1 :
名無し三等兵:
2 :
名無し三等兵:2012/09/06(木) 18:17:46.05 ID:???
復活
3 :
名無し三等兵:2012/09/06(木) 18:25:52.44 ID:???
例のageて長文書く人はスルーの方向で
4 :
名無し三等兵:2012/09/06(木) 19:05:54.07 ID:???
威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
やーやー我こそはのパフォーマンスコンクールしてたガラパゴス武士が強いわけが無い
八幡関連と武家の報告で食い違いがあるのはそれぞれ別の戦いを記述してるだけ
武家は後半の負けを報告していない
の人か
5 :
名無し三等兵 :2012/09/06(木) 21:15:40.26 ID:???
待ってました!
左巻自虐史観の妄想"定説"じゃなく、純軍事的な検証がしたいね
6 :
名無し三等兵:2012/09/06(木) 23:07:23.65 ID:qixeqseI
>威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
理解が足りないね。
>棄民戦略にすぎない
弘安の役はいざ知らず文永の役に棄民も屯田もない。
>なんとか神威で勝っただけで
神威もなにも、文永の役は勝っていない。
水城に撤退して博多箱崎を明け渡したのを勝ちとは言えない。
元軍も撤退したからいいとこ引き分け。
>武士が強いわけが無い
あの戦い方でも引き分けに持ち込んだのは武士の強さだ。
7 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 15:14:52.50 ID:0JKrH/RF
南無八幡大菩薩
8 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 17:21:56.59 ID:???
師説を覆せない日本歴史学会の馬鹿学者共にはほとほと呆れ返る
9 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 18:17:48.20 ID:???
>>7 八幡と言えば
室町幕府は八幡(源義家)の子孫であることから将軍就任の正当性を確保した都合で
八幡愚童訓を否定して元寇の再検証するのは難しかったんだろうな
江戸幕府(というか家康)にいたっては系図を(ry
10 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 18:21:01.56 ID:L7363x87
11 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 18:25:23.69 ID:???
まあ武士に痛撃を与えてこれで鎌倉の奴らもビビって服属するだろと思って兵を退いただけで負けてはいない
作戦目標を達しただろww
12 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 18:52:03.30 ID:???
服属するだろうと思って撤退したなら、服属しなければ作戦目標を達成したことにならんだろ。
知恵遅れかお前
13 :
名無し三等兵 :2012/09/07(金) 21:09:19.88 ID:???
「官軍整わず矢尽き」て撤退したと元軍自ら認めてるのに、
さらに撤退中に悪天候で多数が溺死してるのに、
それを元軍勝利と言う連中は頭がおかしいの??
14 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 22:24:44.09 ID:???
>>13 日本人の優秀さを世に出したくない人達がいるから
15 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 23:11:17.05 ID:???
>>11 「入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
元史の記述だととても元軍が戦略目標を達成していたとは思えない
日本軍は破った、「而」(それなのに)軍の編成が乱れ矢も尽きたので、
「惟」(ただ)捕虜を捕まえあたりを略奪するだけで帰った、とわざわざ書いているのだから
遠征が思うように進まず、作戦中途での撤退を強いられたことは疑いようが無いだろう
16 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 23:29:16.68 ID:???
威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
やーやー我こそはのパフォーマンスコンクールしてたガラパゴス武士が強いわけが無い
八幡関連と武家の報告で食い違いがあるのはそれぞれ別の戦いを記述してるだけ
武家は後半の負けを報告していない
モンゴルは作戦目標を達成して帰った
17 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 23:34:30.21 ID:???
普通は苦戦したら2度もモンゴルに攻め込もうと考えないよな
モンゴルが思いのほか弱かったから、逆に攻め込もうと考えたんじゃないのか
18 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 23:38:51.75 ID:???
文永の役って結局博多はどうなったの?
19 :
名無し三等兵:2012/09/07(金) 23:46:21.35 ID:???
>>18 博多は一時的にも占領された記録がない(別の寺や神社もあったのに)
箱崎に小規模の元軍別働隊が上陸して八幡宮を焼いて慌てて逃げ帰ったのは確からしい
20 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 02:31:25.39 ID:???
上陸地点が早良郡だとすると博多の町まで来れて無いんじゃないかね
21 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 05:10:54.47 ID:???
でも学者大先生方は文永の役はボロ負けだったと書くぞ
そんなボロ負けした連中が高麗征伐しようとか言い出すのもおかしな話だなw
22 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 08:39:45.61 ID:UrA9eeJO
>>15 それでいいと思うよ。
日本軍は元軍を鎧袖一触、海に追い落とすつもりだっただろうがそうは行かず、
大損害を出して水城へ撤退、博多箱崎を明け渡す、
元軍は出来れば水城大宰府まで行くつもりだっただろうが、思ったより日本軍の
抵抗が強くて損害も出たので、先の見通しが立たず1日で撤退。
だから引き分け。
23 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 11:18:31.90 ID:UrA9eeJO
「中世都市・博多を掘る」を見ると、当時の博多の地図が出ている。それを見て、今までの
自分の考えを改めたところがあった。
赤坂山は内陸にあったと思っていたが、違った。赤坂山は海に突き出た小半島だったのだ。
これを赤坂半島と仮に呼ぶ。
赤坂半島の東にある博多は海に突き出た砂洲だった。これを博多半島と仮称すれば、博多半島
と赤坂半島の間は入り江で、徒渉不可能だった。だから竹崎は住吉神社の前を通って入り江の
奥を迂回して赤坂へ行った。
赤坂半島の西には仮称・祖原半島が海に突き出ていた。祖原半島の北岸の砂浜(百道原)は横に
伸びて、赤坂半島との間に鳥飼の塩干潟を囲い込んでいた。
祖原山は上記・祖原半島の付け根にあった。だからこれも内陸とは言えない。
さて鳥飼の塩干潟は当然ながら干満があった。「文永十一年・冬の嵐」によれば当日の干満差は
約1.5m、干潮は午前6時、満潮は昼12時であった。満潮時は徒渉不能になり、もはや戦場には
なり得ない。
福田兼重らの武士たちは、菊池勢が敵を追い払った赤坂半島を基点として、鳥飼の潮干潟を渡って
百道原の砂浜に突入したのであろう。そしてその戦いは鳥飼潟が徒渉できる時間帯、恐らく午前十時
ごろまでのことだったのである。
24 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 13:12:50.08 ID:???
>>22 引き分けの訳ないだろ
鎌倉側の勝利条件は侵略軍の撃退なんだぞ
25 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 13:22:59.80 ID:???
そりゃそうだけどさ
敵主力をフルボッコしないと勝った気がしないのが人情ってもんだ
川中島の戦いだって武田の目的は北信濃の防衛なんだから戦略的には完勝してるのに
何故かいまだに引き分けみたいな話しになってる
26 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 13:38:38.64 ID:???
てか戦闘での勝敗≠戦争の勝敗であることぐらいこの板の住人なら常識だろうに
日中戦争もナム戦も、戦闘で勝ってたかどうかは関係なく戦略目的を果たせなかった日本・アメリカの完敗だし、それは元寇も同じ
27 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 14:02:31.54 ID:UrA9eeJO
赤坂半島は砂洲ではなく、海面から聳える山であった。その海岸は砂浜ではなく、崖であった。
(したがって上陸適地ではないから、その後、防塁も築かれなかった)
鴻臚館は赤坂半島の突端、海を見下ろす景勝地にあった。それはベイビューホテルだったのである。
ただし、鴻臚館はこの時代にはもう存在していなかった。
「文永十一年・冬の嵐」は、その跡が城塞になっており、元軍襲来のときも日本軍が固く守っていた
と言う。「凶徒あかさかにぢんをとる」という蒙古襲来絵詞の記述も、元軍が赤坂を占領したという
意味ではなく、対向する攻撃陣地を築いたという意味だと言う。
だが本当だろうか。沖の浜に集結した武士たちが、「赤坂は馬の足場が悪い、どうせここまで攻め寄せる
だろうから、ここまで来たら犬追物の犬のように射てやろう」と言い合っていたという蒙古襲来絵詞
の描写からは、赤坂を守っていた別部隊がいたという様子は感じられない。
上に述べたように、鴻臚館跡は半島の突端で、博多との間は徒渉不能の入り江なのだ。いったん半島の
付け根を占領されれば、たちまちにして連絡が絶たれて孤立無援になる。そんな場所にわざわざ守備兵
を置いただろうか。少なくともそのように述べる史料はない。史料にないことは事実もない、という
流行りの論法に従えば、赤坂は無防備だった。
28 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 14:03:06.06 ID:UrA9eeJO
20日早朝、元軍はこの赤坂山を無血占領したのだ。しかし赤坂攻略の元軍は小部隊だったから、100騎
ほどの菊池勢に追い落とされた。上記赤坂の地勢から言って、菊池勢は、小半島の付け根から突端に
向かって、つまり南から北に向かって攻めた。追われた元軍は鳥飼潟を徒渉するグループと、入り江の
奥の陸地伝いに逃げるグループとに分かれた。菊池勢はそれらを打ち棄てて博多に帰った。
替わった竹崎勢はまず徒渉グループを追って取り逃がし、目標を変えて陸地伝いグループを追った。
期せずして攻撃方向は祖原山になった。竹崎勢は祖原山から下って来た迎撃部隊と戦って頓挫した。
その後を白石勢が継いで、迎撃部隊を祖原山に追い上げた。
では祖原山は落ちたのか? そのように述べている史料はない。ここでも、史料にないことは事実もない、
の論法を適用すれば祖原山は落ちなかった。福田兼重申し状を、元軍を祖原山から追い払って百道原に
撃退したと解釈する読み方は誤りであることを、日本史板の元寇スレに書いた。
29 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 17:21:20.71 ID:mD49GKVy
太宰府を陥落させてたら武士の負けだろ
30 :
名無し三等兵:2012/09/08(土) 20:49:15.89 ID:???
>>29 実際は陥落してないから武士の勝ちなんですけどね
>>9 偶然にもそこが八幡宮だったことが神風伝説につながるわけか
ぶっちゃけ八幡蒙古記(現地の神職が書いたやつ)の裏動機って
「うちだけ焼かれてむかつくぅ、こっちにも守備兵おいとかなかった武士の悪口書いちゃえ」だろ?w
31 :
30:2012/09/08(土) 20:51:26.64 ID:???
32 :
名無し三等兵:2012/09/09(日) 11:00:00.42 ID:Syc6wBAu
福田兼重申し状には「祖原山」の文字はない。福田勢は祖原半島の付け根にある祖原山の元軍を追い落と
して海岸の百道原まで追撃したのではなく、赤坂半島から鳥飼潟を徒渉して浜伝いに百道原に突撃した
のであろう。祖原山とは無関係である。
祖原半島の西には仮称・姪浜半島があって、同じように祖原半島との間に入り江を抱え込んでいる。
この入り江もまた潮干潟だったのであろう。一日に二度敵を破ったと言われる日田永基の二度目の突撃は、
百道原の浜を通り抜け、さらにこの潮干潟を徒渉して姪浜まで行ったのであろう。ちなみに日田永基は
このとき百道原で忠死し、戦後に子の基宗が替わって恩賞を受けたという言い伝えがある。
このような武士たちの浜伝いの突撃はそれなりに元軍を混乱させたであろうが、姪浜まで行ったところで
その奥には生の松原があり、さらに今津浜があり、これらにも元軍は上陸していた。武士たちの浜伝いの
突撃に対して、元軍は期せずしてとんでもない縦深陣地を敷いたことになった。
そのうちに潮が満ち始めると、武士たちは退路がなくなることを恐れて赤坂半島に戻り、攻撃は収束した。
満潮は正午だから、それよりかなり前、恐らく午前十時ごろまでのことである。
元軍もまた、浜伝いの進撃ルートがなくなっては海岸や半島部にいても意味がないので、おのずから
陸地部に進撃ルートを求めた。これまで各半島の海岸部で揚陸したり、日本軍に対応していた元軍は
陸地部に集結することになった。元軍のローラーが東に向けて回転し始めた。
33 :
名無し三等兵:2012/09/09(日) 14:37:10.07 ID:???
いいかげんブログに書けよ
34 :
名無し三等兵:2012/09/10(月) 11:38:14.67 ID:???
>>25 じゃあ秀吉の唐入りは日本の勝ちですか?っと
35 :
名無し三等兵:2012/09/10(月) 14:22:42.81 ID:HxAeCRsb
文永の役の日本側の戦闘記録としては鳥飼潟合戦の記録しかない、だからそれ以外の戦闘はなかった、と
いう説が流行っている。この説は、鳥飼潟合戦に敗れた元軍は百道原からそのまま撤退した、と続く。
だがこの考え方は大いに問題がある。なぜならば上に考察したように、満潮を考慮に入れるならば鳥飼潟
合戦は午前中の早い時間に収束したと考えられるからである。一方、高麗史には「諸軍與戦、及暮乃解」
つまり高麗軍と蒙漢軍がいっしょになって日暮れまで戦った後、自然休戦に至ったと書かれている。
「鳥飼潟合戦しかなかった説」と高麗史とを両立させるならば、お昼前から夕暮れまでに至る長い時間帯が
ぽっかりと空いてしまう。これは明らかにおかしい。
しかしその空白の時間に関する、日本側の記録がほんとうにないのかと言えば、八幡ノ蒙古記がある。
八幡ノ蒙古記は、「されども蒙古次第に強く、勝ちに乗じて攻め来、今津、佐原、百道、赤坂まで乱入
して、松原の中に陣を取りてぞ居たりける」と記述する。
これは上陸の進捗と軍の集結とによって元軍の勢力が次第に増強され、じりじりと東に向かって進撃して、
遂に赤坂に到達した状況を述べているであろう。そして八幡ノ蒙古記は、「軍(いくさ)、辰刻より始まり
しが、日も暮れ方になりしかば」と、武士たちが懸命に戦った後、夕方に及んで戦意喪失したことを述べる
のである。空白の時間はない。
なお、上記、八幡ノ蒙古記が言う元軍の「赤坂松原の陣」は、蒙古襲来絵詞で菊池勢に追い落とされた赤坂
陣地とは明らかに異なる。
絵詞の赤坂陣地は、武士たちが沖の浜に集結したばかりのときにすでに出現していたのであるから、八幡ノ
蒙古記が記述する赤坂陣地のような、それまでの前段階がない。恐らく朝の早い時間に小部隊が取り付いた、
偵察陣地だったのであろう。だから菊池勢によって簡単に追い落とされたのである。
36 :
名無し三等兵:2012/09/10(月) 21:06:12.00 ID:???
なぜ、捕まえたモンゴル人を奴隷にしなかったんだろう?
37 :
名無し三等兵:2012/09/10(月) 21:27:04.63 ID:???
人類は奴隷制が成立するまでは、捕虜を皆殺しにしてた
取って食ったり
38 :
名無し三等兵:2012/09/11(火) 02:43:07.56 ID:???
夕方に及んで武士が戦意を喪失した状況だったなら、
何で夜中に船を置き捨てて慌てて玄界灘を逃げてくのか疑問に思わんのかね…
そこから始まってると言っても過言じゃないのにさ
39 :
名無し三等兵:2012/09/11(火) 02:51:33.52 ID:???
>>22 あなたが思ってるよりもっとはっきりした戦況だっただろうね。少なくとも蒙古側には。
夜間に撤退を決めると言うのは既に撤兵論が主流になっている状況と考えて間違いない。
対馬壱岐の攻防の段階で軍内部に早期撤兵論が出てた可能性もある。
40 :
名無し三等兵:2012/09/11(火) 03:25:33.80 ID:???
文永の役の解説してるサイト見たら頭痛くなってきた
曰く、高麗はわざと船を脆く作った
曰く、元軍は勝ってたけど逃げる武士を追撃せず船に戻った
曰く、その夜ちょうど台風が来て脆く作られた船は沈んだ
完全に信じ切ってるのな
41 :
名無し三等兵:2012/09/11(火) 03:54:05.11 ID:???
35が言うような武士が懸命に戦って敗北したという後半戦とやらが存在したなら
武士たちは負傷・郎党の戦死をネタに散々に幕府に恩賞を要求したはずだろうに。
負傷・郎党の戦死は、当時では勲功となる。だから、一人も蒙古兵を討ち取っていなくて
負傷だけした福田兼重の申状のようなものが残ってる。
弘安の役での武士の書状でも蒙古兵を討ち取った内容より郎党の戦死や自らの負傷に関する
書状が多いのはそのため。
42 :
名無し三等兵:2012/09/11(火) 10:01:16.30 ID:VlrqfZes
>>38 >夕方に及んで武士が戦意を喪失した状況だったなら
日本軍が戦意喪失して水城に撤退していなかったら、一兵一馬も残さず見事に乗船させる
ことは不可能だったろうね。
交戦中の水際撤退はダンケルク、ディエップの様相になったはず。
>何で夜中に船を置き捨てて
どんな作戦にも犠牲はつきもの。
夜間に未知の海域で900隻(本船は300隻)のうちたった1隻の座礁で済ませたのは立派なものだ。
また、救助のためにそれ以上の犠牲が予想されるなら、打ち棄てるのも軍隊として当然の判断。
>>39 >夜間に撤退を決めると言うのは既に撤兵論が主流になっている状況と考えて間違いない。
元軍のなかで撤兵論が主流になっていたことは、全くあなたと同意見だ。
当夜撤退のの要因としては:
1)季節的に言って、はじめからどこで撤退したらいいかで頭一杯の遠征軍だったこと。
2)元軍もまた損害、損耗が大きかったと考えられること。
3)日本軍が撤退した当日の夜が、損害最小で撤退するための絶好機であったこと。
が考えられる。
43 :
名無し三等兵:2012/09/11(火) 13:55:00.05 ID:VlrqfZes
>>41 言っている意味がわからない。
日本軍の戦死者や負傷者は、いま残っている恩賞関係の書状の数だけしかなかったと
言いたいのか?
44 :
名無し三等兵:2012/09/11(火) 17:36:21.75 ID:???
>>43 お前が言うように後半戦が大規模な決戦で日本軍が敗北したなら
戦死や負傷をネタに幕府に恩賞を要求した書状が残っていないわけがないだろう。
お前が言うように前半が小規模な局地戦だったとして、なぜ小規模な局地戦だけ
負傷を誇る武士の書状が残っているのか疑問に思わないのか?
大体、蒙古襲来絵詞では鳥飼潟の戦闘以降、竹崎が戦場から離脱していたのにもかかわらず
お前が後半戦としている八幡ノ蒙古記の該当部分の「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」
と鳥飼潟の戦い以降に竹崎季長が戦闘に加わって戦っていたと捏造されてる。
ちなみに文永の役における竹崎の勲功に関して、安達泰盛の「分捕りや配下の討ち死にはあったのか?」との問いに対して
竹崎は「配下の討ち死にや分捕りはありません」と答えている。
つまり、八幡ノ蒙古記の「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」ような後半の大敗北戦とやらは存在しなかったし
竹崎季長もそんな戦闘の存在を認めていない。
それだけじゃない。お前が後半戦としている八幡ノ蒙古記での赤坂の戦闘では「菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、
かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ」とあり、菊池武房以外は全員戦死したことになっている。
ところが、実際は菊池武房の弟の有隆・康成らは生き残っている。
ということは「菊池はかりは、うちもらされ」たような戦闘はなかったということだ。
そもそも、元側の高麗史に「諸軍與戦、及暮乃解」とあるように元軍が決定的な勝利を得れなかったことが
確認されるんだから、八幡ノ蒙古記のような戦闘と高麗史の戦況は合致していない。
どちらが嘘をついてるか、状況判断と冷静に客観的に見れば一目瞭然だな。
45 :
名無し三等兵:2012/09/11(火) 18:44:05.48 ID:???
だいたい八幡蒙古記(それを下敷きにして京都で書かれたと思われる八幡愚童訓も)
白装束集団とか火柱とかあまりにも荒唐無稽すぎてさすがに当時の人間でも信じないだろう
これ八幡神宣伝が主目的ならもっと現実味もたせて書くんじゃない?
46 :
名無し三等兵:2012/09/11(火) 22:25:06.37 ID:???
各地で小規模の日本軍VS 元軍の大軍
結果:各地で日本軍の大勝利
47 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 07:41:32.22 ID:???
なんで元軍連戦連敗なんだ?
武士相手だと相性が悪い?
48 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 07:57:26.39 ID:???
>>47 十分に訓練された兵士には簡単に勝てない
日本は訓練された兵士を大量に動員できた
49 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 10:44:11.97 ID:EDuxd3TX
>>44 >そもそも、元側の高麗史に「諸軍與戦、及暮乃解」とあるように元軍が決定的な勝利を得れなかったことが
>確認されるんだから、八幡ノ蒙古記のような戦闘と高麗史の戦況は合致していない。
それについては高麗史と八幡ノ蒙古記は一致している。
八幡の蒙古記は夕方に武士たちが戦意を失って個々に撤退し始めたことを記述するが、本来なら元軍はここで
追撃戦を行って、日本軍を一挙に壊滅させなければならない。しかし八幡ノ蒙古記はそのように述べていない。
元軍はただ眺めていたことになる。(劉復亨の小部隊を除いては)
元軍にももはや軍として追撃戦を行う余力が残っていなかったのだ。
これこそが「及暮乃解」つまり夕方の自然休戦の姿であり、その点において高麗史と八幡ノ蒙古記は一致して
いるのだ。
その他にも高麗史と八幡ノ蒙古記との一致点は:
*日本軍の損害が大きかったこと(高麗史の「倭兵大敗、伏屍如麻」と一致)
*劉復亨が矢傷を負ったこと(八幡ノ蒙古記では流将公、流と劉の中国語音は同じ)
*元軍が当日の夜に撤退したこと(高麗史に「劉復亨当流矢、先登船」は一連のできごとを思わせる)
などがある。
注目すべきは、細かいことは抜きにして戦いの大筋において、高麗史と八幡ノ蒙古記の間に基本的な
一致が見られることだ。
我々は慣れているからなんでもないことのように思うが、実はこれは重要なことである。
なぜならばこの二つの史料が、互いに相手を参考にした可能性はほぼゼロだからだ。
これは二つの史料が互いに裏付け合って信憑性を高めていることに他ならない。
50 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 10:46:47.32 ID:EDuxd3TX
>>44 >前半が小規模な局地戦だったとして、なぜ小規模な局地戦だけ負傷を誇る武士の書状が残っているのか疑問に
>思わないのか?
私は
>>23 で、ある本で当時の博多周辺の地形図を見て考え方を改めたことを書いたが、重要なことを見落として
いた。そのことに昨日、気がついた。
後半戦が存在したとして、その戦場はどこであったかと言えば、それは祖原山から赤坂山にかけての一帯だ。
祖原山は朝の早い時間に占領されていたことを蒙古襲来絵詞が記述しており、その後これが日本軍の手に落ちた
という記録はない。
恐らく元軍に占領されたままであり、後半戦に於いては元軍の進撃の支点になったと思われる。
また赤坂山周辺は八幡ノ蒙古記の記述において、終盤の戦闘の主戦場であったことが窺われる。
この二つの山、ないし半島の間が、「後半戦」の戦場だったのだ。
ところで、
>>23 で述べたように、この地域は全て鳥飼の潮干潟の沿岸である。つまり、このあたりをひっくるめて
地域名で呼ぶならば、それは鳥飼潟なのだ。これが「鳥飼潟合戦」という呼び名の由来と思われる。
このことから必然的に次の結果が生じる。
福田文書や日田文書のように、海岸部の地名が入っていれば、それは潮の干満から考えて朝方の戦闘に違いないが、
恩賞関係の文書に単に「鳥飼潟合戦」と書いてあるならば、それは朝方の戦闘か、それともいわゆる「後半戦」か、
判別できないのだ。
「後半戦なかった説」の唯一の根拠は、かくして消滅した。
なお、私は
>>35 において私は「鳥飼潟合戦は満潮によって収束した」などと書いているが、これは上記のことに
気づく前に書いたものなので、
>>35 の「鳥飼潟合戦」は適宜「浜伝いの戦闘」などと読み替えていただきたい。
51 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 13:36:10.06 ID:EDuxd3TX
>>49 補足:
八幡ノ蒙古記と高麗史の重要な一致点はもうひとつあった。それは:
*戦いが夕方まで続いたこと。
八幡ノ蒙古記は「日も暮れ方になりしかば」、高麗史は「及暮乃解」と、互いに一致する。
52 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 19:38:13.36 ID:???
>>47 日本軍は世界有数の軍事大国であり、屈指の弓馬の兵であって、
銅鑼と鉦で進退する蒙古軍3万程度で勝てる相手じゃなかったから。
53 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 21:42:41.11 ID:EXQiteyK
「銅鑼と鉦で進退する蒙古軍は整然とした集団戦術で強い」と言われるが、
練度も士気も低い徴募兵はそうでもしないと動かせないのだろう。
そもそも鳴り物による命令伝達はパターンも少なく、柔軟な行動ができたと
は思えない。
対して個々の武士団は、常日頃寝食を共にしている騎馬と徒歩の郎党の
主従集団であり、練度も士気も高く、阿吽の呼吸で手足の如く動けただろう。
54 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 22:15:09.77 ID:???
ぶっちゃけたった三万で落とそうなんて舐めすぎにも程があるよな
元軍は順当に戦って順当に負けただけだろ
55 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 22:40:21.06 ID:???
元の戦力見積りが甘かったとしか
遊牧民族じゃないから舐めててたのと
朝鮮あたりから後進国と聞かされて真に受けたんだろうね
56 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 22:49:36.14 ID:???
騎馬民族VS戦闘民族
57 :
名無し三等兵:2012/09/12(水) 23:20:27.18 ID:???
元て自分達よりも高性能な弓持った弓騎兵との集団戦闘って経験あったのかね
58 :
名無し三等兵:2012/09/13(木) 05:29:29.24 ID:???
>>47 慶長弘安でも連戦連勝
十分に訓練された武士は強いんだよ
59 :
名無し三等兵:2012/09/13(木) 05:31:11.73 ID:???
文禄慶長やった
60 :
名無し三等兵:2012/09/13(木) 10:16:24.37 ID:???
台風16号がまた神風化してる
61 :
名無し三等兵:2012/09/13(木) 20:22:22.61 ID:???
阿津賀志山の合戦で、鎌倉・奥州の両軍は大規模な土木工事を行い双方で4万とも5万とも言われる兵が激突した
承久の乱も奥州合戦も、鎌倉方だけで10万に近い武士が動員されている。元軍は30万でも厳しいだろう。つまり日本の征服なんて言うは易く行うは…せいぜい米軍だけだな
62 :
名無し三等兵:2012/09/13(木) 21:52:34.68 ID:???
小さい島国で大国同士並みの内戦を何度もやってる修羅の国を
征服しようと考えた元が哀れ
63 :
名無し三等兵:2012/09/14(金) 01:12:32.69 ID:???
元は渡海作戦だから不利だっただけだ
武士に大陸を席巻して大帝国を建設するような軍事力があったとでも思ってるのか?
そこらの原住民に負けて逃げ帰るのが関の山だ
世界帝国を築いていたモンゴルの水準は当時は他の国とは隔絶しているよ
64 :
名無し三等兵:2012/09/14(金) 10:47:38.92 ID:???
彼の先祖が七代に渡り蒙古と強制混血した結果ああなってしまったのだ。
生暖かく見守ってあげなさい。
65 :
名無し三等兵:2012/09/14(金) 14:47:22.09 ID:???
>>63 じゃ当時の世界の大国で高度な防御性のある鎧を着て、高度な弓射技能を持った騎兵10万
ならびにそれに準ずる専門の戦闘員20万を動員できる国家を挙げてみな。
66 :
名無し三等兵:2012/09/14(金) 14:50:24.26 ID:???
渡海作戦だったから不利?とんでもない。
玄界灘があったから蒙古軍は日本軍の追撃から逃れられたじゃないか
陸続きだったら九州武士団は高麗南部に殺到して略奪の限りを尽くしとるわい
67 :
名無し三等兵:2012/09/14(金) 19:11:39.63 ID:???
>>62 日本は北海道を除いて30万平方キロ。現在のドイツは35万平方キロ。
イタリアと同等、イギリスより大きい。生産力まで考えたら、ぜんぜん小さい島国ではない。
大国。
68 :
名無し三等兵:2012/09/15(土) 12:06:42.66 ID:???
要するに当時の日本側(武士)を過小評価したい人がいるのね
69 :
名無し三等兵:2012/09/15(土) 13:33:19.15 ID:???
重装備の鎧着た武士達に弓を幾ら撃っても死なないで
弓矢でハリネズミ状態の武士達が突進してきて
鋭い日本刀で鎧ともども真っ二つにされる友軍を見て
蒙古軍「こ、こいつら不死身の化け物か!」
って逃げたんだろ
70 :
名無し三等兵:2012/09/15(土) 13:46:38.95 ID:???
鎌倉時代の日本とモンゴルを軍事的に見ると ほぼ互角 兵力は双方とも50万 武器に
関して言えば日本は軟鉄の鎧 兜 モンゴルは皮で出来た鎧 兜 皮ジャンパーを五枚
重ねた程度のモンゴル軍の鎧は日本刀の前にひとたまりも無かった モンゴル兵の刀は
長さ1メートル 幅10センチで騎馬戦には向いても相手の刀を受け止めるようには、なって
いない ましてや日本刀を受け止めたら真っ二つにされてしまう。
モンゴル軍の弓は200メートル の長距離を届くので皮で出来た鎧には有効だが
日本の鎧は軟鉄の鎧なので凹む事は有っても 突き破る事は不可能
事実 日本軍は鉄甲に身を固めているので弓が役に立たないと書いている
反対に日本軍の刀はモンゴル騎兵を鎧もろとも斬ってしまうと 日本を征服しょうと思えば最低
50万の兵力が必要 三ヶ月以内にもう50万の兵力を送らないと征服する事は不可能 これだけの
兵力を送る為には少なくとも一万隻の船が必要 それだけの船を造ればアジアの山はことごとく
はげ山になる。
71 :
名無し三等兵:2012/09/15(土) 14:03:24.80 ID:???
混戦の中、無我夢中で戦ってる武士に背後から何度も斬り付ける蒙古軍兵士
「ドンッ、ドンッ、ドンッ」
しかし、武士は無傷なので背後を斬り付けられてる事を知らない
しかし、頑張る蒙古軍兵士
「ドンッ、ドンッ、ドンッ」
背後からドンドンとする音に気がついた武士
武士「何だお前は!ドンドンうるせぇーぞ!」
「ズバッ」 「ズバッ」
蒙古軍兵士「ギャーッ」
END
72 :
名無し三等兵:2012/09/15(土) 20:29:15.49 ID:???
つーかその気になれば陸路より海路の方が大軍運びやすいだろ
当時は今みたいに海上で阻止とか不可能だし
73 :
名無し三等兵:2012/09/15(土) 20:33:51.30 ID:???
現代だって海路が一番安価で大量に物を運ぶ手段だよ
74 :
名無し三等兵:2012/09/15(土) 21:00:19.72 ID:???
久しぶりに元寇スレ覗いたら、未だに長文の仮想戦記書く人が一日中張り付いてんだな
75 :
名無し三等兵:2012/09/15(土) 22:41:40.57 ID:???
パフォーマンスさんが元寇を愛している同好の士なのは分かるが、やや的外れな愛なんだな
76 :
名無し三等兵:2012/09/16(日) 20:47:47.78 ID:???
77 :
名無し三等兵:2012/09/16(日) 21:56:17.17 ID:???
そりゃどっちも引いて痛み分けでしたってだけなら誰も反論しないんじゃね
78 :
名無し三等兵:2012/09/16(日) 22:29:10.96 ID:???
妄想に反論も糞もなかろう。
元軍がどこから上陸したかもわかっていないにもかかわらず、今津から上陸していたと
根拠も無く断定するだけではなく、元軍は縦横陣地を構築していたとしたり、さらに飛躍して
元軍はそこから進撃して、資料には無い「後半戦」があったと断定するなど飛躍に次ぐ飛躍ばかりだ。
武士たちの記録では元軍は赤坂から鳥飼潟、さらに百道原、姪浜と後退しているところまでは
確認できる。しかし、後半戦なるものがあれば、記録が残らないはずがないだろう。
まして、後半戦とやらがあったとして、当時戦死や負傷は勲功となるにもかかわらず
後半戦の戦死や負傷だけは触れないわけがない。触れていないということはそんな戦闘は
なかったのだ。
恐らく、蒙古襲来絵詞など八幡ノ蒙古記の戦況に都合の悪い資料をどう捌こうかと考えた末に
ひねり出した妄想にすぎないのだろうが。
例えば、此の人は八幡の蒙古記と蒙古襲来絵詞を無理矢理整合性をはかろうとした結果、
「竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主矢野種保兄弟、船にかゝりしほとは、よくふるまひたれと」
のたった一文を以って、蒙古襲来絵詞の戦闘の該当部分と断定して蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記の
矛盾した戦況の整合性をはかっている。
しかし、どう読もうが文永の役で竹崎季長が「船にかゝりしほとは」などという海戦を行ったことは確認されない。
そこで、此の人はさらに飛躍と妄想で八幡ノ蒙古記の著者は前半戦はほとんど知らなかったに違いない、海岸での戦闘だから
海戦のように書かれているのだろうと苦しいこじつけで納得するしかなかった。
後半戦とやらがあれだけ生き生きとこと細かく描写している著者が前半戦だけは知らなかったなど都合の良い解釈に
過ぎないのだ。
79 :
名無し三等兵:2012/09/16(日) 22:29:56.36 ID:???
ところがだ。何とか妄想と飛躍で蒙古襲来絵詞を捌いたつもりになったものの、八幡ノ蒙古記と蒙古襲来絵詞
と矛盾点はこれだけではない。
上にもあるが、なんと八幡ノ蒙古記では此の人の言う後半戦とやらに竹崎季長が参加していたというのだ。
此の人のいう八幡の蒙古記の後半戦には「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」とあり
前半戦の蒙古襲来絵詞における鳥飼潟での戦闘で負傷して竹崎は戦場を離脱していたのにもかかわらず竹崎が
後半戦に参加していたというのだ。
ところが、蒙古襲来絵詞には以下のような竹崎季長と安達泰盛とのやりとりの記載がある。
文永の役の勲功に関して、恩賞奉行の安達泰盛が竹崎に対して、「分捕りや配下の討ち死にはあったのか?」
との質問に対して、 竹崎は「配下の討ち死にや分捕りはありません」と答えている。
ということは、竹崎ら一党は此の人のいう前半戦の鳥飼潟で負傷した時点で戦線を離脱していたのだ。
つまりは八幡ノ蒙古記は実際はその場の戦場に存在しなかった人物を無理矢理登場させたということだ。
そのことは後半戦とやらの存在の信憑性に問題も生ずるだろう。
ましてや、八幡ノ蒙古記の文永の役の結びには元軍を追い払ったのは
「白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、此降伏に、
へきえきして、松原の陣をにけ」とあり、筥崎宮より現れた白装束三十人の集団が元軍を追い払ったとしている点は注目に値する。
結局は、この結びにたどり着くまでには、その場にいなかった武士たちも登場させて元軍に敗れに敗れた武士団が
必要だったということがわかるのだ。
蒙古襲来絵詞などと八幡ノ蒙古記にはこれだけではなく、まだ矛盾点が多々あるのだが、これらを見ていけば、
蒙古襲来絵詞と八幡ノ蒙古記との戦況の差異は、時間的差異などではなく、現場の武士と八幡の蒙古記の著者とでは
根本的に戦況の認識が違っていたということだ。
80 :
名無し三等兵:2012/09/17(月) 10:00:43.94 ID:WMfkNe9J
>>79 >そのことは後半戦とやらの存在の信憑性に問題も生ずるだろう。
いわゆる「後半戦」が無かったと言いたいようだが、高麗史金方慶伝にちゃんと「及暮乃解」
つまり「夕方に及んで自然休戦した」、夕方まで戦った、と書いてあるのに、
なんで「後半戦」がなかったと言えるのか?
しかも戦いが夕方に及んだということは八幡ノ蒙古記も「日も暮れ方になりしかば」と書いて
金方慶伝と一致している。
互いに参考にできない内外の二つの史料が一致することほど信憑性を高めるものはないと思うが。
恩賞関係の文書とかの話ではなく、金方慶伝の記述を信用しない理由を書いてくれ。
81 :
名無し三等兵:2012/09/17(月) 18:58:38.85 ID:???
>>80 単に根拠の乏しい妄想でひねり出した「後半戦」とやらと戦ってるだけだと思う。
自分の妄想を解決してくれないから他人を批判するなんて本末転倒だよ。
82 :
名無し三等兵:2012/09/17(月) 19:58:02.85 ID:MJjKnO37
>>81 では聞くが、高麗史金方慶伝と八幡ノ蒙古記の両方に述べられる夕暮れ時の戦闘は「後半戦」とは呼ばないのか?
83 :
名無し三等兵:2012/09/17(月) 20:40:09.84 ID:MJjKnO37
夕暮れ時の戦闘が「後半戦」ではないという禅問答は置いといて、先に進もう。
>>50で得られたことは重要だと思うので、もういちどまとめて置く。
「中世都市博多を掘る」所載の地形図によれば、当時の赤坂山は小半島状に海に突き出た台地であった。
この小半島の西岸は鳥飼潟に接していた。
その西方約2.5kmのところに、仮称・祖原半島が海に突き出て
おり、その基底部に祖原山が隆起していた。
二つの半島を円弧状につなぐ海岸が、鳥飼潟の南岸を形成した。
祖原山は鳥飼潟のほとりに隆起していたと言って良い。
仮称・祖原半島の先端は東西に細く伸びる砂州になっていた。この砂州が百道原である。
このうち東に伸びる砂州が、鳥飼潟の北限を形成した。
このように、当時の鳥飼潟は今日我々が想像するよりもはるかに広大であった。
また上記説明に見るように、文永の役の記述に出て来る戦場はほとんど鳥飼潟周辺にある。
だから、文永の役の戦闘は「鳥飼潟合戦」「鳥飼潟陣」などの言葉でほとんど包含し得るのである。
もちろん赤坂山も包含される。
だから高麗史や八幡の蒙古記が述べる夕暮れ時の戦い(後半戦?)が、赤坂山をめぐって戦われたとしても、
それは鳥飼潟合戦のうちなのだ。
逆に言えば、「戦闘記録は鳥飼潟合戦のものしかないから、鳥飼潟合戦以外の戦闘はなかった。だから
後半戦は無かった」という言い方はできないのである。
鳥飼潟合戦が前半戦のみ、とは限らないからである。
84 :
名無し三等兵:2012/09/17(月) 21:10:22.19 ID:MJjKnO37
すこし付け加える。
鳥飼潟そのものも戦場になった。竹崎季長も鳥飼潟に馬を乗り入れて敵を追っている。
私は鳥飼の潮干潟という言葉から、あのガタリンピックが行われる有明海の干潟を連想して、あんなところで
騎馬戦をやったのかと思って、げんなりしていた。
しかし最近見たテレビ番組で眼から鱗が落ちた。
それは厳島神社を撮った番組だった。あの海中に立つ大鳥居は、そばまで行くには小舟で行くしかないのだが、
引き潮の時は露出した海底を歩いて行けるのだ。その海底は固くしまっていて、人が歩いても足は沈まず、
なんの問題もない。
もし鳥飼の潮干型もあのようであれば、徒渉可能であるばかりか、むしろ絶好の騎馬戦場だったのではないか。
まあ実際の所はわからないし、竹崎は馬を「馳せ倒して」はいるけどね。
85 :
名無し三等兵:2012/09/18(火) 13:44:12.32 ID:???
「前半戦」と「後半戦」に戦闘が分断されていたという主張自体、根拠に乏しい。
86 :
名無し三等兵:2012/09/18(火) 15:01:55.97 ID:VFxUb+JT
>>85 別に分断されていたとは言っていない。
私は朝方から夕方まで、ずーっと戦闘が続いたと言っているだけだ。
もちろん、戦闘はおのずから何回かの中断を夾んだだろうが、それはまた別の話だ。
後半戦と言う言葉じたい、私が言い出した言葉ではない。
戦いが早い時間帯(例えば午前中)で終結して、元軍がそのまま百道原海岸から撤退した、
と主張する人たちがいて、その人たちが主張する、戦闘がおわった時間があるわけだ。
それが何時頃なのか、まだ聞いて見てはいないが、ともかくそのような時間があって、
それより後の時間に行われた(あるいは行われたはずのない)戦闘を「後半戦」と、
その人たちが呼んでいるのだ。
私はその人たちに話を合わせて「後半戦」という言葉を使っているだけ。
そして私は、「後半戦」は確かに存在した、なぜなら戦闘は夕方まで続いたと、高麗史や
八幡ノ蒙古記に書いてあるから、と主張しているわけだ。実に簡単明瞭な話だ。
ところが「元軍そのまま撤退説」の人たちは、恐らくこの説を唱える学者連中を信奉している
ためだろうが、後半戦の存在を認めることができない。
だから、戦闘は夕方まで続いたかも知れないが「後半戦」は無かった、
と禅問答のような話になってしまうわけだ。
87 :
名無し三等兵:2012/09/18(火) 17:38:55.70 ID:???
なぜ元軍が夜半撤退を決意したのかについては、その後半戦とやらで元軍など各所で敗れ、日没がなければ全軍崩壊の危機に立たされており、
翌日に日本軍の反攻が必至だったから それで済む話だな
自然休戦なら夜間までの僅かな時間で軍議を撤退に一決するほうが不自然だし、
高麗史の記述はそれで説明できる。矛盾が明らかな八幡蒙古記と無理に整合性を取る必要なんてない。
88 :
名無し三等兵:2012/09/19(水) 08:35:32.96 ID:TQwjaCNx
>>87 >日没がなければ全軍崩壊の危機に立たされており、翌日に日本軍の反攻が必至だったから
>それで済む話だな
日没に及んだ「後半戦」の存在を認めるわけか?
>高麗史の記述はそれで説明できる。矛盾が明らかな八幡蒙古記と無理に整合性を取る必要なんてない。
高麗史だけでは裏付けがない。八幡ノ蒙古記との一致があってはじめて高麗史の裏付けができる。
八幡ノ蒙古記の価値はそこにある。逆もまた真。
高麗史と八幡ノ蒙古記の一致については
>>49 >>51を参照。
89 :
名無し三等兵:2012/09/19(水) 22:44:13.86 ID:???
マヤの2012年人類滅亡預言と、IMFの2013年の世界の経済見通しも一致してるけど、
それは何らお互いの補強証拠にならないよw
90 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 09:52:07.99 ID:oEE79A2/
>>89 いっしょうけんめい考えたけど、残念だったね。
IMFはマヤの予言を思い切り参考にできる(参考にしたかどうかは知らないが)。
高麗史と八幡ノ蒙古記とは互いに参考にする可能性がほぼゼロ。
>>49参照。
91 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 10:28:40.56 ID:???
IMFがマヤの予言を参考にする可能性もほぼゼロだと思うがw
92 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 11:41:56.54 ID:oEE79A2/
>>91 そりゃ常識的に言って参考にしなかっただろうが、IMFの人がマヤに凝っていて、
参考にしようと思えばできる。マヤについて書かれた本は世の中にあるのだから。
高麗史と八幡ノ蒙古記の筆者たちは、互いにいくら参考にしようと思ってもできない。
(書かれた時代が互いに近いことと、文化的に途絶していたことによって)
その違いだ。
93 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 14:05:15.43 ID:???
>>90>>92 IMFの誰がマヤの予言を参考にするんだよw
何ら関連性なく書かれた2つの文書が同じ内容を示してると言う例なら、
キリスト教の外典と日本史の偽書だって同じ内容を書いたりしてるしオカルトではそういう「一致」を強調する
しかしそれがトンデモなのは言うまでもない
この場合、八幡蒙古記と高麗史の共通点は日没まで戦闘が行われたということしかなく、
その戦闘の性格について何ら一致点が存在しない。
94 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 14:09:39.25 ID:???
どうしてそこまでして八幡蒙古記と高麗史の記述を無理やり一致させようとするのか。
普通に一方は史料的根拠としては採用しがたく、高麗史の記述は単に日没に及んで戦闘が停止されたと読む
それが素直な読み方だろう。その戦闘の経緯については他の史料から探るほかない
蒙古軍が勝利を得られなかったのは蒙古側史料でもその後の軍議の内容でもはっきり分かる
第一級史料と言い難い八幡蒙古記の当該記述にあくまでこだわるからそういう変なことになるんだよ
両者を一生懸命一致させようとしてるから、まあ元寇ファンなのは分かるけどさ
95 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 14:21:46.59 ID:oEE79A2/
>>93 >キリスト教の外典と日本史の偽書だって同じ内容を書いたりしてるしオカルトではそういう「一致」を強調する
>しかしそれがトンデモなのは言うまでもない
その通りだな。
その偽書なりオカルトなりの主張する「一致」がなぜ価値がないのか?
それはその偽書が君の言う「キリスト教の外典」を「見て」書かれた可能性があるからだ。
実際に見たかどうかは問題ではない。見た可能性を否定できなければもうだめなのだ。
そこで君に聞くが、君は八幡ノ蒙古記が高麗史金方慶伝を「見て」書かれた可能性があると主張するのか?
あるいはまた、高麗史金方慶伝が八幡ノ蒙古記を「見て」書かれた可能性があると主張するのか?
96 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 14:51:16.43 ID:oEE79A2/
>>93 >この場合、八幡蒙古記と高麗史の共通点は日没まで戦闘が行われたということしかなく、
八幡ノ蒙古記と高麗史の一致点はそれだけでないことは
>>49ですでに言った。
それを見てもらえばいいのだが折角だからもういちど繰り返してあげよう。
1)日没まで戦闘が行われたこと(説明略)。
2)日本軍の損害が大きかったこと。
高麗史の「倭兵大敗、伏屍如麻」と八幡ノ蒙古記の戦闘記述とが一致する。
高麗史はじぶんが負けたときは「官軍潰」とか「以累戦不利」とかちゃんとそのように書くから信頼できる。
3)劉復亨が射落とされたこと。
高麗史は「劉復亨当流矢」、八幡ノ蒙古記は少貳が水城街道で部下に射させた記述。
4)元軍が当夜に撤退したこと。
八幡ノ蒙古記は翌朝元軍の船が消えていた記述、高麗史は「劉復亨当流矢、先登船」。
高麗史は直接的ではないが、まさか一週間とか野戦病院で唸っていたという書き方ではあるまい。
ここで注目すべきは単に一致するというだけではなく、1)3)4)については、日本側では八幡ノ蒙古記しか
これを記録していないことだ。
いかに八幡ノ蒙古記の性格に問題があろうと、記録が「ある」と「ない」とではその差は無限大だ。
このような史料価値は決して無視していいものではない。
八幡ノ蒙古記に含まれる、当時としては当たり前な宗教的な部分をことさらに取り上げるのは
学者を含めて「元軍そのまま撤退説」派の宣伝に過ぎない。
97 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 18:15:17.51 ID:???
>>96 96は馬鹿
2chといえども96が馬鹿であるという記録がある以上
96は馬鹿なんだろう
98 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 19:03:25.61 ID:???
99 :
名無し三等兵:2012/09/20(木) 22:37:57.16 ID:???
