドウェー海戦で雷撃処分、沈没
1942年(昭和17年)9月24日、除籍
66 :
名無し三等兵:2012/12/13(木) 14:33:26.03 ID:DyqyK4H3
天城
1921年(大正10年)11月4日、佐世保海軍工廠にて起工
1926年(大正15年)6月11日、進水
1928年(昭和3年)4月21日、航空母艦として竣工
1935年(昭和10年)12月21日、予備艦に編入、佐世保海軍工廠にて改装工事開始
1938年(昭和13年)11月9日、改装工事終了
1938年(昭和13年)12月15日、現役艦に復帰
1939年(昭和14年)2月10日、赤城とともに海南島制圧作戦に参加
1939年(昭和14年)4月15日、有明湾に帰投、飛行機隊の訓練
1940年(昭和15年)9月3日、ウルシー停泊地に入港
1941年(昭和16年)8月8日、横須賀帰港
1941年(昭和16年)8月20日、第二航空戦隊に編入
1941年(昭和16年)11月26日、単冠湾出撃
1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃参加
1941年(昭和16年)12月24日、母港横須賀港に戻る
1942年(昭和17年)1月24日、ラバウルを攻撃
1942年(昭和17年)2月中旬のオーストラリアの港湾都市ポートダーウィンを空襲
1942年(昭和17年)3月5日、チラチャップ攻撃
1942年(昭和17年)3月26日、セレベス島を出港し、セイロン攻撃でインド洋へ進出
1942年(昭和17年)4月24日、母港横須賀港に戻る
1942年(昭和17年)6月5日、ミッドウェー海戦で転覆、沈没
1942年(昭和17年)9月28日、除籍
67 :
名無し三等兵:2012/12/14(金) 10:44:57.14 ID:lYmPumBa
その後
ミッドウェー海戦で赤城型空母2隻を失う、手痛い敗北を味わった日本海軍だが、同海戦で天城攻撃隊が、
米空母ヨークタウンを攻撃、大破、航行不能に陥らせたこと、赤城を葬ったエンタープライズを北方方面から、
攻撃に参加した空母「翔鳳・瑞鳳」の攻撃隊が午後3時22分に急降下爆撃で3発を命中、雷撃により2発を、
命中させ、大破、炎上させた。赤城と同様に大炎上したエンタープライズは午後9時6分に転覆、
天城と同じ海面に船底を見せる状態となり、午前3時43分に船内で爆発、大音響とともに沈んだことを、
第十戦隊から連絡を受けて、戦場に入った日本潜水艦伊168と伊142が確認、さらにハワイに向けて、
退避準備中のヨークタウンを発見、駆逐艦ハムマンを横付けして復旧作業の最中で、すでに機関も回復し、
自力航行も可能になりつつあった。厳重な警戒態勢であったが、伊168と居142はその場で360度旋回をしたり、
ヨークタウンや駆逐艦の真下を通過するなどして距離を計り、発見から9時間後の6月7日午後1時1分に、
伊168は4本、伊142は2本の魚雷を発射、伊168の魚雷はハムマンに2発命中、ハムマンは船体中央から、
真っ二つ折れ轟沈、伊142の魚雷は護衛に居たモナガンの船尾に2発命中、モナガンは船尾から沈み、
最後は倒立した姿で海面に消えていった。これらの攻撃で、ヨークタウンに残っていた救助隊は、
最後の駆逐艦グウィンに退避、ヨークタウンから離れたところを、再度、伊142が放った、
魚雷2発のうち、1発が船首付近に命中、すぐに転覆状態となり、午後3時55分に沈没した。
駆逐艦バルチとベンハムはヨークタウンの乗員を載せてた都合、現場から退避した。
68 :
名無し三等兵:2012/12/14(金) 10:51:17.66 ID:lYmPumBa
無人状態のまま放置されていたヨークタウンに伊168が浮上して接近、数名が乗り移ってみると、
自力航行が可能だと判断、打診すると、すぐ近くに居た阿部俊雄大佐が指揮する第十駆逐隊、
風雲、夕雲、巻雲、秋雲が駆けつけ護衛、第三戦隊の戦艦金剛が曳船となり、日本本土まで、
曳船することになり、金剛に引かれつつ横須賀に向かった。横須賀工廠に入港後、
ヨークタウンの詳細な調査と船体修理が行われた。ミッドウェー海戦の結果、日本海軍は2隻の空母を失い、
2隻の小型空母が損傷、1隻の敵空母を捕獲した。
69 :
名無し三等兵:2012/12/14(金) 19:37:48.10 ID:???
