[19世紀後半(幕末)総合]南北・普仏・西南・日清戦争 05
1 :
名無し三等兵 :
2012/08/29(水) 05:47:42.97 ID:??? 19世紀後半総合スレです。
日本史で見ればペリー来航からの幕末動乱期から
幕府倒壊・戊辰戦争、明治維新・明治新政府、西南戦争、日清戦争。
世界史で見ればパックス・ブリタニカ、
インド大反乱・南北戦争・普仏戦争・ドイツ統一、イタリア統一
兵器史で見れば雷管発明、リボルバー発明、ミニエー弾、ガトリング銃、
アームストロング砲、ボルトアクション小銃完成、モニター艦、装甲艦(甲鉄艦)
四斤山砲(フランス製前装ライフル式の青銅製山砲)など
戦列歩兵・散兵戦などの歩兵戦術から、帆船や蒸気船などまで
19世紀後半の時代で軍事に関係することなら陸海軍問わず、
東洋・西洋の違いも問いません。
上記すべての分野に全部精通している人なんていません。
特定分野に詳しい神が降臨したら歓迎しましょう。
その人が何か別の分野で間違っていても、叩きすぎないようにしましょう。
このスレは、初心者には優しく、敷居は低く、荒らしはスルーしながら、過疎落ちしない程度にマータリ進行です。
20世紀は別スレで。
19世紀後半以前については、近世スレまたは古代・中世スレへ
前スレ
幕末(19世紀後半)の軍事全般4
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1309702976/
2 :
名無し三等兵 :2012/08/29(水) 05:49:03.62 ID:???
3 :
名無し三等兵 :2012/08/29(水) 05:51:25.14 ID:???
4 :
名無し三等兵 :2012/08/29(水) 05:52:07.50 ID:???
5 :
名無し三等兵 :2012/08/29(水) 06:14:21.84 ID:???
いちおつ
6 :
名無し三等兵 :2012/08/29(水) 09:07:04.45 ID:???
7 :
名無し三等兵 :2012/08/29(水) 14:35:50.01 ID:???
基地外が回してるスレに関連付けるやつは死ねばいいのに
8 :
名無し三等兵 :2012/08/29(水) 22:10:57.40 ID:???
9 :
名無し三等兵 :2012/08/30(木) 16:16:47.72 ID:???
10 :
名無し三等兵 :2012/08/31(金) 19:51:51.85 ID:???
NHK大河ドラマ「八重の桜」...新島八重の生涯を描きます
■番組概要
2013年の大河ドラマは「八重の桜」。新島襄の妻・八重の生涯を描きます。
主人公・新島八重を綾瀬はるかさんが演じます。
■主人公・新島八重とは
会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の子として生まれる。戊辰戦争時
には断髪・男装に家芸であった砲術をもって奉仕し、会津・鶴ヶ城籠城戦で自ら
もスペンサー銃を持って奮戦した。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。
戊辰戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川ア尚
之助と結婚したが、籠城戦後別れる。維新後、兄・覚馬を頼って上洛。そこで、
新島襄と出会い結婚。また、女は男に従うことが当然視された時代、豪放で周囲
からは勝手気ままに見える八重の生き方は世間からは「天下の悪妻」とも言われた。
晩年は日清戦争、日露戦争に篤志看護婦として参加。功績により昭和3年
(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。その4年後、
87年の生涯を終える。
ttp://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/86512.html
11 :
名無し三等兵 :2012/08/31(金) 22:24:12.92 ID:???
会津観光史学の連中がどんな素敵なドラマにするのか 今から楽しみですw
12 :
名無し三等兵 :2012/08/31(金) 23:33:57.11 ID:???
会津とか抜きでも嫌な予感しかしない
13 :
名無し三等兵 :2012/08/31(金) 23:42:45.44 ID:???
今のNHKに大河ドラマを作らせても糞作品しかできないだろ
14 :
名無し三等兵 :2012/08/31(金) 23:46:26.64 ID:???
前スレでどこからどこまでの時代を扱うかという話題があったど、 このスレで扱う時代の特徴ってなんだろう? ライフルと国民軍と機関銃?
15 :
名無し三等兵 :2012/08/31(金) 23:49:11.77 ID:???
会津が北海道を外国に売り渡そうとしていた史実はもちろん描かれますよね。
16 :
名無し三等兵 :2012/08/31(金) 23:53:58.36 ID:???
>>14 前スレでも似た指摘があったけど
技術的な区分けは国ごと普及の違いなどで区別は無理だろう
19世紀後半という区別で長らくやってきているから
このままでいいのでは?
ライフル銃だけなら1510年に登場している。これだと近世スレと被る。
機関銃だと開発が南北戦争中で初めて戦場で使われたのが戊辰戦争からだな。一部、諸説があるけど。
機関銃が大活躍したのが日露戦争に第一次世界大戦か。
これだと19世紀後半から20世紀前半になるけど、さすがに範囲が広すぎるような気がする。
17 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:00:42.82 ID:???
西南から日清までに結構ギャップがあるように感じる
18 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:03:05.59 ID:???
会津藩って、軍備に金をかけすぎて、最後は農民一揆まで起こされていたかな。
徳川幕府への忠義心がありすぎて、最後まで戦い続け、最後には領民にすら見捨てられた武士たち。
官軍として従軍した板垣退助はこの様子を見て、大きな影響を与えている。
板垣退助が語った会津戊辰戦争
ttp://www3.ocn.ne.jp/~zeon/bakumatu/itagaki.htm >意外なことに、籠城していたのは士族出身者だけであり、一般の人民は知らぬ振りで
>戦争に拘わらない様子であった。
>
>一般人民に愛国心がない理由は、つまり身分の上と下で心が離れ、士族たちが楽な
>生活を独占し、平素にあって人民と分かち合わなかった結果に外ならない。安楽を
>共にしない者はまた苦難を共にすることが出来ないのは、理の当然であり、天下の
>雄藩たる会津にしても同様であって、言うまでもなく他の弱藩に於いても例外はない。
>わが国がもし外国と戦争になった場合、その結果は知れたものである。いまや封建
>制度が勢いを失い、時局はこれから一新しようとしている。このときにあたり我が
>国がいやしくも東洋を代表して立ち、富国強兵を実現させようとするならば、必ず
>や上下の心を一つに和ませ、大衆と苦楽を共にする精神を以て、士族の(世襲制度
>によって戦争に従事する)職分を解き、(何もしなくても与えられる)世禄を廃止し、
>階級の制度を撤去して、国民皆兵を実施したのである。
19 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:05:57.85 ID:???
20 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:22:47.31 ID:???
>>18 土佐の出の板垣にとっては特に他人事じゃなかったんだろうな
21 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:34:39.55 ID:???
南北戦争の映画見たんだけど、普墺、普仏、露土戦争の時も同じように兵士の肩が触れ合うくらい密集してたんだろうか?
22 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:39:29.66 ID:???
>>21 普墺だったかなぁ
余りに密集してたんで榴弾ぶち込まれても倒れることができずみんな立ったまま死んでたんだって
普通吹き飛ばされるような気がするんだが…
23 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:44:08.15 ID:???
>>10 幕末最凶の軍需工場
上ノ山藩は登場しますよね
24 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:46:26.85 ID:???
>>20 当時、天才とも言っても良い軍功溢れる軍人「板垣退助」が、
軍人の道を捨て政治家になっちゃうぐらいだからな
25 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:49:04.28 ID:???
>>10 ちゃんと軍事考証にお金をかけてほしい
まともな軍事研究家による軍事考証が行われると祈りたい気持ち
26 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 00:56:37.27 ID:???
>幕末最凶の軍需工場 そんなの初めて聞いたけど、詳細よろ
27 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 01:02:35.03 ID:???
28 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 01:03:27.64 ID:???
29 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 01:04:01.77 ID:???
前々スレ229より
軍事百科事典(2011/01/02更新)
ttp://www003.upp.so-net.ne.jp/Zbv/ より部分抜粋
上ノ山藩 (かみのやまはん)
現在の山形県上山市にあった藩。要害でしられる上ノ山城と城下町であり羽州街道の要所としての宿場町
でもある上ノ山とその周辺を治めていた藩。上山藩とも表記されることがある。
戊辰戦争当時の上ノ山藩兵の戒服及び合印は、浅黄の平羽織の袖に白の山道。江戸での薩摩藩邸焼き討ち
事件に関わったほか、戊辰戦争では庄内藩とほぼ行動を共にした藩であった。
1823年(文政6年)より洋式兵学研究が始まり、諸藩の中でも早くから洋式兵学に力を入れていた藩である
ことがわかっている。幕末当時には1861年式オランダ歩兵操典を翻訳した『歩操新式』を採用し、蘭式兵制と
なるも、そのままオランダの歩兵操典を丸写しで採用はせず、安土桃山時代から続く徳川の鉄砲隊としての
25人組4隊の編成は原型として残し、蘭式の1小隊40人編成ではなく、1小隊25人とした独自の兵制となっていた。
正規軍として歩兵3個中隊(全6個小隊)の軍隊を編成。現在の上ノ山に残る『歩操新式』は小隊編と生兵
編のみで、大隊編、中隊編、鼓笛編は現存していないが、鼓笛軍楽があったことと、編成内容からみて
大隊戦術まで行っていた可能性が高い。武装は旋条式前装銃で統一され、予備兵力の町兵ですら
スナイドル銃、農狩兵すら最低火縄銃で武装していた。また大筒の製造にも力を入れ、幕末当時最新だった
四斤山砲(前装ライフル式の青銅製山砲)の製造すら行っている。小さな藩ながら、火力・錬度に優れた
軍隊を編成していた藩であった。
藩内では硫黄が採れることと、木炭と硝石の生産も行われていたため、火薬に関して生産に困らない藩で
あった。また、戊辰戦争終結時に新政府へ提出した上ノ山藩武器目録には、鉛が六百貫目とあり、これは
小銃弾にして約20万発分の鉛量であり、3万石の小藩としては不自然なほどの膨大な量である。当時は鉱山
などで鉛を産出していた可能性が高く、庄内藩が駐留して武器供与も行っていることから、上ノ山藩は
出羽戦線での弾薬供給拠点の一つだった可能性が考えられている。
参考文献 軍事史学 第183号(平成22年12月1日) 金子興三郎清邦と上ノ山藩 磯野圭作 2011/01/02登録
30 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 01:05:45.59 ID:???
>>28 葡萄弾の空中炸裂なら弾が降り注ぐようなものだから
榴弾のように吹き飛ばされるといったことはない
密集隊形なら倒れない死者も出ただろうね
31 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 01:16:33.71 ID:???
小さな藩で幕末軍事力がチートなのは 官軍側では松代藩、佐幕側では上ノ山藩だな
32 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 01:59:59.96 ID:???
あと大村藩も
33 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 02:24:12.67 ID:???
支藩でも幾つかチートがあったはず 小さいところの方が改革が進めやすいのもあったんでしょうね
34 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 08:55:18.19 ID:???
白虎隊ready、sir
35 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 12:48:09.88 ID:???
この程度でチートいうな
36 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 15:55:02.96 ID:???
>>35 が具体的なチートな小藩を紹介してくれるそうです
37 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 16:18:32.50 ID:???
地元が戊辰戦地跡なんだが、佐土原藩兵は強かったと伝わってるよ。 チートレベルとは言わないけれど。
38 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 17:35:16.73 ID:???
銃兵が強いって言われてもよく分かんないですねえ
39 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 18:49:19.09 ID:???
40 :
名無し三等兵 :2012/09/01(土) 22:19:58.29 ID:???
>>6 機能してなくて悪かったなw
公文書を漁りつくしてネタ切れなだけだ。
41 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 00:02:18.10 ID:???
>>38 銃兵にも強い弱いがあったのは、銃兵だけでほぼ同数の鳥羽伏見や
互いに銃兵だった(筈)の白河城攻防戦なんか見てたら分かる気がする
42 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 05:10:16.29 ID:???
戦国時代は鬼島津とか言われる連中も幕末じゃ・・・やっぱり強かった
43 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 11:11:17.06 ID:2ijkwl3R
>>10 スペンサーライフルにマガジンボックス複数もってたら無敵だろ。
44 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 11:20:55.31 ID:???
スペンサーにマガジンって 銃床丸ごと取り替えるのか???
45 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 12:57:28.82 ID:2ijkwl3R
46 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 13:01:54.74 ID:???
装弾のし易さも考慮した設計だったのか 残念なのはレバー位置だけと
47 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 13:04:49.53 ID:???
>>41 歩兵戦術にいち早く歩操新式を取り入れ、少なくとも旋条式前装銃を装備し
中隊戦術レベルまで教練が終わっている銃兵なら強いな。これに四斤山砲の火力支援が加わり、
旋条式後装銃ならさらに圧倒的な強さ。
48 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 13:28:05.32 ID:???
新政府軍のほうが砲兵運用がよかったという話を聞いたことがある
49 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 13:50:28.41 ID:???
佐賀藩の砲兵火力は別格
50 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 13:57:05.29 ID:???
薩摩も真っ先に火砲の国産化に取り組んでたし、やはり砲兵は戦場の女神やな
51 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 14:57:48.91 ID:2ijkwl3R
>>46 残念ながらスペンサーはレバーとハンマーが連動しない。
コストを考えると仕方がなかった。
後にウィンチェスターとなるヘンリーライフルは連動するので最強な訳だが高価すぎて一部私兵が装備したのみ
52 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 15:58:16.19 ID:???
大砲買って砲兵が居るだけの藩も多いみたいだけど 弾道計算をちゃんと出来て従軍に耐えうる人員は幕末当時どの位居たんだろうか
53 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 17:04:57.11 ID:???
間接照準射撃の始まる前の野砲なんて、榴散弾を直接照準でぶち込むのがほとんどだろ? 別にケンタッキーヴィンテージで照準してもいいわけだし、大砲の扱い一式覚えてれば一応それなりの役に立っただろ。
54 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 17:28:03.69 ID:???
直接照準のナポレオン時代だって、砲兵科があって、陸軍学校で弾道学を教えてたんだぜ? そもそも日本で言う『砲術家』は、銃火器の使い方だけでなく、調達や火薬の調合、運用まで幅広く扱ってた。 単純な「狙って当てる」だけでは組織は動かず、組織的戦闘力たる軍隊も成り立たないよ。 よって砲兵科には一定数の専門家が必要で、しかも耳学問では済まされないって事情がある。 あの佐久間象山すら、デモンストレーションで失敗してるくらいだし。
55 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 17:30:19.80 ID:???
榴散弾って当時は高価そう。
56 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 18:03:24.08 ID:???
57 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 18:08:53.66 ID:???
マジか 榴散弾の方が複雑で高そうなのに
58 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 18:38:22.24 ID:???
>>57 信管が曳火信管だからな
砲弾の発射で導火線にも引火させて、それを一定時間後に作動させるだけ
弾殻の強度もいらないし
単純なものではないが、榴弾と比べればだいぶマシ
59 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 19:16:52.26 ID:???
市川・船橋戦争、船橋宿攻略の佐土原藩兵は、2個小隊100名、小型臼砲2門。 相手は幕軍撒兵隊第2大隊300名。 午前中は野戦構築陣地の100名、その後、同じ兵と村落内で、午後からは宿場内の300名弱を相手に戦い、全てに勝利。 兵力や状況が不利な中、銃兵と臼砲を上手く連係させて戦いを有利に進めたと。 市川宿守備の藤堂藩兵2個小隊は四斤山砲2門を持ちながら銃兵との連係を上手く行えなかったばかりか、砲を江戸川の河川敷に放棄して撤退。 砲を捕獲した幕軍撒兵隊第1大隊から砲撃を受けるオマケ付き。 砲は撃てるだけではダメと・・・
60 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 20:01:05.68 ID:???
この時代、大砲の自爆というか爆破ってどうすりゃいいんだろう。 後の時代なら砲身に手榴弾入れるとか閉鎖機だけ持って行くとか出来るだろうけど。 砲弾の信管に火を付けて砲身に押し込み、爆発する前に逃げる…なんてのはちょっと怖いな
61 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 20:07:34.44 ID:???
火栓?に釘を叩き込むんじゃない?
62 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 20:14:44.74 ID:???
>>60 >閉鎖機だけ持って行く
映画「カーツーム」で再現してたね。
お手軽に済ますならラムロッドを持って行ってしまうのも。
63 :
名無し三等兵 :2012/09/02(日) 20:29:03.37 ID:???
馬関戦争の時は上陸部隊が大砲の火栓をこわしたのかと思ったら、大砲ごと持ち去ったのが多かったみたいですね。
いやん、馬関
65 :
名無し三等兵 :2012/09/03(月) 02:05:44.70 ID:???
箱館戦争のときには工作員が弁天台場の大砲に釘打って破壊したんだっけ?
66 :
名無し三等兵 :2012/09/03(月) 10:15:58.95 ID:???
破壊って、火門に釘を打っただけで捕まり、数時間で復旧したんだろ? 大きな音が出るから占領した陣地でやるんでなければ すぐ捕まっちゃうよな。
67 :
名無し三等兵 :2012/09/03(月) 10:17:29.45 ID:???
火門に釘で検索したら諭吉の書いた本の大砲の壊し方みたいな部分がヒットした。
68 :
名無し三等兵 :2012/09/03(月) 13:15:26.20 ID:???
>>63 それは金属として鋳潰して売却して軍費の足しにするためだったはず。
69 :
名無し三等兵 :2012/09/03(月) 15:30:42.20 ID:???
大砲は昔は最もわかりやすい戦利品だしな。 凱旋パレードで見せ物にして、その後博物館に飾って良し、鋳潰して勲章にするなり売却しても良し。 鉄製の大砲より青銅砲の方が資源の再利用という点では喜ばれそう。
70 :
名無し三等兵 :2012/09/03(月) 18:20:43.74 ID:???
>>63 フランスのアンバリッドには、その時の長州砲が展示されているね。
>>69 砲を鋳造し直して戦勝モニュメントを作った国も。
71 :
名無し三等兵 :2012/09/03(月) 19:53:25.65 ID:???
大砲は鹵獲して、即使用が理想的。
72 :
名無し三等兵 :2012/09/03(月) 21:06:22.84 ID:???
>>68 青銅砲が多かったろうから、地金の価値としては高めだったのかな?
73 :
名無し三等兵 :2012/09/03(月) 23:54:07.20 ID:???
74 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 09:53:48.98 ID:???
>>71 映画「ゲティスバーグ」でもアミスタッド将軍が北軍の大砲を鹵獲してところ
で「砲を敵に向けろ!」って叫んでたよね。
75 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 11:31:44.37 ID:???
日本軍も壊してない歩兵砲を弾薬もろとも置き去りにして 米兵に追い打ちをかけられてたな。 日本軍では敵の武器は使うなと教育していたと思うけど、 米兵はそういうこと教わらなかったのかな。擲弾筒で脚折ったりww
76 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 12:57:12.83 ID:???
>>75 >日本軍では敵の武器は使うなと教育していた
そりゃないな。
補給が乏しい上、敵の方が良い武器を使っている場合も多かったため、けっこう大々的に鹵獲武器の運用は
やっていたよ。
77 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 12:59:02.60 ID:???
>>75 そんな教育してない、戦利戦車や火砲を普通に使ってる
78 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 13:56:13.54 ID:???
>>76-77 それを鹵獲した前線の将兵が、だよ。
今は前線の話をしてるんだろ?
79 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 15:03:09.01 ID:???
>>78 だから鹵獲した前線の将兵が普通に使ってるんだが
80 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 17:34:03.91 ID:???
受けた教育と実際の差って事じゃね
81 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 18:00:50.74 ID:???
戦利品を使うなというカリキュラムがあった証拠出せば一発すよ
82 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 19:31:16.29 ID:???
何で読んだか忘れたが、鹵獲品は後送し勝手に使ってはいけないはず。 でも尻に火がついたらそうもいってられん。
83 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 21:26:50.70 ID:MWRH6w5A
作戦要務令 第150 戦闘間各部隊の鹵獲せる兵器は一時使用することを得るも、速やかに之を上級指揮官に報告するを要す
84 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 21:30:08.33 ID:???
戦利品を使っていけないのなら、自衛用に鹵獲スプリングフィールド銃を持ち、大砲は鹵獲自走砲だった山本七平少尉は幻の存在なのかw ZB26の“無故障機関銃”って評判は、どっから沸いて出た。
85 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 21:42:43.37 ID:???
禁止されてることとそれを破って勝手にすることは往々にして両立する よくやるから禁止されてるのもあるしな
86 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 21:48:15.34 ID:???
>>84 ナナリンのはフィリピン駐留軍の降伏時の移管兵器の一部だろうから、一般にいう鹵獲品とはちょっと性格が違うな
あと装備小銃はM1917
レミントンあたりの作ったエンフィールドモドキ
ちょうど本読んでたらちょっと触れてた
まあ鹵獲兵器って戦果の一部だから、極力正確に集計して上部に申告しなきゃいけないんだよね(建前)
それが指揮官の評価にもなるんだし
でも鹵獲したのが使える兵器の場合、員数外の使い潰せる道具として手元に抱え込んでおこうというのも人情なわけで
歩兵中隊が大砲鹵獲したりしたら、これは使えても持て余すから素直に申告されるだろうが
87 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 21:48:18.45 ID:???
生きるか死ぬかの時に 「武器を使うな」という命令が 守られるわけが無い
88 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 21:54:23.08 ID:???
そろそろ話を19世紀に戻した方がいいかと思うよ
89 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 22:06:07.58 ID:???
チェコ式軽機関銃なんて、無故障で名を馳せ、国内で専用の弾薬さえ製造したけどなぁ……
90 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 22:37:45.16 ID:???
普墺・普仏戦争扱ってる書籍とかサイトってある? サイトぐぐっても英語版wikiぐらいしかない。
91 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 22:45:45.55 ID:???
ゲームならすぐ思いつくんだが
92 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 23:07:38.16 ID:???
>>90 19世紀屈指の軍事ジャーナリストであるエンゲルスが普墺・普仏戦争について
執筆している
『マルクス・エンゲルス全集』の何巻に収録されているかは、手元にないので
分からず申し訳ない
論文だったら色々出ているので、まずはCiniiあたりで検索されてはいかがか
http://ci.nii.ac.jp/
93 :
名無し三等兵 :2012/09/05(水) 23:19:54.72 ID:???
94 :
名無し三等兵 :2012/09/06(木) 21:42:00.33 ID:???
俺の普仏戦争の知識の基本は大仏次郎の「パリ燃ゆ」だな。
95 :
名無し三等兵 :2012/09/06(木) 22:07:53.40 ID:???
>>94 渋い本を出して来ましたねw
名前は忘れたけど、牢屋の中で差し入れの軍事書を読み漁り、ブロイセン軍の進攻経路を当てたアナーキストの話しが印象的でした。
「ドレフュス事件」も面白かったなぁ
スレ的には「天皇の世紀」も良いよね。
96 :
名無し三等兵 :2012/09/06(木) 22:22:19.43 ID:???
あと風刺画家、ジャーナリスト、小説家、気球乗りのナダールが ドイツにより包囲されたパリから気球でガンベッタを脱出させたとか。
97 :
名無し三等兵 :2012/09/07(金) 07:41:08.68 ID:???
白水社の「パリ・コミューン ドキュメンタリー・フランス史シリーズ」も背景として普仏戦争が書かれていますよ。 パリ・コミューン自体も、政治面よりも軍事面から、その推移を書いています。 ちょっと珍しいパリ・コミューン史。
98 :
名無し三等兵 :2012/09/08(土) 11:42:00.55 ID:???
>>92 10巻11巻でクリミア戦争についても書いているな
11巻はセヴァストーポリ攻囲の地図が載っていたりして素敵。
アメリカンエンサイクロペディアの記事は14巻
99 :
名無し三等兵 :2012/09/09(日) 14:04:35.11 ID:VE0DZ+Yd
>>93 普仏戦争はたしか全集の17巻
この時代の軍事に興味あるなら
全集の目次は全巻目を通したほうがいい
普仏戦争といえば函館戦争に参加したブリュネがまたまた捕虜に なってるな。
>>101 ドライゼ銃の有効射程600m
エンフィールド銃の有効射程900mだが
600m先で地面に伏せてる人を肉眼で狙える?
かなり後の話だけどドイツが突撃銃を作るとき
弱装弾を思いつくきっかけは、銃撃戦は、2〜300mの間
で行われる。有効射程1kmなんて必要ないという
前線からの報告があったみたい
しかしドライゼ銃の威力不足は問題だったみたい
散兵とはいえ基本は横隊なんだから問題だろう
普仏戦争といえば、近代の戦争で国王/皇帝が捕虜になるって そうそうないよな。もっと昔は多かったと思われるけど。
国家元首(皇帝)が捕虜になった後一年も戦争が続いていたのも、そうそうないかと。
>>102 狙って撃つのなら昔でも600m程度の射程だろうが
昔の小銃は、1km先(方陣からの弾幕射撃)から軍馬の突進を阻めるだけの弾丸威力が求められた。
第二次世界大戦が激化した状況下で生まれた突撃銃は
もはや方陣を組んで、1km先の騎兵を倒すことなんて意識する必要が無かったからこそ
弱装弾という選択肢が選べた。
騎兵の突撃って時速にしてどれくらいなんだろうか?
武装して40kmくらい? 隊形も維持しながら突撃しなければならないからどうなんだろう。
全速を出すのは最後のほんの少しの距離だけらしい。 それまでの長い距離はゆっくりと隊列を整えたままで進んで行く。
30kmくらいだよ。
バラクラバの突撃だっけ?
「遥かなる戦場」(1968年公開) 「進め竜騎兵」」(1937年公開) のようでつね。DVDも入手可能みたい。
騎兵の突撃って、最後のとどめの一撃って 考えればよいのかな。
>>115 一番効果が有るのが、そのタイミングかと。
ただし、形勢を逆転する為に敢えて、
攻勢を掛けて来ている敵中央に仕掛けたり(アイラウ会戦)、
砲兵陣地に仕掛けたり(ソモ・シエラ峠やボロジノ会戦)する事も有ったよ。
この手のは成功したとしても騎兵の損害は半端ないけど・・・
歩兵と協力して敵側面を包囲する為に仕掛けたドレスデン会戦でのフランス軍右翼騎兵の突撃は、機動力と破壊力を生かした騎兵突撃の王道だと思う。
歩兵の戦列は火力を最大に発揮するためには正面に対して横に薄く広がるのが一番だけど あまり薄いと騎兵の突撃を受け止め切れない上に側面に回られたら方陣組んで対処しなきゃいけない というわけで敵が火力を効果的に発揮するのを防ぎ、常に騎兵の突撃の可能性を意識することを強要させられる
そういえばバラクラバの戦いのもうひとつのハイライトがいわゆる シン・レッド・ラインだよね。
>>16 機関銃言うなw
機関砲と言え。
乃し重機関銃と言え。
なんか面倒くさいなあ。 まあとりあえず19世紀後半機関砲というと ガトリング ミトライユース ノルデンフェルト ガードナー マキシム ぎりぎりでブローニングM1895 あたりかな。
駐退復座機は19Cに間に合ったっけ?
フランスで1897年制式採用されたM1897 75mm野砲が最初かな?
機関砲も19世紀中は国家間の会戦ではさほど活躍せず、もっぱら艦船に装備したり、 アフリカ等の植民地戦争で重宝されたようなイメージですね。
ミリタリー・マストのノルデンフェルトハァハァ
唐突だけど、南北戦争を通しての死傷者数が載っていたので。 a)戦死、b)負傷後死亡、c)捕虜収容所で死亡、d)病死、e)アクシデント他で死亡、f)戦傷 北軍 a)67,058、b)43,012、c)30,156、d)224,586、e)24,872、f)300,000+? 南軍 a+b)94,000、c)30,152、d)70,000+? e)不明、f)235,000+? 一会戦での損害(戦死、戦傷、捕虜、その他?)率トップ3 第1テキサス連隊/アンティータム会戦 82.3% 第1ミネソタ連隊/ゲティスバーグ会戦 82.0% 第21ジョージア連隊/ブル・ラン会戦 76.0% トップ3とは言え、とんでもない損害・・・
127 :
名無し三等兵 :2012/09/22(土) 00:37:02.76 ID:g4HwwBBS
南北戦争は戦傷がひどいな。 現代に近い割に微妙にに破傷風やら細菌やらの知識足らない時期だからなおさら
>>117 横一列に広がるなんて脆弱な隊形より普通に散開したほうが強い
昔の軍隊は士気も統率も悪くて逃げ場が無いように強制的に隊列組む必要があっただけ
は?
