952 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 09:33:12.49 ID:PltPIb1Q
>>951 敗走とか言葉はどうでもいいが、それを言うなら水城へ撤退した日本軍も敗走だ。
後宇多天皇の「一代要記」も「宰府軍など皆逃げ終わんぬ」と書いている。
(宰府軍等皆北了)
水城撤退ということはすなわち博多・箱崎放棄。
何度も言うが水城が防衛ラインなんだからそこに戻るのは普通だろ
もうこのスレも語る事無くなったな
昼間の戦闘で、一時的に上陸して橋頭堡を築いたが、
日本軍の実力もわかって、橋頭堡を維持できないと判断して、
放棄し、撤退したんじゃないかな。
ま、上陸してきたのが米軍じゃなくて良かっただ
>>952 水城で守りを固めた(これも事実化かどうかは不明だが)日本軍に対し
元軍は戦闘継続を断念して全面撤退と
どちらが戦略目標を達成した(勝利した)かなんて一目瞭然だよね
博多は掠奪されたの?
958 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 11:40:25.82 ID:PltPIb1Q
>>954 日本軍は博多の沖の浜に集結していたのだから目的は博多防衛にあったことは明らか。
その博多を放棄して元軍の手にゆだねたのだから、
どちらが戦略目標を達成した(勝利した)かなんて一目瞭然だよね
船に乗り込んで退却した側が戦略目標達成なのかw
万単位で兵員集めて街に半日入るのが戦略目標だったとしたら
なんていうか不思議な戦略を立てる国だとしか言いようが無いな・・・
960 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 11:55:34.65 ID:PltPIb1Q
>>959 属国が舟と、食糧と、漕ぎ手と、四分の一の兵員を負担するのだから
元にとっては屁でもない。
それで日本軍を叩き、博多を略奪して、日本が恐れ入って国書を送ってきたら
それでいいのさ。
その目論見が、日本側のプライドの高さであてが外れただけ。
はい、戦略目標達成ね。
961 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 11:57:54.33 ID:PltPIb1Q
>>959 防衛するはずの当の博多を敵手にゆだねて水城へ逃げたら、それが戦略目標達成か。
不思議な戦略だな
>>961 日本側にしたら、九州防衛が戦略目標で、博多は単なる作戦・戦術レベルの価値
元の戦略目標が、日本が恐れおののいて国書出すことにあるのなら
その手段としての博多一撃離脱は作戦目標でしかないぞ
>>960 博多が制圧されたなんて記録は無いわけだが
>それで日本軍を叩き、博多を略奪して、日本が恐れ入って国書を送ってきたら
>それでいいのさ。
はい根拠不明
クビライが「ちょっと脅してこい」と指示を出したというソースは?
元史に「軍の編成が乱れ、また矢が尽きたので撤退した」とあり
「高麗史」によれば金方慶が「焚船」や「背水の陣」の故事を持ち出して戦闘継続を唱え、
それに対して忽敦が「小敵の堅は、大敵の擒なり」と諌めて撤退を決定している
こうした元・高麗側の記録を見る限り、元軍は戦略目標を達成できないまま撤退した、
つまりは負けたとしか思えないじゃん
基本的に戦争なんてのは、
相手をバラバラにして、各小撃破する競争なんだから、
崩れたら、適当なところまで撤退して、隊を建て直すのは基本。
で、激しい戦いで両者とも一時退却して、隊をまとめる必要があった。
それが日本軍は水城であり、元軍は船であったと。
で、第二ラウンドの準備をしていたら、そのまま退却しちゃったということかな。
また妄想戦記をぶちまけてるのか
懲りないねぇ
あのモンゴル帝国が敗退するわけないという先入観で頭ん中一杯なんだろうな
武士が撤退してのはボロ負けしたから
モンゴルが撤退したのは予定通り
>>964 「小敵の堅は、大敵の擒なり」って、元側が「小」だってことだから
この時点で元側は自らが劣勢だとハッキリ認識してるってことだよな
中世の軍隊は略奪で物資を補うことを考えれば
船に撤退するという事がどういう意味を持つのか分かりそうなもんだが
船だの武具だの4万もの軍勢を動かすのにかかる軍費だって馬鹿にならんでしょ
日本をちょっと痛めつけて満足したんで帰ります?大宰府も落とせずに?
大体相手がそこまで強かったんなら幕府に異国征伐論なんて出てくるかね
971 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 14:31:28.46 ID:PltPIb1Q
>>966 >あのモンゴル帝国が敗退するわけないという先入観で頭ん中一杯なんだろうな
モンゴル帝国軍だって負けるときは負ける。金方慶伝の弘安の役の記述を読んで見よ。
「日本兵突進し、官軍は潰え、洪茶丘は馬を棄てて走る」
「斤都、茶丘累戦して利あらず」
とはっきり書いている。だからこそ勝ったときの:
「倭兵大敗し、伏屍麻の如し」
が信用できるのだ。
あのモンゴル帝国がと言うけど、モンゴルは弱国には強いけど強国には苦戦しておるよ。
日本は中世から世界の大国なんだから、あの程度の戦力では負けるのは当たり前。
973 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 14:40:34.25 ID:72H3SJKY
武士に勝算はなかったが蒙古は退却した
>>971 戦略レベルの話と戦術レベルの話をごっちゃにしてないか?