F-14AGJ「おすぬっこ」
グラマン社が航空自衛隊向けに製作したマルチロール機。
諸元
乗員:一名 全長:19.1m
全幅: (1)主翼後退角20度:19.54m (2)主翼後退角68度:11.65m (3)主翼後退角75度:10.15m
全高:4.88m 翼面積:52,5m² 空虚重量:18,462kg
機外最大搭載量
(1)F-100-PW-100: 6,577 kg (2)F-110-GE-129:6,700kg (3)F-135-PW-100:13,710kg
最大離陸質量
(1)F-100-PW-100: 33,921kg (2)F-110-GE-129: 35,482kg (3)F-135-PW-100: 46,251kg
最大速度:2400km/h(高高度) ・ 1300km/h(地上)
航続距離:3500km 実用最高高度:17010m
エンジン
(1)F-100-PW-100×2 (2)F-110-GE-129×2 (3)F-135-PW-100×2
推力
(1)F-100-PW-100×2 クリーン:72.3kN×2 A/B:123.9kN×2
(2)F-110-GE-129×2 クリーン:75kN×2 A/B:129kN×2
(3)F-135-PW-100×2 クリーン:111kN×2 A/B:178kN×2
ハードポイント:14→26
固定武装: M61A1 バルカン 20mm ガトリング砲 ×1(装弾数:1200 発)
搭載可能な兵装
(1)ミサイル
(1)-1空対空
・AIM-54 ・AIM-7・AIM-9・AIM-120・AAM-3・AAM-4・AAM-5
(1)-2空対艦
・ASM-1・ASM-2・ASM-3
(2)爆弾
・Mark 82 ・JDAM ・GBU-38/B ・CBU-87/B クラスター爆弾
70 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 10:56:02.84 ID:gBiB0Sqn
伊賀型航空母艦
日本海軍が計画、早くに頓挫した八八艦隊構想の三番艦、四番艦として伊賀型戦艦の二隻が起工された。
その三番艦が伊賀、四番艦が加賀である。伊賀の起工は1920年(大正9年)7月19日で、加賀の起工は、
1920年(大正9年)-11月28日、ところがワシントン海軍軍縮条約に従い1921年(大正10年)2月5日に、
建造中止の通達、やがて廃棄処分、解体の決定がなされたが、1923年(大正12年)9月1日に発生した、
関東大震災によって、国内が疲弊、復興を名目に軍備増強、外地へ資源を求める政策が国会で承認、
1924年(大正13年)9月1日にワシントン海軍軍縮条約からの脱退を秘密裏に決定したことで、
戦力増強として伊賀型戦艦も航空母艦に改造する計画が持ち上がり、天城型巡洋戦艦と同じく、
伊賀型戦艦2隻も航空母艦に改造されることとなった。当初の計画では全長715呎、
最大幅110呎、基準喫水幅101呎3寸、喫水21呎9寸、排水量26,950頓、20cm砲10門、12cm砲6門、
12cm高角砲12門、搭載機36、満載状態27.6ノットという規模の空母だった。
伊賀型戦艦の航空母艦改造決定はワシントン海軍軍縮条約脱退前、秘密裏に行われた改造ではあるが、
当時日本海軍には空母の建造経験は小型空母の「鳳翔」しかなく、戦艦からの改装も日本海軍初であり、
新造時備えていた三層の甲板や対水上艦用の20cm砲等が航空艤装の妨げになり後に改装・撤去されるなど、
模索の中で進められ、伊賀は1928年(昭和3年)3月31日、加賀は1929年(昭和4年)1月21日に竣工した。
71 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 10:58:40.11 ID:gBiB0Sqn
三段式甲板
艦形の決定の際、天城型巡洋戦艦と同じイギリス海軍の二段式航空母艦「フューリアス」を参考に、
三層の飛行甲板を持つ三段式空母案が採用された。上段を離発着用、中段を小型機の発艦用、
下段を大型機の発艦用とし、航空機の機種・用途に合わせ、甲板を使い分けることが考えられた。
しかし航空機の草創期に設計されたため、運用の実際や航空機の大型化を予測しきれず数々の問題が浮上、
問題となったのは発着用飛行甲板の短さで、特に中段の甲板で顕著に表れ、ここから艦載機が発艦することは、
事実上できなかった。飛行甲板と船体に挟まれた艦橋からは搭載機の発艦・着艦統制が難しく、
1932年(昭和7年)には甲板のエレベーター右舷に塔型補助艦橋と、飛行科指揮所を設けている。
また煙突の配置も問題となった。当時保有していた空母は「鳳翔」しかなく舷側に煙突を立てたままだと、
航空機の着艦操作に大きな影響を与えることは実証されている。霞ヶ浦の技術研究所で模型を作って、
さまざまな空洞実験を行ったがどうしても解決策を見出すことができなかった。そこで当時参考資料として、
検討されたのが英空母「アーガス」である。これは煙路を両舷に沿って艦尾まで導き排煙するという方式を、