>>128 「散兵戦術で騎兵突撃に抗しきれない」の前提条件は何処へw
巨視的な理解では、横隊から散兵への「進化」の理解は正しいけど
騎兵突撃(より正確には騎兵に限らず突撃全般)に抗する戦術として、
横隊による方陣(と弾列・弾幕)が廃れた訳ではないね〜と言う話では
>>127 病死が戦闘に係わる直接の死者(戦死+負傷後死亡)の倍近いのが凄いと思いました。
医療体制以外にも、衣食の兵站や野営方法にも問題が有ったのでしょうが・・・
南軍の病死70,000+?も、かなり上乗せされるかと。
収容所での死亡の内訳、負傷後死亡なのか病死なのか、それとも食料事情なのか虐待等なのかも気になります。
やっぱナイチンゲールのあれじゃね
衛生的な水の確保に失敗したんじゃね?
>>132 >ナイチンゲールのあれじゃね
あれとは何ですか?
横隊つうか戦列歩兵って、まだライフリングされてない前装無旋条銃の、命中率と発射速度の低さを補う為で 19世紀前半までの戦術の名残でないの ゲティスバーグは、靴の徴発中に遭遇戦になったのがキッカケだからねえ 特に南軍はまともな兵站があったとは思えん 銃も馬も自分持ち 日清戦争とかでも脚気とかで戦病死多いし
戦死者と病死者の比率が酷いと言うと、台湾出兵
>>134 ナイチンゲールが体張って視察して、病院内の死亡率が劇的に改善されたという奴だな
もっとも赴任直後は、却って上がったらしい
>>135 戦列歩兵と散兵は19世紀を通じて徐々に切り替わっていった感じだろうね。
件のバラクラバの戦いの最中での英軍横隊戦術によるロシア騎兵の阻止は、ある意味戦列歩兵の最後の栄光かもしれない。
密集隊型と散兵は、古代の重装歩兵からの伝統 ファランクスやテルシオなど、槍による横隊は、動きが鈍重なので前方や側面に散兵の援護が付く 弓矢や投槍や投石、後の時代は火器でバイク兵を援護し、敵の横隊を崩す 火器が主力になってからも、マスケット銃の戦列歩兵には、ライフル持った猟兵が散兵として援護 その後、クリミヤ戦争や南北戦争で、従来の横隊は損害が大きいので、廃れていく事に ゲティスバーグのピケットによる横隊が、最後のピークじゃないかな
ナイチンゲールは応用統計学者だからな 戦場での死者数の統計とって戦病死の多さにたじろぎ その原因が野戦病院の衛生状態の悪さにあることをつきとめ それを図表化・グラフ化してわかりやすく周知させることに努め制度的な改善も実行させた
>>139 軽歩兵と主力歩兵(重装歩兵、戦列歩兵)の関係ですね。
軽歩兵は現代でもレンジャー連隊等の形で残っているとも言えますね。
誤解される事が多いけど、18世紀後半からのスレの時代では、軽歩兵=散兵ではないので・・・ 軽歩兵は、身長が低く機敏で体力や持久力に優れた者から編成。 多くの場合、編制単位は連隊。 基本は横隊や縦隊で、散兵隊形は専ら隊内の軽中隊やボルテジュール中隊が使用と、ほぼ戦列歩兵と同じ隊形。 歩調もほぼ同じですが、速歩(100歩/分)や襲歩(120歩/分)といった短距離用の歩調を完全装備で長時間維持する訓練を受けていました。 それにより戦闘では機動的に使用されました。 戦闘は銃撃戦や白兵戦で語られてしまいますが、この兵科の真髄は健脚です。 国や時代によっては散兵としても、それなりの訓練を受けてはいましたが。 部隊が丸々散兵と言うと、猟兵やライフル銃兵の方かと。 編制単位は大隊が多く、連隊の場合でも中隊の独立性が高くなっていました。 散兵戦に関しては、地形の利用、精密射撃、二人一組での行動等、専門的な訓練を受けていました。
143 :
142 :2012/09/23(日) 08:35:37.35 ID:???
>>142 打ち間違いを><
×18世紀後半からのスレの時代では
↓
〇18世紀後半からこのスレの時代では
マウリッツとか古典な時代やしな
第一次大戦を描いた「ザ・トレンチ」っていう映画のラストシーンで 英軍歩兵が横一列に並んで敵陣に向かって歩いていくシーンあったけど あの時代でも緩やかとはいえ横列組んで攻撃すんのが当たり前だったの?
初期の話じゃないの? だったらありだよ。まだ開けた野原で機関銃がどれだけ人を殺せるか 知られていなかったろうから。迫撃砲もそうだけど。 ところで七年戦争はこのスレのカテゴリに入らないのかい?
フランス陸軍は、第1次大戦前まで 旧日本陸軍以上の精神主義&白兵戦主義 しかしドイツの機関銃と砲兵の前に甚大な損害を受けたため 路線変更。スレチだけど 7年戦争ってナポレオンの前だから近世総合スレじゃない?
流石に普仏戦争とは間違えないだろ
日露戦争の203高地以前に クリミヤ戦争や南北戦争の頃から塹壕戦やって、横隊突撃は被害甚大とわかってたはずなのに 何で一次大戦でもやるかねえ 歴史や戦訓研究やら、観戦武官送ったりもしてるのに やはり実際に経験しないとダメなのか 日本だって鳥羽伏見の頃から、ミニエー弾採用以降は横隊突撃は被害甚大とわかってるはずだが ところでクリミヤ戦争はこのスレに含めてもいいんじゃないかな?
この戦争をさっさと片付けることは無理なので穴を掘りましょう、とは実例がないと言い出せないんだろうな。
>>150 被害甚大でもなんとかなったから
突撃するのさ
現代的塹壕の始まりはどちらかというと砲弾対策という側面が強い ライフル化した火砲に駐退復座機がついて砲弾は榴弾になり口径も大きいと19世紀の火砲とはまるで違う性能
>>152 被害甚大で何ともならなかったから、どの戦争でも後半は塹壕戦になったんじゃない
機関銃がない時代でも、塹壕に対して突撃かますと攻撃側が大損害
なので攻撃側も塹壕掘ったり、塹壕を迂回して補給を断つ動きを見せたり
第一次大戦初期のマルヌの戦いで 連合軍が26万3千、ドイツ軍が25万の 犠牲者出してる。 塹壕から出て攻勢を行うと、ヴェルダンやソンムで 40万近い犠牲者を出してる。 フランスでは、戦える男子が不足するという事態に
19世紀の戦いと投入兵力の桁が違うからな 19世紀で40万人も死ぬと陸軍が消滅しかねん
>>150 旅順も重砲投入して勝ったんだから、砲兵を強化して陣地制圧力上げれば歩兵は旧来の戦術で陣地突破可能と思ったとか?
>147の写真は本物?訓練中の一コマとかじゃなくて?
流れを切って申し訳ないのですが 普仏戦争時の陸戦に関しては、色々書かれてるが 海戦は発生したのかな?プロシア海軍って沿岸警備隊に 毛が生えた程度で、フランス海軍とは話にならないとか? しかし幕府が保有してた外輪の蒸気船は、プロシア製なんだけど 船は作れたのかな?
>>157 準備砲撃に2千門の大砲持ち込んで、一週間かけて、100万発の砲弾打ち込んで、
それでも塹壕陣地が戦闘不能に陥らない、ってのは、
戦前からは予測不能だったと思う。
まあ、戦車にしろ浸透戦術にしろ、決定的解決策にはなってないしな。
>>158 格好が例の派手なパンタロンじゃなくて野戦服だし冬服だから、戦争勃発から数ヶ月は経っているだろう
逆に戦後の演習とすれば、こんな密集させちゃ訓練の意味ねえw
162 :
142 :2012/09/24(月) 20:47:45.79 ID:???
>>161 コートとズボンの色調が違う(青と赤かと)し、足回りも革製レギンスなので、多分1914年中か1915年の初めかと。
後、一張羅のユニフォームを温存する為、従軍中は夏でもコートなので・・・
それこそ、ナポレオン時代から。
こんな横隊突撃してるフランス軍が数年後に戦闘群戦法を生み出すのだからすごいもんである
日露戦争の頃も日本軍は横列揃えてノコノコ敵陣まで歩いていったの?
そりゃ(当時はそれしかないんだから)そうよ
166 :
名無し三等兵 :2012/09/25(火) 14:34:11.81 ID:yxAS1OWd
なにこれ、ジョークサイトとしか思えない内容だが、作っている人は本気ぽい。 朝鮮人とか?
これ有名なジョークサイトw
169 :
名無し三等兵 :2012/09/25(火) 19:08:31.84 ID:6c2PXG7g
岩倉使節団がそのサイトに書いてあるほど極秘テロに有能だったら 明治政府はもうちょっと焼き討ちだのなんだので敵を処理できて もっとスムーズな政権運営ができたに違いない
コナフトン大佐の本に、一部のロシア軍部隊がナポレオン戦争よろしく横陣で 歩いて敵陣に進んで行った、と批判的に書いてあるから、さすがにそれは 当時としても時代遅れだったのでは。 敵の射程内では地形を利用したり匍匐したりしたんじゃないの?
基本的に中隊一丸やしなあ
鴨緑江会戦の最終段階でロシア軍の予備が密集横隊で突撃を掛けて来た、と言うのを読んだ事が有るよ。 連隊旗は当然として、イコンを掲げた従軍僧も一緒に。 日本軍は銃剣を使用せずに迎え撃ったと…挑発に乗らず銃撃で。 戦史の中でわざわざ取り上げている位だから、時代的に珍しいケースだったのだろうね。 包囲下からの脱出だったので、破れかぶれだったのかもしれないけど。
ティルピッツが出てくるまで ドイツ海軍は、貧弱だったんだ。 1850〜1870年代の軍艦や各国海軍のことが 分かるサイトや本って何かあります?
177 :
173 :2012/09/27(木) 09:35:30.86 ID:???
あと長崎にプロイセンの船が入ったところ、 フランスの軍艦に雪隠詰めにされたそうだw
178 :
名無し三等兵 :2012/09/28(金) 11:32:55.75 ID:AMR2Bhso
戦理・歴史スレより
おもしろそうな書籍紹介一部転載
751 :名無し三等兵 [sage] :2012/09/28(金) 07:55:47.16 ID:???
『日韓併合への道 完全版』 呉善花 文春親書
著者は韓国・済州島出身。4年間の軍隊生活を経て日本に留学。
韓国学会では、韓国は1875年の江華島事件から1945年の大東亜戦争終結まで対日70年戦争を戦ったという
日本では信じられないアレな歴史観が主流となっている。
こうした明確的な歴史認識の誤りの指摘、さらに日本の統治は他の西洋列強の収奪を目的とした植民地統治とは違うことなど
日本ではすでに指摘されていることだが、韓国人自身が学術的に正しく指摘した点は反日感情の強い韓国では勇気のいることだったと思う。
親日派(売国奴)として迫害されないことを祈ります。
『十九世紀イギリス外交と東アジア』 小林隆夫 彩流社
不平等条約など西洋列強の傲慢さとアジア人への差別待遇といった観点で捉えられやすいなか
通商の自由・外国人の保護を考慮せず、外国人へのへの差別と迫害を行う東アジア諸国では
外国人は治外法権に守られた居留地で生活するしかなかった。
「差別されているのは西洋人」という基本認識である。
東アジアの伝統的地域秩序である(宗属関係、華夷秩序)と西洋近代国家の国家(外交)関係の矛盾・対立
日本の近代国家化にともなう従来の華夷秩序の清との対立。
現実主義のイギリスが当初は清の華夷秩序を限定的に認める中、アフガニスタン問題によるロシアとの対立から
軍事力に優れた日本との同盟に舵を切ったこと。
そして同盟後も日本の国内政治に対して冷淡であったことと辛らつな日本評。
現代にも通じる教訓がありそうです。
[孫子]戦理・戦略・地政学・歴史・理論0010[戦争論]
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1290002931/
ロシア革命の映画「提督の戦艦」では突撃するとき 軍楽隊がなにやら演奏していたような気がする。
>>179 どの戦争を題材にした映画?WWI?赤白内戦?冬戦争?
軍楽隊まで繰り出す無茶ぶりは赤軍ぽいが。
>>181 WWI〜赤白内戦。
主人公がアレクサンドル・コルチャークなのでWWIは海戦が中心。
後半は内戦だから陸の話。
この数年前にはすでに浸透戦術やら分隊規模での戦闘やってるはずなんだがな・・・ まあ一部先進国だけだが
幕府陸軍にあった歩兵差図役頭取って役職は現代で言えば中隊長のことだよね? 勝海舟全集 陸軍歴史4って本の1個連隊に附属する士官の定数表には 中隊指揮役って役職も書かれていたけど両者の違いってなんなんだろう?
>>184 歩兵差図役頭取は階級を指していて、歩兵大尉
中隊指揮役は役職を指していて、中隊長
の違いとか?
キャプテンとかカピタンの訳語かね。頭取。
>>186 元々幕府で使用していた役職名だから、それを当て嵌めたのだろうね。
図らずも漢字の意味が適中したのか、分かった上で当て嵌めたのか?
他の階級の名付け方を見ると後者の気がするけど。
>>179 第二次大戦の時
英国軍のスコットランド連隊がバッグパイプを奏でながら
進軍した というのは駄目?
昔読んだロンメルの伝記に アフリカ戦線でエゲレス軍がバッグパイプの音も勇ましく 整然と横列徒歩攻撃を仕掛けてきてロンメルが呆れた話が合った。 もちろんエゲレス軍は・・・、
>歩兵差図役頭取 陸軍歴史によると「カビタエン 即ち奇数小隊(一、三、五、七)司令をなし連隊(二小隊を云ふ)の指揮官」 と書いてあったけど、いまいち意味が分からん ちなみに一つ下の差図役は偶数小隊の司令らしい
>>190 今、手元に「陸軍歴史」が無いのでうろ覚えですが・・・
1大隊:4中隊
1中隊:2小隊
の編制でしたよね?
歩兵差図役頭取は中隊長として中隊全体を指揮する傍ら、1小隊(奇数)の指揮を取る。
残り1小隊(偶数)の指揮を歩兵差図役が取る。
ここに出て来る連隊はregimentの訳では無く、多分divisionの訳だと思います。
今ではdivisionと言うと師団の意味ですが、この当時はDivisionは師団、divisionは2platoons(小隊)からなる戦術単位を指していました。
小隊が連なっているので連隊と言う訳を宛てたのだと思います。
つまり、2小隊=連隊=中隊なので、歩兵差図役頭取は連隊の指揮官と言う事に。
意外に思うかもしれませが、company(中隊)は管理の為の単位で、戦術単位としてはplatoonやdivisionが戦列歩兵の登場以来使われて来ました。
この当時の戦列歩兵や軽歩兵は、2platoons=1companyでしたが、少し前は1platoon=1companyでしたし、その前は1platoon=2companysでした。
国によって違いは有りますが・・・
ただし、何れの時代や国でも2platoons=1divisionなのは変わりません。
未だ訳語が確定していない時期でしたから、色々と訳語に混乱が有るのだと・・・
companyが小隊と訳されていた時期も有りますし。
場合によっちゃレシメンとか音訳してくれてるけど、そっちのほうがありがたいよね
>歩兵差図役頭取は連隊の指揮官と言う事に。 なんだかややこしいね 大隊を2つか3つ合わせた部隊も連隊と呼んでたそうだし こんがらがりそう
手元の資料によると幕府陸軍歩兵1「レジメント」の兵員が 歩兵頭 二人、 歩兵頭並 二人、 指図役頭取 十二人、 指図役 二人、 指図役並 十二人、 指図役下役 十四人、 指図役並勤方共 四十二人、 兵 八百四十人 で一連隊に大隊が二つ、大隊が十個小隊で編成、でも一中隊は一大隊の半数なりなんて書いてある?
逆に考えるんだ、鳥羽伏見の軍配書から逆算すればいいやと考えるんだ (検索中)……もうこれ訳分かんねえな
>鳥羽伏見の軍配書 悪い作戦計画の見本だからねぇ
>>194 謎の多い定数表ですよね。
連隊(レジメント)に歩兵頭(大佐)が二人いたりとか・・・
他の階級は妥当に思えますけど「指図役並勤方共 四十二人」は「指図役下役並勤方共 四十二人」かな?
下士官将校の総数だとしたら数が合わないし。
>一中隊は一大隊の半数なり
は、一大隊:二中隊、一中隊:五小隊と言う意味なのかな?。
これも不思議な編制で・・・
文久三年の蘭式編制では、
一連隊:二大隊、一大隊:五中隊、一中隊:三小隊
でしたが、慶応年間や仏式採用後はカオスですね。
陸軍歴史書4のP297の1レジメントの士官定数表だと 歩兵頭は一人なのにな
「陸軍歴史」の中でも結構矛盾があったりするからな 表形式になってる部分なんかどう読むのか微妙な部分もあるし
幕府陸軍は個人的に結構すきなんだけど いまいち資料が少なくて困る 組織に関する資料もそうだけど支給されてた装備に関する資料なんかも
>>200 案や購入予算については記録が有るけれども、実際の購入数や配備状況となると不明な点だらけですからね。
制服にしても、伝習隊では兵科色を定めていたと回想には有るけれど、肝心な色分けは伝わっていないし。
幕末の横浜警備部隊は緑の制服だったので菜葉隊と呼ばれてたとかいう
>>203 狙ってたわけじゃないだろうけど
緑の制服なら野外で戦闘になったときは迷彩効果が発揮されたかもね
菜っ葉一枚
やった!やった!
陣笠POLICE…… イイ!
>>203 横浜警備の隊は英軍第20歩兵連隊の伝習を受けた英式なので、ライフル旅団の事を聞いていたのかもね。
グリーンジャケッツと菜っ葉隊では、その意味は似たような物だが、受ける語感は大分違うなぁ。
どうでもいいけど帝政ロシア軍も緑の制服だったけ
>>210 連隊毎に色が違ったのをピョートル大帝が緑に統一したよ。
その後も帝政ロシアの軍服は最先端を行っていて、19世紀半ばまでのプロイセン軍服はロシアのデザインをコピーして基本色を青に変えた物が多かった。
グリーンジャケッツと言えば「炎の英雄 シャープ」 連休に出掛けもせずにDVDリーズを観てるw大規模な戦闘シーンは辛いけど、小規模(数人)は予想よりは良い出来だった。 せっかくだから二人一組のバディシステムを再現して欲かったけど。
そういえば、シャープってワーテルローのエピソードで最後に ブラウンシュヴァイクを狙撃していたな(しかも命中)。 いくら怨みがあるからと言っていいのか!?と思った
>>213 オラニエ公な。
ブラウンシュバイク公はカトルブラで戦死。
なんか19世紀後半から外れているな
シャープに振ってゴメン。 軌道修正の為、今度は「ゲティスバーグ」を。 会戦の再現に主眼を置いていて、映画的なストーリーは無いも同然だけれども、 1日目はゲティスバーグ郊外でのビューフォードの騎兵師団、 2日目はリトル・ラウンド・トップでのメイン第20連隊、 3日目はピケット師団のアーミステッド旅団、に焦点が当てられていました。 戦闘に関する細かい描写は丁寧で、 砲への装填中や清掃中には指で火門を塞いでいたり、 装填の度に砲長がヒューズの時間を指定していりと芸が細かかった。 イメージ先行気味だった「ワーテルロー」や「戦争と平和」とは、一線を画する戦闘(戦況)描写の作品かと。
映画の「ゲティスバーグ」を意識してかは知らないが、 ヒストリーチャンネルの「ゲティスバーグ」では カルプス・ヒルの戦いに焦点をあててたな。
>>218 それだ。
前半はゲティスバーグ市街地で戦死した軍曹かなんかの話。
後半はカルプス・ヒルでの戦闘がメインだったような気がする。
スコット兄弟っていうから俺の知らないギャング団かなんかと思ったらw、リドリーとトニー・スコットの事か。 それはまた豪華な映像だな。
南北戦争時の各国の軍編成はどうだったんだろうか? wikiみるとプロイセン軍が1個師団12000名らしいが・・・
南北戦争中の師団(歩兵)は両軍共に、 中隊:100名 連隊:10中隊 旅団:2連隊以上、平均で4か5連隊 師団:2旅団以上 北軍の1師団は平均12連隊、兵力では約12000名 南軍の1師団は平均19連隊、兵力では約19000名 ただし、兵力は慢性的に定数割れを起こしていて、実際の連隊兵力は約500名位で、150名位に下がる事も。 チャンセラーズビル会戦では、北軍師団の平均兵力は6200名、南軍師団の平均兵力は8700名だったと。
定員割れは当たり前なんだな・・・ 新規に師団増設したり大変だし。 人的資源は大切にしなきゃね。
>>222 北軍のほうが人数が多いイメージがあったが、南部のほうが多かったんだな
>>224 1師団の兵力は南軍の方が多いですが、戦闘序列表を見ると、
北軍は1師団の連隊数を抑えて師団数を増やし、しいては軍団数を増やす編制だった様です。
ゲティスバーグ会戦を例にすると、
北軍:88300
ポトマック軍/7軍団+1騎兵軍団+5予備砲兵旅団
南軍:75000
北バージニア軍/3軍団+1騎兵軍団
の様に、両軍の兵力と軍団数の特徴がはっきりするかと。
もしも両軍の兵力が同じだとしても、師団や軍団数は北軍の多くなるので、一見すると北軍の人数の方が多く見えるかも。
実際、北部の方が人的資源が多かったと言われていますが。
北軍の師団や軍団を多くする施策はそれをまかなえる士官を量産したからじゃないだろうか。
>>226 両軍の将官数を比べた事は無いけれど、そう言った背景は考えられるかも。
サムター要塞が攻撃された時点で、リーは大佐、ジャクソンは少佐でしたし。
北軍の連隊には基本的に補充兵が無いっていうのを聞いた事がある。 だから実戦を何度も経験すると兵員数がどんどん減少していき、 最後は解散して新しい連隊を編成する。だから連隊の数が増えていき それを束ねる上位組織も増えていく。
>>228 な〜んかWW2のソ連軍みたいだよな
あそこも兵員の補充ろくになしで現有戦力を使い潰していったし
単位としての師団の規模も西側と比べて小さかったしな
あるレベルの軍隊にとってこういうやり方が一番やりやすいのかね?
確かに事務量とか減らせそうではあるけど
指揮官にとって連隊毎の能力が違うのは大変そうだけど 味方の兵士が多いなら問題は少ないかな?
北軍では連隊を編成する際に同郷の人間を集めた後、訓練から実戦投入まで ずっと一緒。だから兄弟や隣組で同じ連隊なんて珍しくない。そこへ別の コミュニティーの人間が入ると実戦の際結束力が弱まり士気が低下すると 考えられていたのではないかと思う。
言葉とか食べるものが違ったのかも
いや、まず第一に同郷人が一緒だと怯懦な振る舞いはできないし勇敢に戦うと期待できるでしょ。 次に部隊の名が郷里の名と結び付けられるからやはり郷里の名誉のため勇敢に戦えると期待できる。
州単位でどっちに帰属するか流動的だったり 南部州出身だけど北軍に参加した人とかも凄い多いんで あんましごっちゃsに混ぜるわけにも行かなかったんじゃね WW2で言うなら自由フランス軍を米連隊の補充に使うのは避けたいよね
両軍とも州毎に編成された志願兵連隊が多く、補充兵も州毎に確保し配属していたから州を跨いだ柔軟な対応は無理だったみたい。 特に北部では、志願兵の募集、新規連隊の編成、将校の任命と言ったこと全てが州知事の権限だったと。 そして、補充兵募集よりも新規連隊編成の為の募兵の方が、知事にとって都合か良かったので補充がおざなりに。 補充がままならない事で、編成から年月の経った連隊が、初期の志願兵の任期切れにより連隊を維持出来ず解散しなければならない事さえ・・・
南北戦争ってあまり本見かけないんだけど 何かある? 主として扱ったのが学研Mと文春新書の指導者リンカーンしかない
それこそ
>>216 の書いた「ゲティスバーグ」の劇中のメイン州第20連隊でも
チェンバレンの弟が同じ連隊だったり、他にも〜兄弟がいたような気がする。
街ごとの編成って部隊が全滅したらその街の働き手どうすんお?
>>237 その前の時期を扱った「ゴッド・アンド・ジェネラル」では、チェンバレンが大学教授から志願兵連隊に入隊して、いきなり中佐になってましたよ。
弟は軍曹に。
下位の将校から戦術隊形を教わる中佐の姿が・・・
一方、大佐のリーに対して北部からは合衆国野戦軍総司令官、南部からはバージニア州軍司令官への就任要請が。
開戦時、少佐だったグラントはバージニア旅団を指揮するに当たり、いきなり大佐に昇進したり・・・
この戦争での昇進は上層部(知事?)の鶴の一声状態。
まあアメリカって連邦政府は後付けみたいなもんだしな。 地域や宗教、あるいは職業等のコミュニティの集合体みたいなもんだから、結構いい加減なんじゃないか。
242 :
240 :2012/10/16(火) 21:32:06.47 ID:???
>>240 ×開戦時、少佐だったグラントは
〇開戦時、少佐だったジャクソンは
やってしまった・・・
>>240 しかしアメリカは戦争が終わったら平気で降格するからなw
戦功あげててもおかまいなし
常備軍が極端に小さいからそれを受け入れないと首を切られるわけだが
普通の軍隊だったら叛乱起こるとこだわw
有名ドコロだとカスターなんかも将軍から大佐に引きずり降ろされてる
中佐クラスなら戦術知識よりも思考力や判断力、事務能力や管理能力なんかのほうが重要になってくるから、大学のセンセーなら下手に下級将校にするより有用じゃねえの
具申素直に聞いてくれるから、下にとってはやりやすいかも
切所での決断考えるとやっぱgkbrだろうがw
>>240 ×「ゴッド・アンド・ジェネラル」
〇「ゴッズ・アンド・ジェネラルズ(GODS AND GENERALS)」
南北両陣営のエピソードがそれぞれあるので複数形。
クリミア戦争、アロー戦争、セポイの反乱 ドイツ統一戦争関連の本も少ないよ。
>>243 北軍の最大時の兵力は約1045000名
志願兵は除隊させるとしても、将校にも手を付けないと、とてもじゃないけど。
当時は戦時のみの限定で、給与は据え置きのまま暫定的に階級を上げ、それに応じた指揮権を与える制度が有ったよ。
チェンバレンは準将までは通常の昇進で、少将には、この制度で昇進してる。
カスターは正規の少将だったけれど・・・
ペリーも大佐。
ここらで朝鮮系の人がホルホルするネタとして、 幕末期に、フランスやアメリカが李氏朝鮮に攻め込もうとして 多勢に無勢となって失敗した例の詳細をうまく説明して欲しいものだ これは途上国が当時の先進国を上手く撃退した例でもあるんだよな そして最後は日本に江華島事件でうまく要求を飲ませる形になったが、 この差は現地の地形の情報に通じていたか否かなのかなあ? 当時の朝鮮半島にはマスケット銃だけなら多数あって、それを3万人以上の兵士に配備して 船数隻で来たフランスやアメリカの船から降りた陸戦部隊を撃退できるくらいの兵力は あったのだという そして、アメリカやフランスは、たとえ沿岸部で勝利を収めても、その先の地形情報が無くて その先にどう入れば良いか分からず、撤退したと じゃあ、日本はどうやって江華島事件で事を有利に進めたのか?と やっぱり昔から隣国だった事、朝鮮出兵などの地形資料も残っていたことが勝因か?と考えたくなるが
地図もそうだと思うけどやっぱり疫病なのかなと。 地球の反対側までやってきて気候もじめじめしてるし・・・ インドとかインドネシアとか南米とかに進出してるけどヨーロッパ系の人にはきついだろうねアジアの気候。
やっぱ遠いのは大きいだろうなぁ そりゃやろうと思えばいけるかもしれんが労力にリターンが合わない
必死さ加減の違いも影響しているんじゃないかと。 日本からすれば、朝鮮半島のコントロールを握ることは国防政策上の一大目標だったけれど、米仏にとっては そこまで必死になるほど魅力のある土地ではなかったし。
逆に言うと欧米諸国にとって日本は、資源は無いけど人口は多いから市場として見込めるし、活発化していくであろう 太平洋航路の中継地点として重要だったんだろうなあ。
朝鮮は独立した国家であると認める この1文なんかいかにも懐柔するための文句だよな
中国の家来ではないと認めさせた文面 この条約は中国の意向で白紙にされない
明治の政治家は偉かったんだね……今の日本には政治中枢が事実上、存在しないのに。
>>256 外国人に言わせると、政治中枢が事実上存在しないのに国家を成り立たせている日本国民は恐ろしいということになる。
それと、明治期と現代って似ていないこともないよ。だって明治新政府は成立前の10年、成立後の10年は内乱続き、
さらにその後の10年は民権運動と松方デフレだもの
日清戦争からの「栄光の明治」になるまでの「貧乏国明治」の期間ってけっこう長いんだよな。 "Warship" で浪速と高千穂のモノグラフを読んで、明治海軍の金のなさに涙したことがある。
女工酷使して生糸売ったり、鉱毒無視して銅掘ったり、税金搾り取って農民は小作に零落したり。 まあ光と影のある時代なんだよな。
>税金搾り取って農民は小作に零落したり そう言えば江戸時代に何とか自活できていた農民がどんどん小作になったんだよなあ
幕藩時代の年貢は「生かさぬよう殺さぬよう」だったのに?