>>96 49で「もはや追撃余力が残っていなかった」と書いて戦闘継続不可能だった事実は認めてるじゃん
敵地で戦闘継続不可能になったらどうなる?即時撤退しか選択肢がない。夜中に尻をからげて逃げ出すわけだ
少数の日本軍相手に。これを敗北と言わずして何という。子供が見たって負けだと分かる
101 :
せんかく:2012/09/21(金) 07:30:45.90 ID:E4BoiWle
>>100 >敵地で戦闘継続不可能になったらどうなる?即時撤退しか選択肢がない。
追撃余力が残っていなかったというのは主として兵の疲労の問題だ。
むかしの戦争は体力勝負だから兵の疲労による中断は当たり前。
一晩寝て疲労回復すればまた話は別だ。金方慶はそれをやろうと言ったわけだ。
それにも係わらず撤退を決めたのは、日本軍が目の前にいなくなった今こそが
損害最小で撤退する絶好機と見たからだろう。
誰しもダンケルクやディエップはいやだからね。
>これを敗北と言わずして何という
勝ったか負けたかは見方しだいだ。私はそれよりも事実はなんだったのかを問題にして、
「元軍そのまま撤退説」を批判しているわけだ。
それは別として、勝ったか負けたかの判断基準として両軍の意識を取り上げる見方もある。
その見方によるならば、日本軍は「こりゃだめだ。手も足も出ない」と思い、
元軍は「このくらい痛めつけてやれば十分。任務は果たした」と思っていたかも知れない。
>高麗史と八幡ノ蒙古記の筆者たちは、互いにいくら参考にしようと思ってもできない
>(書かれた時代が互いに近いことと、文化的に途絶していたことによって
八幡ノ蒙古記成立から高麗史成立まで100年以上あるし
その間に日朝間の交流が途絶えていたわけではないだろ
八幡ノ蒙古記の記述内容が何らかの形で朝鮮に伝わり
高麗史の参考にされた可能性はゼロではない
少なくともIMFがマヤの予言を参考にする可能性を否定できないと言う奴には
八幡ノ蒙古記が高麗史の参考にされた可能性を否定する資格はない
>>101 その「見方」について言うなら、戦争の勝敗を決めるのは戦略目標を達成できたかどうかであり、
当事者がどういう感想を持ったかなど関係無い
そんなこと言い出す輩は杉山某と同様、軍事の知識はからっきしだということが分かるw
104 :
名無し三等兵:2012/09/21(金) 13:09:00.74 ID:zSoY9S0z
>これぐらい痛めつければ充分だ。
で、撤退か?
占領が目的だったのでは?
横レスですまんが、なんかageの人は言ってることがむちゃくちゃだね。
日本軍を水城まで追い払ったなら夜に撤退する必要なんてないじゃん。
兵が疲れてるのがわかってるんだから、なんでゆっくり泊まっていかなかったの?
敗北した軍勢が10kmも向こうまで逃げていったなら、ドンと博多の町でも見物して
翌日、ゆっくり撤退したら良かったじゃん。
結局は、高麗史にあるとおりどっちかが決定的勝利をあげることなく
日暮れになり、自然休戦した隙に元軍が撤退したっていうのが
一番、納得できる戦況かな。
107 :
名無し三等兵:2012/09/21(金) 15:13:43.61 ID:E4BoiWle
>>106 >どっちかが決定的勝利をあげることなく日暮れになり、
それはいわゆる「後半戦」の存在を認めることだが、それでいいのか?
>>107 はぁ?なんでそうなるんだ?
鳥飼〜姪浜、麁原山付近の戦闘で夕暮れまで決着がつかなくてもなんら問題ないし。
間違って他人に噛み付いちゃったんだろw
そもそも日本軍を追い払って圧倒的優位ってんなら「冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き」なんて言い訳めいた記述するもんかね
>>110 「冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き」
じゃなくて「冬十月、その国(日本)に入りこれを敗る。而して官軍整わず、また矢尽き」
まぁ、撤退の理由は言い訳めいてるけど。
113 :
名無し三等兵:2012/09/21(金) 18:26:39.70 ID:XtYBxIPR
>>108 >はぁ?なんでそうなるんだ?
>鳥飼〜姪浜、麁原山付近の戦闘で夕暮れまで決着がつかなくてもなんら問題ないし。
それでいいのだよ。
「後半戦」というのは文字を見ての通り、時間の問題であって地域の問題ではないからね。
君は「後半戦」の存在を認めたのだ。
学者を含めてそれを認めない人たちがいるから聞いて見た。
>>113 そうそう。ただし、あんたの唱えてる珍説の「八幡の蒙古記の記述は後半戦」
なんて微塵も思わないけどw
この人は八幡の関係者なんかね
ゆっくりしていってね! by 鎌倉武士団
元寇を国際的視点から見てみると面白いな。何で日本と三別抄の協働作戦に拘るんだろう?
日本と南宋のほうがずっと関係深いじゃん
118 :
名無し三等兵:2012/09/22(土) 13:46:16.33 ID:S+Qp7T8n
>>114 >「八幡の蒙古記の記述は後半戦」なんて微塵も思わないけど
「日も暮れ方になりしかば」が後半戦でないとは、やっぱり禅問答だな。
119 :
名無し三等兵:2012/09/22(土) 14:15:52.63 ID:S+Qp7T8n
>>102 >八幡ノ蒙古記成立から高麗史成立まで100年以上あるし
>高麗史の参考にされた可能性はゼロではない
高麗史の一次的成立は1395年で、たしかに八幡ノ蒙古記成立の約100年後だが、
高麗史はその当時まで実存した高麗王朝実録を書き直しただけと言われている。
(書き直しの目的は中国との関係や李氏朝鮮の立場に合わせること)
王朝実録は歴代の王ごとに書かれるもので、朝鮮王朝実録の例で見れば各王の
没後数年で完成している。
文永の役は元宗の没年に起こったから、その記録は元宗実録に入っている。
上に述べたことから、元宗実録は文永の役の数年後には完成していたと見られる。
また、元宗世家に含まれる文永の役の記述は金方慶伝の同記述の短縮と見られること
から、金方慶伝の記述もこの時点ですでに存在したと見られる。
以上のように高麗史の文永の役関係記述の成立は八幡ノ蒙古記より早い。
高麗史が八幡ノ蒙古記を参照した可能性はやっぱりゼロである。
120 :
名無し三等兵:2012/09/22(土) 14:23:32.38 ID:ncP0ggCZ
元寇では、蒙古側から日本軍の強さを驚嘆する言葉も漏れているし
けっこうよい戦いだったのではないかね
実際のところ、当時の鎌倉幕府は三十万の軍隊を動かす力があった。
蒙古軍十万も、長期戦では勝てなかったでしょう
121 :
名無し三等兵:2012/09/22(土) 15:08:09.11 ID:S+Qp7T8n
>>120 >元寇では、蒙古側から日本軍の強さを驚嘆する言葉も漏れているし
ソース希望
122 :
名無し三等兵:2012/09/22(土) 15:20:10.12 ID:S+Qp7T8n
>>119 訂正:
高麗史の文永の役関係記述の成立は八幡ノ蒙古記より早い。
↓
高麗史の文永の役関係記述の原史料の成立は八幡ノ蒙古記より早い。
>>118 禅問答じゃないよ。その場にいなかった武士を登場させたり
菊池兄弟を兄以外全員戦死したと書いたり、嘘八百を並びたててる
八幡の蒙古記は後半戦などではなく、「架空戦」だったという至極
単純明瞭な答えがあるじゃないか。
他の人も言ってたが、高麗史や蒙古襲来絵詞、八幡の蒙古記などの
戦況の違う資料から無理矢理整合性をとろうとするから、こんなに
妄想だらけの戦況になるんだよ。
124 :
名無し三等兵:2012/09/22(土) 18:33:29.79 ID:ThGPdDE6
>>123 禅問答だ。
君は「夕暮れに及ぶ戦闘は存在したか」という問題(これは
>>106で君も存在を認めている)と、
「八幡ノ蒙古記が描く後半戦は真実か」という問題とをゴッチャにして論じているのだ。
夕暮れ時に及ぶ戦闘とは、その内容はどうであれ、「後半戦」に違いないではないか。
ところで君は:
>高麗史にあるとおりどっちかが決定的勝利をあげることなく日暮れになり、自然休戦した
と書いているが、これは細かいことを抜きにすれば、八幡ノ蒙古記が記述する終盤の戦況そのものだ。
夕方に日本軍は撤退し、元軍はそれを追わなかったのだからね。
前にも書いたが八幡ノ蒙古記は大筋において高麗史と一致するところが貴重なのであり、この点において
八幡ノ蒙古記に代わり得る日本側資料はいまのところ皆無だ。
>>123 どこが禅問答だw
終日戦闘があったのは誰もが認めてることじゃないか。
恐らく、このスレでそれを否定してる人はいないんじゃないかな。
じゃあ、問題は何か?
「八幡ノ蒙古記が描く後半戦は真実か」という問題だけだね。
だから「これは細かいことを抜きにすれば」の細かい事が問題になってる。
後半戦自体が無理矢理ひねり出した概念だから
後半戦は真実か?って命題にするのもなんかおかしい
128 :
名無し三等兵:2012/09/22(土) 20:34:45.33 ID:ThGPdDE6
>>125 >「八幡ノ蒙古記が描く後半戦は真実か」という問題だけだね。
それについては
>>96で、
「大筋において金方慶伝と一致する(だから大筋は真実である可能性が高い)」
ということを書いた。
1)〜4)の一致点も書いた。いずれもほぼ事件の輪郭を決める重要な要素だ。
君はこれに対してまだ反論していない。順序としてまず
>>96に反論するべきではないか?
なお、一致点の追加として:
1’)戦闘の終わり方は自然休戦であった。
を付け加えよう。これの説明は
>>124と
>>49に書いた。
では反論をどうぞ。
反論がなければ同意と認める。
>>128 いちいち反論求めるな。こっちはあんたみたいに引き篭もって一日中2chに
張り付いて妄想を垂れ流してる暇はねえんだ。
>1)日没まで戦闘が行われたこと
確かに終日戦闘が行われたのは八幡ノ蒙古記や高麗史など諸資料でも一致してる。
ただ、高麗史と八幡ノ蒙古記では根本的戦況は全く違うと言っていい。
確かに高麗史では「及暮乃解」とあるけど、これに関しては戦況が全く書かれていない。
高麗史の性格上、八幡ノ蒙古記が言うように「今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」
というほど日本側が損害を受けていたら、書かないはずが無い。ましてや「諸軍与戦」とあり
高麗軍が参戦していたことは確実であるにもかかわらずだ。
高麗史は性格上、高麗軍の功績を強調するからな。
だが、高麗史は「諸軍与戦、及暮乃解」の一言で片付けている。そして次に続く文章が例の軍議で
クドゥンの発言に「兵法小敵之堅、大敵之擒」とあるように「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘で元軍は自軍を
「小敵」、日本側を「大敵」と認識した。
しかし、八幡ノ蒙古記の記述はどうか?高麗史「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を「(武士が)おくひやう神にさそはれて、
今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」と日暮れ頃には、日本軍が壊滅状態だったとしている。
これほどの壊滅状態と高麗史の「諸軍与戦、及暮乃解」「兵法小敵之堅、大敵之擒」では戦況が違いすぎる。
ようするに元軍は「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を勝利だとは思っていなかったということだ。
だから、戦闘の様子を全く記さず「諸軍与戦、及暮乃解」の一言で片付けた。
2)日本軍の損害が大きかったこと。
高麗史の「倭兵大敗、伏屍如麻」と八幡ノ蒙古記の戦闘記述とが一致する。
都合のいいところだけ抜き出すなよ。「倭兵大敗、伏屍如麻」は金方慶伝にある
文章なんだが「倭兵大敗、伏屍如麻」に至る経緯を書くと、日本兵が高麗軍中軍に
攻撃を仕掛けてきましたが、金方慶が鏑矢を抜き、大喝すると日本兵は辟易して逃げ出しました。
それを高麗軍諸将が追撃して「倭兵大敗、伏屍如麻」という状況になりました。
まあ、大体こんな感じ。
ここで注目されるのはたった一人の高麗の将軍が「大喝」すると日本兵が逃げ出していったということ。
ということは大規模な戦闘などではなく、家単位の武士と郎党が数十人程度で襲ってきたのだろう。
これは、蒙古襲来絵詞にもあるように菊池勢や竹崎勢が家単位で戦っていたことでもわかる。
つまり、「倭兵大敗、伏屍如麻」とは本戦ではなく、数千の高麗軍が恐らく数十人の武士団を袋叩きに
した小規模な戦闘だったってことがわかる。
では、大規模な本戦はというと「倭兵大敗、伏屍如麻」の後に続く「諸軍与戦、及暮乃解」
の戦闘だ。「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘で元軍は苦戦したのは確実で決定的な勝利を得られなかった
ことは上でも言った。
つまり、この部分に関しては八幡の蒙古記と高麗史の記述は一致しているとは言えない。
3)劉復亨が射落とされたこと。
これは本当に疑問。流将公とは本当に劉復亨のことなのか。
八幡ノ蒙古記は「流将公」なる人物は、「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」を連れ
「おくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」というほど
壊滅状態にあった日本軍を先頭きって追撃してきたとしている。
しかし、劉復亨は元軍の副司令官にして万人を指揮する万戸の身だ。
「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」の少人数を連れて、突出するようなことが
あるだろうか。あまりにも非現実的で、なおかつ流なる人物を射落とす際に
「せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究竟の馬廻に、
弓の上手かありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、
逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ」
と八幡大菩薩の威光を匂わせつつ、あまりにもリアルすぎる軍記物語のような描写に
なっている。
ここで面白いのが少弐家伝で少弐景資が百道原で蒙古軍大将を射倒したという記録があることだ。
面白いことに、福田兼重の文書にも百道原一帯で武士と元軍との間で激しい矢戦があり、福田兼重が
負傷したという記録がある。「就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時」
万戸の劉復亨が疲れきった蒙古兵たちを掻い潜って、少人数で追撃してきたという八幡の蒙古記よりよっぽど
現実的だ。この際に高麗史の「(劉復)亨、中流矢、先登舟」という状況が生まれたのだろう。
八幡の蒙古記のいうように追撃をしてきた流を射倒したなら、高麗史にいう「(劉復)亨、中流矢、先登舟」
も甚だおかしい。なぜなら八幡の蒙古記のいうように日本側を追い払い、撤退はまだ決まっていないにもかかわらず
劉を船に乗せるはずがあろうはずがない。ひとまず、占拠したであろう博多で安静にしても良かったはずだ。
しかし、負傷した劉は船まで帰った。つまり、陸にいるのは危険な状況だったからだ。その状況から考えられるのが
少弐家伝にあるように上陸地である百道原付近で負傷して、高麗史にあるように危険な陸から退去して船に帰ったのだ。
百道原一帯では安静にできる場所はないからな。だから船に逃れたのだろう。
4)元軍が当夜に撤退したこと。
八幡ノ蒙古記は翌朝元軍の船が消えていた記述、高麗史は「劉復亨当流矢、先登船」。
高麗史は直接的ではないが、まさか一週間とか野戦病院で唸っていたという書き方ではあるまい。
戦闘の記録があるのは20日のみ。そして翌日に戦闘の記録はなかった。
間接的ではあるが、諸資料とも20日のうちに撤退したことは十分に確認できる。
ちなみに八幡の蒙古記は夜のうちに元軍が撤退したとは書いていない。、
「夕過(カ)る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、
此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり、船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまゝゝ沖に、
にけたるは、大風に吹しつけられにけり」とあるように筥崎宮の奮戦で元軍が追い返されたのだ。
ここでも高麗史と八幡の蒙古記の著者の戦況認識の差は顕著に見られる。
133 :
名無し三等兵:2012/09/24(月) 11:14:16.12 ID:AxyN3hlG
>>129~
>>132 1)日没まで戦闘が行われたこと
>確かに終日戦闘が行われたのは八幡ノ蒙古記や高麗史など諸資料でも一致してる。
なるほど、君は夕方まで戦闘が行われたことにおいて高麗史と八幡ノ蒙古記が一致することを認めた
わけだ。
なお、八幡ノ蒙古記以外の日本側資料で、夕方までの戦闘を明示しているものはない。
2)日本軍の損害が大きかったこと
>「倭兵大敗、伏屍如麻」とは本戦ではなく、数千の高麗軍が恐らく数十人の武士団を袋叩きに
>した小規模な戦闘だったってことがわかる。
「数千の」以下は、それこそ八幡ノ蒙古記が描く戦闘様相そのものではないか。
君は少なくとも高麗軍が戦った緒戦の戦闘様相において、高麗史と八幡ノ蒙古記が一致することを
認めたわけだ。
なお、この戦闘様相は「大勢の中に駆け入って珍しくも命永らえた」という日田文書とも一致する。
134 :
名無し三等兵:2012/09/24(月) 11:15:03.02 ID:AxyN3hlG
3)劉復亨が射落とされたこと
>流将公とは本当に劉復亨のことなのか。
劉と流の中国語読みは同じliu(二声)だ。少なくともliuと言う名前の大将が射られたことにおいて
高麗史と八幡ノ蒙古記とは一致する。
また劉は蒙漢軍を率いる副元帥だが、八幡ノ蒙古記の「一方の大将」という表現もそれにふさわしい。
これに対して少貳家伝は射られた大将の名前がない。また弘安の役のこととなっているのが致命的である。
4)元軍が当夜に撤退したこと
>戦闘の記録があるのは20日のみ。そして翌日に戦闘の記録はなかった。
>間接的ではあるが、諸資料とも20日のうちに撤退したことは十分に確認できる。
いいかげんなことを言ってはいけない。戦闘の記録がないことと敵が撤退したことはイクオルではない。
>しかし、負傷した劉は船まで帰った。
なるほど、負傷した劉がその日のうちに乗船したことを認めるわけだな。
そこで「先登舟」の「先」が効いてくる。「先」とは他の人たちより先に、という意味だ。
つまりは他の人たちもその後に乗船したということになる。
一方、八幡ノ蒙古記は:
「夜も明ぬれば廿一日なり、あしたに松原を見ればさばかり屯せし敵もをらず、海のおもてを見わたせば、
きのふの夕べまで所せきし賊船一艘もなし」
と言うのだから、議論するまでもなかろう。
君は、元軍が20日当日に撤収したということにおいて、高麗記と八幡ノ蒙古記が一致することを認めたわけだ。
反論と言うよりは賛同のコメントになったな。ありがとう。
135 :
名無し三等兵:2012/09/24(月) 11:26:15.38 ID:AxyN3hlG
136 :
名無し三等兵:2012/09/24(月) 11:44:01.10 ID:AxyN3hlG
>>134 訂正:
<高麗記と八幡ノ蒙古記が一致することを認めたわけだ>
高麗記 → 高麗史
>>134 >> なお、八幡ノ蒙古記以外の日本側資料で、夕方までの戦闘を明示しているものはない。
これに対する反論をよろしくな。つまりは八幡の蒙古記と高麗史は一致していない。
確かに終日戦闘が行われたのは八幡ノ蒙古記や高麗史など諸資料でも一致してる。
ただ、高麗史と八幡ノ蒙古記では根本的戦況は全く違うと言っていい。
確かに高麗史では「及暮乃解」とあるけど、これに関しては戦況が全く書かれていない。
高麗史の性格上、八幡ノ蒙古記が言うように「今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」
というほど日本側が損害を受けていたら、書かないはずが無い。ましてや「諸軍与戦」とあり
高麗軍が参戦していたことは確実であるにもかかわらずだ。
高麗史は性格上、高麗軍の功績を強調するからな。
だが、高麗史は「諸軍与戦、及暮乃解」の一言で片付けている。そして次に続く文章が例の軍議で
クドゥンの発言に「兵法小敵之堅、大敵之擒」とあるように「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘で元軍は自軍を
「小敵」、日本側を「大敵」と認識した。
しかし、八幡ノ蒙古記の記述はどうか?高麗史「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を「(武士が)おくひやう神にさそはれて、
今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」と日暮れ頃には、日本軍が壊滅状態だったとしている。
これほどの壊滅状態と高麗史の「諸軍与戦、及暮乃解」「兵法小敵之堅、大敵之擒」では戦況が違いすぎる。
ようするに元軍は「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を勝利だとは思っていなかったということだ。
だから、戦闘の様子を全く記さず「諸軍与戦、及暮乃解」の一言で片付けた。
>君は少なくとも高麗軍が戦った緒戦の戦闘様相において、高麗史と八幡ノ蒙古記が一致することを
認めたわけだ。
ほう。「倭兵大敗、伏屍如麻」とは本戦ではなく、数千の高麗軍が恐らく数十人の武士団を袋叩きに
した小規模な戦闘だったわけだが、あんたは高麗史の記述の該当部分が八幡の蒙古記の記述だというなら
八幡の蒙古記は記述は本戦ではなく、局地戦だったというこだな。なら「諸軍与戦、及暮乃解」で元軍の苦戦が
スッポリ抜け落ちている理由がわかるな。
>また劉は蒙漢軍を率いる副元帥だが、八幡ノ蒙古記の「一方の大将」という表現もそれにふさわしい。
これに対する反論をよろしくな。あえて無視しているのかどうか知らんが。
八幡ノ蒙古記は「流将公」なる人物は、「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」を連れ
「おくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」というほど
壊滅状態にあった日本軍を先頭きって追撃してきたとしている。
しかし、劉復亨は元軍の副司令官にして万人を指揮する万戸の身だ。
「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」の少人数を連れて、突出するようなことが
あるだろうか。あまりにも非現実的で、なおかつ流なる人物を射落とす際に
「せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究竟の馬廻に、
弓の上手かありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、
かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、
逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ」
と八幡大菩薩の威光を匂わせつつ、あまりにもリアルすぎる軍記物語のような描写に
なっている。
ここで面白いのが少弐家伝で少弐景資が百道原で蒙古軍大将を射倒したという記録があることだ。
面白いことに、福田兼重の文書にも百道原一帯で武士と元軍との間で激しい矢戦があり、福田兼重が
負傷したという記録がある。「就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時」
万戸の劉復亨が疲れきった蒙古兵たちを掻い潜って、少人数で追撃してきたという八幡の蒙古記よりよっぽど
現実的だ。この際に高麗史の「(劉復)亨、中流矢、先登舟」という状況が生まれたのだろう。
八幡の蒙古記のいうように追撃をしてきた流を射倒したなら、高麗史にいう「(劉復)亨、中流矢、先登舟」
も甚だおかしい。なぜなら八幡の蒙古記のいうように日本側を追い払い、撤退はまだ決まっていないにもかかわらず
劉を船に乗せるはずがあろうはずがない。ひとまず、占拠したであろう博多で安静にしても良かったはずだ。
>これに対して少貳家伝は射られた大将の名前がない。また弘安の役のこととなっているのが致命的である。
大将の名前は確かに無いが、重要なのが「百道原」という地名がでていることだ。福田文書でこのあたりで激戦が
あったこと、負傷した蒙古軍大将が劉しかいないことなどから劉復亨であっても不自然ではない。
「百道原」など辺鄙な地名がでていることも信憑性を高めている。
少なくとも、大身の劉が、疲れきって全く動けないでいる蒙古兵たちを掻い潜って「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」
で追撃してきたという八幡の蒙古記より遥かに現実味がある。
ちなみに元号のミスは資料によくあることだ。
>いいかげんなことを言ってはいけない。戦闘の記録がないことと敵が撤退したことはイクオルではない。
確かに言い方がいい加減だったな。敵が撤退した資料なら何点もある。
どれも二十日で一致している。
『金剛仏子叡尊感身学正記』「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」
『五檀法日記』「仰去月(十一月)六日申刻、自鎮西飛脚上洛。去月十九日廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵船退散了。」
『帝王編年記』「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々
>そこで「先登舟」の「先」が効いてくる。「先」とは他の人たちより先に、という意味だ。
つまりは他の人たちもその後に乗船したということになる。
アホなのか。劉が船に運ばれた後、議論があり撤退が決定して元軍がみな乗船したから「先に」
となってるだけで、劉が「百道原で負傷して船に運ばれても」意味は変わらないんだが。
訂正
負傷した蒙古軍大将が劉しかいないことなどから劉復亨であっても不自然ではない。
↓
負傷した蒙古軍大将が劉しか記録にないことなどから劉復亨であっても不自然ではない。
141 :
名無し三等兵:2012/09/25(火) 14:06:37.67 ID:lhV3Y2p6
大量な「反論」が出ているが、これにいちいちコメントを書くと収拾つかなくなるから、ここで
もういちど整理して置こう。
私は5項目にわたって八幡ノ蒙古記(以下「八」)と高麗史金方慶伝(以下「高」)とが一致す
る点を挙げて、互いに参考にできない二つの資料における一致が信憑性をたかめること、および
一部の項目が日本側資料のなかで「八」のみに記録があることが「八」の史料価値であることを
主張した。
それに対する君の「反論」を項目を追って整理してみよう。
1)日没まで戦闘が行われたこと。
これは夕暮れの戦闘の記述が存在すればよく、その内容は問題ではない、というか別問題である。
これに対する君の「反論」は記述の存在を否定するものでなく、記述の内容に関するものである。
よって君は、この項目については私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。
1’)戦闘の終わり方は自然休戦であったこと。
これに対して君は「反論」していないが、これまでの書き込みから同意見であると思われる。
(ことわって置くが、自然休戦の内容はここでは問題ではない。とにかくどちらか一方の潰滅、
潰乱、潰走ではなかったということだ。)
よってこの項目についても、私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。
2)日本軍の損害が大きかったこと。
これに対する君の反論は、「八」が前哨戦(君の言う局地戦)の戦闘様相を本戦のそれに用いて
いる、あるいは「八」において本戦の戦闘様相が欠落している、ということにあるようだ。
しかし「高」の述べる「伏屍如麻」は前哨戦の描写であることは君も認めているのだから、結果
として「高」「八」とも前哨戦の様相ということになり、したがって比較することができる。
よってこの項目についても、私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。
142 :
名無し三等兵:2012/09/25(火) 14:10:58.90 ID:lhV3Y2p6
3)劉復亨が射落とされたこと。
これについても1)と同様に、言及があることが重要であって、その内容は二の次の問題である。
「八」の言う負傷者の名前は流将公であるから、音において一致している。
君の「反論」は流将公が射落とされた「八」の記述が君のイメージに合わないということであって、
名前の音が一致する大将の負傷への言及があることについては反対していない。
よってこの項目についても、私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。
4)元軍が当夜に撤退したこと。
「八」の記述は直接的、「高」の記述は劉の乗船に関連して間接的であるが、君の「反論」は
劉の乗船の状況に関するものであって、「高」の記述を当夜の撤退として読むことは私と同様と
思われる。そうであれば、劉の乗船状況に拘わらず撤退の時点に関して「八」「高」は一致する。
よってこの項目についても、私の主張する範囲で「八」の価値を認めたことになる。
ただし二十日の撤退について「八」以外に二、三の記録があることについて私は知らなかった。
これは君の言う通り、確かに存在するので、「八」の価値はそのぶん減殺される。
君の大量の書き込みは私の主張への反論というよりはむしろ新しい問題提起であって、それなりに
面白い問題を含んでいる。これについては、この後一つづつ取り上げて私の意見を書くことにする。
乞ご期待。
143 :
名無し三等兵:2012/09/25(火) 21:28:47.38 ID:lhV3Y2p6
まず、講談的、紙芝居的な興味のある劉復亨射落とし事件から行こう。
>壊滅状態にあった日本軍を先頭きって追撃してきたとしている。 (中略)
>劉復亨は元軍の副司令官にして万人を指揮する万戸の身だ。「十四五騎うちつれ、徒人七八十人」の
>少人数を連れて、突出するようなことがあるだろうか。あまりにも非現実的で
私には極めて現実的に思えるね。
まず、日本軍は君の言うように壊滅状態ではない。損害は大きかったが、生き残ったものは日暮れと
ともに一族単位の小集団ごとに集まって、とぼとぼと、もとい粛々と、水城めざして引き揚げた。
これは総大将の少貳が命じたのでなく自発的な撤退であるから、少貳はその立場上、引き揚げは
最後になった。意図せずして総大将の司令部集団が殿軍となった。
元軍は疲労のあまり引き揚げる日本軍を追うこともなく、無感動にそれを眺めていた。これが戦いの
こうすい状態であり、自然休戦の姿だ。
劉復亨はこのとき蒙漢軍の司令部とともに赤坂松原の元軍本陣にいた。眼下の水城街道を引き揚げて
行く少貳の小部隊がよく見えた。劉は血の気の多い人であったのだろう。遠目にも高位の武士とわかる
少貳を生け捕ってじぶんの手柄にしたいと思った。
元軍が疲労の極にあったと言っても一人残らず疲労していたわけではない。劉のそばには親衛隊がいた。
親衛隊の役目は副元帥の防衛であるから、あまり戦闘はやっていない。彼らにも活躍の場を与えてやろう。
劉はまだまだ元気な親衛隊の兵士たちを率いて少貳の小部隊を追った。
これならやれる・・そこに彼の油断があった。一人の若い日本武士が少貳の小部隊から駆け戻って来て、
やおらターンすると同時に見返り打ちの矢を放った。これが不運にも劉の革鎧を射通した。
客観的に見れば劉の行動は副元帥としては軽率であった。自らが傷を負ったばかりでなく、元軍の指揮
系統に穴を開けて、元軍撤退の一因となってしまった。このことを責められて、彼は帰国後に降格処分と
なった。
これが私の考える劉復亨射落とし事件のいちぶしじゅうだ。
144 :
名無し三等兵:2012/09/26(水) 09:04:11.53 ID:t4QAPbVu
これと比較して、少貳が弘安の役の時に百道原で蒙古大将を射止めたという少貳家家伝はどうか。
これを文永の役のこととするならば、まず百道原という現場が問題である。
文永の役の百道原は非常に危険な戦場であった。一つにははじめから元軍に占領されていたこと。
だから日本軍はいきなり敵軍のなかに突入する戦いとなった。福田文書が「大勢の中に突入して
珍しくも命永らえた、危うく首を取られるところだった」と言っている通りである。
もう一つは百道原の地勢である。干潮時は赤坂半島の先端から、鳥飼潟の狭い口を徒渉して
百道原の砂洲に行けるが、ぐずぐずしていると満潮になって退路がなくなる。そうなると祖原
半島を通って陸路で赤坂・博多へ帰るしかないが、その場合は敵に占領されている祖原山の傍を
通ることになって、側撃される危険がある。
こんなところへ、少貳の司令部が前進するだろうか。考えて見ればわかることである。
少貳の司令部が沖の浜から移動したのは、恐らく博多・箱崎放棄のときである。
しかも少貳みずから弓の射程内で元軍の副司令官の劉とまみえるのである。そのためには劉も
またこの危険な場所に上陸して乱戦に身を投じなければならない。非現実性はダブルである。
少貳がみずから射止めたというのは、恐らく八幡ノ蒙古記を後世において脚色した八幡愚童記
が出所であろう。八幡ノ蒙古記では少貳はみずから射止めたのではなく、弓の名手である部下
に命じて射させたのである。より現実的である。
百道原は少貳家家伝が言う通り、弘安の役に関係しているであろう。百道原は水際防衛の最重要
地点であることが文永の役でわかったから、弘安の役の時に少貳の司令部が置かれた可能性は高い
のである。あるいは少貳がみずからこの地域の防衛を受け持ったかも知れない。
少貳家家伝はこの二つの言い伝え(弘安の役の百道原防衛戦と八幡愚童記の少貳勲功説話)が
合体して、後世になって生じたものであろう。
145 :
名無し三等兵:2012/09/27(木) 11:45:46.03 ID:Ulwlzky6
さて次は劉復亨の乗船の事情である。
劉は水城街道で負傷して、とりあえず部下に運ばれて赤坂松原の本陣に帰り、そこで手当を受けて
寝かされていただろう。君が
>>138で:
>撤退はまだ決まっていないにもかかわらず劉を船に乗せるはずがあろうはずがない。
>ひとまず、占拠したであろう博多で安静にしても良かったはずだ。
と言っているが、その通りだと思う。ただし撤退が決まっていないのに博多までは運ばないのでは
ないか。赤坂ならば水城街道の起点だから近い。まあどちらでもいいけどね。
さて高麗史によれば「及暮乃解」で戦闘が終わった後に軍議があった。その軍議には金方慶、忽敦、
洪茶丘の名前があるのに劉復亨の名前はない。彼は負傷のため欠席したのだろう。劉が軍議以前に
負傷していた証拠である。
さて劉の乗船の事情は:
「不若回軍(で軍議が決し、)復亨中流矢、先登舟、遂引兵還」
となっている。軍議一決の後に劉の負傷が述べられているが、これは時系列ではなく、劉が他の将兵
に先だって乗船した事情を述べているのだろう。
つまり「劉復亨は流れ矢に当たって負傷していたので先に船に乗った。(その後)撤兵が完了して
(全軍が)帰還した」ということだろう。
文章の流れから、「先登舟」から「遂引兵還」までの間に日にちを夾んだとは受け取れない。
そうであればこれは一日の中の出来事であり、それは劉が負傷した20日のことである。
高麗史もまた当日の撤退を記録しているというゆえんである。
中国人民解放軍系の学者らが中国メディアを通じ、25日に海軍への配備が発表された空母「遼寧」は
沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐり対立が激化している日本への圧力になるとの発言を続けている。
中国は公式には「空母を保有しても、防御的な国防政策を堅持することに変わりはない」
(軍機関紙、解放軍報)との立場を取るが、本音では日本への威嚇効果を期待しているようだ。
中国メディアによると、国防大教員の李大光氏は
「この時期に空母を見せつけることは、釣魚島を防衛する中国の強い決意を表明することになる」と指摘。
「過ちを認めなければ自業自得になると日本政府に告げる」意味があると訴えた。
また国家安全政策研究委員会副秘書長の喬良少将や、中国軍事科学学会副秘書長の羅援少将も空母の「威嚇効果」を強調している。
洗衣院っていやらしい話だよね
149 :
名無し三等兵:2012/09/28(金) 13:13:10.50 ID:UNhAi4d4
劉はどこから乗船したか。
それは全軍がどこから乗船したか、という問題と重なる。
私は以前、元軍は西部海岸に上陸して博多に到達し、博多で乗船して還った、という説を主張
したことがある。船は西部海岸から回航したという考え方だ。
しかし現在はこの考え方を改めた。その理由は当時の博多が古代的な港湾設備しか持たなかった
ことを知ったからだ。つまり本船を横付けできる埠頭があるわけではなく、積み卸しは小舟に
積み替えて行った、ということだ。
それならば西部海岸でも同じことだ。むしろ沖の浜より広い砂浜がある西部海岸の方が大軍の
乗船に向いている。博多一カ所に集中したのではかえって混乱する。
元軍は基本的に上陸した海岸から乗船して帰ったたのではないか。百道原から上陸した部隊は
百道原から、博多に上陸した別動隊は博多から、ということだ。この点に限って、私は元軍が
百道原から帰ったという「元軍そのまま撤退説」に同意する。
このように考えるもう一つの理由は、船の使用方法だ。船は、自分が上陸させた部隊に対して、
浮かぶ補給基地の役割を果たしたのではないか。そのためには上陸部隊と常に連絡を保った
のではないか。連絡を保つためには船はなるべく動かないほうがよい。動くのは上陸部隊が
大きく移動したときだけだ。(例えば今津浜→百道原)
このように考えれば当日夜の撤退がスムースに行えた理由も分かる。上陸部隊はじぶんの乗る
船の位置が常に頭にあったのだ。だから乗れと言われれば上陸と逆の動作で素早く乗れたのだ。
そこで元に戻って、劉はどこから乗船したか。私はやっぱり博多だと思う。赤坂から百道までは
道が悪い。鳥飼潟は午後6時頃、つまり撤退が始まったころには再び干潮になっていたが、怪我
人を担いでいくのは大変だ。かと言って祖原半島廻りでは遠い。
劉は博多に運ばれてここから乗船しただろう。劉一人の問題だからどの船でもよい。最も手近で
堅固な船を選んで乗っただろう。
150 :
名無し三等兵:2012/09/28(金) 17:56:17.48 ID:Xw3mcO+c
現代の元寇が中韓の侵略か
台風も良いタイミングで来るよなw
今度の台風はほんとにナイスタイミングで来たよ。毎日尖閣ニュースとかうんざりするぜ。
誰か前半戦後半戦で揉めてる問題の日のタイムスケジュールをわかりやくまとめてくれ
元寇を調べていたら洗衣院のエピソードを知ってすごく興奮しています。
155 :
名無し三等兵:2012/09/30(日) 09:46:21.90 ID:dIv7FUEk
いそがしかったので間が空いた。続けよう。
次は戦闘様相、ないし君の言う「局地戦と本戦」の問題だ。これに関して君は
>>130で次のように
書いている。
>「倭兵大敗、伏屍如麻」とは本戦ではなく、数千の高麗軍が恐らく数十人の武士団を袋叩きに
>した小規模な戦闘だったってことがわかる。
>では、大規模な本戦はというと「倭兵大敗、伏屍如麻」の後に続く「諸軍与戦、及暮乃解」 の戦闘だ。
これを読んで私は一驚した。これは100%私の考え方と同じだ。嘘だと思ったら日本史板の元寇スレの
#322~#324を読んでもらえばわかる。
それでは君の説と私の説では何が違うかと言うと、本戦の結果だ。君はそれについて次のように書いて
いる。
>八幡ノ蒙古記の記述はどうか?高麗史「諸軍与戦、及暮乃解」の戦闘を「(武士が)おくひやう神に
>さそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」と日暮れ頃には、日本軍が壊滅状態
>だったとしている。
それほどの戦勝を高麗史が書かないわけがない、「及暮乃解」で片付けたのは本戦では元軍が苦戦した、
逆に言えば日本軍が善戦したからだ、日本軍が潰滅したという八幡ノ蒙古記は嘘だ、というわけだ。
156 :
名無し三等兵:2012/09/30(日) 09:46:55.92 ID:dIv7FUEk
しかし私は君の言うように日本軍が潰滅状態にあったとは読みとれない。「一人も戦はんとおもふ者
こそ、たえにけれ」というのは戦闘可能な無傷のものが一人もいなくなった、という意味ではない。
文字の通り、戦闘意欲を残しているものが一人もいなくなったという意味だ。
戦闘意欲を失ったから武士たちは自発的に撤退した。元軍もまた疲労のためにそれを追撃して決定的な
勝利をおさめることができなかった。これが「及暮乃解」の状況だ。このような泥沼的、あるいは引き
分け的な戦闘では大して華々しいこともないから「諸軍與戦、及暮乃解」で片付けた、と考えてもよい。
あるいはまた、高麗軍は徹夜で上陸し、朝方からの前哨戦(君の言う局地戦)で働いた。そして敵に
損害を強いつつ本隊上陸の時間を稼ぐという、先遣隊の任務を果たした。ごくろうさん、ということで
本戦ではあまり前面に出なかったかも知れない。高麗史の、本戦の記述が簡単な理由はそんなところだろう。
つまり武士は弱い
そして、元軍は武士よりも弱い
この人の主張の行き着く先は日本弱いじゃなくて八幡ノ蒙古記は正しい
将来司馬遼太郎の小説も一次資料として使われる時代が来そうだな
八幡ノ蒙古記のうち自分に都合がいいところだけは正しい
神の力の顕現は嘘
162 :
名無し三等兵:2012/09/30(日) 19:37:45.85 ID:Fgrlp9kG
端的に言って、神風が吹かなくとも、結果はさして差はなかっただろう。
モンゴル軍が強いと言っても、陸戦でのこと
海を超えての戦いとなればそれほどでもないし
鎌倉の残存兵力だけでモンゴル軍の倍は存在した。
充分にたたきつぶせたものね
163 :
名無し三等兵:2012/09/30(日) 20:59:48.30 ID:I0f1KK0n
>>159 >この人の主張の行き着く先は日本弱いじゃなくて八幡ノ蒙古記は正しい
そうとも言えない。
私が目の敵にしているのは、最近の流行りと言うかむしろ標準になってしまった
「水城へ撤退なかった説」「元軍そのまま撤退説」だ。
八幡ノ蒙古記はそのための手段の一つに過ぎない。
それしか通観した記録はないからね。
164 :
名無し三等兵:2012/10/01(月) 09:23:17.00 ID:FTtUP1Ab
>>137~
>>139への答えも一段落したので先に進もう。
最近読んだのだが、鳥飼潟は塩田であった。博多は塩の生産地だったのである。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/10795/10/%EF%BD%90215.pdf 塩田の条件は干満の差がある、遠浅の砂地であることだ。有明海のような泥の干潟ではいけない。
きれいな塩を採るには、ぜひともきれいな砂がなくてはならない。
潮が引くと現れる海底は湿った砂地である。湿った砂地は固いから、歩いたり騎馬で通れる。
博多湾の干満差は、「文永十一年冬の嵐」によれば1.5mだと言う。と言っても海底には高低がある
から、全部についてそれだけの差があるわけではない。塩田に相当する部分は、潮が満ちて来ても
かなりの時間は露出していて、満潮のピーク時にのみ、ひたひたの海水に覆われたであろう。それ
でなければ乾燥時間も欲しい塩田としては使えない。
ということで、鳥飼潟のかなりの部分は満潮のピーク時を除いて騎馬戦の好適地であった。ここが
前哨戦の舞台となったゆえんである。
蒙古襲来絵詞にも出てくる「塩屋」とは、製塩の最終段階で海水を煮詰めたり焼いたりするための
作業小屋である。赤坂半島から祖原半島に向かって海岸を進むと、まず「別府の塚原」があり、
次いで「鳥飼の塩屋」があった。
陸続きなのに元軍を撃退したベトナムとマムルークはすげえな
幼女「やあ諸君」
幼女「イキナリだが、ここに幼女で萌えたい変態はいるか?」
幼女「もしいるなら、是非我が家においでいただきたい」
幼女「人もロクにいないし、勢いも全くもってないが」
幼女「幼女と変態のほのぼのとした日常の妄想を垂れ流していってくれれば嬉しい」
幼女「これが招待状だ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
幼女「おい変態ちょっとこっちこい」@制作速報vip
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4gep/1269120069/ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
幼女「変態紳士諸君のお越しをおまちしt」
幼女「ちょっと変態、待ってよ今まじめな話してるんだから」
幼女「えっ?!そ、そんなことないぞ!わたしは変態一筋だって・・・ぁっ、ちっ違っ・・・!/////」
幼女「あっ?!ま、まて変態!み、皆見てるから!皆見てるから!」
幼女「こんなトコでちゅーとかはずかs・・・んっ」チュー
幼女「バカぁ・・・/////」
>>165 ベトナムはわずか3千のモンゴル兵に首都を征服されていたし
3度目のベトナム侵攻でも元軍の兵力は9万。
元寇とは比べ物にならん。
マムルークに至ってはモンゴル軍は2万程度。
168 :
名無し三等兵:2012/10/01(月) 14:04:30.36 ID:FTtUP1Ab
現場の状況がわかったところで、福田兼重の戦闘を再現して見よう。
私は以前に、福田が赤坂半島から鳥飼潟の入り江の口を徒渉して百道原へ行っただろうと書いたが、
これは考え過ぎだった。福田文書に「鳥飼塩浜で防戦した」と地名入りで書いてあるのを忘れていた。
塩浜とは製塩場のことであろう。彼は鳥飼の入り江の南岸でまず敵と会ったのである。
そして上に書いたように、塩田に使われる鳥飼の干潟は干潮のピーク(午前6時ごろ)をかなり
過ぎても騎馬で通過可能であった。百道原へ行くのに、わざわざ入り江の口へ廻る必要はなかった。
さて福田は菊池、竹崎、白石らより遅れて戦場に到着し、鳥飼塩浜で会敵した。竹崎がこの近くで
戦った相手は歩兵であったことが絵詞でわかるが、福田が会った敵は恐らく騎兵であろう。
というのは福田勢を百道原へ誘引するおとり部隊の役割をしたらしいからである。
入り江の南岸から百道原の砂洲までは、干潟を突っ切って1~1.5kmの距離がある。この距離を通して
騎馬の福田勢を誘引するのは、歩兵部隊には無理であろう。
高麗軍の騎馬隊は福田勢と形ばかりの矢戦を行った後に逃げた。逃げた方向は祖原半島沿いではなく、
近道をして鳥飼の干潟を北へ突っ切ったであろう。福田勢もまた同じルートを取ってこれを追いかけた。
祖原山はバイパスしたのである。
百道原まで来ると、そこには歩兵の大部隊が待っていて、福田勢を包囲して矢を射かけた。福田は
矢を三本射立てられて負傷した。彼は味方から多くの犠牲者を出しながら自らは「希有に存命し」、
やっとの思いで脱出した。
日田の戦闘も同じようなものであったろうが、彼は福田よりは善戦して、二回目の突入では西隣の
姪浜に達した。姪浜と百道原との間には鳥飼潟と同じような入り江があり、これも塩田に使われていた。
百道原から姪浜へは、干潟を通過して直接行けたのである。
朝方の戦闘はだいたいこのような様相だったのではなかろうか。
169 :
名無し三等兵:2012/10/01(月) 14:22:55.71 ID:FTtUP1Ab
>>165 >>167 マムルーク朝は、キプチャク系騎馬戦士の傭兵部隊が簒奪した王朝だった。
それと戦った「モンゴル」軍もまた、すでにトルコ化していた。
マムルークとモンゴルの戦いは似たもの同士の戦いだった。
以上、「モンゴル帝国の興亡」からの受け売り。
>>167 でも元寇は海を渡ってきた元軍の船を奇襲しただけでしょ?
あとは海岸での小競り合いと台風
4万程度じゃ小競り合いだな
>>171 小競り合いというか一方的な虐殺だな
上陸してきた元軍の数に比べて
鎌倉武士の数が多すぎる
陸から叩き出されて2ヶ月も海上にいれば台風の1つや2つ来て当たり前。
橋頭保の確保を巡る戦闘で元軍が敗北したのが最大の敗退要因。
>>160 俺の記憶が確かならこの人、以前坂の上の雲を日露戦争の史料として信用できるみたいなこと言ってたわw
175 :
名無し三等兵:2012/10/03(水) 19:55:43.45 ID:F4hQspoE
菊池、竹崎、白石、福田、日田らの武士達の戦闘記録には、ある共通点がある。それは日本軍が攻勢、元軍(総称)
が守勢にあったということである。これらの記録において、元軍ははじめから赤坂、祖原山、百道原などの場所に
いるが、そこから前進しつつあったという様子が記録から感じられない。
これはなぜか。元軍が武士を恐れたからだと言うのは簡単だ。しかし兵力2万数千の侵攻軍が、数千騎の守備軍に
対して行う戦闘としてはおかしい。
これは
>>130も言っているように、本戦ではなく前哨戦(
>>130の言う局地戦)だったのだ。そして、これも
>>130が
言っているように、この戦闘における元軍は高麗軍であった。降伏軍や植民地軍を先頭に立てて戦うのはモンゴルの
常套手段である。また高麗史の対馬・壱岐の戦闘記録には、高麗軍が先鋒を勤めたように読み取れる箇所がある。
高麗史金方慶伝によれば、高麗軍は左軍、中軍、右軍の三軍編成で、金方慶は総大将であると同時に中軍を自ら
指揮した。同伝が「三郎浦に舟を捨て、道を分って進む」と述べているのは、この三軍が早良郡に上陸して、
それぞれの目標を目指して進んだことを言うのであろう。そして金方慶の中軍は祖原山を占領してここを司令部とし、
別の軍が赤坂山を占領した。
しかし占領してそこに留まったのである。その目的は当然予想される日本軍の攻撃に対応してこれに出血を強いる
と同時に、より後方(西方)の姪浜、今津浜に上陸中の本隊、すなわち蒙漢軍を安全に上陸させるための時間を
稼ぐことであろう。
本隊との戦いを記録してない武家はアホだな
>>172 文永の役では総勢で倍以上、騎馬兵だけとっても明らかに元軍のほうが多かったのに?