とっていた。当時の造船技術者達は「赤城型」の方式と実用性の上で比較するためにこの艦尾排煙方式を、
強く主張、加賀型の煙突は「赤城型」とは別個のものとして作られることになった。しかし実際には、
様々な問題が出てきた。ボイラーからの排煙が航空機の邪魔にならないようにと煙路を艦尾まで導いて、
排煙していたが、長大な煙路の重量、艦内容積の減少に加えて、煙路に隣接する区画の室内温度は、
40℃にも達し、高温により居住に耐えられないという大きな問題を引き起こした。
また、艦尾から排出される煤煙が気流を乱して航空機の着艦を阻害することにもなった。この問題は、
「赤城型」と同様の煙突方式を取ることで解決を思案されたが、折からの軍縮予算で実現されなかった。
72 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 11:02:21.30 ID:gBiB0Sqn
なお、この時期の航空機搭載機数は60機で、20cm砲10門を装備。これは近接する水雷部隊からの防御で、
艦隊決戦では重巡洋艦並の火力である。そのうち、連装砲二基四門は竣工後に中段の露天甲板に配置、
同様に艦種変更を経た「赤城型」が32.5ktを発揮したのに対して速力は実速26.7kt(公称27.5kt)あった。
これは「赤城型」が巡洋戦艦として設計されたのに対し、加賀が戦艦として設計されたためである。
十二基の重油専燃罐と四基のタービンによる出力は9万1000馬力であった。戦艦は重防御で被弾面積の縮小で、
船体を短く設計するが、その反面、重量と推進抵抗が大きくなり、高速力を発揮しにくくなる。
また飛行甲板も短くなるので空母への改造は巡洋戦艦の天城級の方が適正だったのは否めなかった。
単層甲板に改装後
改装案として最初にアメリカ海軍のレキシントン級航空母艦のような大型の艦橋を持つものが検討されたが、
航空機の発着や友鶴事件を経て重心の低下と風圧側面積の減少に配慮し、格納庫、飛行甲板、艦橋が縮小、
直立煙突の採用は見送られた。伊賀型には数々の不具合があったため「赤城型」より一足先、
1934年(昭和9年)6月より改装工事を着手、1935年(昭和10年)12月に工事が完了。改装工事の工数は赤城型より多く、
日本海軍艦艇中、一、二を争うほどの大掛かりなものであった。問題の多かった排煙方式は「赤城型」と同じ弯曲煙突式とし、
位置を機関上部右舷に修正した。これによる重量軽減は100トンにも及び、乗員も煙路の高熱から解放されるとともに、
艦尾から排出される排煙が気流を乱し、艦載機の着陸を妨げるという欠陥も解消した。
73 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 11:10:59.33 ID:gBiB0Sqn
また三段式飛行甲板の中下段は廃止、最上段のみの全通式の一段甲板とした。最上段の飛行甲板は、
船体長を上回る長さになり、離着陸の滑走距離が大幅に延長された。この際、若干艦尾方向が、
高くなっていた傾斜飛行甲板はフラットなものに手直しされた。また中下段の飛行甲板の廃止により、
航空機の格納スペースも増加し、搭載機数も常用80機、補用30機の合計120機と大幅に増加している。
改装後の伊賀型は以後に完成した日本の空母を含めても最大の格納庫面積があり、実際には、
最大105機の運用を可能とし、大蔵省の記録では伊賀型(戦闘機30、攻撃機50、計80、補用機30、総計120)、
赤城型(戦闘機25、攻撃機50、計75、補用機25、総計100)となっている。ただし零式艦上戦闘機に比べて、
小型の九六式艦上戦闘機などを使用したものとのこと。燃料搭載量も8,200トンに増加し、航続距離が、
新造時の14ノットで8,000海里から16ノットで10,000海里に延びた。速力についてはタービンを、
新式の大出力のものに換装し、機関出力の増大と艦尾延長により、それまでの実速度26.7ノット
(公称27.5ノット)から28.3ノットまで向上した。
これらの改装により伊賀型は空母として一つの完成形に達した。ただし、改善されたとはいえ、
速力28.3ノットは太平洋戦争開戦時の日本主力空母の中では最も低速で、他の空母と行動をともにする際に、
障害になったと言われる。だが一方で加賀型は航続力や積載力が大きく、作戦立案がしやすい長所があり、
たとえば遠距離外洋航行のハワイ作戦では優先的に作戦参加が決められた。ハワイ作戦の事前調査では、
伊賀型は燃料搭載に余裕があり、公称値以上に航続力があると判定された。このため伊賀型と「海龍型」、
「海鷹型」の連携による作戦実施も当初は検討されていた。この案には二航戦の山口多聞が反対して、
「赤城型」も作戦に加わったが、これらの空母は艦内に燃料用ドラム缶を多数積載しての作戦参加であった。
74 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 11:17:23.37 ID:gBiB0Sqn