まあそれまで働いていた子供が学校行かされて 教科書代程度の学費を徴収されたりするもんな。 秩父事件で困民党の要求の一つが義務教育免除だったり。
地租改正で地代金納化したのも農民にはかなり痛かった 貨幣経済が比較的発達していたとはいえ、まだ完全とは言いがたかったから
獅子の時代を思い出す
>>263 まあ小規模地主って集出荷と納税業務代行みたいな面あるからな
名目上の地権持ってるからって耕作者勝手にすげ替えたり農地を転用できたかっていうと疑問だし
ちょっと支配力の強い農協みたいなもの
ただ流通を握られることで農民が農産物価格の変動の旨みを得られなくなりはするんだが
そして行き着くところは、安定超重視の食管制だったりするわけだが
江戸時代と同じ税制では、これまた財政の安定など見込めず予算の立てようもないんだわな。 明治6年までは支出超過で財政赤字続きだったり。 他にも幕藩時代の債務処理やら通貨統合やら商業活動に対する税制やら富国強兵やらインフレやらデフレやら あの時代の財政史見てるとやること多すぎて気が狂いそうになるw だが明治時代初期は人気ないが面白いなあ、明治2年の政変失敗とか何度読んでも笑える。
>>261 江戸時代の年貢率は天領では3割を切るくらいだよ。すごく軽い。それ以外では7割とかもあったけど
明治政府は国内でうなってたカネを吸い上げて重点投資した。
基盤じたいは江戸時代にできている。そして江戸時代も公論重視で「決められない政治」だった。
明治維新期と現代はわりと似てるよ。明治維新もその30年前に天保の大飢饉が発生してるからね
グローバリズムも19世紀の帝国主義の焼き直しみたいなもんだしな。 まあ現在は資源を持った新興国が伸びているのが違う点だけど。
しかし新興国の特区の企業の外国人は、租界のアレみたいなものじゃないか。 帝国主義時代でも中間管理職に現地人が登用されて、現地の民衆を抑える側に回っただろう
>>267 紀州だかでは9公1民だかって冗談みたいな租税率があったらしいぞw
江戸時代のGNPって計量不能なんだよね
土地台帳が太閤検地以来全く公的には更新されてないんだもん
地域(藩)レベルではある程度把握されてるけど、大本の太閤検地が政府の権威確立のためにとりあえずやったようなやっつけ仕事で全く不正確だしw
一揆がコワい収入増がバレたら幕府からの賦役がコワいで最後まで実態不明のまま
人口が一説によると江戸初期から末期までで4倍になってるって言うし、耕地が増えてないわけがないんだがw
だから明らかになってる田畑からがっつり収税するわけでまあ酷い話だw
それで取られる方が耐えられたのも、村落単位では簿外の土地の収入で補填できたってことでもあるが
>>267 例外的に薩摩は無茶苦茶年貢が高かったらしい
侍が多かったから、そうでもしないとやっていけなかったというのもあるけど
>>271 薩摩は人口に占める武士の比率異常に高いけど、郷士の割合も高かったみたいだけどな
まあ郷士からは年貢取れないから、取れるところからがっぽり取ったんだろうがw
沖縄支配に南西諸島の砂糖専売と圧政に、と戦闘民族は収奪もハンパねえす
収入は多そうなのに火の車のイメージしかない薩摩の財政の不思議w
だっていかんせん土地が・・・ あ、幕府に隠れて密貿易もバリバリね 琉球船を貿易に使って船員は完全に薩摩の連中なのに琉球の船だから幕府の法令は適用されないよとかやってた
江戸時代の藩政はそれだけでシリーズ化できるわなぁ…
週刊日本の藩政
薩摩の赤字は、参勤交代のせいかなあ?
だいたい重豪のせい 中央への影響力確保のため将軍家や有力藩への政略結婚とかの将来への投資をやりまくったら その費用がとてつもないことになって借金が凄まじいことになり利子だけであっぷあっぷになった
>>276 仮想敵国危険度ぶっちぎりのNo1(実際幕府倒したしw)だから国力弱めるために自藩に関係のない賦役ずいぶん課されてるからな
鎌倉以来の名族だから金食い虫の一族縁戚がやたら多かったり
斉彬のジイ様の重豪だっけかが大名の蘭癖という底の抜けたような浪費家だったり
斉彬が名君の誉れが高かった一方で財政改革派から警戒されたのは、この爺ちゃんのせいだし
列島の端からの参勤交代の出費もでかいがそれだけではない
一番酷いときには利子返済が総収入を超えるという完全な財政破綻状態だったからな 最終的に「250年分割払いにする」という事実上のデフォルト宣言
>>277 子供押しつけられてだいぶ困ったらしいからな
三田村鳶魚かお前はwそう聞いたことないぞ
>>279 あれ理論上はいまだに払い続けてるはずなんだよなw
まあ多分維新の時に新政府が引き継いだ諸藩の負債に紛れてるんだろうが
>>280 たしか11代将軍の家斉の時代ともかぶるんだよな
あいつも子沢山で浪費家であっちこっちに子供を養子に出してるわけだが
嗣子のいない大名家気が気じゃなかったろうなw
どっちか押し付けられそうでw
台所預かりにならないだけまし
>>282 借金の桁が違う
長州は村田清風の直前で180万両、肥前は鍋島閑叟の直前が13万両
薩摩は調所広郷が500万両を踏み倒した
日清戦争の黄海海戦は、経験値を上げるという意味で非常に大きかった。
>>281 まあその負債も廃藩置県で債務者消滅により無効を宣言されてしまったわけだが
ある意味、みんな借金抱えてたから、あっさり廃藩置県の流れに応じたって感じもあるわなw
薩摩などは密貿易で儲けていたんじゃないのか?
>>284 大阪の商家がそれでずいぶん潰れたとか何とかw
じゃ借金は藩としての借金で、家としての借金じゃなかったんだね? ‥‥まあ道理はともかくそう言い張ってチャラにしたんだろうな。
500万の前に120万両分の銀借款を棄捐して大坂銀座から締め出されてるし 勝ったからよかったものの 2085年以降まで鹿児島住民が借金返済を続けていた可能性だってあった
>>292 までも1両=1円だからな
インフレが起こればそれを反映させない限りまあ笑っちゃう額なわけで
金本位制下だと基本的にインフレは起きないはずではあるが、江戸時代通じて貨幣の品質落ちていくからインフレみたいなもんではある
銀で融資されたら元本は銀で返すのが基本だったのかな
>>288 儲けてたけどそれでも苦しかった
例えば宝暦治水の話なんか読むと、幕府の締め付けとか色々凄絶すぎてトラウマになるレベル
御手伝普請こわい
幕府が課す治水工事って、目をつけた藩の財政ふっ飛ばすような難所にしたり、 あるいは絶対実行不可能な工事をそれが上手くいく見積もり無しに課して 案の定失敗したら、責任持って藩の殿様切腹、藩取り潰し そんな感じだもんな
薩摩藩の財政をまじめに語り出したら、このスレ全部埋まりかねない話になるな。 私の理解の範囲だと、確かに薩摩藩は琉球を介した密貿易で儲けていた。 でも、薩摩藩の体制から来る維持費が半端じゃなく、どうにもならなかった。 人口比から来る武士(現代流にいえば、免税特権を持った公務員家族と思えばいい)が、4分の1以上。 こんな社会体制は、絶対に崩壊する(公務員が人口の4分の1ですよ、現代日本が真っ青)。 それなのに、幕府のせいだとかなんだとか、薩摩藩の肩を持つ人は言うけれど、 ギリシャも顔負けの公務員社会を作っておいて、借金しまくり、そして250年賦元金のみ支払の 事実上借金踏み倒しをやっておいて、こういうのが真の藩政改革(しかも、公務員数の削減一切なし) と言われると、私としてはドン引きしてしまう。私が異常なのだろうか。
まあ、収入源は確保しての踏み倒しだから再発はしなかったし
郷士は日用品の現物支給だけにしておけば良かったのに まあ郷士の家の子達は苦労して身分が下の家でこき使われたりして お駄賃を稼いでいたのも事実だが
>>297 基本的には同意なんだが幾つか指摘はしとく
武士の大半を占める郷士は免税だが無祿だから
ある意味現代の生活保護を受けていない貧困層みたいなもの
間接税以外でほとんど納税しないし経済的にも可処分所得が少ないから幽霊に近いw
農民に耕させれば租税が入ってくる土地をこんなのが占拠してるわけだから、有害なのは疑いないが
薩摩が、徳川幕府成立以前に九州制覇しかけて秀吉に鹿児島一県の地域に押し込められた歪だったりするんだが
そして、江戸時代自体が産業革命も農業革命も起こってないのに総人口の7%前後も公務員のいる異常な時代なわけで
”真の藩政改革”なんて持ちあげるのは相当のいかれてるやつだろ
調所笑左衛門のやったあれは、”本当にあった酷い話”のたぐいだろ
高校の歴史の授業で取り上げたときは、センセーも生徒も引きつり笑いしてたわw
まともな人間は、恩田木工とか村田清風とか評価するわな
鉄板は上杉鷹山だし
しかし ・異常な数の非生産人口 ・生産力は低い ・財政は火の車 ・主な収入源は密貿易 と、列挙するとホント酷いなw よくぞまあこんな連中が倒幕の主要勢力になったもんだ
>>297 それは現代的な見方が過ぎるとの思う。当時は身分制社会でそんなに簡単に
帰農、再取立てもできないし、なにより当時は財政問題と同時に海防問題にも
取り組まなければいけない状況。軍事要員である士分を削減することは
難しいよ。
>>301 あと奄美での砂糖だな。これもえげつない搾取だと悪名高い。
そんな状態でも雄藩になれたのは琉球を所由していることからくる
外圧による強い危機感かな。
結局は軍事力としてあんだけ雇っておくのは無意味だったのが悲しいところ。 たとえ鎖国中だとしても、せめて海外の兵学ぐらいはきちんと学べるような 体制だったら、幕末に諸藩があんだけ無茶な財政にならなかったのかなぁ。
>>304 しかし参勤交代が取りやめになればどの藩もあっさり財政持ち直した現実
どんだけあれが無駄な浪費だったか、という
おかげで”日本”が生まれ動脈網が生まれたわけだが
事実参勤交代がなくなったら各藩所領に引きこもって蟠踞始めるしねw
ほんの数年で膨大な数の兵器が輸入されてる
経済学的には、武器の代価として正貨を海外に流出させるより、移動の経費として消費させて国内で循環させてたほうがずっと良かったよね
国持ち大名クラスなら自力更生の余地がある 中小藩は何もできずただ借金に飲み込まれていくのみ 薩摩藩の偉業は今でも俺の地元では小学生に教えてるはず 千本松原として
薩摩の農家では豚を飼育して臨時収入にしてたっていうけど簡単に豚なんて手にはいるんだろうか
参勤交代が取りやめになったのは、幕末だけど、そんなに借金が減ったんだろうか? それに明治維新後の版籍奉還でほとんどの藩で借金踏み倒しをした、と覚えていたのだけど 私の間違いだろうか。結局のところ、新たに借金をして兵器を買っただけではないか? 幕末の動乱の関係から大量の兵器を輸入せざるを得なかった結果だと思うな(しかも、南北戦争終戦により、 世界の兵器市場が過剰供給状態になっていたのも考慮すべきだと思う)。 具体例を305は教えてほしい。
>>307 一度手に入ったら、どんどん増やして近隣農家に分けられる生き物だよな
何しろ1回に8匹以上も生まれるんだから
ぐぐったら鹿児島藩が1720年で1万7500両ってでてきた 参勤交代の片道のなのかな
参勤交代がなくなった分だけ武器を買いまくったのか
>>310 薩摩藩の調所による事実上の借金踏み倒しは500万両だったな。
このあたり、江戸時代中の金銀貨改鋳によるインフレがあるので
(忠臣蔵の要因として、金貨改鋳によるインフレ(物価が3倍に暴騰した)を赤穂藩がさっぱり考慮しなかったため、
吉良上野介が浅野内匠頭にそれを指摘したところ、それを逆恨みされたとする有力説まであるくらい)、
単純に考えられないけど、片道1万7500両なら、500万両に借金が達するのに単純計算で140往復以上かかる。
幕末に参勤交代が廃止しれて明治維新まで10年もたっていない。
それなのに、参勤交代が廃止されたら、すぐに借金が全部完済できて、武器を買いまくれるなんてありえるのだろうか?
手元の本開いたら ライフル1300丁 1万8875両 とかあった
>>312 財政が持ち直す=負債完済じゃないだろ
どんな短絡よ?
>>314 負債を完済しないと、財政が持ち直したとは言えないと思います。
今の日本の政府財政と同じです。
それとも、借りた負債はもう返さなくてもいい、ということでしょうか。
例えばありえない仮定だが いきなり税収が5倍になって国債の買い入れが不要になったとしとしても 財政が持ち直したとはいえないということかい
借金の額が同じでも赤字が毎年増えつづけ利子返済のために借り入れしてるのと黒字で過去の負債を返済するだけのとは雲泥の差だわな 基本的に赤字から最低でも均衡財政までもってこれれば持ち直したと形容してもいいんじゃない
318 :
名無し三等兵 :2012/11/01(木) 04:34:21.03 ID:yzv1uIAO
>>307 >薩摩の農家では豚を飼育して臨時収入にしてたっていうけど簡単に豚なんて手にはいるんだろうか
鹿児島県民です。
家畜は現金収入になるから、昭和中期まで農家は飼ってたらしい。
米や野菜だけだと、収穫期の都合で現金不足になるからね。
豚は雑食だから育てやすいらしい(当時の感覚で)、エサは野菜の切れ端とかをやる。
太らせるというよりかは、母豚を飼って、産まれた子豚を養豚農家に売るのが一般農家の商売。
ちなみに、飼育する豚は、白豚(子だくさん)と黒豚(ブランド)で、どちらが儲かるかによって、白黒のバランスが左右されてる。バブル期は黒、景気後退時は白みたいなかんじ。
戦後の機械化で、農家の大規模化と専門化が進んで、普通の農家では豚を飼わなくなった。
肉牛も同様に飼われてた、田舎に行くと牛舎が物置やトラクター倉庫になってる。
319 :
名無し三等兵 :2012/11/01(木) 04:38:12.46 ID:yzv1uIAO
>>318 補足、余り手に入らないから儲かるんですよ。
あとは偽金つくりが主な財源だったみたいですね、ほとんどの藩がやっていたみたいですが 薩摩が一番大規模で計画的だったと 偽金づくりと明治維新 徳永 和喜 新人物往来社 で述べられていました
偽金って硬貨?紙幣? 幕府の金座かなんかで作られ押印された小判とか銀貨の偽造?
まず最初に琉球の地域貨幣を発行するという名目で幕府からの許可を得て 琉球通宝という貨幣(銅銭)を鋳造して貨幣作成のノウハウを蓄積する一方で 天保通宝(銅銭)の偽造を始めます、続いて本命?の二分金の鋳造を開始します 二分金は時期によって成分が大きく変化しますが、末期になると銀貨を金箔で包んだ だけの通称「天ぷら金」と呼ばれた名ばかり金貨です。 島津斉彬、小松帯刀、大久保利通と大物が関わっていて、資金洗浄?には三井組が活用 されたそうです。金額はモノが偽金ですから正確な総額は不明ですがピーク時は 一日に4000〜5000両を鋳造し、一ヶ月に12万両をこえてつくり出し、 英艦隊に打撃を受けた後には1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造された そうです! 倒幕後明治政府を率いることになる薩摩の面々は横行する偽金に苦しむことになるのですが 因果は巡るというやつですね
インフレすぎるw
太政官札とか発行してみたり、どうにか通貨の安定化を図ろうとするも明治政府がいつまでも続く保障があるわけでもなく
325 :
名無し三等兵 :2012/11/01(木) 21:54:17.50 ID:yzv1uIAO
>>322 そんなハイペースで作ってたらたちまちバレるんじゃ?
>>325 インフレが加速した時代であることと三井組のマネーロンダリング能力の高さ
各藩もやっていたことなんかもあったそうです
まあバレてもどう罰するかという問題もありますし
新政府軍側にも旧幕府軍側にも贋金作ってた藩はいるからなぁ 中小の藩も含めるときっともっといたんだろう まさにフリーダム
しかし琉球の通貨作るためって名目は幕府も怪しいと思わなかったんだろうか
島津重豪は田沼政権の盟友だったから、それ以来、幕府の改革派は島津家を盟友とみて、 その財政強化に期待してた部分があると思う。阿部−斉彬なんて典型でしょ
それで生麦などの賠償金が本物かどうか支那人に鑑定させたわけだ。
多分支那への支払いにも使われていて、 それで支那人が鑑別に習熟していたというわけか。
戊辰戦争で、榎本が幕府海軍を率いて脱出しなかったため、戊辰戦争が早期に終結。 更にバタフライ効果で旧幕陸軍の生き残りが旧幕軍の多い海軍の海兵隊に多数志願したため、 海兵隊が西南戦争まで存続(海兵隊解体で失業者発生、就職口が無くなることによる社会不安が起きるよりマシとの判断から)。 西南戦争でシャスポー銃を改造したグラース銃もどき(紙製薬莢の代わりに金属製薬莢使用)で 戦う海兵隊というのを考えたのですが、無理がありすぎるでしょうか。
仮想戦記で、 存続した海兵隊が日露戦争に従軍するってのがあったなぁ
334 :
名無し三等兵 :2012/11/03(土) 00:45:40.19 ID:PFiLNDgb
>>332 熊本城を包囲している西郷軍は基本的に鹿児島からの補給を期待出来なかったから、補給路を遮断してもあまり意味ない気がする。
>>332 です。
グラース銃もどきを西南戦争で活躍させたい、というのが先なのですが、分かりにくくてすみません。
最初は、シャスポー銃が西南戦争でも活躍というネタで考えていたのですが、シャスポー銃は
紙製薬莢の使用等もあり湿気に弱く、雨が降ると不発が多発するらしいことが分かったので、
西南戦争で活躍させるとなると薬莢を金属製にする等しないと無理、グラース銃もどきにする
しかないな、と考えたのですが、西南戦争当時の日本で可能な話なのでしょうか。
旧幕陸軍云々は、海兵隊が湿気に弱いシャスポー銃をなぜ拘って使用しているかという理由です。
この時代の戦史見てると なんで大村益次郎みたいな天才が現れたのか激しく疑問になる
いや、大村は天才というより秀才だよ。 教科書どうりに戦争して勝った。 本人も勝つ様に戦ったのだから勝つのは当たり前ですと言っている。 むしろ幕府側がもうね。
無茶言うなよ 5000で5万相手にしかも相手のが装備が上という状況で勝つっていうのがありえんわ 勝つように戦ったのだから〜って口ではいうけど はいそうですかと実行できるもんじゃないよ
>>338 実のところ無茶ではない。長州の部隊は実戦経験がありかつ
一線部隊は命令を実行する能力があった。
一方幕軍は5万とはいえ・・・
>>341 早合じゃないんだから燃焼前提の紙薬莢に漆はないわ
>>337 ただの教科書を咀嚼して伝授し実地で実行できる辺り十分非凡だと思われ
準備期間も1年半弱だったんで目の回るような忙しさだったらしい
>>343 >十分非凡
そりゃあ適塾出身だもんね。でも「好き」でもあったんじゃないかな。
医者にしちゃ一般教養の範囲を超えてるとオモ。
大鳥さんなんか「面白くてしようがない」みたいな感想を残しているね。
だって、その教科書を翻訳した本人だし
>>335 です。
戊辰戦争で薩長側の主力となったスナイドル銃は金属製薬莢を使っているので、それを参考にして
(かなり後知恵なのは話かっていますが)更に戊辰戦争で紙製薬莢の欠点に気づいていたので
明治維新後早速挑戦という感じで考えたのですが、やっぱり無理がありそうですね、ありがとうございました。
という感じで歴史を前倒しして
大村益次郎が5000で5万を破った戦いって、いつ、どこの戦いでしょう? ネットでざっと調べた限り見当たらないのですが? しかも、幕府側の方が装備が優れていたとか?疑問が多々あるのですが。
>>346 っていうかスナイドル銃は、前装式の
エンフィールド銃と同じサイドハンマー撃発式で
シャスポー銃は、ドライゼ銃と同じで撃針という
針で雷管を突く方式だから、まったく別だよ
>>347 たぶん総数だね。ただ幕軍のやる気のなさがすごいんだよ
幕府軍は開戦直後に本荘宗秀が勝手に停戦交渉を始めようとして紀州茂承の辞任騒動を引き起こし、
本荘を呼びつけてる間に小倉では援軍と小倉の対立が激化
幕府海軍も艦の損傷を嫌がって出動要請に応じようとしないし、勝てるほうが不思議
いざ戦闘となると小倉藩も熊本藩も頑張ってたけども 小倉口は経緯順に見て 1.小倉藩(最前線) vs 幕府&熊本&その他 2.熊本藩(最前線) vs 幕府&その他 3.小倉藩(ゲリラ) なんかそんな印象だが 小倉藩の時も熊本藩の時も援軍要請来てるのにいつもガン無視してたのが不思議なんだが せめて幕府直轄の歩兵隊ぐらい動かそうとは思わなかったのかね
歩兵隊はそもそも小倉口にいなかったみたいだね。 幕府直轄軍だと八王子千人隊がいたけど、戦意が低くて役に立ってないようで。 元来は長槍装備の部隊で、安政年間に中古ゲベールを支給されて銃兵に改編途上? 目付の斎藤図書が緒戦で逃げ出したり。 総督の小笠原長行が指揮官として無能だったという説も。 小倉藩は渡海して先制攻撃かけようとして、総督の許可が出なかったのを不服としてる。 家茂死去で単身で戦線離脱なんてことを最後にやらかすので、余計に恨みも募ってるのかしらん。
小笠原長行は独断専行に近いかたちで家茂救出作戦を敢行したり、函館まで転戦したりと 敢闘精神には不足を感じない面もありますが・・まあ負けてはいけないここ一番で臆病風に 吹かれるということはありますね あと子息の小笠原長生海軍中将は東郷平八郎の神格化に大いに貢献?しましたから歴史は 皮肉ですね
第二次長州征伐だと、完全に長州側の方が装備と経験じゃ上だし、大村益次郎は石州口の指揮は執っていますが、 それ以外の戦線では指揮は執っていないのでは(事前計画は立案していたみたいですが)? 幕府軍側の戦力が戦力として機能していなかったのは事実みたいで、 芸州口の井伊家の軍勢などは、大砲の音だけで全員鎧具足を脱ぎ捨てて、広島城まで逃げ帰ったとか。 しかも、その後、長州藩の方から戦場に遺棄されて迷惑だから、と鎧具足を送りつけられたとか。 井伊直政や井伊直孝が見たら情けなくて涙が出そうな始末ですね。
井伊は直弼もピストルで撃たれたし 長州の大砲にもびびったし 近代の銃と相性が悪いのか 昔、騎馬鉄砲隊を作ったのはどこだっけ?
伊達 どんな部隊かよくわからんが
そういえば、戊辰戦争時の伊達藩も酷い逸話があった気が。 記憶なので、間違っていたら平謝りに謝りますが、 大砲の音だけで、5里逃げ帰ったので、「ドンゴリ」と仙台藩兵は敵味方を問わず嘲笑されたとか。 政宗公が聞いたら、激怒して、仙台藩兵全員死罪にされそうです。
大藩の威光を笠に着て、同盟諸藩に上から目線で指図する癖に いざ戦となると一番最初に逃げていくので、すこぶる評判は悪かったそうな
>>356 訓練もろくに受けてないし、実戦の経験も無い。
そりゃあ、逃げるよ。
ちゃんと訓練された額兵隊は北海道でもちゃんと戦っている。
諸説あるんではっきりはわからんが、幕長戦争の各戦力 石州口:幕府(浜田藩、福山藩、因幡半、松江藩)3万 vs 長州(指揮:大村) 700(後に増援+300) 芸州口:幕府(彦根藩、高田藩、紀州藩、幕府歩兵隊)5万 vs 長州(指揮:河瀬安四郎) 1000 小倉口:幕府(小倉藩、肥後藩、久留米藩、柳川藩、幕府艦隊)2万 vs 長州(指揮:山本梅三郎) 1000 大島口:幕府(松山藩、宇和島藩、幕府歩兵隊及び艦隊)2000 vs 長州(指揮:林半七、世良修蔵) 500 総兵力:10万vs3000 長州側がほぼ純兵力数に対して、幕府側は各藩の兵制がイマイチわからんので ただの動員数と思われる(純兵力数は不明) 各戦線での指揮自体を大村は取ってないが 小倉口の砲撃作戦の緻密さ、芸州口の初戦の鮮やかさから 前もって初期の作戦に大村が関わってた可能性は高いと思われる また、各戦線で三兵塾出身の司令が活躍してるし 小倉口の総指揮の奇兵隊総督である山本梅三郎もそのひとり 従って、大村が総司令と考えれば、3000で10万を破ったと言えなくもないが 一度の戦いでの数字でもないし、言い過ぎじゃねえかな 芸州口に関して言えば、そもそも大村は守りを固めてれば 幕府軍は勝手に地元民と諍いを始めて自滅すると消極的だったし 影響力は強かったとは思うが、総司令と言えるほど統括できてたわけではない まあ、石州口の戦死10人未満ってのは十分すごいが
360 :
名無し三等兵 :2012/11/06(火) 20:59:21.57 ID:YmD5JSbS
>>359 実際問題として背水の陣を敷いて総動員をかけたはずの長州側でも約3000しかいないんだよね。
長州藩37万石をもってしてもわずか3000。戦国時代なら1万石につき600人まで動員できたから、
その計算から行けば2万2000人は動員できたことになる(関ヶ原直前の上杉家を参考にしました)。
いかに、幕末の頃に役に立つ銃兵(当時でいうところの)を編成するのに苦労するのか推測するに余りあるが、
それに対して、幕府軍が10万人も動員できたとは、ちょっと信じられない。
何しろ、薩摩、佐賀、広島等の有力諸藩は中立だったのだし、旗本等は役に立たなかったのだから。
10万人と言っても、そう呼号しただけで、実際の動員兵力はその半分。戦況の推移等も考え合わせると、
更に銃兵は全ての戦線を集めても幕府側は1万人と言ったところではないか、と私は推測するな。
>>335 初期のシャスポーは紙薬莢だけど、後に金属薬莢に改良されてるよ
旧幕府軍が装備していたシャスポーも、明治10年代前半に一部が金属薬莢式に改造されたらしい
>>360 長州の3000ってのは諸隊と農兵隊だけだと思う。藩正規部隊を合わせたら
一万近くはいるかと。
幕府の方は幕府歩兵はともかく、その他の旧式藩兵なら槍持ちや旗持ちみたいな
無用人員もいるからね。
諸藩の動員も、なるべく銃兵を多くせよみたいな指示は出てたみたいだけど、泥縄だよね
幕末は兵数と戦力が一致しないからなぁ。 最低でもミニエー持ってなければ戦力としては無意味に近い。
大量に近代火器を集め、訓練された常備軍を編成し、それで殊更に消費される弾薬を手当てしなきゃならない。 しかもカートリッジ式だと、弾薬も国外からの輸入だ(長い船旅で湿気り、よく不発を起こしたらしい) しかし実戦を見れば、近代的な軍隊を前に、前近代的な軍隊だと壊滅的な損害を受けるのが分かってる。 動員数に差が出るのは当然だし、また動員数に差があっても、勝敗は近代的軍隊に軍配が上がから問題ない。 それに意外だろうけれど、単位時間当たりに投射する有効な鉄量は、双方で大差ないはずだよ。 火縄銃は射程が短いし、ミニエー銃すら伏せ撃ちが出来ないので、射手が射竦められてしまうからね。
重要だったのは連発機構より射程、という事になるのか?? 散開していつでも撃てる点では連発は有利だな
有効射程が延びまくったせいで、突撃が簡単に破砕されちゃう
グラバーから買い取ったのがミニエ銃が4300挺、ゲベール3000梃くらいだったので 長州の銃兵3000ってのはそれなりに実数に近い数字だろうとは思う 野口武彦の幕府歩兵隊が手元にないのでうろ覚えだが 芸州口に動員された幕府歩兵隊だけで5000くらいいなかったっけ? 銃兵1万は少ない気がするが、2万もいたとも思えないね 指揮系統がしっかりしていて、装備が統一で補給もしやすい軍隊3000で 1万強の寄せ集めの軍隊相手に防衛なら、いい勝負の気がする つまり勝てるようにすれば勝つってやつか 笑えるくらいに論理的だな、蔵六
>>368 野口武彦はそのものズバリ長州戦争って中公新書で出してるよ
長州征討での幕府直轄軍の動員兵力と一般に言われるものは、 新式陸軍が歩兵隊7個大隊、御持小筒組(後の撒兵隊)13個小隊、大砲6座(定数48門)。 在来軍制の先手組、書院番、小姓組や大番組もいるが装備は不明。 そのほか講武所や八王子千人同心なんかは一部を銃隊編制にしてるようだが。 ただし大阪に待機してたのが多いようで前線に出たのは下あたり。 大島口:歩兵2個大隊(第1・第16)、小筒組3個小隊、大砲1座 芸州口:歩兵1個大隊(末期に大島口の2個大隊ほか1個大隊増援)、小筒組1個小隊、大番組から1隊、 石州口:(浜田陥落後に歩兵1個大隊、小筒組2個小隊、大砲半座の派遣命令) 小倉口:八王子千人同心 芸州口に最後は幕府歩兵隊が4個大隊いたようだが、 元からの1個大隊(三番町駐屯)に大島から転進の2個大隊という構成からすると、 あとの1個大隊は石州口へ派遣予定の1個大隊を転進させたんじゃないかという気もする。
>>370 詳しい情報をありがとうございます。
それにしても、当時、いわゆる銃兵を編成するのは極めて困難だったというのはどこまで本当なのでしょうか。
第1に、銃兵を理解して編成しようとする指導者が極めて不足していた(大村益次郎や大鳥圭介らは極少数)。
第2に、銃兵に志願する人員確保が困難だった(人員がいなかったわけではない、銃兵を理解して志願する
人員が不足していた。例えば、旗本や御家人の多くが給料削減に反発したが、それなら銃兵になるか、と
言われると、鎧具足を身に着けず、泥に塗れる銃兵(散開して匍匐するため銃兵は泥塗れの覚悟がいる)に
なれなど武士の恥辱、銃兵にならずとも武士は戦えると断固拒否する始末)
第3に当時、ライフル銃の国産化ができておらず輸入に頼らざるを得ないので、ライフル銃の確保が困難。
といった、主に3つの困難があったと聞くのですが、どこまで本当なのでしょうか。
といった、
>>370 小姓組や小十人組の名前が出てこないってのは、実質的に御持小筒組に改編されたってことなのかな?