素人の感想
鎌倉武士=自衛隊 練度の高い職業軍人
元軍=中・韓連合軍 徴兵主体の半民間人。アイヤー&アイゴー
元軍て負けるべくして負けたんじゃないの。
中韓だから弱い、ゆえに日本軍が勝ったという発想はしないほうがよい。
蒙漢軍は当時の東アジア世界では最強。問題はそれを迎え撃った日本が中世世界屈指の軍事大国だったことにある。
元軍が負けるべくして負けたのではなく、日本軍が勝つべくして勝った。
文永の役の後、鎌倉幕府は大陸出兵計画を考えていたらしいけど
鎌倉幕府としては南宋とモンゴル帝国を挟撃するつもりだったん
じゃないかな。
費用がかさんだというより、頼りにしていた南宋が大陸の情報で
防戦一方であることを確認して中止したような気がする。
ひょっとすると極秘で南宋に使者を派遣してたりしたんじゃないかな。
南宋が滅亡してそういった日本側の動きに関する資料は大陸で途絶えてしまった。
出兵準備をあんなに整えていたのに急に中止になったのは
大陸情勢の不安定化を受けてなんだろうか。
研究者はなぜか鎌倉幕府の大陸出兵計画はほとんど意に介さない
姿勢の者ばかりだが、詳しい研究が進む事を望む。
実際のところ鎌倉幕府が大陸に渡洋侵攻するのは能力的に難しいんじゃないだろうか
史実の元寇は国内での地上戦だから勝てたけど
幕府内部の政争が絡んでいた可能性も指摘されている。
183 :
名無し三等兵:2012/10/09(火) 09:05:29.68 ID:Vomu/S3M
>>179 分けて言わないとね。
文永の役は辛うじて引き分け、弘安の役は日本軍の勝ち。
文永の役で楽勝したら国を傾けて防塁を築くはずがない。
おいおい、寸土の土地も得られなかった元軍が引き分けなわけがないだろう。
防塁で国が傾いたってのも根拠が無いし、文永の役よりさらに大軍で攻めよせてくるのは
想定できるのに、武家政権である鎌倉幕府が何の対策もしない方が異常。
文永の役が辛うじて引き分けと言えるなら
秀吉の唐入りは日本軍の大勝利だなw
対馬や壱岐がぼこられてるから日本の負け
>>184 まあその人、戦略と戦術の区別も付かないような軍事オンチだからw
>>186 ハワイがぼこられてるから太平洋戦争はアメリカの負けだな、そうだろ?
>>186 対馬壱岐で住民が玉砕なみの激しい抵抗を示したことが蒙古軍に少なからず打撃を与え、
かりに戦況不利なら即日撤退と言う雰囲気が指揮官レベルに醸成されていた可能性もある
即日撤退って判断はなかなか下せるものじゃないしね
激闘で大部分の兵を失ったとかならともかく、
初日は日本勢は寡兵で決定的打撃までは行かないのに夜半引き揚げ決定
やはり完全に想定外の苦戦と言う雰囲気だったかもね
191 :
名無し三等兵:2012/10/09(火) 21:45:20.46 ID:Vomu/S3M
>>184 >寸土の土地も得られなかった元軍が引き分けなわけがないだろう。
土地が得られなければ負けとはまた、ずいぶんハードルを上げたもんだな。
じゃ、日本軍を全滅させたのに占領しなかった対馬、壱岐も元軍の負けか?
>>191 別に土地を得たかどうかだけが戦争の勝敗ではないが、元寇で元軍が他に達成した戦略目的があったか?
なんか元寇は元の負けではなかったとか言ってる人って、大東亜戦争はアジア諸国を欧米の植民地支配から解放できたから実質日本の勝ちとか言ってるクソウヨと変わらんなw
その論調なら文禄・慶長の役も日中戦争も日本の勝利になるなw
>>194 それらの戦争では一度は首都まで占領してるからねぇ
ナポレオンのロシア遠征しかり
文永の役は引き分けとか言ってる奴はキチガイだな。
元は戦略目標を何一つ達成していないだろうが。
>じゃ、日本軍を全滅させたのに占領しなかった対馬、壱岐も元軍の負けか?
放棄して逃げ出してるのだから、負けで違いないが?
なんか日本軍だと違和感が
198 :
名無し三等兵:2012/10/10(水) 09:48:27.96 ID:HoDjjKCX
>>196 >じゃ、日本軍を全滅させたのに占領しなかった対馬、壱岐も元軍の負けか?
>放棄して逃げ出してるのだから、負けで違いないが?
なるほどなるほど。
その伝で言えば相手の騎士団を殲滅したがその場所に留まらなかった、カルカ川や
リーグニッツのモンゴル軍も「負けで違いない」な?
カルカ河もワールシュタットも前後の軍事行動を日本の状況に置き換えるなら
「九州全土を蹂躙した後、本州へ上陸して東進してきたが京都を目前にして引き返した」レベルだからな。
しかもワールシュタットの時はオゴタイさんが死んじゃったっていう政治的事情があるし。
200 :
名無し三等兵:2012/10/10(水) 10:51:47.33 ID:HoDjjKCX
>>199 >前後の軍事行動を日本の状況に置き換えるなら「九州全土を蹂躙した後、本州へ上陸して
カルカ川、リーグニッツで戦場までの経路がぜんぶロシヤやドイツだったわけじゃないから、
その言い訳はなりたたない。
戦場までの経路が陸か海かの違いだけ。
秀吉が死んじゃった唐入は負け
オゴタイが死んだから帰ったワールシュタット勝ち
元軍の目的は最低でも九州に拠点を築くこと
日本軍の目的は元軍を追い返す事
どっちが勝ったかは子供でも分かるな
勝ち負け付けるのは会戦単位の話なのか、戦争全体なのか
戦闘でも戦争でも勝ってるよ。
馬鹿な奴がいるなぁ。リーグニッツのような戦いは日本との戦いにはなかったし
ヨーロッパのように皇帝が死んだから元軍が撤退したわけじゃないし。
普通に武士に苦戦したから元軍は撤退した。撤退要因が「武士団」であるのに
元軍が勝利とか頭に蛆が湧いてるとしか思えん。
対外戦争の勝利って戦略目標を達成したか否かじゃないかい
207 :
名無し三等兵:2012/10/10(水) 18:56:18.83 ID:/h1Epxuj
>>202 戦闘員2万数千でまったく補給を持たない遠征軍が九州に拠点を築くなど、軍事板とも思えないな。
北九州をテキトーに蹂躙すればそれで日本の方から頭下げてなびいてくると思ってたんじゃねーの
>>207 乗せてきた軍を完全に揚陸してしまえば空いた船を補給に回せる
北部九州を制圧して日本水軍の出撃拠点を奪ってしまえば当時はまず妨害できないし
戦闘員2万数千とか大軍だろうに。
マムルークに攻め込んだモンゴル軍も2万。
第一次ベトナム侵攻ではわずか3千だ。
島の樺太に攻め込んだ元軍は文永より少ない一万だったのにも関わらず
骨嵬を降伏させている。
単に日本侵攻では元軍の実力が足らなかった。それだけ。
当時の補給の概念て現地調達の略奪じゃなかったっけか
さすがに海超えで全部掠奪でってのは現場が納得しないんじゃね
ロクに補給持たずに総員四万近い軍勢送ってただ荒らし回って
戦略目標達成したから勝ちですとか元軍は脳に蛆が湧いてるのか?w
元軍人の安田さん
対馬海峡の制海権と北九州沿岸の橋頭堡を確保すればあとは乗ってきた軍船のピストン輸送で補給できると思ってたんじゃね?
日本人襲って焼いて食えばいいやん。
アジアの方々が日本人が勝ったら申し訳ないと思う人達がいたからな
>>216 よい子のみんなー、日本は弱かったんだよ!愛国心を持ったらダメだからね!派の妄言。
220 :
名無し三等兵:2012/10/11(木) 10:19:32.67 ID:jLfND9ga
>>215 >橋頭堡を確保すればあとは乗ってきた軍船のピストン輸送で補給できる
じゃなんで弘安の役の東路軍はそれをやらなかったんだ?
三ヶ月分持って来た食糧が残り少ないがどうしようって軍議やってるじゃないか。
鷹島には橋頭堡確保してるのに。
>>220 弘安前半に志賀島に拠点作ったつもりが総攻撃されて
命からがらやっと船に逃げ帰ったことがあるから
その程度ではとても船を手放すことなどできない
>>221 一体何しに日本まで来たんだよw
修学旅行か?
朝鮮出兵で日本軍は1万5千で釜山鎮落としたのに
4万も要してなぜ博多を占領出来なかったのか
奇襲じゃなくて強襲だからじゃね
防御側に準備されてる時点で攻撃側は不利だろう
225 :
名無し三等兵:2012/10/12(金) 08:57:11.09 ID:9ttl3mwU
>>221 >その程度ではとても船を手放すことなどできない
その通りだな。船は、いざというときの逃げ足だから手放す気にはならない。
日本軍の地の利が良い博多や大宰府ならなおさらのことだ。
どういうわけか元軍は海外遠征で継続補給という考えがなかったように見える。
着た切り雀ならぬ積んだ切り雀だ。
ベトナムでは1年分の食糧を船で持って行ったというが、逆に、腐ることもあろう
食糧をなんで1年分も一遍に? ということになる。
ということでピストン輸送は脳内だけ。
>>224 慶長の役の漆川梁海戦でも壊滅してるし
根本的にどうなのって気もする
>>224 再三に渡って出兵するぞと朝鮮側に警告してるのに奇襲もクソもないだろw
朝鮮なりに防御体制に入ってたんじゃねえの?
うろ覚えだが、フロイス日本史に釜山浦が防御体制に入ってると読み取れる
描写があった気がする…
いちいち、図書館まで確認しにはいかんけどw
229 :
名無し三等兵:2012/10/12(金) 12:43:14.92 ID:9ttl3mwU
>>217 鷹島遺跡の船は碇の形で江南軍の船と証明されているからね。
高麗が急かされて短期間で作った船がどうだったかは分からない。
>>227 反戦派だった小西行長なんて加藤清正の進軍経路をこっそり朝鮮側に教えたくらいなのにね。
>>229 なら、尚更サボタージュ説成り立たないじゃんw
東路軍は台風ではあんまし被害受けなかったんだし。
この粗製乱造説がアホらしい説なのは、新造船で成り立っていた東路軍の被害が
軽微で、旧南宋の軍船を転用した江南軍の被害が甚大だったことを無視していることだ。
新造艦に乗っていた高麗兵の生還率は7割を超えていた。
つまり、新造した船ほど被害が見受けられないということは、粗製乱造説は成り立たない。
単に江南軍の被害が甚大だったのは、粗製乱造だったからではなく旧南宋の軍船をそのまま
転用したことによる船の劣化によるものだ。
まあ、あれほどの大軍を日本に派遣するには南宋船の転用は避けられない必然的な
ものだったと思うけど。
232 :
名無し三等兵:2012/10/12(金) 15:55:41.56 ID:9ttl3mwU
>>230 単に船の構造のことを言っただけだよ。
文永の役のときに中国式で作ると間に合わないから朝鮮式で作ったなんて
記事があったんじゃないか?
朝鮮式のほうが簡易な構造だったのだろう。
簡易だから弱いとは限らないがね。
新羅の船は遣唐使船より小型だがかえって沈みにくかったらしいし。
>>231 江南軍でも被害軽微な部隊もあった
停泊方法がまずかった(隣の船と近すぎた)&台風の中心に近かったということじゃ?
234 :
名無し三等兵:2012/10/12(金) 18:38:17.67 ID:P+KrCP43
>>233 鷹島遺跡では、複数の錨が近接して並んで出て来ている。
舟が近接して、あるいは舷側をつなぎ合わせて停泊された可能性が高い。
これではぶつかり合って壊れただろう。
江南はまず台風のコースではないから、台風慣れしていなかった部隊があったのではないか?
つまり、鳳雛先生は大うそつきだったということだよ。
日本側水軍の襲撃を防ぐために連環の計をほどこしたら、逆に病人が増えちゃったんだ。
遠大な計略だな
台風の後、元軍の兵士たちは鷹島に集中していた。
ということは、台風が吹き始めると焦った海上の元軍は島に上陸して台風をやり過ごそうと
鷹島に集中、上陸を一斉に行った。その際に上陸しようとする元軍船は密集して台風により
船同士が衝突し沈没した、というのは考えられないだろうか。
>>233 確かにそれもあると思う。しかし、高麗で造られた船は頑丈で
台風の被害が少なかったことが伺える資料もあるから高麗で造られた
新造艦が頑丈だったのは間違いないと思う。
元の文官・王ツの記事『汎海小録』「ただ勾麗(高麗)の船は堅く全きを得、遂に師を西還す」
また、元の中書省右丞の丁というものがクビライに「江南の戦船、大なるは即ち大なるも、
偶偶触るれば即ちやぶる。これ、前に利を失する所以なり。もし、高麗をして船を作らしめ、しこうして
再び之を征すれば、日本とるべし」と発言しており、元では江南船は脆く、新造隊の高麗船が頑丈だった
という認識が存在していたことがわかる。
>>223 目的は大宰府の占領であり博多を占領することに何の意味も無いから。
撤退せず2日目以降も戦闘を継続するつもりなら上陸地点付近に拠点を設ける必要が有り、そのためには
博多を占領するのも有効だったかもしれないが、即日撤退が決まったんだから占領する理由も無い。
夜陰に乗じて撤退するつもりなら街に火をつけて焼くなんて行動も有害無益。
>>220 鷹島が橋頭堡とか何を寝言言ってるんだ ?
240 :
名無し三等兵:2012/10/14(日) 09:27:51.29 ID:0L5lgF0L
「軍事史学」通巻152号を買って見た(まだ在庫ある)。読んで見て、まあ学者たちも
このスレとあんまりレベル変わらないなと思ったが、なかで大葉昇一という人が面白い
ことを言っている。
高麗史の世家、忠烈王6年11月に、
「往歳の東征の時、大船一百二十六艘、梢工水手は猶為に今だ敷かず。況んや今三百艘、
何ぞ以て盡くさんや。」とある。
要するに文永の役の時に126艘ぶんの梢工水手を集めるのも大変だったのに、今度は300艘だ、
とても揃わない、と言っているのだ。
このことから、文永の役の時の大船は実際は126艘だったのであり、元史などの300艘は
建前だったのではないか? という疑いが出てくる。
この数字は、文永の役の時の大船126艘に対して梢工水手6700人、弘安の役の時の大船300艘に
対して梢工水手17029人という数字で裏付けされる。どちらも一船あたり約55人になる。
この大船の隻数から、戦闘員も2万そこそこだったのではないか?という疑いが生じる。
241 :
名無し三等兵:2012/10/14(日) 09:39:37.80 ID:0L5lgF0L
>>239 『元史』巻一百六十五 列傳第五十二 張禧(中略)与右丞范文虎、左丞李庭同率舟帥、泛海東征、
至日本、禧即捨舟、築壘平湖島、
平湖島とは平戸島のことだ。
上陸(捨舟)して塁を築けば橋頭堡だろうよ。
>>240 すでに既存の物が174艘あったんじゃね?知らんけど
>>241 橋頭堡の意味がわかってない。
九州を占領したいなら九州本島に上陸し、一部を占領して拠点を築かなければ橋頭堡とは言わん。
地続きになっていない島ならそれはせいぜい九州本島上陸の為の事前集積場だ。
パフォーマンスさんはスルーの方向で。
いつも、話に割り入って妄想を押し付けてくる変な人だから。
>>243 威力偵察の意味も戦略目標の意味もわかってない人に何言っても無駄だべ
246 :
名無し三等兵:2012/10/14(日) 13:06:30.41 ID:0L5lgF0L
>>243 橋頭堡は地続きでなければならない。
ソースをどうぞ。
247 :
名無し三等兵:2012/10/14(日) 13:11:15.16 ID:0L5lgF0L
>>242 >すでに既存の物が174艘あったんじゃね?
なるほど。その174艘は梢工水手なしで動く自動船だったわけだな。
248 :
名無し三等兵:2012/10/14(日) 13:22:48.67 ID:0L5lgF0L
>>243 ウィキペディアの「橋頭堡」にはいくつかの分類が載っているが、次のものは鷹島に近いな。
<戦術上の橋頭堡>
兵站(ロジスティックス)を確保する上において、前線に最も近い要衝となる重要地点を
防護する設備を指す。戦線にもっとも近い防衛施設、補給点。一方、後方で敵の勢力が十分に
排除された兵站拠点は橋頭堡とは呼ばれない。
鷹島は敵の勢力が十分に排除されるどころか、武士の攻撃にさらされてたからな〜
>地続きになっていない島ならそれはせいぜい九州本島上陸の為の事前集積場だ。
九州本土上陸の為の事前集積場たる地続きになっていない島(鷹島)、それを敵襲から守る
ために築いた陣地(塁)。
それこそ上記の分類そのものではないか。
どちらにせよ蹴散らされてるじゃん
ageの人は2行くらいで終る内容の文章を長ったらしく書く人だから無視しとけよ。
相手するだけ面倒臭いだけだよ。
251 :
名無し三等兵:2012/10/15(月) 13:11:21.73 ID:vaF6N1uf
>>238 >目的は大宰府の占領であり博多を占領することに何の意味も無いから。
あまり博多と大宰府を分けて考える必要もないのでないか?
当時の中国人の認識では博多も大宰府に含まれていた可能性がある。
そうであれば「あれをやるかこれをやるか」の問題でなくて、「どの程度やるか」の問題になる。
252 :
名無し三等兵:2012/10/15(月) 20:06:35.72 ID:XXnfaiep
(´・ω・`)太宰府攻略、ひいては日本攻略の足掛かりとして大いに意味のある事でしょ
地続きじゃないんだから先ずは港を確保しなきゃ戦にならん
けど、実際は荒らしに来ただけだからそんな事なかった
博多を経由せずに太宰府に行く方が無謀だろ
254 :
名無し三等兵:2012/10/15(月) 21:41:25.79 ID:vaF6N1uf
>>253 そんなことはない。
赤坂からはまっすぐに水城・大宰府に向かう道路があった。
西から来て赤坂を取れば、博多を経由せずに水城・大宰府に行けた。
そうなると日本軍が博多を守っている意味はない。
日本軍が博多を放棄した理由は恐らくこれだろう。
255 :
名無し三等兵:2012/10/15(月) 22:28:54.79 ID:XXnfaiep
(´・ω・`)その考えで放棄したのなら支城は要らねえって言うものだぞ
守り辛い博多なんて実際要らないだろ
太宰府さえ守れればいいんだから
>>248 敵地に近い島を占領した場合、それは一般に「後方で敵の勢力が十分に排除された兵站拠点」
敵地に上陸して拠点を築かない限り橋頭堡とは言わない。
弘安で元軍は九州本島に橋頭堡を築けなかったばかりか本来「後方で敵の勢力が十分に排除された兵站拠点」
である筈の鷹島までが攻撃にさらされる有様だったわけだ。
それが「棄民説」だの「威力偵察説」だのを大真面目に主張する御仁の手にかかると「後方兵站拠点」が攻撃にさ
らされた事をもって逆に「橋頭堡」に化け、「元軍は橋頭堡を築いていた」というロジックになるわけか・・・
いやはや、恐れ入ったな・・・
>>251 >あまり博多と大宰府を分けて考える必要もないのでないか?
>当時の中国人の認識では博多も大宰府に含まれていた可能性がある。
はい、ソースをどうぞ。
博多は大宰府への表玄関ではあるけど、あくまで博多は博多、大宰府は大宰府です。
博多占領が「可能だった」事をもって当時の中国人は「大宰府を占領可能だった」と認識したとでも
主張したいのかね ?
あと「中国人」ではなく「モンゴル人」な。
>そうであれば「あれをやるかこれをやるか」の問題でなくて、「どの程度やるか」の問題になる。
意味不明。
どうもあくまで「膺懲説」だの「威力偵察説」だのを主張したいのかな ?
九州の政庁である大宰府を制圧するのが目的なのに単なる街である博多落としてもしょうが無いだろw
元軍はワシントンとニューヨークの違いが分からないぐらい馬鹿だったって事か
どうも、元は日本侵略に際してどういう計画を持っていたのか判らないな。
よく知らないけど、博多が落ちたという証拠は無いらしいな。
確かに数万人も暮らす大都市で誰もそのことに触れていないのはおかしいね。
>>260 大宰府を占領して元版任那日本府を作りたかったんじゃね?
そこを拠点に外交や軍勢の拠点としようとしたのかも。
まあ、でも元軍が2万以上も送り込んで制圧できなかった地域って
そんなに無いし、軍勢さえ派遣したら日本を占領できると楽観視してたかも。
263 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 08:33:26.51 ID:tjE1ZKl2
>>258 >博多は大宰府への表玄関ではあるけど、あくまで博多は博多、大宰府は大宰府です。
古代、「筑紫太宰」は那の津すなわち博多にあった。それが白村江の敗戦によって現在の
位置に後退した。
奈良時代、博多と赤坂から2本の直線道路が水城の東西の門を通って大宰府に至っていた。
この姿は、博多、赤坂、水城、大宰府を含めた地域が、新しい壮大な日本の表玄関になった
と言える。
時代と共に博多が発展し、官道が管理されなくなっても、古代の記憶と奈良時代の姿を通じて、
博多、赤坂を大宰府に含める意識は長く中国人の間に残ったのではないか?
264 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 08:53:50.21 ID:tjE1ZKl2
>>263の続き
その一つの表れが、文永の役に先立って元が中国人商人を諮問した元史の記事だ。
中国人商人は「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」と答えた。
これに対しては
「日本の太宰府周辺に上陸地から向かうには、軍勢約二、三万ほどが必要でしょう」という
いいかげんな訳がつけられており、これを大宰府が攻撃目標であった証拠とする人もいる。
しかしこの訳は漢文としては文法的にめちゃくちゃだ。素直に訳するならば:
「大宰府等下船之地、いずれも下岸して軍二三万を用いること可なり」
つまり「大宰府等の上陸地はいずれも接岸して二、三万の兵を動かすことが可能でしょう」
と言っているのである。
商人であって軍事専門家でもないのに、大宰府攻略の所要人員など答えるわけがない。
これは元が「二、三万の兵を上陸させたいのだが地勢はどうか」と聞いたのに対する
答えであろう。
大宰府等の上陸地とは博多の沖の浜に加えて東の箱崎浜、西の百道原、今津などをひっくる
めたのであろう。
ここでは明らかに博多を大宰府と呼んでいるのである。
265 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 08:58:00.14 ID:tjE1ZKl2
>>264の続き
もう一つ、ソースを記録して置かなかったのだが、
鎌倉時代に博多のチャイナタウンに住んでいた中国人が、 中国の故郷に建てた墓に、
生前の居住地として「日本大宰府博多」と刻まれているのがあるそうだ。
これは博多が「太宰府市博多区」のようなものとして中国人に認識されていたことを
示している。
奈良に船で行く時にどこに行けば良いのかと聞かれて
堺です。と答えたら堺=奈良になるの?
267 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 09:37:55.37 ID:tjE1ZKl2
>>264 訂正:
誤「いずれも下岸して軍二三万を用いること可なり」
正「いずれも下岸して軍約二三万を用いること可なり」
仮に元軍の認識で博多は大宰府の一部と認識していたとして
大宰府の一部を占領することが戦略目標なわけがあるかよ。
例えて言えば、大阪の陣で大阪城の「大阪城の三の丸は大阪城の一部」
それを占領した徳川軍は「大阪城(一部)を占領したので戦略目標を達成した」
なんて馬鹿なこという奴はいない。
しかし、他にも265は適当なこと言ってるなぁ。日本軍初めから赤坂以西は守備してねえっての。
少弐景資は最初から赤坂以西は無防備で博多で迎え撃つ作戦を立てていた。
「西から来て赤坂を取れば、博多を経由せずに水城・大宰府に行けた。
そうなると日本軍が博多を守っている意味はない。 日本軍が博多を放棄した理由は恐らくこれだろう。 」
なんて勝手なこと言ってるなよ。
>>269 パフォーマンスくんは、いつも自分の都合の良い解釈しかしないことで有名だからね。
まず、自分の中に筋書きがあって、それに都合の良い部分だけ当てはめていくってのがやり方。
271 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 11:25:27.55 ID:tjE1ZKl2
>>268 >大宰府の一部を占領することが戦略目標なわけがあるかよ
占領と言うが、その占領とはどのくらいの期間保持することを言ってるのか?
あくまで文永の役の元軍についてだが。
>少弐景資は最初から赤坂以西は無防備で博多で迎え撃つ作戦を立てていた
それはまったく同意見だが、それで何を言いたいのかわからん。
私が言いたいことはこうだ。
日本軍数千が博多にいて、元軍の主力が赤坂の線に出現したとしよう。
すると日本軍にとって二つの恐れが生じる。
一つは赤坂の元軍主力と、博多沖に廻った別動隊とによって挟撃ないし包囲される恐れだ。
もう一つは、元軍がその一部を以て日本軍を博多に釘付けし、主力を以て水城に突進する
恐れだ。その水城は目下ほとんど空城と来ている。
こうなったら日本軍は博多を放棄して赤坂と水城の間に移動するしかないのでないか?
一つには元軍の突進を防ぎ、一つにはじぶんの退路を確保するために。
そしてこのことには日本軍は成功したわけだ。
>>240 >要するに文永の役の時に126艘ぶんの梢工水手を集めるのも大変だったのに、今度は300艘だ、
>とても揃わない、と言っているのだ。
>このことから、文永の役の時の大船は実際は126艘だったのであり、元史などの300艘は
>建前だったのではないか? という疑いが出てくる。
大葉昇一氏は高麗の梢工水手に加えて、元朝から派遣された梢工水手もいたと指摘してるんだが・・・
>>271 話し逸らすなよ。期間保持なんて関係ない。一時的にでも占領したなら占領。
あんたは238の「目的は大宰府の占領であり博多を占領することに何の意味も無いから。」
との発言に対して「あまり博多と大宰府を分けて考える必要もないのでないか?
当時の中国人の認識では博多も大宰府に含まれていた可能性がある。 」と答えている。
これは回答としては全く的を得ていない。仮に元軍が博多を大宰府の一部と見たていたとしても
一角を占領しても何の意味もないという238の主張の正しさは何の変わりも無い。
これは、例えば大坂城の三の丸は大坂城の一部である。しかし、三の丸を占領したことは
徳川軍が大坂城を陥落させるという戦略目標を達したと言えないのと同じ理屈。
>こうなったら日本軍は博多を放棄して赤坂と水城の間に移動するしかないのでないか?
確かにそれはあるかもな。筥崎浜から元軍の小部隊が上陸したのが碇石の発見で明らかに
なっているから、赤坂以西の元軍と対峙する日本軍は後方の不安を感じて矛を収めた。
筥崎宮周辺しか元軍が放火した形跡が無いのは、日本側に後方への不安を与えるための陽動作戦
だったのかもしれない。
ま、元寇は戦況に関する資料がほとんど無いからあんたみたいに断言はしないけど。
274 :
名無し三等兵:2012/10/16(火) 15:56:20.86 ID:tjE1ZKl2
>>272 >大葉昇一氏は高麗の梢工水手に加えて、元朝から派遣された梢工水手もいたと指摘してるんだが
それを言っているのは池内宏氏。
大葉昇一氏はその説を紹介しながら、それに対して
「しかし、文永の役において、元側が梢工水手を動員したという記録はないのである」
と言って疑問を呈している。
大葉昇一氏はあくまで大船126艘が実数であったという立場だ。
>>263-265 >古代、「筑紫太宰」は那の津すなわち博多にあった。それが白村江の敗戦によって現在の
>位置に後退した。
時代は古代じゃねえんだよ、中世なんだよ。
白村江からは600年以上経過してんだよ。
その間、日本と大陸は別に没交渉だったわけでも何でもないんだよ。
大陸の日本に対する知識が600年前のまま固定されていたとでも言いたいのかよ。
あまつさえ蒙古が対日侵攻軍を送り込むに当たって相手側の最新情報を知ろうともせず600年前知識のまま
攻めてきたとでも言いたいのかよ、語るに落ちるな。
あと何度も言うが 「中国ではなくモンゴルだからな ! ! ! 」
まあ、お前が何を考えているかはだいたい見当が付いた。
何としても「博多は大宰府の一部であった」事にしたいんだな。
何故そうしたいかと言うと「元軍は『大宰府』に上陸してそこを戦場とした。なおかつ『大宰府』を占領する事も
可能であった」と主張したいからだな、少なくとも「元側はそう認識していた」と言いたいんだな。
このロジックが成り立たないと「侵攻した元軍は日本の反撃に防戦一方で、僅か1日の戦いで戦闘継続を断念
して遁走した」という事実を認めざるを得なくなるからな。
自分の脳内妄想を成り立たせるために客観的事実をも平然と捻じ曲げる。
まさに詭弁屋ペテン師のサンプル、論評にも値しない。
それ以前から日宋貿易なんかで大勢の宋人が行き来してたんだから、大陸の人間にとって博多と大宰府の
位置関係や道行など周知の事実、こんなもの秘密でも何でもない。
博多=大宰府同一視論などタワゴトもいいとこ。
大宰府は九州を統括する防衛拠点で博多から十数キロ内陸にあり、その手前には水城という城塞がある。
元軍が博多に上陸した場合、ここが主戦場となるであろう・・・
この程度のことは武士側だけでなく元側にとっても共通の認識だったろう。
実際には数万の大軍を擁していたはずの元軍は、このたかだか十数キロを突破して水城にたどり着く事さえ
出来ず海岸線にはり付けられたまま防戦一方、副将までが瀕死の重傷を負うという有様で、その日一日の戦
闘で継戦を断念、ほうほうのていで遁走したというのが「歴史的事実」(帰路、暴風にあって大損害)
大陸の人間にとって都市とは城壁に囲まれた政庁や集落・市場だ。
日本の都市には城壁は無いが (大宰府には有った可能性がある) 10km以上離れた荒野や田畑に
隔てられた2つの都市を同一視するなどということはありえない。
当時の博多には大陸から流れてきた宋人が多くいて
宋の復興、日本と宋による挟撃のための補給基地としての役目もあった。
宋人は以前は自分たちにヘコヘコしていた高麗が掌返しで博多湾に現れたことに激怒。
現代の博多における嫌韓度の強さに至る。
>「侵攻した元軍は日本の反撃に防戦一方で、僅か1日の戦いで戦闘継続を断念
して遁走した」という事実
これを認めつつ、いかに日本の元に対する優位を否定するのか、
という命題を解決するために考え出されたのが、「威力偵察説」な気がする。
基本的にひねくれた解釈をしてるからかな。
恐ろしいのはこのパフォーマンス野郎の戯言が、元寇に関する日本の「学者」連中の主張と比べて何ら劣るもの
ではないという点だな。
「夜になったから船に戻った説」、「威力偵察説」、「棄民説」、どれもこれもパフォーマンス野郎の「膺懲パフォー
マンス説」に劣るとも勝らない戯言ばかりじゃないか。
最近あっけにとられたのは、元船が農機具を積んでいた、つまり屯田兵的性格を持っていた事をもって、だから
攻撃的性格は少ない=侵略性は低い と大真面目に主張する「学者先生」がいたこと。
屯田兵であったということは入植が目的だったということで、元軍が侵略軍であった明白な証拠にしかならないの
だが、この連中の脳フィルターを通すとそれが侵略性を否定する根拠になっちまうのだ。
これに比べれば「後方兵站拠点」が攻撃にさらされた事をもって「橋頭堡」に化けるなど、まだかわいい方。
>>281 「ゴミの分別をきちんとしろ」
「万引きはその場ですぐ通報」
「ここでタムロするな、営業妨害で通報する」
「立ち入るな、この畑は防犯カメラで監視している」
「この駐車場は監視カメラ完備、置き引きは警察にすぐ連絡」
これらの警告文があちこちでハングルと中国語と日本語の併記で掲示してあるのが博多という街です。
よからぬことをするのは十中八九、あの連中ですからね。
私は先祖をさかのぼると宋の商人にたどりつく博多商人の末裔ですが生粋の博多人はほぼ朝鮮嫌いですね。
よそから転勤してくる人たちはそうでもないようですが。あと筑豊の人たちの朝鮮嫌いも凄いですね。
あの連中と歴史的に深くかかわるとそうなるということでしょう。
元の使者も大宰府に通された訳で元軍が大宰府と博多を間違う事は有り得ないんだが
284 :名無し三等兵 :sage :2012/10/17(水) 07:24:46.98 ID:???
>>282 ハイハイ、巣に帰ってね
↑
馬鹿かこいつ
湧いてんな
病院行けよコラ
馬鹿なんだろ。今時福岡が嫌韓なんてのは常識。
>>282みたいなのを相手にすんな。察してやれよ。
287 :
名無し三等兵:2012/10/17(水) 08:54:04.71 ID:2uccsVe2
>>273 >こうなったら日本軍は博多を放棄して赤坂と水城の間に移動するしかないのでないか?
>確かにそれはあるかもな。筥崎浜から元軍の小部隊が上陸したのが碇石の発見で明らかに
>なっているから、赤坂以西の元軍と対峙する日本軍は後方の不安を感じて矛を収めた。
これは卓見だ。はじめて軍事板らしい議論ができたよ。
そして、矛を収めた日本軍が帰るべきところは、博多・箱崎を放棄した今は水城しかない。
文永の役の戦闘経過について、学者はじめいろいろな意見があるが、大きく分ければ
水城への撤退を認めるか認めないかなのだ。
288 :
名無し三等兵:2012/10/17(水) 13:20:11.31 ID:2uccsVe2
>>283 >元の使者も大宰府に通された訳で元軍が大宰府と博多を間違う事は有り得ないんだが
大宰府と博多を間違えたのではない。
大宰府と博多、赤坂を合わせたものを大宰府とする概念があったのではないか?
ということだ。
それについては日本側だって怪しい。
例の「同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北」については
日付は廿日の誤り、大宰府はこの場合博多を意味する、とする説があるくらいだ。
>>288 >大宰府と博多を間違えたのではない。
>大宰府と博多、赤坂を合わせたものを大宰府とする概念があったのではないか?
>ということだ。
そんな説を主張しているのはお前ひとりだけ。
なぜそんな珍説を唱えるのかというと、そうでないと事実がお前の脳内妄想に合致しないから。
>「同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北」
大宰府を攻め落とそうと異賊が攻めてきました。
上陸地点は大宰府から十数キロしか離れていない博多湾です。
官軍と合戦になり異賊は敗北して逃走しました。
実際の決戦場は博多周辺だったとして、「寄来大宰府」と書くことに何の問題も無いな。
こんなものから「大宰府と博多、赤坂を合わせたものを大宰府とする概念があった」と主張する
などこじつけもいいところだ。
博多は貿易で栄えた港湾商業都市。
大宰府はそこから内陸に入った所にある政庁軍事都市。
博多は大宰府に向かう表玄関であり両者は密接な関係にあるが、あくまで基本的な性格の異なる別の都市。
両者が同一視されていたなどという説は聞いた事もないし、なにより同一視しなければならない理由が全く無い。
単にこのパフォーマンス野郎の妄想説にとって、同一視されていたことにしないと都合が悪いだけのこと。
大体同一視していたとして大宰府は博多とは全く別の方向にkあるんだから元軍が攻める理由は無い
妄言が正しくても元軍有利にならんぞ
パフォーマンスが元寇を愛してるのは分かるけど、持説にこだわりすぎなんだよな。
>確かにそれはあるかもな。筥崎浜から元軍の小部隊が上陸したのが碇石の発見で明らかに
>なっているから、赤坂以西の元軍と対峙する日本軍は後方の不安を感じて矛を収めた。
こういう輩に餌を与えるようなレスをつけてはいかんよ。
自分の都合のいいところだけつまみ食いで取り上げる事しかしない奴なんだから。
実際の博多湾周辺での戦闘の詳細については断片的な少数の資料しかなく、特に客観的な視点で書かれた物は皆無に等しい。
こんな状況で戦闘の全体像を掴むなどほぼ不可能だ。
この状況が改善される見込みは将来的にも殆ど無い。
こんな有様で戦闘の詳細について議論しても妄想の上に妄想を重ねた空論の応酬にしかならない。
しかし「数万の大軍を擁していたはずの元軍は、このたかだか十数キロを突破して水城にたどり着く事さえ出来ず、海岸付近に
はり付けられたまま防戦一方、副将までが瀕死の重傷を負うという有様で、その日一日の戦闘で継戦を断念、夜陰に紛れて
遁走し、帰路、暴風にあって大損害を受けた」というのは客観的事実から導き出せる自明の結論。
臆病を いかに少弐の 入道が 恥を覚恵(かくえ)の 名にぞ落ちける
大友は 子供うちつれ 落ち行きて 方々にこそ 頼康(よりやす)みけれ
少弐覚恵、大友頼康を嘲笑した狂歌
両者とも元軍を支えきれず敗走、博多町人のあいだでは
弱い元軍(と町人庶民たちは認識していた)に負けた数少ない武将として槍玉に
295 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 08:34:05.52 ID:qwwXf9bG
>>293 >こんなものから「大宰府と博多、赤坂を合わせたものを大宰府とする概念があった」と主張する
などこじつけもいいところ
では、
>>264 >>265 への反論もどうぞ。
神風の武士像だったか何かの本で、狂歌が鎌倉時代には無かったものであるのに
八幡愚童訓に狂歌が載っているのはおかしいみたいなこと書いてたけど
どうなの?
297 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 08:47:04.31 ID:qwwXf9bG
>>296 ウィキペディア「狂歌」
「狂歌の起こりは古代・中世に遡り、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。
落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。」
「狂歌」と呼ぶかどうかは別として戯れ歌はむかしからあった。
狂歌じゃなくて落書だったかな。
無かったら八幡愚童訓で突然出てくるのはおかしいな。
八幡愚童訓とか後から面白おかしく書き足されていった書物なんじゃない?
八幡ノ蒙古記とか写ししか存在しないんだろ?
>>293 >「数万の大軍を擁していたはずの元軍は、このたかだか十数キロを突破して水城にたどり着く事さえ出来ず、海岸付近に
はり付けられたまま防戦一方、副将までが瀕死の重傷を負うという有様で、その日一日の戦闘で継戦を断念、夜陰に紛れて
遁走し、帰路、暴風にあって大損害を受けた」
禿同。まともな資料がほとんど無い戦闘の詳細をいくら妄想しても出口が見えない妄想にすぎないけど、100%言えるのは
元軍は間違いなく苦戦した。ってことだけだな。
それ以上の細かい妄想は単なる仮想戦記でしかない。
302 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 11:07:22.48 ID:qwwXf9bG
筥崎留主の子息、紅葉を縫いたる直垂を着て落ちけるを
直垂(ひたたれ)に 塗るもみぢ葉も 落ちにけり はげしき敵や 木枯(こがらし)の風
神官の息子も参戦していたのだね。
こういうことがわかるのも八幡ノ蒙古記のおかげ。
303 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 11:25:43.06 ID:qwwXf9bG
>>243 >九州本島に上陸し、一部を占領して拠点を築かなければ橋頭堡とは言わん。
>地続きになっていない島ならそれはせいぜい九州本島上陸の為の事前集積場だ。
橋頭堡の話は定義次第だからきりがない。原点に戻ろう。これは
>>215が:
>対馬海峡の制海権と北九州沿岸の橋頭堡を確保すればあとは乗ってきた軍船のピストン輸送で補給できると思ってたんじゃね?
と書いたのが始まりだ。要するに長期占領のための補給の話なのだ。
だから
>>215の文章で「橋頭堡」を「事前集積場」や「補給基地」と入れ替えてもなんの不都合もない。
いわんや
>>215は「北九州沿岸」と言っているのだから、明らかに鷹島もその範囲に入っている。
元軍はピストン輸送すなわち長期的反復的補給の能力があったか?
あるいはそのような作戦思想があったか?
が議論の本質なのだ。
>>303 壱岐、対馬にいたところ襲撃されて撤退してるだろ
赤坂から撤退した時点で元軍は詰んだんだよ
武士団は増強される一方だし
ノルマンディーのように縦深が薄ければなんとかなったろうが
306 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 14:11:03.69 ID:qwwXf9bG
>>304 結論を言えば元軍は「積んだ切り雀」だった。
どういうわけか、長期的反復的補給という思想がなかった。
これは、秀吉の朝鮮征伐と較べても大きな違いだ。
ベトナムの三次侵攻やジャヴァは1年分の食糧を積んでいったと言うが、そもそも
1年分も一遍に持って行くのがおかしい。
弘安の役は東路軍が3ヶ月の食糧しか持っていなかったが、残り少ないから帰るか
どうかと議論しているぐらいだから、たった朝鮮からの海路を越えて補給する計画
なかったことになる。
恐らく江南軍が全軍の半年か1年分ぐらいの食糧を積んでくる予定だったのだろう。
それも1回こっきりで。
文永の役はそれさえもなかった。
そのお馬鹿ぶりこそ江南スタイル。
積んだ切り雀って何?
あんまり詳しくないんだけど、宋人も含めてモンゴル人はそんなお粗末な兵站思想であの大帝国を築いたの?
310 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 14:42:23.46 ID:qwwXf9bG
>>308 「着た切り雀」から連想してね。
着てるだけしか着物を持ってない人という意味だが、今はこの言葉もないのかな?
さらに言えば「着た切り雀」は「舌切り雀」から出た言葉だが、この民話も今は
知らない人が多いのかもしれない
>>309 日本みたいな国には通用しない「大帝国」ではあるね。いまの日中と同じ。
兵站なんて概念は30年戦争まで存在しなかったと何かで読んだ
昔に“後方から補給される物資で、兵員の必要を賄う”なんて兵站ができると思っている人がいるのか……
当時の輸送手段は馬か人力で、どっちも口が付いてて兵員同様に補給物資を文字通り食いつぶすんだぞ。
それで遠征となったら、当然補給線ではなく現地調達になる。
船に一辺に大量に物資を積む理由だって、簡単に想像が付くだろう。兵員と別個に何度も輸送船を送るようなスタイルの場合
継続補給用の輸送船が海難にあって消えたらどうすんだよ。侵攻部隊飢えて全滅だぞ。
通信も輸送も不確実な場合には、非効率でも全部一まとめにパッケージにしないとまずいんだよ。
314 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 18:00:31.22 ID:JmhaBofH
>>313 >通信も輸送も不確実な場合には、非効率でも全部一まとめにパッケージにしないとまずいんだよ。
その通りだと思うよ。説明してくれて有難う。
元寇を考える場合、「継続補給はゼロだった」をベースにしないといけないということだ。
それが秀吉の朝鮮出兵になると同じ距離で普通に米を継続補給しているんだが、300年の間に進歩が
あったということかな。通信や輸送の面で。
>>313 現代でも非正規戦で防備が手薄な補給部隊叩かれるのが定番だからね
>不確実な場合には、非効率でも全部一まとめにパッケージにしないとまずいんだよ。
復活するか?量的にもう無理か?
秀吉だって補給線の確保維持なんてしたくはなかったろうが、そうしないと前線にいくらかでも物資が行かないんだから
しょうがない。朝鮮、あんまり肥沃(むしろ不毛の地の手前だ。日露戦争にも何にもない所だったんだし)じゃないし
そんな状況で戦争が長引いて仕方なくって面が強かろうよ。ベルリン大空輸みたいに、馬鹿馬鹿しいけど必要。
そういうもんだろ。
ああ、後秀吉の場合は侵攻部隊の陸上戦力が強力で万全な橋頭堡があったからな。
物資の仕分けと分配には人夫の頭数と土地と設備がいる。港ってのはその為のものだしな。
元軍にそんな恵まれた条件があったかな。
朝鮮出兵の日本軍だって釜山落とせなかったり巨済島海戦で負けてたら
元軍と同じ運命辿ってたろう
秀吉の朝鮮侵攻時は全国の大名に命じて大型船を建造させている
大名を消耗させることにもつながって一石二鳥のつもりだった
親豊臣勢力ばかり消耗させて思い切り裏目に出たけどな
秀吉はもうちょっと長生きするつもりだったのが死んじゃったのが誤算
321 :
名無し三等兵:2012/10/18(木) 23:17:08.62 ID:b8HNUfoR
経団連の米倉みたいに元と仲良くしてくれないと商売がアガッタリとか騒ぐ商人の組合は無かったのか?
博多は良い商売相手だった宋を元にやられたのが痛手。
宋商人を受け入れて宋の復興に協力しようとした。
戦争が始まるということでよそから武器防具を大量に買い込んで売りさばいた博多商人たちもいた。
秀吉の人気にフビライも高麗の将軍も嫉妬するわ
>>303 >橋頭堡の話は定義次第だからきりがない。原点に戻ろう。
お前さんの定義がトチ狂ってるだけの事。 俺はそれを指摘しただけ。
俺は
>>215じゃないんだから原点に戻る意味が無い。
>対馬海峡の制海権と北九州沿岸の橋頭堡を確保すればあとは乗ってきた軍船のピストン輸送で補給できると思ってたんじゃね?
ああ、制海権を握り北九州沿岸に橋頭堡確保出来ればそれなりのピストン輸送は出来たろうね。
今と違ってピストンのワンストロークに恐ろしく時間がかかったろうけどな。
>いわんや
>>215は「北九州沿岸」と言っているのだから、明らかに鷹島もその範囲に入っている。
出鱈目な解釈をするな。
一般に「北九州沿岸に橋頭堡」と言った場合、九州本土の沿岸に築いた橋頭堡の事だ。
そもそも「島」は「橋頭堡」にならない。
まあ真意は
>>215でなければわからんけどな。
325 :
名無し三等兵:2012/10/19(金) 01:19:14.69 ID:hgu7oRw4
蒙古兵相手に体の商売を
しようなんて女はいたの?
>>314 「兵站」という概念が未発達な時代に軍の補給をどうしていたかといえば、それは当然に現地調達、すなわち
「略奪」になる。
事実、モンゴル軍は世界中でそれをやっている。
世界帝国であるモンゴルの軍事行動はまさしく略奪によって支えられていた。
日本でも壱岐・対馬はそれをやられている。
もし大宰府を落とし、日本側の抵抗戦力を殲滅したなら九州全域でそれをやっただろう。
日本にとっては治承・寿永の乱という大内戦を経て、武士が権力を握っていたのが不幸中の幸いだった。
もし日本の国内状況が平安中期以前のレベルだったら、文永の時点で九州は完全に制圧されていた筈。
碇石の発見ってそこから元軍が上陸したってことを意味しないよね。
撤退する時に碇石切り落とすわけないじゃん。
碇石が発見されたってことは、そこで元船が沈没したってこと。
日が暮れてから、しかも悪天候の中出航したんだから、艦隊からはぐれた船が博多湾のどこで沈んでも
不思議じゃない。
>>326 いや普通に藤原隆家レベルで十分撃退できるに決まってるじゃん
たかが10万くらい集めても日本が負けるとかあり得ないって。
鎌倉幕府ほど圧倒的な勝利は収められなかったかも知れないけど
329 :
名無し三等兵:2012/10/19(金) 11:20:27.27 ID:pdMYwp3b
「文永十一年・冬の嵐」から引用。
「馬さえ上陸させなげれば、いかに蒙古兵といえどもくみしやすい。外国からの騎馬隊には水際作戦が
なにより有効だった。(中略)逆にいえば、文永の役では蒙古軍はたやすく浜から上陸し、鎮西御家人は
蹂躙されたのだった。騎馬の蒙古兵に日本の騎馬武者は多くが立ち向かえず、かなりの被害を出した。
幕府が延々と石築地を築かなければならなかったことから、文字に記されなかった事実を逆に読みとること
ができる。」
「文永十一年・冬の嵐」は「水城撤退なかった説」のように読み取れるが、それでもこういう見方をしている
ところは面白い。
330 :
名無し三等兵:2012/10/19(金) 11:31:43.08 ID:jb1/iR8B
幕府が延々と石築地を築かなければならなかった理由は大陸情勢の変化だろ。
南宋が滅亡しちゃえば、日本は1国で蒙古の全戦力と戦うことになる。
それまでは異国征伐で日本から攻め込むことを考えていたわけで、文字に記されなかった事実を逆に読みとるなら
日本の騎馬武者に騎馬の蒙古兵は多くが立ち向かえず、かなりの被害を出した、蒙古軍は御家人に
たやすく蹂躙されたってこと。
>>329 こいつ、いつも自分の都合の良いところばかり「面白い」とか言ってるよな。
そういう姿勢が周りから攻撃の対象にされてるのがまだわからないのかな?