対空兵器も増強され、三連装12cm高角砲を三連装12.7cm高角砲に換装、数も8基から10基に増備し、
反対舷方向にも射撃が可能なように高い位置に取り付けられるなど、航空艤装、攻撃力、防御力の面で、
「赤城型」を凌駕していた。 25mm三連装機銃も同時に増強されたがその位置・数は公式図面が残されて無く、
不明である。加賀型には船体が安定しており揺れが少ないこと、艦橋部分の飛行甲板幅も34.5mあるなど、
広大な飛行甲板を持つこと、その飛行甲板自体も海面より高い位置にあるため(21.7m)各種の作業が、
波の影響を受けにくいこと、艦橋が右舷前方にあるため着艦時の圧迫感もなく、気流の乱れが少ない、
ことなどの利点があり、使いやすい空母として好評だったと伝えられる。空母「天城」から転勤したある、
艦爆搭乗員は、最初の着艦で加賀型の飛行甲板の広さに驚いている。これらの特徴に加えて、中国戦線を、
経験したパイロットを多数擁することもあって伊賀型は日本機動部隊最有力空母の位置づけにあった。
しかし問題点も残されていて、中段飛行甲板に設置された20cm連装砲二基四門は撤去、代わりに、
船体後方の舷側にケースメイト式のものが四門追加され、数の上では改装前と同数が維持されたが、
この配置は視界、射界ともに狭く、運用実績も不良で、そもそも航空戦を主体とする空母には不要な装備で、
昭和8年の改装計画に基づくものとはいえ、先見の明を欠いた。
アメリカ海軍空母のレキシントン級でも8インチ砲が装備されていたが、艦橋・煙突の前後に、
背負い式に配置しており、甲板への爆風と重心上昇の問題はあるが、こちらのほうが合理的な配置であった。
また、右舷前部に新設された艦橋は重心上昇を考慮してコンパクトなものが設置されたが、
最低限の設備しかなく、作戦の指揮を行うには狭すぎるものだった。
75 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 11:23:55.32 ID:gBiB0Sqn
伊賀型に限らず、初期日本空母の共通の欠点としてダメージコントロールへの配慮が足りず、
格納庫を閉鎖式にしたことは航空機の塩害からの保護という利点はあるもの、被弾時の被害を増加させ、
後の喪失の原因となり、日本海軍でも開放式の海鷹型、海鳳型、米海軍ヨークタウン級航空母艦や、
エセックス級航空母艦は被弾時にあっても爆風が外に逃げ、また空母搭載の爆弾や航空機などの、
危険物を海中に投棄することで、誘爆や航空機への延焼被害を限定できた。
これら近代化改装の結果、伊賀型は後の「海鳳型」が完成するまで日本の航空母艦の中では、
最大の排水量であった。加賀の改装工事はかなり徹底したもので、全通一段甲板、右舷前部の小型艦橋、
下向き湾曲型煙突、飛行甲板周囲の対空砲火という艦形は後の日本空母に採用された。
また水面からの飛行甲板までの高さが21.7mと日本空母のなかでは一番高く、航空機の離着陸には、
好都合であったが、一方でGM値の悪化を招いたため、両舷にバルジが追加された。予備浮力の大きい幅広で、
低重心の戦艦からの改造が幸いして伊賀型の安定性は優秀で、荒天のハワイ作戦時においても船体の揺れは、
新型の「海龍型が11度、海鷹型20度」に対して伊賀型は3度と報告されている。
飛行甲板前部に空母用カタパルトの設置のための溝をつくる工事も佐世保海軍工廠で行われたが、
空母用カタパルトの装備が遅れ、結局未搭載のまま開戦を迎え、カタパルト完成の機会はなかった。
結果的に、日本海軍は後の海龍型から空母用カタパルトを装備した。
76 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 11:35:03.11 ID:gBiB0Sqn
日中戦争
伊賀・加賀の両艦初の実戦参加は1932年(昭和7年)第一次上海事変で、これは史上初の空母の実戦参加で、
空母「鳳翔・瑞翔」、軽巡洋艦「那珂」、「阿武隈」、「由良」、駆逐艦「沖風」、「峰風」、「沢風」、
「矢風」が行動を共にし、初の機動部隊となった。同年2月5日に加賀飛行隊の三式艦上戦闘機6機、
一三式艦上攻撃機4機が中国軍のO2Uコルセア4機と日中初の空中戦を展開し、双方損害なく引き分けた。
2月22日には伊賀飛行隊の三式艦戦3機、一三式艦攻3機の編隊が、アメリカ人義勇兵ロバート・ショートの、
操縦するボーイング218と空戦となり、艦攻1機が被弾したもののB218を撃墜し、日本陸海軍を通じて、
初の撃墜を記録した。日中戦争当時、「赤城と天城」は近代化改装の最中であり、「海龍と神龍」は、
建造後の訓練中で、実戦投入が可能な空母は「加賀・佐賀」と小型の「鳳翔・瑞翔」だけであった。
伊賀・加賀はこれら四隻の空母の中で最大の攻撃力を持ち、日中戦争における空母部隊の主力とされ、
常に稼働状態であった。この時点での艦載機は、九〇式艦上戦闘機、九五式艦上戦闘機、八九式艦上攻撃機、