373 :
372 :2012/11/07(水) 20:19:13.50 ID:???
あ、間違えた、徒士組や小十人組ね。
>>372-373 小十人組は平の番士でも御目見格の旗本だから、御目見未満の持小筒組とは身分が違うな。
士官要員として異動とか、小十人組の与力や同心が移るっていうのはあったかもしれんが。
>>362 ,360
上に書いてある3,000も、大村の軍制改革の折の諸隊再編で正式に藩正規軍に組み込んだ奴やから正規軍やで
その後も諸隊は勝手に志願兵受け入れて増えるから、その統御に難儀したそうな
それ以外にも、代官指揮下や所領持ちが陪臣編制して組んだ部隊やらがいたらしい
例えば周防大島の緒戦で幕府軍に応戦したのは、大島代官の部隊と
当地近辺に所領を持ってた村上一族(能島村上氏と因島村上氏の末裔)の手勢で合わせて300ぐらいらしい。
他にも、大島奪還の時には近郷の在地領主の手勢が応援として参加してる。
また部落関係史なんかに、第2次長州征伐の折には海岸警備を命じられて動員されたなんて話もある
血気盛んな若いのが、馬関の戦に参加しようと勝手に脱走して処罰されたとか
おそらくこれらの部隊はミニエーと一緒に輸入されたゲベール銃や火縄銃装備の旧式部隊で、
大村の構想した近代戦争に耐えうる装備と練度を持った部隊が上記の3,000名だと思われ
桂小五郎が薩長同盟の時に、敗色濃厚でも半年や1年じゃ壊滅しないからっつった背景には、この総動員体制もあるかと
火縄銃やゲーベル銃じゃ、数合わせにしかならんだろ?
相手も火縄銃なら互角、地の利を生かせば十分戦力になる
幕末の頃の最大の問題は、銃兵というものの編成の困難さだからな。 極端なことを言えば、シャスポー銃を装備していても銃兵というものを理解していない兵士相手なら、 火縄銃を持って銃兵として訓練された兵士で充分勝算はある。 ぶっちゃけて言ってしまうと、幾ら後装式ライフルを持たせていても、 地べたを這うのはいや、夜襲は言語道断、夜は寝るものとかいう兵士ばかりの集団に対し、 火縄銃装備とはいえ、散開戦術を駆使し、夜討ち朝駆けは当然という兵士の集団が戦ったらどうなるか、 ということ。 鳥羽・伏見の戦いですら、歩兵隊以外の幕府軍の将兵のほとんどは、地べたを這うのは嫌だ、夜は寝るものだ、 といって歩哨を夜に立てるのすら、武士にあるまじきこととしてしていなかった、という話を聞くが、 それが本当なら、幕府軍は本当に末期状態だったんだな、と思う。
>幕府軍は本当に末期状態 だってお役所の公務員なんだもん。 役所の戸籍係りの人に鉄砲をもたせてもね。 一方火縄銃でも使い慣れている猟師の猟師隊は活躍したという。
>>379 同じ武士ばかりのはずだが、庄内藩や松代藩兵は活躍している。
松代藩兵に至っては、さすが「真田は日本一の兵」の名を辱めない勇猛ぶり、と
薩摩藩兵に称賛され、長州藩兵の窮地を越後戦線で救ったとか。
役所の戸籍係でこうも違うものか。
>>379 戸籍関係は寺社奉行の管轄
実務は寺の坊主
大半の武士の本業は内職w
生活補助の出ているワープアと実質変わらんw
底辺の手工業者に、いきなり銃渡して戦えっつったって無理だわなw
>実務は寺の坊主 そういや茶坊主隊という砲兵隊があったらしいな。
何か適当な事を書いてるけど、実際に火縄銃を主力にした部隊が、活躍した事なんてあったのか?
……小倉藩?(ゲリラ戦モード)装備はよく分からんがw
>>376 なので主力には数えられていないのではないかと
ただ本土まで侵攻された時のゲリラ戦なら、地の利もあるし戦力になったのでは
あと火縄銃ですらない仙台藩衝撃隊がいたw こっちもゲリラ戦だね
長州討伐のときの幕府歩兵はゲベール銃装備の戦列歩兵じゃないの? Wikiの戦列歩兵だとゲベールっぽい感じに書いてあるから、そうなのかなと思ったのだけれど
幕府歩兵ならそうかもな、ただ活躍したとは言えないだろうけど。 桜田門外の変でパッカーション・ロックのリヴォルバー(しかも国産!)が使われた時代に、ナポレオン戦術じゃ話にならんよ。
>>386 見た感じ、それすごく信用ならない記事だなw
参考文献がほとんど付いてないし、要出典警告が貼ってある。
幕府のミニエー銃採用は長州征討の前から始まってるし、
長州征討でも幕府歩兵は紀州の洋式部隊と並んで結構善戦してるみたいだし、
1年後の鳥羽伏見の時には完全にミニエー装備に切り替わってるので、
長州へ出陣した幕府歩兵はすでにミニエー銃装備だったと考える方が妥当だと思う。
389 :
名無し三等兵 :2012/11/09(金) 05:14:05.61 ID:9JwPaXcu
>>387 一応、井伊と榊原が敗走した後を受け、紀州藩兵と一緒に芸州口の長州藩兵を迎撃して
一進一退の攻防戦を繰り広げたじゃないですか
彼我の兵力差は良く分かりませんが
石見口の紀州藩兵とは違って、藩主直卒の紀伊新宮藩兵なんかは士気とか高かったらしいが、
これもフランス式の調練受けてたって話もないではないみたいね
井伊か榊原の鹵獲兵器は銃砲が少なくてそれもゲーベルかそれに毛が生えた代物ばかりと報告されてましたね 装備を揃えるだけでなく集団で運用できないと戦力にはなりませんし
そういや長州藩、二次征伐の前にミニエー4300丁とゲベール3000丁買ってるけどこれ、 ミニエー7000丁買う金が無いからゲベールで妥協したのか、先方にミニエーの在庫が4300しかなかったのかどっちなんだろ?
>>392 ただ単に騙されてゲベール銃を買わされた可能性が一番大きそうだ。
幕末から明治維新の1860年代というのは、銃砲史を調べれば調べるほど思うけど、
新旧銃器が入り乱れて戦っている。前装式ライフルが登場したから装備を更新している
真っ最中に後装式ライフルが登場し、初期の機関銃が登場して、という感じで欧米諸国ですら、
新型銃器を装備することに追われている。こうした中、旧式化したゲベール銃を騙して
日本に新型銃として売り込む輩が現れるのは半分必然だと思うな。
抱き合わせで値引きみたいなケースかもしれんね
>>387 >パッカーション・ロックのリヴォルバー
長筒のリヴォルバーだったんですか?
ライフルなしであくまでも連発重視で
>国産
あの当時の小さな器具程度なら、日本でもどうにか作れたって事か
コルト・ネイビーか何かの拳銃を、鉄砲鍛冶が手造りしたそうだよ。
>>392 防長回天史だったかに領内の豪農などから引合があるとか何とか書いてあるのと、
藩として鎧兜や火縄銃売り払ってでも銃買え!ってお触れが出てるが、
ミニエーだけだとまず数が足りないので火縄銃よりはマシって感覚でとりあえず
数揃えた可能性もあると思われ
価格もミニエーの1/3以下だし
>>395 コルトM1851をコピった銀製のやつだよ、
もちろんちゃんとライフリングも入ってる。
射程20mクラスなら無敵ってことか アメリカでフォードが大量生産のための流れ作業を車に導入したが もとは精肉業者を見学したのがヒントだっけ そして、もっと昔だと、拳銃製造で分業するようになったのが始まりなんだとか 日本でも浮世絵なんかは分業だったなw 幕末には日本でも工場制手工業は完成していたんだよなあ 日本では、維新で蒸気機関を導入していきなり文明開化したのではなく 物品生産の仕組みがすでに出来上がったところに蒸気機関などの基幹設備がすんなりと入りこめた というのは、維新の他分野でも同様だったな
すんなりか? まあ印象問題だけど
というか程度問題でしょ 他のアジア諸国の近代化と比べたら
タイはチュラロンコーン大王、つまり日本の明治天皇とほぼ同じ在位期間の王様の間に 欧米の侵略を切り抜けつつ近代化したが、日本の明治20年代の水準までにとどまったかなあと ましてや他国は同時代にどんどん併合や植民地化されてしまった
>>397 後方警備ならゲーベルでもよかったんでしょうね
しかし売り払えたということは国内のどこかにまだ火縄銃でも買い手がいた
ということですかね?
経済的に欧米に追いつけたのは結局戦後になってからだからなー
>>404 日本は人口が多かったお陰で
昭和10年ごろには世界で5〜7番目くらいのGNPの国になっていた
と思ったが
但し、当時の世界って植民地があるからなあ
インドなど世界中の植民地付きの大英帝国なんて人口4億くらいいたのか?w
大英帝国の衰退について調べたら、容易に第二次産業革命、という言葉が出てきた 石炭の蒸気機関が石油に置き換わる過程?とか舐めてたら、 転炉による鋼の大量生産とかが出てきた 他にオストワルト法だの、ハーバー・ボッシュ法だのと化学でおなじみの技術が目白押し イギリスはここで乗り遅れちゃったと ここでアメリカ、ドイツがガンガン来たんだなあ
GNPっていつごろからある指標なんだろ?
植民地も含めたGNPあるいはGDPか 当時は貨幣価値に換算可能な生産をしている植民地の現地人なんてどの程度いたのかな プランテーションの労働者とかがそれに当たるのか
>>407 エジソンも第二次産業革命の立役者の1人だ
規格大量生産の元祖としてアメリカンシステムが有名だけど、もともとアメリカ国内では工廠システムとよばれてたんだよね。 スプリングフィールド工廠等で実験的に始められた部品の互換性を重視した製造方法が、ミシンや自転車等の分野に応用されて 後に自動車まで発展していくのがなかなか興味深いです。 ちなみにイギリスも影響を受けてエンフィールド工廠に技術を導入したり、イギリスにコルトの工場(長持ちしなかったけど) を誘致したりした。
>>411 アームストロングの伝記でそんな話を読んだ記憶があるな
>>403 猟師とかじゃね?
ゲーベルは命中率が悪い
それでも植民地化はもちろん、干渉も乗り切ったんだから大したもんだよ、タイ王国は。 国力は中程度でも、外交が上手かった……と言うより、武力に頼れないからこその外交だろうけど。
>>413 鉄砲を手放さなかった百姓たち
武井 弘一 朝日新聞出版
では農村でも害獣駆除用に鉄砲の需要は多かったとでてました
藩の管理がなにかとうるさかったそうですが
>>408 たぶん制度化されたのは53SNAから
国民経済計算関連の本読めば詳しく分かる
銃って簡単に手に入ったっけ とか考えて津山30人殺しとかググってしまった 深夜に読むもんじゃねえなぁ というか調べる始点がおかしかった気がするw
村田銃の登場以降は猟銃といえば村田銃な時代が結構な間続いた
香ばしいのが来たなw
彼にとっては岩波文庫の書物も全部捏造ものなんだろうなw
信じられる出版社は晋遊社とPHPだけかw
放っとけよ
>>414 領土はガリガリ削られたけどね
まぁあの時代に独立維持できただけでも上出来か
>423 なんと日本に泣きついて(海防艦輸入で軍事関係を深めてた)フランスから、領土を奪い返した事もあったろ。 その日本は、フランスのインドシナ植民地に進駐して、仲良く(?)共同統治とか居直っちゃうし。 しかも終戦間際にクーデターで簒奪……かと思ったら、ベトナム・カンボジア・ビルマを独立させちゃうし。 あの時代、ホント混沌としていて訳わかんねぇ。
南北戦争は兵器は進歩したが、その進歩に戦術がついていけなくて 死傷率が高いっていうイメージがある。そこで疑問。 幕末〜戊辰戦争の頃って南北戦争以前の教本で訓練しているはずなのに 兵員の死傷率が南北戦争より低いのはなんで? 南北戦争以前の教本で訓練していたなら、武器と戦術の差は南北戦争より もっと広がっていたと思うんだが…。
南北戦争はいろんな意味でイレギュラーな戦争で、戦争に携わった当事者ほとんどがド素人で、なおかつ米国の国力が 非常に大きかったって二重に特異な点がある。 南北戦争の後に、より進化した兵器(後装式ライフル銃、高性能化した野砲)を使った普仏戦争が起きているが、 こっちは機動作戦と短期決戦で蹴りが付いてる。ずぶの素人が大勢で強力な兵器振り回したら、死傷者が異常に多くなっても おかしくない。 日本の幕末戦争の場合、そもそも金が無いんで、大量の死傷者が出る大戦争になるような軍勢が作れない。 なけなしの部隊が決戦で負けたら、もうそれ以上は悪足掻きにしかならない。
砲兵の規模や用兵も関係していないかな?
特に野戦での。
頭を上げられない程の砲撃とか、
砲兵陣地に向けての絶望的な突撃、
といった類いは余り聞かないし。
>>426 モルト曰く、
「武器を持ったゴロツキの喧嘩。参考にすべき事は何も無し。」
だったかな?
地形とかは?あと弾薬はそう豊富に持てなかったかも知れない。 南北戦争の歩兵指揮官の刀は事実上飾りだと思うけど、 戊辰ではみんな刀さしていたし剣術も習っていたからそれも使ったかもしれない。。
長州戦争では散兵が中心みたいだったようだが(長州 どこで習ったんだか…
430 :
427 :2012/11/26(月) 14:10:30.56 ID:???
×モルト日く 〇モルトケ日く
久しぶりにwikiの19世紀ドイツ歴史関連の項目見てたら、普墺普仏戦争のことが結構書かれてた。 普墺普仏戦争の映画ってあるかな?
そもそも日本の地形は野砲の移動が困難で、カッターに載せるようなボートガンとか、山砲しか使えなかったろ? それでも榴弾は既にあったから、敵に近代砲が一門でもあると、戦いは一方的になったみたいな。
士気がそれほど高くなかったので、仙台藩のドン五里は極端にせよ、比較的 簡単に戦線崩壊したんで犠牲者増えなかったという面もありそうだなぁ。
>>433 仙台藩も犠牲は相当出たよ。ボロクソに負けたから戦線崩壊したわけで。
両軍共通で士気が低いっていうのはありそうだ。
>>432 地元の戊辰戦争では、臼砲2門の増援で膠着状態から一気に状況が動いたケースが有るよ。
最後は宿場に陣取っていた三倍の洋式幕軍を敗走させたし。
もっとも、隣の宿場では2門の山砲を持ちながら有効に使えず、砲兵無しの幕軍の前に敗走した藩も有ったけど。
幕末の官軍の江戸進攻も 山がちで大砲の移動が大変な中山道より 東海道が選ばれたからね。
>>437 そこで幕臣が海からの砲撃を行っていたら戦況は変わっていた
だが、あえてそんな決断をしなかった
日本を思ってのことだ、と説明されていたか
東山道軍が主力だからね。
東海道は渡河が大変なのかな? あと歌にも歌われている箱根の山とかどうなんだろう。
有名な大井川を筆頭に、東海道の河は軒並み橋が架かっていなかったからな。 人間だけなら舟橋を掛けて渡ることができるけど、大砲とかの重量物は舟橋では無理。 東山道軍だけど、赤報隊とかで官軍自体も結構混乱していたイメージがあるのだけど、実際はどうなのだろう。
>>442 山砲なら分解して渡し舟で運ベるよ。
江戸川の市川の渡しでやったし。
それも戦闘中に。
一門流されて、幕軍に捕獲されてしまったけど。
>>442 勝沼で甲陽鎮撫隊を撃破したり、梁田宿で衝峰隊の出鼻くじいたりしてるな
つか、鳥羽伏見が終わってから江戸開城までの間に戦闘経験してるのは東山道軍だけのような
東海道の諸藩は軒並み新政府に帰順したからね。
江戸城って成り立ちが関東の東側に対する軍事拠点だから、西側の防衛拠点があまり無いよね。 多摩川くらいかな。
江戸城は、西方からの攻撃は、本来は箱根や八王子で食い止めるはずだったのでは。 八王子千人同心とか、そのために本来は置かれたらしいし。 最も戊辰戦争では両方ともほとんど戦わずして放棄されたけど。
箱根や八王子だと江戸というより関東の防衛拠点じゃまいか。 それこそ小田原あたりに籠ってた方が効率が良さそうな。
もともと江戸って守りにくいんだよな
名古屋城が役に立たなかったから…
名古屋嬢に勃たなかったと聞いて
>>449 江戸云々というより、関東平野は守りにくい。
上杉謙信が、新田義貞が、、といった感じで攻勢側が大抵勝っている気が。
後北条は籠城して守りきったよ 最後には負けたけど 今は御殿場に橘連隊がいるから大丈夫なのかな?
東京から西側全部敵になったら陥落する
15世紀の享徳の乱以降、(当時の)荒川利根川といった大河川を境に関東は二分されたが、大河川の河口近くの丘陵にある江戸に城が 築かれる。 その後戦乱が静まっていくとともに、大河川の流れを変えて治水、利水へと向かっていき江戸は大都市として成長していく。 幕末になって江戸開城した折り、脱走幕軍が江戸川をはさんだ市川に由ったのも、その後河川沿いに移動していったのもむべなるかな。
>>455 日本だと山がちなので、イメージが湧きづらいけど、鉄道が登場するまで、道路よりも水運の方が
世界中で物資の輸送には重視されてきたからな。内陸でも同様、中国の大運河を筆頭に、
運河を掘削してでも、船による水運は物資輸送に重要だった。だから、古代からの都市は
大抵、海に面しているか、水運可能な河川と接している。
そういった点を考えると、戦国時代、関東平野で、古河公方が勢力を持ったり、
家康が江戸を居城にしたりしたのも、水運のためではないか、と思えるな。
外洋航路や運河・河川交通は発達しなかったが、近海での海運はかなり盛んだったからね
東京の時代になっても、明治の頃は舟運が盛んだったらしいね。 蒸気船が江戸川を上り下りしてたらしい。 鉄道輸送が上回ったのは大正になってからだったと何かの本に書いてあったな。
(重量ベースなら)舟運のほうが昭和いっぱい上だったともいうが まあ江戸大阪規模の都市は、水上交通網がなければとてもじゃないが維持運営不能 かつては運河網がそこら中にはしってた 現代人は忘れてるだけだ その遺構の一部が首都高と主要幹線網だとも
>>458 利根運河ができたのが明治23年だしね
鉄道が開通すると競合する小規模の中距離水運が潰されて、
特定地域のみにローカル化していくイメージか
例としては利根川-江戸川航路の高瀬舟
河川航路は規模の経済が働かない上に時間とコストがかかるので
長い距離はこぶには鉄道には勝てなかったというところ
一方で都市の運河や霞ヶ浦や水郷地帯のようなところの
毛細血管的な運河水運については軽トラの代替的に重宝されたとは思うが
佐原の水郷あたりは戦前まで舟が交通の主力だったというし
都会は都会で「もうろう船」なんてのもあったという
水運は海だけを走る大型船と運河に入り込んでいく小型の手こぎまたは帆走船で
役割が違うのでひとくくりにしない方がいいと思う
>>460 確かに海運と内陸の水運をいっしょくたに話し出すと混乱のもとになるな。
話を変えるけど、西南戦争で抜刀隊が活躍、というのは日本だけの特殊事情なのだろうか。
それとも、普仏戦争や南北戦争でも、肉弾相打つ白兵戦というのは珍しくない話だったのだろうか。
抜刀隊の活躍というのを読むと、白昼で視界が開けていても、歩兵の抜刀切込みが結構成功しているみたいなので。
後装式ライフルが普及した後の時代だと、白昼に切り込みというのは困難なように思えるのだけど。
これは、頭の中で考えるからで、実際には普仏戦争や南北戦争でも、歩兵の切り込みというのは白昼でも結構、成功しているのでしょうか。
>>461 警視庁抜刀隊は報道記者だった犬養毅の筆で大活躍したように描かれているけど
実際は大損害を出しているからな〜、切り込みを積極的にやったのは銃・弾丸が不足して
地の利に長けた薩軍の方ですし。
南北戦争では騎兵がピースメーカーを棍棒替わりにも重宝したとか、サーベルは槍よりも
使えなかったとか伝わっていますね
南北戦争にピースメーカーはないでしょう。各種パーカッションリボルバーでは。
10発重爆ですか!
そもそも抜刀隊は薩摩方の切り込みに対抗して作ったものだから
ちょっと
>>462 前段は、ずれてるわな。
警視庁抜刀隊に限った話ではなく、白兵襲撃がという趣旨だろうから
>>461 普仏戦争や南北戦争ではきかないねえ>白兵戦
そもそも、よほど白兵戦の技量が高い「部隊」がいないといけないので
南北戦争ではおこりにくいだろう
当時の欧州の歩兵操典で、兵士レベルまで白兵戦闘技術教え込むことってあったんだろうか
武士階級に当たる勢力が一定数あった国・地域であれば、
前装式〜後装式ライフル普及期でも白昼切り込みが成立しうる
エチオピアとか?
銃剣突撃したら十分白兵戦でないの? それもなかったん?
南北戦争のゲティスバーグでピケットチャージとリトルラウンドトップの時に白兵戦になったのは映画だけ?
あとグローリーでも白兵戦ばっかだった気がする
薩摩の抜刀隊は地形を利用する等、接敵方法を工夫していたみたいだよ。
田原坂では両側の林の中を移動するとか。
他方、警視庁抜刀隊は火力支援下で襲撃をしているね。
南北戦争でも銃撃戦で決着が着かなければ白兵戦に移行しているかと。
>>470 のリトルラウンドトップは銃撃戦の末、弾薬の切れた北軍が丘の上から駆け下りながら白兵戦を仕掛け、丘の斜面から南軍をを駆逐した。
チャンセラーズヴィルでは南軍1個軍団が奇襲の為、弾薬の装填を禁止し、雄叫びさえ上げない無音襲撃を成功させているよ。
騎兵同士の乗馬白兵戦は、ゲティスバーグ東方で師団規模の乗馬白兵戦が起き、カスター准将率いるミシガン州騎兵旅団は南軍騎兵と正面からぶつかり、友軍騎兵旅団が側面から襲撃を開始するまで支えた。
>>463 訂正ありがとうございます、ピースメーカーは南北戦争後でした
S&Wも南北戦争直前に設立されて大儲けしたとか
>>461 です。いろいろとありがとうございます。
白兵戦専門の歩兵をわざわざ作って、実戦に投入。しかも戦果を挙げた、という例を読んで、疑問に思いました。
マスケット銃が主力の頃ならともかく、後装式ライフルが普及しているのに、白兵戦専門の歩兵を編制しても無意味に思えたのです。
騎兵ならまだ足が速いというか、機動力があるので、突撃が成功しそうですけど、歩兵は騎兵と比較して足が遅いですし。
472が詳しく書いているように、火力支援とか、接敵方法の工夫等があってこそ、抜刀隊の突撃は成功しているみたいですね。
ありがとうございました。
グローリ グローリ ハーレルーヤー カメラはヨドバs
映画グローリーの白兵戦って連隊レベルの錯雑地形における遭遇戦状況の話と 陣地攻略のために近接した白兵戦のことだよな。
いや抜刀隊の前提として火力による支援って一般常識でしょ?その上で突撃すると言う話なんだから。 抜刀隊に何を期待してるのさ。
夜襲! というか当時だと火力支援つっても難しいぞ どうやるんだ
ミニエー銃兵の戦列射撃を甘く見てはいけない
甘くは見てないけど突撃してく味方の背中を撃つわけにもいかんだろう
>>478 普通に榴弾砲をばかすか撃ち込んだんじゃない?
そういえば新撰組が伏見の戦いで切り込みして、損害出してたんじゃなかったけ。
>>481 当時の榴弾砲って直射弾道だから支援は無理では?
>>477 >抜刀隊の前提として火力による支援
あんまり聞いたことないよ。
熊本城攻撃に失敗した薩軍は弾薬が極度に不足したので
白刃で切り込んだら政府軍が後退したりしたから、
その対応策で抜刀隊を投入。
>>482 会津藩もやってるがたいがい撃退される
当たり前だが
>>483 つかこの時代榴弾あったっけ?
>>485 榴弾自体はあるよ。撃つのは野砲で撃つけど。
>>483 カノン砲でも頭越えの支援射撃は出来るよ。
19世紀初めのイギリス軍9ポンド砲だけど、
仰角0の時:砲弾は身長以下を飛び、400ヤードと800ヤードで跳弾、最終的に900ヤードに着弾。
仰角1度の時:砲弾は身長より上を飛び、650ヤード付近で身長以下になり、700ヤードで跳弾、以後身長以下を飛び、最終的に1000ヤードに着弾。
仰角2度の時:砲弾は身長の遥か上を飛び、900ヤード付近に急角度で着弾、50ヤード程度跳弾(と言うより、ころがる?)。
何れも最終的に着弾した後、地面を可能な限りころがる。
ゆっくりに見えても人の足首をもぎ取る程度の威力が・・・
>>484 薩軍抜刀隊の火力支援の件は微妙かも。
警視庁抜刀隊には色々付いていたみたいだけどね。
射撃成績の良い兵を集めた狙撃隊による支援とか。
元々、薩軍抜刀隊への対策として編成されたのが狙撃隊なんだけど、損害に補充が追い付かず・・・
>>487 10度20度じゃなくて1度2度?