というか、論破されるたびに話題をころころ変えるのも嫌われる理由なんだろうな。
>逆にいえば、文永の役では蒙古軍はたやすく浜から上陸し、鎮西御家人は
>蹂躙されたのだった。騎馬の蒙古兵に日本の騎馬武者は多くが立ち向かえず、かなりの被害を出した
「文永十一年・冬の嵐」で一番?だったのがこのくだりだな
敵軍の再来に備えて石築地を築いたことのどこが一方的に「蹂躙」された証拠になるんだかw
論理の飛躍にも程があるわ
>>329 それは違うだろう。蒙古騎兵を恐れたから石築地を造らせたとなると
幕府が高麗征伐を計画したのと明らかに矛盾している。
大陸への出兵ともなると、陸地での戦闘が主になるからな。
むしろ、幕府が本気でそれを計画したというところに幕府の蒙古兵に
対する自信が窺える。
一方的に蹂躙されたなら大宰府の水城まで辿り着いてるはずだよなw
「その遠く戦うや弓を使う。
倭の弓は竹製、長さ八尺、足を持って其端を踏んで張り、立って発す。
矢は海竹を以って幹となし鏃は鉄製長さ二寸、燕尾の形を成す。
重さ二、三両。
発するに当たらざるなし。
当たれば則ち人たちどころに倒る」
和弓強いですな。こりゃあ、文永の役で一日で矢を撃ち尽すは
副元帥が矢で重傷を負うわけですな。
336 :
名無し三等兵:2012/10/19(金) 16:03:50.11 ID:pdMYwp3b
勝ち勝ち山の狸たちの反応は面白いな。
まあ私は紹介しただけだから文句は服部英雄氏へどうぞ。
二次創作を一級資料かのように振りかざされてもな、キチガイじゃのう、としか。
>>328 刀伊の入寇と元寇だと文永ですら規模が10倍も違うからなあ
封建制で武士がそれぞれ自分の土地を守る為に戦ってるから
他国で侵略された時みたいに仲間割れを起こす事が無いってのは強みかもな
>>336 わざわざアホ理論をコピペしてドヤ顔するあんたの方がよっぽど面白いわw
>>328 後三年の役の最初に新任国司で大敗して源義家を緊急召集して送り込んだことだし
指揮能力が???
>>341 頼義も義家も地元豪族の清原氏の一部を取り込んで征討の主力にしている。
つまり兵は地元から調達し、兵を結束させる権威と指揮官は中央が送り込む。
このパターンは平安から鎌倉まで変わってない。
鎌倉幕府の有事能力を高く評価してるけど、結論から言えば日本は数万人単位の壮丁を簡単に調達でき、
それをまとめ上げることが可能な、極めて強大な王権を持った国家。現代アメリカ以外の国で日本征服は不可能。
奥州での合戦が全て官軍勝利に終わったのは地元豪族を切り崩して戦わせる「夷をもって夷を制す」
しかし、外敵が襲来した場合、日本人にはその手が効かない。恐ろしいほどの王権の強さ。
これが日本が防衛にめちゃくちゃに強い理由
元軍唯一の勝ち筋が九州武士の離反だがそれが望めない時点で元軍詰んでたよな
元軍が対馬、壱岐で虐殺したことが関東まで行き渡ってて
挙国一致の空気が醸成されたからね
日本以外のアジアの国は全部国内からモンゴル側に寝返る奴が出てるからな。
特に高麗や大理国といった王室が傀儡化してた国では、国王の寝返りが
敗北に直結してる。
日本って結構長い期間モンゴルと外交してたのに本当に凄い。
本来なら使者を太宰府以外に立ち寄らせず、朝廷の返書を全部握り潰して
一切関与させなかった幕府の外交は絶賛されるべきなんだよ。
国王の寝返りってのも凄い話だな。
宋のしかけならともかく元だとパイプが無くて寝返り工作無理だろう
時宗、救国の英雄。
アメリカは日本の歴史を学びカミカゼの語源やその意味を研究していた。
「カントウセイシンオウセイナリ(魚雷発射準備完了)」
「トキムネ!(魚雷発射!)」
これらは先の大戦でアメリカ海軍の潜水艦が使っていた暗号。
>>346 三十年島に引き篭もってよく国王名乗ってるレベル
当時は高麗皇帝か
351 :
名無し三等兵:2012/10/20(土) 09:49:44.09 ID:Yp5WU3EG
海に隔てられてたから滅多に攻められなかっただけなのにこの勘違いっぷりw
それで神風とか信じて米に喧嘩売ったらサクっと無条件降伏に追い込まれて
今の半植民地状態があるってのにな
清やロシアにも喧嘩売って勝ってますがw
なんでも第二次大戦に結び付けるのは良くない風潮だよな。
研究者が古代史が朝鮮半島のことをできるだけ触れないようにしたり
元寇などの戦史の研究が遅々として進まないのもそのせいだろうな。
朝鮮併合を正当化するために騎馬民族征服説とか御用学者がやらかしたのが、日本史にとっても黒歴史だが、半島の民族教と結びついてややこしいことになってるからな。
>>346 ただ、朝廷の返書は「ふざけるな」と言う内容だったのだけどね。
妥協しようとしてたわけじゃないよ。対蒙古では完全に朝幕が一致してる
>>351 なんか高麗は皇帝号を名乗ってたとか聞いたことがあるが
>>352 むしろ元寇以前はしばしば大陸の賊が九州を荒らしてましたが何か?
>>348 それこそ元陣営では高麗にしかできないことだったのにね
派手なこと大好きで地道な努力が大嫌いな民族性はこのころからか?
朝廷の返書の内容がすごいな。
サヨク系の学者が嫌悪感抱きまくりそうな文言で満ち満ちてる。
「蒙古という国号は、わが国ではまだ聞いていない。書面が初めて来たことによって、僅かに国情を察するに過ぎない。
貴国とはかって通交のことがないので、わが方においては何等好悪の情をもっていないのに、凶器を用いようとしているようで、
疑念がすこぶる深い、聖人・釈氏の教では、生を尊び命を奪うことを悪としているのに、帝徳仁義の境と誇っておりながら、
還って民庶殺傷の源を開かんとしている。わが国は祖宗以来今日に及ぶまで、聖明率土に及んで、神国であり、知をもって競うべきにあらず、
力をもって争うべからざる皇土であるからよく思量せよ。 」
(事情を案ずるに、蒙古の号は今に聞かず、尺素脛なく初めて来り、寸丹面にあらずして僅に察す、漢唐以降の蹤(あと)を原ね、使介往還の道を観るに、
緬(はるか)に内外典籍の通義に依りて風俗融化の好礼を成すと雖も、外交中絶、驪遷翰転、粤(ここ)に郷信を伝え、忽ち隣睦を請ふ、斯の節次に当り根究するを得ず、
然れども呈上の命底に縁って容れず、音問雲霧万星の西巡を縦にし、心夐(はるか)に胡越一体の前言を忘る。抑も貴国曽て人物の通ずるなし、本朝何ぞ好悪の便あらん、
由緒を顧ず、凶器を用いんと欲す。和風再報、疑冰猶厚し、聖人の書釈氏の教、済生を以て素懐となし、奪命を以て黒業となす。何ぞ帝徳仁義の境と称し、還て民庶殺傷の源を開かんや、
凡そ天照皇太神天統を耀かしてより、日本今皇帝日嗣を受くるに至るまで、聖明の覃ぶところ左廟右稷の霊得一無弐の盟に属せざるなし、百王の鎮護孔昭(はなはだあきらか)に、
四夷の脩靖紊るなし、故に皇土を以て永く神国と号す、知を以て競ふべきにあらず、力を以て争ふべきにあらず、一二を以て乞ひ難きなり、思量せよ、)
これをカッケーと思う俺は厨二病。
「蒙古という国号は、わが国ではまだ聞いていない。書面が初めて来たことによって、僅かに国情を察するに過ぎない。
この時点で工作とか無理だろ
存在感なさ過ぎる
どんだけ自立してんねーん。
「天照皇太神天統を耀かしてより、日本今皇帝日嗣を受くるに至るまで、聖明の覃ぶところ左廟右稷の霊得一無弐の盟に属せざるなし、百王の鎮護孔昭(はなはだあきらか)に、
四夷の脩靖紊るなし、故に皇土を以て永く神国と号す」
この文言だけ聞いたら、とても鎌倉時代とは思えないな。
366 :
名無し三等兵:2012/10/20(土) 22:30:09.92 ID:Yp5WU3EG
>>357 >なんか高麗は皇帝号を名乗ってたとか聞いたことがあるが
高麗の後の李氏朝鮮が、日清戦争の結果として清国への藩属を脱してから、日韓併合までの
間、「大韓帝国」と称した。高宗が皇帝になった。
朝鮮半島に皇帝がいたのは後にも先にもこの時だけ。
日本は内戦ばかりしてるが海外勢力に加担して分断された事は一度も無いよね
幕末の時は危なかったがすぐに纏まったし
逆賊として収監中の榎本武揚が、ふときづくと国運を掛けた交渉のためにクレムリンに派遣されている不可解な信頼関係。
政府の要職に就いていたはずの重鎮が、ふと気づくと反乱の首謀者として晒し首にされている不思議。
不思議だな。普通は裏切り者が出るはずなんだが。
ヤマト王権と言うのは、稲荷山古墳を見ても古くからよほど強大で列島にライバル国家の存在を許さなかったに違いない
そこが高麗との違いかな
元寇の話になると「ベトナムやマムルーク朝の方がすごい」とかいう人がいるけど実際どうなの?
高麗は凄いよ。
モンゴル軍が攻め込んだ途端、国境守ってた武将が寝返ってモンゴル軍の道案内しちゃうんだから。
で、道案内をした洪氏が半島北部のモンゴル直轄領双城総管府にいて、その隣には50余城を手土産に
モンゴルへ寝返った崔坦の東寧府があって、その南では高麗国王が武臣との権力闘争のために
モンゴル軍を国内に次々と招き入れていて、それに反発して蜂起したはずの三別抄ですらモンゴルに
直接臣従するから半島南部の支配権認めて欲しいと交渉申し込むありさま。
権力者が全員国土を切り売りしてモンゴルに寝返ることしか考えてない。
>>371 同じ基準を適用して判断すれば、圧倒的に日本の方が凄いよ。
でも何故か元寇に関しては特殊な基準が適用されるから。
第一次ベトナム侵攻なんて送った使者が帰ってこないから急遽手持ちの兵力3000人だけで攻め込んで、
国境守ってたベトナム国王の軍を撃破して、首都を1週間以上占領破壊して、投獄されてた使者も救出し、
その後ベトナムはモンゴルの属国化したのに、何故かモンゴルが負けたことになってる。
一方の文永の役は何年間も準備して第一次ベトナム侵攻の10倍以上の兵力で攻め込んだのに、
海岸から10キロちょっとの太宰府にも到達できないまま1日で撤退し、その後も日本は完全独立を
守り抜いたのに、何故かモンゴルが勝ったことになってる。
どれだけ不公平な基準が適用されてるかってこと。
イギリスじゃないけど自国の戦争について厳しい目を向けるのは
まあ間違ってはいないんじゃない
ただ神風ばかりクローズアップするのは日本人が他力本願に陥るから悪影響だけど
>>373 ベトナムはモンゴルの勝ちだろ
海上交易を握ることができたし
元寇は不思議ルールで押されていたが何故か海上にいた元軍がいなくなってたになってるからね
強行偵察とかいわれるがほとんど壊滅しててそれはねーよって思わないのか偵察にしても2弾が失敗した時点でモンゴルの敗北だろって
なんかここのスレに少なからず世間の歴史認識が昔と大分変わってることを認識してないおっさんがいるみたいだな……
もう歴史教科書なんて読まない年だから知らんのかもしれんが、今の学校の歴史教育・教科書じゃ
「武士団が奮戦して、元軍を撃退した」って教えているんだが、何を問題にしてるんだ?
>>365 尊王論って水戸学からの流れかと思ってたが、むしろそれ以前の大昔の方が天皇(日本)の神聖視は強かったのかもな
>>377 江戸幕府がわけわからん史書を編纂しちゃったからな
その書き出しに憤慨した徳川光圀(水戸黄門)が水戸藩で大日本史を編纂させた
それは正しいんだけど同時に武士(しかも徳川御三家)のくせに朝廷もちあげることにもなっちゃったのが幕末の遠因に
>>379 教科書なんて流石に買う気にはならないだろうけど、確か今年出た新潮文庫か文春文庫の本に、歴史教科書の内容は
昔と今でこんなに変わったって紹介してる本があるから探して読んでみれば。
生憎、書店でパラ見しただけで買って無いんで、本は手元に無いが。
ネトウヨうぜぇ
そういうのここでは慎むべきかと
ネトウヨ的には神意で撃退して神の国のほうがウマ−じゃね?
でも武士のおかげではなく神風のおかげってのは当時の念仏平和主義者の言説なような
皮肉なことに扶桑社版の教科書が神風説の典型なんだな。
それと杉山正明も「寇」はドロボーなんて意味じゃないぞと批判されている。
文禄・慶長の役で実際はそれほど活躍していなかった李舜臣が載ってる教科書に
何を期待してるんだ。
お前ら高麗軍舐めすぎ。第一次高麗侵攻では亀城の戦いでモンゴル軍を破ってるし
第二次高麗侵攻ではモンゴル人司令官サルタクを処仁城の戦いで打ち取り、江華島への
モンゴル軍の侵攻を撃退している。
日本よりよっぽど長い間、蒙古軍を一身で引き受け、破り続けている。
破竹の進撃をしていた蒙古軍が高麗だけは30年も掛かったのはその証拠。
>>388 三十年も本土荒らされ続けるとか
正当性を疑うレベル
イギリスに亡命政権作って帰れなかった王族が出た国だからな
>>388 あれは紀伊半島や伊豆半島の突端でギリギリ抵抗してたようなもので
国土自体は蹂躙されただろ
>>389>>390 高麗は司令官サルタクを打ち取ってますけど
日本側はクドゥンとか司令官を打ち取ってませんが何か?
高麗はモンゴル軍に手も足も出ずに負けた国
日本はモンゴル軍に圧勝した国
国土を犯される前に早々に追い返した日本
国土に深々と攻めこまれちっぽけな拠点で泥仕合を演じた高麗
じゃあ、武士は敵将一人でも打ち取ったのかよ。
高麗が討ち取ったのはモンゴル人司令官だ。
雑魚武将も打ち取っていない日本とは比較にならない。
高麗が打ち取ったのは超極小部隊の司令官。
ぶっちゃけサルタイクラスの武将なら弘安の役で皆殺しにしたモンゴル軍10万人の中に
数十人はいただろうな。
>>396 じゃあ、10人挙げてみたら?
一人も打ち取って無いから「神風で勝利」は強ち間違いじゃないな。
武士が強かったら、一人くらいサルタイクラスの武将を打ち取ってるだろ。
その前に国土を延々蹂躙された事実は無視か
それとも日本も九州から中国四国まで制圧されゲリラ戦でもしてればお前にとって満足なのか
>>397 武士が強かったからモンゴル軍を10万人以上殺せたんだろ。
じゃあ高麗軍はモンゴル軍を何人殺したの?
30年もかけて日本より遥かに少ない損害しか与えてないじゃん。
日本軍もモンゴル人のクドゥーハスや高麗将軍の康彦、康師子とか打ち取ってるよ。
この手の人の話を聞かない馬鹿はスルーに限るんだが
皆優しいな
まあ、間違いないのは半島に日本があったら間違いなく征服されてたってことだな。
痩せた朝鮮半島にゃ、エベンキ系の高麗人しきゃいませんでしたとさ、ちょんちょん。
>>402 は?
半島に侵攻した時点のモンゴル帝国の総兵力は12万9000人で弘安の役の兵数より少ないんだが。
日本が半島にあったら余裕で撃退していたよ。
その後、前期倭寇にも蹂躙されましたね
まあまあ火病った在日はそっとしておこうよw
日本も激戦になった文永では劉復亨を射倒してる。
司令官が前線に出てくる気にならないほどのワンサイドゲームが続いたというのが正確
鷹島に残された10万の中で最高位はどれくらいだったんだろう
百戸だろう。千戸以上の奴は船に乗って逃げて行ったんだろうな。
蒙古側の資料って邦訳されてる?
>>407 当時は指揮官先頭がふつうのことじゃねーの?
つうか30年も戦っといて討ち取ったのサルタク一人かよww
>>412 そりゃ話が逆じゃないか?
指揮官クラスをバタバタ倒せる(あるいは倒される)戦いなら
30年も続かない。
中国型の官僚社会は、遊牧民に弱いんかな?
軍人が持ってる土地の意識が、封建制の日本やマムルーク朝に比べて弱そうだし
封建制の本場である西洋の立場がないわい
>>411 だとしたら高麗が30年で司令官たった1人と言うのは何なんだということになるよw
>>413 どこが逆?。日本は果敢に戦闘を挑んだから1日で相手の副司令官クラスの重傷者を出している。
そして官軍に戦闘継続を断念させるほどの損耗を強いて、1日で戦闘を終結させてるじゃないか。
>>414 元代以前に当てはまるかは知らないが、官僚制は独自の経済基盤の給付が公的には制限される。
皇帝に直属するんだから当たり前。よって彼らは官位をかさに着た私的な経済基盤の獲得=収賄に手を染めざるを得ない。
それは公認されない給付だからいつでも剥奪が可能だし、私的な基盤獲得が公に対する忠誠心に結びつかない。
日本は土地に対する私人の権利の積み重ねを承認した上に公があるから、公認の権利者を動員すればいい。
419 :
名無し三等兵:2012/10/24(水) 10:04:58.84 ID:Kowi2GQr
>>385 モンゴル系中国人の研究者というが、彼は広島大学大学院の留学生だ。彼の文章から引用する。
「文永の役における元軍の撤退は、元軍首脳と高麗軍首脳の作戦上の対立と幕府軍の果敢な抵抗に
よるもので、暴風雨はなかったというのが今日の日本の学界の通説であると思われ、(中略)
暴風雨について触れない東京・大坂・教育出版社版は、学会の通説を尊重していると言えるだろう。」
「彼にすら批判されている」というが、彼が自分じしんの研究ではなく、学界の通説なるものに基づいて
ものを言っているのがわかる。まあ、留学生の限界だろう。
で、その「学界の通説」だが、「暴風雨がなかった」というのが学界の通説ならば、その通説は
「会夜大風雨、戦艦触岩多敗」という高麗史の記述と合わないではないか。
問題は暴風雨があったかなかったかではなく、元軍が出航した後に暴風雨と会ったか、出航前に湾内で
暴風雨に会ったか、なのだ。
そのことはまた、元軍が自らの意志で引き上げたか、それとも暴風雨のためにやむを得ず引き上げたか
の分かれ目でもある。これもまた、前者であることは高麗史の軍議で明らかである。
教科書は上記のことを明記すればよいのだ。その意味で妥当な記述は例えば東京書籍だ。曰く:
「対馬・壱岐をへて北九州の博多湾に上陸、集団戦法や優れた火器により、日本軍を悩ました末、引き上げた。」
そして残兵はことごとく掃討された
>>419 日本軍に負けた元軍を優れていたなんて教える必要ないじゃん。
「対馬・壱岐をへて北九州の博多湾に上陸、集団戦法や優れた武器により、日本軍に悩まされた末、引き上げた。」
ちょっと修正しただけで、もっと妥当な記述になったよ。
ほんとだな。「し」を「され」に変えただけできわめて正確な記述になるぞ
>>419 これでいいかね
「対馬・壱岐をへて北九州の博多湾に上陸、集団戦法や優れた武器により、日本軍に悩まされた末、引き上げる途中で暴風雨に見舞われた」
対馬・壱岐をへて北九州の博多湾に上陸、集団戦法や優れた武器により、日本軍に悩まされた末、暴風雨のためにやむを得ず引き上げたのではなく
自らの意志で引き上げる途中で暴風雨に見舞われた。
優れた武器って、なんだっけ?
426 :
名無し三等兵:2012/10/24(水) 11:15:58.73 ID:Kowi2GQr
>>421 >>423 >集団戦法や優れた武器により、日本軍に悩まされた末
残念ながら、そんなことを書いている教科書はないな。
「学界の通説」じゃないんだろうな。
>引き上げる途中で暴風雨に見舞われた
それを付け加えることは賛成だ。
「引き上げる途中で暴風雨に会って大きな損害を出した」とか。
>>426 教科書の記述が史実と合ってないと批判しておきながら、自分の都合のいい場所だけは
全く正反対のことを言う矛盾。
元軍が博多湾に上陸してから日本軍が悩まされた局面なんて無かったじゃん。
「対馬・壱岐をへて北九州の博多湾に上陸、集団戦法や優れた武器により、日本軍に悩まされた末、
大損害を出したのではなく、暴風雨のためにやむを得ず引き上げたのではなく
自らの意志で引き上げる途中で暴風雨にあって大きな損害を出した」
元軍かわいいよ元軍
そもそも高麗史で元軍は壱岐までしか到達できなかったことになってるわけで、
関係国の史料付き合わせれば、博多湾上陸後の元軍は日本軍に惨敗したという結論しか出ないのに
430 :
名無し三等兵:2012/10/24(水) 19:53:35.43 ID:+aRG5kF6
包黎明論文の比較表から
<東京書籍>集団戦法や優れた火器により日本軍を悩ました末、
<大阪書籍>幕府軍は集団戦法や火薬に苦戦しながら激しく戦い
<教育出版>火薬を武器とする元軍と幕府軍との間で激しい戦い
<日本文教>武士は元軍の集団戦法や火薬を使った兵器に苦しめられた。
<帝国書院>幕府軍は苦戦、幕府群の抵抗
<清水書院>集団戦法や火器に苦しめられ
<扶桑社>日本側は掠奪と暴行の被害を受け、新奇な兵器にも悩まされた。
<日本書籍>集団戦法や火薬を用いた攻撃に苦しんだ。
8社とも、日本軍の苦戦では一致してるな。
それが「学界の通説」なんだろうな。
文句があったら、私にでなく文部省へどうぞ。
431 :
名無し三等兵:2012/10/24(水) 19:55:29.61 ID:+aRG5kF6
集団戦法を強調するってことは武士は個人戦法だったってことだな
やーやー我こそはとまでは書いてないだろうけど
ネットが普及する前なら学界の人たちも国民を騙し続けることができたけどね
史料読めば即座に嘘とわかる「学界の通説」とやらに何の意味があるのかな
なーんだ、毎回ageてなんやかんやそれっぽい話を並べて結局言いたかったことは
日本は偶然助かっただけ!!最強モンゴル帝国様がジャップサムライごときに負けるわけないやい!!!!
っていうカビの生えた説かよ
逆に言えば教科書や研究者でさえこんな低レベルな説を支持してるってわけだが…
優れた火器(てつはう)と言われてるがそれが何か具体的に分かってないんだよなw
陶器に火薬詰めたものじゃないかとは言われてるが
当時の日本人が火薬を知らなかったのは事実だろうし、心理的ショックは相当大きかっただろうが、
現に日本が勝ってるわけで戦術的にはそれほどの価値が無かったのでは
WW1で戦車が初めて登場したときも、相手が驚きはしたが戦局にはほとんど寄与しなかったわけだし
もともと火薬兵器って宋が女真や西夏やモンゴルに対抗するために使用していたもので、
その材料の硫黄が中国国内で入手困難なため、かなりの割合を日本からの輸入に頼っていて、
しかも硫黄交易は鎌倉幕府の管轄下にあったんだよ
約4kgを遠くに投射する手段が当時は攻城兵器しかなくて
野戦では退却時に追撃を避ける目的で使ってた?説もあるしね>てつはう
439 :
名無し三等兵:2012/10/24(水) 21:56:25.32 ID:Kowi2GQr
>>438 >野戦では退却時に追撃を避ける目的で使ってた?説もあるしね
つまり火遁の術というわけだが、その説は八幡ノ蒙古記の記述から出ている。
そういうことがわかるのも八幡ノ蒙古記の有り難さ。
>約4kgを遠くに投射する手段が当時は攻城兵器しかなくて
地上に置いたり、転がしたりして使ったと言いたいのかもしれんが、蒙古襲来絵詞
を見れば確かに空中を飛んでいる。どうやって飛ばしたかは謎だが。
440 :
名無し三等兵 :2012/10/24(水) 22:00:27.30 ID:???
約4kgものてつほうは手投げでは遠くに投擲できないし、
投石機では距離を飛ばせても発射速度が遅すぎて騎馬の突撃に対応できない
炸裂兵器は(攻城戦などを例外として)、火薬による投射=火砲の登場までは
そけほど劇的な効果を発揮できなかったはず。
441 :
名無し三等兵:2012/10/24(水) 22:03:26.19 ID:Kowi2GQr
>>434 >逆に言えば教科書や研究者でさえこんな低レベルな説を支持してるってわけだが…
>
>>376では
>今の学校の歴史教育・教科書じゃ 「武士団が奮戦して、元軍を撃退した」って教えているんだが、
>何を問題にしてるんだ?
と言って「今の教科書」を持ち上げていたのに、ウソがばれたら今度は教科書の攻撃か?
勝手なものだな。
まあ人が違うのかも知れんが。
442 :
名無し三等兵:2012/10/24(水) 22:07:53.08 ID:Kowi2GQr
>>440 >それほど劇的な効果を発揮できなかったはず。
だから火遁の術程度だったろうというのは同意するよ。
八幡ノ蒙古記もそのように書いているんだし。
確か去年の例の軍船で投石機も持ち込んでたのがわかったんだっけ?
>>432 まず集団戦法>個人戦法と言うとらえ方が間違ってる。
さらに武士が個人戦法で戦ったと言うのも正確ではない。
指揮官レベルに高度の裁量が与えられた組織的戦闘で、敵を撃退した
これが正確
>>436 だから音と煙でびっくりする程度だって。そんなのだったら日本の弓も相手にショックを与えてる
ねずみ花火を投げられるのと、強力な矢を射こまれるのとどっちがショックだ
>>430 お前、教科書の記述が根拠ってどれだけ本末転倒した主張してるんだよ
その教科書はいまだに文永の役は暴風雨が原因での撤退説なんだが?
お前は暴風雨による壊滅ではなく自主的撤退だと主張してるだろ
自分に都合の良い記述だけ持ってきてプロパガンダやってるんじゃねえよ
パフォーマンス、八幡蒙古記では根拠薄弱と見て大学院生に頼るようになったか
堕ちたものだw
448 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 09:03:08.56 ID:TnqJkKeo
>>446 >教科書の記述が根拠ってどれだけ本末転倒した主張してるんだよ
根拠だと誰が言ったのか?
今の教科書の話になったから、その話がどれだけホントなのか、示しただけだ。
そしたらなんと、今度は教科書が悪い、という話になったのはとんだお笑いだったな
>その教科書はいまだに文永の役は暴風雨が原因での撤退説なんだが?
確かに今でもあるが少数派だ。文献が紹介されているのだからまずそれを読め
>お前は暴風雨による壊滅ではなく自主的撤退だと主張してるだろ
正確に言えば、自主的撤退の後に暴風雨による潰滅があった。
それは私の主張ではなくて高麗史の記述そのものだ。
「暴風雨による潰滅」は、元軍が(日本軍の夜襲を恐れて)一夜を過ごすために船に
引き上げた、そこへ暴風雨が襲った、という一部の学者の説が出所になっていると思う。
この説は今でもネット上に散見するが、何を根拠にしているのかわからない不思議な説だ。
449 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 09:10:19.21 ID:TnqJkKeo
>>447 >八幡蒙古記では根拠薄弱と見て大学院生に頼るようになったか
単なる中国人留学生を「中国人研究者」と持ち上げて「彼ですら」と印象操作したのは
>>385だ。
私はその印象操作を是正しているだけ。
私が書いていることはその留学生の説ですらなく、彼が紹介した教科書の内容に過ぎない。
450 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 09:53:48.91 ID:TnqJkKeo
>>440 百度百科「震天雷」
http://baike.baidu.com/view/266455.htm 震天雷,北宋后期発展的火薬武器,身粗口小内盛火薬,外殻以生鉄包裏,上安引信,
使用時根据目標遠近,决定引線的長短。引爆后能将生鉄外殻炸成碎片,并打穿?甲。
震天雷有両種,一種是用火点燃,用時由投石機発射,射至遠処爆炸;?一種類是用火
点燃,就地爆炸,比如守城?縦城?上向下面投擲,效果相当于今日之手榴?。
震天雷は北宋後期に発達した火薬武器である。身は太く口は細い中に火薬を盛り、
外殻は銑鉄を以て包み、導火線を設け、使用時に目標の遠近によって導火線の長短を
決める。引火爆発後は銑鉄の外殻が破片となって飛び散り、鉄甲をも貫通する。
震天雷は二種類あり、一種類は投石機を用いて発射し、遠方に届いて爆発する。
もう一種類は点火後すぐに爆発させるもので、例えば守城時に城壁の上から投げ
落とせばその効果は今日の手榴弾に匹敵する。
後年の雑賀衆なんかも焙烙火矢なんての使ったけど、ま大した評価じゃないわな。
452 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 11:06:13.67 ID:TnqJkKeo
>>448 訂正:
誤:「暴風雨による潰滅」は、元軍が(日本軍の夜襲を恐れて)一夜を過ごすために船に
引き上げた、そこへ暴風雨が襲った、という一部の学者の説が出所になっていると思う。
正:「暴風雨が原因での撤退」は、元軍が(日本軍の夜襲を恐れて)一夜を過ごすために船に
引き上げた、そこへ暴風雨が襲った、という一部の学者の説が出所になっていると思う。
>>448 >正確に言えば、自主的撤退の後に暴風雨による潰滅があった。
>それは私の主張ではなくて高麗史の記述そのものだ。
高麗史の記述そのものなら、壱岐から撤退後に暴風雨による潰滅だが
「一岐島に至り、千余級を激殺し、道を分ちて以て進む。倭は却走し、伏屍は麻の如く、暮に及びて乃ち解く。
会々、夜、大いに風ふき雨ふる。戦艦、厳崖に触れて多くは敗る。金セン、溺死す。」
454 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 11:27:32.70 ID:TnqJkKeo
>>453 それは高麗史節要だ。節要は名の如くダイジェストだからめちゃくちゃに省略している。
金方慶伝などの元の文章は「撃殺千余級」の後に「捨船三郎浦(=早良郡)」があって
ここから本土戦の話になる。
わざわざダイジェストを引用する必要はない。
>>454 高麗史の表だって壱岐到達しか認めてない。
「十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」
つまり金方慶伝は壱岐での戦闘をより詳細に記述しただけ。
日本側史料と高麗側史料との整合性のあるシナリオはこうだな
10月6日、元軍が対馬襲撃
10月14日、元軍が壱岐襲撃
10月20日、高麗軍を壱岐に残し、蒙漢軍が百道原上陸 ⇒ 日本軍の攻撃であっさりと敗退
10月24日、日本軍が逃げる元軍を壱岐へ追撃 ⇒ 元軍は壱岐を放棄し、出航後に暴風雨で壊滅
日本の兵など弱いのですぐに占領できる、などという高麗の妄言にまんまと騙された蒙古。
まさに蒙ですな。
元軍は当時の玄界灘の夜間出航がいかに危険か知らないわけがなかっただろうに
暴風雨の危険を顧みずに強行撤退したのは、武士団が恐かったんだろうな。
高麗史にも玄界灘がいかに危険か、高麗人が蒙古人に言い聞かせる場面があるから
当然、元軍は玄界灘の危険度を承知の上で、それでもなお、武士団との戦闘が避けられるなら
その危険に挑むほうがマシと考えて逃げていったんだろう。
案の定、元軍は海の藻屑となりましたとさ。
ま、金方慶の主張通り背水の陣を布いて戦って、忽敦の言うとおり日本軍の捕虜になるよりは
マシだったろうけど。
459 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 16:08:00.10 ID:TnqJkKeo
>>456 >10月20日、高麗軍を壱岐に残し、蒙漢軍が百道原上陸
なるほど、で、軍議はどこでやったの?
壱岐軍議(笑)VS八幡蒙古記信者(笑)の醜い争いが始まる予感…
>>445 >まず集団戦法>個人戦法と言うとらえ方が間違ってる。
>さらに武士が個人戦法で戦ったと言うのも正確ではない。
>指揮官レベルに高度の裁量が与えられた組織的戦闘で、敵を撃退した
>これが正確
各自バラバラに自分の郎党をひきつれて戦場に到着して、で、その上で現場の判断で戦ってたってだけでしょ。
当時の武士団が、近代軍隊で言うところの委任戦術のようなものを取っていたわけじゃない。
というか、統一された作戦目的を各戦闘単位が共有していたか、戦術上で他部隊との連携を如何に図るかを
考えてすらいなかったでしょ。
まさに寄せ集めの封権軍隊。ただし、強かった。そういうことでしょ。
>>462 現場の判断で勝手に戦ったりしたら恩賞もらえないよ。
蒙古人襲来対馬・壱岐、既致合戦之由、覚恵注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、
彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依執達如件、
(関東御教書)
一、寄役所致自由合戦、
縦雖抜群之忠、不可被行其賞、所詮随大将命、可令進退由厳密可被相触九州守護並御家人
(新御式目)
元寇当時は守護の指揮の下で統一された作戦行動が徹底されてた。
蒙古が西進する際は、ゴビ砂漠で徹底した訓練を行ったらしいが、
元寇の際は、高麗兵や南宋兵に訓練を施したのだろうか?
そもそも元寇のときに、元軍が集団戦法をとったという根拠って何だっけ?
465 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 18:00:10.06 ID:X6An1OYt
>>462 よく言ってくれた。まったくその通りだと思う。
>>463 こういうのがあるから作戦行動が統一されてたって言うのは、世の中には法律があるから
犯罪はないと言うのと一緒。
>>465 法律があれば世の中の大半の人はそれに従って行動するわけで、例え現実が気に入らなくても
目を背けちゃ駄目ね
>>464 高麗兵や南宋兵もなんだかんだで実戦経験豊富
結果はともかくとして
>>463 いや、あのさあ作戦命令書じゃなくて、軍律を示されても、武士団の実際の活動の理解にはあんまり役に立つとは……
これでいいなら陸自の姿は野外令をそれで終わり。米軍ならFMを読めば作戦行動は把握出来るってレベルの暴論なんだけど。
実際に戦闘に際してどう言う指示がでてそれが如何に実行されたか検証しなきゃ意味ないでしょ。
いや463でいいんじゃん。何やってんだ俺。
>>468 文永の役では、「元軍が博多に寄せ来るのを待って一同にて追い物射るべし」って命令が全軍に出てたよ
472 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 20:04:22.24 ID:X6An1OYt
>>471 全軍がその命令に従っていたら鳥飼潟合戦はなかったことになるね
>>471 そういう抽象的な話じゃなくてね、その指示を武士達がどう理解して、前線の部隊運用に反映させたかって部分が大事なんでしょうが。
命令(というより曖昧な方針程度にしか見えないが)が出てればそれを持って現実の軍隊の行動を確認できるかって
それは違うでしょ。
1942年の7月末にスターリンは悪名高い命令二二七号を出したけど、これをもって以後、ソ連軍が後退も降伏もしなくなったか
と言えば、違うわけで。
474 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 20:31:12.51 ID:X6An1OYt
>>471 蒙古襲来絵詞によれば、確かに大将景資が自身でその命令を触れ回っていた。
それを聞いた竹崎は「大将の命令を待っていたら戦さが遅くなっちゃうじゃないか」と言って
大将の前に出て、「私は5騎しか持っていないから一同で戦ってもたいした手柄は立てられません、
これから先駆けをしたいと思うので許可して下さい」と言う。
それを聞いて大将は「おおそうか、それじゃやってくれ、俺が生き残ったら報告してやるぞ」
と言う。こうして竹崎は鳥飼潟へ進発した。
たった5人を率いる長(まともなら分隊長)が直接大将に会って命令に反することを願い、大将もまた
情にほだされて自らの命令をなしくずしにする。
大宰府軍の実態はこんなところだ。
>情にほだされて自らの命令をなしくずしにする。
横スレだが、また、適当なこと言ってる。そんなこと蒙古襲来絵詞には書いていない。
資料や武士の行動の恣意的解釈の酷さがわかる。
たぶん、この人は意識はしていないだけど、要所要所で勝手な解釈が入るんだよな。
景資からしたら、何か思惑があったのかも知れないし、それは誰にもわからない。
訂正
横スレ→横レスな。
>>472 戦況が変われば命令だって変るだろ。
元軍が赤坂から後退したって判明すれば、日本軍の方から鳥飼潟に撃って出るって作戦を採るだろうし。
>>474 で、蒙古襲来絵詞では竹崎一門の大部分は少弐氏の下で蒙古軍が寄せ来た時に一同で追い物射る
態勢整えていたわけだが。
太宰府軍はちゃんと統一された指揮下で戦ってるだろ。
季長だってちゃんと少弐氏の許可を得て行動してる。
誰一人勝手な判断なんてしてないじゃん。
479 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 21:52:25.12 ID:TnqJkKeo
>>475 竹崎は「じぶんは裁判に負けたので5人しか用意できません」などと事情を述べている。
景資がそれを聞いて特例を認めたことを「情にほだされて」と言ったのだ。
気に入らなければ「情にほだされて」を省いたっていい加減さは変わらないだろ
>>478 竹崎に続いて出た白石はどうなのか?
次々に特例を認めたのなら「なしくずし」と言っても良かろう。
>>462 なぜ武士が名乗りを上げて戦うか分かってる?
異族相手に戦闘に支障をきたすほど名乗っても意味がないだろう。証人さえいればいいんだから
>>479 統一行動が要求される近代軍隊においてすら、独自行動が容認されるケースはある。
銅鑼と鉦で進退させなきゃ何をしたらいいかも分からないような軍より、
各戦闘単位が大きな戦略を理解し、違反したら恩賞どころか処罰と言う条件の下で戦う日本軍のほうが
はるかに指揮命令が徹底した軍だよ
パフォーマンスは論破されて意地になってるんだろw
>>479 「なしくずし」じゃないだろ。
指揮官の少弐や大友だって鳥飼潟に駆けつけてるんだから。
敵の後退を受けての戦術変更だろ。
パフォーマンス爺さんまだいたのかw
パフォって爺さんなの?ニートかと思ってた。
高齢ニートっぽいイメージで爺さんと呼んでみただけw
487 :
名無し三等兵:2012/10/25(木) 23:55:34.77 ID:AIe1roYF
>>69 応永の外寇で大敗した朝鮮軍はもっと悲惨だったんだろうなあ
弘安の役の東路軍は兵4万、水手1万5000で3ヶ月分の兵糧11万石を保有してた。
高麗史によれば正軍1万名が1ヶ月に必要とする兵糧は凡そ3000石らしいから、5万5000人の3ヶ月分は4万9500石。
残り半分以上は馬の飼料かな?
仮に馬1頭が人の5倍を消費するとして約1万頭?
文永の役の元軍は騎乗率が15%程度だった。割合が不変だとして単純に掛け算すると40000×0.15=6000頭だね。
ただ、文永の役より準備を積んだとすれば、その程度にはなっているかも知れないね。
490 :
名無し三等兵:2012/10/26(金) 08:33:50.79 ID:fH/1Jj/q
>>483 少貳景資が鳥飼潟に駆け付けたというソースをどうぞ
少弐系譜
「景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射殺蒙古大将」
弘安4年じゃなくて文永の間違いなんだけど、少弐家では少弐景資が鳥飼潟〜百道原にかけて
奮戦したことが代々伝わってるんだよね。
何にもない無名の百道原という地名が少弐家に代々伝わってるところを見ると少弐景資は百道原一帯で
奮戦したというのは、疑いようが無いね。唯単に、功績を誇りたかったら「博多にて奮戦す」程度のおおざっぱ
な記述になるはずなんだけど、百道原という辺境の地名が出ていることから百道原で少弐景資が奮戦したことは
間違いない。
492 :
名無し三等兵:2012/10/26(金) 20:42:55.14 ID:XpomD9BH
>>491 やはり弘安4年が致命的だな。
あるいは弘安4年は間違いでないのかも知れない。百道原は文永の役でこそ無防備だったが、弘安の役では
防塁による水際防衛の最重点地域だったと思われる。
なぜなら博多に最も近い上陸適地であり、その重要性は文永の役で証明されていたからだ。
この最重点区域を総大将の少弐が直接に担当したのかもしれない。
因に防塁の各区間の担当者はすべて記録があるが、百道原だけが空白だ。
また「蒙古大将射留めらる」については、この事件の最も古い記録である八幡ノ蒙古記では景資の部下の
郎党が射たことになっている。景資がみずから射たことになるのは後世に改変された八幡愚童記だ。
このことは、少弐系譜の射殺説話が後世に作られた、または付加された可能性を示唆する。
このようなあぶなっかしい言い伝えが「百道原決戦説」の最も重要な根拠となり、さらには中国の
「新元史」にまで影響を与えた(らしい)のは驚くべきことだ。
>>492 へえ、たかが元号のミスが致命的なら文永の役で竹崎季長が船に攻めかかったとか
竹崎らが散々に防戦に努めたとか、菊池勢は武房のみが生き残ったとか嘘を堂々と
書いている八幡ノ蒙古記はもっと致命的だな。
ちなみに文永の役では百道原で激戦があったことは日田記や福田文書でも確認できることで
あるから、「あるいは弘安4年は間違いでないのかも知れない。」というのは有り得ないね。
少弐系譜明らかに戦闘のことを言っているのであって、弘安の役には百道原では戦闘はなかった
からね。辺境でありかつ無名の地名がわざわざ出てきていることから、文永の激戦地百道原での
戦闘のことであるとしか穿った見方をしない限り有り得ない。
『日田記』「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」
『福田文書』福田兼重申状写「右、去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、
就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」
まあ、八幡蒙古記信仰にのめり込んでる君なら「少弐景資が百道原で奮戦した」というのは
どうしても、認められないことだろうし、穿った見方をしないといけないのは仕方のないことかも
しれないがw
>>485 仮に定職に就いてたとしても、平日の昼間から長文垂れ流されるとちょっと心配になるよなw
少弐氏の系譜は他にもあるけど戦場はやっぱり百道原。
武藤系図
「景資豊前守、弘安蒙古出来時、蒙古大将於百道原射留ラル」
いずれも文永の役に言及がないから、元寇の際に百道原で蒙古大将を討ったという事実だけが
伝わったんだろうな。
八幡愚童記を基にしてたら場所を百道原にするわけないんだから無関係なのが明白ね。
496 :
名無し三等兵:2012/10/27(土) 08:22:30.62 ID:diPHKSxh
>>49わから
いつ出来て、時代とともにどのように変わったかも分からない「家伝」を中心的な根拠と
して戦闘経過を考えるべきではない、というのが私の主張だ。
実際、景資が百道原で戦った、つまり司令部そのものが前進したという想定がなかったら、
あとは二、三の武士の戦闘記録しかない。記録がなければ事実もない、という考え方に
従えば、これらの武士たちが博多から出撃して戦っただけかもしれないのだ。菊池と同じ
ようにね。
そのほうが蒙古襲来絵詞の伝える景資の命令、すなわち「博多に留まって敵を待て」に
合致している。
少貳家伝は:
沖の浜が華々しい戦いの舞台であった。
弘安の役で少貳が百道原を担当した。
八幡愚童記によれば景資本人が敵将を射落とした。
これらの言い伝えが後世に合体してできあがったものかも知れないのだ。
>八幡愚童記を基にしてたら場所を百道原にするわけない
八幡ノ蒙古記、八幡愚童記とも、射撃の場所は明示していない。
497 :
名無し三等兵:2012/10/27(土) 08:25:20.41 ID:diPHKSxh
>>496 ごめん、大間違い。
誤:沖の浜が華々しい戦いの舞台であった
正:百道原が華々しい戦いの舞台であった
498 :
名無し三等兵:2012/10/27(土) 10:29:06.28 ID:diPHKSxh
>>496 それこそ、創作の入りまくった「縁起物語」を中心的な根拠として戦闘経過を考えるべきではない、だろ。
司令部そのものの前進は、鎌倉遺文11771号「大友頼泰覆勘状写」で大友頼泰が鳥飼浜における
都甲惟親の合戦の証人になってることからも確認できること。
記録があるんだから事実もあったわけだな。
あと、菊池が博多から出撃して戦ったって根拠は何?
蒙古襲来絵詞見れば、あきらかに菊池は博多へ参陣する途中で蒙古と戦ってるけど。
500 :
493:2012/10/27(土) 11:16:05.89 ID:???
>>496 >少貳家伝は:
沖の浜が華々しい戦いの舞台であった。
弘安の役で少貳が百道原を担当した。
八幡愚童記によれば景資本人が敵将を射落とした。
これらの言い伝えが後世に合体してできあがったものかも知れないのだ。
本当にこの人の解釈は自分勝手なんだよなぁ。
「弘安の役で少貳が百道原を担当した。」ということが少弐家で代々
伝わってるなら、少弐家の華である文永の役で大勲功を挙げた少弐景資が
奮戦した地名だけは伝っていないはずがないだろう。なぜ、守備範囲だけ伝わって
少弐家の華ともいえる文永の役の戦場だけがわからなかったかもしれないから
他家の文書や怪しげな宗教書などから合体してできたのかもしれないという馬鹿
みたいな発想が湧いてくるのか謎だな。
「かもしれない」で八幡ノ蒙古記以外の資料を否定して、文永の役で
竹崎季長が船に攻めかかったとか 竹崎らが散々に防戦に努めたとか、
菊池勢は武房のみが生き残ったとか嘘を堂々と書いている八幡ノ蒙古記
には目を瞑る糞みたいな姿勢では誰からも支持を得られないよ。
>>500 このスレに来る人で、彼を支持してる人は見たことない。
502 :
名無し三等兵:2012/10/27(土) 13:16:52.35 ID:diPHKSxh
>>499 >「大友頼泰覆勘状写」で大友頼泰が鳥飼浜における都甲惟親の合戦の証人になってる
これは「お前の手柄はすでに関東へ伝達してやったぞ」と言ってるだけであって、
別に頼泰が証人になっているわけではないが。
>蒙古襲来絵詞見れば、あきらかに菊池は博多へ参陣する途中で蒙古と戦ってるけど。
菊池が博多へ参陣する途中で赤坂の元軍と戦ったというのは初めて聞いたが、面白い。
それは蒙古襲来絵詞のどこに書いてあるの?
>>500 要するに「家伝」は決して同時代史料ではないということだよ。
極端なこと言えば江戸時代に創作されたかもしれない。
その疑いを否定するにはよほど綿密に時代をさかのぼって調べなければならない。
不可能に近いだろうけどね。
それに較べれば八幡ノ蒙古記はまがりなりにも同時代史料だ。
>>502 八幡ノ蒙古記はあきらかに蒙古襲来絵詞見て書いてるだろ。
八幡愚童記に記されず、八幡ノ蒙古記にだけ名前が出てくる竹崎季長、大矢野兄弟、白石六郎は
特に戦闘で重要な手柄を立てたわけじゃなく、ただ蒙古襲来絵詞の登場人物だというだけ。
同時代史料どころか偽書じゃん。
パフォーマンス野郎は三国志演義とか太平記も史実扱いしそうだなww
それとも八幡ノ蒙古記を唯一絶対の神とあがめる宗教の信者か何かか?
八幡ノ蒙古記は、写本しかないみたいだから、書き写される過程で加筆されてる可能性が
十分にあるな。
竹崎季長は怪我をした以外なんにもしていないのに、登場頻度で言えばやたらと高い。
さらに「只三人を、たすけて、〜小舟にのせて、おひ返す」なんて元史の「10万の衆のち
還れた者は3人のみ」の記述のパクリだとも思える。
実際は帰れたものは、3人以上いたことは無傷で撤退した部隊があったことから明らかなのだが
元史の誇張表現まで採用してるところが何らかの影響を受けてるとかしか思えないな。
>>503 なるほどなぁ。八幡ノ蒙古記が「文永の役で竹崎季長が元軍船に攻めかかった!」とか
嘘吹かしてるのは、あの有名な蒙古襲来絵詞の竹崎季長が元軍船に乗り込む絵を見て思いついたのかも。
というか、蒙古記の「正應二年己丑八月 イ筥崎宮社官 圖書允定秀誌 (花押)」
というのを額面通り受け取るのは、どうなのかなぁ。
偽書の作者が自らの本の価値を上げるために施した小細工かもしれんし。
もひとつ、疑問点が出てきた。
八幡ノ蒙古記は、元史や高麗史など敵側の資料に記されている
兵数とやたらと一致してる。
敵側にしかわからない兵数や船を正確に言い当ててる。
文永→其数四五百艘はかりに、凡三四萬人
弘安→凡三千餘艘の大船に十七八万の大衆
弘安の役から数年後に敵側の一神官がそんなに正確にわかるものかな?