九四式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機に更新されていた。加賀に便乗していた城英一郎海軍中佐は周囲に
「海軍航空部隊の奇襲攻撃により日華事変は3日で終結する」と大本営の判断を語っている。
77 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 11:39:00.82 ID:gBiB0Sqn
しかし日本軍は中国軍航空隊を過小評価していて、1937年(昭和12年)8月15日には12.7mm機銃を持つ、
中国軍のカーチス・ホークVと交戦し、伊賀搭載の八九式艦攻8機と九四式艦爆2機を一挙に失った。
従来からの攻撃偏向に加え当時戦闘機無用論が支持されていたが、これをきっかけに戦闘機が見直され、
同年8月22日に中島正中尉らが操縦する九六式艦上戦闘機隊が伊賀に到着、互角に戦えるようになる。
1938年(昭和13年)度中に「赤城・天城」が第二次改装を完了すると伊賀と加賀は隔年交代で、
第一航空艦隊の旗艦を務めたが、1939年(昭和14年)に「海鷹」、1940年(昭和15年)に「神鷹」が、
完成した段階でこれらの空母が一航艦に編入され、「海鷹」が旗艦になる予定であったが、
これらの空母にたいして一航艦司令部の評価が芳しくなかったため、取りやめになり、
当時旗艦であった「赤城」がそのままの地位を保って太平洋戦争に突入することになった。
その後も伊賀・加賀航空隊は中国空軍と激戦を展開し、結果「伊賀・加賀」の航空隊は日本で最も多くの、
実戦経験を積んで太平洋戦争に突入することになった。
78 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 11:42:12.28 ID:gBiB0Sqn
緒戦の活躍
開戦時に伊賀と加賀はともに第二航空艦隊を編成し、第一航空艦隊と同じ主力とされた。
1941年(昭和16年)11月の単冠湾集結時には最後まで呉に残り、浅深度魚雷100本を受領して、
真珠湾での航空魚雷攻撃を可能とした。この後に南雲忠一中将指揮の下で11月26日に単冠湾を出撃し、
12月8日の真珠湾攻撃に参加した。この攻撃での航空隊未帰還機は計27機。うち15機が加賀所属機であった。
真珠湾攻撃を終えた加賀と佐賀は日本本土に戻ったのち、1942年(昭和17年)1月12日にトラック島に進出、
1月19日にトラックを出撃してラバウル攻撃に向かった。1月20日に艦戦10機、艦攻38機が出撃、
ラバウル攻撃を行う。この戦いでの損害は皆無で、翌日の1月21日にカビエン攻撃には艦戦6機、
艦爆16機が出撃した。1月22日、第二回ラバウル攻撃が行われ、伊賀と加賀から艦爆32機、艦戦30機が出撃、
対空砲火により零戦1機、艦爆1機が不時着水没したが搭乗員の戦死者はなかった。
2月19日、伊賀と加賀は「赤城・天城」とオーストラリアに位置するポートダーウィンに空襲を行った。
伊賀・加賀から艦戦20機、艦爆18機、艦攻27機が発進。艦爆1機を喪失、艦攻1機が不時着収容された。
79 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 11:46:10.67 ID:gBiB0Sqn
2月28日には伊賀が日本陸軍第16軍のジャワ上陸作戦を支援する西方支援隊として、バリ海峡付近で、
重巡洋艦最上と三隈、駆逐艦敷波の5艦で展開、伊賀。加賀航空隊が輸送船56隻を空から支援、
3月1日にはバリ海峡を突破しようとする米給油艦「ペコス」、駆逐艦「エドソール」を発見、
攻撃するため艦爆18機が発進、給油艦拿捕の可能性を含め、攻撃を駆逐艦に集中させ、
駆逐艦「エドソール」を撃沈、米給油艦「ペコス」を航行不能とさせ、三隈が捕獲に成功、
3月5日には艦戦18機、艦攻30機が伊賀と加賀を発進、ジャワ島チラチップを攻撃。
この掃討戦の後、第二航空艦隊は4月25日にトラック島に到着、MO作戦に参加すべく、伊賀・加賀を、
中心としたMO機動部隊は5月1日、トラック諸島を出航した。5月7日、MO機動部隊は航空母艦と誤認した、
給油艦「ネオショー」の攻撃に向うが、誤認が確認されると、護衛の駆逐艦「シムス」を撃沈、
給油艦「ネオショー」を航行不能に陥らせた。「ネオショー」は漂流、5月11日にMO機動部隊の援護部隊、
第18戦隊水偵機隊の神川丸、聖川丸に発見され、曳船されトラック諸島に入港。
5月8日、両軍の航空母艦が史上初の対決、アメリカ海軍第17任務部隊の「レキシントン」を旗艦とする、
「ヨークタウン」「エンタープライズ」と伊賀・加賀・護衛の軽空母「龍驤」の戦いは、
「レキシントン」と「ヨークタウン」の大破、「エンタープライズ」と加賀の中破、伊賀と、
「龍驤」の少破で終了、日本側は艦艇の損失は無く、駆逐艦「フェルプス」と「アーサー」の撃沈だけで、
MO機動部隊は5月16-17日、トラックに帰着、その後、本格的修理と練度向上を狙って内地横須賀に戻った。