そんな細かくやってたのか
まあそれと実際に頭上射撃やるかは別の話とは思うが
ディグリーとかミルとか言われてもわからんですわ、サー。 こうやって1ペニー銅貨をはさんで、これで距離はばっちしですわ、サー。
>>487 ラウンドショットは映画パトリオットで再現されてたね
平射砲で炸裂弾が初めて使われたのはクリミア戦争かな?
>>490 自分も誤植?と思ったけど、複数の本に出ていたので、そんな物なのかなと。
あくまでも、砲、味方歩兵、目標が同じ高さに有るとしたらでの数字なので、実際は簡単には行かないかと。
頭越えと榴弾の使用を兼ねて、榴弾砲が配備されていたのかな?
1バッテリー:カノン砲×6、榴弾砲×2、みたいに。
現場レベルでは用途も射程も違う砲の混在は使い辛いので、
バッテリーを解体して同じ砲6〜8門からなるディビジョン(師団とは別)に再編して運用しているけど。
>>492 カノン砲での榴弾使用時期を知りたいね。
イギリス軍ではナポレオン戦争中にカノン砲で榴散弾の使用を初めたけど、榴弾は使ってないし。
ナポレオン戦争時に榴弾は既に使われてる。ワーテルローでのナポレオンの敗因の一つに、仏軍砲兵が発射した 榴弾が泥濘にめり込んだ後で炸裂したので、破壊効果がほとんど無くなったって所が上げられているくらい。 海戦だとロシア対トルコのシノペの海戦が最初。 今見たいな榴弾が使われるようになったのは、ライフル砲から椎の実型の砲弾を打ち出すようになって、 砲弾の頭に信管を付けられるようになってから。
その時の榴弾って臼砲からだよね?装輪の野砲じゃなくて。 南北戦争の攻囲戦で北軍が使った臼砲って物凄く肉厚だけど あれは信管の信頼性や炸薬の安定性が足りなかったので 腔内破裂しても死人が出ないようになってるんだよね? じゃなんで当時野砲で榴弾が使えたのか不思議だけど。
イメージしてる肉厚砲身の臼砲のサイズを正確に理解してないんじゃないか。 あれ、13インチとかって大口径砲で、当然砲弾も相応にでかいぞ。 ナポレオン時代の野砲の榴弾は一種の曳火信管で、着弾の衝撃で爆発するものじゃない。
サイズは知ってるさ。写真で見たし、続夕陽のガンマンでヤンキーが砲口の前で記念撮影するシーンもあったし。
>>494 艦載砲の事は解らないけれど、当時の野戦用カノン砲に榴弾は無かったかと。
1門当たりの、砲架、前車、弾薬車の弾種別定数にも載っていなかったはず。
榴弾の威力云々は榴弾砲では?
>>498 アルバート・A・ノフィの『ワーテルロー戦役』の中には、英軍の例だが防御に回った砲兵は1200mから射撃を開始し、
砲丸で48〜60回、榴弾で8
途中で送信しちゃったー 榴弾で8〜10回、その後散弾で40回前後発砲するようにされていたって書かれているけど (使用する砲は野砲と曲射砲の両方って書かれている)。
野戦直射砲で炸裂弾が使用されたのはナポレオン砲からみたいだね。1853年か。 wikiみたら実態弾も用意されてたみたいだけどどんな場面で使われてたんだろう。 まだ榴弾は高価だったから実態弾が主だったんだろうか。
お前ら用語を統一してくれないと混乱するだけだ
>>499 「ワーテルロー戦役/ノフィ」の火砲についてのコラムでは、カノン砲(直射砲)に榴弾(炸裂弾)は支給されていない事に・・・
「Imperial Bayonet/G.Nafziger」から、イギリス軍火砲1門あたりの弾薬支給数を、
9ポンドカノン砲
砲丸:88
散弾:16
榴散弾:12
12ポンド榴弾砲
散弾:8
榴散弾:68
榴弾:56
焼夷弾:4
やはり。カノン砲で榴弾は使用されていませんでした。
前に書いた通り、榴散弾なら有りますが。
話をまとめると、
>>481 が白兵戦の火力支援は榴弾砲じゃないの?という指摘
>>483 >>486 などがカノン砲で榴弾打ち出していたんじゃないのと指摘
>>492 がカノン砲で榴弾打ったのはクリミア戦争が最初だと指摘
ってことで、西南戦争時は欧米ではカノン砲で榴弾撃っていた時期だけど、
西南戦争時、薩軍・官軍の双方で榴弾をどの砲で撃っていたのか、そもそも
白兵戦の火力支援に砲を使ったのかはいまのところ未出。
榴弾も着発信管と曳火信管の2タイプがあって、 さらに榴散弾タイプがあるからそろそろ用語を統一しないと・・・
そもそも白兵戦の火力支援というのが曖昧だ。 突撃前の準備砲撃? それとも突撃にたいする防御砲撃?
この流れで使われている用語を抜き出してみたよ。 会話が成り立っているのが不思議w gun 又は cannon 又は単に〇ponds:カノン砲、平射砲、野砲、野戦直射砲 howitzer:榴弾砲、曲射砲 mortar:臼砲 rifled 〇:ライフル砲 round 又は ball:無炸薬の球体弾、砲丸 canister 又は case:散弾 shrapnel 又は spherical case:榴散弾 shell:榴弾、炸裂弾 carcass:焼夷弾 fuse:信管 ?:曳火信管 ?:着発信管 (手持ちの本が、信管と言えば問答無用で曳火信管の時代ばかりなので・・・) 出て来ていないけれど関係有りそうな物で、 solidshot:炸裂しない砲弾の総称、実体弾? gun-howitzer:shellを発射可能なgun、12ponds゙Napoleon゙gunなど その意味じゃ無いと言うのが有ったら、ごめんなさい。
ナポレオン時代の榴弾って専用の榴弾砲で投射する代物でしょ
>>508 短砲身で低初速の榴弾砲を使いますね。
フランス軍の重砲中隊には長砲身榴弾砲なんて代物が有りますけど・・・
炸裂する砲弾でも、臼砲の物はshellでは無く、bombと呼ばれている様ですが。
信管の点火方法の違いかな?
?:曳火信管 ?:着発信管 着発信管は尖頭弾が作られてからだね。 この当時の曳火信管は導火線で球形弾の炸薬を炸裂させるものだね。
でもうまい人がやれば着地と同時にあぼんできる。 ナポレオン時代のスペインの港でで三人のフランス兵が焚火を囲んでいる真ん中に イギリス側の砲台からの臼砲弾が破裂し、三人の名残りはそこらじゅう探して 小銃の帯革一切れしか見つからなかったとか。
西南戦争警視隊戦記をやっと掘り出したので。 警視庁抜刀隊に対する支援はケースバイケースかな? とりあえず、田原坂戦時。 初陣では戦線中央に抜刀隊120名、両翼に鎮台兵各1中隊。 奇襲の為、準備砲撃はなかった模様。 薩軍堡塁の下まで忍び寄った抜刀隊は複数隊に別れて突入、4箇所の堡塁を占領。 薩軍が銃撃戦に切り替えて来た為、鎮台兵と交代して撤収。 その後、薩軍の反撃により堡塁は奪い返されてしまい、連繋に課題を残す。 火力支援がハッキリ分かるケースは、鎮台兵の火力支援(銃撃)下、匍匐等で堡塁下まで前進。 射撃停止と同時に突入、鎮台兵は後退する薩軍に銃撃を与え続ける。 流れとしては抜刀隊+鎮台兵の小銃かな? 最後の方では抜刀隊自身が小銃を扱ってるし。 田原坂での8日間(実戦5日間)、戦線の火消しの為、攻防に渡り引っ張りまわされて消耗して行く・・・ この期間だけで200名に満たない参加兵力の内、戦死42名、負傷86名の損害を。
5日でこの損耗率ww
普通に考えたら、全滅と呼称されてもおかしくない消耗率だな。
515 :
名無し三等兵 :2012/12/08(土) 15:47:14.20 ID:dj6pGFOk
>>483 戊辰戦争の話だったら
「モルチール」という榴弾砲(臼砲)が曲射で、多用されてる。
20ドイムモルチールと12ドイムハンドモルチールがあって
多用されたのはハンドモルチールのほう。
重さ70キロくらいで射程距離は700メートル
45度の角度で仰角が固定されていて、装薬の量を加減して射距離を変える。
当然、山なりの弾道で飛んでいく。
滑腔砲なので砲弾は球体。
榴弾砲というよりむしろ迫撃砲に近い兵器。
っていうかモルチールという名前がモーター(迫撃砲)になったのかも?
参考文献「武器と防具 幕末編」(新紀元社)
なお、モルチールは天保年間(1830〜1844)には日本に輸入されていた
仏語っぽい気がする
517 :
名無し三等兵 :2012/12/08(土) 16:01:11.75 ID:dj6pGFOk
>>516 オランダ語じゃないかな、12ドイムモルチールはオランダ陸軍の制式火砲で
って書いてある
>>493 「武器と防具 幕末編」には「ペキサンス(ボムカノン)」という
「大口径の榴弾を発射できるカノン」が紹介されている。
1830年代にフランスのペキサンスが開発した。
なお、「ボム」とは直径20ドイム以上の榴弾を指す
モーターは厳密には臼砲。 ホーイッツァーが榴弾砲。 カノンがいわゆる普通の大砲(直射砲)。 その後派生したり統合されたりした。
519 :
名無し三等兵 :2012/12/08(土) 16:53:41.56 ID:dj6pGFOk
>>501 ナポレオン砲みたいな大型砲で実体弾使うっていったら
やっぱり城塞とかの壁をぶちぬく、「大砲の一番最初の用法」でしょう
攻城目的ではホイッツァーでは役に立たなかった
と「武器と防具 幕末編」に書いてある
でっかい鉄球をぶつけるのが一番だ
あと、榴弾は装薬を減らさないと発射できないが
実体弾は最大装薬で発射できたと書いてある
射程も実体弾1600メートル、榴弾1000メートルで違う
ナポレオン戦争中のフランス野戦砲兵は、カノン砲は12ボンドまで、榴弾砲は6.4インチまでですね。 臼砲や攻城砲クラスの編成は解らない・・・ カノン砲で城壁を崩すにも限界が有るから、臼砲で城壁を飛び越えてって流れかな?
521 :
名無し三等兵 :2012/12/08(土) 20:03:09.61 ID:dj6pGFOk
>>520 城壁破壊と、曲射で大型榴弾をぶち込んで、
を両方やらないと攻城できないと思うんだが
「武器と防具 幕末編」には攻城砲が載ってないんだよ
察するに大型で輸送できないから戊辰戦争では使われてないんじゃないかな
当時の日本はとにかく道が狭かったから何トンもある砲なんて運用不可能、
沿岸に固定するか、
あるいは船から撃つしか無い
台場には「29ドイムモルチール」(29センチ臼砲)や「80ポンドボムカノン」
があったらしいけど、
野戦や攻城戦で実際に使われたのは6〜12センチのカノン、
あるいは15センチ程度のホイッツァー、12センチ程度のモルチール
このへんがメイン
>>521 私としては、攻城砲といっても、日本の城郭がどこまで対砲撃戦を考慮していたのか、疑問があります。
実際、会津若松城に砲撃がくわえられましたが、対砲撃戦を考慮していなかったため、多数の損害を
出す羽目になったらしいです。大坂冬の陣でも、心理的影響はともかく実際の損害は大したことが無かった
らしいですし。日本の城郭は対砲撃を考慮しておらず、戊辰戦争を迎えたのではないでしょうか。
実際欧米の城がペンタゴンや五稜郭に代表される平らで砲台の陵を持つ形になったのは 17世紀以降で大砲を使うのが当たり前の時代になってからだよな それまでは、天守閣を大きく作って遠くを見渡せるようにして 殿様が戦況を把握しやすい構造だった だがこれだと、射撃精度の上がる時代にはむしろ的になってしまう 大坂冬の陣まではまだ精度が低かったわけだが。
>>522 >実際、会津若松城に砲撃がくわえられましたが、対砲撃戦を考慮していなかったため、多数>の損害を出す羽目になったらしいです。
通説だと篭城準備を怠って兵糧の不足が開城の原因じゃなかったかな。
仙台城や松山城があの時代にわざわざ山上に築かれているのは 朝鮮役や大阪の陣をふまえて、当時の大筒の射程外に逃れるためだが こういった動きは主流にはならなかった。不便だからね。
526 :
名無し三等兵 :2012/12/08(土) 22:43:19.98 ID:cFDqnhPN
>>522 俺の知ってる範囲だと、攻城側の砲は小型で、
鶴ケ城に致命的なダメージを与えられなかった。
まあ6センチ砲では確かに不足だろ
かりに五稜郭タイプの城郭だったらどの程度耐えられたのかは知りたいが
でも鶴ケ城だって1ヶ月耐えてるわけだし……
戦略的に完全に積んでる状態だから1ヶ月も3ヶ月もかわらん、つう話はあえて言うまい
そもそも戦国時代のころから、日本の城郭は土塁で守って上部構造物は飾りでそ。 西南戦争の熊本城がいい例だけど。
天守閣は今で言う何とかタワーとか何とかツリーみたいなもんだしね。
角を守る矢倉は重要だろ
日本の城って上構多くて城内から砲使いにくくない
日本の城の防御火力は上部構造物に配置されるから、上構が破壊されると 火力防御ができなくなって攻城方やりたい放題にならないか?
石垣の段を重層的に組み合わせて防御火力を倍化させる手法が 主として西日本で多くとられている。朝鮮役の経験によるものかもしれないが 熊本城や島原城なんかがいい例
ナポレオンは徹底した野戦主義で、時間のかかるヴォーバン式多重土塁要塞攻撃は必要ないと考えていた。 敵の野戦軍さえ壊滅させればあとは包囲だけで十分という主義。
日本の城郭は、内部から攻城砲等に対抗して砲撃を加えるという発想がそもそもなかったのも問題の気が。 欧州の要塞だと要塞砲が備えられていて、攻城砲を装備した攻囲軍に対して砲撃を加えることが可能だったけど、 日本の城郭でそういうことを考えて築城された例があったっけ。
やっぱこのスレの人って、shogun2 の幕末パック買ってるの?
>>533 それはフランス軍が大量動員できたから。
>>533 必要ならやってるけどね。
ヤッファやアッカとか。
マントヴァは追い込んだ?エサ?
直接指揮を取っていないけど、半島戦争は攻囲戦が結構有るね。
wikiのカスティリオーネの戦い見ると、 ナポレオンは再びマントヴァを包囲したが、大砲が不足していたため、できることといえば、 封鎖によってマントヴァが飢え、降伏してくるのを待つことだけだった。 って書いてるな。やっぱり攻城重砲はあんまり使ってないみたいだな。
540 :
名無し三等兵 :2012/12/10(月) 21:32:14.82 ID:uw4Z1VN9
Fall of the Samuraiというゲームが戊辰戦争を題材にしているらしいが 今ウィキを見たら 白虎隊がホワイトタイガーフォース! 幕府歩兵がショーグネイト・インファントリー! 白虎隊強そう! ちなみに Vermilion bird Infantry(幕府)というユニットがあるらしいけど 何のことだろう? バーミリオンバード? 赤い鳥? 幕府に赤鳥隊なんていたっけ?
ホワイトタイガーフォースってw いや、間違えじゃないけど
542 :
名無し三等兵 :2012/12/10(月) 21:45:27.47 ID:uw4Z1VN9
>>541 でも新選組は「シンセングミ・ポリス・フォース」などと、訳さずにそのまま使ってる
ニュー・セレクテッド・グループじゃない!w
バーリミオンドバードインファントリーって何のことだろうね?
朱雀隊じゃね。 なんかそのゲーム初めて聞いたんでググってみたらガトリング対薙刀侍の動画とか出てきて笑っちゃったじゃないか。
Fall of the Samuraiは俺が知る限り唯一幕末を扱った戦術ゲー、 でも外人が作っただけに突っ込みどころは満載だけどな。 日本じゃありえないような超広大な草原で会戦とか
みたよ。これ何のゲームシステムの使いまわしだよ。三十年戦争か? これ、拡張パックだろう?オリジナルは何なの? あと彰義隊が鳥羽伏見に来るとか。刀鍛冶とか
total warシリーズでしょ。 他にも七年戦争とかナポレオンの時代で同じようなゲーム作ってるから、てっきり前近代の戦争が 好きなこのスレには愛好者が多くいると思ってた
刀鍛冶じゃなくて刀徒士、つまり下級武士だな システムは戦国時代のゲームの流用だからそうなる
なんだ刀鍛冶かと思ったよ。戦場に戦鍛冶呼んでるとかリアルだなーって関心してたのに… それに刀徒歩なんて日本に存在しないだろ。ASHIGARUにすればいいのに
ゲームでは足軽よりちょい高級な近接戦ユニット的扱い どうでもいいがミニエー銃でも射程がそんなんでもないのはゲーム的都合 ひどい場合は銃剣つけた歩兵が何故か接近戦では刀持って戦ったりするがパッチで改善される
RTSは忙しいから好かない。
アホらしい話だが、士分と言うか侍連中は、銃剣があっても、接近戦だと使い慣れた刀を抜きたがるんだよ。 会津城を見学した時に見たけど、鉄砲が主力の時代だから、刀も長脇差しくらいの物だった……なのに。
銃撃戦は銃撃戦でちゃんとやった上で、白兵戦は得意な得物でやるのなら問題ないのでは?
別に刀剣持つぐらいなら弾薬持つべき
逆に銃剣持たせないってのは? 狭い場所なら取り回しの良い刀剣のが有利でしょ
刀差したまま膝射姿勢や伏射姿勢はとりづらそう 精神主義的な理由で刀持ってるなら尚更
終戦まで日本刀差してた日本軍ディスってんのか?
例えば、騎兵隊はサーベル突撃が建て前だから、腰にはサーベルを下げてなきゃ締まらない。 けど下馬しての接近・遭遇戦では、サーベルだけじゃ負けてしまうし、銃剣は必要だと判る。 でもサーベルと銃剣、両方を腰に差すのは煩わしいもんだ、そこで銃剣付き騎兵銃の四十四年式なんてのが出てくる。 こうした必要と対策を鑑みれば、銃剣と刀のどっちが本当に有利なのか、結果は知れているよ。 抜刀隊は腕に覚えのある、(刀剣の)連度が高い人間を集めたから、ああも功績を上げられただけだ。
560 :
名無し三等兵 :2012/12/13(木) 21:59:24.99 ID:hgM9rh0i
>>557 刀が邪魔にならないよう、装備の仕方を工夫してました
紐で吊ったり、ベルトにホルダー付けてそこに差したり
紐で首からぶら下げればあまり邪魔にはならない
>>556 っていうか、狭い場所(建物や船の制圧戦とか)で戦闘するんなら一番良いのは拳銃では?
ボルトアクションライフルと比較すれば速射できる
拳銃をサイドアームとして装備した部隊はなかったのかな?
すでに拳銃の国産化は行われていたそうだが。
あと手榴弾があれば完璧だが、この時期は無いんだよね。
技術的には作れないこともないと思うが。
狭い場所なら振り回す刀剣より、小型の槍と同じ銃剣の方が有利な気がする。
>>559 狭い場所と言ったでしょWW1の塹壕戦でも狭い塹壕ないじゃ銃剣は使いにくくてスコップで殴ってたし
田原坂の戦いで刀持った兵士が活躍できたのも塹壕戦に近い状況だったからじゃないの
>>559 WW1辺りから。サーベルを腰にでは無く、サドルに吊るしたりもしていましたね。
抜刀隊は戊辰でボロ負けして食い詰めた会津の連中を薩摩にぶつけただけっしょ 怨恨もあるからちょうどよかった 対消滅してくれたし
イブン・バットゥータの旅行記によると当時インドでは鞍と腰の両方に種類の違う刀を下げていた。 イスラム地域からヒンドゥー地域への聖戦に参加したとき味方にはぐれて単身逃げたが、 鞍につけた黄金造りの刀が落ちたので降りて拾ったせいで追いつかれて結局捕まっている。
銃剣は基本的に1対1でなくて集団白兵戦で威力を発揮するもの。 ワーテルローのときの対胸甲騎兵イギリス歩兵方陣がいい例。 戊辰戦争では集団乗馬突撃とかないから日本刀でもよかったけど。 戊辰戦争・西南戦争はヨーロッパ基準では結局、軽歩兵対軽歩兵の前哨戦の連続みたいなものだったのかなあ。
そこらへんは、地勢が大いに関係してくるだろうに・・・ ぶっちゃけ、欧米の軍隊が日本本土に侵攻しても。同じような情勢になったのでは?
>>564 それは犬飼毅の、しかもソースもない記事による思い込みが大で、
抜刀隊の結成の経緯からして警視隊に連なる薩摩藩外城士などがかなりのウェイトを占めたと判断される
抜刀隊は義勇兵ではなく、警視隊に属する者からの選抜
13人斬ったなんてあり得るのかよ。明らかに伝聞だろw
>>561 だから銃剣は槍と同じだから似たようなものだと言って教えるけど、
どうしても銃は撃つもの、槍は振り回すものと言う頭が抜けないんだよ。クセだから。
銃剣時代でも歩兵下士官はランスコポラルと言うようにランス槍持ってたから、 純粋な白兵戦では槍の方が着剣小銃より軽くて有利だろ。
>>571 時代にもよるけど、下士官のハーフパイクは、隊列の目印や、横に寝かせて隊列を整える用途が強かったたのでは?
絵でもそんな描写が有るし。
抜刀隊の主力が薩摩藩士だったことは小川原正道の「西南戦争」にも出ているな。 ちなみに会津藩出身者は全体の1割ほど。犬養毅が故意にやったのかどうかはともかく 結果だけ見ると抜刀隊に会津藩が多かったというのはねつ造記事と言われても仕方ない。
>>573 同胞同士斬り合ったのは読者受けも悪かったんじゃないのかな?
外城士と城下士では剣術は両者とも示現流ですかね?
戦死者は143名で全体の24%とも同じページに書いてあるんだが まあ警視隊全体の構成比率書いてないんだけどな ところで警視隊=抜刀隊という認識でいいの? 組織上どういう扱いなのかよくわからん
>>575 見様によっては会津藩出身ということで上官の薩長から死地にわざと上から投入されまくり
多数の死者を出したのをごまかすために元会津藩士は戊辰の恨みを果たすために勇戦敢闘した
と言われているようにも読める。うがちすぎかな。
まあ実際、山川浩なんかは熊本城救出一番乗りとかして活躍してるしな。抜刀隊じゃないけど。 しかし若松城の彼岸獅子突破入城といい、この人の戦術眼や機眼は天才的だな。 佐川官兵衛も警視隊で戦死してるが抜刀隊ではない。
桑名の立見も司法官だったのにかりだされているしなぁ。
>>576 犬養は薩長閥嫌ってたしそんなことするかね
出身地岡山の前藩主は将軍慶喜の弟
え、あの犬養毅が軍事沙汰に関わってたことがあったんだ!?
西南戦争の派遣記者
>>579 所詮新聞記者だし上のご意向に従っただけの可能性も
あとはま、骨肉相食む殺し合いより、賊とされた旧幕臣の復讐譚かつ朝臣としての再編譚としたほうが人を惹きつけるという判断もありうるし自身にも魅力的だったんでないかな?
576は根性歪み過ぎ
岡山藩は、さっさと慶喜の弟の藩主を隠居させて薩長軍に味方している。 鳥羽伏見以前の1867年12月段階で薩長側に味方することを承諾していて いざという場合には岡山藩に天皇を迎えて幕府軍を迎撃する予定だった。 さすが、宇喜多直家を生んだ岡山の地。血縁関係よりも現実重視。
>>575 抜刀隊は警視隊の一部ですね。
臨時編成の部隊であり 、日本刀のみで武装した純粋な抜刀隊は田原坂だけらしいです。
あまりに急な編成の為、初陣までに隊員分の日本刀120本を調達出来ず、攻撃が中止になったりも。
警視隊は広い意味では、現在の警察官に相当する人員で編成された部隊の総称として使われていますが、狭い意味では、
警視隊:警視局の警視官(大警視から四等巡査)で編成された部隊。
警視徴募隊:出征した警視官の補充の為に募集した徴募巡査で編成した部隊で、徴募隊と呼ばれることも。
田原坂での抜刀隊は狭い意味での警視隊からの編成。
>>583 彦根とか尾張とか、枚挙に暇が無いよね。
幕末は総じて藩主がないがしろにされて重臣が藩政を牛耳っていたことが多い。
薩摩や長州ですら藩主は飾り物ですらなくなってたし
つーか、慶喜の兄弟が藩主やっている、備前藩も因幡藩も水戸学の 影響で尊攘派なんだよなあ。因幡なんて慶喜は逃げる前の鳥羽伏見 の二日目には新政府についてる。
千両松の激戦では鳥取藩の砲兵隊が幕府軍の防御線を破るのに一役買ったみたいだしね そんなこと言ったら淀藩も藩主はバリバリの佐幕派にも関わらず寝返るし、 津藩も当初佐幕側だったが、橋本で寝返るし鳥羽伏見の後半はほんと酷いね (ただし、これは幕府軍が津藩陣地に約束していた増援を派遣しなかったのが大きいが) こういう寝返りの連続を見て慶喜は時勢の変化を感じてしまって大阪篭城を諦めたんだろうと
と言うか慶喜が将軍になったこと自体がすでに時勢の変化だからね。 幕末の抗争は、文久年間くらいで既に幕府は体制としての終了を宣言されて、 あとは諸侯代表が次の政体をどうするかを数年争っていたと見たほうが分かりやすいんだよ
フランス革命後の半旅団を見ても、銃剣は未熟な新兵を手っ取り早く戦力にするための兵器。 金と時間があればそりゃあ第95連隊みたいなライフル散兵や騎兵を増やした方がいいが、 金も時間もない場合にはそうもいかない。 要所を軽歩兵や擲弾兵のような熟練兵で固めれば未熟な銃剣歩兵も使える戦力になる。
銃剣歩兵なんて史上に存在したか?
そんな用語があるとすればあてはまるのは突撃大好き銃剣最強ロシア兵
ナポレオン戦争中のロシア戦列歩兵は戦役に出る時に着剣して、従軍中に外すことは無かったとか。 クリミア戦争中のロシア戦列歩兵は身身内が戦死すると、従軍中は着剣したまま過ごしたと。 色々と銃剣に思い入れのあるお国柄らしいね。
ロシアの銃剣はボルトで固定されているから外せないだけだよ
銃剣は銃弾よりあったまいい〜とスボーロフ大元帥閣下もおっしゃられている。
スパイク型銃剣怖い…
少し時代がずれるけど日露戦争時のロシア兵の銃剣突撃は日本兵にとって恐怖だったらしい。 遼陽会戦時の第1軍の大夜襲はその恐怖克服のために行われたものだとか。 太平洋戦争時の日本兵の夜襲と銃剣突撃というイメージとは余りにも異なるなと印象に残っている。
>>596 ロシア兵の方がガタイがいいだろうからな〜
江戸時代の男性の平均身長が150センチくらいで日露時はどれくらいに
なってたんだろう?
昔は欧州人でも一般人は小さいイメージが・・・ 日本人と体格の差が開き始めたのって食生活が豊かになったWW2後だったっけ?