975 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 14:53:44.39 ID:PltPIb1Q
>>972 >あの程度の戦力では負けるのは当たり前。
そうそう、おおげさに言うことはない。まさに「あの程度の戦力」なのだ。
だから短期作戦用でしかない。
短期作戦であればいづれは撤退する。
たまたまそれが1日であっただけ。
そう言えばあのディエップ上陸作戦の計画でも、占領時間は「6時間」だったな。
976 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 15:00:29.53 ID:PltPIb1Q
ただし、「1日であっただけ」と言っても、それが計画だったとは限らない。
文永の役の元軍は頭と尻で切られていた。
頭は当初の侵攻予定がいろいろの事情で数ヶ月遅れたことだ。
尻は海峡が航行不能になる冬の季節だ。
この時期に発進した時点で短期作戦は約束されていた、という「文永十一年冬の嵐」
の指摘は正しい。
そして戦闘の結果、目の前の日本軍がいなくなった。
敵前の水際撤退をやらなくて済む。撤退するなら今だ・・・それが上陸後1日
という結果になった。
それだけのことだ。
一回目の上陸で日本側が負けた後、みずき(水城?)で水計を使った反撃予定だったとか小学校の先生が言ってた
その秘密兵器使って乾坤一擲の勝負かけようとしてたら、なんでか蒙古は船に帰ってしまって、そこで神風に云々
978 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 15:27:09.25 ID:M/LTrGwk
文永の役で、3万〜4万を投入して勝てないのも想定外ながら、
弘安の役の再挑戦で、14万人を投入して勝てないとは、
さすがに思わなかっただろうな。
遠征でこれだけの数を投入すれば、さすがに戦費で傾く。
世界史の常識的に考えて、日本側がこの倍近い数を投入できるとは
思わなかっただろう。
979 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 15:41:42.98 ID:M/LTrGwk
博多周辺の豪族が集まってきた程度なら、
14万もいれば、さすがに蹴散らせるはず。
だが、鎌倉幕府の元で、全国の動員体制ができていて、
各地から兵が送られており、
足りなければまだまだ兵を集められる状況にあった。
つまり、軍事的には想定外の先進国であったと。
だから、多分大宰府を獲ったとしても、その周りから攻められ続け、
いずれは撤退することになっただろう。
980 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 18:34:33.75 ID:Zw4MZHDe
>>978 >文永の役で、3万〜4万を投入して勝てないのも想定外ながら、
>弘安の役の再挑戦で、14万人を投入して勝てないとは、さすがに思わなかっただろうな。
文永の役で3万の兵で「倭兵大敗、伏屍如麻」の勝利を納めたと認識したからこそ、
弘安の役では14万の兵で征服、さらには屯田までできると判断した。
その判断が誤っていただけだ。
>>980 「倭兵大敗、伏屍如麻」という認識自体が誤りか、最悪虚偽報告だったんじゃ?
982 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 19:47:31.81 ID:3VtGqXQM
(´・ω・`)それはどの戦場の事を指してるんだよ、結果的に元は橋頭堡も確保出来ずに撤退してるんだし、大敗だなんて壱岐対馬くらいじゃないか
まさかと思うけど、文永の役は高麗王子の面子を立てるために
形だけ攻め入ったんじゃあるまいか。
>>983 面子のためだけに
あれだけの兵と船舶動員するって
どんだけ大散財なんだよ
985 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 20:22:15.40 ID:Zw4MZHDe
>>981 >「倭兵大敗、伏屍如麻」という認識自体が誤りか、最悪虚偽報告だったんじゃ?
そう思いたい気持ちはわかるが、八幡の蒙古記や福田兼重文書とも一致するし・・
>>それはどの戦場の事を指してるんだよ
金方慶伝で「捨舟三郎浦」(三郎浦に舟を捨て、=上陸し、)の後にあるから早良郡の戦場だな。
つまり鳥飼潟〜祖原山の戦場だ
986 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 20:23:53.56 ID:Zw4MZHDe
悔しいけど我々日本人は劣等だorz
>>985 しかし一方で、夜間逃走という結果との一致がなぁ。
たくさんの日本兵を薙ぎ倒したが、それが所詮小敵の堅でしか無いほど
日本側が圧倒的だったとでも考えるべきなのか…。
文永の役における元の動員兵力はおよそ4万、うち未帰還が13500と言うから
1/3が戦死または行方不明だ。戦死とそれ以外の死亡の比率は判らないが
現代の感覚なら、ほぼ壊滅したと言って良いだろう。
989 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 22:46:01.48 ID:PltPIb1Q
>>988 嵐で戦艦が暗礁に触れて多数が難破した、高麗軍の部将が溺死した、と言ってるのだから
未帰還者の大部分は海で遭難したんだろ。
まあ戦死だと思いたい気持ちはわかるがね。
>>985 福田兼重文書が高麗史と一致とかこじつけにも程があるわ
内容ちゃんと読んで理解しているか?