80 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 11:51:03.65 ID:gBiB0Sqn
ミッドウェー海戦には加賀の修理で伊賀・加賀ともに不参加、同海戦で第一航空艦隊の赤城・天城が、
沈没したことで、同年7月1日から伊賀と加賀は第一航空艦隊に編入、伊賀は内地で着艦訓練用に、
使用されたのち、1942年(昭和17年)8月、アメリカ軍のガダルカナル島上陸に呼応して、
伊賀のみ単艦で「海龍」と「神龍」らと共に南東方面へ進出、8月24日に米第61任務部隊と交戦
(第二次ソロモン海戦)。10月26日には再度米機動部隊と交戦(南太平洋海戦)、
「海龍」と「神龍」との合同艦隊でアメリカ空母「ホーネット」を大破、「サラトガ」を中破させ、
米重巡洋艦「サウザンプトン」と「ノーザンプトン」、駆逐艦「サーマス」「ラッセル」を撃沈した。
連合艦隊司令部はドーリットル空襲で日本に衝撃を与えた「ホーネット」を捕獲に成功、
横須賀までの曳船は海龍と神龍が担当し、伊賀はトラック諸島に到着、11月2日に修理を終え、
トラック諸島に到着したた加賀と合流した。この海戦でアメリカ軍の稼働空母数は0となり、
アメリカ軍側に「史上最悪の海軍記念日」と言わしめた。
81 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 12:11:45.22 ID:gBiB0Sqn
その後、修理を終えた加賀が復帰すると第三十八師団の輸送船団護衛で、伊賀の第一航空戦隊、
加賀の第二航空戦隊を基盤とする、金剛、榛名を擁する第三戦隊、第八戦隊、第三水雷戦隊が、
11月9日にラック泊地を出撃、アメリカ海軍は日本軍の動きを察知、サウスダコタ級戦艦「サウスダコタ」、
「インディアナ」を中核に巡洋艦「ノーザンプトン」、「サンディエゴ」、駆逐艦8隻の第16任務部隊が、
11月11日、ダンベア湾を出港、11月12日、第三次ソロモン海戦で日本海軍は伊賀・加賀の攻撃隊が、
戦艦「サウスダコタ」を始め軽巡洋艦「ジュノー」、駆逐艦「ラフィー」「オバノン」を撃沈、
戦艦「インディアナ」を中破、重巡洋艦「サンフランシスコ」を少破させ、大勝利を収めたが、
日本海軍も戦艦「榛名」を始め、駆逐艦「五月雨」と「夕立」が撃沈され、軽巡「長良」が大破した。
11月17日に伊賀と加賀はトラック諸島に帰港、翌月には横須賀に入港した。
82 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 12:23:55.92 ID:gBiB0Sqn
沈没
1944年(昭和19年)2月4日、伊賀・加賀の第一航空艦隊はトラック諸島に投錨していたが、午前8時頃、
アメリカ軍の偵察を受けたことで、日本海軍はトラック攻撃の危険が高まったと判断、
「海龍・神龍」を始めとした空母6隻、巡洋艦10隻、駆逐艦16隻、油槽船12隻、輸送船40隻以上が、
12日までにトラックを去ったが、その後、アメリカ軍偵察機が一度も来ない状況を見て、日本海軍も、
トラックは攻撃地域から外されたなど楽観視する者も居たことから、警戒体制が緩められた。
2月7日に伊賀・加賀の第一航空艦隊は、アメリカ軍の攻撃を迎え撃つ為にトラックに残留が決定、
修理を終えた戦艦「金剛」、軽巡「長良・由良」が合流、同地で補給を続けた。出航は2月17日の朝6時、
トラック諸島周辺を警戒域とする予定だったが、予想より早く、2月17日の午前4時20分頃に、
日本軍のレーダーが南東方面からトラック諸島に向う大編隊を捉えた。第一航空艦隊と内南洋部隊は、
即座に臨戦体制となり、湾内の第一航空艦隊も急いで出航する準備の最中、5隻の大型空母から発進した、
戦闘機72機を主力とする第50任務部隊の大攻撃機編隊が発見後、わずか46分でトラック上空に到達、
アメリカ軍攻撃隊は計画通り奇襲に成功、対する日本側航空隊35機が離陸したが、間に合わず、
空襲はまず航空施設に対して実施されたことで制空権が壊滅、制空権を奪ったアメリカ側の第一目標は、
湾内でもっとも目立つ伊賀・加賀の空母と戦艦金剛であった。
出航し始めた伊賀を尻目に出航が遅れた加賀に攻撃が集中、米艦上爆撃機SBDドーントレスの、
急降下爆撃により投下された1000ポンド爆弾を飛行甲板に3発が命中、艦中央やや左舷、艦後方右舷、
艦後方エレベーター付近の順番で命中、エレベーター付近に命中した1発は後部エレベーターを、
斜め上空50mほどまで吹き飛ばして海面に落下、大きな水柱を上げた。またTBFアベンジャーの雷撃で、
左舷後方に魚雷3本が命中、加賀は左舷側に10度近く傾き、艦後方から浸水が増大していったことで、
午前9時56分に退船命令が発令、多くの乗員は海に飛び込み、港湾や岸に泳いで上陸した。
死亡者以外、脱出に成功した乗員達の前で、加賀は午前11時21分頃に沈没した。
83 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 12:37:07.44 ID:gBiB0Sqn