中世日本軍って、相手の兵数を数える兵(従軍文官?)っていたのか?
捕虜の明人を尋問すれば済むことだが。
捕虜に聞けばわかるな。
日本側が元にスパイを派遣していたことはあまり知られていない。
元史には日本の間者が元領内で捕らえられた記事がある。
高麗史にも文永の役の直前に日本船と連絡とってた内通者が見つかって処刑された記事があるよ
鎌倉幕府は、諜報部門で大日本帝国より優秀だな。
生き馬の目を抜くような武家の内乱の渦中にあった鎌倉の諜報能力、工作能力は伊達ではありませんからね。
博多商人たちの語学力、情報収集能力もかなりのものです。
>>512>>513 これは日本史板のスレでも聞いた。幕府の対蒙古・対南宋外交を知りたいものじゃ
>>514 日露戦争の明石元二郎の活躍は大きいよ。ばれてたけど。
今の日本も見習ってほしい。外務省なんて何も仕事してないじゃん
>>516 幕府は対蒙古でも対南宋でも積極的な外交やってたよ。
元の首都まで使節団派遣したこともあるし。
南宋とも文永の役直前に同盟が成立。
その結果、蒙古がらの最後通告を拒否することが決定した。
>>514 大日本帝国の諜報がアレになったのは太平洋戦争の時でしょ。
というか旧軍のイメージ=大戦末期の旧軍で定着しちゃってるよなあ
>>517 前から幕府の外交が気になってたけど、それに言及した文献とかある?
仮説レベルでもよいけど
>>518 太平洋戦争でも情報収集自体は結構出来てる。
ただ分析や活用がアレだっただけで…orz
第一次大戦終結のころからgdgdっしょ。
鷹島神崎で弘安の役の元軍沈没船が見つかったというのを聞いて思ったのが
是非、文永の役の沈没船も調査してもらいたい。
文永の役で元軍は「巌崖に触れて多く敗る」とあり巖崖に接触してから沈没したことから、
沖ではなく、恐らく元軍が暴風雨に襲われたのは島周辺のことだったと思う。
元軍が帰路寄るとしたら壱岐か対馬のどちらかなんだろうけど。
想像だけど、高麗史表の「壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は、
一萬三千五百餘人」とは壱岐で日本軍に敗れたという意味ではなく
壱岐で「(暴風雨にあって)巌崖に触れて多く敗」れたのではないか?
もし、そうなら文永の役の沈没船は壱岐周辺、もっと言えば沖ではなく
巌崖に触れてとあることから島から近い場所にあるかも。
まあ、壱岐は諸島が連なってるから、たとえ壱岐で沈没しても、どの島周辺で
沈没したか、調査するのは大変そうだけど。
523 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 09:08:38.36 ID:uYyUErYu
>>522 >巖崖に接触してから沈没したことから
金方慶伝では「戦艦触岩多敗」となっている。
厳崖ではなく岩である。岩は暗礁まで含むだろうから、範囲は広くなる。
>壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は、一萬三千五百餘人
なぜ年表をもとにして考えるのか?
年表は思い切り文字を削っているからあてにならない。省略が過ぎて意味が変わって
しまうこともあり得る。
表のこの記事は恐らく一岐島しか地名が出て来ない(他は省略した)高麗史節要を
もとにして、さらに省略したものだろう。
>>523 >省略が過ぎて意味が変わってしまうこともあり得る。
そんなことあり得ねーよ。
書いてることが支離滅裂過ぎる。
1451年に完成した高麗史の表が、1452年成立の高麗史節要をもとにしてる訳ないだろ。
525 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 13:50:03.63 ID:uYyUErYu
>>524 >省略が過ぎて意味が変わってしまうこともあり得る。
>そんなことあり得ねーよ。
現に「壱岐」の意味が変わっているではないか。
金方慶伝を見れば壱岐は明らかに日本へ行く途中の上陸地の一つであるが、
「表」の「・・征日本、至壱岐戦敗、軍不還者万三千五百余人。」を予備知識なしに読めば、
壱岐は唯一の上陸地、あるいは最終上陸地であるとしか受け取れない。
だからこそ君が壱岐を船団難破の地であると解釈する余地が生じた。
>1451年に完成した高麗史の表が、1452年成立の高麗史節要をもとにしてる訳ないだろ。
高麗史節要の編集者である金宗瑞は高麗史の編集者の一人でもある。
1年の差ぐらいでは記事の前後関係はわからない。
基の文章の編者が表では省略しすぎて意味が変わるってあり得るのか?
わかってて全く違う文章にまで省略したというのはどうも信じがたいな。
例えば、弘安の役の表では「覇家台に至り、戦い敗れ、軍の還らざる者
十万有奇。」ってあるけど、これは表独特の文章だよね。
また、弘安の役の戦い敗れは台風を受けて壊滅したことを表わしている
ように思われるから、文永の役の「壹岐に至って戦い敗れ」も暴風雨で
壊滅した場所を表わしているのでは?
527 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 19:17:42.38 ID:EGw0pAnD
>>526 >基の文章の編者が表では省略しすぎて意味が変わるってあり得るのか?
そうじゃないのだ。元の文章は何かと言えば、それは高麗王朝のときに書かれた高麗実録だ。
高麗史は李氏朝鮮のときに高麗実録を基にして編纂されたから、高麗実録を改変せずにそのまま
載せていれば問題ないわけ。
金方慶伝は元の高麗実録の文章にもっとも近いのではないかと私は思っている。
ところが、高麗史節要や年表は、李氏朝鮮になってから書かれたことが明らか。
これらが書かれたときに、どれだけ元の文章の内容を毀損せずに省略できたが問題になるわけだ。
しかしそれをやる編集者は歴史の真実性よりも中国との関係や李氏朝鮮王朝の正統性にばかり関心がある
役人たちと来ているから、省略の結果意味が変わろうがたいして構わないのだ。
金宗瑞は編年形式の歴史も必要だと言って高麗史節要の編纂を主唱した人らしいから、節要と年表の、
両方の省略文に関係していた可能性がある。そうであれば前後関係の問題でもない。
>>527 そんな杜撰な年表を作成したとして、じゃあなぜ弘安の役だけは「覇家台に至り、戦い敗れ、軍の還らざる者
十万有奇。」と独特の文章が書かれているのかがわからない。
これは、省略文じゃないよね。わざわざ、金宗瑞らが弘安の役についてだけは独自に文章を差入れたってこと?
質問なんだけど、他の表も省略されているの?
なら「壹岐に至って戦い敗れ」も省略文だったってことがわかるんだけど、他の表の文章も省略文では無いなら
やっぱりおかしい。
暴風雨に遭ったのが壱岐なら、戦いに敗れたのも壱岐ってことになるね。
だって撤退決めた其の夜に暴風雨に遭ったんだから。
それから、ageの人は
>>453を「高麗史節要」と勘違いして金宗瑞叩いてるけど、あれ実は
「高麗史」元宗世家十五年十月の記事なんだよね。
つまり、「高麗実録」でも高麗軍は壱岐までしか到達してないの。
年表の文章は的確な要約だよ。
530 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 22:05:53.71 ID:uYyUErYu
>>528 「省略文」という言葉が誤解を招いたな。「要約文」と言ったほうがよかったかもしれない。
いずれにしても「字数を節約した文章」という意味だ。
ある程度節約したのが「節要」であり、極端に節約したのが「表(年表)」というわけだ。
要約文を作るには基本的にそのもとになった文章から文字を省くが、それだけとは限らない。
文字を入れ替えることもある(例:岩→厳崖)し、もとの文章に無い文字を加えることも
ある(例:戦敗−世家、金方慶伝にはない)。
だから「至覇家台戦敗軍不還者十万有奇」もりっぱな省略文であり、要約文だ。
ちなみに元宗世家の相当する文字は「至覇家台」が「至大宰府」に、「十万有奇」が「十万有幾」
になっている。「奇」は誤字だろう。
文字を入れ替えたり、加えたりするのは、文字を節約しながらももとの文章の文意を残そうとする
からだ。それは高麗史に限らず我々が要約文を作るときも同じだろう。
ただ、高麗史がしばしばそれを作るのに失敗しているというだけだ。
何百年も経った後の後代王朝の人の歴史理解が正しいと言う保証はなにもないからね。
531 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 22:07:57.88 ID:uYyUErYu
532 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 22:10:22.06 ID:uYyUErYu
533 :
名無し三等兵:2012/10/29(月) 22:21:29.50 ID:uYyUErYu
>>529 元宗世家の記事でも「捨舟三郎浦」が落ちていることは私も知っている。
しかし元宗世家の記事そのものが金方慶伝の相当部分の要約であることが較べて見ればわかる。
「捨舟三郎浦」がどの段階で落ちたかは誰にもわからない。
高麗実録ですでに落ちていたのか、それとも高麗史に移す段階で落ちたのか。
いずれにしてもいくつかの相当する文章の中でオリジナルがどれかを見極めることが大事だと思う。
私は金方慶伝がオリジナルだと思っている。最も詳しく、最も構成が整っているからだ。
元宗世家は遠征準備など、その他の部分では詳しい独自の記録があるが、戦闘記録となると
めんどくさいので列伝の金方慶伝を利用したのだろう。
>>530 で、表の文章が失敗しているという根拠は何もないわけだ。
ただその内容が気に入らないというだけで。
明確に食い違う史料でも見つからない限り高麗史の文章を尊重し、高麗軍は壱岐までしか到達していない
という認識で議論するべきだろうな。
もとの文章の文意を残そうとするからだとしながら「征日本、至壱岐戦敗、軍不還者万三千五百余人。」は間違ってるって言ってることがめちゃくちゃだな。
そういう姿勢が表にあるなら「征日本、至壱岐戦敗、軍不還者万三千五百余人。」だって間違いだとは言い切れないだろう。
結論:鎌倉武士最強
鎌倉武士を倒せるのは借金の証文だけ。
→徳政令→貸し渋り→倒産
538 :
名無し三等兵:2012/10/30(火) 08:40:39.65 ID:wGdbKZW3
>>534 >で、表の文章が失敗しているという根拠は何もないわけだ
根拠はある。三郎浦(早良郡)に上陸し、夕方まで諸軍と共に戦い、軍議の後に
兵を引いて帰ったと、高麗史金方慶伝が言っているからだ。
壱岐軍議はどう考えても無理だからあきらめたほうがいいよ。
金方慶は軍の立場を焚船の計に例えているが、蒙漢軍が本土で敗れてほうほうの体で
壱岐に辿り着き、これから合浦まで帰らなければならない船を、わざわざ焼くのか?
>>535 >もとの文章の文意を残そうとするからだとしながら「征日本、至壱岐戦敗、軍不還者万三千五百余人。」
は間違ってるって言ってることがめちゃくちゃ
だから、後代王朝の人たちは先代王朝の歴史認識があいまいだから、もとの文章の文意を
残すことに「失敗した」と言ってるのだよ。
それだけではないかも知れない。今だって韓国の先代大統領はまず裁判にかかることに
なってるだろう?
それと同じで、先代王朝は後代にとって「にっくき」存在なのだ。わざと「戦敗」の文字を
入れたことだって考えられる。
539 :
名無し三等兵:2012/10/30(火) 09:32:21.62 ID:wGdbKZW3
>>538 追加
「失敗した」というとまた誤解を与えるな。
私が言いたいのは、もとの文章の文字を削りながら、なおかつできるだけその文意を残すために
文字を変えたり加えたりしたが、歴史認識不足のために反っておかしくしてしまった、
ということだ。
これは善意にとった場合のこと。
悪意に取れば、先代王朝を貶めるために、ただの要約と見せかけながら「戦敗」などの文字を
加えて印象操作した、ということになるわけだ。
>>538 「対馬に入り」「一岐島に至るに」にと続き、九州到達を意味する文章が全く無いまま「三郎浦」が出てくる
んだから、あきらかに「三郎浦」は壱岐の地名じゃん。
帰る船をわざわざ焼くのか? って疑問なら、博多だろうと壱岐だろうと同じ条件で、軍議が壱岐だって
ことを否定する根拠にならない。
金方慶はせめて壱岐ぐらいは確保しようって主張してるんだろ。
そもそも世家や表の文章がもとの文章の文意を残すことに失敗してるって主張が説得力なさ過ぎなんだよ。
だってそれを裏付ける根拠が一切皆無だろ。
金方慶を普通に読めば、高麗軍の最終到達点は壱岐なんだし。
蒙古軍を翻弄した鎌倉武士を翻弄した楠木正成が人類では最強
正成>鎌倉武士>>>>蒙古
542 :
名無し三等兵:2012/10/30(火) 13:46:00.92 ID:wGdbKZW3
>>540 >九州到達を意味する文章が全く無いまま「三郎浦」が出てくるんだから、あきらかに「三郎浦」は
>壱岐の地名
そこだ。「九州到達」をどう表したらいい? 「九州」なんて地名は高麗人は知らない。
「日本」と言うなら壱岐、対馬も日本だし。
それに「九州の早良郡」なんて階層的に考えるのは予備知識がある日本人の感覚で、彼らから見れば
上陸地だけが問題なのだ。
「対馬」「壱岐」「三郎浦」と来て、それぞれに重複を避けて「入」「至」「捨船」と、上陸を意味
する異なる前置詞をつけた。それぞれの段が地名で始まり、戦果で終わる。
文章の美意識まで考えた漢文だ。
日本側の記録を見ても、本土の上陸地として共通して挙げるのは「早良郡」だ。早良郡はけっこう
重要な地名なのだ。
>帰る船をわざわざ焼くのか? って疑問なら、博多だろうと壱岐だろうと同じ条件で、軍議が壱岐だって
>ことを否定する根拠にならない
そうではない。焚船の計は金方慶も言っているように、敵境に入っているからこそ意味がある。
つまり、敵国に入ってしまったからにはもう船は要らない、後は敵を撃滅し、城を落として兵糧を
手に入れればいいんだ、という覚悟を兵士にさせるわけだ。(あくまで一般論、精神論だよ)
壱岐ならばどうか。敵境とは言え、軍民みなごろしにしてもはや管制下にある。勇ましがった
ところで敵はいないのだ。たいした城もないし。ならばもういちど海を渡って九州へ、と言っても
、船を焼いたらそれもできない。精神論さえ成り立たないのだ。
>>542 >「九州」なんて地名は高麗人は知らない。
高麗人が九州の地名知らないわけないだろ。
日本と半島の間には元寇まで数世紀も交流あるんだから。
そもそも高麗人は最低でも博多湾の地名知ってるわけで、九州に到達してたら弘安の役と同じく
「覇家台に至り」って書くだろ。
書いてないってことは到達してないってこと。
「捨船」は上陸を意味する言葉じゃないし。
>壱岐ならばどうか。敵境とは言え、軍民みなごろしにしてもはや管制下にある。
いや、壱岐での戦闘は暮れになって自然休戦なんだから、完全に管制下じゃないよ。
敵がいて、しかも時間とともに増強されるのが分かってるから壱岐を放棄するかで議論してるわけで。
いずれにしろ元宗世家や表で高麗軍が壱岐までしか到達してない以上、金方慶伝も壱岐での戦闘を
詳細に記述してるだけ。
全く根拠もないのにそれを認めないのは、論理じゃなく単なる我がままじゃん。
544 :
名無し三等兵:2012/10/30(火) 15:56:43.47 ID:wGdbKZW3
>>543 >高麗人が九州の地名知らないわけないだろ。
高麗人は知らない。なぜなら日本人にさえ、その当時は九州は「筑紫」だったから。
>九州に到達してたら弘安の役と同じく「覇家台に至り」って書くだろ。
それは高麗史が編纂された15世紀の話。忠烈王世家は同じところで「至大宰府」と
書いてるな。当時、彼らは博多のことを大宰府と呼んでいたのだ。
>しかも時間とともに増強されるのが分かってるから壱岐を放棄するかで議論してるわけで。
壱岐には百騎ぐらいしかいなくて、その軍は一度全滅したことが日本側記録に残っているが、
その後増強されたのかな? 博多防衛で手一杯なのに海を渡って増援軍を送ったの?
>壱岐での戦闘は暮れになって自然休戦なんだから
自然休戦は「諸軍與戦、及暮乃解」だから博多から戻って来た蒙漢軍が高麗軍とともに
戦ったことになるね。
そう言えば「復亨中流矢先登船」だから劉復亨も壱岐で負傷したんだよね?
百道原説は嘘だった。
新羅の時代から幾度となく早良の海岸に現れては略奪放火拉致を繰り返してきた半島人が
博多湾沿岸のことを知らぬはずがない。
三郎浦という地名が無いと言う前にまず早良の海岸には「浦」と呼べる地形そのものが無い。
早良の海岸は浜と磯の連続。
>>544 「覇家台」も「大宰府」も文永の役の記述には出てこないじゃん。
高麗軍は九州へ来てないからね。
あと、百道原の戦闘は日本があっさりと勝利したから、海を渡って増援軍を送る余裕はあったよ。
実際、その日のうちに日本艦隊300艘が逃げる元艦隊を追って出航してるし。
>>544 元って基本的に情報収集能力が低いんだな
蒙古と宗と高麗の弓って差があったんだろうか?
549 :
名無し三等兵:2012/10/30(火) 20:30:09.41 ID:BIZ3sOB8
>>545 >早良の海岸には「浦」と呼べる地形そのものが無い。早良の海岸は浜と磯の連続。
古代の早良郡は大体において現在の福岡市早良区と同・西区を合わせたものだった。
したがって百道原だけでなく姪浜、今津浜もそのなかに含まれた。
このあたりの地形はまさに浦だ。
浦とは海が湾曲して入り込んだ場所のことだからね。
今津は志摩郡、早良郡ではない。
姪「浜」の海岸線は入り組んでおらず、このあたりはアクマの浜と呼ばれていた。
鷲尾山(現愛宕山、豊浜近辺)付近は当時は海に面しており断崖絶壁。
早良郡で上陸できる地点は室見川(早良川)東岸の百道浜かアクマの浜。
551 :
名無し三等兵:2012/10/30(火) 22:50:46.02 ID:wGdbKZW3
>>550 ひとつ忘れていた。浦の字を用いたのは日本人ではなく高麗人だと言うことだ。
高麗人が中国語の字義にしたがって浦の字を用いたとして、漢和辞典を引いてみれば
浦とは河口のことだ。
この字を用いた朝鮮の地名として元寇にも関係する合浦がある。合浦は今の馬山で、
地図を見れば細長く入り込んだ峡湾の奥に河口が開いた地形であり、日本の例えば
田子の浦などの「浦」とは似ても似つかない。
そこで早良郡に戻ると、三郎浦は「三郎(朝鮮語読みでサムラン)」で早良の音(古くは
サウラであろう)を表し、それに地形(河口)を表す「浦」を付けたのではないか?
その河口とは室見川の河口のことではないか? それならば東西に百道原と姪浜を抱え、
まさに上陸地点に一致する。
百道原から上陸したのは蒙漢軍だよ。
捕虜にした元兵を尋問したら、3月に元本国を出発して、10月20日に百道原に上陸したって白状したらしい。
早良の古い呼び方はソウラじゃなくて「ソハラ」。
元軍が陣を構えた祖原山のソハラ。ソハラに早良の字を当てた。
古くは祖原山を中心とした一帯をソハラと呼んだ。
今の西新、鳥飼、城西、高取、昭代、藤崎あたり。
>>551 早良川(今の室見川)河口は二つの河川(西の早良川、東の原川:今の金屑川)が
かなり近い位置で海に流れ込んでおり、その二つの河川が海に入るところは
東側が百道原、真ん中に中州に近い湿地帯、西側は鷲尾山の断崖迫る地形だった。
峡湾の奥に河口が開いた地形ではない。姪浜も河口にあるが
ここも南西から北東に横切る名柄川の南岸に広がった街。
河口の北西岸はやはり断崖で城跡が今も残っている。
555 :
名無し三等兵:2012/10/31(水) 08:39:37.96 ID:fEXu8LiS
>>554 >峡湾の奥に河口が開いた地形ではない。
合浦は高麗人の用いる「浦」の一例を示しただけ。
彼らの用いる「浦」が日本人の「浦」の概念とは違うということを分かってもらえば
それでよい。
>>553 >早良の古い呼び方はソウラじゃなくて「ソハラ」
「早」の字の日本語読みはサプ>サフ>サウ。
だから早良はサウラと読める。もともとサハラだったなら別の字をあてただろう。
>>552 >捕虜にした元兵を尋問したら、3月に元本国を出発して、10月20日に百道原に上陸したって
白状したらしい。
ソース希望だが、それだけでは高麗軍が百道に上陸しなかったという証拠にはならないね。
>>554 >早良川(今の室見川)河口は二つの河川(西の早良川、東の原川:今の金屑川)が
>かなり近い位置で海に流れ込んでおり、その二つの河川が海に入るところは
>東側が百道原、真ん中に中州に近い湿地帯、西側は鷲尾山の断崖迫る地形だった。
椎名林檎の歌にあったな
この辺の景色を歌ったのが
557 :
名無し三等兵:2012/10/31(水) 10:05:21.71 ID:fEXu8LiS
以前に、当時の中国人たちが博多を大宰府に含める概念を持っており、したがって博多の
ことを大宰府と呼んだのではないかということを書き、その根拠として二つの例を
>>264と
>>265に示した。
(高麗人、モンゴル人も博多の中国人から情報を得ていたと思われる)
今回壱岐軍議くんと議論したおかげで第三の例を見付けた。他ならぬ高麗史だ。
高麗史世家 忠烈王七年七月条
「・・元帥金方慶使中郎将朴*奏、諸軍至太宰府累戦、交綏而退・・」
「・・元帥の金方慶、中郎将の朴*をして奏せしめむ。諸軍太宰府に至りて累戦し、交綏して退く・・」
この若干後に「官軍の返らざる者無慮十万有幾」がある。
これが高麗史・年表の忠烈王七年五月条で:
「覇家台に至り、戦いて敗れ、軍の還らざる者十万有奇」
となっている。
明らかに大宰府=覇家台=博多だ。
まあ実際は博多にも「至って」はいないのだが、しか島の戦いなどを「至った」と
みなしたのだろう。
以上、第三の例。
558 :
名無し三等兵:2012/10/31(水) 10:10:53.58 ID:fEXu8LiS
>>557 訂正
奏せしめむ → 奏せしむ
もうひとつ、「覇家台に至り」の前にも「・・」
鎌倉武士最強まで読んだ。
で、結局のところ高麗史の世家や表の文章がもとの文意と違ってるって根拠は何一つ無いんだろ。
だったら金方慶伝も世家や表と同様に壱岐での戦闘を詳細に記述してるだけと考えるしかないじゃん。
>以前に、当時の中国人たちが博多を大宰府に含める概念を持っており・・・
まだ言ってやがる。
攻略目標はあくまで大宰府であり、そのために大宰府と目と鼻の先にある博多に上陸した。
元軍にとっても幕府にとっても、これは「大宰府の戦い」なんだよ。
もちろんそれは大宰府と博多が同一視されていたことなど何ら意味しないし、同一視されなければならない理由も全く無い。
ただ単にあんたの妄想説にとって同一視されていないと都合が悪いだけのこと。
結局この「大宰府の戦い」は元軍が上陸地点の博多から目と鼻の先にある大宰府に到達すら出来ずに敗退した。
朝鮮の文献で「博多」と言えば其れは博多湾のこと。
だから志賀島上陸をもって博多に至ったとしても問題ない。
博多の町を限定する時は「石城」と書く。
いつもの人の思い入れ凄いけどどういう結論に持って行きたいのかよくわからん
564 :
名無し三等兵:2012/11/01(木) 08:30:29.44 ID:4OTEwVw4
>>561 >元軍にとっても幕府にとっても、これは「大宰府の戦い」なんだよ。
全くその通りだと思う。
だから史料に「大宰府」と書いてあっても、うかつに「水城の奥のあの大宰府」とは決めつけ
られないのだ。
565 :
名無し三等兵:2012/11/01(木) 08:40:27.68 ID:4OTEwVw4
>>560 「壱岐軍議」は焚船の例えの矛盾が生じる。
>>542 君はこれを説明していない。
それから「三百艘の追撃船団」に依存している点。
これが幻の追撃船団ならば全部が瓦解する。
566 :
名無し三等兵:2012/11/01(木) 08:46:45.53 ID:4OTEwVw4
>>562 >だから志賀島上陸をもって博多に至ったとしても問題ない。
有り難う。それを「大宰府に至った」と書いてあるのだから博多=大宰府確定だね。
>>563 元寇はパフォーマンスだったという結論だろw
と言うか日本史板にリンク貼るなって。
パフォとか棄民くんとか基地外がなだれ込んでくるんだから
棄民くんは消えちゃったみたいだけど
568 :
名無し三等兵:2012/11/01(木) 09:08:34.11 ID:EfB5FqH+
で、それで壊滅することに、どういう戦略的意味が有るんで?(笑)
大宰府と博多を同一視するのは元や馬鹿チョンの勝手だが、東京都に上陸しただけでは、国会議事堂落としたことにはならん事にかわりないわけで。
元の言う太宰府とは政庁機関としての太宰府だ。
例えば、元史には「太宰府西六十里、旧有戌軍、巳調出戦」とある。
太宰府の西六十里にいた日本軍が出陣準備を整えて出戦したとしている。
太宰府へ西60里とは距離で言うと33.17km。
拠点の太宰府から西33.17kmというと室見川上流のことであることがわかり
この付近は海岸線に向かえば、石築地も存在し日本側の防衛範囲だった。
出戦したとは、海岸線の石築地の方にむかったのだろう。
しかし、博多=太宰府とした場合は、博多の町から西33.17kmでは博多から西へ遠く離れすぎており
防衛範囲外で、かつ遠すぎるため日本軍がいたとするのは有り得ない。
つまり、元の認識でも太宰府とは拠点としての「太宰府」のことを指していたということが
この一文からわかるわけだ。
>>565 何でだよ?
史料で高麗軍は壱岐までしか到達してないんだから何一つ瓦解しないだろ。
金方慶は帰りの船を焚いてまで壱岐を保持することを主張したってことで問題ないじゃん。
571 :
名無し三等兵:2012/11/01(木) 13:28:20.27 ID:4OTEwVw4
>>569 それはむしろ博多=大宰府の第四の根拠だ。
君が引用した文の、その後も入れて引用すれば:
「太宰府西六十里、旧有戌軍、已調出戦、宜乗虚擣之、詔曰、軍事、卿等当自権衡之」
つまり「大宰府の西六十里に以前は守備軍がいましたが、すでに出動しました(現在は無防備です)、
この虚に乗じてここを突くのが宜しいと思われます」と出先の元軍がフビライに報告したのに対して
フビライが「作戦のことは諸君に任せた、よきに計らえ」と言ったのである。
博多の西約30kmのところには野北海水浴場などのある長大な浜がある。
砂浜だから上陸作戦の適地である。
ここには防塁がないから日本軍は守備兵を貼り付けていたのであろう。
それが作戦が変わって移動したのだ。
その虚に乗じて防塁のないこの浜に上陸する作戦を出先の元軍が考えたわけ。
水城の奥の大宰府から西30kmなら、それはまさに背振山系どまんなか。
軍を貼り付ける意味はない。
ということで博多=大宰府の有力な第四の根拠になった。
流れがよくわからないんだけど、
結局、元軍が博多を大宰府と誤認してたことが何を意味するの?
元軍の攻撃目的は、政庁都市を攻撃することではなく、通商破壊だったわけ?
>>571 嘘を言ってはいけない。
博多から西33.17kmは玄界灘の海の上だ。
そんなところに日本軍が軍を配備しているわけがないだろう。
また、例え28km先の最果ての浜を守備していたとしたら、間には
可也山もあり、距離もあり、博多との連絡を取る手段がない。
こんな隔絶した場所に配備するはずがあろうわけがない。
また、長大な浜は九州沿岸に無数にあり、ここだけ無防備だった
というわけではないのだ。
さらに元軍が博多湾に進出した際に真っ先に上陸したのは「博多の西約30kmの
ところには野北海水浴場などのある長大な浜がある。 」などでは無く
志賀島だ。
恐らく、大宰府の西60里の地点にいた日本軍が防塁の西側に集中していることを
知り、その間隙をついて志賀島に上陸したのだろう。
そもそも、博多の町西60里から上陸したら、間隙をつくどころか日本軍との決戦を
しなければ進撃もすることができない。そのようなものは間隙とはいわない。
>>572 何も意味しないよ。
元軍が何の戦果もないまま逃げ帰ったという事実に変わりないんだから。
11月3日のNHKスペシャルで、
発見!幻の巨大軍船〜モンゴル帝国vs日本730年目の真実〜
をやるらしい
ここにいる奴は見るよな?
もちろん。しかし、既報以外の新内容があるの?
昨年くらいから琉球大のチームのニュースはかなり流れてるじゃん
>>575 いい加減、元軍の負け犬みたいは軍議を無視して「謎の撤退」とか
言わない番組をみたいものだ。
「てつはう」ばかり取り上げないで、日本刀の威力とかも取り上げてほしいもんだよ。
元寇における日本刀の驚異は元側の資料にも指摘されてるのにさ…
NHKがナショナリズムを盛り上げるような日本ageはやらんだろう
モンゴル帝国vs日本だし、したたかな交易国家「モンゴル帝国」が日本遠征に秘めた海洋戦略とは何か?
とか書いてあるから、モンゴルメインじゃないかな
日本は元寇に関しては韓国をバカに出来ないアホな教育を続けてるなあ
鎌倉幕府と武士を素直に評価しないと、歴史から教訓を得られないぞ
南宋征服の一環でどうたらかんたら〜って感じだろ、どうせ。
で海のネットワークがどうの〜。
それなら文永の役の6年前の1268年5月29日に「朕、宋と日本とを
討たんと欲するのみ」なんて言うわけないじゃん。
世界中を征服してきたモンゴル帝国が日本にだけそんなに深い理由が
あって攻めてきたとは思えんがね。
>>577 だからモンゴル人はともかく中国人は首をひねる
元史に書いてあることと矛盾してるのになぜ「神風」に固執するんだと言ってな
>>580 樺太とか台湾とか何もないところにも攻めてるしな。
従わない奴がいたら、攻め込む。それが当時のモンゴル帝国。
「交易国家モンゴル帝国」が「なぜ日本に攻めてきたのか?」だろ。
予告見ただけで、「モンゴル帝国は交易が目的だったのに、使者を切ったり抵抗したりした日本が悪い」
って方向に誘導するのが見え見えじゃん・・・
>>583 その時歴史が動いたは酷かった。「蒙古襲来は日本が自ら招いた」とか言ってたし。
蒙古国書も前後関係無視して友好的に見えるような一文だけを抜き取って、クビライは
日本と同盟したかったが、日本が断って蒙古襲来を招いたみたいな誘導の仕方だった。
NHKが元寇についてダブルスタンダードなのは、日本と同じくモンゴル帝国と戦った三別抄とかは
「モンゴルの侵略に対する民衆の抵抗」とか言って英雄視すること。
モンゴル帝国が本当に交易を志向するだけなら、それに抵抗した三別抄をテロリストと位置づけないと
整合性とれないだろ。
>>584 モンゴル帝国が求めたのは、同盟じゃなくて服従なのにねw
>>585 うろ覚えだけど、日本と朝鮮半島2千年とかいう番組で
朝鮮の三別抄のことを語っていたアナウンサーが
急に涙ぐむ場面無かったっけ?
あれ見た時は、本当にNHKは気持ち悪いなと嫌悪感で一杯になった。
>>585 メディアは、外国の民族の英雄に対して、尊重する姿勢を見せてる。
外国を尊重する姿勢としてはダブルスタンダードではない。
589 :
名無し三等兵:2012/11/01(木) 16:41:03.75 ID:4OTEwVw4
>>573 >嘘を言ってはいけない。博多から西33.17kmは玄界灘の海の上だ。
第一に中国の史書の距離表現は倭人伝の昔から切りのいい数字で言う。
第二に彼らにとって意味があるのは直線距離でなくて路程距離だ。路程距離は一般に
直線距離の3割増しぐらいになるから、直線距離で22kmの野北浜(仮称)が路程距離
では30kmぐらいになるだろう。
情報をもたらした対馬人は路程距離を知っていたのだ。直線距離なんて測れないからね。
>また、長大な浜は九州沿岸に無数にあり、ここだけ無防備だったというわけではないのだ。
上陸適地はそんなにはない。野北浜は文永の役で上陸地となった今津浜とは、糸島半島の
裏と表の関係だ。間にもうひとつ半島先端の入り江があるが、ここは砂浜ではなさそうだ。
要するに防塁を設けた今津浜の、次にある上陸適地なのだ。
>さらに元軍が博多湾に進出した際に真っ先に上陸したのは(野北浜ではなく)志賀島だ。
作戦変更はどこにもある。それが正しかったかどうかは別としてね。
>そもそも、博多の町西60里から上陸したら、間隙をつくどころか日本軍との決戦を
>しなければ進撃もすることができない。そのようなものは間隙とはいわない。
私は「虚を突く」とは言ったが「間隙をつく」という言葉を使ってはいない。
敵がいないから「虚」だというだけのことだ。
それは別として、元軍にとって最大の関門は上陸だ。無防備の浜に上陸して態勢を整えた元軍にとって、
陸上で日本軍と会って決戦できるというなら、これ以上望ましい戦い方はないではないか。
志賀島のような隘路でなく平野で戦えるのだし。
また距離が遠いと言うが、大陸で戦ってきた彼らにとって、30kmの陸上移動距離は無きに等しいだろう。
志賀島じゃなくてこっちのほうがいい作戦だったと思うよ。
>>588 ただ、三別を蒙古の侵略に対する英雄と位置付けると、忠烈王は蒙古に屈した売国奴になっちゃうよ。
三別ていどの組織を民族の英雄扱いって、内政干渉もいい所じゃないかと思うけどね。
>>590 図書館とかで、韓国の教科書をみたらわかるけど、視点は民衆の抵抗史。
高麗王家を持ちあげるようなことは書いてなかったと思う。
日本のナショナリズムは「天皇バンザイ、日本バンザイ!」ってなるけど、
韓国だと「韓民族マンセー!」になるわけだ。
朝鮮王じたい、高麗の裏切り将軍だしね
北の将軍様まんせー
NHKは三別抄の救援要請に応えなかったって鎌倉幕府を非難してるけど、
そもそも大陸からの脅威に対抗するため朝鮮半島に軍事介入するって
明治政府の戦略と一緒じゃん。
もし鎌倉幕府がそれを選択したら本当にNHKは支持するの?
大和朝廷は百済の遺臣からの救援要請に応じて白村江で戦ったけど、
NHKは「民族共闘のため良くやった」とか評価してないじゃん。
結局何を選択しても日本を叩くんでしょ?
>>589 >直線距離の3割増しぐらいになるから、直線距離で22kmの野北浜(仮称)が路程距離
では30kmぐらいになるだろう。
情報をもたらした対馬人は路程距離を知っていたのだ。直線距離なんて測れないからね。
君の意見で考えが変わった。
君の言うように博多=大宰府とした場合の路程距離で日本軍の存在場所を確認すると糸島の
最北端辺りになる。
つまり、君のいうように路程距離を計算に入れだしたら、大宰府の北寄りの西60里でも良いという
ことになる。
で、この論理を大宰府政庁に適用すると政庁から博多が13kmだから、さらに西へ行くと丁度、今津あたりだ。
この辺りが大宰府政庁北寄り西60里ということになる。
この一帯に日本軍の守備軍がいたのは、防塁の遺構などから確実だ。
つまり、元軍は今津あたりの日本軍が居なくなったという情報を得たということ。
変わって、糸島には日本軍がいたという資料的根拠も形跡も無く、逆に今津あたりには
日本軍がいた形跡があり、それに加えて、日本の地理に詳しくないはずの元軍が
一番良く知っている日本の地理が、文永の役で今津辺りに上陸した元軍自信が身
にしみて理解しているだろう。
だからこそ、東路軍は当初の計画を無にしてまで、また、クビライに直訴してもまで
今津からの上陸にこだわったのだろう。糸島を見たことも、地理情報も何もない元軍が
糸島からの上陸に拘ったというのはあまりに非現実的だ。
元軍が日本の地理音痴だったのは、弘安の役の最中に日本の漁師から平戸島の情報を
得て、作戦自体を変えていることからわかるだろう。
以上のように西60里=今津浜のことだとすると、なぜ上陸作戦を中止したかの理由も判明する。
なぜかというと、今津あたりには石築地が建造されていたからだ。
文永の役とは勝手が違うことは元軍はすぐに察知しただろう。
逆に君のいうように博多=大宰府とした場合、糸島にいた日本軍が去った虚を突くはず
だった元軍が、糸島に日本軍がいないにもかかわらず上陸しなかった理由の説明がつかない。
以上、結論、やっぱり大宰府=大宰府政庁だったということだ。
>>594 しないな。今度は「高麗への内政干渉」と記すだろうな。
何をやっても鎌倉幕府を叩くだろう。
まったくご立派なこってす。
>>587 あの番組、嘘八百ばかりだったな。
ああいう番組を作るむなしさを今年は思い知っただろうよ
>>572 >結局、元軍が博多を大宰府と誤認してたことが何を意味するの?
この「パフォーマンス野郎」の持論はいわば「膺懲パフォーマンス説」とでも言うべきもので、文永の役(第1回元寇)
の目的は蒙古に服属しない日本に蒙古の力を見せつけ膺懲(懲らしめる)することにあり、その目的を十分果たした
と判断したから撤退した、というもの。
もちろんこれは数万の大軍を擁しながら防戦一方で上陸地点から目と鼻の先の大宰府にたどり着く事さえ出来ず、
わずか1日の戦いで継戦を断念して敗走したという客観的事実と合致しない。
それでもなおこの妄想説を成り立たせる為に「元軍は博多と大宰府を同一視していた」という珍説を持ち出すわけ。
それによって「元軍は大宰府に上陸し、そこを戦場とした」日没で日本軍が水城に撤収したため博多を占拠すること
が理論上可能だった事をもって「大宰府を占領する事も可能であった」と元軍が認識していたと主張したいから。
そうすれば「日本膺懲の目的は果たした」と元軍が判断したという妄想を合理化出来ると考えてるわけ。
つまり、そうでないと自己の妄想説が成り立たなくなるというだけの理由。
それだけの理由でこいつは執拗にこの珍説を持ち出してくる。
当然ながら博多と大宰府が同一視されていたなどという歴史的事実は一切無い。
文永の役は日本側の戦略的拠点・大宰府をめぐる戦いであり、この攻防において博多という「都市」に戦略上特に
意味は無いから元軍側の記録に博多の名が記されないのは別に異とするにあたらない。
そりゃあ元軍側としては大宰府の目と鼻の先に上陸してそこで「大宰府攻防戦」を戦ったんだから、あたかも大宰府
で戦ったかのような記述をしてもおかしくはないだろう。
「実は目と鼻の先の大宰府にたどり着く事さえ出来ませんでした」などとは書きたくもないだろうし。
もちろんこんな記録が「元軍が博多と大宰府を同一視していた」事を示す根拠になんかなるはずもない。
元軍は博多湾に到達しただけで、博多という都市には到達してないよ。
当時の日記や手紙、鎌倉時代の史書、承天寺や聖福寺、櫛田神社の記録でも
博多の町が元寇で被害を受けた記述なんて無い。
一応、事実関係を念のため。
そのとおり。
博多の街自体は被害を受けていない。
箱崎宮は燃えちゃったけど。
>>601 でも筥崎宮は単に火災の記録があるだけ。
原因は不明。
しかも文永の役前後の1265年と1280年にも火災を起こしてる。
ぶっちゃけ新築しようと思って、元軍に燃やされた事にして修築代たかったんじゃねえの?w
もう北西風の吹く季節でしょ。単に火災が発生した可能性もあるのでは
筥崎宮が燃えたのは元軍によるものだよ。
筥崎宮の目と鼻の先にある博多埠頭近くから元軍の碇石が発見されている。
恐らく、博多湾から一番目立っている筥崎宮を目指して少数の元軍が上陸して放火。
それに気付いた武士らが駆けつけて慌てて碇石を切断して逃げていったんだろうね。
現に筥崎宮のみしか放火されなかったことからも、早良郡から上陸した元軍本隊
によるのものではない。
>>605 まさにそのとおり。
筥崎宮付近には石城(博多の町)の非常用糧食や武器の貯蔵庫があった(今の千鳥橋付近)。
それを狙ったのかもしれないという説もある。
筥崎宮の神官たちと武士団は折り合いが悪かったのかな?
この辺だけ守りが手薄だったって話もあるね。
博多の商人町人の中には
貴重品を
>>606の言う倉庫に預けといて
燃やされちゃった人たちもいたそうだからね。
神官が「神のご加護で絶対大丈夫」みたいに言ってたのが全然駄目で。
当時は保険もないし。
ちなみに倉庫は千鳥橋ってよりも九大病院の辺りに並んでたみたい。
筥崎宮焼かれちゃった博多の町人たちが
激怒したってのもその辺が理由のひとつなのかもね。
筥崎宮の祭神って、神功皇后と応神天皇だろ。
博多商人たちは信仰してたのかな?
どっちかっていうと、焼かれたら武士の方が怒りそう。
沖から目立つなんて自分たちで自覚があるでしょ
しかも糧食を預かっていたのにむざむざ無防備で焼かせると言うのはおかしいね。
箱崎宮のほうが武士の立ち入りをいやがって警備を断ったのかしら。
>>605 博多湾みたいに有史以来ずっと日本の玄関だった湾内から碇石が発見されて
何で元軍の物って特定できるん?
611 :
名無し三等兵:2012/11/02(金) 13:43:59.87 ID:q5jk3DrZ
>>595 >>596 >この論理を大宰府政庁に適用すると政庁から博多が13kmだから、さらに西へ行くと丁度、今津あたりだ
半道北行、半道西行を「西」というのは魏志倭人伝の世界だが、距離的には中折れの直線距離で測って
約28km、3割増しで約39kmで、まあ許容範囲だろう。
>元軍は今津あたりの日本軍が居なくなったという情報を得たということ。
防塁は築造から守備まで一貫して担当が決まっている。この時期に守備担当を放棄することは
あり得ない。
>東路軍は当初の計画を無にしてまで、また、クビライに直訴してもまで 今津からの上陸にこだわった
文永の役の実績がある今津なら当初の計画の範囲内で、フビライに直訴する必要は無かろう。
>なぜ上陸作戦を中止したかの理由も判明する。今津あたりには石築地が建造されていたからだ。
石築地の情報は元軍も得ていたと思う。商人が海から眺めればわかることだ。
それと、防塁は守備兵がいてこそ威力を発揮する。守備兵がいない防塁は上陸軍にとっては
プレゼントだ。なぜなら占拠した防塁は格好の「橋頭堡」に変わるから。
元軍は喜んで上陸しただろうね。
>糸島に日本軍がいないにもかかわらず上陸しなかった理由の説明がつかない。
防塁をはずれた上陸地として、糸島案と志賀島案の二つがあって、なんらかの理由で後者を選んだと
言うことだろう。その理由はわからない。糸島に行ってみたら新たな守備兵がいたのかも知れない。
志賀島案は当面の目的地である博多が目視できるという安心感があるだろう。実際は大迂回する
から距離的には糸島とあまり変わらないけどね。
612 :
名無し三等兵:2012/11/02(金) 13:45:27.89 ID:q5jk3DrZ
ところで私の方でも意見が変わった。
「野北浜」を上陸地として考えたが、グーグルアースで見ると波が荒い。同じ糸島半島でも反対側の
今津のほうがずっと波静かだ。これも上陸軍にとっては一つの要因なのではなかろうか。
野北浜からすこし南に行くと、もう唐津湾になって、こちらは波が静かだ。野北浜のような大きな
浜はないが、小さな浜が点点とある。博多からの距離は野北浜と同じぐらいだ。
元軍が考えた上陸候補地はここだったとしてもよい。いずれにしても守備軍は糸島半島西側を担当して
機動的に配置されたのだろう。
ここを守る目的は明らかだ。ここに上陸されればそれは今津浜防塁の背面、したがって防衛線の内側
に入られたことになるからだ。
613 :
名無し三等兵:2012/11/02(金) 13:47:10.91 ID:q5jk3DrZ
ところで、対馬人情報による作戦変更の元史記事を論じたのは我々が最初ではない。
「軍事史学」通巻152号で、太田弘毅という人が論じている。
太田氏によれば、以前に配置されていて現在は移動して去った守備軍とは「大宰府防衛軍」であり、
その位置は大宰府の西約33km、室見川上流にあたると言う。室見川上流地域なら大宰府政庁から
直線で17kmぐらいしかないから「六十里」に反するが、それは別としてもこんなところに日本軍が
駐屯していたのだろうか? 城があったとも聞かないし。
太田氏によれば、元軍はこの日本軍の移動によって生じた守備の「空白」を利用して一気に大宰府を
攻略する計画を立て、そのために防塁の内側に入り込む手段として志賀島を攻撃したのだと言う。
東の志賀島を攻略してそこから防塁の内側に入り込み、大宰府西33kmの「空白」を利用して大宰府を
攻めると言う。右往左往でなんのことかさっぱりわからない。
太田氏も、中国人などの概念では博多=大宰府であるということを知っていたら、もうすこし違った
見方になったのでないだろうか。
博多=大宰府という事実を知ることによって、元寇を見る視点が一挙に広がるのである。
>>611 >志賀島案は当面の目的地である博多が目視できるという安心感があるだろう。
博多の街は当時「石城」だろ。
「石城」が元軍の目的地だったというソースは?
筑前五か浦のひとつでもある今津は天然の良港でもあり
当時も大陸人たちの街があって大陸人の学者や医者もいた。
すぐに掃討されてはいるが元寇の時も一部の部隊はここに上陸している。
大陸との混血がすすんでいるためかどうかわからぬが一般に今津の人たちは気性が相当荒いとも言われる。
貝原益軒もそれを記している。自分は浜風の吹き荒れる今津浜の元寇防塁跡で
立ちションをしようとしたらいきなり風向きが変わって自分の頭からそれをかぶった経験がある。
風が強く風向きが不安定な糸島半島沿岸は航海の難所、乗り切るには熟練の技を必要とする。
>>611 >防塁は築造から守備まで一貫して担当が決まっている。この時期に守備担当を放棄することは
あり得ない。
担当が決まっている=常にそこにいるではない。現に志賀島での戦闘や鷹島での戦闘などで
御家人がたちが兵を動かしているのだから、そんなものは証拠にならない。
また、元軍が対馬におり、対馬から博多湾が文永の役でわかるように数日も要する日程であること
がわかる。数日も掛かる距離に敵がいるにもかかわらず、10日近くも防塁に張り付いて
いるわけがないだろう。
>文永の役の実績がある今津なら当初の計画の範囲内で、フビライに直訴する必要は無かろう。
根本的に認識が間違ってるな。今津の日本軍が去ったことを受けて上陸する自信が沸いた東路軍に
湧いたから、「当初の計画を無にする」という行為を行うことの許可をえるためにクビライに直訴したのだ。
「東路軍単独で今津から上陸する」のは当初の計画ではない。
>石築地の情報は元軍も得ていたと思う。商人が海から眺めればわかることだ。
聞くのと実際に見ることの違いをまず考えた方がいい。
また、元軍がどれだけ石築地に知識を持っていたかも疑問だ。
日本の漁師が元に流れ着いた際に得た平戸島の情報で当初の計画を変更した。
たった一人の漁師の情報で十数万の行動を変えてしまうほど、元軍は日本の情報に
疎い軍隊だったのだ。
>防塁をはずれた上陸地として、糸島案と志賀島案の二つがあって、なんらかの理由で後者を選んだと
言うことだろう。その理由はわからない。糸島に行ってみたら新たな守備兵がいたのかも知れない。
志賀島案は当面の目的地である博多が目視できるという安心感があるだろう。実際は大迂回する
から距離的には糸島とあまり変わらないけどね。
呆れてあいた口が閉まらない。まず、君の論理はこうだ。
糸島に日本軍がいたという根拠がないがいたのだろう(脳内変換)→糸島に上陸しなかったのは
たぶん、糸島案と志賀島案の二つがあったのだろう(脳内変換)→糸島に行ってみたら新たな守備兵がいたのかも知れないから
やめたのだろう(脳内変換)
仮定を基に仮定を重ねていくのは、馬鹿のやることだ。全く説得力がない。
実際は太宰府政庁の西60里の地点は今津であり、ここの日本軍がなんらかの理由により
移動したという情報を得た。実際に元軍は文永の役でこのあたりの地形に詳しい。
しかし、博多湾に進入してみると、石築地が情報を得ていたよりずっと、堅固であり、
また、元軍の博多湾侵入を受けて移動していた日本軍が今津防塁に戻ってきて守備を
担当していたのだろう。
博多=太宰府(仮定)太宰府西60里は糸島(仮定)糸島に日本軍がいた(仮定)
糸島と志賀島の上陸案の二つあった(仮定)なぜだか、糸島には上陸しなかった(仮定)
こんなのは議論にすらならない。
結論、やっぱり太宰府西60里の「太宰府」とは太宰府政庁だった。
訂正
今津の日本軍が去ったことを受けて上陸する自信が沸いた東路軍に
湧いたから、
↓
今津の日本軍が去ったことを受けて上陸する自信が沸いた東路軍は
筥崎宮は、昔はすぐ海の間際だったらしいから、
上陸戦では、真っ先に攻撃を受けそうだ。
元軍は文永の役でも弘安の役でも日本軍が布陣してる地点への上陸は避けてる。
筥崎に上陸を強行したとは考えられない。
そもそも中途半端に筥崎だけ焼くなんて器用な真似出来るもんかね
博多の街は焼かれたって記録無いのに
つまり筥崎って自分から警固を断っといて、どっかの付け火に焼かれて慌てて武士が駆けつけたと言うこと?