>>585 北清事変の有名な集合写真が有るじゃん。
ごめん、関係無いレスアンカーを付けちゃった。
歴史の教科書を思い出すなその写真は
列強諸国の兵集合写真の中に中国兵が混じってるのがあって、 どうして入ってるんだろうなと疑問に思ったことがある
>>601 それ集合写真撮ることを知っててわざわざデカい兵士連れてきたんだぜ
>>601 博識な人が集まるここで語るのも恥ずかしいけど
英軍は将校は兵や下士官は日本兵と大して変わらなかったという話がある
ソースはアーロン収容所
時代はちょっと下るけどね
>>604 それも授業で聞いたなあ
何とも言えない気持ちにさせられたよw
移動中にスマホはいかんな 労働者階級出身が大多数の兵卒や下士官はいいもの食べて育ってないから それほどでかくなかったらしいよ、と書きたかった
>>572 あとわざと遅れようとする奴をつついたりな。
日本軍ではデカイのは近衛連隊に差し出したあと 一番成績の良い兵隊は出し惜しみして、 それなりの成績で体格の良いのを出したとか
久々にラストサムライ見て思ったんだが、何で欧米人は日本の武士はみんな 末端に至るまで侍大将みたいな具足をつけてると思ってんだ? 足軽とか槍持みたいに革具足の軽歩兵もちゃんといるのに…
映画は見栄え優先で装備決めてるんだよ。リュック・ベッソンのジャンヌ・ダルク見てみろ。ほぼ全員フルプレートアーマーだぞ。
アメリカ人も教養ない奴多いからなあ。 日本のことだけでなくフランスのことも同じくらい知らない。
リュックベッソンはフランス人だよな
リュックべッソンはアメリカかぶれだからな。ゴジラもひどかったけど。
『ラストサムライ』は、ああ見えても火器の変遷を端的に表現したりと、かなり史実を反映した意欲作だぞ。 史実そのものでは無いにせよ、ドキュメンタリーや教育映画では無いんだから、分かり易さや、娯楽性が優先だされるのは仕方がない。
映画だから見た目のイメージ先行は仕方がないかと。 評判の良い「ワーテルロー」や「戦争と平和」でさえ、戦役中の兵士が正装に近い格好で描かれてるし。
リュックベッソンがアメリカかぶれて初めて聞いたで ゴジラはローランドエメリッヒやし無茶やで
>>617 ワーテルローの英軍は、パーティーで踊ってる最中にそのまま出動させられた人もいた様だが。
>>619 イギリス軍将校の中には、夜会用ドレスコードのまま戦役を過ごす羽目になった者もいたそうで。
ブーツでは無く、ソックスと夜会靴の組み合わせでは、さぞかし野戦では難儀したろうに・・・
>>616 でもあの当時のガトリングガンはあんなに調子よく連続激発できなかったんだよね。
622 :
616 :2012/12/17(月) 23:49:29.72 ID:???
熟練の射手が一定の速度でハンドルを回さないと、突っ込みだの排莢不良を起こしたそうだよ。 また初期は漏斗みたいな弾倉へ、大ざっぱに注ぎ入れて、重力まかせで装填してたのもトラブルの元だった。 そもそも、ガトリングガンが実戦で使われたこと自体が少なく、暴動の鎮圧とかしょうもない用途に使われてたし。
ガトリングって左右に振れたの?
振れなきゃ使いものにならないだろうよ。 装輪野砲だっていくらかは左右に調整できるよ。
初期の砲架に載せるタイプで、大砲の砲身を多銃身に載せ替えたって、イメージがわくのかもね。 実際には艦船に載せて、一種の旋回砲として甲板掃射を意図した物も多いんだけど。
宮古湾沖海戦の使用例はまさに説明書通りだったわけだな。
正にその通り
戊辰戦争の新政府側艦船がやたら少ない気がするんだが
629 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 19:25:26.68 ID:tkmRtXoV
>>628 海軍の整備は後回しにしたんじゃないの?
旧式艦をたくさんそろえるより、甲鉄みたいな圧倒的ハイスペック艦が
一隻あったほうが良い、という考えかも。
幕府側っていうか榎本艦隊なんて、たくさん軍艦あったのに
やれ座礁だ暴風雨だって、戦ってもいないのにどんどん減っていき
最終的には新政府より弱くなってしまった
結果的には新政府の海軍で十分に撃滅できた
新政府、薩長側の海軍の軍人と旧幕府側の海軍の軍人の質の差はどの程度だったのだろう。 回天1隻で開陽1隻と五分に渡り合えるくらいに旧幕府側の海軍軍人の質は低レベルだった。 それこそ日清戦争時の北洋艦隊と日本海軍くらい、いやそれ以上の差があったというのを20年ほど前の雑誌記事で読んだのですが。 それほど旧幕府海軍側は腐敗しきっていたのでしょうか。実際、開陽をあっさり座礁沈没させる等々、目を覆いたくなる惨状ではあるのですが。
>>630 >回天1隻で開陽1隻と五分に渡り合えるくらいに旧幕府側の海軍軍人の質は低レベルだった。
回天も開陽も幕府海軍の軍艦なんだが、両者が交戦したなんて適当なことを喚く程度の雑誌記事なんて信憑性も推して知るべしだろ
632 :
名無し三等兵 :2012/12/18(火) 21:20:56.05 ID:tkmRtXoV
>>630 教官たちは「日本の人達は砲術ばかり知りたがって地道な航海術を学ばない」
と言っていたので、戦闘はともかく、船乗りとしての能力は劣悪であった、みたいな。
宮古湾海戦や函館海戦を見る限り、幕府海軍はそこそこ健闘してる。
函館の回天なんて105発も砲弾を受けて、最後まで戦い続けた。
腐敗しきっていたらこんなことできない。
戦闘技量で薩長海軍より劣るという印象はない。
しかし榎本艦隊の蟠竜丸も新政府艦隊の朝陽丸を砲撃で撃沈してるしなあ。 だいたい日清戦争時の日本海軍の練度も北洋艦隊よりそんなに高いわけではなった。 そもそも三景艦の32cm砲はぜんぜん訓練通りに使えなかったし、 速射砲で重装甲戦艦連射したのも32cm砲ぜんぜん使えNEEEE!から予定外でそうするするしかなかっただけ。
それは練度というか兵器の問題じゃあ
新政府海軍つっても中身の人員はほぼ薩摩と佐賀の連合海軍だし
32cm砲は使えないってのはもっと前から分かっていた事でしょだから3隻で打ち切りになったわけだし 横向けると艦が傾いて撃つと反動で進路が変わる三景艦の32cm砲を生かしたかったら 単縦陣じゃなくて清軍と同じ横列陣を取った方がいいような
三景艦は32cm砲積んでるが装甲は石炭しかない。 接近してラム衝突されたらイチコロだから横に並んで突撃すると接近戦になってまずい。
カネー砲の装甲はないけど石炭よりはマシな特殊鋼の装甲は張ってあるだろ
松島はおケツにカネー砲ついてるから横一列にはなれない。 黄海では松島は4発、厳島が5発、橋立が4発撃ってるし、 橋立は開戦直前完成だから、フフフこれさえあれば・・・、と勘違いしていたのは間違いない。
宮古湾海戦での甲鉄のガトリングは使用不能で実際はミニエーの乱射で切り込み隊を撃退したとの説 を読んだことがある
実際問題として、鳥羽伏見の頃の幕府海軍と薩長海軍の戦力差はどれくらいだったのだろう。 鳥羽伏見で徳川慶喜が幕府軍を迎えて大坂城に割拠して京都封鎖を行えば幕府軍が勝っていたのでは と以前に日本史スレで書いたらアホがおるとか袋叩きにされて薩長海軍が当時は圧勝できるレベルだったと 嘲笑された。大坂城に徳川慶喜が割拠したら薩長海軍が幕府海軍を圧倒して大阪湾を逆封鎖できる状況にある以上は 幕府軍は上洛するしかなかったと言われたのだが、そこまで格差があったのだろうか。
642 :
名無し三等兵 :2012/12/19(水) 20:34:40.97 ID:OXhWd2M0
>>641 その人の根拠を聞きたいものだな
薩長海軍の戦力って鳥羽伏見の時点では幕府より圧倒的劣勢でしょ。
火砲の数がまず違う。
幕府は開陽丸だけで26門、薩長で一番強い春日が6門
史実では鳥羽伏見のあとに幕府は新政府に数隻の軍艦を渡しているが
それより前ってことなら、さらに差がある
薩長が圧倒したのは、開陽丸が沈んで薩長が甲鉄を手に入れたあとでしょ。
まあ鳥羽伏見の時点で薩摩海軍強かったら春日丸も阿波沖海戦で開陽丸から逃げたりしないで、 徹底的に戦うだろうしね。
644 :
名無し三等兵 :2012/12/19(水) 21:14:40.21 ID:OXhWd2M0
>>643 阿波沖海戦で開陽丸の砲撃が一発も当たらなかった(異説もある)点をついて
幕府海軍弱し! っていうんなら、まだわかるがね。
でも春日の砲撃も当たってないよねw
春日は圧倒的な高速艦だけど艦隊を組んじゃったら遅いフネに合わせないといけないので
けっきょく10ノットくらいで走るハメになりそうだし
単艦で行動したら開陽丸の火力にはかなわないはず
>640 ありそうな話ではあるけれど、いずれにしても、ガトリング・ガンは陸戦でも使われたから。 余り知られていないけど、実戦で本格的な機関銃を使ったのは、実は日本が最初の可能性が高かったりする。
646 :
名無し三等兵 :2012/12/19(水) 23:50:57.35 ID:OXhWd2M0
宮古湾海戦で甲鉄奪取が成功していたら どうなっていたかねえ それで蝦夷地の独立が保て、戦争の行く末が変わったりすると 軍艦建造にも影響を与えそうだな リッサ沖海戦が衝角艦を流行させたように 接舷攻撃で勝てるんだ、接舷攻撃を最初から考慮した艦を作ろう、などと 珍妙な軍艦が各国で作られて……
ミリタリーマストの装備が充実する? まあ当時の欧米人は差別意識丸出しだから極東の有色人種の戦訓なんて取り入れないでしょ
海上戦力の差的に旧幕府海軍による大阪海上封鎖は出来ただろう あの辺の沿岸拠点を喪失するまでは まぁその場合問題になるのは、軍事的要件よりも 大阪経由の物流が止まることによる関東での騒乱拡大だろうな 史実でも上州辺りの譜代だか誰だかが城棄てて逃げたりしてた記憶が
そりゃ海上交通網が途切れると江戸が死ぬからなw
江戸の前に大坂が死ぬだろ。江戸は仙台から米回せばいいからな。
>>645 日本は機関銃と縁が深いなあ
日露ではロシアの機関銃に苦しめられたが
日本も軽機関銃騎兵隊でロシアを翻弄したとか
海軍服 と 機関銃 に縁があったり
652 :
名無し三等兵 :2012/12/20(木) 18:06:11.93 ID:gY2vBWhw
宮古湾海戦に関しては もし「回天」でなく、スクリュー式の高雄と蟠竜で接舷していたら 成功していたという説があるが どうなんだろう 30人程度の陸戦隊で制圧できるものだろうか? 艦内はどうやって制圧するつもりだったのだろう 刀剣のみか? 拳銃を併用するのか?
機関銃みたいな構造の機械は江戸時代のからくり人形とかを作ってきた日本人には垂涎の的だろ
>>651 興味津々しちゃう
>>652 高低差がありすぎてなかなか飛び降りることができなかったとも言いますね
一応フランス人義勇士官の助言も受けていたはずですから、全く無為無策でもないでしょうが
655 :
名無し三等兵 :2012/12/20(木) 18:40:46.47 ID:gY2vBWhw
>>654 回天でなく高雄と蟠竜だったら高低差の問題は解決するんですよ
が、果たしてそれで結果が変わるものかと。
ウィキペディアの記述を見る限り、切り込み隊は、甲鉄の艦内にはまったく侵入成功していない
ことごとく甲板上で撃ち殺された
ように見えますし、飛び移る人数が増えたくらいで勝てるのか?
あと、艦を掌握するには艦内の見取り図が必要だと思いますが、
(たとえば、機関室にはどうやって行くのかルートを知らないと)
幕軍は甲鉄の艦内配置を知っていたんでしょうか
ストーンウォールこと甲鉄の姉妹艦はドイツ帝国の軍艦で、甲鉄はアメリカ南部連合の軍艦からデンマークへ 更に日本へと波乱万丈の人生?を歩んでいるため、姉妹艦で危うく打ち合うところだったというのはどこまで 可能性があった話なのだろうか。 鳥羽伏見の頃に話を戻すと長州戦争で幕府海軍は長州海軍に惨敗しており 大島口でも小倉口でも長州軍は制海権を確保して自由に上陸作戦を展開している史実を知らないのか と叩かれた。それから僅かの年月で薩摩や佐賀が公然と味方した以上は幕府海軍は張子の虎なので 大阪湾は薩長土肥海軍が圧勝できる。砲門数など当たらなければ意味が無いよ。幕府海軍の砲撃が 当たるわけがないと言われてしまった。そんなことはないといっても長州戦争をどう説明するで終わった。 どう説明すればよかったのでしょうか。
658 :
名無し三等兵 :2012/12/20(木) 20:55:54.08 ID:FEAqRdYZ
>>657 じゃあなんで阿波沖海戦で春日が逃げたのか説明してくれ
当たるわけがないといっても函館湾海戦で蟠竜が朝春を撃沈してるじゃないか
幕府海軍が張り子の虎だったら、新政府は大枚はたいて甲鉄を買う必要など無かった
ようするに長州戦争のときは指揮官が悪かったのでは
といえばいいのでは
少なくとも戊辰戦争を見る限り、幕府海軍の砲撃が薩長と比べて特に当たらない
役に立ってない
とは言えない。
>>657 >日本史スレ
軍事的知識の無い人達を説得するのは難しい。
歴史系のスレは資料とか権威者の発言がデカイから。
開陽も回天も長州戦争の後に勝った船だし
661 :
名無し三等兵 :2012/12/20(木) 21:09:16.01 ID:FEAqRdYZ
>>660 いやいや、回天は長州戦争に参加してる
1865年購入、長州戦争は1866年
ああ間違えた
>大島口でも小倉口でも長州軍は制海権を確保して自由に上陸作戦を >展開している史実を知らないのか これって沿岸だから小艇でも大艦とやりあえるということもあるんだけど これを一般人に説明するのは難しいなぁ。
半藤氏だったかな。 鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は新型銃を装備していて兵器の質で幕府軍を圧倒していたと書いていたのは。 幕府軍は未だに火縄銃が多数を占めていて、幕府軍期待のシャスポー銃はすでに旧式化していたとか 新政府軍は連射可能なライフル銃を装備していて、幕府軍の参加者の証言もあるとか書いていた覚えが。 21世紀になって結構有名な人でも未だに鳥羽・伏見の戦いは兵器の質は幕府軍が圧倒的に劣っていたというのを 信じているんだと却って悲しくなってしまった。
>>664 権威ある人ほど情報の更新が無いんだよね。
しかも軍事の知識が無いから説明しょうがない。
>新政府軍は連射可能なライフル銃 これってスペンサー銃のことなんだろうけど、 装填不良が多かったとか。
あとリムファイアカートだから威力、というか射程がそれほど無い。
歩兵銃というよりカービンに近いからね。
>>664 半藤氏は先祖が長岡藩士で佐幕派に思い入れがあるみたいですね
兵器の質が劣っていたから負けた!と主張する佐幕系作家は多いですが
実際は戦術等にも色々問題があったんですが(帯刀にこだわり伏射ができなかったとか)
特定の軍に思い入れがあるから、負けた言い訳するなんて、まだまだ大したこと無いよね あの軍のダメっぷりが逆に愛おしい! までいかないと。
まあそれいったら薩肥海軍も幕府海軍の箱館上陸を阻止できてないからな。 庄内藩も秋田で上陸作戦してる。庄内・桑名は戦術でも官軍に勝っていたようしな。 ダメッぷりがいとおしいのは額兵隊を例外とする仙台藩かな。
政府側について庄内に責められた秋田の支藩で弓矢で交戦してきたという記録も あったような・・投石はないかな?
長岡藩には槍隊が有ったね。
長岡藩には槍隊がいたね。
実際、戊辰戦争時の奥羽越の諸藩にしても急速に銃器に関しては新型化が進んでいるんだよな。 欧米でもこの頃は新旧銃器の博覧会みたいなところがあった。 ゲベール銃が廃れてミニエー銃の前装式ライフル銃から更にシャスポー銃の後装式ライフルへ。 更にガトリング式の機関銃の登場まであっという間に銃器は進歩してしまった。 そして旧式化するとすぐ払い下げられて外国に売り込まれるわけで。 本当にこの頃の銃器の進歩は速すぎると思う。
秋田藩も吉川忠行、忠安が編成した有志隊2個小隊、遊撃隊2個小隊はイギリス式訓練だった。しかしあとは・・。 盛岡藩は発機隊12個小隊、鳥蛇隊12個小隊がオランダ式訓練受けてエンピール銃装備だった。 会津藩もロシア帰りの山川大蔵だけは戦術眼でも負けてなかったがあとは・・・。 庄内や盛岡は藩全体が戦術の思想統一できたから善戦できたが、 仙台・米沢・会津・秋田は近代化が藩の一部に留まってボロ負けした感じだな・・。
戦術というのは意外と実戦経験を踏まないと改革というか、改善されないからな。 南北戦争でも初期の頃はライフル銃が普及しているのにナポレオン戦術そのままを採用してお互い大損害を被った。 そして、経験を積むうちに塹壕を掘り鉄条網を張り巡らしてとWWTの西部戦線を連想させそうな状況になったはず。 日露戦争で水冷式の実用的な機関銃が実戦配備されて日露両軍が大損害を出しているのを欧州諸国の観戦武官が 本国に報告したが日露の軍人がバカなだけだみたいな扱いをされてWWTでようやく機関銃の大威力に本国でも目覚めたとか。 実戦経験云々という観点から行くと日本は200年以上観念だけで戦争を考えていたから戊辰戦争で戦術眼が 諸藩でまちまちというか、大抵劣っているのはやむを得ないと思う。
>>680 例え機関銃があっても突撃すれば勝てるという戦訓を
騎兵出身の観戦武官持って帰ってるよ
人は見たいものを見るのさ
>欧米でもこの頃は新旧銃器の博覧会みたいなところがあった。 南北戦争が正にそうだったね。 ゲティスバーグに参加した北軍242個歩兵連隊中、 スムースボア・マスケットを一部でも装備していたのが16個連隊、 全員が装備していたのが10個連隊も。 一方、後装ライフルを一部又は全員が装備していたのは7個連隊←多いと見るか少ないと見るか・・・
軍人は前の戦争で語る 誰が言ったんだっけ
会津だってハマグリゴモンでは長州に完勝していたわけだからなあ。 そのときの勝利体験を引きずってたのかもなあ・・。
>>684 ハマグリは薩摩の奮戦が大きいような・・会津は長沼流で薩摩は合伝流だったかな?
しかし観戦武官はしょせん後ろから望遠鏡で眺めてるだけだから突撃する奴の気持ちまではわからない、 というか最前線の状況までは詳しくわからないだろうな。 WWTのときでもなかなか前線の状況は理解されなかったしな。
>>685 ヤーゲル程度は蛤門の時点でも会津は配備してたらしいが
江差町の開陽丸博物館に引き上げた武装が展示してあるんだが、雑多すぎ これじゃまともに訓練できないし、補給もままならないのが想像に難くない 戊辰戦争では農業用水路や河岸段丘を利用した狙撃や夜間迂回抜刀突撃やってるな 自分が読んだ範囲では、塹壕についてはあまり記述が見当たらない 民間人は徴用を嫌って資産を隠して逃亡 でも、弁当持って戦いを見ていたとの記述も見られる
最後の二行は大坂の陣とかわらねえな 相変わらず弁当食って観戦か
南北戦争でも、緒戦の頃は近所の住民たちが軽食だの酒だの持って見物してたらしいから、 総力戦以前の時代は、庶民にとって戦争は娯楽だったのかも知れん
>>690 弁当持った見物人の前で戦われた第一次ブルラン会戦は、サンデー・ピクニック・バトルと呼ばれているとか。
>>691 大河ドラマの関係で、また持ち上げられるんだろうなぁ
マスケットの弾なら、200〜300mも離れればまず怪我せんだろうしなあ。
>>692 戦闘の後は、敗走する北軍兵士と、遠足気分が吹っ飛んだ民間人が道路上で入り乱れ、
地獄絵図だったらしいな
>>693 先込めでもライフルになると300メートルでも危ないみたい。
半島戦争中イギリスのライフル銃兵が300ヤード超えの狙撃で、フランスの将官と副官を倒しているから。
逆に、南北戦争中ウールの服を7枚重ね着していたらミニエー弾が途中で止まったって話しも。
飛距離は分からならしいけどね。
結局は運?
>>694 見物中、もっと良く見ようと望遠鏡を覗いた御婦人が失神したと言う話しも有るね。
遠目には良い見物でも、アップで見たら・・・
>>691 私も紹介のHPを見ました。
マンソー銃というのが本当ならスイス製ライフル銃ですね
(ネット検索を掛けると前装式と後装式と書いてあるHPがありどちらが正しいのか不明
最もこの頃なのでスナイドル銃のように改造された可能性もある)
どうやって会津藩が手に入れたのか気になります
スネル兄弟はプロシア・スイスと関係が深いから、その筋から調達したんじゃない?
南北戦争後で兵器市場がダブついてた時期だから世界のどんな銃が流入していても不思議ではないわな
南北戦争でも様々な銃が米に流入したそうですし
>>691 「兵士」じゃなく「戦士」だから武器は自弁=選択権があるという意識が強かったんでしょうね
戦果誤認で集団自決は軍事的に見たら全く無能の極みではありますね
>戦果誤認で集団自決は軍事的に見たら全く無能の極みではありますね 訓練未完で軍人でも兵士でもない子供の集団だからね。
白虎隊って本来は予備兵力扱いだった上に、訓練終了前なのに、 容赦なく前線に投入されちゃったからなあ
指揮官が部隊を離れてる時点で間違いなんだけど、上の書き込みを読んでからだと、反骨意識が強く、統率し辛い部隊だったのかとも思えてくるね。 まぁ指揮官を含め、全員ティーンエンジャーだし、最年長者が「自分が動かねば」と考えるのも、無理はないかも……十五歳を偵察に出してもねぇ。
年齢的にも練度からいっても完全に予備だよな それでも前線に投入しないといけないのがつらいところだが ただ上で指摘されているように白虎隊士はもうちょっと兵士として自覚があるべき (上からの指示にはきちんと従う、状況はきちんと確認して生き延びる等々) 士分としてのプライドが邪魔をしたのかもしれないけれど 戦場ではそういうプライドは命取りのもとになる
もともと自分のアイデンティティの在りかを戦士、士族の姿に見出していなければ、普通の兵士になったかもしれんがな。 12SS師団や、古今東西の少年兵なんかの例をみても子供だから使えない、戦えないってことはあるまい。 まあ、軍事訓練が足りない集団に戦争をしろってのが無茶なんだったろうが。
二本松少年隊は12歳からいたんだよな〜流石にこの歳では戦力化は無理だろ (現在の少年兵みたいにAK持たせるならともかく)
会津藩にあった一種の青年団は『汁』制度だっけ? それを過信しすぎたのかもな。 逆に言えば、そうした制度があったからこそ、年少者も戦力化できたんだろうけど。 前線には出せなくとも、後方の警備とか搦め手の拠点防衛なら役に立ったろうし。
そもそも「什の掟」って全然守られてないからなあ 「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」 「弱いものをいじめてはなりませぬ」 「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」 「ならぬものはならぬ」 集落を焼き払い、伝習隊を置き去りにして自分だけ逃げることを この掟とどう整合させるのかw あと、「ならぬものはならぬ」(理由を説明せず、とにかく従え) というのは議論封殺、思考禁止ということで、二等兵なら育成できるが 下士官と士官はこれじゃ育成できないよな。
島津の「議なすな」はもうちょっと違う意味だったかな?
しかし二本松藩は少年隊が全滅してる一方で藩主は米沢に脱出してるんだよなあ。 桑名藩の松平定敬と雷神隊の立見みたいに藩主と家臣がみんなで脱出するとか、 三春藩みたいに藩主と家臣がそろって官軍お出迎えするとか、選択肢は色々あったと思うんだが、 二本松は最悪の展開になってしまった。
>>709 藩主が脱出したために半ば人質にされて徹底抗戦しなければいけなくなった説もありますね
まあ藩主ほっぽりだして勤王・恭順した藩もあったようなw
>まあ藩主ほっぽりだして勤王・恭順した藩もあったようなw 桑名の事か。
会津は藩主が新政府から死刑宣告受けてたから徹底抗戦しかなかったんじゃないか 列藩同盟の狙いは江戸攻略だからその足がかりの会津は放棄できない
>>712 えっ、江戸攻略なんて考えてたの?
オレが読んだ本だと、
輪王寺宮とかいう皇族を天皇にして、伊達が将軍家になって
もう一つの幕府を作って新政府に対抗するI(東武帝国)
みたいな感じだった気が?
仮に戦争に勝っても、利根川あたりで日本が分断されるだけじゃね?
つうかウィキペディアにもそれっぽいことが書いてあるぜ
東武と西武の戦いか。年末商戦みたいだな。
ウィキだと列藩同盟の戦略は薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる になってるけど 会津も宇都宮城攻防戦に参戦してるし
>>713 同盟って言っても藩ごとに思惑はバラバラでしたからね、会津や庄内は自衛戦争でしょうが
米沢は上杉の故郷復帰、仙台は伊達幕府w、長岡は武装中立と謳われているけど実際は長州戦争での
薩摩のポジションを狙っていたんでしょうね
このときの仙台藩には名前忘れたけどアメリカ帰りの藩士がいて、 列藩同盟は日本の北軍だ!とか気勢を上げてたらしいからな。 しかし額兵隊はイギリス式で赤服着てたってところがポイント高いよな。 いっそタータンキルトはいてバグパイプ吹いてたらもっとよかったけど。
列藩同盟の各藩や藩を主導していた若手役人の思惑とか今の視点じゃなかなか理解しにくい 今の視点なら、まず九条総督も即捕縛だろうし、世良殺害後に仙台にノコノコやってきた 佐賀尾張兵も即武装解除させて営倉入り、交渉道具として活用するのが常識になるだろうからな
720 :
名無し三等兵 :2012/12/23(日) 10:19:51.32 ID:9cl+WjhB
鳥羽伏見の戦いとか戊辰戦争のとき、幕府軍は甲冑のイメージがあるのだが、 当時の錦絵を見ると官軍側の砲撃で吹っ飛ばされてる幕府兵が洋装っぽい軽装だったり、 官軍兵も洋装というより和装に近い格好だったりで、よくわからん。 何より不思議なのは、戊辰戦争のときには洋式軍服を着ていた薩摩や長州の士族たちが、 約10年後の西南戦争や萩の乱のときは甲冑とか和装だったこと。 戊辰のときの軍服はどこにいったんだ?
>>720 返納したんだろ
持ち帰っていたとして10年前の服が実用の役に立ったかというと?
仙台藩は額兵隊以外はおおむね甲冑和装で間違いないだろうな。しかし一関藩は洋装。 官軍の久保田藩も有志隊・遊撃隊以外は確かに甲冑和装火縄銃。 秋田の子供たちはダンブクロきた弘前兵を変なカッコといって笑ったらしいから弘前も洋装。 盛岡藩は和洋混用で、楢山佐渡は猩猩緋のド派手な陣羽織着てるのが秋田・佐賀から目撃されているが、 秋田兵が奇襲したときは銀の時計を残して消えた。八戸藩は残っている写真だとちょんまげにダンブクロ。 官軍も色んな藩が混ざっているから和洋混成だったと思う。 三春藩のように恭順して即参戦する藩もあるし。
わざわざ鎧を持ち出してるとすれば 士族としてのアイデンティティのための反乱 という面が大きいんじゃないかと思う
西南戦争の薩軍の場合は薩摩藩時代の洋式軍装で出撃していた ただし熊本など各地から集まってきた士族は制服などないから和装 また薩軍自体も戦闘が度重なって軍装自体が損耗すると替えがなく和装になっていった 補給に関することといえば薩軍は戦争直前まで新式の後装式ライフルを装備していたのに 政府による弾薬搬出策で失ってしまい、旧式の前装式エンフィールド銃になってしまったのが痛いね もっとも痛いも何もそれが政府側の計略だし、薩軍蜂起の原因もこれなので何とも言えないものがあるけど
山高帽かぶって薩摩拵えの日本刀持ってる薩摩兵って、 ワーテルローのピクトンか第二次大戦のジャックチャーチル並みに萌えるわ。
726 :
名無し三等兵 :2012/12/23(日) 12:08:32.86 ID:9cl+WjhB
西南戦争の古写真って官軍側(熊本城に籠城した鎮台幹部の集合写真とか)のしかないから、 薩摩兵の服装って当時の錦絵とかのイメージしかないんだが、錦絵では西郷とか一部幹部を除いて、 ほとんどの将兵は甲冑和装で描かれてるね。 あれは史実に反するの?