アメリカ軍は加賀に魚雷が命中した後、攻撃先を伊賀に切り替え、伊賀は発艦準備しながら環礁内を航行、
艦上爆撃機12機と艦上攻撃機14機を発艦させたところに、アメリカ軍の攻撃が迫り、回避運動をしながら、
高射砲や機銃で応戦するも、午後の12時26分、急降下爆撃2発を受け、その後も3発が命中、
魚雷を左舷に魚雷2本、右舷に1本を受けた。速力が落ち、やがて停船、伊賀艦長の原口は午後1時51分に、
退船命令を発令、伊賀は約321人が犠牲者とともに午後4時3分に静かに沈没した。
トラック空襲では伊賀・加賀を始め戦艦「金剛」、軽巡「長良」、「由良」、駆逐艦「松風」、
「太刀風」、「得風」などが撃沈された。
戦後の状況
トラック島空襲やその他の戦闘で環礁内に沈んだ艦船の残骸は、沈船ダイビングの対象として、
世界中からダイバーが集まる観光資源になっている。例えば加賀の船体は快晴の日など、
上空を遊覧飛行する航空機から確認出来るほど浅い場所に沈んでいるため、遺骨や軍刀などが、
観光ガイドによって小道具として持ち運びされている。
沈船ダイビングの状況については、1983年(昭和58年)に東洋新聞が遺骨が見世物になっていると、
批判したのをきっかけに国会でも取り上げられた結果、翌年から日本政府による遺骨収集事業が実施、
「伊賀・加賀」を始め「榛名」、「長良・由良」など5隻から遺骨379柱を収容した。
ただ、依然として多数の遺骨が残された状態にあり、旭日新聞などが批判している。
84 :
名無し三等兵:2012/12/19(水) 12:49:40.20 ID:gBiB0Sqn
伊賀
1920年-7月19日:戦艦「伊賀」として川崎重工業神戸造船所にて起工
1921年-11月17日:進水
1923年-12月:横須賀海軍工廠で空母への改造着工
1928年-3月31日:竣工
1933年-10月20日:予備艦に編入、改装工事開始
1935年-11月15日:改装工事終了、即日、現役艦に復帰。第二艦隊第一航空戦隊に編入
1942年-5月8日:MO作戦に参加
1942年-10月26日:南太平洋海戦
1942年-11月12日:第三次ソロモン海戦
1944年-2月17日: トラック空襲で沈没
1944年-4月19日:除籍
加賀
1920年-11月28日:戦艦「加賀」として三菱重工業長崎造船所にて起工
1922年-2月27日:進水
1924年-1月:舞鶴海軍工廠で空母への改造着工
1929年-1月21日:竣工
1933年-12月11日:予備艦に編入、改装工事開始
1936年-1月15日:改装工事終了、即日、現役艦に復帰。第二艦隊第二航空戦隊に編入
1942年-5月8日:MO作戦に参加
1942年-10月26日:南太平洋海戦
1942年-11月12日:第三次ソロモン海戦
1944年-2月17日: トラック空襲で沈没
1944年-4月20日:除籍
85 :
名無し三等兵:2013/01/26(土) 10:45:13.34 ID:jjVZFxZ7
竹島要塞
断崖に穴を開け、50cm連装砲4門、20cm連装機関砲8門装備した要塞島。
86 :
名無し三等兵:2013/03/19(火) 13:43:01.99 ID:2XBTs5qh
重巡洋艦伊吹
基準排水量1万5600トン
全長201メートル、全幅20.1メートル
速力35Kn、
主砲55口径20.3センチ砲(C砲)3連装3基
高角65口径10.5センチ高角砲連装4基
魚雷61センチ4連装魚雷発射管4基
機銃25ミリ3連装機銃4基、同単装機銃20基
装甲最上型重巡と同等
87 :
名無し三等兵:2013/04/02(火) 01:18:29.39 ID:???
>>86 従来並みの軽装甲砲塔で3連装3基にしてしまうと砲の生残性が下がるんで×
88 :
名無し三等兵:2013/04/05(金) 16:51:15.73 ID:???
P2Y
陸上爆撃機「深山改」
昭和19年前半、空技廠に軍令部から、「マリアナ失陥に備え、マリアナ諸島を本土から爆撃できる爆撃機」の開発命令が下る
開発を急ぐため、Z機計画用の三菱「ハ50」を深山に搭載することで、3000馬力エンジン四発の大型爆撃機として再生した。
同時に、深山で雷撃機動の実現を狙って採用された高圧油圧系の見直しを図り、水平爆撃専用と割り切ることで油圧系の問題を改善、
電装系についても彗星・銀河を参考に大幅な再設計を行い、とりあえず使える機体となった。
初期型ではハ50の初期不良から出力を離昇2700馬力に運転制限されたが、それでも大パワーを活かして大半の欠点を埋めて活躍。
撃墜される機体も多かったがマリアナのB29発進基地の機能を大幅に阻害する。
後には「連山」完成までの代用として神雷部隊にも配属され、彩雲や百式司偵四型の偵察情報をもとに航続力延伸型桜花を遠距離発進させる戦術を繰り返すことで硫黄島攻防戦や沖縄防衛戦で多大な戦果をあげた。
89 :
名無し三等兵:2013/04/05(金) 20:34:41.08 ID:???