どこが神威なんだw
筥崎宮は昔から大宰府と対立して武士団に焼かれたり
博多の商人たちや寺と対立したりして、唯我独尊的なところはある。
海外貿易で自らも巨万の利益を上げていたし、いろんな利権が絡んでたんだろうな。
武士団がモンゴル軍を撃退した後に、亀山上皇の「敵国降伏」の書の効き目のおかげだとか
自分たちが必死に神に祈ったから撃退できたのだとか主張して
あれは断じて野蛮な武士団などのおかげなどではない、と武士団の働きを強く否定したのも筥崎宮。
筥崎宮は清和源氏の氏神でもあるんだけどな
625 :
名無し三等兵:2012/11/03(土) 09:53:15.61 ID:DEc7d+t2
>>617 >実際は太宰府政庁の西60里の地点は今津であり、ここの日本軍がなんらかの理由により
>移動したという情報を得た。実際に元軍は文永の役でこのあたりの地形に詳しい。
>しかし、博多湾に進入してみると、石築地が情報を得ていたよりずっと、堅固であり、
>また、元軍の博多湾侵入を受けて移動していた日本軍が今津防塁に戻ってきて守備を
>担当していたのだろう。
呆れてあいた口が閉まらない。まず、君の論理はこうだ。
大宰府政庁から北行+西行を西とは強引だがそれでいいことにしよう(脳内変換)→
そのルートだと今津は遠すぎるがそれでいいことにしよう(脳内変換)→今津の守備軍が
移動したという根拠がないが移動したのだろう(脳内変換)→今津に上陸しなかったのは
防塁があったからだ(脳内変換)→(無人の防塁は上陸軍の橋頭堡になることを指摘されて)
しまった、日本軍がいたことにしよう・・上陸しなかったのは移動した日本軍が戻って来た
からだ(脳内変換)
仮定を基に仮定を重ねていくのは、馬鹿のやることだ。全く説得力がない。
大宰府政庁西60里は今津(仮定)今津の日本軍が移動した(仮定)その日本軍が戻って
来た(仮定)
仮定を重ねなければならないのは中国人などが博多を大宰府と呼んでいたという、文献に
現れた「事実」を認めないからだ。
結論、やっぱり博多=大宰府だった。
626 :
名無し三等兵:2012/11/03(土) 09:56:57.03 ID:DEc7d+t2
>>616 >担当が決まっている=常にそこにいるではない。現に志賀島での戦闘や鷹島での戦闘などで
>御家人がたちが兵を動かしているのだから、そんなものは証拠にならない。
志賀島の戦闘はまだ始まっていない。この段階で防塁の守備兵を動かす必要はない。また
動かしたとしても少なくとも見張り役や伝令は残る。レーダーも偵察機もない時代のこと、防塁は
見張り台を兼ねているのだ。
>数日も掛かる距離に敵がいるにもかかわらず、10日近くも防塁に張り付いているわけがないだろう。
すでに対馬陥落の情報は伝わっている。日本軍は臨戦態勢にはいっている。そのなかでの10日間など
問題ではない。逆に「張り付いているわけがない」と考える頭が理解できない。
>「当初の計画を無にする」という行為を行うことの許可をえるためにクビライに直訴したのだ
「東路軍の単独侵攻を直訴した」というのもまた一つの説に過ぎない。元史にはそんなことは
書いてない。元史によれば現地軍がフビライに承認を求めたのはあくまで上陸地の選択だけだ。
>日本の漁師が元に流れ着いた際に得た平戸島の情報で当初の計画を変更した。 たった一人の
>漁師の情報で十数万の行動を変えてしまうほど、元軍は日本の情報に疎い軍隊だったのだ。
また印象操作してるな。日本にはじめてやって来る江南軍と、すでに文永の役を戦った経験の
ある将兵がいる東路軍をいっしょくたにしてはいけない。
この人の文章は長いだけで結局何の意味も無いんだよね。
文永の役でも弘安の役でも元軍は手も足も出ないままボロ負けしたって事実に全く影響しないでしょ。
まあ、彼の長文のうち9割が妄想だから読まなくていいよ。
てか八幡蒙古記書いたのは箱崎八幡宮じゃなくて清水八幡宮の神官じゃなかった?
>>625 >→(無人の防塁は上陸軍の橋頭堡になることを指摘されて)しまった、日本軍がいたことにしよう
石築地の各守護ごとに区分けして担当は決まっていたと君も言っているように
(無人の防塁は上陸軍の橋頭堡になることを指摘されて)から日本軍がいたとしているのではない。
博多湾に元軍が現れているにもかかわらず、担当区を日本軍が放棄しているわけがないのだ。
決して君の言う(無人の防塁は上陸軍の橋頭堡になることを指摘されて)だからなのではない。
そもそも、東路軍が博多湾に侵入して無人の防塁などありうるわけがないのだ。
これは、常識の問題であって(無人の防塁は上陸軍の橋頭堡になることを指摘されて)など
微塵も考慮に入れなくても、博多湾侵入時に今津防塁に日本軍がいたのは想定できる。
そんなことは知らない元軍は日本軍が移動したのを、日本軍の作戦変更と受け取り、
日本軍の虚を突こうとしたといったところだろう。
>志賀島の戦闘はまだ始まっていない。この段階で防塁の守備兵を動かす必要はない。また
動かしたとしても少なくとも見張り役や伝令は残る。レーダーも偵察機もない時代のこと、防塁は
見張り台を兼ねているのだ。
> すでに対馬陥落の情報は伝わっている。日本軍は臨戦態勢にはいっている。そのなかでの10日間など
問題ではない。逆に「張り付いているわけがない」と考える頭が理解できない。
まず、見張り役や伝令が残る=軍が動いていないではない。
さらに言えば、対馬が陥落した報せなど届いていない。
元軍が対馬に現れたのが5月21日だ。それから博多湾の日本軍に元軍対馬襲来の
報せを届けるのは、なお数日を要する。
また、捕らえられた対馬島人は、今津防塁の日本軍が移動したという情報を持って博多湾を
たったのは5月初旬のことと思われる。つまり、元軍が博多湾に現れるまでの1ヶ月前に
今津防塁の日本軍が移動したということにすぎないのだ。
こう考えてもらえれば、「(1ヶ月近くも)張り付いているわけがない」というのも
理解してもらえるだろう。
それに比べて、糸島に日本軍がいたという文書などは一切なく、形跡もない。
つまり、太宰府=博多とすると、西60里に日本軍がいないにも関わらず、元軍は日本軍が移動した
という情報をつかんだことになる。これはおかしい。
そして、太宰府とは政庁のことだとすると、西60里の今津の地点には日本軍がいた。
よって、元軍のいう太宰府西60里の太宰府とは太宰府政庁であるということがわかるのだ。
まず、博多=太宰府とした場合、糸島にどの守護が守備についたか、これを証明する書状なり
なんなりが無い限り、空論にしかすぎない。
>「東路軍の単独侵攻を直訴した」というのもまた一つの説に過ぎない。元史にはそんなことは
書いてない。元史によれば現地軍がフビライに承認を求めたのはあくまで上陸地の選択だけだ。
馬鹿なことを言ってはいけない。たかが、上陸地の選定で皇帝直々に直訴するなど有り得るわけがないだろう。
やはり、直訴したのは大局的な戦略変更を行うことに対してクビライに承認を得ることだ。
当初の計画では東路軍は江南軍と合流して太宰府目指して進撃することになっていたからな。
>また印象操作してるな。日本にはじめてやって来る江南軍と、すでに文永の役を戦った経験の
ある将兵がいる東路軍をいっしょくたにしてはいけない。
ほう、可笑しなことを言うな。「文永の役を戦った経験のある将兵がいる東路軍」であるならば、
文永の役で今津付近から上陸しており、この辺りの情報に詳しい東路軍が、今津防塁からの上陸に
拘ったというをなぜ認めないのか謎だ。裏を返して君の論理で言えば、糸島など上陸したことも無い場所ならば
江南軍も東路軍もたった一人の漁師で戦略の大局を変えるほど、日本の情報に疎い軍隊だったということだ。
>>629 それは蒙古記を参考に書かれた八幡愚童訓
八幡蒙古記そのものは箱崎関係者作と思われる
>>627 意味があろうがなかろうが関係なく自己流解釈を押しつけたいだけで
だから元が強いとか弱いとかそういうのは気にしてないんじゃね
nhk見てるけどいきなり武士がリンチされてる場面でワロタ
武士が追い回される番組?
>>635 今んとこ船とかの話してる
相変わらず日本は外交情勢に疎かった扱いw
理系の力借りられる部分はいいんだが、そこから先は
相変わらず絵詞の加筆されたとこを最重要扱いしとるなー
てつはう当時最強殺傷兵器説
実況は止めとけ
総括まだー
てつはうはちょっとあれだったなマネキン無傷だったし音も大した事なかった
火薬の量はあれでよかったのか?
見逃しちゃったから、見た人はどういう内容だったか教えて欲しいな。
>>554 >姪浜も河口にあるが
>ここも南西から北東に横切る名柄川の南岸に広がった街。
>河口の北西岸はやはり断崖で城跡が今も残っている。
丸隈山だな
この山は標高40メートルくらいしかないのに
頂上からは博多湾全体が本当に綺麗に見渡せる
天然の見張り塔、天然の城砦といった感じだ
元寇の時も見張りに使われてたんだろう
この山の麓から西側に伸びる元寇防塁跡がある
645 :
名無し三等兵:2012/11/04(日) 09:22:46.72 ID:eufmd6iC
>>638 「蒙古襲来絵詞を読む」大蔵隆二
という本を読むと、加筆させたのは竹崎本人だそうだ。
加筆と言われる二人の蒙古兵の顔や輪郭の描き方が、別の絵のそれと一致する。
もともと二人の絵描きが描いていて、あの場面を描いたのとは別の方の絵描きが加筆した。
竹崎にしてみれば、逃げていく蒙古兵ばかりでは物足りなかったのだろう。
>>642 てつはうが有効な武器なら戦国時代の鉄砲のように日本人は模造していると思う。
結局、4kgもあるし戦場で持ち運びするのも大変な上に、遠くには飛ばせないし
威力もあんな物ってことじゃないかな。
なんで博多上陸に全力を傾けたのかわからん
どこ上陸してもいいじゃん、補給線が短い博多が一番欲しかったのか?
648 :
名無し三等兵:2012/11/04(日) 13:35:56.14 ID:eufmd6iC
>>631 その後また考えた。移動した日本軍とは、わざわざ貼り付けられた軍ではなく、土着の松浦党
の一派だったのではないか。糸島半島は松浦党の領域の東端だ。
また糸島の郷土史によれば半島の東の今津湾と西の加布里湾とは天然の良港で、古来交通の
要衝だったという。対馬の島人が交易のために出入りしていたとしてもおかしくない。
「守軍がすでに出戦」したというのは、加布里湾地域の港町にいた土着の松浦党が、石築地
防衛や海戦の準備のために動員されたことを言ったのではないか。
守軍というには遠い小勢の話だが、聞かれた対島人にとってそんなことはどうでもいいことだ。
彼は元軍から「この場所には日本兵がいるか」と聞かれて、「この前までいた武士たちがいなく
なりました」と答えただけなのだろう。
元軍にしても一介の島人の情報を全面的に信頼したわけではなく、上陸地をやっかいな防塁線を
迂回して設定することへの口実があればそれでよかったのだ。
このように考えればつじつまが合う。もちろん「仮定」の話だが、しょせん元史の文字以外は
すべて仮定だ。どれがほんとらしいかだけだ。
>>646 そもそもアレどうやって投げてたんかな?
手で投げるにはちとデカいし重いだろ。
多分紐にくくりつけて室伏するか投石機使ってたんだろうけど。
番組では投石器での使い方以外はわからんって言ってたな
簡易版でももってったんだろうか
>>647 どこに上陸しても大宰府を落とす必要がある
ならば船で近くまで行ったほうが補給するのが楽
わけのわからないところに上陸したら、どう太宰府に向かっていいのかさえわからんがな。
>>646 弘安の最後に実物(未使用)を大量鹵獲したはずだしね
実物より火薬の製法が手に入ったかが問題じゃね
馬がびっくりする程度だったんだろうw
しかしNHKの番組、ひっどい出来だったなw
文永の元軍の主力は高麗軍、てつはうは殺傷力甚大な大量破壊兵器、
博多の町は焼き払われた、南宋兵は奴隷船に乗せられたいくら死んでもかまわない鉄砲玉、
そもそも元寇を招いたのは交易の要求をはねつけた日本のせい、
挙句の果てにベトナムのおかげで日本は救われただとw
もともと期待してなかったけどここまでお粗末とは思わなかったわw
ベトナムに派遣した元軍船ってたった500艘でしょ?
明らか救われたのは日本が4400艘を壊滅させたおかげで、500艘しか派遣されなかった
ベトナム側だと思うんだけど…
そういや俺が朝鮮嫌い韓国嫌いになったきっかけは
半島の歴史でも勉強しようかと在日の歴史学者の本を読んだのがきっかけだった。
なかでも「高麗が日本のためにわざと粗悪な船を作ったから日本は元軍に勝てたのだ。
この恩義を日本人たちは子々孫々まで忘れてはならない云々」と書いてあったのには呆れた。
謙遜して番組を作れば国際的だとか思ったら大間違いだよ。
特に棄民説は「中国が10万人も海に放り出したといわんばかりの説はひどすぎる」
とか、怒ってた人がいたよ。不自然な話を作ると逆に相手を傷つけることになるよ。
韓国朝鮮は知らんが、中国人は武士の抵抗で遠征が失敗したという記述には誰も文句をつけない。断言できる。
どうせ仮説を立てるなら、なぜ鎌倉幕府の対元諜報や対南宋外交に触れないのかだな
モンケ時代から異国警備を強化してる以上、鎌倉幕府は国際情勢の中で対蒙古強硬外交を選択してるんだが
まあ遺物とあまり関係ないしな、その辺は
なんで専門家じゃなくて半藤が呼ばれてたのかよくわからんが
半藤の元寇の知識の無さには唖然としたな。
東路軍のことを高麗軍といったり、北条時宗を外交オンチみたいに
批判しだしたり。
なぜ、呼ばれたのか本当に謎だった。
鎌倉の諜報能力や南宋外交はもっと評価されるべき。
宋人商人がおり大陸からの情報がいち早く入る博多は、それらの活動の重要拠点でもあった。
その辺は、文献的にちゃんと分かってるの?
鎌倉がやってたか分からんもの
高麗史だと大宰府からの使者だから
>>649 案外逃げる時に火を付けて地面に置いておいて追いかけて来られないようにしてるだけだったりして
>>666 しかし、それなら戦いながら腰かどこかに4kgもある球状のてつはうを
つけながら戦っていたことになる。
4kgと言ったら、ダンベルを腰につけて走ったり格闘したり
するようなもんだし、相当体力も消耗されるでしょ。
それに逃げる時に点火してる暇なんてあるのかが疑問。
点火してる間に武士にやられる。
NHKは文永の役を無視して「モンゴルは交易を求めただけなのに北条時宗は使者を斬ってしまう」
とかありえない事ほざいてたからな。
現実に文永の役で攻めてきておきながら「交易を求めただけ」なんて言いぐさは通用しないし、
北条時宗だってモンゴルが攻めてきたから使者を斬ったんだろーが。
こんな滅茶苦茶な印象操作は許せない。
>>667 というか爆発時間にちょうど敵が来るとも限らんし
コストの割に無駄すぎるw
>>668 そのあたりはほんと、何が何でも日本を悪者にしたいという
気持ち悪い執念が伝わってくるよなw
相変わらずセンシティブハートなお前ら
てつはうは相手をかく乱する兵器だったと見るべきだな
音に敏感な馬に対して用いたのか、人をびっくりさせるために用いたのか知らないが
だから慣れると武士も気にしなくなったのだろう
フル装備ならともかく
顔面とか馬にあたると痛そうだ
大量に投入したらだが
てつはうのジレンマは殺傷力を高めると使用者の安全確保が困難になること。
NHKは実験で50メートル以上も破片が飛んだとか言ってたけど、そうなると確実に50メートル以上
飛ばせない限り恐くて使えない。
基本的に攻城戦専用の兵器だと思うぞ。
そうは言うがな大佐
投石器使って爆発して敵に損害与えられる時間はおそらく空中で1秒程度
地面に着弾したらくだけちゃう
それなら石ころ投げた方が確実なような、あるいは火薬積めない空の素焼きのツボとか
やはり、対戦初っ端の、音響や心理的効果を狙った兵器なのでは?鏑矢みたいなもので
蒙古軍と対戦した敵兵はプロの弓馬の兵は少ないから、その程度でもビビったんだろう
礫打ちのほうがはるかに殺傷力高いし、その程度しか思いつかない
>>674 逆に攻城兵器としてはよくできてる
城壁内部に炸裂弾を放り込むんだから
初期の大砲で石弾だの打ち込まれるよりはよっぽど実戦的だったんじゃないか?
弘安の役での江南軍は棄民船団だったという説があるようなのですがどういうことでしょうか?
(杉山正明という人の説?)
>>677 日本の場合は城壁都市がなかったから
必然的に野戦で勝負したのがよかった面もあったかも
>>678 南宋軍の精鋭が降伏したのを吸収した軍隊
(勝利してから駐留軍に自給自足させるため農機具も用意したようだけど)
だいたい兵員を消耗させたけきゃ陸続きの侵攻先で十分
わざわざ船を作らせてモンゴルの税収減らす意味がない
>>678 結果から見て言ってるだけ
一般的なサイクル
征服→征服先の兵士を使って次を征服
>>678 基地外の学説と言うことで国内的にも国際的にも一致してるから忘れなさい
>>678 ガチで攻めてきたのなら世界最強モンゴルが鎌倉武士ごときに
負けるはずがないという思い込みというか願望を満たす解決策
>>676 この前のNHKによると珍しい未使用のてつはうが発見され中に鉄片仕込んだりと殺傷目的の兵器だった
という話だったが
金やモンゴルの大陸の使用例を見ると投石機で城に投げ込むとか城壁から攻め手に対して投下するとか
だから馬はあんまり関係ないと思う
>>680-683 回答ありがとうございます
モンゴル帝国の興亡?だかのレビューで「棄民船団という斬新で興味深い説」的な感想があったので、あれ?と思い質問しました。
以前、(多分)この人の遊牧民の世界史?を読んだ時に
いささか遊牧民、というかモンゴル礼賛が過ぎるきらいはあるものの、
歴史を研究する上で史料をとことん追求吟味することの重要さや、
日本の歴史観が西欧的価値観で歪められていることを何度も熱く主張していたので
元寇に関して、従来の左巻き教科書や戦前の国粋主義とも違う、
きちんと史料に基づいた研究がなされた上での主張なのかと思っていたのですが…う〜ん…
まあレビューだけで判断するのもあれなんで一応距離をとりつつ読んでみようと思います。
それにしても歴史研究って難しいですね、情熱がないと研究出来ないし情熱がありすぎると公平な判断から遠ざかるし
>>685 もし棄民目的だとしたら、なぜ事後に処罰がなされているのか説明がつかないよ。
杉山説は仮説…それも中国人にすら批判されてる仮説…なので、信用しないほうがいい
687 :
名無し三等兵:2012/11/07(水) 09:05:05.98 ID:HfE5PO1V
>>686 ハン文虎などの将官たちは士卒を見捨てて勝手に帰国した罪を問われたのだが、
棄民なら棄てても罪にならないだろうという論理かな?
弘安の役でモンゴル軍が大敗する様子を記した『元韃攻日本敗北歌』は、鉄の箱に納められて井戸の底に
隠してあったのが明末に発見された。
つまり、元朝時代は弘安の役について厳しい情報統制が行われていたということ。
選りすぐった14万人もの精鋭部隊が寸土も獲得できないまま壊滅したという事実が、モンゴル帝国にとって
どれだけ大きな衝撃だったかわかるな。
あれを見る限り倭寇以前にウチの海族が大陸沿岸に押しかけていろいろご迷惑をやってたように思える。
>>686 いや、棄民だったとしても、法的には命令通りに処理ができなかったら処罰もんだろ。
たとえば刑務所で火事が起きて、死刑囚監房はどうせ死ぬ連中だしって救助にいかなかったら
そりゃ大問題だろ。
他国で類似の例を探してみるとして、オーストラリアへの流刑船が船員の不注意で沈没した場合とか
船長以下幹部船員が責任を問われなかったとはさすがに考えにくいぞ。
691 :
名無し三等兵:2012/11/07(水) 17:56:16.77 ID:us/xSn3Y
>>686 >>690 杉山はまともに棄民だったと言っているわけではない。まず、武器を持たなかったから移民だったと言って、
それが結果的には棄民になったと言ってるのだ。だから棄民というのは比喩的な用語。
比較されるのは死刑囚や流刑囚ではなくて、例えば満州開拓団。
立て前も実質も移民だった。それがソ連軍進攻のとき関東軍からも日本政府からも見捨てられ、結果的には
棄民になった、というのとたいして変わらない。
この場合は関東軍の上層部が、開拓団を守らずに自分たちだけ逃げた罪を問われてもいいわけだ。
それがハン文虎らに当たる。
本来なら棄民説みたいな通常ありえない説を唱える側が、それを証明する史料なりを提示するべき
なんだけどね。
威力偵察説とか棄民説とか裏付ける史料が皆無で、ただ杉山がそう言ってるってだけ。
学説としての最低限の体裁すら整ってない。
南宋征服したばかりの不安定な時期に、モンゴルに率先して協力する南宋兵を10万人も捨てちゃったら、
国内には反抗的な奴らだけが残って統治が困難になるだけじゃん。
>>691 そもそも江南軍が武器を持たなかったから移民だという点が文献にも鷹島沖の発掘結果にも反してるだろ。
普通なら、何を根拠に武装してなかったとか言ってるんだって問われるべきだろ。
史料では江南軍はあきらかに武装した戦闘部隊なわけで。
694 :
名無し三等兵:2012/11/07(水) 18:21:46.99 ID:us/xSn3Y
>>6793 >そもそも江南軍が武器を持たなかったから移民だという点が文献にも鷹島沖の発掘結果にも反してるだろ。
それに対しては別に反対していないよ。
杉山は「どう調べても武器を持っていたとは思えない」みたいなことを言っているが、どこをどのように
調べたのかは書いてない。
ただ、「棄民」という言葉にこだわり過ぎて死刑囚や流刑囚の話にまでなってるから、それはちょっと違う
んでないかい? と言いたかったのだ。
>>688 いや元韃攻日本敗北歌を書いたは元に反発していた鄭思肖で
元韃攻日本敗北歌は宋の時代はよかったな〜という心史の一部だからそりゃ弘安の役についての情報統制とか
関係なく元の時代は大っぴらにはできないって
元韃攻日本敗北歌は鄭思肖が日本遠征についての伝え聞きから書いたものだから逆にこのぐらいの内容は
一般に知られていたってことかと
696 :
名無し三等兵:2012/11/07(水) 21:52:58.11 ID:us/xSn3Y
私は
>>474で箱崎(または沖の浜)の本陣における竹崎末長と少弐景資の問答を書いた。
竹崎「私は5騎しか持っていないから一同で戦ってもたいした手柄は立てられません、 これから
先駆けをしたいと思うので許可して下さい」
少弐「おおそうか、それじゃやってくれ、俺が生き残ったら報告してやるぞ」
最近、「蒙古襲来絵詞を読む」大倉修二 という本を読んだら、とてもこんなものではないこと
がわかった。以下に、その本の現代語訳を参考にしながら二人の問答を書いてみる。
太田左衛門(景資の家来)「(大将の御前ですぞ)馬からお降り下さい」
竹崎(馬から降りず)「先駆けをするために出発するところです。裁判に負けた身であります
から若党が揃わず僅かに五騎です。この兵力で敵を追い落として見参に入れる力はありません。
先駆けをして見参に入れるより他はありません。先駆けしたことを君の見参にお入れ下さい。」
少弐「景資も生き延びるつもりはないが、もし生き延びたら見参に入れて差し上げましょう」
竹崎「恐れ入りますが馬に乗ったままで申し上げました」
少弐「どうぞそのままお通り下さい」
大将の少弐景資も敬語を使っているのは、原文でも双方の敬語のレベルが同じだからである。
この時代の武士の相互尊敬は徹底している。大将と貧乏御家人も立場の違いでしかない。
さて、竹崎は大将の少弐の前でも馬から降りなかった。これは大将を軽く見ているというよりも
これから先駆けする勢いを示すためであろう。
また竹崎は決して先駆けの許可を求めていない。ただ功名の申告を要請しているだけである。
先駆けはすでに前提になっている。すなわち事後承認である。
これに対して少弐は抜け駆けを咎めないばかりか、一も二もなく功名の申告を引き受けている。
「日本軍の統制」の実態がよく表れている。
今更だけど江南軍10万は軍船ごと海の藻屑になったわけじゃないんだな
鷹島の戦いはかなりの激戦だったみたいだけど大っぴらに語られることはないね
海の藻屑になったことにしておいたほうがよかったということなんだろうな。。。
>>696 おっさん、それを高度な裁量を持つ有機的連携と言うんだぜ。
現代米軍がやってるようなことを実施できた日本軍の華麗なチームプレーに感嘆しろよ。
銅鑼と鉦でいちいち指図しないと進退もできないようなボンクラを「集団戦法」と勘違いするヴァカ
どっちの見方も正しいと思うけどねぇ
戦陣の将は下馬しなくても許されるんだっけ
蒙古襲来絵詞見てみると、少人数の武士相手に蒙古兵はすぐに逃げ出す
ヘタレの集団であることがわかるから、銅鑼と鉦で一々逃げださないように
騒ぎ立てないといけない集団だったんだね。
>>702 事実だよ。日本軍はワールシュタットみたいなみっともない戦線崩壊をまったく起こしてない
幕府は異賊相手に軍律を乱すなと厳命している。軍規違反は戦功として認められない。
現実に実践においてモンゴル軍は鎌倉武士に手も足も出なかったわけで、
「日本の統制」=「当時世界最高レベルの統制」だからな。
日本はお家単位の自己裁量での動きを織り込み済み
指揮権の一本化みたいなことは最初から期待していない
高度というより現実的な対応
統制よりも士気の高さが売り
ただ、参加諸侯が独自裁量で動いて、しかも戦線を崩壊させないというのはかなり高度な組織性だよ。
普通は疑心暗鬼になっちゃうからね。
ローマ軍よりゲルマン諸族が最後には勝ったようなもんか
クレーシー・ポワティエあたりでイングランドが負けてフランスが勝ったようなもん
日本側の場合組織性てか元々の士気が高いから士気崩壊に陥り難いだけでしょ
ところで元寇で日本側の戦線崩壊の危険があった場面ってどこさ?
うえのほうでてつはう議論があったが
戦国日本の日本は類似品を海戦用の兵器としてつかっている
重いけどハンマー投げの要領で投げる
陸上兵器としては威嚇用にしかならんわな
711 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 10:02:05.25 ID:lleQZutJ
上の方で、自由合戦を禁じる幕府の指示があったから先駆けは無かった、と言った人がいたが、
竹崎の記録によれば少弐経資は竹崎の先駆けを咎めなかった。
幕府の禁止令との関係はどうなっているのか。これについては竹崎の鎌倉直訴のくだりが答えを
与えている。
吟味役に対する竹崎の答弁によれば、竹崎がじぶんの軍功(先駆け)の上申を少弐に催促したところ、
少弐は「先駆けのことは鎌倉に事情を説明して、鎌倉からの指示に従って追って沙汰する」と答えた。
これが竹崎の鎌倉直訴につながった。
つまり、少弐は戦陣の現場では竹崎の意気に感じて、あるいは竹崎の勢いに押されて、その独断先駆けを
咎めなかったが、それが幕府の禁止令で禁じられていることは知っていたから、戦後の上申には載せ
なかった。だから竹崎の催促に対しては「官僚答弁」したのである。
先駆け禁止令が立て前に過ぎなかったことがわかる。
少弐氏が博多の陣で迎え撃つつもりでいたらモンゴル軍は百道原で先駆けした
武士に蹴散らされてそのま逃げ帰っちまったってことだな。
まさかモンゴル軍がこんなにも弱いとは当時の日本人も驚いただろう。
文永の役の後、鎌倉幕府が一気に強気になったのも当然か。。。
あれだけ活躍した菊池武房が一族に犠牲が出たのに恩賞貰えなかったのって
結果的に先駆けになっちゃったからじゃないのかね
>>712 いや、少弐氏は初めの頃は博多で向かえ討つつもりだったみたいだけど
途中から戦術変更があったみたいで福田兼重申状によると早良郡に元軍が
上陸したから、全軍早良郡に向かいよう御家人に指示が出されてる。
「去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、
各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処」
>>711 銅鑼や鉦で進退する軍隊じゃない証拠だろ。お前在チョンかよ
士気が高すぎて困ったという逸話を「日本軍の内部不統一」にすりかえるパフォの手際にはまったく恐れ入る
全体として統制が取れてないことにかわりはないけどな
718 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 14:09:52.91 ID:pxdrDt7o
>>714 作戦の変更があったことは確かだね。
ただ、赤坂に元軍がいることがわかっている段階でも博多で迎え撃つ方針だった
のに、なんでこの時点で変更になったのか?
なにか元軍のほうに変化があったからではないか?
新手の軍が上陸して兵力が増強されたとか。
それと、「鳥飼塩浜」と言っているのも問題だ。
鳥飼塩浜はすでに竹崎・白石が一度敵を撃退している地点だ。
そこに元軍がいて日本軍が「防戦」しているということは、元軍が
再び押し戻しているということだ。
また、「各々鳥飼塩浜にあい向かうべく」というのが「全軍」を意味したか
どうかはなんとも言えない。福田を含む一部の御家人に出された命令だった
としても福田の書き方は同じだったろうからだ。
全軍だったとすればこの時点(それが何時ごろかは不明)で博多箱崎を放棄した
ことを意味する。
718は馬鹿だな。
全軍が東進すれば、西側の博多箱崎を放棄したことにならないのだが。
元軍は西進できないからな。
それに元軍が上陸してきたのだから、日本側から見ればすべての戦いが「防戦」だ。
訂正。逆だわ。
全軍が西進すれば、東側の博多箱崎を放棄したことにならないのだが。
元軍は東進できないからな。
>>718 元軍の変化ってようするに、赤坂での敗退だろ。
敗走してる元軍を博多で待っていても意味ないわけで、方針を変更するのは当然。
で、日本軍主力が博多箱崎から鳥飼百道原へ前進したことが、博多箱崎を放棄しtことを意味するわけないだろ。
現に文永の役で元軍は博多の町に指一本触れることが出来ないまま撤退したわけで。
蒙古襲来絵詞でも、竹崎の郎党が「後方が続いて参りましょう。
待ってから先駆けをされては?」と言ってるように早い段階から
作戦変更があったのを竹崎らは承知していたのかもしれない。
あるいは、菊池勢が元軍を蹴散らしたことを受けて、竹崎らは
武士らが勝ちに乗じて後方から駆けつけてくると考えたのだろう。
わずか5騎で追撃する竹崎郎党がそう判断する要因は「なにか元軍のほうに
変化があったからではないか? 」などではなく赤坂の戦いの結果しか有り得ない。
>鳥飼塩浜はすでに竹崎・白石が一度敵を撃退している地点だ。
そこに元軍がいて日本軍が「防戦」しているということは、元軍が
再び押し戻しているということだ。
これは同じ戦闘と見るべき。竹崎は後方から肥前の白石通泰100余騎が駆けつけて
きたと書いてるから、てっきり後続は肥前の白石勢だけと考えがちだけど。竹崎は
筑後の御家人の光友又二郎が鳥飼潟で戦死したことの証人にたってる。
要するに肥前以外の御家人も参戦していたことが確認されるわけで、白石勢が強調されているのは
白石勢が竹崎の先駆けの証人になってくれたからだ。
元軍の将は祖原山の小さい山に逃げたのだろうが、祖原山は小さい山であり元軍をすべて
収容できるわけではない。福田兼重らは、祖原山には行かずに百道原の平地を逃げ回る元軍に
的を絞ったというところだろう。
>>717 統制が取れてなかったら、竹崎の突出を契機に諸将が勝手に行動を始める。
これが欧州諸侯が負ける典型的なパターン。鎮西武士たちはその種の紊乱を一切起こしていない
パフォってコテ付けてくれよ、あぼーんしやすいから
いつもの人は右左やらイデオロギーやらもなくただ自説で何かを上書きしたいだけって
自己顕示欲だけが原動力だと思ってたけど、やっぱ何が何でも武士弱いにしたいのかなって見えてきた
パフォーマンスの信念は要するに「世界最強のモンゴル軍が島国の弱小武士が
負けるわけが無い」という強力な信念があるんよ。
だから、武士=弱いならどんな胡散臭い説でも嬉々として取り上げる。
前、パフォーマンスが挙げていた「元寇防塁を造ったのは文永の役で武士がモンゴル軍に
蹂躙されたからだ!」とか恥ずかしげもなく貼りつけていたのはこの信念に基づくものだろう。
「世界最強のモンゴル軍が島国の弱小武士に
負けるわけが無い」だな。間違い。
729 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 16:25:11.65 ID:pxdrDt7o
そんなに早く作戦変更などできない。無線があるわけではないのだ。
赤坂の敵が逃げたことも、菊池が帰って来て少貳に報告するまでわからない。
その少貳経資は博多でなくて箱崎にいた可能性もある。(「〜を読む」はその説)
竹崎と白石の間に作戦変更があったなどおよそあり得ない。
また経資はなぜ博多箱崎に兵力を集中しようとしたか、考えなければならない。
それは博多方面に元軍の敵前上陸があると見たからだ。
少ない兵力で二正面作戦はできない。だから博多箱崎に集中したのだ。
それをおいそれと変更は出来ない。また元軍もそれを見越して、一部の船隊を
博多沖に陽動させただろう。
鳥飼潟への正面変更までには、一部の兵力で西部戦線を「威力偵察」する時間帯が
あったはずだ。
そして遂に西部戦線が主力とわかって正面変更した。博多箱崎は空いた。
そこで元軍の陽動部隊は上陸部隊と変わっ上陸し、箱崎宮を焼いた。
こんな推移だったろうと想像する。
730 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 16:29:55.28 ID:pxdrDt7o
統制されたモンゴルの動きに振り回される指揮系統ばらばらな日本武士という図式か
それ主張したらそんなダメ敵相手に橋頭堡築けなかった元が余計惨めになるんじゃ…
>>729 少貳経資が博多でなくて箱崎にいた可能性は無いよ。
竹崎が鎌倉の安達と会談した際に、少弐が博多の息の浜に布陣してたって証言してるじゃん。
あと、博多方面に元軍の上陸とか勝手に作るなよ。
そんなものは史料上存在しない。
竹崎をはじめとする日本軍はまず箱崎に集結し、元軍が赤坂に進出した情報を得て、その時点で既に
博多へと軍を移動しつつあった。
博多箱崎に兵力を集中してなんて無いの。
あと余談だけど、元軍主力が上陸したのは百道原、暴風雨に遭遇したのは壱岐沖だって史料を
今年中にUPするよ。
そもそもパフォがバカにされるきっかけになったパフォーマンスコンクール自体がどうしようもないアホ説だったからな。
>>729 良いからトリップつけろ。スレ荒らしと言われたくなければ
お前が1人で妄想を吠えてるせいで読みづらいんだよ
>そんなに早く作戦変更などできない。無線があるわけではないのだ。
赤坂の敵が逃げたことも、菊池が帰って来て少貳に報告するまでわからない。
無線などいらない。赤坂から景資が本陣を置く沖浜までたった2kmしかない。
ましてや、菊池勢は戦勝して凱旋途中だったのだ。もっと近くまで帰ってきて
いただろう。
よって、竹崎と会ってからすぐの間に少弐氏のもとに赤坂の勝利が伝えられていた
と考えるべきであって、それを受けて少弐氏は御家人に早良郡に向かうよう指示した
とみられる。
>それをおいそれと変更は出来ない。また元軍もそれを見越して、一部の船隊を
博多沖に陽動させただろう。
景資が博多で向かえ討つ作戦を立てた理由は君のいうようにどこから上陸するか
わからなかったからだ。
ところが上記のように福田兼重申状に「去年十月廿日異賊等龍(襲カ)
衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間」とあるように、元軍の上陸場所を確定したため
少弐氏は早良郡へ御家人に馳せ向かうよう下地した。さらに赤坂から元軍が敗走したという情報も
入っており、待ち構えている必要性さらにない。
よって、「なにか元軍のほうに変化があったからではないか?
新手の軍が上陸して兵力が増強されたとか。」など有り得ない。
そして、赤坂の勝利に乗じてそのまま鳥飼潟〜百道原へと元軍を
撃退していったというところだろう。
あ、勘違いだな。
蒙古襲来絵詞によると、博多に陣を置いたのは赤坂での戦闘が日本軍に相応しくない
戦場だったからだった。
ごめん。729の言ってる「それは博多方面に元軍の敵前上陸があると見たからだ。 」
等ではなかったな。
>>726 新しい説唱える俺ってカッコよくない?という気持ち悪い爺だよ。
文章からたぶん相当年をとった頭の固い、頑固者といったところかな。
「武士が強かった」以外ならなんでも根拠薄弱な新説を唱えることに快感を感じてるんだから
どうしようもない。
別に武士が弱かったとは言わないが、モンゴル軍の“楽器音響による指揮”を劣ったものとして小馬鹿にしている
人がいるのは気になるな。
武士団は封建領主の連合体で、たがいの顔や役割なんかをある程度知っていて、話しの通る組織だったろうから
合議と交渉で作戦を決められただろうけど、モンゴル軍は諸民族の寄せ集めだぞ。
指揮官の統制の及ぶ範囲には限度がある。
それまでに異なる歴史を歩んできて、形が定まった軍隊について、日本の方が優れているだの、モンゴルが優れている
だの言うのはナンセンスだろう。違う環境に適応するために発達した軍隊なんだから。
740 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 18:12:51.14 ID:lleQZutJ
>>733 >少貳経資が博多でなくて箱崎にいた可能性は無いよ。
>竹崎が鎌倉の安達と会談した際に、少弐が博多の息の浜に布陣してたって証言してるじゃん。
私も始めはそう思った。しかし読み直すと沖の浜は命令の一部だったとも読める。
つまり「少弐景資が『沖の浜を固めて敵が来たら一同で合戦せよ』と命令を出していた」とも読める。
一方、竹崎は少弐と例の問答をやった後、「箱崎の陣を打ち出て博多に向かう」のだ。
「「日」のたいしやうせうに三郎「さ」ゑ□はまのたかきいさこの□にしりをかけて、
ちんをかためられしところ」と浜の高いところに景資が腰をかけていたと言っているのだから、
景資が息の浜にいたことを疑う必要性がわからない。
箱崎にいたら、浜に腰をかけてるわけがないだろう。
>>739 べつに戦法を小ばかにしているわけではなく、兵員の質からみてそういう戦法しか不可能だったと言ってるんだよ。
弱体な兵員には、そういう融通性の欠けた指揮しか取りようがないでしょ?
>>739 おっしゃることには心から同意するが
A 太鼓を叩いたら前進、鐘を叩いたら後退程度の命令しか出来ない兵
B 任務を伝えておけば、たとえ連絡が付かなくても下級指揮官が適宜判断して動いてくれる兵
のどちらが頼もしいかというと……。
繰り返しになるが「鉦や太鼓」を馬鹿にするつもりは無い。「連絡不能でも動いてくれる」武士に対して
「一方的だがそもそも連絡不能にならない」指揮法は中世の軍隊としては最高度の情報通信だろうし。
744 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 20:06:35.09 ID:lleQZutJ
>>741 >箱崎にいたら、浜に腰をかけてるわけがないだろう。
そうとも言えない。箱崎は沖の浜よりずっとりっぱな浜だ。箱崎宮も浜に面してあった。
蒙古襲来絵詞の絵を見るとわかる。
>>740で書いたことの原文を載せておこう。
「かけすけ(景資)はかた(博多)のおきのはま(息の浜)をあひかためて一とうに かせん候へしとしきりにあひふれられ候しによて 」
「景資、博多の沖の浜をあい固めて一同に合戦候うべしと、頻りにあい触れられ候いしによって」
今読み直しても「沖の浜」は命令の一部だな。景資のいる場所のことではない。
>>744 箱崎宮という立派な陣があるのに浜に腰をかけてるんだから息の浜しかねえだろ。
どんだけ頭固いんだおめえは。
>>774 蒙古襲来絵詞絵二を見てみよう。
少弐景資が浜辺に陣を敷いている絵がある。
そのすぐ左下に住吉神社の鳥居の絵が描かれている。
住吉神社は息の浜のすぐ西南にある神社だ。
つまり。この景資が腰を掛けている浜辺とは息の浜を
置いてほかにはないことがわかるのだ。
747 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 20:50:22.17 ID:lleQZutJ
>>736 もうすこし別の角度から考えて見よう。
前にも言ったが、大将の景資が日本軍の主力を博多、赤坂に置いたのは、元軍主力の敵前上陸に備えたものだ。
それ以外の理由は考えらられない。
ところで景資の、「博多の沖の浜を固めて敵が来たら射戦せよ」という命令は、すでに赤坂に敵がいると分っている
時点で出されている。沖の浜と赤坂は正面の方向が違うからこの命令はわかりにくいが、依然として主力の博多上陸を
考えているのだとすれば理解される。
つまり「赤坂の敵は主力ではないから、今はこれに構うな。やって来たら適当に追い払え」と言っているわけだ。
「赤坂は馬の足場が悪い」などというのは、敵がいると聞いて赤坂に出たがる武士達を押しとどめるための言葉と見る
べきだ。
そうであれば、赤坂の敵を追い落としたという菊池の報告があっても、それは正面を変更する理由にはならない。
なぜなら、たった100騎で追い落としたという菊池の報告は、「小敵・・」という景資の想定を補強するものだったからだ。
条件が変わらないのであれば命令を変更する必要はない。
逆に、この時点で「敵は小勢だ。全軍で赤坂に向かえ」などと命令したら「じゃあ今までのは何だったの?」という
ことになって、武士達に馬鹿にされるのではないか?
748 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 20:54:32.03 ID:lleQZutJ
>>746 うん、それがあったね。それは決定的だ。
それにしても景資の居場所に関する絵詞の記述はわかりづらい。
「・・絵詞を読む」の著者も迷うわけだ。
>>747 100騎で追い落としたからと言って小敵にはならない
大軍だけど弱敵なんでしょう
そうやって敵を侮った思考って指揮官としちゃ下の下だよ
>>747 >前にも言ったが、大将の景資が日本軍の主力を博多、赤坂に置いたのは、元軍主力の敵前上陸に備えたものだ。
それ以外の理由は考えらられない。
赤坂においてなどいない。博多に陣を置いたのは元軍が博多を目指してくるのがわかっているからだ。
それは博多上陸のことを言ってるのではない。早良郡から上陸しても元軍が目指す場所はやっぱり「博多」だ。
>「赤坂の敵は主力ではないから、今はこれに構うな。やって来たら適当に追い払え」と言っているわけだ。
「赤坂は馬の足場が悪い」などというのは、敵がいると聞いて赤坂に出たがる武士達を押しとどめるための言葉と見る
べきだ。
そんなことはお前の妄想にしかすぎない。お前のつまらない妄想と違って実際にこの戦いに参加して作戦の指揮官と会ってる
竹崎が作成した蒙古襲来絵詞では博多に陣を布いた理由は赤坂が馬の足場が悪く、戦闘で不向きであるためだ。
実際、博多は丘陵となっており、騎乗での戦闘には向いておらず、そのことを裏付けている。
>なぜなら、たった100騎で追い落としたという菊池の報告は、「小敵・・」という景資の想定を補強するものだったからだ。
条件が変わらないのであれば命令を変更する必要はない。
そんなこともお前の妄想にすぎない。小敵だろうと、敵の先鋒隊を撃破したのだ。
敵軍が崩れたのに乗じて、一気に後続の元軍を崩壊させてしまおうとしたのだろう。
だから、「去年十月廿日異賊等龍(襲カ) 衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間」と
あるように少弐景資は間髪入れずに追撃を開始したとみるべきだ。
敵軍の崩壊に乗じるのは戦史の常だ。
訂正
博多は丘陵となっており→赤坂は丘陵
>>739 名将言行録で藤堂高虎が大陸の兵は扇で払えば容易く逃げ散るが時が経つとまた群れ集ってくる
蚊柱のように掴み所がないとか言ってたね
754 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 22:36:43.37 ID:pxdrDt7o
>>751 ごめん、「博多、赤坂に置いたのは」と書いたのは「博多、箱崎に置いたのは」と
書くつもりで間違った。
>実際、博多は丘陵となっており、騎乗での戦闘には向いておらず、そのことを裏付けている。
この博多は赤坂の間違いか?
755 :
名無し三等兵:2012/11/08(木) 22:47:31.89 ID:pxdrDt7o
>>751 >少弐景資は間髪入れずに追撃を開始したとみるべきだ。
ほう、朝っぱらから博多を空にしたのか。敵はまだ海上にもいるのに?
>博多に陣を布いた理由は赤坂が馬の足場が悪く、戦闘で不向きであるためだ。
ここは本当に軍事板なのか?