幕末維新の内戦で、本格的な実戦が展開された一番最初の事例って何? 桜田門外の変とか坂下門外の変とか東善寺事件みたいなテロじゃなくて、 一応合戦と呼べるレベルのもの。 そういうレベルの軍事衝突がおこるまでは、幕末の武士って実戦経験のない、 普通の公務員やニートだったのに、よくあんなに戦えたと思う。
知らねえ 水戸天狗党じゃねえの 大塩平八郎の乱もあるけど
下関や薩英は攘夷(対外)だから内戦レベルでは文久三年(1863年)の天誅組の変じゃないかな 十津川郷士も合流して一時は1000人近かったし
西南戦争中の政府軍も前線では部分的には和装を取り入れてるよ。 靴とレギンスの代わりに、草鞋と旅脚絆とか。 夏には軍帽の代わりに饅頭笠まで。 上層部も前線勤務に関しては兵の着心地優先で、その他の軍服改造を含め黙認。
泰平の世に生まれた幕末の武士が戦場に動員されるっていうのは、 現代日本の普通の学生やニートがソマリアやアフガンに送られるようなものか。 おっそろしいなあ。
>現代日本の普通の学生やニート というより官僚の子息が近いだろうな
>>732 幕府歩兵隊や長州戦争を中公新書で出した野口武彦がその時の資料をもとに
幕府側の凸凹3人組か4人組の珍道中小説「幕末不戦派軍記」を書いてるけど
幕府の末端役人のダメっぷりがよく描かれてました
大阪まで行って食い倒ればかりやってる・・
読んでないからわからんが 長期駐留して退屈してる兵士なんてそんなもんじゃないかな…
>>735 幕軍の問題はその退屈してる連中が士官クラスであるという点に尽きる
幕末に20〜30代だった世代が生まれた1830〜40年代ってのは天保年間で、 時代劇では遠山の金さんとかが出てくる天下泰平まっさかりの時代。 その時代の子どもたちが将来白刃振るったり発砲したりして殺し合う時代がくるとは、 親世代は夢にも思ってなかっただろうな。
でも大塩平八郎の乱とかあるし、仮に情報統制でそれが江戸市中に伝わってなくても、 徳丸が原の演習や蛮社の獄などで、町民や農民もなんとなく風向きが怪しくなってきたのは 感じてたのか知らん。
白虎隊や二本松少年隊とかは市役所幹部や市議会議員の子供の中学生剣道部員が、 いきなり北九州市の工藤会の事務所に突撃させられるようもんか。
幕末の頃だけど、結局は水野忠邦の天保の改革の失敗が一番響いた気がする。 江戸幕府の三大改革として享保、寛政。天保の3つが取り上げられるけど天保の改革は 老中が行おうとしたもので享保や寛政とは少し違う側面がある(享保は将軍自らだし 寛政も一時は将軍世子と目された松平定信が行おうとしたものでトップ自らというのがあるが 水野忠邦は老中筆頭で決して幕府のトップ(将軍)ではない)。 それだけ江戸幕府の従来の体制が崩壊しつつあり体制内改革が急務になっていたのだろうと思うけど 結果的には失敗してしまった。そのために最早体制外改革(革命)か、独裁的強権発動による改革(安政の大獄)か といった2択に江戸幕府は追い込まれていった気がする。 分かる人は分かっていたといっても実際にはわからない人が圧倒的多数な訳で。 分からない人が従わなくなった時点で江戸幕府は究極の二択を迫られてしまった気がする。
なんで重装歩兵がいるんですかね・・・
さすが福岡
そういえば清水次郎長なんてのも幕末維新の頃の人物だけど、 次郎長は維新後の活動もわりと知られているけど、 時代劇とか浪曲でおなじみの次郎長の物語の舞台は1860年代頃。 世の中が開国だ攘夷だ、尊王だ佐幕だとか騒いでた時代に、 あいつらは江戸時代まっただ中だったんだなあ・・・
もっとも騒いでいたのは武士だけですけどね 1860年代なら大手商人などはもう異国貿易で大儲けしてる頃だし、 一部の藩でも貿易前提での特産物生産政策始めてるし
黒船来航以降の社会不安の増大が 彼ら「侠客」の活躍(正負とも)を助長したのは間違いない もっとも幕末の「侠客」は支配体制の最末端を担う役人という側面もあったから 祐天仙之助とか黒駒の勝蔵とか目端の利くものは積極的に政治にも参加してた とかなんとか
>>746 幕府や藩の権威が低下したために自警団的な要素も含めて博徒が活性化した面もありますかね
フィクションで次郎長のライバルとされる黒駒勝蔵は実際は赤報隊に参加した果に戦後は用済みと
処刑されていますね
>>746 幕末の歴史、について纏められたのは戦後だ、なんて話があったな
大正〜昭和中期までは、幕末と言えばもっぱら次郎長の物語であった
その後、幕末を左翼的価値観で語ったりの時代があれこれ続いて、
まあ坂本竜馬による薩長同盟や大政奉還あたりを軸にして、そこに至るまでの下級武士や浪人の苦悩、
変化に対応できないまま権威を保とうとする上級武士、一方で上級武士でも様々な考えの人がいて、
それがまた安政の大獄や蛤御門などで刑死したり戦死したりなど
こういった幕末の物語が完成したのは、司馬センセのお陰かw
鴉組もそれっぽいんだっけ
砲声を聞いてから各々身支度しつつ宿の主人に飯の準備を命じて十分腹ごしらえしたのち全員集合を待って出撃する
萌える奥羽勢の中で唯一気炎を上げてた人ら
>>742 なにこの戦る気満々の門構えは
>>751 細谷十太夫が組織した鴉組こと衝撃隊も博徒で成っていたそうで
長脇差一本でひたすら夜襲(殴り込み)すること30回以上、戦後も部下に
報奨金をしっかり分配して、北海道開拓にも従事させたんですから
まさに発つ鳥後を濁さずですね
まあ庄内藩は鴉組とかいなくても、正規兵が夜間潜入して薩摩兵皆殺しにするから。 火縄銃オンリーの秋田武士でも精強南部兵相手にがんばって夜間遊撃戦してるのに。 津軽兵は停戦後に野辺地に夜間潜入放火した挙句、一方的に壊滅したけど。
官軍でも甲冑持ち槍火縄銃の笠間藩とかは大鳥圭介に一方的にボコられてるから、 仙台藩の正規兵もそんな感じだったんだろうな。
お前ら詳しいな 奥羽越でいい本あるなら教えてくれよ
庄内藩というと藩祖は徳川四天王の筆頭の酒井忠次(細かく言うとその嫡子の酒井家次)だったよな。 お家が半分断絶した本多忠勝はともかくとしてそれ以外の四天王の井伊直政や榊原康政の子孫が 幕末の際に散々な醜態をさらしたのと比較すると本当に酒井家には感服せざるを得ない気がする。 井伊や榊原が酒井を見習っていれば長州戦争で長州藩を瞬殺できたろうに思うのは庄内藩に対する 過大評価だろうか。
勝ったけど領地の多くが戦場になり大損害を被ったのに恩賞が少なかった秋田藩 負けて領地を削られたり家老が切腹になったりした他の東北諸藩に比べ 津軽藩は上手く立ち回ったと思うけどな
笠間藩主は鳥羽伏見の時の大坂城代だったのか。
庄内藩は藤沢周平の海坂藩シリーズのモデルとなった藩だが 家柄はともかく石高が低かったから雄藩なりえなかったいわくつきの藩
譜代は基本低いと思うのだが
>>756 とはいえ薩摩藩邸焼き討ちやらで幕末動乱のきっかけを作ってしまったのも庄内藩ってのが皮肉だけどなw
もちろん庄内藩は職務を果たしただけなんだが結果的に幕府崩壊の引き金引いてるものな
薩摩藩邸焼き討ちやらのきっかけを作ったのは庄内藩ってか淀藩藩主で老中の稲葉正邦じゃね しかも淀藩はさっさと寝返って鳥羽伏見の旧幕府軍をさらに窮地に追い込むという
ネットでざっと調べただけなので違っていたら指摘してください 徳川四天王家の嫡流の系統を調べたら井伊家は別格で幕末時点で35万石だけど それ以外は本多家が幕末時点で5万石(お家断絶寸前までは15万石) 榊原家と酒井家は15万石と14万石だった。 更に付言すると井伊家の35万石というのは名目だけで実収入は酒井家とほぼ同じだったらしい。 (酒井家は本間家の協力もあり北前船交易で莫大な収益を得ていたというのもあるが) こういうことから考えると庄内藩の石高は低いとは言えないと思う。
薩摩77万石、長州37万石と比べたら 長州の内高は表高の倍ぐらいあるし
>>756 彦根藩は井伊直弼暗殺後に10万石の大減封食らっているのをお忘れなきよう。
禁門の変で活躍しても3万石しかとりもどせないんじゃ、こりゃ幕軍に味方したって
となってしまう罠。
>>764 大藩でも加賀藩、仙台藩のような木偶の坊としかいいようがないところがあるしなぁ
譜代大名は基本的に石高低目なんですけど 薩摩や長州といった戦国生き残りの外様大名(豊臣政権下では同格)と 譜代大名(豊臣政権下では徳川家の家臣(一部例外もありますが))とを 単純比較するのはちょっと首をかしげます
>>765 長州戦争で、長州藩兵の銃撃の前に彦根藩兵は伝統の赤備えの鎧兜を逃げるのに邪魔だと
脱ぎ捨てて長州藩と芸州藩との境から広島城下まで
768です。途中で切れてすみません。 大敗走する醜態をさらし、気の毒に思った長州藩兵は赤備えの鎧兜を広島城まで送り届けました。 それで幕閣から何たる醜態と叱られたことから逆切れして戊辰戦争では薩長に味方する始末。 井伊直政公が見られたら憤死したのではないでしょうか。
まあ長州だって正義派の連中はだらしなかったからなあ。
771 :
名無し三等兵 :2012/12/24(月) 22:54:47.53 ID:CneV+7Jr
まちがえた、俗論派ね。
俗論派の中心である正藩士部隊は後に奇兵隊の反乱を鎮圧することになるんですよね (主力は継続雇用を認められた旧奇兵隊ですが) さらにその後萩の乱に参加したメンバーもいるのでしょうかね?
戊辰戦争で騎兵が活躍した戦いってあったっけ? 時代的にはまだ現役で行けるはずだけど
>>766 だらしないとは、長州征伐なり薩長が立ったなりした所で幕府に噛み付く度胸も時流を読む智恵も無くしてた事の方かと。
元々外様ですからな。
>>773 戊辰戦争の騎兵は殆どが伝令用途or指揮官の騎乗に使われたから組織的に戦場へ投入された例はないはず
軍馬集めるだけでも金掛かるし
山川沼沢の多い日本じゃ大規模に運用しても……
>>772 干城隊の基幹は俗論党じゃなくて鎮静会の方じゃ
土方歳三みたいに馬上で戦死した指揮官は多いかもな。
日本の騎馬って、おおむね移動式のお立ち台だかんね。
ジパング書いてた人が連載してる、兵馬のなんとかという漫画がお前ら好きそうだぞ。 幕府歩兵隊の隊長が主人公だった。
日本の軍馬は北進事変の時でも馬格が小さく凶暴とぼろ糞だったからな 去勢も蹄鉄も無かったし
CMを見ると、期待できそうな気もしないではないが、来年の大河ドラマはどんなもんかねえ?
綾瀬はるかのおっぱいミサイルで迎撃される新政府軍の元服し立ての初陣童貞幼年兵が続出するなら30%超える
>>781 どう考えても1年持つような題材じゃない。戊辰戦争以外に特筆するようなエピソードのない人物
間を埋めるために安っぽい愛憎劇だの家族劇を挟みこみ
止めにNHKお得意のフェミニズムが加わって糞になるのが目に見えている
>>776 ご教示ありがとうございました、干城隊の参謀で山川健次郎を育てた奥平謙輔は
萩の乱で刑死したんですね
いっそ中野竹子と娘子軍をメインにして、戊辰戦争後は一週間で終わらせる。 前半は中野竹子他、娘子軍を中心にぬるくまったり百合萌え四コマ風に展開して、 後半で一気に無茶振り戦闘場面に突入して半年間押し捲る。
マジレスするならば、山川兄弟を主役にするのが一番だよな。 本人達のエピソードも面白ければ、脇も豪華なメンバーが期待できる。
白河城攻防戦で会津軍の総指揮官が佐川官兵衛になって、 積極出撃策をとって分進合撃の新政府軍を各個撃破するシナリオになったら見る 北越戦線は秋田藩の寝返りを総督の事前拘束等で防いで庄内藩北越全面参戦で山県粉砕でよろしく
列藩同盟の敗因はやはり結成当初の性格からして和平同盟だったからか? 一応、薩長があくまで武力に訴えるのなら、武力行使も辞さない、 ということにはなっていたものの、あまりに時間がなさすぎたか
仙台藩・米沢藩の予想以上の弱さと、敵と考えていなかった佐賀藩の予想以上の強さが誤算だったな。 薩長土だけなら間違いなく秋田藩は降伏してる。 秋田が降伏してたら8月中には庄内藩・南部藩を仙台・米沢方面に転用できる。額兵隊も使える。
列藩同盟の最大の弱点は指揮系統が一本化できなかったことだと思うな。 薩長側はトップがいてその指揮下で行動できたけど列藩同盟側にはトップが事実上いなかった 関ヶ原の戦いで西軍が負けた(名目上のトップは毛利輝元だけど前線のトップは石田三成 でも石田三成の指揮下で西軍が一糸乱れぬ統率だったかというと全く違った)のと似たところがある。
>>788 仙台藩は白河城押さえて関東に押し出して権征夷大将軍になってウフフとか考えてなかったか
まぁ彰義隊とかが頑張ってた頃の関東なら、そう無謀ではなかったような気がしないでもないが
>>789 秋田戦線に送られた薩摩の隊は新設のばっかで、長州の隊は総督についてきた少々だからな
薩長の歴戦の主力と庄内藩鬼玄蕃のガチンコ対決を見てみたくなかったと言えば嘘になる
>>791 >仙台藩は白河城押さえて関東に押し出して権征夷大将軍になってウフフとか考えてなかったか
ないないw
そんな野心も金も無いw
列藩同盟の方は藩を超えた横断連合の実務を担っていた若手官僚達が 薩長のそれと比べてまだ権力を確立しきれてなかったんじゃなかろうか 列藩同盟が外交同盟であった頃はまだ良かったが、 軍事に関してはまだまだ藩を超えた横断が出来てなかった感じ 北越戦線での米沢藩の不振にそれがよく現れているように見える
緒戦の彦根藩が罵られてるけど、彦根は数週間後の芸州口の第二次攻勢では敗因を分析して大善戦してるぞ。
>>793 そうではないよ。出口戦略が全くないから藩論が割れるのは当然なんだよ。
だいたい「戦争を回避しての交渉決着」を求めて下参謀と揉めたのに、いつのまにか戦争になってるんだから、
藩論が纏まらないのは当たり前だ。
>>773 馬格が貧弱なので幕府仏軍事顧問団もアラブ馬を導入して近代騎兵編成計画も立っていたんですが
維新のどさくさで各軍の高級タクシー扱いされて、明治で落ち着いたとき改めて騎兵編成の為に輸入
されていた馬を追跡捜査したところ、まともなのは十数頭しか残っていなかったそうです。
輸送用としてもどうだったでしょうね?西南戦争では後方は人力車が活躍していたという話も・・
奥羽越列藩同盟の最大の泣き所は795が指摘しているように戦争の終らせ方 出口戦略無きままに戊辰戦争に突入したことだろうな。 極論もいいとこだが輪王寺宮を東朝の天皇に即位させて日本を東西に分裂させよう と腰を据えて衆論がまとまって戦っていたらそれなりに策戦等も統一されて もう少し戊辰戦争が長引いて榎本らの旧幕府海軍の助力も得られてと歴史が違った可能性も でも史実だとどうやって戦争を終わらせるのかさっぱり見えないままで戦争に突入するという 1941年12月のどこかの国がやったようなことをやっちゃったからな 参戦した各藩の論議がまとまらずに各個撃破されていったのもやむを得ない気が。
>>792 権征夷大将軍の方は東武皇帝の閣僚名簿とか
関東に押し出す計画の件については、米沢藩戊辰文書の奥羽同盟列藩軍議書にある
>一、會兵大挙高原より日光へ打出、近傍故幕之遣兵を語い、是機進撃可致事
> 但最早より所々の故幕兵へ策略可相通置候事
>一、宇津(都)宮之官軍を追拂い、常野之諸藩を引附け、暫く利根川を境にして深根固帯傍ら、房総迄も手を延し可申事
> 但江戸易取難守候間、時宜次第暫く後図に附し、北越之声聞策応を待ち、万全之見込を居大挙可致事
どちらも原典自体には当たってないので突っ込みは甘んじて受ける
>>680 >日露戦争で水冷式の実用的な機関銃
質問します
当時、満州の冬の低温で凍らない水冷方式は可能だったのですか?
当時からグリセリンやエチレングリコールなどを溶かしていたのでしょうか
今度のお正月時代劇特番は白虎隊モノで西郷頼母が主役らしい 白河戦で薩長兵を甘く見て城外の要所を簡単に奪取されたり、 たった一日で無様に敗走してしまったシーンも入るのかね
>>797 そもそも王政復古の新体制は鳥羽伏見前の徳川慶喜でさえ、
否定しているわけじゃなかったからなぁ
争点はあくまでその中にいる横柄な薩長分子が許せない、ってだけで
だから朝廷そのものや薩長以外の藩が出てくると強く出れないところに佐幕側根本的弱さがある
関東以北は京都はもちろん江戸からも遠く、時勢に疎い上に、経済的にも弱かった。 南北朝の再現など、とても、とても……
>>802 そりゃ徳川慶喜はもろ尊王派だから
まあ江戸幕府初代の家康からして豊臣家に従うふりしながら関ヶ原で権力とって
豊臣家滅ぼしているわけでその子孫が君側の奸を討つと言ってもね
>>797 米沢藩の宮島と長州藩の広沢の交渉にみるように、長州側でも奥羽情勢を懸念して和平決着を模索する人物はいた。
だから奥羽諸藩が総督の身柄を抑えて条件交渉に入ってれば回避可能な戦争だった
ところが宮島が広沢の助言を受けて戻ってみると、世良処刑で会議が暴走しすぎて話にならなくなってた。
奥羽諸藩の敗北は「軍事的敗北」と言う以前の問題であって。。。
だから本間家に事実上身売りしてた庄内藩は戦意きわめて旺盛だった、まさに上下一体だったからね
>>803 経済的には天保飢饉の打撃で身動きが取れなかったが、それが直接の原因ではないよ。
同盟の中核、大義名分となる人物を抑えられなかった政治的失敗が最大の敗因。
普段カラにしておいて撃つ準備段階で湯を少し、次いで水を入れればいいんでないの? どのみち冷却水は氷か雪を火にかけなければ作れないだろうし。
wikiには、水の代わりに氷や雪を入れたとも 書いてあるよ。凍っても一杯にしなければ 膨張して破裂ということはないんじゃないの?
意外と水冷式の機関銃は頑丈というか 結構強いからな 小説での話かもしれないけど、体内から出る小○をかけて冷やしながら撃つということも可能らしいし。 裏返せば、機関銃を連射するとそれだけ熱を持つということだから、とりあえず非射撃時は冷却ボックスを 空にしておいて射撃が近づいたらお湯を入れてその上に氷や雪を押し込んでで何とかしていたのだと思う。
ドラマの話で言えば 会津モノは秋月を主役でやるべきなんですよ。 小泉八雲視点で始まって彼のナレーションで会津戦争〜終結までを描く。 「日本よ、これが日本人の交渉能力だ!」みたいな適当なキャッチで現代人に訴えかける。 ど、どうすかねえ?
幕府滅亡の時点で、幕府海軍は本当に「東洋一」の実力を持っていたのだろうか? オスマン海軍や清国海軍と比べてどうだったんだろうか? 少なくとも日清戦争前は清国海軍の方が明治海軍の実力を上回っていて、脅威だったはず。
>>811 清が艦隊建設に励むのは、各地に租界や貿易港が建設されて、海外交易で儲かるようになってから
以降だね
清は艦船の輸入じゃなくて国産に力を注いでたから、整備済み戦力では幕府より下だったかと。
>>811 1860年代には日本が最強だったが、1880年代には清が強かった。
なんの矛盾もない。1860年代の軍艦なんて1880年代には役立たず。
幕末と日清戦争は、軍艦の技術レベルが全然ちがう。
1866年建造の開陽と1885年建造の定遠は、
排水量は2.5倍、
火砲の口径は2倍、しかも前装式と後装式、最大射程は2倍、
(実際に命中が期待できる距離はもっと差がある)
装甲皆無の開陽に対して装甲355ミリの定遠、
機関出力5倍、
とにかく桁違いの性能差がある。
ぶっちゃけて言うと、三笠と大和くらい性能差がある。
、
でも沈めることはできなかったが勝ったろ? あと西太后が艦隊購入資金を勝手に庭園増築に使ってしまったって スタジオジブリの大将が書いてた。
>>815 勝ったのはそのとおりですが
「幕末時点と日清戦争は時代の違うので
日清戦争の時点で清が強いことと
幕末の榎本艦隊が強いことは全く無関係」
と言いたいのです
1860年代同士で比較するなら榎本艦隊が強いと断定できます
ウィキペディアみると、清が大型軍艦を整備し始めるのは1870年代以降で
それ以前は大砲3門とか3門の船しか持ってない
詳細は不明ですが100トンとかその程度の船ではないでしょうか?
要するに1870年代に清に海軍力で追い抜かされたってことか。 まあ、落ちぶれたとはいえ、当時は清の方が経済力が大きかったからな。
>>817 よく確認したら、海軍の大増強は1870年代というより1880年代でした。
1870年代は1000トンで13門装備程度の船しか無かったのに
1879年の「超勇」を皮切りに軍艦を買いまくってます。
瞬く間に大海軍が建設されたことになり、
さぞや日本海軍はビビったことでしょう。
まあ、内実はかなりダメな海軍だったわけですが。
フランス海軍にもボロ負けしてるしな。
清の在来海軍(水軍)は、アヘン戦争時に約1000隻・10万人を誇りました。 いわゆるジャンク系の軍船で、最大艦は250トン程度、備砲10-30門といいます。 しかし、イギリス海軍に惨敗したのは御存知の通り。 清が近代海軍の整備に着手したきっかけは、対外戦争での水軍惨敗に加え、 内乱を起こした太平天国が西洋式軍艦を取得したという誤報が伝えられたことでした。 あわてた清朝は、1862年に7隻の西洋式艦船をイギリスから取得します。 最有力艦は新造砲艦の「江蘇」(1269トン・300馬力・6門・1862年)で、ほかは700トン以下。 しかし、イギリス人の乗船など運用を巡ってイギリスと対立し、整備計画は中止されてしまいます。 回航されたばかりの艦船は返品され、うち上記の「江蘇」は別の1隻とともに薩摩藩が入手して「春日」となっています。 その後も若干の輸入はありましたが、幕府の「開陽」に匹敵する有力艦までは見当たりません。 一方、清は同時に西洋式軍艦の国産計画も進めており、 こちらは1860年代後半も継続されて、次第に成果を上げていきます。 江南製造総局や福建船政で大型蒸気船の建造まで実現しており、造船では日本よりやや上かもしれません。 江南で建造された主要艦船 ・「恵吉」(600トン・9門・1868年) ・「操江」(640トン・8門・1869年) - 日清戦争冒頭の豊島沖海戦で拿捕される ・「測海」(600トン・15門・1869年) 福建で建造された主要艦船 ・「万年清」(1370トン・150馬力・6門・1869年) ・「?(サンズイに眉)雲」(515トン・3門)
おお、詳しい人が来てくれたー!! やっぱり 「万年清」は名前も風変わりで、妙にデカイし、気になるな。 150馬力ってのは公称出力か、実出力か? どちらのしても馬力不足だな、遅いだろう。
>>818 まあ清仏戦争でフランスに負けたのは、福建艦隊の2000トン以下の木造艦だから。
あの戦力では、5000トン近い装甲艦「トリオンファン」(日本の「扶桑」より有力)や
3000トン超の鉄製巡洋艦「デュゲイ・トルーアン」あたりのフランス艦隊には歯がたたない。
むしろ中国側旗艦の「揚武」(約1600トン)を、1872年に国産してたことがすごいと思う。
日本だと、維新後初の国産軍艦「清輝」(約900トン)を竣工させたのが1876年だからね。
やはり「東洋一の幕府海軍」というのは佐幕オタの駄法螺か。 日清戦争で清がボロ負けするまでは、清国>>>日本だったんだな。
>>810 会津モノなら、白河城攻防戦や母成峠の戦いをちゃんと描写しないとダメだろ常考
真の白虎隊の悲劇の原因はそこにあるし、情報収集・情報伝達の大切さその他
現代に伝えるべき教訓が山ほどあるってのに
春日丸は阿波沖海戦・宮古湾海戦・函館湾海戦を戦って江華島事件に関わり 日清戦争中は対馬水雷団に配属され1902年に売却されるまで実に42年を生きたんですね
人は見たいものしか見えない
>>826 に同意するな。
明治維新は1860年代なんだがな。
>>812 の補足
1858 天津条約 条約港10追加
1860 北京条約 天津も条約港へ
1861 同治の中興 洋務運動、海軍力の増強へ、天津、南京、上海などに鉄鋼・造船・兵器工場を建設
1876 チーフー条約 条約港4追加、
運河・ジャンク頼みだった物流に汽船・大型帆船が参入だからな
税収は莫大なものとなり、清はこれで艦隊を建設したわけだ
>>818 の1879年の「超勇」を皮切りに軍艦を買いまくってます。
がその証だね。
貿易で儲かるようになったから、フネを購入できるようになった。
>>809 漏れのチ○ポも水冷式の速射聞かん棒ですっ><
清が各国に租借地を作られまくった時代に 何とか軍艦を多数導入して、排水量や火力で見れば 日本なんぞ一蹴できる戦力を整えた、というのが凄かったわけか
1843年 清はアヘン戦争でぼろ負け、江戸幕府は警戒 1860年代 日本で幕府も各藩も蒸気船買いまくり。日本の海軍力が向上する 1870年代 そのストックで日本の海軍力がまだ上かな?でも清が新式艦を買いまくり始めた! 1880年代 国中を租借地で毟られつつも、その代金で軍艦を更に買いまくって日本を逆転! 1890年代初頭 日本もようやく軍艦を更新し始めたか?でもこんなので最近の日清の緊張に耐えられるか? 1894年 ついに日清激突!ありゃりゃ清の軍艦は排水量と火力は凄いが錬度悪過ぎだorz 1901年 清からの賠償金で、八幡製鉄所も作った!これで軍艦も砲も弾も作れるぞ!
しかし19世紀後半は軍艦の発達も凄いな。 黒船みたいな外輪船から最終的には三笠みたいなのになるんだろ。 ちょっと更新を怠ったらすぐに旧式化してしまう。
銃器の発達はもっと凄いけど軍艦に比べて更新しやすいからかな。
19世紀末には「第二次産業革命」があったからな 石炭から石油への移行、鋼の工業的大量生産、窒素化合物の大量合成、電気機器の発明の連続、 電信、電波を使える時代になったこと、など枚挙に暇が無い
>>835 弾の互換性が絡むと数が相まって大きな問題になるけどな
20世紀半ばのジェット戦闘機の発達なんてもっともっと物凄いぞ
あっという間に、行灯から電球だものなぁ。
戦争が科学を発展させるとか言う話があるが 科学が発展してる時代の戦争の間違いだろうと毎回思う
科学が発展して生産力に余力が出来るから戦争になる??
航空機技術なんてWW2の間に物凄く進歩した、ように見えるが、 戦闘機で比較すると大戦初期に500km/h→大戦末期に700km/h でも実は大戦前に750km/h超えの航空機ってもう出来ていたんだよなあ
一時は世界基準レベルだったチハたん(´・ω・`)
>>838 そうかなあ? もっともっと、っていうほど進化してない気が。
マッハ0.8が2になっただけでしょ?