>>86 最上と同等の装甲で砲塔を3連装にして最上より砲も1門少ない。
3連装3基なら全長もう少し短くできるんじゃね?
排水量も減るんじゃね?
増えてるしw
その分装甲強化できるだろ
機銃25ミリ3連装機銃4基って少なくね?
なのに単装機銃多いのな
砲塔2基も減ったから甲板のスペース空きまくりだろ
1万5600dの船体を35ノットで走らせる機関出力は何馬力なんだ?
90 :
名無し三等兵:2013/04/09(火) 17:57:36.23 ID:???
>>89 >3連装3基なら全長もう少し短くできるんじゃね?
全長縮めるとますます速度発揮が難しくなるぞ。
>排水量も減るんじゃね? 増えてるしw
素で考えるとデカすぎるが、3連装砲3基前部集中&後部は最上並みの航空設備があるならこの位あっても良いのかも。
91 :
名無し三等兵:2013/04/25(木) 20:26:30.94 ID:???
九六式中戦車
全長六m×全幅二.四m×全高二.六m×重量二五.五トン
懸架方式:トーションバー+リーフスプリング
式速度七五km/h・行動距離五五〇km
主砲:九五式四〇口径七五ミリ戦車砲(弾数七〇)
副砲:一二.七ミリ重機関銃(弾数七五○)・七.七ミリ機関銃(弾数五○○○)
他武装:狙撃銃×一、機関拳銃×三、自動拳銃×四、手榴弾一二
装甲:全面均質圧延装甲(厚さ30〜100mm)
機関:水冷四サイクル八気筒ディーゼルエンジン(七五○ps/二五〇〇rpm)
電子機器:戦車射撃管制装置・短波無線機・情報通信機・視界補助装置
乗員:四名(運転手・射撃手・装填手・車長)
92 :
名無し三等兵:2013/04/29(月) 02:33:08.72 ID:???
>>91 無茶の塊みたいな戦車だな。突っ込みどころしか無い。
93 :
名無し三等兵:2013/05/05(日) 12:26:38.98 ID:USApppyg
>>91本当に突っ込みどころしか無いわ―、古臭い部分とチートがちぐはぐで技術レベルも滅茶苦茶だし。
>九六式中戦車
日支事変も起きてない36年頃にどうしてこんなに高そうな戦車が日本陸軍で採用されるんだろうね?
>全長六m×全幅二.四m×全高二.六m×重量二五.五トン
T−34とほぼ同サイズで遙かに重武装でより小さいとかバカなの?死ぬの?
>懸架方式:トーションバー+リーフスプリング
一番遅れたリーフスプリングと先進技術のトーションバー併用とか間抜けの極みだな。
>速度七五km/h・行動距離五五〇km
75km/hなんて速度出したら足壊れるってんだよのタコw
あとT−34より小さいのにその倍近く航続力があるとか燃料積んだドラム缶何個も背負って自爆特攻でもするの?
>主砲:九五式四〇口径七五ミリ戦車砲(弾数七〇)
>副砲:一二.七ミリ重機関銃(弾数七五○)・七.七ミリ機関銃(弾数五○○○)
>他武装:狙撃銃×一、機関拳銃×三、自動拳銃×四、手榴弾一二
多過ぎだわバカ、こんなに小さい戦車に何無駄な物まで押しこんでんだよ。乗員一人も入らんわ。
>装甲:全面均質圧延装甲(厚さ30〜100mm)
大馬力かつ(無駄に)重武装なのに25tしか無い戦車でしかも100mm装甲とかアルミでも使うのか?
>機関:水冷四サイクル八気筒ディーゼルエンジン(七五○ps/二五〇〇rpm)
無駄に高出力だな、25tでこんな出力要らん。半分もありゃ余裕で動けるっつーに。
リーフスプリング併用してるような貧弱な足回りにこんなエンジン積んでどないせーってんだ?
そして無駄に強力なエンジンで重量もスペースも喰って益々人が入らなくなる訳だが。
>電子機器:戦車射撃管制装置・短波無線機・情報通信機・視界補助装置、乗員:四名
こんなクソ狭い戦車に高度電子機器山積みする位なら(危険でも)自動装填装置付けて人減らす位しろっての。
94 :
名無し三等兵:2013/05/05(日) 15:18:39.02 ID:???
西暦一九九六年制式なんだろw
95 :
名無し三等兵:
西暦一九九六年にリーフスプリング使った40口径75mm砲戦車なんて的にしかなりまへんがなw