>>560 ――どうしてあなたはこの街を去るのですか、賢人よ。
街人よ、払はこの街に倦み疲れたからだ。
――なぜお疲れになってしまったのですか。
この街の人々は、私の知によって利を得ている時はその恩を語らず、私の間違いにより害を得た時には声高く責め立てるからだ。
――賢人よ。だがその声に応えることは、優れているあなたの責務ではないのですか。
賢人は街人を見て、微笑む。
街人よ。あなたから見ればその通りであろう。だが、あなたに従えば、この街で私は滅びる。私が滅びたら、その時は
世界も滅びるだろう。だから私がこの街を去ることは、この世界のためなのだ。私がこの街を去れば、私は自分の身を守ることができる。
――生まれ育ったこの街を、私利私欲のために捨てるとおっしゃるのですか。
違う。この街を去れば私は、私を大切にしてくれる新しい街で、生き永らえるであろう。
そうすれば、私は別の街でこの世界の一部を救い続けることができる。
それは世界のためであり、そのためには、たとえこの街が滅びようとも仕方がない。
その言葉を聞いて、俗人は賢人に跪く。
――賢人よ、どうか今一度、私たちに希望をください。
賢人は目を閉じ、考えこむ。やがて厳かに言う。
街人よ。ならば一夜の猶予を与えよう。明朝までに、この街の家の窓という窓すべてに、
ミモザの花をいっぱいに咲かせて欲しい。その光景を見たら、思い直してもよい。
――季節はずれの花で、この街をいっぱいにしろ、などと、そんな無理を言うなんて、
この街に留まるつもりがないから、意地悪をおっしゃるのですね。
そうではない。これは、街人が私に求め続けてきたことと同じことを、
最後に私の方から街人にお願いしてみただけのことなのだ。
翌朝、街人は、賢人がその街を去っていくのを、黙って見送るしかなかった。