外見なんてTa183からMig19あたりまで大して変わってない。
開陽→定遠 の進化は、
Me262→Mig21 の進化よりも凄い気がするが……
まあ、言いたいことは分かる。
どっちも速いとは思う。ジェット戦闘機がマッハ1から2になるまで10年程度だもんな。
19世紀後半や、20世紀前半の軍事技術の発展と比べ、この20年くらいはあんまりパッとしないね。
今は、RCSが10m^2から、0.001m^2へと進歩した!(キリッ という時代w あるいは陸戦なら情報共有量が数万倍になった!あるいは情報共有速度の通信量が数万倍になった!(ドヤッ
まあ飛行機で例えるならば、開陽はWW1末期の複葉木骨羽布貼りで、 定遠は単翼軽金属モノコックの96戦辺りかな。 どちらもその間、約二十年。
今の軍艦って大砲無くてつまんなーい!(ジタバタ ちょっと待てお前が地団太踏んでるそのサイロの下には長距離ミサイルが詰まっているんだぞ!
>>844 最高速度よりも、搭載量の進歩ががが
F-86⇒F-22で最大離陸重量が
6300kg⇒38000kgやで
このスレ飛行機オタが多いのは意外だな。 だって19世紀なのにw
1950年代くらいまで、つまり海外旅行が船のみだった時代には、 大西洋をどのくらい早く横断できるか?というのが豪華客船のシンボルだった 最後には平均速度55km/hとかにまで達した だが、この頃になってB707が出来て、客船による旅客輸送が下火になってしまい 大型の船で高速旅客輸送を行う意義が無くなってしまったとの事 それで、もしこの時代が続いていたとして、 マリントレントを複数搭載して高速化した旅客用豪華客船が出来たとしたら 一体どのくらいの速度を出したり、排水量はどこまで増えたのかな?とも思うのだがw
古きを温めて新しきを知れ
ブルーリボンか 排水量言うなw
>>842 戦前に750キロ出してるのは記録を出すための特別チューニングの機体でしょ?
Me209V1とか。
あれは特殊な条件だから運用できる機体で、「武人の蛮用に耐える」機体とは
同じ土俵じゃない。
市販バイクが時速300キロ出せるようになったのは1990年代だが、
速度記録を出すために特別にチューニングされたバイクは1956年に出してる。
>>832 >>833 租借地で清も儲けたのさ
インフラ整備を海外の資本がやってくれた
それで儲けた金で定遠や鎮遠を購入
>>845 コンピュータだけは例外的に超進化しとるわな
20年前なんてメモリーが4メガバイトとかだぜ?
クロック数も66メガくらいだったし。
10年後にはテラバイトメモリ機とか出来そうだ
19世紀半ばの銃器革命では、 射程距離延長と連射あるいは装填間隔短縮が同時に進んだからなあ
20世紀末から21世紀末にかけてはコンピュータの高性能化と低コスト化が同時に進んだぜ。 きっとこれも後世の人々にナニナニ革命と呼ばれるだろう まあ幕末には解析機関しか無かったわけだが
IT革命とかナツカシス
グーテンベルグによる印刷機革命と宗教改革って連動してたっけ?
もう全然時代違うが連動してるはず 聖書が簡単に印刷して配れるようになったからな
聖書にはこう書いてある!なのに免罪符なんぞ出す教皇庁は! まさに「主張のためのソース出したぞ(ドヤッ」が出来たわけだからなあ
>>839 だが電球が分かりやすい過程でエジソンとそのグループに開発されたのに対して
蛍光灯はアーク灯から始まって安定した白色光になるまで100年以上も掛かったのだ
そしてその70年後、LEDに取って代わられようとしている
このままじゃフィラメントのある白熱灯はひよこ電球みたいな電熱器としてのみ、
蛍光灯は殺菌用の紫外線ランプとしてのみになるのかどうか?
19世紀においてはガス灯が街の灯かりであった そしてガスに含まれるエチレンのため街路樹が早く落葉する事が分かり これから果実の追熟などの研究も進んだ
19世紀だとまだ鯨油が主流じゃないの?
それは家庭用だね
追熟が出来るなら多少未熟でもまとめて収穫して、遠くの市場でまとめて熟させて販売できる事になる (糖度がどうのとかは別としてw) つまり農産物の輸送と販売において革命的な出来事となる
エチレンガスって船での長距離輸送で研究進んだんじゃないの?
>>540 亀だけどこのスレではパラドックス社のVictoriaってゲームの方が似合うかもしれない。
政治、経済、産業、軍事全部楽しめる。
B737サイズの輸送機を運用できる空母が40ノットで走れるようになったら 単胴の船舶のサイズと速度の進化としてはとりあえず上限って所だろうなw
>>872 そして次は
B-2サイズのステルス爆撃機が運用できる
トリマラン空母ですね!
875 :
名無し三等兵 :2012/12/29(土) 23:29:55.90 ID:5TO9IF43
これって庄内戦線とほぼ同時侵攻な話なのか
佐賀藩の「アームストロング砲」は色々議論の多い問題で司馬遼太郎のフィクションとも 言われてますね
歴史群像第91号(?)の記事で出ていたと思うのだけど 佐賀藩のアームストロング砲というのは単なるライフル砲ではないか云々 と書いてあったような気がする。図書館とかで確認できたらいいのだけど 休館日だしな。詳しい人のフォロー求む。 確かに薩英戦争でも事故を起こすレベルの最新砲(もちろん英国製)を 佐賀藩でコピー量産ができていたというのは技術レベル的におかしい気が。 日露戦争の頃でも日本は世界レベルの大砲の量産に苦労しているし。
>>878 司馬遼太郎と言うより、佐賀藩銃砲沿革史の方?
>>875 大河ドラマ「獅子の時代」で菅原文太がアームストロング砲を輸送中の官軍
を会津藩の敗残兵?たちと襲ってそのまま大砲を破壊してるけど、その辺が
元ネタなのか?
会津関連なら宇都宮・今市の撤退から藤原の戦いまでの話だと思う こっちも佐賀藩から大砲奪ったエピソードがある
日清戦争(とくに海軍)の準備・戦闘経過・分析などを記した良書ってあります? 戸高本しか知らない。
>>875 そんな戦術レベルの話になってもねぇ・・・
例え一つの戦場で敗れても、後から増援をどんどん投入して盛り返せばいいわけで、
実際薩長はそれが出来たから勝てた
北越戦線の長岡奪還時はすごく惜しかったんだが・・・
しかし仙台藩の負けはどっちかっつうと戦術レベルだよな。 白河にはどんどん増援を投入したが、ぜんぜん盛り返せなかった。これは戦術レベルの問題。 秋田戦争でも佐賀藩投入までは庄内相手でも盛岡相手でも増援をどんどん投入しても押し返せなかった。
秋田藩が押し返したのは列藩同盟が崩壊したからじゃ
890 :
司馬遼太郎 :2012/12/31(月) 00:37:01.37 ID:???
>881、>886 あ……あむすとろんっ! あむすとろんぐは本当に在ったんだ!!
一二ポンドアルム砲は七七〇両を一二五〇両で、六ポンドアルム砲は原価四三五両を七五〇両で売却と書いてるな。 6ポンドだけじゃなかったんだな。
仙台藩のアームストロング砲の使用状況はこんな感じ。 旗巻峠の仙台藩守将の鮎貝は、駒ヶ嶺の部隊から強く要望されたにも関わらず、派遣した部隊は2小隊のみだった。 旗巻峠にはアームストロング砲が備わっていたが、これは仙台藩の洋化部隊である額兵隊から無理をいって借り出したものであった。 仙台藩は旗巻峠から砲撃しつつ、2小隊を曹善堂方面に進出させるが、歩兵攻撃と連動するなどの効果的な運用をまるで行わなかったため成果はない。 派遣された2小隊は佐藤宮内率いる部隊が鳥取藩兵を後退させるなど奮戦するものの弾薬も尽き果て、旗巻峠に引き返すしかなかった。 こうして、第三次駒ヶ嶺攻防戦はいずれの局面も仙台藩の敗北に終わった。この戦いでの戦死者は新政府軍が12名を数えたのに対して、仙台藩は98名にもおよんだ。 これには海岸側で逃げ場なく挟撃され、海に飛び込むしかなかった仙台藩兵の溺死も含む。
なぜがんばってる佐藤宮内に弾薬を届けてやらないんだ、鮎貝! こういうところが仙台藩はダメダメなんだな・・・。
注文だけなら野戦砲だけで100門ぐらい発注してる
仙台藩兵は各武将の兵だから自分の兵は失いたくなかったとかそんなとこだろ
歴史群像91号のアームストロング砲の記事読み返してみた 秀島成忠の佐賀藩銃砲沿革史にも言及されてて全般的に言えるのは 「アームストロング砲」の定義がはっきりしないこと 国産なのか輸入品なのかはっきりせず、輸入品にしても南北戦争の中古品(南部軍が使用)が 不透明なルートで入ってきている(トーマス・グラバーも関わった模様) 交戦者だけでなく使用者ですら砲の背景まで知識があるとは限らず、記録者もそのあやふやな 情報を元に残しているので・・ ちゃんとした操作マニュアルや現物がないと何とも言えないみたいですね
武雄藩の編成表では、 大砲隊(野戦砲) 指揮役 旗島右馬助 古賀降作 伍長 宮原林平 江口練平 一番 六ポンド「アームストロング」砲 川浪喜治馬 神宮興一 二番 六ポンド「アームストロング」砲 大古場権八 横田央 三番 六ポンド「アームストロング」砲 斉藤左伝次 山口四郎 四番 六ポンド「アームストロング」砲 牟田寿一郎 土井竜之助 五番 四ポンド半 「フランスボーム」砲 斉藤八左衛門 空閑熊之助 六番 四ポンド半「フランスボーム」砲 樋渡五郎兵衛 山口昇 この他に徒士一一名、足軽四九名、人足を含めて約一八〇名 、六ポンドアームストロング砲六門、 四、五ポンドフランスボーム砲(臼砲)二門と四門の野砲があった。 とあるから秋田で使ったのはあきらかに六ポンド「アームストロング」砲だろう。
899 :
名無し三等兵 :2012/12/31(月) 12:40:40.85 ID:SIDJLVtW
星亮一の「仙台戊辰戦史」には、 水沢の留守家の手兵が但木土佐の要請で白河に行ったが損害を恐れて、 盛岡藩兵が藩境で水沢に侵攻してくる準備をしているという斥候報告を捏造して、白河から兵を引き上げたと書いている。 しかし盛岡藩の方ではそれを聞いても、 「まあ伊達だから。」 で終わり。
>>897 まあ種子島をやたらとマスケット銃と呼びたがるのもいるから、それも良いんじゃね
>>882 >>883 白虎隊記念館には薩摩製らしい四斤山砲があるそうですがどんな来歴なんですかね?
>>895 仙台藩は各地領主の連合体質がまだ根強かったみたいですね
兵力の集合が難しい降雪地帯では仕方が無い面もあったとか
秋田総督府は、大館城を攻略した南部軍の脅威に対して対策を立てる。 西軍下参謀大山格之助は佐賀藩隊長田村乾太左衛門を呼び寄せ、田村は部下90名と肥前小城藩隊長田尻宮内が率いる兵500名と共に応援に駆けつけた。 田尻は田村よりも官位は上であるが、率直に話し合い「戦中のこと、平時とはちがう、どんな命にも従う」と田村に従うことを話し合っている。 佐賀藩はスペンセル銃とかアームストロング砲以前に、こういうことができたのが強かった。 会津藩や仙台藩はこういうことができなかった。
仙台藩だとあの政宗公の片腕と謳われた片倉小十郎ですら最高の家格の一門に入れなかったくらいだからな。 鎌倉時代から続く名門家系のせいかそういう序列にはかなりうるさかった。 おかげで片倉家は一門の次の一家という家格で幕末まで続くことになる。 それに対して佐賀藩はなんだかんだ言っても竜造寺家を鍋島家が乗っ取ってできた藩だから 実力主義が相対的に強かったのではと思う。
905 :
化け猫 :2013/01/01(火) 14:00:15.18 ID:???
乗っ取った訳ではなく、秀吉がそう決めただけで、旧主君に出だしはしてないよ。 無能な癖に「ないがしろにされたっ!」と、キレて無理心中されるのは迷惑だ。
竜造寺宗家の隠し子が本来の主君はこちらだと申し立てたら 徳川幕府が鍋島家の味方をして「嘘をつくな」とかやってなかったっけ 鍋島家がお家乗っ取りをした後、竜造寺宗家を軟禁して子どもを作らさずにお家断絶に追い込もうとしたのは事実だし そのために宗家の隠し子は僧となって成長するまで身を隠さざるを得なかった
>>904 佐賀藩は御三家だの親類だの親類同格だのいろいろあって、藩主の直轄領が
かなり少ない藩だぞ。
財政難からフェートン号事件で大失態を犯しているし。だからこそ、幕末に
藩政改革が進むことになったわけだけど。
ムダにでかい藩より庄内藩・長岡藩・盛岡藩のように中くらいでまとまってる藩の方がかえって統制しやすいのかもな。 米沢藩や久保田藩のような減封転封組は石高少ない割りにムダに藩士多かった。 そういえば仙台藩も減封転封組だった。
明治維新後も、薩長よりも小さい藩の方が、徹底的な藩政改革を実施していたね 逆に、長州や薩摩は守旧派の為に、中々改革が進まなかった で、諸藩の急進的な藩政改革に、主導権を握られるのを恐れた新政府が実施したのが、廃藩置県 元々課題になっていた上、各藩の改革者を新政府に取り込んでしまった。
上杉にしろ佐竹にしろ減封されても一定数の戦力を保っていないとそのままとり潰される 恐れがあったからな 戦争は数だよ(ryかどうかはまあ時代次第で
仙台藩って減封転封組か?確かに豊臣秀吉には 領地減らされたが
藩「人口増やそうぜ」 百姓「嫌。間引くお」 現在と似ているな
>>909 既に明治2年には明治政府内の改革派vs保守派でガッチンこしとるで
大久保利通の珍しい負け戦
長州薩摩も減封されたが
武家の人口が10万超えてるのは鹿児島の28万、仙台の17万、佐賀の15万、熊本の10万
>>915 江戸の総人口が100万人に満たず、総人口が5000万に達しない当時の日本でその武士人口はマジなのか…?
女子供老人含めての階級人口とはいえなあ
まあ鹿児島だきゃあ信じられっけどw
つか無祿の郷士総ざらいすればもっといそうw
新春ワイド時代劇白虎隊〜敗れざる者たち 第一章「京都守護職ならぬものはならぬ!故郷に迫る激動の嵐」 6:50第二章「新選組京都動乱!戊辰の戦」 8:55第三章「鶴ケ城燃ゆ…白虎隊、妻よ、子よ永遠に」
加賀長州は圧制を布いていて長岡は貧乏藩士を大量に抱えていたってこと?
何故長岡も突出しているのだろう? 特別な事情も無いと思ったが、何か有ったか。
仙台はポテンシャル自体はあったものの全く活かせなかった辺り メッテルニヒ以降のオーストリアっぽい
>>920 大身の家老クラスや上級藩士も粛清してひたすら中小藩士を抱え込んだらしい
外様の多い越後ににらみを効かせる必要もあったとか
しかし幕末の存在感ゼロの加賀藩、熊本藩、福岡藩に比べると、 一応やるだけやって結果は全然ダメだった仙台藩は軍事史的にはかえって興味深いわ。 あとドン五里といわれた割に戦死者は城を完全包囲された会津藩に次いでに多いのも不思議だ。
>>923 軍隊がいちばんたくさん損害を出すのは攻撃でも守備でもなく
敗走中に追撃された場合だそうですよ?
ドン五里だからこそ死んだのでは?
会津藩の横山主悦とか山川大蔵と同じくいちおうヨーロッパ帰りなのに白河口の戦闘初日に即死してるんだよなあ。 よく聞く話だけどヨーロッパに留学したからって頭良くなるとも限らないんだよな。
>>921 完全後知恵&無理無理前提で言わせてもらうなら、やはり洋式銃隊だけ
各家の持ち兵から抽出して洋式軍として編成すべきだったなー
あと砲兵の整備
まずこれが出来ないと勝ち目はおろかまともに撃ち合いすら出来ん
>>926 身分制も絡んでくるから下手したら撃ち合い以前に行軍すらできないからな〜(順番でもめる)
鍋島は家格を調整してなるべく平均的にしたとか
928 :
化け猫 :2013/01/03(木) 23:09:31.61 ID:???
薩摩・長州に比べてパッとしないが、何気に出来る子だよね。
化け猫騒動があるくらいだけどねw
637,279金沢藩1.238725803 327,468名古屋藩0.949222858 298,709鹿児島藩 1.125900818 378,528熊本藩1.091704051 219,038佐賀藩1.702216262 224,189山口藩1.291303506 209,990静岡藩 0.859938615 234,475福岡藩1.556564847 279,151和歌山藩1.020932688 193,018高知藩0.958635314 256,100広島藩0.948284279 188,287岡山藩1.267290288 206,360徳島藩0.620057925 68,804山形県1.293326224 162,929鳥取藩1.121308619 42,668日光県0.937828658 39,436兵庫県1.732188431 54,808若松県1.884840697 126,439久留米藩1.397531335 97,420柏崎県0.813350975 34,673岩鼻県0.941024426 111,006福井藩1.202715997 36,122笠松県1.775857212 52,309大津県1.567012407 60,738堺県1.269874921 wikipediaの府藩県三治制下の日本の人口統計を眺めていて一人辺りのGDP的な物も欲しかったので 実高が多い順にソートして一人辺り実高を出してみた、藩名の右の数字が一人辺り実高。左は現高(租税収入)
39,768登米県2.728895179 78,082甲府県0.884437518 59,983神奈川県0.725599374 62,026宮谷県1.069319083 126,506津藩1.333827946 28,955浦和県1.057854775 58,553水戸藩1.120561123 38,118若森県1.899363898 63,270米沢藩2.194546562 66,109仙台藩1.356829118 142,043弘前藩0.950284238 183,696秋田藩0.601860467 79,740新潟県0.983478428 135,064松江藩0.841086892 23,513倉敷県1.005999848 21,839白河県2.243551904 57,804奈良県1.377841339 54,504前橋藩1.235936622 33,551葛飾県0.936027301 88,834姫路藩0.94863492 94,030彦根藩1.173854719 76,857高松藩0.686630925 38,590日田県1.022941342 15,350胆沢県1.373186072 31,056京都府0.505556802 続き、戊辰後の東北諸藩が団子状態。米沢の優秀ぶりが予想外だった
薩長に対して規模で対抗出来そうな親藩が早々に将軍家一派を見限っちゃったのが惜しい
根本的部分で幕閣との立場・主張に隔たりがある慶喜が幕府のトップになったのが構造的にマズイ 将軍就任前の慶喜は自身の権力の源泉を雄藩連合に求めてた感があり幕府とは衝突もしてる そんな状況だったから鳥羽伏見で大藩が次々と薩長側についたのを見て諦めたんだろうなぁ
阿部正弘がもう少し長生きする等とかして慶喜が14代将軍になっていれば少しは変わったかもしれないけど 史実だと家茂が14代将軍になって一会桑政権を慶喜は京都で事実上つくる有様で江戸にいる幕府重役と 対立とはいかないまでも微妙な関係になっていたからな。 江戸に行っても慶喜としては自分のためにどこまで戦ってくれるのか不信感を持っていたのだと思う。
長くなりそうなので分けました 鳥羽伏見の戦いにしても慶喜としては京都進軍を抑えたかったのに強硬派が暴発して京都へ進軍 しかしデモ行進のつもりか戦闘の際の指揮系統すら決まっていない(そもそも前線での最高司令官不在) という惨状。劣勢とはいえ腹をくくっていた薩長側に対して余りにも覚悟が固まっていなかった。 そして敗戦。慶喜が大坂城から逃げたことを悪く言われるけど慶喜の気持ちも分からなくもない。 あれだけ反対していたのに勝手に進軍して惨敗してだからな。 江戸に行っても同じことを幕閣の面々はするだろうと思って慶喜は引きこもってしまったのだろう。
東京駅八重洲口の先に有る福島県のアンテナショップに、四斤山砲と十二ドイム臼砲の実物砲弾が展示して有ったよ。 解説が逆なのはお約束? 内容を読むと初めからそうみたいだけど。
まあそれにしても江戸での薩摩のやり方はあまりにも卑劣だったよ。 結局こいつらも西南戦争で賊軍として死ぬわけだが、因果応報とはこのことだろう。
まぁ嵌めたら嵌められたというw
薩摩藩邸の包囲封鎖にとどめとけばよかったのに まあ幕府側も戦争したかったんだからしょうがないが
慶喜が将軍に就任したばかりということもあって将軍独裁体制が取れなかったからな はっきり言って鳥羽伏見の頃の幕閣というか幕府の首脳陣は統制が取れていなかったと思う。 慶喜の目論見通りに幕府の大軍を背景に大坂城で圧力を加え続けていたら薩長側は都落ちするか 慶喜を受け入れるしか無かったと思う。大坂から京都への物資輸送を止めて京都を経済封鎖する (当時このような言葉は無かったかもしれないが)と恫喝されれば京都の薩長側に最早打つ手はない状況だった でもそれは弱腰だと幕府側の強硬派は開戦を決断したわけでそれならそれで わしが先陣でお前が前線司令官というように役割分担を決めて戦争のつもりで京都に進撃すべきだった それなのに幕府軍が進撃すればしっぽを巻いて薩長軍は逃げると甘い考えで戦争にはならないと考えていた これではどうしようもない
京都を経済封鎖 それこそ朝敵指定受けそうな
京都を経済封鎖して天皇を吉野に連れてくるしかないな。
>>940 鳥羽伏見戦の後では大坂に篭って抗戦、勝利したとしても
その後つくられる政権は明らかに幕閣勢力の影響の強い幕府中心政権になってしまう
これでは慶喜が将軍でも、幕閣が実務を取り仕切ってる限り、思い通りに政務を行なうのは困難
てかその時は将軍職返上してたしね
まだ推測だけども、慶喜自身の希望は幕府の力を弱めた上での雄藩との連立政権だったんじゃなかろうか
だからこそ将軍職受諾から大政奉還までずっと京都にいたんだろうし、
王政復古クーデター後の小御所会議体制に対しても、体制自体を否定はせずに、
体制の中に自分も参加する、という方針を採ろうとしたのではないかと
禁門の変での長州の放火で京都の基幹である絹織物産業は壊滅的被害を受けて 結局天皇東行と要因ともなったとか 長州より幕府への批判が集まったとも言うけど・・まあ京都人のことだからそのまま受け取っていいかは
禁門の変のときに火をつけて回ったのは会津だべ 長州方の残党をあぶりだす為に慶喜が命じた。 薩摩も同じ理由で天竜寺に火をつけてる。 長州も自身の藩邸を撤退するときに燃やしてるけど。
京都の民衆は別に深く考えて長州に同情したというよりは 当時京都の支配権をほぼ握っていたといえるのが幕府側だったので 何か社会情勢に不安不満があると矛先が支配者たる幕府に向かいやすかった、 そしてそれへの挑戦者として長州や尊攘過激派は同情を得られやすかった、 と何かの幕末研究本でチラと見た
いわばテロリストどもをかくまった池田屋とか何を考えて援助してたのかよくわからん 処罰されないのか商人以下は
いつまでたっても攘夷しない「征夷」大将軍より、負けたとはいえ攘夷戦で血を流した長州の方に同情を寄せる奴は多かったと思う。 お前らだって中国朝鮮に威勢のいいこと言う奴好きだろ?
自民よりも露骨に社会福祉軽視、富裕層優遇政策な割には 世直しの一点で支持を集めてる維新の会もね
>>937 西南戦争の西郷軍も当初は政府側との全面戦闘を前提としてなかったのか、熊本城へ全軍行進、
熊本で予想外の激しい抵抗を受けるという鳥羽伏見の旧幕軍みたいな経過を辿るのが何とも・・・
しかも熊本城自体も西郷軍の戦備が充分でなかったためか落とせず後は敗退の一方・・・
とても鳥羽伏見での一大計略を実行した薩摩軍とは思えない
>>951 西郷従道、大山巌、川村純義、野津兄弟、川路利良などの頭脳は
政府軍に行っちゃっているもの。薩摩に残ったのは手足だけ。
イケイケに乗った連中が捨てられるってのはよくある事ですよ
西南戦争の薩軍については2つの誤算があったと思う。 まず第一に当時の薩摩には前線指揮官は桐野や篠原等がいたが後方の参謀クラスが952がいうように政府軍に行っていた。 だから大戦略が立案できなかったし後方の薩摩本国等への目配りが不十分になってしまった。 第2に西南戦争のきっかけになった火薬庫襲撃事件等の結果、前装式ライフル銃を主武器に薩摩軍はする羽目になり 後装式ライフルを主武器にする政府軍に装備が劣る羽目になった。 こういったことが薩摩軍の敗退につながったと思う。
西南戦争の誤算って、あと薩摩の単独挙兵になった ことじゃないか?前原誠の萩の乱、江藤新平の佐賀の乱 神風連の乱が同時多発的に起きたら…
熊本城が落ちないとか誤算だらけの気がするんだが
>>956 竹杖一本で落ちると豪語していたから相当な誤算だね。
谷干城と山川浩のからみとか劇的すぎる。
そもそも薩摩というか西郷が本当に勝つ気があるなら 征韓論政変の直後に下野組と連携して薩長土肥の在郷軍人で同時挙兵ぐらいしないと勝ち目ないよ 前原板垣江藤辺りは西郷がやるなら乗ってきたはず
砲尾や銃尾をきちんと見せていた点、かなりの武器マニアがやってるなNHK。 鎖栓式アームストロング野砲が日本のテレビに映ったのは初めてじゃないか。 八重さんはスペンサーカービンを撃ってた。
>>957 まさか南北戦争のシーンを撮るとは・・・
12斤の大砲なんてあったんだ…
監修した人知ってるけど、その道ではかなりのプロだよ。 起用したNHKは凄いなぁ。 でも後半はスイーツフェミ展開になるんだよなあ。戊辰戦争終結でEDにすれば神大河になるのに残念
>>954 野村がいたけど、献策をほとんど取り上げてもらえらなかったしな
砲術監修は佐山氏(坂の上の雲と同じ)
>>963 というか間違いなくわざとそこを見せてるw
つうかスタッフもこのスレ多少は意識してるだろw
それはさすがに自意識過剰だと思う
スレというかその手のマニアは意識してるキガス 歴史マニアか銃器マニアかは知らぬ
まあせっかく頑張って再現したらそりゃあしっかりと見せたいよね
題材、大河視聴層から鑑みるにおそらくスイーツ大河路線で行くだろうから、こういう軍事考証も長続きしねーんだろうな
モルチール砲も撃ってたね
俺は 「つかみはおっけい!」 の類だと思ってる(序盤だけやって釣る)
佐山って佐山二郎か。それじゃ藤田昌雄でも勝てねーな。
>>976 少なくとも戊辰戦争終わるまではその心配は無いんじゃない?
どの道明治になったらダイジェストな流れになるでしょ。
そもそも過去の大河を見ても、おんな太閤記の頃から
スイーツ(笑)路線の大河は戦闘シーン超テキトーなんだし
戦闘シーンを真面目にやるということは逆に内容も真面目にやってくれるでしょ
まあ新島八重の人生って戊辰以降があるいみ本番だからなあ 戦後は描かざるを得んだろ
じゃあいってくる
駄目だったスマソ 近世スレ立てたの一週間前だがまだタテスギかかってるのかなぁ
>>981 戊辰以降がめちゃくちゃ長いしね。下手すりゃ戊辰は3月で終わるんじゃない?
禁門の変の戦後処理までで1/4だよ
つうか戊辰戦争はあくまでオープニングで、メインは明治だと思ってたけど。
戦は嫌でございます(笑
戦をさんざんやった者は厭戦主義になるんだよ 日大の創始者もそんなもんだろ
戦は嫌でございますスイーツ大河と思ったら自ら戦で人を殺していたでござるの巻
>>989 >>990 俺も戊辰はプロローグだと思ってたけど
禁門の変で四分の一となると
会津開城まで6ヶ月くらいかけてじっくりやりそうな雰囲気
そのあとの6ヶ月は戦後
最後は老婆になるんだけど、どうするんだ、特殊メイクか?
>>987 まあ、そうしないと一年も持たないからだろうねぇ。
日大の創始者って山田顕義だっけ? バリバリの軍人上がりジャン
麻布学園創始者の江原素六にも、撒兵隊第一大隊の大隊長として実戦参加の経験が。 沼津兵学校にも関わったけれど、その後は戊辰戦争の事は語らなかったと。
998 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 17:54:02.87 ID:r9m+SKXy
うめ
999 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 17:58:07.26 ID:r9m+SKXy
てんてー
1000 :
名無し三等兵 :2013/01/07(月) 18:00:24.08 ID:r9m+SKXy
大好き
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