夜間撤退なんて超危ないマネ相当ヤバイ状況じゃないとやろうと思わんだろ
元軍に大した被害が無かったとは思えないんだが
遭遇戦になって、双方とも『かなりヤバイんじゃね?』って損害がでたんじゃない?
「倭兵大敗、伏屍如麻」は
大損害を受けた松浦党のみなさんのことって結論が出てただろ
994 :
名無し三等兵:2012/08/21(火) 09:24:28.06 ID:11rCSJ0K
>>990 >福田兼重文書が高麗史と一致とかこじつけにも程があるわ
>内容ちゃんと読んで理解しているか?
福田文書の後半は、大勢の中に駆け入って射戦し、矢を三本射立てられた、大勢に
囲まれたにも係わらず珍しくも命長らえ、首を取らせなかった、
となっている。普通はここまで引用しないから「百道原に懸け落とす」で、敵を
撃退して終わった印象になる。
よく読めば、元軍の後退に引き込まれて突入した武士が大勢に囲まれ、危うく首を
取られそうになったが珍しくも(原文:希有に)助かった、と言う、八幡ノ蒙古記で
おなじみの戦闘様相を述べているに過ぎない。そう言えば竹崎も同じようなことを
言っていたな。
福田が希有に命長らえた、ということは取りも直さず、それほど希有ではなかった
(つまり命を落とした)その他大勢の武士たちがいたことを意味する。
995 :
名無し三等兵:2012/08/21(火) 09:37:17.60 ID:11rCSJ0K
>>993 >「倭兵大敗、伏屍如麻」は大損害を受けた松浦党のみなさんのことって結論が出てただろ
そんなのはいくつかある希望的「結論」のひとつに過ぎない。
ウィキペディアは壱岐の戦いのこととしているな。
しかしこれらの希望的「結論」を引き出すには、ものすごく無理をして漢文を読まなくては
ならない。
学者たちまでがそういう無理な読み方をするのは、元寇となるとどうしてもナショナリズムが
紛れ込むからだ。
そんな漢文の読み方が、漢文の本場、中国で通るかどうか考えて見ればよい。
つまり、これもまたもうひとつの「ガラパゴス」なのだ。
>>994 あれはむしろ国内戦なら間違いなく首を獲られるような状況だったのに
元軍相手ではそうならなかったというのを表しているんだろ
もしかして、国内戦では大勢に囲まれる状況がなかったと思ってるのか?
997 :
名無し三等兵:2012/08/21(火) 10:21:17.08 ID:11rCSJ0K
>>996 武士びいきも苦労するな。
「希有に存命」これは効く。
「一般に不存命」の意味だからな。
『福田兼重申状』
「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶)徒等、令懸落百路原」
(十月二十日に元軍と鳥飼塩浜に於いて合戦を行い、麁原山の凶徒が引き退いたので、
百路原に戦って追い払った)
『日田記』
「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ
姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」
(日田弥次郎永基は文永十一年十月二十日に元軍と姪浜と百路原に於いて一日に二度合戦し、
大勝利した)
「日田記」「財津氏系譜」には百道原へと敗退した元軍は日田永基らに破られ、
さらに後退して姪浜でまた破られたとある
福田兼重など危うく討死しかけた者もいることから一進一退の激戦が展開されたと思われるが、
全体としては日本側が優勢で、後退していく元軍への追撃を繰り返していたことになる
1000 :
名無し三等兵:2012/08/21(火) 14:13:50.67 ID:11rCSJ0K
315 :日本@名無史さん:2012/08/11(土) 17:36:08.66
福田兼重申し状写しのオリジナル
福田兼重申状写「右、去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、
各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、
馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、
希有仁令存命、不分取許也、」
「右、去年十月廿日、異賊ら襲い渡りて早良郡に寄せ来たるの間、各々当所に相い向かうべく仰せ
蒙るの間、鳥飼潟塩浜に馳せ向かわしめて防戦せしむるのところ、彼の凶徒百道原に引き退くにつき、
大勢の中に馳せ入りて射戦せしむるの時、兼重鎧の胸板・草摺などに箭三筋射立てられおわる、
およそ大勢の中と雖も希有に存命せしめ、分取り許さざるなり」
「右、去年十月廿日、異賊ら襲い渡りて早良郡に寄せ来たるの間、各々当所に相い向かうべく仰せ
蒙るの間、鳥飼潟塩浜に馳せ向かわしめて防戦せしむるのところ、彼の凶徒ら引き退くにつき、
百道原に懸け落とさしめ、大勢の中に馳せ入りて射戦せしむるの時、兼重鎧の胸板・草摺などに
箭三筋射立てられおわる、およそ大勢の中と雖も希有に存命せしめ、分取り許さざるなり」
せしめ、などと使役形になっているのは令の字で、謙譲語である。また分取りとは首をとること。
>>998の佐藤鉄太郎の読みがインチキなのは山は凶の誤記なのに山と凶の両方生かしていること。
これに原文のどこにもない祖原の地名をくっつけて祖原山の敵も退いたことにした。
こういういことを学者がやってはいけない。また引用を途中までにして印象操作している。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。