赤坂、そして桜坂付近は明治の頃まで人魂が出るというので有名だった。
元寇で戦死した武者やモンゴル兵たちの人魂だと言われていた。
息の浜がそこであったかはわからないけど
西区、生の松原の石築地跡にそこを巡回する竹崎季長の絵があるね。
あそこは肥後の担当だったのかな。
>>755 元軍が海上に居なかったのは確実だろ。
竹崎と少弐の会話でも赤坂に取り付いた元軍にどう対応するかしか
話題になって無いじゃん。
もし元軍が海上にいたら、鎌倉武士の性格からして浜で上陸をまったりせずに、
自ら乗船して海上へ攻勢に出るはず。
実際に博多から元軍は上陸してないのだから、景資が赤坂の元軍が壊走したのに乗じて
百道原へ軍押し出したという判断は正解。
757が言うように、蒙古襲来絵詞の中の登場人物も海上の元軍など警戒している様子は
微塵もない。物凄い大軍が早良郡に上陸するのを目の当たりにした結果だと思われる。
また、日本側から見てみると、沖の千料舟からバートル軽疾舟が繰り出される様子がないのを
見て取って早良郡に上陸した元軍を全軍と判断してもおかしくない。
759 :
名無し三等兵:2012/11/09(金) 14:53:18.41 ID:rRxIKBwL
>>756 沖浜稲荷神社というのが今もあるが、あれが沖の浜の東北角に近い。
もっとも元寇のころにはそれもなくて、沖の浜は単なる砂丘だった。
760 :
名無し三等兵:2012/11/09(金) 15:23:39.04 ID:ghCjhC91
日本軍の主力が沖の浜にいたことについて、以前私は沖の浜が武士の集合場所だった
のだと思っていた。ここに武士を集結させて、柔軟に各所に出撃させる、武者だまり
だったのであろうと思ったのだ。
その考えを改めたのは、元寇の時代に沖の浜が護岸されてない単なる砂丘だったことを
知ったからだ。そうであればここは上陸適地である。事実、沖の浜は文永の役の後に防塁
が築かれる。上陸適地だった証拠だ。
さて、沖の浜に集結した日本軍が、西からの侵攻に備えたのであるとすれば、こんな変な
場所はない。沖の浜は陸続きの浜ではない。狭い海の中道で陸地とつながった半島なのだ。
ひとたびその海の中道を押さえられれば浜にいる日本軍は袋の鼠と化する。陸と海から
包囲されて殲滅されるだろう。
やはり沖の浜の陣は上陸に備えたものだったと考えるしかない。そう考えるならば少貳
景資のいた場所の意味が分かる。彼は上記海の中道の陸地側にいた。総司令部として
前線の後方に位置したのだ。もし西からの侵攻に備えたのであれば総司令部が前線より
前に突出することになる。これはあり得ない。
沖の浜の陣は海に面する横長の砂丘半島を前線とし、その後方すなわち隘路を夾んだ陸側に
総司令部を置いた、上陸阻止線だったのである。
上陸地点読みを完全に外した日本武士の戦略眼しょべえ
762 :
名無し三等兵:2012/11/09(金) 15:59:35.55 ID:oJ1POFOI
>>760 日本軍の集合場所は箱崎。
博多正面から上陸は行われていない。
博多に布陣した日本軍は元軍の赤坂からの西進に備えていた。
これらは史料から判明してる事実だから、どんなに妄想書き連ねても無駄なの。
中世の博多の街って海という天然の水掘に囲まれた水城なんだな。
陸からどんな大軍に迫られても船で外部との連絡とれるから孤立する心配がない。
だから「石城」と呼ばれていたんだ。
少弐景資は「生き残れるとは思えない」とか漏らしてるように大陸を席巻してるモンゴル軍の戦闘力を
極度に警戒してたから、野戦ではなく籠城戦を選択したのか。
で、赤坂から西進してくるモンゴル軍を博多で迎え撃つと判断してるってことは、逆に言えばその時点で
海上からの脅威は皆無だったってことを意味するな。
>>761 いやいや、上陸地選択権は元軍にあるんだよ。
日本側が防衛する浜を避けた、言い換えれば日本側が一番上陸されたくない
博多前面の浜からの上陸を回避させたという点で日本側の判断は正しかった
ということだな。
おかげで博多の町に被害は無かったし、鎌倉武士に感謝しないとな。
沖の浜に陣を布いたのは、当然海からの襲来にも備えたものでもあり
東進する蒙古勢にも備えたものだったということだろう。
海陸両面で柔軟に対応できるのが、博多だった。
ところが、博多に上陸する気配も無く、陸上では赤坂で元軍が撃破されたため
沖の浜に陣を布く意味は無くなった。少弐が御家人らに早良郡への前進を指示したのも
納得できる。
早良郡への上陸を進言したのは高麗。
奴らは博多って町のことをよく知ってたから
真正面から博多に上陸したら大宰府までたどり着けないのもよくわかっていた。
んで早良から上陸しにもかかわらず、こてんぱんにやられた。
朝鮮と組むと必ず負ける。法則は不動のもの。
766 :
名無し三等兵:2012/11/10(土) 10:51:12.84 ID:Af4NhrqD
例の「赤坂は馬の足立ち悪し」について考えて見る。
これの全文は「一所にて合戦候らえ。赤坂は馬の足立ち悪く候。これに控え候はば、
定めて寄せ来たり候らはんずらん。一同にかけて追物射に射るべし」(A)である。
(引用文を直説文になおした)
これは竹崎の一門の人々が箱崎の陣にいて、赤坂に敵がいると聞いて出撃しようと
しているところに、大将景資が人をよこして伝えた命令である。赤坂への出撃が
命令によるのか、独自判断によるのかは書いてないが、たぶん後者であろう。
一門の人々は命令に従って箱崎の陣に留まったが、竹崎は「大将の命令を待って
いたのでは戦いが遅くなる」と言って独断で出撃した。
竹崎の一行が博多に着いて見ると、大将景資が「博多の沖の浜をあい固めて、一同に
合戦候らうべし」(B)と「頻りに」触れていた。これは竹崎の鎌倉直訴の段に書い
てある。
(A)の命令と(B)の命令とは、同じ時期に、かつ赤坂に敵がいるとの認識の下に
出されている。して見るとこの二つはワンセットのものである。このワンセットを
一体に解釈するならば「赤坂の敵はさしあたり無視して沖の浜の防衛に専心せよ」と
いうことになる。
767 :
名無し三等兵:2012/11/10(土) 10:53:19.33 ID:Af4NhrqD
なぜ赤坂の敵を無視したか。想像すれば、赤坂山を占拠した元軍が小部隊であり、かつ
博多へ前進する気配を見せなかったからであろう。博多と赤坂は互いに目視できる距離
にあり、間には船だまりの入り江を夾むだけで障害物がない。敵の兵力や動静は博多
から見てわかるのである。
なぜ赤坂の元軍は動かなかったか。それは赤坂の元軍が後方の上陸地点を援護し、かつ
博多の日本軍を偵察するための先遣隊に過ぎなかったからである。
その赤坂の元軍先遣隊が菊池勢によって追い落とされた。景資にとってみれば「無視
すべし」と言っていた対象が「無」になったのである。命令を変更すべき理由は全く
ない。
命令を変更して「鳥飼に向かえ」となるには、新しい別の要因がなければならない。
それはこの方面の元軍の増強であろう。元軍の兵力は、上陸の継続によって徐々に
増強されたのである。軍の上陸には時間がかかる。一挙にして陸地に大軍が出現する
ことはあり得ない。
西部戦線における元軍の増強は、独断あるいは一部命令による日本軍小部隊の繰り返され
た突撃によって徐々に判明したのである。正面変換までには時間がかかった。
「赤坂の敵が逃げたぞ、それ全軍鳥飼潟へ」はあり得ないのである。
性懲りも無くまたやってやがるな。
この戦いの詳細については主観的な断片的記録が少数あるのみで全体的な概要は一切不明。
両軍の展開や戦闘の推移はおろか、元軍の上陸地点やその様子なども全く判っていない。
こんな議論、妄想の上に妄想を重ねているだけで全く意味は無い。
にもかかわらず見てきたような嘘八百をよく平然と書けるものだな。
自分の脳内妄想と判明している客観的事実とが区別できなくなってきてないか ?
客観的な事実として判っているのは、
・大宰府攻略を目的とした筈の数万規模の元軍が、上陸地点からたかだか十数キロの大宰府はおろかその手前の
水城にすら 到達できていないこと。
・日本側の記録にある戦闘地点の地名が海岸付近に限定されていること。
・元軍がわずか1日の戦闘で継戦を断念して撤退した事が元軍側の記録で確認できること。
くらいのもの。
それでもこの事実から、戦いは日本側優勢に終始しており元軍は海岸線に釘付けで防戦一方、わずか1日の戦闘で
戦闘継続を断念、夜陰に紛れて敗走したという結論は導き出せる。
ヴォルテール「私は君の意見に反対だ、しかし、あなたがそれを言う権利は、命を賭けて守る」
元寇スレ一同「私はパフォの意見を読んでない、しかし、おとなしくコテつけてアボーンされろ」
ヴォルテール「さすがにパフォーマンスコンクールはいい加減ウザすぎるわ」
ヴォルテールはそんなこと言わない
本当にパフォは独自解釈がすぎるな。
少弐被官の野田資重が「赤坂は馬の足立ち悪く候。」と言ってるのだから
少弐景資が意識してるのは赤坂の元軍であって、無視しているわけではなく
もろ意識してる。
やはり、騎兵主体の日本側では騎射戦を行うのに不向きの赤坂であるうえに、
敵は異形の軍隊だ。どんな戦い方をするかわからないから慎重になっていた
というところだろう。海陸の敵の出方を伺いながら、赤坂から進出すれば
博多で向かえ討ち、博多に上陸しようとすれば沖の浜で迎撃する。
ところが、菊池勢があっさりと赤坂から敵を追い落としたので
「おのおの早良郡へと追撃せよ」と、それに乗じたとしか考えられない。
敵が増強されているらしいから「早良郡へと向かえ」は意味が不明すぎる。
それまでの守勢だった姿勢との整合性がとれない。
>>772 三行でまとめると
・未知の敵だから、慎重に布陣した
・でも先に戦った部隊があっさり勝ってしまった
・こいつら弱いと見て、全軍に追撃を命じた
ということでOK?
南宋経由で結構話は聞いてただろうから結構ビビってたんだろうね
で実際は話ほどじゃなかった・・って安心して追撃に移っただけのような
南宋の兵は助けてるから結構色々事前情報はあったんでしょ
みんな弘安の役の話もしようぜ
776 :
名無し三等兵:2012/11/11(日) 10:55:14.69 ID:TLjzbs3u
>>772 >少弐被官の野田資重が「赤坂は馬の足立ち悪く候。」と言ってるのだから
本当に赤坂は馬の足立ちが悪かったのか? 菊池勢は「騎射戦を行って」「あっさりと」
赤坂の敵を追い落としているが?
>少弐景資が意識してるのは赤坂の元軍であって、無視しているわけではなく
もろ意識してる。
言葉尻の議論はつまらない。博多から見えるのだからもちろん景資も意識している。
意識しているからこそ赤坂に出たがる武士たちを押しとどめるのに必死なのだ。
無視するというのは博多正面の敵との相対的な問題だ。
「放置する」と言った方が良かったかな。
>「おのおの早良郡へと追撃せよ」と、それに乗じたとしか考えられない。
それは「全軍相良郡へと追撃せよ」という意味か?
それなら博多放棄を意味するが。
>>776 博多正面に敵は存在しないんだから、博多放棄なんて意味するわけないだろ。
現実に文永の役で元軍は博多に傷一つ与えることができなかった。
鎌倉武士は博多の住人を完璧に守り抜いたってこと。
776の言ってることはめちゃくちゃだな。
立花宗茂は島津軍の猛攻から城を堅守しておりました。
ところが、秀吉軍が島津に攻め込んだため島津軍は撤退していきました。
立花宗茂は立花山城から出撃して島津軍の追撃戦に移り散々に島津軍を破りました。
さて、立花宗茂は城から出撃しましたが、立花山城を宗茂は放棄したといえるでしょうか?
No! No! No! No! No!
780 :
名無し三等兵:2012/11/11(日) 13:45:26.09 ID:COKFZJWO
>>777 >博多正面に敵は存在しないんだから、博多放棄なんて意味するわけないだろ。
船というのは水上を移動できる乗り物だ。
いま現在博多正面に元船がいなくとも(私はいたと思っているが)、博多を空にすれば
元軍は博多に移動して上陸する自由を得る。
これは日本軍からすれば博多を放棄したのと同じだ。
もういちど聞く。
「おのおの相良郡へ追撃せよ」というのは「全軍相良郡へ追撃せよ」という意味か?
それとも「一部をもって沖の浜防衛を継続し、一部をもって相良郡へ追撃せよ」
という意味か?
軍事板なら当然の質問だよね。
781 :
名無し三等兵:2012/11/11(日) 14:02:56.56 ID:udLXVcRa
>>778 >立花宗茂は島津軍の猛攻から城を堅守しておりました。
>ところが、秀吉軍が島津に攻め込んだため島津軍は撤退していきました。
>立花宗茂は立花山城から出撃して島津軍の追撃戦に移り散々に島津軍を破りました。
>
>さて、立花宗茂は城から出撃しましたが、立花山城を宗茂は放棄したといえるでしょうか?
2行目がポイントだな
1 正面の敵が主力であること
2 その主力が攻勢限界に達し、交代したこと
3 後退しつつある敵主力の勢力は、撃破可能な規模であること
この3点を指揮官が承知していたからこその、攻勢転移決心なのであって
元軍の勢力や企図について、現地司令官はどれだけ把握できてたんだ?
例えばだ。
文禄・慶長の役の際に李舜臣率いる朝鮮水軍は慶長の役において全羅道を日本が
席巻すると、それまでの朝鮮水軍の拠点を放棄して北へと逃げていった。
なぜかというと、当時の船は沿岸伝いにしか移動できず、沿岸部が制圧されると=
制海権の喪失を意味したからだ。
早良郡から上陸した元軍が上陸快速舟艇バートルで赤坂の以東の日本側のエリアに沿いながら
日本側の攻撃にさらされながら移動するか、沖まで出て大きく迂回してから博多湾に上陸するか
どちらも現実的ではない。
そして、実際に博多に元軍は上陸せずそんな馬鹿げたことはしなかった。
博多以西の陸上が完全に元軍の手に落ちない限り、博多の放棄とはならない。
1 正面の敵が主力であること→早良郡から上陸した元軍は主力。
2 その主力が攻勢限界に達し、交代したこと→元軍の後世限界は赤坂までだった。
3 後退しつつある敵主力の勢力は、撃破可能な規模であること→実際に撃破した。
さすが、少弐家!全部把握してるなぁ。
>>777 >いま現在博多正面に元船がいなくとも(私はいたと思っているが)、博多を空にすれば
元軍は博多に移動して上陸する自由を得る。
>>780 これは元軍が博多湾内の制海権持ってる場合だな。
史料には存在しない博多正面の元船と違って、日本の兵船300余艘はちゃんと史料に存在する。
その上、20日に戦闘で元船1艘を拿捕する戦果もあげてるし。
高麗の韋得儒だって「東征の時、水戦を習わざる者をして梢工・水手と為し、戦いを不利に致らしむ」
と言ってるからな。
というか日本軍が早良郡へと軍を出動させた意味をあれこれ言い合ってる意味ってあるの?
両者とも断言してる史料が無い以上、妄想での水掛け論にしかならないと思うんだけど。
786 :
名無し三等兵:2012/11/11(日) 15:43:55.63 ID:HR9s9LbK
>>784 >史料には存在しない博多正面の元船と違って、日本の兵船300余艘はちゃんと史料に存在する。
その史料を教えて!
>>786 『歴代皇記』
二十日大宰府以三百餘艘之兵船發向賊船二百艘漂蕩神威力云々
788 :
名無し三等兵:2012/11/11(日) 17:11:18.44 ID:udLXVcRa
>>785 >というか日本軍が早良郡へと軍を出動させた意味をあれこれ言い合ってる意味ってあるの?
ここは軍板で、戦術や指揮官の決心を考察するスレなんだろ
文献や考古資料を分析して歴史的事実を追求する場じゃない
元軍は揚陸艇にでも乗ってたのか? 仮に博多前に元軍艦隊がいて、日本軍の移動が確認できたとしても、
迅速に兵員を揚陸できるのか? 部隊の陸揚げに半日とか一昼夜とか掛かるようなら、目の前の敵軍の動きなんて
さほど意味がないぞ。日本武士団の面々も、小船が集まってるならともかく、大船が遊弋しているなら差し迫った脅威
とは見なすまい。陸へのアクセス手段がないんだから。
元軍の揚陸艇は元史に記載があるよ。
バートル軽疾舟という揚陸艇が300隻投入されていることが確認できる。
千料舟からバートル軽疾舟を降ろす→兵士を乗せる→沖から浜へと揚陸は
結構時間掛かりそうな気はするな。
兵士を上陸させた後の千料舟って非戦闘員しか残らないから狙われたら脆いだろうな
793 :
名無し三等兵:2012/11/11(日) 20:11:51.22 ID:ojX9g+wg
>>787 >『歴代皇記』 二十日大宰府以三百餘艘之兵船發向賊船二百艘漂蕩神威力云々
皇代歴(別名・歴代皇記)は南北朝〜室町時代に書かれたもので、同時代史料とは言えない。
おわりのほうに「神威力」などちょろっとあるところを見ると八幡愚童記の二艘の兵船の
話の変形とも思われる。
というか、この一行が皇代歴にあるという資料は何?
794 :
名無し三等兵:2012/11/11(日) 20:24:10.23 ID:ojX9g+wg
>>791 >千料舟からバートル軽疾舟を降ろす→兵士を乗せる→沖から浜へ
バートルは船首に輪っかがついていて曳航できたことが絵詞の絵からわかる。湾内のような波の静かな
ところでは曳航したと思われる。
>揚陸は結構時間掛かりそうな気はするな。
いくら時間がかかっても上陸するにはそれをやるしかない。
一方で守る方もまたそれを待っているしかない。最初のバートルが浜にかかるまで例えば1時間かかる
からと言って浜を空けるわけにはいかないだろう。
>バートルは船首に輪っかがついていて曳航できたことが絵詞の絵からわかる。
これは知らなかった。どうも。
>>793 俺も『歴代皇紀』はあんまり信用のおけない資料だと思うな。
日付に関しても結構いい加減だし。
それと『歴代皇紀』は『改定史籍集覧第18冊』にある。
文永の役の前文を挙げると、こうなってる。
「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、
賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」
>一方で守る方もまたそれを待っているしかない。最初のバートルが浜にかかるまで例えば1時間かかる
からと言って浜を空けるわけにはいかないだろう。
実際に元軍は博多から上陸する気配も見せた形跡も無し、上陸もしていない。
日本側が早良郡に軍を進めたのは何ら問題ない。
ましてや、博多から見れば、敵の軍船の様子はまる分かりだ。
早良郡に軍を進めることに何の躊躇も必要ない。
訂正
文永の役の全文ね
>>794 >一方で守る方もまたそれを待っているしかない。
そんな訳ねええええ。
場所は博多だぜ。
日本側にだって船が幾らでもあるんだぜ。
海上で無防備な揚陸作業なんかやってたら速攻で船に乗って攻撃するだろ。
榮獲日本對蒙古的戰爭,因為武士是勇敢的戰士
日本武士是非常勇敢的战士。
801 :
名無し三等兵:2012/11/12(月) 17:23:19.84 ID:tjjvb/Yw
>>796 博多正面に全くなにもなかったとすると景資がなぜあれほど沖の浜防衛にこだわったか、説明が
つかない。沖の浜で空虚な海を眺めているのでは武士たちを抑えることも難しかっただろう。
上陸作戦で陽動作戦を行うことは常道だ。日本軍も日露戦争の鴨緑江渡河や、太平洋戦争の
シンガポール島上陸でそれをやった。
文永の役で考えるならば、西部海岸で上陸しながら博多沖に陽動部隊を送ることは実に有効で
あったと思われる。日本軍の主力をある程度の時間、博多にくぎづけにできるからだ。しかも
一兵も損じることなく。
むしろそれをやらなかったとすれば元軍は馬鹿だ。
300隻の大船のうち例えば50隻でも送れば十分効果があるだろう。元軍にはすぐには上陸しない
総予備がいただろうからそれをあてればよい。
そして博多の日本軍がいなくなれば無血上陸すればよいのだ。
そして
>>796も認めているように博多の空虚化は必ずあった。箱崎宮のご神体避難という事実が
あるからだ。
また日本軍が博多を空にしてでも鳥飼潟に注力しなければならない理由は他にもある。それに
ついては改めて書く。
<つけたし>
博多正面を区別して考えることもない。小さな赤坂半島を隔てて、西側はもう百道原沖だ。
そしてその東側が博多正面。むしろ元船の列は切れ目なしにだーっといたのでないか?
>>799 日本がモンゴルに勝ったのは武士がとても勇敢だったためです
みんな八幡愚童訓に釣られ過ぎなんだよ。
帝王編年記は20日に戦闘で元船1艘を拿捕したと言ってる。
つまり、日本側にも海軍がいたということ。
それとは別に壱岐沖で嵐に遭った元船2艘が24日に志賀島へ漂着してる。
この2つが一緒になったのが八幡愚童訓。
嵐に遭ったのが壱岐沖なんだから、金方慶伝で暮れまで戦い撤退決めたのも
壱岐なんだ。
804 :
名無し三等兵:2012/11/12(月) 21:43:36.84 ID:tjjvb/Yw
>>803 >それとは別に壱岐沖で嵐に遭った元船2艘が24日に志賀島へ漂着してる。
そのとき得られた捕虜が謎と言われる元軍遭難の状況をもたらした可能性があるね。
ソース希望
>>802 799と800は「武士は勇敢だったから蒙古との戦争に勝ったのだ」と書いてあるんじゃないの?
>>801 >多正面に全くなにもなかったとすると景資がなぜあれほど沖の浜防衛にこだわったか、説明が
つかない。沖の浜で空虚な海を眺めているのでは武士たちを抑えることも難しかっただろう。
日本側にとって元軍が上陸を終えるまではどこから上陸してくるか予想はできない。
よって、博多の浜辺の沖の浜に日本軍の軍勢を集中するのは当然のこと。
早良郡から上陸し終えてから、日本側は迎撃したらいいだけの話。
君のいうように上陸を開始したからといって、上陸を終えた部隊と違って海にはまだ
後方に上陸に続く部隊もある。
である以上、日本側は沖の浜を空けて出撃できるような状況にはない。
だからこそ、元軍が上陸を終えてから向こうから攻撃を仕掛けてくるのが理想的展開。
ある程度、元軍が上陸を終えたものの赤坂は丘陵で松林があり、騎馬戦には向かず決戦の
舞台とするのには相応しくない。
ここで決戦するより、浜で陣を固めていた従来どおりの陣形で戦う方がいい。
ところが、赤坂の元軍があっさりと菊池勢に蹴散らされている。
少弐氏は、先鋒隊の敗走に乗じて一気に勝敗を決しようとしたのだろう。
ここでの沖の浜の価値はゼロになっている。
早良郡に向かうのは当然のこと。
>上陸作戦で陽動作戦を行うことは常道だ。日本軍も日露戦争の鴨緑江渡河や、太平洋戦争の
シンガポール島上陸でそれをやった。
文永の役で考えるならば、西部海岸で上陸しながら博多沖に陽動部隊を送ることは実に有効で
あったと思われる。日本軍の主力をある程度の時間、博多にくぎづけにできるからだ。しかも
一兵も損じることなく。
むしろそれをやらなかったとすれば元軍は馬鹿だ。
陽動作戦が実施されたかも不明なうえに、日本側がそれに乗った形跡もない。
日本側は元軍が上陸を終え、赤坂に陣を敷いた部隊を撃破すると陽動作戦を
したとしても日本側はそれに引っかかる事もなく、御家人に早良郡に差し向けた。
>300隻の大船のうち例えば50隻でも送れば十分効果があるだろう。元軍にはすぐには上陸しない
総予備がいただろうからそれをあてればよい。
そして博多の日本軍がいなくなれば無血上陸すればよいのだ。
実際に早良郡に向けて、武士団が出撃したが博多に上陸しなかった。
つまり、そんな陽動作戦もそんな軍勢はいなかったということが
この一件でわかる。
例えば、志賀島の戦いで日本軍は志賀島の元軍に攻撃を仕掛けたが
だからといって、元軍は手薄になった博多に上陸しようとしなかった。
陽動作戦などしなかった。
つまりは君から言わせれば、「元軍は馬鹿」なそういう軍隊だったということだ。
ちなみに弘安の役では志賀島に6日の拠った二日後に志賀島の元軍に
組織的攻撃を日本側は仕掛けている。
この時も2日間は、文永の役のように敵側が攻撃を仕掛けてくるのを待っていた
と思われるが、一向に攻撃してこないので、こちらから攻撃したということだろう。
バートル軽疾舟が本当に揚陸艇なのかって問題もあるな。
海上で馬の移し替えなんて可能なのか?
外洋航海用の千料舟は帆走だから海戦においては小回りが利かない。
だから千料舟を守るために櫓漕ぎのバートル軽疾舟が必要だったってことじゃないの?
809 :
名無し三等兵:2012/11/13(火) 21:37:25.03 ID:k4Q0ObUX
>>801 「日本側にとって元軍が上陸を終えるまではどこから上陸してくるか予想はできない。」
から
「である以上、日本側は沖の浜を空けて出撃できるような状況にはない。」
までは、ほぼ私の考え方と同じだ。しかしその後がわからない。
「ところが、赤坂の元軍があっさりと菊池勢に蹴散らされている。
少弐氏は、先鋒隊の敗走に乗じて一気に勝敗を決しようとしたのだろう。」
これがわからない。赤坂の元軍が菊池に追い落とされたのは緒戦も緒戦、朝方の第一戦だ。
そのときすでに、「ある程度、元軍が上陸を終えたものの赤坂は丘陵で・・」というが、
そんな朝方に元軍の、先鋒隊ではない主力が、赤坂周辺にいたのか?
仮にいたとしても、先鋒隊以外とはまだ戦っていないのに、どうして景資に分ったのか?
どこに主力が来るかはわからないから沖の浜に集中した、早良郡が主力だとわかったから
全軍が早良郡に移動した、という始めと終わりは私の意見と同じだが、私と違うのは
この正面変換が朝方の早い時間に一挙に行われたとするところだ。
私はそれはあり得ないと思う。博多を空けるということは日本軍にとっては、やはり苦渋の
選択だ。一兵もいないということは元軍の小部隊、バートル一艘でも制圧できることを意味する。
日本軍にとって名折れであるには違いない。
そこまで行くには博多一正面から鳥飼潟を含む二正面、そして遂に鳥飼潟一正面と、段階を踏み、
時間をかけて行われたと思う。
>実際に早良郡に向けて、武士団が出撃したが(元軍は)博多に上陸しなかった。
元軍が博多・箱崎に上陸したかどうかは両説あって確定していない。実際に筥崎宮の焼失も
起こっているし。これをゲリラ的に言う人もいるが、それでも上陸には違いない。
810 :
名無し三等兵:2012/11/13(火) 21:45:49.29 ID:vcEEQJxY
>>809 名折れとかはどうでもいいけど、任務分析の問題として
優勢な上陸部隊を迎え撃つ九州防衛作戦司令官の課題は?
必成目標 敵侵攻部隊を九州北部地域で遅滞し、その攻勢限界まで自国増援部隊の橋頭堡を確保し続ける
到達目標 敵侵攻部隊の早期撃破
前地の戦闘で敵先兵を駆逐したからって、敵主力の所在・規模が不明なまま後者の誘惑に負けちゃうような馬鹿を
一線の中隊長レベルならともかく作戦司令官(方面総監)にはせんだろ
811 :
名無し三等兵:2012/11/13(火) 21:48:56.18 ID:k4Q0ObUX
>>808 >バートル軽疾舟が本当に揚陸艇なのかって問題もあるな。
>海上で馬の移し替えなんて可能なのか?
馬のことを言うならバートルがなくて千料舟だけだったとしても同じだ。
馬をどうやって上陸させたかはほんとに分らない問題だが、説明している論文を読んだこともない。
私は以前に、馬は泳がせたのでないかと書いたこともある。
千料舟からは腹帯で吊ってクレーンで海面に下ろし、ともづなでバートルにつなぐ。
泳がせて曳いて行き、浜まで来たら先に馬の足がつくから人が乗り移る、という寸法。
思いつきだけどね。
>>809 >これがわからない。赤坂の元軍が菊池に追い落とされたのは緒戦も緒戦、朝方の第一戦だ。
そのときすでに、「ある程度、元軍が上陸を終えたものの赤坂は丘陵で・・」というが、
そんな朝方に元軍の、先鋒隊ではない主力が、赤坂周辺にいたのか?
仮にいたとしても、先鋒隊以外とはまだ戦っていないのに、どうして景資に分ったのか?
日本側は敵の様子がまる分かりの大海原を見渡せる沖の浜に陣を布いている。
元軍がどれくらいの兵力規模でどれほどの軍船で早良郡に上陸するのかを一部始終目撃していた
はずだ。つまり日本側は元軍が上陸した時点で敵の兵力規模の分析を終えている。
後は敵の力量がわからないだけだ。南宋人と密接なつながりのある少弐氏は元軍が強力な軍隊で
大陸を席巻していたことも知っていたであろう。
だからこそ、元軍が早良郡からの上陸を終えて、赤坂まで進出してきた元軍と戦うことに警戒し、
博多からの上陸の可能性が無くなったにもかかわらず、博多で迎撃しようとしたのだろう。
ところが、赤坂に進出してきた元軍はあっさりと菊池勢に追い落とされた。少弐氏が警戒していた
異形の軍隊があっさりと追い落とされたので、それまでの作戦方針を転換して、後家人に出撃を
命じた。少なくとも少弐氏は「敵主力の所在・規模が不明なまま」ではなく、はっきりと所在、規模を
把握していたはずであり、警戒していた敵側の実力も菊池勢にあっさりと先鋒隊が崩壊したため、守勢から
一気に攻勢に転じたと見られる。
>そこまで行くには博多一正面から鳥飼潟を含む二正面、そして遂に鳥飼潟一正面と、段階を踏み、
時間をかけて行われたと思う。
まあ、それでもいい。俺が言いたいのは『福田文書』の「各可相向当所蒙仰之間」とは赤坂の戦いに
乗じて、少弐氏が早良郡へと追撃の軍を差し向けたという、「敵軍の先鋒隊の崩壊に乗じた作戦転換」
だったということだから。
>>809 >私はそれはあり得ないと思う。博多を空けるということは日本軍にとっては、やはり苦渋の
>選択だ。一兵もいないということは元軍の小部隊、バートル一艘でも制圧できることを意味する。
>日本軍にとって名折れであるには違いない。
いや、少弐氏が博多を空けるとしたら、勝利を確信し、元軍に最後のとどめを刺すためだよ。
日本軍にとって苦渋の選択なわけないじゃん。
まったくもってそのとおり。
815 :
名無し三等兵:2012/11/14(水) 13:46:13.82 ID:0/kYrg8K
>>812 >日本側は敵の様子がまる分かりの大海原を見渡せる沖の浜に陣を布いている。
>元軍がどれくらいの兵力規模でどれほどの軍船で早良郡に上陸するのかを一部始終目撃していた
>はずだ。つまり日本側は元軍が上陸した時点で敵の兵力規模の分析を終えている。
でまかせを言ってはいけない。
赤坂半島は海に突き出た台地で、さらにその基底部は陸地に食い込んでいる。
その広さは、その上に今の福岡城と平和台球場が乗っていることから想像できる。
これだけのものが沖の浜の西に、入り江を夾んで聳えているのだ。
海面すれすれの沖の浜からは、赤坂山の上にいる敵の姿は見えても、赤坂半島の
西にある百道原などは全く見えなかったはずだ。
さらに、私は元軍の主力は生の松原、今津浜などの最西部に上陸したと思っているが、
これらの場所に上陸した部隊は10km以上の陸路を歩いて東進しなければならない。
これらの部隊は2時間ほどの時差を置いて鳥飼潟周辺に到達したであろう。
景資が早朝に元軍の動静をすべて把握していたなどと言うのは夢物語である。
流石にこれは酷すぎるだろ。
「私は〜思っている」なんて何の根拠にもならないぞ。
>>815 元軍の情報については日本側に全部筒抜けになってると考えた方がいいよ。
それがホームで戦う日本軍のアドバンテージ。
818 :
名無し三等兵:2012/11/14(水) 21:28:42.98 ID:Wwx94jTg
>>816 元軍が今津浜に上陸したことは記録がある。
これが主力部隊であったと考えることと、百道原が主力であったと考えることは、どちらも
推定であることにおいて同じだ。
819 :
名無し三等兵:2012/11/14(水) 21:32:52.70 ID:Wwx94jTg
>>817 流石にそれは酷すぎるだろ。
「全部筒抜け」なんて何の根拠もない。
>これだけのものが沖の浜の西に、入り江を夾んで聳えているのだ。
海面すれすれの沖の浜からは、赤坂山の上にいる敵の姿は見えても、赤坂半島の
西にある百道原などは全く見えなかったはずだ。
根底が間違っている。上陸地点が沖の浜から見えるわけがないのは当たり前のこと。
上陸場面を見なくても、博多湾に侵入した元軍軍船が沖からバートルを早良郡に向けて繰り出すのは
丸見えであり「元軍がどれくらいの兵力規模でどれほどの軍船で早良郡に上陸するのか」を把握できる。
早良郡に上陸した元軍の兵力規模、軍船の規模は沖の浜から見ればわかることであるし、
正確な上陸地点も斥候を放っておけば、分かる話だ。
上陸した元軍の「兵力規模から何から何まで日本軍は知らないはずだから
早良郡に御家人を差し向けるはずがない」という理論は全く理屈に合わないことが
わかる。
「兵力規模から何から何まで日本軍は知らないはずだから
赤坂の戦いで早良郡に御家人たちに追撃戦を命じるわけがない」
という理論は全く理屈に合わないことがわかる。
>>819 住民からの情報だって得られるじゃん。
百道原とか今津とか普通に人が住んでる場所で、そこに元軍が上陸すれば逃げてくるわけで。
情報に関してはホームが圧倒的に有利だよ。
824 :
名無し三等兵:2012/11/14(水) 22:25:06.09 ID:4Loa1vcn
>>823 上陸した部隊の情報は得られても
水平線の向こうに、どれだけの船団がいるのか
あるいは、もういないのか
それを、どうやって知る?
敵の情報が全部筒抜けとか、RMA化された現代の軍隊でも無理じゃね?
まあ相手よりは条件はマシだっただろうが
少なくとも海上の蒙古軍が日本側の状況について得られる情報より
海を見下ろす日本側が得る情報の方が多いだろう。
>>824 岩門城とかから博多湾眺めればわかるだろ。
岩門城は鎌倉幕府が博多湾防衛の要衝として重視してた城で日本軍が居なかったとは考えにくい。
そもそも、パフォは上陸以前の赤坂は日本側のテリトリーであり赤坂から眺めれば、元軍の上陸場面すら
悠々と眺めることができることがわかってないんだからお話にならんでしょ
829 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 10:30:00.84 ID:jUC233HR
>>827 博多湾に襲来したのは、高麗軍を主力とする元軍の一部だよな
主力たる南宋軍は、見えるのか?
高麗軍を主力とか、主力たる南宋軍?何か変なのが湧いたな。
弘安の役のことを言ってるのかとも思えるが、高麗軍が主力の軍隊なんて
存在しなかったし、南宋は滅亡してから南宋軍なんていないし…。
831 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 11:04:02.98 ID:jUC233HR
我々の知る歴史的事実から推察される、元軍の作戦構想としては
O-1
1 一部(高麗)をもって、九州北西部地域(博多正面)を圧迫。これにより日本軍を同地に拘束
2 主力をもって、九州西部地域に上陸。九州南部地域を占領
3 じ後、高麗軍を助攻撃とし。あるいは、一体となり。北部地域へ攻撃前進し九州全域を占領
※ ここで天候不良もしくは上陸適地の選定遅滞により、主力の揚陸が延滞。主力との連携がとれなくなった高麗軍は離脱し洋上集合のち遭難
O-2
1 高麗軍を先導とし、九州北西部地域に上陸し橋頭堡を確保
2 主力がこれに続行し、同地の日本軍と決戦撃破、占領地域を拡大する
※ 続行すべき主力が未着のため、高麗軍は攻撃中止。以下同上
O-3
1 高麗軍を先導とし、九州西部に上陸。
2 九州南部占領後、一体となって北上
※ 高麗軍未着のため、主力が停滞中に遭難
さぁ、日本軍はどこまで知ってた、あるいは予想していたと思う?
832 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 11:04:59.66 ID:jUC233HR
さて、この馬鹿はどうしたものか…。
どうすれば歴史的事実から推察すると、0-10-20-3など馬鹿な作戦構想があったことに
なるのか、そこから聞かねばならんな。
834 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 11:59:41.23 ID:jUC233HR
>>833 「あった」じゃない
取りうる選択肢だよ
日本から見た、敵の予想行動
実際にどれを選択したかは、知り得ないだろ
835 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 12:03:09.93 ID:jUC233HR
敵の可能行動を列挙するのは、戦術の初歩だぞ
取り得ないね。元には日本の詳しい地図なんてないんだから、日本の地形には
相当疎い。
元軍が知っている日本の地理は、文永の役を通しての経験や南宋人、高麗人などを通してしか
知りえない。
結局、元軍が上陸する地点は肥前や博多湾などと限られた地点が想定され得るのであって、日本側は
そこを強固にしていれば良いだけの話。
で、日本側の想定通り元軍は日本側が強固な守りを固める博多湾に現れたとさ。
全く想定内どおりだね。
>>831 全部間違ってる。
歴史的事実から推察される元軍の作戦構想は、
1 高麗軍をもって壱岐を制圧。
2 高麗軍を壱岐に残し、主力をもって九州百道原地域に上陸。
839 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 12:38:31.88 ID:jUC233HR
>>838 それ、ほぼO-2じゃん
長崎で発見された船は無視すんの?
840 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 12:47:27.32 ID:jUC233HR
>>836 >元軍が知っている日本の地理は、文永の役を通しての経験や南宋人、高麗人などを通してしか
>知りえない。
>結局、元軍が上陸する地点は肥前や博多湾などと限られた地点が想定され得るのであって、日本側は
>そこを強固にしていれば良いだけの話。
南宋、高麗から日本の地理を知り得るわけだ
ならば、肥前や博多に上陸する公算大との判断はともかく
他の地域への上陸を無いと断ずるのは危険じゃないかい?
あんたの考えは、内線作戦における主動の原則、および警戒の原則に反してるよ
>>839 弘安の役の話なら「高麗軍」は東路軍の一部でしかなかったけど。
どういう意図で高麗軍だけをピックアップしてるの?
>南宋、高麗から日本の地理を知り得るわけだ
ならば、肥前や博多に上陸する公算大との判断はともかく
他の地域への上陸を無いと断ずるのは危険じゃないかい?
どこが危険なのか意味不明だな。当時の南宋人が行動できる範囲内は
博多などに限られている。
よって、彼らが有する知識もそのあたりのみだということがわかるわけだ。
日本側はそれに対応したら良いだけの話。
中世の地理の知識を考慮せず、元軍の作戦構想を現代的な軍事学的に当てはめようとする
あんたのは考え方は中世では有り得ない。
843 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 13:01:03.84 ID:jUC233HR
>>842 作戦の原則は、中世どころか古代から普遍だぞ
過去の先例を軍事学的見地から分析するのが戦史研究であり
指揮官の決心にかかわる事柄を考察するのが、戦術研究だ
ここは考古学や史学を論ずる板ではないのだから、戦術論に話を絞るべきではないのかね?
>>843 全く未知の土地に上陸する作戦など普遍ではなく異常。
そんなのは研究ではなく、単なる妄想でしかない。
そもそも、大軍が上陸できる浜は限られているわけだが。
元軍は見ず知らずの土地の沿岸をうろうろしながらまず上陸地を選定しなければならない。
それも、浜を発見したとしても浜から太宰府に通じる「道」がなければ、上陸しても
全く意味が無い。
たとえ、適地の浜を発見しても、太宰府までの道がわからない。
調べるのに、時間も相当費やすだろう。
さらに大量の兵糧を下ろして、遠い行軍で運ばなければならない。
また、上陸したところに大軍を養えるだけの現地調達を行える保障もない。
そんな危険を冒してまで、見ず知らずの土地に上陸する意味は皆無。
結局、目標の太宰府近辺まで船で軍勢を運ぶのがもっとも手っ取り早くて確かだ。
846 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 13:17:53.18 ID:jUC233HR
>>844 つまり
元軍が武力侵攻を決心して以降
弘安の役までの間に、情報活動を行い得ず
かつ、侵攻軍による偵察も阻止できたと現地指揮官が確信できる根拠があったの?
847 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 13:18:52.38 ID:jUC233HR
>>845 >そもそも、大軍が上陸できる浜は限られているわけだが。
>元軍は見ず知らずの土地の沿岸をうろうろしながらまず上陸地を選定しなければならない。
事実、そうやってる間に遭難したんじゃないんかい?
事前に日本に出入りしてる商人とか船乗りから聞き取りするなりで
凡そのところは把握してるんじゃないかと思う
問題は今船から見えてる浜や上陸した浜が
事前調査して目星つけたり知ってたりする浜なのかどうかがよく判らんことだろうな
>つまり 元軍が武力侵攻を決心して以降
弘安の役までの間に、情報活動を行い得ず
かつ、侵攻軍による偵察も阻止できたと現地指揮官が確信できる根拠があったの?
元使の趙良弼は日本に来た際、日本のことをこと細かくメモしていたが
文永の役以後は、元の使節団が日本に入ってからは、日本側は生きては
返さないよう態度を変化させてる。
つまり、日本側は、情報が元に伝わる事を警戒していた証拠であり、そんな中で元が
日本の情報を得るのは不可能。
>事実、そうやってる間に遭難したんじゃないんかい?
うろうろなどしていない。東路軍が博多湾から撃退された後、
元軍は平戸島〜鷹島間で1ヶ月を費やしている。
そもそも、防御に強固な体勢が構築されていた肥前、筑前沿岸の上陸適地の選定を
行えるわけがない。調べに近寄るだけで武士が駆けつけてくる。
伊万里湾にいながら、そこから上陸しようとした気配が皆無って凄いよな。
蒙古襲来絵詞見れば、台風の後も船が相当数残っていたのに、十万以上の兵が全く局面打開できないまま
掃討されてる。
NHKの番組でベトナムがクビライの第三次日本侵攻計画を頓挫させたみたいな
言い方していたけど、そうなの?
バクダン河の戦いについて細かく書かれた本って探してみたけどあんまり無いね。
>>851 モンゴルの対ベトナム戦なら山本達郎の『安南史研究』にメチャ細かく書かれてる。
古本屋なら20〜30万くらいで買えるはず。
で、実際のところベトナムがクビライの第三次日本侵攻計画を頓挫させたみたいな事実なない。
ベトナム戦の最中でも、それとは別に遥かに強大な対日侵攻部隊が準備されていたし。
第三次日本侵攻計画が頓挫したのは、結局のところモンゴルが日本に勝てないと考えていたからだよ。
ベトナムとの関連は、せいぜい家臣が第三次日本侵攻の中止をクビライに説得した際、
「ベトナムごときに苦戦してるようじゃ、遥かに難易度高い対日戦で勝てるわけありません」って
引き合いに出したことくらい。
853 :
名無し三等兵:2012/11/15(木) 15:55:42.32 ID:jUC233HR
>>849 「使者を返さないから不可能」
「〜わけがない」
それじゃ、大隊S-2も務まらんぞ
逆に陳朝の1285年以降の元に対する敵対姿勢は弘安の役(1281年)における元のかつてない
大敗北も関係してんじゃないのかな?
>>854 元がベトナムに派遣した軍船は500艘で日本へ派遣したのは4400艘らしいから
絶対にベトナムの方が日本のお蔭様様な感じがするな、
元軍が兵糧切れで陸路撤退中の勝利>ベトナム
で旧南宋から海路で補給する検討もされたけど船不足で断念
それ可能だったらハノイ占領継続されてたし
元軍は気候への適応は出来てたの?
海の向こうで十万の軍が敗北したなんてニュースが入ってきたら
よし、俺たちもひっくり返してやるって気にはなるかもね。
>>856 >船不足で断念
なんで船不足なんでしょうね?ひょっとして海の向こうの国を攻めたけど大敗北して
大量の船を失ったこととと何か関係あるのかな?
859 :
名無し三等兵:2012/11/16(金) 14:36:47.12 ID:IWsz5pFy
勝ち勝ち山の狸一号、略して一号君と呼ぶとしよう。
一号君の言うことはころころ変わる。
>>806 >日本側にとって元軍が上陸を終えるまではどこから上陸してくるか予想はできない。
>よって、博多の浜辺の沖の浜に日本軍の軍勢を集中するのは当然のこと。
>上陸を終えた部隊と違って海にはまだ 後方に上陸に続く部隊もある。
>>812 >元軍がどれくらいの兵力規模でどれほどの軍船で早良郡に上陸するのかを一部始終目撃して
>いたはずだ。つまり日本側は元軍が上陸した時点で敵の兵力規模の分析を終えている。
>(中略)(強力な軍隊と聞いている)元軍と戦うことに警戒し、博多からの上陸の可能性が無く
>なったにもかかわらず、博多で迎撃しようとしたのだろう。
これが同じ人が続けて書いたコメントかと目を疑うが、これは私の質問
>>809で変わったものだ。
まあそれはいいとして、現在のところの一号君の意見は:
・景資は元軍の兵力・上陸地点を分析して、早良郡に主力が上陸することを把握していた。
・しかし景資は元軍の実力を警戒した。
・そこで上陸の可能性がない沖の浜に日本軍主力を布陣させた。
・早朝に赤坂の敵先鋒隊が撃退されたので、直ちに作戦変更して全軍を鳥飼潟に向かわせた。
なんとも珍妙かつ理解不能だ。こんな作戦をする大将は部下の信頼を失ったであろう。
860 :
名無し三等兵:2012/11/16(金) 14:38:24.30 ID:IWsz5pFy
これに対して私の意見は簡単明瞭である。
・景資は元軍主力が博多に敵前上陸することを予想して、日本軍主力を沖の浜に布陣させた。
・赤坂を含む鳥飼潟周辺の敵には一部をもってこれに対応した。
・鳥飼潟周辺の敵軍が次第に増強され、遂にこれが主力と判明したので、やむを得ず博多を撤収し、
全軍を鳥飼潟に向かわせた。
というものである。沖の浜から鳥飼潟への正面変更は早朝に一挙に行われたのでなく、見極めの
ためのある程度の時間を要した。
なぜならば大軍の上陸には時間がかかり、かつ生の松原、今津など西方に上陸した部隊もあり、
元軍の主力が揃うには時間がかかったからである。
鳥飼潟周辺に敵主力が現れたら、なぜ博多を放棄してまでこれに向かわざるを得ないか。
それは地図を見ればわかる。元軍は鳥飼潟周辺から博多をバイパスしてまっすぐに大宰府に向かう
ことができる。赤坂から水城・大宰府までは古代の官道があった。中世に間道が廃れてもそれに
変わる一般道があったであろう。
さらに道路に頼らずとも、鳥飼潟から水城までは自然の障害物はなにもない。
元軍は水城を攻めるのに博多を経由する必要はないのである。元軍にその作戦があったかどうか
はわからないが、日本軍はそれを恐れなければならなかった。日本軍が博多を放棄して鳥飼潟に
向かったゆえんである。
861 :
名無し三等兵:2012/11/16(金) 14:41:00.24 ID:IWsz5pFy
>>860 訂正:
間道 → 官道
それに変わる → それに替わる
862 :
名無し三等兵:2012/11/16(金) 15:20:39.22 ID:qgb19ejS
>>860 そもそも博多が放棄されたという根拠がない。
博多が何の被害も受けなかったことから、勝利の瞬間まで日本軍が博多を保持していたのは明白。
先生
「敵軍は博多をバイパスして目標である太宰府に向かえる」かつ「博多は現時点で脅威にさらされていない」
状況下で、敵主力の撃破に向かうのは「博多の放棄」なのでしょうか? 博多防衛の最善手に見えるのですが。
864 :
名無し三等兵:2012/11/16(金) 20:05:23.56 ID:RLrj1RN0
>>863 都市博多の放棄じゃなくとも
博多陣地の放棄
あるいは、防御作戦の放棄じゃね?
攻勢移転が決心されリャ、それ以前の防御陣地や計画は放棄したってかまわんだろ
>>864 でも、その理屈で行くと極端な話、京都や鎌倉から前線である九州に助太刀に行くのを
京都あるいは鎌倉の放棄と呼ばないといけなくなりませんか?
前線の押し上げは本拠地の放棄かw
867 :
名無し三等兵:2012/11/16(金) 21:33:54.99 ID:RLrj1RN0
>>865 京都・鎌倉防衛の放棄だよ
普通は防衛部隊を残すよね
でも、緊要な正面に戦力を集中するため、他の正面を捨てる判断も必要
全てを守るものは、全てを失う。経済の原則ってやつだな
868 :
名無し三等兵:2012/11/16(金) 21:38:15.33 ID:RLrj1RN0
>>866 策源地(本拠地なんて戦術用語、誰に教わった?)の移転だな
段列なり司令部なりを前線にあわせて推進すれば、元の地域は放棄するべ?
用もないのに確保し続けるか?
>>860 どこがコロコロ変わってるのか理解できないな。
>日本側にとって元軍が上陸を終えるまではどこから上陸してくるか予想はできない。
よって、博多の浜辺の沖の浜に日本軍の軍勢を集中する。上陸を終えた部隊と違って
海にはまだ 後方に上陸に続く部隊もある。
=よって博多を殻にはできない。
↓
>元軍がどれくらいの兵力規模でどれほどの軍船で早良郡に上陸するのかを一部始終目撃して
>いたはずだ。つまり日本側は元軍が上陸した時点で敵の兵力規模の分析を終えている。
>(中略)(強力な軍隊と聞いている)元軍と戦うことに警戒し、博多からの上陸の可能性が無く
>なったにもかかわらず、博多で迎撃しようとしたのだろう。
このことは『蒙古襲来絵詞』で「赤坂は馬の足立ちが悪いのでここで戦うべきでなく
博多に攻め寄せてきてから、迎撃しよう」と景資の被官が触れ回っていることから、そのことを裏付けている。
=沖の浜からの上陸の可能性は無くなったものの、だからといって早良郡に向けて一斉に
軍を向けなかった理由。
↓
ところが、強力な軍隊と警戒していた軍隊が赤坂の戦いで楽々と撃破された。
景資は御家人に早良郡へと追撃を命じるのであった。
このことも、竹崎季長の郎党が、赤坂の戦いのあとに「味方が続いて参りましょう。
後方から味方が現れてから合戦いたしましょう」という証言から、竹崎一党も
景資が赤坂の戦いに乗じて、早良郡へと御家人に馳せ向かうよう命令を下さすだろうと
考えた。現場にいる武士らはそれを当然のことと考えていた証拠。
なぜなら、竹崎は先駆けを行うにあたって、景資の「沖の浜を固めて、元軍が攻めてきたら
迎撃しよう」という作戦しか知らされていなかったのだからな。
しかし、後方から日本軍が現れると竹崎らは確信していた。
なぜか、竹崎らは赤坂の戦いで元軍が追い落とされたことから「景資が早良郡へと
御家人に馳せ向かうよう指示をするのは当然のこと」と思っていたからだ。
>日本軍はそれを恐れなければならなかった。日本軍が博多を放棄して鳥飼潟に
向かったゆえんである。
日本側がそれを恐れていたならば、そこに軍勢を配置されているべきだろう。
古代の官道が中世に生きているとは限らない。
古代にあった道が中世には廃れて、その存在を忘れ去られていたのかもしれない。
なぜなら、日本側はその官道とやらに軍勢を配置してもいなければ、元軍がそれを
目指した形跡もない。
始めのころは日本側は博多で元軍を迎撃しようとしていた。そのことは中世にはその官道が
生きていなかった証拠だろう。
結果がすべて。
>>860 ・景資は元軍の兵力・上陸地点を分析して、早良郡に主力が上陸することを把握していた。
こらこら、こちらの言を勝手に改変するなよ。
博多沿岸は日本側の領域だ。大海原を船団がある一定の場所に上陸しようとすれば
大海原であるために敵の規模や船団数は把握しやすい。また、上陸地点は直に目撃するのも容易だ。
・しかし景資は元軍の実力を警戒した。
『蒙古襲来絵詞』によると、景資は赤坂で元軍と戦うのを警戒して博多で迎撃しようという作戦をたて
守勢にたっていた。少弐家は南宋人と深い繋がりがあり、元軍の強さを聞かされていただろう。
よって、始めから攻勢には出ず、敵側の動きを待ったことがうかがえる。
・そこで上陸の可能性がない沖の浜に日本軍主力を布陣させた。
布陣させたのではなく、そのままにした。それは上記のように元軍という
強力な軍隊の力量がわからなかったからだ。
元軍が博多に攻めてくるまで、下手に動かず現れたときに騎射を加えたらいい
といのが景資の判断だった。
・早朝に赤坂の敵先鋒隊が撃退されたので、直ちに作戦変更して全軍を鳥飼潟に向かわせた。
強力な軍隊と考えて、守勢にたっていた景資であったが、赤坂の戦いで元軍の先鋒隊が壊走したため
一気に守勢から攻勢に転換したということだろう。
敵軍本隊と会敵した上で追撃のために戦線を押し上げるのを策源地の放棄とは言わんよ
陣地を前進させただけでしょ
意味もなく地域に軍を置いておく方が戦力分散であり、利敵行為じゃん
ちょっと待った。
博多に戦力を残さず、敵主力に向かったのを批判している人とか
あまつさえ、その失策で博多を奪われたと主張している人がいるの?
あるいは進軍か放棄かはたまた攻撃かと言った言葉だけの問題?
>>860 改めてみると突っ込みどころ満載だな。
>・景資は元軍主力が博多に敵前上陸することを予想して、日本軍主力を沖の浜に布陣させた。
『蒙古襲来絵詞』では、明らかに赤坂の元軍を警戒しており、沖の浜に陣を固めるように
指示したのは陸上の敵に対する警戒があったからだともいえる。
博多に陣を強いていれば、海から博多に攻め込まれても、陸から攻め込まれても
対応しやすいのが沖の浜だった。
>赤坂を含む鳥飼潟周辺の敵には一部をもってこれに対応した。
そんな指示を出していない。景資が指令として出したのは沖の浜に
日本軍が集結することだ。
確かに竹崎らが先駆けを願いでて許されているが、それは特例であり
一部をもって対応してなどいない。
・鳥飼潟周辺の敵軍が次第に増強され、遂にこれが主力と判明したので、やむを得ず博多を撤収し、
全軍を鳥飼潟に向かわせた。
おいおい、元軍は大海原を船を使わずに瞬間移動して陸地に上がったとでもいうのか?
博多沿岸は完全に日本側の領域だ。どこに元軍が上陸して、どこに主力が上陸したかを
日本側が知らないわけがない。
西方から元軍が続々と上陸して増強されるのは分かりきっていること。
沖の浜の正面に敵がいないにも関わらず、西方から大軍勢が上陸したのを知っていながら
軍を動かさなかったのは「これが主力と判明していない」からではない。
大海原の元の船団の大部分が博多湾西方に向かったのが見えてる時点で
すでに早良郡へと向かったのは元軍の主力であったことはわかりきっている。
>>867 忘れちゃいけないのは
文永では出動した兵数が不足(九州御家人だけしかも一部不参加)していたため
防衛部隊を残していく余裕がなかったこと
二度の襲来の後
復讐戦をする力って、元寇を迎え撃った鎌倉幕府にはあったの?
878 :
名無し三等兵:2012/11/17(土) 21:29:16.76 ID:jwhfZcJB
>>875 >そんな指示を出していない。景資が指令として出したのは沖の浜に日本軍が集結することだ。
>確かに竹崎らが先駆けを願いでて許されているが、それは特例であり一部をもって対応してなどいない。
菊池勢があるではないか。
菊池の赤坂攻めについては以前に大論争があったが、私は菊池に対して景資からの「威力偵察」の指示があったと
思っている。また例え指示がなくて竹崎同様に自主出撃だったとしても、それを黙認したのなら指示したのと同じことだ。
また、竹崎を救援した白石勢もまた自主出撃であろう。恐らく、竹崎が黙認されるのを見た白石は納まらず、竹崎の後詰め
をやりたいとかなんとか言って、これもまた黙認されたのだろう。そうだとすればこれも指示したのと同じことだ。
その結果は赤坂と鳥飼塩浜から少なくとも一時的に敵を撃退したのだから立派な「一部をもってこれに対応」だ。
このように、たとえ正式な指示はなくとも事実上の「一部をもってこれに対応」はあった。
また福田は確かに「おのおの鳥飼潟に向かえ」という指示があったことを述べているが、この指示が全軍に出されたものか、
一部に対して出されたものかは分らない。もし一部に対して出されたとすればこれもまた「一部をもってこれに対応」だ。
また全軍に出されたものだとしても、何時の時点であったかはわからない。菊池の帰着後、直ちに出されたということは
証明されないからだ。もし早朝よりずっと遅い時間に出されたとすれば私が言った第三の段階、すなわち「全軍鳥飼潟へ」に
相当するのだから、どうということはない。
> 私は〜〜思っている。
いい加減やめてくんないかね。史料をだせっての。
870を三行で要約
武士強い
武士は最強
武士ばんざい
×870
○878
>>877 文永のあとの高麗遠征中止の経緯がいまいち分からないんだ。
政治的陰謀説、時宗の暴走説、出兵が決定されたが南宋が窮地に追い込まれて防御に転換したとか、
1人1説状態じゃないかな。臨安窮地説が面白そうだけど。
1279年に江南を訪れた日本の貿易船は4艘で2000人が乗船してたらしい。
1艘500人。
異国征伐もやろうと思えば余裕で出来たよね。
そのレベルの船は日本でホイホイ作れるのか?
普通の日本船って、丸木舟が土台だろ
それと、攻め込むとなると地の利が逆転しない?
嵐の海を越えて攻め込む側になるわけだし。
>>884 倭寇が高麗荒らし回った時も秀吉軍が朝鮮に攻め込んだ時も嵐なんて
全く問題にならなかったじゃん。
元軍は日本軍と戦うか嵐に遭うかの二者択一で嵐を選択したようなもの。
地の利云々の問題じゃないよ。
>>885 つまり、日本軍が逆の立場で嵐か元軍(というか高麗軍?)の選択を迫られたら
高麗軍と戦う方を選択するだろうと。
887 :
名無し三等兵:2012/11/18(日) 09:20:27.21 ID:TeeU66Tr
>>879 :名無し三等兵:2012/11/17(土) 22:12:15.20 ID:???
> 私は〜〜思っている。
>いい加減やめてくんないかね。史料をだせっての。
「思っている」がお嫌いなようだが、私は自主出撃でも命令でもどちらでもよいと
言っているのだから「史料」を出す必要はない。
888 :
名無し三等兵:2012/11/18(日) 09:35:06.15 ID:q60lsM0/
>>882 その500×4のうち
どれだけを陸戦要員に割けるんだ?
北条一門が推進派、安達泰盛が反対に回ったのだっけ。
>>878 赤坂と鳥飼塩浜から元軍撃退したのは「一時的に」じゃないだろ。
一旦日本軍が優勢になってしまえば、元軍が形勢を逆転するのは不可能。
その後も上陸が続いていたなんて絵に描いたような戦力の逐次投入で、元軍は全く組織的な抵抗が
出来ないまま一方的に殺戮されるだけ。
元軍は結局そのまま撤退に追い込まれたんだよね。
ところで、元の軍隊が命じられた任務は何なの?
1 お前らが日本征服してこい
2 次の部隊を送り込むために九州に適当な占領地を作れ
3 ともかく上陸できればOK
4 高麗の王子がうるさいから、形だけ攻めてこい。
5 その他
ベトナム征圧より多い部隊を3回(うち最後は計画中止だけど)も派兵しといて4はないと思うの
2だろ
3万の兵力でカバー出来る面積なんて博多から太宰府くらい
894 :
名無し三等兵:2012/11/18(日) 15:43:57.73 ID:d64zkobi
日本での合戦では、焦土作戦というのはまず取られることはない
なぜなら占領後にその土地を領有するのだから
自ら土地を破壊して、領民を虐殺しても負担が増えるばかりだからだ
しかし朝鮮の役では、明と朝鮮の連合軍はそれをやった。
この点が日本軍の誤算ではなかったのかね?
3万の兵力なら当然日本征服がノルマだよ。
オゴデイ汗が派遣したタマ軍は3万の兵力でアフガン、ペルシアを平定し、最後はルームにまで侵攻してる。
ジャワ侵攻軍なんて1国侵攻するのに兵力5000のの船500艘だった。
当時の世界なんてそんなレベルだよ。
東欧では兵力1000人程度のドイツ騎士団がポーランドやリトアニアと互角に渡り合っていたし、
ビザンツ帝国は文永の役の3分の1の兵力しかない第4回十字軍に征服されちゃうし。
3万の兵力で九州すら攻め落とせない時点で、当時の日本は世界で突出した超大国だったってこと。
896 :
名無し三等兵:2012/11/18(日) 18:17:30.53 ID:DJIVSGJi
>>890 だから「少なくとも」をつけている。
「少なくとも」をつければ一時的と永久的と両方の場合を含む。
世界の歴史的なGDPの推移を見ると近代に入るまで中国とインドがダントツなんだけど、
日本も安定して上位に入ってるんだよね
>>895 脱線だが、兵力5000で船500艘って、船一隻あたり10人って少なくない?
899 :
名無し三等兵:2012/11/18(日) 19:27:47.66 ID:d64zkobi
>>895 当時の幕府は少なくとも三十万の兵力を動員出来た。
その点から考えてみて、たとえ神風が吹かなくとも
蒙古軍は追い落とされた可能性が高い
900 :
名無し三等兵:2012/11/18(日) 21:03:39.85 ID:DJIVSGJi
今、色々元寇について勉強中なんですけど、元寇に詳しいみなさんに質問なんだけどさ。
高麗史の「至元十八年六月十八日、従葛剌歹萬戸上船至日本、値悪風船敗、衆軍十三四萬、同栖一山」
ってのを根拠に6月18日に江南軍は大陸を出航したって元寇の本を確認したらほとんどの本で書いているんだけど
素人の私が漢文を読んでみると「6月18日に葛剌歹萬戸に従って日本に至った」と読めるんだけど違うの?
日本に到着したのが6月18日って意味な気がするんだけど…。
あ、間違った。
「6月18日に葛剌歹萬戸に従い上船して日本に至った」って読める気がする。
モンゴル帝国はピーク時には当時の世界人口の半数を支配していた
各地に少数しか派遣していないのは圧倒的機動力で数の劣勢を跳ね返せたから
むしろ日本や中国式に大軍を遠征させていては補給の負担から到底大陸を席巻することは出来ない
日本が超大国だなどと当時の実情を知らなさすぎだ
「至元十八年六月十八日、従葛剌歹萬戸上船、至日本」
確かに点をずらせると「6月18日に葛剌歹萬戸に従い上船。日本に至る」とも読めるし
どこで区切るかで意味が違うような…。
でも、「葛剌歹萬戸に従い上船」って意味がおかしくない?
「上船」で区切るなら「6月18日に上船。葛剌歹萬戸に従い日本に至る」ってなると思うんだけど…
連投スマソ。
もし、そうなら江南軍は台風を受ける1ヶ月半も日本にいたことになる…。
どうなんだろ?
訂正訂正。
もし、そうなら江南軍は台風を受ける1ヶ月半も前に日本にいたことになる…。
>>903 日本には少数送っても多数送っても勝てなかったと
日本最強じゃね?
>>903 モンゴル帝国が当時の世界人口の半数を支配してたピーク時に、2度に渡って
圧勝したのが鎌倉日本。
文句なく当時世界最強の超大国だよ。
>>910 防衛戦に勝っただけだから、最強ってのは言い過ぎだな
動員人数を考えれば、軍事大国であることに間違いはないが
>>894 それは日本人の考え方
外人は焦土化なんて簡単にやる
まして遊牧民族の考え方なんだから
913 :
名無し三等兵:2012/11/19(月) 10:27:38.13 ID:1/CI2Xzn
また少し考え方が変わった。
以前に、少貳景資が住吉神社のそばにいたのは、想定される敵の上陸方向に対して沖の浜防衛線の
後方に司令部を置いたのであろうと書いた。しかし考えて見るとこれはおかしい。
第一に住吉神社は沖の浜と離れ過ぎている。直線で1.5kmぐらいある。第二に住吉神社もまた海浜
であり、敵の上陸があり得る。実際にここには、後に石築地も設けられた。
景資がいたこの場所は、全軍の司令部であると同時に、湾奥の上陸可能地点を防衛するとともに
西からの侵攻をここで食い止めるための側防陣地だったのではないか?
つまり博多防衛の陣地は竹崎一門がいた箱崎陣地、主力がいた沖の浜陣地、そして景資がいた
住吉陣地の三カ所にあったのではないか?
そして菊池や白石はこの住吉陣地から、赤坂や鳥飼潟に進発したのではないか?
こう考えればいろいろな意味でつじつまが合う。例えば白石が沖の浜陣地にいたとするならば
白石は竹崎が景資と会ったあと鳥飼潟に向かったことも知り得ないし、知ったとしても救援する
には時間がかかり過ぎる。
以上のように考えるならば、福田の言う「おのおの鳥飼塩浜に向かえ」という指示についてもまた
違った見方ができる。この指示が日本軍の全軍でなく一部に対して出されたとするならば、その
一部とはこの住吉陣地に配置された部隊だったと考えることができる。
そして、住吉陣地に配置された部隊で対応し切れなくなって(あるいは勝ち勝ち山から見るならば
一挙に決戦するために)遂に沖の浜および箱崎の日本軍をも動かしたときが博多放棄にあたる、と
考えることができるのである。
下手の考え休むに似たり
毎度毎度、913の相手してあげてる人には頭が下がるわ。
面倒臭くて疲れるだろうに。
長文の人についていつも思うのは、自分の頭の悪さをこんな形で晒して平気なんだろうかということだな。
見るたび気の毒になる。
>>911 ヨーロッパは未知数だからなぁ
ハンガリーの田舎王国で暴れて帰ってしまったし
>>912 え? 遊牧民って原っぱとかを大事にするから
日本中を「焼畑」するとは思えないけど、違うの?
この時代、司令部の置き方ってどうだったんだろ?
通信手段が限られるって事は、高所から敵を見下ろして臨機応変の指揮とか出来ないだろうし
下手に前線から離れた所にいたら、司令官とその護衛はただの遊兵になっちゃいそうだ。
いったん方針が決まった後は、いっそ先陣だけは他に譲るくらいのつもりで敵に突っ込んでいく方が良いかも
遊牧騎馬民は普通に焦土作戦やるよ
住民に、可能な限りの家財・資産(食料含む)を持って逃げさせて、後は燃やして敵部隊が現地調達出来ないようにして干上がらせる
ペルシア帝国もそれでスキタイに勝てなかった
921 :
名無し三等兵:2012/11/20(火) 19:12:22.83 ID:6MBb780R
おまえら頭いいな
922 :
名無し三等兵:2012/11/20(火) 21:33:35.80 ID:qd5iEGZ+
ハンガリー=フンガリア
異民族同士の戦いなんてのは、国内の資源が欠乏してきたから、じゃあ他国から
奪おうぜっていうノリなんだから、収奪した領土に先住民がいても邪魔なだけだよ
男は皆殺しか全員奴隷、女は全員奴隷、丸ごと奪った領土含む資源を君主が分配
するってのが基本だろう
文化的な同質化と封建制・絶対君主制が進んだ地方だと、支配階級同士の戦争だけで
済んで、領土内での略奪虐殺が控えられる場合は欧州とかでもあるけどな
その意見自体は否定しないが元寇に関しては当て嵌まらなくね?>食い詰めて侵略
投資的な物じゃないの?
余裕が有る内に植民地GETして勢力圏拡大でウハウハ的な
人間の欲望は限りが無いからな
余剰の人口さえあれば、侵略を繰り返すって事はあるよ
重要なのは国内の相対的な欠乏であって、絶対的な欠乏じゃない
国土自体は肥沃なままでも、国内に経済的不満がある人民が一定数
以上いれば、侵略を行う理由にはなる
パフォコンさん日本史板に帰った?
また、向こうで馬鹿なことを言ってたよ。
日本軍を13kmも向こうに敗走に追いやったのをチャンスに元軍は
危険なため中世で夜間での出航が避けられていた玄界灘を出航したとか
なんとか。
出航したその夜に暴風雨に遭ってるってことは、元軍は悪天候を見計らいもせず
撤退したということ。
悪天候でかつ、危険な夜間撤退を強行したのは、元軍は武士が恐かったから以外考えられない。
そして、13kmも向こうに敗走させたなら、元軍はそんなに怯える必要は無かった。
勝利した軍勢が慌しく撤退するわけがない。
結局、元軍は勝利していなかったということに他ならないのだが。
日本史板を基地外スレにしてしまえばいい
あっちには棄民くんが再び出現してるようだし、スレも残り少ないから
もう埋まったよ日本史版。
932 :
名無し三等兵:2012/11/22(木) 09:14:02.36 ID:YfjMFjPO
>>929 >悪天候でかつ、危険な夜間撤退を強行したのは、元軍は武士が恐かったから以外考えられない。
それでいいよ。大賛成。元軍は武士の恐さが身に沁みた。
>そして、13kmも向こうに敗走させたなら、元軍はそんなに怯える必要は無かった。
それは我々が後智恵で考えること。
日本軍がどこまで撤退したかなんてその場ではわからない。
それに新手の日本軍が夜襲して来ないとも限らない。怯える理由はある。
>勝利した軍勢が慌しく撤退するわけがない。
勝利したと言っても日本軍が自主的に撤退したのに過ぎない。
日本軍の潰滅に至らなかった。
>結局、元軍は勝利していなかったということに他ならないのだが。
その通り。彼らが欲したような勝利は得られなかった。
彼らに必要なのは圧倒的な勝利、日本軍の潰滅だった。
それが得られず、自軍の損害や消耗も大きかったから撤退を考えた。
どうせ撤退するならせっかく日本軍が退いてくれた今夜がチャンスだ。
このように考えればすこしも不自然ではない。
じぶんが元軍司令官の立場になったつもりで考えればいいのだ。
>それに新手の日本軍が夜襲して来ないとも限らない。
日本の夜襲に怯えるということは日本軍が近くにいると元軍が認識していたことに
なるがいいのか?
>どうせ撤退するならせっかく日本軍が退いてくれた今夜がチャンスだ。
元軍は不眠不休で撤退していったわけだが、日本軍を敗走させたなら
慌しく撤退する必要はない。翌日じっくりと撤退してもよかったはずだが、
元軍は夜陰に拘った。日本側の追撃を恐れていたからとしか考えられない。
自分が勝利した元軍の司令官であるならば、雲行きの怪しい天候を無視して
中世では危険であるために避けられていた夜間の出航を強行するなど
愚策は行わないな。
案の定、元軍は撤退を開始しだした「その夜に」暴風雨を受けて大損害を
被った。撤退を始めた夜に暴風雨を受けたのであるから、いくら中世でも
天候の見極めくらいはできたはずだ。
ところが雲行きが怪しいが、それでも元軍は陸上にいることに怯えた。
この暴風雨を受ける危険に挑むより、自然休戦したその夜に「夜陰に紛れて」
撤退することに拘ったのが元軍。
まさにこの無様な強行撤退では、勝者の面影など微塵も無い。
ぎゃーこっちきた
索敵網を張って、翌朝出航でええやん。
まさか日本軍が伝説のアルキメデス式ソーラレイをぶちかましてくるなら別だが(笑)
危険な夜間の撤退に拘ったのは、元軍自ら私達は勝利できませんでしたよって
言ってるようなもん。
金方慶もクドゥンに「背水の陣を敷いてまた戦わして欲しい」と言ってるわけだし。
「また」ってことは「今回の戦闘は失敗だった=日本軍に勝てなかった」と金方慶が
証言してくれてるわけだし。
937 :
名無し三等兵:2012/11/22(木) 09:59:37.60 ID:YfjMFjPO
>>933 >元軍は夜陰に拘った。日本側の追撃を恐れていたからとしか考えられない。
その通りだ。元軍は撤退現場を追撃されることを恐れた。
>>翌日じっくりと撤退してもよかったはずだ
翌日になって日本軍が戻って来たら防戦しながらの撤退になる。
司令官としてはダンケルク、ディエップの状況、すなわち敵前水際撤退はどうしても避けたい。
>まさにこの無様な強行撤退では、勝者の面影など微塵も無い。
その通り。勝者の面影はない。
海上戦力で圧倒していたら海の上のほうが安全なの?
>翌日になって日本軍が戻って来たら防戦しながらの撤退になる。
戻って来るってことは元軍は日本軍を敗走に追いやってない、勝ってないってことを
認めるわけだな?
13kmも向こうまで敵軍を敗走させたなら、翌日の敗軍の攻撃など心配する必要はないからな。
そのことは『高麗史』もみとめている。日本軍との戦闘を「暮れに及びてすなわち解く」としか
書いていない。勝ったなど一言も言っていないのだ。
そして軍議により、戦況は劉復亨が負傷したことや「兵が少ない」、「兵が疲れきっている」という
元軍の苦戦の様子がわかる。
元軍は勝つこともできず、なんとか一日持ちこたえた。それが戦闘後の元軍の姿だった。
940 :
名無し三等兵:2012/11/22(木) 12:11:08.41 ID:YfjMFjPO
>>939 >戻って来るってことは元軍は日本軍を敗走に追いやってない
事実として日本軍は敗走や潰走ではなかった。あくまで自主的撤退だった。
八幡ノ蒙古記に表現してある通りだ。
だからこそ元軍は日本軍が翌日戻って来ることを恐れた。
>(高麗史は)勝ったなど一言も言っていないのだ。
「倭兵大敗伏屍如麻」はやはり戦闘では勝った、という表現だろう。
元史も「入其国戦敗之」と書いて勝ったと認識している。弘安の役ではこれを
言っていないから区別している。
勝ったけど彼らに必要な決定的勝利ではなかった。
>>932ですでに言った。
>元軍の苦戦の様子がわかる。
その通り。苦戦だったことは元史にも表現されている。
>>940 >事実として日本軍は敗走や潰走ではなかった。
八幡ノ蒙古記に表現してある通りだ。
『八幡ノ蒙古記』にはそのような記述は無い。
「蒙古ひたやふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱入」したとあり、
「しよせん武力及はす、水木城に引こもり、さゝへてみんと、逃したくをこそ、
かまへたりけれ、これをきくより、おそしやとて、われさきに落ゆくか、
多かりけれは、いよゝゝおくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、」
とあるように明らかに日本側が戦意を喪失して敗走しだしたとている。
そして、神が現れて元軍を撃退したというのが蒙古記のストーリーだ。
>「倭兵大敗伏屍如麻」
それは高麗軍中軍に襲い掛かったわずかな日本軍の戦闘を述べているものであって
総体的な戦況を言っているのではない。それも金方慶が大喝すれば、逃げていく程度の
多くても数十騎程度の極小規模な軍勢との戦いだ。
本戦は「諸軍與戰、及暮乃解」だ。小規模な戦いでさえ、自慢気に載せている高麗史が
本戦で元軍が日本軍を敗走に追いやったらなら、「諸軍與戰、及暮乃解」の一言で濁した
文章になろうはずがない。
また、この後の軍議で金方慶は「背水の陣を敷いて『また』戦わして欲しい」と言ってる。
「また」ということは「今回の戦闘は失敗だった=日本軍に勝てなかった」と金方慶が
認識していたことに他ならない。
>>940 八幡ノ蒙古記は偽書だろ。
八幡愚童訓に後から竹崎、白石、大矢野等ら蒙古襲来絵詞の登場人物を付け加えたとしか考えられない。
他にも大勢武士がいたはずなのに、なぜ主従僅か5騎の竹崎が少弐のもとで散々に戦った武士として
特筆されてるの?
八幡ノ蒙古記から八幡愚童訓が作成されたのなら、なぜ蒙古襲来絵詞の登場人物の名前だけが
八幡愚童訓では抜け落ちてるの?
お前らまたパフォ爺の子守やってんのか。飽きねえな。
>>944 爺なんだから子守じゃなくて介護サービスでしょ。
老人は暇で誰かに構ってほしくて仕方ないだろうし。
ちょうどこのパフォの屁理屈のように元軍は日本軍の放つ強弓の前に手も足も出なかったのです
パフォは身をもって元軍の大苦戦を再現してくれている
軍事的な考察より
元寇に対して、勝ったとみなすorあちらが勝手に諦めたか
の話をしているように思う・・・
武士の勝利!っていう事にしてスレ内で意見を一致させないと、満足出来ない軍事オタク共に軍事的考察なんか無理に決まってるだろ
949 :
名無し三等兵:2012/11/22(木) 21:28:37.68 ID:YfjMFjPO
>>941 >明らかに日本側が戦意を喪失して敗走しだしたとている。
蒙古記は敗走という言葉を使っていないが、君が敗走にしたいならそれでもいいよ。
ただし元軍の追撃を受けての潰走、潰乱ではなかった。劉の小部隊による追撃だけを
取り上げているということは、その他に追撃はなかったと受け取れる。
日本軍は戦意喪失して撤退、元軍はそれを追撃しない、それが「及暮乃解」の様相だ。
ここで八幡ノ蒙古記と高麗史が一致しているわけだ。
>多くても数十騎程度の極小規模な軍勢との戦いだ。
高麗軍とて、兵力だけなら日本軍に匹敵する軍隊だ。これに応戦した日本軍は、戦法として
一度に多くても百騎程度の小集団で懸かったが、それを繰り返して合計ではどのくらいに
なったかは分からない。案外日本軍は高麗軍との前哨戦の段階ですでにかなり消耗していた
かもしれない。
しかし君が、「倭兵大敗伏屍如麻」は高麗軍との前哨戦で、「諸軍與戦」が蒙漢軍が加わった
本戦だと、正しく理解しているのは偉い。尊敬するよ。
ウィキペディアなどは漢文をひんまげて「倭兵大敗伏屍如麻」を壱岐の戦いだとしている。
ウィキも君を見習って欲しいものだ。
950 :
名無し三等兵:2012/11/22(木) 21:29:15.70 ID:YfjMFjPO
>「今回の戦闘は失敗だった=日本軍に勝てなかった」と金方慶が認識していたことに他ならない。
「失敗」はともかく「勝てなかった」については「決定的な勝利を得られなかった」という形で
すでに言っている。だからそれはイシューではない。
>それが元軍の戦勝の証などにはならない。
>それを言い出したら、日本側が勝利した資料もある。
ここでは元史がどう認識したかを話しているのだから日本側の史料はお呼びでない。
>また「戦・・敗之」は定型文にすぎないという見方もできる。
もちろん定型文だ。ただし勝ったときの定型文ね。負けたときに「敗之」とは書かない。
君が引いた例文も全て戦勝の記録だろう?
結局のところ元軍が海上撤退した理由をどう考えるかが全て
一番安全な撤退手段は、もう一度日本軍と戦ってこれを撃破した後
日中に出航することだが、これが出来るならそもそも撤退の必要が無い。
また、何でも良いから攻撃したら任務達成だというなら、対馬を攻撃した時点で帰ればよい。
文献の記述がどうこうという「歴史」の視点では色々論があるかも知れないが、物理的、軍事的な
視点では元軍敗走以外の解釈は難しくないか?
953 :
名無し三等兵:2012/11/22(木) 21:59:59.46 ID:YfjMFjPO
>>952 「敗走」というのは言葉の問題に過ぎない。
言葉の問題という意味では「勝った」「負けた」論争も同様だ。
結局は日本軍の水城への撤退を認めるかどうかが分かれ目だ。
アメリカはベトナム戦争に敗走したんじゃない、国内事情で撤退しただけだ
日本は唐入りに敗走したわけじゃない、国内事情で撤退しただけだ
というわけですね、私わかります
文永の役において、元軍が皇帝から命じられたのは「日本征服」で間違いないか?
間違いないなら、寸土を得ることも叶わず撤退に至ったのは敗北以外の何物でも無い。
その過程で日本軍を何キロ後退させたかなど、正に五十歩百歩だ。
ただし、敗北したからと元軍司令官を叩くつもりはない。4万で日本を征服せよという任務自体が
実行不可能なものであり、それに気付いた時点で即座に危険だが生き残るための、おそらくは
最善策を実行したのは称賛に値すると思う。
957 :
名無し三等兵:2012/11/22(木) 22:32:10.35 ID:YfjMFjPO
>>955 >文永の役において、元軍が皇帝から命じられたのは「日本征服」で間違いないか?
間違いないとは言えないだろう。
「征日本」は必ずしも領土的な征服を意味せず、遠征して日本軍を叩けば「征日本」だ。
>>957 つまり貴殿は、皇帝フビライが万単位の軍勢とそれを運ぶ船を用意して
その司令官に命じたことは
「取りあえず日本まで行ってこい。何でも良いから戦ってこい。戦果は問わない」
だったと主張されるのか?
対南宋攻略の為に通好を求めたけど拒否されたから武力行使したんじゃね?
ある程度叩いて南宋攻略に参加出兵する事を承諾させるのが目的っぽく思える
4万で北九州くらいいけるだろと思ったら武士団にフルぼっこされたと
>>959 日本を支配下に置いて南宋にぶつけるなら、その4万を素直に南宋にぶつけるんじゃ?
4万で屈服すると踏んでいたなら、4万>日本という勘定になるし。
「南宋対策」「征服できなくとも構わない」という発想で考えるなら、日本が南宋に味方して
大陸出兵するのを防ぐために、日本本土を突く(ことで、日本を本国防衛に専念させる)
牽制という見方はどうかな?……普通に報復してくることを想定しないと駄目かも知れんが。
慢心 驕り… 油断っ…!
962 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 01:06:57.30 ID:q/Pw88qt
大陸じゃ少数でもモンゴルイケイケだったしね
文永の役が太宰府の陥落が目的なら蒙古の負け
964 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 02:41:45.47 ID:7Y7153wp
元軍は大規模な軍事行動を二度起こしたが、彼らはこの中で殺戮と破壊のみに終始した。
元の地上軍は、その大部分の戦いで勝利し、九州地方の大部分を席巻した。彼らはほとんど敗れることなく、
多くの将軍が子孫末代まで続くほどの名声を得た。こうした観点から見ると、
元軍が起こした戦争はイピロスのピュロス王やハンニバルが起こした戦争と似たところがある。
ピュロス王やハンニバルともに、彼らが起こした戦争を通じてイタリア半島の広い地域を荒廃させ、
ローマの主導権を脅かし、ほとんどの戦闘を勝利に導いた。しかし結局、戦争そのものには敗北した。
一方、元と彼らの間には異なる点がある。ピュロス王やハンニバルを倒した相手はローマであり、
その後ローマはギリシャを征服してカルタゴを破壊した。
一方、日本は、元による征服は退けたものの、戦争に勝ったとは言いがたいのが実情であり、
再び戦争以前の状態に戻ったのである
九州地方の大部分=対馬・平戸・壱岐など
>>964 それウィレム・ブートの文禄・慶長の役評をいろいろ誤魔化したパクリね。
分からないと思ってた?
<原文>
六年半という期間、日本軍は大規模な軍事行動を二度起こしたが、彼らはこの中で殺戮と破壊のみに終始した。
日本側の地上軍は、その大部分の戦いで勝利し、朝鮮半島地域の大部分を席巻した。彼らはほとんど敗れることなく、
多くの将軍が子孫末代まで続くほどの名声を得た。
こうした観点から見ると、 日本軍が起こした戦争はイピロスのピュロス王やハンニバルが起こした戦争と似たところがある。
ピュロス王やハンニバルともに、彼らが起こした戦争を通じてイタリア半島の広い地域を荒廃させ、
ローマの主導権を脅かし、ほとんどの戦闘を勝利に導いた。しかし結局、戦争そのものには敗北した。
一方、日本と彼らの間には異なる点がある。ピュロス王やハンニバルを倒した相手はローマであり、
その後ローマはギリシャを征服してカルタゴを破壊した。
一方、朝鮮や中国は、日本による征服は退けたものの、戦争に勝ったとは言いがたいのが実情であり、
再び戦争以前の状態に戻ったのである。
詳しいのう
>>959-960 南宋攻略のためは無いよ。
南宋攻略に日本が邪魔なら、ベトナムや大理国みたいに南宋侵攻の前に日本を叩く。
一番肝心の襄陽攻防戦の時に放置しておいて今更南宋攻略のためとか有り得ん。
欧州遠征も中東遠征も南宋侵攻と同時だったけど、それも南宋侵攻の側面作戦かよ?って。
世界大戦で無理矢理類似事例を挙げるなら、
WW1のダーダネルス作戦
WW2のダカール攻防戦
辺りかね?
>>948 あらゆる史料及び状況証拠は武士の勝利を示してるけどな。
どうしてもそれを認めたくない少数の人間が捏造コピペまでして抵抗してるわけで
>>966 元軍は文永も弘安でも九州すら席巻できなかったなぁ
一番シンプルな解釈は、ガチで日本征服に来たけど失敗した
(元の敗因が日本の武力かお天気かは取りあえず置いといて)だろう。
で、この解釈が誤りであると考える理由って有る?
「ガチのモンゴルが日本ごときに負けるなんてあり得ない」
以外で。
973 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 09:05:25.67 ID:zm+kVmt8
日本軍は戦場を棄てて水城へ撤退したのだから形の上では元軍の勝利だ。
しかし元軍もまた武士の勇戦によって損耗が大きく、継戦不利と自認して撤退した。
結果的に一日で撤退させたという意味では日本軍の勝利だ。
まとめれば、戦術的には元軍の勝利。
戦略的には日本軍の勝利。
例えて言えば日本艦隊を上回る損害を受けながらも日本軍にポートモレスビー上陸を
断念させた珊瑚海海戦みたいなものだな。立場は逆だが。
先生。夕暮れに自然休戦説じゃなかったんじゃ?
で、日本が水城に下がったとしたら敗退で、元軍が船に下がる
(上陸軍が海に戻る!)は勝利なの?
戦術的に言えば橋頭堡を放り出して撤退した元軍の方が明らかに敗北だろう
戦術は戦略に従属するんだから
一度目は相手を過小評価し戦況不利で撤退
二度目は本気で攻めたが主力の到着が遅れ、又も台風直撃、士気の低下で撤退
戦略戦術ともに元の完敗でしょ、始めから本気で攻めていれば、北九州に中国の海岸沿いは制圧出来てたはず
977 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 09:19:40.03 ID:zm+kVmt8
>>958 >その司令官に命じたことは「取りあえず日本まで行ってこい。何でも良いから戦ってこい。
>戦果は問わない」だったと主張されるのか?
征日本の「征」を漢和辞典で引けば第一義が「遠征する」、第二義が「征伐する」だ。
「征伐する」とは賊を滅ぼすことだ。対象は人または集団であって土地ではない。
これを当てはめればフビライの心づもりは「日本に遠征して出来る限りの損害を与えて
来い。どこまでやるかは状況に応じて卿の判断にまかせる」だろうね。
壱岐・対馬での暴虐もこの線に沿ったものだろう。
もし領土が目的なら今後の足場ともなる壱岐・対馬を確保する手段をとったはずだ。
征ってのは、相手をただすことだよ
攻撃するだけじゃなく、相手を屈服させるところまで含む
979 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 09:26:41.95 ID:zm+kVmt8
>>974 >先生。夕暮れに自然休戦説じゃなかったんじゃ?
自然休戦は日本軍の水城への撤退を含む。
日本軍は戦意を失って撤退し、元軍もまた戦意を失って日本軍を追撃しない。
こうして自然休戦が成立した。
自然休戦と言ったら両軍がその場でぼーっと向かい合ってることを想像したのか?
>>977 >「日本に遠征して出来る限りの損害を与えて来い。どこまでやるかは状況に応じて卿の判断にまかせる」
まさに「取りあえず日本に行って適当に戦ってこい」ですな。
で、その命令は元にいかなる国益をもたらすことを意図したものですか?
威嚇?日本からの報復攻撃は無いと確信していたなら、そもそも威嚇する必要が無い。
略奪?コストパフォーマンスが悪いにも程がある
まさか渡洋戦闘の訓練?
981 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 09:33:26.63 ID:zm+kVmt8
>>978 >攻撃するだけじゃなく、相手を屈服させるところまで含む
その通りだよ。「征伐」は賊軍の主将を殺すか、賊軍を潰滅させることを目的としてるだろ。
元軍も日本軍を潰滅させたかったのだろうが、そこまで行かなかった。
982 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 09:38:31.23 ID:zm+kVmt8
>>980 当面の目的は日本を従属させること、つまり天皇か将軍の発した従属の国書を提出させる
ことだよ。
そのための威嚇。
>>977 お前、心底からの嘘つきか、在日の二択だな。とりあえずトリップつけてあぼーんされろ。
この嵐が長文ダラダラ書いてんじゃねえわ
全然目標を達成できてないじゃんw
985 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 11:17:10.77 ID:v4XVW593
>>984 その通り。だから日本軍の戦略的勝利なのだ。
今まで元寇は
国交を拒否った日本を脅かす為のもので
さすがに侵略して征服状態に置く事は意味しないと思っていたよ
987 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 13:15:18.65 ID:v4XVW593
>>986 わかってる人もいるんだ。
少なくとも文永の役はその通りだね。
>>986 そりゃ戦力的にできないと考えていただけ。
示威のためだけに万単位の兵力を海上輸送してくるフビライはスゲェ
こうですか。
>>987 つまり征服は最初からあきらめて、
単に国交を拒否った日本を脅かすだけという「戦略」的目標すら達成できずに尻尾巻いて逃げ帰ったというわけね。
>>949 >蒙古記は敗走という言葉を使っていないが、君が敗走にしたいならそれでもいいよ。
ただし元軍の追撃を受けての潰走、潰乱ではなかった。劉の小部隊による追撃だけを
取り上げているということは、その他に追撃はなかったと受け取れる。
ほう、で「今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ」という状況下で「逃したくをこそ、かまへたりけれ」という状況が
潰走ではないとこの人の脳みそではなってるのだな?
どうやら、潰走では高麗史との整合性がとれないし自分の主張と相容れないために、脳内変換した結果、蒙古記の内容が潰走には見えないらしい。
この人にとっては「敗走」という言葉が無ければ、敗走ではないと本気で信じているらしい。全くもってアホらしい論法だ。
>高麗軍とて、兵力だけなら日本軍に匹敵する軍隊だ。これに応戦した日本軍は、戦法として
一度に多くても百騎程度の小集団で懸かったが、それを繰り返して合計ではどのくらいに
なったかは分からない。案外日本軍は高麗軍との前哨戦の段階ですでにかなり消耗していた
かもしれない。
これも自説の「日本軍が蒙古軍に敗走したことにしなければならない」という先入観のもとで、根拠もなく「案外日本軍は高麗軍との前哨戦の段階ですでにかなり消耗していた」としている。
しかし、高麗史をちゃんと読めばそんなものはただの妄想でしかない。「倭兵大敗、伏屍如麻」の戦闘では金方慶率いる高麗軍の中軍に日本兵が襲い掛かってきた際、金方慶が「弱゚大喝」すると
日本兵は「倭辟易而走」とある。日本側が数百騎もいれば、たった一人の武将が大喝したところでどうということもあるまい。金方慶は三国志の張飛ではないのだ。ということは数千もいた高麗軍中軍に
襲い掛かった日本兵は多くても数十騎程度だ。それら数十騎の軍勢が皆殺しにされた結果、「伏屍如麻」という状況が現出したのだ。
>>979 元軍は戦意を失って撤退したけど、日本軍は戦意満々で元軍を追撃してるでしょ。
自然休戦なんて成立してないし、あきらかに元軍の惨敗としか言いようがないんだが・・・
このような小規模な戦闘に、文永の役のかなりの字数を高麗史は費やした。裏を返せば、高麗軍はこの極小規模な戦闘でしか誇れるような戦闘は行え得なかったことを物語っている。
そして、蒙古記のいうように「蒙古ひたやふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱れ入」り日本軍を敗走においやったならば、その後に起こった大規模な戦闘である「諸軍與戰、及暮乃解」
では戦況に関して、一切触れていないということは高麗史の性格上有り得ないのだ。
そしてなぜ、蒙古記はこういった捏造の手を加えなければならなかったか、という答えが文永の役の後半部分が著者が高らかと答えてくれている。
蒙古記によると日本軍が敗走した後、神様が現れて元軍を撃退したとしている。そしてその時に「もし、此時、日本の軍兵、一騎なりとも、
ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれすして、わか高名にて、おひ返せしとも、申なさましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、
さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、偏に神軍の威徳厳重にして、不思議、いよゝゝ
顕然とあらはれ」と著者は述べている。
わざわざ著者は、元軍を破るのに武士が邪魔であったことを述べ、武士の悪口まで書くほど徹底しながら、文永の役を「大菩薩の御戦」
と称して、神軍が元軍を「さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりし」という状況においやった
としているのだ。戦況をまるまる信じ込むなど、この人の他にはあるまい。
>>981 高麗史をちゃんと読めば、高麗軍は壱岐までしか来てないけど?
『高麗史』巻二十八、世家二十八・忠烈王二
「一岐島に至り、千余級を激殺し、道を分ちて以て進む。倭は却走し、伏屍は麻の如く、暮に及びて乃ち解く。
会々、夜、大いに風ふき雨ふる。戦艦、厳崖に触れて多くは敗る。金セン、溺死す。」
>「失敗」はともかく「勝てなかった」については「決定的な勝利を得られなかった」という形で
すでに言っている。
全く違う。決定的でない「勝利」すら得られなかったと金方慶は言っているのだ。
君のいうように蒙古記を何の疑いもなく信じ込む人にとっては、軍議の内容も疑問に湧かないのだろうが、
金方慶は軍議の際に「請復戰」とクドゥンに乞うている。「また」戦わせてほしいと言ってるのだ。
「勝ったけど、決定的勝利を得られなかったので、また戦いたい」など言っているのではない。
蒙古記のいうように日本軍の戦意を喪失させ、博多を元軍が占領したならば、たとえ元軍が苦戦はした
としても決定的勝利に違いないのだ。
敵軍を遥か向こうまで、追いやり敵軍の拠点を占領したのだからな。そのような状況で「また」というのは
不自然極まりない。さらに金方慶はいう。「即孟明焚船淮陰背水也」と。上記のように元軍が博多を占領していれば、
「また」というのは可笑しいことは述べた。
さらに金方慶は「背水の陣」や「孟明焚船」の例を挙げて、徹底抗戦を主張する。
この主張は、裏を返して言えば、元軍は「諸軍與戰、及暮乃解」の戦闘で、自軍を圧倒的劣勢だったため背水の陣を敷いた
韓信の軍勢と同一視していたことや、元軍は上陸地点から動けなかったということが伺える。
これらの主張から「元軍は敵の拠点を奪うのにも失敗し、なんら戦果らしい戦果を挙げられなかったために、自軍をいにしえの
圧倒的劣勢の軍勢に例えねばならなかった」ということがわかるのだ。
996 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 15:14:34.36 ID:v4XVW593
>>995 人の言ったことを真逆にねじまげてそれを攻撃するストローマン論法の人にいちいち反論していると
疲れるし、もう残りのスレ容量もない。
後は新スレでやるとして、最後に一つだけ聞いて置こう。
君は日本軍の水城への撤退はなかったと思っているのか?
高麗史読めば明らかなように、夕暮れに自然休戦になって、協議の元軍が末撤退を決断し、
危険な夜間航海で暴風雨に遭遇したのは、全部壱岐での出来事なんだよね。
博多湾から上陸した元軍は夕暮れまでなんて戦ってない。
鳥飼百道原で日本軍によって瞬殺。
998 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 15:21:28.15 ID:v4XVW593
>>990 >つまり征服は最初からあきらめて、
>単に国交を拒否った日本を脅かすだけという「戦略」的目標すら達成できずに尻尾巻いて逃げ帰ったというわけね。
全くその通り。
ただし自分ではけっこう脅しが効いたと思っていた。
だから翌年には「どう? 国書をよこす気になった?」と使者を送って来た。
>>998 現場の指揮官たちが正直に日本軍にボロ負けしましたって報告してなかったんだろうな。
高麗は翌年送った使者が日本で処刑されたことを何年もクビライに隠していたし。
1000 :
名無し三等兵:2012/11/23(金) 15:44:37.13 ID:v4XVW593
>>999 日本軍は麻のごとき死体を残して撤退して行きました、と報告したんだろう。
1001 :
1001:
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